【エロメン☆タイム】月野帯人の背徳感&スリル満載! マン喫で始発まで…

 女性による、女性のための、女性が楽しいAV作品を数多くリリースしてきた、みんな大好き「SILK LABO」。今週もシルクラボ内の別レーベル「UNDRESS」作品をご紹介します☆ 今回は同レーベルの人気シリーズ『Hide&Seek』。〈Hide&Seek=かくれんぼ〉という意味の通り、「誰かに見られちゃう」「本当はダメなのに……」など、どの作品を見ても背徳感満載! さらに、最新作のシーズン3では、男性向けAVではありがちですが、女性向けでは初となる“漫画喫茶シチュ”。女性目線で マン喫セックスを描くと、こんなにもキュンポイントがあったのか! そんな唸りっぱなしの90分をチョイ出ししちゃいます。

◎始発待ち1時間半にはエロが詰まってた

 月野帯人&有馬芳彦が出演する「COME HERE」と、一徹&北野翔太が出演する「TO BE INFLUENCED」の2本立て。まずはツッキーパートを見てみましょう。同じアパレルショップで働くキョウセイ(月野帯人)とススム(有馬芳彦)とレイ(桜木郁)で飲みに行くと、ススムがベロベロに酔っ払ってしまい、始発までの1時間半を漫画喫茶で過ごすことに……って動画開始3分でストーップ!! なんと受付に現れたのは、我らが一徹。そう、本作は2本立てとはいえ、2つの作品が交差しているという何とも粋な演出なんです! 一旦このまま物語を進めましょう。

 受付するも、カップルシートとフラットシートの2部屋しか空いておらず、各部屋にレイとススムを入れて、キョウセイはオープンスペースへ行くことに。各々好きな時間を過ごしていると、キョウセイから「何してんの? こっちは周りオジサンばっか(>_<)」というメールがレイに届きます。

レイ「こっちは快適だよー!」
キョウセイ「いいなー」
レイ「広いよー!!! きちゃう~?」

 なんて「お、もう合流するのか!」と思わせるやり取りだったのですが、キョウセイからは「こら!笑」とのメールが届きます。レイに個室を譲って自分はオープンスペースを選んだり、誘われてるのに部屋へは行かない……いつもと違って紳士でクールなツッキーにドキドキ☆ というのも、どうも2人は、お互いに気になる存在っぽいのですが、なかなか一歩を踏み出せない関係なのです。

◎極狭空間での極上セックス

 その後、2人は漫画コーナーやトイレの前で遭遇します。「もしかして俺のことつけてる?」なんて照れ隠しを言いつつも、どことなくいい感じの雰囲気に。するとキョウセイは「何かこういうのいいね」「レイちゃん可愛い」とトイレ前で壁ドン!!! そのまま周りを気にしながらキス、キス、キス。ずっと足踏みしていた2人はもう止まりません。しかし、そこへスタッフがトイレの清掃にやってきて……ってまたストーップ!! この清掃員をよく見ると、エロメン・北野翔太ではないですか! 2度目の交差シーンに「TO BE INFLUENCED」が気になるところですが、このままイきますよ~。

 スタッフから慌てて隠れ、キョウセイは「ねえ、そっち行ってもいい? 始発まで後30分くらいだし。ちょっとだけ……」と、ついにお誘い! もちろんレイも了承し、2人でカップルシートに移動。やったね☆ ススムが寝ている部屋の隣で、手を繋ぎながら「本当は早く2人きりになりたかった」「私も……」と甘~い言葉を囁きながらキスを交わし、身体を重ねます。

 部屋は極狭にも関わらず、お互いに愛撫し合い、抱き付き騎乗位→騎乗位→正常位と体位を変えて夢中で感じる2人……終始声を押し殺す姿には濡れます。さらに最中には、寝ているススムが寝言を言ったり、もう一方の部屋にお客さんが来たりとスリル満点です! そして発射後は、キョウセイが上から覆いかぶさる体勢でイチャイチャしているのですが、密着状態で“あごクイ”まで! SILK LABO様、ありがとうございます。

 最後、退室するシーンにて再度一徹が登場。そのまま「TO BE INFLUENCED」がスタートするのですが、一徹演じるワタルはキョウセイとは対照的な“ドエロ店長”。同僚のアイコ(京野明日香)にちょっかいを出しまくります! 別作品に登場する2カップルが、どちらにとっても良いスパイスとなる『Hide&SeekⅢ』。ぜひ続けてご覧くださいまし!

女性器に固定し、カップルで気持ちよくなる。不思議な玩具の実力とは?

 ラブグッズにはときどき、「どうやって使うの?」と脳内がクエスチョンマークでいっぱになるものがあります。バイブレーターは膣に挿入するためにそれなりの形をしていなければならないので、それほどでもないのですが、ローターの世界は実に自由です。トップ画面の青い物体、これを見て使用方法を即答できる方がいたら、心からの拍手を送ります。

『モンスターズ・インク』のキャラクターのようなこの物体。いくら頭をひねってもわかりませんでした。でも、悔しさはありません。正解を知ったときの私の気持ちは、「その発想はなかった!」のひと言に尽きるからです。女性器に装着して使う、ローターなのです。

 スイッチボタンをクリトリスの真上に当て、両サイドに伸びている腕のような部分でもって、性器にセットします。こうするとハンズフリー、女性の両手は自由になります。ってことは、女性専用オナニーグッズと思われるかもしれませんが、そもそもはカップルでの使用を想定して開発されたものです。つまり、これをセットしたまま、ふたりで繋がっちゃいましょう、と。

 カップルユースのグッズといえば、↓のようなU字型が定番です。片方を膣に挿入し、もう片方は恥骨に添わせます。その状態で、男性が入ってくれば、ふたりで振動を愉しめる……というのが、その使い方。

 欧米ではいろんなブランドがこのタイプを販売していますが、日本ではまだ馴染みがないですね。慣れるまでは、挿入に手間取ったり、挿入後に異物感があったり、男性が振動に不慣れなせいでくすぐったがったり、というふうに、使いこなすのがむずかしい、という声も多く聞かれました。ローターとペニスのダブル挿入はナシ、でもふたりで振動を分かち合いたい……という願望へのひとつのアンサーが、この「eva」なのです。

◎さっそく試してみました!

 むちゃくちゃ好奇心を刺激されるこのグッズ、さっそく試したい! ということで、パートナーに手渡し、上図を見せながら説明しました。

 まず、私のクリの上にevaを置きます。すると、彼がやにわに、もう片方の手で私の大陰唇をひょいとつまむじゃないですか! 驚く私を気にかけもせず、evaの腕部分に大陰唇をかぶせようと彼は四苦八苦しています。思わず笑ってしまいました。まるでevaの肩に上着をかけるような、その手つき。とてもユーモラスです。

 大陰唇のひだのあいだに腕をはさむようにして固定するのは、存外にむずかしいことでした。大陰唇ってフニャフニャとして柔らかいですよね。ゆえに、なかなか定まってくれない……。evaの腕部分はは可動するので角度や幅を調整して、なんとか落ち着いた、と思ったら今度はクリトリスからズレてしまうので、ハイ、もう一度やり直し!

 いつまでたっても挿入までたどり着きませんが、この過程がなぜだか妙に楽しいのです。性器を見られるのは恥ずかしくて抵抗がある、という女性は多いでしょう。私も、自分から「見て見て!」と思ったことはありませんし、明るいところでまじまじとのぞき込まれるのは、どれだけ慣れた相手であっても羞恥心を刺激されます。でも、このときはevaという存在をあいだにはさむことで、性器を見られることが「恥ずかしいこと」ではなくなっていたのです。

「あ、またズレた!」
「このへん?」
「もうちょっと上……かなぁ」

と、やいのやいの言い合っているうちに、見られることが平気になってきました。こうしたあけっぴろげなやり取りは、淫猥さがないくてエロくないといわれるかもしれません。特に男性誌ではそういう言説が見られますよね。自分が恥ずかしくもなんともないシーンで恥じらいを求められるのは迷惑ですが、自然発生的で適度な恥じらいはセックスにおいてスパイスになることは私も知っています。

 でも、それはそれ、これはこれ。一度オープンになったからといって、二度と恥じらいを感じないということはなく、同じ「性器を見られる」という行為でも、シチュエーションが違えば恥ずかしいと感じるでしょう。

一方、明るいなかですべてを見せ合い、それによって生まれた親密な空気のなかでするセックスが、恥じらいのあるセックスより劣るということはありません。evaがうまく固定されず、ケラケラと笑いながら何度もトライして、ようやく「これならデキそう!」という位置を見つけ、そろりそろりと挿入して、繋がったときにまた笑いあう。エロティックなムードには欠けるかもしれませんが、そんなセックスをする日があってもいいじゃないですか。

 挿入したらしたで、また試行錯誤がはじまります。evaがズレないようにするにはお互いに上半身を密着させるのがいちばんですが、彼の体重がかかりすぎるとクリトリスに押し当てられる力が強すぎて、私がギブアップ。も、上体を離してピストンをすると、せっかく固定されていたevaが振動とともにズレていく……。どうすればこのevaのポテンシャルを引き出せるかを探るのは、ふたりの共同作業です。

