オラオラオラオラオラァなジョジョの名ゼリフ集『ジョジョの奇妙な名言集』

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『ジョジョの奇妙な名言集 Part1-3』
(集英社)
 7月5日、六本木ヒルズで「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」の記者発表会が行われた。連載25周年を記念したこの原画展は、7月末に仙台、10月に東京で開催され、総数100点以上の原画が展示される予定だ。合わせて、テレビアニメ化と新作ゲームの発売も発表されるなど、連載開始から25年を経てなお高い人気を誇る『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ。今から開催を待ちきれないファンも数多くいるのではないだろうか。  そのジョジョシリーズの名言をズキュウウゥンと集めたのが『ジョジョの奇妙な名言集 Part1-3』(集英社)。「ジョジョの奇妙な冒険」第1部から第3部までの名言・名場面を一挙収録した本だ。 「さすがディオ! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる! あこがれるゥ!」(1巻・ディオの取り巻きたち) 「ふるえるぞハート! 燃え尽きるほどヒート! 刻むぞ血液のビート!」(4巻・はじめての波紋疾走を繰り出すジョナサン)
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jojo03.jpg  など、すっかり定番となった決めゼリフ132篇が掲載されている。もちろん、承太郎の「オラオラ~~」やディオの「おれは人間をやめるぞ! ジョジョ――ッ!!」も漏れなく押さえられていて、ファンの期待を裏切らないチョイスだといえる。読み返すと、「スピードワゴンはクールに去るぜ」(2巻・ジョナサンの病室から去るスピードワゴン)など、脇役にもキラリと光るセリフがあって、一人ひとりのキャラにあらためて愛着が湧いてくる。巻末には評論家・中条省平氏の13Pに及ぶ解説も掲載されており、こちらも読みごたえのある内容となっている。  ジョジョの魅力とはなんなのか。中条氏によると、ジョジョの物語とは“人間の空間的・時間的限界の超越をめぐる多面的な遍歴譚”であるという。人間を超越した肉体を持つ柱の男(空間的超越)や、時間をも止めるディオ(時間的超越)ら強敵に対し、勇気や知恵、怒りといった人間的要素で打ち勝ってゆく。また、定められた運命を自らの力で変えるという描写もシリーズを通して散見される。 「人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!! 人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!」(3巻・屍生人を一掃するウィル・A・ツェペリ)  特殊な絵柄や奇抜なセリフばかりでなく、徹底した生の肯定=人間讃歌というブレないテーマが根底にあることが、25年もの間、支持され続けている最大の理由なのだろう。原画展、アニメ化、ゲーム化、そして連載中の「ジョジョリオン」がオラオラオラオラオラオラ~~と打ち出される今夏秋。この『ジョジョの奇妙な名言集』で旧作をおさらいしておけば、新しいジョジョワールドに、より深く浸ることができるだろう。 (文=平野遼)

業界の最先端をゆくピクサーの初挑戦『メリダとおそろしの森』

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(C)DISNEY / PIXAR .All rights reserved.
7/21(土)ロードショー 2D・3D同時公開
ディズニー公式サイト:<http://www.disney.co.jp/>
 今週は、子どもから大人まで楽しめる良質なCGアニメ映画を作り続けてきたピクサー・アニメーション・スタジオによる、最新ファンタジーアドベンチャー『メリダとおそろしの森』(7月21日公開、2D/3D上映)を紹介しよう。  中世スコットランドのとある王国。豪胆な王と、王家の格式を重んじる王妃の間に生まれた王女メリダは、幼い頃から弓の腕を磨き、愛馬で森を駆けめぐるおてんば娘に成長する。母が一方的に結婚話を進めることに反発し、城を飛び出したメリダは、森の奥深くで出会った魔女に「運命を変える魔法」を懇願。魔女にもらったケーキを母に食べさせたことで、王国を揺るがす重大な事態に。果たしてメリダは、過酷な運命に立ち向かい、母と王国の危機を救うことができるのか……。  ピクサーが長編13作目にして初めて、人間の女性を主人公に据えた意欲作。メリダが試練と冒険を通じて精神的に成長する姿に加え、王妃と王女という母娘の絆もしっかりと描き出す。中世という時代設定は、やはりピクサーにとって初挑戦となるが、シンプルに純化された人間関係と神秘的な森での出来事をうまく引き立てている。  そうした過去作に例のない描写や表現を支えるのは、常に業界の最先端をゆく同スタジオの技術力だ。メリダの燃えるような赤い髪の毛にカールを作る“アイロン”や、森の中や城壁の石に苔を吹き付ける“スプレー”などを、コンピューター上のプログラムでバーチャルに作り出し、動作や風に反応して揺れる様子など繊細な表現を可能にした。こうした細部の緻密な描写の積み重ねのおかげで、個性的なキャラクターや雄大な景観に魂が吹き込まれ、観客はリアルな感情とダイナミックな展開を楽しむことができる。  本作の監督の1人、ブレンダ・チャップマンは、ドリームワークス・アニメーション在籍時に『プリンス・オブ・エジプト』(99年)で共同監督を務め、大手スタジオの長編アニメ映画でメガホンをとった最初の女性になった。03年にピクサーへ転籍したのち本作の監督と原案に抜擢され、「ピクサーアニメ初の女性監督作品」と大きく報じられたが、残念ながら制作上の意見の相違でマーク・アンドリュース監督に交代。とはいえ、「女性は上品で慎ましくあるべき」という古い固定観念にとらわれず、ヒロインが運命を自ら切り拓いていくというストーリーには、少なからずチャップマンの半生が投影されているはず。後任監督のマーク・アンドリュースも本作が長編デビューとなることを考え合わせると、ピクサー自身もまた、新しい時代に向けた製作陣の世代交代という、成長のためのターニングポイントを迎えているのかもしれない。 (文=映画.com編集スタッフ・高森郁哉) 「メリダとおそろしの森」作品情報 <http://eiga.com/movie/56798/>

なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

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『ベケットといじめ』(白水uブックス)
 滋賀県大津市で中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺をした事件は、連日多くのニュース番組で報道されている。生徒を守るはずの存在である教育委員会や学校側の不手際、「いじめ」という言葉ではくくれないほど凄惨な事件の内容は、社会に衝撃をもたらしている。  大津市の事件では生徒へのアンケートなどから「葬式ごっこ」といういじめが発覚したが、これは、1986年に起こったいじめ自殺事件「中野富士見中学校いじめ自殺事件」でも行われていた手口であった。そして、この中野富士見中学の事件を、繊細な手つきで分析したのが、日本を代表する劇作家である別役実だ。  野田秀樹、鴻上尚史、松尾スズキら後発の劇作家たちに対して多大な影響を与えた別役実。ネットユーザーならば、デイリーポータルZなどでも執筆するイラストレーターのべつやくれいの父といえばピンとくるだろうか。彼が中野富士見中学の事件を手がかりに、日本の社会構造を分析した『ベケットと「いじめ」』(白水uブックス)を読むと、25年以上前に出版された本ながら、まるで大津市のいじめ事件のことを書いているように錯覚してしまう。  中野富士見中学校の事件も、生徒による被害者への日常的な暴行、教師たちの保身、そして「葬式ごっこ」と、大津市の事件と酷似している。中野富士見中学で自殺したSくんは、机の上に自分の写真や、担任教師までもが参加した寄せ書き、線香までしつらえられた「葬式ごっこ」の現場を目の当たりにしながら、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑った。  また、遺書には「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉に続き、「オレが死んだからって、他のやつが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君たちもばかなことをするのはやめてくれ」と綴られている。  このいじめ自殺の深層を分析するにあたって、別役が参照するのが、不条理演劇の大家として『ゴドーを待ちながら』などの作品を執筆したサミュエル・ベケットだ。  簡単に、不条理演劇について解説しよう。  19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。  「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。  では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?  その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。  「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。  劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。  例えば、大津市の事件において「どうして逃げなかったんだ」という疑問の声が聞かれる。けれども、いじめの当事者たちは、主体的に行動する「個人」ではなく、「関係性のなかの『孤』」であるのだから、「逃げる」という主体的な選択ができない。だから、「逃げろ」というアドバイスは届くことがない。同様に「いじめをやめろ」という言葉も響くことはないだろう。  では、いじめを止める方法はないのだろうか? 『ゴドーを待ちながら』の登場人物たちが永遠に来ることのないゴドーを待ち続けなければならなかったように、ひとたびいじめの構造が生まれたら、誰もそこから逃れることはできないのだろうか?  別役は2007年に、『ゴドーを待ちながら』の後日譚として、『やってきたゴドー』という作品を執筆している。タイトル通り、ゴドーがやってきて「ゴドーです」と名乗るこの作品。しかし、待ち続けていたはずの男たちは、「わかっています」と言うだけで、どうしても待ち焦がれていたゴドーとの出会いを喜ぶことはできない。この作品を通して、別役は僕らを縛り付けて、がんじがらめにしている関係性は、ひどく無意味なものであると宣言しているように感じる。  この25年間、いくら「いじめはいけない」と声高に叫んでも、学校の中からいじめがなくなることはなかった。別役の劇をヒントに取り、いじめを止める方法を考えるならば、「いじめる―いじめられる」という関係の“先”を見せることで、当事者たちに関係そのものの無意味さやバカバカしさを気づかせることではないか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●べつやく・みのる 1937年、旧満州(現・中国東北部)生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。戯曲『象』(62年)で注目され、『マッチ売りの少女』(66年)と『赤い鳥の居る風景』(67年)で岸田国士戯曲賞を受賞。2007年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊國屋演劇賞受賞。

なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

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『ベケットといじめ』(白水uブックス)
 滋賀県大津市で中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺をした事件は、連日多くのニュース番組で報道されている。生徒を守るはずの存在である教育委員会や学校側の不手際、「いじめ」という言葉ではくくれないほど凄惨な事件の内容は、社会に衝撃をもたらしている。  大津市の事件では生徒へのアンケートなどから「葬式ごっこ」といういじめが発覚したが、これは、1986年に起こったいじめ自殺事件「中野富士見中学校いじめ自殺事件」でも行われていた手口であった。そして、この中野富士見中学の事件を、繊細な手つきで分析したのが、日本を代表する劇作家である別役実だ。  野田秀樹、鴻上尚史、松尾スズキら後発の劇作家たちに対して多大な影響を与えた別役実。ネットユーザーならば、デイリーポータルZなどでも執筆するイラストレーターのべつやくれいの父といえばピンとくるだろうか。彼が中野富士見中学の事件を手がかりに、日本の社会構造を分析した『ベケットと「いじめ」』(白水uブックス)を読むと、25年以上前に出版された本ながら、まるで大津市のいじめ事件のことを書いているように錯覚してしまう。  中野富士見中学校の事件も、生徒による被害者への日常的な暴行、教師たちの保身、そして「葬式ごっこ」と、大津市の事件と酷似している。中野富士見中学で自殺したSくんは、机の上に自分の写真や、担任教師までもが参加した寄せ書き、線香までしつらえられた「葬式ごっこ」の現場を目の当たりにしながら、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑った。  また、遺書には「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉に続き、「オレが死んだからって、他のやつが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君たちもばかなことをするのはやめてくれ」と綴られている。  このいじめ自殺の深層を分析するにあたって、別役が参照するのが、不条理演劇の大家として『ゴドーを待ちながら』などの作品を執筆したサミュエル・ベケットだ。  簡単に、不条理演劇について解説しよう。  19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。  「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。  では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?  その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。  「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。  劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。  例えば、大津市の事件において「どうして逃げなかったんだ」という疑問の声が聞かれる。けれども、いじめの当事者たちは、主体的に行動する「個人」ではなく、「関係性のなかの『孤』」であるのだから、「逃げる」という主体的な選択ができない。だから、「逃げろ」というアドバイスは届くことがない。同様に「いじめをやめろ」という言葉も響くことはないだろう。  では、いじめを止める方法はないのだろうか? 『ゴドーを待ちながら』の登場人物たちが永遠に来ることのないゴドーを待ち続けなければならなかったように、ひとたびいじめの構造が生まれたら、誰もそこから逃れることはできないのだろうか?  別役は2007年に、『ゴドーを待ちながら』の後日譚として、『やってきたゴドー』という作品を執筆している。タイトル通り、ゴドーがやってきて「ゴドーです」と名乗るこの作品。しかし、待ち続けていたはずの男たちは、「わかっています」と言うだけで、どうしても待ち焦がれていたゴドーとの出会いを喜ぶことはできない。この作品を通して、別役は僕らを縛り付けて、がんじがらめにしている関係性は、ひどく無意味なものであると宣言しているように感じる。  この25年間、いくら「いじめはいけない」と声高に叫んでも、学校の中からいじめがなくなることはなかった。別役の劇をヒントに取り、いじめを止める方法を考えるならば、「いじめる―いじめられる」という関係の“先”を見せることで、当事者たちに関係そのものの無意味さやバカバカしさを気づかせることではないか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●べつやく・みのる 1937年、旧満州(現・中国東北部)生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。戯曲『象』(62年)で注目され、『マッチ売りの少女』(66年)と『赤い鳥の居る風景』(67年)で岸田国士戯曲賞を受賞。2007年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊國屋演劇賞受賞。

「3日あったら、殺人を自白させてやる……」冤罪が生まれる裏側に迫る『冤罪と裁判』

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『冤罪と裁判』(講談社現代新書)
 6月7日、ネパール人男性ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏が横浜刑務所から釈放された。1997年に起こった東電OL殺人事件の犯人として無期懲役の判決を受けていたゴビンダ氏。事件発生から15年の月日が経ち、ゴビンダ氏の再審請求審を認定。刑の執行が停止されたため、今回の釈放が決定された。この事件は、ゴビンダ氏が逮捕された当初から冤罪事件ではないかとささやかれていた。  2010年に再審無罪が確定し大きなニュースとなった「足利事件」や、大阪地検特捜部による証拠改ざんが行われた厚労省局長による「障害者郵便制度悪用事件」など、冤罪が判明した事件は数多い。『冤罪と裁判』(講談社現代新書)は、20年にわたる弁護士活動の中で数多くの冤罪事件を扱ってきた今村核氏が、冤罪が引き起こされる構造的な問題を分析した一冊だ。  例えば、自白という問題。  普通、容疑者が自白を行ったといえば、世間的には完全に「クロ」と目される。まさか、やってもいない罪を好んで被る人間などいるわけがないだろう。しかし、現実は違う。一日10時間以上にわたって、刑事が恫喝するように声を荒らげる取り調べの現場。接見禁止となれば、弁護士以外のあらゆる人間と面会することすらできない。痴漢などの軽い罪であれば、容疑を認めればすぐにでも釈放されるが、認めなければ1カ月以上の拘束が続く。そんな状況で、容疑者の頭は混乱してゆく。「もしかしたら記憶がないだけで、自分がやったのかもしれない」「認めたほうが楽になる」……。こうして「私がやりました」と、容疑者はあっけなく“自白”をする。  これは、特殊な人の話でも、精神的に弱い人の話でもない。ある元刑事はジャーナリストに対して「3日あったら、お前に、殺人を自白させてやるよ。3日目の夜、お前は、やってもいない殺人を、泣きながらオレに自白するよ。右のとおり相違ありません、といって指印を押すよ」と語る。熟練の刑事にかかれば、誰でも例外なく「自白」をしてしまうのだ。  これを防ぐために取り調べ過程を録音・録画し、可視化する方向で議論が進められているものの、なかなか導入が進まないのが現状だ。  さらに、警察・検察側の手練手管は、とどまるところを知らない。  目撃者に対する事情聴取や、写真面割りと呼ばれる方法でも巧妙な誘導が行われ、警察の思い描いたように犯人は仕立て上げられる。警察・検察が独占する物的証拠では、すり替えや隠蔽が行われることも多い。前述の足利事件では、ずさんなDNA鑑定結果が判決の決定的な証拠として採用されたことから、冤罪が生まれてしまった。また、冤罪の可能性から再鑑定をしようにも、証拠品をDNA鑑定で全て使い切ってしまった、処分してしまったとして再鑑定ができないというお粗末な事態も多いという。  また、今村は司法制度改革として注目される裁判員制度にも疑問を投げかける。「裁判員の負担を減らす」という名目で、検証される証拠は絞りこまれ、審理がスムーズに進むように分刻みのスケジュールが計画される。その結果、事件に対する十分な検証がなされず、冤罪の可能性が疑われることもなく判決が下る。冤罪の可能性がある複雑な裁判は、裁判員にとっても負担が大きい。裁判員の負担を減らすために冤罪が生まれるのであれば、本末転倒と言わざるをえないだろう。  本書の帯に書かれているように、日本の裁判における有罪率は99.9%。警察に逮捕され、「容疑者」という言葉が付けられたが最後、ほとんどの人間は「犯人」とされることを免れられない。いま、裁判所は真実を明らかにする場ではなく、有罪を認める場に成り下がっている。真の司法改革を実現するために求められるのは、民間人が参加する裁判員ではなく、警察の取り調べや捜査手法を改善し、裁判における構造的な問題を問い直すことなのではないだろうか。  「それでも僕はやってない」と意思を強く示せるのは、本当に一握りの人間に過ぎず、多くは冤罪を進んで引き受けてしまう。次に無実の罪によって刑務所に送り込まれるのは自分かもしれない……。そう考えながら本書を読むと、背筋に寒気を覚えてくる。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●いまむら・かく 1962年生まれ。東京大学法学部卒業、92年弁護士登録(第二東京弁護士会所属)。冤罪事件、労働事件のほか、群馬司法書士会事件、保土ヶ谷放置死事件などを担当。現在、自由法曹団司法問題委員会委員長。

