どう見ても積載量オーバー!? ベトナムの“動く芸術”『それ行け!! 珍バイク』

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『それ行け!! 珍バイク』(グラフィック社)
 アオザイの国・ベトナム。北は中国、西はラオスとカンボジアに接した東南アジアの美しいこの国には、世界各国から年間600万人の観光客が訪れる。かつてフランスの植民地だったこともあって、ほかの東南アジア諸国に比べてフランス人旅行客の姿が目立つが、そんな観光客がまず驚かされるのは、この国のバイクの多さだろう。ホー・チ・ミン市だけでも200万台以上のバイクが、道路という道路を縦横無尽に走っている。通勤・通学はもちろんのこと、農作物や工業製品を山積みにした何万台ものバイクが行き来する。朝夕のラッシュ時の渋滞はすさまじく、あたり一面が灰色の排気ガスで充満。エンジン音やクラクションがあちらこちらで鳴り響く、アジア屈指のカオスな街だ。  そんなバイク大国ベトナムの、どう見ても完全に積載量をオーバーした「珍バイク」を激写した写真集が、『それ行け!! 珍バイク』(グラフィック社)だ。  ベトナムでは、1960年代から日本メーカーの小型バイクが普及し始め、中でもホンダのスクーターやスーパーカブの人気が圧倒的に高い。ベトナム人がバイクのことを“ホンダ”と呼ぶのはよく知られた話だ。公共交通機関が発達しておらず、狭い路地が多い都市部では、人やモノを運ぶのにはバイクが最も便利で最速の手段なのだ。
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61501.jpg 6-150-4.jpg  ベトナム人の間では、人もモノも“乗せられるものは乗せられるだけ乗せる”というのが常識なようで、数人で移動するときも基本は1台、多いときには4人で1台に乗っていることもある。荷台の荷物にしても、食料や日用品は序の口。生きたまま足を縛られた鳥や豚、山積みにされたペットボトルや金物、ビニール袋に小分けされた金魚、布団、タイヤ、鏡など、人々が必要とするものはすべてバイクに積まれる。バイクは、ベトナム人にとって最も重要なライフラインの一つなのだ。  また、その積み方も実に見事で、上下左右前後、スペースさえあればどこでも積みまくる。しかも厳重に梱包されるわけでもなく、紐でぐるぐるっと固定した程度。日本なら完全に違反切符が切られるレベルだが、どうやらベトナムではヘルメットさえかぶっていれば一応問題ないらしい(本書の中にはノーヘルの人も多いが)。よくもまあこんな状態で走れるものだと感心してしまうが、ライダーたちは何食わぬ顔で街を走り抜けていく。 6-150-2.jpg 6-150-3.jpg 6-150-1.jpg 197.jpg  ここ数年のベトナムの経済発展は著しく、都市部には高層オフィスビルや高級ホテルが次々と建設され、狭い路地は拡張されつつある。しかし、そういった変化もお構いなしに、今日もホー・チ・ミンでは何万台ものバイクがうなりを上げて走り回っている。そんな彼らのパワフルさこそ、ベトナムの本当の魅力なのかもしれない。

