出刃包丁で143カ所ズタズタに――“うわさ話”に追い詰められた女の鬱屈【練馬・隣家主婦メッタ切り殺害事件:後編】

 昭和51年、1月28日。練馬区東大泉に暮らす主婦・佐藤明子さん(仮名・当時40)はパートから自宅に帰ったと同時に、隣人の青木友子(仮名・当時47)から出刃包丁で切りつけられた。顔と頭をひたすらに包丁で切りつけられ、頸動脈切断による出血多量で死亡。合計143カ所もの傷がつけられ、両手首は切断、顔は元の姿がわからないほど切り刻まれていた。

(前編はこちら)

都営住宅に同年に入居、“普通”の隣人付き合いだった

 友子がこの都営住宅に家族と住み着いたのは昭和32年。夫は、通産省(当時)の工業技術院の課長で、当時21歳の長女を筆頭に、4人姉妹と共に暮らしていた。東京に生まれた友子の父親は早くに亡くなり、女手一つで育てられた。母親はマッサージや三味線を教えながら、友子を大妻女子専門学校へ通わせ、卒業後は千葉県市川市の中学校で教師となったが、1年ほどで退職する。職業訓練校でタイプを習い、工業技術院の採用試験に見事合格。ここで夫と出会い、結婚に至った。

「犯人の青木さんは、普段から口数が少なくておとなしい奥さんだったんですよ。まさかあんなことをするなんて……」

 近所の主婦たちは事件当時、こう口々に語っている。一方、被害者の明子さんは高校卒業後、生命保険会社に勤める夫と結婚し、のちに遺体の第一発見者となる長女を含む、子ども2人をもうけた。近所でも「都営小町」と呼ばれるほどの美人で明るい性格。PTAの役員を務めるなど地元の信頼も厚く、子どもも成績優秀で、家庭は至って円満であった。

 明子さん一家も、友子一家と同じく昭和32年に、この都営住宅に入居。以後、何もなく“普通”の隣人付き合いをしていた。途中の10年間を、明子さんの夫の転勤先である関西で過ごし、事件の3年前に戻ってきた。明子さんの長女と友子の末娘とは同じ学校の同級生でもあった。

「佐藤さんの奥さんは、おとなしくて几帳面で、きれいな方だけど控え目のいい奥さんです。殺されるほどの恨みを買う人とは思えませんよ」

 近所の主婦たちは、やはり口々にそう言った。ではなぜ、友子は隣家の主婦を殺害するまでの恨みを抱いたのか。

 ほころびが表面化したのは事件の前年7月。友子は精神科にかかり、医師にノイローゼと診断されていた。しかし、周辺住民はその前から、友子を“異分子”と見ていたふしがある。こんな声も聞こえてきたからだ。

「自分は高学歴ってのを鼻にかけていた。そのくせ生活はだらしなくて、子どもにも平気で汚れた服を着せていた」

「道で出会っても、ロクに挨拶もしなかった」

 そのうえ、友子夫妻の“不仲ぶり”は、もはやご近所では周知の事実でもあった。家からは、毎夜のように夫婦喧嘩の声が聞こえ、時には「殺すなら殺せ!」という友子の絶叫が近隣に響き渡ることすらあった。夫の勤務先が遠方になり、家を空けることが増えたため、近所では「ダンナさんには女がいて、あまりかまってもらえず、別居までしてたらしいわよ」とうわさ話に花が咲く。さらに、友子の実母も

「青木は、離婚したいということばかり言ってきました。友子のほうは主人にかまってもらえない、と泣いてくることもあり、体のあちこちにアザをつけてきたこともあった。黙っておけば、夫婦だからなおる。お前が辛抱しさえすれば丸く収まる、といい聞かせては帰したんです」

と、不仲を認める。そして事件前年の暮れのある夜、友子の夫からこんな電話があったことも明かした。

「あんなバカをくれて! そちらへ返すから、明日とはいわん。いますぐ迎えに来てくれ」

 その夫は、夫婦喧嘩の最中に、友子にこう言い放ったことがある。

「少しは隣の奥さんを見習え」

 近所の住民がこれを立ち聞きしていた。

 友子は、このように夫婦の衝突が外に漏れていることや、住民らのうわさ話を知っていたのか。それとも夫の言葉が呪いのように彼女の心を締めつけていったのか。“見習え”と言われた隣家の明子さんは、家族と共に順風満帆な日々を送っている。

 いつからか友子は、明子さんを単なる隣人ではなく、ライバルとして注視するようになり、最終的には自分の生活を妨害する「首謀者」だと思い込んでいった。

 それは逮捕後の友子の供述からよくわかる。

「佐藤さんは何かにつけて私を目の敵にした。頼みもしないのに私の家の前のドブ掃除をしたのも、私の悪い評判を近所に言いふらすためじゃないか。去年プレハブの子ども部屋を作ったとき、風通しが悪くなる、と文句をつけてきたりしたんです。布団をうちの方に向けてパタパタ叩いたり、電気掃除機でうるさい音を立てたりするのも、嫌がらせだと考えました。佐藤家で飼っていた小鳥もうるさかった」

 こう語り、両手首を切り落とそうとしたのも「この器用な手さえなければ、ドブ掃除も、自転車に乗ることもできなくなると思った」。こんな理由からだった。

 事件前日、友子は何かを訴えたかったのか、実母の住む実家にふらりと現れた。来客中だったため、母は友子に映画のチケットと3,000円を渡した。

「私、『フーテンの寅さん』を見てくるわ。うさばらしになる」

 こう告げて映画に出かけて行った友子の心が晴れることはなく、翌日、事件を起こした。のちに東京地裁で裁かれた友子には懲役10年の判決が言い渡され、控訴せずに確定している。

 彼女は近所のうわさに翻弄されたのか、それとも夫の何気ない一言が重荷となり、不条理を押し付けられた憎しみを明子さんに向けたのか――。

友子と夫それぞれの、その後の“ご近所づきあい”

 妻に心無い言葉をかけたことを認識しているのかいないのか、友子の夫は事件から1年後、驚くべき行動に出た。被害者である明子さんの夫ら遺族を相手取り、3000万円の損害賠償を求める訴訟を提起したのである。事件の示談協議がこじれた結果であった。

「明子さんの夫らは、友子の夫の勤務先上司宛てに、退職を促すような電話をかけ、さらに自宅の周りに『人殺しの家』など、ペンキで書くなどして退職せざるを得ない状況に追い込んだ」など、果たして本当に明子さんの夫によるものか不明な事柄までも訴えてきたのだ。

「もう、呆れてしまって、開いた口がふさがらないといった気持ちですよ」

 と明子さんの夫は当時の取材に応えている。

 そして、逮捕後に警視庁の留置場に送られていた当の友子は「幸恵ちゃん誘拐事件」で逮捕され、留置場に入っていた新井フデ(当時42)と同じ房になっていた。酒に溺れ、職を転々とする……そんな男たちとの結婚や出産、そして離婚の果てに、ようやく好きな男性と結婚したフデ。ところが彼とだけは子宝に恵まれず、他人の子どもを誘拐し、自分の子どもとして育ててきた女性だった。フデは、2日後にやってきた友子をこう慰めたという。

「私もつらい経験をした。あんたも気を確かにもちなさい。しっかりしなさい」

 新たな“ご近所づきあい”が始まっていた。

<参考文献>
「新潮45」2007年3月号
「週刊実話」1999年11月4日号
「女性セブン」1976年2月18日号
「アサヒ芸能」1977年3月17日号
「週刊女性」1976年2月17日号
「週刊ポスト」1976年2月13日号
「週刊文春」1976年2月12日号
「週刊朝日」1976年2月13日号

143カ所切り刻み、両手首切断――“お隣さん”に募ったオンナの恨み【練馬・隣家主婦メッタ切り殺害事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 昭和51年、1月28日の東京は、空が抜けるように晴れた良い天気だった。都心から少し離れた練馬区東大泉は、いつものようなのどかな雰囲気が広がっていた。主婦・佐藤明子さん(仮名・当時40)は近くの酒屋で朝9時から午後1時までのパートを終え、自転車に乗って、いつものように自宅を目指した。大泉学園駅の近くに建つ木造平屋建て都営住宅の一画。曲がり角を曲がればすぐ家に着く。ところがここは、普段から子どもが飛び出してくることが多いのだ。住民らは自転車でここを通る時、警戒のためにベルを鳴らすのが常だった。ブレザー姿にパンタロンを穿いた明子さんも、いつものように、ほかの住民と同様、最後の曲がり角に差し掛かったところでベルを鳴らした。

