荻野洋一の『母よ、』評:痛覚にうったえかける、最も現代的な映画

【リアルサウンドより】  人はいったい何を求めて映画を見に行くのだろう? 娯楽か、暇つぶしか、それとも人付き合いか。結論から言えば、なんだっていいわけだが、時に人は、楽しむためにではなく、もがき苦しむために映画を見に行くことがある。たとえば、イタリアの映画作家ナンニ・モレッティの新作『母よ、』がそうだ。お断りしておかなければならないのは、ストレスの解消にも、楽しい気分にもならないことだ。それどころか、よりストレスを自家薬籠中のものとするために見る映画だと言っていい。この映画の作者であるナンニ・モレッティが立派なコメディ作家であり、この『母よ、』にもどこか風刺喜劇のユーモアさえ漂わせているにもかかわらずだ。  では、そんな映画を見る必要があるのか? ──その答えは「ある」であり、いや現代ではますますその必要性が高まってさえいる。私たち観客は、この映画によってストレスを直視することを求められる。ふだん使わない筋肉を使うよう強いられる。というのも、私たちは自分たちの生活の中で、直視しなければならないストレスを見て見ぬふりをしているからだし、甘受しなければならない苛酷な現実から目をそらしているからだ。
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 イタリアの首都ローマの各所で撮影された、わずか1時間半あまりのこの映画は、工場を解雇された大勢の従業員たちのデモ行進に、公安部隊が放水して応戦するシーンから始まる。さすがはキャリアを通じて反権力をかかげ、右派のシルヴィオ・ベルルスコーニ政権とも激しく対立し続けたナンニ・モレッティ監督の面目躍如とも言うべきホットな幕の開け方だ、などと感心していると、女性の「ストップ!」というかけ声が聞こえて、それが合図となってデモも放水もしゅんと止んでしまう。映画のロケ撮影だったのである。集団のアクションにストップをかけた監督の女性こそ、本作の主人公マルゲリータ(マルゲリータ・ブイ)であるわけだが、彼女の撮影現場がどうやらあまりうまく行っていないらしいことは、部外者である私たち観客にもすぐにわかる。社会派の女性映画作家として鳴らした彼女の創作活動は、どうやら曲がり角に来ているようだ。彼女はその現実にさいなまれる。  だが彼女は、それ以上の問題を抱えている。母親の心臓病が悪化し、医者は死の日が遠くないことを覚悟せよ、彼女と彼女の兄(ナンニ・モレッティ自身によって演じられている)に告知する。日に日に弱っていく母親(ジュリア・ラッツァリーニ)。  彼女のもうひとつの問題──それは中学生の娘のことだ。離婚した元夫のもとで暮らしているらしい娘は最近、恋をし、悩んでいたが、マルゲリータは娘から悩みを相談されなかった。自分にも厳しいが、他人にも厳しく当たるマルゲリータのことを、周囲の者は多かれ少なかれ敬遠しているのだ。
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 私たち観客は、映画の上映時間のあいだじゅう、このマルゲリータという女性映画監督のアイデンティティ・クライシスにお付き合いしなければならない。痛い。にがい。ヒリヒリする。しかし、痛覚にうったえかけるこの映画は、最も現代的な映画である。つまり、すっかり生きにくくなった現代に必要な映画だからである。主人公の問題、母の問題、兄の、娘の、撮影スタッフの、俳優たちの問題。高額なギャランティでアメリカから招いた脳天気なイタリア系移民の俳優(ジョン・タトゥーロ)とマルゲリータは最初そりが合わなかったが、このアメリカ人スターにも彼なりに向き合い続けている問題があることがわかってくる。  それら複数の問題は、互いにからみ合い、問題の宇宙を形成している。そしてこの宇宙の中に私たち観客もまた、どっぷりと浸かっていることに気づくはずだ。危機のもとに置かれおののき続ける彼女は私たちのことであり、母親の看病のために仕事さえ辞めてしまう兄──彼も私たちである。そして最終的には、記憶が薄れ、衰弱し、死にゆく母親さえも、私たち自身の肖像にほかならない。  人間なんて、生まれて成長して、しばらく悩んだり楽しんだりしたら、もう死期が近づいてくる。実に短く、はかないものだ。でもそこには、記憶があり、愛(や憎しみさえ)があり、そして、敬意があるとき、そのはかないとも思える人間の一生が、ほのかに輝くのがわかる。
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 主人公の母親は、高校のラテン語教師だった。「ラテン語文法なんて学んで、なんの役に立つの?」と問いかける中学生の孫娘にむけて、ラテン語を学ぶことの大切さを優しく説いてみせることが、この年老いた女性の最後の仕事だ。高校の卒業生たちが母の家に何人も訪ねてきて、元ラテン語教師への敬愛の念をしゃべっていく。「先生は、私たちにとっても母だったんです」と卒業生たちが語るのを聴くのは、非常に感動的だ。この時、母親が、他人の言葉を通して、娘や息子とのあいだに築いていたものとは異なる宇宙をかいま見せているからだ。  だからといって、この映画がいっさいのストレスから解放されるわけではないことは、文頭にも書いたとおりである。あらゆる問題はまだそこにあり続け、登場人物はそれをひとつひとつ解決に努める必要がある。それはちょうど、この映画を見るために劇場に入る前に私たち観客が、ありとあらゆる問題を抱えていて、上映が終わって席を立った瞬間からふたたびそれらの問題のもとへと戻っていくのと同じように──。  人生が問題への対処の中にこそ存在すること、そしてその対処の中に真の美があることを、この『母よ、』というイタリア映画は語り、そして私たちを後押しし、私たちと共にあろうとする。  本作はフランスの映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」誌選出によるベストテンの1位を獲得した。「カイエ・デュ・シネマ」はゴダール、トリュフォー、ロメール、リヴェットら若手の映画評論家が1950年代から健筆を振るい、やがて彼らが映画作家としてデビューし、ヌーヴェルヴァーグ運動の温床となった伝説的な映画雑誌である。ナンニ・モレッティに対する「カイエ・デュ・シネマ」の支持は一貫して熱く、『親愛なる日記』(1993)、『息子の部屋』(2001)に次いで3度目の1位獲得である。
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 筆者自身、「カイエ・デュ・シネマ」の日本版(1990〜2001)の編集委員をつとめていたという浅からぬ縁もあって、「カイエ」1位作品ということで本作の試写にいささか鼻息荒く駆けつけたのだが、本作はそんな筆者の鼻息の滑稽さをも包み込み、人間的な、あまりにも人間的な、ストレスと感情のもつれ合いを力強く、いっさいの無駄なく、画面に焼きつけていた。 ■荻野洋一 番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映画論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。(ブログTwitter) ■公開情報 『母よ、』 3月12日(土)、Bunkamuraル・シネマ、新宿シネマカリテほかにて全国公開 監督:ナンニ・モレッティ 出演:マルゲリータ・ブイ、ジョン・タトゥーロ、ナンニ・モレッティ (c) Sacher Film . Fandango . Le Pacte . ARTE France Cinéma 2015 配給:キノフィルムズ 公式サイト:http://www.hahayo-movie.com/