◎セックスへの関わり方を変える

 結果、この日は、私が手でevaを軽く抑えながらというスタイルに落ち着きました……それって、ふつうのローターと一緒じゃん? おっしゃるとおりです。もっとウマい方法があるはずなのに、簡単にはたどり着けないもどかしさ。evaのことが、親しみやすいモンスターズ・インク系ではなく、たやすくはコツをつかませてくれない小悪魔系に見えてきました。が、短いあいだとはいえ固定されているときのクリトリスへの振動の伝わり具合はたいへんよろしいので、今後もトライする価値はあると感じました。

 たくさん会話しながらの、笑いながらの、試行錯誤しながらのセックス。それなりにつき合いが長いと、そうそう新鮮なことってありませんし、新鮮さを求めるとなるとつい過激なプレイに走りがちですが、こんなふうに親しみやすさに転じるという方法もあるのですね。「ラブグッズは所詮、道具」といつもいっている私ですが、evaはまさにそのための〈道具〉でした。

 もちろん、最初からうまく使いこなせたカップルには、別の快感をもたらしてくれます。カップルごとに使い心地、感じ方は違ってくるでしょう。道具がセックスそのものを変えることもありますが、このevaに関しては、セックスに向けての態度やお互いへ関わり方を変えてくれのです。探求しがいのあるローターとして、今後も活用していきたいです。

■桃子/オトナのオモチャ約200種を所有し、それらを試しては、使用感をブログにつづるとともに、グッズを使ったラブコミュニケーションの楽しさを発信中。著書『今夜、コレを試します(OL桃子のオモチャ日記)』ブックマン社。

オナラをしても、ギリギリのラインで愛したくなる男『俳優 亀岡拓次』と、男たちのワイルド願望

近年、『問題のあるレストラン』(フジテレビ)や『下町ロケット』(TBS)などで活躍する安田顕さんの主演作『俳優 亀岡拓次』は、脇役ばかりを演じている俳優、亀岡拓次の物語で、現場から現場を転々とし、撮影が終わると酒を飲むのが楽しみという彼の日常を描いています。

終始良い意味でのなんでもない脇役俳優の日常が描かれるのですが、ときおり荒唐無稽な架空の映画の話が出てきたり、急にその中に亀岡が入り込んだりして、絶えず現実と虚構の間を揺れてるようなところが、印象に残る作品です。映画の中に出てくる海外の巨匠的な映画監督が「私にとって映画とは、船酔いみたいなものだ」という台詞を言うシーンがあるのですが、実際、映画や演技って、そういう感覚のものなのかも……と思ってしまいました。

そして、この映画をみて思ったことは、「オナラって男にとって何なんでしょうね」ということでした。

女性は人前でオナラをしたら、なかなかメンタル的に復活できないけれど、男性が、それもある特定の種類の男性がオナラをしても、なにか勇猛なイメージが強くなるだけでノーダメージだったりします(もちろん、昨今はダメージ受けるほうの男性もいますが)。「男も女も同じであってよいのだから、女子がオナラを恥ずかしがる必要はないのでは?」と捉え直そうとしても、不可抗力であったり、健康面に影響を及ぼさない限りは、個人的には人前でオナラはしたくないものです……。

安田顕さんという人は、『俳優 亀岡拓次』の中で、オナラをかましますが、それは、安田さんのアドリブだそうです。実際の安田さんも、イベントでオナラを20発するという挑戦をしたこともあるくらいで、オナラがノーダメージのタイプの人かと思います。映画ナタリーでは「『俳優 亀岡拓次』横浜聡子が語る“俳優 安田顕”の魅力はオナラ芸」という記事まで書かれるほどだから、安田さんのオナラは「汚い」と評判を落とすより、むしろ称賛されています。

◎世界への反抗としての「オナラ」

映画の中では、トイレでマネージャーからの電話を受け終わった亀岡がオナラを一発。それは、マネージャーの依頼に素直に応じながらも、ちょっとした反抗を示しているようにすら見えました。

個人的に前々から思っていたことですが、人前でオナラをするといった、下品と思われることをあえてしたり、あるいは無精ひげを生やす、だらしない格好をするなど、小汚くなろうとするということは、ある種の男性にとって、「ワイルドでありたい」というアイデンティティのひとつを表しているのではないでしょうか? 国内外の端正な顔の映画俳優が、自分の殻を破ろうとするときにワイルド路線を選ぶのも、「汚くなりたい願望」のひとつだと思います。

そして亀岡は、オナラだけでなく、吐くし、漏らすし、ゲップはするしで、とにかく何かを体からただ漏れにしていて、汚くありたい願望を強く持っているように感じられるキャラクターです。つまり亀岡も「ワイルドでありたい」というアイデンティティを持っているように一見思われます。

ところが、亀岡自身の性質はというと謙虚で、「ワイルド」という言葉からイメージされるような「押しの強い人」ではありません。いつも控えめで、酒場で俳優をしている自慢をするような人物でもないし、現場で理不尽なことがあっても、文句ひとつ言わず、情けなく眉を細め、トホホ……という表情をするだけ。こんな姿を見ていると、いつも我を出さない亀岡の、たった一つの世界への反抗が、げっぷをしたり、オナラをしたりすることなのではないかとすら思えてきます。

◎ギリギリのラインをついた監督・横浜総子

こんなげっぷやオナラばかりの映画、本当だったら、女性が喜ぶはずがないですよね。もちろん、映画はオナラやげっぷばかり出てくるというわけでもありません。でも、亀岡というキャラクターの要素だけを抜き出して見ると、そこまで女性にも受けるところがあるようにも見えないのに、なぜか愛らしく見えてしまう。そこには、何か秘密があるように思うのです。

原作は映画よりも、男だけで完結した世界観を感じます。もちろん原作にも「亀岡拓次って無骨だけどいいところあるなー」と思える場面もあるのですが、それは男受けそうな感じであって、女受けしそうにはありません。

映画のほうが、女性にも受け入れやすいのは、もちろん原作の亀岡のイメージよりも、安田さんのほうが容姿や立ち振る舞いが洗練されているということはあるでしょう。でも、それ以上に、横浜聡子監督の、セリフの取捨選択が、女性にも受け入れやすくしていた気がするのです。

それを感じたのは、麻生久美子さん演じる居酒屋で働く安曇と、亀岡のシーンでした。亀岡は、居酒屋で流れているテレビで、「ある女性宇宙飛行士が、妻のいる恋人の男性をスパナで殴って逮捕された」というニュースを見ます。07年にフロリダで起こった事件をネタにしているものと思われるのですが、「その宇宙飛行士は、不倫相手を暴行しに行くにあたって、長時間自分がトイレに行かなくて済むようおむつをつけていた」と。

そのニュースをきっかけに始まるある会話は、映画版では、安曇が「寂しくなったらまた飲みにきてくださいよ」というと、亀岡は「ええ行きますよ、おむつはいて」と返し、安曇はそれを聞いて、ケラケラと明るく笑い飛ばすにとどまります。そして、帰り際、「またきますね、おむつ穿いて」と亀岡がいうと「スパナをもって?」と返す。そして亀岡が「いいえ、花束持って」というシーンになっています。

ところが、原作では、亀岡が「おむつ穿いてこようかな」というと、安曇は「おむつ取り換えてあげますよ」と返す。その後も、亀岡は、おむつをつけているときの具体的な話を続け、花束という言葉が出てくることはありません。

同じシーンでほぼ同じことを描きながらも、横浜監督が省き、そして付け加えた部分は、かなり女性の受け取り方を変えたと思います。安曇が「取り替えてあげますよ」とまでいうのは、亀岡にとっては嬉しいことなのかもしれないけれど、個人的には、そこまで言わせるのも無粋に感じます。「スパナを持って?」とか「花束持って」というのは、原作で描かれている本来の亀岡には言えないセリフかもしれませんが、映画版ではそれが言えてしまう亀岡に変わったからこそ、女性が見ても、ギリギリ嫌な感じがしないのではないかと思ったのです。それに、映画の中の亀岡は、安曇の前ではゲップもしないし、くしゃみも上品すぎるほどでした。

原作の亀岡にも、映画の亀岡にも、ちょっとワイルドでいたい、ちょっと汚い存在でいたい、それが本当の(男としての)自分だという思いは共通しているように思います。でも映画の亀岡は、それを女性には決して押し付けない。それだけで、こんなにもさわやかに見えたりするものかと、この映画を見て気づかされました。

この映画の亀岡の行動は、自分が欲望を持つことと、人に押し付けることは別という意識があるのかもしれません。そんなちょっとの線引きが、亀岡が女性に生理的に嫌悪を抱かせる人間じゃなくてむしろギリギリのラインで魅力的に見えることにつながっているのではないかと思ったのです。

西森路代
ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクショ ン、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、 TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。

早漏彼氏に、いくら「満足している」と伝えても無駄かもしれない

彼とのセックスに不満はないが、彼は早漏だと気にしてる…私にできることは?

