「ダメよ~、ダメダメ」から2年半、日本エレキテル連合が目指す王道ではない道

 2014年の初めに流星のごとくあらわれ、お茶の間の人気者となった日本エレキテル連合。ブレイクのきっかけとなった「ダメよ~、ダメダメ」は、「新語・流行語大賞」の年間大賞を獲得している。あれからおよそ2年半、意外な形で再び日本エレキテル連合が注目された。きっかけは中野聡子さんが連載している東京新聞でのコラムの「最後に残るもの」という記事。「あのブームは神様がくれた奇跡みたいなもので、しかもそれを自ら放棄したのだから仕方のないことなのです」と記されているコラムには、いまだ自分たちの可能性を信じてくれているマネージャーへの感謝がつづられており、SNS上で共感の声が多数寄せられていた。
 
 実は、いまでもコンスタントに開かれている日本エレキテル連合の単独ライブには、多くのお客さんで賑わっている。なぜ神様がくれた奇跡を、「自ら放棄した」のか。そしていま何を目指してライブを続けているのか。日本エレキテル連合の中野聡子さんと橋本小雪さんにお話を伺った。(聞き手/西森路代)

◎急上昇から急降下して、いまはマイナス

――実は2014年の1月日本エレキテル連合さんが大ブレイクする直前にサイゾー本誌でインタビューしたことがあります。それから怒涛の二年半余りを過ごしたんじゃないかと思うんですが。

中野:忙しすぎてよく覚えてないんですよ。

――朱美ちゃんは、ブレイクするようなネタじゃなかったと思っていると聞きました。

中野:そうなんです。いまだに自分で分析しても、なんで世間で受けたのかわからなくて。あの頃、お正月にいくつかのネタ番組に出たんですけど、いろんなことができるのを見せたくて毎回全部違うネタで出てみたら、朱美ちゃんのインパクトがすごくて、他のキャラが全部朱美ちゃんに負けちゃったんです。

――朱美ちゃん以外のネタで受けていたら、じわじわと人気が出て、今とはまたちょっと違うことになってたかもしれないですよね。忙しい時期を超えて、今はどういう状態なんですか?

中野:今はボコボコにされてる感じです。ゼロのところから急に忙しくなって、もう一回ゼロ……どころかマイナスになっちゃって。

橋本:知らない人から厳しい言葉をかけられたり。

――それはどんな……?

橋本:キャンペーンで参加したイベントとかラジオ番組とかで……。

中野:一発屋としていじられたり。でも、チヤホヤされていたときは誰も何も言ってくれなかったから、人の痛みはわかるようになりましたね。

◎ずっと舞台がやりたいと思っていた

――少し前に中野さんが連載している東京新聞でのコラム「最後に残るもの」が話題になっていました。「あのブームは神様がくれた奇跡みたいなもので、しかもそれを自ら放棄したのだから仕方のないことなのです」と書かれていた点が印象的で。

中野:チャンスをいただいて、挑戦させてもらったし、それで間口が広がったんですけど、すごく忙しくなった分、やりたいこと、舞台に力を注げなくなってしまったんです。

――「舞台をやりたい」という話はは、2014年にインタビューさせてもらったときにも言われてたので、ぜんぜん変わっていないなと思いました。トークが苦手とも言われてましたね。

橋本:いまだにうまく話せなくて……。

中野:テレビには怪物がいっぱいいるから。

――もともと、別のキャラクターになりきってコントをされているので、素にならないといけないトークは苦手、というのもありそうですよね。

中野:だから、トークのときにも、鼻毛の一本でも描いても問題ないならまだいいのに、と思ったこともありました。

――でも、単独ライブでは、自然に自分たちのことを話してる場面もありますよね。舞台だと素で話せるんですか?

橋本:いえ、舞台でのトークも、そういうキャラになりきって話しているんです。

中野:OLのキャラが話してるようなコントなんで、あそこではフリートーク的なこともやってます。でも、フリートークの構成が本当にできないんですよ。

橋本:ただ長かったりして、文章にまとめたら一行しかないような……。

――普段の友達とも会話ってそういうものだし、個人的には、そういう会話の面白さもあると思うんです。けど、やっぱり芸人さんの場合は、フリートークでも“起承転結”の結に向かって、いろんなものを配置しながらやらないといけないという圧があるんでしょうね。

中野:臨場感があって、最後にドカーン! みたいなことをやるのが恥ずかしいし難しくて……。

――すごくわかります。テレビのフリートークだってよく考えたら、その場で即興で話しているのではなくて、事前に準備してるんでしょうね。コントを作るときはどんな感じなんですか?

中野:オチから作るのではなくて、好きな場面から作っていくんです。罵りあってるシーンがやりたいなと思ったら、最初にそのセリフを作って、そこから前後を考えます。

◎変な人は中野さんのほう?

――日本エレキテル連合さんのコントを見ていると、変わった人に対する独特の目線がありますよね。

中野:そうかもしれないです。普段、町中にいる変わった人に注目してしまうんですね。その人たちは、その人なりのルールを持ってるんだろうけど、世の中のルールにはそぐわないから変わった人だと思われている。そういう人を掘り下げるのが好きで。

――そこにはいろんな感情が混じってそうですね。

中野:「変な人だな」って好奇心の目で見てはいるけど、理解したいとも思ってて。なんでみんなと違う行動をするんだろう? って。だから愛をもって、その人たちが主役になるようにというのは心がけてますね。

――お二人にも、そういう人に対してのシンパシーがありそうな。

橋本:中野のほうがありますね。中野は家がすごく汚いんです。布団のまわりがスナックの袋でいっぱいで、片付けようとしたら「やめてくれ、これがいいんだー」って怒られたり。生活が全部、布団の上で済まされてるんです。怖い……。

中野:片付けてもらうのは嫌じゃないんですけど、あのときは音がガサガサうるさかったんで。もう排泄以外は全部布団で済ませたいです。

――他人ごとみたいな顔して聞いてましたが、けっこうその気持ちわかります(笑)。

橋本:ゼロか10かみたいな感じで、掃除をしはじめたら、とことんやったりもするんですよね。

――最近は橋本さんが、二人一緒に住んでいた家を出たと聞きましたが。

橋本:「出ていく」という言い方はあれなんですけど(笑)。今は別々に住んでいます。

中野:数時間で荷物がなくなってたんですよ。私が病院に行った三時間くらいで、家財道具が全くなくなっていて。酷いなって。

橋本:タイミングがあうのがそのときしかなかったんです。

中野:計画的じゃないとできないですよね。

橋本:今でも近くには住んでいるんですよ。呼ばれたら掃除しに行ったり、料理しにいったり(笑)。打ち合わせとか練習とかもあるので近くのほうが便利なんです。

◎コントのキャラは自分じゃないから恥ずかしくない

――数年前は勝手に家から出るなんてできない関係性に見えました。中野さんがいないと橋本さんは何も出来ないというか……。

中野:橋本に自我が芽生えてしまったんですよ。

――以前から橋本さんの自我のなさについては語られてましたね。単独ライブを見させてもらったら、橋本さんの演技力、キャラになりきる力がすごくて驚いたんですけど、それも自我がないから、なんですか?

中野:だと思います。本当に自己というものが何もないんで……(笑)。

――それ本当なんですか?(笑) 橋本さんがただ我慢しているのではない?

橋本:そもそも自我はあったんですけど、中野さんにいろいろ教えてもらってるうちになくなったんです。

中野:2年くらいかけて白いキャンバスのようにしていったんです(笑)。今や男の人でも女の子にでも、いろんなものになれるようになって。そこは橋本さんに勝てないですね。橋本さんが褒められると嬉しいんですよね、自分の作品というか。

――他の人が相方だとダメだったでしょうね。

中野:こんなに自我を抜かしてくれる人はいないから、橋本さんを相方に選んだのは間違ってなかったんだって思ってます(笑)。

――橋本さんはその一方で、女子っぽい人になりたいっていう願望もあるんですよね。

橋本:常にありますね。

――その女の子でいたいことと、コントでとんでもないキャラになりきることの間には、矛盾はないんですか?

橋本:そこに恥ずかしさは一個もないですね。

中野:そこは橋本さんのすごいところです。普段は、普通の女の子もやってるんですよ、吉祥寺で新しく出来たカフェ行ったり。私なんか、細貝さんを久しぶりにやったとき、「恥ずかしいな、なんでこんなことしないといけないんだろう」ってメイクしながら思ってたのに……。

橋本:自分で考えたのに!

中野:なのに、この子は平気で……。

橋本:自分が演じるキャラは自分ではないから、きっちり分けられるんです

中野:こっちのほうがホントは変なんです。

橋本:普通です!

中野:そういうの見ると、私のほうがなりきることには向いてないと思います。

橋本:自分で考えたことには自信がないけど、相方が考えてくれたことだと思うと自信が持てるんです。私が言うのもなんですけど、中野さんが考えるネタは面白いので。だからプレッシャーもないし、キャラになりきるのも恥ずかしくないし、お客さんの反応で気持ちが揺らぐこともない。やってきたことをやるだけです。

――なんかすがすがしいですね……。

中野:私なんて、客席の受けが悪いと、早く終わらせたくなって巻いてしまうんですけど、橋本さんはそんなこと全然ないんですね。すべってもネタを考えたの私だから、自分のせいじゃないって思ってるのかもしれないけど(笑)。

橋本:でも、私生活では普通の女の子に近づけるように、カフェとかに行きたいですよね。

◎ゴールを目指さずに好きなことをやる

――さっきもちょっとお話しましたが、東京新聞のコラムはすごい反響でしたよね。あのテーマはどういうところから思いついたんですか?

中野:私たちのことなんて誰も知らないところから始まって、突然みんなが持ちあげてくれる状態になって、それから落ちて、罵詈雑言が飛び交うようになった。そんな私たちを、変わらずに支えてくれたスタッフさんたちってありがたいな、ということで書いたんです。

――ネットの反応を見てどうでしたか?

中野:反響はうれしかったけど、あんまり目立ちたくないなって。あの記事は、決して良い話ではなく、態度が変わってしまった人に対してチクショー! という気持ちも込めていたので、それがバレたらやべーなと(笑)。

――でも、そういう気持ちが中野さんにあるのもわかった上での反響だとは思うので大丈夫じゃないですかね。

中野:そうだとうれしいんですけどね。

――舞台の仕事をやりたいということでしたが、これからやりたいことは他にありますか?

中野:自分たちで手放したものがある中で、どうやっていくか、策を練るのが楽しい時期でもあるです。一回マイナスまで落ちたところから、色眼鏡なしで新しいお客さんが来てくれるようにするにはどうしようとか考えて。

――そのためにどんなことをしてるんですか?

中野:新しいイベントを立ち上げています。街中で、流行語大賞の盾や、朱美ちゃんの衣装を飾るイベントをしたりして。

橋本:それも、毎日展示するものを変えるので、一日が終わったら、夜中に別の衣装を飾ったり、イベント中は接客したり。

中野:学芸員みたいに(笑)。

橋本:ファンの交流の場みたいにもなってましたね。

中野:朱美ちゃんの衣装を見て、ブティックだと思ってっ入ってくれたマダムもいたり。「新しいお店でもできたの?」って(笑)。

――ファンの方は変わらないですか?

