AV出演強制事件から、芸能界という「労働環境」を問う

AV女優が出演強制されたことで、大手のプロダクション会社であるマークスジャパンの社長らが逮捕された事件が大きなニュースになっています。私はこの業界について詳しいわけでも、この問題の専門家でもありません。しかし、複数のソースからそれぞれ異なる見解や証言がなされており、情報の交通整理が必要だと感じました。

今年3月、ヒューマンライツ・ナウが「日本:強要されるアダルトビデオ撮影 ポルノ・アダルトビデオ産業が生み出す、 女性・少女に対する人権侵害」という報告書を公表しています。この報告書では、ポルノ・アダルトビデオ産業の「大手」として、CA、SOD、プレステージ(いずれもAV制作会社)が挙げられています。今回逮捕されたのは、この3大メーカーを含む、制作現場にAV女優として派遣される女性たちの所属事務所の中では大手である「マークスジャパン」の元社長、現社長、社員の男性三人です。

逮捕のきっかけは、AV業界では知名度のある女優が「強制出演させられた」と訴えたことでした。しかしこの「訴え」が事実ではないとして異議を唱えている女優もいます。たとえば、初美沙希さんという人気女優はTwitterで「今回の件、いろいろ知ってます…」として、訴えを起こした女優が虚偽の発言をしているのではないかと示唆するツイートをしています。他にも複数の女優が同様のツイートを行っていました。

私には、どちらが真実を述べているのかを知る由はありません。したがって、今回の「事件」や、強制出演の有無について論じるつもりはありません。それらは今後の取調べや裁判によって明らかになるでしょう。本記事では別の論点から今回の事件について述べたいと思います。

◎AVの撮影は売春ではない

「火のないところに煙は立たない」と考える人も多くいると思います。しかしながら「AV」という業界は、そもそも「潔癖」とは縁遠い印象が強くあるでしょうから、「火がない」状態を求めるというのも無理な話です。

そもそも「火がある」と思われているAV業界には「グレーゾーン」「ブラックゾーン」「ホワイトゾーン」があるのでしょうか?

ご存知の通りAVでは多くの場合、挿入を含むセックスが行われています。「セックス」を金銭でやりとりすることの合法性・違法性は、売春防止法、風営法、公然わいせつ罪、わいせつ物陳列罪などの複数の法律によって規定された状況から判断されます。このうち売春防止法では、「管理売春」が禁止されています。「管理売春」とは、売春を行う当事者を管理して商売にすることであり、売春・買春そのものを禁止しているものではありません。。そして売春防止法によって処罰されるのは斡旋している風俗業者であり、実際にセックスを売買している当事者ではありません。AVの場合、女優・男優が金銭を受け取るのはセックスの対価ではなく、作品への出演料ですからこの「管理売春」には該当しないでしょう。そして、本人たちが合意しており、また他の法律に抵触しない限り、AVの中でいかなるセックスをしていようとも、そのセックスは合法とされます。

今回問題になっているのは、この「合意」のあり方です。AVであっても、合意のないセックスは強姦や強制わいせつなど複数の罪に問われるほか、それがAVであれば、撮影者は共犯となります。つまり、もし出演女優が「○本のビデオに出演します」という契約をしていたとしても、直前で「やっぱり嫌です」という意思表示をしたのに無理やりの出演でセックスをさせられるようなケースがあれば、セックスをした男優は強姦罪に問われ、制作会社・撮影者はその共犯とみなされるのです。

◎芸能人は「労働者」なのだろうか?

今回「マークスジャパン」の元社長らが逮捕されたのは売春防止法でも風営法でもない、「労働者派遣法違反」容疑で立件されたのは、AV業者が売春防止法などの法律に本来的には該当しないためでした。

ではなぜ「労働者派遣法」によって立件されたのでしょうか? 実は「労働者派遣法」には「公衆道徳上有害な業務」を派遣労働者にさせないことを規定しています。つまり今回の逮捕は、マークスジャパンに所属する女優の「 AVメーカーに派遣されAVへの出演を強いられた」という主張によって、「マークスジャパン」が「公衆道徳女有害な業務」に抵触しているという疑いが持たれたことで起きたわけです。

それを知って私はふと考えました。はたしてタレントや俳優は「労働者」なのでしょうか? そこで労働者派遣法がどのように「芸能」「エンタメ」業界に適用されるのかについて調べてみました。

まず、俳優が労働者かどうかは、俳優自身が独立した個人事業主なのか被雇用者なのかによって決まります。たとえばハリウッド俳優は基本的には自分自身が個人事業主であり、それぞれがエージェントを雇う立場なので、いわゆる労働者ではありません。一方、芸能プロダクションと雇用契約を結んでいる場合、その俳優・タレントは労働者となります。

労働者と雇用契約を結び、雇用者に労働をさせ、雇用者はその対価として賃金を得ていれば、芸能プロダクションであろうとも当然ながら労働基準法・職安法・派遣法などの労働に関する法律の規制の範疇になります。

一方で、プロダクションに所属していても、事業者性が高いケースというのもあり、この場合は労働者には該当しません。

たとえば、プロダクションとマネジメント業務委託契約を結んでいる個人事業主という扱いである場合、俳優・タレントは派遣法の対象ではなく、あくまでも個人事業主という扱いになり、すべてが「自己管理」に帰されることになります。

今回の事件が労働者派遣法違反容疑によるものだということは、マークスジャパンというプロダクションが、訴えを起こした女優を雇用していたとみなされたのだと推測されますが、もし彼女が個人事業主であった場合にはまた違う法律が適用され、出演強要について彼女を救済するような措置が取られた可能性があるように思います。

◎セックスは「公衆道徳上有害」なのか?

ここまで調べて、そもそもセックスは、労働者派遣法が規制している「公衆道徳上有害な業務」にあたるのだろうか? という疑問がわいてきました。

たとえば、アイドルがきわどい水着を着て写っている写真や、映画やドラマで濃厚なキスシーンやベッドシーンをしている映像は「公衆道徳上有害な業務」ではないのでしょうか? その線引きはどこにあるのでしょうか? 「挿入」しているかいないかでしょうか?

派遣法にしても、いわゆる直接雇用者に適用される職業安定法にしても、「挿入はアウト」「セックスはダメ」とは一切書かれていません。何が「公衆道徳上有害な業務」なのかは、時代や弁護士・検事・警察などの事件担当者の考え方によっても解釈が別れるものなのではないでしょうか。

先にAVはそもそも「潔癖」とは縁遠いと思われている業界だ、と述べました。「潔癖」かそうでないか、「道徳的」かどうかは、ある程度は当事者が決めることである一方、時代や状況によって社会が決めるものでもあります。もちろんセックスを強制することはいかなる状況であれレイプですが、「セックスしている」ことがそのまま公衆道徳上有害な業務=違法というのは非常に抑圧的な解釈であるように感じます。

◎闇の中にある「芸能界という労働環境」

最後に、今回の事件を見ていて最も疑問に思ったのは、そもそもAV女優のプロダクションは、こういった訴えを起こされることを予見せずに女優を雇用してきたのだろうか? という点です。なぜ個人事業主とのマネジメント業務委託契約という形式ではなく、わざわざ火の粉が飛ぶような雇用契約を結ぶのでしょうか? 所属女優が雇用契約ではなくマネジメント業務委託契約、つまり女優を個人事業主として扱った場合、一体どのような不利益がプロダクション会社に起こるのでしょう? 個人事業主であれば、強制出演は免れるのでしょうか? また、女優にとって個人事業主であるのと、被雇用者であるのはどちらが良い労働条件を引き出せるのでしょう?

私は芸能界については全くの門外漢ですが、単にAV業界だから、ということではなく、芸能界という一般人にとってわかりにくい業界で「働く」ということ全般について、もっと情報がオープンになれば良いのに、と思います。たとえば、ちょっと前に話題になったSMAPや能年玲奈さんなどの件なども、「芸能界の労働環境・契約」問題という側面から考えれば、今回の問題と共通点があります。今回の強制出演が事実であるならば、将来芸能界に入るであろう少年・少女やその家族、一般の人たちに「芸能界という労働環境」に関する様々な情報を共有することで、出演強要のような事件を未然に防いでいく努力を芸能界側がしていく必要があると思います。

参考
http://www.sankei.com/affairs/news/160612/afr1606120006-n1.html
http://girl-secret.com/marks/
https://twitter.com/saki_hatsumi/status/741870905505120260
http://matome.naver.jp/odai/2146577962270630801
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160403-00004489-bengocom-soci
https://www.bengo4.com/c_5/c_1629/c_1310/b_286446/
https://www.bengo4.com/c_1009/c_1198/b_238854/
http://www.jil.go.jp/rodoqa/07_jinji/07-Q01.html
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S60/S60HO088.html

性暴力を真正面から描く映画のレイプシーンには、男の「悪意」がなかった

 その映画のHPやチラシには「本作品には制作過程において検討を重ねました結果、この問題に迫るため誤解を恐れずあえて過酷な描写をしたシーンがございます」とあり、メディア関係者向けに行われた試写会では、事前に「気分が悪くなった人は退室を」と伝えられ、そうなった人の相談に乗るべく精神科医が待機していたと聞きます。

 映画『月光』が、先週末に公開されました。性暴力を圧倒的なリアリティでもって描き、それがいかにして被害者の尊厳、希望、生きる意味……というより「生」そのものを打ち砕くかをあぶり出す作品として、公開前から大きな話題を呼んでいました。「過酷な描写をしたシーン」とは、性暴力シーンにほかなりません。あいまいな表現で「何が行われていたか」を観る側に想像させるのでもなく、何かのメタファーでそれを伝えるでもなく、正面きってレイプシーンをスクリーンに映し出す。しかもそれは、観た人が心身のバランスを壊すほどの迫力。見ておかなければという気持ちと、見るのが怖いという気持ちが私のなかで拮抗しましたが、見ようと決めたのは、誤解を恐れずにいうと、そのレイプシーンに興味があったからです。

