なぜ、人はそこに集うのか? 新店舗には喫茶ルームもできた「カストリ書房」に、サウダーデを見た

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 次々と風景を変えていく現代の東京で、よくも、こんな建物が残っていたものだと驚いた。 「カストリ書房が引っ越したそうですよ」  知人からそんな話を聞いて、ようやく取材に出向く機会が巡ってきたと思った。  昨年9月にオープンしたカストリ書房は、各所で話題になっていた。遊郭や赤線、歓楽街などのジャンルを専門に扱う「カストリ出版」が手がけるこの店舗は、すでに多くのメディアによって紹介されている。高尚な物言いをすれば、崇高な性の営み。とはいえ「売春」という公序良俗に相反する猥雑な、体制の埒外にあるものをお堅い新聞や雑誌も盛んに取り上げている。しかも、客の多くを女性たちが占めているという。それも、中には女子中学生もいるというのは、以前に新聞の記事で読んだ。  それは単なるサブカルチャーの1ジャンルなのだろうか。あるいは、喪われゆく風景への郷愁なのか。これまで目を通した多くの記事は、その疑問への解答を見つけようとしていた。  正直なところ、事前にカストリ書房を取り上げている記事のほとんどには目を通したのだが、その答えは出なかった。取材を終えて、この文章を認めている今も、その答えは出ていない。  でも、それは当然のことだ。  ルポルタージュに限らず、人間の興味や共感というものは、なべて「主観」から始まるものだ。だから、人それぞれが感じることに普遍的な解答を出すことなど、おいそれとはできない。  先日、今はテレビ局の報道畑でキャリアを積んでいるS氏と、月島の大衆居酒屋で久々に近況を語り合った。まだ30歳にもなったかならないかという年齢にもかかわらず、北朝鮮やオウム真理教。はるか昔の政治の季節へと興味を向け、私的な時間を削ってでもドキュメンタリーを創り出そうとしている彼は、サラリーマン生活が当たり前の社内においては、明らかな異端。自分の問題意識に心の響かない同僚たちと話を合わせながら、限られた報道の時間で、なんとか自分の主張を照射した映像を挿入しようという日々。そんな生活の中、ハリネズミのようになった心を慰め、互いに次の作品を生み出す原動力を得るために共感しあう会合は、細く長く続いている。そんな人物との久々の語らいの半ばで、こんな会話をした。 「一度、キシナウというところにいってみたいものだ」 「キシナウってどこですか?」 「モルドバの首都だよ」 「何があるんですか?」 「それが、何もないらしいんだ」  モルドバは1991年に独立した新しい国である。元はルーマニアの一部だったが、第2次世界大戦後にソ連領となり、ソ連崩壊後に独立国となった。結果的に独立せざるを得なくなっただけで、訪れた旅行者も、あるのは小さな都市と田園風景だけと語る。そんな中でもなんとかやっているという魅力を語ると、S氏はすぐに共感してくれた。 「そりゃあ、一度いきましょうよ」  同意したS氏は「でもね」と呟いた。 「ここの店で、今飲んでる人で一人もキシナウがなにかわかりませんよ、きっと」 「そんなものかな」 「そんなものですよ」  私は、少し離れた席に座ってる華やかな女性たちのグループのほうをみた。 「じゃあさ、あの女の子たちに<キシナウ知ってる?>と聞いたとして。<あ、モルドバですよね>と答えたらどうする?」  酔いが回っていたのか、少し寝そべるようなだらしない姿になっていたS氏は、ハッと起き上がって、力強く答えた。 「そんなの、すぐに結婚したほうがいいですよ!!」  別にキシナウに限ったことではない。趣味嗜好や思想、セックスのやり方から、物の見方や考え方まで、人は常に共感することのできる相手を求めている。そして、そんな相手に出会えるのは天の采配。わずかな幸運が振り向いた時でしかない。インターネットの発達は、孤独な魂を「自分は一人だけではない」と慰める機会を増やしてはくれた。けれども、それで人は満足することなどできない。  誰もが当たり前のようにSNSを使いこなすようになったとしても、現実を超えることはできない。目の前にいる人の顔を見て、表情の変化や、体温や、香りや、そのほか様々なことを感じながら、話をする時の楽しさや緊張感はスマホの画面に表示された文字の羅列では、決して代替することはできない。そんな距離感で人と話すことは、とても疲れることではあるけれども、そうでなければ得られないものがある。私は、日々の取材の中で、そう思っている。 ■お客様同士が交流が生まれる場として 「お客様と私っていう関係だけじゃなくて、お客様同士の交流が生まれる場が欲しいと思ったんです」  以前よりもずっと広くなったカストリ書房の店内で、店を切り盛りするカストリ出版の代表・渡辺豪は話を始めた。
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 これまでの取材記事の中で、渡辺の顔かたちは見ていたけれども、いったいどんな人物なのだろうかと、様々な想像が浮かんでいた。膨大な知識をとめどもなく話し続ける人物か。あるいは、いま出版している本を除いては、内に秘めた熱いものを表現する手段を知らない、口数の少ないストイックな人物なのか……。  そのどちらでもなかった。  最初に取材の依頼をメールした時、返信の中で渡辺は「弊店でお役に立つようであればお受けしたいと思います」と認めていた。この人物の立ち振る舞いは、その一文のままであった。決して自分のやっている仕事を、ほかの人が目をつけなかった素晴らしい仕事であると誇ることもない。だからといって、媚びるようなところもない。  最初、店に入って挨拶したときに渡辺は「どこに座ってもらいましょうか……」と、一瞬迷った。私が「そこで大丈夫です」と、土間の上がり口のところを指さすと、さっと突っ掛けをどけて、座布団を動かした。ただ、それだけのことなのに、私はすごく丁寧にしてもらっている印象を受けた。  インタビューの中で、まず聞きたかったのは、今回引っ越した店舗で始めた喫茶ルームの試みであった。渡辺が訪問した土地で集めたという貴重な資料を、コーヒーを飲みながら読むことができるという空間。そこには、単なる「交流目的」では表現できないものがあるように思えた。  新しくなった店舗は、もとは皮製品の加工場だった建物だという。  引き戸を開けると広めの土間と部屋。二つある部屋の左の方には、販売している本が積まれている。そして、右の部屋には、昭和レトロな喫茶店にあるようなソファと資料の積まれた棚がある。 「今、資料はどれくらい数があるんでしょう」 「カウントしていないからわからない。ざっくりなんですけど、700~800はあると思うんです」  まだ引っ越しして間もないこともあるが、資料は、私が見た感じでは無造作に積まれているようだった。乱雑ではなく無造作である。その飾らない感じが、なんともいえない心地よい懐かしさを放っていた。そんなことを感じるのは、今の自分が生きている街が、何かとゴミ一つ落ちてない、きれいだけどもせせこましい街だからではないかと思った。  そんな喫茶スペースは、あくまでスペースである。居心地はよいけれども、決して広くはない。小柄な人であっても4、5人も入ればいっぱいになってしまうだろう。でも、以前の二坪しかなかった時よりも、ぐんと店が広くなったことで、今後はイベントの開催も考えていると、渡辺は言う。「あんこが出る」ような、ぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた空間を想像する。それを、渡辺はあえて考えているのかと、後で思った。  それは、インタビューの中で渡辺が、このスペースを作った理由を、こう語っていたからだ。 「前の店舗をやってみて、店主の私のような人間と、まあ一通り遊郭の話をして、すごく楽しかったですという感想をもらうことがすごく多いのですよね。やっぱり、身の回りに話せる、共感できる人がいなかったので、話し相手が欲しかったのでしょう。本屋という看板を掲げているんだろうけど、サロン的な意味合いもあると思ったのです。店に来て、私と話すだけではなく、たまたま来たお客さん同士で話が弾むこともありました。だから、お客様同士の交流が生まれる場が欲しいと思ったのです」
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 単にサロンとしてなら本屋でもよい。けれども、それでは本屋としてはまったく儲からない。そこで考えたのが喫茶スペースというわけである。  けれど、確かに本屋としての収益を考えつつも、そこから生まれる出会いに、ただならぬ期待を寄せているように見えた。 「やっぱり、みなさんTwitterなどを使うだけでは満足できなくて、現実での出会いを求めているでしょうか」  そう問うと、渡辺は少し考えてから答えた。 「文章で自分の想いをまとめるというのは難しいじゃないですか。まして、140字でできるのかな? と思います。でも、会話だったら、多少曖昧な言葉でも意思疎通ができますよね。やっぱり、コミュニケーションの場が必要だと思うんですよ」  それを聞いて、こう思った。  この物静かなで丁寧な好人物は、自分が面白い、興味深いと思うものに他人が共感してくれることの楽しさを知っているのだろう。そして、それをもっと大勢の人に知ってほしいと思っているのだと。 ■旅の中で見える。目には映らない風景  そんな「予断」が確信に近づいたのは、これまでの遊郭探訪について、あれこれと尋ねていた時のことであった。  渡辺が、遊郭をテーマに旅を始めたのは2011年頃からであった。 「毎回、質問は受けるのですけれど、何か衝撃的な理由があるわけではありません。ましてや、自分の親が経営をしていた、みたいな原体験もまったくないんです。ただ、ぼんやり旅行している時に、脇道にそれてみて、面白い空間があると赤線、遊郭だった……」  むしろ、渡辺の原動力となったのは、人生という川の中で感じた流れの変化だった。 「その頃、自分の中に何か趣味をつくってみたいなと思っていました。僕の中では30歳を過ぎて、なかなか趣味をつくるのは難しくなってくるんじゃないかという思いがあったのです。それで、どんな趣味でも10年くらいやれば、何か功績というか残せるかなと思って始めたのです」  旅の話になって、ぐっとインタビューする側とされる側の距離が近づいた感じになった。渡辺の旅のスタイルと私のそれとの間に、似た部分をあちこちで感じたからである。 「旅の時に、旅行のテーマというか、目的をきっちりと決めたりしていないですよね、きっと」 「そうですね、けっこうぼんやりと決めてます」 「サラリーマンの時は、休みの時は必ず旅をしていたのでは」 「ええ、暦通りに休みなので、18きっぷを使いながら旅をしていました。18きっぷ好きの人はみんな持っている気分だと思うのですが、ダラダラ旅をするのがよいのです」 「特に観光地をめぐったりもしないでしょう」 「そうですね、最初は観光地を見ていても、すぐに飽きるじゃないですか。僕が好きなのは、その昔は、賑わっていたんだろうなという駅前。例えば、潰れたパチンコ屋を見ていても面白いんです」  そんな感覚を渡辺は、近年はみんなにわかってもらえるオーソドックスな趣味になったと言う。確かにその感覚はある。郊外にできたショッピングモールに人がごっそりと移動してしまい、休日でも人気のない駅前の商店街。東京オリンピックの頃にオープンして、店主と共に歳を重ねてきたような店。単に「昔はよかった」と懐かしむノスタルジーとは違う感覚。  その光景に、自分の過去と未来とを重ねた時に得られる感情。ポルトガルの人々が表現するところのサウダーデ。青春18きっぷで旅する時、窓から眺める移ろいゆく風景と、物言わぬ土地の調べの中で、ふと心をよぎる内省。そんな感覚を渡辺は興味深く思っているのだな、と思った。  だから、渡辺は数多くの遊郭を回りながらも「ベスト」を語ったりはしない。 「自分の中で思いが残るところは、華やかな建築が残っていたりするところとかではないんです。だから<おすすめの遊郭跡>といわれると困るんです」  これまでも、遊郭や赤線跡をめぐる人は幾人かいた。私の知人の物書きの中にも、そうした本を出版している人もいる。けれども、渡辺の感覚は、そうした先達たちのものとは違っていた。興味を持って以来、あと10年もすれば、現存している建物もなくなってしまうだろうと思い「これはうかうかしていられないと回っていた」と、渡辺は語る。  けれども、そこには単に今は失われた「売春」が行われた地域を訪問して、珍しい建物の写真を収めるというような意識はない。覗き見趣味のようなものや、ノスタルジーを喚起するものとは違う。それを通じた魂の旅を、彼は「面白い」という言葉で表現しているのだと思う。  そのことが端的に現れているのが、カストリ出版で復刻された渡辺寛の『全国女性街ガイド』である。1955年に季節風書店から出版されたこの本は、一部の探訪者の中では知られた本であった。けれども、それをコピーであっても入手するのは困難。全国の図書館でも、所蔵しているのは山梨県立図書館と東京大学農学部図書館だけ。もし、読みたければ、どちらかを訪れなくてはならない稀覯本であった。 「東大の図書館に閲覧しに行くことは、地方の人はできない。そんなことを思って、本をつくったんです」  戦後、売春防止法で赤線が消滅する数年前に出版された本だけあって、記されている内容は、現代に近い。けれども、その資料性以上のものが、この本にはある。それは、この本が単なるデータを記したものではなく、著者の渡辺が実際に現地を訪問して、体験して描いた旅の記録にもなっているからだ。  少しページをめくってみると、著者の率直な気持ちがうかがい知れる記述が、すぐに見つかる。 「押しかけると千円でオンの字、情緒なし」 「ここの方がまだ始末がいい」 「おかいこさんの不振で色里もふるわず」 「早く寝よう寝ようという、ほかに魅力も何もないところを、ちやんと知っている妙な女たちが多い」 「但し、病気には責任が持てない」 「どちらもどっこいですれつからし族。大阪からがたがた来て教育するから一人一人の女の味なんてものはゼロ」 「性情は南国的、愛情はむき出しだから、気取りがなくてよい。性交後のむタバコはうまいという」 「この土地を好き嫌う人が激しいのでもわかるように、女の子にもムラがあって、女の味では採点のむずかしい色里である」  ひとつひとつの色街の記述は極めて簡潔なのに、次第に著者と共に、いや、自分自身が色街を巡って旅をしている感覚を与えてくれる。ここに記されている色街には、もう姿形も失われ、まったく別の街に変貌したところもある。  なのに、この本を通じて読者は、あたかも、それらを訪れて体験したかのような感覚を得ることができるのだ。それと同時に、たとえ何も残ってないとしても、その土地を訪れてみたいという新たな興味も。やはり、それは単なるノスタルジーではない。  そんな旅の果てに、今の仕事へと至った渡辺であるが、読者にも自分と同じ気持ちを持ってほしいとはいわない。 ■100人が読んで20人が行ってくれれば 「あんまり、読者に共感してほしいという意識はないんです。でも、たぶん僕が感じていることは、ほかの人も感じているだろうと思います」  そんな、自分もほかの人も感じているだろう気持ちの中に、渡辺は「フラストレーション」という言葉を使った。  これまで、多くの時間を費やしてきたが、まだ全国の遊郭・赤線跡を網羅することはできてはいない。渡辺によれば、全国に最大で550カ所くらいはあったという。その中には、もうどこにあったかわからないものもある。今は、過疎地となっていて80歳を過ぎているであろう老人に聞いてもわからないところもあるという。  土日の休みのみでは決してすべてを回ることはできない。ならば会社員を辞めよう。今の仕事を始める時に、渡辺はそんな意志も持っていた。けれども、今は少し考えを変えている。 「客商売を始めたら、ホントに出る時間もなくて……。勤め人の頃のほうが回ってますね。これは、自分個人で考えれば残念です。でも、僕が見ない代わりに、100人が本を読んでくれて20人が行ってくれれば、伝播しているとは思うのです」  もう一つ、渡辺が『全国女性街ガイド』のような本を復刻しようとした理由が、一人ではとても調査しきれないと考えたということがある。 「どうやったら、調査できるかなと考えました。それで、調査に有用な一次資料に足るようなものを本を出して、やってもらったほうが進むんじゃないかなと思ったんです」 ■「豊かな時代」への憧れとは違う魅力  取材を終え、店を出て昼間から「お遊びですか?」と声をかけられる吉原を、とぼとぼと歩きながら考えた。取材の中で、これはという言葉を求めつつも、出なかったのである。  私自身が、納得することのできる、カストリ書房に下は中学生から多くの女性たちが集う理由である。客は北海道から沖縄まで、全国各地からやってくるという。それも「7割くらいはビギナー」だという。そして「多くのメディアから聞かれる」という客のタイプ。サブカル的な興味を持っている人よりも、実に「普通のお客さんが多い」と、渡辺は言った。そして、いくつかの取材でも答えている、自分の考えを述べるのであった。  不況の続く現代にあって、豊かで元気のあった時代への憧れ。  果たして本当にそれだけなのだろうか。そうだとするならば、なぜ、その中で「ビギナー」は、カストリ書房を訪れるのだろうか。  取材の日、私は幾分早めに事務所を出て、銀座駅から日比谷線に乗った。何年かぶりに降りた南千住駅前は、記憶の中にあるものとはまったく違っていた。  駅前にそびえるのはショッピングモールを備えた近代的な高層マンション。そこから、山谷を通り抜けて吉原へと向かう道は、記憶の中にあるものとまったく違っていた。  最初にこの街を訪れたのは、もう20年以上も前のことである。話に聞く「金町戦」の恐怖はすでに薄れていたけれども、緊張感は確かにあった。城北労働・福祉センター前で行われる「越年・越冬闘争」。それは、単なる「炊き出し」とは異なる警察権力や、あれやこれやとの対峙戦。あの、ピンと張り詰めた空気。  ドヤ街ならではの独特の雰囲気はない。明治通りに沿ってマンションが建ち、バックパッカーがゴロゴロと車輪の付いたトランクを押している音が目立つ。賑わっていた印象のある、いろは会商店街も歩く人の姿すら、あまり見かけなかった。間もなく取り壊しが決まっているアーケードに掲げられた「あしたのジョーのふるさと」という幕が、余計に寂しさを煽っているように見えた。
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 変わっていくのは、ここに限ったことではない。東京は2020年のオリンピックに向けて、急ピッチで姿を変えている。東京に限らず、日本全国で20世紀の姿は、次第に失われている。  そんな、凡庸な21世紀的なものへと、変わりゆく街の中で暮らす人々は、どこかで「ついていけなさ」を感じているのかも知れない。  でも、そうした中で、なぜ多くの人々が、遊郭や赤線。と、いうよりはカストリ書房に惹かれるのか。  その理由は、まったくわからなかった。  ふと思いついて、カストリ書房のイベントにも幾度か出かけているという知人の女性を呼び出した。  なぜ、興味を惹かれるのか尋ねた時に、彼女はこういった。 「カストリ書房の人、Twitterが格段に面白いよね」 「え、そうなの?」  私は、ポケットからiPhoneを取り出して、カストリ書房のTwitterを開いた。 「違う、そっちじゃない。こっち!」  そういって彼女が自分のiPhoneで見せてくれたのは「遊郭部」というアカウントだった。なるほど、いうなればこちらが個人アカウントかと、すぐに理解した。 「とにかく、センスが違うからね」  いわれるまでもなく、私はこれまでのツイートを追ってみた。  写真も言葉も、センスが独特で、短い言葉の中に研ぎ澄まされた情念があった。 「平成を超え、次の元号を跨ぐ無職」 「ビールグラスに注がれたアイスコーヒーを出す店は信頼できる」  そして、ふっと手が止まった。 「プレシャスなランチにするか」  そう記されたツイートには、いかにもサッシ戸を開くと、タバコをふかしながら新聞を読んでいたオヤジが「いらっしゃい!」と、厨房に立つような中華料理屋の写真が添えられていた。  なぜ、カストリ出版の本が話題となり、大勢の人がカストリ書房へと足を運ぶのか。その疑問が、一瞬で氷解していくのを感じた。 (取材・文=昼間たかし)

