アカデミー賞トロフィをランプに改造! 没後1年で知る“樹木希林”的哲学の真髄『樹木希林のきもの』

2018年9月15日に、女優の樹木希林さんがなくなってからすでに1年がたった。没後、数々の追悼本が出版されその豊かな人生哲学に改めて注目が集まった。本稿ではそんな彼女の哲学を、“着物”について綴られた別冊太陽編集部による『樹木希林のきもの』(平凡社)から見ていこう。

 樹木希林さんはプリコラージュの人だ。

 本書にそう書いてあるわけではないが、強くそう感じた。プリコラージュとはフランスの文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースが好んで使った言葉で「寄せ集めて作る」といった意味だ。彼は本来の用途ではない物を組み合わせて、別の役立つ何かを生み出してきた人類の思考をプリコラージュと呼んだ。

 希林さんも同じようにプリコラージュを実践した人だった。たとえば、贈呈されたアカデミー賞トロフィにランプをつけて改造し、食卓に置いた。時には、古布をドレスに再利用したりした。

 本書では「きもの」においてのプリコラージュが多数紹介されている。余った布を帯や比翼にしたりするのは日常茶飯事。手近にあるものはなるべく処分せずに再利用して、合体しては壊すことを「きもの」においても繰り返していたことが、豊富な実物写真によって紹介されている。そんな希林さんがプリコラージュして作り上げた数々の「きもの」を眺めていると、普段着物など着ない自分も、いつかは着こなしてみたい、と思ってしまう。

 また、プリコラージュという意味でも究極なのは、希林さんが園遊会に招かれたときのエピソードだ。控え室で着替えていた希林さんは、持参していたはずの帯締めを紛失してしまい、切羽詰まった挙げ句、電気ポッドのコードを帯の上に締め、形を整えたという。

 そして、コードをつけたまま何事もなかったかのように、宮様方の前に出て、その場を凌いだという。ちなみに、そのまま帰ればバレないはずなのに、俳優の性なのか「実はね」とコードを披露し、その場を爆笑の渦に巻き込んだとのこと。

「物にも冥利がある」

 希林さんが繰り返し唱えたこの言葉に耳を傾けていると、「きもの」だけでなく、生活の色々な場所で創意工夫をしてみたくなる。僕たちは希林さんになることはできないけれど、プリコラージュの人になら、なれるはずだ。

故・樹木希林さん関連著書がベストセラー連発中! 半生実写化ドラマに娘・也哉子さんを配役へ?

 2018年9月15日に享年75歳で亡くなられた女優の樹木希林さんに関する著書が、続々とベストセラーとなり、売り上げを伸ばしている。

 名言集『一切なりゆき~樹木希林のことば~』(文春新書)は、なんと累計発行部数が100万部を突破。さらに3月に発売された『樹木希林さんからの手紙』(主婦の友社)と『心底惚れた 樹木希林の異性懇談』(中央公論新社)、1月発売の『樹木希林 120の遺言 死ぬときぐらい好きにさせてよ』(宝島社)もヒットを飛ばしている。

 これほど多くの関連書籍が発売され、そのどれもが飛ぶように売れている、その人気の秘密とは……。

「全身ガンに冒されながらも悲観するのではなく、それを受け入れ、取り入れ、自分の人生だからと消化して淡々と生きていくその姿勢が共感されています。また生と死、男と女の関係を、鋭い視点を持ち合わせながら、ユーモアも交えて教えてくれるので、希林さんの考え方をバイブルのように捉えている読者が多いようです」と出版関係者は解説する。

 樹木希林の人生を振り返れば、03年1月に網膜剥離を患い左眼を失明、04年に乳ガンが発覚し、翌05年に右の乳房を摘出、さらに13年3月の日本アカデミー賞授賞式で「全身ガンなので、仕事の約束ができないんですよ」と衝撃の生告白。長く病魔と闘ってきた。

 プライベートでは1964年に俳優の岸田森と結婚した後に、68年に離婚。73年10月に内田裕也と再婚したが、1年ほどで別居し、81年からは離婚をめぐって裁判沙汰になりながら奇妙な夫婦生活を亡くなるまで続けた。

