「悪魔祓い殺人事件」、信者6人殺害の“拝み屋”江藤幸子の金と男

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世間を戦慄させた殺人事件の犯人は女だった――。日々を平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。彼女たちを人を殺めるに駆り立てたものは何か。自己愛、嫉妬、劣等感――女の心を呪縛する闇をあぶり出す。

[第16回]
福島悪魔祓い殺人事件

 1995年は今から振り返っても異様な年だった。1月、阪神大震災、3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件、当時の警察庁長官・国松孝次狙撃事件。そして一連のオウム事件――世の中全体が不安と不穏な空気で充満していたのが95年だ。そして、この年7月に発覚した「福島悪魔祓い殺人事件」もまた、この時代にふさしい異様なものだった。

 ことの発端は95年6月18日早朝、1人の老女が福島県須賀川市の「女祈祷師」を訪ねたことだった。老女には石田秀子(33)という娘がいた。しかし最近、娘とその家族と連絡が取れないことを不審に思っていた。娘一家は、孫のぜんそくを診てもらっている女祈祷師である江藤幸子(47)に心酔しているらしい。老女は胸騒ぎを覚え、女祈祷師の元に急いだ。

「結婚して主婦」の常識の下に消えた、「上尾主婦レズビアン殺人」の女囚人

<p> 昭和52年、2人の関係が始まってから2年がたとうとしていたが、歯車は少しずつ狂っていく。この頃、佳子の夫の不動産業が不況のため倒産したのだ。そのためセールスマンに転身した夫だったが、当然収入は激減した。佳子にとってこの事態は、恋人に貢ぐ軍資金の枯渇に直結した。佳子は質屋に行くなど必死に資金繰りをして愛に貢ごうとした。</p>

恋愛感情と金銭、男への嫉妬が交差する「上尾主婦レズビアン殺人事件」

<p> 現在ヨーロッパやアメリカ、南米など多くの国で同性愛者同士の結婚が認められるようになったものの、近代において同性愛、特にレズビアンは奇異な目で見られてきた。それゆえレズビアンを巡るいくつかの“事件”も起こっている。</p> <p> 明治44年、新潟県糸魚川町海岸で20歳の女性2人が入水自殺した。2人は女学校の同級生で、周囲からも同性愛関係だったとわかるほどの親密さだった。だが卒業後女性1人に縁談が持ち上がり、それを悲観して糸魚川から身を投げたといわれている。大正14年には未成年の女性2人が多摩川に入水心中をした。また昭和24年には、都内女子大学の校舎から、2人の卒業生が飛び降りた。これも女性の1人が幼い頃からの婚約者と結婚させられようとしたことがきっかけだった。</p>

実子を溺愛し、継子を疎む母の闇――「連れ子殺人・人肉食事件」と現代の義家族

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(前編はこちら)

 天川ハツ(仮名32)が、義理の娘トラ(仮名17)を殺害してから7カ月後、戦争も終わった10月に不審に思った巡査の追及によって事件は発覚した。戦時中の食糧難による人喰い事件。その背景には、いくつかのキーワードが存在する。義理の関係、知的障がいと食糧難である。
 
 義理の親子による虐待は現在でもあり得る事例だろう。警察沙汰になるほどの幼児虐待の中には、内縁関係や、再婚による義理の関係が介在していることも多々見受けられる。その象徴的事件が平成16年の岸和田中学生虐待事件だ。実父と継母が当時中学3年の長男を餓死寸前まで虐待した事件である。長男は体重が24キロと餓死寸前で保護され、意識を回復したが知能は著しく低下してしまった。

知的障がいの義娘を食べるために殺害した継母、「群馬連れ子殺人・人肉食事件」

<p> 戦後、日本の犯罪史上において人肉食事件といえば、昭和56年の佐川一政によるパリ人肉事件が最も有名だろう。パリ留学中の佐川が友人女性を殺害した上で、その人肉をフライパンなどで調理し食したという猟奇事件。佐川の特殊な性的嗜好における人喰い、カニバリズムは大きな話題を呼んだ。<br /> </p>