苦役列車はどこへゆく!? 東スポ1面を飾った芥川賞作家・西村賢太の次なる狙いとは

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『西村賢太対話集』(新潮社)
「そろそろ風俗に行こうかなと思っていました」  文学界の権威である芥川賞の授賞式で、このように発言したことから一躍時の人となった小説家・西村賢太。こればかりでなく、なんと「芥川賞・西村賢太氏『風俗3P告白』」という見出しで、かの東京スポーツ1面にも登場するという快挙まで成し遂げた。これらの発言からわかる通り、常識では計り知れない西村の無頼なキャラクターは、近年おとなしくなってしまった文壇でも異彩を放っている。そんな奇才が、石原慎太郎、町田康、島田雅彦、高田文夫らとの対談をまとめた『西村賢太対話集』(新潮社)を刊行した。  最終学歴は中卒、パソコンも使えず、ローマ字も編集者に手伝ってもらわないと書くことができない。「いつの時代だ?」と疑問に思ってしまうほど、その人となりは一般人を超越している。この対談集では西村の創作の裏側が覗けるとともに、「勝谷誠彦と揉めた」「芥川賞を受賞して3,000万円印税が入ってきた」「中学時代は町田のトシちゃんと言われていた」と西村ファンにはたまらないエピソードを披瀝。さらには、文芸誌編集者を「へなちょこサラリーマン」とこき下ろし、坪内祐三氏とともに、文壇の“枕編集”の実態を暴露するなど、そのイツザイぶりを遺憾なく発揮している。  とくに秀逸なのが、放送作家の高田文夫との対談だ。本人を前に「弟子入りしようと思っていた」「(オールナイトニッポンの)センセイの畳みかけ方と言葉のキレは確実に影響を受けてますね(中略)。『オールナイト』を聴いてなかったら、こういう形で僕の小説は書けなかった」と、憧れの人物を前に、西村の溢れ出る気持ちは止まらない。  では、彼の小説家としての側面はどうだろうか?  芥川賞を受賞した『苦役列車』(新潮社)は、80年代後半と思われる東京を舞台に、北町貫多という19歳の青年が、日雇い労働者としての生活を送る物語だ。作者のキャラクターも奏功してか、発行部数は35万部以上、今夏には森山未來、AKB48の前田敦子らをキャスティングした映画も公開されている(もっとも、この映画について西村自身は「見る価値がない」と不満をぶちまけているようだが……)。  彼が書くのは、実際に自分の身に起こった事件を描く「私小説」。田山花袋や志賀直哉、田中英光など、日本の文学界では伝統的に書かれてきた手法だ。『苦役列車』も、西村が実際に経験した日雇い労働の現場が元に描かれている。江戸言葉のような古風な文体を持ち、20世紀前半に活躍した小説家・藤澤清造に私淑する西村。そのキャラクターとは裏腹に、彼ほどしっかりと日本文学の伝統に根ざしている小説家は多くはないだろう。  本書では、この私小説という文学の伝統的なフィールドで、彼が目指している方向も語られている。  「作品それぞれが連絡をとりあってつながるようにもしちゃっているんですよ。卑怯なやり方かもしれないんですが、そこが僕の唯一の強みでもあるかなと(中略)いわゆる連作とは違う形で無造作にやりながらも、終わってみたら大きな世界になっていたという私小説というのはまだないような気がするんです」  西村自身「超大河小説」と名付けるこの計画の成功は、本人も認めている「まだ書けていないこと」を書ける日が来るかによって決まるだろう。  「そろそろ自分の痛いところをついても揺るがないだけの土台はできたかなと思ってるんでこれを一つのステップとして、自分にとって本当に痛いところを徐々に書いていこうと思っています。逮捕された親父のこととか」  小学校5年生の時、父が性犯罪で逮捕された経験は、西村という人物を形成するにあたって大きな影を落としている。自らの体験を作品に売り渡す私小説というジャンルで書き続ける限り、西村の“苦役”が終わることはない。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●にしむら・けんた 1967年、東京都江戸川生まれ。中卒。2007年、『暗渠の宿』(新潮社)で野間文芸新人賞を、2011年『苦役列車』(同)で芥川賞を受賞。著書に『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社)、『小銭をかぞえる』(文藝春秋)などがある。
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オラオラオラオラオラァなジョジョの名ゼリフ集『ジョジョの奇妙な名言集』

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『ジョジョの奇妙な名言集 Part1-3』
(集英社)
 7月5日、六本木ヒルズで「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」の記者発表会が行われた。連載25周年を記念したこの原画展は、7月末に仙台、10月に東京で開催され、総数100点以上の原画が展示される予定だ。合わせて、テレビアニメ化と新作ゲームの発売も発表されるなど、連載開始から25年を経てなお高い人気を誇る『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ。今から開催を待ちきれないファンも数多くいるのではないだろうか。  そのジョジョシリーズの名言をズキュウウゥンと集めたのが『ジョジョの奇妙な名言集 Part1-3』(集英社)。「ジョジョの奇妙な冒険」第1部から第3部までの名言・名場面を一挙収録した本だ。 「さすがディオ! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる! あこがれるゥ!」(1巻・ディオの取り巻きたち) 「ふるえるぞハート! 燃え尽きるほどヒート! 刻むぞ血液のビート!」(4巻・はじめての波紋疾走を繰り出すジョナサン)
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jojo03.jpg  など、すっかり定番となった決めゼリフ132篇が掲載されている。もちろん、承太郎の「オラオラ~~」やディオの「おれは人間をやめるぞ! ジョジョ――ッ!!」も漏れなく押さえられていて、ファンの期待を裏切らないチョイスだといえる。読み返すと、「スピードワゴンはクールに去るぜ」(2巻・ジョナサンの病室から去るスピードワゴン)など、脇役にもキラリと光るセリフがあって、一人ひとりのキャラにあらためて愛着が湧いてくる。巻末には評論家・中条省平氏の13Pに及ぶ解説も掲載されており、こちらも読みごたえのある内容となっている。  ジョジョの魅力とはなんなのか。中条氏によると、ジョジョの物語とは“人間の空間的・時間的限界の超越をめぐる多面的な遍歴譚”であるという。人間を超越した肉体を持つ柱の男(空間的超越)や、時間をも止めるディオ(時間的超越)ら強敵に対し、勇気や知恵、怒りといった人間的要素で打ち勝ってゆく。また、定められた運命を自らの力で変えるという描写もシリーズを通して散見される。 「人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!! 人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!」(3巻・屍生人を一掃するウィル・A・ツェペリ)  特殊な絵柄や奇抜なセリフばかりでなく、徹底した生の肯定=人間讃歌というブレないテーマが根底にあることが、25年もの間、支持され続けている最大の理由なのだろう。原画展、アニメ化、ゲーム化、そして連載中の「ジョジョリオン」がオラオラオラオラオラオラ~~と打ち出される今夏秋。この『ジョジョの奇妙な名言集』で旧作をおさらいしておけば、新しいジョジョワールドに、より深く浸ることができるだろう。 (文=平野遼)

なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

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『ベケットといじめ』(白水uブックス)
 滋賀県大津市で中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺をした事件は、連日多くのニュース番組で報道されている。生徒を守るはずの存在である教育委員会や学校側の不手際、「いじめ」という言葉ではくくれないほど凄惨な事件の内容は、社会に衝撃をもたらしている。  大津市の事件では生徒へのアンケートなどから「葬式ごっこ」といういじめが発覚したが、これは、1986年に起こったいじめ自殺事件「中野富士見中学校いじめ自殺事件」でも行われていた手口であった。そして、この中野富士見中学の事件を、繊細な手つきで分析したのが、日本を代表する劇作家である別役実だ。  野田秀樹、鴻上尚史、松尾スズキら後発の劇作家たちに対して多大な影響を与えた別役実。ネットユーザーならば、デイリーポータルZなどでも執筆するイラストレーターのべつやくれいの父といえばピンとくるだろうか。彼が中野富士見中学の事件を手がかりに、日本の社会構造を分析した『ベケットと「いじめ」』(白水uブックス)を読むと、25年以上前に出版された本ながら、まるで大津市のいじめ事件のことを書いているように錯覚してしまう。  中野富士見中学校の事件も、生徒による被害者への日常的な暴行、教師たちの保身、そして「葬式ごっこ」と、大津市の事件と酷似している。中野富士見中学で自殺したSくんは、机の上に自分の写真や、担任教師までもが参加した寄せ書き、線香までしつらえられた「葬式ごっこ」の現場を目の当たりにしながら、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑った。  また、遺書には「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉に続き、「オレが死んだからって、他のやつが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君たちもばかなことをするのはやめてくれ」と綴られている。  このいじめ自殺の深層を分析するにあたって、別役が参照するのが、不条理演劇の大家として『ゴドーを待ちながら』などの作品を執筆したサミュエル・ベケットだ。  簡単に、不条理演劇について解説しよう。  19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。  「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。  では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?  その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。  「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。  劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。  例えば、大津市の事件において「どうして逃げなかったんだ」という疑問の声が聞かれる。けれども、いじめの当事者たちは、主体的に行動する「個人」ではなく、「関係性のなかの『孤』」であるのだから、「逃げる」という主体的な選択ができない。だから、「逃げろ」というアドバイスは届くことがない。同様に「いじめをやめろ」という言葉も響くことはないだろう。  では、いじめを止める方法はないのだろうか? 『ゴドーを待ちながら』の登場人物たちが永遠に来ることのないゴドーを待ち続けなければならなかったように、ひとたびいじめの構造が生まれたら、誰もそこから逃れることはできないのだろうか?  別役は2007年に、『ゴドーを待ちながら』の後日譚として、『やってきたゴドー』という作品を執筆している。タイトル通り、ゴドーがやってきて「ゴドーです」と名乗るこの作品。しかし、待ち続けていたはずの男たちは、「わかっています」と言うだけで、どうしても待ち焦がれていたゴドーとの出会いを喜ぶことはできない。この作品を通して、別役は僕らを縛り付けて、がんじがらめにしている関係性は、ひどく無意味なものであると宣言しているように感じる。  この25年間、いくら「いじめはいけない」と声高に叫んでも、学校の中からいじめがなくなることはなかった。別役の劇をヒントに取り、いじめを止める方法を考えるならば、「いじめる―いじめられる」という関係の“先”を見せることで、当事者たちに関係そのものの無意味さやバカバカしさを気づかせることではないか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●べつやく・みのる 1937年、旧満州(現・中国東北部)生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。戯曲『象』(62年)で注目され、『マッチ売りの少女』(66年)と『赤い鳥の居る風景』(67年)で岸田国士戯曲賞を受賞。2007年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊國屋演劇賞受賞。

なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

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『ベケットといじめ』(白水uブックス)
 滋賀県大津市で中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺をした事件は、連日多くのニュース番組で報道されている。生徒を守るはずの存在である教育委員会や学校側の不手際、「いじめ」という言葉ではくくれないほど凄惨な事件の内容は、社会に衝撃をもたらしている。  大津市の事件では生徒へのアンケートなどから「葬式ごっこ」といういじめが発覚したが、これは、1986年に起こったいじめ自殺事件「中野富士見中学校いじめ自殺事件」でも行われていた手口であった。そして、この中野富士見中学の事件を、繊細な手つきで分析したのが、日本を代表する劇作家である別役実だ。  野田秀樹、鴻上尚史、松尾スズキら後発の劇作家たちに対して多大な影響を与えた別役実。ネットユーザーならば、デイリーポータルZなどでも執筆するイラストレーターのべつやくれいの父といえばピンとくるだろうか。彼が中野富士見中学の事件を手がかりに、日本の社会構造を分析した『ベケットと「いじめ」』(白水uブックス)を読むと、25年以上前に出版された本ながら、まるで大津市のいじめ事件のことを書いているように錯覚してしまう。  中野富士見中学校の事件も、生徒による被害者への日常的な暴行、教師たちの保身、そして「葬式ごっこ」と、大津市の事件と酷似している。中野富士見中学で自殺したSくんは、机の上に自分の写真や、担任教師までもが参加した寄せ書き、線香までしつらえられた「葬式ごっこ」の現場を目の当たりにしながら、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑った。  また、遺書には「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉に続き、「オレが死んだからって、他のやつが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君たちもばかなことをするのはやめてくれ」と綴られている。  このいじめ自殺の深層を分析するにあたって、別役が参照するのが、不条理演劇の大家として『ゴドーを待ちながら』などの作品を執筆したサミュエル・ベケットだ。  簡単に、不条理演劇について解説しよう。  19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。  「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。  では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?  その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。  「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。  劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。  例えば、大津市の事件において「どうして逃げなかったんだ」という疑問の声が聞かれる。けれども、いじめの当事者たちは、主体的に行動する「個人」ではなく、「関係性のなかの『孤』」であるのだから、「逃げる」という主体的な選択ができない。だから、「逃げろ」というアドバイスは届くことがない。同様に「いじめをやめろ」という言葉も響くことはないだろう。  では、いじめを止める方法はないのだろうか? 『ゴドーを待ちながら』の登場人物たちが永遠に来ることのないゴドーを待ち続けなければならなかったように、ひとたびいじめの構造が生まれたら、誰もそこから逃れることはできないのだろうか?  別役は2007年に、『ゴドーを待ちながら』の後日譚として、『やってきたゴドー』という作品を執筆している。タイトル通り、ゴドーがやってきて「ゴドーです」と名乗るこの作品。しかし、待ち続けていたはずの男たちは、「わかっています」と言うだけで、どうしても待ち焦がれていたゴドーとの出会いを喜ぶことはできない。この作品を通して、別役は僕らを縛り付けて、がんじがらめにしている関係性は、ひどく無意味なものであると宣言しているように感じる。  この25年間、いくら「いじめはいけない」と声高に叫んでも、学校の中からいじめがなくなることはなかった。別役の劇をヒントに取り、いじめを止める方法を考えるならば、「いじめる―いじめられる」という関係の“先”を見せることで、当事者たちに関係そのものの無意味さやバカバカしさを気づかせることではないか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●べつやく・みのる 1937年、旧満州(現・中国東北部)生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。戯曲『象』(62年)で注目され、『マッチ売りの少女』(66年)と『赤い鳥の居る風景』(67年)で岸田国士戯曲賞を受賞。2007年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊國屋演劇賞受賞。