苦境・SMAP中居の息抜きは「パチンコ」!? ジャニーズ事務所の微妙な「ギャンブル嫌悪」とは

 ギャンブルにおいて、日本最大の人口を有するとされる「パチンコ・パチスロ」。一般人だけでなく、テレビや雑誌、ネットをにぎわせる著名人にもパチンコ好きな芸能人は数多い。  芸人では椿鬼奴や宮川大輔、ブラックマヨネーズの吉田敬などがパチンコ狂で有名なところ。他にも元モーニング娘。の後藤真希などがパチンコ好きとして知られている。今出した芸能人に関しては、なんとなくパチンコが好きそうなイメージも湧くかもしれない。  しかし、誰もが知っている"国民的アイドルグループ"のメンバーが「パチンコ好き」だとしたら、驚く人も多いだろう。SMAPの中居正広も、芸能界きってのパチンコの打ち手という話がある。  あの中居がパチンコ台の前に座っている姿を想像するのは少し難しいが、そんな中居を目撃した有名人がいる。同じく"パチンコ狂"で知られる歌手・和田アキ子だ。  14年の『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)での彼女の話は以下の通り。和田はいつもバレないように黒ずくめの服装でパチンコを打っているそうだが、ある日、同じように変装したような格好でパチンコを打つ男性を目撃したという。その時は確認しなかったが、なんとなく中居ではないかと思った和田はスタッフにその話をしたそうだ。そして、中居が時々パチンコ店に通っているという情報を聞き、本人だと悟ったという。  その後も、和田は時折「中居パチンコネタ」をテレビで披露。今年1月の『アッコにおまかせ!』(TBS系)では、昨年大みそ日の『NHK紅白歌合戦』でSMAPと共演した際、「中居くんは、パチンコ屋でよく前会ったので『行ってる?』とか」と、中居にパチンコの調子をうかがったと暴露した。しかし、その"ネタ"に対し周囲は居心地が悪いような、微妙な反応だった。  それもそのはず。中居は天下の「ジャニーズタレント」であり、ジャニーズとパチンコという"ギャンブル"が結びつくのは決してプラスではないだろう。これ以上話を拡げるとイロイロまずいと思って、共演者は微妙な反応になったと推測できる。  実際、元SMAPメンバーでオートレーサーの森且行が、オートレースの宣伝もかねて東海地方で「パチンコ営業」を行った際、店側が「元SMAP 森且行さん来店!!」と銘打ったことにジャニーズ事務所が激怒した、なんて話もある。事務所としては、ジャニーズとギャンブルはできればつなげたくないということなのか。  ただ、JRA(日本中央競馬会)のCMにはこれまでも積極的にジャニーズタレントは起用されてきた。TOKIOにSMAP木村拓哉、中居もイメージキャラクターになったことがある。パチンコと中央競馬......世間的なイメージを見た事務所側のさじ加減ということなのかもしれない。  あの「独立・解散騒動」で日本中を騒がせたSMAP。リーダーの中居は独立を画策した中心の1人として、苦境に立たされているという話もある。たまの息抜きのパチンコくらい、思いっきり楽しんでほしいものだ。

