「ダイエットウォーキング」「健康ウォーキング」「歩くと病気が治る」など、ちまたにあふる健康ウォーキング本をバッサリ切り捨てた『その歩き方はいけません! 間違いだらけのウォーキング常識』(ガイドワークス)が出版された。 筆者は『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)など、さまざまなメディアに出演し、中山雅史や久保竜彦、また40歳を過ぎても現役のJリーガーとしてプレーしていた服部年宏など、多くの日本代表選手の体を改善してきた夏嶋隆氏。かなり過激なタイトルで、ある意味“ウォーキング革命”ともいえそうだが、どのような内容なのか? 本書をプロデュースした石井紘人氏に訊いた。 ■「デュークウォーキング」や「ベターッと開脚」では、健康にならない? ――まず、なぜウォーキング本をプロデュースされたんですか? 「今だったら、開脚本のほうが売れるかもしれないですね(笑)。ですが、現在の日本人が抱える健康の問題は、膝痛、腰痛、肩こり、首こりに集約されているといっても過言ではない。それらと因果関係があるのは、日常の動作ですよね。日常の動作改善へのアプローチとして、開脚だけではあまり効果がないのではないかと。むしろ、ウォーキングがこれだけ流行しているのに、健康被害が改善されないのであれば、ウォーキングというものを考えるべきなのではと思い、プロデュースしました」 ――確かに、ウォーキング本は結構出版されていますよね。 「今までのウォーキング本は、ワンパターンだったと思います。たとえば、わかりやすいのが、2003年前後に一時期流行した側屈させる歩き方があります。理論はわからなくもないのですが、日常に落とし込み、あの歩き方を続けていたら、逆に疲労がたまるように思います。でも、ウォーキングという動作は、日常。今までのウォーキング本は、ウォーキングと題しながらも、実際はストレッチ本といえるのではないでしょうか。ウォーキング本とするのならば、裸足で生活する家の中から、靴を履いて外出し、平坦な道から、坂、階段の歩き方。さらには、歩くスピードや歩く環境、履いている靴までも網羅しなければ、トゥーマッチだと思うんです。『大股で歩こう』とか目にしますが、都心の雨が降ると滑るタイルを大股で歩いたら転んでケガをしてしまうし、ヒールで大股で歩くのも難しい。ほとんどのウォーキング本が、そういったことに触れていないのではないでしょうか。本書では、状況に応じたウォーキングの使い分けと、どのように歩けば体にダメージを与えないかを記しました」 ――つまり、日常に落とし込めるウォーキング本を作ったと。 「そうですね。本書をご覧頂き、意識されるだけで体が感じる疲労がだいぶ変わると思います。健康本の多くは、著者の経験による主観が入っている理論も多くあるように感じます。ですから、著者が勧める一種類だけがブームになり、『でも、日本人は健康になってないよね?』となってしまう。そうではなく、解剖学や運動生理学をベースに『階段を歩くときは、こう歩いた方が……』『滑りやすい道はこう歩いたほうが……』『ヒールの時は……』『通勤ラッシュの時は……』さらには『お家でソファーから立って歩くときにぎっくり腰などにならないようにするためには』と写真と共に解説してあります。立ち読みでもよいので、読んでほしいです」 (文=週刊審判批評編集部)『その歩き方はいけません! 間違いだらけのウォーキング常識 』(ガイドワークス)
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ラブコメの元祖『きまぐれオレンジ☆ロード』で憧れた、ロングヘアーとセーラー服と
こんにちは、中国人漫画家の孫向文です。 昨年末、「高須クリニック」の高須克弥先生が主催する飲み会に参加しました。高須先生とはその日が初対面だったのですが、同席した漫画家の西原理恵子氏が、「孫さんが描く女の子はかわいいですよ」と紹介してくださいました。 ■僕が女の子を描くきっかけになった作品 僕の漫画には、ファンから「女の子がかわいい」という意見が多く寄せられます。その通り、少女キャラには特に力を入れているのですが、実は、昔は女性がまったく描けませんでした。少年時代、僕は『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』といったバトル系少年漫画に熱中しており、必然的に男性キャラばかり模写していました。しかし、1994年ごろ、香港のテレビを経由して『きまぐれオレンジ☆ロード』というアニメを見てから、女性を描くようになったのです。『きまぐれ~』は、1984~87年「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載された、超能力を持った少年が2人の美少女と三角関係に陥るというラブコメ漫画で、当時、一世を風靡しました。それまでバトル系漫画、もしくは『トランスフォーマー』のようなロボットアニメ一辺倒だった僕は、『きまぐれ~』がきっかけで『猫でごめん!』『めぞん一刻』『ハイスクール!奇面組』といった、ほかのラブコメ作品にハマりだしたのです。 中国の学校には、基本「18歳以下は恋愛禁止」という校則が存在します。学生服が体育着のようなジャージであるのは、女子生徒のボディラインを隠すという意味もあります。日本人の知人は中高生時代、第二次性徴により女子生徒の体つきが変化する様子が楽しみだったと語っていましたが、中国の中高生は、そのような体験を味わうことができません。中国政府によるエロサイト遮断と同じく「性体験」を完全に封印するという行為は、共産主義教育の弊害です。 僕が『きまぐれ~』のヒロイン・鮎川まどかに一目惚れした理由は、髪形にあります。まどかの髪形はロングのストレートヘアー。現在は指定が緩和されていますが、僕が通学していたころ、中国の学校では、「勉学に専念できない」という理由で、前髪を垂らすことが禁止されていました。そのため、女子卓球選手のような、額を露出したポニーテールが一般的でした。これではせっかくの美貌が台無しです。そのため、まどかのストレートヘアーが非常に魅力的に映りました。さらに、野暮ったいジャージである中国の制服に比べ、『きまぐれ~』に出てくる女子生徒の制服は、かわいらしいセーラー服です。日本のセーラー服が海軍服を改良したものであることは後で知りましたが、「外国のものを『魔改造』して、さらに良いものに仕上げる」という日本文化を体現していると思います。 中高生の恋愛が禁止されている中国では、もちろん中高生が主人公の恋愛作品は存在しません。しかも『きまぐれ~』の恋愛描写は過剰なエロがない、いわゆる「ほのぼの系」で、そこも僕が好感を持った理由です。例えば『電影少女』は、『きまぐれ~』と同じく「ジャンプ」に連載された恋愛漫画ですが、強姦シーンなど過激な性描写が頻出するため、僕は若干敬遠しています。さらに『きまぐれ~』の主人公・春日恭介に対し、まどかは普段突き放すような態度を取っているのですが、もう一人のヒロイン・檜山ひかるは恋愛に積極的で、所構わず恭介に抱きつくほどです。また、恭介には2人のかわいい妹たちもおり、『きまぐれ~』は、昨今のアニメの「ツンデレ」「妹系」といったキャラ分類の元祖になった作品だと思います。 日本では、一人の男性主人公の前にさまざまなヒロインが登場する作品を「ハーレム系」と呼びますが、中国では一昔前までは「モーニング娘。系」、現在では「AKB48系」と呼んでいます。作品のヒロインがアイドルグループのように複数存在すれば、読者は好みのキャラを選択することが可能で、その分、作品のファンも増えるという寸法です。このように『きまぐれ~』は、あらゆる意味で、昨今のラブコメ漫画の元祖になった作品といえるでしょう。『きまぐれオレンジ☆ロード The O.V.A. DVD-BOX』(東宝)
●そん・こうぶん 中華人民共和国浙江省杭州市出身の31歳。中国の表現規制に反発するために執筆活動を続けるプロ漫画家。著書に、『中国のヤバい正体』『中国のもっとヤバい正体』(大洋図書)、『中国人による反中共論』(青林堂)、『中国が絶対に日本に勝てない理由』(扶桑社)がある。 <https://twitter.com/sun_koubun>
ラブコメの元祖『きまぐれオレンジ☆ロード』で憧れた、ロングヘアーとセーラー服と
