「一生懸命セックスした」不倫4年、男の子どもを殺めた女が語る“愛の証し”【葛飾区女児誘拐殺害事件・前編】

世間を戦慄させた殺人事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。彼女たちを人を殺めるに駆り立てたものは何か。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――女の心を呪縛した闇をあぶり出す。

 下町の風情の残る東京都葛飾区で「仙石商店」(仮称)を営む石崎伸一(仮名・37)は、若くして親から受け継いだ会社を切り盛りする“下町のプリンス”だった。妻・聡子(35)との間に、中学生の長男と、小学生の長女がいたが、彼にはもう一つ別の生活があった。

 仕事の合間に、隣町のアパートへカブを走らせる。ピンクのカーテンがかかる部屋の窓から、細面で目鼻の整った美女が顔を出し、カブに乗る男へ笑顔で手を振る。仙石商店の事務員・八文字美佐子(25)だった。伸一と美佐子は家主に「新婚」だと伝えていたが、実際は妻の目を盗み情事に耽る不倫関係にあった。

 約4年前から続く関係にほころびが生まれた時、一人の少女が命を奪われた。

[第2回]葛飾区女児誘拐殺害事件

 伸一の長女で、小学2年生だった石崎弥生ちゃん(8)が姿を消したのは、昭和49年10月17日のことだった。住居と事業所が一緒になった仙石商店で、この日、両親は従業員の結婚式のため不在にしていたが、下校してきた弥生ちゃんはそれを聞かされていなかった。

「だれもいないのでアタマにきた。友達のうちに遊びに行く」

 こう従業員に話して家を出て行くが、その後、足取りは途絶える。見つかったのは約2週間後の10月30日。自宅から車で一時間あまりの距離にある、埼玉県大宮市の雑木林でだった。刺し傷の認められる遺体はすでに腐敗が始まっており、一部はセメントで固められていた。

 弥生ちゃんは、2年生だったが身長は135センチ、体重は40キロ近くあり、4〜5年生に見えたという。活発な子で向こう気も強く、同年代なら男の子と喧嘩をしても引けをとらなかった。

 発育がよいということだけでなく、別の意味でも近所で目立っていた。近隣では「金回りのいい家の子」と見られていたのだ。千円札を2〜3枚つかんで菓子屋へ買い物にきて、たくさんお菓子を買っては近所の子に分けてやる。一人でタクシーに乗って友達の家に遊びに行くこともしばしばあり、家から3万円も持ち出して叱られたこともあった。大人のような長いドレスを着たり、かかとの高い靴を履いているところを見た人もいる。

 年齢より大人びて金回りの良さが知られた家の娘であることから、当初はわいせつや金銭目的の誘拐の線でも捜査がなされたが、捜査員たちは怨恨の線に勘が働いた。

 葛飾区堀切のブリキ職人の長女だった美佐子は、中学を卒業して近くの街工場などでしばらく働いた後、日本舞踊師匠の家に内弟子として住み込んでいた。その傍ら、都立の定時制高校に通う日々。美佐子は、その際立った美貌から高校時代には「マリア」と呼ばれ、近所の者たちからは「下町の吉永小百合」と称されていた。その美佐子を、仙石商店の事務員としてスカウトしたのは、同じ舞踊師匠のところへ習いに行っていた聡子だった。「下町のプリンス」伸一と特別な関係になったのは、美佐子が仙石商店に雇われて8カ月目の、昭和46年3月以降のことだった。

 美佐子は、初めて関係を持った経緯をこう明かす。

「私が、首筋が痛いって言ったら、社長さんが『俺は柔道をやっていたから直してやる』と言いまして家の中に入りました。元は1階の部屋でマッサージをしていただきましたが、そのうち社長さんが『ここだとみんなに変に勘違いされるから、二階に行こう』って言うので、二階の部屋に行って、そこでされるままに関係しました。

 1週間後にアメ横でネックレスを買ってもらってから、ホテルニューオータニのスカイラウンジへ連れて行ってもらいました。私はああいうところへ行ったのは生まれて初めてだったんです。そこで社長さんに『これから俺と冒険してみないか』って言われて、“奥さんに隠れて浮気しよう”という意味だと思いました。でも幸せな気持ちになりました」(公判での供述)

 数回の遊びでは終わらなかった。美佐子はその理由をこう続ける。

「社長は、最初、私と2、3回浮気するつもりだったらしいんです。ところがいざ関係してみると、私が性的な面ですごく気に入ったので離せなくなってしまったと言っていました」

 美佐子が伸一に深くのめり込んだのは、彼が“初めての男”だったから……というだけではく、“不倫男の典型的なセリフ”を繰り返す伸一を、美佐子が完全に信じていたことも大きい。

「社長はいつも私に(奥さんのことを)『すごく嫌な奴だ』とか、『死ぬといい』とか、『1日も早く別れたい』というようなことを言っていました」

 ホテルや車の中での情事が終わると、ピロートークで伸一は「妻とは離婚して美佐子と結婚する」「千葉県に新工場を作ってそこへ単身赴任し、家族とは別居して二人で暮らそう」など甘い言葉を美佐子につぶやき、彼女は本気になった。だが、夫婦は離婚することなく、約4年がたとうとしていた。

 関係が始まりほどなくして、伸一は美佐子との密会のために足立区にアパートを借りた。しかし、やがて聡子がこれに勘づき、アパートに怒鳴り込んだことから、美佐子は一旦実家へ戻ったのだが、諦めきれない伸一は、もう一度秘密でマンションを借りて2人の愛の巣を準備した。そんな中で、美佐子は会うたびに伸一とセックスに励んでいたが、これは彼女なりの“考え”があってのことである。

「これは、私がセックス好きだからではありません。私は社長が奥さんと浮気できないようにするため、一生懸命セックスしたんです。社長さんは関係を持つ時、他の女性との物語を聞かせるんです。

 だから私も『私だって何人もの男性と経験あるのよ』と嘘を言いました。社長さんは、絶対に奥さんとは『浮気』しないと断言して、その証しとして体にマジックで印をつけてくれ、とも言ってきました」

 美佐子は、セックスの数こそ二人の愛の証しを示すものとの考えから、46年秋から性行為の記録「ラブ・ノート」をつけ始める。

「これだけ連日肉体関係を結んでいるのだから、夫人と『浮気』するはずはない」

 ノートにその記録を書き足すたび、美佐子は自分に言い聞かせていた。

 しかし、終わりの始まりとなる、ある出来事が起こる。

――後編は6月10日更新

「白雪姫」の“セックス恐喝”――欲望に殺された男たち【福岡スナックママ連続殺人・後編】

 福岡県糟屋郡志免町。志免鉱業所を要するこの町がかつて石炭の街として大いに栄えていた頃、その愛くるしさから近所の人に「白雪姫」ともてはやされた少女がいた。やがてその少女は大人となり、故郷を捨て、その美貌を武器に、数多くの男を陥れてゆく。