小西真奈美の化け猫姿に「化けて出て欲しい!」とファン歓喜! 度重なる事務所移籍には「福山雅治の圧力?」「面倒くさい女?」疑惑が

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小西真奈美インスタグラム(@manami.official)より。
 先月26日に放送されたドラマ『スミカスミレ 45歳若返った女』(テレビ朝日系)に、女優の小西真奈美が化け猫役で登場。放送直前には、自身のインスタグラムに、白い着物を着た姿を投稿したのだが、ファンからは「こんな美女だったら化けて出て欲しい!」「着物姿がそそる」など、歓喜の声が上がった。 「小西といえば、女優界のみならず、芸能界全般を見渡しても、屈指の小顔の持ち主として有名で、06年にオリコンが実施した『小顔だと思う女性芸能人』のインターネット調査で、初代クイーンの座に輝き、その後は安室奈美恵に1位の座を譲ってしまったものの、第6回まで行われた調査で連続2位に。北区つかこうへい劇団所属時代には『小西の前に立つな』というお達しが出たほど、小顔とスタイルの良さには定評があり、現在37歳にも関わらず童顔をキープ。そして、何といってもまだ独身ですから、男性ファンは昔から変わらず今でもついてきてくれているようです」(芸能関係者)  しかし、小西は以前、福山雅治との結婚秒読み報道で、ファンを驚愕させたことがある。 「10年に発売された『女性セブン』(小学館)で、福山と年内にも結婚するのではないかと大々的に報道されたことがきっかけとなり、双方のファンや世間を巻き込んで騒動に。記事によると、小西と福山は04年頃から交際を始めていたようですが、結局、双方の事務所が交際を完全否定。結婚することなく翌年を迎えたことで、いつしか騒動は沈静化していきましたが、ネット上では、『結婚を急いだ小西側が情報をリークしたのでは?』『それを知った秘密主義の福山が激怒したのでは?』とのウワサが広まり、その後、小西が何度も事務所を移籍し、メディアへの露出も激減したことで、『福山圧力で干された?』との疑惑の声も広がっていました。福山が吹石一恵との結婚を発表した去年、小西の仕事量が近年にないぐらい増えたことから、『福山呪縛が解けた?』という声も上がっています。その一方で、現在5社目に当たる事務所移籍に関して、『トラブルが多いのでは?』『面倒くさい女なのかも?』といった声も少なからず上がっているようです」(同)  福山の呪縛から解かれたためかは定かではないが、小西は、今月25日から公演開始される、ヒップホップミュージシャン・KREVA の音楽劇『最高はひとつじゃない2016 SAKURA』で約4年ぶりに舞台への復帰も果たす。自身初となるラップを披露することになっているのだが、先月26日に行われた制作発表会見では、KREVAから「ふわっとした声の良さがリズムをカバーしていて、独特な表現がある。小西さんの美声は聞く価値あり」と太鼓判を押されているだけに、ファンの期待は高まっているようだ。

長渕、桑田、元木、フィールズ、ケイダッシュ…清原と親しかった人たちに身元引受人になる気があるかを直撃したら

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「週刊現代」(講談社)2016年3月19日号
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  逮捕から1カ月以上の時が過ぎ、初公判が5月17日に決まった清原和博容疑者。3月中旬には保釈されるのではないかと噂されているが、今、話題になっているのがいったい誰が身元引受人なるか、という問題だ。  一時は清原が現役時代に修行に訪れたという最福寺(鹿児島県)池口恵観法主の名があがるも本人が否定。また時を同じくして、数年前に野球部へゼネラルマネジャーとして招へいしようと話し合いの場を持ったことがあるという、日本航空学園理事長の梅沢重雄氏も身元引受人に手を上げているが今後どうなっていくかはいまだ分からない状況だ。  そんななか「週刊現代」(講談社)2016年3月19日号が、今後、身元引受人になる可能性のある人物を片っ端から直撃取材している。  身元引受人として一番適するのはなんといっても家族だが、つい先日、離婚後も使っていた「清原亜希」のモデル名を「亜希」に改名すると発表した元妻はもちろん、両親や弟も、その意思はなさそうだという。  そこで「週刊現代」が直撃したのが、因縁の元同級生・桑田真澄だった。逮捕直後、清原に「人生の逆転ホームランを」とエールを送った桑田だが、「身元引受人になる気はあるか」という質問にはこう答えている。 「いま、コメントすることじゃないので。現時点で僕がどうこう言えることではないでしょう。ただ、前にも言ったように、復活は心から願っていますよ」 「まずは本人が頑張らないといけないですよね。(手を差し伸べるかどうかも)本人次第ですしね。あとは経過を見ながら、としか言えません」  明確に否定はしていないものの、身元引受人になる気がないことがありありと伝わってくるセリフだ。  では、他の野球関係者はどうなのか。真っ先に思い浮かぶのは、メディアでは「弟分」と元木大介だが、彼の所属する事務所のマネージャーは、清原と元木の意外な関係性を語っている。 「確かに元木は、現役時代に清原さんにお世話になりました。しかし、プライベートでも一緒にいたかといえば、そうではありません。1対1で飲みに行ったこともありません。テレビには『良き先輩後輩』として出演していましたが、あくまでそれは番組上の話です。これまでコメントを出してこなかったのも、元木は清原さんのプライベートを知らないからです」  PL学園の先輩後輩関係にあり、親しい仲であったとされている元巨人の橋本清も同様の答えだ。 「引退してからは、プライベートのつき合いはありません。球場で挨拶する程度です。清原さんが逮捕された後、『親しかった橋本も怪しい』と言われましたが、まったくの事実無根。本当に迷惑しています」  野球関係者からは、身元引受人どころか、「名前を出されたら迷惑」という空気がひしひしと伝わってくる。西武時代にチームメイトとしてしばしば飲み歩いていた大塚光二も変わらない。 「西武時代にめちゃくちゃ仲が良かったのは事実です。ただ、引退してからは連絡も取っていません。一昨年、大魔神・佐々木(主浩)の殿堂入りパーティーで久しぶりに会いましたけど、そのときも挨拶だけでした」  突き放したのは野球関係者だけではない。清原が「兄貴」と慕ってきた長渕剛は「週刊現代」の取材を拒否し、事務所関係者は「(逮捕されて)迷惑がかかっている」と繰り返す。清原と長渕は14年に「週刊文春」(文藝春秋)で清原の覚せい剤疑惑が報道される前より絶縁状態にあったと報道されているが、実際、長渕側は今回の件で清原を助ける気はないようだ。  そういった態度は、昨年夏から清原のマネージメントを請け負い、テレビ出演をお膳立てしたケイダッシュも同じ。川村龍夫会長が身元引受人になる予定はあるかという質問に対して「そうした予定はありません」と、にべもない答えを返している。  では、タニマチとして清原を支えてきた人はどうなのか? パチンコ関連企業・フィールズ株式会社の山本英俊会長は清原の後ろ盾となり金銭面での支援もしていたとされているが、取材に対し広報担当者はこのように答えている。 「身元引受人になるか。ならないとしても、違う形で復帰に向けて手を差し伸べるか。会社としても、山本個人としても、一切ありません。過去、(フィールズが運営する)トータル・ワークアウトに通われていたり、販売機種のプロモーションに出ていただいたのは事実です。しかし今後は、そういったことも一切いたしません。 (中略)会社として今後一切関わらないという決定は、それだけ信頼を裏切る行為があったということなので、致し方ないと思っています」  元チームメイト、タニマチなどがことごとく身元引受人を拒否するこの状況に、「週刊現代」は、「友達のふりして利用していただけのやつらはみんな消えた」と批判するが、しかし、考えてみれば、よほどの信頼関係でもないかぎり、「身元引受人」に名乗りをあげるというのはハードルが高い。それを、少し親しかっただけの人間やビジネスで付き合っていただけの人間に「身元引受人になる気はないのか」と追及して、断ったら叩くというのは、ちょっと酷ではないだろうか。  むしろ、この記事で、改めて痛感させられたのが、マスコミの清原に対する“優しさ”だ。実は逮捕直後からそうだった。犯罪を犯したわけでもないベッキーのことをあれだけ袋叩きにしていたワイドショーや週刊誌が、犯罪を犯した清原に対しては、「スター選手の孤独」とか「野球を奪われた男の悲しみ」などと、やたら同情的だったのだ。  なかには、コメントした桑田真澄に「お前がドラフトでインチキをしたせいだ」とからむコメンテーターまで出てくる始末だった。    無頼なものへの憧れなのか、日本人のヤンキー好きの表れなのか、理由ははっきりとわからないが、少なくとも、このマスコミの優しい視線を見ていると、タニマチたちが離れてしまっても、清原の復帰は意外に早く実現するかもしれない。あとは、意志の弱そうな清原が本当にクスリを断ち切れるかどうか、というところだろう。 (井川健二)