こんにちは、中国人漫画家の孫向文です。 昨年末、「高須クリニック」の高須克弥先生が主催する飲み会に参加しました。高須先生とはその日が初対面だったのですが、同席した漫画家の西原理恵子氏が、「孫さんが描く女の子はかわいいですよ」と紹介してくださいました。 ■僕が女の子を描くきっかけになった作品 僕の漫画には、ファンから「女の子がかわいい」という意見が多く寄せられます。その通り、少女キャラには特に力を入れているのですが、実は、昔は女性がまったく描けませんでした。少年時代、僕は『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』といったバトル系少年漫画に熱中しており、必然的に男性キャラばかり模写していました。しかし、1994年ごろ、香港のテレビを経由して『きまぐれオレンジ☆ロード』というアニメを見てから、女性を描くようになったのです。『きまぐれ~』は、1984~87年「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載された、超能力を持った少年が2人の美少女と三角関係に陥るというラブコメ漫画で、当時、一世を風靡しました。それまでバトル系漫画、もしくは『トランスフォーマー』のようなロボットアニメ一辺倒だった僕は、『きまぐれ~』がきっかけで『猫でごめん!』『めぞん一刻』『ハイスクール!奇面組』といった、ほかのラブコメ作品にハマりだしたのです。 中国の学校には、基本「18歳以下は恋愛禁止」という校則が存在します。学生服が体育着のようなジャージであるのは、女子生徒のボディラインを隠すという意味もあります。日本人の知人は中高生時代、第二次性徴により女子生徒の体つきが変化する様子が楽しみだったと語っていましたが、中国の中高生は、そのような体験を味わうことができません。中国政府によるエロサイト遮断と同じく「性体験」を完全に封印するという行為は、共産主義教育の弊害です。 僕が『きまぐれ~』のヒロイン・鮎川まどかに一目惚れした理由は、髪形にあります。まどかの髪形はロングのストレートヘアー。現在は指定が緩和されていますが、僕が通学していたころ、中国の学校では、「勉学に専念できない」という理由で、前髪を垂らすことが禁止されていました。そのため、女子卓球選手のような、額を露出したポニーテールが一般的でした。これではせっかくの美貌が台無しです。そのため、まどかのストレートヘアーが非常に魅力的に映りました。さらに、野暮ったいジャージである中国の制服に比べ、『きまぐれ~』に出てくる女子生徒の制服は、かわいらしいセーラー服です。日本のセーラー服が海軍服を改良したものであることは後で知りましたが、「外国のものを『魔改造』して、さらに良いものに仕上げる」という日本文化を体現していると思います。 中高生の恋愛が禁止されている中国では、もちろん中高生が主人公の恋愛作品は存在しません。しかも『きまぐれ~』の恋愛描写は過剰なエロがない、いわゆる「ほのぼの系」で、そこも僕が好感を持った理由です。例えば『電影少女』は、『きまぐれ~』と同じく「ジャンプ」に連載された恋愛漫画ですが、強姦シーンなど過激な性描写が頻出するため、僕は若干敬遠しています。さらに『きまぐれ~』の主人公・春日恭介に対し、まどかは普段突き放すような態度を取っているのですが、もう一人のヒロイン・檜山ひかるは恋愛に積極的で、所構わず恭介に抱きつくほどです。また、恭介には2人のかわいい妹たちもおり、『きまぐれ~』は、昨今のアニメの「ツンデレ」「妹系」といったキャラ分類の元祖になった作品だと思います。 日本では、一人の男性主人公の前にさまざまなヒロインが登場する作品を「ハーレム系」と呼びますが、中国では一昔前までは「モーニング娘。系」、現在では「AKB48系」と呼んでいます。作品のヒロインがアイドルグループのように複数存在すれば、読者は好みのキャラを選択することが可能で、その分、作品のファンも増えるという寸法です。このように『きまぐれ~』は、あらゆる意味で、昨今のラブコメ漫画の元祖になった作品といえるでしょう。『きまぐれオレンジ☆ロード The O.V.A. DVD-BOX』(東宝)
●そん・こうぶん 中華人民共和国浙江省杭州市出身の31歳。中国の表現規制に反発するために執筆活動を続けるプロ漫画家。著書に、『中国のヤバい正体』『中国のもっとヤバい正体』(大洋図書)、『中国人による反中共論』(青林堂)、『中国が絶対に日本に勝てない理由』(扶桑社)がある。 <https://twitter.com/sun_koubun>
絶対に言うなよ! 新生活にオススメ!?『話すと100%空気が悪くなる! 言ってはいけないゲス知識200』
毎年この季節になると、入学、入社、異動などと環境がガラリと変わる方も多いのではないだろうか。入学式や花見など、4月は何かと華やかな印象が強い。 しかし、4月は総じて面倒臭いものだ。なぜならば、4月は“ポジション取り”の月だからである。新たな出会いというポジティブな言葉に惑わされてはいけない。4月というのは「組織の中でどのようなポジションに就きたいか」「他人からどんな人間だと思われたいか」という熾烈なアピール合戦の月なのである。 『話すと100%空気が悪くなる! 言ってはいけないゲス知識200』(宝島社)は、そんな大事な4月に交わす会話では絶対に披露すべきではない“暗黒豆知識”を、約400ページにわたって紹介。新生活には、全くもって必要のない一冊である。4月には、この本で得た知識を披露してはいけない。この本で紹介されている話題以外をすべきである。そう、この本に載っているような話はしてはいけないという、ある種の反面教師としての利用価値がバツグンな本なのである。失敗例から成功を学び取っていこうという図式だ。 では、本書の中からいくつか豆知識を抜粋してみよう。昼休みを、机に突っ伏して寝たフリをして過ごすハメにならないようにしっかりと学び取っていただこう。 「硫化水素で自殺すると、死体は綺麗な緑色になる」。自殺というナイーブな話題であるにもかかわらず、「緑色」という微妙な面白要素が組み込まれているのが、この豆知識のタチが悪いところだ。こんな話をされても、笑っていいのかどうかの判断に困る。以前、リストカットの常習者の女友達に「リストカット跡を棒でこすると、(民族打楽器の)ギロみたいな音がするんだよ〜」というギャグを言われたことがあるが、そのときと同じ気持ちになる。 気を使って「へ〜、そうなんだ……」くらいのことは言ってもらえるだろうが、「ケロロ軍曹みたいだね!」とか「『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』(フジテレビ系)のナンチャンを探せのコーナーで、キャベツ畑に隠れていたとき、そんな色だったよ!」とは言ってもらえないだろう。 「ブルドッグの後頭部を叩くと目が飛び出る」。まず、大前提として、ブルドッグの後頭部は叩いてはいけないはずだ。相手が愛犬家だった場合、もうこの時点でアウトなのは間違いないし、目玉が飛び出るときたもんだから、ひんしゅくを買うことは必至。「濡れた布で眼球を覆い、押し戻さないと元に戻らない」という補足情報まで提供しようものなら、あなたは犯罪者予備軍であるかのような扱いを受けるだろう。 「水戸黄門は嫌がらせで、綱吉に犬の生皮を大量に送りつけた」、なんて豆知識まで披露すれば、もう完全にあなたには“犬虐待キャラ”という、まったくもって使いどころのないキャラが定着することが決定。“犬虐待キャラ”がモテることは古今東西どこを探してもなく、どんなにテニスがうまくても、どんなに歯が白くても、何回落とした消しゴムを拾ってあげても、“犬虐待キャラ”をカバーすることはできない。 「暴漢に刺された板垣退助は、板垣死すともではなく、痛い!と叫んだ」、なんて豆知識も披露してはいけない。いくら板垣でも、僕たちと同様に痛覚がある人間だ。『佐賀県』のタレントはなわみたいに、「スネが異様に強いので、スネで大根を割れる」みたいなことを板垣が明言していたのなら話は別だが、恐らく板垣は、痛みに強いキャラでは売っていなかったはず。それくらいは許してあげてほしい。 このように、華やかな新生活の邪魔をするようなゲス知識が、200本ほど収録。この膨大なゲス知識を体内に取り込んでしまったあなたは、恐らく、新生活に失敗するだろう。しかし、知ってしまったからには披露したくてたまらないはずだ。ついうっかり口を滑らせてしまい、周囲からつまはじき者にされる人が1人でも多く増えることを心から願う……などとは言ってはいけない!?。 (文=大谷皿屋敷[劇団「地蔵中毒」])『話すと100%空気が悪くなる! 言ってはいけないゲス知識200』(宝島社)
まん延する暴力、信者の減少、教祖の方針転換……甲子園常連「PL学園野球部」はなぜ消滅したのか?