中野:変わらないですね。

■大阪公演

【日時】
9月1日(木)18:00開場 / 19:00開演
9月2日(金)18:00開場 / 19:00開演
9月3日(土)12:00開場 / 13:00開演
9月3日(土)16:30開場 / 17:30開演
9月4日(日)12:00開場 / 13:00開演

【会場】
ABCホール(大阪府大阪市福島区福島1-1-30)

※チケット入手方法など詳細は日本エレキテル連合公式サイトにて!
http://www.titan-net.co.jp/live/elekitel_live.php


橋本:地方まで、Tシャツ着て応援に来てくれる人もいるんです。

中野:でも、注目されていたころに比べれば、ライブの集客とか変わったところもあります。だからこそ新しく知ってくれる人を増やそうと。

――単独ライブを見たとき、お客さんたくさんいるなあと思っていたんですけど、そうなんですね。ネタを書く気持ちに変わりはないですか?

中野:オーディションに受かるためのネタは書かなくなりました。今は無法地帯というか、とにかく好きなことを自由にやらせてもらっているのですごく楽しいですね。できることを精いっぱいやって、成功したいなと。以前は、テレビで冠番組を持って、コンテストで優勝してっていう、漠然としたゴールを考えてたんですけど、それをうまく出来なかったので、今はゴールを考えずに、目の前のことをやっていこうよと思っています。好きな舞台を作ったり。

――そうですね。俳優さんでも、舞台を中心にやってる人とかバイプレイヤーとか、いろんな道があるのに、芸人さんだけ王道を目指さないといけないのは、昔からなんか変だなと思ってました。

中野:成功して、冠番組を持つのとは違う道もあるんだよって示せたらいいですね。これからも、特異な舞台を作ったり、演出も勉強したりして、コントにいろんなキャラを出していきたいです。

◎日本エレキテル連合単独公演「電氣ノ杜~掛けまくも畏き電荷の大前~」

■大阪公演

【日時】
9月1日(木)18:00開場 / 19:00開演
9月2日(金)18:00開場 / 19:00開演
9月3日(土)12:00開場 / 13:00開演
9月3日(土)16:30開場 / 17:30開演
9月4日(日)12:00開場 / 13:00開演

【会場】
ABCホール(大阪府大阪市福島区福島1-1-30)

※チケット入手方法など詳細は日本エレキテル連合公式サイトにて!
http://www.titan-net.co.jp/live/elekitel_live.php

■ 西森路代
ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクショ ン、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、 TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。
twitter:@mijiyooon

膣のオナラ、恥ずかしくないよ!「チナラ」「マン屁」は××の証拠

こんにちは、ここ最近、汗よりも皮脂の分泌がハンパねぇ、大根 蘭です。

 みなさんは、セックスの最中……厳密にいいますと、ピストン運動中に膣からオナラのような音が出ること、ありますか? 「ブリッ」と……はやめましょう。「ブイッ」と。私は、過去1名ではありますが、ある彼とのセックスでは毎回ブイッてました。調べてみると、どうやら「クイーフ」という現象らしく、「マン屁」と呼ぶ女性もいるようです。私の場合、膣からオナラをしている感覚で「チナラ」という言葉がしっくりきて、そう呼んでいたので今回は統一させていただきます。今回は「チナラ」についての個人的見解をお伝えします!

◎ 「緩い」説は嘘。空気が入って鳴ってしまうだけ

 私の周りには「チナラ」経験者がおらず、友人に身振り手振りで説明をしてみても、真剣に取り合ってくれたためしがありません。

友「何それっ!? オナラじゃないの?」

私「オナラは肛門さまからでしょーが! 膣からなのよ、確実に。」

友「セックス中にオナラとか、気まずいわぁ~」

いつも最終的に「チナラ」の話は宙に浮かんだまま。もう、いい……。いつか、わかってくれる時がくるって……信じてる。

それにしてもチナラは珍しい現象なのか。はたまた、本当のところ皆が言うようにオナラなのか。

 ある日、婦人科へ子宮頸がん検診を受けた際に、医師が「何か心配なことは?」と聞いて下さったので、ずっと気になっていた「チナラ」問題をぶつけてみました。が、「空気が入って鳴ってしまうもの」「膣が緩いとかではないわよ」程度のサラリとした回答しかもらえませんでした。先生からすれば、「他に心配なことが、それかーい!」という気持ちだったんでしょう。それでも、先生の口から出た「あぁ、よく聞くわね」という言葉に、チナラは珍しいものというわけじゃないんだ、という安心感を得ることができました。

◎チナラ経験者の多くが「悩み」

 婦人科の先生から聞いた「あぁ、よく聞くわね」の言葉を信じ、ネットで調べてみると、セックスの時にチナラが出てしまう人は意外とたくさんいました。が、残念なことに、そのほとんどの人がそれを「悩み」として相談しています。婦人科の先生が言ったように、挿入時に男性のナニと一緒に空気が入ってしまうことから発生する音ということは相談者も認識しているようで、「空気が入ってしまうって事は、私のマンコはガバガバなのね!」「出産後から出るようになった、という事は以前の締まりがなくなったと?」「男のティンコが小さいんじゃね? いや、下手なんじゃね?」「緩いのも、音も恥ずかしくて、もうセックスするのが怖い」などなど、これまたマイナス要素の意見が多くて驚きです。

◎それは、奇跡のハーモニー

 なぜ、私が多くの人が悩んでいることに驚いているかといいますと、少なくとも私自身は「チナラ」を嬉しいものとして捉えておりました。理由はないけれど、何となく相性がいいんだ、とお互いに思い、鳴れば彼氏と喜び合っていたんです。もうひとつハッキリと大声でお伝えしたいのは、「私の膣は締まりがいい」(長い通勤時間を有効活用して、膣トレ通勤してるっつーの)という根拠のない自信があった事と「当時の彼のティンコの大きさもテクニックも大満足だったぞ」ということ。さらに、「チナっている」時はいつも、最高潮の時でした。

 なぜ「チナラ」が出るのか、彼と理由を探ってみたことがあります。よく言われている「緩い・ガバガバ説」については、それならば、逆にずっと空気が入ってしまっているわけだから、音なんか鳴らないんじゃないか。むしろ、彼のティンコのサイズと、自分の膣の筋肉がフィットしている、つまりピッタリ相性のいいモノ同士が出し入れするから、体勢を少し変えた時に、わずかに空気が入って音が出るんじゃないか。そして我々がいい「チナラ」にめぐりあう時は決まって、男性は硬くビンビンであり、女性は相当濡れているという条件をクリアしているように思う。ということはですよ、これは、最高に気持ちいい状況なんだ。ゆえに、チナラは、恥ずかしいものではないッ! という結論に、我々は達したのでありました。

 チナってしまう事を気にして、セックスに集中出来ないのは非常にモッタイナイことです。相手が「チナラ」初見の男性で「なに今の!?」な反応をした時には、「これって、すっごい気持ちいい時に出る音なんだって。テヘペロ」と伝えれば、男性は間違いなく嬉しいはず。だから恥ずかしがらなくていいし、まして申し訳ないなんて思う必要はないのです。

 チナラは滅多に聞けない、レアな音ってことですよ。その2人で奏でる奇跡のハーモニーが聞こえた時は、どうぞ恥ずかしがらず、本能のまま楽しんじゃえばいいと私は思います。

(大根 蘭)

膣のオナラ、恥ずかしくないよ!「チナラ」「マン屁」は××の証拠

こんにちは、ここ最近、汗よりも皮脂の分泌がハンパねぇ、大根 蘭です。

 みなさんは、セックスの最中……厳密にいいますと、ピストン運動中に膣からオナラのような音が出ること、ありますか? 「ブリッ」と……はやめましょう。「ブイッ」と。私は、過去1名ではありますが、ある彼とのセックスでは毎回ブイッてました。調べてみると、どうやら「クイーフ」という現象らしく、「マン屁」と呼ぶ女性もいるようです。私の場合、膣からオナラをしている感覚で「チナラ」という言葉がしっくりきて、そう呼んでいたので今回は統一させていただきます。今回は「チナラ」についての個人的見解をお伝えします!

◎ 「緩い」説は嘘。空気が入って鳴ってしまうだけ

 私の周りには「チナラ」経験者がおらず、友人に身振り手振りで説明をしてみても、真剣に取り合ってくれたためしがありません。

友「何それっ!? オナラじゃないの?」

私「オナラは肛門さまからでしょーが! 膣からなのよ、確実に。」

友「セックス中にオナラとか、気まずいわぁ~」

いつも最終的に「チナラ」の話は宙に浮かんだまま。もう、いい……。いつか、わかってくれる時がくるって……信じてる。

それにしてもチナラは珍しい現象なのか。はたまた、本当のところ皆が言うようにオナラなのか。

 ある日、婦人科へ子宮頸がん検診を受けた際に、医師が「何か心配なことは?」と聞いて下さったので、ずっと気になっていた「チナラ」問題をぶつけてみました。が、「空気が入って鳴ってしまうもの」「膣が緩いとかではないわよ」程度のサラリとした回答しかもらえませんでした。先生からすれば、「他に心配なことが、それかーい!」という気持ちだったんでしょう。それでも、先生の口から出た「あぁ、よく聞くわね」という言葉に、チナラは珍しいものというわけじゃないんだ、という安心感を得ることができました。

◎チナラ経験者の多くが「悩み」

 婦人科の先生から聞いた「あぁ、よく聞くわね」の言葉を信じ、ネットで調べてみると、セックスの時にチナラが出てしまう人は意外とたくさんいました。が、残念なことに、そのほとんどの人がそれを「悩み」として相談しています。婦人科の先生が言ったように、挿入時に男性のナニと一緒に空気が入ってしまうことから発生する音ということは相談者も認識しているようで、「空気が入ってしまうって事は、私のマンコはガバガバなのね!」「出産後から出るようになった、という事は以前の締まりがなくなったと?」「男のティンコが小さいんじゃね? いや、下手なんじゃね?」「緩いのも、音も恥ずかしくて、もうセックスするのが怖い」などなど、これまたマイナス要素の意見が多くて驚きです。

◎それは、奇跡のハーモニー

 なぜ、私が多くの人が悩んでいることに驚いているかといいますと、少なくとも私自身は「チナラ」を嬉しいものとして捉えておりました。理由はないけれど、何となく相性がいいんだ、とお互いに思い、鳴れば彼氏と喜び合っていたんです。もうひとつハッキリと大声でお伝えしたいのは、「私の膣は締まりがいい」(長い通勤時間を有効活用して、膣トレ通勤してるっつーの)という根拠のない自信があった事と「当時の彼のティンコの大きさもテクニックも大満足だったぞ」ということ。さらに、「チナっている」時はいつも、最高潮の時でした。

 なぜ「チナラ」が出るのか、彼と理由を探ってみたことがあります。よく言われている「緩い・ガバガバ説」については、それならば、逆にずっと空気が入ってしまっているわけだから、音なんか鳴らないんじゃないか。むしろ、彼のティンコのサイズと、自分の膣の筋肉がフィットしている、つまりピッタリ相性のいいモノ同士が出し入れするから、体勢を少し変えた時に、わずかに空気が入って音が出るんじゃないか。そして我々がいい「チナラ」にめぐりあう時は決まって、男性は硬くビンビンであり、女性は相当濡れているという条件をクリアしているように思う。ということはですよ、これは、最高に気持ちいい状況なんだ。ゆえに、チナラは、恥ずかしいものではないッ! という結論に、我々は達したのでありました。

 チナってしまう事を気にして、セックスに集中出来ないのは非常にモッタイナイことです。相手が「チナラ」初見の男性で「なに今の!?」な反応をした時には、「これって、すっごい気持ちいい時に出る音なんだって。テヘペロ」と伝えれば、男性は間違いなく嬉しいはず。だから恥ずかしがらなくていいし、まして申し訳ないなんて思う必要はないのです。

 チナラは滅多に聞けない、レアな音ってことですよ。その2人で奏でる奇跡のハーモニーが聞こえた時は、どうぞ恥ずかしがらず、本能のまま楽しんじゃえばいいと私は思います。

(大根 蘭)