「好きで黙っていたわけじゃない」ゲス川谷がライブで”ベッキー騒動”に言及か

【アガるニュースをお届け!デイリーニュースオンラインより】
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 タレント・ベッキー(31)とバンド『ゲスの極み乙女。』の川谷絵音(27)との不倫問題は、ベッキーの芸能活動休止で終息したように見えた。ベッキーがメディアから消えたのに対し、ゲスの極み乙女。のライブツアーはソールドアウト続出と、川谷はベッキーとは対照的に絶好調だ。
続きは【デイリーニュースオンライン】で読む
      
   
					

ディズニー、『スター・ウォーズ』さらに10作品を計画中

ディズニーは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の大成功を受けてさらに10作品の「スター・ウォーズ」シリーズ製作を計画しているようだ。現在のところすでに5作品の新作を発表することを決めているディズニーだが、2020年以降にさらなる5作品を製作することを考えているという。ある関係者は「たくさんのキャラクターたちのバックグラウンドや未来を描くことができますからね。ジョージ・ルーカスがこれらのアイデアを思いついた40年前はテクノロジーがまだ追いついていませんでした。今ならそれを1年くらいで作ることができますからね」と語る。 次回作の監督の椅子をライアン・ジョンソンに渡した『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のJ・J・エイブラムス監督はザ・サン紙のインタビューに「すごくクールなことが現在話し合われているところだよ。今後それらがどのように組み合わさっていくのか見るのがとても楽しみだね」と話している。 アレック・ギネスやユアン・マクレガーが演じていたオビ=ワン・ケノービについての作品が3部作構成で制作されるのではないかと噂が飛び交っているほか、サミュエル・L・ジャクソン演じるメイス・ウィンドゥを主役としたスピンオフ作品が制作される可能性もあるようだ。というのも昨年、SNSサイトのレデットでファンに今後「スター・ウォーズ」シリーズの監督をする予定はあるのかと尋ねられたA・J・エドワーズ監督は「話はしているところだよ。まだたくさんのことは話せないけどね」「メイス・ウィンドゥに焦点を当てることになるね」と答えていたのだ。 同シリーズは、今年12月に『ローグ・ワン:ア・スター・ウォーズ・ストーリー』、2017年と2019年に次回3部作の2作品が公開予定のほか、ハン・ソロを主役にした作品が2018年、ボバ・フェットを主役にした作品が2020年に公開になるとみられている。