<モモさん>23歳/独身女性

 3年前から付き合っている9歳年上の彼氏について相談です。彼は最近早漏になってきていることで悩んでいるようで、「すぐイッちゃってごめん」と言ってきます。

 私としては、「最近早くなったなあ」とは思っていたのですが、前戯もしっかりやってくれるし、挿入もできているので満足しています。

 彼には「そんなことないよ」「全然気にしないで」と伝えてもまだ気にしてるっぽくて、ゆっくり動いたり挿入時間を短くするなど、彼なりに試行錯誤しています。

 私にも何か協力できることはないでしょうか? 私は何も不満じゃないことはわかってくれているとは思うので、彼自身がもっと遅くなりたいのかなあと思います。だからといって、そこまで遅漏になられても困るんですが……。アドバイスよろしくお願いします。

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 モモさんが彼とのセックスに満足している一方で、彼は早漏気味なことを気にしている状況って、実際モモさんにとっては全く不都合がありませんよね。それでも、「私にも何か協力できることはないでしょうか?」だなんて……彼への愛情に溢れていますね! メールを拝読して、ほっこりとした気分になりました。

 本題についてですが、モモさんもお気づきのように、彼は「早漏だとモモさんが満足しないかも」と考えているというよりも、彼自身がもっとイクまでの時間を長く保ちたいという部分が大きいのだと思います。

 「彼氏は『そのままの体型でいいよ』と言っているにも関わらず『ダイエットしなきゃ』が口癖の彼女」と似たようなもので、パートナーのためではなく、自分の納得のいく結果を目指しているのではないかと。モモさんは、たまにでいいので「いまのままでも自分は満足している」と彼に伝え続け、彼が早漏改善に励む姿を暖かく見守っているだけでいいと思います。あとは、少しでも挿入時間を長く保てた際に「今日はいつも以上に長く楽しめたね♡」などと言ってあげれば、彼は「自分の求めているものに近づけている」と感じ、2人のほっこりムードが高まるんじゃないでしょうか。

 また、彼が早漏改善に努めた結果、遅漏になってしまわないか心配しているようですが、まずは彼が現在目指している理想の挿入時間を聞いてみましょう。それが思った以上に長かった場合は「自分は○分くらいが限界で、それ以上長くなると楽しめなくなるかも」と伝えておくのもいいかもしれません。そうすれば、彼はモモさんが困るほどの長時間挿入を目指すことはないんじゃないでしょうか。とはいえ、人間の体っていつどう変化するかわからないものなので、彼の努力関係なくイクまでの時間が変化する可能性もありますが……。

 ただ、モモさんの彼のようなタイプが重度の遅漏になったとしたら、今度は「なかなかイケなくてごめん」と早くイクための努力をしそうな気もします! そうなったらまた優しく見守ってあげればいいと思います。

やっぱり「上流老人・曽野綾子」の暴言を許容してはいけない

 本サイトを読まれる方が日頃手にすることがないであろうオヤジ雑誌群が、いかに「男のプライド」を増長し続けているかを、その時々の記事から引っ張り出して定点観測していく本連載。

 これまでの連載回で、意外にも俎上に載せてこなかったのが曽野綾子の発言。彼女の暴論垂れ流しエッセイが、オヤジ雑誌のプライド保持に有効活用されて久しい。ネットを回遊している人ならば、彼女の乱暴な言葉を指摘する声に何度も接してきたことだろう。それでもまだオヤジ雑誌は「ここはやっぱり曽野先生に言ってもらおう」と申し出ることを止めない。

 最新の素材は、「週刊ポスト」(2016年2月12日号/小学館)に寄せられた「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」だ。このタイトルおよび記事内容に苛立った多くの読者が「アナタにそっくりそのままお返しするよ!」という声を投げていたが、気の利いた返し方だとは思えない。「高齢者は適当な時に死ぬ義務などない」と、根っこから問い質したいからである。つまり、曽野だって適当な時に死ぬ義務があるとは思わない。誰だってそう簡単に死ぬべきではない。選択肢を奪ってはいけない。

 ところで曽野は、自分自身の直言が、表紙でどのような記事と隣り合っているかご存知なのだろうか。すぐ隣にあるのは「死ぬまでSEX 『金髪エロ動画』大研究 乳房が違う!アソコが違う!愛撫が違う!フェラが違う!……(下記略/あと6つほど「○○が違う!」が続く)」である。死ぬ義務を忘れずに死ぬまでSEXに励む、とはいかなる状態なのか、こちらが若輩者だからなのだろうが、なかなか見えてこない。切羽詰まっていることだけはわかる。

「“下流老人”を苛めているなんて、とんでもない。人は働ける限り働くというのが健全なんです。“お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に”という『桃太郎』の始まりの部分がそれを示しているじゃないですか」

曽野綾子(作家)/「週刊ポスト」(2016年2月12日号)

『働きたくない者は、食べてはならない』(ワック)という著書までお持ちの曽野。彼女の著作を、律儀に拝読してきた身としては、今回の記事に記されている見解などまったく目新しくない。今の老人たちがあらゆる権利を行使し、それらに依存しながらいつまでも生き続けることに対しての違和感を書き連ね、それらを自身がアフリカで見聞きした貧困の人々などと照らしながら、「甘えている」という結論に持ちこむのは曽野の手癖である。今回の記事では、「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』年寄りは浅ましい」(見出しより)とし、このような「~倒す」という表現を用いるような状況にある現在を「薄汚い表現」「自分の美学がない」と言い切っている。

 曽野のような弁舌はいかなる事態を生むか。たとえば、高齢者世帯の受給が約半数を占める生活保護への誤解。生活保護基準以下の世帯で、実際に生活保護を受給している世帯数の割合を「補捉率」と呼ぶが、日本の補捉率は諸外国と比べてもいつまでも低いままだ。生活保護に向かう、「ラクして生きようってのか」的なイメージや「税金に頼るなんて恥」的なスティグマがこの低さを維持させてしまう。彼女のエッセイは常に自分の記憶、自分の周囲の人から得たエピソードから導き出されるが、書き進めていくうちに規模が膨らんで、いつの間にか対象が「最近の老人」「最近の若者」「最近の女性」と大きなスケールに至っていることが多い。

 書いているエッセイを先に進めるためにその飛躍が便利なのは分かるが、「最近の~」を「使い倒す」ことで、貴方の視界に入らない人たちが、踏ん張ることができなくなるかもしれない。曽野の例え話をそのまま使わせてもらうと、お爺さんが山へ柴刈りに行くだけでは、お婆さんが川へ洗濯に行くだけでは、到底、生活を維持することができなくなってきたことを問題視しているのが、昨年来の「下流老人」を巡る言説なのである。

 曽野はこの少子高齢化の時代に「国民全員が死ぬまで働かなければならないとなるのは自然で、人道というものでしょう」とも言うが、それはさすがに人道に反するだろう。手ぐすねを引くように安穏とした年金暮らしを待ち構えているだけではいけないのは、これまた同じ号の「週刊ポスト」の見出しに「『60歳で貯蓄2千万円』では絶対足りない!」とあることからも分かる。とはいえ、(ありきたりな正論過ぎて、書くのが少々憚られるほどだが)たとえ働けなくても、お金がなくても、人は生き続けるべきだ。ましてや自分で歩みを止めたり、諦めたりするべきではない。20歳でも、50歳でも、90歳でも、当たり前に保たれるべきだ。

 こう言うと曽野は、「私はなにも死ねと言っているわけではない、そういう乏しい理解をしないで欲しい」、と返してくるだろう。しかし、大雑把に撒かれた直言は、すぐに貴方の手元を離れ、浮遊し、貴方の見ず知らずの人に付着して、身動きを取らせにくくする。私の真意ではない受け取られ方をした、というのが暴言を放つ度に聞かれる弁解だが、それは、自分の身を守ることにはつながっても、傷つけた誰かをフォローすることにはならない。モノを書くとは、確かに誰かを傷つける可能性を含むことではあるが、その無自覚がずっとずっと連鎖していることに気付いて欲しい。気付かないならば、その都度ご指摘申し上げるしかない。彼女の暴言はあまりの頻度に「また言ってるよ」で済まされるようになったが、それだけで済ませてはならないのだ。

◎特集「『下流老人』のウソ」

「Wedge」(2016年2月号/株式会社ウェッジ)

 「Wedge」は、自分とは無縁な雑誌である。なんたって、この雑誌の販路比率のうち、実に64%が「東海道・山陽新幹線グリーン車搭載」(「Wedge」媒体資料より)なのだから。キオスクなどでも買えるが、主たる読者はグリーン車に乗るビジネスマンであり、「実際に日本を前に進める各分野のエグゼクティブリーダー、ビジネスパーソンの目に、直接留まる雑誌」(同上)なのである。資料にある読者の「個人年収」のグラフを見ると、平均年収は1077万円であり、グラフの最低値はなんと「700万円以上1000万円未満」である。あれ、年収700万未満はグリーン車に乗っちゃいけないんだっけ……よく見ると小さな文字で「700万円未満は除外」と書いてある。不誠実な媒体資料だが、とにかく広告主に「金を持っている人が読んでいます」と印象づけたいのだろう。で、この雑誌が震災からわずか2年半後に組んだ特集は何だったか。「今こそ原子力推進に舵を切れ」(2013年9月号)である。目の前にカネと人間があるならば、真っ先にカネに飛びつくタイプの読者を想定している……とは決めつけたくないが、グリーン車の中で育まれる思考とはこういうものかと垣間見える。