◎強姦された女性は喜ぶ、というファンタジー

 かつて、「フィクションで描かれる『性犯罪』はどうあるべきか、どう受け取るべきか」というコラムを書きました。レイプシーンが含まれる映像作品は少なくはありません。一般映画では数が限られますが、AVや成人映画にはゴロゴロ転がっています。もちろん、描かれる意味は対照的です。性暴力をこの世で最も卑劣かつ醜悪な犯罪のひとつとして描くか、その暴力をファンタジー化して観る人の性的興奮を喚起するか。

 ファンタジー化とは「抵抗していたオンナも、突っ込みさえすれば喜びだす」というもので、女性には信じがたいものですが、エンタメとして(つまり成人映画やAVで)描かれる性暴力シーンは多くがこれに当たります。この手の鬼畜ジャンルを好む人も、「現実とファンタジーの区別くらいつくよ~」と反論するかもしれませんが、そう言い切れない人もいるのではないでしょうか? 女性を被害者ではなく、レイプを肯定する共犯者にしてしまうという意味でも非常に罪深いです。なかには、ガチのレイプシーン……女性が快感を得ることもないまま傷つけられ貶められるのを観て興奮する人もいるでしょう。人の性嗜好はそれぞれですし、この嗜好を持つ=性犯罪者ではありませんが、それでも私はソチラの方々と人間的なおつき合いをしたいとは思いません。

 映画『月光』で描かれる性暴は、2人の女性に対して行われるものです。思いもかけない人物からある日突然ふるわれる性暴力、日常的にくり返される性虐待。ですが、ほかにも「この人も被害に遭っている/遭っていたのでは」と思わされる女性らが登場します。夫が娘に性虐待をしていることを知っている女性も、本来なら娘を救わなければならない立場ではありますが、自身が性的に傷つけられた被害者でもあります。夫が若い女性とばかり浮気をしている妻も、性的に傷ついています。

 この映画の女性たちは「自分で自分を大切にする」「それができてはじめて、他者にやさしくできる」という、人が社会で生きていくための根源となる感情が欠けています。一体、誰に奪われたのか。暴力を受けている最中のことがフラッシュバックし恐怖に泣き叫ぶ人は苦しみのただ中にあると一見してわかりますが、みずからの傷に気づくこともないまま自尊心を欠如させている女性もいて、その苦しみもまた一言では語り尽くせないことが伝わってきます。

◎レイプシーンのおぞましさ

 肝心の性暴行シーンは、誤解を恐れずにいうと(とこの記事で書くのは2度目ですが)、安心しました。なぜなら、そこにはおぞましさしかなかったからです。ファンタジー化も消費要素も赦しも一切なく(赦しについては前述の記事で触れました)、脚色をしてことさらドラマを加えるのでもなく、ただただその残酷さを切り取っています。私たちはレイプという性犯罪に恐怖しますが、それが娯楽として消費されることにも恐怖しているのだと気づきました。

 そのリアルさゆえに、レイプ被害を疑似体験(人によっては追体験)してしまい、心身に異常をきたす人がいるのも納得です。加害男性から圧倒的な悪が漏れ出ているわけでもなく、むしろ「俺がこうするのは当然のこと」「だってお前ら女は、俺らにこうされるための存在だから」といわんばかりの態度で女性を犯している様子に、絶望を感じました。

 性犯罪がテーマになると、必ず女性の落ち度をあげつらう自己責任主義者がワラワラと出てきますが、彼らはこのシーンを見て「だって彼女たちは抵抗していないじゃないか」「ほんとうにイヤなら、もっと抵抗するはず」というかもしれません。でも、肉体以上に心を殺されてしまった女性に、抵抗という大きなエネルギーを要するリアクションが、どうやったらできるというのでしょう? 暴行のさなかに殺されてしまった心は、その後も何度も何度も殺されます。性被害は「魂の殺人」であることはだいぶ知られるようになってきましたが、「魂の、くり返される殺人」であると付け加える必要があると感じました。

 映画には終わりがありますが、「それでも生きていく」と決めた彼女たちの人生には終わりがありません。エンドロールを見ながら、何度も何度も心と体に振り下ろされる刃(やいば)から一日も早く救済されることを祈らずにはいられませんでした。

■桃子/オトナのオモチャ約200種を所有し、それらを試しては、使用感をブログにつづるとともに、グッズを使ったラブコミュニケーションの楽しさを発信中。著書『今夜、コレを試します(OL桃子のオモチャ日記)』ブックマン社。

「悪女」というスキャンダラスで魅力的な存在は、どのようにしてつくられるのか

〈悪女〉と聞いて、どのような存在を思い浮かべるだろうか。世間から大バッシングを受ける小保方晴子氏やベッキーのようなスキャンダラスな存在をイメージする人もいるだろうし、殺人を犯した凶悪な犯罪者を思い出して眉をひそめる人もいるかもしれない。

これらのイメージは、まさに「悪い女」としての悪女だ。しかし、「運命の女(ファム・ファタル)」として男性から熱い眼差しが向けられる妖艶な存在も、悪女と呼ばれる。男性を破滅させる意味では「(男性にとって)悪い女」には変わりないが、「悪い」の中身が少し変わってくる。「悪い」のなかに、抗いがたい魔性の魅力(蜜)が秘められているように思うのだ。

そう考えると、悪女とはつくづく不思議な存在である。「傾国の美女」と称されたクレオパトラや楊貴妃のように、毀誉褒貶の二面性に晒されながらもこれまで飽きずに語られ続け、彼女らに向けられる好奇と羨望の眼差しは、現代においても衰えることはない。

その証拠に、ちょうど今季に放映されているドラマをチェックしてみただけでも、『僕のヤバイ妻』(フジテレビ系)や『不機嫌な果実』(テレビ朝日系)、『毒島ゆり子のせきらら日記』(TBS系)といった、「悪女もの」とも呼べる作品が目白押しだ。男女問わず、みんな悪女が大好きなのである。悪女を否定的にとらえている人にとっても、「気になって仕方がない存在」であることには変わりない。

◎誰にとっての「悪女」か?

筆者がなぜ、悪女に興味を持ったのか。

一つ目は、女性が世間から悪女と認定される過程に関心を抱いたからだ。小保方氏問題の本質は「捏造」にあるのは明白だが、「割烹着」「ヴィヴィアン・ウエストウッド」といった本筋とは関係ないアイコンで語られがちだったし、理化学研究所のなかに渦巻く人間関係も、かっこうのゴシップネタになってきた。また、ベッキーと川谷絵音氏(ゲスの極み乙女。)のその後をわけた要因は、ベッキーがスポンサーを大量に抱える人気芸能人であったこと、もともと清純派のキャラクターであったことだけでは、説明がつかないように思う(もちろん、「センテンススプリング!」という歴史に残る名言を残してしまったことだけでも)。

国文学者の田中貴子氏が『〈悪女〉論』(紀伊國屋書店)のなかで指摘している通り、悪女は男性の眼差しによって計られる。男性は単なる「悪人」「悪党」と表現されるが、悪女はわざわざ「女」を強調されて語られ、「ある意味で悪女は性差別的なことばといえる」(田中氏)という側面があるのだ。つまり、悪女を語るうえでは「どのように悪いか」ということだけではなく、「誰にとって悪いか」も重要になる。だいたいにおいてそれは「男性中心の社会にとって」だったり、「男性中心の社会を内在化させた女性たちにとって」だったりするわけで、最近のゴシップを見るにつけてもそうした「世間様」からの変わらない眼差しが感じられる。

一方、同じ理由で悪女が英雄的な女傑として語られることもある。栗原康氏の『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)などで再評価が進んでいる伊藤野枝がその一例だ。伊藤女史は、大正時代にアナキスト・大杉栄との「自由恋愛」を生き、悪名高い「甘粕事件」で憲兵に惨殺された人物だ。既存の結婚制度や道徳に挑戦し続けた伊藤女史は、十数年前まで「あの淫乱女! 淫乱女!」と地元の住民に罵られるほど、悪名をとどろかせていた。

しかし、栗原氏の著書では、生き生きとした人物として情熱的に語られる。世間からけちょんけちょんに叩かれながらも、自分の生き方を貫き、仕事も恋愛も諦めなかった彼女の短い生涯に、ある種の痛快さを感じる人も多い。女性像が移り変わり、しばしば既存の保守的な価値観と衝突する現在において、彼女の伝記が出版されたことは偶然ではなく、現代を映す鏡のように悪女を語ることの可能性を示しているように思える。

悪女に関する先行研究は多数あるものの、現在において悪女はどのような存在として受け止められているのか。それを自分の目で確かめたいと思ったのが、一つ目の理由だ。

◎私たちは悪女への好奇心に抗えない

二つ目の理由は、純粋に個人的な好奇心からきている。もともと筆者は、悪女を扱う小説やサブカルチャー作品が大好きなのだ。プライベートで悪女に振り回されるのは勘弁してほしいが、仮に『痴人の愛』のナオミや、『悪女について』(以上、新潮文庫)の富小路公子が目の前に現れたとしたら、その魅力に抗えるだろうか。いまいち自信がない。

もっとも、それは筆者が悪女から相手にされるような、価値が高い男性である場合のことだ。男性にとって悪女は自身を滅ぼす危険な存在であると同時に、ある種のステータスでもある。悪女に対する邪な好奇心から、この連載を読み始めた人がいたとしても、そのことをことさら恥ずかしがる必要はない。根本的には、筆者も同じ穴のムジナだ。

さらに、悪女に憧れるのは、男性だけではない。女性誌やファッション誌では、しばしば悪女の恋愛テクニックや仕事術が指南される。悪女であることは、つまり容姿や男性を誘惑する媚態に優れた女性であることの証明でもある。艶のある髪や赤い口紅、男性を惑わす気紛れな態度と計算高さといえば、峰不二子のような女性を思い浮かべるかもしれないが、そのような存在に憧れたことが女性ならば誰もが一度はあるのではないか。

そして、悪女が男性社会の作った一つの幻影であるならば、その前提を逆手にとって世の中を上手に渡っていけばいい。悪女にしてみれば、男なんてチョロいもんだ。それは、「女性としての生き方哲学」として語られることもあるし、「気軽なライフハック」として語られることもある。