14年間タイの刑務所で服役した男の獄中記『求刑死刑 タイ・重罪犯専用刑務所から生還した男』

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『求刑死刑 タイ・重罪犯専用刑務所から生還した男』(彩図社)
『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)、『クレイジージャーニー』(TBS系)、『陸海空 こんな時間に地球征服するなんて』(テレビ朝日系)など、いまや海外を巡るバラエティ番組は百花繚乱。日本では見ることのできない驚きの文化や景色が、視聴者の目をくぎづけにしている。だが、そんな番組では取り上げられない風景を描くのが、『求刑死刑 タイ・重罪犯専用刑務所から生還した男』(彩図社)だ。著者の竹澤恒男氏は、日本に覚せい剤を密輸しようとしてタイの空港で逮捕され、14年にわたって現地の刑務所に服役していた人物。彼の体験談から浮かび上がってくるのは、日本とはまったく異なるタイの刑務所事情だった。  2002年、竹澤はタイのドンムアン空港の出国ゲートで、覚せい剤「ヤーバー」1,250錠を所持していたところを逮捕された。そのまま麻薬取締局で取り調べを受けるも、通訳の日本語能力がお粗末すぎ、ろくな会話にならない……。さらに驚くのが、日本では考えられないずさんな裁判。国選弁護人と打ち合わせをして、いざ裁判が開始されると思いきや、なんと弁護士にドタキャンされてしまった! 困り果てた竹澤を見かねて、偶然傍聴席に居合わせた女性弁護士が片言の日本語を通じて弁護をするも、薬物事件に関する知識はゼロ。その結果、検察側は竹澤に対して死刑を求刑。1審の判決は通常よりもはるかに重い終身刑、2審、3審の判決は懲役30年を言い渡された。こうして、タイの地で犯罪者となった竹澤は、殺人、強盗、強姦、薬物犯などが収容される重罪犯専用刑務所「バンクワン刑務所」に移送された。  刑務所といえば、刑務官の厳しい監視のもとに、囚人たちが規則正しい生活を送る――というイメージを持つ人がほとんどだろう。しかし、バンクワン刑務所では、そんな日本人の常識はことごとく覆されてしまう。  定員の倍近い6,200人が収容されるバンクワン刑務所では、規律が緩みきっていた。現金の所持が黙認され、囚人が売店を経営して、日用品、食商品、そしてタバコも販売されている。酒の販売はなかったが、囚人たちはブドウやパンを使って密造酒づくりに精を出していた。また、携帯電話やドラッグなども密売人の手によって売買されており、サッカー、タイボクシング、サイコロなど、あらゆる種類の賭博が行われていた。  そんなバンクワン刑務所では、トラブルは尽きない。金の貸し借りをめぐって囚人同士による乱闘や刃傷沙汰が発生することも日常茶飯事。ためらいなく賄賂を受け取る刑務官は、囚人を棒でリンチし、撲殺することもある。もちろん、死因は「病死」として処理される……。  刑務所生活が驚きの連続なら、そこに収監された囚人たちも常軌を逸していた。麻薬犯罪で捕まったレディーボーイや、国王への不敬罪を犯した者、さらには何人もの子どもたちを強姦した仏教の僧侶といった、いかにもタイらしい犯罪者だけでなく、ロシアの武器商人、イラン、ナイジェリアなどの麻薬密売人。その中に、竹澤ら何人かの日本人も含まれていた。  暴力が渦巻くバンクワン刑務所で、竹澤はタバコのバラ売りや差し入れ品の転売といった商売を行いながら長い年月を過ごした。自炊の許された刑務所内で日本食を振る舞ったり、ラジオや本などの息抜きはあったものの、金や所持品の盗難、借金のトラブル、そしてジャンキーからあわや殺されかけるといった危険な日々について、竹澤は「史上最悪の場所」「悪夢といっていいような時間を過ごした」とつづっている。ようやくこの「悪夢」から逃れたのは、逮捕から14年後。国王による特赦の恩恵にあずかった竹澤は、日本へ強制送還された。  東南アジアでは、ドラッグが身近に手に入るが、営利目的の密輸は、ほぼすべての国で死刑が求刑される。竹澤は、当時を振り返り「私のようになりたくなければ、絶対に手を出してはいけない」と記す。バンクワン刑務所の恐ろしさを知れば、どんな人間でも絶対に麻薬密輸に手を染めることはないだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

一度行ったら脱出困難な町……日本有数の謎地域(褒めてる)!? 和歌山県上富田町に観光案内所が誕生

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「かみとんだ」と読みます
 この謎自治体は、ぜひ一度は訪れるべき。 「上富田町に観光案内所ができた」  そんなにわかに信じがたい情報を聞き、調べて見たところ確かに「紀伊民報」9月2日付に「朝来駅に観光案内所 情報発信の拠点に」と報じられているではないか。  と、ここまで数行を読んで読者は「なんだよ、上富田町って?」と思っているであろう。  一度地図を見てみるとよい。和歌山県上富田町は謎多き自治体である。  北は田辺市、南は白浜町。それぞれ、平成の大合併によって巨大化した自治体に囲まれながらも、合併をせず独立を保っているのである。  こんな孤高を保つ自治体というのは、何かしらお金が落ちる施設や産業などを持っているもの。しかし、調べてみても確かに幾つかの工場などはあるが、目立つものはない。  実は、上富田町が平成の大合併において独立を保ったのは、もっと単純な理由。意見が割れたからである。2008年、第2次市町村合併にかかる特例法の期限を前に住民の意向を調査したところ、周囲の市町村との合併反対が3,808人。賛成が3,747人。パーセンテージでは、49.86%対48.99%となったのである。  このあまりの僅差に、合併をしないという選択が決定したのである。もちろん、田辺都市圏のベッドタウンとしての機能もあるため、ある程度財源は確保されており、合併しないと町の財政がヤバいというような問題がなかったのも大きな理由。ともあれ、賛成反対が僅差過ぎて合併しないという、何か妙な興味が湧く自治体が生まれたのである。  さて、そんな上富田町であるが主な特徴は田園風景も広がるベッドタウン。今年の初夏、今月発売予定の『これでいいのか和歌山県』(マイクロマガジン社)の取材のために、筆者は、町のターミナル駅・朝来駅に降り立った(なお「あさぎえき」ではなく「あっそえき」である)。
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あっそえき
 そこに見えたのは「何もないなあ」という風景であった。何もないというのは、田舎過ぎて何もないのではない。国道に出れば交通量も多く店舗も並んでいる。でも、それはどこにでもありそうな、ロードサイドの風景にすぎなかったのである。
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ものすごく普通
 もちろん、上富田町に名所がないわけではない。熊野古道も通る口熊野の一地域。町内には歴史を感じさせるスポットもいっぱいだ。町内にある救馬渓観音は、和歌山県における開運厄除けの霊場としても知られている。
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名所もあるにはある
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こちらは櫟原神社
 でも、そのすべてが駅からは遙かに遠い。そして、朝来駅に停車するのは各駅停車のみ。それも時間帯によっては2時間に1本程度。バスも同様で、一度この町に入ったら容易には脱出できない仕様になっているのである。  そんな町にできた観光案内所は、前出の朝来駅の駅舎を利用したもの。これまで、駅近くには、町産業振興・文化交流館という観光案内所風の施設があったが、これは平日のみ営業という、まったく観光には使えない施設であった。まさか、新たな観光案内所も同様かと思い、電話で尋ねてみると「ちゃんと、土日も営業しています」という。そんな観光案内所のウリは、“レンタサイクルの貸し出しを行うこと”の様子……。  果たして、公共交通機関では訪問しにくい上富田町に、どれだけの観光客がやってくるのか? 実のところ、周囲を観光地に囲まれながら、とりわけ目立つ名所のない地域の絶妙なローカル感は、ブラブラと歩いていると面白いもの。人が押し寄せるような観光地に飽きた人は、こうした日常を巡ってみるべきと、すごくポジティブにオススメしたい。 (文=昼間たかし)