(前編はこちら)

「こう見えて床上手なのよ」ミニスカートで客に囁く

 2人目の夫・雄司さんの死亡保険金と、3階建の豪邸を売却した高橋裕子の手元には、会社の負債を返済してもなお約1億6000万円が残った。再び裕子の散財が始まる。福岡市中央区の高級マンションを購入し、クレジットカードで高級アクセサリーや服を買い漁る日々。中洲を飲み歩いているとき、スナックの開店を思いついた。

 手元の金を元手にして、1995年初頭、博多・中洲にスナック「フリージア」を開店。苦しめられた借金から解放され、自分の店を持ち、自由を手にした裕子の女性としての魅力はさらに増していた。客あたりがよいだけでなく、熟した美貌はさらに男性を惹きつける。39歳ながらスタイルも抜群で、ミニスカートのスーツですらりとした脚を出し、カラオケで森高千里の「私がオバさんになっても」を熱唱する姿に客たちは見惚れた。客が歌うカラオケには「キーを下げた方がいい」と音大卒ならではのアドバイスも忘れなかった。

 そんな裕子の切り盛りするカウンターだけの店は、次第に常連客が増え人気店となる。その秘密は裕子の美貌や話術だけではない。複数の客と肉体関係を持っていたからだ。「初恋の人にそっくり」。そんなセリフに相手が乗ってくれば「私、こう見えて床上手なのよ」と誘いをかけ、「フリージア」のカウンターは“裕子待ち”の年上男たちで満席となった。

 この時期、一人の男が上司に伴われ「フリージア」に来店した。赤尾浩文(仮名、当時48)は店で裕子と話をしながら、あることに気づいた。かつて赤尾が早稲田大学の学生だった頃、キャンパスで見かけた女性だったのだ。ほのかな憧れを抱いていたが、のちに慶應大生と結婚したと聞いていた。かつて恋した女性が目の前にいる。赤尾は瞬く間に裕子に再び熱を上げ、店に通い詰め、とうとう肉体関係を持った。恋心はさらに燃え上がり、逢瀬を重ねて行く。

 しかし半同棲状態となってもなお、裕子にはほかの男の陰がいくつもあった。自分だけのものにすることはできないもどかしさを抱えながら、赤尾は東京へ転勤となるが、裕子は「二人の関係を奥さんにバラす」と脅してきた。携帯電話の着信を無視すれば、会社にも電話がくる。結局250万円を支払ったが、赤尾はそれまでにも「経営が思わしくない」と相談を受けるたび裕子に金を貸しており、その総額は約2800万円にもなっていた。

 実際に「フリージア」の経営は思わしくなかった。枕営業で客をつなぎとめても、裕子の散財は、雄司さんとの結婚時代のように止まることはなかったからだ。ベンツを乗り回し、クレジットカードで服を月に何十万円も購入し、中洲で飲み歩く裕子には金がいくらあっても足りなかった。そのためこの時期、赤尾を誘い、過去に肉体関係を持った客らを、かつて赤尾にしたように脅し、金を巻き上げていたのである。「過去の不倫関係を奥さんにバラす」と訴え、客が工面して100万円を振り込むと「あと100万円出しなさいよ」と続けて金を引っ張ろうとする手口だ。また別の客には妊娠と中絶をほのめかした。もちろん嘘だ。

「妊娠した子どもはあなたの子どもだったんです。術後の体調もよくない。体がボロボロになってしまった。こんな体にして、どうしてくれるの……」

 客が慌てて金を振り込んでも、やはりこう言うのだ。

「なによ、あの額は。一桁違うじゃないの。私をオモチャにして……」

 裕子はこうして、男たちから引っ張れるだけ金を引っ張った。被害者は9人で1000万円強にのぼった。

3人目の夫に1億3800万円の保険金をかけ殺害

 その一方で、裕子にはこのとき、結婚を約束している9歳年上の常連客がいた。のちに3人目の夫となり、2人目の殺人被害者となる高橋隆之さんは、デベロッパーの社員として青森県の高級旅館の総支配人をしていたが、出張で福岡を訪れた際に「フリージア」へ来店。たちまち恋に落ちた。単身赴任中の彼も雄司さんと同じく、東京に妻と、成人している子どもたちがいた。隆之さんは、やはり妻子を捨て99年6月、裕子と入籍する。その後、広島県福山市のホテルの支配人となったが、まもなく親会社が倒産し、職を失い、「フリージア」でボーイとして裕子を手伝っていた。

 だが、その翌年、自宅の浴槽で死体となって発見される。その日、隆之さんはウイスキーと睡眠薬を飲み、浴槽で朦朧としていたが、裕子がその胸を押さえつけ、全体重をかけて浴槽に沈めたのだった。しばらく浮き上がろうと手足をばたつかせて抵抗を見せていた隆之さんの口からは、30秒ほどすると「ゴボッ」と泡が出て、動かなくなった――。隆之さんには、総額1億3800万円もの保険金がかけられていた。

 隆之さんの死亡は、中洲の街に瞬く間に広まった。「あの店には幽霊が出る」とうわさが立ち、客足がさらに遠のいたが、閑古鳥の原因はもう一つのうわさにもあった。「あそこのママには気をつけたほうがいいよ、一度寝たら50万、100万と脅される」と、他店のホステスたちが囁いていたからだ。実際、肉体関係を持った客たちを脅しては大金を得ていた裕子だったが、経営状態は上向きなるどころかさらに傾き、2001年、「フリージア」は閉店した。隆之さん殺害前に、雄司さん殺害で得ていた保険金はすでに底を尽きていた。

 その後も、かつて肉体関係のあった男性らに連絡をとって脅し、金を要求し続けていた裕子。「あなたの子を中絶したから200万円払ってください」「100万円出さないと、奥さんに全てを話す」と脅しては金をゆすり取っていた。一連の“セックス恐喝”により得た金で裕子は、逮捕直前までホストクラブやパチンコで湯水のように金を使う日々を送っていた。

「彼女は常連客で、ここ1年はほぼ毎日40〜50代の男性と2人で来ていた。男は3〜4人いたはずです。いつもヴィトンのバッグを手にしていたので、店では影で“ヴィトンさん”と呼ばれていた」(福岡市内のパチンコ店の証言)