史上初の大阪勢同士の決勝となった春の選抜高校野球は、大阪桐蔭が8-3で履正社を制し、5年ぶり2回目の優勝を飾った。 だが、かつて甲子園の風物詩といえば、アルプススタンドを埋め尽くす応援団が描く「PL」の二文字だった。桑田真澄、清原和博、立浪和義、片岡篤史、松井稼頭央、前田健太など数多くのプロ野球選手たちを輩出したPL学園は、創部以来60年間の歴史上、37回にわたって甲子園の地を踏み、7回の全国制覇を達成している。しかし、もう二度と、胸に「PL GAKUEN」と書かれたユニフォームが甲子園をにぎわせることはない。伝統ある強豪校の野球部は2016年、「休部」という形でその歴史に幕を下ろした。 いったい、PL学園野球部に何が起こったのか? その隆盛から崩壊までを追ったノンフィクション『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』(柳川悠二/小学館)からひもといてみよう。 その名の通り、PL教団(パーフェクト リバティー教団)が1955年に創設したPL学園は、当初から野球に力を入れており、野球部設立からわずか6年目の62年で異例の甲子園出場を果たす。その裏には、国民的な娯楽であった野球で有名になることによって、全国にPLの名前をアピールしようという教団側の思惑もあったようだ。当時の教祖・御木徳近(みき・とくちか)は、時に監督の人事や特待生の選定に口を出すまで、熱心に野球を後押しをする。そして83年、徳近は鬼籍に入ったものの、その先見の明はついに開花する。清原・桑田が入学し、PL学園には本格的な黄金時代が到来。信者数も、公称256万人を記録するまでに膨れ上がった。 しかし、80~90年代にわたって長らく続いてきたPL黄金期の歯車は、次第に狂い始める。2001年3月、2年生部員が1年生をパイプ椅子で殴打する事件が発生。学校側は、2年生部員を自宅謹慎としたものの、高野連に対しての報告を怠った。これが発覚し、当時の監督が引責辞任。また、顧問として選手勧誘を担当しながらPLの人材を支えてきた井元俊秀も学園を去ってしまう。 そんな暴力の温床となったのが、PL学園野球部に受け継がれてきた厳しい伝統だ。「3年神様、2年平民、1年奴隷」と言われる野球部で、入学したばかりの1年は先輩の付き人となり、先輩に対する受け答えは「はい」「いいえ」しか許されない。そのほかにも、笑顔禁止、シャンプーの使用禁止、お菓子禁止、部屋では体育座り、廊下を通る女子を見てはいけない……など数々の禁止事項が存在していた。もしもこの掟を破った場合、1年生は連帯責任で厳しい鉄拳制裁を加えられる。そんなPL野球部について、OBである清原は、かつてメディアの前で「暴力はPLの伝統です」と語った。 ただし、昭和の時代は、どの強豪野球部でも似たような状況だっただろう。だが、伝統のプライドを持ったPL学園では、時代が変わっても、その伝統を変えることができなかった。08年には監督が部員に対して暴力を振るい、解任。11年には部員の部内暴力と喫煙で1カ月の対外試合禁止。さらに、13年には上級生による暴力事件が発覚し、6カ月の対外試合禁止と、たびたび暴力事件が発生する。これらの事件によって、世間では「暴力はPLの伝統」というイメージが強まるばかり。もちろん、そのような負のイメージは、教団側にとってもうれしいものではない。 また、PL教団や学校側が置かれた状況も、野球部を追い込んでいく一因となった。最盛期には公称250万人以上だった信者数は、90万人にまで減少。実質的には、おそらく数万人程度であるといわれている。信者数が減少することによって、教団側は財政的にも追い込まれ、教団から学園に対する寄付が停止。有望な人材を全国から集めることも難しくなってしまった。また、野球部のみならず、かつて大阪一といわれた「教祖祭PL花火芸術」もその規模を縮小しており、全国に400あった教会も半数以下にまで統廃合が進む。1,000人以上が学んだPL学園も、今や、全校生徒数188人にまで減少しているのだ。この人数では、名物だった人文字も作れないだろう。 そして、そんな状況に追い打ちをかけるのが、教団上層部の権力関係だ。 2代目・徳近は教育、芸術、スポーツなどに力を入れ、それが布教活動の一端を担っていた。しかし、3代目・貴日止(たかひと)の時代になると、PLランド(大阪府富田林市あった遊園地。PL教団の敷地内に建設され、同教団のベンチャー企業である光丘が経営していた)が閉園され、定時制高校が廃止、花火も規模を縮小していくなど、徳近の敷いた路線から、徐々に離れていく。そして、貴日止が07年に硬膜下出血で倒れると、発言権を増したのが、その妻である美智代だ。彼女は教団や学園の財政難を理由に、独断で野球部の新入部員募集を停止した。 暴力の伝統を引きずる野球部、逼迫する教団の台所事情、そして、教団上層部の方針転換……と、さまざまな事情が重なり、野球部は休部に追い込まれていった。本書の中で、柳川は「はっきりとした『悪者』を見つけるのは難しい」と語り、「明確な悪意も悪者もないのに、組織が崩壊に向かった」と、その経緯を分析している。 16年夏、新入部員の募集も停止され、わずか12人にまで減少した野球部員たちは「史上最弱のPL」と揶揄されながらも、夏の大阪大会に出場。名門・東大阪大柏原と戦い、善戦を果たすも6対7で敗れ、60年の伝統は幕を閉じた。1,000人に達するOBたちは、野球部存続に向けた嘆願を行っているものの、現実的には再開は難しいだろう。いまや、常勝軍団・PL学園の姿は、高校野球ファンの記憶の中に刻まれるのみとなってしまったのだ。 (文=萩原雄太【かもめマシーン】)『永遠のPL学園: 六○年目のゲームセット 』
“団地の給水塔”の地位向上を目指す「日本給水党」党首に会ってきた
私は大阪・中津にある自費出版本専門書店「シカク」(http://uguilab.com/shikaku/)の店員をしているのだが、店を代表するロングセラー本のひとつに『ポケット版「団地の給水塔」図鑑』がある。cap
青空を背景に建つ、不思議な造形をした建築物が表紙になっている本で、団地に併設された「給水塔」ばかりを撮影し、タイプ別に分類・解説している。 団地の給水塔と聞いて「ああ、あれのことか」とイメージができる人って、どれぐらいいるだろうか? ちなみに私は、実際に目にしたことはほとんどなく、20年近く前に一度、東京郊外の町を歩いていて、突如として近未来的な形のタワーのようなものが目の前に現れて驚愕した記憶がある。この本によると、あれは「とっくり型」の給水塔だったようだ。 著者は「日本給水党党首」であるUCさん。彼は以前、当コーナーで紹介した「ドムドム連合協会」(参照記事)ならびに、団地愛好家集団「チーム4.5畳」のメンバーでもある。なんとも肩書の多い人物だ。 今回はそのUCさんに、なぜ団地の給水塔に興味を持つに至ったのか、また団地の給水塔の魅力とは一体どのようなものなのか、話を聞いてきた。 ***
――日本全国の団地の給水塔を巡っているとのことですが、きっかけはなんだったんですか? UCさん 私が生まれたのは新潟県なのですが、小学2年生の時に福島の郡山へ引っ越しまして、さらにその後、5年生の夏休みに大阪へ引っ越してきたんです。引っ越し先の近くに「大阪市営古市中団地」という団地があって、そこに給水塔が3基併設されていたんです。その時はそれが給水塔だということもわからず、“あれはなんなんだろう?”と疑問に感じていました。鉄塔じゃないし、煙突でもないし、でも友達に聞いてみるでもなく、なんとなくと受け入れて暮らしていました。不思議な形の建造物だけど、子ども心には、それが当たり前の景色の一部という感じだったんです。「日本給水党党首」UCさん
――変だなぁとは思いながらも、特に興味は持たずにいたと。 UCさん その後、2003年ごろに、その団地が取り壊しになったんですよ。建物がなくなってから、“あの塔は一体なんだったんだろう”っていう疑問がまた湧いてきて……。インターネットが普及し始めたころだったので、ネットで情報を探してみたんです。情報は少なかったんですが、団地の写真を多数掲載している「団地百景」(http://danchi100k.com/)というサイトと、「高架水槽コレクション」(http://www.geocities.jp/tanglewood803/)というサイトを見つけまして。「団地百景」には小さいながら古市中団地の写真も掲載されていて、それがどうやら給水塔というものらしいということがわかりました。また、「高架水槽コレクション」を見て、給水塔の用途や、さまざまな給水塔が全国各地にあることがわかりました。それでようやく、“なるほど、そういうものだったのか!”と。 ――大人になって、ついに正体がわかったんですね。 UCさん はい。すっきりしました(笑)。それから数年して通勤で京阪電車に乗っていたら、同じ形の給水塔が車窓から見えたんですよ。“あっ、同じやつだ!”と、とても驚いて、休みの日に行ってみることにしました。それは寝屋川の警察の宿舎にある給水塔だったんですが、取り壊す直前で、ほとんど人も住んでいない状況だったのを覚えています。間近で見ると、かなり迫力がありましたね。それで、ほかにもあるのかな……? と気になってきてしまって。 ――ハマってしまったわけですね。 UCさん そのころにはもうグーグルマップがあったので、「団地百景」などを見て、見当をつけた場所をグーグルマップで確認して。ただ、今と違ってストリートビューはなかったので、航空写真でその場所をチェックして、“影が延びているかどうか”で、それが塔なのかを判断していました(笑)。まずは、近場の大阪から巡っていくことにしまして、そうやって見ていくと、違う形の給水塔があることもわかって、さらに面白くなっていったんです。 ――それで、全国の給水塔を見て回ろうと決意されたんですか? UCさん いえ、最初はネットで調べて、近場のものを見に行って満足していました。そうしているうちに、現在「チーム4.5畳」としても活動している、けんちんさんに出会ったんです。彼は「団地BAR」というイベントをやっていて、団地の面白さを広めていました。そこで「いま、給水塔に興味があって……」と話したところ、「団地の給水塔だけを専門に研究してる人はまだ誰もいないから、絶対やったほうがいい!」と、かなりの勢いでけしかけられまして(笑)。 ――運命の出会いですね! UCさん そこから、本腰を入れてやってみることにしました。見れば見るほど違いが見えてくるし、最初のころに見たものも、知識が入って見直すと違って見えてきたり。分類ができてきて、特徴がよりはっきりしてくる。そうすると、もう止まらない(笑)。路上観察系の趣味を持っている人は、だいたい同じ流れだと思います。行けば行くほど、深みにハマるという。 ――団地の給水塔って、どこらへんが面白いんですか? UCさん 給水塔には、工場だったりとか、鉄道関連の施設などに併設されているもの、自治体の水道局が管理しているものなどがあります。そういう場所の給水塔はすごく大きなものが多いんですが、それと比べて団地の給水塔はもう少し小さくて、日常の暮らしの中にある。人が住んでいるすぐ横に、得体の知れない形のものがあるっていう不思議な感じが魅力だと思っています。 ――UCさんが子ども時代に感じた不思議さですよね。 UCさん そうです。あんな不思議な建物が、あくまで生活の中に平然と存在しているという。 ――分類があるとのことですが、どんなタイプがあるんでしょうか? UCさん あくまで僕が勝手に名付けて分類したものですが、 お酒を入れるとっくりに似た形状の「とっくり型」、「大阪くらしの今昔館」に展示されている「古市中団地模型」