神社関係者の困惑→沈黙から5カ月あまり……神社擬人化ゲーム『社にほへと』が、ついに開発中止を宣言

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『社にほへと』公式HP
 本日、DMM GAMESがブラウザゲーム『社にほへと』の開発を中止したことを発表した。4月末に不具合を理由に事前登録受付を休止して以来、5カ月あまりを経ての発表である。  同社のお知らせによれば「配信の発表以降、クオリティの向上、不具合の修正のために開発を続けて参りましたが、度重なる検討の結果、正式サービスを行うためのクオリティの確保、並びにお客様への安定的なサービスの提供に支障があると最終的に判断し、開発の中止を決定」したとしている。  ただ、事前登録開始以来、このゲームをめぐっては重大な問題が提起されていた。  現在も信仰されている実在の神社を、相談することなく無断で擬人化に使用していることの是否。その擬人化されたキャラクターのレアリティを「大吉」や「凶」という言葉で表記していることの是否などが、それである。  4月に執筆したルポルタージュで、取材に応じた神社本庁の担当者は「信仰を持つ側としては気分のよいものではありません」という言葉を漏らした。  一方、DMM GAMESは「本ゲームは『神社』をイメージした“フィクション”である内容のため、実際に実在する人物・建物・団体とは一切関係はございません」とメールで返答するのみで、取材には応じてもらえず、その真意を諮ることはできなかった。  そのルポルタージュが公開されてから間もなく、事前登録受付は中止され、公開されていたPVも削除。ほとんど動くこともなかったTwitterアカウントも、中止の発表と共に削除されるに至った。  この『社にほへと』をはじめ、近年、神社が新しいカルチャーによって注目を集めることていることは、筆者はいくつも取材している。 『社にほへと』についても、単なるゲームそのものの是否ではなく、日本人の生活に根付いた信仰を考える機会として、ルポルタージュを執筆した。  そこでは、困惑する神道関係者の姿だけでなく、読者諸氏が神社について考える機会を提示したつもりだ。以下にその『社にほへと』についてのルポルタージュを再録するので、ぜひとも読んでほしい。 (文=昼間たかし)  * * * 以下、「おたぽる」より転載(初出/2017年4月4日) 神社本庁も「これはちょっと……」と漏らした。「DMM GAMES」新作『社にほへと』から考えるオタクの信仰 『艦隊これくしょん-艦これ-』や『刀剣乱舞-ONLINE-』など数多くのヒット作を世に送り出してきた「DMM GAMES」が新たに発表した『社にほへと』。夏からのリリースを予定して、事前登録が始まっているこのタイトルは、神社を擬人化した「社巫娘」なる美少女キャラクターが登場する。  事前登録をすると、毎日1回おみくじを引くことができ、「伏見稲荷」「鹿島」「春日」などのキャラクターを引き当てることができる。だが、そこには神社や神道への理解、そして畏敬や信仰への畏敬を疑わざるを得ない面が見受けられる。「おみくじ」を引くと、大吉から凶までがキャラクターのレアリティによって分類されている。つまり、特定の神社は大吉、あるいは凶と分類されているようである。  信仰心や日本における神社の存在理由を少しでも知っていれば、ここに超えてはいけない線を越えていることを感じるのではないか。取材に応じてくれた神社本庁の担当者も、おみくじを見て「これはちょっと……」と顔を曇らせる。  また、凶の「おみくじ」を引くと登場するキャラクターに割り当てられた石清水八幡宮に話を聞いたところ「(神社の名前を)使用したい等の連絡は来ておらず、まったくの無断使用」というのである。  ところが、当の「DMM GAMES」にも話を聞いたところ「本ゲームは『神社』をイメージした“フィクション”である内容のため、実際に実在する人物・建物・団体とは一切関係はございません」という。そして「おみくじ」についても「結果の運勢に『社(やしろ)』がひもづいているものではない」というのである。  これをどういう形で書くべきか? 凡庸なニュースサイトのごとく、センセーショナルな部分のみをクローズアップして記すだけで、終わってはならぬように思った。すると、筆は勝手に走り続けたのである……。  昨年、縁あって御柱を曳く機会を得た。  御柱祭の年、諏訪大社の御柱祭が終わった後の秋、諏訪の神社では地域の人々によって、それぞれ御柱祭が催される。地域の人々によって山から切り出された御柱は、地域中で曳かれ、境内に建てられるのだ。  そうした神社のひとつに、岡谷市の洩矢神社がある。数年前の夏に偶然、私は神社を訪れて驚いた。普段は人もいない神社に設置された絵馬掛には、いくつものキャラクターを描いた絵馬が設置されていたのである。  そう、この神社はゲームに『東方Project』シリーズのキャラクター・洩矢諏訪子にゆかりのある神社だとされ、多くのファンが訪れるところになっていたのである。  いったいどのようなファンが集まっているのだろうか? たまたまTwitterで見つけた地元の人に聞いたところ、大みそかの夜には、地元の人々によって絵馬や熊手などの頒布も行われるという。ならば、ファンも集っているのだろう。早速、現地へ行ってみることにした。  2014年の大みそか。私のほか、わずかな客だけを乗せて走る夜の中央本線各駅停車。  上諏訪まで高速バスで行き、そば千(上諏訪駅近くにあったコンビニと合体した、立ち食い蕎麦屋)で年越し蕎麦を食べた後に向かおう。そんなスケジュールを考えていたのだが、行ってみると店は閉まっていた。年越し蕎麦を食べ損なったガッカリ感にどうしようもない気持ちを抱えたまま岡谷駅を降りると、雪がしんしんと降り積もっていた。  岡谷駅から洩矢神社へは、市街地とは逆方向の道を進むことになる。誰も歩いていない道の雪は、ただただ深かった。  そんな道を20分あまり。うっそうとした森に包まれた洩矢神社は雪化粧を施されて、夏に訪れたときとはまったく違う風景を見せていた。石段の道には提灯が並び、新年への期待と厳粛な空気とが混じり合い、幻想的な雰囲気に包まれていた。  石段を昇ると、普段は閉ざされている社殿の扉は開かれ、その横に設置されたテントでは、地元の人たちによって熊手と破魔矢の頒布も行われていた。そして私の姿を見ると、待ってましたとばかりに樽酒を紙コップに注いで勧めるのである。まったくの下戸である私だが、ひとまずは口をつける。ところが、まったく酔わない。それほどあたりは寒いということに気づいた。  頒布されている熊手や破魔矢を見る。驚いた。破魔矢には300円と書かれていた。おみくじは100円。前に訪れたときには、絵馬掛けの横に積まれ100円を賽銭箱に入れるように案内されていた絵馬は、無料で頒布されていた。安さには驚くが、決して値段の高い低いの問題ではない。本来は、地元の人のために頒布するものだからの値段なのである。儲けなど関係なく、神社への崇敬の念で、このような値段になっているのだろう。だからといって、ふと訪れただけの私にも、分け隔てなく頒布してくれた。ただそれだけのことなのだが、そこに何か神社の温かさというものを感じた。  さて、境内を見渡すと地元の人にまじって「東方民」は10人あまりだったろうか。それぞれ、ファン同士で交流したり、地元の人と会話を交わしていた。  そんな風景を眺めているうちに、年が変わると打ち上げ花火が上がった。それが合図だったのか、地元の人々がどっと神社に押し寄せてきた。それぞれ新年の挨拶をして、縁起物を手に戻っていく。それが、この地域での大みそかから新年にかけての過ごし方のようだった。  そんな混雑も30分あまり。すぐに境内には静寂が戻る。さて、これからどうしようかと考えた。東京のような異常な大都会とは異なり、新年を迎える夜に営業している店など、ほぼあり得ない。いまだに十代のときと変わらず野宿を楽しんでいる身ゆえ、駅のあたりで始発まで寝ようかと考えていた。あるいは、諏訪湖をほとりを歩いて下社への参拝くらいならできるだろう、と。  そんな時「東方民」の一人に、声をかけられた。 「一緒に、回りませんか?」  長野県在住の男性であった。彼は「せっかく来てくれたんだから」と、車で上下の四社、さらに御頭御社宮司総社と手長神社まで案内してくれた。道中、彼は仕事の合間にさまざまな神社を参拝していることを聞いた。ゲームをきっかけに、神社への関心を高める人も増えているのだろうか? そんなことを考えた。  神社に限らず、マンガやゲームがきっかけに違う何かが芽生える人々の姿は、それまでも見ていた。岡谷からさらに先、飯田線の沿線にある伊那市や飯島町が、そうだ。そこは、『究極超人あ~る』の「聖地」として知られる土地である。ここで2012年に飯田線開業100周年を記念した行事の一環として、作品のアニメ版で描かれた飯田線田切駅から伊那市駅までを自転車で走るイベントが開催された。参加者は申込みの上で、自転車を持参して田切駅に集合。そんなハードルの高い催しにもかかわらず、見物も含めて集まったのは100人あまり。以来、このイベントは毎年の恒例行事となった。  詳しくは別に書こうと思っているが、そこでは、マンガやアニメを軸にした「聖地巡礼」や地域起こしとは違うことが起こっているのを感じる。今でも参加者の紐帯が作品であることには変わりはない。でも、参加者の多くが、作品をきっかけにして地域の魅力を知り、何もないときにでも、ふらりと街を訪れるようになった。私も、その一人である。東京で、事務所の傍にあるコンビニの「ローソン」が、伊那名物の「ローメン」に見えてしまうほどである。「いつかは、このあたりに住もうか」そんなことを、考えている人も増えている。  だから、ゲームをきっかけに神社を訪れてその魅力を知り、信仰心や知的欲求を高める人もいるのは当然だと思った。何しろ洩矢神社は、ただ単にゲームのモデルとされた神社などという軽々しいものではない。諏訪の伝承では、そこに祀られるのは諏訪の土着神であり、ミシャクジ様とも同一視される洩矢神。その土地に、国譲りの際に、天津神に抗した建御名方神が出雲を追われ、この地へとやってきた。ここで出会った二柱の神は争った後に和解した。そして、建御名方神は祭神となり、洩矢神の子孫は明治まで、諏訪神社上社の神長官となった。その神の子孫である守矢家は今も続き、その自宅がある茅野市の神長官守矢史料館には、歴史と現在も続く信仰を伝える資料が展示されている。  諏訪の歴史や信仰は、それだけで何冊も本が書けるほどなので簡潔に記したが、自ずと畏敬の念の湧き上がるものだと思う。  前述の大みそかの参拝の際には言葉を交わす機会を逸したのだが、しばらく後にネット経由でT氏と知り合った。初めて出会ったのは、その年の秋の例大祭を訪問したときであった。ゲームのファンだと思っていたT氏は、法被を着て地元の人と一緒に働いていた。なぜ、そこまで地元になじんでいるのだろうかと驚いた。聞けば、ゲームのモデルが洩矢神社だとファンの間でささやかれ始めた頃に、彼は一人でこの神社を訪れたという。やはり、行事のないときの神社には人もおらず、当時は絵馬もなかったという。そこで見つけたのは、神社の案内板に記された例大祭の日時であった。何も情報がないまま、T氏は例大祭の日に神社を再訪した。その日はちょうど大雨の日だったという。神事を行っていた地元の人たちは、誰ともわからぬT氏を雨に濡れないところに案内してくれたのだ。それから、数年。埼玉県から通っているT氏は、すっかり地元になじんでいる。 「大社にお詣りするよりも、こちらにお詣りする機会のほうが増えましたね」  そして、諏訪の地域の信仰の魅力を語るのだ。変わらずゲームも愛好している。けれども、もはや東方ファンというよりは、洩矢神社のファン、信仰者というのが、彼の偽らざる姿である。  だが、人が増えれば必ずしもすべてが明るい方向にはいかない。昨年、大社の御柱祭が終わった頃から、T氏と幾度も話をしていたのは、洩矢神社の御柱祭のことである。私は、ぜひこの祭りに参加をしてみたいと思っていた。けれども、単なる「にわか」が「祭りがあると聞いて来ました」と参加してよいものだろうかと、畏れがあったのである。  というのも、人気のゲームの「聖地」として注目を集めることに対する地域の人々の想いには、複雑なものを感じていた。例大祭や、大みそかに参拝したときには、分け隔てなく歓迎してくれる。洩矢神社を管理している地元の自治会の神社委員の人たちは、各地から参拝に来てくれる人のために、絵馬だけでなく御守りまで作るようになった。それは「聖地巡礼」でありがちな、作品の舞台になり人が集まるようになったので、ここらで一儲けしよう、地域を活性化させよう、なとどいうものではない。あくまで、遠くから神社に参拝に訪れる人がいることの喜びから始まった自発的な活動だ。  つまり、主体は神社であり、ゲームは従にすぎない。その親切心にあぐらをかいてはならないと思っていた。そもそもゲームのモデル、すなわち創作の材料とされ、制作者の創造力の趣くままに使われていることが、単純に喜ばれているとは思えなかった。  前述の守矢家の現在の当主は、第78代の守矢早苗氏である。サイト「ニコニコ大百科」などでは、『東方Project』中に登場するキャラクター・東風谷早苗の「元ネタ」は、この人だと書かれている。さらに、制作者自らゲームに出す許可を取りに行ったと記しているサイトもある。自身がキャラクターとされていることや、ゲームのファンが訪れていることをどう思っているのか。自ずとそんな疑問が沸いた。 「お会いする機会があれば、来てみたい」と言ったところ、T氏には止められた。さらに、本人とも交流のある地元の郷土史研究団体の人は「それはやめておいたほうがいい」と、苦い顔をする。何かしらの形で許可は出したようだが、必ずしもゲームによい印象を抱いているわけではないことは、容易に感じ取れた。  ここは神社であって、作品の聖地でも観光地でもない。だから、洩矢神社の御柱祭も人が来るのは歓迎するけれども、大っぴらに宣伝するようなものではないというのが、地元の人々の考えのようだった。  それでも、Twitterなどに流れた洩矢神社に掲示されている神事の日程表などを見て、里曳きには十数人の「東方民」の姿があった。そこで、私はもしも公式サイトなどを立ち上げて、大々的に宣伝すれば、予想だにしない事態が起こるであろうことの片鱗を見てしまった。  今回の御柱祭は9月に山出しを終えたあと、10月9日に里曳き。そして、翌日に建御柱というスケジュールだった。てっきり、曳いているフリだけしておけばよいのかと思っていら、甘かった。柱も太いが人数も多い大社とは、まったく違った。地元の人たちを中心に、かなり必死に曳かねばならない、けっこうな重労働であった。御柱の進む先では、沿道の住民が振る舞いを用意して待ってくれているが、なかなかそこまでは進まない。一度神社に集まってから、御柱まで向かうときは「案外、短い距離だな」と思った。でも、まったくそんなことはなかった。加えて、坂もあり道は曲がっているために、なかなか先が見えない。  日頃の運動不足を恨みつつ、曳きながら、こんなことを考えた。このような大変な行事を、地元の人たちは7年に一度行っている。それは、なぜだろうか。単に伝統だからとか、そんな単純なことでできるものではない。観光客が来て儲かるわけでもない。金融資本主義にまみれたアメリカ風のドライな見方をすれば、なんら個人が利益を得る行事ではないのだ。にもかかわらず、地元の人が集い絶えることなく神事が続いている。それは、神社が単に人が拝み、神様が何がしかの御利益をくれるギブアンドテイクの関係の場所ではない存在であることを、教えてくれた。  その里曳きで、S氏と知り合った。Facebookで私が来ていることを見つけた伊那の友人が「その地区にSさんという、諏訪信仰に詳しい方がいるので探しなさい」と連絡をしてきた。T氏に「Sさんって、どの人?」と聞いたら、目の前にいた。  地域の信仰や歴史について、さまざま話をして、翌日の建御柱に守矢早苗氏が来てくれるという話になった。ご挨拶することはできないかと尋ねると、S氏はタイミングを見てつないでくれることを約束してくれた。  翌日、小雨の中で建御柱の神事は、始まった。先を切って尖らせて、木遣り唄の中を慎重に建てていく。その最中に、早苗氏に挨拶をする機会を得た。長く教師をしていたという早苗氏は、まったく気取るところもない親しみやすさのある女性であった。しかし、同時に本人や周囲の人々の立ち振る舞いからは、そこにある連綿と続いてきた信仰と歴史とが一人の人間を通じて、止めどもなく溢れているように感じた。神々しさなどとはまた違う、言葉では表現できないもの。遠い祖先から続く人間の営み。その積み重ねが、一人の女性を通じて現れ出ているのだ。そこに、畏敬があるのは当然であった。  けれども、集っている中には、別のものが見えている人もいた。前日から、初めてやって来たことに興奮気味だったゲームファンの若者が、早苗氏にノートを取り出してサインを求め、周囲の人に止められていた。それはまだ、気持ちがわからなくもない。若さゆえの過ちかもしれないからだ。  でも、もうひとつ、見たくはなかったものを見てしまった。御柱の先を尖らせるときにできた木片に、サインを求める人物もいたのである。この人物は、岡谷市内の別の地区の住人だと聞いていた。曲がりなりにも、地域に住みながら、どうしてそのような行為ができるのか不可解であった。  後日、この人物が「自分は、天照大神と話ができる」などと喧伝して、さまざまな神様を込めた勾玉を販売したりしていることを知った。さらに、この人物が長野県白馬村にある、やはり『東方Project』の「聖地」だと目されている城嶺神社が地震で倒壊したために再建の事業を手伝っていると聞いた。