「チリンチリン」

 ゆっくりとカーブを曲がり、自転車を止め、家に入る。この音が、惨劇の合図となった。

練馬 隣家主婦メッタ切り殺害事件

 午後1時20分。学校から帰ってきたのは、小学5年生になる明子さんの長女(当時11)。扉を開け、靴を脱ぎ、上がり框(かまち)に片足をかけた時に妙な音を聞いた。

「ピシュッ、ピシュッ」

 続いて、明子さんの声。

「……助けて……」

 足元には、やがて血痕だとわかる、赤い染みがあった。慌てて家を飛び出し、両隣の玄関を叩くが、応答がない。走り出し、その先の十字路でぶつかった近所の青年の手を引っ張り自宅へ戻った。

 玄関から中をのぞいた青年もまた不気味な音を聞いた。

「ピシュッ」

 110番通報によりパトカーが家に来たのは午後1時28分のことだ。部屋に上がった石神井署の捜査員は、その現場の凄惨さをこう述懐する。

「長く警察官をしてますが、あんなヒドいのはあまり見たことがない」

 明子さんは血の海が広がる四畳半と台所の境で、仰向けに倒れていた。体は温かったが、すでに息絶えている。上に伸ばした両手首は切断されていた。右手首は皮一枚でつながっていたものの、左手首は体のそばに落ちていた。血はかもいの上の壁にまで飛び散り、畳を通して床板にも染み通っていた。倒れた襖はズタズタで、窓のアルミサッシにも切り傷がついていた。

 室内に物色の跡は見当たらず、台所から玄関へと血の足跡が続いており、おびただしい量の毛髪が散乱している。明子さんには刺し傷はなく、全て上から切りつけた傷だったが、手首の損傷は激しく、切り口のそばに無数の傷があった。

 合計143カ所もの傷がつけられていた明子さんの死因は、頸動脈切断による出血多量死だった。

「第一報を受けた時は流しの犯行と思った。ところが現場を見て、これは女の恨みだ。すぐ解決すると感じました」

 こう語る捜査員の言葉通り、犯人はすぐに見つかった。明子さん宅の玄関には、女性ものの黒縁メガネと、赤い花柄の手提げ袋が落ちていた。「隣の青木さんと佐藤さんは仲が悪かった」という近所の聞き込みで、隣家に赴くと、玄関の敷石に血が点々と落ちている。玄関は閉まっていた。先ほど長女が助けを求め訪ねた両隣のうちの片方だった。

 横の戸を開け捜査員が中に入ると、掘りごたつの布団にくるまってテレビを見ている女性が目に入った。再放送の『寺内貫太郎一家』(TBS系)で、貫太郎が威勢良く家人をぶっ飛ばす様子が流れており、女性の傍らには、血に濡れた出刃包丁が転がっていた。呼びかけに渋々体を起こした女性に、捜査員は言った。

「いつもメガネをかけてるのに、どうした」

 サッと青ざめたこの女性こそ、つい先ほど隣家で明子さんをメッタ切りにして殺害した青木友子(仮名・当時47)だった。凶器として用いた刃渡り約20センチの出刃包丁は、のこぎりのように刃こぼれしていた。石神井署へ任意同行後、犯行を自供した友子は、その日のうちに逮捕された。そして取り調べで動機について問われ、こう言う。

「いつもわたしを小ばかにするような態度をとるので、ずっと恨んでいました。あの時は、自宅付近にいました。佐藤さんがパートから自転車で帰ってきて、私の目の前で『チリリン』とベルを鳴らして過ぎ去ったので、自転車に乗れないわたしをばかにするためにそうしたのだと思い、恨みが頂点に達してしまって……」

 そして、コタツの脇に放り投げられていた出刃包丁を、花柄の手提げバッグに入れて隣家に向かい、凶行に及んだのだった。

「チリンチリン」

 明子さんはベルを鳴らして角を曲がり、自転車を止めて、家に入った。すぐに玄関にやってきた友子。玄関先に明子さんが戻ると、友子はいきなり手提げ袋から出刃包丁を取り出し、無言で顔をめがけ、切りかかった。

「何をするの! やめて!」

 表へ出て助けを求める暇さえなかった明子さんの顔を、頭を、ただひたすらに包丁で斬りつける友子。玄関を上がり、六畳間へ、さらに奥の四畳半へと、家の奥へ逃げる明子さん。絶え間ない友子の攻撃に、血が噴き出してくる。切り刻まれた顔は、もとの顔を判別することができないほどに変形していた。そして意識を失うその直前に、おそらく見えなくなっていたであろう目で友子をにらみ、うめくように言った。

「……化けて、化けて出てやる。……化けて……」
(高橋ユキ)

――後編は3月22日(日)公開

「好きな男に会えずイライラした」さいたま連続放火魔、法廷で呻き続けた中年女の姿【ドン・キホーテ放火事件・後編】

埼玉県さいたま市緑区。店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うとい大被害をもたらした「ドン・キホーテ浦和花月店」の全焼から2日後、「ドン・キホーテ大宮大和田店」で火災が起こった。犯人として浮上したのは、当時47歳の渡辺ノリ子。「浦和花月店」と「大宮大和田店」の火災だけでなく、イトーヨーカドーやサティの女子トイレに火を放ち続けていたのだ。職場では「おとなしくて目立たない。真面目な人」という評判だったが、「交際相手とのトラブルが絶えなかった」と知人は語る。

(前編はこちら:万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】)

「好きな男性に会えずイライラした」二転三転する供述

 恋愛が、万引きと放火にどう関連したのか――。動機はいったい何だったのか――。ところが、ノリ子は取り調べにおいても、公判においても、供述を二転三転させ、日本中を困惑させた。当時は裁判員制度施行前のため、捜査が進んだものから追起訴を重ね、審理は細切れに行われていた。

 2005年3月、最初に起訴されたのは「ドン・キホーテ大宮大和田店」で毛布を燃やし、腕時計などを万引きした事件についてだった。さいたま地裁での初公判で、ノリ子は「ものを盗むつもりはなかった」と万引きをするつもりはなかったと否定し、放火未遂罪についても「火はつけていません」と否認。

 それでも県警が状況証拠を積み重ねたことで、翌月、ノリ子は「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させた放火の罪で逮捕される。このときノリ子は「もう裁判でうそは言いたくない」と7件すべての放火と放火未遂罪について関与を認めたのである。

「好きな男性に会えず、イライラして火をつけた。人が死ぬとは思わなかった」

 一連の放火事件についてノリ子はこう供述したという。連続放火の動機としては弱いものの、ようやく犯行を認めたことで捜査員らがホッとしたが、それはつかの間だった。ノリ子は再び、煙に巻こうとする。

 全てを認めたその翌日、弁護人と接見して「どこにも火をつけていない」と話し、あっという間に否認に戻ったのである。結局、全焼して3名が命を落とした「ドン・キホーテ浦和花月店」の放火事件についても「殺意があったと認めるに足りる証拠がない」と、殺人罪での起訴はなされなかった。

 動機どころか犯行そのものも認めなくなったノリ子。しかし、犯行当時に同居していた男性が証人出廷し、前後のノリ子の行動を明かした。ドン・キホーテの放火事件当日に彼女は「(好きな男性の)家に火をつけてくる」と言い残し、外出。翌日の朝方、家に戻ってきたという。テレビで放火の様子が流れているのを見ながら、男性は聞いた。

「お前がやったのか」

 このとき「やってない」と答えたというが、逮捕後に川越署の留置場で同じ房にいた女性は、公判に出廷しこう証言する。

「渡辺さんが3月上旬『事件のことで悩んでいる。まさか死ぬとは思わなかった』と話しているのを聞いた」
「『私は無期かコレだから』と言いながら、左手の親指で首を切る仕草をした。死刑のことだとわかり、3人が亡くなった浦和花月店の火災のことを言っているのだと思った」

 ノリ子は法廷でその女性の名をブツブツと小声でつぶやきながら、その後ろ姿をじっと見つめていた。

 一度は認めながらも否認に転じ、そのまま一連の放火を認めず、被告人質問でも「わかりません」「やってません」「覚えていない」を繰り返したノリ子には、求刑通りの無期懲役の判決が言い渡された。