細長い直方体の「ボックス型」、大阪府公社金岡東B団地(大阪府堺市)
タンクや配管などの構造がむき出しになっている「むき出し型」、UR荒江団地(福岡市城南区)
頂部のタンクが円盤状の「円盤型」神奈川県営鶴ヶ峰団地(横浜市旭区)
などがあります。 ――それぞれ個性があって面白いですね! ちなみに、現在までにどれぐらい巡っているんですか? UCさん 08年4月から始めて、これまでに630基です。チーム4.5畳のメンバーに、「やるなら1,000は行かないと」とハッパをかけられて、そうだなと思ったんですが、数えてみると、全国に現在残っているものをすべて巡ったとしても、おそらく1,000もないんですよ(笑)。でも、できる限り行きたいと思っています。 ――UCさんはお仕事をされながら、空いた時間に撮影に行っているそうですが。 UCさん 基本的には週末と、たまに休みを取って撮影に行っています。なので、なかなか一度にたくさん回るというのが難しいんですよ。一度、長めの休みが取れた時があって、その時は東京の池袋の「東横イン」に5連泊して、毎朝山手線に乗って東京近郊の給水塔を撮影に行きました。普通に毎日出勤してるような気分でした(笑)。 ――遠方での撮影、結構大変そうですね。 UCさん 例えば北海道の団地の給水塔は、現在では旭川と苫小牧方面の2つしかないんですよ。電車で3時間半以上かかる距離なんですが、旭川に宿を取ってまず撮影して、それから苫小牧方面に撮影しに行って、最初に旭川で撮影した時にあまり天気が良くなかったんで、次の日また行ったり(笑)。めちゃくちゃ効率が悪い。 ――撮影される際は、天気にもこだわるんですね。 UCさん 天気の良い日に、青空をバックに撮影するようにしています。団地の給水塔って、古いものだし、曇天とか夕暮れを背景に撮影すると、どこか寂しげに見えちゃうんですよ。孤立無援な感じが出てしまって。自分としてはもっと、パキッとフラットに、キレイに撮影したいんです。見てくれた方に、自由に想像してもらえるような写真にしたい。もちろん、私も、ふと寂しい気持ちになる時もあるんです。「こんなところまで来て、給水塔を撮影して、何やってるんだろう……」って人生と対峙したり(笑)。でも、それを写真にはあくまで反映させたくなくて、明るく開けた感じで見てもらいたいなと思いますね。 ――そんなUCさんの、フェイバリット給水塔はどれですか? UCさん 基本的には“給水塔に貴賎なし”というのがポリシーです……という前提なんですけど、強いて言うとしたら、大阪・堺市にある「大阪府営八田荘住宅」ですね。東京都営喜多見二丁目アパート(東京都世田谷区)
とっくり型の給水塔が3基あるんです。私が最初に給水塔と出会った古市中団地と同じで、さらに規模も大きい。見晴らしも良くて、ずっと佇んでいられます。駅からも近くて行きやすいので、ここは何回も行っています」 ――撮影時に、特に印象に残った給水塔はありますか? UCさん 今はもうなくなってしまったんですが、大阪・高槻市にあった「UR総持寺団地」の給水塔は印象に残っています。
給水塔の真下にベンチがあって、いつ行っても、そこで近所のおばちゃんが井戸端会議をしていたり、おじいさんが新聞を読んでいたりと、思い思いの時間を過ごしていて……。
その風景が、とても穏やかで好きでした。一方で、給水塔を撮る時は人を入れないようにしているんで、「そろそろ動いてくれないかなー」なんて勝手なことを思ったりもしましたが(笑)。 ――団地の給水塔って、年々減ってきてるんですか? UCさん 正確な数はわからないですが、私が撮影したものの中でも、現在までに少なくとも50基はなくなっています。ただ、給水塔を壊すのにも費用がかかるので「使っていないけど残している」というところも多いんです。なので、急激に減るということはないのではないかと。決して増えることはなく、徐々に減って行く一方という感じでしょうね。近所に団地があって給水塔もあるという人は、貴重なものだと思って愛していただければと。 ――これを読んだ人にも、近くに給水塔がないかどうか、探してみてほしいですね。 UCさん 「給水塔が壊されるらしい!」など、情報がありましたら、ぜひTwitterに書いていただけるとうれしいです。「給水塔」というワードを含むツイートは、毎日すべて見ていますので(笑)。 ――最後に、UCさんの今後の展望をお聞かせください! UCさん 撮りためた給水塔の写真集を作りたいと思って、準備を進めています。年内には出せたらなと思います。あとは、ゆっくり自分のペースで撮影を続けていきたいですね。 *** 団地のそばに立ち、人々の暮らしを支えた給水塔。必要不可欠なものでありながら、ちょっと忘れられがちな存在。まだ残されているうちに、その不思議な佇まいを目に焼きつけておいてみては? (取材・文=スズキナオ/給水塔写真=日本給水党) ●UCさん公式Twitter https://twitter.com/watertowerUC ●公式サイト http://kyusuitou.blog87.fc2.com/
前田日明は、本当にただの「ヘタクソ」だったか……ベテランプロレス記者が読み解く『1984年のUWF』
文藝春秋より刊行された単行本『1984年のUWF』が、かつてUWFのファンだった人を中心に話題を呼んでいるという。 著者はスポーツ雑誌「Number」(文藝春秋)の元編集者で、フリーライター転向後、『1976年のアントニオ猪木』(同)、『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(同)、『1993年の女子プロレス』(双葉社)、『1964年のジャイアント馬場』(同)などを執筆した柳澤健氏。 『1984年のUWF』は、序章=北海道の少年(中井祐樹)、第1章=リアルワン(カール・ゴッチ)、第2章=佐山聡、第3章=タイガーマスク、第4章=ユニバーサル、第5章=無限大記念日、第6章=シューティング、第7章=訣別、第8章=新・格闘王、第9章=新生UWF、第10章=分裂、終章=バーリ・トゥードから構成され、全411ページとかなりのボリュームだ。 同書は後のプロレス界、格闘技界に多大な影響を与えたプロレス団体UWFが設立された経緯、内情、分裂のいきさつや、佐山聡(初代タイガーマスク)が設立したシューティング(後の修斗)の成り立ちなどを克明に記している。 ちなみに筆者は、当時の事情を知る元プロレス専門誌の記者であるが、この本で著者がどのようなことを訴えたかったのかを知りたく、興味深く拝読させていただいた。 UWFというプロレス団体をよく知らない方のために書いておくと、第1次UWF(ユニバーサル・プロレス)は、新日本プロレスを追われた“過激な仕掛け人”新間寿氏(元新日本プロレス専務取締役営業本部長)が中心となって設立され、1984年4月11日、埼玉・大宮スケートセンターで旗揚げした。当初は既存のプロレス団体の域を出なかったが、後に佐山が合流したこともあり、“格闘スタイル”を全面に押し出して、プロレス界に新風を吹かせた。佐山のほか、前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(現・延彦)、山崎一夫らが在籍した。だが、85年9月に経営難のため活動停止。 佐山を除く、残った選手たちは、プロダクション化して、新日本と業務提携を結び、同団体のリングに上がることになる。両軍によるイデオロギー対決は注目を集めたが、新日マットで始まった世代抗争にUWF軍も巻き込まれる格好となり、だんだんUWF軍の存在自体も、その闘いのスタイルも形骸化していく。 そんな折、87年11月19日、後楽園ホールで行われた6人タッグ戦で、サソリ固めを決めた長州力をカットしようとリングに入った前田は、防御できない状態で長州の顔面を蹴って、右前頭洞底骨折及び前頭骨亀裂骨折の大ケガを負わせた。「故意に相手にケガをさせるような攻撃を行った」として、前田は無期限出場停止処分を下された。アントニオ猪木には前田を救いたい意向もあったが、翌88年2月に前田は解雇処分となった。 これを契機に、UWF再興への動きが始まり、同5月12日、前田、高田、山崎、そして若手選手らが決起し、第2次UWF(新生UWF)が後楽園ホールで旗揚げした。第2次UWFは、第1次時代の“佐山ルール”をベースに、格闘スタイルを推し進め、既存のプロレスに疑問を感じていたファンを熱狂させ、一大ムーブメントとなった。89年には新日本から藤原、船木優治(現・誠勝)、鈴木実(現・みのる)を引き抜き、大阪球場や東京ドームにも進出し、大成功を収めたかにみえた。しかし、経営面ではひっ迫して下降線をたどっており、フロントと選手間に摩擦が起きる。その結果、90年12月には両者間に大きな亀裂が入り、選手は一致団結をアピール。神新二社長は所属全選手を解雇し、第2次UWFはあっけなく終焉を迎えた。その後、前田が中心となり、新団体設立に動いたが、一部の若手選手が反発したため、前田は解散を宣言。第3次UWF構想は幻に終わり、“UWF”という名の団体は、6年8カ月で幕を閉じた。 結局、UWFは前田一人のリングス、高田がエースとなったUWFインターナショナル、藤原が代表を務めるプロフェッショナル・レスリング藤原組と3派に分裂。