 肉体関係を持った男たちを強請って金を得る生活には必ず終わりが来る。だが、裕子はかつてのように享楽的な生活を続けていた。また、この時すでに48歳となっていた裕子だが、年齢を重ねてもなお、男の目を引く存在だった。当時の男性週刊誌は逮捕直前、ノースリーブのワンピースに自転車でパチンコ店に向かう裕子の姿をキャッチし、「48歳でこの色香」と描写している。

「美貌に恵まれた女」
「男を次々と……」
「何人の男を狂わせたのか」

 ……逮捕後、男性週刊誌に掲載された裕子の写真には、いつもこんな文章が添えられていた。裕子も自分の魅力は十分自覚していたことだろう。それゆえに自己愛と欲望は肥大し、そして破滅へと向かっていった。

 04年12月13日、福岡地裁で開かれた裕子と大和の初公判。冒頭で裕子は挙手し発言を求め「私は全て認めています。本当に申し訳なく、死刑になっても構わないと思っています」と、涙ながらに述べた。だが、以降の公判では、2人目の夫・雄司さん殺害を大和になすりつける。

「共犯者(大和)から『任せてください』と言われました。私から『殺してくれ』と依頼していません」

 裕子の逮捕時、雄司さん殺害に関係していたとして、大和も逮捕された。大和は「共謀した事実は全くない。実行行為に加わったというのは完全に事実に反します」と、無実を主張し、これを“なすり合い”と報じるムキもあったが、結果的に大和の言い分は控訴審で認められ、無罪となった。そして、自身も強請られ、また客を強請って分け前を得ていた赤尾も逮捕されており、裕子の初公判が始まる2週間前、懲役2年執行猶予3年の有罪判決が下されている。

 かたや裕子は、3人目の夫・隆之さんに対しても「私が湯の中に沈めたというのは事実に反する」と否認したが、2件の殺人ともに彼女が手を下したと認定され、一審で無期懲役が言い渡された。一審公判は31回にもおよび、拘置所生活も2年半が過ぎていた裕子の頭には白髪が目立つようになり、かつて中洲で奔放に過ごしていた頃の面影は微塵もなかった。

 裕子は控訴、上告したがいずれも棄却され、11年4月、無期懲役が確定している。フリージアの花言葉は「期待」。裕子が男たちに抱いていたカネへの期待は、いつしか強烈な要求へと変貌し、それは到底、彼女の欲には追いつかなかった。
(高橋ユキ)

参考資料
・「週刊文春」2015年8月6日号、7月30日号(小野一光「殺人犯の対話」)
・「女性セブン」2004年10月21日(「われらの時代に」)
・「週刊文春」04年8月30日号
・「フライデー」04年10月8日号
・「アサヒ芸能」05年5月5日号 04年10月21日号
・「週刊ポスト」07年8月31日号
・「アサヒ芸能」04年10月28日号
・「週刊ポスト」04年10月8日号

木嶋佳苗死刑囚、三度目の獄中結婚――「佳苗さんを好きになることは、宗教を信仰することと一緒」被害者が口にしていた言葉

 2009年、“婚活連続不審死事件”で逮捕され、17年5月に死刑判決が確定した木嶋佳苗死刑囚。「セレブブログ」「婚活サイト」「高級料理学校」「ブランド品」「高級外車」といった木嶋死刑囚を形容するキーワードや、「テクニックではなく、女性として本来持っている機能が高い(と男性から褒められる)」「(騙し取ったお金は)借りたお金ではなく、いただいたお金なので返す必要はない」などの本人の発言が世間の注目を浴びたが、ここにきて、またしても話題を集めている。

 4月25日発売の「週刊文春」(文藝春秋)によると、木嶋死刑囚は「週刊新潮」(新潮社)デスクと昨年結婚し、これは三度目の獄中結婚になるという。ネット上には、「木嶋佳苗の恐ろしさが際立つ」「殺人犯でありながら、これだけの人を惹きつける不思議」「ブスとか美人とか若いとかおばさんとか関係ないところにこの人はいる」「事実は小説よりなんとやら……」と驚嘆と戸惑いの声が続出し、波紋を広げている。

 サイゾーウーマンでは、2012年から木嶋死刑囚の公判を追い、その人物像や事件像を考察した記事を掲載。被害者の1人が、「佳苗さんを好きになることは、宗教を信仰することと一緒」と口にしていたことや、セックスに関する具体的な発言も収録している。「木嶋佳苗」という女に、なぜ世間は熱狂してしまうのか。この機会に、あらためて読んでいただきたい。

(すべて取材・文/神林広恵)

女としての自信と”落差”、騙される男たち……木嶋佳苗という女の闇を追う

「とにかく頭が良かった」中学時代の木嶋佳苗、その異常なる行動力と冷静さ

“セックス”の意味に揺さぶりをかける、木嶋佳苗の男と金の価値観

良家の子女の顔と窃盗癖の顔……木嶋佳苗の10代と上京後

木嶋佳苗の巨大な欲望の前に打ち砕かれた、男たちの“儚い夢”

死刑という“現実”を凌駕した女……裁かれたのは木嶋佳苗の人格か

木嶋佳苗に翻弄された検事、記者、それぞれの“法廷ショー”

木嶋佳苗の268通の直筆手紙が語る、「殿方に愛される私」の饒舌さ

木嶋佳苗の私小説『男性礼賛』、セックス自慢に消された「死刑判決を受けた私」

さくら夫人の出現は必然だった――木嶋佳苗、上田美由紀、京都・筧千佐子から『後妻業』へ

15年にわたる実父の強姦が黙殺された「栃木実父殺し」から現在――社会に排除される女性と子ども

 3月26日、愛知県で実の娘と性交したとして、準強制性交の罪に問われた男性に「無罪」判決が言い渡された。報道によると、被害者である娘は中学2年の頃から性的虐待を受け続け、2017年、当時19歳の時に起訴。裁判長は、性的虐待があったとした上で「性交は意に反するものだった」と認定。一方で「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として、父親に無罪判決を言い渡したという。

 同28日には、静岡県で当時12歳の長女に乱暴したなどとして、強姦と児童買春・ポルノ禁止法違反の罪に問われた男性が強姦の罪のみ「無罪」となった。被告は、17年6月、12歳だった娘と無理やり性交したとして、昨年2月に起訴された。約2年間にわたり、週3回の頻度で娘は性交を強要されたと検察側は主張したが、家族7人暮らしの上、狭小な自宅において「家族がひとりも被害者の声に気付かなかったというのはあまりに不自然、不合理」として、「被害者の証言は信用できない」と無罪判決。