ざっと、こんなところが筆者が悪女の連載を開始しようと思い立った理由だ。といっても、現段階では明確な結論があるわけではない。編集K氏に「〈まえがき〉的な文章を書いてみては?」とそそのかされたため、肩肘張って「論」的なものを展開してみたものの、実際の連載はもっと気軽なものになると思う(たぶん)。過去の作品に触れることもあるだろうし、最新のゴシップやサブカルチャーに(時には不用意に)言及することもあるだろう。田中氏の先行著作にならって「論」とせず「研究」としたのは、そういった理由からだ。

それではさっそく次回から、めくるめく悪女の世界に迫っていこう。「34歳・バツイチ・フリーライター」という、なんとも胡散臭い男の「研究」にしばしお付き合い願いたい。ミイラ取りがミイラになることだけは避けたいが、まあ、それはそれでいいかとも少し思う。

■宮崎智之/東京都出身、1982年3月生まれ。フリーライター。連載「『ロス婚』漂流記~なぜ結婚に夢も希望も持てないのか?」、連載「あなたを悩ます『めんどい人々』解析ファイル」(以上、ダイヤモンド・オンライン)、「東大卒の女子(28歳)が承認欲求を満たすために、ライブチャットで服を脱ぐまで」(Yahoo個人)など、男女の生態を暴く記事を得意としている。書籍の編集、構成も多数あり。

「自傷する女性を救うのは異性ではない」。精神科医師の実感

中学生のあなたは、仲の良い友人の身体に、何本もの傷跡があることに気がつきました。どうしたの? と聞くと、「実はね……」と、自傷行為を繰り返してきたことを打ち明けてきます。ショッキングな告白に驚いたあなたは、「秘密にしておくから、もうやらないで!」と叱るかもしれませんし、「つらいときは連絡して」と優しく声をかけるのではないでしょうか?

しかし、精神科医の松本俊彦先生は、それでは、友人が孤立するか、あなた自身も自傷行為をはじめるかもしれないと指摘します。インタビュー前編では、なぜ自傷をするのかについて取り上げました。後編では、学校現場で自傷行為がどのように扱われているのか、もし友人が自傷していたらどのような対処法があるのかについてお話を伺います。

※本記事には自傷に関する記述があります。

【前編】皮膚を傷つけ生きていく――自傷は「狂言」で、取るに足らないことなのか

◎自傷をしやすい年齢や性別とは

――自傷をしやすい年齢や性別はあるのでしょうか。

松本:しっかりした統計があるわけではありませんが、リストカットに代表されるような自傷は12歳や13歳に最初にピークになります。その子たちも、小学校のころから、授業中にシャーペンやコンパスで自分をちくちく刺していたり、爪を噛んだりしている。それが自傷のはじまりだと考えることもできます。

10代後半から20代前半にかけて、特に女性に多くみられる現象です。男性もけっこういるようなのですが、女性の方が支援につながりやすく、男性はより隠れてやっている印象ですね。

私自身が自傷する男性に多く出会ってきたのは、少年院のような矯正施設でした。自傷は自分に対する攻撃的衝動です。女性の方は慣習的なジェンダー役割など社会的なプレッシャーがあるためなのかはわかりませんが、自分だけに向かいやすい。一方で男性の場合は、攻撃的衝動が外に向かいやすいため、モノを壊したり、人を傷つけますから、メンタルヘルスの問題ではなく司法の問題になるのでしょう。

――10代後半から20代前半というと、ちょうど学生時代に重なりますね。自傷の多い、年度や学期はあるのでしょうか。

松本:意外なことに、環境が大きく変わるような年度の最初に自傷は頻発しません。多いのは真ん中の学年や、2学期です。自傷は複雑な現象なんですね。例えば虐待を受けている子どもは、虐待を受けている時点では自傷をしない傾向があるのですが、一次時保護施設に行くと自傷がはじまることがあるんです。PTSDの人たちも、フラッシュバックで強く苦しんでいるときに自傷はしませんが、少し収まってくると自傷をする。少し余裕が出来て、やっと自傷ができるようになるわけです。自傷をするのは、「最悪を少し抜け出したとき」と言えるのかもしれません。それでも苦しくて、助けを求めているのです。

――若い子に多いのは、自傷が手軽だからなのでしょうか。たとえば、30代になって仕事をしていると10代に比べればお金に余裕が出てくるので、飲酒や散財で発散することができますよね。

松本:それもあるかもしれませんが、マンガなどのサブカルチャー的な影響は無視できません。すえのぶけいこ『LIFE』(講談社)、紡木たく『ホットロード』(集英社)のようなティーンエイジャーが自傷をするマンガもありますし、単に10代の子が思い付きやすいのかもしれません。

さらに、10代だと言葉がまだ発達していないので、自分の生きづらさを言語化しづらいんですね。言葉にできないもどかしさを自傷行為という形で表明しているのです。年を取ってくると、言語化ができるようになって、自傷以外の手段を取るのかもしれません。鬱になるにも能力が必要です。自分が落ち込んでいることを自身で解釈して、言語化して、ようやく鬱になるんです。言語化能力が弱い子どもの鬱は大人たちが気付くのも難しく、子どももわかっていません。なので、非行や犯罪といった形になることがあると知られています。

――ここ数年で自傷行為は増えているのですか?

松本:やはり南条あやさんの『卒業式までは死にません』(新潮社)が出版された2000年から5年間がピークでした。その後には横ばい、もしくは少し減っているような印象を持っています。でもそれは、必ずしもいいことだとは言えません。子どもたちが、自傷行為すらせず、もっと深く閉じこもってしまっているということなのかもしれませんから。

◎自傷が学校に閉じ込められる

――学校で生徒の自傷を止めようとする動きが出てきたことはあるのでしょうか。

松本:あまりないです。統計を取ると、同じ学年でもクラスごとに人数の偏りがあることがわかります。つまり、クラス内で伝染している。自傷や自殺のようなグロテスクな行動は伝染しやすいんですね。だから、伝染を防ぐために、自傷を学校は隠すようになります。

学校の先生の中でも、とりわけ保健室の先生には問題意識を持っている方が多いです。ですが、大人に相談できる子どもはわずかです。我々は1割ほど自傷しているという統計を持っていますが、保健室の先生や教師が把握している数は、中学生だと0.3%、高校生だと0.38%。つまり、30分の1の生徒しか学校の先生にアクセスできていません。

多くの養護の先生は相談してきてくれた子たちの傷の手当てだけではなく、時間をとって面談もするようにしています。ただ養護の先生の中にも葛藤があるようです。他の先生から「いまここで甘やかしても学校を出たら厳しい世の中があるから」と言われることがあるそうです。でも、その子たちには、つらいときに人に助けを求めることを断念した歴史がある。養護の先生に話し相手になってもらうことで、人に対する信頼感を取り戻す練習をしているわけです。中学でそういう体験ができたら高校に進学したときも、一人で抱え込まずに保健室やスクールカウンセラーに相談してみようかという気持ちになれるかもしれません。そうした機会が奪われてしまうのは望ましくありません。

ただ、学校空間では養護の先生やスクールカウンセラーはメインストリームではありません。学校は勉強するためのもので、病院や福祉施設ではないという考え方が主流です。一理あるのかもしれませんが、地域がなくなって核家族が主流になっている現在、家庭の中でドンづまってしまった子どもたちは、親戚のおじさんや近所の人たちに助けを求められません。

養護の先生は500人の学校に1人配属される程度です。ですが、自傷経験者は学校内に1割いて、そのうちの58%は10回以上やったことがあります。つまり全校生徒が500人いるとしたら、学校には50人の自傷経験者がいて、30人は10回以上切ったことがあるということになります。それを養護の先生が1人で継続的で見られるのかと言うと……医者でも匙を投げたいほどですよ(笑)。そう思うと、0.3%という学校保健のデータが独り歩きしているのも問題でしょうね。

――先生の調査と対策に齟齬があるのはなぜでしょうか。

松本:やはり、文科省で調査して出てきたデータではないので、信じてもらえない部分があります。いまは少しずつ改善しているのを感じていますが。

一つ懸念しているのは、発達障害の方に学校現場の注目が流れてしまっていることです。もちろん大切な概念ですが、普通と違う子がいるとなんでも「発達障害」にしてしまうのは問題ですよね。ちょっとしたことで解離しやすかったり、思考が混乱して感情のコントロールが効かずに切ってしまう子にも「発達障害」という個人の病理の問題にすることで、その奥にある家庭のトラブルやいじめなどを見逃してしまうのは怖い。生きづらさを個人の病理に押し付けているわけです。

◎「助けて」と言える大人が必要

――自傷をしていて、やめたいと思ったときに、自分が取れる方法としてどのようなものがありますか。

松本:まずは相談してください……と言いたいのですが悩ましいです。というのも、相談する人を間違えてしまうと、「そんなバカなことはやめなさい!」と頭ごなしに叱責されてしまうかもしれないからです。自傷している子どもは、大人に失望しています。96%が大人に相談しません。35%が友達に相談しているんです。友達が一番のゲートキーパーなんですね。

相談された友人の対応には2パターンあります。1つは「秘密にするから、自傷しないと約束して」と言うもの。でも、「やめろ」といってもやめられるものではないので、また自傷してしまいます。そういうことを繰り返していくと、「どうして約束を守ってくれないの!?」と友達が怒りだして、ますます自傷せざるを得なくなります。

もう一つは、「切りたくなったら私に連絡して」と友達が言うことです。夜中にLINEがきて、最初は親身に対応するけれど、眠っていて気づかない夜があると「あなたが無視するから切った」と写真が送られたりする。友達もだんだん疲れてきて、自分を責めるようになり、自傷をはじめてしまうこともある。

大事なのは、友達が信頼できる大人につなげることです。信頼できる大人の条件は、自傷がいいか悪いかの善悪の価値判断をいったん保留してくれる人。裁判官みたいじゃない人がいいですね。それがなかなか難しいのですが……。普通の教科の先生よりは養護の先生や、スクールカウンセラーの先生の方がいいかもしれません。