さらに、方向性の違いで、藤原組から船木、鈴木らが離脱し、パンクラスを設立した。一方、第1次UWFでプロレスと訣別した佐山は、新格闘技シューティングの普及活動に精を出すことになる。これがUWFのあらましだ。 そういった背景を踏まえて、同書は書かれているが、序章でプロレス、UWFとは何の縁もない中井がいきなり登場して、「何のこっちゃ?」と違和感を覚えた読者は少なくないだろう。中井は佐山が創設したシューティングの元選手で、あの“400戦無敗の男”ヒクソン・グレイシーと対戦したこともある実力者。幼い頃から熱狂的なプロレスファンだった中井は、中学2年のときに誕生した第1次UWFに刺激を受け、学生時代は柔道、レスリングに熱中した。UWFに幻想を抱いた若者だったが、北海道大学1年のとき、89年8月13日、神奈川・横浜アリーナで開催されたUWFの試合をクローズド・サーキットで観戦し、衝撃を受けたという。この日、組まれた高田VS船木戦は、船木が掌底で高田をKO寸前に追い込んだ。ダメージの大きい高田はコーナーマットに寄りかかったままだったが、レフェリーは船木のKO勝ちとみなさず、試合を続行させた。結局、高田がキャメルクラッチ(ラクダ固め)という、UWFらしからぬ技で逆転勝ちを収めた。この試合を見た中井は、「UWFは真剣勝負の格闘技ではなかったのか」との思いに駆られ、プロレスとの訣別を決めたと記されている。 違和感といえば、同書における前田への低評価にも首を傾げる。佐山側から書かれた本であることは明白だが、あまりにも前田に手厳しすぎるのだ。確かに第1次UWFにおいて、佐山が果たした役割は大きく、格闘スタイルのプロレスが築けたのは佐山がいたからこそ。ただ、第1次UWFはマイナーな域を脱せず、社会現象ともいえるブームを巻き起こしたのは第2次UWF。前田は、そのエースであり、ファンの間でも“最強説”が存在した。ところが、同書で前田は、藤原のように関節技がうまくなく、キックも佐山のように強力ではなかったと断定。さらには、「対戦相手にケガばかり負わせるヘタクソなプロレスラー」というのが、同書での前田評だ。 第1次UWFの末期である85年9月2日、大阪で組まれたスーパー・タイガー(佐山)VS前田の一戦は異様な雰囲気の中、進んだ。前田は佐山の蹴りを受けないなど、ある種、ガチンコを仕掛けたような試合だった。最後は前田が急所蹴りを見舞ったとして、反則負けが宣せられた。結局、佐山はこの試合を最後に第1次UWFから去った。一部では、まったくUWF道場での合同練習に参加しない佐山が、リング上では主導権を握っていることに不満を募らせたフロントが、前田をたきつけたとともいわれている。あたかも、前田が佐山を潰すため、急所を狙ったともされるが、実際には通常ではない前田の雰囲気を察した佐山が、早々に試合を終わらせるため、入ってもいないのに急所蹴りをアピールしたとの説もある。 例の長州襲撃事件では、長州のみならず、藤波辰巳(現・辰爾)や外国人レスラーにケガをさせて欠場に追い込む「ヘタクソ」と断罪。これに関して、前田を擁護する気など毛頭ない。ただ、ヘタであっても、その強さはもう少し評価してもいいのではないか? あのデカい体なのだ。上に乗られただけで、対戦相手にとっては厄介な選手であることは間違いない。 第2次UWF時代の89年10月25日、前田は新人の田村潔司と対戦した。田村は負傷欠場した船木の代役だったが、本気で向かってきた田村に激怒した前田は、顔面に強烈なヒザ蹴りを何発もたたき込み、眼窩底骨折の重傷に追い込んだとされる。同書では、この行為を「エースのやることではない」と断罪している。確かに新人相手にムキになって、ケガさせるのはよくないことだ。ただ、格闘スタイルのUWFだ。前田のことを“ぬるい試合”ばかりやっていたと酷評しているが、既存のプロレスのごとく、新人の技を受けて立っていたのではUWFではなかろう。UWFなのだから、団体のエースが新人をボコボコにして勝利するのは当然だろう。 総じて、同書の大部分が、すでにほかの書籍や雑誌で書かれた内容を引用したものであるため、既読感が強く、新たな情報は少ないような気がする。プロレスラーへの取材はほぼなく、UWFの元フロントや関係者に聞いた話が多くの部分を占めているだけに、やや物足りなさを感じる面もなきにしもあらず。やはり、読者としては、当時の真実を知る上で、プロレスラーの話をもっと読みたいと思ったのではなかろうか? とはいえ、UWFのことを、これだけ詳細にまとめ上げるのは大変な労力で、その点には敬意を表するし、一読の価値がある本だといえよう。 同書では、佐山が創設した新格闘技シューティングはリアルファイトで、UWFを含むプロレスはショーだとの表現が盛んに見受けられる。著者が最もいいたかったのは、その部分なのか? 日本で第2次UWFが消滅した後、米国ではUFC、日本ではPRIDEという、いわゆる「何でもあり」の総合格闘技がブームとなった。国内では、プロレスラーVS格闘家の構図に人気が集まり、あくまでも興行の核になったのはプロレスラー。Uインターでは一介の若手選手にすぎなかった桜庭和志が総合格闘技の世界でスターになれたのは、プロレスラーだったからだ。 どの格闘技も同様だが、プロである以上、観客がいてこそ成立するものであり、エンターテインメントだ。国技である大相撲でさえ、長らく八百長が存在していたことが明らかにされた。この時代に、やれリアルファイトだの、ショーだのと論争しても不毛だし、それも含めて楽しむのが、エンターテインメントであり、プロレスだろう。ただ、単に勝った負けただけで、見ておもしろくなければ仕方がない。リアルファイトを追求しても、観客不在であれば、プロとして成立しない。 この本で主役となっている佐山は、シューティングを追われた後、プロレス界に復帰。現在でも、リアルジャパン・プロレスの主宰者として、リングに立ち続けている。衰えたとはいえ、その姿を見て、喜んでいるファンが数多くいるのも事実。 いみじくも、故ジャイアント馬場さんは、「シューティングを超えたものがプロレス」という名言を残した。UWFのスタイルも、総合格闘技での関節技もプロレスの一部分にすぎない。 (文=森岡剛) 1984年のUWF ほんの一部だ『1984年のUWF』(文藝春秋)
パンクすぎ! 伝説のハガキ職人の挫折の日々と、妄信し続けた“才能”の終着点とは――
「1日2000本のボケを考える」というノルマを自分に課すというクレイジーな生活を送り、『着信御礼!ケータイ大喜利』(NHK総合)でレジェンドの称号を獲得。 その後も、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『伊集院光 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ)など、数々のラジオ番組や雑誌の投稿コーナーで常連となっていたハガキ職人・ツチヤタカユキ。 やがて、常連だったラジオ番組の芸人に誘われ、構成作家見習いとして上京。しかし「人間関係不得意」ということで、その道もあきらめ、地元に帰ってしまったことなどが番組で語られていたが、最近ではめっきりそんな話も出なくなって、ツチヤの行方を気にしていたリスナーも多いのではないだろうか。 そんなツチヤタカユキが突然、自伝的私小説『笑いのカイブツ』(文藝春秋)を上梓した。 投稿していたネタからはうかがい知れなかった、私生活を破滅させてまで「笑い」に突き進む自らの姿を描いた衝撃的な一冊だ。 シド・ヴィシャスやカート・コバーンのように若くして死にたいと思い、笑い以外のすべてをかなぐり捨ててきたヤバイ人が、まともにインタビューなんて受けるわけないと、ビクビクしながら取材場所に向かったのだが……。著者のツチヤタカユキ氏。
■シド・ヴィシャスみたいに、21歳で死のうと思っていた
――どんなキチガイが来るのかと思ってたんですが、意外とまともそうですね。 ツチヤ 27歳でお笑いをやめて、そこで一回死んだと思って生きてるんで……。それまでは本当にヤバかったですよ。トンガリまくってて、こういう取材が来ても、あの頃だったら何もしゃべらんと、にらみつけてたと思います。 ――(そんな取材相手イヤだ……。)宣伝のためのインタビューなんか、やってられるかと。 ツチヤ 今は価値観が変わって、この本が売れることで関わったみんなが幸せになるなら、インタビューでもなんでも受けたろう、という気持ちです。 ――(よかった……!)お笑いにハマる前は、どんな人だったんですか? ツチヤ 漫画オタクでしたね。それからネトゲ廃人になって、メシ食う時にもコントローラー握ったままで、そのまま寝たりとか。 ――ああ、なんにでものめり込んじゃうタイプなんですね。お笑いにハマッたきっかけは? ツチヤ 中学生の頃、関西で『吉本超合金』(テレビ大阪)とか、ヤバイ深夜番組がいっぱいあったんですよ。それ見てハマりましたね。『M-1』が始まった頃だったし、お笑いブームが来てるぞと。 ――だったら、普通は芸人になろうと思うじゃないですか。 ツチヤ とにかく「ネタを作りたい!」という衝動が先行していたんですね。芸人って食レポとか、情報番組のMCとかもやらされるじゃないですか。僕はネタだけを作りたかったんですよ。芸人なっても、ネタだけでメシ食えないんじゃ意味ないなと。 ――その衝動が『ケータイ大喜利』に向かったんですかね。レジェンドになった先は、どうなろうと思っていたんですか? ツチヤ ゴールは見えてなかったですね。漠然と、コント番組のネタを書いたりしたいなとは思ってましたけど、どうやったらそうなれるかもわからなかったし。とにかくネタを作り続けて、衝動が尽きたらそこでおしまい。シド・ヴィシャスみたいに、21歳で死のうと思ってました。格好いいじゃないですか、死んで「伝説」って言われたら。 ――シド・ヴィシャスは死ぬまでに、世界的に有名になっていたから伝説になれたんですよ! ツチヤ 21までに、売れている予定だったんですよね。このスピード感でネタを作ってたら、当然クドカンさんレベルにはなるだろうと。……アホだったんですよ、衝動で何も考えんと、ネタだけ作っていたんです。 ――面白いネタさえ作っていれば、誰かが見つけてくれるんじゃないかと? ツチヤ 「打席にさえ立たせてくれたら、絶対にホームラン打ったる!」と思ってましたね。『笑いのカイブツ』(文藝春秋)
■オレ以外全員死ね!