 これら事件が相次いで報道されたことで、ネット上には怒りの声や、絶望のコメントが続出。「子どもは一体、誰に助けを求めればいいのだろう」「娘に無理矢理性暴力しても、大量の酒飲ませて酩酊状態にさせて強姦しても、無罪なのは本当にワケがわからない」「この類いのニュースが多くて、ほんと女性の立場の弱さを感じる」「裁判官は、女に生まれて父親に強姦されても『抵抗しなかった』からって無罪にされて納得いくの?」などと、やりきれない思いや疑問があふれ返っている。

 かつて、中学2年の少女が15年間にわたって、父親から性暴力を振るわれた上、妊娠、出産、そして父親を殺害という事件があった。家族9人が狭小の借家で生活する中で、父親は娘を犯し続けた。サイゾーウーマンでは、この事件を取り上げ、考察した記事を掲載している。悲しき事件から50年がたった現在、近親相姦や性暴力の状況は何が変わり、変わらないままなのか。再掲するこの機会に、ぜひ読んでいただきたい。
(編集部)


(初出:2013年2月18日)(取材・文/神林広恵)

[第10回]
栃木実父殺し事件(尊属殺法定刑違憲事件)

 昭和43年10月5日3人の子持ちの女、浅川サチ(29・仮名)が、父親の政吉(52)を殺害したとして逮捕された。罪名は刑法200条にあった“尊属殺人”である。現在では聞きなれない罪状だが、当時は歴然と存在していた罪だ。名前の通り、自分または配偶者の直系尊属――父母、祖父母、曽祖父母――に対する殺害であり、通常殺人より重い<無期または死刑>という罪が科せられるものだった。今の感覚からは時代錯誤で、人権、平等といった法理念からかけ離れたものだ。しかし家父長制度、家庭という社会的基盤維持、儒教的考えなどから、当時親殺しは重罪とみなされていた。

 だがこの父親殺しの背景には、サチに同情すべき事実が存在した。サチと父親の間には長年にわたる近親姦関係の強要、その上での妊娠、出産といったおぞましくも悲しい事実があったのだ。そのためこの事件は「尊属殺の重罰規定は法の下の平等に違反する」と、憲法議論にまで発展していく。

 サチが初めて父親に犯されたのは昭和28年、サチが中学2年14歳の時だった。父親の政吉は勤勉とは言いがたく一家は貧困だった。当時の浅川家は栃木県内で、両親と長女サチを含む子ども7人の計9人が、狭い2間の借家に暮らしてた。

 ある夜、酒を飲んだ政吉はサチを無理やり犯した。突然のことで訳もわからないサチは大声を出すこともできず、近くで寝ていた母親のコウはこれに気づかなかったという。その後も政吉は母親の目を盗んでは頻繁に実娘の体を求めた。「母ちゃんに言ったら承知しない」。政吉は事あるごとにサチに口止めし脅した。

 それから1年、ついに堪えきれなくなったサチは母親にことの次第を打ち明ける。父に従順な母だったが、この時ばかりは驚き政吉を責め立てた。「実の娘によくもそんな恐ろしいことを」。しかし政吉は開き直り、刃物を持ち出し狂ったように暴れた。「自分の娘を自由にしてどこが悪い!」。娘を守ろうとする母親をボコボコに殴った。母はサチを親戚宅に逃がそうとしたが失敗、その後政吉の暴力はより一層激しさを増し、人が変わったようにサチに執着した。母親は堪え切れず、下の子ども2人を連れて北海道の実家に逃げるように帰ってしまう。

 母親が出て行った後も政吉は相変わらず酒を飲みサチを犯した。サチが17歳になった昭和31年、政吉はコウの実家に転がり込む形で、一家は再び共に生活するようになった。政吉はコウの実父に「サチに2度と手を出さない」と詫びた上だ。だが約束は守られることはなかった。政吉は夜毎にサチを求め、庇うコウを殴った。母屋に住む叔父(コウの兄)も止めに入るが、聞き入れないだけでなく、叔父へも殴りかかる始末だった。

 そんな生活続き、17歳のサチは妊娠してしまう。もちろん胎児の父親は政吉だ。混乱したサチは知り合いの男(当時28)と逃げ出したが、激昂した父は狂ったように探し回り、結局サチは連れ戻されてしまう。サチに異様な執着を示す政吉は、何度も騒動を起こした。2人の異常な関係は、自然と隣近所のうわさとなり知れ渡っていたという。

 昭和32年、政吉はサチとその妹を連れ栃木県の長屋に引っ越し、サチは長女を出産した。サチは出産したことで一層「父から逃れられない」と諦観したと同時に、いつか逃げるためにと密かに着物などを1つにまとめていたという。だが昭和30年代、学歴もない未成年の女性が、何の当てもなく逃げても生活は困難だっただろう。幼子を抱えてはなおさらだ。そんな時代がサチを縛り、父親から逃げられなくした。

 こうして父親と娘は、その後も12年間に渡り“夫婦同然”の生活を送るのだ。この間、サチは5人の子どもを産んだ。うち2人は夭折したが、3人の娘は元気に育った。だが5回の出産のほか、妊娠中絶を5回も繰り返している。政吉は避妊を許さなかった。父は執拗に娘を求め、娘はそれに応えるしかなかった。拒否すれば応じるまで殴られた。助けてくれる人はいない。

 昭和39年9月、25歳になったサチは、すでに子どもたちも手がかからなくなり近所の印刷会社で働くようになっていた。サチはこまめに働き、周囲からも「朗らかで明るい女性」と人気が高かったという。サチもこの時だけは、父親の呪縛から離れ“普通の女”として働けることが楽しくて仕方がなかった。社員旅行にも行った。

 そして昭和43年、29歳になったサチは7歳年下の工員と初めての恋をした。この恋がサチの自立心、そして父親に対する反発心を呼び覚ましていった。サチは仕事帰りに父親に嘘を言って工員と喫茶店でデートをした。遅くなると「浮気をしているのか!」と政吉に怒られたが、残業だと言いつくろった。2人の交際は続き、結婚を申し込まれるまでになった。相手はサチに子どもがいることも承知していた。サチは決心する。ある日、父親に「結婚してもいいか」と訊ねたのだ。しかし相手が年下だと知るや政吉は血相を変えた。「今から男の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」。サチは父の怒りを静めるため、男と別れて印刷所も辞めると言わざるを得なかった。

 だがサチは諦めてはいなかった。家出を決意したサチは準備をして家を出ようとした。が、偶然にもそこに政吉が酔って帰宅、サチを問い詰め洋服や下着を引きちぎるなど公衆の面前で大暴れを始める。騒動を聞きつけた近所の人が父親を取り押さえ、サチは半裸で走って逃げたが、結局は父親に連れ戻された。

