普及すればするほど露わになる「電子書籍」が抱える“最大の危険”とは

 電子書籍サービスの終了が相次ぎ、本をデータで所有することの危うさが浮き彫りになっている。

 アメリカのMicrosoftは4月2日に、突如「Microsoft Store」から電子書籍を削除し、販売を終了することを発表。閲覧ができなくなる7月上旬に、購入代金の全額返金を行うとしている。

 日本国内でも大日本印刷子会社のトゥ・ディファクトがブクログから譲渡を受けて運営していた個人向けの電子書籍の作成・販売サービスである「パブー」を9月末で終了することを発表している(「パブー」はサービス終了後も、購入コンテンツをダウンロードしていればフォーマットに対応したビューアで閲覧は可能)。

 スマホやタブレット型PCの普及と共に電子書籍の市場は拡大してきた。書店に足を運ばなくてもすぐに本を購入することができる。さらに、紙の本に比べると再販制度の対象にはなっていないために、頻繁にバーゲンが行われて安く購入ができるという利点もある。さらに長編漫画のような紙で所有していれば置き場所に困るようなものも電子書籍ならば、気軽に購入することができる。

 そうしたよいとこばかりの電子書籍であるが、問題点はサービスを行っている企業が存続しなければ本は読めなくなるということ。

 電子書籍を購入する時に販売されているのは、あくまで実態のないデータであり、それを読む権利。なので、企業がサービスを止めるなり倒産するなりしてしまえば、それまでに所有していた膨大な本がすべて消滅してしまう危機感があるのだ。

 現在のところ、電子書籍でも大手であれば、そのような問題はないだろう。ただ、それらの企業はあくまで営利目的の私企業。もしも、収益があがらないなどの問題がおこればサービスがなくなり、本も消えてしまう可能性は避けられない。

 財産をデータだけで所有することの危険性。今は好調の電子書籍ゆえに、今後も問題にならないといいが……。
(文=大居候)

普及すればするほど露わになる「電子書籍」が抱える“最大の危険”とは

 電子書籍サービスの終了が相次ぎ、本をデータで所有することの危うさが浮き彫りになっている。

 アメリカのMicrosoftは4月2日に、突如「Microsoft Store」から電子書籍を削除し、販売を終了することを発表。閲覧ができなくなる7月上旬に、購入代金の全額返金を行うとしている。

 日本国内でも大日本印刷子会社のトゥ・ディファクトがブクログから譲渡を受けて運営していた個人向けの電子書籍の作成・販売サービスである「パブー」を9月末で終了することを発表している(「パブー」はサービス終了後も、購入コンテンツをダウンロードしていればフォーマットに対応したビューアで閲覧は可能)。

 スマホやタブレット型PCの普及と共に電子書籍の市場は拡大してきた。書店に足を運ばなくてもすぐに本を購入することができる。さらに、紙の本に比べると再販制度の対象にはなっていないために、頻繁にバーゲンが行われて安く購入ができるという利点もある。さらに長編漫画のような紙で所有していれば置き場所に困るようなものも電子書籍ならば、気軽に購入することができる。

 そうしたよいとこばかりの電子書籍であるが、問題点はサービスを行っている企業が存続しなければ本は読めなくなるということ。

 電子書籍を購入する時に販売されているのは、あくまで実態のないデータであり、それを読む権利。なので、企業がサービスを止めるなり倒産するなりしてしまえば、それまでに所有していた膨大な本がすべて消滅してしまう危機感があるのだ。

 現在のところ、電子書籍でも大手であれば、そのような問題はないだろう。ただ、それらの企業はあくまで営利目的の私企業。もしも、収益があがらないなどの問題がおこればサービスがなくなり、本も消えてしまう可能性は避けられない。

 財産をデータだけで所有することの危険性。今は好調の電子書籍ゆえに、今後も問題にならないといいが……。
(文=大居候)

『学校と先生』『シンドローム』『バンブルビー』~高校生と隕石と、もう戻ることのできない季節の話~

 東京に住むようになって5年がたつ。春が訪れるたびに、街のさまざまな場所に桜が咲いていることに気づかされる。地方出身の私にとって桜は、山に咲くものか、学校の校庭に咲くものであった。とりわけ、4月に咲く学校の桜は新学期への期待と不安を膨らませ、何かが起きるんじゃないか、何かが変わるんじゃないか、そんな根拠のない想像を掻き立てる。