「波瀾万丈の一生で、とてもマネできるような人生ではありません。大きな出来事が次から次へと起き、それを平然と跳ね除けて生きてきた樹林さんの精神力たるや、すさまじいものがあります。樹林さんの人生を実写化させようとする企画が現在、各テレビ局で持ち上がっています。どこが実現にこぎつけるか、争奪戦となっていますよ。あるテレビ局では樹林さん役に娘の内田也哉子を起用するプランまであるといいます」(テレビ局関係者)

 まだまだ樹林フィーバーは続きそうだ。

 

故・樹木希林さん関連著書がベストセラー連発中! 半生実写化ドラマに娘・也哉子さんを配役へ?

 2018年9月15日に享年75歳で亡くなられた女優の樹木希林さんに関する著書が、続々とベストセラーとなり、売り上げを伸ばしている。

 名言集『一切なりゆき~樹木希林のことば~』(文春新書)は、なんと累計発行部数が100万部を突破。さらに3月に発売された『樹木希林さんからの手紙』(主婦の友社)と『心底惚れた 樹木希林の異性懇談』(中央公論新社)、1月発売の『樹木希林 120の遺言 死ぬときぐらい好きにさせてよ』(宝島社)もヒットを飛ばしている。

 これほど多くの関連書籍が発売され、そのどれもが飛ぶように売れている、その人気の秘密とは……。

「全身ガンに冒されながらも悲観するのではなく、それを受け入れ、取り入れ、自分の人生だからと消化して淡々と生きていくその姿勢が共感されています。また生と死、男と女の関係を、鋭い視点を持ち合わせながら、ユーモアも交えて教えてくれるので、希林さんの考え方をバイブルのように捉えている読者が多いようです」と出版関係者は解説する。

 樹木希林の人生を振り返れば、03年1月に網膜剥離を患い左眼を失明、04年に乳ガンが発覚し、翌05年に右の乳房を摘出、さらに13年3月の日本アカデミー賞授賞式で「全身ガンなので、仕事の約束ができないんですよ」と衝撃の生告白。長く病魔と闘ってきた。

 プライベートでは1964年に俳優の岸田森と結婚した後に、68年に離婚。73年10月に内田裕也と再婚したが、1年ほどで別居し、81年からは離婚をめぐって裁判沙汰になりながら奇妙な夫婦生活を亡くなるまで続けた。

「波瀾万丈の一生で、とてもマネできるような人生ではありません。大きな出来事が次から次へと起き、それを平然と跳ね除けて生きてきた樹林さんの精神力たるや、すさまじいものがあります。樹林さんの人生を実写化させようとする企画が現在、各テレビ局で持ち上がっています。どこが実現にこぎつけるか、争奪戦となっていますよ。あるテレビ局では樹林さん役に娘の内田也哉子を起用するプランまであるといいます」(テレビ局関係者)

 まだまだ樹林フィーバーは続きそうだ。

 

樹木希林さんの後を追うように……故・内田裕也さん“好き放題”の生き様に合掌

 昨年9月15日に亡くなった女優の樹木希林さんの死後から約半年。希林さんの後を追うように、夫でロック歌手の内田裕也さんが肺炎で亡くなった。79歳だった。生前は“火宅の人”といわれ、業界ではコワモテで通っていたが、その一方で、ボランティア活動などに取り組む優しさ、希林さんの言葉を借りれば、“純なもの”も持ち合わせていた人だった。

 内田さんは、1973年にバツイチだった希林さんと電撃結婚したが、内田さんのDVが原因で2年で別居。81年に内田さんが一方的に離婚届を提出したが、希林さんが無効を訴え、離婚訴訟に発展した。

 1年半後、東京地裁は離婚届無効の判決を出したが、それでも内田さんは自宅に戻らず、当時、“国際女優”として人気絶頂だった島田陽子が所有するハワイのコンドミニアムで暮らしていた。半同棲状態だった2人は、不倫関係にあった。