もう一つは、その大人が孤立していないことです。大人であっても専門家に相談できずに自分でどうにかしようとするとドツボに入ってしまいます。自傷している子どもは「助けて」と言えません。支える大人が「助けて」と言える人でないといけないんです。

◎自傷する子どもの後ろにはリスクを抱えた大人がいる

――選択肢としてどのような相談機関があるのでしょうか。

松本:保健所や、精神保健福祉センターは一つの選択肢ですが、子ども達はそれを知りません。また学校は、内部で解決したがる傾向があります。スクールカウンセラーやソーシャルスクールワーカーが入って、学校が昔よりもメンタルに気を使っているように見えますが、裏を返せば、学校の先生が保健所のような行政機関に相談しなくなったとも言えます。

先ほど、自傷行為には自殺リスクがあると言いましたが、そういった子どもたちの背後には、自殺リスクの高い大人がいると言われています。お母さんがうつ病で寝込んでいたり、お父さんがアルコール依存症であったり。ですので、子どもだけではなく、その家自体の支援が必要な場合もあるんです。その点からも、学校だけで解決するのではなく、行政につなげていくことによって、総合的にその子をサポートすることができます。外の機関に生徒の恥を知られるのはよくないと思う先生もいるようですが、家族の事情まで学校の先生が背負うことは無理です。さらに、学校が支援できるのは学校にいる間ですので、継続的な支援のためには外の機関につなぐ方がいいのです。

難しいのは、進学校では住んでいる地域と通っている学校が離れていたりすることです。さらに、大学生になると、家に居場所がない子に限って、地元を離れて一人暮らしをはじめます。都会で新しい人生を生きようとしますが、生きづらさはそんなに変わらないですし、友人とは軋轢があったりして、だんだん学校から遠ざかってしまう。お金があるときは、保険証を使って精神科に通うのですが、うまく自分を表現できず、医者から適当に流されて、過剰服薬するのにいい道具だけもらいます。ときどき救急車騒ぎを起こすけれども、また一人暮らしの家にもどって……静かにだんだん死に傾いてしまうケースがある。そういう学生について、大学が行政機関とネットワークをくんで支援しているのかというと、現状は厳しい状態です。

これは余談ですが、郊外の新しくできたキャンパスの生徒の自殺率は高くなるんですよね。学校で勉強する以外楽しい場所がないような場所は、学校の人間関係で息詰まると居場所がなくなります。本当は学校の外に呑み屋や雀荘のような場所があって、いろんな人たちが多様性に触れることができたらいいと思います。

◎本当の自殺教育

――学校で自傷について教育する際に、注意する点などはあるのでしょうか。

松本:学校で自殺防止の講義をやるとき、よく「命の大切さ」を説くような人を呼んでしまうんですよね。でも、そんなことを言われても、「お前に私のなにがわかるか」という気持ちになるでしょう。「自分の身体を傷つけることが不道徳だ、反社会的だ」と言われたあとに「よし、じゃあ先生に相談しよう」と思う人はいません。もともと自殺リスクの高い自傷している子をより追い詰めることになっているのです。

それよりは、もっとメンタルヘルスの問題について、特別視せず話せる環境をつくった方がいいでしょう。人間は人生の中で3割ほどの人がうつ病の診断基準に満たす状態になると言われています。それくらい、メンタルヘルスの問題はありふれているのです。

ですから、自傷はいいことじゃないけれど、もしそういう友達がいたら、阻害するのではなく声をかけよう。その友達が「親や先生には言わないで」と言うかもしれないけれど、「自分は助けてあげたいけど、専門家じゃないから助けられない。それなのに内緒にしておくのは、本当に友人がすることかな。あなただったらどう思う?」とネゴシエーションするテクニックまで教えてるのが、本当の自殺防止教育だと思います。

◎自傷と女友達

――ご著書の『自分を傷つけずにはいられない』(講談社)の中で、女性に対して「同性の友達をつくろう」と書かれていました。どのような意味でしょうか?

松本:診察していて思うのは、「女性を幸せにするのは、異性ではないなぁ」ということです。もちろん、一時的には幸せになれるのかもしれません。自傷する人たちは愛に飢えています。愛にたどりついたら、それを失うことが怖い。そうすると、好きな男性に過剰適応してしまう。自分の本音を言わず、相手の言いなりになる。男性はだんだんと調子に乗ってきてさらに束縛しようとする。そのうち、相手の顔色をみながら意見を言うようになり、その蓄積を自傷で補うようになってきます。自傷を見ると男の方も「なにをやっているんだ」と怒り、自傷をめぐる争いになってくる。そういう子たちは男性に対する怒りもたまってくると、悪気もなく浮気をしたりして、どんどん追い詰められてしまい、気が付くとDVのような関係になっていきます。

そんな状況から早く抜け出せる子の特徴は、同性の友達が多いことです。「あの男、やばいよ、DVじゃん」と言ってくれる。でも、自傷している子の特徴は、同性の友達はいないけれど、異性の友達は途切れない子が多いことなんですよね。男女で友情は成立するのか――と言うと学級会のテーマみたいですが(笑)、10代、20代では難しいと私自身は思っています。男女だと、支配と被支配の関係に絡めとられることが多いんです。

一人だと寂しいから、別れろと言っても別れない。でも、女の子の友達がいっぱいいると「ほかにいい男がいるから」と合コンをセッティングしてくれたりして、DVのような危険な関係から逃げることができる。だから、同性の友達はとても大事だと思います。とはいえ、同性の友達にもいろんな方がいますから、安心できる友達を大事にすることが大事でしょうね。

また、ここでは便宜的に異性愛の男女でお話をしましたが、セクシュアルマイノリティの方は、自傷や自殺のリスクが高いことが知られています。自分の性的な悩みについて親に相談できるかというと難しい。友達にも難しい。ですから、「同性の」というのがどこまで成り立つのか難しいですが、信頼できる友人や大人を見つけて話してほしいと思います。セクシュアルマイノリティが気軽にカミングアウトできるような多様性のある環境が、自傷を減らすきっかけになると思いますね。

というのも、自傷は社会が必要以上に人との競争を強いたり、多様性を認めなかったりすることで出る病だと思うんです。自傷する人と話していると、いつも人との比較にとらわれています。「あいつの方がかわいい」「痩せている」「頭がいい」など、いつも人と比べている話ばかりです。きれいごとになってしまいますが、「みんな違ってみんないい」と基本的に思える社会にならないかなと思っていますね。
(聞き手・構成/山本ぽてと)

「ドS彼氏」は人間じゃない!? 何者でもないオンナノコの成長物語『GIRLS』

◎「男って本当に変な生き物!」

現在、日本の少女マンガや恋愛映画では「ドS彼氏」が人気なのだと言う。平凡で気弱なヒロインをいじめたり貶める言動をする美形の相手役が魅力的な男性として登場し、単なるモラハラとしかとれない言動を「好意を素直に見せられない不器用さ」として解釈しているようだ。ヒロインを「自分のモノ」だと言い切り、傲岸不遜に相手をふりまわす男になぜ少女たちは惹かれるのだろうか。

ゼロ年代に大ヒットした海外ドラマ『SEX AND THE CITY』(以下、『SATC』)は「何者かである」女性たちの物語だった。署名記事を新聞に連載しているコラムニストやハーバード・ロースクール出身の弁護士である彼女たちは住宅事情の悪いNYで広々としたアパートメントにひとり暮らしし、ハイブランドの服を日常着とする生活を実現している。そんな「生まれながらに(なぜって私たち視聴者は彼女たちがそれを獲得した過程を全く目にしていないのだから!)」多くを持った彼女たちを唯一悩ませるものは恋愛であり、ドラマの起伏を形作るのもそういった男たちとのあれこれである。

シリーズ開始時など、このドラマは、ボーイフレンドカタログと言わんがばかりに毎回毎回キャリーやその友人たちが様々な職業、個性の男性たちとデートしていた。そして初めは魅力たっぷりに見えても30分のドラマの終わりには彼らの本性を暴くオチが必ずついてその短い恋は終わる、いわば恋愛ショートショートといった体をとっていた。そう、この『SATC』に登場する女性はみな「何者かである」のに対して、男性たちはその内面がまるで見えない「他者」であるのだ。恋愛における数々の奇行を披露する彼らがなぜそんな男になったかにこのドラマはまるで興味を持っておらず、それはヒロインたちも同様だった。男がそれまでひた隠しにしていた秘密を知ったとたんドン引きしてサヨウナラだ。男って本当に変な生き物!

それは交際相手も同じである。このドラマにおける「いい男」の象徴、Mr.ビッグはまさに“内面の見えない男”で、むしろそれこそが男性的魅力であると描かれている。彼はパリに転勤になることもキャリーに相談せず、距離をおいたたった数カ月の間に出会ったばかりの他の女性と結婚してしまう。キャリーは振り回されながらも、心を開いて付き合ってくれる素朴な男エイダンでなく結局Mr.ビッグを選ぶ。なぜならこのドラマではそれこそが“男”だからだ。考えてみると、キャリーに冷たい仕打ちを繰り返すこのMr.ビッグこそが、「ドS彼氏」の典型であるかもしれない。冷酷さという鎧で自分の内面を見せない男に惹かれるのは少女たちに限らないのだ。

『SATC』はそれまでの男の物語で「女は怖い」「女は男とは別の生き物だ」と描かれていた女性像をそのままなぞって男を描いているにすぎない。相手の内面など分からないのだから理解し合うことなどそもそも彼女たちは求めていないのだ。むしろこちらに内面を見せてくる男は異性と思えなくなってくる。実際にドラマの中でも「ソウルメイトは女友だちなのだ、男はその時々の楽しみにすぎない」とのセリフが言われる。だからこそその相手の愛情を測るのが、「照明付きのシューズラックのある巨大なウォーク・イン・クローゼット付き高級アパートメントのプレゼント」になるのだ。すでに「何者かであった」はずのヒロインが男に望むものが「惜しみなく自分に金を使ってくれること」である映画版のラストを見て私は正直落胆した。

(注:これから『GIRLS』のネタバレに入ります。気になる方は本編をご覧になってからお読みください)

