酒井法子、上場企業役員との交際報道否定も新事実発覚で、ファン離れが一気に加速

 歌手で女優の酒井法子が、49歳の東証一部上場企業の専務取締役を務める男性と交際していることが、今月5日発売の「週刊文春」(文藝春秋/12月12日号)で報じられた。

 同誌は、2人が11月末に都内のステーキ店で食事を楽しむ姿や、タクシー車内での親密な様子の2ショットを掲載している。

 酒井はたびたび大槻氏の自宅に出向き、週の半分ほどを過ごし、さらに、2人で酒井の故郷である福岡を訪れたこともあったというのだ。

 酒井の所属事務所は、「本人からは『友人に紹介されて食事しただけで、交際の事実は一切ありません』と報告を受けています」と完全否定。さらに、事務所の公式サイトでも交際の事実を否定した。

「どう見ても交際しているようにしか見えないのに、事務所はかたくなに否定。何か、よほど交際を認めることができない事情があるのかと思われたが、後日、その事情が他媒体で明らかになりました」(芸能記者)

 日刊ゲンダイが報じたところによると、お相手の男性には、つい最近まで内縁関係の女性がいたのだとか。ところが、その女性が10月、SNSで、海外で新生活をスタートさせたことを報告したというのだ。

「酒井がこの時期に交際を認めてしまうと、“略奪愛”になってしまう。それは絶対に避けたかったはず。薬物で逮捕されてから10年、罪を償って芸能活動に復帰したものの、これでは昔から支えているファンがどんどん離れて行きそうです」(同)

 事務所のサイトによると、酒井は16日に大阪、18日に東京、20日に石川でクリスマスディナーショーを開催するが、開催直前にもかかわらず、「完売いたしました」と書かれているのは1会場の1席種のみ。熱愛報道はチケットの売れ行きに少なからず影響を与えたようだ。

のりピーとは事情が違う!? 沢尻エリカの「中国での復帰説」が実現しない理由とは

 合成麻薬MDMAを所持していたとして麻薬取締法違反の疑いで逮捕された女優・沢尻エリカ。来年放送予定だったNHK大河ドラマ『麒麟がくる』は再撮のため初回放送日を延期するなど、多方面に影響が出ているが、その一方で早くも復帰を待ちわびる声が上がるなど、世間との温度差も際立っている。

 夕刊フジ(11月27日付)では、芸能文化評論家の肥留間正明氏による「沢尻は、酒井法子と同じように、アジア諸国で人気が高いのです。日本での需要がなくても、アジア諸国を回れば、まだまだ引く手あまたになることは間違いない」とのコメントが掲載されている。

 肥留間氏がいう「アジア諸国」の中で筆頭に挙げられるのは、沢尻・酒井の人気度、芸能市場の大きさからしても中国だろう。しかし、現実はそう甘い話ではなさそうだ。

 2009年に覚せい剤の所持・使用で逮捕された酒井は、日本の芸能界では活動休止に追い込まれた。ところが、3年の執行猶予期間も明けぬ11年、のりピーファンも多い中国で政府主催の違法薬物防止キャンペーンで禁毒大使に任命されるとメディアへの出演を活発化させ、ここ数年も中国・台湾・香港など中華圏を中心にコンサートやディナーショーを行った。

 中国での人気ぶりでは、沢尻も負けてはいない。05年に出演したドラマ『1リットルの涙』(フジテレビ系)が中国でも放送されたことをきっかけに中華圏で沢尻ブームが起こり、非公式ファンクラブ「沢尻会」の会員は1万人を超えている。

 しかし「酒井のように沢尻が中国進出できるかといえば、そうはいかないでしょう」と指摘するのは、中国の芸能プロモーターZ氏だ。 

「中国が酒井を受け入れた時とは時代が違います。18年、習近平政権は国内に蔓延する違法薬物の一掃を掲げ、目下、麻薬取り締まりを強化しているところ。それに、習政権には繰り返したくない過ちもある。14年に大麻使用の容疑でジャッキー・チェンの息子、ジェイシー・チャンが中国当局に逮捕された。ジェイシーは北京市内のマンションで大麻100グラムを所持しており、自身での使用のほかに売人疑惑も持ち上がっていて、死刑の可能性を指摘するメディアもあったほど。しかし、下されたのはわずか6カ月の実刑判決。これには『親がスターだと違法薬物をやっても刑罰が軽くなるのか』との不満の声が上がり、中国人民は司法不信を一層深めることとなったんです。

 特に今は、香港問題や米中貿易摩擦など、対処しなければならない課題が山積み。習政権にとって、芸能人の違法薬物事件に甘い態度を見せれば、国内の不満が一気に政府に向けられる可能性もある」