「3日あったら、殺人を自白させてやる……」冤罪が生まれる裏側に迫る『冤罪と裁判』

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『冤罪と裁判』(講談社現代新書)
 6月7日、ネパール人男性ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏が横浜刑務所から釈放された。1997年に起こった東電OL殺人事件の犯人として無期懲役の判決を受けていたゴビンダ氏。事件発生から15年の月日が経ち、ゴビンダ氏の再審請求審を認定。刑の執行が停止されたため、今回の釈放が決定された。この事件は、ゴビンダ氏が逮捕された当初から冤罪事件ではないかとささやかれていた。  2010年に再審無罪が確定し大きなニュースとなった「足利事件」や、大阪地検特捜部による証拠改ざんが行われた厚労省局長による「障害者郵便制度悪用事件」など、冤罪が判明した事件は数多い。『冤罪と裁判』(講談社現代新書)は、20年にわたる弁護士活動の中で数多くの冤罪事件を扱ってきた今村核氏が、冤罪が引き起こされる構造的な問題を分析した一冊だ。  例えば、自白という問題。  普通、容疑者が自白を行ったといえば、世間的には完全に「クロ」と目される。まさか、やってもいない罪を好んで被る人間などいるわけがないだろう。しかし、現実は違う。一日10時間以上にわたって、刑事が恫喝するように声を荒らげる取り調べの現場。接見禁止となれば、弁護士以外のあらゆる人間と面会することすらできない。痴漢などの軽い罪であれば、容疑を認めればすぐにでも釈放されるが、認めなければ1カ月以上の拘束が続く。そんな状況で、容疑者の頭は混乱してゆく。「もしかしたら記憶がないだけで、自分がやったのかもしれない」「認めたほうが楽になる」……。こうして「私がやりました」と、容疑者はあっけなく“自白”をする。  これは、特殊な人の話でも、精神的に弱い人の話でもない。ある元刑事はジャーナリストに対して「3日あったら、お前に、殺人を自白させてやるよ。3日目の夜、お前は、やってもいない殺人を、泣きながらオレに自白するよ。右のとおり相違ありません、といって指印を押すよ」と語る。熟練の刑事にかかれば、誰でも例外なく「自白」をしてしまうのだ。  これを防ぐために取り調べ過程を録音・録画し、可視化する方向で議論が進められているものの、なかなか導入が進まないのが現状だ。  さらに、警察・検察側の手練手管は、とどまるところを知らない。  目撃者に対する事情聴取や、写真面割りと呼ばれる方法でも巧妙な誘導が行われ、警察の思い描いたように犯人は仕立て上げられる。警察・検察が独占する物的証拠では、すり替えや隠蔽が行われることも多い。前述の足利事件では、ずさんなDNA鑑定結果が判決の決定的な証拠として採用されたことから、冤罪が生まれてしまった。また、冤罪の可能性から再鑑定をしようにも、証拠品をDNA鑑定で全て使い切ってしまった、処分してしまったとして再鑑定ができないというお粗末な事態も多いという。  また、今村は司法制度改革として注目される裁判員制度にも疑問を投げかける。「裁判員の負担を減らす」という名目で、検証される証拠は絞りこまれ、審理がスムーズに進むように分刻みのスケジュールが計画される。その結果、事件に対する十分な検証がなされず、冤罪の可能性が疑われることもなく判決が下る。冤罪の可能性がある複雑な裁判は、裁判員にとっても負担が大きい。裁判員の負担を減らすために冤罪が生まれるのであれば、本末転倒と言わざるをえないだろう。  本書の帯に書かれているように、日本の裁判における有罪率は99.9%。警察に逮捕され、「容疑者」という言葉が付けられたが最後、ほとんどの人間は「犯人」とされることを免れられない。いま、裁判所は真実を明らかにする場ではなく、有罪を認める場に成り下がっている。真の司法改革を実現するために求められるのは、民間人が参加する裁判員ではなく、警察の取り調べや捜査手法を改善し、裁判における構造的な問題を問い直すことなのではないだろうか。  「それでも僕はやってない」と意思を強く示せるのは、本当に一握りの人間に過ぎず、多くは冤罪を進んで引き受けてしまう。次に無実の罪によって刑務所に送り込まれるのは自分かもしれない……。そう考えながら本書を読むと、背筋に寒気を覚えてくる。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●いまむら・かく 1962年生まれ。東京大学法学部卒業、92年弁護士登録(第二東京弁護士会所属)。冤罪事件、労働事件のほか、群馬司法書士会事件、保土ヶ谷放置死事件などを担当。現在、自由法曹団司法問題委員会委員長。