何か違和感を覚えて本人のFacebookを見てみると、勾玉を販売したりする傍らで、仮想通貨・ビットコインの勉強会を開催したり、情報商材を販売していることもわかった。それは、ゲームファンに注目されている神社に関わることに、ビジネスチャンスを見いだしているように見えた。  そこで、本人に尋ねてみたところ「私は手助けしたい一心で動いている」と言い張り、筆者の取材を再建の妨害とまで、非難してきたのだった。この件は、昨年別に記事にしたが(http://otapol.jp/2016/12/post-8967.html)、この人物によって作成された「洩矢神社公式ホームページ」は、この事件の後に、地域の神社委員の管理へと移行している。それでも、この人物はいまだに神社や神様をビジネスの場にしようとうごめいていると聞いている。近年、新聞やテレビでも当たり前のように報じられるマンガやアニメ発の「聖地巡礼」。その光と影の両方を、洩矢神社にはあった。  これまで、いくつもの「聖地巡礼」を体験し取材してきた。それは、必ずしも歓迎されるものではなかった。時として、地域の生活に負の要素をもたらす。人が増えれば、必ずしもよい人ばかりはやってこない。むしろ、迷惑な人や怪しげなビジネスを企画する人は、ここぞとばかりに寄ってくる。  神社は、そうした人々が土足で踏み入ってよい場所であるはずがない。  実のところ『社にほへと』は、さまざまな問題のほんの一部にすぎない。神社がマンガやアニメの舞台となり「聖地巡礼」する人々が集まっている。あるいは、神社の中にも、作品とのコラボをしてマンガやアニメのファンに盛んにアピールをしているところもある。こうした話題のネガティブな面が報じられることは、極めて少ない。いわゆるオタク系メディアの書き手は、そうしたネガティブな面を、私よりも知っているはずだ。けれども、そうした人々の多くは「御用」であることを相争い、目を背ける。  だからこそ、あらためて神社の存在理由や、神道というものについて、詳しく知りたい、ひとつの文章にまとめなくては、と思った。  そこで、神社本庁にアポイントメントを取った。神社本庁は、日本でもっとも多くの神社が加盟する宗教法人として知られている。ただ、キリスト教における教皇庁のような教義やら何やらを隅々まで指導する総本山ではない。あくまでも、全国の多くの神社が相互に協力し連絡しあうための組織といえる。  ただ、そうした役割は必ずしも正しく理解されてるとは言い難いと思う。やはり、総本山的な理解をしている人は多いし、昨今、左翼的な思想の人は政権批判と絡めて、その存在までをも批判する。これまた、神道への無理解や信仰というものが失われていっていることを示す、一つの事象であろう。  ただ、そのような状況だから、少し敷居の高さを感じたのも事実である。話の入口はゲームの話である。ともすれば「ゲームなんかの話で」と、断られるのではないかとか、どこから説明すればよいのか、考えながら電話した。  でも、それは杞憂であった。こちらの取材の趣旨を告げ、『社にほへと』の件に触れると「そういうのもあるみたいですね」と、すでに知っていたのである。  電話で応対してくれた神社本庁広報国際課課長の岩橋克二氏は、すぐ翌日に会ってくれた。  冒頭、和歌山県出身という岩橋氏は「関西弁でもいいですか?」と断った。その言葉や立ち振る舞いには、神職らしい「来る者は拒まず」の姿勢を感じ取れた。取材の中でも決して難しい言葉などを用いることがなかったのも、人柄を示すものだろうと思う。  そうして始まった取材。最初は、やはり発表になったばかりのゲームの情報まで知っていることに驚いた私の感想から始まった。聞けば『ポケモンGO』をはじめ、神社に何かしら関連があったり、影響が懸念されるコンテンツには、常にアンテナを張っているのだという。だから『社にほへと』も知ってはいた。ただ、実際に事前登録をして「おみくじ」を引いたりはしていなかった。  現在公開されている『社にほへと』では、「事前登録」のボタンを押すと、ページが遷移する。そこでは「おみくじ一覧」として、神社の名前を持つ美少女キャラクターを見ることができる。そして、Twitterで『社にほへと』のアカウント(@yashiro_staff)をフォローすれば、毎日1回「おみくじ」を引くことができるという仕組みだ。  私の持参したノートパソコンで「おみくじ一覧」を見てもらったとき、岩橋氏の顔が少し曇った。その「おみくじ一覧」には、キャラクターのレアリティ(希少度によるキャラクターのランク付け)によって大吉から小吉までが割り当てられているようであった。このレアリティが、どのように設定されているのかはわからない。ただ、ある神社は大吉、あるいは小吉とカテゴライズされているようだった(ゲームが稼働前のため、詳細なレアリティの設定などは不明)。 「これはちょっと……」  そう言葉を漏らし、少し間をおいてから、岩橋氏は続けた。 「ここまでは見ていませんでした。信仰を持つ側としては気分のよいものではありません。いったい、なんの根拠があってやっているのでしょうか……」  岩橋氏は決して、偏狭な考えから話しているのではない。あくまで、しごく真っ当な懸念であった。 「気になるのは、お宮自身が承諾をしているかどうかです。これが、ご祭神名であれば、逃げられるんですが……春日大社があるのに、鹿島神社もありますよね」  春日大社と鹿島神社は、同じ建御雷之男神を祭神とする神社である。神社を「擬人化」というのが『社にほへと』のコンセプトのようではあるが、開発段階で祭神を同じくする神社が重なっている。そこに、神道への理解の浅さを感じているようであった。  とりわけ、私も驚いた「おみくじ」の部分には、それを感じているようだった。大吉を引くと登場するキャラクターは、それを喜ぶ。かと思えば中吉のキャラクターは「せいぜい、中途半端な一日を過ごすとよい」と言うのだ。 「おみくじは、明確な定義のあるものではありません。大吉中吉小吉とあり、よく幸運の度合いを示すと理解している人もいらっしゃいますが、それはあくまでも現状のことであって、例えば凶が出たからといって、お先真っ暗なわけではありません。大吉を引いたからといって、人生遊んで暮らせるわけではありません。今はいいけど、気を抜かないでねという意味合いのもの。内容を見て、努力して改善していけばやがてよくなるというものです。ですから、ここにはやはり意味の取り違え、単純に格付けとして理解している感がありますね」  日本の神社には、熊野や八幡、諏訪などさまざまな「系列」は存在する。また、神社の社格というものあるが、これは、いわば朝廷や政府が管掌する上での分類。どこそこの神社は、○○神を祀っているから強いとか、御利益はほかの神社の三倍などということはない。だから、日本の神様はランク付けができるような存在ではないはずだ。 「確かに天照大神が一番貴い神様とはいわれますが、その一方で、天照大神のお一方ではできないこともあります。日本の神様は人間と同じく得手不得手もあるのです。たとえば、オモイカネ(思金神・常世思金神)という世の中のすべてを知っている神様もいらっしゃいますが、オモイカネは自分自身では動くことはできないのです。なので、神様同士で力を合わせて世の中をよくしていくというのが、日本の神様なんです。モチーフとしてこういうところに使うという気持ちはわかりますが、なぜ神様じゃなくて神社なんだという疑問はありますね」  ならば、こうしたゲームが登場したことによって、どのようなことが懸念されるのだろうか? 「神社とか日本の神様に対して、意識の薄い人たちが純粋にゲームとして楽しむかもしれません。怖いのは、そういう方たちが『舞台だから、登場人物だから』というだけで神社に行ったときに、ほかの参拝の方がいらっしゃる中で、不敬な行為を行うことです。神社側としては『節度を保ってください』とは言うのでしょうけど、ほかの参拝の方の気分を害しないのか、と」  マンガやアニメなどの作品により深く寄り添いたいと「聖地」を訪れるファン。彼らは作品の舞台を訪れたことに喜びを感じているかもしれない。けれども、その「聖地」が神社だったとき、彼らは神社をどのようなところとして捉えているのか。岩橋氏はそこに、いささかの疑問を感じているようだった。 「埼玉県の鷲宮神社が『らき☆すた』で注目を集めてから以降も、神社が舞台になることはよくあります。最近では『君の名は。』も、そうですよね。でも、訪問される皆さんが、そこを神社として認識しているのか、あるいは、単にアニメの舞台だから行っているだけなのか、そこはこちらとしては疑問です。もちろん、神様も人が来てにぎやかになることは好きですし、歓迎なんです。けれども、そこがお宮であること、そこには神様がいらっしゃるということをまったく埒外にして、記念写真だけ撮って帰るとかになるはどうでしょうか」  意味を取り違えたまま、神社を訪問してしまう。それは「聖地巡礼」に限った現象ではない。もはや、定着した感のある「パワースポット」でも、似たような問題は起こっている。神社本庁に隣接する明治神宮では、一時期境内にある「清正の井戸」が「パワースポット」であるとして、整理券も出すほどのブームになったことがある。けれども「清正の井戸」を写真に収めた後、お詣りもせずに帰る人もいたというのだ。 「やはり、清正の井戸が明治神宮の境内にある意味を考えていただきたい。もちろん、深く知る必要があるとは思いませんが、日本の神様というのは、より人間の近いところにいる存在です。よその家にお邪魔したときに、庭だけウロウロして挨拶もしないで帰るのと一緒になってしまいます」  だからといって「聖地巡礼」や「パワースポット」が、すべて神社にとっていらないもので、お断りというわけではない。むしろ、最近では『ポケモンGO』でもなんでも、せっかく来てくれるのであれば積極的に働きかけていこうとする気運も神社側にはあるという。 「気づきがある人が3割いればありがたい、と思っています。お越しいただいた中の3割にすぎなくても、その方たちが周りに広げてくれると思っていますから」  最近では、神社がアニメとコラボしてキャラクターの描かれた絵馬や御朱印帳などの頒布を始めたりもしている。岩橋氏は、それを真っ向から否定したりはしない。 「時代を捉えているとは思います。定期的にお宮に来ていただく手段としては、あり得ると思います」  一方でやりすぎのある神社があれば、神社本庁として指導していかなくてはならないともいう。ただ、テクノロジーがどんどん発展し、新たなビジネスのあふれる現代において、何をどのように指導していくかも難しい。例えば、すでにどこそこの神社で祈願しており、こういう御利益があるなどとうたった「祈願済み」の商品。これは、あってはならないものと即答する。 「神社というのは、そこに行って、神様に直接お願いすることに意味があるものです。なんとかご祈祷済みとか、ご祈願済みとか、こういう御利益がある商品というのは、つまり神様の名前を使った商売になってしまう。“神社も商売”と言われるとそこまでなんですけど。やはり、お宮の中で起こっていることと、外で行われていることは違うと思うんです」  一方で、意外だったのはインターネット参拝に対する意見だ。2000年代半ばに登場したこれは、多くの神社がサイトに設置したが、神社本庁は06年に「信仰の根幹に関わる問題だから、もう一度考えていただきたい」と注意喚起を出している。 「あれは、判断が難しいことでした。というのも、神社の信仰の中に遙拝(ようはい)というものがあります。例えば、式典では国旗を通じて伊勢神宮を遙拝することがあります。それが、バーチャル参拝とどう違うのかといわれることもあるんです。たぶん、その作法が長く定着しているので、受け入れられているのだと思うのです。伝統的なものとテクノロジーの発展というのは、かみ合うようになるまで時間がかかると思います。お賽銭に電子マネーが使える神社も議論を呼びましたが、お賽銭というのも貨幣経済が発達してから登場したものです。私自身も抵抗はあるけど、100年後にはインターネット参拝は、当たり前になっているかもしれません」 「聖地巡礼」も、インターネットが発達したことによって流行しているという一面がある。もはや、どんな作品であっても「モデルはここではないか」という情報が流れ、訪問記も当たり前のように見ることができるからだ。だから、ビジネスのチャンスと考えるのを止めることはできない。でも、欲にまみれて、やりすぎたりしていれば神様はちゃんと見ていることを、岩橋氏は語る。 「そこに力を入れすぎると、神様が軌道修正をします。急にブームがぴたっと終わってしまうでしょう。ですから、神主としては、欲に走ることなく、あくまで神社なんだということを常に忘れずにやっています」  だから「聖地巡礼」や「パワースポット」で神社に関心を持った人には、むしろ地域の氏神にも参ってほしいという。 「日本全国どこでも、どこかの氏子地域なわけですよね。いつも面倒をみてくれている神様がいるわけですから、そこにご挨拶に行かずに有名な神様のところに行っているのは、いけないと思うんですよね。私が父から言われたことですが、神様は頼むものではなく讃えるもの。大事にするから、おかげがいただける。お願いするのは、自分が十分やってから後の話なんです」。  やはり、神社とは歴史に裏打ちされた、数多の人間の想いによって成り立っているもの。それがゲームのキャラクター、それも、それぞれが1枚のカードのようなものにされてしまうことには、違和感を拭えなかった。 「自分の信仰が」だからではない。日本の歴史が2677年、そして神や人間の営みは、それ以前から存在する。それを、わずか数十年に満たない期間の間で勃興した「オタク文化」の中でもてあそんでよいとは思えないのだ。近年、マンガやアニメは、日本の中心的な産業のごとく位置付けられ、政府や行政機関までもが利用するものとなった。確かに今、この瞬間は価値と力を持つ文化なのかもしれない。だからといって、祖先から受け継いだ神社や神様を、簡単にもてあそんでよいものだろうか? でも、それは判断が難しい。100年後には完全なメインカルチャーとなっていているかもしれない。現在、神様の肖像として紹介される画像が浮世絵や日本画であるように、未来では神社に祀られている神様はすべてアニメキャラクターになっているかもしれない。  でも、今はどうなのだろうか?  神社本庁への取材の後、編集部と相談して神社にも取材をすることにした。電話で話を聞いたのは「凶」に割り当てられている石清水八幡宮である。対応してくれた担当者は、電話口の向こうで驚いているようであった。 「私が広報なんですが、こうした連絡はありません。無断使用です」  数日後、あらためて電話をくれた担当者は「ほかのお社さんとも話をして」しばらくは様子を見ることになったと教えてくれた。当初は、すぐにでも削除を要請することも考えていたようだが、まだリリース前でもあり、ゲーム自体がヒットするかどうかもわからないため、事態の推移を見守るという方針に落ち着いたようだ。一方で、正直な気持ちも伝えてくれた。 「あまり気持ちのいいものではないですね」  担当者は、キャラクターの名前を「石清水八幡宮」ではなく「石清水八幡」と、一文字だけ削ることで神社と無関係に見せる意図を感じ取っていた。それは、無断使用される以上に不快なものだったのだろう。  この取材と同時に、DMMにも取材を申し込んでいた。質問事項として送ったのは、次の2点である。 1.このタイトルでは神社の擬人化が行われておりますが、これは該当する神社には許諾あるいは、なんらかの事前折衝を行っていらっしゃいますでしょうか? 2.当方でも事前登録をさせて頂きましたが、キャラのレアリティに応じて大吉~凶に振り分けがなされております。これは特定の神社が、凶になってしまうことであり、当該の神社はよい気持ちを得るとは思えないのですが、いかがでしょうか?  願わくば、ぜひ会ってゲームの意図を聞きたいと思ってた。なぜなら、決して制作側も神道を貶めることを目的として開発している淫祠邪教の徒ではないはず。多くの人々に喜んでもらいたいと思って、ゲームを開発しているはずである。イラストレーターはキャラクターに愛情を込めて執筆しているはずだし、声優もそうであるはずだと思ったからだ。  しかし、願いは叶わず、メールで次の回答が返ってきた。 1.「社(やしろ)」の擬人化について  本ゲームは「神社」をイメージした「フィクション」である内容のため、実際に実在する人物・建物・団体とは一切関係はございません。また、実在する地域や神社等の関係性につきましても、一切関係がございません。 2.事前登録おみくじについて  事前登録おみくじは、結果の運勢に「社(やしろ)」が紐づいているものではなく、結果の運勢についてキャラクターが説明しているものになります。  あらためて、ネットでこのゲームを事前登録し「おみくじ」を引いている人たちが、どのような感想を得ているのか検索して見た。自分の縁のある神社の登場を期待する人。手に入れたキャラクターを喜ぶ人も多いが、やはりゲームとしてキャラクターの強弱やレアリティを気にしている人の存在も否めなかった。  これは、なんなのだろうか。  強弱どころか、多くのキャラクターがそうであるように、二次創作の形でエロを期待している人を見つけたときには、言葉にならない根源的な恐ろしさを感じた。  でも、それを真っ向から批判しても、なんら解決にならない。西洋的な異端や邪教を狩る行為は、日本には似合わない。誤りに気づき、感じさせるのこそが日本的な精神の根本であろう。だから今は、この推移を見守るしかないと思うのだ。  そう考えながら、しばらく氏神様にご無沙汰してしまったのを思い出して、参拝に向かった。  参拝の後、春の祭りの準備が進む境内を散策し、おみくじを引くと大吉が出た。けれども、決して思いのまま万事がうまくいくようなことは書かれていなかった。  あらためて神道の意味を感じた。 (文=ルポライター/昼間たかし http://t-hiruma.jp/