不貞行為なし、愚痴が多く働かない妻と別れて親権を取りたい夫の計画的離婚

本連載では最近、夫に浮気された妻からの相談トピを繰り返し紹介してきたが、小町ではつい先日、“妻の態度が理由で離婚したがっていた夫”のトピが完結した。およそ8カ月にわたる闘いに終止符を打ったトピ主、おめでとう! これを祝して一連のトピを紹介したい。

「愚痴や悪口ばかりの妻と離婚したい…だができない」

 最初のトピはこちら。昨年12月に立ち上げられた。当時、夫婦はともに38歳で子供は3人。一番上の長男はこのとき中学三年生、長女は小学六年生、次女は保育園年長組だ。傍から見れば順風満帆のようだが、しかしトピ主は「愚痴や悪口ばかり言っている妻と離婚したいと思って」いるというから穏やかでない。このトピ立て当時は「現実問題として離婚することはできない」として、このまま夫婦生活を続けるしかないと諦めているトピ主。「同じような体験をした人がいたらこういった対応をしたらマシになったとかアドバイスをいただけたら」という相談だった。いわゆる愚痴トピ&現状維持のための心の持ちようを問うものだ。

 トピ主は専門学校を出た後、フリーター生活をしていた時期に、同じくバイト生活の妻と出会って結婚した。トピ主は結婚を決意してからすぐ会社員になり、中小企業ではあるが一応出世もした。年収は450~500万円程度だという。3人の子供たちに十分な教育を受けさせたいトピ主としては、妻にも仕事をして家計にお金を入れてほしいと望んでいるのだが、妻は結婚以来ずっと専業主婦で、「あらゆる言い訳をして絶対に働くのを拒んでいます」。貯金もなく、子供たちが3人とも入学をする今年の春には、トピ主の親に借金をしなければ学費がまかなえなくなることを、トピ主は憂えている。

 妻はもともと愚痴や他人の悪口が多く、トピ主が仕事を終え夜遅く帰宅しても、すぐに「一度も会ったことのないママ友の悪口を延々と語り、子供さえいなければ自宅に帰りたくないと思うような関係」だった。しかも4年ほど前にトピ主兄(当時35歳)が結婚して以降は、兄嫁に強烈なコンプレックスを抱いているのか、あらゆる愚痴や悪口を吐き出すようになった妻に「もううんざり」状態。トピ主曰く、長く独身で結婚しないと家族皆に思われていた兄が、突然28歳(当時)の女性を連れてきて、トピ主家族内の評判も上々。紹介されて半年後くらいに入籍し、子供も産まれ、都内に家も建て……と、トントン拍子な兄嫁夫妻が気に食わないようで、妻は兄嫁への悪口をどんどんエスカレートさせているという。この悪口の詳細はぜひトピをご覧頂きたいが、単なるイチャモンである。

 トピ主はこれまで、何度も離婚したいと考えた。だがそうなると色々な問題が生じる。

「子供は3人とも母親についていくでしょうし、妻もそれを希望すると思います。まだ次女は幼いこともあり、可愛くて手放したくないですし、日々の成長を見守りたいです。それに妻は、今まで一度も定職に就いたことが無く、今後も無理だと思います。妻は稼げない、妻の実家も正確には分かりませんが、経済的には豊かでは無さそうです。いくら私が養育費を渡しても、子供たちは今以上に苦しい生活になる可能性が高いです。それに、今までの『絶対に私は働かないの姿勢』からして、妻は離婚に応じないと思います」

 妻が人の悪口を言い過ぎるので離婚……なんだか難しそうだ。その後のトピ主レスに投下された追加情報によると、最近の妻の愚痴は一番目に兄嫁のことで、二番目が経済的なこと。前述の通り、トピ主の年収は額面で450万円ほど。どの地方に住んでいるのかは分からないが、トピ主によれば「妻がパートをすればなんとかなる」らしい。しかし、妻は働こうとしない、と。なるほど、悪口を言うことだけじゃなくて働かないことも不満なんですかね? 働かない妻の言い訳は、よくあるパターン。

「結婚当時は落ち着いたら働く、子供が2人産まれた後は下の子が小学校に入ったら働くと言っていたのに、いざ長女が小学校に上がるくらいになっても働こうとせず、パートでもしたらといえば、共働きの家庭の子供は問題が出る、成績が上がらない、親の言うことを聞かない子になるなど言い訳し放題。そして子供は2人と言っていたのに、長女が小学校に上がる前、3人目ができ、また3番目が小学校に入るまで絶対に働かないと言い張るようになりました」

 第三子の妊娠には自分にも責任があると反省するトピ主だが、次女のことは可愛がっている。ただ、母親の愚痴・悪口をところかまわず撒き散らす体質は、子供たちにも悪影響を与えているのではないかと懸念している。

「長男は母親が怒り出すと、すぐに自分の部屋に行ってしまいます。長女も次女を連れて、子供部屋に向かうことが多いです。妻は一度不機嫌になると、数日不機嫌が続くこともあり、子供たちも無駄に怒られたりするので、長女は『喧嘩はやめようよ、ママ落ち着いて、パパもう言わないで』みたいな感じです」

 家族全員がこの妻の悪口の迷惑を被っている状態だ。トピ主はこのように兄一家との経済格差による(と思われる)妻の悪口、春からの子供たちの学費などのことを考え、妻が働きに出るのがよいと思っているようだ。確かにそれしかない。兄一家との経済格差が少しでも解消され、家計が潤い、愚痴も経る……かもしれない。だが妻は、母親が働きに出ると子どもの成績が下がる、など根拠のない言い訳をして頑なに働かないのだという。う~ん。難しい。そして、ある休日の朝、事件は起こった。

イルミネーションの綺麗なスポットを紹介するテレビ番組を見て、「行ってみたい」と言った長女。紹介されていたスポットは自宅からそれほど遠くない場所で、「家族全員で行ってもレンタカーを借りればお昼込で1万ほどで行ける場所だったので、私は行ってもいいかなと思ったんです」。クリスマスや冬休みも子供たちをレジャーに連れていく予定がなかったため、「せめてそれくらいは」と思ったトピ主。しかし妻がキレて、口論に発展した。

「妻が必要以上に強い口調で、『うちは貧乏なんだから行けないわよ』みたいな言い方をしたんです。長女はちょっと言っただけですし、なにもそんな言い方しないでもいいだろと私が言い返したところ、かなり大きな声で怒り始めたので、私も『子供の前で朝からやめろよ』と」

 この流れで、トピ主が「来春の進学費用も足りない、お前(妻)も働くか私の実家で住まわせてもらうのを前向きに考えるかしろよ。4月からどうするつもりだよ」と切り出すと、妻は叫び怒り出し、また兄夫婦の文句。結果的にイルミネーションを見に行く外出はなくなり、妻は一人でどこかに出かけてしまった。最悪な休日。こういう日のこと、子供ってよく覚えていると思う。

 さて、ブチギレた妻(母)の外出により、休日の家に残された家族たち。トピ主はついに、長男に「離婚を考えている」と伝えたところ「別れることになったら父親(トピ主)について行く」「長女はたぶん父親を選ぶと思うけど、途中で転校するのは可哀想だから、離婚するのなら4月までにしてよね」との答えが。これでトピ主の心は決まり、離婚に向けて動き出した。まずトピ主は、自分が父親としてどうしたいかを書き出した。

・子供3人を高校進学させ、野球などお金がかかる部活動であっても行わせたい。
・大学も希望するのなら行かせたい。一時的には奨学金を借りることになるかもしれないが、返済は半分は親が負担したい。
・将来に子供たちに負担をかけないために、老後の資金も考えていきたい

そのため妻に望むことは、

・トピ主の実家で生活する(※家賃や光熱費負担を軽減させるため)
・いざという時の子供のお迎えなどはトピ主の母親に任せ、妻もパートをすること
・トピ主の両親に無理を言って同居してもらうのだから、今のように怒鳴ったりヒステリーを起こさないこと

実家で生活することに妻が応じない場合は、お互いの両親に理由を話し

・家賃を減らせるように、もっと家賃が安い物件への引越し
・妻が働けるようになるまでの生活費援助
・子供たちの進学費用が足りない場合の援助

を依頼することに決めた。なるほど。問題が起こるとまず最終目標を書き出して、そのために誰に何を言うか、細かく設定したトピ主のやり方は勉強になる。ヘタなビジネス書よりも小町は役に立つ。ここでひとつめのトピは終わった。そして2カ月後。

「以前に「愚痴や悪口ばかりの妻と離婚したい」と投稿した者です」

 今年2月、続報がアップされた。報告トピである。

「前回の書き込みでは、妻と離婚したいが、現実的にはできないだろうと投稿しましたが、本当は自分の中ではもう限界を超えていて離婚の一択しか無かったのですが、最後の踏ん切りがつかず誰かに自分の意見を肯定して欲しかったのかもしれません。偶然ですが、約1カ月皆様に相談に乗っている間に妻と大きめの喧嘩をしたことにより、両家の親兄弟を巻き込んだ相談を行い、結果としては私が子供3人と自分の実家で生活し、妻とは別居することになりました」

 このトピ主は親切で、トピ主レスで経緯を簡単に報告してくれていた。それによると……。

1)「現在の生活を続けると子供3人が進学する4月にはお金が足りなくなり親に借金をする事になる。高校くらい借金無しに行かせたいため、私の実家に住み、妻にも働いて欲しい」と妻に伝える。

2)妻は「引越しするなんて子供たちが可哀想だ、母親が家にいないと子供がダメになる」と現在のままの生活を希望。だがトピ主も今は引いてはいけない時だと強い態度で「借金をしないと高校にも行けないなんて、その方が可哀想だ」と言い、かなり大きめの夫婦喧嘩に。

3)元々妻は、喧嘩をした時などは数時間から数日、誰から見ても分かるような『私は怒っているのよ』という態度を取り、その間は夕食にカップラーメンを出したり、子供を必要以上に強く怒ったりすることがあったが、12月の喧嘩以降、ずっとその状態に。

4)年末年始の長期休暇中を利用しお互いの親に相談を行い、その後お互いの兄弟も含め色々な話し合いを敢行。双方の両親を味方につける。義母(妻の母親)が妻を働くよう説得するが応じず。

5)妻の不機嫌状態は、だんだん酷くなり、家事は全くしない、子供は些細なことでも異常に怒るようになり、上の2人の子は妻に近づかなくなり、末っ子も妻のことを怖がるような素振りを見せる。「もしかしたら更年期障害とかウツとか何かあるのかもしれないから、少し距離を置いたほうが良い」と義両親からアドバイスされ、妻は実家に一時的に帰ることに。家族で住んでいた家を退去し、トピ主の実家に子どもらと引っ越し。←イマココ

 3カ月ですごい展開である。あくまでもトピ主視点だが、子供たちも母親へは見切りを付けている様子で、上の2人は妻の話題に触れもせず、「末っ子も一度会いに行った時に、『どうして母と一緒に暮らさないんだ』と攻撃的に言われて泣いてしまってから、母親に会いたいと言わなくなりました」という。夫から見た妻は<怒りっぽい女>だったが、子供から見た母親としては、自分の機嫌で子どもへの接し方を変える、かなり厄介な母親だったのではないだろうか。

「いきなり離婚に進まず、まず別居したのは、少しでも早く妻と子供たちを引き離したいというのが一番の理由なのですが、妻は離婚に応じないと思いますし、妻の両親も今は私側に立ってくださっていますが、離婚となると絶対に反対してくると思います」