 判決を不服として即日控訴したが、いざ控訴審が始まっても、ノリ子の態度はやはり変わらなかった。それどころか、控訴審で弁護人はこう訴え始めた。

「被告人は自分がなぜ、裁判を受けているのかすら、わかっていないのです」

 いわく、ノリ子が前頭側頭型認知症に罹患している疑いが精神鑑定などで浮上したのだという。だが、「交際相手やその家族に対してだけ嫌がらせをしていた」ことなどから、「認知症で判断能力が落ちていた可能性は否定できないが、責任能力がある70~80歳の高齢者と同程度の判断能力はあった」と認定し、08年5月に控訴を棄却している。

 この判決言い渡しの際、ノリ子は呻くようにブツブツとささやき始めた。

「……やってません」
「……お願いします。……やってません」

 読経のような呻きは、判決言い渡しが終わるまで続き、終わってもブツブツと続いた。

「うるせえよ!」

 傍聴席から怒号が上がると一瞬、呻き声も途切れたが、しばらくするとまた、ブツブツと始まるのだった。

 真っ赤なシャツにピンクのジャージの上着、紺色のジャージのズボン。白髪が混じったつやのない髪を左側頭部で結わえ、鼻先にメガネをかけたノリ子は、法廷で呻き続けた 。その後、ノリ子は上告したが、08年11月にこれも棄却され、無期懲役が確定した。

 近年では、万引きを繰り返す「クレプトマニア」という病の存在も知られ、クレプトマニアに前頭側頭型認知症の患者がいることも徐々にわかってきた。長年勤めた病院を退職してから、交際相手宅への奇妙な行動や万引きが目立ち始めたノリ子。この時点で周囲が通院を勧めていれば、事件は起こらずに済んだだろうか。

 当時取材した記者によれば、「そもそもの放火の動機というのが、交際していた男性とトラブルを起こしてイライラし、そのストレスから万引きをするようになった」というが、ノリ子は語らなかった。 クレプトマニアだったのか、男性関係のストレスだったのか――。

 全焼した「ドン・キホーテ浦和花月店」は事件翌年に解体された。その跡地にはドラッグストアが建ち、事件の痕跡は残っていない。火災で命を落とした店員3名の遺族らは、さいたま市消防局が適切な対応を怠ったとして、市に損害賠償を求める訴訟を提起していたが、11年に賠償義務が発生しない形で和解が成立している。

参考文献
・「週刊新潮」2005.3.3号、2005.5.5・12号
・「週刊ポスト」2008.7.11号
・「週刊女性」2008.3.11号

「好きな男に会えずイライラした」さいたま連続放火魔、法廷で呻き続けた中年女の姿【ドン・キホーテ放火事件・後編】

埼玉県さいたま市緑区。店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うとい大被害をもたらした「ドン・キホーテ浦和花月店」の全焼から2日後、「ドン・キホーテ大宮大和田店」で火災が起こった。犯人として浮上したのは、当時47歳の渡辺ノリ子。「浦和花月店」と「大宮大和田店」の火災だけでなく、イトーヨーカドーやサティの女子トイレに火を放ち続けていたのだ。職場では「おとなしくて目立たない。真面目な人」という評判だったが、「交際相手とのトラブルが絶えなかった」と知人は語る。

(前編はこちら:万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】)

「好きな男性に会えずイライラした」二転三転する供述

 恋愛が、万引きと放火にどう関連したのか――。動機はいったい何だったのか――。ところが、ノリ子は取り調べにおいても、公判においても、供述を二転三転させ、日本中を困惑させた。当時は裁判員制度施行前のため、捜査が進んだものから追起訴を重ね、審理は細切れに行われていた。

 2005年3月、最初に起訴されたのは「ドン・キホーテ大宮大和田店」で毛布を燃やし、腕時計などを万引きした事件についてだった。さいたま地裁での初公判で、ノリ子は「ものを盗むつもりはなかった」と万引きをするつもりはなかったと否定し、放火未遂罪についても「火はつけていません」と否認。

 それでも県警が状況証拠を積み重ねたことで、翌月、ノリ子は「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させた放火の罪で逮捕される。このときノリ子は「もう裁判でうそは言いたくない」と7件すべての放火と放火未遂罪について関与を認めたのである。

「好きな男性に会えず、イライラして火をつけた。人が死ぬとは思わなかった」

 一連の放火事件についてノリ子はこう供述したという。連続放火の動機としては弱いものの、ようやく犯行を認めたことで捜査員らがホッとしたが、それはつかの間だった。ノリ子は再び、煙に巻こうとする。

 全てを認めたその翌日、弁護人と接見して「どこにも火をつけていない」と話し、あっという間に否認に戻ったのである。結局、全焼して3名が命を落とした「ドン・キホーテ浦和花月店」の放火事件についても「殺意があったと認めるに足りる証拠がない」と、殺人罪での起訴はなされなかった。

 動機どころか犯行そのものも認めなくなったノリ子。しかし、犯行当時に同居していた男性が証人出廷し、前後のノリ子の行動を明かした。ドン・キホーテの放火事件当日に彼女は「(好きな男性の)家に火をつけてくる」と言い残し、外出。翌日の朝方、家に戻ってきたという。テレビで放火の様子が流れているのを見ながら、男性は聞いた。

「お前がやったのか」

 このとき「やってない」と答えたというが、逮捕後に川越署の留置場で同じ房にいた女性は、公判に出廷しこう証言する。

「渡辺さんが3月上旬『事件のことで悩んでいる。まさか死ぬとは思わなかった』と話しているのを聞いた」
「『私は無期かコレだから』と言いながら、左手の親指で首を切る仕草をした。死刑のことだとわかり、3人が亡くなった浦和花月店の火災のことを言っているのだと思った」

 ノリ子は法廷でその女性の名をブツブツと小声でつぶやきながら、その後ろ姿をじっと見つめていた。

 一度は認めながらも否認に転じ、そのまま一連の放火を認めず、被告人質問でも「わかりません」「やってません」「覚えていない」を繰り返したノリ子には、求刑通りの無期懲役の判決が言い渡された。

 判決を不服として即日控訴したが、いざ控訴審が始まっても、ノリ子の態度はやはり変わらなかった。それどころか、控訴審で弁護人はこう訴え始めた。

「被告人は自分がなぜ、裁判を受けているのかすら、わかっていないのです」

 いわく、ノリ子が前頭側頭型認知症に罹患している疑いが精神鑑定などで浮上したのだという。だが、「交際相手やその家族に対してだけ嫌がらせをしていた」ことなどから、「認知症で判断能力が落ちていた可能性は否定できないが、責任能力がある70~80歳の高齢者と同程度の判断能力はあった」と認定し、08年5月に控訴を棄却している。

 この判決言い渡しの際、ノリ子は呻くようにブツブツとささやき始めた。

「……やってません」
「……お願いします。……やってません」

 読経のような呻きは、判決言い渡しが終わるまで続き、終わってもブツブツと続いた。

「うるせえよ!」

 傍聴席から怒号が上がると一瞬、呻き声も途切れたが、しばらくするとまた、ブツブツと始まるのだった。

 真っ赤なシャツにピンクのジャージの上着、紺色のジャージのズボン。白髪が混じったつやのない髪を左側頭部で結わえ、鼻先にメガネをかけたノリ子は、法廷で呻き続けた 。その後、ノリ子は上告したが、08年11月にこれも棄却され、無期懲役が確定した。

 近年では、万引きを繰り返す「クレプトマニア」という病の存在も知られ、クレプトマニアに前頭側頭型認知症の患者がいることも徐々にわかってきた。長年勤めた病院を退職してから、交際相手宅への奇妙な行動や万引きが目立ち始めたノリ子。この時点で周囲が通院を勧めていれば、事件は起こらずに済んだだろうか。

 当時取材した記者によれば、「そもそもの放火の動機というのが、交際していた男性とトラブルを起こしてイライラし、そのストレスから万引きをするようになった」というが、ノリ子は語らなかった。 クレプトマニアだったのか、男性関係のストレスだったのか――。

 全焼した「ドン・キホーテ浦和花月店」は事件翌年に解体された。その跡地にはドラッグストアが建ち、事件の痕跡は残っていない。火災で命を落とした店員3名の遺族らは、さいたま市消防局が適切な対応を怠ったとして、市に損害賠償を求める訴訟を提起していたが、11年に賠償義務が発生しない形で和解が成立している。