 3月22日発売のおほしんたろう『学校と先生』(ナナロク社)に、こんなセリフがある。

「俺たちゃ17歳だぞ! こんなこともたまには起こるよ!」

 この言葉の通り、高校時代、とりわけ17歳は何が起こったっておかしくない季節なのだ。

 前述のセリフは、1人の生徒の首が授業中に突然伸びたことにより発せられたものだ。『学校と先生』は、ファミ通町内会の伝説的なハガキ職人塩味電気、現在はお笑い芸人のおほしんたろうによる学校を舞台とした初の連作ギャグ漫画であり、こちらの想像を裏切る笑いにあふれている。しかし、この作品をとりわけ魅力的にしているのは、誰かから誰かへのまなざしが描かれている点だ。例えば、新田くんは心にゴリラを飼っている。その話を友人と話す姿を遠くから見つめる水谷さんは、こうつぶやく。

「私以外にも飼ってる人いるんだ、心のゴリラ」

 ご飯をおいしそうに食べる男子はモテるらしいといううわさを聞き、新田くんはおいしそうにお昼を食べるも、女子からは見向きもされない。しかし、屋上から双眼鏡でそんな姿を覗いている人がいる。

 新田くんと小野寺くんは、偶然入ったファストフード店で、学校では昼休みにノリでケツを出す久保くんがペラペラな英語をしゃべり、接客しているのを見かける。

 野球部のキャプテンは、マネジャーの青山がたまにふとさびしげな表情をすることを知っている。

 気づかれることなく誰かをまなざし、まなざされることは、まさに青春であり、愛おしいほどに意味のないギャグや不条理な出来事を支える重要な柱となっている。私が個人的に好きなのは、校庭に隕石が落ちてもそれほど動じず、「野球部の1年が片付けるだろ!」と言う場面だ。何が起きても受け止め日常の一部にしてしまう。そんな季節が17歳なのだ。

 4月9日に文庫化される佐藤哲也『シンドローム』(キノブックス)でも、隕石が落ちる。『シンドローム』は、高校生を主人公としたSF小説だ。この作品の面白いところは、街に隕石が落ち、謎の生命体が侵略してきても、主人公にとってそのことはさほど重要ではなく、常に頭の中にあるのは同級生の久保田葉子のことばかりという点だ。謎の生命体の侵略という非日常と、あの子のことを考える日常が分断されることなく同居しているのだ。

 物語は、主人公「ぼく」の一人称で進行する。「ぼく」は常に頭の中で思弁し、心の動きや目の前で起こることを理性的に捉えようとする。恋に落ちることを非精神的とし、自分がその状態に陥っていないことを、自分でも気づかないほどに自己弁護する。そんな思春期特有の自意識がどこまでも張り巡らされるが、結局のところ「ぼく」は久保田のことが好きというそれでしかないのだ。しかし、思春期の高校生の自意識は簡単にそんなことを認めることはできず、思弁を展開していく。そんな理性的な「ぼく」が唯一、恋を感覚として捉えた瞬間がある。久保田と河原でお昼を食べた時だ。

ぼくは久保田の顎を見つめる。

ぼくは久保田の手を見つめる。

ぼくは久保田の頬を見つめる。

ぼくは久保田を見つめている。

ぼくはまぶしさを感じている。

 好きな人のすべてを見つめたい。そんな一方的なまなざし、それはもう恋でしかないのだ。「ぼく」による一人称の自意識にまみれた語りの中で、川原でのこのひとときは、とても美しく輝いている。

『バンブルビー』もまた、空から何かが落ちてくることによって物語が始まる。家族や同級生との軋轢を抱えた思春期真っ盛りのチャーリーは18歳の誕生日を迎えた日、バンブルビーと出会う。チャーリーはすぐに彼を受け入れ、名前をつける。トランスフォーマーシリーズのリブートとなる本作は、これまでの作品とは一線を画したものとなっている。それは、SFやアクションではなく、れっきとした青春映画であるからだ。宇宙人との出会いや交流といった80年代のスピルバーグ的映画への目配せと、ザ・スミスを筆頭とする音楽の使い方、そして『ブレックファスト・クラブ』(1985)オマージュといった、さまざまな要素が折り重なって、出会い、成長、別れが描かれる。