 現在、妻の原家族はというと、3LDKのマンションに義両親、妻、離婚した義妹1、小学生の甥と姪、独身の義妹2の7人で暮らしているようで、「大変な状況だと思いますので妻も早く家から出したいと考えているはずです。でも、妻は、元通り家族5人だけで生活するのではないと帰らないと言っていますし、最終的に妻が納得しない間に引越しが決まったので、私を許していないです」。妻はすぐには離婚に応じないだろうし、何なら永遠に離婚に応じないのではという雰囲気すら感じるが、ここで本トピは終わった。そして、今年8月……。

「愚痴や悪口ばかりの妻と離婚したい その後」

 7カ月の別居を経て離婚に至ったことが報告された。たまにトピ主がこうして現状報告のための「その後」トピをアップしてくれるが、なかなか嬉しいものだ。

「昨年12月末の別居の後、夫婦で何度も話し合いを行いました。ですが、結局意見が一致することはなく離婚の進みとなりました。3人の子供たちは私が引き取ることになり、私の実家で育てることとなりました」

「現在小学校に上がった娘の初めての夏休み中ですが、とても穏やかに毎日楽しく笑い声の絶えない生活を過ごしております。高校生になった長男、中学生になった長女も家事や妹の世話をよく行ってくれ、以前の生活が嘘のように穏やかな生活です。貯金がほとんど無かった以前とくらべ、着実に貯まっており子供たちの将来の助けになりそうです」

 THE・ハッピーエンド、幸せそうである。元妻と子供たちの面会は約束しているが、長男は母親に会いたがらないそうで、トピ主が「今日は家族全員でお母さんに会いに行くぞ」と無理やり連れて行った1回しか面会に参加していない。「長女は次女に『一緒についてきて』と頼まれているから母親のところに行っているような雰囲気があります。次女は、母親が恋しいのか土日に会いに行こうというと嬉しそうにしますが、母親と別れる時には特に別れたくないと言わずあっさりとバイバイと帰るので子供なりに割り切っているようです」と、トピ主は見ている。子供たちの心境、本当のところはわからない。母親に冷たい態度をとるのは、父親への気遣いもあるだろう。

「妻は離婚に納得しませんでした。でも、私が望んでいる私の両親と同居するにしても、家族だけで過ごすにしても妻も働いて欲しいという希望と、妻の家族だけで生活しずっと専業主婦でいたいという希望が交差することは無く離婚話へと変わっていきました」

 元妻……働きたくないけど生活レベルは上げたい、それは無理な話だ。彼女は「母親が働きに出ることで子供への悪影響が出る」と懸念していたが、あのままでは学費もままならなかったし、母親が愚痴や悪口を言いまくる環境も子供らに悪影響ではあっただろう。この離婚で元妻は多くのものを失った。もちろん、読者である私たちはトピ主の言葉しか目にしないわけで、本当は妻は何を考えていて、何を一番大事にしていたのかなど何もわからない。コメント欄では、「(妻に対して)根っからの怠け者のような言い方、やさしが無さすぎる。3人も子供作って、子育てだけでも大変なのに、まだ外で働かないって、あなたは鬼ですね」と、トピ主を糾弾する声もあった。元妻も、おそらく今後はどこかのタイミングで就業せざるを得なくなるだろうが、10代でのアルバイト経験しかなく、40歳近くまで専業主婦だった彼女が、一人ぶんの生活費を稼ぐ仕事をこなしていけるのだろうか。だからといってトピ主がいつまでも、彼女を扶養していくのもおかしな話であるし、元妻は自立すべきであるのだが……適切な支援がなければ、この元妻は離婚による貧困に突入してしまうのではないか。元妻の方が気がかりではある。

(ブログウォッチャー京子)

「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」――西加奈子『きりこについて』

「きりこは、ぶすである。」西加奈子の小説『きりこについて』(角川文庫)は、このような衝撃的な一文から始まります。空気を抜く途中の浮き輪のようにぶわぶわと頼りない輪郭。がちゃがちゃと太い眉毛。点のような目に、アフリカ大陸をひっくり返したような鼻。アラビア文字のように難解な生え方の歯。首も胴体のくびれもなく、足は立派な芋虫のよう。百人が百人「ぶすである」というであろう奇跡の女の子、それが、この小説の主人公・きりこです。

 マァマのお腹から生まれ出たときから、その「ぶす」さ加減で周囲を圧倒してきたきりこ。しかし、きりこのことを心から愛してやまないマァマとパァパの「可愛いなぁ」をたっぷり浴びせられて育った彼女は、自分が世間一般で言う「ぶす」であることに、つゆほども気づかないまま、すくすくと成長していきます。それどころか、自分のことを、「世界一可愛い」女の子であると信じています。いかなるときもふりふりの可愛い洋服に身を包み、目立ちたがりで、自分が大好きで、きまぐれでわがままで、でも心のやさしいきりこ。まだ幼く、一般的な「美醜」の判断基準をインストールされておらず、きりこの「ぶす」を「衝撃」としてしか捉えることのできない周囲の子どもたちは、彼女からあふれ出す自信(あまりにも自信たっぷりの「うちって、かわええやろ?」に、子どもたちはみな暗示をかけられてしまいます)や溌剌として大人ぶった態度に惹かれ、きりこをリーダーとして慕うようになります。そんなきりこと運命の出会いを果たすのが、この小説の語り部でもある、世にも聡明な黒猫・ラムセス二世なのです。

 ラムセス二世とともに日々を過ごし、小学五年生となったきりこにはある変化が訪れます。それは、初潮と、胸をえぐるような失恋、そして、周囲がきりこのことを「ぶす」と認識するようになってしまったことでした。初潮を迎えたきりこは、かねてから思いを寄せていた初恋の人・こうた君に愛を告白します。しかし、彼から返ってきたのは、「やめてくれや、あんなぶす。」という残酷な一言。同時に、これまできりこのことを慕ってきたクラスメイトたちも、「きりこちゃんって、ぶす、やわ!」と態度を一変させてしまうのです。しかし、生まれてからずっと、パァパとマァマの心からの「可愛い」を浴びせられて育ってきた彼女には、どうしても理解ができなかったのです。いったい、うちの、どこが「ぶす」?

 きりこは毎日毎日鏡に向かい、自分の顔のどこが「ぶす」なのかを、検証するようになります。しかし、そこに映るのは「ぶす」ではなく、「きりこそのもの」。ありのままの「自分」でしかないのです。「ぶす」の定義に悩み続けるきりこが決定的に自分を「ぶす」であると認識するのは、「ぶす」の正反対に位置する「可愛い」女の子像を発見したときでした。大きな二重の目、すうと通った鼻筋、口角の上がった桃色の唇……自分と同じように「ぶす」であるクラスメイトのみさちゃんが理想とするヒロインの姿であり、思春期を迎えた男の子たちにモテモテの「可愛い」すずこちゃん。彼女たちの顔が「可愛い」とされるならば、その対極にいる者は、「ぶす」だ! 自分が「ぶす」であることをはっきりと自覚したきりこは、その日から鏡を見ることをやめ、人の目を避け自室に篭もり、つらい現実から逃れるために眠り続けるようになります。ラムセス二世をはじめとする猫たちだけが、きりこが笑顔を向けられる相手でした。彼らにとっては、きりこが人間界で「ぶす」だと言われていることなど、まったくどうでも良かったのです。

 きりこは、自分が「可愛い」女の子になれないことに苦しんでいるのではありません。「自分」はどこまでいっても「自分」であり、ほかの誰かになることは不可能なのだということを、きりこはよく分かっていましたし、何より彼女自身がそうして生きていくことを望んでいませんでした。「きりこの体はきりこのもの」。だから、大好きな、自分の体と心が一番よろこぶ、可愛いお洋服を着て外を歩きたい。しかし彼女にぶつけられるのは、「ぶすのくせに」という心ない言葉ばかりでした。きりこのそんな姿が、そんな思いが、周囲から受け入れられないということに、彼女は絶望していたのです。

 長い間、部屋に篭もっていたきりこ。しかし、十八歳になった彼女に、外の世界へ出て行くことを決意させる、ある出来事が起こります。それは、同じ団地に住む、ちせちゃんという女の子が、強姦の被害にあったことでした。きりこはそれを夢の中で知ります。脚の間から血を流して「私は望んでいない」と泣く彼女を、どうにかして助けたいと、きりこは四年ぶりに太陽の降り注ぐ外へと出て行きます。ラムセス二世と、たくさんの猫たちを引き連れて。

 セックスが大好きなちせちゃんは、自分の欲求を満足させるために、出会い系サイトを利用していましたが、相手はきちんと選び、「生理中はセックスをしない」「避妊具を必ずつける」といったルールを決めて、安全な性交を楽しんでいました。そんななかで、ある男が、「生理が始まったからしたくない」という彼女の言葉を聞かず、無理やりに挿入をしてくるという事件が起こります。ちせちゃんはそれを「レイプである」と警察や周囲の人々に訴えますが、挑発的な服装の、「ヤリマン」と噂される彼女の言うことを、誰も聞いてはくれません。出会い系サイトを利用して、不特定多数の異性との性交に励んできた、自分の体を大切にしてこなかったちせちゃんが強姦されるのは、「自業自得」だというのです。

 きりこは、必死に周囲と闘うちせちゃんについて、このように話します。「セックスをたくさんしてるから、体を大切にしてへん、のやなくて、ちせちゃんは、自分の体が何をしたいのかをよく分かってて、その望む通りにしてるんやから、それは、大切にしてる、ていうことやと思う。自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらんと思うから。」それはきりこ自身が、自分に対して言い聞かせた言葉でもありました。

ぶすって、何だ。

誰が決めたのだ。目が大きいのがいいって誰が? 顎の下がなだらかなのは、美しくない? では、美しさとは? 誰が決定する? 誰が?

 露出の多い服を着ていれば、ただちにレイプされるのか? レイプをされれば、心を奪われたことになるのか? セックスが好きなのは、自分の体を大切にしていないこと? 体の欲求に素直なことは、「自分を大切に」していると、言えないのだろうか?

 ふたりは約束をします。「自分」の欲求に、従うこと。思うように生きること。誰かに「おかしい」といわれても、「誰か」は「自分」ではないのだから、気にしないこと。

 きりこは、決して「きりこ」のことを否定しません。「ぶす」なきりこも、可愛いお洋服を着たいと思うきりこも、誰が作ったのかも分からない「基準」に傷つけられたきりこも、そして、「ぶす」な自分のことが大好きなきりこも、そのぜんぶが「きりこ」なのです。「可愛く」ならなければいけない、「ぶす」だから可愛いお洋服は着てはいけない、正しい「基準」に従わなければならない、「ぶす」のままの自分に、満足してはいけない。そんなふうに、誰もが心の中に抱えてしまう呪縛から、きりこは自由であろうとします。彼女はとてつもない「ぶす」ですが、「ぶす」の自分を受け入れ、愛することができました。しかし、きりこが「ぶす」の自分を否定していたら、どうでしょう。自分自身を「ぶす」という「基準」で否定するということは、同様に「ぶす」である誰か、「基準」にそぐわない誰かを、そのまま否定することにも繋がってしまいます。

 ではそもそも「自分」ってなんなのだろう? 数え切れないほど多くの要素――生まれ持ったもの、自らの手で選び取ったもの、そして誰かから押し付けられたもの――が、これ以上ないほど複雑に組み合わさって作られるものではないでしょうか。しかもそれは、刻一刻と変化し続けている。容姿も立場も考え方も、そのときどきで驚くほど簡単に変わってしまいます。そう考えると、誰が作ったのかも分からない外側の「基準」に判断をまかせようとするのは、あまりにも窮屈で乱暴なことだというのが分かります。そしてその「基準」というのも、実際のところ、時代や環境などのさまざまな都合で形を変えていく、不確かなものに過ぎません。「自分」にも「他人」にも、そして「基準」にも、「正しい」姿というものはないのです。だからこそ、いまここにある「自分」というものが、自分とは違う要素の組み合わせである「他人」に、そして社会の「基準」に受け入れられるという保証など、どこにもありません。