 この騒動以来、サチはほとんど外出もできなくなった。そして政吉からの責め苦もエスカレートしていく。酔っては「一生不幸にしてやる」「逃げたら3人の子どもを始末する」と脅し、暴れた。子どものことまで持ち出されたサチは限界だった。このままでは自分が殺される。サチは愚痴や脅迫をグダグダ言い続ける政吉を押し倒した。目についた股引の紐で政吉の首を絞めた。

「さあ殺せ。お前に殺されるなら本望だ」

 その際政吉はこう言ったという。サチはさらに夢中で締めあげた。しばらくすると政吉はぐったりして布団の上に倒れた。政吉は、自分が犯し続けた実の娘に殺されたのだ。

 サチは子どもを連れ近所の雑貨商に駆け込んだ。「おばさん、父ちゃんを殺しちゃった」。サチはこう告げると声を上げて泣き出したという。その後、駆けつけた警官によってサチは逮捕された。昭和43年10月5日、29歳のサチにとって、無意識ではあるが1つの“決断”だったのだろう。

 父殺しの背景にサチと政吉の異様な関係が明らかになるにつれ、世間のはサチへの同情を寄せていく。と同時に“尊属殺人罪”へも目が向けられていった。刑法の尊属殺人条項は憲法の「法の下の平等」に合致するのか、違憲なのではないか。こうしてサチの父殺しの法廷は憲法議論にまで発展していった。だがしかし、それ以前にもっと根源的な怒りが、疑問が残る。サチが父親を殺すことになるまで、事態はなぜ放置されたのかということだ。

 14歳の子どもが実の父親に無理やりレイプされた。そのことを母親は知っていた。それを阻止しようとするが、自身が暴力を振るわれ、子どもを人身御供のようにおいて家を出た。母親の親族も父娘の近親姦を知っていた。だが、政吉の剣幕の前に手をこまねくばかりだった。また政吉の親族も然りである。事件後の政吉の弟の供述調書には以下のような下りがある。

「実の父と実の娘が夫婦然として生活しており、世間に対していろいろ恥ずかしい行為をしていた。他兄弟や親戚の者も軽蔑して寄り付かなかった」

 サチが何かと頼り、父親殺害後に駆け込んだ近所の雑貨商もそれを知っていた。いや近所の多くの者がそれを知っていたと思われる。またサチが勤めていた印刷所の工場長もだ。サチとの結婚を考えた工員はサチが印刷所を辞めた後「深入りするな」とその事実を工場長から聞いたという。工員は「がっかり」したものの、彼女を救おうとする姿勢は皆無だ。

 サチの周囲の多くの人間が父娘の近親姦を知っていた。しかし無法者の父親に恐れをなしたとして、有効な手立てを打とうとした者はいなかった。

家父長制と世間体の下、排除された女性や未成年者

 昭和30~40年代、高度成長期で3種の神器といわれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及しはじめ、戦後民主主義が一般にも浸透し、団塊世代が青春を謳歌した時代でもある。そんな中、未成年期も含め、15年間にも渡る父親と実娘の関係は単に「マユを顰められる」ものだけだったのか。周囲の多くの大人がこの“異常な関係”を知っていた。だが1人でも未成年に対する“犯罪行為”“強姦”と認識し、少女を助けることはなかった。当時の未婚女性が何度も妊娠・出産・中絶しても医師は疑問を持たなかったのか(医師は『これ以上中絶すると母体が持たない』と避妊手術を薦めただけだ)。

 しかし実を言うと当時、いや現在においても“近親姦”に対する刑罰は存在しない。よって近親姦は違法ではない。近代において、日本では一度親族姦の規定ができたが1881年に廃止された。近親姦は法の概念ではなく道徳的なものとの解釈からだ。近親姦は時代や宗教、国家、風習、道徳観などにより時に公然と認知され、時にタブーとなる。

 現在では児童虐待防止法があり、保護者による18歳未満への性的虐待はこの対象になる。だが当時の児童虐待防止法は対象が“14歳未満”だ(サチが最初に父親に犯されたのは14歳)。また強姦罪は親告罪だが、当時サチが父親を訴えるなどという知識はなかったのだろう。また周囲にもそうした“退避”行動をとる者はいない。当時はまだ家父長的考えが色濃かった時代である。家族や親族のつながりが強く、世間体も今より比較にならないほど人々を縛った。それが逆に悪弊となった。政吉とサチの関係は「身内の恥」として公然の秘密となった。誰も本気でサチを救おうとしなかった。

 だが当時、誰かが警察や関連機関に相談しても「家庭の問題」として積極的に取り合うこともなかっただろうと推察できる(そもそもDVが犯罪として認識されたのもつい最近のことである)。女性や未成年者の人権など、ほとんど省みられない環境と時代にあったサチに逃げ場はなかった。

 そもそも、当時の司法関係者の認識もあまりにひどい。一審判決においては、「尊属殺人の重罰規定は憲法違反」として刑を“免除”するという画期的判決だった。しかし検察は控訴する。その控訴審で検察は「彼女はなぜ長年逃げなかったか。父と娘が夫婦然と仲良く平穏生活していたのだ」と立証しようとしたのだ。まったくもって噴飯ものだが、そうした認識は裁判官も同様だった。

 「父親と夫婦同然の生活をして、父親が働き盛りの年齢を過ぎた頃若い男と一緒になる。(それは)父親を弄んだことになると考えたことは?」と質問し、「(2人の関係は)大昔なら当たり前」「被告人(サチ)は父親の青春を考えたことがあるか」「働き盛りに何もかも投げ打って被告人と一緒に暮らした男の貴重な時間」など父親に同情的な発言さえあったという(『尊属殺人罪が消えた日』より)。

 「親は子どもの所有物」であり「父親をたぶらかした悪女」そんな裁判長の恐るべき認識――。現在でも裁判官という人種は世間知らずであり、時折かなりズレた発言、判決を出し世間を驚かせるが、その体質は今も昔も変わらないものだった。そして2審では懲役3年6カ月の実刑判決が下された。こうして裁判は最高裁に持ち込まれた。弁護人は「鬼畜のような父親にも子どもは服従し、尊属として保護してもいいのか」と子どもの人権を展開。尊属殺人罪の違法性を主張し続け世間の注目を浴びた。そして昭和48年4月4日、最高裁は尊属殺人規定は違憲として執行猶予付きの判決を下した。当時、この判断は「道徳革命」とまでいわれた画期的なものだったという。

 それにしても親の子どもに対する暴力は性的、心理的も含み現在でも大きな問題として現存する。現在は昭和30年代に比べ猛烈に核家族化が進み、親戚近所のコミュニティも崩壊している。そんな環境下、家庭という密室で親権という凶器を持ったモンスターが存在したら――。