参考文献
・「週刊新潮」2005.3.3号、2005.5.5・12号
・「週刊ポスト」2008.7.11号
・「週刊女性」2008.3.11号

万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第9回:ドン・キホーテ放火事件

 埼玉県さいたま市緑区。国道463号線と県道1号線がぶつかる花月交差点付近にあった「ドン・キホーテ浦和花月店」から火の手が上がったのは2004年12月13日、夜8時過ぎのことだった。カラッとした冬晴れが続いていたなかでの火災は、商品が天井近くまで積み上げられているドン・キホーテ特有の“圧縮陳列”という事情も重なり、みるみる拡大。約2,300平方メートルの店舗が全焼した。これにより同店に勤務していた店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うという大被害をもたらした。

 火災は一度では終わらなかった。同日の夜11時ごろ、そこから約10キロほど離れた場所に位置する「ドン・キホーテ大宮大和田店」で出火。幸い、すぐさま消火活動が行われ、衣類など218点が燃えるにとどまった。ところが2日後、午後3時ごろに、またもや「大宮大和田店」で出火。毛布売り場から火の手が上がり、ビニール袋入りの毛布7枚などが燃えた。3日間に連続して起こった3件の火災に、同社に恨みを持つ者による怨恨犯説もささやかれた。

 全焼した「浦和花月店」からは防犯カメラの回収もできない。ところが、「大宮大和田店」の二度目の火災発生後、防犯カメラに“龍の刺繍の入った帽子をかぶった女”が映っていたことで事態は急展開する。二度目の火災があった際、騒ぎに乗じてか、買い物かごをそのまま店外に持ち去った女がいた。同日、買い物かご窃盗容疑で逮捕された女の帽子には、龍の刺繍があった。

52万円分のドン・キホーテ万引き犯

 その帽子をかぶった女は、当時47歳の渡辺ノリ子。前月18日に「ドン・キホーテ大宮大和田店」でバッグ類を盗んだとして窃盗容疑で現行犯逮捕されていたが、犯行当時の精神状態を調べるために行われた簡易鑑定で「心神耗弱状態で責任能力なし」とされ、処分保留で釈放されていた。このとき盗んだものは、ボストンバッグと男女用の外国製高級腕時計一組、ジャンパー、買い物かごの計52万円相当。釈放されて5日後に「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させたのだった。

 その2日後に「大宮大和田店」で起こった火災の際には、火元にタバコの吸殻4本が落ちていた。これを鑑定したところ、吸殻に残されていた唾液のDNAが、ノリ子のものと一致。防犯カメラに残された映像には、ノリ子の万引きの様子も映っていた。

 「大宮大和田店」の出火場所、寝具売り場から10メートルほど離れた時計売り場。ノリ子が店員に何かを話しかけると、店員はショーケースから腕時計を出してきた。

「ちょっと相談してくるから待ってて」

 こう告げて、いったん腕時計の前から離れるノリ子。すると別の防犯カメラに、腕時計売り場の角を曲がって寝具売り場にやってくるノリ子が映り込む。その直後、煙が上がり、ノリ子は寝具売り場を立ち去った。再び、腕時計売り場のカメラに映り込むノリ子。煙に気づいた店員がショーケースを離れた直後、素早く腕時計を持ち去る。出入り口付近のカメラには、その腕時計などが入った買い物かごを持ったまま店外に立ち去る様子も捉えられていた。

 この窃盗容疑で勾留されたノリ子に対しては、取り調べが進められ、最終的に、1件の非現住建造物等放火、6件の非現住建造物等放火未遂で起訴された。ノリ子は、「浦和花月店」全焼と「大宮大和田店」2件の火災だけでなく、別のボヤ事件も起こしていたのだ。

 その日、「ドン・キホーテ浦和花月店」への放火に及ぶ直前、スーパー「北浦和サティ」に赴いたノリ子は18時40分ごろ、1階女子トイレでジャンパーに火をつけ、仕切板などを燃やした。さらに同店で19時10分ごろ、2階トイレで油類を染み込ませた紙に火をつけ、また仕切板などを燃やす。

 そのあと、2軒のドン・キホーテに火を放ったのち、2日後に逮捕の契機となる「ドン・キホーテ大宮大和田店」での放火事件を起こす。さらにその足で、17時45分ごろ「イトーヨーカドー大宮店」の1階女子トイレでトイレットペーパーを燃やした後、2日前にボヤを起こした「北浦和サティ」に舞い戻り、1階女子トイレでガソリンを染み込ませたティッシュに火をつけ、仕切板などを燃やした。

 数日の間に、ドン・キホーテとイトーヨーカドー、サティに火を放ち続けた。連続放火に終止符が打たれたのは、ノリ子が逮捕されたためだ。

 万引きとセットになった放火を繰り返したノリ子は、福島県で生まれ、埼玉県の中学校を卒業後、1976年から、ドン・キホーテ放火事件を起こす2004年までの28年間をさいたま市内の整形外科医院で看護助手として勤務していた。元同僚は、ノリ子をこのように語る。

「おとなしくて目立たない人。トラブルを起こしたという話もなく、勤務態度は真面目だった」

 ところが、同医院を9月1日に退職すると、生活が乱れ始めたという。定職につかず、交際していた男性の実家や元夫の自宅などに身を寄せて生活するようになった。退職直前には、三度目の離婚をしている。

 奇怪な行動も目立ち始めた。退職直後には、交際していた男性宅の玄関ドアにマヨネーズをかけた器物損壊容疑で逮捕されていた。

 「交際相手とのトラブルが絶えなかった。執拗に電話をしたり包丁を持ち出すこともあった」と、知人は語る。同僚には“おとなしくて目立たない人”と評されていたノリ子だが、恋愛においては、こうした面があった。ところがそれも、始まりは98年当時に結婚していた元夫が抱えた多額の借金が引き金だという見方もある。この頃から夫婦仲が険悪になり、ノリ子の性格も「ひどく怒りっぽくなった」といわれる。

――後編は2月9日公開

万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第9回:ドン・キホーテ放火事件

 埼玉県さいたま市緑区。国道463号線と県道1号線がぶつかる花月交差点付近にあった「ドン・キホーテ浦和花月店」から火の手が上がったのは2004年12月13日、夜8時過ぎのことだった。カラッとした冬晴れが続いていたなかでの火災は、商品が天井近くまで積み上げられているドン・キホーテ特有の“圧縮陳列”という事情も重なり、みるみる拡大。約2,300平方メートルの店舗が全焼した。これにより同店に勤務していた店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うという大被害をもたらした。

 火災は一度では終わらなかった。同日の夜11時ごろ、そこから約10キロほど離れた場所に位置する「ドン・キホーテ大宮大和田店」で出火。幸い、すぐさま消火活動が行われ、衣類など218点が燃えるにとどまった。ところが2日後、午後3時ごろに、またもや「大宮大和田店」で出火。毛布売り場から火の手が上がり、ビニール袋入りの毛布7枚などが燃えた。3日間に連続して起こった3件の火災に、同社に恨みを持つ者による怨恨犯説もささやかれた。

 全焼した「浦和花月店」からは防犯カメラの回収もできない。ところが、「大宮大和田店」の二度目の火災発生後、防犯カメラに“龍の刺繍の入った帽子をかぶった女”が映っていたことで事態は急展開する。二度目の火災があった際、騒ぎに乗じてか、買い物かごをそのまま店外に持ち去った女がいた。同日、買い物かご窃盗容疑で逮捕された女の帽子には、龍の刺繍があった。

52万円分のドン・キホーテ万引き犯

 その帽子をかぶった女は、当時47歳の渡辺ノリ子。前月18日に「ドン・キホーテ大宮大和田店」でバッグ類を盗んだとして窃盗容疑で現行犯逮捕されていたが、犯行当時の精神状態を調べるために行われた簡易鑑定で「心神耗弱状態で責任能力なし」とされ、処分保留で釈放されていた。このとき盗んだものは、ボストンバッグと男女用の外国製高級腕時計一組、ジャンパー、買い物かごの計52万円相当。釈放されて5日後に「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させたのだった。

 その2日後に「大宮大和田店」で起こった火災の際には、火元にタバコの吸殻4本が落ちていた。これを鑑定したところ、吸殻に残されていた唾液のDNAが、ノリ子のものと一致。防犯カメラに残された映像には、ノリ子の万引きの様子も映っていた。