 さらに、薬物乱用に対する中国の世論も、以前より厳しくなってきているという。

「最近では、酒井の中国での活動に関しても『中国を違法薬物中毒者の復帰の場に利用するな』『中国では違法薬物に関われば死刑になることもあるのに、そうした人間が芸能活動するのには納得がいかない』『日本で仕事がなくなったから、中国で出稼ぎしてるようにしか見えない』などといった批判がSNSなどで湧き起こっています。そんななか、沢尻に対しても寛容な態度ではいられないでしょう」(同)

 中国は、もはや前科者芸能人の再生の場所ではないようだ。

(文=廣瀬大介)

ハロプロや48グループだけじゃない! 極私的平成アイドル史【ライブアイドル編】

 昭和が平成に変わった時、私はもうヲタクだった。ネットの環境こそなかったものの、アイドルやサブカルについての雑誌は数多く出版され、そこで得た情報を元にアイドルの現場に向かっていたものだ。

 平成も間もなく幕を閉じる。それに合わせ、さまざまな観点で、この時代を総括したり、振り返ったりという記事が公開されている。アイドルの分野についてもしかりだ。

 ただし、ただ“平成に流行ったアイドル”を列挙しても、それは多くの人が承知していることであり、単に記憶をなぞる程度にとどまってしまう。そこで今回は、平成のアイドル史をたどるとともに、私が個人的に経験したアイドル状況を紹介し、流行したアイドルとはどのような関係性が生まれたのかをまとめてみたい。

 まず、今回は「ライブアイドル編」である。

 

“アイドル冬の時代”を越えて

 最初に、平成初期のアイドル界が、どのような状況だったかを確認しておこう。

 多くの人が語っているように、その頃は「アイドル冬の時代」だった。誰もが名前を知るようなアイドルはほとんどおらず、皆「アイドルファンだけが知っている」という程度の存在だった。

 そんな中、私が夢中になっていたのは、酒井法子だった。ヒット曲こそ飛ばしていないものの、テレビの歌番組には頻繁に出演し、地方に住んでいた私なども、十分に“ファン”としての楽しみを享受できたのだ。

 その頃、アイドルライブの定番の場所が「デパートの屋上」であった。多くのデパートの屋上にイベント用のステージがあり、そこで歌を歌い、握手会をしていた。私が酒井法子を初めて生で見て、握手をしたのも、ショッピングセンターの屋上だった。

 そして、平成2年、後のライブアイドル文化に大きな影響を与える2組がデビューする。「東京パフォーマンスドール」(初代・以下、TPD)と「宍戸留美」である。

 TPDは、それまでニューミュージックやロック系のアーティストが出演していたライブハウス、「原宿RUIDO」を拠点に、ライブを見せることをメインとした活動を開始。3年後には、武道館2Days公演を成功させるまでになった。後に、モーニング娘。のプロデュースで大ブレイクするつんく♂も、TPDのファンであったことを公言しているし、ハロー!プロジェクトのステージを見ても、TPDの影響は随所に感じられる。

 一方の宍戸留美は、ソニーレコードからメジャーデビューするも、2年後に事務所との契約を解消。フリーで活動する道を選ぶ。まだ個人で発信することが難しい時代、わずか18歳の少女が始めた活動が、後のフリーで活動する地下アイドルの礎となっていくのである。

 それと同じ頃、テレビなどの活動の場が減っていったアイドルに、歌う場を提供しようという試みが始まる。『歌姫伝説』と名付けられたこのイベントは、原宿RUIDOや川崎クラブチッタなどで、コアなアイドルファンを集めて、人気を集めていった。

 実は、これらのアイドルライブが広まっていった背景には、ライブハウス側の事情もあった。平成が始まった頃に起こっていた「バンドブーム」が一段落し、多くの会場で出演者が減ってきたのである。そこに、ある程度客の呼べるアイドルの公演を入れることによって、空いている時間をなくすという方針をとったのだ。つまり、ライブアイドルが始まった背景には、出演者と会場の利害が一致したという理由があるのである。

 諸説あるが、いわゆるアイドル冬の時代が終わるのは、平成5年頃だ。きっかけは安室奈美恵のブレイクである。彼女をアイドルと見ることに違和感を覚える人もいるかもしれないが、男女ともに彼女に憧れを持ち、その歌に酔いしれていたことを考えれば、まさに平成を代表するアイドルの一人といっていいだろう。

 彼女に続いて人気を博したのが、同じ沖縄アクターズスクール出身の「SPEED」である。平成8年のデビュー時、最年少の島袋寛子はまだ小学生ということで、その後のアイドルの低年齢化にも影響を与えた。