◎男性を人間として描いたリナ・ダナムの『GIRLS』

『SATC』から10年が経ち、同じHBO制作の新たな女性像を描くドラマが現在米国で大ヒットしている。現在シーズン5が放送されている『GIRLS』だ。ジャド・アパトーに見出され、脚本・演出・主演の三役をこなし20代という若さで初のドラマシリーズを大成功させたリナ・ダナムはまさに「何者かである」才女だ。この作品のメインキャラクターである作家志望で頑固者のハンナ、優等生で美人のマーニー、夢見がちな女性大生ショシャンナ、奔放でアーティスト肌の美女ジェッサの4人に共通するものは、いまだ何者でもなく、何者かになれそうでなれずにもがき続けていることだ。

ハンナはe-bookで本を出す企画が持ち上がるが頓挫、GQで雇われライターになっても、著名作家の登竜門である名門アイオワ大学院の創作コースに合格しても、そのチャンスを自ら手放して、現在は公立校の非常勤講師を務めている。マーニーは勤めていた画廊をリストラされ、くすぶりながらも昔からの夢であった歌手活動を始め、色男デジとデュオを組んで評価を受けるが、彼女持ちのデジの二番手にされてしまい釈然としない日々。ショションナはNY大に通う真面目な大学生であったのが、単位を落とし留年。仕事に何を求めるかわからないまま大企業狙いの就活で苦戦中。

中でも、若い女の、自分はまだ「何者でもない」苦しみを秀逸に表現していたのはジェッサのエピソードで、これを見て私はリナ・ダナムの才能を確信したのであった。ジェッサは高等遊民を気取って世界中を旅して廻り、その美貌と猫のような不遜な態度で男たちを翻弄する。大学の美術科を中退しているため就ける職はベビーシッターくらいだ。だがジェッサはそんな自分に引け目などまるで感じてないかのように自信満々に過激でやや的外れなご高説を周囲に垂れるのである。

その彼女がベビーシッター先の母親の前では様子がおかしい。妙にシュンとしておとなしく文字通り借りてきた猫のようになる。その母親は容姿こそ地味であるが、短編映画監督の仕事で成功し夫と二児の家族を養っている、まさに「何者かである」女性だった。あたかもその反動であるかのように、ほぼ無職であるその夫に対しては、ジェッサは余裕たっぷりの態度だ。彼が女としての自分に惹かれていることをよく知っており気があるそぶりをして楽しむが、彼が中年にもなって「何者にもなれない」苦しみをいざ吐露するとみじめな彼の姿に自分を見たような気持ちになりそれを受け止められない。

ジェッサにとって耐えられないことが起こったのはその後である。ジェッサと夫の関係を知った妻が、怒りをぶつけてくる代わりに、彼女を憐れむ目で見つめ「なぜ自分がトラブルを起こすか知ってる? 本当の自分から逃げているからよ。理想的な自分じゃなかったとしても、もっと真剣に生きれば変わるわ」と語りかけるのだ。その言葉を聞くジェッサの表情はまるで深く傷ついた少女のようだった。その直後、彼女は知り合って間もない、ダサめのしかし若くしてリッチな金融ディーラーと電撃結婚する。すでに「何者かである」女が「何者かになりたい」ともがく女に「そうなれなくても人生は生きる意味があるのよ?」と教え諭すことはひどく残酷な復讐だ。その敗北感を拭い去ろうとするかのようにジェッサはてっとり早く結婚を選んだ。「何者かになる」ほど特別な人間になれないのならば、誰かの特別な存在になることが容易い逃げ道であるからだ。

これは「何者かである」女たちばかりが出てくる『SATC』では決して描けない物語である。あの世界でこの構図は、“未婚女性と既婚女性の対立”としてしか捉えられないだろう。しかしリナ・ダナムが描いた「何者でもない/何者かである」という構図は性別を超えて起こりうるものだ。そしてこれは、男性を内面を持たない「他者」にしない、女性を何を考えているかわからない「別の生き物」にしない、人間としてお互いを分かり合える構図でもある。

リナ・ダナムが描く構図が性別を乗り越え、それぞれの性を「人間」として描いている証拠として、ジェッサとは全く違うタイプでありながら、同じ苦悩を抱えている男性登場人物を紹介しよう。

20代の登場人物が多くを占める中でいまだモラトリアム続行中のカフェの雇われ店長である30代男レイという人物がいる。彼は高い知性を持ちながら、世俗的なものをけなしまくり、いつまでも人生という舞台に乗り出そうとしない。ブルックリンで芸術家たちに囲まれることで満たされた自尊心を無傷のままでとっておこうとするこの男は、それゆえかまだすれていないショシャンナにも、どっぷりセックスに浸りあったマーニーにも真につきあうに値する男としては結局選ばれないのだ。

年を取って諦めることだけは得意になったレイは平気な顔をして日常を過ごしていたが、あるとき信号配置のミスが原因で頻繁に起こる家の前の交通渋滞を町議会に訴え、それをきっかけに行政に問題を感じ、町議会議員として立候補、見事当選を果たす。現実の自分に向き合うことを恐れ何も始めようとしなかった男が、自己に「変革」を希求しとうとう地に足がついた人生の第一歩を踏み出したのだ。

レイをショシャンナの“バービー人形の恋人・ケン”としてだけでなく、内面や未確定な可能性を持つゆえに成長もする「人間」として描いたリナ・ダナムは、まさに新世代の作家である。

◎「何者かである」ことよりも価値のあること

男性を「人間」とみるからこそ生まれる成長の可能性がある。

エキセントリックで身勝手でハンナを性欲の捌け口のように扱っていたかに見えた恋人のアダムが初めて内面を見せたのは、従来の女性ドラマではあまり見られなかった切り口だった。

友人たちには周知の事実だった、アダムが長年、断酒会に通っていることを知ったハンナは「なぜ(彼女であるはずの)私に大事なことを話してくれないの」と彼を責める。するとアダムは「お前が聞かないからだ! お前、俺のことは全然興味ないだろ! お前が興味あるのは、自分が俺にとってどんな存在であるかだけだ!」という意味のセリフを吐く。この時、「女にとって男は生まれついて『他者』であるわけではない、女が男を『他者』として扱うから男は『他者』になるにすぎない」という事実をリナ・ダナムはこちらに突き付けている。男だって内面を持っている。しかしこと恋愛になると女は男を映し鏡にして自分がどれだけ愛される価値のある人間かということばかりを覗こうとする。だから相手の人間性が見えてこないのだ。

それ以降、ドラマの中のアダムの人間性はがらりと変わる。別人ではないかというくらいハンナに向き合い、自分の意見を表明し、非常識な出来事には動揺する。だがこれはアダムというキャラクターが変化したのではなく、ハンナのアダムに対する見方が変わったことを示しているにすぎない。謎だらけのよくわからない男だったのが、自分を愛しているかいないか吟味するためのフィルターを外した途端、その内面が見て通せるようになったのだ。

冒頭で、なぜ「ドS彼氏」が人気なのだろうか、と書いた。逆説的ではあるが、凡俗さや迷い、逡巡といった普通の人間としての内面を見せず、相手を支配する強さのみ見せる男に少女たちが心惹かれるのは、彼の中に被支配という形で愛されている自分をうっとりと見つめるためなのではないだろうか。自分を特別な男に愛されるに値する存在だと考えるためには男の凡庸な内面などむしろ邪魔でしかない。

『GIRLS』の4人の女の子たちは今も何者かになろうともがいている最中だ。その取り組みはお世辞にも恰好のいいものではなく傍から見ていると紆余曲折が過ぎて彼女たちが何を求めて格闘しているのかわからなくなるほどだ。でもその過程で彼女たちは少しずつ人生を学んで行っている。ハンナがアダムとの恋愛を通して男を他者にしていたのは自分自身であったことを知ったように、マーニーは見かけ倒しの男デジといることで逆に自分ひとりの足で立つ経験を積んだ。ショシャンナは元彼レイの地道な選挙活動を見て就活の対象をベンチャー企業に変え、新天地東京で生活を始める。ジェッサは皆がパニックに陥る中、アダムの姉の出産トラブルを的確に解決しそこに自分の能力を見出す。

最終的に彼女たちが「何者かになれる」かどうかはまだわからない。しかしたとえその終着点が彼女たちの心に描いていたものそのままでなくても、その過程で見るであろう様々な風景はきっと人生を生きるに値するものだ。少女たちよ、あきらめずもがくのだ。もがきながら見る風景は空虚な他人の心の中に映る自分の姿よりも広大で豊かで、その中には思ってもみなかった多くの発見があるに違いない。『GIRLS』を見ていると、その時手に入れたものは「何者かである」ことよりももっと価値ある何かなのだと思える。
(パプリカ)

「恋してしまうかも…」紗倉まなが感動した、女優にとっての“ハメ撮り”

「わたし、無修正デビューすることになるのかなぁ」なんてとんでもないことを女友達がふと呟いたので、どうしたものかと尋ねてみましたら、「二年半ぐらい付き合ってる恋人と早く別れたい」というのです。「ん? 別れたい=無修正デビュー? わっつ?」と、話がまったく繋がらなかったので、どういうことなのか改めて聞き直すことに。

 以前から聞いていた話をまとめる限り、友達の彼氏さんは結構なメンヘラ加減を併せ持っている感じだったので「さっさと別れなよ、潮時だよ~(煽)」と薦めてみたのですが、「いや、そんな簡単にいかなくて……」とまたしても重いため息をつくのです。

「実はその、ハメ撮りしちゃってさ」……あぁ~~、なるほど。と、そこでようやく納得。彼女が恐れているのは、いわゆる“リベンジポルノされそう”という彼からの醜い逆襲像。動画を削除するために、彼が寝ている間にスマホのロック解除を何度か試してみたものの、パスワードがわからない……と嘆くのです。相手に消してくれと頼んでも「いやだ、俺のオナネタだから(グッ!b)」の一点張りでまったく取り合ってくれず、「ハメ撮りを消してから別れたくて……だからまだ別れられないんだよね」と呟く友。なんていうか、さ、最悪だ……(白目)。