恩赦された女死刑囚の数奇な軌跡――貧困と抑圧された2つの家族に生きた女

<p> 事件以前から金城義男(仮名)は、私生児であり夫にも恵まれない山本宏子を不憫に思い、親身に相談に乗るだけでなく、時には金を貸していた。だが、そんな義男も結核を患うようになり、家の1階で寝たり起きたりの生活を送るようになっていた。一方、妻の菊代(仮名)は気性が荒く周囲からも“鬼婆”といわれる女性であり、病床にある夫に対してつらく当たったという。夫から結核を移されることを恐れ、2階で家庭内別居という生活だった。宏子は、そんな菊代に憤りの感情を持ち、菊代に代わり義男の世話をなにくれと焼いていたという。<br /> </p>

戦後初の死刑確定囚・山本宏子、主婦からの共感を集めた貧困の中の殺人

<p> 戦後初めて、死刑を“執行”された女性囚は日本閣事件の小林カウだ。しかし戦後初めて、死刑判決が“確定”したのは山本宏子である。</p> <p> 宏子は大正4年(1915年)兵庫県菅野村(現・姫路市)に生まれた。私生児だった宏子だが、結婚前は三味線や舞踊などを嗜み、看護婦の職を持った職業婦人でもあった。その後見合いで婿養子を貰い、看護婦を辞め家庭に入る。しかし、この結婚から宏子の人生は大きく変わっていく。夫は病弱だったが7人の子どもに恵まれ、うち3人は幼児期に死亡したが4人は元気に成長していった。</p>

「男の従者」という解釈と戦った女兵士――「東アジア反日武装戦線」もうひとつの闘争

<p> 筆者の周囲にも全共闘世代の“おやじ”が数多くいるが、「学生運動、闘争は出会いの場」でもあったらしい。闘争する男を助ける女――当時はそんな構図もあった。実際、デモや闘争をするのは男子、女子は男子のために食事を用意する。時にはアパートで休息をとらせる。女は「アジトと食べ物とセックス要員」といったことも実際にあったらしい――そのため、学生運動をきっかけにウーマンリブ運動が日本でも起こったほどだ――。当時「愛と革命に生きる」という言葉が流行ったというが、東アジア反日武装戦線の女たちを見ると、彼女たちの思いとは別に、当時の男女の役割の構図を見るようで切ない。というもの、彼女たちは共通して医療や薬品に関する知識を持っている。そのため爆弾の原料調達を行ったとされるが、これが偶然なのかどうか――。<br /> </p>

真面目さの奥に芽生えた“目的”に生きた、「東アジア反日武装戦線」の女たち

<p> 1974年8月30日正午過ぎ、東京丸の内の三菱重工業東京本社ビルが突然爆発した。ビル1階の玄関ロビーはメチャクチャに破壊され、強烈な爆風のためビルの窓はすべて吹っ飛んだ。その威力は凄まじく、三菱重工ビルだけでなく、周囲ビルのガラス破片も道路に降り注ぐ。表通りにも多くの人々が倒れ、血だらけの負傷者が多数助けを求めるなど、オフィス街は一瞬で大惨事の様相を呈す。周囲が騒然とする中、次々と負傷者たちが運び出されていく。この爆破により、三菱重工社員、通行人の計8人が死亡(ほとんどが即死)、負傷者は400人以上という未曾有の被害を出したのだ。</p>

肥大した大衆の好奇心と芸能マスコミの餌食となった「高島家長男殺害事件」

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前編はこちら

 スター一家を襲ったあまりにも痛ましい悲劇――。もちろんマスコミもこの事件を大々的に伝えていった。事件発生直後から高島家には200人を超える報道陣が殺到、空にはヘリコプターも飛び、メディアは家の様子を伝える。大手紙の朝日新聞でも社会面の大半を使い「高島忠夫の坊や殺される」と大々的に報じた。もちろん、ほとんどの主要週刊誌も追随する。

 だが当時の報道をあらためて見ていくと、現在でいうメディアスクラムという面は否めない。そこには未成年であった加害者・美恵への配慮はほとんど感じられない。いや加害者、それどころか被害者遺族である高島夫妻に対する偏見と批判さえ噴出したことだ。スター夫妻の悲劇はマスコミの格好の餌食となっていく。