 グリーン車ではなく、わざわざネットで取り寄せて「Wedge」最新号を開くと「『下流老人』のウソ」という特集が組まれている。通読すると、働き続けるシニア世代のルポなど読み応えのある記事も多いのだが、編集部員が記した特集の冒頭を飾る記事に主旨が詰め込まれている。その「高齢者の貧困は改善 下流老人ブームで歪む政策」という記事では、昨年売れた書籍、藤田孝典『下流老人』(朝日新書)やNHKスペシャル取材班『老後破産』(新潮社)といった、老人達の窮状を記した本に苦言を呈す。「高齢者の貧困率は改善傾向にあり、貧困化が進んでいるのはむしろ現役世代のほうである」とする「Wedge」の見解は正しい。しかし、実際には、高齢者の貧困「率」は改善傾向でも、少子高齢化によって貧困「者」は増えている。それに、下流老人への注目が集まったのは、貧困化が進んでいる現役世代がそのまま歳を重ねれば、いっそうの貧困状態を迎えるに違いない、との不安が大きいからだろう。

 だが雑誌読者としてカウントしない年収700万円以下の人たちを無視するかのように「Wedge」は「下流老人」ブームについて釘を刺していく。『下流老人』や『老後破産』での分析は「『○○さん(×歳)はこうして転落した……』とミクロの事象を積み重ねる」特徴を持ち、「足で稼ぐ取材活動は敬意に値するものだ。しかし、政策変更などの社会の変革を訴えるならば、ミクロの発掘とマクロの往復が欠かせない」との忠告。うん、それはその通りだ。でも、ミクロに気付かない振りをする人がいるから、議論が活性化しないのではないか。今年の1月半ばの参院予算委員会で、経済格差が広がっていることを野党から指摘された安倍首相は、「日本は貧困かといえば、決してそんなことはない。日本は世界の標準でみて、かなり裕福な国だ」と述べている。OECDの調査(2012年)で「相対的貧困率」が約16%になったことなどは、恣意的に頭から排除されているのだろうか。だからこそ、学者は、ジャーナリストは、ミクロの事例を追う。そして、その内情を伝える。「往復」を作り出せるのはミクロの提示があってこそではないのか。

 特集タイトルを「『下流老人』のウソ」とするほど内容は攻撃的ではない。しかし、世の流れから弾かれようとしている「ミクロ」を発掘する姿勢は、グラフから年収700万円未満を除外してしまう雑誌からは見えてこない。曽野綾子はアフリカでの事例を具材にして、日本の若者や女性の傲慢さを身勝手に造型して突いてくる。「働きたくない者は、食べてはならない」という彼女の発想と、「ミクロだけではなくマクロも見よ」という指摘は、合体するととっても大きな暴力になりかねない。ミクロの声が堂々と剥奪される。「えー、でも、ホントは働けばどうにかなるんでしょー、仕事選んじゃってんじゃないのー」、という声を浴びて、その窮状への無理解が深まってしまう。がさつな言い方になるが、上流老人はミクロの叫びを踏みつぶしすぎではないか。上流雑誌も然り。だからやっぱり、曽野が「働きたくない者は、食べてはならない」と言い続ける限り、私は「働いていない者だって、食べていい」と言い続けることになる。

■武田砂鉄/1982年生まれ。ライター、編集。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「マイナビ」「Yahoo!ニュース個人」「SPA!」「beatleg」「TRASH-UP!!」で連載を持ち、「週刊金曜日」「AERA」「STRANGE DAYS」などの雑誌でも執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。

触られない風俗、ソフトサービスという業種の難しさ

先日、「風俗店の体験入店を辞退したら『法的処置も考える』と脅された、とある風俗嬢の話」という記事で、転職先の風俗店を探していたときに引き起こしてしまったトラブルについて書きました。今回はどのようにして所属するお店を決めるのかを詳しく書きながら、いくつか面接を受けているうちに経験した「あれ? このお店、言ってることが求人情報に書いてあることと全然違うじゃん」というエピソード、いいお店と出会えたことで起こった自分自身の意識の変化についても書いていきたいと思います。

◎性感エステ店との出会い

私が初めて働いた風俗店はオナクラでした。プレイ内容は、男性客の自慰行為を見ているだけ、または手コキで手伝う。こちらの体に触られることはないという本当に風俗初心者向けのものです。

最初はそれだけでも抵抗はありましたし、知らない男性と二人きりで密室の中で過ごすことに対して「怖いな」とも思っていました。ただ、事情があってお金が必要でしたし、「この程度なら我慢出来る」と自分に言い聞かせて、この業界に足を踏み入れていきました。

その後、オナクラよりも高収入でなおかつソフトサービスのお店はないかと思って選んだ業種が性感エステでした。お店はいくつか移りましたが、それ以来ずっと性感エステという業種に従事しています。

性感エステ店の一般的なプレイ内容は、女性従業員がアロマオイルなどを用いて男性客に全身マッサージを施し、最終的に手コキなどで性的サービスを行うというものです。基本的に女性が受け身になることはなく、マッサージ主体のプレイ内容であることから、風俗業界の中ではオナクラと同じくソフトサービスに分類されています。ただ、お店によっては女性が脱ぐオプションがあったり、上半身へのタッチやキスはOKだったりと、プレイ内容に少し違いがあります。

私の場合、自分が受け身になるよりも男性客を攻めるほうが得意というか向いていると思うので、今所属しているお店も、今までも、男性客が女性の体に触れることを禁止とするお店で働いてきました。ただ、このように男性が完全に受け身のお店はそれほど多くはなく、探すときはとても苦労しました。

◎鵜呑みには出来ない風俗の求人情報

私がお店を移るときはいつも、紹介やスカウトは利用せずに自分自身で風俗専門の求人サイトなどを見て探します。

というのも、そもそも風俗の仕事をしている友人や知り合いがいないので紹介は期待出来ませんし、スカウトは何となく怖くて……。

風俗店はどこも集客のために新しい女性を求めているので、求人サイトには膨大な数の求人情報が載っています。某サイトでは全国で約6500件、関東だけでも約2800件あります。そのうち性感エステ店は約300件でした。

その中から、働くエリア、業種、給料など自分の求める条件のお店をサイトの検索機能を使って絞り込んでいくんですが、いろいろと条件をつけて絞り込んでも70件近くあったりして。

その検索結果を一つ一つクリックして条件やプレイ内容などを見ていくんですが、求人情報に書かれてある内容をそのまま信じて面接に行くと、「求人票に書いてあることと全然違うじゃん……」ということが何度かありました。

求人情報には、「脱がない、舐めない、触られない」と書かれてあったのに、実際に面接に行くと、「ソフトサービスのお店は稼げないからこっちで働いたほうがいい」と系列のヘルス店を勧められたり、「オプションでキス、オールヌード、フェラチオ、ソフトタッチがあるから。働いてる女の子は皆OKにしてるし、君だけNGにしちゃうとお客さんつかないよ」と言われたり……。結局は脱ぐし舐めるし触られるんですね、みたいな(笑)。

おそらくソフトサービスを売りにした求人広告を出せば、「これなら私でも働けるかも」と風俗未経験の女性の応募が増えるため、お店側にとっては業界に染まっていない初々しい女性を確保することができ、お店のコンセプトに合うように一から教育出来るというメリットがあるのだと思います。また、未経験女性の初々しい接客はお客さんにとっても新鮮で喜ばれやすく、指名も集まりやすいようです。

◎触られなくて済む風俗の難しさ

女性が受け身にならないで済むプレイ内容は、女性にとっては精神的にも肉体的にも負担が少なく、とてもありがたいのものなんですが、やはり目の前に下着姿の女性がいれば「触りたい」というお客さんがほとんどです。それを上手くかわしつつお客さんを満足させる努力が女性側には必要ですし、お店側もそれが出来る女性を育てていかなければなりません。でも、上手にかわすこと、出来る女性を育成することは困難であるため、何かしらのオプションをつけているお店が多いのだと思いますが……。

徐々にこのあたりの事情が分かってきてからは、面接に行って無駄足になることがないように、先にインターネットを使って自分なりに調べてから面接予約を取るようになりました。

求人サイトを見て気になるお店があれば、そのお店の男性客向けの営業用HPもチェックして、求人情報に書かれてあるプレイ内容と相違がないか、繁盛していそうかなどを見ていきます。求人情報には「女性が受け身になることはありません」と書かれてあっても、営業用HPにはキスやソフトタッチなどのオプションが記載されてあるということはよくあります。

逆に、「女性の体に触れることは禁止しています」とはっきり書かれてあれば、そのお店は男性が完全受け身のお店なんだなと判断出来ます。

このプロセスに従って実際に面接に行くお店を絞り込み、直接お店に連絡を取って気になる点やオプションの有無などをもう一度よく確認し、何も引っ掛かることがなければ面接予約をお願いします。