――それから吉本の劇場に入り込むわけですが、そこでは「打席」に立てなかった? ツチヤ 劇場で作家としてネタを書かせてもらうためには、上に気に入られなきゃならなかったんですよね。「なんでオレにネタを作らさへんねん!」とか「お前らが使こうてる作家より、オレのほうが面白いのに!」なんてことばっかり思ってました。業界の仕組みもなんにもわかってなかったんです。 ――そこで周りと同じように媚びようとは思わなかった? ツチヤ ダサいじゃないですか。そんなことやるより、ハガキ職人になったら全部打席だから。 ――ああ、そっちにシフトするんですね。でも、ハガキ職人って、仕事ではないですよね? ツチヤ 仕事とか関係ないんですよ。自分の笑いを世に出せたらいい。「おもんない先輩作家がエライさんの肩を揉んで仕事取ってる間に、こっちはハガキ職人やって全部の打席で打ちまくって抜いたらぁ!」と思ってました。 ――ラジオは好きだったんですか? ツチヤ ハガキ職人になるまで、ほぼ聴いたことなかったですね。ラジオって、フリートークがメインじゃないですか。当時は作り込んだものが好きだったんで、フリートーク聴いてる時間があったら、コントのDVDを見まくろう、映画を見て吸収しようって思ってましたね。ハガキ職人やってる頃も、ハガキコーナーしか聴いてなかったですもん。 ――それじゃ、楽しんでラジオを聴けないでしょう? ツチヤ 完全に、表現の場所としか考えてなかったです。「こういうネタが採用されんのや」とか、ずっと分析しながら聴いてました。 ――ほかのハガキ職人のネタも分析したり? ツチヤ いや、「オレ以外全員死ね」と。全員事故って死んで、オレだけのネタで番組を埋めたいと思ってましたから。■頭おかしいんか、オレ以外全員!?
――常連だったラジオ番組の芸人さんに誘われて、東京で構成作家の見習いを始めるわけですが、普通に考えたら華々しいサクセスロードですよね。どうして続けていけなかったんですか? ツチヤ 作家の仕事をやるのにも人間関係っていうのが重要で、単純に仕事がまったくなかったんですよ。「これだけ毎日ネタを作って、100%努力しているのに認められないなんて、頭おかしいんか、オレ以外全員!?」と思ってました。 ――「もしかしたら、自分に才能がないのかも」というふうには思わなかったんですか? ツチヤ 現実問題として仕事が来ないということは、ビジネスとしてお笑いをやる才能がないんだなとは思いましたけどね。 ――でも、「面白さの才能」で負けていると思わない? ツチヤ 面白さで負けたと思ったことはないですね。当時は天才で、松本(人志)さんよりオレのほうがおもろいと思ってたんで! ――おお……。そう考えている人って、どんなスタンスでテレビのお笑い番組を見るんですか? ツチヤ 審査。 ――審査! ツチヤ 「なんや、このネタ。アドリブでやってるレベルやんけ」「金返せ、殺すぞ!」とか……そんなことをテレビに向かって言っていました。 ――そこまで自分に才能があると思いつつも構成作家をやめ、地元に帰ったわけですけど、バイト生活に戻るくらいなら、構成作家としてガマンして下積みしたほうがよくないですか? ツチヤ バイトのイヤさと、構成作家としての人間関係のイヤさは同じような感じでしたからね。どうせバイト中にもネタを書いてましたし、同じことですよ。 ――同じイヤだったら、構成作家をやっていたほうが、ネタも書きやすい環境じゃないですか。 ツチヤ バイト中にも普通にネタ書けてたんで、バイトの時間が無駄だっていう感覚もなかったですね。「クビにするならクビにしろ、オレは働かんと書いたらー!」と思ってました。 ――「バイト中にあえてそこんなことやってるオレ、格好いい」みたいな感覚もあった? ツチヤ 「特別だろオレは? お前ら凡人とは違う!」って、逆境にいることに酔ってましたね。岡本太郎さんが好きなんで、オレはあのイズムを継承しているなと。岡本太郎だって、虐げられてきた時代があったはずなんですよ。今のオレは、その時代の岡本太郎だと。■ダサくても、ジョン・ライドンのように生き残ったほうがいい
――やがて、それだけこだわってきた「ネタを書くこと」もやめてしまいます。 ツチヤ 地元に帰ってからもネタを書き続け、細々とお笑いの仕事を続けていたんですが、27歳で完全に心が折れたんですよ。そこで「お笑いにしがみつくのはやめて、もう死のう」と思ったんです。 ――どうして、その時に死ななかったんですか? ツチヤ ブログを始めて、これを書いてから死のうと思ったんです。遺書みたいなもんですよね。ここまでやってもダメだった。オレは負け犬だ。最後、負けをさらして死んでやる……という気持ちですね。 ブログにここまで書いたら、もうお笑いはできないでしょう。ここまで暗い生活を送ってきたヤツのネタなんて、笑えないですもん。そうやって、二度とお笑いができないようにしたかった。そうやって断ち切らないと、一生お笑いにしがみついてしまうんで。 そう考えた時に、いろんな価値観が全部ひっくり返ったんです。それまでずっとシド・ヴィシャスが好きで、バンドメンバーのジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)はダサいと思ってたんですよ。あんな生き永らえてデブなって……。でも、一回死んだ気になってみたら「格好悪いほうが格好いい」「ダサくても、ジョン・ライドンのように生き残ったほうがいい」って。 ――結果的に、そういう覚悟で書いたブログが、今回の本につながったわけですよね。 ツチヤ 最初の1カ月は読者もひとりとかしかいなかったんですけど、2カ月くらいした頃、急に「書籍化しませんか?」みたいなメールが何通も来て。同時期にcakesからも「連載しませんか?」って……でも、そんなのイタズラだと思ったんですよ。ただ、cakesだけは「ウソつくにしても、こんな誰も知らない無名の社名を出すかな?」と思って。 Cakes担当編集 ひどい(笑)。その時期に、出版界隈でツチヤさんのブログが軽くバズッたんですよね。僕も、Facebookで誰かが「ヤバイ」って書いてるのを見かけてメールしたんです。 ――それでcakesでの連載も決まったと。 ツチヤ いきなり書籍化するよりも、連載だったら日銭が入るんで……。タイミングもよかったですね。これ(ブログ)が全然認められてなかったら、本当に死んでたと思います。その連載が1年続く間に、またいろいろと書籍化の話が来て、今回の出版となりました。 ――ここまで自意識が強い人が、帯で「伝説のハガキ職人」とか書かれちゃうのって、イヤじゃなかったですか? ツチヤ イヤでしたね! このタイトルもイヤでしたもん。「自分で『笑いのカイブツ』言うてんで、メチャ痛いやんけ」って。でも今は、一周回って、かっこ悪いのがかっこいいと思えるようになりました。その上で、世間の評価なんてどうでもいいし、どう思われてもいいと考えられるようになりました。■そのへんの小説家が書くような文章はいらん
――本のターゲットはどんな人? ツチヤ 27歳の頃の僕ですね。 ――心の中に「カイブツ」を抱えている人ということですね。そういう人たちを、この本で安心させたい? ツチヤ 安心……そうですね。僕が27歳の時にこういう本が読みたかった、こういう本があったら救われただろうというものを書きました。 ――当時は「自分みたいなヤツは、ほかにいないんじゃないか」と思っていた? ツチヤ 一般人にはいないと思っていました。かつてはいっぱいいたのかもしれないけど……岡本太郎とかゴッホとか。 ――そこと同列……! お笑いネタは膨大な数を書いてきましたけど、小説を書くに当たって、苦労はなかったですか? ツチヤ それまでお笑いに向けていた熱量を、小説にぶつけるという意味では同じでしたね。ノートやチラシの裏にバーッと書いたのをスマホで清書して。最初4万字書いたら、そこから4,000字だけ選抜してほかは捨てる――。ハガキ職人の頃に投稿するネタを選抜していたように、文章も選抜していきましたね。 ――急に話が飛んだり、説明が足りないんじゃないかなという部分があるのは、つまらない部分を削ったからなんですね。 ツチヤ 僕なら、ダラダラした説明があった時点で捨てますから、そんな本。常に「面白い」を与え続けないといけない。全ページ面白くしたかったですね。そのへんの小説家が書くような文章はいらんと。そいつらより絶対にすごいもん書いたるっていう気持ちはありました。 ――小説でも、上から目線になるんだ……。 ツチヤ 小説家なんて全員おもんないなと思ったからこそ、これを書いたわけなんで。 ――今後は、小説家として活動していくんですか? ツチヤ なんのこだわりもなく、依頼が来たヤツ全部やろうと思ってます。一回、死んだと思って生きてるんで。それで失敗して、バカにするならしたらいい。「AV出ろ」って言われたらイヤですけど。 ――それ、オファーするほうがどうかしてますけどね。今はバイトもしてない? ツチヤ 印税前借りしてるんで。それがなくなって食えなくなったら、「いつ死んでもいいやって。それは常に思ってますね。 ――それはまだ思ってるんだ……。 *** 『笑いのカイブツ』が出版されて以降、執筆の仕事だけでなく、お笑いの仕事依頼も次々舞い込んでいるというツチヤ。 一度はお笑いをあきらめたツチヤが、ここからスゴイ笑いを生み出してくれるのか、それともやっぱり「人間関係不得意」だからドロップアウトしてしまうのか? 停滞しているテレビの「お笑い」をぶっ壊してくれそうな存在であるツチヤの活動を、楽しみに見守りたい。 (取材・文=北村ヂン)現代の「トキワ荘」はユートピアか無間地獄か!? 創作の苦しみを描く守屋文雄初監督作『まんが島』
