教祖は「母以上に母だった」――父親を殺害した教団と女性信者の“罪”【板橋・占い師グループによる射殺事件:後編】

 2001年6月9日、東京・板橋の住宅街で工務店を経営する丸山寿治さん(70=当時、以下同)が射殺された。殺害に関与したとして逮捕されたのは、元暴力団員4人と占い教団「グループ向日葵」のナンバー2・渡邊義介(47)、そして丸山さんの娘・笠原友子(44)。この教団の信者だった“箱入り娘”の友子が、父親の遺産を報酬に殺害を依頼したことで起こった事件だった。

(前編はこちら:殺人の手付金は水晶1000万円――裕福な“箱入り娘”が心酔した教祖)

殺害の司令塔となった占い教祖

 「グループ向日葵」の代表、吉川タカ子(64)はかつて印鑑のセールスをしていた。1990年ごろ、ある占い師の元へ、知人の印鑑業者からの紹介で「家賃を一部負担するから印鑑販売のために間借りさせてほしい」と訪ねてきたのが吉川だったという。その占い師が事務所の一部を貸すと、吉川は占いや印鑑鑑定の知識がないにもかかわらず「これは相のいい印鑑です」などと言い、10~20万円程度の印鑑を倍以上の値段で売りつけるようになったという。詐欺まがいの商売を始めたことを知ったその占い師は、吉川を事務所から追い出したそうだ。

「もともとは東京・新宿の印鑑屋の店員だったそうです。寺で拝んでもらったり、占い師に鑑定してもらったりした印鑑が高く売れることに気づいたのでしょう。まくしたてるように喋る人だから、人によってはカリスマ性を感じてしまうのかもしれない」(教団関係者)

 90年代半ばごろから、「グループ向日葵」の信者が数十人ほど、吉川の元に集まるようになったが、彼女にとっては“信者”というより“顧客”として見ていたフシがある。「星まつり」のときも、1枚3,000~5,000円の護摩札を3万円で売っていた。護摩札だけではなく、信者には水晶玉や「チベットの曼荼羅」と称する絵も信者に売りつけていたという。

 さらに吉川は芸能人や有名人の名を利用し、信者獲得を狙っていた様子もうかがえる。本人自身が、芸能人や女性漫画家と「親しい」と周囲に吹聴していただけでなく、先述の「星まつり」でも、参加者たちに「香取慎吾や伊東ゆかりが来る」と言っていたため、彼らを一目見るために祭りに参加した人もいたという。実際に、香取は知人女性に紹介された経緯で吉川と交流があったことを後に認めている。

 友子も、そうした吉川の“顧客”となり“向日葵グッズ”を次々と購入。その代金は一千数百万円にも上っていたことがわかっている。

 筆者は2005年当時、東京地裁の法廷で友子の裁判を傍聴した。上品そうな黒いスーツに白髪混じりのボブヘアで、育ちの良さそうなお嬢様がなにかの間違いで罪に問われてしまったかのような雰囲気を醸す女性だった。頼りなげにうつむいて泣きながら、「吉川に騙された、父親の殺害は止めたのに実行された」と、積極的な犯行への意欲はなかったと主張する友子。

 事件前に体調を崩したという実母が、傍聴席で友子を見守っていたが、吉川に対して「死んだほうがいい」「うちの金を盗んだくせに、何言ってんだ!」と罵り、裁判長に注意される場面がたびたび見られた。実母は、事件前から友子を通じて吉川と面識もあった。

 友子は法廷では、吉川のマインドコントロール下にあったと主張していたが、最終陳述になると、吉川に唆されたと告白。逮捕直後、友子が子どものために黙秘していたところを、吉川らが友子に罪を押し付ける供述をしたのだと訴えた。

「私が警察で最初取調べを受けたとき、真実を話しませんでした……それは、私の子どもに、私が犯罪者だと知られないように……何も言わないでいれば、事件のことはわからず、子どもたちはなにも知らずに、大人になっていく……! そう思ったからです……! でも、私がそのようにしてしまったことで、吉川さんが嘘を言い、このような結果になってしまいました……。吉川さんの嘘には納得できません……真実を話すことが父の供養の第一歩だと思います。父の親戚に……心から、お詫びします……!」

 そして、友子が吉川に心酔した背景には、父の暴力による家庭不和があったこと、さらに母についても、こう語った。

「母はいつも親戚の悪口を言っていて、父はそれを力で押さえつけていました……母を閉鎖病棟へ入院させたり……。私は今も母がわからないのです。吉川さんは母のようでした……今も……母がせめて私の話を聞いていてくれれば……吉川さんは、母以上の母でした。母は父との確執に関わらず、病気に逃げていました……現在は、母は家を出ています」

 傍聴席から実母の嗚咽と「バカモン!」の声が響く。

「父のことを思うと、なぜ、こんなことをしてしまったのか……。言葉に表すことができません。殺害直前に父の在宅を確かめるため、吉川から、父に電話するように言われたとき、『逃げて』と一言言えばよかった……。お父さん……ごめんなさい……。父は私を許さないと思いますが……父に許してもらえるまで……毎日祈って、祈りつづけたいです。おじさま、おばさま、迷惑をかけて……すみません」

 だがそれら訴えも判決では一蹴され、「遺産目的の動機に酌量の余地は皆無。報酬を約束し殺害を依頼した上、多額の財産を相続しており責任は最も重い」と無期懲役の判決が下された。

 友子は実行前、吉川らに遺産から報酬を支払う約束をしていたが、丸山さん殺害後、遺産5億円を家族で分配したのち「グループ向日葵」を抜け、吉川らが報酬を受け取ることはなかったのだ。

 そして、事件後に500万円を友子から受け取ったとされる吉川は、同地裁の判決において「殺害の司令塔」と認定されながらも、自白したことを考慮され、懲役20年の判決が言い渡された。

教団をめぐる、別の未解決事件の存在

 ところで、この事件にはもう一つ別の疑惑が囁かれていた。丸山さん殺害から約3カ月後の9月1日未明、東京・歌舞伎町の「明星56ビル」が火災に遭い、44人もの犠牲者を出しながらも、いまだ火災の原因が明らかになっていない「歌舞伎町ビル火災」についてだ。火災に遭ったビルで「一休」という麻雀ゲーム店を経営していたIという男は、吉川の娘婿だったのである。丸山さん殺害の報酬としてアテにしていた遺産が「グループ向日葵」に入らなくなったことで、実行犯の暴力団員らと吉川が報酬を巡ってトラブルになったのではないか……と報じられている。結局この疑惑は、藪の中である。

 当の実行犯グループを取りまとめていた教団ナンバー2の渡辺は、05年当時、公判も終盤に差し掛かった頃、「吉川には5000万円以上の借金があり、返済を迫られていた。返せず自己破産すると告げたら『娘婿の店に火をつける』と言われていた」と証言している。
(高橋ユキ)

【参考文献】
「FRIDAY」2003.3.14号(以下、略)
「女性自身」 2003.3.18
「週刊新潮」2001.9.27、2002.9.5、2003.1.23
「サンデー毎日」 2003.2.2
「週刊現代」 2003.3.15
「毎日新聞」 2003.1.30

殺人の手付金は水晶1000万円――裕福な“箱入り娘”が心酔した教祖【板橋・占い師グループによる射殺事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 数日前に梅雨入りしていたが、その日の東京は、昼から晴れ間がのぞいていた。2001年6月9日、東武東上線下赤塚駅を北側に進んだ板橋区赤塚6丁目には、古いアパートや小学校、銭湯などが並ぶ。下町の風情を残した住宅街のなかで一際目立つ、タイル張りの塀に囲まれた豪邸の前に段ボールを抱えた男が立ち、インターホンを鳴らしたのは、夜の帳が降り切った20時55分のことだった。宅配便にしては遅い来訪だ。

 その直後、「パーン」と風船が割れるような乾いた音が周囲に響いた。何事かと外に飛び出した近所の者たちが集まると、この家に住む丸山寿治さん(70=当時)が、玄関で倒れており、その下に広がる血だまりがみるみる大きくなっていくのだった。

第6回:東京・板橋 占い師グループによる射殺事件

 丸山さんはこの日、宅配業者を装った男に銃で撃たれ、病院に搬送されたが、翌日未明に出血性ショックで死亡。銃弾は腹部を貫通していた。警察は、現場に残されていた薬莢から、犯行に使われたのは中型拳銃のマカロフとほぼ断定。捜査を開始した。

 工務店経営者の丸山さんは、新潟の出身で20歳の時に上京。もともと大工として働いていたが、東京オリンピックの年に、都営住宅30戸の工事を任され、それを機に独立。以降、建売住宅を作る仕事を地道にやってきた。事件当時は、体の具合が悪い妻と二人で暮らしており、平日は親族がその世話をしに通っていたが、夫婦だけになる土曜に事件が起こったことから「極めて計画的なプロによる犯行」と目された。また丸山さんは数年前に糖尿を患って以降、思うように仕事ができなくなり、土地転がしや競売物件に手を出すようになっていた。そのため、金銭トラブルによる犯行ではないかともみられたが、近所の者はそれを否定する。