 ハメ撮りがめちゃくちゃ興奮するというのは、確かにとてもよくわかります。もし私に恋人ができたら、「自分とのセックスを彼のオナニー材料にしてほしい」なんて勝手に願ってしまうし(いわゆるエロ動画の仲間入りです)、むしろその気持ちの延長線上でこの仕事をしている自分もいるのだなと思ってしまうことがあります。好きな人が見てくれるといいなあ、なんて淡い期待を込めた感情でもあります。

 学生の頃に付き合っていた人の、前の彼女さんとのハメ撮りをたまたま見つけてしまって、とんでもないショックを受けたことを思い出すと、ちょっとしたトラウマでもあるのですが……。「他の人の裸を見るくらいなら、いっそ自分の身体を見てほしい!」なんて妙な独占欲を抱いていた頃もあったりして。

 ただ、プライベートでのハメ撮りというのは、彼と育んでいる愛情とか性欲が“ほやほや”している時だからこそ興奮するのであって、別れ際になると「マジで流出されたらどうしよう……なんで撮っちゃったんだ……omg!」と後悔しか残らないじゃないですか。だから私は「ハメ撮りするのは指輪をはめてから!」を全面的にお勧めしております(白目)。傷ついてしまうのは、絶対的に女性ですからね。そもそも世の男性の皆様、絶対にネットに垂れ流すのはやめましょう!(敬礼)

◎恋しかけちゃったんですよ…撮影で

 ここまでハメ撮りの怖さを淡々と語ってきた私が言うのもなんですが、先日、ようやく、私もAVでハメ撮りデビューをしました(心の中、スタンディングオーベーションなり!)。来月に発売されるそれが、思っていた以上よりも楽しく、ものすごく興奮したもので……。プライベートとは別物だとわかっていながらも、友人の話には「わかるよ、ハメ撮りっていいよね」なんて共感してしまう部分もあったんです……。

 全編ハメ撮り作品っていうのは初めての経験だったので、かなりドキドキしました。もちろん撮影には常にドキドキがつきものだし、していることは同じ“セックス”なのだけど、何だかいつも違ったんです。室内には、いつもいらっしゃる大勢のスタッフさんはおらず、男優さんと二人きり、でも仕事……いろいろと特殊な環境や心情が混ざり合ったのかもしれません。

 仕事モードと素の自分との境目を打ち消されるような、一線を越えてしまいそうな、もしかしたら恋してしまうかも、なんていう怖さを、この撮影は私にずっと与え続けたわけです。それがいつもとは違うときめきに繋がったのであれば、毎回ハメ撮りコーナーが欲しくなってしまうよ……(喝)。

 私は学生以降きちんとした恋愛をしていないので、この種の撮影はとても照れくさくもありました。お相手となる男性と、セックスをする前に車やホテルで何時間か会話して、「あれ、この人とセックスなんて本当はしないんじゃないかな」っていうところから始まるので、なんか気が抜けちゃうんですよね。でも、気づけばキスをして裸になっていた自分にはっとして。騙されたとか記憶をなくしたとかではない、ある種の喪失感まで与えられるといいますか……。ビジネスだけど、ビジネスではないようなセックスをするわけです。これが学生時代の恋愛を思い出させてくれて、「あぁ、ハメ撮りモノって、職業病になりかけた自分に、きゅんとする気持ちを思い出させてくれるものなのだなあ」と常々感じました。

◎セックスしなさそうな監督との“ハメ撮り”

 ちなみにその時のお相手は、監督のカンパニー松尾さんとタートル今田さん、男優の黒田悠斗さんにしみけんさんという豪華すぎるメンバーだったのですが、皆さんの人となりがとても顕著に出るので、相性という曖昧な感覚が手に取るようにわかるものでした。それからというもの、私のオナネタはずっと「ハメ撮り」ものです……(白目)。

 初対面だったカンパニー松尾さんもタートル今田さんも、正直「この人たち、本当にセックスするのかな?」なんて疑問を抱くくらい、何だか性に執着がなさそうなすごく爽やかな風貌をされていて(申し訳ないことに、私が一度も彼らの作品を見たことがなかったからなんですが)、あまりにもセックスしている想像ができなくて「セックス、しなさそうですね……」なんて失礼な質問まで投げつけた始末。

 よく、ドエロい熟女女優さんとか、エッチなことが大好きそうなオーラをぷんぷんと醸し出している女の子(私はこの方々を「言わずもがなビッチ」という種類分けをしているのですが)とは真逆な、ピュアであまり性欲がなさそうな女優さんもいるじゃないですか。そういう方々に対して男性が抱く「意外なギャップ」と、私が松尾さんたちに抱いた気持ちは、同じような類なのかもしれません。

 総合すると、ハメ撮りモノの撮影っていろんなことを女優側に考えさせるきっかけにもなるし、人と向き合う上でとても奥深いものなのだなと、ちょっと感動してしまったのです……。

 なんて長ったらしい話を、まさか「ハメ撮りを流出されてしまうかも」と恐れている友達の前では口が裂けても言えなかったので、「とりあえず、手切れ金と契約書でどうにかしてもらうのはどうか」という法に任せた案を提案してみました。近頃の私にとって、ハメ撮り作品とは最高に心地良いオナネタだったり、いろんな意味で印象に残った撮影ではあるけれど、プライベートではゴムをつけるのと同じ心持で、快楽に溺れず「やめて」と言えることも女性には大切な強さだと思います……(南無)。出会い多き4月に芽生えた恋もだいぶ潤ってきている時期だと思いますで、皆様も気を付けてセックスを楽しんでくださいねー! あでゅ~~~~~~~。

クソ無責任ヒーローだけどチャーミング、『デッドプール』の絶妙なバランス

ここ一年くらいでしょうか、「正しさ」に対するアレルギーのようなものを持っている人の存在を、ツイッターや実際に交流のある人たちから感じます。自分も、きれいな感情だけを描いたものにだけ賛辞を送るのは何か違うとも思うし、正しいことを言っているつもりが実は間違ってた……というときシャレにならないかもしれないとも思うし、「過激な表現に目を背けるようなヘタレじゃないし!」という意識はどこかにあります。

正しさへのアレルギー傾向が強くなったのは、ハリウッド映画、特にディズニー映画にPCが描かれるようになったことは無関係ではないでしょう。しかし制作側も、受け取る側の「正しさアレルギー」をくみ取っていて、1年~2年前と今とでは、語るべき正しさが違ってきています。

例えば『ズートピア』で、差別されていたうさぎの主人公のジュディが、差別する側にもなり得るということを描いていた点は象徴的です。善と悪がはっきりしすぎていると、一方に偏っているように見えて反発を呼びやすく、両面が描かれていれば、見ているこちらもいろいろな解釈を考えることができます(そこにあまりにも隙がないとまた反発が起こりますが)。

最先端の制作の現場は、こうして「正しさ」の描き方を更新しているのですが、正しさを押し付けられているような窮屈さがまだ気になるという観客もいるでしょう。その反動として、「正しさなんてクソくらえだ、人には悪の部分はあるのだ」という気分が大きくなりつつあるようにも見えます。昨今、暴力が描かれた日本映画がたくさん作られたのも、間接的には関係があるのではないかと思います(この連載では、『ディストラクション・ベイビーズ』などを取り上げてきましたし、ほかにも『ヒメアノ~ル』や『シマウマ』などがあります)。

現在劇場公開中の『デッドプール』も一見、「正しさアレルギー」の空気に合った作品のように思っていました。というのも、この映画の宣伝では「クソ無責任ヒーローですけど、何か?」という言葉が選ばれ、「こんなヒーローを待っていた! お行儀のいい正義の味方はもう古い!?」と、このヒーローが「正しさ」とは正反対の立場の人だと伝えていたからです。私もその宣伝に惹かれて(というか、クソ無責任ヒーローがどういう描かれ方をしてるんだろうと思って)見に行きたくなったのも事実です。

この物語の主人公は、かつて特殊部隊の傭兵だったウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)です。特殊部隊を引退した後、悪いやつを懲らしめながら気ままに生きていた彼ですが、娼婦のヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)と出会い、結婚を決意した途端、ガンに犯されていることを知ります。絶望の最中、突如現れた謎の男に「末期ガンが治せる」と囁かれたウェイドは、ヴァネッサのもとを静かに離れ、謎の組織を訪ねることにします。組織の正体は、人体実験によって特殊な能力を得た実験体を世界に売り飛ばすという闇の組織でした。ウェイドはエイジャックスという男に度重なる拷問に等しい実験を課されます。その結果、ウェイドは銃で撃たれようと、手が切断されようと回復する特殊な肉体を手に入れましたが、副作用で全身の皮膚がただれてしまいました。ウェイドは、自ら「デットプール(死の賭け)」と名乗り、ただれた皮膚を治すためにエイジャックスを探し求めるのでした。

◎ウェイドのどこがクソ男?