 「大宮大和田店」の出火場所、寝具売り場から10メートルほど離れた時計売り場。ノリ子が店員に何かを話しかけると、店員はショーケースから腕時計を出してきた。

「ちょっと相談してくるから待ってて」

 こう告げて、いったん腕時計の前から離れるノリ子。すると別の防犯カメラに、腕時計売り場の角を曲がって寝具売り場にやってくるノリ子が映り込む。その直後、煙が上がり、ノリ子は寝具売り場を立ち去った。再び、腕時計売り場のカメラに映り込むノリ子。煙に気づいた店員がショーケースを離れた直後、素早く腕時計を持ち去る。出入り口付近のカメラには、その腕時計などが入った買い物かごを持ったまま店外に立ち去る様子も捉えられていた。

 この窃盗容疑で勾留されたノリ子に対しては、取り調べが進められ、最終的に、1件の非現住建造物等放火、6件の非現住建造物等放火未遂で起訴された。ノリ子は、「浦和花月店」全焼と「大宮大和田店」2件の火災だけでなく、別のボヤ事件も起こしていたのだ。

 その日、「ドン・キホーテ浦和花月店」への放火に及ぶ直前、スーパー「北浦和サティ」に赴いたノリ子は18時40分ごろ、1階女子トイレでジャンパーに火をつけ、仕切板などを燃やした。さらに同店で19時10分ごろ、2階トイレで油類を染み込ませた紙に火をつけ、また仕切板などを燃やす。

 そのあと、2軒のドン・キホーテに火を放ったのち、2日後に逮捕の契機となる「ドン・キホーテ大宮大和田店」での放火事件を起こす。さらにその足で、17時45分ごろ「イトーヨーカドー大宮店」の1階女子トイレでトイレットペーパーを燃やした後、2日前にボヤを起こした「北浦和サティ」に舞い戻り、1階女子トイレでガソリンを染み込ませたティッシュに火をつけ、仕切板などを燃やした。

 数日の間に、ドン・キホーテとイトーヨーカドー、サティに火を放ち続けた。連続放火に終止符が打たれたのは、ノリ子が逮捕されたためだ。

 万引きとセットになった放火を繰り返したノリ子は、福島県で生まれ、埼玉県の中学校を卒業後、1976年から、ドン・キホーテ放火事件を起こす2004年までの28年間をさいたま市内の整形外科医院で看護助手として勤務していた。元同僚は、ノリ子をこのように語る。

「おとなしくて目立たない人。トラブルを起こしたという話もなく、勤務態度は真面目だった」

 ところが、同医院を9月1日に退職すると、生活が乱れ始めたという。定職につかず、交際していた男性の実家や元夫の自宅などに身を寄せて生活するようになった。退職直前には、三度目の離婚をしている。

 奇怪な行動も目立ち始めた。退職直後には、交際していた男性宅の玄関ドアにマヨネーズをかけた器物損壊容疑で逮捕されていた。

 「交際相手とのトラブルが絶えなかった。執拗に電話をしたり包丁を持ち出すこともあった」と、知人は語る。同僚には“おとなしくて目立たない人”と評されていたノリ子だが、恋愛においては、こうした面があった。ところがそれも、始まりは98年当時に結婚していた元夫が抱えた多額の借金が引き金だという見方もある。この頃から夫婦仲が険悪になり、ノリ子の性格も「ひどく怒りっぽくなった」といわれる。

――後編は2月9日公開

SMセックスとDVの10年間ーー恋人の“暴力”を受け入れ続けた女の理由【元Vシネ女優・内縁夫刺殺事件】後編

 2008年1月26日の早朝。「夫が背中をけがしている」との119番通報を受け、マンションに到着した救急隊員が部屋で見たのは、下半身は裸で血だらけでベッドに倒れている藤田秀則さん(仮名・当時53)の姿だった。女(当時31 )は「午前5時ごろに背中を刺されて帰ってきた」と話し、確かに、商店街の途中にある中華料理店から現場マンションまで、約200メートルに渡り、血痕が続いている 。しかしマンションエントランスの防犯カメラに映る藤田さんはけがをしていない。また、「夫」と話すが、女との関係は夫婦でもない。さらに、女の顔と体には殴られたような痕があった。

 通報した女・木崎恵理子(仮名)は02年に芸能界を引退した元タレントだった。身長172センチ、バスト90センチのEカップという抜群のスタイルと美貌を武器に、グラビアアイドルとして活動し、9本のVシネに出演、テレビ出演も行うなど、精力的に芸能活動を行なっていたのだった。

(前編:22歳年上の“スポンサー”との奇妙な「性生活」――元芸能人が告白した10年の歳月

寝ていたはずが床でセックスの最中だった

 前日の夜、2人は自由が丘で待ち合わせをして食材などを買い込み、21時過ぎに帰宅。日付が変わって0時13分頃、再度2人で外出し、酒などを買い込み0時43分に帰宅した。さらに5時45分、一旦外出していた藤田さんが帰宅後、恵理子は果物ナイフで被害者を背中から突き刺したという。

 傷の深さは6センチ。普通の人であれば血が止まる可能性のある傷だったが、藤田さんは末期の肝硬変で血小板が減少しており、血が止まらなかった。自宅マンションまでの長い血痕は、刺される前、帰宅の途につくところ、吐血したために残ったものだった。

 恵理子が自ら、事件までに覚えていることを赤裸々に語る。

「その前日はご飯を作って一緒に食べて、でも彼がまだおなかすいてるって言っていたのと、野菜スープが飲みたいということだったので、2人でまたお買い物に行きました。コンビニに寄って2人で帰って来たら12時半すぎになっていたので、寝る準備をして、パジャマを着てベッドへ入りました。彼はテレビを観ていたんですが、『もう寝ちゃうの』と言って私の胸や体を触ってきて、イチャイチャしてきました。でも私は風邪気味だったので『後にして』と断りました。彼はすねていましたが、ケンカにはならず、そのまま寝ました。寝たと思っていました」

弁護人「次の記憶は?」

「彼にセックスで起こされました。なぜか床の上で、セックスの最中でした。私が下で、彼が上……。寝ていたと思っていたので、そこまでの記憶はありません。彼は焦げ茶のボーダーのセーター、下半身は何もつけてなく、私も、上は黒いレースのパジャマだけでした。私が気付いてから、あぁ彼はやっぱりしたかったんだな~と、そんなふうに考える時間もあって、少しの間抱き合っていました。10分~20分くらいです。

 しばらくして『衣里、背中見て』と、上にいた彼が横に来て、セーターをまくり上げました。私の記憶では右なんですが、横にシュッと傷がありました。血は出ていなくて、パカッと開いたような感じ……血もついていませんでした。『切り傷みたいになってるよ、また酔っぱらって転んじゃったの?』と聞くと『血は出てる?』って聞いてきたので『出てないよ』と言いました。『アロンアルファでくっつけて』というので、傷をはさむようにペトッとつけました。彼が、アロンアルファは手術で使う医療品で、一番キレイにくっつくといっていたので……私のもそうですが、暴力の切り傷は、アロンアルファで治していました」

 恵理子いわく、その後、藤田さんをベッドで寝かせ、布団をかけたという。うつぶせで寝ていた被害者が、クルッと左を下にして寝返りをうったとき、布団がはだけた。掛け直そうと布団に近寄ったとき、ベッドのマットにおびただしい量の血がついていることに気づき、119番通報に至った。

「私の記憶だと、切り傷から血は出てなく、アロンアルファでくっついていました。そして傷は右でした。痛がってはいなかったです。そうでなければ、強引に連れて行っています。『救急車呼んだから』と言うと彼は『来たら起こして、寝てるから。セックスの続きはあとでやろうね』って言うから、『そんなこと言ってる場合じゃないでしょ』と言ったのですが、今となっては『続きはあとでやろうね』っていう言葉が、彼の最後の言葉になりました……」

 弁護人も「傷は彼が刺したか第三者が刺したか、もしくは彼の暴力で被告人は意識もうろう状態で強制された可能性があり、責任能力はなく無罪であります。被害者は重度の肝硬変を患っており、傷害と死亡に因果関係はありません」と主張した。商店街に長く続いていた血痕は、犯行前のもので、藤田さんが吐血したためにできたものだという。

 二人の日常的なセックスにおける「SM」の、身体的ダメージの大きさが見え隠れする。実際、通報時の恵理子も、全身にけがを負っており、取り調べ時に刑事に指摘を受け、はじめて鼻の骨を骨折していることに気づいたのだという。セックスだけでなく、日常生活でも暴力があったと、恵理子は証言した。

「記憶がないということは今までもありました。4~5年前から、寝てたと思ってたのに、っていうことが何度かあり、ここ1年は、すっぽり記憶がないことが多かったです。気づくと、起きようと思っても体が動かなかったり、痣だらけだったり、ベッドで寝てたのに床の上だったり、セックスで起こされたりっていうことがありました。