「競売で競り落としたのは北区にあるマンション一棟だけ。老後の家賃収入を確保しようとしてのことです。土地転がしについても“60坪か70坪の土地を買って、二つに分けて売ったら儲かった”という話を聞いたことがある程度。確かに、かなりの蓄えがあったようでしたが、大工上がりの地味な人で、酒も女もやらなかった」

 丸山さんの生活ぶりからは、とても突然殺し屋に狙われるような人物像が浮かび上がらないが、捜査が進むにつれ、家庭内で問題を抱えていたことが徐々に明らかになる。だが決定的な決め手がないまま時間が過ぎる中、進展を見せたのは翌年の02年12月。元暴力団員A(46)が「仲間4人と組んで人を殺した」と警視庁に自首してきたのだ。Aはまた「自分は拳銃の処分をしただけ。成功報酬は2000万円」と自供。これにより、翌月の03年1月、丸山さん殺害の実行に関与したとして5人が逮捕された。

 5人のうち、Aを含む4人は実行犯として関わり、その指揮をとったのは、占い教団「グループ向日葵」のナンバー2、渡辺義介(47)。「グループ向日葵」は、吉川タカ子(64)が教祖を務める教団で、最盛期には200人ほどの会員を抱え、事件の2年ほど前からは、都内の寺の境内で年明けに「星祭り」という催しもしていた。そこでは護摩焚きなどが行われ、出店もあり、境内には多くの会員が詰めかけていたという。そして、かつては当時人気絶頂のSMAP・香取慎吾も吉川と交流があったとみられている。

 香取と同じように、この「グループ向日葵」の吉川と交流を持ち、また心酔していた会員の一人が、丸山さんの娘、笠原友子(44)だった。渡辺をはじめとする実行犯の逮捕ののち、吉川と同会アドバイザーの民野茂樹(48)、実行グループに拳銃を売ったという元暴力団員(46)が逮捕。そして同年2月23日、友子も逮捕されたのだった。

 友子は仕事熱心な丸山さんの長女として生まれた。

「弟さんがいたんですが、小学生の頃に事故で亡くなったこともあって、幼い頃から大事に育てられていました」(実家近くの知人)

 実際に丸山さんも「あの娘にはいくら金をかけたかわからない」と生前にこぼしていた通り、友子は中学から短大までエスカレーター式の私立女子校に進学した。

「俗に言う“箱入り娘”でツンとしたところがあって、会っても挨拶したことなかったわねぇ。いつもブランドの服を着て、ボーイフレンドに車で送り迎えさせてました。ちょっとこの辺じゃ見かけないお嬢さんだったことは間違いないわね」(近所の主婦)

「おしゃれで華やか。ブランド物を身につけ、六本木でよく遊んでいました。学校にはお嬢さん育ちが多いのですが、1ランク上という感じでした」(同級生)

「高校生の時に冗談で『お父さんのおカネは私が全部使ってやる』と言っていた」(友人)

 弟を亡くした両親から溺愛されて成長した友子は、1984年に、24歳で電子機器製造株式会社で役員を務める男性と結婚。2人の男の子に恵まれた。だが、家庭をもうけても、子ども時代と同じように、贅沢な生活を続ける。東京・渋谷区の一等地に自宅を構え、毎年家族で海外旅行に行き、息子2人を私立の名門幼稚園に入園させた。塾にも熱心に通わせ、大学までエスカレーター式の超有名小学校を受験させ、ベンツで送り迎えする日々を送る。

 こうした費用は、彼女がかつて子どもだった時と同じように、友子の両親が負担し続けていた。丸山さんに隠れ、母親から月に50万円の金を無心し続けていたのだという。

父との断絶で遺産相続に焦り――「相続から排除されてしまう」

 しかし、そんな甘えた生活は永遠には続かなかった。事件の3~4年前、友子の夫が役員を務めていた会社が倒産し、多額の借金を抱えることになったのだ。友子は躁鬱状態となり、親戚に会っても挨拶すら交わさなくなっていく。この頃、友子の実母が具合を悪くしたこともあり、丸山さんから「一緒に住んでくれ」と頼まれたが、友子は事も無げにこう言い放った。

「板橋は田舎臭くさいからイヤ」

 父と娘の関係に亀裂が入ったのはこの時だった。丸山さんは、それまで大目に見ていた金の無心を断るようになり、故郷である新潟県内に所有していた土地やビルを、自身の弟と甥に譲るという内容の遺言書を作成。甥との養子縁組を決めた。

 焦る友子。ちょうどその頃、渋谷のエステティックサロンで知り合い、親しくなっていた吉川にこう訴えたのだった。

「お父さんが勝手に、甥との養子縁組を決めて、遺言状も作ってしまった。このままでは私も母も遺産相続から排除されてしまう」

 さらに「お父さんの会社の金庫に一億円あるのでそれを払うから」と、あろうことか父の殺害を依頼したのである。友子は、子どもの進学について吉川に相談したことがあり、それ以降は信頼しきっていたという。殺害の“手付金”として、水晶玉の購入代金1000万円を「グループ向日葵」に支払った。こうして、吉川の指示を受けた渡辺ら実行犯グループが暗躍し、丸山さんは殺害されてしまった。
(高橋ユキ)

――後編は10月14日公開

夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった――戦後初のバラバラ犯となった女【荒川バラバラ殺人事件・後編】

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。荒川の放水路にあった浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。5月10日の昼頃、ここで人間の胴体が発見される。遺体の身元は伊藤忠夫巡査(27=当時)。内妻で志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)による殺人だった。出刃包丁とナタを使い、母親と遺体を解体したという。

(前編はこちら)

夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった

 伊藤は富美子に一目惚れで、200通のラブレターを送り、ついに富美子との結婚を誓うまでになるが、一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

「いつまでたっても伊藤は私を籍に入れてくれず、結婚前『必ず準備する』と約束した家計の設計費も、いつの間にか先に使い果たし、かえって1万を超える借金があることなどが分かりました。『ジキルとハイド』の二重人格が彼の本体であったのです」(富美子の手記より)

 一部報道には1万どころか6万円(現在の約10~60万円)の借金があったともいわれており、さらに伊藤は大酒飲みで、勤務態度も勤労とは程遠く、解職寸前だった。家では富美子を殴る蹴るも日常茶飯事で、節約や我慢を重ねて富美子は月給のおよそ半分である3,000~4000円を毎月用立てていたものの、感謝されるどころか「借金したのは、もともとお前のせいなんだ」と非難された。富美子が思い余って離婚話を切り出したところ、仕事道具であるはずの拳銃を抜いて「逃げても絶対見つけ出す」と脅されたこともあったという。

「私は法廷で検事さんから、愛情がないと非難されたことがあります。伊藤もよく同僚に『妻は冷たい』と漏らしたそうですがそれは偽りです。伊藤こそ愛情を持たない男だったのです。私が苦労して工面した金は、飲んだり食ったりつまらぬことに使い果たし、少しでも家庭を顧みようと気持ちのない人間なのです。もちろんこうした味気ない夫婦生活のため、ある点では無情にさえなっていく私の素振りが、伊藤の堕落した生活態度にますます拍車を加えて行った事は否定できません」(同)

 合わせ鏡のように、富美子の気持ちが伊藤から離れていくと同時に伊藤もまた、家庭を顧みず酒に溺れるようになっていった。二人には子供子どもがいなかったがしかし、富美子は離婚ができないと思っていた。それには当時の時代背景が関係している。

「夫は警察官なのです。仮に離婚沙汰にでもなれば、夫は『警察官らしくない行状』として首になるのは明らかなことです。もしそんなことになれば……。日頃でさえ別れたら殺してやると、口癖のように言っていた彼の事ですから、あるいは本当に殺されるかもしれないとさえ想像し、また同居している母や弟のことを考えて、そのままズルズルと元の鞘に帰っていたのです」(同手記)

 そして事件の日。その夜も、伊藤は泥酔状態で帰宅した。彼は無愛想な顔で出迎える富美子の態度が癇に障ったのか、ひとしきり暴れ、富美子の揚げ足を取り悪口を言ったあと、その晩の夜勤を放り出して寝入ってしまう直前に、彼女にこう言ったのだという。

「殺すのは惜しいな。お前を女郎にでも売り付けたら儲かるのだが」

 これを聞いた富美子の糸はついに切れた。思わず血が逆流するのを感じたという。

「餓死しても良い、殺されてもいい、それが本当に愛する夫のためなら……。だが伊藤みたいな人間に殺されるのは嫌だ。と言ってこのままでいれば、むざむざ伊藤の犠牲になるのを待つばかり。伊藤が死んだって親子3人の生活は自分の力で平和に暮らしていける。もしそれができないような自分だったら、生きていたって同じことだ。幸い伊藤は眠っている。ヒモか何かで首を絞めて殺せるかもしれない」(同手記)