秘密と嘘だらけの一家がなぜ共感を呼ぶのか? 『クーパー家の晩餐会』が描く家族のかたち

【リアルサウンドより】  近年、日本において一般的とされる“家族像”はそのかたちを変えつつある。電通ダイバーシティ・ラボ(以下、DDL)堀込理恵氏によると、厚生労働省が規定する、父母に子どもふたりの『標準家族』は減少傾向で、家族の事情に合わせて構成された“ユニット”のような家族形態が増えているという。この要因として、核家族化、少子高齢化に加えて、非婚や晩婚化、さらに離婚件数の増加などが挙げられている。(*1)  こうした昨今の日本の家族像は、アメリカの家族像に近づいている。サントリーによる家族に関する国際調査によると、アメリカの1996年の人口1000人当たりの離婚率は4.3と、他の先進諸国と比べても群を抜いて高い。反面、離婚により得られる夫婦間の満足度も高いとされる。そして夫婦が離婚しても、親子の関係が断絶されるわけではなく、子どもが自立した後も、感謝祭やクリスマスなどには集まるケースが少なくないという。たとえ一緒に住んでいなくても、家族としてのコミュニケーションは続くのだ。さらに、養子を積極的に迎える背景もあり、アメリカ人にとっての家族とは、血縁に規定されるものだけではなく、それぞれの事情に合わせて自らつくり上げていく傾向があるとされている。(*2)  近年、家族像を描いた映画には、邦洋を問わず、こうした背景を踏まえたリアリティのある作品が目立つ。国内のドラマでいえば『家族ノカタチ』や『お義父さんと呼ばせて』などの作品が、映画でいえば『海街diary』や『転々』などが、新たな家族像を描いている。海外映画では、ジェシー・ネルソン監督の最新作、『クーパー家の晩餐会』もそのひとつだろう。
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 知的障害を持つ父親と一人娘ルーシーとの日々を描いた代表作『I am Sam アイ・アム・サム』(脚本・製作・監督/2001年)をはじめ、妻を亡くした父娘と愛情溢れる陽気な家政婦との物語『コリーナ・コリーナ』(脚本・製作/1994年)、別れた夫の新しい恋人と余命わずかな元妻が織りなすハートフルロマン『グッドナイト・ムーン』(共同脚本/1998年)、結婚15年目を迎え、試験的に別居生活に踏み切った夫婦のラブ・ストーリー『ストーリー・オブ・ラブ』(共同脚本・製作/1999年)など、ネルソン監督はこれまで特殊な関係における“家族の絆”を描いてきたが、本作ではよりリアリティのある“どこにでもいるような家族”をモチーフにしている。しかし、この“どこにでもいるような家族”の面々は、それぞれに現代的な問題を抱えており、一筋縄ではいかない。  クーパー家の妻、シャーロット(ダイアン・キートン)は、とっくに子どもたちは巣立ち、孫がいても未だ母親という役割から卒業できない。40年連れ添った夫サム(ジョン・グッドマン)は、妻と第二の人生を歩むべく、前向きな気持ちでいるが、シャーロットは乗り気ではなく、孫にとっての祖父母、子どもにとっての両親という役割を演じるだけ。顔を合わせれば喧嘩が絶えず、とうとう2人は密かに離婚を決意する。夫妻は事実をひた隠しながらクーパー家最後の一家団らんのために、クリスマスに家族と晩餐会の約束をした。年月を重ねるほどに複雑になっていく家族関係と、年に1度のクリスマスという一家団らん。大人だからこそ本音を隠し、各々の体裁のために奔走するクーパー家の人々を中心に物語は展開していく。ここには、すでに崩壊しつつも家族であり続けようとする、昨今のアメリカの家族像が伺える。
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 ネルソン監督は、クーパー家の人物を描くにあたって、ひとりひとりのキャラクターにいま起きている出来事とともに、個々が抱える過去の重みが伝わるようにフラッシュバックの手法を取り入れ、観客が内面を感じ取れるような作品にしたという。たとえば、医師と不倫中の娘・エレノア(オリヴィア・ワイルド)も、リストラされ失業中の息子ハンク(エド・ヘルムズ)も、母・シャーロットは無邪気な子どもの頃の姿と重ねて捉えている。シャーロットの父で元教師のバッキー(アラン・アーキー)が、ダイナーのウエイトレス・ルビー(アマンダ・セイフライド)に想いを告げるシーンでは、青年時代のバッキーがオーバーラップし、その心象風景を浮き彫りにする。姉・シャーロットへのプレゼント代を惜しみ、万引きで逮捕されたエマ(マリサ・トメイ)に対してさえも、姉に憧れつづけた幼少の姿を重ねることで、羨ましさが嫉妬心へと変わったというバックボーンを描き、観客が同情できる余地を残している。  家族の全員が一見すると正しいとは言えない行いをしているのだが、しかし共感を抱けるように描かれているのは、監督が「家族の中で誰も間違っている人はいない」ことを伝えたかったからだという。ライフサイクルも価値観も異なる人間同士が、家族として歩み寄るためには、監督が伝えるようにそれぞれの立ち位置に理解を示すことが必要不可欠だろう。  しかし、それだけでうまくいくほど、人間関係というものは単純ではない。家族だから言えることもあるし、言えないこともある。本音をひた隠して集い合い、表面上の団らんを取り繕う家族の姿を通じて、本作は改めて「家族とはなにか」を問いかけてくるのだ。ユーモラスな作風に笑いつつも決して他人事には感じられないのは、本作で描かれる家族の問題が、アメリカのものだけではないからである。 <参考文献> *1:GQ今、あらためて問う“家族”の定義 *2:サントリー 家族に関する国際調査 アメリカの家族  ■内藤裕子 ライター。2004年より雑誌の編集、WEB企画、商品企画をメインに、イベント企画、総務、人事、広報を経てクリエイターのマネージメントに携わる。現在看護師として働く傍ら、写真関連のUstreamの企画構成にも携わる。 ■公開情報 『クーパー家の晩餐会』 2月19日(金) TOHOシネマズ シャンテ他にて全国順次ロードショー 監督:ジェシー・ネルソン 出演:ダイアン・キートン、ジョン・グッドマン、アマンダ・セイフライド、オリヴィア・ワイルド、アラン・アーキン、エド・ヘルムズ、マリサ・トメイ、ジューン・スキッブ、ジェイク・レイシー 配給:ギャガ (c) 2015 CBS Films Inc. All Rights Reserved.

“福山雅治の妹”大路恵美に「小梅ちゃん、劣化した?」「色気がある」と賛否両論 片瀬那奈の肉食女ぶりにはファンも辟易?