 起きてから『昨日、衣里になんかした?』と聞くと『またキチガイになって衣里を殴った』って聞いて、あ、そうか、と。そういう時は部屋の中のモノが壊れ、あらゆるモノが散乱していました。彼はケンカ慣れしていて、右手も左手も使えます。左右の拳で殴られ、蹴られ、モノで殴られる……酒ビン、ベルトのバックル、フライパン、全身鏡、物干パイプ、胡蝶蘭の鉢など……。あとは、掃除機の柄の部分持って、カウボーイのようにぐるぐる回して本体をぶつける……走行中の車から振り落とされる……ウイスキーをかけられ、馬乗りになって顔や頭を拳で殴ったり、床や壁に叩き付けたり、頭をボールのように踏まれて蹴り上げられたり、みぞおちを蹴られたり……」

 凄まじい暴力の詳細を、恵理子は法廷で淡々と語る。これらの行為で恵理子は骨や歯を折り、頭を縫うなどのけがを負ってきた。にもかかわらず、恵理子は藤田さんのことを心から愛していたため、暴力を理解しようとしたのだという。

「この件に関しては、10年近く、殴られる度に悩んだんですが……ん~、私が、なぜ殴られないといけないのか、ってよりも、何故、彼は私のことを殴るのか。必死で理解しようとしていました。悩んで出した結論は、暴力は不器用な彼の愛情表現の1つ。それとして受け止めました。彼はプライドが高いゆえ、傷つきやすく、弱く、不器用な人だと私の目には映っていました。やめてほしかったですが、彼の愛情表現として受け入れていて、別れようと思ったことはありません」

 こうした日常における暴力のあと、藤田さんはいつも「俺が悪い」と自分を責め、自傷行為を始めた。恵理子を殴っていた酒ビンで自分を殴ったり、ナイフを持ち出して体を傷つけたり、また恵理子にナイフを持たせ、傷つけさせようとしたり、ありとあらゆる方法で自傷行為を行うのが常だった。

「自分の体にナイフの刃を押しあて、柄の部分を持たせ、引っ張って誘導して引き寄せる感じ……私は止めてました。ナイフで刺したことはこれまでありません。今思えば、自虐行為のあと、セックスしていました。当然、セックスする場面じゃないので私からは……私の中では求めようとも思わない状況下です。でもなぜセックスできるかと言えば、彼が勃ってるからなので、私は受け入れていました」

弁護人「あなたはどうして受け入れてたの?」

「複雑な思いがありますが、自虐行為を止めることができて、ほっとした気持ち……ここで断ると、第二ラウンド始まりかねないという思い……体力ない状態なので、拒否するより受け入れる方がラク……。彼が泣きながらセックスする姿を見て、不器用な彼の愛情表現なのかな、と思っていました。好きだから一緒にいる。拒否する理由はありません。いつでもどこでもセックスできるのが恋人だと思っています」

 刺した記憶がないという恵理子の主張は、ナイフから藤田さんと恵理子の二人のDNAしか検出されなかったことから退けられた。事件当時の恵理子の精神状態を判断するために精神鑑定も行われたが、その結果から「事件当時、被告人の意識は清明で、その責任能力に何ら問題はなかった」とも結論付けた。そうして、恵理子に対しては「SMプレーの行き過ぎによる行為」として懲役4年が求刑され、懲役2年6月の判決が言い渡された。

「犯行は被害者の暴行を不器用な愛情表現として受け入れ続け、そのような関係を根本的に変えようとしてこなかったという男女関係に起因しており、被告が犯行に及んだことは同情できない。たとえ被害者から頼まれて刺した可能性が高くても実刑は免れない」(裁判所)

 恵理子は法廷で「刺した記憶がない」と主張したが、彼女の精神鑑定にあたった医師は「記憶が清明」だと判断している。であればそのとき、本当は何があったのか。裁判所が言及した通り、藤田さんは恵理子に、自らを刺すように、強く求めたのか。であれば「いつも止めていた」という恵理子はなぜ、刺したのか。

「私は……彼のことを心から愛しています」

 最終陳述でも、震える声で恵理子は、こう言ったのだった。藤田さんが刺される直前、二人の間に何があったのかは、彼女しか知らない。

【参考文献】
「週刊新潮」2008.02.07 
「週刊ポスト」2009.02.13 
「週刊女性」2008.2.26 
「週刊大衆」2002.4.8 
「アサヒ芸能」2008.2.21 

 

22歳年上の“スポンサー”との奇妙な「性生活」――元芸能人が告白した10年の歳月【元Vシネ女優・内縁夫刺殺事件】前編

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第8回:元Vシネ女優・内縁夫刺殺事件

 東急多摩川線「鵜の木駅」は、早朝や夕暮れ時に地元客が行き交い賑わいを見せる、東京・大田区の小さな街だ。この駅前商店街近くのマンションから119番通報がなされたのは、2008年1月26日の早朝、6時40分頃のことだった。

「夫が背中をけがしている」

 まだ朝の賑わいを見せる前のひっそりした街を抜け、マンションに到着した救急隊員が部屋で見たのは、下半身は裸で血だらけでベッドに倒れている藤田秀則さん(仮名・当時53)の姿だった。その後、男性は失血性ショックで死亡した。女(当時31)は119番通報の際「午前5時ごろに背中を刺されて帰ってきた」と話していた。たしかに、商店街の途中にある中華料理店から現場マンションまで、約200メートルに渡り、血痕が続いている。

 ところが、マンションエントランスの防犯カメラに映る藤田さんはけがをしていない。マンションまで続く血痕とは――。また「夫」と言うが、22歳も離れて籍も入れていない。2人の本当の関係は――。さらに女の顔と体には殴られたような痕があり、頭部外傷と両手両足に全治10日間のけがを負っていた。暴力を振るわれた女性が男性を刺した事件なのか――。通報当初から、さまざまな疑問点が浮かび上がり、女性が元グラビアアイドルであることも男性週刊誌の関心の的となった。その事件の全容は、のちに東京地裁で開かれた公判で明らかになった。

Vシネ女優と「スポンサー」の年の差カップル

 119番通報した女・木崎恵理子(仮名)は身長172センチ、バスト90センチのEカップという抜群のスタイルと美貌を武器に、グラビアアイドルとして活動していた。写真集を3冊出し、99年から9本のVシネに出演したほか、テレビ出演も行うなど、精力的に芸能活動を行なっていたが、02年に卵巣膿腫を患ってから、芸能界を去り、父親の経営する会社で働くようになった。

 内縁関係にあった藤田さんとの出会いは、まだ恵理子が芸能界に身を置いていた20歳前後のころだ。藤田さんはこう恵理子に持ちかけた。

「スポンサーになろうか」

 勤務していた不動産会社を独立し、不動産会社や内装会社を設立して、羽振りのよかった頃だった。そして恵理子が22歳になる頃、二人は付き合い始めた。お互い両親が離婚しているもの同士であることから、身の上を話し合ううちに惹かれあっていった。また20歳以上年の離れた藤田は、逆に“グラコン”の恵理子には理想でもあった。かつて雑誌の対談記事で、彼女はこんな告白をしていたのだ。

「私、ファザコンじゃなくて『グラコン』(グランドファーザー・コンプレックス)なんですよ。祖父が海軍だったんですけど、その祖父が父親代わりで、だから結構年配の人と。父の年代だとまだ若いかなって」

 また別のインタビュー記事でも、グラコンぶりを語っていた。

「(セックスで)救急車を3回ぐらい呼んだことありますね。(全員別の50歳前後の男性で)相手が息しなくなって。(相手が上になった時と下になった時の)両方あったけど、上の時は『ウッ、重たい』って投げたらコロンってなっちゃったから、びっくりしちゃって。18(歳)のころかな。(救急車は)来たんですけど、その前に息を吹き返したから帰ってもらいました」

 こう無邪気に語る恵理子だったが、のちに彼女が卵巣嚢腫により体調を崩したとき、心の支えになったのは藤田さんだった。藤田さんには当時妻がおり、恵理子が3000万円で購入した、事件のあったマンションに週末だけ通うという“週末だけの半同棲”生活を続けていたという。地元では有名な年の差カップルだったようで、飲み友達らはこう証言する。