少女マンガ界最大のタブー? 封印マンガ『キャンディ・キャンディ』を、40代おっさん目線で解説

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『キャンディ・キャンディ(1)』(講談社) 
 皆様こんにちは。美白ブームの昨今ですが、この夏の紫外線対策はバッチリだったでしょうか? シミ・そばかすは、イマドキの女性にとっては天敵ですよね。しかし、かつて「そばかす」「鼻ぺちゃ」「おてんば」こそが、モテ系女子のキーワードだった時代がありました。  今回ご紹介する『キャンディ・キャンディ』は、そんな「そばかす」ヒロインが活躍する少女マンガです。1975年に連載開始、翌年にアニメ化されて以降、少女マンガ界の人気を独占。関連グッズの売り上げは年間80億円にも上り、フランスやイタリア、アジア各国でも大人気となる、まさしく少女マンガ界のモンスターだったのですが、現在は読むことができない「封印マンガ」としても知られています。少女マンガの頂点を極めた大ヒット作に、いったい何があったのでしょうか? 『キャンディ・キャンディ』は、大ヒット作品であるにもかかわらず、2001年以降、マンガは絶版、アニメの再放送はなく、DVDなども出ていません。かつては『オバケのQ太郎』と並ぶ封印マンガの二大巨頭でしたが、オバQが再販されるようになった今、現在は『キャンディ・キャンディ』が封印マンガ独り勝ち(?)状態です。 『キャンディ・キャンディ』封印の理由は、一言でいえば、作画:いがらしゆみこ先生と原作:水木杏子先生の確執にあります。いがらし先生が、原作者である水木先生に許可を取らずにグッズ展開をしたため、裁判に発展。今もなお、2人が和解することはなく、『キャンディ・キャンディ』の封印は解かれていないのです。  そんな暗い話はここまでにして、『キャンディ・キャンディ』とはどんな作品だったのかをご紹介しましょう。悲劇のヒロインが王子様に見初められる「ザ・玉の輿」なシンデレラストーリーで、これぞまさに少女マンガの王道といえます。 ■とにかく不幸、絶望的境遇のヒロイン  タイトルのせいで、主人公の名前が『キャンディ・キャンディ』だと思い込んでいた僕のような人もいるかもしれませんが、本当の名前はキャンディス・ホワイトといいます。キャンディはニックネームというわけです。アントニオ猪木のニックネームがアントンみたいなもんですね。  キャンディは孤児院「ポニーの家」で育ったのですが、もともとはミシガン湖の湖畔に捨てられており、誕生日も本名もわからない女の子でした。同じ「ポニーの家」の孤児だった親友アニーは、お金持ちのブライトン家の養女として引き取られましたが、おてんばすぎるキャンディはまったく養女のお呼びがかからず……。やっとお呼びがかかったラガン家には、養女ではなく使用人として引き取られます。  さらにラガン家の子どもたちである、ニール&イライザ兄妹が超絶に意地悪で、キャンディを徹底的にいびり倒します。とにかく、小学生の女の子が思いつくレベルのあらゆる不幸を背負ってるのがキャンディです。 ■おてんば女子が、王子様キラーにランクアップ  このようにキャンディは徹底的に不幸な境遇でありながら、ラガン家の使用人になって以降はすごい勢いでモテ始めます。しかも、王子様&イケメン限定という、それはもう見事な愛され女子。これが、いわゆる「そばかす」「鼻ぺちゃ」「おてんば」効果です。  アンソニー、アーチー、ステアなど、お金持ちアードレー一族の王子様キャラがそろってキャンディを奪い合うほどのモテっぷり。その中でも、幼少期に出会った初恋の人「丘の上の王子様」にそっくりのNo.1イケメン、アンソニーとは運命を感じ合う仲になります。  しかし、このままアンソニーとラブラブで「玉の輿」確定かと思われていた最中、アンソニーが落馬事故で死んでしまい、再びキャンディは不幸のどん底に突き落とされます。少女マンガのヒロインたるもの、そう簡単には幸せにはなれないのです。 ■留学先でアウトローなイケメンにフォーリンラブ  アンソニーのことが忘れられず傷心のキャンディでしたが、アードレー家の当主であり、決して姿を現さない謎の男、ウィリアム大おじさまに気に入られ、養女として迎え入れられます。そして、ステア、アーチーらのいるロンドンへ留学します。  ロンドンでは、なんと死んだアンソニーにそっくりながら、性格は真逆のちょいワルなイケメン、テリィが登場。今度はテリィが気になり始めるキャンディ。持ち前のおてんばパワーで女子寮からロープで男子寮に忍び込むなど、肉食系女子っぷりを遺憾なく発揮します。 ■愛に生きる看護師、夜勤をサボる  ロンドンでテリィと着実にラブラブになっていくキャンディですが、ひそかにテリィを好いていた天敵・イライザの罠により、退学寸前に追い込まれます。しかし、テリィがキャンディをかばい、代わりに退学することに。  しばらくテリィのことが忘れられなかったキャンディは、看護師になるべく看護学校に入学。持ち前の明るさと人当たりで患者にも評判がよく、一人前の看護師になりますが、ブロードウェイで俳優としてデビューしたとうわさのテリィに一目会うため、夜勤をサボり、同僚に激怒されます。相変わらず、惚れた男の前では自分を見失いがちです。 ■神田川みたいな貧乏同棲生活  実はそれ以外にも、キャンディのピンチを要所要所で救ってくれていた謎のおじさん、アルバートさんというキャラがいます。髭モジャサングラスのワイルドな風貌で、動物たちと暮らしている謎の自由人です。  そんなアルバートさんが、事故で大けがをして、キャンディのいる病院に運ばれてきました。しかも、記憶喪失状態。キャンディは懸命な看護をするも、病院は身元不明のアルバートさんを不気味に思い、追い出そうとします。  そこで、キャンディは、記憶のないアルバートさんを介護するため同居を開始。勤務していた病院も辞めて、町医者の元へ転職。アルバートさんはアルバートさんでバイト先を転々とするなど、「神田川」のような極貧カップル生活を送ります。 ■壮大な伏線の回収、そして水戸黄門的ラスト  泥棒の汚名を着せられたり、メキシコに売られそうになったり、大嫌いなニールと無理やり結婚させられそうになったりと、ピンチを迎えるたびにキャンディを救ってくれる、謎のアードレー家当主、ウィリアム大おじさま。姿を一切現さない本作の最大の謎キャラが、ラストシーンでついにキャンディたちの目の前に現れることになります。  ウィリアム大おじさまの本名は「ウィリアム・アルバート・アードレー」。そう、キャンディのピンチを助け、後半はキャンディに介護をされた風来坊、アルバートさんこそがウィリアム大おじさまの正体でした。しかも、キャンディが幼少期に出会った初恋の人、「丘の上の王子さま」とも同一人物だったのです。  孤児院出身ということで一族の奴らに散々いじめられていたキャンディが、実は当主と同居経験もあるほどの仲良し……という水戸黄門的展開が待っていたのです。まあ、読者のほとんどが感づいていたはずなのですが、ラストシーンでちゃんとすべての謎が解明します。  というわけで、かの名作少女マンガ『キャンディ・キャンディ』を40代のおっさん目線で下世話に紹介してみました。結局のところ、何が言いたいかといいますと、『キャンディ・キャンディ』は大人が読んでも超面白い作品なので、早く封印が解かれて、みんなが気軽に読める日が来るといいなあと願っている次第です。 (文=「BLACK徒然草」管理人 じゃまおくん<http://ablackleaf.com/>) 「ザオリク的マンガ読み」過去記事はこちらから