人気コミックを原作にした映画『バクマン。』(15)は“友情・努力・勝利”という売れる漫画三大要素をフル活用した内容で観客の感動を誘い、17.8億円のスマッシュヒットを記録した。連載誌の読者アンケート1位の座をめぐり、漫画家たちがしのぎを削る漫画業界の内情をドラマチックに描いた『バクマン。』だが、普段からガロ系の漫画などを読み親しんでいる人はこう思ったに違いない。「いや、少年ジャンプだけが漫画じゃないから」と。そんなあなたに薦めたいのが、守屋文雄監督の監督デビュー作『まんが島』だ。家賃、光熱費、電話代を気にせずにいられる絶海の孤島で暮らす売れない漫画家たちが、まだ誰も読んだことのないオリジナルな漫画を生み出そうと苦悶する姿が107分間にわたって描かれる。 漫画家役を演じているのは、4月からテレビ東京系で深夜ドラマ化される『SRサイタマノラッパー』(09)のTOM役で知られる水澤紳吾、白石晃士監督の傑作ホラーコメディ『オカルト』(08)などで怪優ぶりを見せている宇野祥平、劇団「動物電気」を主宰する政岡泰志ら主にインディーズシーンで頑張っている人たちだ。本作のメインキャストのひとりであり、プロデューサーも兼ねているのが守屋監督。日本大学芸術学部映画学科卒業生で、沖田修一監督の『キツツキと雨』(12)や熊切和嘉監督の『ディアスポリス DIRTY YELLOW BOYS』(16)などの脚本家であり、いまおかしんじ監督のピンク映画にもちょくちょく役者として出演している。大学で同期だった沖田監督は『南極料理人』(09)や『横道世之介』(13)が絶賛され、今やすっかり売れっ子監督。大学の2学年後輩となる入江悠監督も『SRサイタマノラッパー』で一躍ブレイク。自主映画時代の仲間たちが華々しくスポットライトを浴びる姿を見守ってきた守屋監督だったが、40歳となってようやく監督デビューを果たしたのが『まんが島』である。 本作に主演している水澤紳吾は、仙台出身の守屋監督とは小学校時代からの幼なじみ。当時は藤子不二雄、ゆでたまごといったコンビの漫画家が大活躍していたことから、「2人でプロの漫画家を目指そう」と誓い合い、合作漫画の執筆に励んだ。とはいえ子どもは熱が冷めるのも早い。2人で漫画家になる夢は1~2年で頓挫したが、その後も友情だけは続く。沖田監督や入江監督へのライバル心をむき出しにすることのない守屋監督に対し、「いつになったら自分の映画を撮るんだよ」と水澤は酒の席でせっつき続けた。インディーズ映画界、ちょっといい話。 『まんが島』の中で水澤と守屋は藤子不二雄を思わせる漫画家コンビを演じているのだが、本作が「トキワ荘」伝説のような貧しくも美しい友情の物語なのかと言えば、まるで違う。無人島で暮らす漫画家たちはそれぞれがオリジナルな漫画を目指すも、うまくペン入れが進まず発狂寸前。お互いに励まし合う余裕はもはやなく、ネタの盗用や食べ物をめぐってドロドロの争いが繰り広げられていく。漫画家たちは自分が描く漫画の世界のみに没頭しすぎ、現実と虚構のボーダーさえも島ではあやふやになっていく。島の浜辺には「マンガ家以外の立入を禁じる」と立て札が掲げられ、まさに一般人がうかつに足を踏み入れると非常にヤバい映画なのだ。漫画家たちの無人島でのサバイバル生活を描いた『まんが島』。トキワ荘のようなユートピアかと思いきや……。
構想10年の末に初監督作を完成させた守屋監督に、製作内情について1時間ほど話を聞いた。 守屋文雄「日大芸術学部では沖ちゃん(沖田監督)と同年卒業でしたが、彼は一留して、僕は二浪しているから、同期生とは微妙に異なるんです(笑)。『鍋と友達』(02)などの彼の自主映画に、僕は演者として気楽に参加してきましたが、彼は短編を着実に撮り続け、初めての商業映画『南極料理人』で脚光を浴びることになった。今から僕が懸命に走っても一生追いつけません。入江くんも大学の後輩ですが、彼にももう追いつけない(苦笑)。彼らの作品を観た直後には『よし、見てろよ!』とは思うんですが、自分はその気持ちを抱えたままでは、仕事である脚本が書けないんです。自分を空っぽにしないと書けない。『まんが島』のアイデアは30歳ぐらいからあったものです。一緒にふたり芝居をやっていたこともあり、水澤に出てもらうのは決まっていて、そういえば2人で漫画家を目指していたなと、子どもの頃の思い出をもとに脚本を書き始めました。完成まで、ずいぶん時間が掛かってしまいましたね。製作費は『キツツキと雨』で脚本料をもらい、そのお金を撮影代に回したんです。沖田監督には世話になってます」 守屋演じる漫画家は島へ移住する前、アパートの家賃を滞納し続けていたことを編集者(川瀬陽太)の口から明かされる。実はこのエピソード、守屋監督自身の実体験を投影したもの。守屋監督は家賃3万8,000円の風呂なしアパートに15年ほど暮らしていたが、家賃を催促する大家さんの足音に怯えながら『まんが島』のシナリオの改稿を重ねてきた。無人島でサバイバルライフを続ける漫画家たちの鬼気迫る暮らしぶりは、守屋監督の実生活と重なり合う。 守屋「毎日が必死でした。脚本料が振り込まれると、なぜかその日に限って大家さんが家賃の取り立てに現われるんです。なぜ振込み日が分かったのか……。大家さんも必死だったんだと思います。毎日が真剣勝負でした。そのアパートは先日取り壊されたんですが、長年住んだこちらとしても思い入れが深く、記念に鍵をもらっておこうと思ったんです。でも、その鍵も大家さんに取り上げられました。何も俺に渡したくなかったんだと思います。代わりにこっそり網戸をもらってきました。次の家に無かったんで」この人が守屋文雄監督。「脚本段階からお客さんのことは考えず、島で暮らす漫画家たちのことしか考えなかった」と語る。
映画の本題からずいぶん脱線してしまったが、本作の主人公たちが誰にもマネできない唯一無二の漫画の執筆に情熱を注いだように、守屋監督の『まんが島』もクリエイターの狂気に満ちた、誰も観たことのない超個性的な作品として誕生した。 守屋「自分の次を考えたとき、いわゆる名刺になるような作品をつくるべきだというのは分かるんです。でも周りから何周も遅れて、それでも重い腰を上げようとしたときに、『こんなにいっぱい映画があるのに、なんでわざわざ自分が映画をつくるんだろう』と人並みに考えて。そうしたら『名刺になるかも』なんて思ったものに、人を巻き込むことは出来なくて、見たことがないもの、自分が本当に見たいものを撮るしかなかった。あんなメチャクチャに見える台本に、キャスト・スタッフの誰からも質問がなかったのは、その気持ちに賛同してくれたのかなと今になって思います。こんなに好き勝手な映画をつくって、何言ってんだって言われるかも知れないけど、好き勝手やったんじゃないんです。脚本の初稿は連載を勝ち取るという結末だったのが、頭を空っぽにして『まんが島』という作品の要求を聞いていたら、いつの間にか今の結末に変わっていた。どんどんプリミティブに、ものづくりの起源みたいなものに迫っていく他ないんです、あの島に入ったら。やあ、とんでもない島ですよ、あそこは。それは当然、撮影・編集・音仕上げのプロセスにも反映されています。だから映画が始まったら、ただ画を見て、音を聞いて欲しい。そうやって映画の動きに身を委ねてくれたお客さんの中で起こる、見たこともない何かのためにつくった映画ですから」 人気アンケートや世間の流行を気にせず、自分にしか生み出せないオリジナルの世界を追求する覚悟がある者だけが辿り着くことができる幻の島・まんが島。あなたは現代社会に残された秘境・まんが島に足を踏み入れる勇気があるだろうか? (取材・文=長野辰次)売れっ子漫画家を演じるのは注目の若手女優・柳英里紗。「冨永昌敬監督の『ローリング』(15)より先にオファーしました」(守屋監督)。