「エリーは人なつっこくてセクシーで明るい子。よくサワーを飲んでは酔っ払ってつぶれていた。藤田さんは身長170センチ強で、サングラスにロン毛の時もあった。俳優の原田芳雄似で、カラオケではサザンの『いとしのエリー』を熱唱してエリーを喜ばせていた。仲はよかったね」
「一見、派手で愛嬌があるから尻軽に思うヤツもいるようだけど、彼女は愛している男以外には、決して体を許さなかったよ」

 地元では、二人の仲睦まじい様子もよく目撃されていたが、同時に藤田さんの暴力グセも、近所に知れ渡っていたという。地元民が語る。

「酒が入ると暴れるんだよね。完全に酒乱だね。肝臓悪くて何度も(病院に)運ばれているんだから。最初に糖尿病患って、その後、肝臓で何度も入退院を繰り返してさ、そのあたりからおかしくなっているよね」

 藤田さんは糖尿病を患い、さらにはアルコール性肝硬変になっていた。医師から「余命1年」と宣告を受ける。仕事も廃業し、自己破産。妻とも離婚。生活保護を受給することになった。自暴自棄になったのか、事件1年前から藤田さんは、朝から酒を睡眠薬と一緒に一気飲みし、ほぼ1日、酒を飲んで寝る生活を続けた。2度、救急車で運ばれて入院もしたという。

 だが、恵理子は藤田さんを見捨てることなく、寄り添い続けた。お互い辛い時期を支え合い、約10年という時間を重ねた。「残りの人生はハワイで恵理子と一緒に暮らしたい」と告げられ、結婚の準備を進めていた矢先に、事件は起こった。

暴力からセックスが始まる生活の実態

 08年11月11日の東京地裁。体のラインがくっきりと浮き出るパンツスーツに黒いサラサラのロングヘア。目鼻立ちの整った顔立ちと、長身をさらに際立たせる姿勢の良さ。元芸能人が放つ華やかなオーラは法廷には不釣り合いで、傍聴席は一瞬静まり返った。傷害致死で起訴された恵理子の初公判だ。

 起訴状によれば恵理子は、199番通報直前、自宅マンションで藤田さんの左背部を、刃渡り9.8センチの果物ナイフで一回突き刺し、失血性ショックで死亡させたという。ところが罪状認否で恵理子は、こう述べた。

「記憶がなく、わかりません。私が、私自身で、大切な彼を傷つけること、絶対ありえないです」

 そして冒頭陳述では、二人の「SMプレイ」生活が明かされた。

「お互いにSM嗜好があり、以前からお互いに殴る蹴る等の暴力を振るった後、セックスに突入する、というパターンの性生活を続けていた。被告人はこのSMプレイを知人に対し『コミュニケーションみたいなものだ』と述べていた」

 実際、恵理子はこの事件前に頭部外傷と両手両足を打撲して全治10日間との診断をうけている。これまでにも、眼底出血、頬骨の骨折、顎にヒビ、携帯電話で頭を殴られぱっくり割れたこともあったという。

 他人には理解しがたい日常だが、そんな性生活を続けていた中で、事件は起こった。

ーー後編は1月5日公開

【池袋・買春男性死亡事件:後編】男の性欲は「ジョークでかわせ」「真に受けた女が悪い」30年前の報道から現在へ

 1987年4月15日、東京・東池袋にあるビジネスホテルTの客室内で、大手通信会社社員・谷口智明さん(28・当時・仮名)が、電話で呼び出したホテトル嬢・大鳥清美(22・当時・仮名)にナイフで刺されて死亡した。密室で起こった惨劇の一部始終は、ベッドにセットされた8ミリビデオカメラに録画されていた。

前編はこちら:2時間6万円で買われた“ホテトル嬢”が客を殺めるまで

ホテトル嬢が強要された屈辱的な行為

 6月24日に開かれた第2回公判。この日、検察側証拠として谷口さんが撮影していたビデオカメラが上映された。「公序良俗に反する」として傍聴人を法廷から出しての上映となったが、締め出された傍聴人らが耳をそばだてると、ビデオの音声が聞こえてくる。清美の声だ。

「あはっ、ウフン、アァ……」

 恐怖からくる悲鳴か、快感の演技か、それとも愉悦の叫びか。

「いいか、今から俺が言う通りにしゃべるんだ。『私は男の公衆便所です。やりたくなったら来てください』『もう絶頂感に達しました。いつでも来てください』だ」

 命じられるままに屈辱的なセリフを復唱させられる清美。だが快感に悶えるふりをしながら体をくねらせていると、徐々に手足を縛っていた帯が緩んできた。ふと目をやると、ベッドの上に先ほど親指を刺されたナイフが転がっている。身をよじらせながらナイフを体の近くに引き寄せていった。バイブレーターで清美の性器を弄ぶことに夢中になっている谷口さんの隙をうかがいながら、左手でそっとナイフを握り、谷口さんの右脇腹を刺した。

「うぁぁっ!……てめえ、この野郎、何をしやがるんだ!」

 のちに清美はこの時の心情を「腹を刺してうずくまった隙に逃げようと思った」と語っている。ところが谷口さんはうずくまりもせず、清美を逃すまいとドアのそばに回り込み、突っかかってきた。

 髪をつかみ、頭を壁に打ち付ける。清美は胸を刺したが、谷口さんはそれでも首を絞め付けてくる。“ナイフを奪われたら今度は自分が刺される番だ”……無我夢中でナイフを左右に振り続けた。しばらくすると谷口さんは、

「てめぇ、殺人犯にしてやるぞ……」

 こううめき、失神した。ビデオの音声は清美の叫び声が続く。

「ねえ、起きなさいよ!」
「助けて、早く、助けてよ! 救急車よっ。いやあっ、死んじゃう、死んじゃうよ!」

 午後8時。ホテル従業員が駆けつけた時、谷口さんはすでに死んでおり、清美も大腿部に深い傷を負っていた。

 清美は初公判・罪状認否において殺意を否認し、弁護人も正当防衛による無罪を主張した。被害者である谷口さんが撮影していたビデオカメラには、殺害までの一部始終と、彼が生前に清美に強要した屈辱的な行為の全てが記録されていた。そこには“ホテトル嬢には何をしてもいい”といわんばかりの、谷口さんのセックスワーカーに対する蔑視が如実に表れている。そして検察や裁判所、これを報じた週刊誌にも、ホテトル嬢という職業への偏見が見え隠れしていた。

 ビデオ上映の様子を報じた女性週刊誌「微笑」(祥伝社/96年休刊)は、谷口さんをサディストの“異常性愛者”だとして、こう論じている。

「男の異常性愛について、女がある程度の知識をもっていたら、相手を殺してしまうほどの恐怖感を抱かずにすんだかもしれない」
「谷口さんの行為は、異常性愛者のなかではそれほど珍しいものではないという。相手の心を傷つけないように、やんわりと断るとか、ジョークで身をかわすとかして、うまくその場を切りぬけることもできたかもしれない」
「異常性愛者だといっても、普通、相手には傷を負わせるようなことはしないということを記憶しておくべきだろう」

 さらに、谷口さんがはじめに清美をナイフで脅し、親指を刺した行為も「男はナイフを出して、“おれのいうことを聞け”とおどした。そのときに、ナイフが女の右手の親指を傷つけ、血が流れた。それでおどろいたのか、女は男のいうなりになった」と、単なる“おどし”であると記載する。挿絵には「SMごっこのつもりだったのにィ!」と裸で驚く男性のイラストも描かれており、“異常性愛者の作法を知らない女性が過剰に反応した”という図式を示している。

 一審・東京地裁で清美に懲役5年を求刑した検察側も、こう述べた。

「売春契約をした以上、性的自由及び身体の自由は放棄されており、保護に値しない。被害者はたんなるわいせつ行為が目的であり、被告人に記憶がないというのは弁解である。急迫不正の侵害、生命の危険もなかったのに憤激のため殺意を持って刺殺した」

 同年12月28日に開かれた判決公判では、清美に懲役3年の実刑判決が言い渡された。「身を守ろうとして刺したが、その反撃は相当性を逸脱していて、過剰防衛」「素手で追い回す被害者をナイフで、胸部など30数カ所も刺して殺害したのは過剰防衛で未必の故意があった」と裁判所も清美の殺意を認めた。

 こうした状況に立ち上がったのは、傍聴席で公判を見守っていた女性たちだった。一審判決に疑問を抱いた彼女たちは「池袋・買春男性死亡事件を考える会」を発足。次の二点を疑問視した。