 ところが、内田さんは、島田さんに対してもDVを繰り返す。たまらず島田さんが別れ話を切り出したところ逆上し、島田さんを刃物で追い回す修羅場を演じたこともあった。それでも、島田さんは内田さんと別れるどころか、91年に内田さんが東京都知事選に出馬した際には、選挙資金の一部を提供。しかし、内田さんが落選したことで、莫大な借金を抱え、結局破局した。

 他方、島田さんと別れた内田さんは、新たな女性と交際。2011年に、元交際相手だった50歳の客室乗務員に復縁を迫り、強要未遂と住居侵入容疑で逮捕されたのは記憶に新しいが、それ以前にも、大手航空会社の管理職で独身だった40代半ばの美人女性ほか、数々の女性と浮名を流し、逮捕の一報を受けた希林さんが、当初違う女性の名前を挙げたほどだった。

 一方、仕事の面ではコワモテで通っていた。内田さん自身は腕力に自信がなかったようで、常に故・安岡力也さんやボクサー経験もある歌手の故・ジョー山中さんらをボディガード代わりにしていたことも大きかっただろう。

 筆者は、内田さんの数々のスキャンダルを取材してきたものの、当時は面識はなかった。ところが、3年前に急死した伝説の音楽プロデューサー・山田廣作さんから、ジョー山中さんの自叙伝の出版プロデュースを依頼されたことから、内田さんと知り合うようになった。

 01年に、その自叙伝『証~永遠のシャウト』(徳間書店)が出版されると、本の印税はアフガン難民救済のために寄付された。当時ジョーさんは、内田さんと共に難民救済のボランティア活動のため、アフガンを訪問していたからだ。

 内田さんといえば、阪神大震災や東日本大震災での被災地支援活動がよく知られているが、かねてよりボランティアへの関心が高く、海外でも活動していたのだ。

 その後、筆者は内田さんとハワイのすし屋でたまたま遭遇し、家族ともどもご馳走になったことを記憶している。それ以外では直接話す機会はなかったが、吉本興業が主催する『京都国際映画祭』で顔を合わせるようになった。筆者も内田さんも、この映画祭に毎年欠かさず参加していた。

 内田さんは3年ほど前から歩行困難な状態だったが、昨年9月、希林さんが他界した後に開催された同映画祭では、ドキュメンタリー『転がる魂・内田裕也 ザ・ノンフィクション』の上映後舞台挨拶に登場。「今後のロックンロールライフに、とても大きなパワーになって繋がると確信しています」と語っていた。

 エキセントリックな性格からトラブルも絶えず、しかし、母性本能をくすぐるのか、いつも愛されていた内田さん。ロックンローラーとして好き放題に生きたその生き様に魅了されたのは、希林さんだけではないだろう。合掌。
(文=本多圭)

内田裕也さんに合掌──先だった妻・樹木希林さんの“奇妙で堅実”だった生き様

 ロック歌手の内田裕也さんが17日、肺炎のため都内の病院で死去した。享年79歳。昨年9月15日に75歳で亡くなった妻で女優の樹木希林さんの後を追うように旅立ったが、ここにきて、改めて希林さんの“生き様”に注目が集まっている。

 希林さんといえば、火宅の夫・裕也さんとの、常人では理解しがたい夫婦生活をはじめ、人としても女優としても数々のエピソードに事欠かなかったことで、生前からエッセイなどの出版依頼が殺到していたが、希林さん本人のこだわりが強かったため、実現しなかった。

 だが、希林さんの死後、親交のあった出版社が、娘である内田也哉子さんの許可を得て遺作本の制作に着手。生前の対談集や裕也さんとの奇妙な夫婦関係、仕事のエピソードなどを編集して出版にこぎつけた。

 昨年末、まずは文藝春秋社が、希林さんの名言集『一切なりゆき 樹木希林の言葉』(文春新書)を刊行。すると、初週でオリコン週刊BOOKランキングの首位に躍り出るほどの反響で、文藝春秋社はすぐに初版5万部から22万部の大増刷を決定。その後も売り上げは伸び続け、3カ月足らずで70万部を突破し、書店関係者も「売れ行きから見て、100万部突破は時間の問題です」と語るほどだ。