デッドプールは、エイジャックスを探すためなら、彼のことを知る人や彼の側にいる人は容赦なく殺していきます。よくいるヒーローとは違い、彼は誰かのための「正しさ」がもとではなく、個人的な感情が行動原理になっています。でも、それが観客に受け入れられるのは、何か彼なりの基準や道理があるからでしょう。

例えば、デッドプールが暴力をふるう相手の多くは男性ですが、初めて女性に暴力をふるうシーンで、「ここで殴るのが正義か、殴らないのが正義か」と、ユーモア交じりで観客に問いかけます。

これは、タランティーノの『ヘイトフル・エイト』で描かれたことにもつながるものでしょう。女性であれ男性であれ、同じ条件下にいるとき、女性だから/男性だからでその対応を変えるのが是か非か。それは暴力を行使する場面でも同じなのかということです。状況によって、判断は難しいことですが、そんな問いかけもある映画です。解説してる自分がダサい感じがしますが。

ほかにも、国際女性デーのセックスシーンなど(これはもう説明するのも野暮なので見てください)、高度な笑いと問いかけがちりばめられているこの映画。でも、これらの問いかけやジョークは、女性を揶揄するというよりは、女性をめぐる状態に対して観客と共有するくらいの気持ちで見れました。「こういう今の風潮、息苦しくてやだよねー」というよりは、「これくらいのラインわかってやってるんですよ」という感じでしょうか。

というのも、『デッドプール』にはミソジニーがなくて愛情深さを感じるのです。例えば、ウェイドの行きつけのバーで抗争が始まりそうなとき、ウェイドはブロウジョブという甘ったるいカクテルを頼み、それを女性に渡して危険から回避させてあげます。また、バーで娼婦のヴァネッサと出会ったシーンでも、単純に彼女にお金を払ってすぐさまベッドに入るのかと思いきや、ヴァネッサのことをもっと知るために、一緒にゲームをして普通のデートのような時間を過ごします。このシーンを見たら「ウェイドのどこがクソ男だよ!」と思わずにいられません。

彼が血清の副作用で皮膚がただれてしまった後、同居人として盲目の人を希望したのも、自分の見た目で同居人を恐れさせてはいけないという優しさだと思うし、同居人となった黒人のぶっとんだ老婦人との間にも、絶妙な距離感と愛情のある関係性ができあがっていました。しかも、ちゃんと愛情があり、支配/被支配関係ではない(本当はこっちのほうが大切)の中での毒舌(毒蝮三太夫的なコミュニケーション)というのも、アリなところではアリなのだなということにも気づかせてくれました。

◎「キャプテン」を名乗らなかったデッドプール

映画の宣伝で言われていたように、『デッドプール』が「クソ」だとしたらどういうところでしょう。みんなのためのヒーローではなく、私怨のために復讐するヒーローだというところもあるでしょう。また、下ネタや毒舌を言うところや、シリアスな状況でも、ぜんぜん関係ないことをつぶやいたりするふざけた精神もあるでしょう。X-MENという組織には入らないところもアウトロー、アンチヒーローということでしょう。

でも考えてみると『デッドプール』は、組織であるX-MENとはつかず離れずの関係性を保っていて、協力できるときは共に行動もします。それを見ていると、X-MENたちの真面目で人のための正義を目指すという思想を否定しているのではないことがわかります。

組織には危険もあります。以前、『アイアムアヒーロー』では、権力を手に入れ、支配者であることに酔うと目がおかしくなると書きました。『デッドプール』では、ウェイドが覚醒してミュータントになった後、自分の名前を考えるときに「キャプテン・デッドプール」と名乗りそうになりますが、すぐに「キャプテンはやめておこう」と言います。ここに大きな意味があると思いました。

「キャプテン」を名乗るということは、誰かと行動を共にし、その上に立っていることを意味します。けれど、ウェイドは、自分は誰かを束ねる立場ではなく、自分の目的のために生きてる人だから「キャプテン」を使うのはやめようと思ったのでしょう。

もちろん映画『キャプテン・アメリカ』とも無関係ではありません(原作にはこの映画には書かれていない因縁もあるようですが)。『キャプテン・アメリカ』のスティーブ・ロジャースは、自らを「キャプテン・アメリカ」と名乗ること、つまり他者の期待を背負うことで、(彼の中で)男になることができましたが、『デッドプール』のウェイドの場合は違います。他者を背負うことには、支配者になり、力をより間違った方向に使ってしまうという危険性もあります。それをうまく扱いきれないかもしれない自分には、キャプテンを名乗る資格はないと考えたのではないかと、私は深読みしてしまいました。

もちろん、『キャプテン・アメリカ』は、ぶれずに正義を貫ける人物だから「キャプテン」と名乗れる。でも、よりリアルで普通の感覚を持ったウェイドは、自分は正義をちゃんと取り扱える人間ではないのではないか、と自分を疑う冷静さを持っているのではないかと思うのです。この冷静さは、悪いことではありません。『アイアムアヒーロー』の伊浦のように、凡人なのに力を手に入れた途端、力の使い方を間違ってしまう人もいるからです。

ウェイドは、自分は普通の人だと自認しているからこそ、勘違い男にならないために、組織と距離を置き、人の上に立つことを拒否しているのかもしれないし、それは、彼なりの正しさのようにも思えるのです。また彼が自分を冷静に見るということには、『第四の壁』を突破して、観客に語り掛けることで自分にも突っ込みを入れられていることとも関係があるように思うのです。

【エロメン☆タイム】「かき乱しちゃってもいい?」担任教師・月野帯人にベッドやお風呂で愛される

 女子高生の春子は、担任教師の松田(月野帯人)と従兄妹であることが判明し、なし崩し的に同棲するハメに……という、ドキドキの学園ストーリー『恋愛◆学園 LESSON.1 〜秘密の同棲〜』。前回は、入浴中の春子のもとへ松田が全裸で突撃、イチャイチャしていいムードになったものの、挿入直前で松田が寝落ちするという思わせぶりなところで終了しました。

 松田のことでモヤモヤしていた春子ですが、好意を寄せていたクラスメートの長谷くん(渡部拓哉)から屋上に呼び出され、なんと告白されます! 「返事は今度でいいから、考えといてくれたら嬉しい」と言う長谷くんに、神妙な面持ちで頷く春子。あれ、長谷くんのこと好きだったんじゃないの~? 即OKなはずでは? そんな2人を松田が見つめていたことは当然知りません。

 帰宅後、長谷くんに告白されて嬉しかったものの、OKできなかった自分に戸惑う春子。そこに松田の登場です。「ねえ、ご飯ある?」「おい、豚!」と言っても返事をしない春子。豚って(笑)。豚と言われていることさえ悩みすぎて聞こえない春子を松田が押し倒します。

「長谷に告白されて嬉しかった?」
「俺なんかどうでもよくなっちゃった?」
「昔、はるが幼稚園生の頃、『兄ちゃんのお嫁さんになりたい』って言ったよね」
「入学した時も、俺が従兄って気づいてなかったもんね」
「長谷が好き? 俺のことは? もし俺のことが好きなら、はるからキスして」

 どうやら松田は以前から春子のことを気にかけていたようです。キスで返事を求められて動揺する春子を見て、松田は「困らせちゃったね、ごめん」とその場を去ろうとしました……が、春子が松田のほっぺにチュッと「好き」の合図!!!

 「ずるいよ、先生はいっつもあたしの気持ちかき乱して」と抱きついてくる春子。「好き」と言う松田に「あたしも……」でキス。2人の気持ちが通じ合った瞬間です。

 松田は「かき乱しちゃってもいい?」と言い、少しずつ春子の服を脱がせていきます。胸にむしゃぶりつき、太ももにキスの雨を降らせてクンニ。まだ履いたままだったスカートも脱がせて、春子を紺ソックスのみの姿にすると、手マンとクリトリス舐めをします。

 その後、春子が松田にフェラ。ほんの少ししか咥えていないのに、「気持ちいい、すごい、はる……もう挿れたくなってきちゃった」と正常位で挿入。今回は寝落ちせずにきちんと合体できました☆ その後、側位→バック→正常位でフィニッシュ。翌日、長谷くんにはお断りの返事をして、2人は従兄妹で先生と生徒という関係ながら、晴れて恋人同士に!

 しかし春子は、職員室で美人教師・ナツミ先生と仲良くする松田を見かけてしまいます。松田に対して「私よりも、ナツミ先生のような大人の女の人のほうがお似合いなんじゃ……」と不安になりつつ、お風呂に入ろうとした春子。しかし、ドアを開けると全裸の松田がいました。この2人の“お風呂でバッタリ”はもはやお決まりですね。

 嫌らしく、愛おしげな手つきで春子の体を洗っていく松田。バスタブに浸かってからも「はるは本当に可愛いね」とメロメロです。しかし、職員室での一件が気になっていた春子は「ナツミ先生のほうが……」と。春子に嫉妬されて嬉しそうな松田は「俺ははるのことが好きなんだよ」とキス。

 だんだんエロい雰囲気になっていき、春子に乳首を舐めさせたり、フェラをさせる松田。さらにはパイズリもリクエストします。JKにご奉仕される男性教師……AVだからこそできる描写です!

 挿入は立ちバックで。松田が動く度、ピチャピチャと水音が響くのがまたエロい。松田がバスタブに腰掛け、座位でも深く感じ合います。そのまま抱きしめ合ってFin。

 お風呂セックスが2回も収録された、水辺フェチ(?)にはたまらない今作。「おい、豚!」なんて呼んだかと思えば、突然「可愛い」と言い出すなど、松田のアメとムチの使い分けも見どころです。かき乱されちゃってくださ~い!

精子が元気なら、男は肯定される。精子観察キットを私たちはどう使うか?

 ねえ、自分の精子を見てみない? と友人のホモくん(20代、ゲイ男子)に声をかけ、精子観察キット「TENGA メンズルーペ」を手渡し、そのついでに「精液・精子談義」に花を咲かせた模様は先週お伝えしましたが、今週は実際に精子を自分の目で見てもらいます!

ホモくん「まずパッケージを開いて、中から精液採取用のプラスチック製カップとスポイトを取り出す。で、説明書の手順に従ってカップを広げて、その中に射精! 何をオカズにしたかはナイショです(笑)。その後、5分ほど放置して……」

ーーなんで放置するの?

ホモくん「ドロッとした半固体状の精液が時間が経つと液状化するから、採取・観察がしやすくなるんだって。でも、待っているあいだも忙しい。ルーペレンズとプレートをスマホにセットしなきゃいけないから。ルーペレンズをスマホのフロントカメラの中心に来るようにセットするのが、意外とむずかしくて……。こんなモタモタしてたら、精子の活動が弱まってしまうんじゃないか、死んじゃうんじゃないかと気が気じゃなかったよ。なんとかセット完了して、ビデオモードにできたんだけど、さっきまでエロ動画を見ていたスマホで精子を見るって、なんともいえない不思議な気分になったよ」

ーースマホ、万能すぎ(笑)。

ホモくん「カップのなかに射精した精液から、スポイトで少しだけ精子をすくうんだけど、量が多すぎるとボヤけてよく見えないんだって。これぐらいかな? いやいや、さすがに少なすぎじゃね? と思いながら量を調節。俺は精液好きのホモだからこういう作業もイヤじゃないけど、ノンケで妊活目的だったら気が重くなるかもね。で、やっと観察の準備が整ったわけだけど……」

◎ホモくん、自分の精子を見る

ーー見えた? どうだった?