 殺害計画を組み立て頭が冴え渡った富美子が思い出したのは、伊藤が1カ月前に自宅に持って帰って来ていた『自警』という書物だった。ここに書かれたある殺人事件の絞殺方法を参考にし、夫の警棒の真ん中にグリーンの麻紐をくくりつけ、窓の外の間にそれを挟み込んだのち、窓際から引いた麻紐を夫の首を巻きつけて、下の端を握って一気に絞めたのだった。うめき声をあげたのち、伊藤はあっけなく絶命したが、富美子は「生き返ってくるかもしれない」と、さらに1時間、首を絞め続けていた。

 富美子は伊藤を殺害して、遺体をバラバラにするまで、一昼夜、それを押入れにしまいこんでいたことは先述の通り。その間富美子は何食わぬ顔で勤務先の学校に行き、いつものように、子どもたちを相手に授業をしていた。

 殺害後の心情について、富美子はこのように振り返っている。

「その(殺害時の)ひとこまひとこまが、恐ろしい映像となって、今でも獄中の私を苦しめています。起訴されるまでの間、私の頭には過ぎし伊藤との生活の思い出が走馬灯のように駆け巡り『取り返しのつかない』絶望感と『非人間的な行為』の恐怖感との、止めどもない葛藤のうちに日を送ったのです」(同)

 後悔と恐怖に苛まれていたとは言うものの、完全犯罪を目論んでいたのだろう。バラバラにして投棄した遺体の一部が川から発見され、報道がなされるまで、伊藤の行方不明届を出してもいなかった。次々と川から遺体があがり、そのたびに報道が加熱しても、当初は母娘ともども、犯行を認めずにいた。

 一方で、初めて遺体が見つかった翌日には伊藤の継母に電報で「タダオカエラヌ、ソノチ ツカヌカ、フミコ」と発信。数日後には速達で「実は7日の夜11時頃から忠男が出ていったきり帰ってきません。荒川にバラバラ事件もあったため、心配で御飯も食べられず、夜もろくに寝れません」といった内容の手紙を送っているのだ。

 しかし、胴体を包んでいた新聞紙の中に、富美子が前年4月まで住んでいた大阪府守口市の配達区域で配られるものと同一のものがあった。加えて、自宅の家宅捜索が行われた際、押し入れの襖やカーテンに残された血痕を警察官に発見される。こうした証拠を元に追及を受け、あっけなく犯行を認めたのだった。それまで押しかける報道陣などに「失礼ではないか?」と追い返し、家宅捜索では6畳間に長々と寝そべったまま捜査員を見回していた母シズも、一緒に連行された。

1時間だけでも慰安の場所がほしかった

 戦後初のバラバラ殺人事件であること、犯人が女性であることから、本事件は報道が過熱し、法廷では富美子の過去の男関係も事細かに明らかにされた 。

「実はこの頃(編注:伊藤に結婚を申し込まれた時)富美子は大阪で同僚の教師の、しかも2人とセックスがらみの付き合いを繰り広げていた。(略)富美子は『性格がさっぱりしている』ということで男性教師に人気があった。そんな中から彼女は、ウブで若いHを選んで、自ら足を開き、『こうするのよ』と男のものを肌にあてがって合体させてやったりしていたのだった。(略)自分に気のある男を手玉にとって弄ぶのは、さらに大好きだったのだろう。証言によると富美子はHに結婚を申し込んだのだったが、そう言いながら別の教師と付き合っていることを知っていた彼は断った……」

 富美子はそれに対し、手記でこう述べる。

「私は今、裁きの庭に立っています。世の人は私のことを『冷酷無情な女』『血も涙もない悪魔』と、ありとあらゆる罵倒の言葉を浴びせかけています。私にはもちろん反駁する資格はありません。しかしこれだけは言いたいのです……私と言う女は友達から身の上の相談を受けても、遊び相手には不向きな女でした。内気。悪い言葉で言えば陰性な女であるかもしれません。しかし他の女性と同じように、幸福でありたいという気持ちには変わりはありませんでした。もっと具体的に言えば、教員という職業柄、自分の存在が値打ち以上に社会から評価されているアブノウマルな環境から、1時間でもいいから解放されたい。その慰安の場所を、私は夫との生活にだけ求めていたのです」

 警察官と教師、公職につくものだからこそ事件を隠し通したかったのか。教師という職業柄、のしかかるプレッシャーからひとときでも解放されたいという思いで一緒になった伊藤に冷たい仕打ちを受け、絶望したのか……。富美子にはのちに東京地裁で無期懲役を求刑されたが、懲役12年の判決。栃木刑務所で服役中に皇太子(当時)結婚特赦のため、7年間の服役で出所した。母シズは、死体損壊罪で1年6月の判決(求刑・懲役3年)を受けたが、事件の年の暮れに、東京拘置所で死亡した。
(高橋ユキ)

(参考文献)
昭和27年6月1日号 「週刊サンケイ」
昭和27年10月5日号 「週刊サンケイ」
1960年10月28日号 「週刊スリラー」
1991年1月3日・10日合併号 「週刊文春」
2000年3月23日号 「週刊実話」
2002年9月22日号 「サンデー毎日」
2004年7月号 「現代」

出刃包丁とナタで男をバラバラに――結婚誓った内妻の告白【荒川放水路バラバラ殺人事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。市民プールや学校にプールがあることが珍しかった頃、辺りにひしめくバラックに住む人々は、暑くなると荒川やその入江などで泳いでいた。現在、荒川の河川敷はさまざまに整備され、サッカーコートや広場がおかれているが、当時、荒川放水路東岸にあったひょうたん型の浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。

 5月10日の昼頃、ここで泳いでいた子供子どもたちが「変なものがある」と、魚釣りの大人に教えた。見ると、岸辺の芦の間にハトロン紙と麻ひもで荷造りした動物の死体らしい大きな包みが転がっている。ところどころから、どす黒い血がにじみ出て、臭気を放っていた。よく見るとどうも人間の胴体らしい。男は所轄の西新井署に急報、戦後初のバラバラ殺人事件が発覚した瞬間だった。

第5回:荒川放水路バラバラ殺人事件

 終戦から7年がたった昭和27年、戦後初めて開催されたメーデーに集まった群衆の一部が、解散地点の日比谷公園から皇居前広場になだれ込み、警察隊がこれに発砲。2人の死亡者を出した。それから数日後には、東京・新宿で火炎瓶騒ぎも起こった。「何か革命でも起こるのではないか」と案じる声も囁かれる中で発覚したバラバラ殺人だったことから、遺体の身元確認を進めると同時に、犯人の動機についての捜査も進んだ。

 胴体の発見後、直ちに西新井署に設けられた捜査本部により捜査が進められるなか、15日朝9時50分ごろ、死体の首が「日の丸プール」の対岸で発見される。さらに翌16日朝8時40分ごろ「日の丸プール」上流約9キロの新川鉄橋下で両腕が見つかった。この指紋を照合し、被害者の身元が判明。板橋区に住む志村署の警ら係、伊藤忠夫巡査(27=当時)であることがわかった。そのため捜査本部では伊藤巡査の内妻、志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)から事情を聞き追及した結果、同日夕方ごろ、犯行の一部を自供。逮捕に至った。

 殺害された伊藤が勤務していた志村署から北に2キロほど。工場と麦畑が広がる一角。そこにある、じめじめとした空き地で風車がギイギイと音を立てている。脇にぽつりとある2階建ての家で、伊藤と富美子、そして富美子の母と弟は暮らしていた。

 その家で事件が起こったのは、胴体が発見される4日前の夜。伊藤巡査が帰宅して寝入ったところ、富美子がその首を縄で絞めて殺害。ふと振り返ると、母シズがいつのまにかそばに立っていた。二人は相談し、道路に死体を放棄して他人に殺害されたように見せかけようとも話したが、女手二人では、60キロ以上ある伊藤巡査の遺体を運び出すことができなかった。次第に夜が明け始めたのでやむを得ず、遺体を行李に入れ、一旦押し入れに隠すことに。母親から死体をバラバラにして捨てることを勧められた富美子は出刃包丁とナタを購入しに出かけた。

 再びの夜がやってきた。2階に大きなタライを上げ、死体の入った行李をその上に乗せる。さらにタライの中に洗面器を置いて、出刃包丁とナタを使い首、手足、胴体と切り離していった。控えめに明かりのついた4畳間に、バラバラの体が積み重ねられて行き、タライの中の洗面器には切り離すたびにどす黒い血が溜まっていった。そして切り離した部分ごと、新聞紙とハトロン紙で包んでいく。この初めての大仕事を二人は2時間でやってのけたという。

 翌9日の日暮れを待ち、小学校の自転車を借りてきた富美子が胴体の包みをその自転車に乗せて一足先に家を出る。母親は首と手の包みを下げてバスで移動。先に新荒川大橋に到着した富美子は、ひんやりとした風が頬を撫でる新荒川大橋の上で、人がいなくなるタイミングを見計らい、橋の上から胴体の包みを投げ捨てた。やっとたどり着いた母親から包みを受け取ると、同じ場所から投げ込む。そして家に帰り、足をくるんだ包みと血を拭いた布切れを包んだものを自転車に積んで、再び出発。今度は戸田橋から投げ込んだ。すでに日付は変わり、10日の午前1時になっていた。遺体を刻んだ行李は細かに壊して燃やし、こうして、女性2人による死体損壊、遺棄行為を終えたのだった。