 もう一つ、その頃からアイドルの楽しみ方に変化を与えたものがある。「パソコン通信」の登場だ。現在のように画像や動画が扱えるものではなく、文字だけのやり取りであったが、テレビやライブの感想をリアルタイムで書き込める手段として、アイドルファンの間では大いに活用された。私も、当時のニフティサーブにあった「SPEED会議室」で、彼女たちへの思いをたくさん書き込んでいた記憶がある。

 もちろん、その後普及するインターネットも含め、アイドルたちは、その活動を告知する手段として大いに利用した。先に挙げた宍戸留美なども、いち早くネットに取り組んだ一人といっていいだろう。

 このようにして、地上と地下、両方で育まれていった平成のアイドル文化だが、そのどちらにも大きな影響を及ぼす存在が誕生する。それが平成10年の「モーニング娘。」である。

 彼女たちは、テレビ番組『ASAYAN』(テレビ東京系)から誕生し、人気となっていった。もちろんメジャーなアイドルである。ここで注目すべきは、『ASAYAN』という番組が、メンバーが決まっていく過程をつぶさに放送していたということだ。

 これまでの“生まれたときから運命づけられていたような特別な存在”から、“自分の今いるところからの延長線上”にあることを認識させた。つまり、「アイドルになるための方法」を、全国の女性たちに知らしめたのだ。後の、地上・地下にかかわらず、モーニング娘。に憧れてアイドルになる人が増えたのは、そのような理由もあったからだろう。

 そして、今でも地下アイドルの現場では、モーニング娘。をはじめとした、ハロプロの楽曲がよく歌われる。それは、このような経緯を考えれば、ごく自然な流れなのである。

 その頃、私は何をしていたかというと、メジャーなアイドルが出てきたことを横目で見つつ、ライブハウスなどでのアイドルライブに通っていた。まだ今のようなフォーマット(地下アイドルが複数出演→物販→特典会)ができておらず、その内容はさまざまであったが、新しい文化が生まれてくる胎動のようなものを感じていたものだった。

 モーニング娘。、そしてハロプロが破竹の勢いで人気を博し、アイドル界が盛り上がっていた平成17年、AKB48グループが劇場公演を開始する。48グループと、その後、ライバルグループとして結成された坂道シリーズの躍進については、改めて語るまでもないだろう。

 この時期のもう一つ大きな出来事として、「アイドリング!!!」の存在を挙げておきたい。平成18年にフジテレビのCSで番組がスタートして以来、9年間に渡りバラエティ豊かな放送を続けてきた。一方、音楽に関しても、クオリティの高い楽曲が多く、ライブなども積極的に行っていた。彼女たち、そしてスタッフの一番の功績は、平成22年から開催されている、日本最大級のアイドルフェス『TOKYO IDOL FESTIVAL』(TIF)の開催であろう。

 私も、第1回から参戦しているが、いわゆる“地下”を中心に活動しているグループや、ローカルアイドルなども出演しており、現在のアイドルブームを作り上げた立役者ともいえる。

 平成も後期に入ると、ライブアイドルはますます多様化をしていく。TIFに加え、『アイドル横丁夏まつり!!』『@JAM EXPO』といったフェスが開催され、アイドルが出演するライブ会場も増えていく。また、ネット環境の普及により、アイドルたちがSNSなどでファンと直接交流することもできるようになる。地方に住んでいても、情報を得て、アイドルの魅力を感じたりすることもしやすい時代になったのだ。

 ただ、その反動として、アイドルのグループのサイクル(結成から解散、メンバーチェンジまでの期間)が早くなっているようにも感じる。ファンが常に新しいものを求めるために、それに対応する基軸などを打ち出さなくてはいけなくなったのだ。これは、どこが悪いということではない。新しさを感じつつも、変わらない魅力を維持する、それは、時代が変わろうともアイドルが人気を保っていくための秘訣であるだろう。

 そして現在、ハロプロ、48グループ、坂道シリーズは引き続き人気を集め、地下のアイドル現場も健在だ。

 平成の30年間で、アイドルを取り巻く環境は、驚くほど変化した。つらい冬の時代を乗り越え、今のアイドル文化が花開いたことを思うと、いちアイドルヲタクとして、感慨深い思いだ。

 この10連休には、「平成最後の」「令和最初の」と銘打ったライブが数多く開催される。今のアイドル文化の礎となった、平成アイドルの足跡を感じながら、新しい時代を迎えてみてはいかがだろうか。

(文=プレヤード)

ハロプロや48グループだけじゃない! 極私的平成アイドル史【ライブアイドル編】

 昭和が平成に変わった時、私はもうヲタクだった。ネットの環境こそなかったものの、アイドルやサブカルについての雑誌は数多く出版され、そこで得た情報を元にアイドルの現場に向かっていたものだ。