 児童虐待防止法、未成年者淫行条例など、子どもを守るさまざまな法や取り組みがなされ、サチの時代に比べて少しはまともになってはいるようには見える。しかし、それが万全と機能しているわけではない。現在でも幼児虐待、虐待の末の殺害も後を絶たない。性的虐待だけを見ても表面化するのはごく一部、しかも虐待者の4割近くが実父との報告もあるほどだ。そして虐待で逮捕された多くの親が平然と「しつけ」と抗弁する。

 現在においても女性や幼児、未成年者の人権や権利、安全が守られている社会とは言いがたいのも現実だ。サチのように“鬼畜のような親”の下に生まれてしまった子どもたちにとって親の存在、そして親権とは何なのか――。現在でも解決していない“古くて新しい問題”を考えさせられる事件でもあった。

 サチの事件審理で最高裁は「尊属殺人加重規定」は違憲と判断し、昭和48年以降この刑の適用はない。しかし尊属殺人罪の記載が刑法から削除されたのは、判決から22年がたった平成7年になってからだ。
(取材・文/神林広恵)

参考文献
『尊属殺人罪が消えた日』(谷口 優子著、筑摩書房)

“ニセ殿下”の虚言癖、“出たがり女”の虚栄心――「有栖川宮詐欺事件」の浅はかな見栄

jyunihitoe

(前編はこちら)

◎“ニセ殿下”の虚言癖
 有栖川識仁(当時41)を名乗った男の本名は北沢康弘。北沢が有栖川を名乗り出したのは結婚式が行われる約18年ほど前の1995年頃のことだったという。いわく、87年に亡くなった高松宮宣仁殿下の“ご落胤”で、断絶した有栖川宮を“復興させる権利”があるとのこと。そして90年には「有栖川記念事業団」という政治団体の代表に就任、寄付金などを集めていたという。その後も“宮様”である北沢はあるマルチ商法の広告塔として、全国で詐欺行為を働いていた。

 しかし、実際には北沢は京都宇治市の長屋に生まれ、両親は八百屋を営み、経済的にはあまり恵まれない家庭に生まれ育っている。母親によれば、勉強も苦手で中学卒業後に働き始めたという。だが、仕事は長続きせず、親子の折り合いも悪くなり、北沢は家を出た。

また北沢には若い頃から虚言癖もあり、“叔父が衆院選に出馬する”“自分は京大卒”などと言い出し、そしてついには“高松宮殿下がお亡くなりになる前に自分を呼び寄せ、お前には有栖川宮家を継ぐ権利があるといわれた”などと、主張しはじめた。

 その後は皇室の名前を利用して、各地で細々と詐欺を行ってきたという。こうした“皇室詐欺”は時折世間を騒がすものの、被害者も“本当に皇室につながる人間だったら”という心理が働き、事件化されないことは珍しくなかった。北沢もそうした人々に漬け込み、地味で目立たない詐欺を繰り返していたとみられる。

◎上昇志向と虚栄心、いわくつきの“婚約者”
 一方の坂上春子(仮名・当時44)は熊本県で、郵便局に勤める堅実な両親と妹がいる、質素だが堅実な家庭で生まれ育った。

 また、その美貌は幼い頃から有名だったという。18歳の時に「準ミス熊本」に選ばれたほどで、同級生からもあこがれの存在だった。その後、高校を卒業した坂上は、地元のバス会社に就職。そこを1年で辞めたのち結婚、夫婦で学習塾を始め、2人の子どもにも恵まれた。

 しかし、問題は坂上の強烈な上昇志向だった。当時坂上は、自己啓発教材販売で高額な報酬を得たり、化粧品のセールスで月に500万円以上の収入を得ているなどと周囲に吹聴していた。それが、事実なのかどうかは不明だが、もともと派手好きで、セレブっぽい振る舞いを好んだ坂上は、地味な結婚生活に嫌気が差し、数年で離婚する。

 その後、31歳になった坂上は、あるプロダクション経営の男性と再婚し上京するが、34歳で再び離婚した。その間、銀座ホステスや宗教団体の巫女、さらに結婚式をプロデュースする会社の設立し、「アナウンサー」「モデル」「ミスインターナショナル」などを自称していた。

 一貫して地道な生活を嫌い、強烈な上昇志向と華やかな生活を求めた坂上。一方で身の丈に合わない生活で借金もあった。そんな坂上に転機が訪れたのは、2002年のことだった。銀座のクラブで働いていた坂上は、当時、北沢と一緒に“皇室”詐欺を行っていた広告制作会社社長と知り合い、その社長と愛人契約をする。その関係から02年10月頃、北沢の存在を知り、より効果的に金儲けをしようと計画されたのが、“有栖川宮家の結婚式”だった。坂上は北沢を“殿下”と呼び、周囲にその関係を印象付けていった。

 坂上は“有栖川”を名乗る北沢の存在を巧妙に利用し、自らの結婚をプロデュース、一儲けを目論んだ。もちろん宮家につらなる人物との結婚は、それがニセとはいえ、坂上の虚栄心を満たすのにも十分だったのだろう。

◎出所後も続く“皇室”パフォーマンス
 しかし、そんな坂上の浅はかな見栄と虚像が破滅への一歩だった。

 マスコミによる大報道、そして坂上の積極的な露出は不必要なほど2人を目立たせ、世間の関心を買う。しかも、ことは皇室関連の詐欺だ。時間を追うごとに、事態は収集するどころか、ヒートアップ。ついに警察も重い腰を上げ、摘発に向けて動き出したのだ。

 03年10月21日、2人はご祝儀をだまし取ったとして詐欺罪で逮捕された。マスコミもこれを大きく取り上げたが、しかし2人は最後まで詐欺容疑と同時に“ニセモノ華族”であることを認めず、06年9月、ともに懲役2年2月の実刑判決が下されている。

 出所直後も2人はマスコミの取材に応じ、坂上が“殿下”にキスするパフォーマンスなどもしていたが、当時も2人は未入籍であることを明かしている。

 坂上の目立ちたがり屋、虚栄心が墓穴を掘った“バブルの残香”がそこはかとなく漂う事件。そのため必要以上に、マスコミや世間に必要以上の関心を持たれ注目されてしまった。地味に働くことよりも、一発逆転を狙おうとしたが、しかしスケールはあまりに小さい事件といえる。何しろここまでさまざまな仕掛けを作り、マスコミも大騒ぎした割には、その被害額は1350万円ほどで、例えば晩餐会の出席者で割ると1人4万円ほどの計算だ。