200通のラブレターを受け同棲、結婚を誓う

 なぜ富美子は夫を殺害するに至ったのか。

 遠縁にあたる二人が最初に出会ったのは終戦翌年、昭和21年の春のことだ。富美子は大阪に育ち、17歳の時に母方の親戚を頼って山形県の米沢へ疎開。米沢で高等女学校に通っていた。伊藤は山形に生まれ、地元の小学校を卒業し上京。戦時中は「日本光学(現・ニコン)」の行員をしていたが応召され、終戦で復員して米沢に戻ってきたころ、二人は出会う。伊藤は富美子に一目惚れだったらしく、結婚前に彼女に出したラブレターは200通に及んだ。

「頭の中はあなたのことでいっぱいです。会いたい。今はこの気持ちを抑えるためにせめてあなたのお名前を無性に書きまくっております」

 こうしたまっすぐな思いを、日々書き送っていたという。200通のほぼ全てが下書きの上、清書したものだった。それでも富美子は伊藤になびくことなく昭和22年、大阪の小学校への就職が決まり、米沢から転居。しばらく交渉も途絶えていた。2年生を受け持ち、教員としての仕事に邁進していた昭和24年、「昨年上京、今警視庁志村警察署に勤務している」と知らせを受け、再び文通を交わす仲となる。その年の夏に、伊藤の招待を受け、彼が住む東京の寮を訪ねた際、結婚の申し込みを受ける。最初は乗り気でなかった富美子も、ぶれることのない伊藤の気持ちに心を動かされ、事件前年の春、大阪から東京・板橋区にある小学校に転校すると同時に、同棲生活を始めた。

 富美子はのちに、手記を公開しているが、そこには伊藤への当時の思いがこう書き綴られていた。

「私の家は以前、相当手広く商売をやっていましたが、戦争と同時に不運が続き、ついに田舎に引っ込んでしまってろくな収入もなく、生活は苦しい最中でした。それだけに私は、自分の身の始末より『家のために働かねば』と言う気持ちが先に立ち、結婚問題などあまり真剣に考えなかったというのが、その頃の偽らぬ心情でした。

 しかしその反面、伊藤のプロポーズを受けて以来、彼を慕う気持ちが1日1日と高まっていたことが事実で、私が彼との結婚を固く心に誓ったのは、それから間もなくの事です」

 ところが一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

――後編につづく(9月16日更新)

出刃包丁とナタで男をバラバラに――結婚誓った内妻の告白【荒川放水路バラバラ殺人事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。市民プールや学校にプールがあることが珍しかった頃、辺りにひしめくバラックに住む人々は、暑くなると荒川やその入江などで泳いでいた。現在、荒川の河川敷はさまざまに整備され、サッカーコートや広場がおかれているが、当時、荒川放水路東岸にあったひょうたん型の浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。

 5月10日の昼頃、ここで泳いでいた子供子どもたちが「変なものがある」と、魚釣りの大人に教えた。見ると、岸辺の芦の間にハトロン紙と麻ひもで荷造りした動物の死体らしい大きな包みが転がっている。ところどころから、どす黒い血がにじみ出て、臭気を放っていた。よく見るとどうも人間の胴体らしい。男は所轄の西新井署に急報、戦後初のバラバラ殺人事件が発覚した瞬間だった。

第5回:荒川放水路バラバラ殺人事件

 終戦から7年がたった昭和27年、戦後初めて開催されたメーデーに集まった群衆の一部が、解散地点の日比谷公園から皇居前広場になだれ込み、警察隊がこれに発砲。2人の死亡者を出した。それから数日後には、東京・新宿で火炎瓶騒ぎも起こった。「何か革命でも起こるのではないか」と案じる声も囁かれる中で発覚したバラバラ殺人だったことから、遺体の身元確認を進めると同時に、犯人の動機についての捜査も進んだ。

 胴体の発見後、直ちに西新井署に設けられた捜査本部により捜査が進められるなか、15日朝9時50分ごろ、死体の首が「日の丸プール」の対岸で発見される。さらに翌16日朝8時40分ごろ「日の丸プール」上流約9キロの新川鉄橋下で両腕が見つかった。この指紋を照合し、被害者の身元が判明。板橋区に住む志村署の警ら係、伊藤忠夫巡査(27=当時)であることがわかった。そのため捜査本部では伊藤巡査の内妻、志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)から事情を聞き追及した結果、同日夕方ごろ、犯行の一部を自供。逮捕に至った。

 殺害された伊藤が勤務していた志村署から北に2キロほど。工場と麦畑が広がる一角。そこにある、じめじめとした空き地で風車がギイギイと音を立てている。脇にぽつりとある2階建ての家で、伊藤と富美子、そして富美子の母と弟は暮らしていた。

 その家で事件が起こったのは、胴体が発見される4日前の夜。伊藤巡査が帰宅して寝入ったところ、富美子がその首を縄で絞めて殺害。ふと振り返ると、母シズがいつのまにかそばに立っていた。二人は相談し、道路に死体を放棄して他人に殺害されたように見せかけようとも話したが、女手二人では、60キロ以上ある伊藤巡査の遺体を運び出すことができなかった。次第に夜が明け始めたのでやむを得ず、遺体を行李に入れ、一旦押し入れに隠すことに。母親から死体をバラバラにして捨てることを勧められた富美子は出刃包丁とナタを購入しに出かけた。

 再びの夜がやってきた。2階に大きなタライを上げ、死体の入った行李をその上に乗せる。さらにタライの中に洗面器を置いて、出刃包丁とナタを使い首、手足、胴体と切り離していった。控えめに明かりのついた4畳間に、バラバラの体が積み重ねられて行き、タライの中の洗面器には切り離すたびにどす黒い血が溜まっていった。そして切り離した部分ごと、新聞紙とハトロン紙で包んでいく。この初めての大仕事を二人は2時間でやってのけたという。

 翌9日の日暮れを待ち、小学校の自転車を借りてきた富美子が胴体の包みをその自転車に乗せて一足先に家を出る。母親は首と手の包みを下げてバスで移動。先に新荒川大橋に到着した富美子は、ひんやりとした風が頬を撫でる新荒川大橋の上で、人がいなくなるタイミングを見計らい、橋の上から胴体の包みを投げ捨てた。やっとたどり着いた母親から包みを受け取ると、同じ場所から投げ込む。そして家に帰り、足をくるんだ包みと血を拭いた布切れを包んだものを自転車に積んで、再び出発。今度は戸田橋から投げ込んだ。すでに日付は変わり、10日の午前1時になっていた。遺体を刻んだ行李は細かに壊して燃やし、こうして、女性2人による死体損壊、遺棄行為を終えたのだった。

200通のラブレターを受け同棲、結婚を誓う

 なぜ富美子は夫を殺害するに至ったのか。

 遠縁にあたる二人が最初に出会ったのは終戦翌年、昭和21年の春のことだ。富美子は大阪に育ち、17歳の時に母方の親戚を頼って山形県の米沢へ疎開。米沢で高等女学校に通っていた。伊藤は山形に生まれ、地元の小学校を卒業し上京。戦時中は「日本光学(現・ニコン)」の行員をしていたが応召され、終戦で復員して米沢に戻ってきたころ、二人は出会う。伊藤は富美子に一目惚れだったらしく、結婚前に彼女に出したラブレターは200通に及んだ。

「頭の中はあなたのことでいっぱいです。会いたい。今はこの気持ちを抑えるためにせめてあなたのお名前を無性に書きまくっております」

 こうしたまっすぐな思いを、日々書き送っていたという。200通のほぼ全てが下書きの上、清書したものだった。それでも富美子は伊藤になびくことなく昭和22年、大阪の小学校への就職が決まり、米沢から転居。しばらく交渉も途絶えていた。2年生を受け持ち、教員としての仕事に邁進していた昭和24年、「昨年上京、今警視庁志村警察署に勤務している」と知らせを受け、再び文通を交わす仲となる。その年の夏に、伊藤の招待を受け、彼が住む東京の寮を訪ねた際、結婚の申し込みを受ける。最初は乗り気でなかった富美子も、ぶれることのない伊藤の気持ちに心を動かされ、事件前年の春、大阪から東京・板橋区にある小学校に転校すると同時に、同棲生活を始めた。

 富美子はのちに、手記を公開しているが、そこには伊藤への当時の思いがこう書き綴られていた。

「私の家は以前、相当手広く商売をやっていましたが、戦争と同時に不運が続き、ついに田舎に引っ込んでしまってろくな収入もなく、生活は苦しい最中でした。それだけに私は、自分の身の始末より『家のために働かねば』と言う気持ちが先に立ち、結婚問題などあまり真剣に考えなかったというのが、その頃の偽らぬ心情でした。

 しかしその反面、伊藤のプロポーズを受けて以来、彼を慕う気持ちが1日1日と高まっていたことが事実で、私が彼との結婚を固く心に誓ったのは、それから間もなくの事です」

 ところが一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

――後編につづく(9月16日更新)