 個人的に、たまらなかったのは、話すことのできないバンブルビーがカーステレオから流れるラジオの音楽によって会話をするところだ。なんて素敵な設定だろうか。物語終盤、バンブルビーはカーステレオからザ・スミスの音楽のワンフレーズを使ってチャーリーに言葉を投げかける。チャーリーは、「スミスで会話ができた!」と喜ぶ。このシーンは、好きな人と好きなものを共有できた多幸感がギュッと詰まった瞬間だった。CGがふんだんに使われ、非日常なアクションが繰り広げられる中での日常の小さな喜びに、どうしたって感動してしまう。

 この3作は、どれも高校生が主人公だ。そしてフィクションである。17歳の私の首は伸びていないし、地球外生命体も侵略してきていないし、車に変形する友人もいなかった。けれども、そんなフィクションの中に、あの時のまなざしや小さな喜びを見つけ、もう戻ることのできない季節をふと思い出してしまうのだ。

●ミワリョウスケ

1994年生まれ。生活のこと、面白かった映画や演劇、ラジオなどについてブログを書いている。日記をまとめた本の販売も行っている。好きな食べ物はうなぎ。<http://miwa0524.hatenablog.com/

『学校と先生』『シンドローム』『バンブルビー』~高校生と隕石と、もう戻ることのできない季節の話~

 東京に住むようになって5年がたつ。春が訪れるたびに、街のさまざまな場所に桜が咲いていることに気づかされる。地方出身の私にとって桜は、山に咲くものか、学校の校庭に咲くものであった。とりわけ、4月に咲く学校の桜は新学期への期待と不安を膨らませ、何かが起きるんじゃないか、何かが変わるんじゃないか、そんな根拠のない想像を掻き立てる。

 3月22日発売のおほしんたろう『学校と先生』(ナナロク社)に、こんなセリフがある。

「俺たちゃ17歳だぞ! こんなこともたまには起こるよ!」

 この言葉の通り、高校時代、とりわけ17歳は何が起こったっておかしくない季節なのだ。

 前述のセリフは、1人の生徒の首が授業中に突然伸びたことにより発せられたものだ。『学校と先生』は、ファミ通町内会の伝説的なハガキ職人塩味電気、現在はお笑い芸人のおほしんたろうによる学校を舞台とした初の連作ギャグ漫画であり、こちらの想像を裏切る笑いにあふれている。しかし、この作品をとりわけ魅力的にしているのは、誰かから誰かへのまなざしが描かれている点だ。例えば、新田くんは心にゴリラを飼っている。その話を友人と話す姿を遠くから見つめる水谷さんは、こうつぶやく。

「私以外にも飼ってる人いるんだ、心のゴリラ」

 ご飯をおいしそうに食べる男子はモテるらしいといううわさを聞き、新田くんはおいしそうにお昼を食べるも、女子からは見向きもされない。しかし、屋上から双眼鏡でそんな姿を覗いている人がいる。

 新田くんと小野寺くんは、偶然入ったファストフード店で、学校では昼休みにノリでケツを出す久保くんがペラペラな英語をしゃべり、接客しているのを見かける。

 野球部のキャプテンは、マネジャーの青山がたまにふとさびしげな表情をすることを知っている。

 気づかれることなく誰かをまなざし、まなざされることは、まさに青春であり、愛おしいほどに意味のないギャグや不条理な出来事を支える重要な柱となっている。私が個人的に好きなのは、校庭に隕石が落ちてもそれほど動じず、「野球部の1年が片付けるだろ!」と言う場面だ。何が起きても受け止め日常の一部にしてしまう。そんな季節が17歳なのだ。

 4月9日に文庫化される佐藤哲也『シンドローム』(キノブックス)でも、隕石が落ちる。『シンドローム』は、高校生を主人公としたSF小説だ。この作品の面白いところは、街に隕石が落ち、謎の生命体が侵略してきても、主人公にとってそのことはさほど重要ではなく、常に頭の中にあるのは同級生の久保田葉子のことばかりという点だ。謎の生命体の侵略という非日常と、あの子のことを考える日常が分断されることなく同居しているのだ。