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「大路恵美オフィシャルブログ」より。
 先月25日、女優の大路恵美が自身のブログに「本日はお母さんをやらせて頂きました」と、母親役を演じたことを報告したのだが、一緒に投稿された画像に対して、ネット上では「小梅ちゃん、劣化した?」「色気が増した」など、賛否両論の声が上がっている。 「大路といえば、ドラマ『ひとつ屋根の下』(フジテレビ系)で、福山雅治の妹・柏木小梅役を演じ、初々しいセーラー服姿を披露していましたが、現在は40歳となり、すっかり大人の女優に。小梅時代と比べてしまえば、劣化したといわざるを得ませんが、『40歳でこの美貌を保っているのは、芸能界でも多くはない』『地道に女優頑張ってることに好感がもてる。酒井法子も見習って欲しい』など、『ひとつ屋根の下』で大路の姉・小雪役を演じた酒井を引き合いに出して称賛する声も上がっているようです。また、大路といえば、『ひとつ屋根の下』でも男に襲われるなど、福山から“気の毒女優”と名付けられてしまう程に、悲惨な役回りを演じることが多いのですが、ファンにとってはそれが魅力らしく、『幸薄い感じがたまらない』『守ってあげたくなっちゃう』などといった声が上がっているようです」(芸能関係者)  不幸な役が多い大路だが、先月4日に放送されたドラマ『マネーの天使~あなたのお金、取り戻します!~』(日本テレビ系)にゲスト出演した際には、珍しく悪役を演じてファンを驚かせた。 「ドラマ内で、大路は、家政婦として高齢者宅に潜り込み、悪徳販売の手引をする役を演じたのですが、ファンからは『やっぱり、悲惨な役回りの方が似合ってる』と不評だったようです。また、このドラマにはヒロインとして片瀬那奈が出演しているのですが、『一線級で活躍している女優と並ぶと、さすがに見劣りしちゃうな』と指摘する声も上がっていたようです。ついでに言ってしまえば、このドラマ自体、『(主演の)小藪一豊が棒演技すぎる』や、『ストーリーと演出に難あり』といった批判の声が上がり、『片瀬がいるから何とか存続している』『片瀬の美脚頼み』など、片瀬人気に支えられていると指摘する声が多く上がっているようです」(同)  しかし、片瀬は去年12月、年商3億円のIT社長と交際・同棲していることが報じられ、これまでにも、溝端淳平やKAT-TUN・中丸雄一などとの熱愛報道が流れたことがあることから、ファンからは「肉食っぷりには呆れる」といった声も上がっているようだ。

実は『ルパン三世』も…マンガ・アニメの最終回が“微妙”なことになってしまう理由とは?

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『人気マンガ・アニメのトラウマ最終回100』(鉄人社)
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  最終話といえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の「世界の中心でアイを叫んだけもの」が有名だが、週刊マンガ誌などで連載されていたマンガ、テレビで放送されていたアニメや特撮ドラマは、時として、読者や視聴者を置いてきぼりにして終わってしまうことがある。『人気マンガ・アニメのトラウマ最終回100』(鉄人社)によれば、このような微妙な最終回が生まれる背景には3つのパターンが存在するようだ。  ひとつ目は、大量に張った伏線を回収できなくなってしまったパターン(エヴァはこの事例に該当する)。ふたつ目は、諸般の事情で打ち切られてしまったパターン。そして、制作者のモチベーションが切れてしまうなどトラブルが起きたパターンの3つである。 『男一匹ガキ大将』『俺の空』『サラリーマン金太郎』などのヒット作で知られる本宮ひろ志も、かつて伏線回収不可能なマンガを描いたことがあった。それは、1973年から連載を開始した『大ぼら一代』(集英社)という作品。硬派な主人公・山岡太郎字が、岡山の不良たちとケンカを重ねながら成り上がっていく話だが、話が進むにつれて展開はどんどんエスカレート。終いには、ライバルである島村万次郎が軍隊を操り日本を独裁、主人公がその独裁者に立ち向かっていくという、不良マンガの枠を大きく超えた展開にまで発展する。最終回では、その独裁者が倒されて終わるのだが、話の畳み方が分からなくなったのか、敵が倒されたのちに日本全土を巨大地震が襲い、日本が崩壊したところで「完」となるトンデモ展開を迎えたのであった。  本宮といえば、ヒット作『男一匹ガキ大将』も、作者は終わらせるつもりで、一度は「完」と書かれた原稿を用意したのにも関わらず、編集者の意向で無理矢理ストーリーを引き延ばされた過去をもつ。人気がある作品は作者の意志だけでは終わらせられないパターンも多いが、往々にしてそういう時には、このような伏線回収不可能なケースが出てきやすいのだろう。  また、伏線回収不可能ではなく、「伏線を回収する気がない」というパターンの最終回も存在する。2009年にテレビ朝日系で放送されていた『仮面ライダーディケイド』だ。平成仮面ライダーシリーズ10周年を記念してつくられた本作の最終回は、これまでの平成仮面ライダーが全員登場し、彼らと主人公とのバトルシーンが描かれた。