 平成も間もなく幕を閉じる。それに合わせ、さまざまな観点で、この時代を総括したり、振り返ったりという記事が公開されている。アイドルの分野についてもしかりだ。

 ただし、ただ“平成に流行ったアイドル”を列挙しても、それは多くの人が承知していることであり、単に記憶をなぞる程度にとどまってしまう。そこで今回は、平成のアイドル史をたどるとともに、私が個人的に経験したアイドル状況を紹介し、流行したアイドルとはどのような関係性が生まれたのかをまとめてみたい。

 まず、今回は「ライブアイドル編」である。

 

“アイドル冬の時代”を越えて

 最初に、平成初期のアイドル界が、どのような状況だったかを確認しておこう。

 多くの人が語っているように、その頃は「アイドル冬の時代」だった。誰もが名前を知るようなアイドルはほとんどおらず、皆「アイドルファンだけが知っている」という程度の存在だった。

 そんな中、私が夢中になっていたのは、酒井法子だった。ヒット曲こそ飛ばしていないものの、テレビの歌番組には頻繁に出演し、地方に住んでいた私なども、十分に“ファン”としての楽しみを享受できたのだ。

 その頃、アイドルライブの定番の場所が「デパートの屋上」であった。多くのデパートの屋上にイベント用のステージがあり、そこで歌を歌い、握手会をしていた。私が酒井法子を初めて生で見て、握手をしたのも、ショッピングセンターの屋上だった。

 そして、平成2年、後のライブアイドル文化に大きな影響を与える2組がデビューする。「東京パフォーマンスドール」(初代・以下、TPD)と「宍戸留美」である。

 TPDは、それまでニューミュージックやロック系のアーティストが出演していたライブハウス、「原宿RUIDO」を拠点に、ライブを見せることをメインとした活動を開始。3年後には、武道館2Days公演を成功させるまでになった。後に、モーニング娘。のプロデュースで大ブレイクするつんく♂も、TPDのファンであったことを公言しているし、ハロー!プロジェクトのステージを見ても、TPDの影響は随所に感じられる。

 一方の宍戸留美は、ソニーレコードからメジャーデビューするも、2年後に事務所との契約を解消。フリーで活動する道を選ぶ。まだ個人で発信することが難しい時代、わずか18歳の少女が始めた活動が、後のフリーで活動する地下アイドルの礎となっていくのである。

 それと同じ頃、テレビなどの活動の場が減っていったアイドルに、歌う場を提供しようという試みが始まる。『歌姫伝説』と名付けられたこのイベントは、原宿RUIDOや川崎クラブチッタなどで、コアなアイドルファンを集めて、人気を集めていった。

 実は、これらのアイドルライブが広まっていった背景には、ライブハウス側の事情もあった。平成が始まった頃に起こっていた「バンドブーム」が一段落し、多くの会場で出演者が減ってきたのである。そこに、ある程度客の呼べるアイドルの公演を入れることによって、空いている時間をなくすという方針をとったのだ。つまり、ライブアイドルが始まった背景には、出演者と会場の利害が一致したという理由があるのである。

 諸説あるが、いわゆるアイドル冬の時代が終わるのは、平成5年頃だ。きっかけは安室奈美恵のブレイクである。彼女をアイドルと見ることに違和感を覚える人もいるかもしれないが、男女ともに彼女に憧れを持ち、その歌に酔いしれていたことを考えれば、まさに平成を代表するアイドルの一人といっていいだろう。

 彼女に続いて人気を博したのが、同じ沖縄アクターズスクール出身の「SPEED」である。平成8年のデビュー時、最年少の島袋寛子はまだ小学生ということで、その後のアイドルの低年齢化にも影響を与えた。

 もう一つ、その頃からアイドルの楽しみ方に変化を与えたものがある。「パソコン通信」の登場だ。現在のように画像や動画が扱えるものではなく、文字だけのやり取りであったが、テレビやライブの感想をリアルタイムで書き込める手段として、アイドルファンの間では大いに活用された。私も、当時のニフティサーブにあった「SPEED会議室」で、彼女たちへの思いをたくさん書き込んでいた記憶がある。

 もちろん、その後普及するインターネットも含め、アイドルたちは、その活動を告知する手段として大いに利用した。先に挙げた宍戸留美なども、いち早くネットに取り組んだ一人といっていいだろう。

 このようにして、地上と地下、両方で育まれていった平成のアイドル文化だが、そのどちらにも大きな影響を及ぼす存在が誕生する。それが平成10年の「モーニング娘。」である。

 彼女たちは、テレビ番組『ASAYAN』(テレビ東京系)から誕生し、人気となっていった。もちろんメジャーなアイドルである。ここで注目すべきは、『ASAYAN』という番組が、メンバーが決まっていく過程をつぶさに放送していたということだ。