 「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」きりこの言葉は、ある意味とても孤独です。自分のことを本当に知っていて、受け入れられるのは、ただひとり自分だけ、ということなのですから。しかし、ひとりひとりが孤独であるということは、ばらばらで不確かなひとりひとりの存在が、確かに認められているということです。

 「ぶす」のきりこは今日も、大好きな、ふりんふりんの可愛いお洋服に身を包みます。誰が何と言おうと、それはきりこの心と体が、何よりよろこぶことだから。そして、そのことを本当に知っているのは、ほかならぬ「きりこ」なのだから。

 きっとこの小説を読み終わるころには、読者は「ぶす」という言葉の意味を見失っていることでしょう。そこには、ふりふりの黄色いドレスを纏い、ラムセス二世を腕に抱いて、がちゃがちゃの歯をこぼして笑うきりこの姿が、燦然と輝いているのです。

(餅井アンナ)

「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」――西加奈子『きりこについて』

「きりこは、ぶすである。」西加奈子の小説『きりこについて』(角川文庫)は、このような衝撃的な一文から始まります。空気を抜く途中の浮き輪のようにぶわぶわと頼りない輪郭。がちゃがちゃと太い眉毛。点のような目に、アフリカ大陸をひっくり返したような鼻。アラビア文字のように難解な生え方の歯。首も胴体のくびれもなく、足は立派な芋虫のよう。百人が百人「ぶすである」というであろう奇跡の女の子、それが、この小説の主人公・きりこです。

 マァマのお腹から生まれ出たときから、その「ぶす」さ加減で周囲を圧倒してきたきりこ。しかし、きりこのことを心から愛してやまないマァマとパァパの「可愛いなぁ」をたっぷり浴びせられて育った彼女は、自分が世間一般で言う「ぶす」であることに、つゆほども気づかないまま、すくすくと成長していきます。それどころか、自分のことを、「世界一可愛い」女の子であると信じています。いかなるときもふりふりの可愛い洋服に身を包み、目立ちたがりで、自分が大好きで、きまぐれでわがままで、でも心のやさしいきりこ。まだ幼く、一般的な「美醜」の判断基準をインストールされておらず、きりこの「ぶす」を「衝撃」としてしか捉えることのできない周囲の子どもたちは、彼女からあふれ出す自信(あまりにも自信たっぷりの「うちって、かわええやろ?」に、子どもたちはみな暗示をかけられてしまいます)や溌剌として大人ぶった態度に惹かれ、きりこをリーダーとして慕うようになります。そんなきりこと運命の出会いを果たすのが、この小説の語り部でもある、世にも聡明な黒猫・ラムセス二世なのです。

 ラムセス二世とともに日々を過ごし、小学五年生となったきりこにはある変化が訪れます。それは、初潮と、胸をえぐるような失恋、そして、周囲がきりこのことを「ぶす」と認識するようになってしまったことでした。初潮を迎えたきりこは、かねてから思いを寄せていた初恋の人・こうた君に愛を告白します。しかし、彼から返ってきたのは、「やめてくれや、あんなぶす。」という残酷な一言。同時に、これまできりこのことを慕ってきたクラスメイトたちも、「きりこちゃんって、ぶす、やわ!」と態度を一変させてしまうのです。しかし、生まれてからずっと、パァパとマァマの心からの「可愛い」を浴びせられて育ってきた彼女には、どうしても理解ができなかったのです。いったい、うちの、どこが「ぶす」?

 きりこは毎日毎日鏡に向かい、自分の顔のどこが「ぶす」なのかを、検証するようになります。しかし、そこに映るのは「ぶす」ではなく、「きりこそのもの」。ありのままの「自分」でしかないのです。「ぶす」の定義に悩み続けるきりこが決定的に自分を「ぶす」であると認識するのは、「ぶす」の正反対に位置する「可愛い」女の子像を発見したときでした。大きな二重の目、すうと通った鼻筋、口角の上がった桃色の唇……自分と同じように「ぶす」であるクラスメイトのみさちゃんが理想とするヒロインの姿であり、思春期を迎えた男の子たちにモテモテの「可愛い」すずこちゃん。彼女たちの顔が「可愛い」とされるならば、その対極にいる者は、「ぶす」だ! 自分が「ぶす」であることをはっきりと自覚したきりこは、その日から鏡を見ることをやめ、人の目を避け自室に篭もり、つらい現実から逃れるために眠り続けるようになります。ラムセス二世をはじめとする猫たちだけが、きりこが笑顔を向けられる相手でした。彼らにとっては、きりこが人間界で「ぶす」だと言われていることなど、まったくどうでも良かったのです。

 きりこは、自分が「可愛い」女の子になれないことに苦しんでいるのではありません。「自分」はどこまでいっても「自分」であり、ほかの誰かになることは不可能なのだということを、きりこはよく分かっていましたし、何より彼女自身がそうして生きていくことを望んでいませんでした。「きりこの体はきりこのもの」。だから、大好きな、自分の体と心が一番よろこぶ、可愛いお洋服を着て外を歩きたい。しかし彼女にぶつけられるのは、「ぶすのくせに」という心ない言葉ばかりでした。きりこのそんな姿が、そんな思いが、周囲から受け入れられないということに、彼女は絶望していたのです。

 長い間、部屋に篭もっていたきりこ。しかし、十八歳になった彼女に、外の世界へ出て行くことを決意させる、ある出来事が起こります。それは、同じ団地に住む、ちせちゃんという女の子が、強姦の被害にあったことでした。きりこはそれを夢の中で知ります。脚の間から血を流して「私は望んでいない」と泣く彼女を、どうにかして助けたいと、きりこは四年ぶりに太陽の降り注ぐ外へと出て行きます。ラムセス二世と、たくさんの猫たちを引き連れて。

 セックスが大好きなちせちゃんは、自分の欲求を満足させるために、出会い系サイトを利用していましたが、相手はきちんと選び、「生理中はセックスをしない」「避妊具を必ずつける」といったルールを決めて、安全な性交を楽しんでいました。そんななかで、ある男が、「生理が始まったからしたくない」という彼女の言葉を聞かず、無理やりに挿入をしてくるという事件が起こります。ちせちゃんはそれを「レイプである」と警察や周囲の人々に訴えますが、挑発的な服装の、「ヤリマン」と噂される彼女の言うことを、誰も聞いてはくれません。出会い系サイトを利用して、不特定多数の異性との性交に励んできた、自分の体を大切にしてこなかったちせちゃんが強姦されるのは、「自業自得」だというのです。

 きりこは、必死に周囲と闘うちせちゃんについて、このように話します。「セックスをたくさんしてるから、体を大切にしてへん、のやなくて、ちせちゃんは、自分の体が何をしたいのかをよく分かってて、その望む通りにしてるんやから、それは、大切にしてる、ていうことやと思う。自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらんと思うから。」それはきりこ自身が、自分に対して言い聞かせた言葉でもありました。

ぶすって、何だ。

誰が決めたのだ。目が大きいのがいいって誰が? 顎の下がなだらかなのは、美しくない? では、美しさとは? 誰が決定する? 誰が?

 露出の多い服を着ていれば、ただちにレイプされるのか? レイプをされれば、心を奪われたことになるのか? セックスが好きなのは、自分の体を大切にしていないこと? 体の欲求に素直なことは、「自分を大切に」していると、言えないのだろうか?

 ふたりは約束をします。「自分」の欲求に、従うこと。思うように生きること。誰かに「おかしい」といわれても、「誰か」は「自分」ではないのだから、気にしないこと。

 きりこは、決して「きりこ」のことを否定しません。「ぶす」なきりこも、可愛いお洋服を着たいと思うきりこも、誰が作ったのかも分からない「基準」に傷つけられたきりこも、そして、「ぶす」な自分のことが大好きなきりこも、そのぜんぶが「きりこ」なのです。「可愛く」ならなければいけない、「ぶす」だから可愛いお洋服は着てはいけない、正しい「基準」に従わなければならない、「ぶす」のままの自分に、満足してはいけない。そんなふうに、誰もが心の中に抱えてしまう呪縛から、きりこは自由であろうとします。彼女はとてつもない「ぶす」ですが、「ぶす」の自分を受け入れ、愛することができました。しかし、きりこが「ぶす」の自分を否定していたら、どうでしょう。自分自身を「ぶす」という「基準」で否定するということは、同様に「ぶす」である誰か、「基準」にそぐわない誰かを、そのまま否定することにも繋がってしまいます。

 ではそもそも「自分」ってなんなのだろう? 数え切れないほど多くの要素――生まれ持ったもの、自らの手で選び取ったもの、そして誰かから押し付けられたもの――が、これ以上ないほど複雑に組み合わさって作られるものではないでしょうか。しかもそれは、刻一刻と変化し続けている。容姿も立場も考え方も、そのときどきで驚くほど簡単に変わってしまいます。そう考えると、誰が作ったのかも分からない外側の「基準」に判断をまかせようとするのは、あまりにも窮屈で乱暴なことだというのが分かります。そしてその「基準」というのも、実際のところ、時代や環境などのさまざまな都合で形を変えていく、不確かなものに過ぎません。「自分」にも「他人」にも、そして「基準」にも、「正しい」姿というものはないのです。だからこそ、いまここにある「自分」というものが、自分とは違う要素の組み合わせである「他人」に、そして社会の「基準」に受け入れられるという保証など、どこにもありません。

 「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」きりこの言葉は、ある意味とても孤独です。自分のことを本当に知っていて、受け入れられるのは、ただひとり自分だけ、ということなのですから。しかし、ひとりひとりが孤独であるということは、ばらばらで不確かなひとりひとりの存在が、確かに認められているということです。

 「ぶす」のきりこは今日も、大好きな、ふりんふりんの可愛いお洋服に身を包みます。誰が何と言おうと、それはきりこの心と体が、何よりよろこぶことだから。そして、そのことを本当に知っているのは、ほかならぬ「きりこ」なのだから。

 きっとこの小説を読み終わるころには、読者は「ぶす」という言葉の意味を見失っていることでしょう。そこには、ふりふりの黄色いドレスを纏い、ラムセス二世を腕に抱いて、がちゃがちゃの歯をこぼして笑うきりこの姿が、燦然と輝いているのです。

(餅井アンナ)

「GLITTER」でセックスについて熱く語るノンスタ井上に、絶望しか感じない

夏の雑誌セックス特集3連発! ラストは、海外セレブ大好きファッション誌『GLITTER』です。

昨年の同誌セックス特集
セックスのため女はここまでしなきゃいけないの!? もうひとつのセックス特集

 今年は「LOVE & SEX特集 待ってるだけじゃ、ダメ」と銘打たれた特集。ハイ、ここでもLOVE=愛が出ました~。でも、『an・an』の“愛”とは意味が違うように感じます。海外セレブへの恋愛事情にも興味津々、その交際ぶりも憧憬の対象となる同誌では、「恋人がいる、愛されている」ことが、その人のステータスを高めると解釈されているように見えます。ミランダ・カーは元々かわいいけど、オーランド・ブルームと結婚した彼女はもっと素敵。離婚も経験したけれど、富豪と婚約してまた輝きを取り戻した……みたいな。「LOVE=それが加わることで、自分の価値を高めてくれる」アクセサリー的なもの、という印象を受けます。『an・an』での“愛”は美化されながらも、それによって自己承認欲求を満たされたいという願望が透けて見えています。どちらにしろ、本質とはズレまくっているんですけど。