「3日あったら、殺人を自白させてやる……」冤罪が生まれる裏側に迫る『冤罪と裁判』

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『冤罪と裁判』(講談社現代新書)
 6月7日、ネパール人男性ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏が横浜刑務所から釈放された。1997年に起こった東電OL殺人事件の犯人として無期懲役の判決を受けていたゴビンダ氏。事件発生から15年の月日が経ち、ゴビンダ氏の再審請求審を認定。刑の執行が停止されたため、今回の釈放が決定された。この事件は、ゴビンダ氏が逮捕された当初から冤罪事件ではないかとささやかれていた。  2010年に再審無罪が確定し大きなニュースとなった「足利事件」や、大阪地検特捜部による証拠改ざんが行われた厚労省局長による「障害者郵便制度悪用事件」など、冤罪が判明した事件は数多い。『冤罪と裁判』(講談社現代新書)は、20年にわたる弁護士活動の中で数多くの冤罪事件を扱ってきた今村核氏が、冤罪が引き起こされる構造的な問題を分析した一冊だ。  例えば、自白という問題。  普通、容疑者が自白を行ったといえば、世間的には完全に「クロ」と目される。まさか、やってもいない罪を好んで被る人間などいるわけがないだろう。しかし、現実は違う。一日10時間以上にわたって、刑事が恫喝するように声を荒らげる取り調べの現場。接見禁止となれば、弁護士以外のあらゆる人間と面会することすらできない。痴漢などの軽い罪であれば、容疑を認めればすぐにでも釈放されるが、認めなければ1カ月以上の拘束が続く。そんな状況で、容疑者の頭は混乱してゆく。「もしかしたら記憶がないだけで、自分がやったのかもしれない」「認めたほうが楽になる」……。こうして「私がやりました」と、容疑者はあっけなく“自白”をする。  これは、特殊な人の話でも、精神的に弱い人の話でもない。ある元刑事はジャーナリストに対して「3日あったら、お前に、殺人を自白させてやるよ。3日目の夜、お前は、やってもいない殺人を、泣きながらオレに自白するよ。右のとおり相違ありません、といって指印を押すよ」と語る。熟練の刑事にかかれば、誰でも例外なく「自白」をしてしまうのだ。  これを防ぐために取り調べ過程を録音・録画し、可視化する方向で議論が進められているものの、なかなか導入が進まないのが現状だ。  さらに、警察・検察側の手練手管は、とどまるところを知らない。  目撃者に対する事情聴取や、写真面割りと呼ばれる方法でも巧妙な誘導が行われ、警察の思い描いたように犯人は仕立て上げられる。警察・検察が独占する物的証拠では、すり替えや隠蔽が行われることも多い。前述の足利事件では、ずさんなDNA鑑定結果が判決の決定的な証拠として採用されたことから、冤罪が生まれてしまった。また、冤罪の可能性から再鑑定をしようにも、証拠品をDNA鑑定で全て使い切ってしまった、処分してしまったとして再鑑定ができないというお粗末な事態も多いという。  また、今村は司法制度改革として注目される裁判員制度にも疑問を投げかける。「裁判員の負担を減らす」という名目で、検証される証拠は絞りこまれ、審理がスムーズに進むように分刻みのスケジュールが計画される。その結果、事件に対する十分な検証がなされず、冤罪の可能性が疑われることもなく判決が下る。冤罪の可能性がある複雑な裁判は、裁判員にとっても負担が大きい。裁判員の負担を減らすために冤罪が生まれるのであれば、本末転倒と言わざるをえないだろう。  本書の帯に書かれているように、日本の裁判における有罪率は99.9%。警察に逮捕され、「容疑者」という言葉が付けられたが最後、ほとんどの人間は「犯人」とされることを免れられない。いま、裁判所は真実を明らかにする場ではなく、有罪を認める場に成り下がっている。真の司法改革を実現するために求められるのは、民間人が参加する裁判員ではなく、警察の取り調べや捜査手法を改善し、裁判における構造的な問題を問い直すことなのではないだろうか。  「それでも僕はやってない」と意思を強く示せるのは、本当に一握りの人間に過ぎず、多くは冤罪を進んで引き受けてしまう。次に無実の罪によって刑務所に送り込まれるのは自分かもしれない……。そう考えながら本書を読むと、背筋に寒気を覚えてくる。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●いまむら・かく 1962年生まれ。東京大学法学部卒業、92年弁護士登録(第二東京弁護士会所属)。冤罪事件、労働事件のほか、群馬司法書士会事件、保土ヶ谷放置死事件などを担当。現在、自由法曹団司法問題委員会委員長。

「3日あったら、殺人を自白させてやる……」冤罪が生まれる裏側に迫る『冤罪と裁判』

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『冤罪と裁判』(講談社現代新書)
 6月7日、ネパール人男性ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏が横浜刑務所から釈放された。1997年に起こった東電OL殺人事件の犯人として無期懲役の判決を受けていたゴビンダ氏。事件発生から15年の月日が経ち、ゴビンダ氏の再審請求審を認定。刑の執行が停止されたため、今回の釈放が決定された。この事件は、ゴビンダ氏が逮捕された当初から冤罪事件ではないかとささやかれていた。  2010年に再審無罪が確定し大きなニュースとなった「足利事件」や、大阪地検特捜部による証拠改ざんが行われた厚労省局長による「障害者郵便制度悪用事件」など、冤罪が判明した事件は数多い。『冤罪と裁判』(講談社現代新書)は、20年にわたる弁護士活動の中で数多くの冤罪事件を扱ってきた今村核氏が、冤罪が引き起こされる構造的な問題を分析した一冊だ。  例えば、自白という問題。  普通、容疑者が自白を行ったといえば、世間的には完全に「クロ」と目される。まさか、やってもいない罪を好んで被る人間などいるわけがないだろう。しかし、現実は違う。一日10時間以上にわたって、刑事が恫喝するように声を荒らげる取り調べの現場。接見禁止となれば、弁護士以外のあらゆる人間と面会することすらできない。痴漢などの軽い罪であれば、容疑を認めればすぐにでも釈放されるが、認めなければ1カ月以上の拘束が続く。そんな状況で、容疑者の頭は混乱してゆく。「もしかしたら記憶がないだけで、自分がやったのかもしれない」「認めたほうが楽になる」……。こうして「私がやりました」と、容疑者はあっけなく“自白”をする。  これは、特殊な人の話でも、精神的に弱い人の話でもない。ある元刑事はジャーナリストに対して「3日あったら、お前に、殺人を自白させてやるよ。3日目の夜、お前は、やってもいない殺人を、泣きながらオレに自白するよ。右のとおり相違ありません、といって指印を押すよ」と語る。熟練の刑事にかかれば、誰でも例外なく「自白」をしてしまうのだ。  これを防ぐために取り調べ過程を録音・録画し、可視化する方向で議論が進められているものの、なかなか導入が進まないのが現状だ。  さらに、警察・検察側の手練手管は、とどまるところを知らない。  目撃者に対する事情聴取や、写真面割りと呼ばれる方法でも巧妙な誘導が行われ、警察の思い描いたように犯人は仕立て上げられる。警察・検察が独占する物的証拠では、すり替えや隠蔽が行われることも多い。前述の足利事件では、ずさんなDNA鑑定結果が判決の決定的な証拠として採用されたことから、冤罪が生まれてしまった。また、冤罪の可能性から再鑑定をしようにも、証拠品をDNA鑑定で全て使い切ってしまった、処分してしまったとして再鑑定ができないというお粗末な事態も多いという。  また、今村は司法制度改革として注目される裁判員制度にも疑問を投げかける。「裁判員の負担を減らす」という名目で、検証される証拠は絞りこまれ、審理がスムーズに進むように分刻みのスケジュールが計画される。その結果、事件に対する十分な検証がなされず、冤罪の可能性が疑われることもなく判決が下る。冤罪の可能性がある複雑な裁判は、裁判員にとっても負担が大きい。裁判員の負担を減らすために冤罪が生まれるのであれば、本末転倒と言わざるをえないだろう。  本書の帯に書かれているように、日本の裁判における有罪率は99.9%。警察に逮捕され、「容疑者」という言葉が付けられたが最後、ほとんどの人間は「犯人」とされることを免れられない。いま、裁判所は真実を明らかにする場ではなく、有罪を認める場に成り下がっている。真の司法改革を実現するために求められるのは、民間人が参加する裁判員ではなく、警察の取り調べや捜査手法を改善し、裁判における構造的な問題を問い直すことなのではないだろうか。  「それでも僕はやってない」と意思を強く示せるのは、本当に一握りの人間に過ぎず、多くは冤罪を進んで引き受けてしまう。次に無実の罪によって刑務所に送り込まれるのは自分かもしれない……。そう考えながら本書を読むと、背筋に寒気を覚えてくる。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●いまむら・かく 1962年生まれ。東京大学法学部卒業、92年弁護士登録(第二東京弁護士会所属)。冤罪事件、労働事件のほか、群馬司法書士会事件、保土ヶ谷放置死事件などを担当。現在、自由法曹団司法問題委員会委員長。

人間は、みな王様である? 聖書に記された格言からビジネスの手法を変える一冊

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『王様マインドと奴隷マインド』
 “会社の奴隷”となる社畜という言葉が生まれて久しいが、昨今では会社に強く依存する生活スタイルに警鐘、あるいは批判する論調が多く見られる。もちろん組織や共同体へ参加しない限り、社会で生きていくことは非常に難しいのだが……。  こうした、サラリーマンであれば誰もが一度は抱えるジレンマではあるが、“聖書”の中に打開する光明があると説いたのが『王様マインドと奴隷マインド』(サンマーク出版)だ。  海外の王様が開催するパーティーへの招待状が届くという、ネタっぽい(笑)演出から同書は始まるが、人間が王様であるという理由を同書はこう記している。 (以下、引用)  聖書によると、人は天を相続する者、つまり王位を継ぎ、王の財産を相続する継承者として創造されています(創世記1・26~28 黙示録22・5 ヤコブ2・5)。  もちろん、キリスト教やユダヤ教を信じるかどうかや、どこの国で生まれたかは関係ありません。その祝福は、すべての国の人に継承されています。  最初の人間であるアダムとエバ(イブ)は、自然を正しく管理する王として、素晴らしい才能・権威が与えられていました。  アダムとエバの子孫であるあなたも、王家の子息なのです。  もちろん聖書の解釈は多数あるだろうが、かような理由から人類は皆王家の子息だという。本来誰もが持つ王様マインドにリセットすることで、奴隷マインドから脱却できると本書ではそのメソッドを紹介しているが、ここでいわれている「王様マインド」「奴隷マインド」とはどのようなものなのだろうか。いくつか見てみよう。 ●王様マインド 世の中がシンプルだと知っている 共存共栄 大きな視点・高い視点 ビジョンがある 権威に従う 人を励ます 出世しなくても王 お金は手段 ●奴隷マインド 世の中は複雑だと思っている 自己中心的・相手を出し抜く 小さい視点・低い視点 ビジョンがない 権威を無視する 他人の批判 出世にこだわる お金を目的  多くのサラリーマンにとっては耳が痛い言葉が並んでいるのだが、もし気になった方がいたら、公式HP(http://www.king-mind.com/)ではマインド診断ができるので、まずはアクセスをしてみてはいかがだろうか? 松島修(まつしま・おさむ) 1960年東京生まれ。法政大学工学部電気工学科卒。 CFP(Certified Financial Planner)、宅地建物取引主任者、元CFP試験問題作成委員。現在、エフピーネット株式会社代表取締役。FXという言葉が知られていないころより、FXの将来性に目をつけ紹介していたことから、「FXの伝道者」とも呼ばれ『日経新聞』『日経マネー』など、マスコミに数多く取り上げられる。著書に『聖書に隠された成功法則』(サンマーク出版)、『聖書に隠された性格分析 ケルビム・パターン』(マガジンハウス)、『最新の資産防衛術は聖書に隠されていた』(扶桑社)など。
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人間は、みな王様である? 聖書に記された格言からビジネスの手法を変える一冊