【品川同性愛者殺人事件・後編】男への依存と「11の偽名」――嘘で飾り続けた女の欲望

 胸や腹などを18カ所刺され、死後1カ月が経過してから自宅で発見された鈴木友幸(ゆうこ・当時39)さん。マンションで一緒に暮らしていたのは、かつて新宿2丁目でバーを経営し、行く先々でピンクのドンペリを開けて飲み歩く、華やかな生活を送っていた女だった。「魔女」「帽子の志麻」と2丁目で呼ばれていた、前田優香(事件発生当時41)と鈴木さんは恋人関係にあった。

(前編はこちら)

「バーをやってる」「新宿に店を出させる」恋人の前で飾り続けた嘘

「あんた、武蔵小山なんかで店をやってるのもったいないわ。私が新宿に店を出させてあげる」

 武蔵小山のスナックでもドンペリを開け、ブランド物の服に身を包み続けていた優香は、しかも鈴木さんにこのような甘言まで弄していた。「新宿でバーを経営している」こんなことも得意げに語っていたという。鈴木さんは優香の嘘を信じ切っていた。だが店のパートナーはもちろん、鈴木さんの母親も店の客たちも、優香を嫌い、鈴木さんは店の経営から手を引くことになる。だが、優香が店を出してくれる、彼女はそう信じていた。

「朝も昼も夜も、毎日優香のことばかり考えてる。早く会いたいな」
「この青い空の下に優香がいるんだね。昼も夜も優香のことを考えてるよ。もう気が狂いそうだ。早く繋がりたいね」

 こんなメールを優香にいつも送っていたという。だが、この頃、優香が金を得るには、デリヘルで稼ぐか、愛人に会う必要があった。鈴木さんが店を辞めてしまったことで生活費が入らなくなってしまったが、一緒に暮らしている今、定期的に出勤することは難しい。「友人に会う」と嘘をつき、愛人の元へ通っては肉体関係と引き換えに金を得ていた。だが事件が起きる。鈴木さんに性病がうつってしまったのだ。

「おれ、お前以外の女とはセックスしてないんだから、お前にうつされたに決まってんだよ。どこからもらってきたこんな病気。こっそり男とやってたのか」

 こう詰め寄った鈴木さんは、もともと束縛体質だったが、さらに優香を束縛するようになる。愛人に会うことがかなわなくなった優香は、たちまち窮し、今度は鈴木さんの預金をこっそり引き出すようになった。だが、これも鈴木さんにバレてしまう。不信感を持たれながらも、金を得るあてもない優香は、鈴木さんの預金を引き出し続け、事件の直前、とうとう鈴木さんの預金が底をつく。

 そして2005年3月1日、事件は起こった。

 この日の夜、優香の身支度が整う前に、鈴木さんがタクシーを呼んだことで口論が始まる。優香は尋ねた。

「私と付き合ったこと、後悔してるの?」

 鈴木さんはこれを受けて、返した。

「お前と一緒だよ。お前、偉そうなんだよ。何様のつもりだよ」

「このxxxxが!」

 鈴木さんは、このとき「直接的な『男好き』というニュアンスの言葉」を投げかけたという。具体的な言葉の内容を優香は明かさなかったが、これにカッとなった優香は殺害を決意。夜中の2時45分。台所にある包丁を手に取り、玄関先にいる鈴木さんに向かって突進しながら包丁を突き立てたのだった。

 自分を愛してくれた鈴木さんを殺害した動機を問われ、優香は小さな弱々しい声で、たどたどしくこうつぶやいた。

「いまだにわからない……。黙らせたかったのか……無意識なのか……」

怠惰で消極的、ぼんやりとした真意

 鈴木さん殺害後、彼女のクレジットカードを奪って逃走していた優香は、彼女のカードで帽子など35万円の買い物をしたのち、男性に依存しながら、かつての「大原志麻」そして「鈴木友子」「前田由子」など11の偽名を使い逃亡を続けていたが、2年後の3月に、東京北区・赤羽の健康ランドで逮捕されたのだった。

「通報で警察が駆けつけると、前田容疑者は60代の男性客3人と飲食しており、酔っていた。『前田優香だな』と聞くと、『はい』と素直に認めたので任意同行を求め逮捕した。持っていた健康ランドの会員証の名前は『たかだみゆき』となっていた」(捜査関係者)

 この時の彼女の所持金はわずか900円。事件まで自分を嘘で飾り続けた女は、人生をこう振り返った。

「当時の私は自由気ままで……我慢、忍耐、努力とか、ありませんでした……」

 そして鈴木さんに謝るのだった。

「心の底から私のことを愛し、信じていた友幸さんを殺してしまった……私なんかと知り合わなければ、エネルギッシュな40代を過ごせたのに……友幸さんの命を私の手でこんな形に……友幸さん、本当にごめんなさい」

 公判の場でこそ、彼女はこう言ったがしかし、その真意はどこかぼんやりしている。優香は鈴木さんを何度も刺しているが、理由を問われ、黙り込んだ。

優香「黙らせるために包丁を手に取りました。必死でした……」
検察官「そんなに憎くない人を何度も刺したの?」
優香「………」

 そして逃亡についても、こんなふうに語るのだ。

検察官「いつまで逃げるつもりだったの?」
優香「捕まるまで……」

 公判で見た優香は、ゆっくりと小さな声で、どこか怠惰で消極的な発言を繰り返す、覇気のない女性だった。時効まで逃げ切るという確固たる意志のもとに逃亡を続けていたわけではなく、自首するという自発的な行動を取ることができなかったのではないか。

 逃亡中の優香はいくつもの偽名を使い、新宿や池袋、大宮などの繁華街を転々としていた。最終的にたどり着いたのは北区赤羽の健康ランド。逃亡中に知り合ったタクシー運転手の家に身を寄せ、生活していた。健康ランドで見知らぬ男性に声をかけ、酒や食事を奢ってもらう日々。ある男性は、優香にこう誘われたこともあった。

「おじさんセックスしてる? 私が手でしてあげようか? でも、私ナンバーワンだったから高いよ」

 男性が黙っていると「おじさん、ダメだね」と優香は高笑いとともにどこかに行ってしまったという。

 モノで満たされてはいるが愛のない家庭で育ち、日常を酒と薬でごまかしていた優香。新宿二丁目、とあるバーのオーナーはこう振り返る。

「彼女はバブルを引きずってた。金でレズと付き合ったの。だけど、この辺じゃ皆に好かれてたわよ。みんな、彼女がどうしてこんなことをしたのかわからない」

 彼女に必要だったのはおそらく、愛情だったのだろう。本人がそれに気付かなかったことで不幸は起きてしまった。判決は懲役15年。一時は控訴したものの、間もなく取り下げ、刑が確定している。
(高橋ユキ)

<参考文献>
「新潮45」(新潮社) 2008年1月号
「アサヒ芸能」(徳間書店) 2005年6月16日号
「女性セブン」(小学館) 2005年6月16日号
「フライデー」(講談社) 2007年4月13日号
「週刊朝日」 (朝日新聞出版)2007年4月13日号
「女性自身」 (光文社)2005年6月14日号
「週刊ポスト」 (小学館)2007年4月13日号
「週刊大衆臨時増刊」(双葉社) 2006年1月3日号

【品川同性愛者殺人事件・前編】誰にもチヤホヤされない――41歳、元お嬢様に生まれた「闇」

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 顔が大きいことを気にしていたというが、本人が思うほど大きくは感じない。むしろ、整形を経たとはいえ、目鼻立ちのはっきりした顔立ちは、ノーメイクでも際立ち、人目を引く。だが上下黒のジャージに、うつろな表情でうつむき、刑務官に縄を引かれ、足を引きずるように入廷するその様子には、憂鬱さしか漂っていない。かつて新宿2丁目でバーを複数経営し、行く先々でピンクのドンペリを開けて飲み歩いていたという華やかな生活の片鱗は、どこにも探すことができなかった。

【第4回 品川同性愛者殺人事件】

 スナック経営者の鈴木友幸(ゆうこ・当時39)が遺体となって発見されたのは、2005年4月のこと。大家から家賃滞納の連絡を受けた母親が、東京都品川区西五反田の自宅マンションを訪ねた際に、変わり果てた娘の姿を見つけた。胸や腹などを18カ所刺されており、死後1カ月が経過していたという。

「玄関で娘が布団をかぶってうつぶせに寝てました。酔っ払って寝てるのかと思って布団をバッとめくったら……死んでました。髪の毛に血がべったりついていて固まっててね」

 泣きながら母親は、さらにこう続けた。

「娘はいつも『みんな嫌うけど、そんなに悪い人じゃないよ』って前田をかばっていたのに。なんで殺されたのか、早く本当のことが知りたい……」

 鈴木さんの家からはクレジットカードが紛失しており、これを鈴木さんの死後、使われた形跡があった。また、事件までこのマンションに同居していた“前田”が、同年3月下旬から4月上旬にかけて複数の知人に「もう戻れないことをした」「鈴木さんを刺してしまった」などと打ち明けていたことから、警視庁はこの“前田”を犯人と断定。全国に指名手配した。