「待ってるだけじゃ、ダメ」という積極性を感じさせるサブタイトルは、男の身勝手さに100%寄り添って女性の自己犠牲を促す昨年の同特集からの大きな転換を予感させます。が、メインとなる【アラサー女子たちのリアルなセックス事情】の読後感はスッキリしないものでした。

「あなたからSEXを盛り上げる工夫はしている」への問いにYESと回答した女性は全体の約8割。そうだよね~、昨年の同誌では男たちのマグロ女フォビアが炸裂していたから、女性からアレコレ仕掛けないといけないってことだよね~。と思って、個別の回答を読むと、意外にもテクニック的なものはなく、コミュニケーション面での努力が多く見られます。

 続く「セックスを楽しくするのは女のテクニック次第だと思う?」にも、7割近くがYESと回答。そこでは「受け身ばかりではダメ、伝えるから楽しくなる」という模範的回答がありつつも、「何も知らないふりもやさしさのひとつ」「チャンスを与えて決定権を譲る」など、“セックスでは男を立てろ”神話を内面化した意見も見られました。そしてこのページにおける結論は、「盛り上げるために工夫し、女性がさりげなくリードしていることを、男性に悟られないよう配慮するなどの努力」を称えるもの。誌面から目を上げ、積極性っていったい何なの……と空(くう)を見つめずにはいられません。

セレブのセックス語録は名言ぞろい

 その後は、謎企画が目白押しです。【春画のような『色恋にあこがれて!】(東京では昨年12月、京都でも今年4月に終了している「春画展」に乗っかった企画を、いまさら……?)や、バーレスクダンサーに習う【フェロモンUP確実のセクシー仕草Lesson】(それよりも日常的な立ち居振る舞いをきちんとしたほうが、よほどセクシーではないですかね。取って付けたようなエロ仕草って下品になりかねない……)などなど。

 しかし、【美力も恋力もアップ♥ セレブたちのハッピーSEXライフ!】はたいへん楽しく読めました。ディタ・フォンティーヌのようなもともと性的魅力で支持を得ている人だけでなく、ビヨンセ、ケイト・ハドソン、リタ・オラなどトップスターが堂々とストレートに自身のセックスライフ、セックス観について公言しています。そこには受け身、自己犠牲、奉仕的なセックスはありません。主体的にセックスを楽しんでいる様子が伝わってきて、すがすがしい! 19号モデルやR&Bシンガーの「結婚するまでセックスはしない」発言もありますが、決して保守的なものではなく、みずから育んできたセックス観に基づく自己決定によるものだとわかります。

 日本では、セックスライフを公言するタレントさんはほとんどいません。交際をオープンにしても結婚していても、まるで「セックスなんてしていません~」という顔をすることを求められます。いま露出の多い、ぺこ&りゅうちぇるさんにしても、“性のにおいがしない”からカップル売りできるのでしょう。または、上戸彩さんのように既婚者となっても“清純派”を求められ、妊娠したらしたで、やれ仕込まれた日はいつだの、やれ巨乳から爆乳になっただの、ゲスな目で見られてゴシップとして消費されるだけ。こんな状況では、性衝動があってパートナーとセックスライフを愉しむひとりの人間である、と発言するのは無理ゲーです。

とはいえ、実は本誌でも日本のタレントがセックスを語っています。【Sexy Hot Guy 真夏の灼熱メンズボディ】としてタレントのユージさん、モデルの森豪士さん、そして芸人のNONSTYLEの井上裕介さんがセミヌードを公開し、インタビューに応えています。ただし、最初の2名は“俺のボディ”について語っているだけなので、セックスについて踏み込んだ発言をしているのは、井上氏だけ。あれ? 彼って『an・an』でもセックスについて語っていたよね! 井上氏のセクシーショットとセックス論にどれだけの需要があるか私には皆目わかりませんが、彼がこの夏、“性的存在”としてゴリ押しされていることはたしかです。

『an・an』ではピース綾部祐二氏との対談ですが、そこでの発言と本誌での発言を比べると、彼のセックス観がさらに具体的に浮かび上がってきます。

◎ノンスタ井上のお粗末なセックス論

●女性の積極性について
GLITTER=「第一回大会(=ふたりのあいだでの最初のセックスの意)から全力を出していこうぜ」
an・an=「(出会ってすぐセックスすることによって)嫌いになることは絶対にないです。ただ、“セフレ関係でいるのがラクでいいわ”と思われて、付き合えない可能性はありますよ」

●ベッドの上で女性がすべき努力とは?
GLITTER=「できる限り努力している姿に男は感動するんです」「女性は男性より順応力があると思うんですよ。同調して相手に染まることができるでしょ、いい意味で」
an・an=「誤解を恐れずにいうと、身体の快感だけを考えると、自分が大の字に寝て女性が気持ちよくしてくれるのが理想」「前戯うんぬんは脳的には気持ちがいいですけど、身体的な快楽としては気持ちよくない」「スキャンするように、僕の身体を上から降りてきてほしい」

●セックス時の反応について
GLITTER=「いつまでも恥じらって男がそれに対して満足しないんだったら、目の前の好きな男を逃すことにもなります」
an・an=「(あえぎ声は)自分で“ヤバい”と思って、口をおさえてるくらいが、男はかわいいと思うんじゃないかな」

……なんとまぁ二枚舌感満載です! 片方で積極的に行動しろといいながら、もう片方で積極的すぎと男は引く、というその矛盾。そして、彼がいう“積極性”は女性の一方的な奉仕のようです。男性が受け身だって何ら問題ないですが、彼の場合は「ひたすら女性の“努力”を期待し、自分は寝っ転がってサービスを受けること」なので、それは受け身ではなく、ただの身勝手です。記事中では「風俗にいったことはない」とドヤ感を漂わせながら語っていますが、その真偽はともかく、あなたのお好みの“セックス”は対等な関係の女性ではなく、風俗店で金銭と引き換えにやってもらうのがいいんじゃないですかね、と誰もが思うでしょう。

「盛り上げるために工夫し、女性がさりげなくリードしていることを、男性に悟られないよう配慮」することを推奨する本誌と井上氏とは、たいへん好相性です。これに賛同できない女性にとっては、ひたすら気持ち悪い、ってだけの話。本誌で唯一、セックスについて語っている日本のタレントがこんなお粗末な状態、ってほんと絶望しか感じません。女性タレントがセックストークをする日はまだまだ遠そうですね。

■ 桃子
オトナのオモチャ約200種を所有し、それらを試しては、使用感をブログにつづるとともに、グッズを使ったラブコミュニケーションの楽しさを発信中。著書『今夜、コレを試します(OL桃子のオモチャ日記)』ブックマン社。

“子宮作家”瀬戸内寂聴の問題作『花芯』~園子に宿る空虚な悪女性と「お花畑」な男たち

◎瀬戸内寂聴が文芸誌から干された小説

瀬戸内寂聴の小説を原作とした映画『花芯』(安藤尋監督)が、全国公開された。『花芯』が『新潮』(新潮社)に発表されたのは1957年。60年近く前の作品だ。ストーリーは、親が決めた許婚・雨宮(林遣都)と結婚した主人公の園子(村川絵梨)が、雨宮の上司・越智(安藤政信)と恋に落ち、不倫関係になるというもの。現代としてはありきたりな主題のようにも思えるが、発表当時としてはその性的描写も含めて衝撃的だったのだろう。

「花芯(かしん)」とは、中国語で子宮を表す言葉。同作では、子宮という言葉が多用されているため、当時の批評家から厳しい批判を浴び、以後数年、作者は文芸誌での活動を中断せざるを得なかったという。“子宮作家”のレッテルまで貼られたというから手厳しい。

作者は雑誌『婦人公論』(中央公論社)2008年4月7日号のインタビューに、「批評家は一斉に私小説だと誤解した」と批判の理由について分析している。もしくは、「こんなことを言う批評家はインポテンツで女房は不感症であろう」という、いささか度が過ぎた反論が火に油を注いだのかもしれない。いずれにしても、“私小説の主人公”としての園子は、反道徳的な「悪女」とみなされた。

そして、発表から60年が経った2016年。女の不倫が珍しくなくなった現代において、園子はありきたりの女になってしまったのかというと、そうではない。「サイゾーウーマン」(2016年8月5日付)に掲載された安藤監督へのインタビューでは、「この映画を見た男性の中には『園子のことがわからない』という方が多かった」という問いかけに対し、「彼女のことが『わからない』という男は、おそらく園子のことが怖いのかもしれません」と回答している。

「怖い」の方向こそ違えども、60年前にしろ、現代にしろ、園子を怖れる男たちの感情には変わりない。不倫がありきたりになった現代だからこそ、かえって園子の悪女性が際立つ。

◎からだじゅうのホックが外れている感じだ

なぜ、男たちは園子に恐怖を覚えるのか。それは、園子が驚くほど「なにもやっていない」からだ。女学校時代に教師の畑中と秘密の関係を持った際も、雨宮と結婚した際も、画家志望の正田に言い寄られた際も、園子は自分から能動的な行動に出ていない。そんな園子を越智は「きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ」と表現している。

越智と不倫関係に至る程ですら、雨宮に気持ちを伝えていないのにもかかわらず、雨宮は「みなまで言うな」とばかりに園子の気持ちを察して、不倫への手はずを整えていく。

こうした唐突な展開に観客は違和感を覚えたかもしれないが、原作でもだいたい同じだ。むしろ、映画のほうが親切に描写しており、原作のほうが「なにもやってなさ」が際立つ。その「なにもやっていなさ」が、同作を現代にも通じる文学作品たらしめていると言える。

原作では、畑中を巡って、こんな描写がある。若い男の欲情と、少女の好奇心により二人は肌を触れ合わすのだが、決して“行為”には及ばない。若い男にとっては、拷問に近い状況だ。しかし、畑中はそんな状況に耐え、園子の「純潔」を守る使命感から、「どんなに苦しくても何もしない。きみはきれいにしておかなければ……」と絞り出すように言う。

さて、園子少女は、そんな畑中に惚れ直しでもしたのだろうか。現実はそんなに甘くない。

「私はふきだしそうになった。男の身勝手さ、畑中というこの男は軽率にも、私を愛していると錯覚しはじめたのだろうか」

一生懸命に我慢した割には、さんざんな言われようである。

しかし、「園子は冷たい」と感じるのは、筆者が男だからであろう。「お花畑」とは女の心象を形容する言葉として使われがちだが、舞い上がっているのは若い女と密事を重ねるうちに軽率にも本気になってしまった畑中のほうで、園子は欲望、好奇心と愛の間にある一線を冷静に見つめているのだ。畑中は、脳内で勝手に園子少女との物語を作り上げていたのである。

◎園子が覗いてしまった無意味な「空洞」

園子は、夫の雨宮に対しても辛辣である。つつましやかで、おっとりしていて、純潔な「雨宮が育て上げた空想の園子」になりすますのは簡単だと、園子はうそぶく。ただぼんやり座っているだけで、雨宮が勝手に夢を見てくれるというのだ。なんて楽勝な男なんだ、と。

雨宮は勝手に純潔だと思っているが、園子はセックスこそしていないものの、畑中のほかにも男を知っており、その処女は偶然の成り行きで守られてきたに過ぎない。そんなことも知らない雨宮は、結婚初夜に「ぼくは童貞だよ。園ちゃんのために、守りとおしてきた」といらんことをのたまってしまう。同じ男として、これほど見ちゃおれん状況も珍しい。

結局、越智も含めて園子の周りの男たちは、ほとんどなにもしていない園子の態度に勝手に意味付けして、解釈を加えていただけなのだ。男たちにとって園子は巨大な空洞であり、その空洞の前で足がすくんで、なんらかの意味や解釈で埋めなければ恐怖でいてもたってもいられなくなる。