 これまでの“生まれたときから運命づけられていたような特別な存在”から、“自分の今いるところからの延長線上”にあることを認識させた。つまり、「アイドルになるための方法」を、全国の女性たちに知らしめたのだ。後の、地上・地下にかかわらず、モーニング娘。に憧れてアイドルになる人が増えたのは、そのような理由もあったからだろう。

 そして、今でも地下アイドルの現場では、モーニング娘。をはじめとした、ハロプロの楽曲がよく歌われる。それは、このような経緯を考えれば、ごく自然な流れなのである。

 その頃、私は何をしていたかというと、メジャーなアイドルが出てきたことを横目で見つつ、ライブハウスなどでのアイドルライブに通っていた。まだ今のようなフォーマット(地下アイドルが複数出演→物販→特典会)ができておらず、その内容はさまざまであったが、新しい文化が生まれてくる胎動のようなものを感じていたものだった。

 モーニング娘。、そしてハロプロが破竹の勢いで人気を博し、アイドル界が盛り上がっていた平成17年、AKB48グループが劇場公演を開始する。48グループと、その後、ライバルグループとして結成された坂道シリーズの躍進については、改めて語るまでもないだろう。

 この時期のもう一つ大きな出来事として、「アイドリング!!!」の存在を挙げておきたい。平成18年にフジテレビのCSで番組がスタートして以来、9年間に渡りバラエティ豊かな放送を続けてきた。一方、音楽に関しても、クオリティの高い楽曲が多く、ライブなども積極的に行っていた。彼女たち、そしてスタッフの一番の功績は、平成22年から開催されている、日本最大級のアイドルフェス『TOKYO IDOL FESTIVAL』(TIF)の開催であろう。

 私も、第1回から参戦しているが、いわゆる“地下”を中心に活動しているグループや、ローカルアイドルなども出演しており、現在のアイドルブームを作り上げた立役者ともいえる。

 平成も後期に入ると、ライブアイドルはますます多様化をしていく。TIFに加え、『アイドル横丁夏まつり!!』『@JAM EXPO』といったフェスが開催され、アイドルが出演するライブ会場も増えていく。また、ネット環境の普及により、アイドルたちがSNSなどでファンと直接交流することもできるようになる。地方に住んでいても、情報を得て、アイドルの魅力を感じたりすることもしやすい時代になったのだ。

 ただ、その反動として、アイドルのグループのサイクル(結成から解散、メンバーチェンジまでの期間)が早くなっているようにも感じる。ファンが常に新しいものを求めるために、それに対応する基軸などを打ち出さなくてはいけなくなったのだ。これは、どこが悪いということではない。新しさを感じつつも、変わらない魅力を維持する、それは、時代が変わろうともアイドルが人気を保っていくための秘訣であるだろう。

 そして現在、ハロプロ、48グループ、坂道シリーズは引き続き人気を集め、地下のアイドル現場も健在だ。

 平成の30年間で、アイドルを取り巻く環境は、驚くほど変化した。つらい冬の時代を乗り越え、今のアイドル文化が花開いたことを思うと、いちアイドルヲタクとして、感慨深い思いだ。

 この10連休には、「平成最後の」「令和最初の」と銘打ったライブが数多く開催される。今のアイドル文化の礎となった、平成アイドルの足跡を感じながら、新しい時代を迎えてみてはいかがだろうか。

(文=プレヤード)

酒井法子、地上波復帰も前途は“多難すぎ”……中華圏での人気低下が大打撃

 3月27日放送のバラエティ番組『THEカラオケ★バトルSP』(テレビ東京系)で、11年ぶりの地上波出演を果たした酒井法子だが、今後の展望は明るいとは必ずしもいえないようだ。

「2009年に覚せい剤取締法違反で逮捕された酒井ですが、初犯だったことを考えると、地上波復帰まで11年かかったのは長すぎたといえるでしょうね。それまでにも復帰のチャンスはあったのですが、そのたびに出演した映画会社のトラブルや元夫の薬物絡みでの再逮捕、自身の金銭トラブルに阻まれてきました。今回のテレ東出演で、他局でも酒井の出演解禁にGOサインが出ると思われたのですが、ピエール瀧のコカイン使用による逮捕で雲行きが怪しくなってきました。瀧の供述から今後、芋づる式にさらなる大物が逮捕されるとの臆測もあり、展開によっては酒井の起用に各局とも二の足を踏むかもしれません」(スポーツ紙記者)

 さらに酒井を襲った不運が、これまで根強い支持を誇ってきた中華圏での人気低下だ。

 今年3月、酒井は台湾で初のディナーショーを開催したが、全3回の開催予定だったところ、チケットの売れ行き不振で2回に縮小されたというのだ。当初は台北、台中、高雄の3都市で予定されており、このうち台北と台中では満席で盛況だったが、高雄では1回300席のチケットがさばけず、公演2週間前に中止を余儀なくされた。