 年明け1月28日には宝島出版社が、『樹木希林 120の遺言』を刊行。この本のサブタイトルは、3年前に希林さんが新聞広告で“終活宣言”したコピー「死ぬときぐらい好きにさせてよ」が使われ、こちらも発売から1カ月半で累計発行部数40万部を突破。さらに2月25日には、キネマ旬報ムックから『いつも心に樹木希林 ひとりの役者の咲きざま、死にざま』が刊行され、こちらも完売店続出のため、版元が重版決定を発表している。

 一方、週刊誌では、希林さんの驚くべき“相続術”を特集。希林さんは「芸能人は生活の保障がないから、お金があるうちに不動産を買うべき」との持論のもと、亡くなる前までに8件の不動産物件を所有する、芸能界の“不動産女王”だったが、それらの物件は、娘の也哉子さんと夫で俳優の木本雅弘夫妻、それに孫の内田伽羅らに相続されたものの、法定相続人である夫・内田にはひとつも相続されなかった。

 これに関して、希林さんは生前、「(内田裕也は)お金があったら一晩で全部使ちゃうから、(彼には)遺産を残さない」と“宣言”していたため、それを実行しただけのようにも見えるが、相続対策に詳しい専門家によれば、むしろ「二次相続」対策のためと考えられるという。

「もし裕也さんが希林さんの不動産を相続していれば、配偶者控除によって節税できました。ただ、もしその後すぐに裕也さんが亡くなってしまうと、今度は遺された也哉子さんたちが、二次相続によって結果的に負担増になってしまうのです」(相続に詳しい専門家)

 つまり希林さんは、裕也さんの年齢なども考慮して、娘夫婦たちへの節税対策としてあえて裕也さんには遺さなかったと見られるのだ。

 実際、希林さんの死後、半年で後を追うように亡くなった裕也さんを思えば、その手腕はお見事というしかない。

 本業の女優業でも、生前公開された『万引き家族』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞したほか、昨年度の映画賞の賞レースを“ほぼ総なめ”にした希林さん。今年6月には、希林さん自ら企画・出演した、浅田美代子主演の映画『エリカ』の公開も決定している。

 生前、全身がんを公表しながらも、「生きるのも日常、死んでいくのも日常」とその死生観を語っていたが、死後もなお現役で活躍している希林さんと、希林さんの愛した裕也さんに、改めて合掌。

(文=本多圭)

『徹子の部屋』で黒柳徹子と樹木希林が邂逅! ブラックトーク炸裂で、あの人の整形疑惑にも……

 この数日間、あの樹木希林がいくつかのテレビ番組に出演した。どうやら、映画『モリのいる場所』公開に合わせたプロモーションのよう。いまや天上人のごとき存在の樹木だけに、外界へ降りてきた今回はプレミア感であふれている。

 5月18日放送『あさイチ』(NHK総合)に出演した樹木は、司会の博多華丸・大吉に「どういう風に見えんの、私?」と質問したが、正直、彼女には怖いイメージがある。インタビュー相手として手強いというウワサを耳にしたこともある。

 しかし、今回の樹木のご機嫌は麗しかった。前述の『あさイチ』でも、中山秀征が聞き手を務めた『シューイチ』(日本テレビ系)でも、どんな質問にも“らしく”、それでいて感じ良く受け答えした樹木。芸能界の後輩らもホッと胸をなで下ろしていたに違いない。

 そんな中、様子の異なる番組が一つだけ存在した。5月16日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)である。

■黒柳徹子、40年越しの恨み節をぶつける

「様子の異なる」と書いたが、その原因は黒柳徹子にある。とにかく、徹子の当たりが強い。

 まず、徹子が「あなたをテレビで見ない日はない」と切り出すと、樹木は謙遜しながら「とんでもない。(徹子を指して)10年違うのに、この元気さ!」と返答。すると、待ってましたとばかりに、徹子は樹木を指さした。

「あなたさ、これから本番10秒前って時に、いきなり『あなた、いくつ?』って私に聞いたのよ。『45です』って言ったら『へえ~、私より10歳上なんだ』ってあなたがおっしゃって本番始まったの。意地悪と思ったけど」(徹子)