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『王様マインドと奴隷マインド』
 “会社の奴隷”となる社畜という言葉が生まれて久しいが、昨今では会社に強く依存する生活スタイルに警鐘、あるいは批判する論調が多く見られる。もちろん組織や共同体へ参加しない限り、社会で生きていくことは非常に難しいのだが……。  こうした、サラリーマンであれば誰もが一度は抱えるジレンマではあるが、“聖書”の中に打開する光明があると説いたのが『王様マインドと奴隷マインド』(サンマーク出版)だ。  海外の王様が開催するパーティーへの招待状が届くという、ネタっぽい(笑)演出から同書は始まるが、人間が王様であるという理由を同書はこう記している。 (以下、引用)  聖書によると、人は天を相続する者、つまり王位を継ぎ、王の財産を相続する継承者として創造されています(創世記1・26~28 黙示録22・5 ヤコブ2・5)。  もちろん、キリスト教やユダヤ教を信じるかどうかや、どこの国で生まれたかは関係ありません。その祝福は、すべての国の人に継承されています。  最初の人間であるアダムとエバ(イブ)は、自然を正しく管理する王として、素晴らしい才能・権威が与えられていました。  アダムとエバの子孫であるあなたも、王家の子息なのです。  もちろん聖書の解釈は多数あるだろうが、かような理由から人類は皆王家の子息だという。本来誰もが持つ王様マインドにリセットすることで、奴隷マインドから脱却できると本書ではそのメソッドを紹介しているが、ここでいわれている「王様マインド」「奴隷マインド」とはどのようなものなのだろうか。いくつか見てみよう。 ●王様マインド 世の中がシンプルだと知っている 共存共栄 大きな視点・高い視点 ビジョンがある 権威に従う 人を励ます 出世しなくても王 お金は手段 ●奴隷マインド 世の中は複雑だと思っている 自己中心的・相手を出し抜く 小さい視点・低い視点 ビジョンがない 権威を無視する 他人の批判 出世にこだわる お金を目的  多くのサラリーマンにとっては耳が痛い言葉が並んでいるのだが、もし気になった方がいたら、公式HP(http://www.king-mind.com/)ではマインド診断ができるので、まずはアクセスをしてみてはいかがだろうか? 松島修(まつしま・おさむ) 1960年東京生まれ。法政大学工学部電気工学科卒。 CFP(Certified Financial Planner)、宅地建物取引主任者、元CFP試験問題作成委員。現在、エフピーネット株式会社代表取締役。FXという言葉が知られていないころより、FXの将来性に目をつけ紹介していたことから、「FXの伝道者」とも呼ばれ『日経新聞』『日経マネー』など、マスコミに数多く取り上げられる。著書に『聖書に隠された成功法則』(サンマーク出版)、『聖書に隠された性格分析 ケルビム・パターン』(マガジンハウス)、『最新の資産防衛術は聖書に隠されていた』(扶桑社)など。
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各種マスコミが完全無視! 狂気の不謹慎データベース本『完全自殺マニア』