 上昇志向が強く口の立つ女と、無口で従順な詐欺師の出会いから巻き起こった陳腐な詐欺事件。しかし人々の記憶には残る“メディア先行”の演技型、劇場型犯罪だった。
(取材・文/神林広恵)

“ニセ殿下”の虚言癖、“出たがり女”の虚栄心――「有栖川宮詐欺事件」の浅はかな見栄

jyunihitoe

(前編はこちら)

◎“ニセ殿下”の虚言癖
 有栖川識仁(当時41)を名乗った男の本名は北沢康弘。北沢が有栖川を名乗り出したのは結婚式が行われる約18年ほど前の1995年頃のことだったという。いわく、87年に亡くなった高松宮宣仁殿下の“ご落胤”で、断絶した有栖川宮を“復興させる権利”があるとのこと。そして90年には「有栖川記念事業団」という政治団体の代表に就任、寄付金などを集めていたという。その後も“宮様”である北沢はあるマルチ商法の広告塔として、全国で詐欺行為を働いていた。

 しかし、実際には北沢は京都宇治市の長屋に生まれ、両親は八百屋を営み、経済的にはあまり恵まれない家庭に生まれ育っている。母親によれば、勉強も苦手で中学卒業後に働き始めたという。だが、仕事は長続きせず、親子の折り合いも悪くなり、北沢は家を出た。

また北沢には若い頃から虚言癖もあり、“叔父が衆院選に出馬する”“自分は京大卒”などと言い出し、そしてついには“高松宮殿下がお亡くなりになる前に自分を呼び寄せ、お前には有栖川宮家を継ぐ権利があるといわれた”などと、主張しはじめた。

 その後は皇室の名前を利用して、各地で細々と詐欺を行ってきたという。こうした“皇室詐欺”は時折世間を騒がすものの、被害者も“本当に皇室につながる人間だったら”という心理が働き、事件化されないことは珍しくなかった。北沢もそうした人々に漬け込み、地味で目立たない詐欺を繰り返していたとみられる。

◎上昇志向と虚栄心、いわくつきの“婚約者”
 一方の坂上春子(仮名・当時44)は熊本県で、郵便局に勤める堅実な両親と妹がいる、質素だが堅実な家庭で生まれ育った。

 また、その美貌は幼い頃から有名だったという。18歳の時に「準ミス熊本」に選ばれたほどで、同級生からもあこがれの存在だった。その後、高校を卒業した坂上は、地元のバス会社に就職。そこを1年で辞めたのち結婚、夫婦で学習塾を始め、2人の子どもにも恵まれた。

 しかし、問題は坂上の強烈な上昇志向だった。当時坂上は、自己啓発教材販売で高額な報酬を得たり、化粧品のセールスで月に500万円以上の収入を得ているなどと周囲に吹聴していた。それが、事実なのかどうかは不明だが、もともと派手好きで、セレブっぽい振る舞いを好んだ坂上は、地味な結婚生活に嫌気が差し、数年で離婚する。

 その後、31歳になった坂上は、あるプロダクション経営の男性と再婚し上京するが、34歳で再び離婚した。その間、銀座ホステスや宗教団体の巫女、さらに結婚式をプロデュースする会社の設立し、「アナウンサー」「モデル」「ミスインターナショナル」などを自称していた。

 一貫して地道な生活を嫌い、強烈な上昇志向と華やかな生活を求めた坂上。一方で身の丈に合わない生活で借金もあった。そんな坂上に転機が訪れたのは、2002年のことだった。銀座のクラブで働いていた坂上は、当時、北沢と一緒に“皇室”詐欺を行っていた広告制作会社社長と知り合い、その社長と愛人契約をする。その関係から02年10月頃、北沢の存在を知り、より効果的に金儲けをしようと計画されたのが、“有栖川宮家の結婚式”だった。坂上は北沢を“殿下”と呼び、周囲にその関係を印象付けていった。

 坂上は“有栖川”を名乗る北沢の存在を巧妙に利用し、自らの結婚をプロデュース、一儲けを目論んだ。もちろん宮家につらなる人物との結婚は、それがニセとはいえ、坂上の虚栄心を満たすのにも十分だったのだろう。

◎出所後も続く“皇室”パフォーマンス
 しかし、そんな坂上の浅はかな見栄と虚像が破滅への一歩だった。

 マスコミによる大報道、そして坂上の積極的な露出は不必要なほど2人を目立たせ、世間の関心を買う。しかも、ことは皇室関連の詐欺だ。時間を追うごとに、事態は収集するどころか、ヒートアップ。ついに警察も重い腰を上げ、摘発に向けて動き出したのだ。

 03年10月21日、2人はご祝儀をだまし取ったとして詐欺罪で逮捕された。マスコミもこれを大きく取り上げたが、しかし2人は最後まで詐欺容疑と同時に“ニセモノ華族”であることを認めず、06年9月、ともに懲役2年2月の実刑判決が下されている。

 出所直後も2人はマスコミの取材に応じ、坂上が“殿下”にキスするパフォーマンスなどもしていたが、当時も2人は未入籍であることを明かしている。

 坂上の目立ちたがり屋、虚栄心が墓穴を掘った“バブルの残香”がそこはかとなく漂う事件。そのため必要以上に、マスコミや世間に必要以上の関心を持たれ注目されてしまった。地味に働くことよりも、一発逆転を狙おうとしたが、しかしスケールはあまりに小さい事件といえる。何しろここまでさまざまな仕掛けを作り、マスコミも大騒ぎした割には、その被害額は1350万円ほどで、例えば晩餐会の出席者で割ると1人4万円ほどの計算だ。

 上昇志向が強く口の立つ女と、無口で従順な詐欺師の出会いから巻き起こった陳腐な詐欺事件。しかし人々の記憶には残る“メディア先行”の演技型、劇場型犯罪だった。
(取材・文/神林広恵)

「宮家の後継者」を自称、マスコミ・芸能人を巻き込んだ「有栖川詐欺事件」の女

世間を戦慄させた殺人事件の犯人は女だった――。日々を平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。彼女たちを人を殺めるに駆り立てたものは何か。自己愛、嫉妬、劣等感――女の心を呪縛する闇をあぶり出す。

[第29回]
有栖川宮詐欺事件

 今から13年前、マスコミを熱狂させた珍妙な事件が起こった。

 すでに断絶していたはずの華族・有栖川宮家の後継者を名乗る人物と、そのパートナー女性による結婚祝賀を舞台にした詐欺事件だ。

 事件は2003年4月6日、有栖川宮家の後継者を名乗る有栖川識仁(当時41)と妻となるはずの坂上春子(仮名・当時44)による「有栖川記念奉祝晩餐会」と称した結婚式を舞台にしたものだ。このパーティは、カナダ大使館地下にある会員制のクラブで開かれたものだが、2人は結婚式の出席者375人からご祝儀など1350万円を騙し取ったとして、この年の10月21日に詐欺罪で警視庁公安部に逮捕されてしまう。