事前にこれだけ入念に確認しておけば、面接に行って「求人に書いてあることと全然違う」ということはほとんどありませんでした。

あとは、面接で採用してもらい、そのお店に馴染んで頑張るのみですが、お店のコンセプトと自分が合っていなかったり、スタッフとの相性が悪かったりすると、せっかく入店しても長続きしないので、何店舗か面接に行き、その中から一番自分に合ったお店に決めることが理想です。たとえば、在籍している女性が20代前半ばかりのお店にアラサー女性が入店してしまうと、「プロフィールに載せる年齢は……、22歳にしよっか」などと、無茶ぶりな年齢詐称を強いられてしまうこともあるからです(笑)。

◎いいお店との出会い

こうして自分に合うお店を見つけたら、そのあとはそのお店でしっかり稼いで、なるべく早くこの業界を辞めるのが理想だと思っていたのですが、私はかれこれ4年も続けてしまっています……。私は正直この仕事が好きではありませんし、「お金を貯める」という目的のためだけに続けているので、「早く稼いで早く辞めたい」と常々思ってきました。今もその考えに変わりはありません。

しかし、時々どうしようもなく仕事がイヤで仕方なくなってしまうときがあり、お店に行こうとしても接客のことを考えると吐き気がしてしまい、しばらく出勤出来なくなってしまうことが何度もありました。ソフトサービスのお店で働いているとはいえ、見知らぬ男性と二人きりになって性的なサービスを行うということは、私にとって決して楽しい仕事ではなく、ストレスも感じます。

お金のためと自分に言い聞かせてきたけど、お金のためにこんなにストレスを溜めて働くのはおかしいんじゃないのか、昼職でも努力してお金を貯めている人はたくさんいるのに自分は一体何をやっているのか、この先もずっと周りに風俗の仕事をしていることを隠したまま生きていくのか……。

自分の意思でしている仕事なのに、こうした思いに囚われて思い悩むことはしょっちゅうあります。幸い今は環境のいいお店で働けていますし、辞めたあとのキャリアについてもはっきり決めているので、卒業に向けて全力で頑張っているところです。

私のように周りに風俗勤めを隠している女性は多いと思いますし、特殊な仕事でもあるので、そのぶん精神的に病んでしまったりする子も多く、そんなときにスタッフが味方になってくれるお店は心強いです。心が折れそうになったときはゆっくり話を聞いてくれて、「しばらく休みたい」と申告すれば「元気になったらいつでも戻っておいで」と了承してくれ、目標を達成して卒業していく女性のことは温かく見送ってくれるスタッフがいるお店。

こういうお店なら女性も安心して働けて、前向きに卒業に向けてひた走れるのではないかと思います。

私も未来が見えなくてモヤモヤとしていた時期がありましたが、運良くいいお店、頼れるスタッフの人たちと出会えたので、今は「ここまで来たら中途半端に辞めたくない」、「風俗で働いたことをマイナスだと思ったまま生きていきたくない」と思っています。それに、業界に入る前は肩もみすらまともに出来なかった私が、お店のマッサージ講習のおかげで「お昼は普通のエステ店で働いています」としれっと言えるレベルまで腕が上達しました(笑)。

はっきりした数字は出ていないようですが、現在日本には約1万店の風俗店があるとされ、そこで働く風俗嬢は約30万人いると言われています。どうしてもネガティブなイメージがつきまとう業界ではありますし、実際に違法営業をしていたり、辞めたいと言った女性を脅して働かせるというようなお店も少なからずあるようです。

風俗業界にいる身としては、やはりそういうお店は無くなってほしいですし、一人でも多くの風俗嬢がいいお店と出会って、「嫌なことばかりだったな」と思って辞めるのではなく、「いい出会いもあったな」と前向きに卒業していってくれたらいいなと願わずにはいられません……。まだ現役の私が言うのもおかしい話かもしれませんが(笑)。
(朝比奈ゆきえ)

夫にONNを目撃されたのにスルー…蒸し返す必要はなし!

◎夫にオナニーを目撃された…夫は何も言ってきません

<洋香さん>31歳/既婚女性

 いつも楽しく読ませていただいています、セックスレス4年目の主婦です。

 夫とは学生時代から5年付き合って、いま結婚6年目です。「主婦です」と言いましたが、夫婦共働きで子供はいません。付き合っている頃は会う度にエッチしていましたが、結婚式の準備を始めた頃から会ってもしない日が増えていき、何となくしないのが普通になってしまいました。去年は一度だけしましたが、要するにセックスレスです。

 とはいえ、夫婦仲は良好です。私自身が欲求不満というわけでもないので、他の男性としたいとも思わないし、「夫からもっと求められたい」とか「求められなくて寂しい」とかもないんです。

 長くなりすみません。結婚前からセックスとは別で、ちょっとムラッとした時にオナニーをたまにしていて、ここ数年も変わらずたまにやっていました。そして先日の朝、寝室でしているところを夫に見られてしまったんです。しかも布団をかけておらず下半身ほぼ裸の状態だったので、完全に何をしている最中なのかバレバレで……。夫は黙って寝室のドアを閉めて、そのままお互い仕事に行きましたが、それ以来、ちょっと気まずいです。この話に向こうが触れてこない以上、私から何か言わないほうがいいんでしょうか。何か言うといっても、別に弁解とかも何もないんですが……。
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 私もオナニーをセフレに目撃されたこと、ありますよ! その時はセフレが「あー! オナニーしてたでしょー!」って明るくツッコんでくれたので、あまり気まずくなることもなかったのですが。

 あの瞬間って、本当にどうしようもないですよね。自分から「いや、これはなんでもない!」と言い訳するのもおかしな話だし、相手がオナニー中だと気づいていない可能性に賭けたい気持ちもあるし……。いろいろな考えが頭を駆け巡り、相手のリアクションを待ちながら冷汗が出ます。

 洋香さんのご主人は沈黙を守るタイプであったと。とはいえ、オナニー目撃事件からは少なくとも数日経っているでしょうし、特に蒸し返す必要はないと思います。

 洋香さんとご主人は、セックスレスでも仲良く暮らしているとのことで、きっと男女というよりは家族としての絆が深まっているんじゃないでしょうか。家族の性的な何かを目撃してしまった時って、見た側も見られた側も「なかったこと」にするのが一番の解決策だと私は思います。

 私は学生時代に父親にオナニーを目撃されるという最悪な事態に見舞われたことがありますが、父親も私もそれについて何も触れず……。しかしいまでも仲良しです。

 人間誰しも性欲はあるので、セックスではなくオナニーで手軽にスッキリしたい時もあります。家族と一緒に暮らしている場合、どうにか家族の目を盗んでオナニーをしようと試みますが、やっぱり一つ屋根の下で暮らしていれば、事故的に見つかってしまうこともあります。明らかに見られてしまう場所でオナニーを行うなどの迷惑をかけない限り、お互いの性欲を黙認しながらも仲良くいられるのが家族というものの良さなんじゃないでしょうか。

 とはいえ、オナニーを目撃された時のヒヤヒヤ感は、できればもう味わいたくないものですよね。鍵をかけたりして、見つからない環境でオナニーを楽しみましょう!

■Lollipop-Rumiko/通称ロリルミ。中学1年で済ませた初体験を皮切りにビッチ街道を突っ走ってきたが、ここ数年それに疑問を感じ始めている26歳。しかしまだ完全にビッチを卒業することはできず。好きな男性のタイプは、ちょっとSなクンニスト。最近の悩みは、夕方になるにつれてクッキリしてくるほうれい線と、過度の飲酒と白米の食べ過ぎによってできた腰回りのぜい肉。

【エロメン☆タイム】一徹の「我慢できない…」いじわるセックスに釘付け

 女性による、女性のための、女性が楽しいAV作品を数多くリリースしてきた、みんな大好き「SILK LABO」。前回お伝えした通り、今週もシルクラボ内の別レーベル「UNDRESS(裸)」作品をご紹介☆ 今回は、一徹、月野帯人、北野翔太が出演する『…because Egoist』。これまでのようなオムニバス形式ではなく、エロメン御三方がひとつのドラマに出演しているという、何とも贅沢な1本です!