無人駅に200名以上が集結!? 『究極超人あ~る』聖地の盛り上がりが、どうにもとまらない

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筆者の自転車もアップを始めました。
 各地で盛んに行われている、アニメ・マンガの舞台になった場所を訪れる<聖地巡礼>。先日、当サイトではその元祖である『究極超人あ~る』の聖地で行われる「伊那市駅開業100周年記念イベント 田切駅→伊那市駅・1Hour Bicycle Tour “轟天号を追いかけて”」を紹介したが(記事参照)、無事に参加者募集を終えて空前の盛り上がりを見せている。  7月28日(土)に行われるこのイベントは、伊那市駅開業100周年をお祝いするために、『究極超人あ~る』OVA版のクライマックスであるJR飯田線の田切駅から伊那市駅までを自転車で一時間かけて走り抜けるというもの。当初、募集は50名限定を予定していたが、総応募数は63人となった。そのため、イベントを主催するCycle 倶楽部R(伊那市役所自転車部)では、「13人の皆さんだけお断りすることは、あまりにも忍びない」「落選者を決めることが、あまりにも心苦しい」として、全員当選を決定。当選通知では<これもまた、あ~るファンの皆様ならば「良い加減=いいかげん」の精神を語らずもご理解いただけるものと信じての措置でございます>と綴っている。  さらに、応募枠とは別に、Cycle 倶楽部Rからも多数のメンバーが参加するため、自転車でやってくるメンバーだけでも80名あまり(一般参加者のほかに、伊那市役所自転車部13名、友好関係にある自治体自転車部から4名が参加予定)。さらに、田切駅で参加者を見送った後に電車などで伊那市駅に先回りして待ち構える予定の人々も多数いるという。  無人駅である田切駅は、普段は電車の時間に併せてちらほらと乗客がやってくる長閑な場所。失礼ながら、伊那市駅も普段はあまり人の姿はない(いつの間にか立ち食い蕎麦屋もなくなったし、今年、筆者が駅でコインロッカーの場所を聞いたら「数年前にキヨスクと一緒になくなっちゃったんだよね……」といった場所である)。そんな場所に、予想されるだけでも100人……いや、200人あまりが集結するわけだから、はからずもオタクと伊那市と飯田線を愛する人やらなにやらで、とにもかくにも祭典が催されることになる。  このイベント、なによりも主催者のノリが本気だ。Cycle 倶楽部Rの一員である伊那市創造館の捧剛太館長は、自身のTwitterで、『究極超人あ~る』の主人公であるR・田中一郎の正装たる学生服と下駄を準備。加えて、彼の愛車「轟天号」そのままの、ブリヂストンサイクルの名車・ロードマン(1980年代くらいまで、漫画雑誌によく広告が掲載されていたドロップハンドルの自転車で、多様なカスタムができることで知られた自転車である)も準備していることを告知している。しかも、伊那市駅前では、コスプレでゴールインを待ち構える予定の人もたくさんいるらしい(コスプレでの見送りは『究極超人あ~る』の原作でも登場したネタでもあり、期待が持てる)。
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当日は、この田切駅が200人あまりの
人で大混雑する(予定)。
 加えて、当日には1993年3月の結成以来、聖地である田切駅の清掃活動など20年にわたって<聖地巡礼>を続けて来た飯田線を愛する不思議な団体「田切ネットワーク」が、創立20周年を記念し13時より田切駅前「元・下村酒店」(田切駅の駅スタンプを保管してくれている)にて展覧会「夏への扉~20年目の同窓会」を開催する予定だ。この展覧会では、20年間の活動を記録した写真や資料が公開される。近年、<聖地巡礼>が盛り上がる中で学術的な研究も行われているが、過去どのような形で<聖地巡礼>が行われてきたのか、あるいは今盛り上がっている地域の未来はどうなるのかは、あまり語られることがない。この展覧会が、そうしたアプローチのきっかけになることを願って止まない。いや、意義とか語らなくても、まず20年続けて来たことがスゴい!  なお、イベント翌日の29日には、田切駅の清掃活動も行われる予定だ。かつて『究極超人あ~る』がとくに盛り上がっていた時期には、田切駅で駅寝をする人もいたようなので、我こそはという人は、まず駅寝して合流をしてほしいモノだ(なお、田切駅のホームはものすごく狭い! 落ちたら怪我ですまないかも知れないので自分の身は自分で)。  イベントも近づき、伊那市だけでなく田切駅の地元自治体である飯島町も協力を表明し、祭りに向けた準備は盛り上がり、着々と進んでいる。『究極超人あ~る』の正規ルートだと、東京発→石廊崎→下田→三島→豊橋→田切とものすごく遠いが、バスなら伊那市駅まで3時間半で到着できる。また、幸運にも青春18きっぷの期間なので片道1800円で中央線経由で7時間程度で田切駅までやってくることもできる。  出たトコ勝負で、前夜祭や打ち上げも開催される様相の一大イベント。自転車に乗らなくてもいいいから、駆けつけるしかない!  それにしても、こんなに作品が愛され続けるなんて、原作者のゆうきまさみ先生は、なんて幸せなんだろうか。 (文=昼間たかし) <自転車に乗らない人向け参加案内> ・「夏への扉~20年目の同窓会」 日時:7月28日(土)13:00頃~17:00頃 場所:田切駅前「元・下村酒店」 ※田切駅の階段降りて右へ ・自転車参加者見送り 日時:7月28日(土)17:00頃 田切駅前あたり ・ゴールイン出迎え 日時:7月28日(土)18:00頃 伊那市駅前 (田切駅発17:12で悠々到着できます) のち「伊那市駅100周年ばんざーい!」をして解散 伊那市駅開業100周年記念イベント <http://inashi-kankoukyoukai.jp/cms2/archives/16906> 田切ネットワーク <http://tagiri.net/>