「SS席は日本円で2万5,000円という強気の価格設定が災いしたとの声もありました。しかし、ケチのつき始めは中国でのSNS炎上騒ぎで、その予兆はあったんです。酒井が中国版ツイッター『微博』に新年のあいさつを書き込んだ際にQRコードが記載されていたんですが、スマホで読み込むとなぜか唐突に電子マネーの振り込み先に案内されてしまうことから、中国のファンの不興を買いました。これは単純なミスで、酒井側はすぐに訂正して謝罪しましたが、彼女のイメージはすっかり下がったんです。まったく不運というしかありません」(同)

 中華圏における人気低下は、酒井にとっては誤算だろう。念願の地上波復帰を果たしても、“不運の連鎖”からは逃れられそうにない。

酒井法子、11年ぶり地上波出演! 各局本格復帰にGOサイン?

 酒井法子の11年ぶりの地上波出演が実現。今後の動きが注目されている。酒井が出演したのは27日放送の『THEカラオケバトル』(テレビ東京系)。テレビ関係者が語る。

「酒井法子については、非常に知名度が高いため、起用しようという声は常にありました。ただ、逮捕時の騒動が大きすぎたため、視聴者の反応が読めず、各局とも起用をためらう状況が続いていました。

 しかし今回、一番良い番組で復活したように思います。内容が、『懐メロを本人が歌い、カラオケ採点機で採点する』というユルユルの番組でしたし、司会が大ベテランの堺正章なので、トークも堺に任せておけばOK。騒動には一切触れず、“のりピー語”などを巧みに交えつつ、無難に乗り切っていました。美貌は相変わらずですし、トークはもともとイケる子だったので、本人も他局の制作陣も手応えを掴んだのではないでしょうか」(テレビ関係者)

 番組では、手話をしながら歌うことでも話題になった大ヒット曲『碧いうさぎ』を歌い、90点以上を叩き出した酒井。彼女にとって地上波出演は悲願だったようだ。女性週刊誌の芸能担当記者が語る。

「テレビから完全に消えた後、しばらくはパチンコの営業で稼いでいた酒井ですが、ここ最近はパチンコの営業はしていません。また、中国や台湾で抜群の人気を誇る酒井は、現地でのコンサートやディナーショーで稼いできましたが、今年に入って中国版のツイッター『微博』で炎上騒ぎを起こしたり、チケット代が高すぎて批判が寄せられたりといったトラブルが相次ぎ、そちらの仕事もあまり順調ではありません。番組では11年ぶりの地上波出演について、『地上波来たー!』とおどけた酒井ですが、間違いなく本音だったと思います」(芸能担当記者)

 芸能界と違法薬物と言えば、先日のピエール瀧の件が記憶に新しいが、現在テレビに出ている芸能人の中には、過去に薬物関係で問題を起こしながら、平気な顔をしてテレビに出まくっている人間も少なくない。酒井もそんな流れにならい、一気に“解禁”となるのか?

「現在、テレビのコア視聴者層は40代以上ですから、酒井はピッタリです。使い方を間違えれば炎上は必至ですが、『金スマ』や『爆報!THEフライデー』(TBS系)、『しくじり先生』(テレビ朝日系)など、オファーしたい番組はいくらでもあるでしょうし、『サンデー・ジャポン』(TBS系)や『ワイドナショー』(フジテレビ系)で使うという手もあります。今回の『カラオケバトル』で“地上波もOK”という既成事実ができたので、一気に争奪戦に動くことになるでしょう」(前出・テレビ関係者)

 酒井にとって「マンモスうれP」状況が整いつつあるようだ。

酒井法子、地上波テレビ復帰は大丈夫? “四度目の正直”で「碧いうさぎ」熱唱も……

 酒井法子が念願だった地上波テレビに、いよいよ復帰する。

 酒井が出演するのは、27日放送の『THE カラオケ★バトル またやっちゃう?あの大ヒット曲、ご本人は何点出せるのか SP』(テレビ東京系)。同番組で、酒井は代表曲「碧いうさぎ」を披露。収録後、囲み取材に応じた酒井は「頭が真っ白になって、気がついたら終わっていました」と、久しぶりのテレビ出演を振り返った。

「2009年に覚せい剤取締法違反で逮捕された酒井ですが、地上波テレビ出演は11年ぶりになります。逮捕されてから10年、みそぎを済ませるのに、ずいぶん長い時間がかかった格好です。これまでにも何度も復帰のタイミングがありながら、そのたびにトラブルに見舞われ、かなわなかっただけに、今回のテレビ出演には本人も感慨深いものがあるでしょう」(芸能記者)