「第一は、判決は密室で男性に暴行を受け、一方的に追いまわされ続けた女性の心理への理解を欠き、女性の生命の危機と恐怖心にまったく言及していないこと」
「第二に、彼女がホテトル嬢であることを取り上げ、『見知らぬ男性の待つホテルの一室に単身で赴く以上、客の性格等によっては相当な危険が伴うことは十分予測し得るところであるにもかかわらず、敢えて……赴いたという意味では、いわば自ら招いた危難と言えなくもない』という認識について」

 彼女らの働きかけにより、翌年4月に開かれた控訴審第一回公判では2300筆の署名が提出された。あわせて「男性弁護士には話しにくいこともあるのではとの危惧もあった」ことから、弁護団に女性弁護士を加えたいと要請。この動きを受け、強姦救援センター・アドバイザーの角田由紀子弁護士が第二回公判から弁護団に加わることとなった。以降、裁判の流れは変わる。

 同年5月に予定されていた判決公判には弁論が再開。犯罪心理学の福島章教授による「精神状態に関する意見書」が証拠採用された。福島教授の意見書は次のようなものだ。

「被告人の精神状態が、強い不安・恐怖に支配された情動興奮の状態にあり、そのため犯行時、自分がおかれていた現実的状況や自分の行為について通常の把握・認識が困難だった」

 控訴審判決では、清美の行為は過剰防衛であるとされながらも、量刑不当の情状酌量でこの意見書が採用され「恐怖、驚き、怒り、興奮等によって判断能力を狭められた中で、半ば本能的反射的にナイフを振るったもので同情に値する」と一審判決を破棄。懲役2年、執行猶予3年の判決が言い渡された。

 とはいえ、控訴審でも「考える会」が疑問視した“第二”の点においては見解を変えることがなかった。「(性的自由および身体の自由に対する)侵害の程度については、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論ずることはできない」。つまりセックスワーカーに「性的自由」はないという見解である。

 昨年、歌舞伎町の「ロボットデリヘル」がネット上で物議を醸した。これは生身の人間をロボットに見立てて客に提供するというデリバリーヘルスだ。店舗のHPにはこのようにコンセプトが紹介されている。

「普通の風俗に飽きている方、女性とのコミュニケーションが苦手または嫌いな方、お待たせしました!! 遠慮なんてする事ない…会話なんてする事ない…なんせ相手はロボットだから!!」
「女性を商品として…オナニーの道具、動くTE●GAとして提供させて頂く新発想のお店」

 事件から30年以上がたったが、“女性をモノ化する”性産業は、今もはびこり続ける。
(高橋ユキ)

■参考文献
「朝日ジャーナル」 1988.6.24号
「週刊女性」 1987.7.14号
「微笑」 1987.7.25号
「週刊読売」 1987.6.21号
「週刊新潮」 1988.1.7号
「週刊新潮」 1987.6.18号
「メンズウォーカー」 1999.7.20号
「週刊女性」 1996.7.23号

 

【池袋・買春男性死亡事件:前編】2時間6万円で買われた“ホテトル嬢”が客を殺めるまで

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第7回:池袋・買春男性死亡事件

 池袋駅東側にそびえるサンシャイン60を擁するサンシャインシティ。そこに続く「サンシャイン60階通り」(当時)に面したホテルに女が呼び出されたのは水曜日、午後6時ごろのことだった。彼女は母親に「モデルの仕事を始めた」と言っていたが、ホテトル嬢として生計を立てていた。ロビーで待っていた男は、女を見てうれしそうに呟く。

「若くて綺麗な人が来てくれてよかった」

 男はあらかじめチェックインしていた723号室へ女と共に入った。

「優しそうな人」

 一方の女も、そんな第一印象を抱いていた。ところが2時間後、女の電話で部屋に駆けつけたホテル従業員が目にしたのは、血まみれで倒れている全裸の男と、同じく全裸で血まみれになりながら泣き叫ぶ女の姿だった。

 密室で何が起こったのか。男が回していたビデオカメラが、一部始終を見ていた。

ビジネスホテルに呼ばれたホテトル嬢

 1987年4月15日、東京・東池袋にあるビジネスホテルTの客室内で、大手通信会社社員・谷口智明さん(28・当時・仮名)が、電話で呼び出したホテトル嬢・大鳥清美(22・当時・仮名)にナイフで刺されて死亡した。

 ホテトルとは公衆電話に貼られた小さなピンクビラで客を取る派遣型性風俗のひとつ。風営法の許可や届け出がなく、本番行為も横行していた。実家からほど近い台東区のマンションで中学時代の同級生と同棲していた清美がホテトル嬢として働き始めたのは、事件の1年前からだったという。

 地元の小中学校を卒業した清美は、高校に進学したが、2年の頃に中退した。ホテトル嬢として働く前は、喫茶店のウエイトレスや両親が営むラーメン店の店員として働いていた。ところが父親が家出し、母親と妹との3人家族となる。

 「モデルになった」と母親に嘘をつき、ホテトル嬢を始めた清美は、その3カ月後に実家を出て同棲を始めた。実家近くの商店主はこう語る。

「お母さんは病弱だし、同棲相手は稼ぎが良くなかったと聞いてる。自分が売春して支えるつもりだったんじゃないのかな」

 とはいえ、ホテトル嬢という仕事は危険と隣り合わせでもあった。当時の風俗ライターは「最近は年に1人くらいの割合でホテトル嬢が殺されているんです。山中にまで連れ去られたり、数人の男たちに輪姦されたりというトラブルも出ている危険な稼業なんです」と解説している。

 大手通信会社に勤める谷口さんは、再婚し2人目の妻と彼の両親が住む埼玉県浦和市(当時)の家で暮らしていた。職場での評判は「真面目で几帳面。問題を起こしたことはない」、知人らも「地味で目立たない男」と口をそろえる。ところが彼にはある趣味があった。アダルトビデオや裏ビデオの収集だ。集めるだけではなく、それらを毎日のようにダビングし、愛好家らに売りさばいていた。妻は、谷口さんが夜な夜なダビングに勤しんでいることにうすうす気づいていたという。

 ホテトル嬢の清美が、客の谷口さんを刺殺――密室で起こった出来事が明かされたのは、事件から2カ月後に東京地裁で開かれた初公判でのことだった。

 冒頭陳述によると、谷口さんがホテルTにチェックインしたのは事件の日の午後2時。ホテトルクラブに電話をかけ、2時間3万円のコースを4時間分、6万円で予約。やってきたのが清美だった。部屋に入り、谷口さんは料金に交通費の1万円を上乗せした7万円を支払った。

 契約成立を報告するための電話を店に掛けながら清美は、あることが気になっていた。ベッドの正面に設置された8ミリビデオカメラ。それは三脚に据え付けられており、そばにはライトバッテリーもあった。これらの機材は谷口さんがチェックイン前に、あらかじめ北区十条のレンタルショップで借りていたものだった。

 清美が電話を切った途端、谷口さんは豹変する。いきなり清美のみぞおちを殴りつけ、ベッドに押し倒したのち、ナイフを突きつけてこう凄んだのだ。

「静かにしろ。大きな声を出したら殺すぞ!」

 そして清美の右手親指付近にナイフを突き立てた。指が切れて出血する清美に絆創膏を貼り、あらかじめ計画していた行動に取り掛かる。客室に用意されていた浴衣の帯で清美の両足首を縛り、持参していたガムテープで両腕を縛り付け、言った。

「これからおまえの恥ずかしい姿を見てやるから、いいな」

 そう言って、部屋に運び込んでいた大型バッグの中から次々と“道具”を取り出す。ポラロイドカメラ、35ミリカメラ、ピンク色のバイブレーター、マッサージゼリー、下剤、浣腸、ゴム手袋、ろうそく、ドライバー、散髪用ハサミ、ナイロンロープ、綿ロープ、洗濯バサミ、クリップ、ゆで卵、にんじん、きゅうり、バナナ……。

 清美の衣服を脱がせ、ナイフでストッキングとパンツを切り裂いた谷口さんは、彼女の股間にバイブをあて挿入し、その様子をポラロイドカメラで執拗に撮影する。やがて自分も横になり、設置していたビデオカメラのスイッチを入れた。手足を縛っていた帯とガムテープを外し、右手と右足、左手と左足をそれぞれ帯で縛り直し、股間を大きく広げるようにした。しつこくバイブレーターを使いながら、清美に命令する。

「声を出せ。感じてる顔をしろ」

 殺されるかもしれない。清美は谷口さんに従った。
(高橋ユキ)

――後編は12月2日(月)更新