少女マンガ界最大のタブー? 封印マンガ『キャンディ・キャンディ』を、40代おっさん目線で解説

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『キャンディ・キャンディ(1)』(講談社) 
 皆様こんにちは。美白ブームの昨今ですが、この夏の紫外線対策はバッチリだったでしょうか? シミ・そばかすは、イマドキの女性にとっては天敵ですよね。しかし、かつて「そばかす」「鼻ぺちゃ」「おてんば」こそが、モテ系女子のキーワードだった時代がありました。  今回ご紹介する『キャンディ・キャンディ』は、そんな「そばかす」ヒロインが活躍する少女マンガです。1975年に連載開始、翌年にアニメ化されて以降、少女マンガ界の人気を独占。関連グッズの売り上げは年間80億円にも上り、フランスやイタリア、アジア各国でも大人気となる、まさしく少女マンガ界のモンスターだったのですが、現在は読むことができない「封印マンガ」としても知られています。少女マンガの頂点を極めた大ヒット作に、いったい何があったのでしょうか? 『キャンディ・キャンディ』は、大ヒット作品であるにもかかわらず、2001年以降、マンガは絶版、アニメの再放送はなく、DVDなども出ていません。かつては『オバケのQ太郎』と並ぶ封印マンガの二大巨頭でしたが、オバQが再販されるようになった今、現在は『キャンディ・キャンディ』が封印マンガ独り勝ち(?)状態です。 『キャンディ・キャンディ』封印の理由は、一言でいえば、作画:いがらしゆみこ先生と原作:水木杏子先生の確執にあります。いがらし先生が、原作者である水木先生に許可を取らずにグッズ展開をしたため、裁判に発展。今もなお、2人が和解することはなく、『キャンディ・キャンディ』の封印は解かれていないのです。  そんな暗い話はここまでにして、『キャンディ・キャンディ』とはどんな作品だったのかをご紹介しましょう。悲劇のヒロインが王子様に見初められる「ザ・玉の輿」なシンデレラストーリーで、これぞまさに少女マンガの王道といえます。 ■とにかく不幸、絶望的境遇のヒロイン  タイトルのせいで、主人公の名前が『キャンディ・キャンディ』だと思い込んでいた僕のような人もいるかもしれませんが、本当の名前はキャンディス・ホワイトといいます。キャンディはニックネームというわけです。アントニオ猪木のニックネームがアントンみたいなもんですね。  キャンディは孤児院「ポニーの家」で育ったのですが、もともとはミシガン湖の湖畔に捨てられており、誕生日も本名もわからない女の子でした。同じ「ポニーの家」の孤児だった親友アニーは、お金持ちのブライトン家の養女として引き取られましたが、おてんばすぎるキャンディはまったく養女のお呼びがかからず……。やっとお呼びがかかったラガン家には、養女ではなく使用人として引き取られます。  さらにラガン家の子どもたちである、ニール&イライザ兄妹が超絶に意地悪で、キャンディを徹底的にいびり倒します。とにかく、小学生の女の子が思いつくレベルのあらゆる不幸を背負ってるのがキャンディです。 ■おてんば女子が、王子様キラーにランクアップ  このようにキャンディは徹底的に不幸な境遇でありながら、ラガン家の使用人になって以降はすごい勢いでモテ始めます。しかも、王子様&イケメン限定という、それはもう見事な愛され女子。これが、いわゆる「そばかす」「鼻ぺちゃ」「おてんば」効果です。  アンソニー、アーチー、ステアなど、お金持ちアードレー一族の王子様キャラがそろってキャンディを奪い合うほどのモテっぷり。その中でも、幼少期に出会った初恋の人「丘の上の王子様」にそっくりのNo.1イケメン、アンソニーとは運命を感じ合う仲になります。  しかし、このままアンソニーとラブラブで「玉の輿」確定かと思われていた最中、アンソニーが落馬事故で死んでしまい、再びキャンディは不幸のどん底に突き落とされます。少女マンガのヒロインたるもの、そう簡単には幸せにはなれないのです。 ■留学先でアウトローなイケメンにフォーリンラブ  アンソニーのことが忘れられず傷心のキャンディでしたが、アードレー家の当主であり、決して姿を現さない謎の男、ウィリアム大おじさまに気に入られ、養女として迎え入れられます。そして、ステア、アーチーらのいるロンドンへ留学します。  ロンドンでは、なんと死んだアンソニーにそっくりながら、性格は真逆のちょいワルなイケメン、テリィが登場。今度はテリィが気になり始めるキャンディ。持ち前のおてんばパワーで女子寮からロープで男子寮に忍び込むなど、肉食系女子っぷりを遺憾なく発揮します。 ■愛に生きる看護師、夜勤をサボる  ロンドンでテリィと着実にラブラブになっていくキャンディですが、ひそかにテリィを好いていた天敵・イライザの罠により、退学寸前に追い込まれます。しかし、テリィがキャンディをかばい、代わりに退学することに。  しばらくテリィのことが忘れられなかったキャンディは、看護師になるべく看護学校に入学。持ち前の明るさと人当たりで患者にも評判がよく、一人前の看護師になりますが、ブロードウェイで俳優としてデビューしたとうわさのテリィに一目会うため、夜勤をサボり、同僚に激怒されます。相変わらず、惚れた男の前では自分を見失いがちです。 ■神田川みたいな貧乏同棲生活  実はそれ以外にも、キャンディのピンチを要所要所で救ってくれていた謎のおじさん、アルバートさんというキャラがいます。髭モジャサングラスのワイルドな風貌で、動物たちと暮らしている謎の自由人です。  そんなアルバートさんが、事故で大けがをして、キャンディのいる病院に運ばれてきました。しかも、記憶喪失状態。キャンディは懸命な看護をするも、病院は身元不明のアルバートさんを不気味に思い、追い出そうとします。  そこで、キャンディは、記憶のないアルバートさんを介護するため同居を開始。勤務していた病院も辞めて、町医者の元へ転職。アルバートさんはアルバートさんでバイト先を転々とするなど、「神田川」のような極貧カップル生活を送ります。 ■壮大な伏線の回収、そして水戸黄門的ラスト  泥棒の汚名を着せられたり、メキシコに売られそうになったり、大嫌いなニールと無理やり結婚させられそうになったりと、ピンチを迎えるたびにキャンディを救ってくれる、謎のアードレー家当主、ウィリアム大おじさま。姿を一切現さない本作の最大の謎キャラが、ラストシーンでついにキャンディたちの目の前に現れることになります。  ウィリアム大おじさまの本名は「ウィリアム・アルバート・アードレー」。そう、キャンディのピンチを助け、後半はキャンディに介護をされた風来坊、アルバートさんこそがウィリアム大おじさまの正体でした。しかも、キャンディが幼少期に出会った初恋の人、「丘の上の王子さま」とも同一人物だったのです。  孤児院出身ということで一族の奴らに散々いじめられていたキャンディが、実は当主と同居経験もあるほどの仲良し……という水戸黄門的展開が待っていたのです。まあ、読者のほとんどが感づいていたはずなのですが、ラストシーンでちゃんとすべての謎が解明します。  というわけで、かの名作少女マンガ『キャンディ・キャンディ』を40代のおっさん目線で下世話に紹介してみました。結局のところ、何が言いたいかといいますと、『キャンディ・キャンディ』は大人が読んでも超面白い作品なので、早く封印が解かれて、みんなが気軽に読める日が来るといいなあと願っている次第です。 (文=「BLACK徒然草」管理人 じゃまおくん<http://ablackleaf.com/>) 「ザオリク的マンガ読み」過去記事はこちらから

編集部もファンも甘やかしすぎ!? またまた休載の『HUNTER×HUNTER』冨樫義博の“モチベーション問題”

編集部もファンも甘やかしすぎ!? またまた休載の『HUNTER×HUNTER』冨樫義博のモチベーション問題の画像1
「週刊少年ジャンプ」公式サイトより
 冨樫義博の人気コミック『HUNTER×HUNTER』が、9月11日発売の「週刊少年ジャンプ」(集英社)41号から休載することが明らかになった。  同作はこれまでにも長期休載を繰り返してきており、今年6月26日発売の同誌30号で約1年ぶりの連載再開を果たしたばかりだが、復活したのはわずか10話分で、またしても休載となった。 「連載再開の時点で、すでに『どうせ、すぐに休むに決まっている』などの声も聞かれましたからね。結局、その通りになりました(笑)。前回も2016年4~7月の10週にわたって連載した後、1年間の休載でした。作者の冨樫は年内にもう1回復活するなどとうそぶいていますが、もうこのペースを守るつもりなのでしょう。こうなってくると、週刊で連載する意味なんてありませんよね」(コミック誌編集者) 『HUNTER×HUNTER』は、1998年に連載がスタート。しかし、頻繁に休載を繰り返しており、週刊誌ベースにもかかわらず、連載19年で、コミックスがたったの34巻しか出版されていないという体たらく。 「休載の総期間は、なんと9年半にも及びます。実に連載期間の半分以上を休んでいるわけですから、怠慢以外の何物でもない。持病の腰痛が原因だと言われたこともありましたが、冨樫の悪びれない態度を見れば、単に連載のモチベーションが下がっているのでしょう」(同)  これだけ休載を繰り返してもファンの支持をいまだに得ているのは、冨樫と『HUNTER×HUNTER』の人気の高さがなせる業なのかもしれないが、ジャンプ編集部もファンも、冨樫を少々甘やかしすぎではないだろうか?