 酒井のこの10年は、地上波復帰のチャンスとその挫折の繰り返しだった。最初のチャンスは14年。映画『空蝉の森』への出演を機に芸能活動を本格化させようとしていたのだが、製作会社が倒産したため、映画は現在まで未公開。地上波復帰も水泡に帰した。

 デビュー30周年を迎えた16年も、完全復活の最大のチャンスだった。写真集やDVDを収めた『30th Anniversary BOX』(ワニブックス)が発売され、記念コンサートでは膝上20センチの超ミニスカートという過激衣装を披露。だが、同時期に元夫の高相祐一氏が薬物絡みで再逮捕されるという不運に見舞われ、酒井の復活の機運に水を差すことになった。

「そして、昨年は前所属事務所のサンミュージックが肩代わりしていた、逮捕による損害賠償額約5億円の返済を終え、三度目の正直とばかりに完全復活ののろしを上げようとした矢先、今度は金銭トラブルが浮上。酒井の育ての親ともいえる恩人(故人)が経営する会社が、酒井に賃貸ししていた住居からの立ち退きを迫る訴訟沙汰に。一方の酒井側は同社に貸したとされる1億数千万円の返済を求めて反訴。両者の争いは、泥沼化の様相を呈しています。つくづく運がないと思われましたが、ようやく地上波テレビ出演にこぎ着けたのは何よりです」(同)

 約10年もの間、芸能界の第一線から離れ、48歳という年齢にもかかわらず、以前と変わらぬ美貌をキープしている酒井だが、今回の地上波復帰でもうひと花咲かせられるか。

酒井法子が誕生日イベント開催! 美しすぎるアラフィフ姿にネット驚愕も、いまだ消えぬ薬物の影……

 女優で歌手の酒井法子が2月11日、自身のバースデーイベントを開催した。

 14日に48歳の誕生日を迎えた酒井。そんな彼女を祝うため、東京・浅草六区ゆめまち劇場には約180人ものファンが集まった。トークコーナーや、ミニライブ、ゲームコーナーなどが行われ、酒井とファンが触れ合う場となった。ゲストには韓国の5人組アイドルグループ・大国男児のメンバー、インジュンが駆けつけ、10日まで同劇場で上演された舞台『雷神門~RAIZING GATE』のパフォーマンスの一部を披露する場面も。中盤にはサプライズで、ステージにバースデーケーキが登場。酒井は大感激した様子をみせ、客席をバックに記念撮影も行った。

 そんな幸せいっぱいだった酒井に対し、ネットではファンから「48歳にしてはとてもキレイ」「益々キレイ!」「アラフィフでもかわいい!」などといった声が上がり、酒井の変わらない容姿が話題に。しかし一方で、「あんな事さえなければ、“キレイな48歳”として活動していただろうに」「更生しようがなにしようが、もう薬物のイメージしかない」など厳しいコメントが寄せられた。

「ここまで嫌われる理由は酒井さんの不誠実さにある」と芸能記者は、こう語る。

「酒井さんは2009年、覚せい剤所持および使用の罪で逮捕。酒井は刑事裁判において、『芸能界を引退し、介護の仕事につきたい』と語っており、10年1月に介護士・音楽療法士を目指し、創造学園大学の介護福祉コースに特待生として入学しました。ですが、11年には芸能界に復帰。12年には舞台活動を開始し、その後も舞台やドラマなどに出演するように。そのためネットでは『言ってたこととやってることが違う』といった指摘もあり、そういう不誠実さに世間は拒否反応を見せているようですね」

 ちなみに、創造学園大学を運営していた学校法人「堀越学園」は、13年3月に解散。大学もなくなってしまい、学ぶことができなくなってしまったよう。それ以降、酒井は、女優・歌手を本業にしているという酒井だが……。

 1月には、中国のファンに“物乞い”と思われかねない行為をし、炎上してしまっただに、応援してくれるファンのためにも、筋の通った活動をしてもらいたい。

ネットで物乞い行為? 中国で酒井法子に大バッシング!

 衣料通販大手のZOZOの前澤社長が「アカウントをフォローしてツイートをRTした人から抽選で100人に、100万円を現金でプレゼントする」と表明して大きな話題となっているが、中国ではある日本人がSNSでフォロワーに金を無心して批判を浴びている。

 その人物とは、2009年に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕、起訴された酒井法子だ。ここ数年、日本国内ではディナーショーくらいしか活動が見られない彼女だが、中国をはじめとする中華圏では絶大な人気を誇っており、昨年も香港で大規模なコンサートを開催している。

 そんな彼女に今、大バッシングが集中している。理由は、酒井が1月7日に中国版Twitter・ウェイボーに投稿した、中国語での新年の挨拶にある。

 彼女は「ファンの皆さん、明けましておめでとうございます。酒井法子です。昨年の多大な応援ありがとうございます。今年もよろしくお願いします」と投稿。しかし、そこにはQRコードが記載されていた。このQRコードが問題で、スマホなどで読み取ると、電子マネーの振り込み先に案内されるものだった。