 物語は、主人公「ぼく」の一人称で進行する。「ぼく」は常に頭の中で思弁し、心の動きや目の前で起こることを理性的に捉えようとする。恋に落ちることを非精神的とし、自分がその状態に陥っていないことを、自分でも気づかないほどに自己弁護する。そんな思春期特有の自意識がどこまでも張り巡らされるが、結局のところ「ぼく」は久保田のことが好きというそれでしかないのだ。しかし、思春期の高校生の自意識は簡単にそんなことを認めることはできず、思弁を展開していく。そんな理性的な「ぼく」が唯一、恋を感覚として捉えた瞬間がある。久保田と河原でお昼を食べた時だ。

ぼくは久保田の顎を見つめる。

ぼくは久保田の手を見つめる。

ぼくは久保田の頬を見つめる。

ぼくは久保田を見つめている。

ぼくはまぶしさを感じている。

 好きな人のすべてを見つめたい。そんな一方的なまなざし、それはもう恋でしかないのだ。「ぼく」による一人称の自意識にまみれた語りの中で、川原でのこのひとときは、とても美しく輝いている。

『バンブルビー』もまた、空から何かが落ちてくることによって物語が始まる。家族や同級生との軋轢を抱えた思春期真っ盛りのチャーリーは18歳の誕生日を迎えた日、バンブルビーと出会う。チャーリーはすぐに彼を受け入れ、名前をつける。トランスフォーマーシリーズのリブートとなる本作は、これまでの作品とは一線を画したものとなっている。それは、SFやアクションではなく、れっきとした青春映画であるからだ。宇宙人との出会いや交流といった80年代のスピルバーグ的映画への目配せと、ザ・スミスを筆頭とする音楽の使い方、そして『ブレックファスト・クラブ』(1985)オマージュといった、さまざまな要素が折り重なって、出会い、成長、別れが描かれる。

 個人的に、たまらなかったのは、話すことのできないバンブルビーがカーステレオから流れるラジオの音楽によって会話をするところだ。なんて素敵な設定だろうか。物語終盤、バンブルビーはカーステレオからザ・スミスの音楽のワンフレーズを使ってチャーリーに言葉を投げかける。チャーリーは、「スミスで会話ができた!」と喜ぶ。このシーンは、好きな人と好きなものを共有できた多幸感がギュッと詰まった瞬間だった。CGがふんだんに使われ、非日常なアクションが繰り広げられる中での日常の小さな喜びに、どうしたって感動してしまう。

 この3作は、どれも高校生が主人公だ。そしてフィクションである。17歳の私の首は伸びていないし、地球外生命体も侵略してきていないし、車に変形する友人もいなかった。けれども、そんなフィクションの中に、あの時のまなざしや小さな喜びを見つけ、もう戻ることのできない季節をふと思い出してしまうのだ。

●ミワリョウスケ

1994年生まれ。生活のこと、面白かった映画や演劇、ラジオなどについてブログを書いている。日記をまとめた本の販売も行っている。好きな食べ物はうなぎ。<http://miwa0524.hatenablog.com/

出版流通の疲弊が深刻化! 中国・九州地方で本の発売日が、さらに一日遅れに……

 4月から、中国地方と九州地方での本と雑誌発売日が1日遅れになることが、日本出版取次協会(取協)から発表された。流通の維持が困難な状態になりつつある出版業界の現状は、いよいよ深刻化している。

 現在でも、本と雑誌の発売日は首都圏が基準。中国地方では1日。九州地方では2日遅れとなっている。これが4月からは、さらにプラスで1日遅れとなる。原因となっているのは、トラック業界の人手不足。取協によれば「運行管理・労務管理上、法令違反の状態」にあるために、輸送を委託している運送会社から、スケジュールの緩和を求められていたという。

 出版業界の流通コストの増加は深刻だ。これまで出版流通は、雑誌をメインとして、“一緒に本を積む”という形で行われてきた。毎日のように発売される雑誌の存在によって支えられてきたわけだ。

 だが、情報を得る手段がネットへと移行したことで、雑誌の需要は右肩下がりとなり、流通網の維持が困難になっていることは、これまでも指摘されてきた。取協では2017年から、それまで年間5日程度だった土曜休配日を倍以上の13日に設定。今年は15日が予定されている。また、取次各社では出版社への負担増を求めているが、交渉は難航しているという。