 “前田”と母親が呼び捨てにしていた人物は男性ではない。鈴木さんの恋愛対象は女性で、指名手配された前田優香(事件発生当時41)とは恋人関係にあった。2人の出会いは事件からおよそ2年前。優香はこの頃、やぶれかぶれだった。だがそこから遡ること10年ほど前、新宿2丁目でバーを経営していた頃は羽振りが良く「3000万円から4000万円ぐらいなら好きに使える」と豪語していたこともあった。酒が好きな優香は、一晩で10万円近くの飲み代を払うこともザラだったという。

「彼女と知り合ったのは、彼女が新宿2丁目でスナックのママをしている頃でした。派手な帽子をかぶり、顔立ちが魔女に似ていることから、店では『魔女』と呼ばれていました。大原麗子と岩下志麻が好きだったらしく、2人の名をとって『大原志麻』などと名乗ったこともありました」(優香を知る男性)

「いつもシャネルのスーツとかブランドの服を着てゴージャスなイメージでした。男性からも女性からもモテる人でしたね。当時、彼女が岩下志麻の大ファンだったので、愛称は志麻ちゃん。いつもピンクの大きな帽子をかぶっていて『帽子の志麻』と呼ばれていた時期もあった」(元従業員)

「志麻ちゃんは酒飲むと手がつけられなくてね。酒が入ると男女問わず『なんだこのやろう』って胸ぐら掴んだり喧嘩売ったりしてた。いつも羽根のついた帽子をかぶって、ドレスみたいな服を着ているのに酒乱なもんだから2丁目周辺では結構な有名人だったわ。でもまさか人殺しで指名手配されるなんてねぇ」(2丁目のバーの店員)

 派手な帽子と高級ブランドの服に身を包み、飲みに行けばピンクのドンペリを開ける優香は、かつて新宿2丁目で羽振りの良さとその奔放さが目立っていたが、ある日を境に、この町から姿を消した。当時付き合っていた男性から金を騙し取られて生活にも事欠くようになったのだ。店を手放したのちの優香は、五反田でデリヘル嬢として働きながら、新たな交際相手の男性から小遣いをもらう生活をしていた。

 借金を背負い、アルコールと睡眠薬に依存するようになった優香は、ある日過呼吸の発作を起こして倒れ、生まれ故郷の広島に住む親戚の元に引き取られていた。ところが親戚との関係が悪化し、再び上京。そんなとき、鈴木さんが店長をしていた品川区・武蔵小山のスナックに客としてふらりと訪れた。これが全ての始まりだ。

「鈴木さんは20年近くこの界隈のスナックで勤め、事件の3年前に独立。店長となって始めた飲食店では男装して接客をしていました。彼女はがっちりした体格でとてもボーイッシュ。常にスーツとネクタイ姿でした。気に入ったお客さんにはお酒を盛ったり、人生相談にも乗ってあげるなどきっぷが良く、お店はいつも繁盛してましたね」(武蔵小山のスナックのママ)

 精神的な不安から痩せたり太ったりを繰り返していた優香は、鈴木さんと出会った頃、太り気味だった。それまでいつも周囲からチヤホヤされていたのに、40歳も過ぎ、見向きもされなくなるんじゃないか……と不安になっていたところに、鈴木さんから求愛される。女性とは付き合ったことがなかったが、自信を失いかけていた優香に鈴木さんのまっすぐな思いは響き、出会って2カ月たたないうちに交際を始めた。

「店では1人でよくワインを飲んでましたが、時にドンペリも開けていた。『いいお客がついたね』なんて話していたんですが、そのうち客と喧嘩するわ、従業員を怒鳴るわ、酔っ払ってやりたい放題」(元従業員)

 豪快に金を使い、豪快に飲む彼女は、最初でこそ受け入れられるものの、次第に皆が眉をひそめ始める。だが惚れた弱みか、そんな優香を、鈴木さんだけがかばっていた。ほどなく優香は鈴木さんのマンションに転がり込み、一緒に住みながら、店を手伝うようになった。

 優香はそれまでアルコールにも溺れていたが、男にも依存する人生を送ってきた。父親は広島で飲食店を経営しており、裕福な家のお嬢様として育てられた。教育熱心な母親は、優香にしこたま習い事をさせた。そのおかげか優香の成績は上位をキープしていたが、母親は教育熱心なだけではなく、感情的でもあった。

「自分の思い通りにならないと手がつけられなくなるような性格で、しょっちゅう殴る蹴るの暴力を加えているのを見ていた。その暴力があまりにひどいので、遠巻きに見ていた腹違いの兄や、飲食店の従業員らが止めに入るほど」(親戚談)だったという。その後、景気の悪化とともに、父の事業も傾き始めたが、このとき母親が会社の金を脱税したことが決定打となり倒産、一家は没落していく。

 そして冒頭の、07年9月の東京地裁。彼女は母親との関係を、こう振り返る。

「小さい頃は、絵画、ピアノ、バレエ、日本舞踊、英会話……たくさんのお稽古ごとをやらされていました。母のしつけは厳しかったです。ブラシやスリッパで叩かれたり、父のいない時には殴ってきたり……怖かったです。その反面、お金や服には不自由しませんでした。父が死んだ後、母は私の名義でいろんなとこに借金したので、私が借金を背負わされました。それを知ったのが30歳くらいのとき……母に愛されているとは思っていませんでした」

 母親の愛情を男と金、そして酒に求めたのか。上京後の大学生時代は、妻子のある男性と付き合い、実家に戻ることはなかった。その男性からは金銭的な援助も受けていたという。その後も、別の男性の愛人として生活したり、ホステスとして銀座で働いたり、貸金業をやるなどして、新宿2丁目でのバー経営へと至っていた。店を失い、武蔵小山の店で出会った鈴木さんと交際を始めたときも、金銭的援助をしてくれる愛人がいた。

 40歳を過ぎて外見的な自信を失っていた自分を愛してくれた鈴木さんに対して、優香は、自分のこうした“男への依存”をとても告げることはできず、ひた隠しにしていた。これが綻びを生む。

(後編につづく)

「私は彼の奥様だから」堅実な銀行OLが2億円貢いだ“結婚”という甘言【足利銀行2億円横領事件・後編】

 昭和48年、お盆直前の8月12日に銀行員の大竹章子(21)は地元栃木の小山駅で同僚の女友達と待ち合わせた。少し早く取れた休みを利用して東北に行こうと、前から計画していたのだ。仙台行きの急行「松島4号」に乗り込むと、通路を挟んで隣に座っていた男に話しかけられた。章子は、石村と名乗るこの男のことを運命と思ったことだろう。しかし、この出会いは終わりの始まりだったのである。

前編はこちら

結婚には「秘密警察組織を抜ける金が必要」

「48年8月30日木曜日
 石村さんから電話がある。日光の金谷ホテルで彼と待ち合わせる。203号室。部屋の中には石村さんのアタッシェケースが1つだけ置いてあった。来年の春ごろには結婚できそうだと言う。私を迎えるまでには、何とかして仕事を軌道に乗せておきたいと言ってくれた。本当に嬉しい。みんなにお姉さんと言われながらも長い間辛抱していてきた甲斐があった。
 彼が私の全て。私は世界一幸福な女ね。今日は遅くなったので駅からタクシーを奮発して帰る。」

 来年の春ごろには結婚できる、辛抱してきてよかった、と幸せにつづる章子。しかし、石村にはこの当時結婚しており、東京に妻がいた。

 石村と名乗る男――「安田(仮名)」は、章子が生まれる2年前、宮城県登米郡登米町で誕生した。父は下駄屋で同町の名士でもあり、のちに電子工業の工場長に迎えられた。安田は県立登米高校を卒業後、東京の立正大学に進学したが、ちょうどその頃、父親の事業が失敗し、一家も関東に移り住んだ。安田は学業もそこそこに競輪、競馬通いを続け、大学2年で中退。千葉の自衛隊に入隊したが、競馬場にほど近い船橋市の蕎麦屋に強盗に入り、逮捕される。執行猶予判決を受けた後、東京に出てきていた。妻とは、熱烈な恋愛結婚だったという。

 だが安田が独身で、国際秘密警察の任務についている者だと疑わなかった彼女は、「組織から抜けるために金が必要」という求めに応じて、金を渡し続けた。自分の預金が底をつくと、父親名義の通帳から50万円、100万円と金を引き出し、安田に渡す。だが安田はまだ欲しがった。

「実は、組織から離れるためにはどうしても5000万円位のお金がいるんだ」
「5000万円なんて……」
「君は銀行の貸付係だろう」

 安田にヒントを与えられた章子は、ついに銀行の金に手をつけはじめる。勤務中、章子は隙を見て、窓口隣に座る調査役の検印を白地の手形、伝票、副伝票に押し、それをハンドバッグに入れて持ち帰り、自宅で金額を書き込んだ上、後日、銀行の忙しい時をねらって現金化した。それも“結婚”を夢見ていたからこその行動だった。