無人駅に200名以上が集結!? 『究極超人あ~る』聖地の盛り上がりが、どうにもとまらない

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筆者の自転車もアップを始めました。
 各地で盛んに行われている、アニメ・マンガの舞台になった場所を訪れる<聖地巡礼>。先日、当サイトではその元祖である『究極超人あ~る』の聖地で行われる「伊那市駅開業100周年記念イベント 田切駅→伊那市駅・1Hour Bicycle Tour “轟天号を追いかけて”」を紹介したが(記事参照)、無事に参加者募集を終えて空前の盛り上がりを見せている。  7月28日(土)に行われるこのイベントは、伊那市駅開業100周年をお祝いするために、『究極超人あ~る』OVA版のクライマックスであるJR飯田線の田切駅から伊那市駅までを自転車で一時間かけて走り抜けるというもの。当初、募集は50名限定を予定していたが、総応募数は63人となった。そのため、イベントを主催するCycle 倶楽部R(伊那市役所自転車部)では、「13人の皆さんだけお断りすることは、あまりにも忍びない」「落選者を決めることが、あまりにも心苦しい」として、全員当選を決定。当選通知では<これもまた、あ~るファンの皆様ならば「良い加減=いいかげん」の精神を語らずもご理解いただけるものと信じての措置でございます>と綴っている。  さらに、応募枠とは別に、Cycle 倶楽部Rからも多数のメンバーが参加するため、自転車でやってくるメンバーだけでも80名あまり(一般参加者のほかに、伊那市役所自転車部13名、友好関係にある自治体自転車部から4名が参加予定)。さらに、田切駅で参加者を見送った後に電車などで伊那市駅に先回りして待ち構える予定の人々も多数いるという。  無人駅である田切駅は、普段は電車の時間に併せてちらほらと乗客がやってくる長閑な場所。失礼ながら、伊那市駅も普段はあまり人の姿はない(いつの間にか立ち食い蕎麦屋もなくなったし、今年、筆者が駅でコインロッカーの場所を聞いたら「数年前にキヨスクと一緒になくなっちゃったんだよね……」といった場所である)。そんな場所に、予想されるだけでも100人……いや、200人あまりが集結するわけだから、はからずもオタクと伊那市と飯田線を愛する人やらなにやらで、とにもかくにも祭典が催されることになる。  このイベント、なによりも主催者のノリが本気だ。Cycle 倶楽部Rの一員である伊那市創造館の捧剛太館長は、自身のTwitterで、『究極超人あ~る』の主人公であるR・田中一郎の正装たる学生服と下駄を準備。加えて、彼の愛車「轟天号」そのままの、ブリヂストンサイクルの名車・ロードマン(1980年代くらいまで、漫画雑誌によく広告が掲載されていたドロップハンドルの自転車で、多様なカスタムができることで知られた自転車である)も準備していることを告知している。しかも、伊那市駅前では、コスプレでゴールインを待ち構える予定の人もたくさんいるらしい(コスプレでの見送りは『究極超人あ~る』の原作でも登場したネタでもあり、期待が持てる)。
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当日は、この田切駅が200人あまりの
人で大混雑する(予定)。
 加えて、当日には1993年3月の結成以来、聖地である田切駅の清掃活動など20年にわたって<聖地巡礼>を続けて来た飯田線を愛する不思議な団体「田切ネットワーク」が、創立20周年を記念し13時より田切駅前「元・下村酒店」(田切駅の駅スタンプを保管してくれている)にて展覧会「夏への扉~20年目の同窓会」を開催する予定だ。この展覧会では、20年間の活動を記録した写真や資料が公開される。近年、<聖地巡礼>が盛り上がる中で学術的な研究も行われているが、過去どのような形で<聖地巡礼>が行われてきたのか、あるいは今盛り上がっている地域の未来はどうなるのかは、あまり語られることがない。この展覧会が、そうしたアプローチのきっかけになることを願って止まない。いや、意義とか語らなくても、まず20年続けて来たことがスゴい!  なお、イベント翌日の29日には、田切駅の清掃活動も行われる予定だ。かつて『究極超人あ~る』がとくに盛り上がっていた時期には、田切駅で駅寝をする人もいたようなので、我こそはという人は、まず駅寝して合流をしてほしいモノだ(なお、田切駅のホームはものすごく狭い! 落ちたら怪我ですまないかも知れないので自分の身は自分で)。  イベントも近づき、伊那市だけでなく田切駅の地元自治体である飯島町も協力を表明し、祭りに向けた準備は盛り上がり、着々と進んでいる。『究極超人あ~る』の正規ルートだと、東京発→石廊崎→下田→三島→豊橋→田切とものすごく遠いが、バスなら伊那市駅まで3時間半で到着できる。また、幸運にも青春18きっぷの期間なので片道1800円で中央線経由で7時間程度で田切駅までやってくることもできる。  出たトコ勝負で、前夜祭や打ち上げも開催される様相の一大イベント。自転車に乗らなくてもいいいから、駆けつけるしかない!  それにしても、こんなに作品が愛され続けるなんて、原作者のゆうきまさみ先生は、なんて幸せなんだろうか。 (文=昼間たかし) <自転車に乗らない人向け参加案内> ・「夏への扉~20年目の同窓会」 日時:7月28日(土)13:00頃~17:00頃 場所:田切駅前「元・下村酒店」 ※田切駅の階段降りて右へ ・自転車参加者見送り 日時:7月28日(土)17:00頃 田切駅前あたり ・ゴールイン出迎え 日時:7月28日(土)18:00頃 伊那市駅前 (田切駅発17:12で悠々到着できます) のち「伊那市駅100周年ばんざーい!」をして解散 伊那市駅開業100周年記念イベント <http://inashi-kankoukyoukai.jp/cms2/archives/16906> 田切ネットワーク <http://tagiri.net/>