 本作のテーマは「正論なんて、男と女の前じゃ無意味。そう簡単に道徳では縛られない」。暗黙の了解として存在する「セックスは恋人や夫婦がするもの」という概念を無視し、セックスの快楽や、それまでの駆け引きを楽しむ男女を描いています。

◎ヤリチンとヤリマンの華金

 『…because Egoist』の舞台は社員寮。レイジ(一徹)とリョウタ(月野帯人)は会社の同期で、寮では隣の部屋に住んでいます。特定の彼女は作らずに遊んでばかりいるアラサーのモテ男2人。そんなヤリチンの“とある金曜日の夜”――

 まず、目覚まし時計できっちりと目を覚まし、テキパキと支度を始めるレイジ。携帯アラームを止めて、寝ぼけまなこでアヤノ(愛原さえ)から来た「ていうかこないだのめっちゃよかったからまたしよ♡」というメールに「いいよ\(^o^)/寮くる?」と返信してベッドでごろごろするリョウタ。そう、この2人は同じヤリチンと言えど、性格は真逆なんです。

 そして出社後。アヤノと会社の喫煙所で2人きりになったリョウタは、再び「ほんとにおいでよ、うち」と誘うも、「だって寮じゃないですか」とやんわり断られます。でも「この前オフィスでもやりかけたくせに何言ってんの~」「ね、しよ?」とストレートに誘い続け、アヤノは照れながらもOKのような反応を示します。

 そんな2人は、その夜やはり合流。早いこと夜ご飯を済ませ、ご飯中もエロい話しかせず、「この後が楽しみだよ」なんて話しながら寮へ向かいます。この2人の手っ取り早く進む“ザ・セフレ”感、いいですね~。部屋に入るやいなやおっぱじまるんだろうな~、という予想はハズレ。お茶や写真、ペットや漫画の話で盛り上がっちゃいます。そんな自分たちの状況にアヤノは、「セックスしたことあるのに、こんな風にお互いのこと話すの初めてなんてウケますね」と笑い出し、リョウタも何か言いたげな表情。ただのセフレだった2人が、身体だけではない気持ちに気付いた……のでしょうか? その後は、何となくいつもより甘いキスを交わし、セックススタート。

 「おや? 恋人同士のような甘いセックスなのか?」と予想するも、またハズレ。「会社の人とセックスすると思うとすげー興奮する」「こないだはしなかったから、今日はバックでやろ~」などと、シルクレーベルのような恋人とのセックスとは違い、いろんなプレイを貪欲に楽しみます。とはいえ、最中には声を出して笑い合ったり、セックス後にはアヤノのおっぱいで遊んだりと、こんなセフレがいたら最高……と妄想が膨らみますよ。その後、アヤノは「他の人にバレるのは嫌」と夜中だろうとさくっと帰って、リョウタは寮の門までお見送りし「またしようね☆」とバイバイ……最後まで、気持ち良いほどにさっぱりしたセフレなのでした。

◎セックスまでの駆け引き

 一方レイジは、飲み屋でケイ(かすみ果歩)と食事デート。「久しぶりに会うと緊張するね」というレイジに「なんか酔いが早くなっちゃってるかも~」と甘えるケイ。その後、レイジは途中で腕時計を外し、終電を逃させる作戦を決行するも、ケイは終電を自ら逃します。

 そして、レイジは「変なことはしない」と言ってケイを家に誘い、ケイも悩んだ末に了承。階段や道で転びそうになる度にレイジに身体を支えてもらうと、「何もしないとか言って、ほんとは悪いことしようとしてるんじゃないですか~」とレイジの身体を指でツンッと押しちゃったり。何だかレイには小悪魔の香りがプンプン。

 部屋に入りエロバラエティを見ながら飲み直していると、隣の部屋からリョウタとアヤノがセックスしている声が……。堪らずレイジが「何もしないって言ったけど、キスしても良い?」と言ってキス、「キスだけって言ったけど我慢できない……」と言うと、待ってたかのように「え~、うそつき♡」と身体を預けるケイ。よーーーーやくセックススタートです。

 いざセックスが始まると、レイジはちょいちょいいじわるを仕掛けます。それに対するケイの反応は誰が見ても100点!!! そして、始発が出てから帰宅。レイジは手を繋いで駅まで見送り「また飲もうね」とバイバイ。

 その後、レイジと後輩のタカシ(北野翔太)とリョウタは、リョウタの部屋で飲み始めます。そこで昨夜の話が始まり、思いもよらぬ結末が……。

 同じ日にセックスを楽しんだ男女4人とはいえ、駆け引きや心情、その後の展開は十人十色。そのリアルな様子が細かく描かれていて、ドラマとして面白い作品です。筆者はケイから学びたいことが多々ありましたね。そして何より、エロメンキング・一徹のセックスは、いつ見ても素晴らしいの一言ですよ。参りました。

セックスにスピリチュアルな意味はいらない。まして母性はもっといらない

 気、カルマ、エネルギー……などなど、スピリチュアル的なワードにセックスを結び付けられると、途端に腰が引けてしまいます。

 代々木忠著『つながるーセックスが愛に変わるために』(新潮社)は、AV界の生ける伝説的な存在となっている同氏が、制作現場で目の当たりにした物事から、日本人のセックス観、時代によるその変遷をあぶり出し、セックスの本質を問う1冊です。

 氏のAVはセックスを通して男女の人間性をえぐり出す実験的な作品が多いといわれ、そのために接してきた女性は5,000人以上。半世紀以上にわたって男女の性と対峙してきたうえでの洞察は、さすがの説得力を感じます。「ザ・面接シリーズ」では、男優・一徹さんのエピソードも盛りこまれ、SILK LABOでブレイク前の一徹さんを知らない者としては、たいへん興味深かったです。

 ただ、ところどころスピリチュアル的要素が入ってくるのが引っかかって、うまく読み進められないのです。イク=オーガズムは〈自分を明け渡すこと〉というのはわからなくもないのですが、物理的な刺激だけでもオーガムは可能です。私は、日々ラブグッズでオーガムを経験しています。それは自分で自分を明け渡す行為、といわれるかもしれませんね。たしかに、オーガムは一種の開放感をもたらします。でも、それは精神的な感覚ではなく、むしろ我慢したうえで放尿するときの開放感に似ています。生理現象というと味気ないでしょうか。でも、「人間のなかにある見えない“気”のようなもの」=オーガズムであり、潮吹きである……と壮大な話にされると強い違和感を覚えるのです。

 心も満たされるセックスのほうが、気持ちいい。そこに異論はありません。バイブオナニーによる物理的な刺激もイイものですが、セックスで相手とともに高まるのは、物理的な快楽とはまったく別モノです。心の隅々にまで満足感が染みわたっていく感覚は、何度体験しても新鮮です。性欲は物理的な刺激で満たせますが、性交欲はこうした精神的な充足感なくしては満たせません。

◎スピなセックスは精神医学を上回る

 でもそれを、気とかエネルギーとか実体のないものに帰結したいとも思わないのです。「イキそうでイケない子が苦しそうな表情をするのは、外に出て相手と交じり合いたい『気』が、心をブロックすることでせき止められ、出る場所を探してもがき苦しんでいる」「その苦しさが最高潮に達したとき、出る場所を探していた『気』が潮吹きを誘発する」と、潮吹きというセックスにおいて不要なもの(どころか、女性にとっては迷惑でしかないもの)を、スピリチュアル的な到達点のひとつとして提示されるのは、弊害しか感じません。

 ほか、セックスの前に「催淫CD」を聴かせると、トラウマを刺激されてその女性が多重人格だと発覚したり、幼児退行がはじまったり……という下りには、辟易します。私自身が「催淫」というものに胡散臭さしか感じていない(ほんとうにそういうものができれば、ノーベル賞ものだと思っています。性欲減退障害、性機能障害に悩む多くの人たちに寄与できるから!)ので、そもそも強いバイアスがかかっているのですが、こうも精神医学的なことがセックスひとつで解決できてしまうとなると、眉ツバ感ばかりがむくむくと大きくなっていき当惑します。

 セックスで自己が損なわれることは多々あります。それとは逆に、セックスで開放される、あるいは自己を取り戻せることもあるでしょう。だからといって、そこまで万能だとも思えません。描かれている女性たちの一部は、催淫CDを聴かされて生じる役割期待に応えているだけのようにも見え、かえって痛々しくなりました。

 要は、スピリチュアルな色づけをしたり精神面をことさら強調することで、セックスと女性の身体、性を壮大で神秘的なものに見せることに、私は抵抗感があるのです。それは数々の宗教(カルト)がやってきたことでもあります。なかでも本書では、そうしたセックスの精神効果が行き着く先のひとつが「母性」とされています。出たよ、母性……。

「もっと深いオーガズムを体験すると、『愛/対人的完成』はさらに『母性』へと変容を遂げる」
「オーガズムを体験すると、感情の中ではエゴが取れ、体の中では新たなホルモンが分泌されて、心身ともに変化するということなのだろう。それが母性のスイッチを入れるきっかけになる」

 と持論を披露し、母親がAV出演でオーガズムを感じた途端、ちょっと遅れているのかなと心配していた子どもの発育が急に進んだり、子どもを授かったり、子宮筋腫がなくなったりした例が挙げられています。最後の筋腫については、母性は関係ないですね、失礼しました。にしてもオーガズムって、どんだけ万能。じゃあ、男性はオーガズムのたびに父性が目覚めたりしないんですかね?