『まんが島』 監督・脚本・編集・制作/守屋文雄 出演/水澤紳吾、守屋文雄、松浦祐也、宇野祥平、政岡泰志、川瀬陽太、柳英里紗、笠木泉、森下くるみ、河原健二、長平、邦城龍明 配給/インターフィルム 3月25日(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次公開 (c)2017守屋文雄 http://manga-jima.com
現代の「トキワ荘」はユートピアか無間地獄か!? 創作の苦しみを描く守屋文雄初監督作『まんが島』
人気コミックを原作にした映画『バクマン。』(15)は“友情・努力・勝利”という売れる漫画三大要素をフル活用した内容で観客の感動を誘い、17.8億円のスマッシュヒットを記録した。連載誌の読者アンケート1位の座をめぐり、漫画家たちがしのぎを削る漫画業界の内情をドラマチックに描いた『バクマン。』だが、普段からガロ系の漫画などを読み親しんでいる人はこう思ったに違いない。「いや、少年ジャンプだけが漫画じゃないから」と。そんなあなたに薦めたいのが、守屋文雄監督の監督デビュー作『まんが島』だ。家賃、光熱費、電話代を気にせずにいられる絶海の孤島で暮らす売れない漫画家たちが、まだ誰も読んだことのないオリジナルな漫画を生み出そうと苦悶する姿が107分間にわたって描かれる。 漫画家役を演じているのは、4月からテレビ東京系で深夜ドラマ化される『SRサイタマノラッパー』(09)のTOM役で知られる水澤紳吾、白石晃士監督の傑作ホラーコメディ『オカルト』(08)などで怪優ぶりを見せている宇野祥平、劇団「動物電気」を主宰する政岡泰志ら主にインディーズシーンで頑張っている人たちだ。本作のメインキャストのひとりであり、プロデューサーも兼ねているのが守屋監督。日本大学芸術学部映画学科卒業生で、沖田修一監督の『キツツキと雨』(12)や熊切和嘉監督の『ディアスポリス DIRTY YELLOW BOYS』(16)などの脚本家であり、いまおかしんじ監督のピンク映画にもちょくちょく役者として出演している。大学で同期だった沖田監督は『南極料理人』(09)や『横道世之介』(13)が絶賛され、今やすっかり売れっ子監督。大学の2学年後輩となる入江悠監督も『SRサイタマノラッパー』で一躍ブレイク。自主映画時代の仲間たちが華々しくスポットライトを浴びる姿を見守ってきた守屋監督だったが、40歳となってようやく監督デビューを果たしたのが『まんが島』である。 本作に主演している水澤紳吾は、仙台出身の守屋監督とは小学校時代からの幼なじみ。当時は藤子不二雄、ゆでたまごといったコンビの漫画家が大活躍していたことから、「2人でプロの漫画家を目指そう」と誓い合い、合作漫画の執筆に励んだ。とはいえ子どもは熱が冷めるのも早い。2人で漫画家になる夢は1~2年で頓挫したが、その後も友情だけは続く。沖田監督や入江監督へのライバル心をむき出しにすることのない守屋監督に対し、「いつになったら自分の映画を撮るんだよ」と水澤は酒の席でせっつき続けた。インディーズ映画界、ちょっといい話。 『まんが島』の中で水澤と守屋は藤子不二雄を思わせる漫画家コンビを演じているのだが、本作が「トキワ荘」伝説のような貧しくも美しい友情の物語なのかと言えば、まるで違う。無人島で暮らす漫画家たちはそれぞれがオリジナルな漫画を目指すも、うまくペン入れが進まず発狂寸前。お互いに励まし合う余裕はもはやなく、ネタの盗用や食べ物をめぐってドロドロの争いが繰り広げられていく。漫画家たちは自分が描く漫画の世界のみに没頭しすぎ、現実と虚構のボーダーさえも島ではあやふやになっていく。島の浜辺には「マンガ家以外の立入を禁じる」と立て札が掲げられ、まさに一般人がうかつに足を踏み入れると非常にヤバい映画なのだ。漫画家たちの無人島でのサバイバル生活を描いた『まんが島』。トキワ荘のようなユートピアかと思いきや……。
構想10年の末に初監督作を完成させた守屋監督に、製作内情について1時間ほど話を聞いた。 守屋文雄「日大芸術学部では沖ちゃん(沖田監督)と同年卒業でしたが、彼は一留して、僕は二浪しているから、同期生とは微妙に異なるんです(笑)。『鍋と友達』(02)などの彼の自主映画に、僕は演者として気楽に参加してきましたが、彼は短編を着実に撮り続け、初めての商業映画『南極料理人』で脚光を浴びることになった。今から僕が懸命に走っても一生追いつけません。入江くんも大学の後輩ですが、彼にももう追いつけない(苦笑)。彼らの作品を観た直後には『よし、見てろよ!』とは思うんですが、自分はその気持ちを抱えたままでは、仕事である脚本が書けないんです。自分を空っぽにしないと書けない。『まんが島』のアイデアは30歳ぐらいからあったものです。一緒にふたり芝居をやっていたこともあり、水澤に出てもらうのは決まっていて、そういえば2人で漫画家を目指していたなと、子どもの頃の思い出をもとに脚本を書き始めました。完成まで、ずいぶん時間が掛かってしまいましたね。製作費は『キツツキと雨』で脚本料をもらい、そのお金を撮影代に回したんです。沖田監督には世話になってます」 守屋演じる漫画家は島へ移住する前、アパートの家賃を滞納し続けていたことを編集者(川瀬陽太)の口から明かされる。実はこのエピソード、守屋監督自身の実体験を投影したもの。守屋監督は家賃3万8,000円の風呂なしアパートに15年ほど暮らしていたが、家賃を催促する大家さんの足音に怯えながら『まんが島』のシナリオの改稿を重ねてきた。無人島でサバイバルライフを続ける漫画家たちの鬼気迫る暮らしぶりは、守屋監督の実生活と重なり合う。 守屋「毎日が必死でした。脚本料が振り込まれると、なぜかその日に限って大家さんが家賃の取り立てに現われるんです。なぜ振込み日が分かったのか……。大家さんも必死だったんだと思います。毎日が真剣勝負でした。そのアパートは先日取り壊されたんですが、長年住んだこちらとしても思い入れが深く、記念に鍵をもらっておこうと思ったんです。でも、その鍵も大家さんに取り上げられました。何も俺に渡したくなかったんだと思います。代わりにこっそり網戸をもらってきました。次の家に無かったんで」この人が守屋文雄監督。「脚本段階からお客さんのことは考えず、島で暮らす漫画家たちのことしか考えなかった」と語る。
映画の本題からずいぶん脱線してしまったが、本作の主人公たちが誰にもマネできない唯一無二の漫画の執筆に情熱を注いだように、守屋監督の『まんが島』もクリエイターの狂気に満ちた、誰も観たことのない超個性的な作品として誕生した。 守屋「自分の次を考えたとき、いわゆる名刺になるような作品をつくるべきだというのは分かるんです。でも周りから何周も遅れて、それでも重い腰を上げようとしたときに、『こんなにいっぱい映画があるのに、なんでわざわざ自分が映画をつくるんだろう』と人並みに考えて。そうしたら『名刺になるかも』なんて思ったものに、人を巻き込むことは出来なくて、見たことがないもの、自分が本当に見たいものを撮るしかなかった。あんなメチャクチャに見える台本に、キャスト・スタッフの誰からも質問がなかったのは、その気持ちに賛同してくれたのかなと今になって思います。こんなに好き勝手な映画をつくって、何言ってんだって言われるかも知れないけど、好き勝手やったんじゃないんです。脚本の初稿は連載を勝ち取るという結末だったのが、頭を空っぽにして『まんが島』という作品の要求を聞いていたら、いつの間にか今の結末に変わっていた。どんどんプリミティブに、ものづくりの起源みたいなものに迫っていく他ないんです、あの島に入ったら。やあ、とんでもない島ですよ、あそこは。それは当然、撮影・編集・音仕上げのプロセスにも反映されています。だから映画が始まったら、ただ画を見て、音を聞いて欲しい。そうやって映画の動きに身を委ねてくれたお客さんの中で起こる、見たこともない何かのためにつくった映画ですから」 人気アンケートや世間の流行を気にせず、自分にしか生み出せないオリジナルの世界を追求する覚悟がある者だけが辿り着くことができる幻の島・まんが島。あなたは現代社会に残された秘境・まんが島に足を踏み入れる勇気があるだろうか? (取材・文=長野辰次)売れっ子漫画家を演じるのは注目の若手女優・柳英里紗。「冨永昌敬監督の『ローリング』(15)より先にオファーしました」(守屋監督)。
『まんが島』 監督・脚本・編集・制作/守屋文雄 出演/水澤紳吾、守屋文雄、松浦祐也、宇野祥平、政岡泰志、川瀬陽太、柳英里紗、笠木泉、森下くるみ、河原健二、長平、邦城龍明 配給/インターフィルム 3月25日(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次公開 (c)2017守屋文雄 http://manga-jima.com





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