まるで沢尻の半生? 話題の『ヘルタースケルター』がいよいよ公開! 

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(c)2012映画『ヘルタースケルター』製作委員会
 今週取り上げる新作映画は、お騒がせ女優・沢尻エリカの約5年ぶりのスクリーン復帰作として話題の『ヘルタースケルター』(R15+指定)。トップモデルの心の闇を、強烈な映像で提示してみせる問題作だ(7月14日公開)。  原作は、第8回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した岡崎京子の同名コミック。美しい顔立ちと完璧なスタイルで若い女性らの羨望を一身に集め、芸能界の頂点に上り詰めたトップモデル・りりこ。彼女が抱える大きな秘密は、その美貌を全身整形で手に入れたこと。欲望渦巻く芸能界で“女”を武器に、周囲を巻き込みながら突っ走るりりこだったが、整形手術の副作用が肌に現れ始めた頃、徐々に精神のバランスを崩していく……。  ファッションに敏感な若い女性から絶大な支持を集める写真家・蜷川実花が『さくらん』(07)に続く監督第2作として実写映画化。岡崎作品の大ファンだという蜷川監督は、かねてより本作を「絶対に映画化したい」と公言しており、約7年の歳月をかけ実現させた。また、企画段階であった3年ほど前から、沢尻に主演の打診をしていたという力の入れようだ。  『クローズド・ノート』(07)以来の銀幕復帰を果たした沢尻は、フルヌードでの濡れ場や錯乱状態などの場面をはじめ、全編で渾身の演技を披露。後半のりりこの転落ぶりに、人気絶頂から一転「不機嫌発言」でマスコミからバッシングを受け、結婚・離婚騒動でスキャンダルを振りまいてきた沢尻本人の人生を重ねてしまう観客も多いだろう。  極彩色のファッションや美術をスタイリッシュに見せる手腕はさすが女流写真家といったところだが、男性目線にも刺激的なエロス描写という点では前作から大幅に向上。桃井かおり、寺島しのぶ、大森南朋、水原希子といった豪華共演陣の好演も見どころだ。 (文=映画.com編集部) 『ヘルタースケルター』作品情報 <http://eiga.com/movie/57707/>