「今後も雑誌市場が減少していくのは必然ですから、現在の流通システムが維持できるとは考えておりません。Amazonは独自の流通網を構築していますし、出版社には書店との直取引を拡大しているところも多い。むしろ、これまでの配本システムに頼らないほうが、本は売れるんじゃないでしょうか」(出版社社員)

 戦後しばらくまでは、地方に本を運ぶには輸送費がかかるため「地方定価」という価格設定をしている出版社も存在した。でも、いまさらそんな価格設定を導入することなど困難。抜本的な解決策は、まだ見いだせてはいない。

(文=大居候)

暗いニュースばかりだけれど……書店業界は“復活傾向”のワケ

 出版取次大手の日本出版販売(日販)によれば、今年2月の売り上げが前年同月比で0.5%増となった。その理由は、集客イベントが成果を出したものとしている。書店といえば、近頃「閉店」のニュースばかりで、暗い話が続く出版業界にあって、少しばかりは明るいニュースである。

 書店の閉店ニュースは、今年に入ってから幾度も報じられている。大阪府堺市を中心に12カ所の書店を展開していた天牛堺書店が破産し、全店舗が閉店。同じく大阪にあるスタンダードブックストア心斎橋も4月で閉店。東京では、神保町の老舗であるマンガ専門の高岡書店が3月末で閉店する。

 このほか、全国の新聞記事を拾っていくと、北海道千歳市の文教堂千歳店の閉店など、地域では大きな話題になっている事例が多い。

 こうしたニュースから見えてくるのは、Amazonなどネット書店の拡大により利用する機会が減ったとはいえ、依然として書店には、それなりの需要があるということだ。ネット書店に比べて書店の利点は、その場で本が手に入ることや、偶然の出会いなど、いくつも思い当たる。逆に問題はといえば、注文した品がすぐに届かないことくらい。

 出版統計を見ても、雑誌は年々減っているが、書籍は微減。やっぱりいくらネットが発達しても、情報を得る手段としての本の信頼性は失われていないことがわかる。ゆえに今後書店が生き残るために必要なのは、各種フェアなどを開催して、品ぞろえをアピールすること。さらに、流通網の整備で、注文品がすぐに届く体制を作ることではないだろうか。

 暗いニュースばかりの中で、書店の生き残り策は続く。

(文=是枝了以)

「生まれ変わりました」じゃねえよ……「eBookJapan」がYahoo!ブックストアと一本化でユーザーの怒りが大爆発

「生まれ変わりました」じゃねえよ。3月初っぱなからあちこちで共通の話題になっている老舗電子書店「eBookJapan」とYahoo!ブックストアの一本化。新たな展開による魅力を語り合っている人は一人もいない。ほぼ例外なく、この話題には怒りと不安とが渦巻いているのだ。

 イーブックイニシアティブジャパンが運営する「eBookJapan」は、これまで多くのユーザーの支持を集めてきた。ラインナップが豊富で過去の名作も山のようにある。画質もなかなかよい。何よりも、読むときの閲覧アプリが優れていた。実際の本棚のように背表紙で並べることができ、読書している時の感覚はパソコンでもスマホやタブレットでも、長年慣れ親しんだ紙の本を読む時と遜色はなかった。

「アプリを使えば端末にダウンロードしながらでも読むことできます。それに、シリーズ各巻を並べた時も所有欲を満たすことができるデザインになっていました。そうした優れた要素が一本化によって完全に消滅してしまったんです」(編集者)

 ユーザーが激怒しているのは、アプリの改悪である。これまでの「eBookJapan」のアプリは、サイト上で購入した本を自分の手に持ってきて読む感覚に特化したもの。ところが、新たなアプリはまったく違う。

「本を買って読むという感覚がまったくなくなってしまいました。背表紙で並べることもできませんし、所有している感覚がまったくないのです。おまけに、必要もないのに毎日無料で読めるポイントがつくとは……」(同)

 もちろん、一本化そのものは悪いことではない。だが、これまでのユーザーが満足感を得ていた下地の部分がすべて消えてしまっているのだ。これは「改悪」以外の何物でもない。単にリーダーはそのままに、サービスだけ移行すればよかったのに、もっと本を売りつけようという意思が見え隠れしているのだ。