 有栖川を名乗る2人の存在は、結婚式以前から“あまりに胡散臭い”カップルとして一部メディアで話題になり、注目されていた存在だった。

◎筆者にも届いた「招待状」
 発端は、この年の2月に送られた「有栖川記念奉祝晩餐会」の招待状だ。その送付数は2千通ともいわれているが、彼らはさまざまなツテや、一度しか面識がない人々にまで結婚招待状を送りまくっていた。送付された人の中には何人ものマスコミ関係者がおり、「本当に有栖川家の継承者なのか」「末裔なんて嘘だろう」とその胡散臭さを嗅ぎ取り、“皇室詐欺事件”ではないかと裏付け取材が行われていた。

 実は筆者も、この招待状を受け取った1人だ。

 結婚式が行われる前年の02年末、著名人が集まるあるチャリティー・ショーが行われたが、筆者もそこに取材のため出席し、“知人の知人の知人”のような形で坂上と名刺交換をしている。当時の彼女は確かに活発で、物怖じせず、バリバリ働いている女性という印象だったが、一方で少々押しが強く、初対面なのに距離感が近いという感想を持った。ほんの短い時間だが、当時は“彼氏募集中”といっていた気がする。それだけの関係だったが、なぜか翌年2月に“有栖川宮記念”と記された立派な結婚式招待状が送られてきたのだ。

 名刺交換した人間なら誰彼構わず招待状を送っているとのうわさは聞いていたが、筆者も当時仰天したことを覚えている(残念ながらお金がもったいないので出席はしなかったが)。

 しかも、関係者をさせたのは、それからしばらくして送られてきたもう一通の招待状だった。前回の式はキャンセルとなり、別の日、別の場所、つまりカナダ大使館地下に変更になったという案内。華族という由緒正しき結婚式にあるまじき事態だとこれまた話題になった。

 ますます怪しさを増していく有栖川結婚式。そのため2人にアプローチするマスコミもあったほどだ。そして4月6日、晩餐会が開かれて以降、この“騒動”はさらにヒートアップしていく。

◎芸能人の参列と、金が飛び交う結婚式
 その最大の理由は、“華族の末裔”を名乗る2人のキャラにあったのだが、それは後述するとして、もう1つの理由が、このパーティーに何人もの著名人が出席していたことだ。その筆頭株が俳優の石田純一だった。石田は友人として出席者たち一人ひとりに挨拶するというサービスぶりで、「こんな名誉な席にお招きいただいてありがとうございます」とスピーチに立ち語っている(とはいえ、後に石田も2人は大した交友がないことを明らかにしているのだが)。

 ほかにもエスパー伊東、デーブ・スペクター、数々の選挙に出馬したことで知られる羽柴秀吉(故人)、日本青年社幹部などが出席したとされる。

 結婚式もいかにもマスコミが飛びつくようなネタが満載のものだった。雅楽が流れる中、新郎が衣冠束帯ならば、新婦の衣装は十二単。さらにお色直しは新郎が勲章付きの陸軍大将の軍服で、新婦はピンク色のド派手なドレス。また2人の傍には神官と袈裟を着た僧侶もいたという。

 また結婚式は随所に“カネ”が介在した。受付で2人の写真が3,500円と5,000円で売られ、“謁見の間”での2人との記念撮影代金は1万円。さらに二次会の会費は1万5,000円なり。

 金が飛び交う怪しい“元華族”の結婚式、仰々しい“華族”を全面に押し出した演出、そして著名人の出席――。もちろんマスコミはこのネタに食らいつく。もしニセモノなら、これほど面白いネタはない。多くのマスコミが2人に群がったが、2人は逃げるどころか、嬉々として取材にも応じた。

◎宮内庁は「有栖川宮家は大正時代に断絶した」
 特に“ミニスカート”がトレードマークの坂上のマスコミ好き、出たがりもそれに拍車をかけていく。だが、その過程で浮かび上がってきたのは、一連の出来事は有栖川宮家であるはずの識仁ではなく、妻となる坂上が主導していたということだ。

 多くの取材に対し、口を開くのは決まって坂上で、いかに“殿下”が正当な後継者か、自身たちが愛し合っているかなどをまくしたてる。一方の“殿下”こと識仁はその傍らでほとんどしゃべることはなく、モゴモゴ、モゾモゾと不可思議な態度に終始した。

 当時のワイドショーもこのネタを盛んに報じた。そして坂上もまたテレビに登場し、「殿下は有栖川家の祭祀のお手伝いをしている」「披露宴を一度中止したのは、昨年11月に高円宮殿下がお亡くなりになったから」などと、強く主張している。それはまるで注目されている自分に酔っているかのようにも見えた。

 同時に彼らの疑惑は結婚式に関しても噴出していく。引き出物の業者に金を払っていない。記念撮影で1万円支払ったのに写真が送られてこない。出席者には燕尾服やイブニングドレスというドレスコードを義務付けたが、会場は立食形式でぼったくり。

 何よりとどめは、2人の結婚式に関し、宮内庁はまったく関知せず「有栖川宮家はお世継ぎがなく大正時代に断絶した」としたことだった。

 世間の空気はすっかり“ニセ殿下決定”というものだったが、しかし2人はそれでも自らの主張を変えることはない。しかも結婚式後でも2人は入籍をしようとしなかった。

 メディアの熱狂とともに次々と暴かれたのは2人の“本当”の経歴だった。

(後編につづく)

17歳年下恋人と交際の果て――46歳の旧華族令嬢が殺めた、「日商岩井社員射殺事件」

<p><strong>世間を戦慄させた殺人事件の犯人は女だった――。日々を平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。彼女たちを人を殺めるに駆り立てたものは何か。自己愛、嫉妬、劣等感――女の心を呪縛する闇をあぶり出す。</strong></p>

腐乱死体と生活、殺害を“美しい物語”にすり替える「ラストダンス殺人事件」の女殺人犯

<p>(事件の概要、プロフィールはこちら)</p> <p>◎2人の分かれ目となった就職<br />  源一郎は卒業後、一度は就職したもののほどなく辞めてしまい、鎌倉で祖母が経営していた小料理屋の手伝いをしていた。しかし、実質的には何の働きもしていない状態だった。そのためか源一郎はクリエイティブな仕事や事業を興すと吹聴し、カメラマンやジャーナリストを目指したが、どれもものにはならなかった。しかし源一郎は母親から月18万円もの小遣いをもらい生活に不自由することはなかったという。</p>