編集部もファンも甘やかしすぎ!? またまた休載の『HUNTER×HUNTER』冨樫義博の“モチベーション問題”

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「週刊少年ジャンプ」公式サイトより
 冨樫義博の人気コミック『HUNTER×HUNTER』が、9月11日発売の「週刊少年ジャンプ」(集英社)41号から休載することが明らかになった。  同作はこれまでにも長期休載を繰り返してきており、今年6月26日発売の同誌30号で約1年ぶりの連載再開を果たしたばかりだが、復活したのはわずか10話分で、またしても休載となった。 「連載再開の時点で、すでに『どうせ、すぐに休むに決まっている』などの声も聞かれましたからね。結局、その通りになりました(笑)。前回も2016年4~7月の10週にわたって連載した後、1年間の休載でした。作者の冨樫は年内にもう1回復活するなどとうそぶいていますが、もうこのペースを守るつもりなのでしょう。こうなってくると、週刊で連載する意味なんてありませんよね」(コミック誌編集者) 『HUNTER×HUNTER』は、1998年に連載がスタート。しかし、頻繁に休載を繰り返しており、週刊誌ベースにもかかわらず、連載19年で、コミックスがたったの34巻しか出版されていないという体たらく。 「休載の総期間は、なんと9年半にも及びます。実に連載期間の半分以上を休んでいるわけですから、怠慢以外の何物でもない。持病の腰痛が原因だと言われたこともありましたが、冨樫の悪びれない態度を見れば、単に連載のモチベーションが下がっているのでしょう」(同)  これだけ休載を繰り返してもファンの支持をいまだに得ているのは、冨樫と『HUNTER×HUNTER』の人気の高さがなせる業なのかもしれないが、ジャンプ編集部もファンも、冨樫を少々甘やかしすぎではないだろうか?

ポケモン映画20周年記念作『キミにきめた!』に隠された、初代脚本家・首藤剛志の“幻の最終回”

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『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』公式サイトより
 8月も終わってしまった。ということで“夏休み映画”もまもなく上映終了だ。夏休みといえば、大作映画や話題作が一挙に公開される季節。今年も各映画会社が社運を懸けたであろう邦画・洋画がめじろ押しだった。  僕も、全国ツアーの合間にいろいろと夏休み映画を楽しんだ。たとえば洋画では、なんといってもマイケル・ベイの『トランスフォーマー/最後の騎士王』がやりすぎですごかった。猛烈なジェットコースターっぷりでありながら、なぜか3時間もあり、まったく理解の範疇を超えていて、マイケル・ベイは頭がどうかしているとしか思えないクレイジームービーだ。  そして邦画では、ポケモン映画の20周年記念作『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』が最高だった。これがどれくらいよかったのかというと、ポケモン映画の金字塔と呼ばれる第1作『ミュウツーの逆襲』に匹敵するほどの「最高傑作」だと思うわけだ。  それも、最新作としての面白さ、「今のポケモン」としてのメッセージを保ちつつ、初期のポケモンのイメージも乱反射させた、長年のファンへのサービスもたっぷりの正しき「アニバーサリー映画」になっている。  というわけで、間もなく上映終了してしまうであろうポケモン映画のコラムを、まだ見てない人向けの「ネタバレなし編(赤)」と、もう見た人向けの「ネタバレあり編(緑)」の2本立てでお送りしたい。 ■「ネタバレなし編(赤)」  今年の劇場版は、ポケモン映画としては異例だった。ポケモン映画は、毎年新しい「伝説」や「幻」と呼ばれる特別なポケモンを主役に添えて公開され、すでに子どもたちの夏の風物詩となっているわけだが、今回は予告から「おや!? ポケモン映画の様子が……?」である。まず、ポケモン映画は第1作『ミュウツーの逆襲』から、昨年公開の『ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ』(これもいい映画だった)に至るまで、タイトルに主役となる「伝説」「幻」のポケモンの名前を必ず冠してきた。19年間、一度の例外もなく、必ず、だ。  それが、今回初めて“ない”。代わりにタイトルに冠されたのは「キミにきめた!」。テレビアニメ版ポケモンの主人公・サトシが仲間のポケモンを繰り出す時に叫び続けてきた、定番のセリフだ。  さらに、パンフレットに目を向けてみると……。ポケモン映画の劇場パンフレットというのもまた、タイトルと同じように必ずメインとなる特別なポケモンが表紙を飾ってきた。しかし今作の表紙は、「サトシとピカチュウ」だ。  今作にも新しい幻ポケモン・マーシャドーが登場するのだが、主役はあくまでサトシとピカチュウということなのだ(それも、昨年までパンフレットの表紙を飾ってきた伝説ポケモンたちと同じく「横顔のアップ」の構図になっているのがニクい)。    これだけでも、今年のポケモン映画が「いつもとは違う」ことがテレキネシスのように伝わってくる。  そして最初に解禁されたキービジュアルは、サトシとピカチュウが夕景の空を見つめる姿だ。その先には、優雅に飛んでいく伝説ポケモン「ホウオウ」。これだけでピンとくる人もいるだろう。  アニメの世界でサトシとピカチュウの旅立った日、すなわち1997年の4月1日に放送された第1話のクライマックスで、サトシたちの前に姿を現したのがホウオウだった。この「ホウオウ」は、その当時まだ開発中だったゲーム「ポケットモンスター」シリーズの2作目『ポケットモンスター金・銀』に登場が告知されていた、言うなれば「まだ見ぬ」新ポケモンだった。  そのウワサの新ポケモンの登場にくぎづけになると同時に、当時ホウオウは「歴史に残るような天才の前にしか姿を現さない」という設定が語られていて、この前途多難そうなサトシとピカチュウのコンビにこれからどんな大冒険と栄光が待っているのか、僕らは胸を躍らせた。  サトシは言う。 「いつか一緒にあいつに会いに行こうぜ!」  そういうわけで、「ホウオウ」はポケモンアニメにとってちょっと特別なポケモンなのだ。そんなホウオウとの出会いをキービジュアルに添えたことからわかるように、今回のポケモン映画は20年前と同じ「サトシ旅立ちの日」が舞台。言うなれば、アニメ『ポケットモンスター』第1話のリメイクなのだ。  しかし、キャラクターにサトシの初期の旅の仲間たち(タケシ、カスミ)がいないことからわかるように、ある種のパラレルワールド、サトシとピカチュウの「もう一つの旅立ちの可能性」を描いている。  そしてその旅は、今の子どもたちはもちろん、サトシと一緒に旅をしたことがあるすべての世代に届く、感動的でちょっとビターなものになっている。  僕は、最初のポケモン赤緑からプレイした世代なので、20年前のポケモンアニメ第1シーズン(通称・無印)の第1話が放映された日、テレビの前で正座してワクワクしながら待っていた。あれ以来、20年間、ポケモンアニメはずっと側にあって、特に意識せずともふとした時にテレビを見たり、映画を見に行ったり、つかず離れずのいい関係性で一緒に歩んできたと思う。  そして、最新作『キミにきめた!』を見て、20年間好きでいられたポケモンアニメへの一つの大きな区切りがつけられた感じがしたのだ。  おそらくポケモンのアニメは、その人気が続く限り終わらない。サトシとピカチュウは、サザエさんやドラえもんのキャラクターのように永遠に年をとらないまま、終わらない旅を続けるだろう。  つまり、ポケモンアニメに真の意味での「最終回」はやってこないわけだが、今回の映画は一つの「最終回」の可能性を見せてくれる。少なくとも僕にとっては、あの日に見届けた旅立ちの、20年越しの終着点だった。「いつか一緒にあいつに会いに行こうぜ!」の「いつか」がやってきたのだ。  そんなわけで、サイゾー読者にもぜひ見てもらいたい今年のポケモン映画なのであった。 ■「ネタバレあり編(緑)」  さて、まだ見てない人はここから先に進んではいけない。  ピカチュウがしゃべった。  これは衝撃だったと同時に、とても感動的だった。  ピカチュウの想いが通じたことを表すシーンで、おそらくサトシのイメージの中の出来事なのだが、どんなにピンチになってもモンスターボールに入らないピカチュウが、その理由を「ずっと一緒にいたいから」という“言葉”でサトシに伝えるのだ。  ある意味、禁じ手とも思えるこのシーン。もちろんこんな演出は、ポケモンアニメ20年の歴史で初めてである。そもそもピカチュウは、なぜモンスターボール=ポケモンの捕獲装置の中に入らないのか?   これについては、初代ポケモンの脚本家・シリーズ構成であった首藤剛志さんがこんなことを言っている。 「いつまでも自己を失いたくないのだ。“自己を見失うな”ということも、このアニメのテーマにしたかった。ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物になりたくないのである」  ポケモンアニメを語る上で、初期のポケモンアニメを支えた首藤さんは決して無視することのできない存在だ。  今作のエンドロールにも「一部脚本・首藤剛志」のクレジットが映るので、多くの初代ポケモンアニメのファンたちを落涙させたとか、させないとか。  ポケモンアニメを貫くテーマや世界観の基礎は、この首藤さんの手による部分が大きい。原作ゲームの「ポケモン」と「トレーナー」の関係は、ともするとモンスターボールで捕獲したポケモンを「道具」のように扱って代理戦争をしているように映る。  実際にポケモンがどんなに戦い傷つき敗北しても、トレーナーは傷つくことはなく、(なぜか)お小遣いを巻き上げられて敗走するだけで、ポケモンもまたどんなに酷使されても死ぬことも文句を言うこともない。  対戦ゲームなのだから当然だが、首藤さんはこの「所有」の関係性がアニメに極力反映されないようにシリーズ構成を行った。「バトル」をアニメの主軸にせず、ポケモンとの「出会いと触れ合い」をアニメのメインテーマにしたのだ。  その結果が、ボールに入りたがらない=所有物になりたくない=自分の意思でサトシと旅をするピカチュウであり、ポケモンのために自分が傷つくことをいとわないサトシのキャラクターなのだ。  ポケモンの第1話、そしてそのリメイクでもある『キミにきめた!』で、出会ってからずっとサトシの言うことを聞かなかったピカチュウがサトシのために戦うことを決意するきっかけとなったのは、身を投げ出し、自ら傷ついてでもピカチュウを守ろうとするサトシの姿だ。  本来のゲームでは絶対に選択できないこの行為があることで、あくまでサトシとピカチュウはそれぞれが傷つき認め合った対等のパートナーであり、お互いの意思でこれからの旅がスタートすることを印象付けた。  首藤さんの作り出したこの導入がなければ、もしかしたらポケモンアニメは強力なポケモンを道具のように繰り出すバトルだけが延々と続く、ありがちな少年向けアニメになってインフレの末に短命で終わっていたかもしれない。  あくまでポケモンアニメのテーマは「勝利」ではなく「信頼」であること、それはシリーズが首藤さんの手を離れてからも繰り返し語られる。  そういう意味でも、このピカチュウがしゃべり「自分の意思でサトシと共にいる」と伝えるシーンは、長い年月を共に旅してきたからこそ成り立つシーンであり、かつポケモンアニメの根底に流れるテーマをもう一度浮き上がらせ言語化する、まさに20年間のポケモンシリーズのハイライトだった。  このシーンに象徴されるように『キミにきめた!』は、初代シリーズ構成の首藤さんの脚本を直接的にリメイクしただけにとどまらず、ちょっと味付けは甘めだが、首藤さんのイメージを受け継ぎつつ、「今のポケモン」として描き出したシーンが多く見受けられる。  ここで、ポケモンアニメにおける首藤さんについて、もう少し書いておきたい。  首藤さんの最大の功績は、サトシとピカチュウの関係性を作り上げたことともう一つ、あるキャラクターたちを創造したことにある。  悪の組織に属しながら、落ちこぼれでマイペース、あくまで独自の美学に基づいてサトシとピカチュウを付け狙うラブリーチャーミーな敵役、ロケット団のムサシ、コジロウ、そして人間の言葉をしゃべるポケモン・ニャースだ。  首藤さんは、子ども向けアニメの「優等生」的な制約の中で自由がきかない主人公チームに対比する、「遊び」がきく大人のキャラクターとしてロケット団の3人(?)を創造した。この存在が、ポケモンアニメにさらなる「抜け」を生んだのは間違いない。  かくいう僕も、ロケット団の3人が大好きで、何度も笑わされ、感動させられてきた。彼らの魅力は、「間抜け」で「落ちこぼれ」で「情けない」敵役キャラクターでありながら、やる時にはやる「自分たちの基準」を持っていて、実は本当の部分では孤高の存在であることだ。  だからこそ、どんなに間抜けでもかっこよく、その結果として何度空の彼方に吹き飛ばされようと、その敗北は清々しく希望に満ちている。アニメの文法にしたがった単純な「悪いやつ」でもなければ、「やっぱりいいやつ」でもない、自分たち自身でもどっちかわからないで画面の中でドタバタ右往左往しながら、その都度自分たちの信じる行動を選択していく。  首藤さん風に言うなら、迷いながらも「自己存在を失っていない」キャラクターたちなのだ。そう、ポケモンアニメのキャラクターたちからは、「自己存在」というテーマが見えてくる。そして、そのテーマが結実したのが、首藤さんが脚本を担当した劇場版第1作『ミュウツーの逆襲』だ。  この映画は、コピーされた生命を題材にとった「自分とは何か?」というダイレクトな「自己存在への問いかけ」がテーマだ。作られたクローン生命であるミュウツーとコピーポケモンたちは、自分の“本物”と戦い勝つことでしか“自己存在”を見つけられないと考えている。こうして自己存在を懸けて、コピーポケモンと本物のポケモンが傷つけ合う。ミュウツーも、自らのクローン元であるミュウと激突する。  そんな中、相手を傷つけることを拒否するポケモンがピカチュウと、クローンと一緒にただ月を眺めているニャースだ。ロケット団のニャースは、人間になりたくて、人間の言葉をしゃべれるようになった、非常に変わったポケモンだ。人語習得という大技に力を使い果たしたばかりに、進化したり、新しい技を覚えることすらできない=もはやポケモンとしての機能を持っていない、という設定もある。ピカチュウと同じくモンスターボールには入らず、ムサシとコジロウともあくまで「同僚」であり「対等な仲間」だ。彼はポケモンでありながら、人間でもある、言うなれば「境界線上のポケモン」といえる。そしてそれは、ポケモンでもなければ、人間でもない、「何者でもない」ことでもある。  そう、「自己を見失わない」ということは、「誰の所有物にもなれない=どこにも属することができない」ということと背中合わせなのだ。ピカチュウもまた、トレーナーの所有物でもなければ、野生のポケモンでもない。  彼らは、自分たちの自己存在の曖昧さを抱えながら、それでも「自分でいよう」という選択を続けてきた。だから、「何者でもない」葛藤を恐れないし、そのために他者を傷つけることを選ばない。この戦いを見て「昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで、やな感じ~」と嘆く、ムサシとコジロウ。彼らも「悪役」でもなければ、「正義の味方」でもない。組織の中で出世することもできなければ、誰に感謝されるわけでもない。それでも「自分」でいようとしてきた彼らは、「他者」の存在を否定しない。 「自己存在を失わない」者は、「他者との共存」を選択できるんじゃないか。これもまた、首藤さんがポケモンシリーズに込めた想いの一つでもある。実は、ポケモンアニメは放送開始の段階では1年、そのあとも長くとも4年で終わる予定で、首藤さんはすでに最終回の構想を持っていた。  この『ミュウツーの逆襲』にも、幻の最終回へとつながる要素がちりばめられているという。このプロットは、いろいろなところに掲載されていると思うので、ここでは手短に話そう。 ***  ある日、「ポケモンと人間の共存は不可能」という結論に達した両者が対立し、大きな争いになっていく。ポケモン側のリーダーに担ぎ上げられたピカチュウは、サトシと共に戦いを止めようとするが事態は改善せず苦悩する。  そんな中、奮闘するのが、あのロケット団の3人だ。彼らの存在が、人間とポケモンにとっての「共存」の道標になり、さらにミュウツーも現れる。  ピカチュウ、ロケット団、ニャース、ミュウツー……みんなその葛藤を抱きながらそれでも「自己存在」を求めて旅を続けてきた。次第に彼らは「自己存在への問い」に答えを見いだしていく。 「自己存在のある限り、我々はどんな者たちとも共存できる」という答えを。  ……年月がたち、老人になったサトシが過去のことを回想している。ピカチュウとの冒険の日々は、少年時代の幻想だった。  ポケモンたちは、少年時代のサトシの目を通して見ていた架空の存在だったのだ。翌朝、目を覚ましたサトシは、また少年の姿。しかし、その世界にポケモンはいない。今度は現実の世界で、自分を探し、他者との共存を目指す旅が始まるのだ。 ***  このプロットには、いつか虚構(ゲーム)の世界と別れ、現実へと回帰して自分の世界で一歩を踏み出してほしい、そしてその世界で「自己存在」と「他者との共存」を目指してほしいという首藤さんのメッセージが感じ取れる。  さらに、この幻の最終回のプロットを見ると、今回の『キミにきめた!』の中にいくつかのイメージが反映されているのがわかる。  特に、「老人になったサトシ=サトシのような服装の老人・ボン」「ポケモンのいない世界=マーシャドーによりサトシの見た夢(?)の世界」の2つは顕著だ。  しかし、映画ではこれらの意味合いが反転して使われているのも面白いところだ。首藤案では大人になりポケモンのいる世界に別れを告げている老人サトシだが、映画に登場するボンという老人はホウオウを20年間追いかけ続ける「ポケモンを卒業できない大人」なのである。  これは、首藤さんの言うところの「虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子ども」そのものである。  そして、20年たった今もポケモンの世界を卒業しないでいる、僕を含むファンの姿でもある。さらに、「ポケモンのいない世界」がマーシャドーの見せた「悪夢」的な空間として描かれているのも印象的だ。最終的にサトシは、ピカチュウの存在を思い出すことで、ポケモンの世界へと回帰する。  しかし、ここの描き方に違和感を覚える人もいるのではないだろうか? これ、もしかしたらポケモンの世界のほうが夢なのではないか、マーシャドーの影響で少年の純粋さを失いかけたサトシが「ポケモンの夢」から覚めかけてしまったのではないか……などと、妄想すればきりがないが、とにかく首藤さんのイメージを乱反射させつつ、その解釈は逆になっているのもまたこの映画の面白いところなのである。  首藤案では、最後にポケモンのいない世界での冒険が始まるところでエンドマークとなる。「ポケモンの世界」と決別しながら、これから視聴者の子どもたちが飛び込んでいく現実の世界に希望を持たせるエンディングだ。  対して『キミにきめた!』のラストシーンは、いつも映画の冒頭に流れる「ポケットモンスター、縮めてポケモン」から始まる「ポケモン」の存在をもう一度再確認するナレーションが流れる。  これはサトシと、それを見守る僕らの旅がこれからも続いていくことを予感させる、虚構の世界(ポケモンワールド)の希望に満ちたものだ。  この2つのエンドマークが指し示しているものは、大きく違う。  ポケットモンスターは、スタートした時からは想像できないくらい長い歴史と多くのファンを持つようになった。アニメのポケットモンスターも、もちろん首藤さんだけのものではないし、首藤さんが関わらなくなってからのポケモンアニメの歴史のほうがはるかに長いのだ。  多くの人々が共に歩んできて、これからも歩んでいくポケモンにとっては、今のエンディングがふさわしいのだろうと思う。 『キミにきめた!』は、首藤さんをはじめ、原点であった「かつてのポケモンアニメ」へのリスペクトと、「今のポケモンアニメ」としてのメッセージや挑戦が融合した映画だ。その2つが、まったくの別物だとは思わないが、やはり同じものであるともいえない。  ポケモンアニメは変わり続けてきた。これからも今の子どもたちに届くような新しい進化を続けていくだろうし、それを願っている。  ただ、20周年という節目に、過去と現在のポケモンをつないでくれた『キミにきめた!』は、20年に一度のポケモンアニメからの素晴らしいギフトだった。それだけは記しておきたい。 ※首藤剛志さんの発言等については、「シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家」(http://www.style.fm/as/05_column/05_shudo_bn.shtml)からの引用です。首藤さんが自身のキャリアについて独特の筆致で書き残した素晴らしいコラムです、興味のある方はご一読を。 ゴジラ映画史上最大の異端児坂野義光監督に捧ぐ『ゴジラ対ヘドラ』にまつわるエトセトラの画像2 ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