ホモくん「それが、ピント合わせるのが至難のわざ! スマホの機種にもよるんだろうけど、むちゃくちゃ手間どったよ。精液がこぼれないように位置を微調整して、部屋の明かりを一点に集中させて。まるで太陽の黒点を探すような。いやいや、望遠鏡で月面のクレーターにピントを合わせるような。暗闇のなかこんな作業をしてると、理科の実験を思い出してノスタルジックな気持ちになっちゃった」

ーーエロの要素、皆無だね。

ホモくん「ほんとだよ~、精液大好きな俺でも集中力が高まりすぎてエロが入り込む隙がない! そうやって明かりとピントを調整しながら格闘していると……やっと見えた! 『あっっっっ、これ精子だ!!!!』って思わずひとりで叫んじゃった(笑)。たくさん動き回る……いや、泳ぎ回っているっていったほうが適切かな。俺の精子、すげー元気! めっちゃ動いてる!」

ーー自分の身体で造られたものが、自分の身体を離れて元気に動き回っているって、不思議な感じ。

ホモくん「チンコが男にとって“息子”なら、コイツらは何ていえばいいんだろうね。動きに意志が感じられるんだよ、やっぱり卵子を求めているんだろうな。ほんと神秘的で感動した。小学校のとき学校の先生が、『紙に鉛筆の先でチョンと丸を書いたぐらいが、卵子の大きさです。精子は人間の目には見えない大きさです』って話してくれたのをなぜか覚えてるんだけど、先生~、いま俺その精子を目で見てますよ~! これが人間になるのですね!」

ーー先生にその感動、届くといいね~。なんだかんだ自分の精子が元気だったから、めいっぱい感動できたんだろうね。これで数が少なかったり元気がなかったりしたら、そんな無邪気に楽しめなさそう。男性は精子に問題がある=不妊って診断されると人格まで傷つけられたようになるって聞くけど、精子が元気っていうだけでこれだけ肯定感を得られるんだね。

ホモくん「とりあえず、桃子にも俺の精子の動画送っておくね!」

ーー動画を記録できるってスゴイね! (LINEで送られた動画を見る)わ、ほんとに泳いでる。精子はよくオタマジャクシに喩えられるし、別の生き物って感じがあるけど、こうやって自分の目でみるとそのイメージがさらに強まるね。この子たちがいまここに存在する目的が、卵子と出会うことなんだとすれば、ぜひ叶えてあげたいとすら思ってしまう。

◎精子を見たことで広がる想像力

ホモくん「先週、『精液がたくさん出る=俺のチンコは元気! だから精子も元気!』という男の思考回路について話したけど、それって何の根拠もないただの思いこみ。なのに、『俺は勃起もしてる。精液を子宮に出せてる。俺には何の問題もないんだから、それで妊娠しなかったら女の身体に問題があるはず!』って威張り散らすのは、ほんとサイテーだよね。そこまでいうんだったら、こうして一度、自分の目で見てみればいい。元気に動いているのを見ると、安心するから。もちろんこれで見ただけでは、妊娠させられる能力があるかどうかはわからないから、妊活中の人ならちゃんと病院に行ってほしいけど」

ーー本来なら、精子の状態がよくなくても、それはその人の人間性とか男性としての魅力とかにはまったく関係のないことだしね。精子は精子、俺は俺。スマホが壊れたら修理に出すような感覚で、精子が元気なければ病院で相談すればいい……とまで言っちゃうとちょっと乱暴かな。

ホモくん「自衛官の友人がいて原発の調査の仕事をしているんだけど、彼は奥さんに急かされて病院に行って、精子に影響がないか検査したって。そのぐらいの動機がないと、多くの男は重い腰を上げないんだろうね。病院でオナニーしてそれを医者に見せる、ってのが恥ずかしいのは俺もよくわかる」

 だからこそ、TENGA メンズルーペ! というほど単純な話ではないのでしょうが、今回ホモくんの観察体験を聞いて、彼が観察前に感じていたような不安感を男性が体験するだけでも有意義だと私は感じました。そのうえで「女性も自分の身体に対して不安なんだ」「もし卵子の状態がよくなくても、それで人格を貶めるようなことはいわれたくないんだ」という想像力につなげてくれれば……。

 バイブレーターのラブグッズに関して、私はいつも「道具は道具、使う人次第」と言っていますが、このキットにも同じことが言えると思います。TENGA メンズルーペで不妊の何かが決定的に解消されるわけではありません。それよりも、ふたりの関係性を向上させる方向に使ってほしい。男性が自主的に使うにしても、パートナー女性がこれを勧めるにしても、その基本を忘れてはいけないですね。

■桃子/オトナのオモチャ約200種を所有し、それらを試しては、使用感をブログにつづるとともに、グッズを使ったラブコミュニケーションの楽しさを発信中。著書『今夜、コレを試します(OL桃子のオモチャ日記)』ブックマン社。

不倫、加齢、不感症、バツイチの悩み…田渕さんのベテランテクで一挙解決!

 イケメンたちがさまざまなシチュエーションや言葉で癒してくれる、サプリのような作品『私だけのDarlin'』シリーズ。今回は皆さんご存知、ベテラン男優の田渕正浩さんが登場しますよ~!

 最初の主人公は27歳主婦。夫に不満があるワケじゃないけど、自宅に他の男性を招き入れてチョメチョメしてしまいました。罪悪感に襲われていると、田渕さんが「旦那さん以外としたこと、後悔してるの?」と優しく問いかけてきます。「後悔っていうか、申し訳ないっていうか……」「夫に正直に話そうかな」という彼女に、田渕さんが諭すのです。

「愛してるんだったら、このことは絶対に言っちゃダメだよ」
「嘘だって必要な時があるんだ」
「いいかい、さっきのことはもう忘れて、今までの素敵な奥さんでいればいいから」
「ご主人もあなたのことずっと愛してる。だから、旦那さんを苦しませない」
「寂しくなったら、私を呼びなさい」

 その後、彼女のおでこ、そして唇にキス。ついばむようなソフトなキスから、舌を入れる激しいキスまで。最後は笑顔で彼女の髪を撫でて終了。田渕さんの“まあまあ長めのキスシーン”……ベテランテクにクラクラしますよ!

 続いて、32歳主婦。最近、体力の衰えを感じている彼女は、家事が疎かになり、女としての時間もないことに悩んでいる様子です。疲れた彼女がソファでうたた寝していると、田渕さん降臨☆

「家事が忙しいんでしょ、お疲れ様」
「健康になる方法を教えますよ」

 と、肩の柔軟体操を教えてくれます。ベテラン男優と主婦が2人で肩回しをするというシュールな光景……!

 肩がほぐれると、「あなたを待ってる人がいるんだから、今日一日ゆっくり休んで、明日からまた頑張ってください」。おでこと唇にキスし、「いっぱい健康になって、いっぱい美しくなって、もっともっと女としての魅力を上げていってください」「素敵ですよ、すごく美しい」と自信を取り戻すようあの渋い声で囁くのでした。

 3人目は24歳独身OL。お悩みは『セックスでもオナニーでもイケないこと』。ベッドでオナニーをしたものの、またイケずに落ち込む彼女のところに「満足できてないんじゃない?」。もちろん、声の主は田渕さんです。

 「AVとか見ると、女優さんはみんなすごく感じてて、ちゃんとイッてて……あたし不感症なのかな」とこぼす彼女。田渕さんは「無理して感じたり、イク必要ないんじゃないの?」とキスします。

 服を脱がせて乳首を舐めながら「気持ちいいかい?」「ちゃんと感じてるね」と言う田渕さん。パンツの中に手を入れてアソコを刺激しながら、「おまんこ舐めようか……」と2回も囁く場面も! 大事なことなのでリピートしたんですね~。

 クンニ後、「自分でゆっくり挿れてごらん」と騎乗位を促す田渕さん。感じている彼女の表情を下から眺めながら、

「素直に感じる君はすごく可愛いよ」
「無理して男を悦ばせようとして感じなくていいから」
「そのままの君で十分素敵だし、相手も喜ぶと思うよ」

 と、癒しワードを連発。側位では「どうだい、気持ちいいとこ当たってるかい?」、正常位では「キレイだよ、すごく素敵だ」。田渕さんのテクと優しさにより、彼女は念願の初イキを達成します。「これからも自分自身にプレッシャー与えなくていいから」「イッてもイカなくても、君は十分素敵なんだから」と、体と心を解きほぐしてくれました。

 最後は30歳のバツイチOL。夫の浮気が原因で離婚した彼女は、一人暮らしを始めることに。引っ越し先で荷物を片付けていると、田渕さんが「ここが新しい部屋か。日当たりのいい部屋だね」と登場!

 バツイチになり、今後の人生に不安を感じている彼女に対して、田渕さんは「30歳で独り身になったわけだ。自分の好きな恋愛して、旅行行って、どんどん自由にやっていけるじゃない」と前向きなアドバイスをし、「おいで」とキス。

 「キレイだよ」と言いながら彼女の服を脱がせ、「自由なんだからさ、いっぱい好きなことして、気持ちよくなって」と言いながらアソコを愛撫。お互いにパンツの中に手を入れて触り合うと、「ああ~たまんない……」「いっぱい楽しもう」と田渕さんも楽しそうです。

 胸を舐めたり、パンツの上からクンニ&ノーマルクンニで感じさせた後、側位で挿入。彼女を優しい眼差しで見つめながらピストンする田渕さん。正常位では終始密着してそのままフィニッシュ。「女としても今が一番魅力的だよ、私が言うんだから間違いない」って、離婚直後の心が弱ってる時に言われたらありがたい台詞です。

 田渕さんのダンディーな魅力が爆発し、枯れ専女性には垂涎モノの今作。オナニー中に突然「満足してないんじゃない?」と登場するなど、ちょっとコミカルな要素もある女性との初対面シーンも見どころです。