 ファンに対して金を無心するような今回の行為は、またたく間にネット上で拡散され、中国のネット上では「酒井法子 乞丐行為(酒井法子 物乞い行為)」という検索キーワードが急上昇してしまったのである。中国人ネットユーザーたちは続々とコメントを寄せており、「薬物ババアは日本へ帰れ。恥知らず」「日本でダメになったからって中国でこんなことするな」「金を振り込まないとファンじゃないって言いたいんだろうね」などの厳しい意見が目立っている。

 酒井の今回の投稿文はすでに削除されており、1月8日付で、中国語の謝罪文が投稿されている。謝罪文では「日本で行っている有料ファン会員制度を中国でも普及させる狙いがあったが、誤解を与えてしまった」と、今回の事件について騒動となった経緯を弁明している。

 中国事情に詳しいフリーライターの吉井透氏も、のりピーをこう擁護する。

「彼女の中国語レベルは、ウェイボーに投稿した内容を自分で書けるほどではなく、別人が運営していたことは明らか。問題のQRコードの記載についてもその人物か、事務所の判断でしょう」

 酒井のウェイボーには、批判も一方で根強いファンからは温かいコメントも寄せられており、「有料会員の宣伝のつもりだったのなら何の問題もない。これからも彼女のことを応援したい」と語るファンも多くいるようだ。世紀のスキャンダルから復活を遂げたのりピーには、この程度のバッシングには負けることなく頑張ってもらいたいものだ。

(文=青山大樹)

老舗芸能事務所・サンミュージックが創業50周年! 何度もあった「最大の黒歴史」を振り返る

 11月27日、老舗芸能プロ・サンミュージックが創業50周年を迎えた。

 所属タレント第一号となった森田健作を国民的スターに育て上げ、1970~80年代には桜田淳子や松田聖子を輩出。アイドル黄金期を支え、現在も、俳優、タレント、お笑い芸人と幅広い才能を世に送り出す、有力芸能プロのひとつして存在感を示していることは、もはや説明の必要はない。

 そんなサンミュージックは、これまで幾多の危機を乗り越えてきた。そのあまりに壮絶な歴史は、ほかの芸能プロにはあり得ないものだろう。

 同プロの関係者は、こう明かす。

「サンミュージック最大の事件といえば、やはり86年の岡田有希子の投身自殺です。朝、ガス自殺を図った彼女を一度は事務所に保護しながら、ほんの少し目を離したすきに屋上から飛び降りてしまった。絶対に防げた事故だと、当時の関係者は全員が悔やんで寝られない日々を過ごしたといいます」

 2009年の酒井法子が薬物事件で逮捕されたときには、責任を取って会長職に就いていた創業者の相澤秀禎氏が相談役に退き、社長を継いでいた相澤正久氏が副社長に降格し、社長不在という異常事態にも見舞われた。

 最近では、事務所の稼ぎ頭だったベッキーのゲス不倫騒動も、事務所の屋台骨を大きく揺るがせた。

「テレビ局やCM企業に支払った違約金は4億円にもおよび、事務所とベッキーが折半で支払うことで決着しましたが、事務所にはそこまでのまとまった現金がなく、役員たちはそれぞれの人脈をたどり金策に奔走しました。中には融資を申し出てくれた企業家もいたといいますが、正久社長は、『ご迷惑はかけられない』と、これに頼ろうとはしなかった。そのぶん、苦しい時期が続きました。当時は、社員たちも毎月、『今月、給料出るかな』とささやき合っていましたね」(同)

 だが、先代の秀禎社長が最も苦い思いをしたのは、1989年の松田聖子の独立だったという。

「ある日、相澤社長は聖子が成城に建てたばかりの豪邸に呼び出された。なんの話かと思ったら、『私辞めます』ですから、社長はそれはそれは怒っていましたよ。手塩にかけて育て上げ、数々のスキャンダルからも必死に守ってきて、豪邸が建つまでのスターに押し上げ、これからさらに頑張っていこうというタイミングでしたからね。それでも、相澤社長は対外的には笑顔で円満退社をアピールしていましたね」(同)

 そんな聖子も、2007年にサンミュージックと業務提携というかたちで古巣復帰を果たしている。

「あんな辞め方をした聖子でも、戻ってくれば受け入れてしまう。多くの芸能関係者に尊敬されている相澤さんの優しさと、懐の深さがわかるエピソードの一つです」(同)

 何度も窮地に立ちながら、最後のところで協力者が現れたり、スターが誕生したりして危機を乗り越えてきたのは、相澤親子の人柄ゆえなのだろう。