絶体絶命の状況に陥った主人公が銃撃を受けてしまうところでラストシーンとなるのだが、その時、画面にはあるテロップが大写しに映し出される。その文字は、「ライダー大戦は劇場へ」。最終回で露骨に「続きは映画館で」をやってしまったのだ。その後、あまりにもあからさまなこの宣伝手法は視聴者から多くの批判を浴び、テレビ朝日はBPOからの審査を受けることになっている。  次のパターンは、打ち切りだ。打ち切り作品というのは歴史上振り返ってみればそれこそ無数に存在する。ただ、その膨大な打ち切り作品のなかでも、作品中で自ら「打ち切り」であることを明言してしまうパンクな作品が存在する。本稿ではそちらをご紹介したい。  その作品は、辛辣なギャグやパロディを持ち味とする木多康昭が描いた『泣くようぐいす』(講談社)である。高校野球をテーマに奔放なギャグを展開していた本作。しかし、連載していた「週刊少年マガジン」編集部側から打ち切りを言い渡されると、そこから一気にシリアスな物語へ変化。新たなライバルの登場など伏線を張り巡らせた。しかし、当然その伏線など回収できるわけもない。そして最終話では、それまでの伏線がすべて夢であったことにし、「夢オチ」で物語を終了させたのだ。いきなり伏線をつくったのは、作者からの皮肉だったのである。そして物語はこんな言葉で幕をおろす。 「全部夢だったってことかよ!!」 「しょ しょうがないだろ 打ち切りなんだから」 「「打ち切り」「打ち切り」って何度も言うな!! こっちは気にしてるんだから ぶっとばすぞこのヤロー!!」  これはこれで壮大なギャグとして成立しているような気がするあっぱれなラストである。  そして最後に取り上げたいのが、作者のモチベーションが下がってしまい、投げやりなラストを迎えてしまったパターンだ。まずは、あの『ルパン三世』である。1977年、テレビアニメ放送に合わせて新たに連載が始まった『新ルパン三世』(双葉社)の最終話は、ルパンらしからぬ最後であった。  タイムマシンがあるという島へ向かったルパン一行。しかし、それは銭形警部による罠であった。島には島ごと吹き飛ばせるほどの爆薬が仕掛けられており、島に閉じ込められたルパンたちは崖っぷちに立たされる。本来であれば、天才的な機転を利かせてそのピンチを脱するのだが、ここでのルパンはなぜかあっさりと諦めてしまう。結果、島ごと爆破されてしまい、ルパン一行の死で物語は幕をおろす。  ルパンらしくない、どこか投げやりな印象すら感じるラストだが、この時期のモンキー・パンチはルパンを描き続けることに飽きていたという逸話もあり、そのあたりがこの結末につながっているのかもしれない。実際、この最終話のなかでも「タイムマシンが手に入ったら何がしたいか?」という話をするなかで、石川五ェ門は「自分の生まれる前に行って母親に会い、俺を生まないでくれと頼む」といった答えを返している。このセリフには、当時のモンキー・パンチの隠された本音が出ているようにどうしても読めてしまう。  ただ、これはあからさまに「もうこんな漫画描きたくない!」と言っているわけではない。実は、露骨に作品を描き続けることに飽きてしまったことを告白している作品も存在する。それが、1992年から「別冊少女コミック」(小学館)で9年にわたり連載されていた、新井理恵による『×—ペケ—』という4コママンガ作品だ。  少女マンガタッチの画風に、下ネタや暴力にからんだブラッグなギャグがからむ作風で人気を博し長期連載となるが、ネタ切れもあり、だんだんと作者のモチベーションが下がっていく。そして、単行本の最終巻になると、背景の描き込みは最小限、キャラ造型も適当という状況に。そして、遂には、4コママンガを描くことすら放棄し、西原理恵子タッチな画風でひたすら仕事のグチを書き連ねる謎のエッセイマンガすら登場するようになった。そこにはこんな言葉が書き連ねられている。 「ふう…「×—ペケ—」ももう連載7年以上経っちまったか…そんじゃあーこれからもノリにノって仕事を…やーめた」 「だいたいなー4コマよりもはるかにラクなストーリーモノでも7年もやりゃーネタにつまるっつーのによー」 「スキでこんな仕事やってるワケじゃねえけどよ カネいいからヤメらんねえわ」 「ネタなんざとっくの昔にねえっての ダマシダマシよくやってたよなオレさまも」  それからは、オンラインゲームに夢中になる日常を描いたエッセイマンガを描いたり、突如絵日記を載せて現役高校生と同棲している事実を告白したり、打ち切りにならないのが不思議なぐらいの状況にまで悪化。そしてついに迎えた連載終了の時には、マンガのなかでこんな言葉を綴っている。 「やっと「×—ペケ—」が最終回を迎えるよ どんなにこの日を待ち望んだコトか いや 生活かかってる面では そりゃヤバいが 最早そんなモンどうでもイイやっていうかさ とにかく こんなメデたい出来事生まれて初めてっていうか なんちゅーか 本中華なんて言ったトコロで 現代の若者には通じないって 何はともあれ めでたしめでたし」  連載が打ち切りになってしまうのも悲しいが、完全にネタ切れ状態になってしまってもなおマンガを続けなければならないというのも苦しいというのがよく分かる。  マンガもアニメも、作家や制作者の純粋な表現意図だけでコントロールできるわけではない。その間に入る出版社や制作局の都合に大きく左右される。そのなかでキレイなラストを迎えられる作品というのも、実は少ないのかもしれない。 (新田 樹)