「48年10月15日 月曜日
 久しぶりに電話があった。彼から電話がかかってきた日にはカレンダーの日付に丸印をつけることが習慣になった。12日ぶりにつける丸印だ。今日は石村さんの運転で長野川の堤防までドライブに出た。ロイヤル山荘で休憩。彼に言われてしたことだけど、悪い事は悪いことだ。係長さんに名前を呼ばれると体がすくんじゃうほど怖い。でも彼の汗の匂いを嗅いでいる時だけは、本当に身も心も落ち着く。石村さんから離れられなくなってしまった。彼の仕事がうまくいけば早くお金を返してもらって銀行に返しておこう。あと5ヶ月で結婚できる」(章子の日記)

「49年1月25日 金曜日
 モーテルオランダにて休憩。
 彼と初めて会ってから今月でちょうど半年になった。会社の方が順調に進んでいないらしく、今日もお金を工面するよう頼まれてしまった。怖いから、もう勘弁してもらおうと思っていても、彼に頭を下げられると断れなくなってしまう。もうちょっとで、会社のほうもうまくいくと言う彼の言葉を信じよう。正式にはまだ彼の籍には入っていないけど、私は彼の奥様なんだから。彼の嵐のような激しい愛撫のほてりが、まだ体の心に残っている。」(同)

 年が明けた49年、桜が咲き始める頃には結婚できると思っていた章子。心はすでに“奥様”となり、心身ともに安田に酔っていた。だが、安田はまだ国際秘密警察という偽の立場を利用し、結婚を先延ばしにしながら、セックスと甘い言葉で手懐けた章子に、金の無心を続けた。元来、真面目な性格だった章子は、罪悪感と恐怖心に襲われながらも、銀行から金を引き出すことがどうしてもやめられなかった。

「49年12月24日 火曜日
 今日はクリスマスイブだった。トナカイのソリに乗ったサンタクロースは私のところには来なかった。どうしても拒めず、今日も彼と一緒にモーテル花園に入ってしまった。
 彼から電話でお金を作ってくるようにと言われた時、いちどは断った。だけど『ここまで来てしまったら、後には引けないだろう』と、彼に強引に押し切られてしまった。もうどうにもならない歪みにはまり込んでしまっている。お母さん、怖いの。助けて。」

 彼女の日記はこれ以降、空白が多くなり、たまに書かれているのも数字だけになる。最後に記載があったのは、50年7月11日。「500万円」のメモが最後だった。2年前の8月に出会ってから、この日に金を渡すまで、章子は安田と62回のデートを重ねた。そのうち54回、総額2億1190万円を貢いだ。

 勤め先の足利銀行栃木支店から不正に金を引き出したという横領の罪で栃木県警に逮捕されたのは、最後のメモから11日後の同年7月21日のことだった。夢見た結婚は叶わず、冷房のない県警の取調室で追及を受けながら、彼女は章子は「あの人が、必ずわたしも助けにきてくれる」と信じていた。

 その安田は章子の逮捕前日、当時すでに捜査の手が伸びていた章子にさらなる金の無心をし、ボウリング場「ニュー栃木ボウル」に来るように伝えていた。だが待ち合わせ場所に車で現れた安田は、捜査陣の張り込みに気づき、車を降りることなく急発進させ、時速120キロの猛スピードで逃走。愛人との逃亡を続けていた。

 安田は章子から奪い取った金で、複数の愛人を囲う生活を送っていたのだ。その事実を知った章子に、男への憎しみが生まれたのは自然なことだろう。

「今となれば、悪かったのは自分だとわかってますが、あの男に対する憎しみが湧いてくるんです。早く捕まえてください。銀行のお金をごまかすのにはどうするか、みんなあの男が教えてくれました。 途中から警察にバラすと脅されたり、殴られたりしたこともありました。あの男から連絡がなければお金を返してもらえないと心配だし、連絡があれば乱暴されたり金を持って来いと言われはしないかと怖くてたまりませんでした」

 取調室でこう語る章子。しかし、章子の知らないことはまだあった。安田は、貢がれた金で競馬情報と予想新聞の発行を行う会社「国際ユニオン開発センター」を立ち上げ、章子逮捕の前々月には六本木にクラブを開店するなど、羽振りの良さを見せつけた暮らしを送っていたのだ。

 9月18日、東京・五反田駅の西口で愛人とともに逮捕されたとき、2億円超を貢がれた安田が所持していた金はわずか250円だった。逮捕の知らせを受けた章子は、取調室で手を叩いて喜んだという。“私は彼の奥様なんだから”“彼が私の全て”――結婚を夢見た相手であったが、「あの男を、一生、刑務所から出さないで……。死刑にしてほしいほどなんです」「女の生き血を吸って生きている、悪い男なんです」と、章子は罵り続けた。
(高橋ユキ)

【参考文献】
「ヤングレディ」昭和50年8月11日号
「週刊女性」1975年8月12日号
「微笑」 昭和50年8月30日号
「女性自身」昭和54年10月18日号
「女性セブン」1975年8月13日号
「アサヒ芸能」1975年8月7日号

社会人2年目の夏、“模範的”銀行OLが捧げた150万円と処女の意味【足利銀行2億円横領事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

[第3回]足利銀行二億円横領事件

 お盆直前の8月12日、大竹章子(21)は地元栃木の小山駅で同僚の女友達と待ち合わせた。少し早く取れた休みを利用して東北に行こうと、前から計画していたのだ。仙台行きの急行「松島4号」に乗り込み、窓側に座った友人の隣に座る。若い女性たちの、平和で楽しい思い出の一つとなるはずの旅行だった。

「君たち学生?」

 ところが郡山駅を過ぎた頃に、通路を挟んで隣に座っていた見知らぬ男が話しかけてくる。ダークブラウンの背広が良く似合うその男は、二人にジュースをご馳走し、軽妙なトークを繰り広げてきた。窓の外ばかり見て拒絶を示す女友達とは対照的に、章子には仙台までの2時間があっという間に感じられた。

 仙台駅での別れ際、章子は男に求められ、女友達には気づかれぬよう、自分の泊まる旅館の電話番号を書いたメモを渡す。昭和48年のことだ。彼女は、この日の出会いをしばらく運命だと思っていたことだろう。だがそれは、終わりの始まりだったのである。

真面目で聡明な銀行OL、社会人2年目の夏

 章子は昭和28年、栃木県栃木市の郊外に生まれた。農業の傍ら、ビール用原料麦の運送業を営んでいる両親は、毎日仕事に精を出す働き者だった。姉と弟の三人きょうだい。骨太で丸い顔をした章子は、幼い頃から聡明な子で近所でも評判だったという。

 家の手伝いも嫌な顔一つせずこなし、特にトイレは念入りに掃除をした。母親が「もうやめといたら」と止めるほどであったが、「母ちゃんは黙って座ってればいいんだよ、私が好きでやってんだから」。こう答え、また掃除に精を出すのであった。

 やがて進んだ県立栃木商業高校ではテニス部のリーダーを務め、成績は常にトップクラス。悪い時でも20番と下がったことはなかった。学校長推薦で46年4月、卒業と同時に足利銀行栃木支店に入行。貸付係に配属された。堅実な両親のもとに生まれ育った章子の働きぶりは真面目で、無遅刻無欠勤、明るくてきぱきと仕事をこなす典型的、模範的な“銀行OL”だった。

 社会人になって2年目の夏。女友達と仙台へ旅行に出かけ、目的地である仙台の宿に着くと、特急「松島4号」で出会った男から電話があった。

「宿に着いてから、男から電話があって大竹さんが出ました。なぜ宿のことがわかったのか、私にはわかりません……。翌晩もまた電話があって、私はいくらなんでも知らない人と2回も続けて会うのは嫌だったので断ったら、大竹さんは『せっかく誘ってくれたのに、行かなきゃ悪いわ』と言って、1人で出かけていきました。帰ってきたのは1時間くらいしてからです。仙台の街を案内してもらった、と言っていました」(同行した女友達)

 このとき、章子は男の宿泊する部屋に呼び寄せられ、キスをした。働き者の家族のもとで暖かく育った真面目な章子は、これまで恋愛とは無縁だった。

 几帳面な性格から日記をつけるのが習慣だった章子は、この出来事も、それからの話も全て、日記に記している。

「旅館の電話番号を書いたメモを覚えていてくれて、電話をかけてきてくれた。約束を守るスマートな都会人っていう感じ。
 夜7時、誘われた。Kさん(友人)は相変わらず行きたくないと言う。でも好意は素直に受けるべきだと思う。彼女、私と石村さんが仲良くなるのを嫉妬しているのかもしれない。食事が済んだら宿にまっすぐ帰ると言う約束でKさんを納得させた……」
「翌日、彼からまた電話がかかってきた。彼女が入浴中だったので『散歩に出てくる』と簡単にメモを書き残して、1人で出かけることにした。11時帰宿。Kさんは寝ていた」(章子の日記)