 唐突に、45歳当時のエピソードを持ち出した徹子。恐らく、ゲスト・樹木のために用意してたに違いない。ちなみに現在、徹子は84歳。ということは、約40年越しのリベンジということになる。今回の徹子は用意周到だ。

 続いて、話題は「終活」について。自分が死んだ時は『徹子の部屋』の追悼特集で出してほしい、と殊勝なことを言う樹木に対し、徹子はイケイケの姿勢を崩さなかった。「私が先になったらあなたがね、上手に(弔事を)……」と言いかけるも「でも、あなた何言うかわかんないから嫌だわ、私」と壁を作り、またしても昔のことを蒸し返すのだ。

「あなた、絶対言うわ。『あの方、お父様お母様はきれいだったけど、ご本人はそうじゃなかったです』って」

「あなたさ、私の父と母の写真見て『どうしてお父様とお母様あんなにきれいなのに、あなた違うのかしら』って私におっしゃったじゃない。覚えてない? 忘れちゃうのね、そういうことは。あなた、そうおっしゃったの。私、それ覚えてる、ちゃんと」

 徹子のアプローチを受け、樹木も呼応し始めた。

樹木「こうやって直で見て(徹子の顔をマジマジと見る)……、きれいですよね。(頬を上に上げて)何か、引っ張ったりしてない?」

徹子「してませんよ! だって、毎日このテレビに出るのに、こんなとこ引っ張って出られませんよ、あなた」

樹木「私も吉永(小百合)さんの顔をよく見たんですけどね、縫い目がないんですよ」

徹子「こんなところに縫い目があるような手術してないでしょ、そんなさ。もうちょっと上手に……」

樹木「今どきね(笑)。アッハハハハハ!」

 “怒”や“楽”など比較的感情の動きが見える徹子に対し、終始笑いながらブラックなことを口にする樹木。竹中直人の「笑いながら怒る人」ではないが、喜怒哀楽が二重三重の壁の向こう側にある樹木は、やっぱり怖く見えてくる。

 とはいえ、この手のやりとりを当人同士は意外に楽しんでいたりもする。お互いの肌のきれいさを称え合うや、樹木は「2人で褒め合っててもおかしいから、次の話しませんか(笑)」と提案、徹子も「そうしましょう」と応じ、2人は皮肉の言い合いを再開した。

 樹木が外界へ降りてきた貴重な数日間。“当たり”は、やはり『徹子の部屋』だった。天上人同士の貴重な邂逅を目撃できたのだ。

(文=寺西ジャジューカ)

ワイドショーには映らない──渦中の水道橋博士が語った竹中英太郎と「労」、そしてルポライターへの狂疾

 4月8日、2時間半あまりの時間をかけてたどり着いた山梨県立文学館で、ぼくの目に最初にとびこんできたのは、壇上にいる、猟犬のような目をした一人の男であった。

「竹中英太郎没後30年 『竹中英太郎と労』父子を偲ぶトークのつどい」

 戦前、江戸川乱歩や横溝正史らの名だたる作品を手がけ、多くの模倣者を生み出した挿絵画家の大家。そして、ルポライターの元祖。その父と息子を偲ぶ催し。思い出を語り懐かしむ中で、求められるのは、先達たちの思いと行動を、自分がどう理解し、取り込み、自らの行動に生かしていくかに尽きると、ぼくは思っているのだ。

 英太郎のように、労のように生き、自らの作品を生み出したい。客席には、そんな想いで会場へとはせ参じた人たち。ぼく以外にも、みんなそう。そして、その一人が、壇上にいた。

 いま、事務所の騒動をめぐりスポーツ紙とワイドショーを賑わす男・水道橋博士である。

 イベントの始まりは、大工哲弘の島唄から。竹中労との思い出を語りながらの歌の時間。

 水道橋は、東京から追いかけてきたマスコミ対応に追われて、その貴重な時間を堪能することができなかったと、後から聞いた。

 そして、トークの時間。登壇者をひとりずつ紹介する司会の金子望(湯村の杜竹中英太郎記念館主宰)は、水道橋の番になると、まったく遠慮することもなく、こう切り出したのだ。