実は『ルパン三世』も…マンガ・アニメの最終回が“微妙”なことになってしまう理由とは?

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『人気マンガ・アニメのトラウマ最終回100』(鉄人社)
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  最終話といえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の「世界の中心でアイを叫んだけもの」が有名だが、週刊マンガ誌などで連載されていたマンガ、テレビで放送されていたアニメや特撮ドラマは、時として、読者や視聴者を置いてきぼりにして終わってしまうことがある。『人気マンガ・アニメのトラウマ最終回100』(鉄人社)によれば、このような微妙な最終回が生まれる背景には3つのパターンが存在するようだ。  ひとつ目は、大量に張った伏線を回収できなくなってしまったパターン(エヴァはこの事例に該当する)。ふたつ目は、諸般の事情で打ち切られてしまったパターン。そして、制作者のモチベーションが切れてしまうなどトラブルが起きたパターンの3つである。 『男一匹ガキ大将』『俺の空』『サラリーマン金太郎』などのヒット作で知られる本宮ひろ志も、かつて伏線回収不可能なマンガを描いたことがあった。それは、1973年から連載を開始した『大ぼら一代』(集英社)という作品。硬派な主人公・山岡太郎字が、岡山の不良たちとケンカを重ねながら成り上がっていく話だが、話が進むにつれて展開はどんどんエスカレート。終いには、ライバルである島村万次郎が軍隊を操り日本を独裁、主人公がその独裁者に立ち向かっていくという、不良マンガの枠を大きく超えた展開にまで発展する。最終回では、その独裁者が倒されて終わるのだが、話の畳み方が分からなくなったのか、敵が倒されたのちに日本全土を巨大地震が襲い、日本が崩壊したところで「完」となるトンデモ展開を迎えたのであった。  本宮といえば、ヒット作『男一匹ガキ大将』も、作者は終わらせるつもりで、一度は「完」と書かれた原稿を用意したのにも関わらず、編集者の意向で無理矢理ストーリーを引き延ばされた過去をもつ。人気がある作品は作者の意志だけでは終わらせられないパターンも多いが、往々にしてそういう時には、このような伏線回収不可能なケースが出てきやすいのだろう。  また、伏線回収不可能ではなく、「伏線を回収する気がない」というパターンの最終回も存在する。2009年にテレビ朝日系で放送されていた『仮面ライダーディケイド』だ。平成仮面ライダーシリーズ10周年を記念してつくられた本作の最終回は、これまでの平成仮面ライダーが全員登場し、彼らと主人公とのバトルシーンが描かれた。絶体絶命の状況に陥った主人公が銃撃を受けてしまうところでラストシーンとなるのだが、その時、画面にはあるテロップが大写しに映し出される。その文字は、「ライダー大戦は劇場へ」。最終回で露骨に「続きは映画館で」をやってしまったのだ。その後、あまりにもあからさまなこの宣伝手法は視聴者から多くの批判を浴び、テレビ朝日はBPOからの審査を受けることになっている。  次のパターンは、打ち切りだ。打ち切り作品というのは歴史上振り返ってみればそれこそ無数に存在する。ただ、その膨大な打ち切り作品のなかでも、作品中で自ら「打ち切り」であることを明言してしまうパンクな作品が存在する。本稿ではそちらをご紹介したい。  その作品は、辛辣なギャグやパロディを持ち味とする木多康昭が描いた『泣くようぐいす』(講談社)である。高校野球をテーマに奔放なギャグを展開していた本作。しかし、連載していた「週刊少年マガジン」編集部側から打ち切りを言い渡されると、そこから一気にシリアスな物語へ変化。新たなライバルの登場など伏線を張り巡らせた。しかし、当然その伏線など回収できるわけもない。そして最終話では、それまでの伏線がすべて夢であったことにし、「夢オチ」で物語を終了させたのだ。いきなり伏線をつくったのは、作者からの皮肉だったのである。そして物語はこんな言葉で幕をおろす。 「全部夢だったってことかよ!!」 「しょ しょうがないだろ 打ち切りなんだから」 「「打ち切り」「打ち切り」って何度も言うな!! こっちは気にしてるんだから ぶっとばすぞこのヤロー!!」  これはこれで壮大なギャグとして成立しているような気がするあっぱれなラストである。  そして最後に取り上げたいのが、作者のモチベーションが下がってしまい、投げやりなラストを迎えてしまったパターンだ。まずは、あの『ルパン三世』である。1977年、テレビアニメ放送に合わせて新たに連載が始まった『新ルパン三世』(双葉社)の最終話は、ルパンらしからぬ最後であった。  タイムマシンがあるという島へ向かったルパン一行。しかし、それは銭形警部による罠であった。島には島ごと吹き飛ばせるほどの爆薬が仕掛けられており、島に閉じ込められたルパンたちは崖っぷちに立たされる。本来であれば、天才的な機転を利かせてそのピンチを脱するのだが、ここでのルパンはなぜかあっさりと諦めてしまう。結果、島ごと爆破されてしまい、ルパン一行の死で物語は幕をおろす。  ルパンらしくない、どこか投げやりな印象すら感じるラストだが、この時期のモンキー・パンチはルパンを描き続けることに飽きていたという逸話もあり、そのあたりがこの結末につながっているのかもしれない。実際、この最終話のなかでも「タイムマシンが手に入ったら何がしたいか?」という話をするなかで、石川五ェ門は「自分の生まれる前に行って母親に会い、俺を生まないでくれと頼む」といった答えを返している。このセリフには、当時のモンキー・パンチの隠された本音が出ているようにどうしても読めてしまう。  ただ、これはあからさまに「もうこんな漫画描きたくない!」と言っているわけではない。実は、露骨に作品を描き続けることに飽きてしまったことを告白している作品も存在する。それが、1992年から「別冊少女コミック」(小学館)で9年にわたり連載されていた、新井理恵による『×—ペケ—』という4コママンガ作品だ。  少女マンガタッチの画風に、下ネタや暴力にからんだブラッグなギャグがからむ作風で人気を博し長期連載となるが、ネタ切れもあり、だんだんと作者のモチベーションが下がっていく。そして、単行本の最終巻になると、背景の描き込みは最小限、キャラ造型も適当という状況に。そして、遂には、4コママンガを描くことすら放棄し、西原理恵子タッチな画風でひたすら仕事のグチを書き連ねる謎のエッセイマンガすら登場するようになった。そこにはこんな言葉が書き連ねられている。 「ふう…「×—ペケ—」ももう連載7年以上経っちまったか…そんじゃあーこれからもノリにノって仕事を…やーめた」 「だいたいなー4コマよりもはるかにラクなストーリーモノでも7年もやりゃーネタにつまるっつーのによー」 「スキでこんな仕事やってるワケじゃねえけどよ カネいいからヤメらんねえわ」 「ネタなんざとっくの昔にねえっての ダマシダマシよくやってたよなオレさまも」  それからは、オンラインゲームに夢中になる日常を描いたエッセイマンガを描いたり、突如絵日記を載せて現役高校生と同棲している事実を告白したり、打ち切りにならないのが不思議なぐらいの状況にまで悪化。そしてついに迎えた連載終了の時には、マンガのなかでこんな言葉を綴っている。 「やっと「×—ペケ—」が最終回を迎えるよ どんなにこの日を待ち望んだコトか いや 生活かかってる面では そりゃヤバいが 最早そんなモンどうでもイイやっていうかさ とにかく こんなメデたい出来事生まれて初めてっていうか なんちゅーか 本中華なんて言ったトコロで 現代の若者には通じないって 何はともあれ めでたしめでたし」  連載が打ち切りになってしまうのも悲しいが、完全にネタ切れ状態になってしまってもなおマンガを続けなければならないというのも苦しいというのがよく分かる。  マンガもアニメも、作家や制作者の純粋な表現意図だけでコントロールできるわけではない。その間に入る出版社や制作局の都合に大きく左右される。そのなかでキレイなラストを迎えられる作品というのも、実は少ないのかもしれない。 (新田 樹)