そして、空洞を埋めるために用意された意味や解釈は、男にとって都合のいいお花畑なものばかりだ。意味や解釈のない不確かなものに耐えられない男の堪え性のなさ、とでも言うべきだろうか。しかし、往々にして人生に意味なんてないのであって、どうしてだか園子は幼少からそれに気がつき、達観してしまっている。だから、男も社会も馬鹿に見える。

そんな園子にとって唯一確かなものが、「子宮の快楽」である。しかし、「愛しているからこそ気持ちいい」といった意味付けがなされない快楽は、快楽そのものをフラットにしてしまう。そこにあるのは、意味も解釈もない空洞、ただの快楽である。園子が越智と覗いたという、人間が見てはならない「深淵」とは、どこまでも底のない無意味な空洞だった。

さて、ここで一つ大きな問題がある。

映画『花芯』のパフンフレットを確認してみると、「わたし、覗いちゃいけない深淵を覗いてしまったの」と、深淵を覗いた主語が園子と越智から「わたし」の一人称に変えられているのだ(パンフレットに文章を寄せた映画活動家・松崎まこと氏もここに注目している)。

原作でも越智が園子の覗いた深淵を理解している描写はないため、安藤監督の解釈を筆者は支持する。現実に意味を加える男を軽蔑する園子だったが、園子が不倫してまで求めた越智も、他の男と大差はなかった。越智さえも、園子に意味を見出そうとしたのである。

やはり園子は、男にはわからない。わからないからこそ、危険で魅力的な「悪女」なのだ。

■ 宮崎智之
東京都出身、1982年3月生まれ。フリーライター。連載「『ロス婚』漂流記~なぜ結婚に夢も希望も持てないのか?」、連載「あなたを悩ます『めんどい人々』解析ファイル」(以上、ダイヤモンド・オンライン)、「東大卒の女子(28歳)が承認欲求を満たすために、ライブチャットで服を脱ぐまで」(Yahoo個人)など、男女の生態を暴く記事を得意としている。書籍の編集、構成も多数あり。

映倫を直撃! 日本で公開される映画が性表現に保守的なのは「検閲」されているからなんですか?

成人年齢を20歳から18歳に、という民法改正案が来年の通常国会で提出されるらしい。また、今年は選挙権年齢を従来の20歳から18歳に引き下げるという、大きなニュースもあった。性風俗店を利用できるのも、そこで働けるのも18歳から。その一方で、喫煙、飲酒が認められるのは依然として20歳から。「大人」と「子ども」の境目は時と場合によって前後するが、映画の世界では18歳はもう大人。R18+指定の映画を観賞できる。

 話題の映画がR18+指定だと聞けば、多くの人は「過激な作品なのだろう」と思う。濃厚なセックスシーンがあるのか、残酷な暴力シーンがあるのか、もしくはドラッグを扱うシーンがあるのか。現在、日本で劇場公開される映画のほとんどは次の4種類に区分されている。

 G……誰でも観賞できる
 PG12……12歳以下の児童の観賞には、助言・指導が必要
 R15+……15歳以上が観賞できる
 R18+……18歳以上が観賞できる

 これを決定するのが「映倫」という機関であることは一般常識レベルだが、その実態はあまり知られていない。筆者は性表現を含む映画を好んで鑑賞するが、R18+だと期待していたのに肩透かしを食わされることもある。一体、どういう人たちがどういう基準で区分しているのか。その人たちは性表現に厳しい目を向け、ちょっとでもあからさまな描写があると、「ダメダメ、これじゃ上映を許可できないよ!」と表現の自由に圧力をかけてくる、とても保守的な“検閲的”機関ではないのか。

 そんな疑問を直接ぶつけるべく、東京・銀座にある映倫こと「映倫管理委員会」を訪ねた。迎えてくれた平山達郎さんは審査員のひとり。

平山達郎さん(以下、平山)「検閲的だなんて、とんでもない! 映倫は世界的に見てもめずらしい、民間の第三者機関。強制力はまったくないんです。それどころか特に性愛描写については、公権力と戦ってきた歴史があります。そして私たちの基準は絶対的なものではなく、時代の要請に合わせてフレキシブルに変わっていることを知ってほしい」

 日本映画の審査は、脚本の段階で行われる。が、それはあくまで自主提出。国内で制作される映画がすべて映倫の審査を受けなければならないという決まりはない。

平山「私たちはまず脚本を見て、こちらから『これはPG12指定ですね』『こうした描写があるなら、R18+指定になりますよ』といったことを伝えます。それが映画会社の意に添わないときは協議の場を持ち、『ここをこうした表現にすれば、R15+になりますよ』のような提案します。双方の合意が得られて初めて、区分が決まるんです。こちらから一方的に押しつけることはできないんですよ」

◎性表現に変革をもたらした2つの事件

 映倫の歴史は、前身である映画倫理規程管理委員会(旧映倫)がGHQの指導のもとに設立された1949年から始まる。戦時中は“国策”として戦意を高揚させる映画以外は認められなかった。映画の制作、内容に対して政府の意向が反映するのを避けることこそ、旧映倫の使命だった。

 審査対象となるのは、何も性愛描写だけではない。暴力、宗教、人権、差別……と多岐にわたるが、しかしその歴史のなかで最も問題視され、映倫自体の存在意義が問われたのは、どう見ても性愛描写関連だ。

 旧映倫による修正第一号は、谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を映画化したもので、ヒロインが肉感的に誘惑するシーンが多すぎるがゆえだった。その後もストリップ映画、バスコン映画(バースコントロールの重要性を説く性教育映画……のふりをしたエロ映画!)、かの石原慎太郎原作『太陽の季節』を筆頭とする太陽族映画などなど、手を替え品を替え性愛描写のある映画が登場するため、一般映画とは別に“成人映画”という区分が設けられた。

平山「その成人映画の上映をめぐって各地での上映反対運動や、警察の介入が頻発し、旧映倫への批判がピークに達しました。それを受け“新生・映倫”、つまり現在まで続く映倫が設立されたわけですが、じきにピンク映画や日活ロマンポルノが大ブームとなります。それにともない、大手が製作する映画にもキワドイ描写が見られるようになりました」

 最盛期の1965年には、邦画長編452本のうち188本が「成人映画」指定されたという。ちなみに2015年にR18+に指定された作品は60本。いずれも成人映画専門の映画会社によるものだ。

 そうした時代の流れからして、1969年に【黒い雪事件】、1972年に【日活ロマンポルノ事件】が起きたのはむしろ当然のことといえる。

平山「この二つの事件における映倫の姿勢が、表現の自由をめぐって権力と戦ってきたわれわれの存在意義性を象徴しています。前者では、ヒロインが全裸で疾走するシーンが問題になりました。いまの感覚なら猥褻とも思わない人が多いレベルのものです。後者では4本の作品が問題視され、監督、配給会社だけでなく、映倫の担当審査員も起訴されました。いずれも刑法175条に抵触し、猥褻物の陳列を幇助したというのが起訴内容です」

 警察の目的は、明らかに見せしめ。「映画界のポルノ傾斜に対する警鐘的効果をねらった」という記録もある。それに対して映倫は一貫して表現の自由を主張した。映画業界も全面的に、映倫を支持。後者の事件では8年に及ぶ裁判を戦っている。

平山「そもそも、刑法175条の“猥褻”の定義がとても曖昧ですよね。同じ事象を見ても猥褻に感じるか否かは、人によって違います。結果、どちらの事件も映倫は無罪でした。特に『日活ロマンポルノ事件』では東京高裁で、映倫の審査機能、自主規制機関としての真摯な努力が認められたんです」

 しかしその反動で、「性器、恥毛を描写しない」など従来よりもはるかに厳しい審査基準が加わることになる。

平山「でも、それも1991年に公開されたフランス映画『美しき諍い女』をきっかけに変わります。この映画では何人もの女性モデルが全裸で映しだされるシーンがあります。そこに、猥褻の意図はありません。それまでは描写主義だったので、どういう意図があろうが、ヘアが映っていたら即アウト。それが、『性器恥毛は原則として描写しない』に変わりました。この『原則として』がいかに大事か。主題、題材、文脈を考慮したうえでセーフになるヘアもある、としたことで“ヘア緩和”と報道され、大いに話題となりました」

◎R15+とR18+の性表現はどう違う?

 時代とともに変わってきた映倫の性愛描写における審査基準、平山さんは「年々ゆるくなってきている」という。いまやR15+の映画でもヘアヌードOKとなっている。

平山「でも、セックスにおける表現において、体位やエクスタシーの表現の仕方、時間的長さ、回数には慎重さが求められるのがR15+です。これがR18+になると激しい体動や性器愛撫、挿入、オーラルセックス、射精などを擬似により強く連想させるシーンもOKとなります」

 この「擬似により」は、映倫にとって譲れない一線である。

平山「成人映画といわれた時代から、ピンク映画も日活ロマンポルノも“ポルノ”ではないんですよね。当時の制作陣は、濡れ場があっても本気で映画を撮っていました。そこでは当然、ストーリー性が重視されます。ここでいうポルノとは、ストーリー性がなくただ本番行為を見せるだけの作品です。映倫では、ストーリーのない作品は区分適用外。これは性愛にかぎっての話ではなく、ただ暴力を映し出すだけとか、“表現”のない作品は基本的に映画とは別なものです」

 だんだんとオープンになってきたとはいえ、日本では映画における性愛描写が諸外国に比べまだまだ保守的だ。

平山「私たちは外国映画の審査もしますが、性に対する価値観は国によって大きく違います。特にフランスはすごいですよね。その国でどんな年齢区分がされていても、日本では独自の審査基準で区分を決めます。保守的といわれれば、それは否定しません。これは邦画、外国語映画にかぎったことではないですが、映画業界からも『映倫の感覚は、10年遅れている』とよく指摘されるんですよ。何しろ、映倫内に8名いる審査員の平均年齢が高いですからね」

 と笑う平山さん。しかしこれには理由がある。

平山「私たちの審査は、社会通念を大事にしています。デリケートな問題については法律や人権、教育の専門家に問い合わせることもありますが、基本的には、一般の大人、子どもがこれを見たときにどう感じるか。基準はありますが、ひとつひとつの作品を見てその文脈のなかで判断していかなければなりません。だからこそ審査員には、映画業界でのキャリアと人生経験を積んだ“資質”が求められます。また、先ほどお話したとおり区分は最終的に映画会社と審査員の話し合いで決めるので、パワーゲームで押し切られない……要はナメられないように、ってことです(笑)」

 個人的には「もっと若い感覚を」と思わないわけでもないが、特に青少年に与える影響を考えると、その場の「このぐらい、いいじゃん」というノリで決めるものではないということだろう。

◎チャレンジングな作品も増えている

平山「性表現も暴力シーンも、大人は自己判断で観てくださればいいんです。観る側にも責任はありますから。問題は、年少者にどれだけ刺激、影響を与えるか。映画関係者からは『映倫は検閲的だ』という声も聞かれますが、そこは慎重であってしかるべきです。……でも実際は、映画会社がR18+に区分されるのを避け、最初から自主規制してくるケースがほとんどなんですけどね。というのも、R18+の映画は多くの劇場が上映しないし、広告宣伝もしにくいから。全国公開できず小規模な劇場での上映となると、商業的に厳しい状況といわざるをえません。しかも性愛描写に関していうと、いまはネットに刺激的なものがあふれている時代。映画の範疇での表現に魅力を感じる人は少ないのでしょう」

 性的に過激な表現があっても、それだけでは価値を見出されない時代である。まして、映画ではそこに1800円を払ってもらわなければならない。映画会社が自主規制で保守的になるのは無理からぬことだ……が、「映画には、チャレンジングな表現がない」となるのも、それはそれでつまらない。

平山「性愛ではないですが、長らくPG12までの映画しか作ってこなかった東宝が、最近はけっこう刺激的な台本を申請してくるようになりましたよ。2012年に公開された『悪の教典』がR15+指定だったのにヒットしちゃったから。未成年の学生が大量に殺される内容だと、2000年の『バトル・ロワイアル』もR15+指定でした。あちらは社会問題までなりましたけど、いま観るとまだまだおとなしいもんです」

 表現の自由と、それに対する規制。そのせめぎ合いはおそらく終わることがない。個人の感覚に委ねられることの多い“猥褻”だが、批判を受けながらも映倫がひとつの基準を提示し、判断を下すことで守られていることは実は多い。今後それがどう変化していくか。よりオープンになるのか、または息苦しいものとなるのか……それは社会、引いては私たちひとりひとりの感覚に委ねられている。

参考資料:映倫管理委員会『映倫50年の歩み』(2006年)

(三浦ゆえ)

映倫を直撃! 日本で公開される映画が性表現に保守的なのは「検閲」されているからなんですか?