 オーガズムの後に感じる多幸感は、オキシトシンが原因とされています。幸せホルモンとも呼ばれる脳内物質で、授乳中のお母さんもこれが出ているそうです。同じホルモンが出ていても、状況が違えばそこに芽生える感情は違ってきます。オーガズムの後の多幸感は、基本的に相手への愛情であり、自分への満足感です。もっと、大きく博愛的なものもを感じる人もいるでしょう。でも、それはイコール母性ではありません。男性だってそれを感じているのに、なぜ女性だけが母性に結び付けられなければいけないのか。

◎余計な味つけはいりません。

 セックスやそれによってもたらされるオーガズムは、たしかに特別な体験です。その度合が強いほど、なんだか自分が高まった感じもあるのでしょう。でも、セックスってもっと個人的で卑近で、日常のなかにあるありふれた行為でいいのではないでしょうか。

 こうして男性が女性を神秘化するだけでなく、女性が女性を神秘化するケースもめずらしくありません。子宮をやたら特別視したり、オナニーのことを「ひとり宇宙」といったり。子宮はたしかに大事な器官だけど、ほかの器官だって大事です。オナニーは、生理的欲求を解消するひとつの手段。エンタテインメント的に愉しむことはあっても、それ以上でも以下でもありません。

 こう書くと、即物的な快感しか知らない心貧しい人間だと思われそうですね。きっと性体験も貧しいに違いない、と。だったら私は、即物的上等です。意味や付加価値を持たせることで肯定されるセックスではなく、セックスそのものを愉しみたい。神棚にあげるような特別なものではなく、日常にあるものとして愉しみたい。「ほんとうにおいしい野菜は、調味料なんていらないのよ。そのままかじればおいしいの」的な感じでしょうか。食生活においてはそういう思考が苦手なので、矛盾している部分もあるのですが……。セックスや女性の性をあがめ奉るほどに、セックスレスになっていくと思うのは私だけではないと信じています。

■桃子/オトナのオモチャ約200種を所有し、それらを試しては、使用感をブログにつづるとともに、グッズを使ったラブコミュニケーションの楽しさを発信中。著書『今夜、コレを試します(OL桃子のオモチャ日記)』ブックマン社。

愛の理想世界における、ブス~夢見るためのバズ・ラーマン論

 非常につらい話だった先月の『サンドラの週末』からうってかわって、今日は『ロミオ+ジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』など、キラキラした華麗なスタイルで有名なオーストラリアの映画監督、バズ・ラーマンの作品群をとりあげてみようと思います。クィア批評(これが何かは後で説明します)などに触れつつ、最後は少し個人的な思い入れの話になってしまうかもしれません。

◎バズ・ラーマン監督の来歴

 バズ・ラーマン監督は1962年9月17日にシドニーでマーク・アンソニー・ラーマンとして生まれました。「バズ」はあだ名だそうです。オーストラリア国立演劇学院(NIDA)で学び、在学中に作成した短い芝居をもとに発展させたStrictly Ballroomが舞台であたります。1988年にヒット作となったこの芝居は1992年に映画化されました。これがラーマンの初監督作であり、ダンス映画として大成功をおさめた『ダンシング・ヒーロー』(Strictly Ballroom)です。これと並行してラーマン監督は舞台の演出にも取り組んでおり、同じくNIDAの学生で、のちにラーマンの公私両面にわたるパートナーとなるプロダクションデザイナーのキャサリン・マーティンと組むようになります。

 ラーマンが1990年にシドニー・オペラ・ハウスで上演したプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』は非常に高い評価を受け、DVD化されています。この後、ラーマンはマーティンと組んでさまざまな映画を撮るようになり、1996年に『ロミオ+ジュリエット』(Romeo + Juliet)、2001年に『ムーラン・ルージュ』(Moulin Rouge!)を製作しました。ここまでに撮った3本の映画は舞台芸術を重要なモチーフとしているため、「赤いカーテン三部作」(Red Curtain Trilogy)と呼ばれています。この後、2008年に『オーストラリア』(Australia)、2013年に『華麗なるギャツビー 』(The Great Gatsby)を撮り、今までに5本の映画を製作しています。

 この他、2004年にニコール・キッドマンを使って撮ったシャネルNo.5香水のCMである‘No. 5 the Film’と、10年後に作られたその続編CMである‘The One That I Want’も有名です。現在、ラーマンはネットフリックスのために、黎明期のヒップホップを中心とする1970年代ニューヨークの音楽シーンを描いたドラマ『ザ・ゲット・ダウン』(The Get Down)を準備しているところで、アメリカでは今年の夏に放送開始予定ということです。予告はこちらで見ることができます。

◎キラキラの世界とキャンプの美学

 まばゆい色彩が溢れる豪華絢爛なセットに燦然と輝く衣装の役者たちが踊り狂い、スターが登場したりカップルが恋に落ちたりする場面では音楽が鳴ってバックに花火が炸裂するラーマンの映画は、極めて人工的な世界です。もともと舞台出身のラーマンは、音楽で物語を進めるオペラを得意としていました。ラーマン作品には舞台の慣習をそのまま持ち込み、映画では不自然とも思われるような演出を平気で実行する大胆さがあります。作品のほとんどは情熱的な愛を主題にしていて、ラーマンの世界では何よりも重要なものとされているのですが、おそらくラーマンのクリエイティヴチームにとって、激しすぎる愛の歓びや苦痛を表現するには役者がただ台詞を話したり、動いたりするだけでは不足なのでしょう。愛というキラキラした爆発的な感情を観客にも感じてもらうため、ドラマティックな音楽とまばゆい色彩がこれでもかとばかりにつぎ込まれます。最初は笑ってしまうほどクサい演出に戸惑っていた観客も、いつの間にかこのペースに巻き込まれ、ロミオとジュリエットや、サティーンとクリスチャンの現世では結ばれぬ恋に心を奪われてしまうことになります。ラーマンは自分の作品を現実に似せる努力をほとんどしません。リアリズム的演出を採用しなくとも、物語や登場人物の心を観客に効果的に伝えることは可能なのです。

 こうした人工的で過剰なスタイルゆえに、ラーマン作品はしばしば「キャンプ」の美学という側面から語られることが多くなってします。ここでまずキャンプの美学、そしてそれと関連するところも多い「クィア」という概念について少しだけ説明することにしましょう。

 キャンプというのは美意識の一種で、なかなか定義が難しいのですが、多くの場合はナチュラルさやリアルさを拒否する過剰でわざとらしい演劇性を評価する感覚としてとらえられています。批評家のスーザン・ソンタグは1964年の有名なエッセイ「<キャンプ>についてのノート」(『反解釈』高橋康也他訳、ちくま学芸文庫、1996年に収録)で、「キャンプの見方の基準は、美ではなく、人工ないし様式化の度合い」(p. 434)だと定義し、さらにこう述べています。

 キャンプはあらゆるものをカッコつきで見る。たんなるランプではなくて「ランプ」なのであり、女ではなくて「女」なのだ。ものやひとのなかにキャンプを見てとることは、役割を演ずることとして存在を理解することである。人生を芝居にたとえるやり方を感覚の次元でつきつめていくと、こういうことになるのだ。(p. 439)

 これだけではわかりにくいので例をあげるとすると、派手なパフォーマンスで過剰かつ演劇的な「女らしさ」を演出しつつ、どうもそれだけにおさまらないというか、セクシーなのに実はそこまで「男ウケ」も「白人ウケ」もしないような一筋縄ではいかないスタイルを作り上げているニッキー・ミナージュはたいへんキャンプなアーティストだと言われています。意識的に女のフリをしている女、女の役割を過剰に演じている女、とでも言うべきでしょうか。

 こうしたキャンプの美意識というのは、ドラァグクイーンなど同性愛者のカルチャーに根ざしている部分が大きいと言われています。そこでこのキャンプを分析するにあたり、多大な貢献をしているのがクィア批評という分野です。クィアというのはこれまたとても定義しづらい概念で、もともとは「変態の」「奇妙な」というような意味の侮蔑的表現です。現在ではこうした侮蔑を逆手にとって、世間的に「正常」とされるセクシャリティにおさまらないことを「クィア」と呼称しています。同性愛やトランスジェンダーなどだけをクィアを呼ぶと思っている人もいるようですが、これは若干不正確で、いわゆる「ふつう」と違う、何か逸脱があるようなセクシュアリティに関わるものは全て包含しうる概念です。こうしたセクシャリティにおける逸脱や「何かが違う」ものをテーマに文学や芸術などを読み解く批評をクィア批評と呼びます。

 バズ・ラーマンは、ふつうなら語り尽くされた古くさい物語と思われそうなものに、人工的な様式化、人生は芝居で人は皆役者であるという感覚を持ち込み、そうすることで古い物語に「何か違うな」という雰囲気を与えて脱臼させるテクニックに長けています。映画研究者のパム・クックはラーマンについて「ノーマルだとか、自然だと思われるものを攪乱したり、転覆させたりする」点でラーマンはクィアなクリエイターであり、またキャンプなスタイルを持っていると述べています(Pam Cook, Baz Luhrmann, Palgrave Macmillan, 2010, p. 97, 拙訳)。ラーマンはキャンプの美学をとてもよく体現したクリエイターと言えるでしょう。ラーマンはある時代やある物語類型が持っている輝きを極端に抽象化してワンフレーズで言えるくらいまで切りつめた後、そこにひとことだけ残ったエッセンスを現代の観客に感じさせるためには何を用いるべきか、ということを常に考えている作家だと思います。そこで観客にエッセンスを感じさせるために用いられる強調やデフォルメが、なんともいえないキャンプな雰囲気を醸し出すのです。