 男は二人に自らを「石村」と名乗っていた。だが、それが偽名だと知らない章子は、旅で出会った年上の都会的な男性に、一気にのめり込む。そのためか、石村がわずかな逢瀬の合間に告げた驚くべき話を、章子は信じ込んでしまったのである。

「実は君にだけは打ち明けるが、僕は国際秘密警察員なんだ。今日会ったばかりだけど、僕は君と結婚したいんだ」

 これを聞いた章子は、白けるどころか、“大切な秘密を打ち明けられた”と感じ、石村への思いをますます強くしたようだ。日記には運命を感じたようなことを記している。

「石村さんから大変なことを聞いてしまった。彼が国際秘密警察官だったなんて。それも私と同じ金融関係の調査が任務っていうのも、何かの因縁なのかもしれない。彼の事は誰にも内緒にしておかなければ。もちろん友達にも」

 旅行から戻ってきた章子の勤務先に数日後、石村から電話がかかる。

「僕はあなたのことが忘れられなくて」

 すっかりその気になった章子は、姉が心臓の手術をしたばかりという家族の切迫した状況にもかかわらず、はしゃいでいた。浮ついた彼女を、父親がどなりつけたこともあった。しかしそんな小言も、恋の火のついた彼女の耳にはまったく響かない。

「48年8月20日月曜日
 石村さんから約束通り電話がかかってきた。大宮の喫茶店で会う。身の危険が迫ってきたので組織から1日も早く逃げたいと言う。そのためのお金を150万円貸してあげることにする。初めて彼に連れられてラブホテルに入った。とっても怖かった。石村さんが普通の勤め人になれれば結婚するんだ。だからバージンをあげるのは当たり前。彼に全てをリードしてもらった。」

 真面目な勤め人だった彼女は、自分の預金を引き出し、石村に渡した。石村はこう告げていたのだ。

「結婚したいんだが、実は今すぐはできない。結婚すれば秘密警察をやめなくてはならない。今やめれば命を狙われる。こんな状態から抜け出すには金がいるんだ」

 章子は石村を信じきっていた。入行時15人いた同僚は、2年のうちに次々と“寿退社”し、旅行当時は女友達を含め、4人となっていた。今の時代では考えられないが、20歳の彼女に結婚への焦りがあったと言われれば、否定はできないだろう。そして、バージンと大金を捧げてから10日後に二人は日光へ旅行に行く。

「48年8月30日木曜日
 石村さんから電話がある。日光の金谷ホテルで彼と待ち合わせる。203号室。部屋の中には石村さんのアタッシェケースが1つだけ置いてあった。来年の春ごろには結婚できそうだと言う。私を迎えるまでには、何とかして仕事を軌道に乗せておきたいと言ってくれた。本当に嬉しい。みんなにお姉さんと言われながらも長い間辛抱していてきた甲斐があった。
 彼が私の全て。私は世界一幸福な女ね。今日は遅くなったので駅からタクシーを奮発して帰る。」

 来年の春ごろには結婚できる、辛抱してきてよかった、と幸せにつづる章子。しかし、石村には、東京に妻がいた。

――後編は7月7日更新

「埋めてこい」実の父親が指示――8歳女児を死に至らしめたもの【葛飾区女児誘拐殺害事件・後編】

 下町の風情の残る東京都葛飾区で「仙石商店」(仮称)を営む石崎伸一(仮名・37)は、若くして親から受け継いだ会社を切り盛りする“下町のプリンス”だった。妻・聡子(35)との間に、中学生の長男と小学生の長女がいたが、妻の目を盗み、事務員・八文字美佐子(25)と情事に耽る不倫関係を続けていた。約4年前から続く関係にほころびが生まれた時、一人の少女が命を奪われた。

(前編はこちら)

 昭和49年8月、妻・聡子の浮気を疑った伸一は、美佐子にこう告げた。

「あいつの浮気がはっきりとわかれば、離婚してお前と一緒になる」

 これを信じた美佐子は興信所に調査依頼を行った。すると調査に勘づいた聡子は、子どもを連れて実家に帰ってしまう。ある日突然、伸一のもとに戻ってきたが、美佐子はこれでいよいよ離婚かと、伸一の自宅二階に成り行きを確かめるため潜んだ。しかし、そこで夫婦の本当の姿を知ってしまう。

「社長さんは、奥さんが帰ってくると『愛しているのはお前だけだ』なんて言って、挙句にはセックスまでしたんです。その時の私の気持ちは……いてもたってもいられない位でした。嫉妬を感じました。その次の日に社長から会社を辞めてくれって言われたんですけど、その時なんです、私が心から社長さんを好きになっているのに気がついたのは……」(公判供述)

 伸一は、妻と体を重ね、二人でやり直すことを誓った翌朝「昨夜のことは全部知っている」と美佐子からものすごい剣幕で詰め寄られた。たじろいだのもつかの間、やはりほだされて関係を復活してしまい、間もなく美佐子を、自宅から離れた事業所に復職させた。

 その矢先、事件は起こったのである。

 昭和49年10月17日。人気のない石崎家へ入っていった美佐子は、真新しい留袖を見つけた。この日、従業員の結婚式のために媒酌人として夫婦で出席するための、聡子の晴れ着であった。この瞬間から、嫉妬の炎が急激に燃え盛り、美佐子は切り出しナイフで左の外袖にL型の裂き傷を作りながら、思った。

「私はそれじゃあ、性の道具として利用されただけなのか……」

 夫婦が結婚式場へ向かった後、取引先から自転車で美佐子が事務所に帰っていると、一人で歩いている弥生ちゃんを見つけた。

「乗せて」

 こう言われるまま、後ろに乗せた。住居と事業所が一緒になった仙石商店で事務員をしていた美佐子と、その経営者の子である弥生ちゃんは、もちろん顔見知りであった。弥生ちゃんから見れば美佐子は、父親よりちょうど一回り年下の「お姉さん」で、母親の留守には食事の支度をととのえてくれるような存在だった。

 だがこの日、自転車の後ろに弥生ちゃんを乗せた美佐子に、あるどす黒い衝動が浮かぶ。

「もしこのまま誘拐したら、社長が困るだろう」

 そのまま自転車を走らせて着いた先は、会社ではなく、そこからほど近い場所にあるアパートだった。ここは「お姉さん」と伸一が、2カ月前から夫婦として入居していた愛の巣である。美佐子は弥生ちゃんを部屋に連れてゆき、彼女の首を締め始めるが「やめて」と抵抗されてしまう。だが、二人の“愛の巣”の場所を知ってしまった弥生ちゃんを見て、美佐子は思った。

「このまま逃げられては困る……」

 急いで台所に向かい、流しの下の包丁を手に取り、その刃を弥生ちゃんの頭に突き立てる。「苦しい、息が苦しい」とうめく弥生ちゃんの背中に、美佐子はなおも包丁を数回、突き刺して殺害したのだ。

 その日の夜、近所のサウナにいたところ、弥生ちゃんがいなくなったという連絡を聡子から受けた伸一は、ある予感を感じ、二人の愛の巣へ向かうと、美佐子と、変わり果てた我が子を見つけた。伸一は自首を考える美佐子を引き止め、こう指示した。

「冷蔵庫に死体を隠せ。土曜日の晩にどこかへ埋めてこい」

 翌日、セメントを15袋買ってきた美佐子は、弥生ちゃんの遺体にそれをかけて固めた。自分と同じぐらいの重さになった遺体を、一人で軽トラックの荷台に乗せ、大宮の雑木林まで運んで荷台から下ろし、そこに横たえた。だが、その報告を聞いた伸一から「なぜ埋めてこない」と財布で頭を強く叩かれ、再度埋めなおしに行く。しかし穴の深さが浅かったことから「犬だって50センチぐらい掘り返すぞ、もう一度埋めなおしてこい」と3度目の遺棄を命じられた。

 行方不明から約2週間後の10月30日、弥生ちゃんの遺体が雑木林で発見されると、任意で取り調べを受けていた美佐子は、ついに殺害を自供。11月2日、弥生ちゃん告別式の直後、その父である伸一も、死体遺棄と犯人隠避の罪で逮捕された。

 翌年、懲役1年8月、3年間の執行猶予判決を受けた伸一が、妻子の元へ戻った一方、美佐子には、懲役13年の判決が下された。求刑は無期懲役であったが大幅に減刑されている。これには、定時制高校時代の恩師や同級生による1,760人もの嘆願書が提出されたことが、大きく影響したと見るムキもある。

 女子刑務所に服役したのち、社会に戻った美佐子。八文字家は、美佐子の母の苗字に替え、彼女も新しい苗字として暮らす。出所後、地元で彼女の姿を見たものは誰もいない。
(高橋ユキ)

【参考資料】
「週刊文春」昭和50年7月10日号
「週刊新潮」昭和49年11月14日号
「週刊文春 1990年1月4日号
「週刊ポスト」昭和49年11月15日号
「週刊大衆」昭和49年11月21日号
「女性自身」昭和50年6月26日号
「微笑」昭和50年4月26/昭和49年11月30日号
「アサヒ芸能」 昭和50年1月16日号