成人年齢を20歳から18歳に、という民法改正案が来年の通常国会で提出されるらしい。また、今年は選挙権年齢を従来の20歳から18歳に引き下げるという、大きなニュースもあった。性風俗店を利用できるのも、そこで働けるのも18歳から。その一方で、喫煙、飲酒が認められるのは依然として20歳から。「大人」と「子ども」の境目は時と場合によって前後するが、映画の世界では18歳はもう大人。R18+指定の映画を観賞できる。

 話題の映画がR18+指定だと聞けば、多くの人は「過激な作品なのだろう」と思う。濃厚なセックスシーンがあるのか、残酷な暴力シーンがあるのか、もしくはドラッグを扱うシーンがあるのか。現在、日本で劇場公開される映画のほとんどは次の4種類に区分されている。

 G……誰でも観賞できる
 PG12……12歳以下の児童の観賞には、助言・指導が必要
 R15+……15歳以上が観賞できる
 R18+……18歳以上が観賞できる

 これを決定するのが「映倫」という機関であることは一般常識レベルだが、その実態はあまり知られていない。筆者は性表現を含む映画を好んで鑑賞するが、R18+だと期待していたのに肩透かしを食わされることもある。一体、どういう人たちがどういう基準で区分しているのか。その人たちは性表現に厳しい目を向け、ちょっとでもあからさまな描写があると、「ダメダメ、これじゃ上映を許可できないよ!」と表現の自由に圧力をかけてくる、とても保守的な“検閲的”機関ではないのか。

 そんな疑問を直接ぶつけるべく、東京・銀座にある映倫こと「映倫管理委員会」を訪ねた。迎えてくれた平山達郎さんは審査員のひとり。

平山達郎さん(以下、平山)「検閲的だなんて、とんでもない! 映倫は世界的に見てもめずらしい、民間の第三者機関。強制力はまったくないんです。それどころか特に性愛描写については、公権力と戦ってきた歴史があります。そして私たちの基準は絶対的なものではなく、時代の要請に合わせてフレキシブルに変わっていることを知ってほしい」

 日本映画の審査は、脚本の段階で行われる。が、それはあくまで自主提出。国内で制作される映画がすべて映倫の審査を受けなければならないという決まりはない。

平山「私たちはまず脚本を見て、こちらから『これはPG12指定ですね』『こうした描写があるなら、R18+指定になりますよ』といったことを伝えます。それが映画会社の意に添わないときは協議の場を持ち、『ここをこうした表現にすれば、R15+になりますよ』のような提案します。双方の合意が得られて初めて、区分が決まるんです。こちらから一方的に押しつけることはできないんですよ」

◎性表現に変革をもたらした2つの事件

 映倫の歴史は、前身である映画倫理規程管理委員会(旧映倫)がGHQの指導のもとに設立された1949年から始まる。戦時中は“国策”として戦意を高揚させる映画以外は認められなかった。映画の制作、内容に対して政府の意向が反映するのを避けることこそ、旧映倫の使命だった。

 審査対象となるのは、何も性愛描写だけではない。暴力、宗教、人権、差別……と多岐にわたるが、しかしその歴史のなかで最も問題視され、映倫自体の存在意義が問われたのは、どう見ても性愛描写関連だ。

 旧映倫による修正第一号は、谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を映画化したもので、ヒロインが肉感的に誘惑するシーンが多すぎるがゆえだった。その後もストリップ映画、バスコン映画(バースコントロールの重要性を説く性教育映画……のふりをしたエロ映画!)、かの石原慎太郎原作『太陽の季節』を筆頭とする太陽族映画などなど、手を替え品を替え性愛描写のある映画が登場するため、一般映画とは別に“成人映画”という区分が設けられた。

平山「その成人映画の上映をめぐって各地での上映反対運動や、警察の介入が頻発し、旧映倫への批判がピークに達しました。それを受け“新生・映倫”、つまり現在まで続く映倫が設立されたわけですが、じきにピンク映画や日活ロマンポルノが大ブームとなります。それにともない、大手が製作する映画にもキワドイ描写が見られるようになりました」

 最盛期の1965年には、邦画長編452本のうち188本が「成人映画」指定されたという。ちなみに2015年にR18+に指定された作品は60本。いずれも成人映画専門の映画会社によるものだ。

 そうした時代の流れからして、1969年に【黒い雪事件】、1972年に【日活ロマンポルノ事件】が起きたのはむしろ当然のことといえる。

平山「この二つの事件における映倫の姿勢が、表現の自由をめぐって権力と戦ってきたわれわれの存在意義性を象徴しています。前者では、ヒロインが全裸で疾走するシーンが問題になりました。いまの感覚なら猥褻とも思わない人が多いレベルのものです。後者では4本の作品が問題視され、監督、配給会社だけでなく、映倫の担当審査員も起訴されました。いずれも刑法175条に抵触し、猥褻物の陳列を幇助したというのが起訴内容です」

 警察の目的は、明らかに見せしめ。「映画界のポルノ傾斜に対する警鐘的効果をねらった」という記録もある。それに対して映倫は一貫して表現の自由を主張した。映画業界も全面的に、映倫を支持。後者の事件では8年に及ぶ裁判を戦っている。

平山「そもそも、刑法175条の“猥褻”の定義がとても曖昧ですよね。同じ事象を見ても猥褻に感じるか否かは、人によって違います。結果、どちらの事件も映倫は無罪でした。特に『日活ロマンポルノ事件』では東京高裁で、映倫の審査機能、自主規制機関としての真摯な努力が認められたんです」

 しかしその反動で、「性器、恥毛を描写しない」など従来よりもはるかに厳しい審査基準が加わることになる。

平山「でも、それも1991年に公開されたフランス映画『美しき諍い女』をきっかけに変わります。この映画では何人もの女性モデルが全裸で映しだされるシーンがあります。そこに、猥褻の意図はありません。それまでは描写主義だったので、どういう意図があろうが、ヘアが映っていたら即アウト。それが、『性器恥毛は原則として描写しない』に変わりました。この『原則として』がいかに大事か。主題、題材、文脈を考慮したうえでセーフになるヘアもある、としたことで“ヘア緩和”と報道され、大いに話題となりました」

◎R15+とR18+の性表現はどう違う?

 時代とともに変わってきた映倫の性愛描写における審査基準、平山さんは「年々ゆるくなってきている」という。いまやR15+の映画でもヘアヌードOKとなっている。

平山「でも、セックスにおける表現において、体位やエクスタシーの表現の仕方、時間的長さ、回数には慎重さが求められるのがR15+です。これがR18+になると激しい体動や性器愛撫、挿入、オーラルセックス、射精などを擬似により強く連想させるシーンもOKとなります」

 この「擬似により」は、映倫にとって譲れない一線である。

平山「成人映画といわれた時代から、ピンク映画も日活ロマンポルノも“ポルノ”ではないんですよね。当時の制作陣は、濡れ場があっても本気で映画を撮っていました。そこでは当然、ストーリー性が重視されます。ここでいうポルノとは、ストーリー性がなくただ本番行為を見せるだけの作品です。映倫では、ストーリーのない作品は区分適用外。これは性愛にかぎっての話ではなく、ただ暴力を映し出すだけとか、“表現”のない作品は基本的に映画とは別なものです」

 だんだんとオープンになってきたとはいえ、日本では映画における性愛描写が諸外国に比べまだまだ保守的だ。

平山「私たちは外国映画の審査もしますが、性に対する価値観は国によって大きく違います。特にフランスはすごいですよね。その国でどんな年齢区分がされていても、日本では独自の審査基準で区分を決めます。保守的といわれれば、それは否定しません。これは邦画、外国語映画にかぎったことではないですが、映画業界からも『映倫の感覚は、10年遅れている』とよく指摘されるんですよ。何しろ、映倫内に8名いる審査員の平均年齢が高いですからね」

 と笑う平山さん。しかしこれには理由がある。

平山「私たちの審査は、社会通念を大事にしています。デリケートな問題については法律や人権、教育の専門家に問い合わせることもありますが、基本的には、一般の大人、子どもがこれを見たときにどう感じるか。基準はありますが、ひとつひとつの作品を見てその文脈のなかで判断していかなければなりません。だからこそ審査員には、映画業界でのキャリアと人生経験を積んだ“資質”が求められます。また、先ほどお話したとおり区分は最終的に映画会社と審査員の話し合いで決めるので、パワーゲームで押し切られない……要はナメられないように、ってことです(笑)」

 個人的には「もっと若い感覚を」と思わないわけでもないが、特に青少年に与える影響を考えると、その場の「このぐらい、いいじゃん」というノリで決めるものではないということだろう。

◎チャレンジングな作品も増えている

平山「性表現も暴力シーンも、大人は自己判断で観てくださればいいんです。観る側にも責任はありますから。問題は、年少者にどれだけ刺激、影響を与えるか。映画関係者からは『映倫は検閲的だ』という声も聞かれますが、そこは慎重であってしかるべきです。……でも実際は、映画会社がR18+に区分されるのを避け、最初から自主規制してくるケースがほとんどなんですけどね。というのも、R18+の映画は多くの劇場が上映しないし、広告宣伝もしにくいから。全国公開できず小規模な劇場での上映となると、商業的に厳しい状況といわざるをえません。しかも性愛描写に関していうと、いまはネットに刺激的なものがあふれている時代。映画の範疇での表現に魅力を感じる人は少ないのでしょう」

 性的に過激な表現があっても、それだけでは価値を見出されない時代である。まして、映画ではそこに1800円を払ってもらわなければならない。映画会社が自主規制で保守的になるのは無理からぬことだ……が、「映画には、チャレンジングな表現がない」となるのも、それはそれでつまらない。

平山「性愛ではないですが、長らくPG12までの映画しか作ってこなかった東宝が、最近はけっこう刺激的な台本を申請してくるようになりましたよ。2012年に公開された『悪の教典』がR15+指定だったのにヒットしちゃったから。未成年の学生が大量に殺される内容だと、2000年の『バトル・ロワイアル』もR15+指定でした。あちらは社会問題までなりましたけど、いま観るとまだまだおとなしいもんです」

 表現の自由と、それに対する規制。そのせめぎ合いはおそらく終わることがない。個人の感覚に委ねられることの多い“猥褻”だが、批判を受けながらも映倫がひとつの基準を提示し、判断を下すことで守られていることは実は多い。今後それがどう変化していくか。よりオープンになるのか、または息苦しいものとなるのか……それは社会、引いては私たちひとりひとりの感覚に委ねられている。

参考資料:映倫管理委員会『映倫50年の歩み』(2006年)

(三浦ゆえ)