ド派手なアクション、スピード感、血しぶき舞う肉弾戦! 見るとスカッとする海外ドラマ3選

 連日猛暑日が続くような暑さのピークは過ぎ、9月に入ってからはほんのりと秋の空気が感じられるようになったものの、今度は暑くなったり、寒くなったりの気温差に、どうにもぐったりしがちな人も多いのではないだろうか? 今回はそんな人たちにこそ見てほしい、スカッとするドラマを紹介しよう。 ■『HAWAII FIVE-0』
 夏のピークは過ぎても、まだまだ夏気分でいたい! という人や、日本のジメッとした暑さがどうにもしんどい、という人にオススメなのが『HAWAII FIVE-0』だ。70年代に大ヒットしたシリーズを現代にアップデートし、ハワイのあちこちで起こる事件を州知事直轄の特別捜査チーム“FIVE-0”が解決していくアクションシリーズだ。  とにかくこのドラマ、アクションにかける意気込みがハンパない。ワイキキのメイン通りでド派手なカーチェイスを展開したり、ダウンタウンの街中で機関銃をぶっ放したり。以前、キャストの一人、マシ・オカにインタビューした際、「予算は年々下がっているのに、なぜかアクションはどんどん派手になる」と語っていたのだが、その通り、アクションシーンはどんどんスケールアップしていく。その振り切ったド派手さが爽快なのだ。ハワイって観光地だよね? と思わず心配になってしまうところでもあるが、なにしろハワイ州の全面バックアップぶりがこれまたハンパない。日本人にもおなじみの観光名所から知られざる秘境まで幅広く網羅したロケーションは、この夏旅行に行けなかった人も観光気分が味わえる(もれなく銃撃戦が付いてくるが)。  そんなアクションと共に人気なのが、FIVE-0メンバーのキャラクターワークだ。特にシールズ出身の元軍人スティーヴと、彼の相棒となるホノルル市警の刑事ダニーのコンビの、もはや夫婦漫才のような絶妙な会話の応酬はすっかり番組の名物となっている。彼らをしっかりと支える頼れるタフガイ・チン、彼の従妹でチームの紅一点コノの健康的な魅力が絶妙にリンクし、最高のチームワークを見せてくれる。ちなみにこのドラマ、吹き替え版の人気が特に高いのも特徴のひとつ。本家以上に暑苦しく、絶妙なやりとりは必見だ。暑い時期にこそ熱いものを食べる感覚で、ここはやっぱり吹き替え版を暑い時期に見てほしい。 ■『SCORPION/スコーピオン』
『HAWAII FIVE-0』に負けず劣らずスカッとするが、FIVE-0ほどには暑苦しくない、よりオールラウンダーな夏バテ対策ドラマといえるのは『SCORPION/スコーピオン』だ。こちらはトータルIQ700の天才チーム「スコーピオン」が、その頭脳を駆使して事件を解決していく痛快犯罪ドラマ。IQ197の頭脳を持つコンピューターの天才で、このドラマの主人公ウォルター・オブライエンを筆頭に、行動心理学の天才、機械工学の天才、数学の天才という4人の天才たちがチームを組んで、国家に関わる重要な事件に挑んでいく。  天才というとギークなイメージが強いが、このドラマに出てくる天才たちはやけにアクティブ。司令塔として人員を動かすのではなく、チーム自らが危険な任務に乗り出し、(時に巻き込まれ)、窮地をその頭脳で鮮やかに乗り切っていく。主人公のウォルターは実在の人物がモデル。本人もこのドラマの製作に関わり、チームが難局を乗り切る際にどういう思考をするか、そのアイデアなどをアドバイスしているとか。  天才のイメージを覆す行動派なスコーピンのメンバーだが、社会性ゼロ、対人スキルに著しく問題がある点はイメージ通り。チームのメンバーがかなりクセのある彼らだけなら、その言動にも理解不能な面が多々出てくるわけだが、元ウエイトレスのシングルマザー(その子どもがまた天才だったりする)と、国土安全保障省の捜査官という“普通の人”をチームのまとめ役として投入することで、うまく天才である彼らと多くが一般人である視聴者との間をつないでいる。彼らを介することで、天才たちが持つ天才ならではの苦悩がより身近なものに感じられ、人間ドラマとしての面白さも感じられるようになっているのだ。  そうしたリアリティに加え、映画『ワイルド・スピード』シリーズのジャスティン・リン監督が製作総指揮を務めている(&第1話も監督)だけあって、内容が重くならず、スピード感あふれる軽快さと見応えのあるアクションでエンタテインメントに徹している。ドラマとアクションのバランス感覚の良さ、気軽に見られる敷居の低さ、それでいて1話、また1話と見たくなってしまう中毒性の高さがこのドラマの魅力だ。 ■『スパルタカス』
 夏バテが重症な人には荒療治的なドラマとして、少し古い作品になってしまうが『スパルタカス』をオススメしたい。共和制ローマ時代の最大の奴隷戦争となったスパルタクスの反乱をベースに、ローマ軍によって奴隷として捕らわれ、剣闘士となったスパルタカスを主人公に、血しぶき舞う肉弾戦がこれでもか! と繰り広げられる本作は、歴史に詳しくなくても興奮必至のドラマだ。  スパルタカスを筆頭に、屈強で半裸の男たちがウヨウヨ登場し、闘争本能をむき出しにあちらこちらでバトっては生首が飛び、臓物が飛び出る強烈極まる描写が続出。とにかく男たちが終始荒ぶっているので、見ているこちらも引きずられるように一気にテンションが上がっていく。闘技場の外に出れば、支配階級の者たちが野心をむき出しに駆け引きと謀略を張り巡らす。女たちは女たちでやはり自らの肉体を武器に、あらゆる手練手管を駆使していく。まさに生と生とのぶつかり合いとしか言い様のないドラマはどこを切り取ってもとにかく濃い。濃すぎる。  欲望と本能があまりにむき出しな世界は、生きているだけで疲れそうで今の時代に生まれたことを思わず感謝したくなるほどに強烈だ。だが、現代より生きることに貪欲な時代が舞台だからこそ、本能むき出しで闘う男と女のそのダイナミックな生きざまを、とことんエロスとバイオレンスに落とし込んだ濃すぎるドラマがストレートに響いてくる。ひ弱な現代人の夏バテなど、力技で吹き飛ばしてしまうパワーがあるのは間違いないが、荒ぶるパワーの過剰摂取でかえってぐったりする可能性もなきにしもあらずなのは、頭の片隅に入れておこう。 ●まくた・ちひろ 映画・海外ドラマライター。『日経エンタテインメント!海外ドラマSpecial』『ゲーム・オブ・スローンズ パーフェクト・ガイド』(日経BP社)、『海外ドラマTVガイド WATCH』(東京ニュース通信社)、『映画秘宝EXドラマ秘宝vol.2~マニアのための特濃ドラマガイド』(洋泉社)等に寄稿。Twitterアカウントは@charumin