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『完全自殺マニア』(社会評論社)
 漫画家・山田花子が没後20年を迎え、全国の気の利いた書店ではフェアを実施中。かと思えば、卯月妙子が10年ぶりの新刊『人間仮免中』(イースト・プレス)を上梓。90年代末期で勢いを失ったサブカルチャーに復活の兆しを感じる今日この頃である。  そんな空気にワクワクしながら、ふらりと立ち寄ったのは新宿御苑近くにあるカルト書店・模索舎。持ち込まれたものはなんでも売ることをテーゼとするこの書店は、左翼グループの機関紙と濃いサブカル系の品揃えが売りだ。店に入ったとたん「極左黒ヘルグループ(公安用語)」構成員から模索舎店員へと微妙な転身を遂げたエノモト君が「これが、面白いんですよ~」と一冊の本を持ってきた。ん? この装丁は鶴見済氏の名著『完全自殺マニュアル』(太田出版)……まさか、新装版でも出たのだろうかと手に取って驚いた。  あの、一世を風靡した超ベストセラー『完全自殺マニュアル』の表紙を、パクった……いや、パロった本のタイトルは『完全自殺マニア』(社会評論社)。ページをめくると、さらに衝撃が走る。なんとこの本は、日本国内での自殺を日本武尊の后の弟橘媛が入水した件から、年代順に追っていったデータベース本なのだ。おまけに、各所の自殺現場を写真で紹介、自殺に関するコラムまでもが掲載される徹底ぶりだ。  うーん、なんと役に立つ本だろうか! 毎朝ページをめくって「さあて、今日は7月2日、なるほど壬申の乱で敗れた蘇我果安が自殺した日か~」とか、その日に自殺した人物のことを思い浮かべることができる。さらに、年表には「1973年9月6日 立教大学助教授、大場啓仁が教え子を殺害後、静岡県賀茂郡南伊豆町奥石廊崎展望台下にて一家4人で飛び降り自殺」といった具合に、簡潔に自殺の顛末を記しているのだ。あまりに簡潔すぎて「一体どうしてそんなことになってしまったのか?」と好奇心をそそられることは請け合いだ。何より、過去の新聞などでの表記に従って、実名を出している事例が多いのも容赦ない。  まさに、これまでになかった充実の自殺データベースにもかかわらず、いかなるメディアも書評に取り上げていない。でも、こんな狂った人物に会わずにいられるものかと、早速コンタクトを取った。  取材を快諾してくれた著者・相田くひを氏だが、条件がひとつ。「顔写真撮影はNG」だという。なんでも、「マジキチ」な読者に襲撃されるのを本気で恐れているのだとか。それはともかく、こんなデータベース本を書き上げるなんて、自殺のどこにひかれているのか? まず聞いてみた。 「私は、もともと鬱っぽい性格なので……。真剣に生きようとか考えると、この問題にぶつかるじゃないですか」  ん? いきなりの本音か! ともあれ、相田氏が自殺のデータ収集に熱心に取り組み始めたのは1997年頃から。最初はパソコン通信で、次いでアングラが大流行していた時期のインターネットへと参入したという。そもそも、この本の出版を持ちかけられたのは2年前だが「間違った情報を掲載すると、訴訟が怖いから」と、改めてデータの調査に取り組んだのだとか。ちなみに、本書に掲載されている自殺の現場の写真は、マンションなど掲載するとクレームが来そうなところは除いたそうだ。  一部のスポットは地図に掲載しているが、東京都内だけでも随分と人が死んでいる気が……。 「200戸くらいの団地だと、必ず一人は自殺者がいます。統計から計算すると、都内でも1キロ四方で一人は必ず100年以内に自殺してることになりますね」  と冷静に語る相田氏。ところが、さまざまな現場を回っても、いまだに幽霊には出会うことができないのだとか。筆者がよくタバコを吸って休息を取る東京大学本郷キャンパスの三四郎池でも入水自殺に首つりと何人も自殺しているんだが、まったくそのような事件が起こった気配はない。やはり、幽霊なんていないのではないか……? 「いや、幽霊になっても欲望とかあるのか聞きたいんですけどね。女風呂とか覗いていると思うし……」  冒頭に記した山田花子の自殺現場を訪れた時には、花を置いていくのではなく、自殺した建物まで上って花を落としたという相田氏。やはり、常人とは何かが違う。  そんな相田氏に考えられる最もインパクトのある自殺方法を聞いてみたところ、話はさらにヒートアップ。 「京浜東北線上中里駅のあたりで鉄道自殺がいいと思いますよ。さまざまな路線が走っていて、電車を止めると最も迷惑な場所ですから。それから、飛び降り自殺も今の最高記録はサンシャイン60からですけど、スカイツリーからの飛び降り自殺を目指している人はいるでしょう。それに反原発も盛り上がっているので、国会議事堂前での焼身自殺もオススメです」  さらに高野悦子が自殺した後に遺稿集がベストセラーになった理由を「かわいかったから」と看破したり、日本最後の美しい切腹として影山正治の自決を讃える、相田氏。ううむ、ここまで危険な人物の本がメディアで書評されるワケがない。いや、こんな本を出版した社会評論社自体、どうかしているよ!  とはいっても、こんなに充実した自殺データベースが出版されることは向こう50年ないだろう。本書を読み込めば、誰でも学校や職場の「自殺博士」になれるハズだ。うん、この本を読んでいるうちに、筆者も来世に期待する気になってきたよ。  なお、本書のトークイベントが開催される予定は、まったくない。 (取材・文=昼間たかし)