夏アニメの穴馬!? “いわく付き”SNSゲームアニメ『探検ドリランド』に熱視線

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『探検ドリランド』公式サイトより
 話題作、問題作、期待作が百花繚乱の夏アニメが次々とスタートする中、「ド、ド、ドリランド♪」のフレーズもいまや懐かしさを禁じ得ないGREEのソーシャルゲーム『探検ドリランド』(テレビ東京系)のテレビアニメ放送がスタートした。  TOKIOが全員で出演し、「TOKIO、ドハマリ中。ド、ド、ドリランド♪」と歌うCMが全国のお茶の間に流れ、デカデカと街中に広告が張り出されていたことを覚えている読者も少なくないだろうが、今年2月に発覚したレアカードの不正増殖に端を発するリアルマネートレード行為問題やコンプガチャ(特定のアイテムを揃えると、レアなアイテムが手に入るシステム。課金によりガチャの回数や確率が上昇する)問題など、『探検ドリランド』に関するさまざまな問題が取り沙汰されるようになった。  さらに5月には、消費者庁がコンプリートガチャが景品表示法違反であるとして、ゲーム会社に注意を喚起。それを受けてソーシャルゲーム関連会社の株価が軒並み下がるというコンプガチャショックが発生した。  結果、ダーティなイメージを拭えなくなったソーシャルゲームは、一時期に比べてメディアへの露出を極端に減らすこととなってしまった。  そんなバッドなタイミングでスタートしたアニメ版『探検ドリランド』だが、どう考えてもいまさら感を覚えずにはいられない。例えるならば「面白うて やがて悲しき ドリランド」である。何事もブームがピークを迎えて、収束に向かうさまを見るのは切ない限りだが、今回の場合はゲームが悪い意味で世間の注目を浴び、結果、法の下に管理されるようになってしまった後という、なんとも気まずいタイミングでのアニメ化ということで、なおさら切なさが炸裂している。アニメが企画された時点では、ドリランド熱……いやソーシャルゲーム熱がまだまだ盛り上がっており、その中で鳴り物入りで『探検ドリランド』のアニメ放送スタート……と想定していたのだろうが、まさかソーシャルゲーム自体にアヤがついてしまうとは、誰も予想はしていなかったことだろう。  だからといって、『探検ドリランド』がダメアニメなのかというと、それが意外と面白いのだから困りものである。王道の子ども向けアニメのノリ全開の主題歌が流れる中、子ども受けしそうなディフォルメされたキャラクターが大立ち回りを演じるOP映像は、大人はもちろん、子どもが見てもワクワクすることだろう。外の世界への大冒険を夢見る主人公・ミコト姫が、世話係の美形男子・ウォーレンスの忠告を無視して洞窟を探検。モンスターに襲われ大ピンチのところを、実は優秀な剣士だったウォーレンスに助けられる……という、ベタながら魅力的なキャラクターのアクションや掛け合いには、目新しさはないものの普遍的な「テレビまんが」的な娯楽性に満ちている。一方、世界に忍び寄る怪しげな存在、それに気づいたのは歴戦のハンター・ポニーのみ……。この第1話ラストの引きも、いかにも少年漫画らしくて次回への期待感を煽る。  といったように、今も昔も子どもたちに人気のアニメを多数生み出している「東映アニメーション」の制作だけあって、非常に安定した仕上がりの作品となっているのだ。言うなれば、日曜朝9時枠で放送されていてもおかしくない内容なのだが、なぜか放送される時間は23時30分~。よい子はみんな夢の中の時間帯である。ソーシャルゲーム『探検ドリランド』に課金しまくっている「いい大人」をターゲットとして作ったのだろうか。それとも、まだソーシャルゲームに触れていない子どもに向けて作ったのだろうか。そんな「一体誰に見せたいのだろうか?」というチグハグ感でいっぱいな仕上がりとなっているのがアニメ版『探検ドリランド』なのだ。深夜に放送される子ども向けアニメという大いなる矛盾をはらんだ本作を、ビール片手にニヤニヤしながら眺めるのもまた味わい深し、といったところか。  百聞は一見に如かず。あらゆるアニメを楽しみ尽くしたエリートアニメファンの諸兄は、ぜひとも『探検ドリランド』を見て、ほかのアニメファンに差をつけよう! (文=龍崎珠樹) ■バックナンバー 【第15回】 キーワードはホモソーシャルな描写!? 今夏は「乙女ゲーム原作アニメ」が熱い! 【第14回】「まるで90年代の夕方6時枠アニメ!?」『モーレツ宇宙海賊』の大器晩成ぶり 【第13回】もはや“声優アイドルフェス”!? アニソン重鎮不在の「アニサマ2012」に不安の声 【第12回】「期待外れ?」「これぞ京アニ?」 賛否両論『氷菓』の本当の見どころ 【第11回】「燃え上がれ、俺の小宇宙よ!」前作ファンもニヤリ『聖闘士星矢Ω』 【第10回】「見たかったのはコレジャナイ!?」声優アイドルアニメ『夏色キセキ』に早くも黄色信号 【第9回】大コケの『機動戦士ガンダムAGE』を徹底検証! 求められる新たな「ガンダム像」とは? 【第8回】アニメ業界の新トレンド!? “分割2クール作品”急増の裏事情 【第7回】ついに世代交代!? 若手アイドル声優が続々歌手デビュー 【第6回】AKB48 vs 声優アイドルユニット アニメ界もついにアイドル戦国時代突入か!? 【第5回】一流アニメファンなら女児向け作品もチェックせよ!? 『スマイルプリキュア!』 【第4回】過激なピンク描写が男子の下半身を直撃!『アマガミSS+ plus』 【第3回】今クール話題の学園モノを徹底分析!『男子高校生の日常』『Another』 【第2回】ロボット好き必見! 洗練されたメカたちが大活躍『輪廻のラグランジェ』 【第1回】水樹奈々が歌いながらバトル!? 「戦うヒロイン」アニメに大注目!