「いま話題の、水道橋博士さんです」

 ドッと笑いに包まれる客席。でも、次の水道橋の一言で聴衆は、キリッとして視線を集中させた。

「今日はなんでも質問に応えます……いま、リアル風雲たけし城をやっている……」

 そう語る水道橋の目は、明らかに獲物を狙う猟犬の目。都会のジャングルに潜む、ルポライターのまなざしであった。

 水道橋が竹中労を語る姿を見るのは、これが2回目。前回は、2016年10月。やはり甲府で開かれた「竹中労没後25年今ふたたび『戒厳令の夜』特別上映会と労を偲ぶトークのつどい」の時である。

 その時、水道橋は今回も同じく登壇した樹木希林から「竹中労を語るならば、心酔してやまない人物を加えたほうが盛り上がるだろう」と連絡を受け、奇跡的に、その時間だけスケジュールが空いていた幸運に恵まれ、駆けつけたのだった。

 水道橋の十代からの竹中労への心酔は、これまで水道橋自身が機会があるたびに語っている。その時は、こう語っていた。

「自分もルポライターになりたかった。でも、コミュニケーションが苦手だから、いろんな人と取材で関わるルポライターになれないと思った。だから芸人になったんですが……自分は芸能界に潜入しているルポライターのつもりで、今でもやっていますよ」

 それまでも、水道橋は幾度か自分のことを「芸能界に潜入しているルポライター」と称していた。でも、この時の立ち振る舞いは、まだ「芸能人」の側にいるように見えた。

 というのも、この催しの翌日、ふと竹中労をTwitterで検索した時に見つけた、水道橋のツイート。そこで写真に写る彼は、トークや打ち上げでは見せることのなかった、いつもテレビで見せる芸能人らしい表情でフレームに収まっていた。

 それから1年半余りが過ぎ、そんな表情の名残は欠片もなくなっていた。そのまなざしは、文字通り「芸能界に潜入しているルポライター」になっているように見えた。

 そのきっかけが、一連の事務所の騒動なのか。あるいは、そうでないのかはわからない。

 そもそも、いま、スポーツ紙やワイドショーを賑わしている騒動が、どれほど重大なものなのか。ぼくには、よくわからない。

 でも、これだけはわかる。

 竹中労が作品に刻んだ情熱は、世間の濁流に呑み込まれずに、何者かになろうと抗う人を心酔させ、追いつき、越したくなる目標として、永遠に色あせないということ、である。

 そして、すでに作品を読んだことのある人は、竹中労の情熱は、父・英太郎から受け継がれたものであることを知る。竹中労の作品にしばしば登場する父子の情熱。その中でも、ぼくが何度も読み返す一節がある。

 * * *

 ひばりと「部落」の関係を書いたことで、私はさまざまな誤解をうけなければならなかった。まるで私自身が美空ひばりをダシにして、差別を強調したように、いろいろ言われた。私事にわたるが、私の父親は、その青春期に「水平社」の宣言を読んで感動し、熊本県のある「未解放部落」にとびこんだ経歴をもつ。そのとき、私の父親は十七歳であった。

 その熱い血は、いま、私の体内に流れている。一昨年、父親は私の羽織の裏に、「せめて自らに恥じなく眠れ」と書いてくれて、穢多と署名してくれた。私はエタという二字を、差別とたたかい、人間に真に人間として解放する運動に一生をかける義務を、羽織の裏地に文字どおり背に負うている。
(初出:「週刊明星」1969年3月9日号 集英社『芸能界をあばく』1970年日新報道所収)

 * * *

 いま、水道橋は、羽織に刻まれた文字と同じものを、背に負うている。ぼくが「今の状況を受けて、これからどういうものを書いていくのか」と、問うた時に水道橋は、よどむことなく、こう話したのだ。

「芸能を愛でて、まつりごとをからかうこと。そこに、恥じることありません……なぜなら、自分は権力に従うことなどできないから……」

 それから、一呼吸。

「そういったことが、読者に伝わるものを書きたい。自分は55歳になったけど、もう伸びるとは思えないなんて、あり得ないと信じているから……」

 竹中労の絶筆となった「ダカーポ」1991年6月19日号(マガジンハウス)に掲載された連載「実戦ルポライター入門」。

 死の直前まで、竹中労は取材し、書くことをやめなかった。

 * * *

 余命おそらく三~四ヶ月。

 そして六日沖縄へ。ぼくにはもう、残された時間がない。
(「決定版ルポライター事始」1999年ちくま文庫所収)

 * * *

 ぼくも、いつの間にかそう思うようになっていたのだが「ルポライター」とは、単なる書くことで、いくばくかの金銭を得る職業ではない。インターネットで、手軽に知識を得る手段として用いられるウィキペディアには、ルポライターという項目はない。

 一方ルポルタージュの項目を見ると「取材記者、ジャーナリスト等が、自ら現地に赴いて取材した内容を放送・新聞・雑誌などの各種メディアでニュースとして報告すること」
だとか「事件や社会問題などを題材に、綿密な取材を通して事実を客観的に叙述する文学の一ジャンル」という簡潔明瞭なことが書かれている。そして、ルポライターとは、そうしたものを書く人のことだという。

 でも、竹中労の情熱を継ぎ、いつかは追い越したいと思っているぼくたちに、この説明は、まったくといってよいほどそぐわない。ルポライターというのは、何か自分でも説明がつかないようなものに突き動かされて、現場に足を運んでしまう、どうしようもない生き方のことをいうのだと思う。

 竹中労がルポライターを名乗るよりも、ずっと以前。その父・英太郎は挿絵画家として、あちこちにひっぱりだことなり、現在の貨幣価値にして2億円、3億円もの稼ぎを得た。でも、英太郎は、大家としての地位を服を着替えるように脱ぎ捨てて、満州へと渡り、再び挿絵を描くことはなかった。戦後、竹中労の著作の表紙のために、再び絵筆をとるまでは。

 今回の催しを司会した英太郎の娘婿の金子から、こんなことを聞いた。

「挿絵画家のことも、水平社のことも、こちらが尋ねても話すことはなかった……それが、英太郎のダンディズムだったのだろうと思ってる……」

 それを聞いて、改めて気づいた。ルポライターという生き方は、竹中労だけでなく、英太郎と共に築かれたものであること。ぼくらは、その血脈を受け継いでいることを。

 催しの翌日、甲府に一泊したぼくは、改めて竹中英太郎記念館を訪ねた。

 初めて訪問してから、もう5年あまり。英太郎の娘であり、労の妹である館長の竹中紫は、いつも嬉しそうに歓迎してくれる。

「明日で、いよいよ開館15周年なんですよ」

 紫にとっては、ただただ優しい肉親だった、父と兄。その生き様に感銘を受けて、記念館を訪れる人は絶えることがない。だから、ずっと記念館は続いている。そして、ぼくは、ここに来るたびに、自分の日々の取材と執筆と、生き様のことを振り返り、またルポルタージュを書きたい気持ちになるのだ。

 今度の帰り道、腰に下げたコンパクトデジタルカメラを取り出して、記録した写真を眺めた。その中に、催しの後に山梨県立文学館の玄関で、記者から取材を受けている水道橋の一葉があった。ルポライターの生き様そのものの、猟犬のような目をした水道橋に対峙するテレビ記者は、どこか怯えた小動物のような目をしていた。

 後日、水道橋を追いかけてきたワイドショーやスポーツ紙が報じたものを見た。どこも、水道橋のわずかなコメントを紹介するだけで、催しの中で語ったルポライターへの情熱を紹介したものはなかった。

 当然、催しの詳細など語られることもなく「甲府市内で行われたトークイベント」とだけ。事情を知らない人が読めば「お笑いのイベントでもあったのだろうか」と誤解するような書きざまだった。

 東京から水道橋を追ってきた記者たちが、壇上での水道橋の言葉を聞いていたかどうかは知らない。竹中労や英太郎のことに、なんらかの知識や興味があるのかも、わからない。

 ただ、もし彼らが竹中労と英太郎のことを知っていたとしたら。そして、水道橋の言葉を聞いていたとしたら……あの、テレビ記者の小動物のようなまなざしの意味は、よく理解できる。