 それでも、ユーザーは使い続けるしかない。

 なにせ評判の高かった「eBookJapan」ゆえ、会社が潰れて読めなくなってしまうという不安や可能性はほとんどなかった。なので、すでに大量のマンガを所有しているユーザーが多いのだ。筆者も1,000冊程度を所有しているが、これはまだ少ない方。5,000冊どころか1万冊を所有しているユーザーもざらにいるのである。

 つまり、いまユーザーにできるのは「元のアプリに戻せ」と新「ebookjapan」に要求していくことであろう。

 これはきっと、何かの悪い巡り合わせで担当者がマヌケだっただけ。きっと要望が集まれば、すぐに前の状態に戻るはずだ。

 現在も旧アプリは使用できるが、これもいつまでかはわからない。一刻も早く要望を送りつけよう。
(文=昼間たかし)

もう、再販制いらなくないか? 電子書籍で漫画が売れて講談社は絶好調!

 出版不況という言葉も挨拶のようになり、もはや斜陽産業といわれる出版業界。そうした中で、講談社の決算発表が注目を集めている。純利益が前期の64%増加という好調ぶりを示しているからだ。

 2月21日に発表された2018年11月期の単独決算で、講談社は純利益で前期比64%増の28億円。売上高は2%増の1,204億円となったとしている。

 この利益増の理由は、電子書籍が好調なことだ。紙のほうは雑誌・書籍ともに前年を下回っているのだが、デジタル分野の売上高は34%増の334億円だった。けん引役は漫画を中心とする電子書籍で44%増の315億円となっている。いまだ、普及しているのかどうかもはっきりせず、足踏みが続いているように見える電子書籍だが、漫画に限っては、もはや紙に変わって主流になっているといっても過言ではない。

「すでに、漫画では電子書籍が紙と同時発売されるのは当たり前になりました。買いにいく手間もありませんし、紙に比べて若干安価だったり、販売サイトによってはポイントも獲得できます。何より紙の本に比べてかさばらないという利点は大きく、電子書籍が格段に有利なのは間違いないでしょう」(漫画編集者)

 さらに電子書籍の普及を後押ししているのは、頻繁に行われる割引きキャンペーンだ。現在、AmazonのKindleストアでは講談社の電子書籍が最大で実質半額になるセールを実施しているが、漫画ではこうしたキャンペーンが頻繁に行われている。紙の本は再販制の存在ゆえに、割引が困難。対して、割引が容易な電子書籍は、出版社が値段を下げてでも売りたい話題作を扱うのに適したシステムとなっている。

「紙の本は定価で販売することが常識でしたが、もし広く読者を獲得しようとするならば、期間限定のセールが実施されてもよいはず。今の時代、定価販売にこだわるような再販制を維持する必要もないんじゃないかと思います」(同)

 やはり、電子書籍が出版業界を次のステージへと移行させるカギとなるのか。
(文=大居候)

Amazonが始めた本の買い切り交渉、売れない出版社ほどAmazonの恩恵を受けている“不都合な真実”

 いよいよ出版業界は激変するのか。Amazonの日本法人「アマゾンジャパン」が、出版社を相手に買い切りの交渉を始めていると一部メディアが報じている件に、業界は戦々恐々としている。

 これまで、出版業界では雑誌と書籍の販売は、再販制度による委託販売がほぼ常識。書店側は、契約によって出版社の指定する定価で販売しなければならないが、その代わりに売れ残ったものについては返品することができる仕組みになっている。

 出版業界では、この制度があることによって多種多様な雑誌・書籍が出版され、全国のどこでも同じ価格で買うことができるとしてきた。

 例えば、業界団体である日本書籍協会のサイトでは、制度がなくなった場合には、本の種類が少なくなり、内容は偏りを見せ、遠隔地は都市部より本の価格が高くなるなどの弊害が生じるとしている(http://www.jbpa.or.jp/resale/)。

 ただ、現実は大きく変貌している。すでにAmazonをはじめ、ネット書店は巨大なシェアを占めるようになり、どこにいようと同じ価格で、しかもリアル書店よりも多種多彩な本が買えるようになっている。そして、シェアを拡大する電子書籍は再販制度の対象外として、割引は当たり前。それこそKindleユーザーの中には、毎日割引セールをチェックしているという人も多い。