◎愛と悲惨な現実

 キャンプの美学を念頭に置きながらラーマン作品を見ていくと、華麗な愛の礼賛に隠れた意外な悲観主義が見えてきます。デビュー作の『ダンシング・ヒーロー』はダンスという愛の芸術に取り組むスコットとフランという若いカップルを主人公にしています。この映画では、熱く踊る若いふたりとすっかり創造性を失ったスコットの両親を対比することで、芸術を通して、いくぶん過剰な形で愛を演じることがいかに愛の魔法を創り出すか、そしてそれがなくなった人生はいかに虚しいものになりうるかということを描き出しています。

 『ロミオ+ジュリエット』ではラーマンは設定を完全に現代化し、ビーチの街で若者たちが血で血を洗う抗争を繰り広げつつ古典的で大仰な台詞を話すというミスマッチを生かして、独特の過剰な様式美を創りあげました。実は演劇の世界では、こうした台詞や展開はそのままで古典の設定を現代化するような演出はよくあるのですが、それをそのまま映画で行いました。結果的に、極めて人工的な世界観にもかかわらず、突っ走る若者たちの愛の悲劇が浮かび上がります。『ムーラン・ルージュ』は、貧乏詩人と病を抱えた高級娼婦の恋という『椿姫』や『ラ・ボエーム』などからそっくりいただいてきたような手垢のついた物語を、人は皆役者であり、役を演じている間こそが華なのだ、という感覚をもって語り直すことで独創的な世界を現出させています。『華麗なるギャツビー』では、ジャズエイジの輝きを現代人に感じさせるためにヒップホップなどを用い、タイトルどおり華麗ですがどこか悲しいパーティとその終わりを見せます。

 こうした作品群の特徴として、愛が幸福であるのはキャンプで過剰で演劇的な魔法が効いている間だけで、現実世界との接点があらわれると愛には必ず、不幸な結末が訪れるという展開があげられると思います。とくに『ムーラン・ルージュ』で顕著ですが、この作品では最初と最後に、ユアン・マクレガー演じるクリスチャンが、死んでしまった恋人で女優のサティーンを思いながらタイプライターを打って物語を書くという場面があります。この枠により、ふたりでショーを創りあげるという現実から離れた舞台の世界においては愛が実り多く素晴らしいものであったことが示される一方、それがなくなった現在、現実においては愛が消滅し、つらい人生が続くことが暗示されます。肉体を用いる舞台芸術が理想化される一方、文字メディアは夢の燃えかすを記録するだけで、灰色の現実を象徴するものとして消極的な意味付けがなされています。こうした作品群において、愛はいくぶん理想化され、芸術的に作られた世界でのみ幸福に存在するもので、現実に寄り添いすぎた世界ではひどく脆く、失われやすいものになってしまいます。ラーマンの作品世界において、愛が不自然なほど華麗に描かれるのは、それが現実世界ではなく、かぎりなく夢の次元に近いからでしょう。

◎ブスの夢

 ここで私がとくに注目したいのは、ラーマンの映画の世界において、ニコール・キッドマンが主演している『ムーラン・ルージュ』と『オーストラリア』以外はヒロインが――これは絶対に言ってはいけない言葉なので、使うのがはばかられるのですが、勇気を出して一度だけ言います――男優に比べるとちょっとばかりブスである、ということです。

 ラーマンのヒロインが美しくないことは既にデビュー作『ダンシング・ヒーロー』の時から注目されていました。クィア批評の研究者であるジョン・シャンペインは、タラ・モーリス演じるフランが明らかにポール・マーキュリオ演じるスコットよりも見映えのしない女性として描かれていることはゲイの男性客にはアピールするであろうが、全体的には女性恐怖が見て取れると論じています(John Champagne, ‘Dancing Queen? Feminist and Gay Male Spectatorship in Three Recent Films from Australia’, Film Criticism 21.3 (1997): 66-88, p. 81)。ラーマンの作品については、このようなクィア批評の文脈でゲイの男性客へのアピールやクィアな感性を論じるものが比較的多いかと思います。しかしながら、私はラーマンがこれ以降も美しくない女優を作品に出し続けたことは、上にあげたようなクィア批評の文脈とは違った視点から、ヒロインを中心にもう少し考える必要があるのではないかと思っています。

 しばしば指摘されていますが、『ダンシング・ヒーロー』は「醜いアヒルの子」の物語です。ヒロインのフランは、初登場の場面では本当にぱっとしない女性で、見るからにハンサムなスコットに釣り合うとは全く思えません。しかしながらフランは心のこもった情熱的なダンスでスコットの心を動かし、ダンス技術にも良い影響を与え、似合いのダンスカップルとなります。最後のフランは最初よりもだいぶ素敵な女性になっていますが、これは容姿がキレイになったからというよりは自己表現の技術を身につけ、自信に満ちた女性になったからという側面が強いだろうと思います。次作『ロミオ+ジュリエット』では、ロミオ役のレオナルド・ディカプリオが輝くばかりの美しさを誇っているのに対して、ジュリエット役のクレア・デインズはどちらかというと地に足の着いた地味な女優です。実は私がはじめて見たシェイクスピア映画はこの『ロミオ+ジュリエット』で、おそらく中学生の時にこの映画を見ていなければ今シェイクスピア研究者になっていなかっただろうと思うのですが、ジュリエットがあまり可愛くなく、自分や自分の友達とたいして変わらないかもしれないふつうの女の子なのに、うっとりするほどキレイなロミオと恋に落ち、とてもしっかりした決断をするのに衝撃を受けた覚えがあります。この二作は、現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に現実とはかけ離れた華麗な世界がぐるぐる回る、まるで乙女の夢と妄想を描いたような作品と言えると思います。世界じたいは極めて人工的なのに、ヒロインたちはどういうわけだかそのあたりにいそうな、ひょっとすると(私たち同様)ブスとか不細工とか言ってバカにされたこともあるのかもしれないようなふつうの女の子で、現実世界に釘付けにされているように見えるのです。

 「赤いカーテン三部作」と語られることの多い『ムーラン・ルージュ』ですが、私はこの作品はクリスチャンを演じるユアン・マクレガーがハンサムなだけではなく、ヒロインであるサティーンを演じるニコール・キッドマンも誰もが認める麗人で、夢の人工世界ムーラン・ルージュの華であるという点で少々、前二作と異なっているかと思います。上で論じたように、この作品の構成じたいは芸術的な夢の世界における愛の幸福と寒々しい現実の暴力的な訪れという、前二作に見られる主題をさらに突き詰めたものと言えるでしょうが、登場人物の雰囲気は違っています。続く『オーストラリア』は、ヒロインにニコール・キッドマンを再び配し、ヒュー・ジャックマンがヒーローをつとめましたが、基本的に男女の和解で終わる物語で、前三作にあった愛の理想と現実を対比する悲観的視点がなくなっています。この作品は、ある程度の時代考証、つまりは正確性を要求する歴史ドラマとしての側面と、いつもの人工的なキャンプの美学があまりきちんとかみ合わず、うまくいっていないところも多いように見受けられました。私はここまでラーマンの作品を見てきて、この後、ラーマンはいったいどうなってしまうのだろう、もうラーマンの映画に不細工なふつうの女の子は出ないのだろうか……と不安になりました。

◎ブスの夢再び

 ところが『華麗なるギャツビー』では、また美人でないヒロインが戻ってきました。デイジーを演じるキャリー・マリガンは実力のある女優ですが、おそらくフィッツジェラルドの原作を読んで想像するデイジーに比べると華が無く、地に足が着きすぎていると感じた人もいるかと思います。一方でギャツビーを演じるのは『ロミオ+ジュリエット』で世界の女性を魅了したレオナルド・ディカプリオで、今でも計り知れないスター性を持っています(私は若い頃のディカプリオに夢中だった世代なので感覚が偏っているかもしれないと思い、念のために自分のクラスの女子学生にきいてみましたが、今の学生の感覚でもやはりギャツビー役のレオはとてもハンサムだそうです)。

 ギャツビーが、作品の語り手であるニックに初めて自己紹介し、グラスを傾けて微笑むと花火があがってジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が流れる場面は、さながら鳴り物入りで千両役者が登場するといった風情で、ニックが言うところの「極上の笑顔」にお客もやられてしまうでしょう。こうしたカリスマ的なギャツビーが、ジャズエイジの華にしては地味な感じのデイジーに執着するという展開は、ラーマンが最初に二作で行った、ヒロインだけが現実世界にいるようなふつうの女の子で、その少女がめくるめく夢の世界を体験する、という構成によく似ています。古典の映画化としてはいくぶん反則かもしれませんが、『華麗なるギャツビー』は、ラーマンのかつての作家性が戻ってきた作品だと思います。

 現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に過剰で華麗な作られた夢の世界が展開し、そこでのみ愛が花開くというバズ・ラーマン監督の作風は、女性客の乙女心をそそり、大きな夢を見せる一方、現実をも忘れさせないという複雑な作りを持っていると思います。一見、単純な恋物語のように見えるラーマン監督の独創性は、この悲観的な現実との接点にあるのかもしれません。バズ・ラーマン監督には、これからも乙女の夢を刺激する、はじめは楽しく、やがて悲しい世界を作り続けて欲しいと思っています。

■北村紗衣/北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科専任講師。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。