 彼らは、確かに怯えていたのだ。たとえ<バクロ屋>と非難され、蔑みの意味で<ルポライター>と嘲笑されても、最下層から芸能界の不条理を、容赦なく追求し続けた情熱に。
そして、水道橋がその生き様に覚悟を決めたことを、どこか感じていたのだ。それは、お仕着せの
 コメントを集めて、記事に仕立てるルーティーンを繰り返す、自分たちの存在理由を揺るがすものに、ほかならない。

 いま、まさに時代は、書き手本人が、現場に足を運び取材して書くことに回帰しようとしている。そこで求められるのは、ルポライターの情念。そこに、魅せられることに、怯えている人も、まだ多いのだ。

 いま、自分が手を付けているテーマのことを頭に思い浮かべて、一刻も早く、書き始めたくなった。ぼくは、思わずネクタイを締め直した。
(文=昼間たかし)

樹木希林まで便乗!  W杯“にわかサッカーファン”タレント激増の裏事情

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「ブラジルワールドカップ観戦 TV LIFE 2014年 7/17号」(学研マーケティング)

 日本代表が熱戦を繰り広げている『サッカーワールドカップブラジル大会』。芸能界でも、まったくサッカーと関連のないタレントまでが応援コメントを出したり、選手のファンを公言したりと大盛り上がり。生粋のサッカーファンからは「たいして詳しくもないくせに、意見されても……」という不満の声も聞こえてくるが、芸能界での“にわかサッカーファン”大発生には、次のような一因もあるという。

「大会期間中は、スポーツ紙はもちろん、ワイドショーも“ワールドカップ進行”。芸能ネタを短縮してサッカー関連ニュースに放送時間を割くため、サッカーと関係のない芸能イベントを回るスタッフにも、上から『タレントに日本戦の点数予想をしてもらってきて』『日本代表へのエールをもらってきて』などといった指令が下されるんです」(ワイドショースタッフ)

黒柳徹子と樹木希林を乙女にした、ダスティン・ホフマン来日記

――海外セレブの来日プロモーション。本国ではパパラッチに追われる彼らも、日本では束の間の自由を謳歌! しかしそれゆえ、日本滞在をお世話するスタッフたちの苦労は多いんだとか。セレブの素の姿を知る関係者から話を聞き出し、コッソリお伝えする「スター☆マル秘報告書」!

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うちのばあちゃんも、入れ歯外した後こういう口になるんだわ

 今回は、大ベテラン俳優のダスティン・ホフマンの来日をピックアップします。ダスティンは名作に多数出演しているハリウッドの大スター。『卒業』『クレイマー、クレイマー』『レインマン』『トッツィー』……挙げていくとキリがないほどで、もちろんアカデミー賞主演男優賞も受賞しています。そんな彼が、75歳にして初監督した映画『カルテット! 人生のオペラハウス』のキャンペーンで21年ぶりに来日しました!

 21年前の来日は、スピルバーグ監督作『フック』でした。この時アテンドしたスタッフは「いい人でしたよ~」と言っておりましたが、さて今回の来日はどうだったのかというと……。奥様とパブリシストを連れて、普通のエアラインで来日。なんと、自分でカートを押して空港に出てきたそうです。自分で押して登場するスターは初耳!

内田裕也「俺にも取材しろ」!? 樹木希林の「全身がん」告白に便乗か

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「Switch」Vol.22No.10/スイッチ
・パブリッシング

 「第36回日本アカデミー賞」授賞式の最中、突然、がんであることを告白した樹木希林。最優秀主演女優賞受賞者は、翌年の授賞式で司会を務めるのが慣例となっているが、「全身がんのため、来年の仕事は約束できない」と語ったのだ。各マスコミも事の真相を突き止めるべく取材を進めているが、この件について樹木は、取材を受け付けないスタンスを取ったようだ。自宅で直撃取材を行った記者が語る。

「自宅のインターフォンを押せば、本人が対応してくれるのですが、『この件に関しては、お話ししません』と断られてしまいました。しかしこちらがあきらめずに、次々と話題を振れば、なんとなくですがコメントはしてくれます」