 アマゾンジャパンとしては、出版社との交渉が実を結べば、大部数が売れる本については割引も実施できると見込んでいると思われる。ただ、それは売れない本の切り捨てにつながるのではないか? というのが、出版業界の危惧するところだ。

「再販制度がなくなれば、少部数の専門書は売れなくなり、さらに高価格になるとされてきました。しかし、現実には書店の店頭に並ぶ本が売れ筋ばかりになっています。少部数のマニアックな本がもっとも売れている書店は、Amazonなんです」(出版社社員)

 再販制度の維持を主張し、Amazonをどこか敵視してしまう出版社も、実際にはAmazonのおかげで会社が維持されていることは認めざるを得ないのが現実。とりわけ地方在住者にとっては、Amazonはリアル書店よりもよっぽど便利なことは紛れもない事実である。
(文=大居候)

個人主義の時代を生き抜くために──現代によみがえるアドラーの原著『生きる意味』

 アドラー心理学ブームが続いている。2013年、アドラー心理学を対話形式でわかりやすく紹介した岸見一郎氏と古賀史健氏の共著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)が、176万部の大ベストセラー(2018年5月31日調べ)となり、出版されてから5年がたった現在でも、売り上げランキングの上位を占めている。同作は韓国でも115万部を超えるベストセラーとなり、舞台化・TVドラマ化も果たした。『嫌われる勇気』の成功以来、ちまたにはアドラーの名を冠した関連書籍があふれ、“アドラーバブル”の状況が今なお続いている。

 アドラーの名前を借りた書籍は数多くあるが、アドラーの著した原著はそれほど読まれているとはいえないのが現状だ。『生きる意味 人生にとっていちばん大切なこと』(興陽館)は、アルフレッド・アドラーが1933年に発表した心理学の古典だ。自我やコンプレックス、子どもの成長、精神疾患などについて、臨床例を交えて具体的に説明している。

 そもそもアドラー心理学とは一体どういうものなのか。アルフレッド・アドラー(1870年~1937年)は、20世紀初頭に活躍したオーストリアの精神科医で、フロイト、ユングと並ぶ心理学界の三大巨頭とされている。フロイトのウィーン精神分析協会の中心的メンバーだったが、のちに学説上の対立から脱退した。アドラー心理学の主な特徴として、過去の特定の出来事(トラウマ)に起因して現在があるのではなく、現在の在り方は今何をするのかを選択できるとする「目的論(トラウマの否定)」、特定の人から嫌われないように生きる人は自分の人生を生きておらず、幸福になることはできないとする「承認欲求の否定」、他者が自分のことをどう思うのかは他者の課題であり、そこに介入することはできないとする「他者と自分の課題の分離」、人は共同体への貢献で幸福になれるとする「共同体感覚」への言及などが挙げられる。

 本書では特に「共同体感覚」について繰り返し述べられている。アドラーは他者との生活、仕事、愛の3つの問いを揚げ、全ての悩みは対人関係の中で生じ、これらは人類にとって避けられない命題であるとしている。他者と生きる共同体感覚が十分に育っていない人は、これらの問題を正しく解決できず、職場や学校など共同体への所属に問題を抱え、自殺、犯罪、依存症、神経症、精神障害などが誘発される危険があるのだという。では、共同体感覚を身につけ、人生の問題を解決するにはどうすればいいのか。適切なマナーを身につける、身体器官の文化的機能(コンプレックス)を受け入れる、遊び・学校・修業のなかで協力の準備をしていく、異性を尊重する、こうしたすべての問いに対して肉体的にも精神的にも準備を整えるなど、アドラー先生はなかなか手厳しい。

 他者と自分の課題を明確に区別していることから、アドラー心理学は「個人心理学」と呼ばれ、それゆえ個人の時代を生きる現代人に強く訴えるのだろう。戦前の著作であるため、古い面があることは否めないが、それでも承認欲求や共同体感覚の論考は深く共感できる。SNSなどが発達し、人間関係で息苦しい現代において、心理学の名著は生きる意味を見いだすための道しるべとなってくれることだろう。
(文=平野遼)

カテゴリー: 未分類 | タグ: