“女性器えぐり取り”殺人犯の告白……「あそこがあるから自分も苦しむ」男を二度寝取られた女【神奈川“阿部定”イズム殺人事件:後編】

 昭和11(1936)6月21日、神奈川県都筑郡二俣川村(現:横浜市地区)。あまりにも有名な阿部定事件の翌月に起こった殺人事件は、「神奈川のグロ殺人」「お定を逆に」「怪奇!開かずの家で多情の老婆惨殺さる」などと新聞でセンセーショナルに報じられた。金子みつ(63)の顔面は鈍器のようなもので殴られ、下半身は鋭利な刃物でえぐり取られていたのだ。

 みつには別居中の夫がいたが、夜になると入れ替わり立ち替わり、みつの家に男たちがやってきていたという。このため最初に疑われたのは、生前のみつと関係のあった男たちだった。

(前編:63歳の“えぐり取られた女性器”――惨殺された「多情な老婆」、男たちとの肉体関係

空振りが続く捜査

「みつと特殊な関係にあったといわれる村民五名を召喚 取調を進めている」(当時の新聞記事)

 村内の若者から老人まで、みつと肉体関係のあった男たちが次々と取り調べを受ける事態となり、「次はうちの亭主や息子が警察に連れて行かれるのではないか」と村の女性たちは戦々恐々としていたという。

「グロ殺人の容疑者追求 容疑者中の同村男性を最も有力なものとして追及を開始したが今のところ凶行当夜とされる十六日夜のアリバイが立っていない」(同)

 追及を行ったのは、阿部定事件の記憶が鮮烈に残る中での類似事件とあり、男女間の痴情の線に引きずられすぎていたのだろうか。

 それでも捜査は進展しない。空振りの取り調べが続いていた捜査本部のもとに「近所の農業・杉本某(60)をめぐり、みつと口論していた女がいる」という目撃情報が寄せられる。任意取り調べの末に犯行を自供したのはみつの知人、59歳の鈴木よねだった。

10年前から男を取り合っていた、みつとよね

 よねは夫と6人の子どもたちと暮らす、髪結の仕事を持つ女だ。みつとは、事件の10年以上前に、近くの51歳の男性と親しくなったが、みつがこの男性に手を出したので喧嘩になった。その後、よねが杉山と肉体関係になったところ、今度もみつが杉山と親しくなり、杉山の気持ちがよねから離れていったのだという。

 単純な痴情のもつれというよりも、男関係をめぐり女の嫉妬が起こした暴走だった。一度ならず二度までも、意中の人を奪われたよねは、怒りに駆られた。夕食を共にするふりをして、みつの自宅に赴く。そしてこう言い向けた。

「二度もこんなことをするなんて人情知らずだね」

 ところがみつは、こう言い返した。

「自分の体で自分が自由にするならいいじゃないか」

 自分が好意を抱いた男に、自分の意思で近づき、良い仲になっただけであり、よねにとやかく言われる筋合いはない……みつはそう思ったことだろう。

 しかし、この一言によって、よねの嫉妬はさらに燃え、怒りの導火線に火がついた。

 玄関口に戻り、そこにあった拳大の石ころを手に取って再び六畳間にいるみつに駆け寄り、顔面を殴りつけたのだ。殴打は一度では止まらなかった。謝り逃げようとするみつを追いかけ、今度はその後頭部を二回、殴打。とうとうみつは絶命した。

 それでも怒りが収まらないよねは、石を投げ捨て、今度は台所にある菜切包丁を手に取った。そして、仰向けに倒れて亡くなっているみつの着物の裾をめくりあげ、「男が殺したように見せかけるため」(当時の新聞記事より)あらわになった女性器に包丁を突き立て、無残にも下腹部をえぐり取ったのだった。

 さらに、これを持ったまま戸外に出て、敷地内の井戸に投げ込んだ。警察が捜索しても見つからなかった下腹部は井戸に投げ棄てられていたのだ。

 まもなく変わり果てたみつの姿を、近所の者たちが発見し、新聞に「グロ事件」「お定事件の逆」と大きく報道される事態になりながらも、よねは素知らぬ顔で、夫と6人の子どもたちとの生活を続けていた。

「おみつさんのあそこがあるから自分も苦しむ」

 63歳のみつ、59歳のよね。彼女たちのもとへ足繁く男たちが通い、愛欲に溺れる日々。よねは幾度もみつに男を奪われ、悪感情を募らせた。一方、よねが言うには、みつもよねを意識していたようだった。

 逮捕当時の供述によれば、

「自分の髪結仕事の邪魔をするために、みつが他から髪結を連れてきた」
「近所の男の家に入浴に赴いた際に顔をあわせると恐ろしい目つきで睨みつけられた」

など、互いに嫉妬心を抱き合う関係だったこともうかがえる。

 よねは逮捕後にこう語っていたという。

「おミツさんのあそこがあるから自分も苦しむようになった。東京の阿部定事件が新聞に出ていたので思いついたのです」

 みつの下腹部をえぐり取る残虐な行為は、やはり阿部定事件をヒントにしていた。

 しかし、定のように懐に抱きかかえて時折口に含むことはなく、みつのあそこは井戸に投げ棄てられた。その井戸水は、葬式などに来た村人たちが何も知らずに盛んに飲んでいたという。

<参考文献>
・「朝日新聞」昭和11年6月
・「アサヒ芸能」(徳間書店)2012年3月
・『明治・大正・昭和事件犯罪大辞典』(東京法経学院出版)

63歳の“えぐり取られた女性器”――惨殺された「多情な老婆」、男たちとの肉体関係【神奈川“阿部定”イズム殺人事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 昭和11(1936)年5月、東京都荒川区尾久の待合(ラブホテル)で男性の遺体が見つかった。その陰部は刃物で切り取られていたうえ、布団の上には男性のものとみられる鮮血で「定吉二人キリ」と大書きされていた。

 さらに遺体の左太ももに「定吉二人」の血文字。左腕には刃物で「定」と刻まれていた。

 遺体と犯人の身元はその日のうちに判明する。男性は東京・中野にあった鰻料理店「吉田屋」の主人、吉田吉蔵、42歳。犯人は吉田屋において田中加代の偽名で働いていた阿部定、32歳。2人は不倫関係に陥り、店の人間らに気づかれぬよう逢瀬を重ねていたが、そのうち定に「吉蔵を独占したい」という欲求が生まれる。そして事件の日、性交中に定は吉蔵の首を腰紐で締めて殺害したのだった。

 定は吉蔵のペニスをハトロン紙に包み、それを持って一人、宿を出た。翌日にはこの事件は大々的に報じられたが、当の定は吉蔵のペニスを肌身離さず身につけ映画を楽しんでいたという。また時折、ハトロン紙の包みからペニスを取り出し、口にくわえたりもしていた。だがそんな倒錯した日々が長く続くはずもなく、翌日、偽名で宿泊していた品川の宿に踏み込まれた高輪署の警察官に逮捕された。

 二・二六事件からわずか3カ月後に起こった、あまりにも有名な阿部定事件。今回紹介する事件はその翌月に、神奈川県で起こった。

【神奈川 定“イズム”事件】

 同年6月21日、神奈川県都筑郡二俣川村(現:横浜市地区)。木々で鬱蒼とした小高い丘の上に住む、金子みつ宅の戸が3〜4日開かないのを不審に思った近所の者たちが多数集まった夕方。竹やぶに包まれた金子宅の雨戸をこじ開けて室内を開いたところ、そこには目を疑う光景が広がっていた。

 63歳のみつは、六畳間の畳の上に野良仕事のままの服装で仰向けに倒れ、血まみれで死んでいたのだ。遺体は腐敗が始まっており、その顔面は鈍器のようなもので殴られた形跡があった。

 なにより雨戸をこじ開けた近所の者たちが一番恐怖したのは、みつの下腹部が鋭利な刃物でえぐり取られていたことだった。

 男性の下腹部を切り取った阿部定事件を否が応でも想起させる犯行態様について、新聞はさまざまに書き立てた。

「神奈川のグロ事件」
「お定を逆に」
「怪奇!開かずの家で多情の老婆惨殺さる」

 こんな見出しが躍る新聞記事には、「老人ながら極めて多情者でいろいろな浮いた噂もあるので犯人は痴情関係の恨みから『お定事件』を逆に行ったものではないかと見られている」とも記されている。

 みつの倒れていた部屋には食卓があり、茶碗などが散らかっていたことから、4日前の夕食どきに被害にあったと警察は推定した。時折流れる続報では、「グロ殺人事件につき、家の内外を大捜索の結果、まず室内から下腹部を切り取った血がこびりついている菜切包丁を発見、ついで付近の畑から顔を殴った石を発見」など記されている。

 また、えぐり取られた下腹部については「家の中にも付近にも見当たらぬので犯人はお定事件の場合のごとく持回っているのではないか」(当時の新聞記事)とされ、犯人の目星は全くついていないことが報じられた。

夫と別居中だったみつの“夜の顔”

 みつには13歳年上の夫との間に三男三女がおり、子どもはいずれも独立。事件の5年前から夫婦関係が悪化し、みつは二俣川村に家を借りて夫と別居を始めていた。

 そのうち、夜になると入れ替わり立ち替わり、みつの家に男たちがやってくるようになったのだという。このため最初に疑われたのは、生前のみつと関係のあった男たちだった。

――後編は月日公開

「結婚してブラジルに渡ろう」ウソと虚栄にまみれた女スパイと謎の男【藤沢つづら詰め殺人事件:後編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

(前編:ミイラ化した全裸死体ーー離婚した女二人の同居生活、消えた女と庭の遺体

近所で不審がられた3人暮らし

 住んでいた家の庭から、つづら詰めの遺体となって発見された檜山逸子さん(45)は、近く弟と住む予定があった。

「逸子は淋しがり屋だから私の宅に5坪ほどの建て増しをして引き取りつもりで設計までしていたんです。それが『美津代が同居して淋しくなくなったから止めてくれ』と言ってきました」(弟の証言)

 藤沢駅前の不動産仲介業者の伝手で、逸子さん宅にて同居を始めたのは鶴岡美津代(当時35)。54年春のことだ。彼女の人目を惹くルックスと、派手な身なりや言動は、淋しがり屋で物静かな逸子さんにも魅力的に映ったのか、やがて何をするにも二人連れとなった。しだいに、近所づきあいや組合費の徴収、挨拶、留守を頼みに来るのも美津代が行うようになり、近所には美津代がこの家の主だと思われていたようだ。

 そのうち家には美津代の“叔父”で、炭鉱の経営者と称する横山太郎(48)が入り浸りになり、逸子さんは次第に奇怪な行動をとるようになったらしい。近所の住民は、当時こう声を潜めて話した。

「美津代は買い物に出かけても八百屋やたばこ屋で大声で満州時代の自慢話をするが、逸子さんはニコニコして黙って聞いていた。逸子さんは身なりが派手になり、厚化粧をしだした。そのうち横山と美津代と逸子さんで夜、雑魚寝をしているという話も広まっていた」

「美津代さんは、戦争中にはスパイだったとか、馬賊の宣伝工作をしたとかいって、飛行服を着たアルバムを見せていましたが、不思議な女でした。感心しない男が出入りするようにもなりました。横山という男などは朝からドテラ姿でやってきたり、20歳前後の学生風の男が来て泊まったり……もっとも、その学生はだいぶ家の金品を持ち出して美津代に貢いだらしく、父親が『あの女のために、すっかりグレた』と怒っていました」

 戦時中の活躍を近隣に吹聴していた美津代は、近所の者たちに不審がられていた様子だ。「美津代は何か麻薬関係があるのではないか」といううわさまで囁かれていた。

 そんな彼女は明治維新の志士、西郷隆盛平野国臣と親交のあった家に生まれた6人きょうだいの3女。3歳までは“お屋敷のお姫様”として福岡で育った。7歳の時に一家は上京し、小学校を優秀な成績で卒業したのち、女学校に入学。ここでも成績は79人中の2位だった。『じゃじゃ馬』とあだ名されるほど派手な存在だったらしい。

「成績は確かによかった。美貌で先生間にも人気があったようだ。友達交際もいい。1年ちょっとで退学したが、快活なお嬢さんタイプと思った。体が弱く学校は良く休んだ。ただ金銭関係がルーズで借金しても平気で返さぬことは度々あったと思う」(当時の教諭)

「東郷元帥の死について作文を書き一等賞を受けて朗読させられたことがある。才気走っていた。人形遊びをするような少女らしいところはなかった」(美津代の姉)

 のちに美津代はフィリピン戦線の特派員から帰って来た男性と結婚するが、わずか半年で離婚。離婚後に中島飛行機立川工場に勤め始めたところ、その才気を買われ、陸軍少将の秘書となる。少将とともに満州に渡り、スパイ工作に従事していたともいわれており、その頃が美津代の生涯で最も華やかな一時期であり、「この時代こそ、美津代にウソと虚栄を植え付けたのだ」と彼女を知る者は言う。

 終戦後にふらりと福岡に戻って来た彼女は、人を言葉巧みに騙して金品を持ち去るようなことを繰り返し、周囲を落胆させたようだ。

 「美貌の女スパイ」として暗躍していた美津代はその後、横浜の芸者置屋にて“その子”という名で芸者となっていた。ここから、嘘の経歴を語っては人を欺くようになる。

 太郎に見受けされ、同じ町の別の芸者置屋で働き始めるも、自分を“作家・小糸のぶ”だと名乗り、「花柳界をテーマにした作品を執筆している」「新聞記者は友人だ」などと、原稿用紙の束を見せながら女中たちを騙し、23万円相当の料理その他金品を詐取。わずか半年で行方をくらまし東京へ。銀座のクラブで女給として働くも、翌年には辞め、藤沢市の特殊飲食店で働き始めた。こうした店に“売春婦”と呼ばれる女性が置かれていた時代のことだ。店では「妖気ただよう女」として知られていたともいう。

 流れ流れて移り住んだ藤沢で、美津代が住む家を探しているなか、出会ったのが、逸子さんだった。美津代は逸子さんに出会ったとき「両親がブラジルに広大な土地を持っているので、渡航費用を稼ぐために藤沢市内でカフェーを経営している」と嘘をついて取り入った。ふたりで大島や日光を一緒に旅するようになり、間もなく“美津代の叔父”と称する太郎もその家に入り浸るようになる。ふたりは逸子さんの財産に狙いを定めて動き始めた。太郎は妻子がいるにもかかわらず独身と偽り、逸子さんに結婚を持ちかけたのだ。

 逸子さんから見れば、美津代は同居をきっかけに親密になった女友達。両親はブラジルで農業をやっているという。その叔父だという太郎から、繰り返し結婚を迫られ、徐々に逸子さんは気持ちが傾いてゆく。それにはふたりの手の込んだ工作も影響した。美津代らは、太郎の父親の名で「逸子さんとの結婚を承諾する」という内容の手紙を逸子さんの弟に書き送ったほか、晩餐会に招かれた太郎がその会場に向かう途中で逸子さんとのエンゲージリングを購入。会場では妻として逸子さんを皆に紹介するなどして、徹頭徹尾、逸子さんを騙し抜いた。

 さらには「ブラジルへは毎月20万仕送りしている」「結婚してブラジルに渡ろう」と甘言を使い、逸子さんをその気にさせ、3人でブラジルに行く計画を練り始める。渡航費用にするためと嘘をつき、美津代が逸子さんの株券を売り飛ばし20万円をだまし取ったのだ。逸子さんもここでようやく、自分が騙されていることに気づいた。怒った逸子さんは、美津代をなじり、太郎に結婚を迫り続ける。楽しげだった3人の関係はこじれにこじれ、口論が絶えないまま、年が明けた。そして……。

「55年の正月の終わり頃ですかねえ、急に隣がシーンとしちゃったんです。留守なら、いつも美津代が用心を頼みに来るのに、こなくなった。変だなあと思っていると10日ほど経って横山が一度やってきました。『ここの行方不明の人はどうなったか?一人は知っているが、何かご存知か?』と聞いていました」(隣の住民)

 こうして行方不明となった逸子さんは、翌年の夏、自宅の庭に埋められたつづらの中から遺体で見つかった。直ちに全国に指名手配が行われた美津代は、逸子さん殺害後、名古屋や広島、松山や小田原など各地を転々とし、寸借詐欺や、病院の医療費を踏み倒して姿を消すなど犯罪を繰り返していた。広島で出会った男・栗原は美津代に惚れ込み、こうした事件の尻拭いを続けていたという。

 美津代が見つかったのは、遺体発見の4日後。東京・新宿百人町の旅館に栗原と投宿しているところを「前夜から手配の女に似ている客がある」と通報され、駆けつけた警察官に身柄を確保されたのだった。太郎も20万円の詐欺罪で逮捕されていた。1年半の逃避行のうちに肺結核が進行していた美津代は、取り調べが続く警察署において、毎夜のように喀血していたが、日中の刑事の追求には、頑として否認を続けていたという。

 さて、逸子さんの3度目の遺体捜索のきっかけとなったのは、その家に買い手がついたことだけではない。藤沢市内の土木工事労働者から「あの庭にゴミ捨ての穴を掘らされた」という証言があったことも大きい。逸子さん殺害に関わった者は、美津代と太郎だけではなさそうだ。遺体の入ったつづらを部屋の中で引きずった形跡もない。庭に深さ約180センチもの穴を掘り、つづらを地中深くに埋める作業を、女性一人で、近隣に気付かれずにやり遂げるのは難しい。状況的には美津代の単独犯と見るには無理があるが、関わった人物は謎のまま、すでに60年がたった。

 藤沢駅のそばで、こうした事件があったことすら、人々の記憶には残っていないことだろう。

(参考文献)
・「週刊読売」1956年8月5日号
・「週刊サンケイ」1956年8月5日号

ミイラ化した全裸死体ーー離婚した女二人の同居生活、消えた女と庭の遺体【藤沢つづら詰め殺人事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後の湘南。東海道線藤沢駅の南口から、賑わいのある橘通り商店街を10分ほど進んだところにある花沢町は当時、サラリーマンの小住宅や別荘がぎっしりと並ぶ住宅地だった。このど真ん中に位置する、高い生垣で囲まれた民家に、神奈川県警本部の刑事部長や捜査一課長、横浜地検刑事部長らが集まったのは1956年7月12日、もうすぐ正午になろうとする頃だ。荒れ果てた庭にダリヤが咲き誇る。何事かと周辺の住民やマスコミも、民家の外からその様子を伺っていた。

 縁側から続く便所の角に植えられた木の下に、係官らがシャベルを突っ込む。掘れども掘れども土ばかり。いつしか穴の深さは180センチほどにまで達した。いよいよ係官も掘り進める手を止めようとしたその一瞬、シャベルが「ガチッ」と硬い音を立てた。注意深くシャベルで土をよけると地中には、約60センチ四方、朱色の麻縄が十文字にかけられた、つづら(木箱)が埋まっている。

 地上に持ち上げたつづらをゆっくりと開けると、捜査員らの目に飛び込んできたのは、全裸で足を折り曲げ横向きに押し込まれている女性の遺体。白蠟のごとくミイラ化しており、その首元には、なおも細紐がくいついていた。

藤沢つづら詰め殺人事件

 つづらが掘り起こされたその民家については、前年の2月ごろから、近隣住民の間で“幽霊屋敷”としてうわさになっていた。

「雨の降る夜になると庭先から青白いリンのような光が、ぼーっと立つそうだよ。あれはきっと幽霊に違いないんだって。そういえば、あの家には誰も住んでいないのに、真夜中になると雨戸をコソコソと叩く音もするんだそうだ……」

 尋ねる人影もなく、庭は夏草が生い茂り、つるバラが這うにまかせて荒れ放題。風で窓がガタガタと揺れ、誰かが中にいるかのような気味の悪さがあった。しかし、その“幽霊屋敷”には、かつて頻繁に人の出入りがあったのだ。

「ここには檜山逸子さんという奥さんが住んでいましたが、昨年の2月、突然姿を消したまま行方不明になったんです。工学博士の弟さんが警察へ捜索願いを出したり、秘密探偵を頼んだりして一生懸命捜したけれど、わからないそうです。同居していた女が姿を消していますが、もしかするとこの女に殺されているんじゃないか、という話もあるんですがね……」(近隣住民の証言)

 こうしたうわさが流れる中、つづらの中から遺体で見つかったのは、やはり檜山逸子さん(45=当時)だった。姿を消した前年2月、弟は捜索願いを出し、以降、行方探しに奔走していた。幾度となく警察に掛け合うが、姉の居所は知れぬまま。独自に秘密探偵に依頼し、調査を行い、失踪から1年後、「逸子は殺されたのだ」という疑念を強く持つようになった。

 弟の熱意もあり、藤沢署は“幽霊屋敷”の捜索や、2度にわたる庭の掘り起こしを行うも、逸子さんに繋がる手がかりは得られず月日は過ぎる。いよいよ半ば諦めた弟が、この家を売りに出したところ、新しい買い手がついた。神奈川県警本部と藤沢署はそこで最後の調査を行うことになり、3度目の庭堀りを始めたところ、つづらが発見されたのだった。

 首を絞められて殺害されたのちに、つづらに押し込まれ、庭に埋められていた逸子さんは、もともとこの家に一人で暮らしていた。1947年に東京都の公務員と協議離婚し、1953年に家を購入。離婚の際、約300万円の財産を分けてもらい、株券の配当や預金の利子でつつましく暮らしていたのだという。母は彼女の性格をこう評する。

「逸子は子供の頃から静かでおとなしい子でした。友達もあまりなく、離婚してからは誰も知らない遠くで暮らしたいと言っていた。藤沢市に移り住んでからは、身体も肥えて、元気そうに過ごしていた」

 隣家の住民も同様に、物静かな逸子さんを記憶していた。

「綺麗好きで几帳面で無口な人でした。両家の育ちらしく、世間知らずの人でした」

 離婚後の穏やかな生活が一変したのは、藤沢に移り住んでから1年がたったころ。「四間もある家で一人でいるのはもったいない」と、不動産仲介業者を介して知り合った一人の女と、同居を始めたことがきっかけだった。

――後編は明日公開

ミイラ化した全裸死体ーー離婚した女二人の同居生活、消えた女と庭の遺体【藤沢つづら詰め殺人事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後の湘南。東海道線藤沢駅の南口から、賑わいのある橘通り商店街を10分ほど進んだところにある花沢町は当時、サラリーマンの小住宅や別荘がぎっしりと並ぶ住宅地だった。このど真ん中に位置する、高い生垣で囲まれた民家に、神奈川県警本部の刑事部長や捜査一課長、横浜地検刑事部長らが集まったのは1956年7月12日、もうすぐ正午になろうとする頃だ。荒れ果てた庭にダリヤが咲き誇る。何事かと周辺の住民やマスコミも、民家の外からその様子を伺っていた。

 縁側から続く便所の角に植えられた木の下に、係官らがシャベルを突っ込む。掘れども掘れども土ばかり。いつしか穴の深さは180センチほどにまで達した。いよいよ係官も掘り進める手を止めようとしたその一瞬、シャベルが「ガチッ」と硬い音を立てた。注意深くシャベルで土をよけると地中には、約60センチ四方、朱色の麻縄が十文字にかけられた、つづら(木箱)が埋まっている。

 地上に持ち上げたつづらをゆっくりと開けると、捜査員らの目に飛び込んできたのは、全裸で足を折り曲げ横向きに押し込まれている女性の遺体。白蠟のごとくミイラ化しており、その首元には、なおも細紐がくいついていた。

藤沢つづら詰め殺人事件

 つづらが掘り起こされたその民家については、前年の2月ごろから、近隣住民の間で“幽霊屋敷”としてうわさになっていた。

「雨の降る夜になると庭先から青白いリンのような光が、ぼーっと立つそうだよ。あれはきっと幽霊に違いないんだって。そういえば、あの家には誰も住んでいないのに、真夜中になると雨戸をコソコソと叩く音もするんだそうだ……」

 尋ねる人影もなく、庭は夏草が生い茂り、つるバラが這うにまかせて荒れ放題。風で窓がガタガタと揺れ、誰かが中にいるかのような気味の悪さがあった。しかし、その“幽霊屋敷”には、かつて頻繁に人の出入りがあったのだ。

「ここには檜山逸子さんという奥さんが住んでいましたが、昨年の2月、突然姿を消したまま行方不明になったんです。工学博士の弟さんが警察へ捜索願いを出したり、秘密探偵を頼んだりして一生懸命捜したけれど、わからないそうです。同居していた女が姿を消していますが、もしかするとこの女に殺されているんじゃないか、という話もあるんですがね……」(近隣住民の証言)

 こうしたうわさが流れる中、つづらの中から遺体で見つかったのは、やはり檜山逸子さん(45=当時)だった。姿を消した前年2月、弟は捜索願いを出し、以降、行方探しに奔走していた。幾度となく警察に掛け合うが、姉の居所は知れぬまま。独自に秘密探偵に依頼し、調査を行い、失踪から1年後、「逸子は殺されたのだ」という疑念を強く持つようになった。

 弟の熱意もあり、藤沢署は“幽霊屋敷”の捜索や、2度にわたる庭の掘り起こしを行うも、逸子さんに繋がる手がかりは得られず月日は過ぎる。いよいよ半ば諦めた弟が、この家を売りに出したところ、新しい買い手がついた。神奈川県警本部と藤沢署はそこで最後の調査を行うことになり、3度目の庭堀りを始めたところ、つづらが発見されたのだった。

 首を絞められて殺害されたのちに、つづらに押し込まれ、庭に埋められていた逸子さんは、もともとこの家に一人で暮らしていた。1947年に東京都の公務員と協議離婚し、1953年に家を購入。離婚の際、約300万円の財産を分けてもらい、株券の配当や預金の利子でつつましく暮らしていたのだという。母は彼女の性格をこう評する。

「逸子は子供の頃から静かでおとなしい子でした。友達もあまりなく、離婚してからは誰も知らない遠くで暮らしたいと言っていた。藤沢市に移り住んでからは、身体も肥えて、元気そうに過ごしていた」

 隣家の住民も同様に、物静かな逸子さんを記憶していた。

「綺麗好きで几帳面で無口な人でした。両家の育ちらしく、世間知らずの人でした」

 離婚後の穏やかな生活が一変したのは、藤沢に移り住んでから1年がたったころ。「四間もある家で一人でいるのはもったいない」と、不動産仲介業者を介して知り合った一人の女と、同居を始めたことがきっかけだった。

――後編は明日公開

アパートのカーテンに火をつけ、駅前でめった刺し……「有名大学の彼」を殺めた、人気風俗嬢の悲しき“覚悟”【世田谷・学習院大学生刺殺事:後編】

 渋谷典子(仮名・当時26)が、福岡則夫(仮名・当時21)さんをめった刺しにしたのは、1997年10月19日、19時15分過ぎのこと。福岡さんは近くの病院に搬送されたものの、1時間半後に息を引き取った。学習院大学文学部哲学科4年生の福岡さんと、風俗店勤務の典子。出会いは、福岡さんのアルバイトがきっかけだった。夜の六本木でスカウトマンとして稼ぐ福岡さんが、山梨に暮らす典子を口説き落とし、新宿の風俗店に入店させたのだ。「有名大学の学生でしっかりしている」ーー親身に世話を焼く彼を信用した典子は、「お金を貯めて美容院を開き、彼と結婚する」という夢を持つ。マンションに同棲し、多い月で250万円は稼ぎ、店でもナンバー3となった典子だったが、福岡さんには、スカウトの顔とも、大学生の顔とも違う、別の顔があった。

(前編:風俗スカウトマンで「有名大学の真面目」な彼との同棲――人気ヘルス嬢に芽生えた殺意【世田谷・学習院大学生刺殺事件】)

スカウトマンには「風俗の女の子が札束に見える」

 女性と遊びたい盛りともいえる21歳の福岡さんは、典子と同棲しながらも、彼女を特別扱いしなかった。彼の携帯電話には、典子の知らない複数の女の子たちから毎日、電話がかかってくる。はじめの数カ月は仲の良かった二人も、些細なことで喧嘩が絶えなくなった。まもなく福岡さんは喧嘩の際、典子に手を出すようになる。

「福岡には、『ガキのうちから、女を殴ってどうするんだ』と説教をしたこともあるよ。『もう、絶対そんなことしません』って答えてたけど、そのときだけだったね。外面のいい子で、喧嘩したあと、仲直りエッチしてごまかすんだよ」

 典子と同じ店に勤め、同じマンションに入居していた女性はこう証言した。彼は典子を平手でなく、拳で殴った。お店に出た典子が、顔や足を腫らしていることもあった。

「私、彼女によく聞いたんだよね。『付き合って何が残る?』って。『何もない』って答えてた。『前にも向かっていない』って。いつも彼のことで悩んで、別れることを真剣に考えてたこともあるけど、結局は許してしまうんだよね」

 周囲からは“尽くすタイプ”と言われていた典子は、自分のほうが年上だということもあったのか、福岡さんの食事代はもちろん、生活費まで面倒を見ていた。それどころかブランド好きな福岡さんが4年生になったときは、ブランド物のリクルートスーツまでプレゼント。彼はそのスーツを着て臨んだ氷河期時代の就職活動で、ほどなくアパレル会社の内定を勝ち取っている。

 福岡さんのスカウト仲間は、スカウトという仕事柄、女性を見る目も変化すると語っていた。

「スカウトという仕事は、ナンパと同じです。とにかく相手に好かれないと、次の段階には進めない。個人的に付き合ってもいい、という男でなければ女の子は信用しないですからね。自分らにとって、風俗に勤めてくれる女の子は金のなる木。札束に見えます。福岡も、同じ場所でスカウトしてました。『風俗の女の子が札束に見える』という気持ちも、同じだったと思いますよ」

 確かに福岡さんは、典子を“札束”として見ていたフシがある。リクルートスーツだけでなく、マルイで思う存分買い物をしては、その支払いを全て典子に押し付けてもいた。そして事件2カ月前「淋病事件」が起こる。

 8月、淋病をもらった福岡さんは「お前がもらってきたんだろ」と典子を疑い、殴る蹴るの暴力を振るった。しかし典子の検査結果は陰性。にもかかわらず「こうなったのはお前のせいだ、お前の持っている金を全部よこせ」と凄んだのである。店長は、福岡さんを寮から追い出したが、すぐに元サヤに。

「こんなに寂しい思いをするんだったら……。私が東京に来て初めて優しくしてくれた人だから。それにセックスの相性がすごくいいの」

 こう言って福岡さんを許し続けた典子は、福岡さんに丸め込まれ、福岡さんが見つけてきた経堂の賃貸アパートの引っ越し費用を全て支払った。にもかかわらず、この部屋に典子が入ったのは一度きり。「お前は風俗嬢だから、お前の名義で部屋は借りられない。名義は俺にする」と部屋に住み着いた彼は、家事や掃除、セックスのために典子を呼びつけるようになる。そのとき典子はこの部屋で、使用済みのコンドームを見つけたが、福岡さんは悪びれることもなく言い放った。

「待て。俺は確かにモテる。いまも18歳と19歳の女の子から言い寄られているが、お前も含めた3人を冷静に見ている。その中で、一番俺に尽くしてくれる子と付き合おうと思う。最近、お前を見直したところなのに……」

 そして、いつものようにセックスになだれ込み、なし崩しになる関係。典子は限界だった。彼が社会人になるまでは……そう思って金の面倒を見ていたが、貯金もほとんどなくなった。

 事件の日の午後6時。典子は合鍵で経堂のアパートに入り、福岡さんのいない部屋で、ストッキングの空き袋、使い捨ての歯ブラシなど“女の痕跡”を見つける。コンドームの個数が減っていることも確認し、福岡さんに電話をかけ、問いただしたが、逆にこう責められてしまう。

「お前、勝手に部屋に入ったのかよ! 女がいようといまいと、関係ないだろうが!」

 実際、女はいた。福岡さんは先ほどまでこの部屋で過ごした19歳の女の子を、神奈川まで送っていたところだったのだ。ガチャ切りされた電話を握りしめながらしばらく放心した典子は、せめてもの腹いせにと、部屋のカーテンを燃やそうとした。ところが、火をつけたところすぐ火災報知器が作動し、大家が駆けつける騒ぎに。慌てて部屋を飛び出し、再び福岡さんに電話をかけると、こう罵られた。

「馬鹿野郎! お前の親に来てもらうからな、弁償しろよっ!」

 19時に経堂駅で待ち合わせる約束をして、典子はスーパーに入った。トイレで用を足してから、調理器具売り場で刃渡り20センチの洋包丁を買った。もう一度トイレに入り、包丁を抜き身にして、ショルダーバッグにしまった。このとき、典子は福岡さんの目の前で死ぬ覚悟を決めていた。

 19時過ぎ。駅で落ち合ったとき、再び福岡さんに罵倒された。マンションに向かう途中の横断歩道で信号待ちをしていたとき、背中や頭を拳で殴られた。こう言いながら。

「お前なんか、懲役くらって、臭い飯を食った方がいいんだ!」

 典子が福岡さんの求めに応じ、金を出してきたのは「いずれ結婚する関係だから、財布はひとつ」……こんな考えからだった。福岡さんの妻となり、自分の店を持つために、風俗で週に6日の勤務をこなしてきたのだ。

 だが、この言葉を聞いて、そんな未来を夢見ていたのは典子だけだったとようやくわかった。

 バッグの中に利き手の左手を突っ込み、抜き身の包丁を取り出した典子は、それを、彼の胸元めがけて振り下ろした。

【参考資料】
「週刊女性」 1997年11月11日号
「メンズウォーカー」 1999年6月22日号
「週刊文春」 1997.年11月6日 1999年4月29日・5月6日号
「週刊新潮」 1997年11月6日号、1998年1月1日・8日号
「FOCUS」 1997年11月5日

風俗スカウトマンで「有名大学の真面目」な彼との同棲――人気ヘルス嬢に芽生えた殺意【世田谷・学習院大学生刺殺事件】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 日曜夜の東京都世田谷区。小田急線経堂駅から南に延びる「農大通り」を歩いていた二人。ロングヘアで面長美人の女性は、すらっとした長身に、白いシャツと黒いパンツがよく似合う。男性も身長180センチを超える長身に、ペアルックのごとく白いシャツと、チェックのズボン。駅で待ち合わせをして、これから食事に向かう幸せな若いカップルのように、他人からは見えたことだろう。だが、二人は今日の出来事を楽しげに話すことも、手をつなぐこともなく、無言だった。

 たまたまその時間に居合わせ、二人とすれ違った女性が語る。

「女がカバンに手を入れて、何かゴソゴソとやっていました。私が二人とすれ違うときに、男が女に、何か罵るようなことを言ったんです。耳元で言葉を吐き捨てるような感じだった。その直後、二人はいきなりボコボコに殴り合いを始めたんです。女がアンテナのようなものを手にしているのが見えました」

 女性が向きを変えて歩き直そうとしたとき、長身の男が叫んだ。

「助けてッ! 助けてッ!!」

 慌てて女性が近づくと、男の胸と、一緒に歩いていた女の手が血で真っ赤に染まっていた。男は叫びながら、近くの洋服店に駆け込む。

「血まみれの男がよろめくようにして店内に入ってきたと思ったら、崩れ落ちて膝立ちになり、すぐにうつ伏せに倒れた。あとから来た女は包丁を振りかざし、血相を変えて男の上で馬乗りになった」

 アンテナのようなものは包丁だった。女はそのまま、男の背中に包丁を突き立てる。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ……

 血しぶきが店内の洋服に飛び、男の周りにたちまち血だまりが広がり始める。洋服店店主が阿波踊りに使う棍棒を持って駆け寄り、女が持っていた包丁を叩き落とすと一転、女は放心状態になり、

「お母さんに、連絡して……」

 そして、ただ泣くのだった。

世田谷・学習院大学生刺殺事件

 渋谷典子(仮名・当時26)が、福岡則夫(仮名・当時21)さんをめった刺しにしたのは、1997年10月19日、19時15分過ぎのこと。福岡さんは近くの病院に搬送されたものの、1時間半後に息を引き取った。現場に駆けつけた警察官は典子を殺人未遂の現行犯で逮捕した。のちに彼女は殺人罪で起訴され、東京地裁で懲役10年の判決が確定している。

 二人は事件の約1年前に出会い、同棲していた。大学生の福岡さんと、風俗店勤務の典子。出会いは、福岡さんのアルバイトがきっかけだった。

 東京・江東区に生まれた福岡さんは国立お茶の水女子大学附属中学学から学習院高等科へ進学。事件が起きたとき、学習院大学文学部哲学科の4年に在学中だった。日本美術史を専攻していた彼の卒論テーマは「日本野球に関する文化論」だったという。

 高校時代から硬式野球部に所属するスポーツマンでもあった文武両道の福岡さんが、六本木のキャバクラのスカウトマンを始めたのは、典子に出会う少し前。ボーイとして働いていたキャバクラの店長から「やってみないか」と誘われるまま、いわば軽い気持ちでスカウトのバイトを始めた。ところがこれが抜群に向いていた。

「福岡は女の子の面倒見が抜群によかった。愚痴を聞いたり、プライベートな相談にものってやってました。電話がかかってきたら、昼夜関係なく出かけて行って、世話を焼くんです」(スカウト仲間)

「並のスカウトマンが月に5人だとしたら、彼は月に10人は女の子を店に連れてきた」(キャバクラ店店長)

 昼間は大学生、夜は六本木トップクラスのスカウトマンとして日々を謳歌していた福岡さんは、事件前年の暮れに、スカウト仲間から「山梨にいい娘がいる」と聞く。それが典子だった。

 典子は山梨県F市に生まれたが、幼いころに両親が別居。母親がスナックで生計を立てていたが、そのうち内縁の夫となる男性と同棲を始め、姉との4人暮らしとなる。高校を卒業後に東京の美容専門学校に進学。卒業してしばらくは、都内の美容院で見習いとして勤め、その後帰郷した。

 地元でも美容師として働いていたが、実家の居心地はよくなかった。血のつながった母と姉はともかく、義父とはうまく会話が続かない。家を出ることを考え始めた。一方で「結婚願望が強くて、男にのめり込むタイプ」(友人の証言)である典子は、地元で中学時代から親しい男友達がおり、恋愛経験が豊富だったものの、失恋も多かった。家庭の居心地の悪さや失恋の痛手を癒やすために、ときどき東京に出てきては、遊んでいたという。そんなとき、スカウトマンに声をかけられたのだ。

 スカウト仲間から典子の話を聞いた福岡さんは乗り気になった。典子が上京してきたときに会い、東京の店に勤めるよう、熱心に口説き落としたのである。そして東京で勤めることになった典子と付き合い始めた。

 もっとも、典子はキャバクラではなく新宿の風俗店に入店することになるのだが、それは典子の意志だと生前の福岡さんは語っている一方で、当の福岡さんがそう仕向けたといううわさもある。

 源氏名「クミ」として、いわゆる“性感ヘルス”と呼ばれる形態の店で働き始めた典子は店が借り上げていた新宿の寮に引っ越した。ここに福岡さんも転がり込み、同棲が始まる。

 夜の街の福岡さんを知る者は皆、彼の仕事ぶりを褒めた。

「いいヤツでしたよ。仲間もみんな彼が好きでした。仕事にも熱いヤツでした。社員と同じくらい店のことを親身になって考えてくれていた」

 彼がアルバイトしていたキャバクラ店店長は振り返る。渋谷の路上で福岡さんにスカウトされて入店したキャバクラ嬢も続ける。

「まずカッコ良かった。彼だから話を聞いてみようという気になりましたね。最初に出勤する日、渋谷まで迎えにきてくれた。初日はラストの深夜2時まで待ってくれました。『どうだった?』と親身になってくれた。2日目も迎えにきてくれて、ラストまで。『イヤなお客さんいなかった? イヤなお客がいたら、オレにいつでも言ってくれ』と、とても親切でした」

 トップスカウトマンとして月に30万円以上を稼いでいた福岡さん。一方「クミ」として性感ヘルスで働き始めた典子も、週に5、6日真面目に出勤し、客のマニアックな要求にも応えることから、すぐにナンバー3にまで駆け上がる。美容師の資格を取得していた典子は「お金を貯めて美容院を開き、彼と結婚する」という夢を持ち、多い月で250万円は稼いだ。上京直後に勤めていた府中の店をすぐに辞め、新宿に移ったのも「短期間でお金を稼ぎたい」という目標があったからだ。そんな典子の目には、福岡さんは「有名大学の学生でしっかりしている」真面目な男性そのものに見えていた。結婚相手には彼しかいない、そう思っていた。

 しかし福岡さんには、スカウトの顔とも、大学生の顔とも違う、別の顔があった。そして二人の関係も、ねじれてゆく。

――後編は明日31日公開

「子どもを抱いてるときはマリア様になれる」小学生殺人容疑、完全黙秘した女の“罪”【札幌・小四男児殺害事件:後編】

 1984 年 1月 10 日の午前9時半。小雪の舞う北海道・札幌市。当時9歳だった小学4年生の城下英徳くん(仮名)が、急に「外出してくる」と家族に言い残し、そのまま姿を消した。警察は城下家から約 100 メートルほどの距離にあるアパート2階に住む工藤和子(仮名)を疑ったが、成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後に和子は夜逃げしてしまった。

 そして87年12月30日。新十津川町で農家を営む男性と再婚していた和子は、夫を火災で亡くした。夫の寿夫は生前に「おれ、殺される」と身内に漏らしていたという。警察は和子を調べたが、火災原因の特定には至らなかったーー。

(前編はこちら:遺骨 DNA で判明した 14 年前の男児失踪“その後”......時効寸前に捕まったホステスの半生

 ふたたび娘とともに新十津川町を去った和子は、生まれ故郷の節婦町に近い、海沿いの街に移り住んだ。その後もホステスとしてクラブを転々としていたが、高級クラブの経営者と3度目の結婚をして、2人の女の子を授かった。しかしそんな結婚生活もわずか2年ほどで破綻している。

「和子は金遣いが荒くて『いくらあっても足りないんだよ』とよくこぼしてたな。高級ブランドが好きで、あっという間に何千万円も使ってしまうんだと。これじゃ破産だ、って離婚したんだ」(3番目の夫の知人)

 3人の娘と西日本を転々とした時期もあるが、やがて同じ海沿いの街に戻り、家賃6万5,000円のアパートで4人暮らしを始めた。3番目の夫から養育費が支払われていたほか、離婚時には2000万円の慰謝料も手にしていた。これらの金を元手にやはり、サングラス姿でパチンコに通う姿を、パチンコ店の常連客たちは覚えていた。

「男みたいに足を組んで、たばこをふかしてさ。いくらスッても平然として一日中打っていた」

 1998年。DNA鑑定の技術が進歩したとして北海道警は、寿夫さん宅の納屋から発見された人骨を再度鑑定。その結果、英徳くんのものだと断定され、時効2カ月前、和子は英徳くん殺人の容疑で逮捕された。

 これで和子が真実を話せば、事件は解決だ……。英徳くんの家族や捜査員らは、そう思っていたのだろうか。だがそうはいかなかった。和子の物語はもう少し続く。

 逮捕後の和子は、雑談にも応じず完全黙秘を貫いた。札幌地裁の公判でもその姿勢にブレはなく「お答えすることはありません」と、検察側からの被告人質問を全てこの返答で乗り切った。そして2001年5月、札幌地裁は和子に無罪判決を言い渡す。

「重大な犯罪により英徳くんを死亡させた疑いが強いが、殺害の明確な動機が認められず、殺意を持って英徳くんを死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残る」(佐藤学裁判長)

 証拠がないゆえの無罪だった。検察側は控訴するが、これも翌年3月に棄却され、和子の無罪は確定した。

 その2カ月後。和子は“刑事補償法に基づく補償金”として1160万円を札幌地裁に請求し、その年の冬、同地裁は請求の約80パーセントに相当する930万円を支払うことを決定した。無罪判決を受けた場合は、国に対して補償を求めることができるのだ。「無罪にもかかわらず、身柄拘束された」ことに対する損失や苦痛への補償という意味合いになる。

 しかし札幌地裁も、高裁も、和子が英徳くんの死に関わっていることは認めている。寿夫さん宅の火災にまつわる数多の不審な点、そして英徳くんの死。いったい和子は何をしたかったのか。

身代金目的の動機は十分にあった

 控訴審判決で、札幌高裁は「身代金目的」の動機があると、踏み込んだ判断をしている。

 地裁が「借金の返済に追われて深刻な状況にあったとはうかがわれない」と、身代金目的の誘拐の可能性を否定したのに対し、高裁は「当時の被告人は経済的に極めて逼迫した状況にあったと認められ、その点では、身代金目的で英徳くんを呼び出す動機となるものは、むしろ十分にあったように判断される」と指摘。さらに、こう続けた。

「被告人は、かつて東京上野のキャバレーのホステスをしていた時の客であるMから借金を繰り返し、残額495万円の支払いをしないままに札幌に来たが、その借金の経緯や返済を遅滞したことについては不誠実なところが見られ,昭和58年8月27日から同年12月1日にかけて3回ほど内容証明郵便による督促を受けていた。中でも、同年12月1日の督促の内容は、訴訟を提起する可能性を明記し郵便到着後2週間以内に支払うよう催告した厳しい内容のものであった。

 被告人は、この督促を受けて、同月14日、495万円全額を同月26日までに返済することを約束した。しかし、その約束は履行されず、昭和59年1月10日の段階において、被告人はその返済をしなければならない状況に追い込まれていた」(札幌高裁・門野博裁判長)

 厳しい取り立てをするかつての客からの、返済期限を過ぎていたころに起こったのが、英徳くん失踪事件だった。だが、幼子を抱えて、身代金目的の誘拐は実質的には困難であり、動機の真相や、その時、何があったのかは、謎のままだ。

 完全黙秘を続けた和子だったが、一度は捜査員らに真相を話そうとしていた形跡がある。

「心を開く気持ちはある。だけど、今すぐは開けない。時期が来たら開けると思う」

「夕べ死のうとした。包丁で刺したら痛いし、なかなか死ねないものだね」

「子どもを抱いているときはマリア様になれるんだね。私の人生にあまりにも大きな犠牲を払った。私やり直せるんだろうか」

「私、どうして狂っちゃったんだろうね」

 黙秘に転じるまで、こんな具合に葛藤を吐露していた。

 寿夫さんと結婚していた頃は、仏壇に水や御飯、花に果物、野菜や生魚等を供えたり、仏壇の前で手を合わせたりしている姿を、当時の家族は記憶している。特別宗教心のない和子が、手を合わせて拝み、時にはこう話しかけていた。

「また、明日。おやすみなさい」

 無罪だが無実ではない。02年に自由の身となった和子は、生きていれば65歳になる。彼女から真相が語られることはなく、時間とともに事件は世の中から忘れられてゆく。

【参考文献】
・「週刊読売」 1998.12.6号
・「週刊朝日」 1998.12.4号
・「週刊新潮」 1998.11.26号
・「週刊女性」 1999.1.25号
・「新潮45」 2001.7号
・「FOCUS」 2001.06.13号
・札幌高等裁判所 平成13年(う)第119号 殺人被告事件 判決文

遺骨DNAで判明した14年前の男児失踪“その後”……時効寸前に捕まったホステスの半生【札幌・小四男児殺害事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 北海道・新十津川町で農家を営む男性宅から火の手が上がったのは、1987年12月30日、午前3時過ぎのこと。1階に寝ていた妻と娘は逃げ出して助かったが、2階に寝ていた男性は焼死した。

 それから半年後、88年6月。男性の兄が、延焼を免れ納屋で探し物をしていると、骨らしきものが入ったスーパーのビニール袋を見つけ、「犬かなんかの骨かもしれないけど」と、警察に届けた。調べたところ、これは犬ではなく、焚き火などで火葬された人骨で、子どものほぼ一人分がそろっていた。血液型は判明したものの、遺骨からDNAを抽出することができず、誰のものかを特定するに至らなかった。

 10年後の初冬。DNA型鑑定技術の進歩により、この遺骨は1984年1月から行方不明になっていた札幌市の小学生男児のものと判明。男児を殺害した容疑で逮捕されたのは、あの家で、火事を逃れた妻だった。当時の殺人罪の公訴時効が成立する2カ月前のことだった。

札幌・小四男児殺害事件

 84年1月10日の午前9時半。小雪の舞う札幌市。内装会社経営、城下隆二(仮名)さん宅の電話が鳴り、冬休みで家にいた小学4年生の次男、英徳くん(仮名、9歳=当時)が受話器を取った。電話を終えた英徳くんは急に「外出してくる」と言い出した。母親がどこに行くのか尋ねると、

「貸したものを返してもらってくる」
「女の人からの電話」
「(近所の)XXさんの家の近く」

 などと返事をして、スノーコートを着込み、外に出て行った。

 嫌な予感がした母親は数分後、当時小学6年生の長男に後を追うように言ったが、長男が家を出ると、すでに英徳くんの姿はなかった。

 不安が募った母親は約1時間後に捜索願を出す。聞き込み捜査で、英徳くんが城丸家から約100メートルほど歩いたところにある2階建てアパートの階段を上っているのを見たという住民がいることがわかった。そのアパートの2階に住んでいたのは、札幌のクラブでホステスをしていた工藤和子(仮名)だった。

 警察が事情を聞くと、和子は英徳くんと会ったことは認めたものの「XXさんの家はどこかと聞かれただけ。隣の家だと言うと、すぐに帰った」と、失踪への関与は否定し続けた。

 和子は55年、北海道南部・新冠町にある海沿いの節婦町で、馬車引きをして暮らす物静かな両親のもとに9人きょうだいの7番目として生まれ、中学卒業まで家族と暮らした。
子どもたちは学校を卒業すると都会に働きに出る時代。和子も同級生らと同じように、集団就職で家を出た。紡績工場や温泉旅館などに勤めたのち、10代後半からホステスとして働き始め、熱海や神戸、横浜、東京などのスナックを10年ほど転々とする。

 そして82年、東京のスナック経営者と結婚。長女を出産したが、結婚生活はすぐに破綻し、事件の前年9月、城丸家近くのアパートに、1歳になる娘と移り住み、再び夜の街へ。すすきのの高級クラブにホステスとして復帰した。

 英徳くんの両親は、近所のアパートに住む和子と面識はなかった。しかし、城丸家は近所では目立つ資産家であり、父親は代議士秘書を務める地元の名士だったという。警察は、和子が借金を抱えていたことから、身代金目的の誘拐ではないかとも疑ったが、捜査の初動が早かったためか、城下家に身代金の要求はなかった。

 そして、警察による任意の取り調べも成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後、和子は娘とともにアパートから夜逃げしてしまう。

 近隣住民は、和子が重そうな段ボールを運び出す様子を目撃していたというが、それ以上の手がかりは得られないまま、事件は風化していった。彼女へ疑惑の目が再び向けられたのは、それから3年半がたってからのことだ。

 しかもそれは、英徳くんの失踪に関してではなく、冒頭の新十津川町の火災についての“疑惑”だった。彼女は、娘とともに火災を逃れたあの「妻」だったのだ。

「おれ、殺される」夫が残していた言葉 

 和子はいつも借金を抱えていた。幼い娘を連れ札幌のアパートを夜逃げしたのちも、夜の街で恋仲になった客に金を借りては、別の返済に充てると言う生活を続けていた。新十津川町の裕福な農家、山田寿夫さん(仮名)とも店で出会ったという。

「見合い話を進めようとしていたら、和子のほうから家に押しかけてきた。言うには『借金があって結婚できない。300万円あれば整理がつくから、用立てて欲しい』。寿夫は『炊事、洗濯さえしてくれたら農作業なんかしなくていい』と喜んでカネを出した」(寿夫さんの親戚)

 こうして二人は事件から2年後の86年に結婚した。近所の住民が覚えているのは、和子の農作業姿ではなく「パチンコに出かける姿」だった。子どもを幼稚園に送り出した後、毎日のようにタクシーを走らせ、隣の市のパチンコ店に通った。170センチ近くある長身に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。その容姿で、香水の匂いを漂わせながら颯爽と農村を歩く和子は、近所では目立つ存在だった。

 結婚生活は長くは続かなかった。結婚翌年の年の瀬に起こった火災によって、寿夫さんが亡くなったからだ。和子に向けられた疑惑は、夫の死についてだった。

 不審な点はいくつもあった。未明の火災にもかかわらず、和子と娘らはコートやブーツなど外出着で身なりを整えて避難していたこと。通帳や実印などを持ち出していたこと。燃えなかった納屋に、和子の荷物がほとんど移されていたこと。そして寿夫さんには総額1億7000万円もの生命保険がかけられていたことなどだ。

「おれ、殺される」

 寿夫さんは死ぬ前、姉夫婦にこんなことを漏らしていた。

「金遣いが荒い嫁だと聞いていたから、それで食い殺される意味かと思って、詳しく聞かなかった。そこにあの火事だ。『ああ、このことだったか』と全て納得いった」(寿夫さんの兄)

 警察は和子を調べたが、火災の原因特定には至らなかった。そして和子もまた、寿夫さんの死亡保険金を請求しなかったため、支払われることもなかった。

――後編は5月6日更新

遺骨DNAで判明した14年前の男児失踪“その後”……時効寸前に捕まったホステスの半生【札幌・小四男児殺害事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 北海道・新十津川町で農家を営む男性宅から火の手が上がったのは、1987年12月30日、午前3時過ぎのこと。1階に寝ていた妻と娘は逃げ出して助かったが、2階に寝ていた男性は焼死した。

 それから半年後、88年6月。男性の兄が、延焼を免れ納屋で探し物をしていると、骨らしきものが入ったスーパーのビニール袋を見つけ、「犬かなんかの骨かもしれないけど」と、警察に届けた。調べたところ、これは犬ではなく、焚き火などで火葬された人骨で、子どものほぼ一人分がそろっていた。血液型は判明したものの、遺骨からDNAを抽出することができず、誰のものかを特定するに至らなかった。

 10年後の初冬。DNA型鑑定技術の進歩により、この遺骨は1984年1月から行方不明になっていた札幌市の小学生男児のものと判明。男児を殺害した容疑で逮捕されたのは、あの家で、火事を逃れた妻だった。当時の殺人罪の公訴時効が成立する2カ月前のことだった。

札幌・小四男児殺害事件

 84年1月10日の午前9時半。小雪の舞う札幌市。内装会社経営、城下隆二(仮名)さん宅の電話が鳴り、冬休みで家にいた小学4年生の次男、英徳くん(仮名、9歳=当時)が受話器を取った。電話を終えた英徳くんは急に「外出してくる」と言い出した。母親がどこに行くのか尋ねると、

「貸したものを返してもらってくる」
「女の人からの電話」
「(近所の)XXさんの家の近く」

 などと返事をして、スノーコートを着込み、外に出て行った。

 嫌な予感がした母親は数分後、当時小学6年生の長男に後を追うように言ったが、長男が家を出ると、すでに英徳くんの姿はなかった。

 不安が募った母親は約1時間後に捜索願を出す。聞き込み捜査で、英徳くんが城丸家から約100メートルほど歩いたところにある2階建てアパートの階段を上っているのを見たという住民がいることがわかった。そのアパートの2階に住んでいたのは、札幌のクラブでホステスをしていた工藤和子(仮名)だった。

 警察が事情を聞くと、和子は英徳くんと会ったことは認めたものの「XXさんの家はどこかと聞かれただけ。隣の家だと言うと、すぐに帰った」と、失踪への関与は否定し続けた。

 和子は55年、北海道南部・新冠町にある海沿いの節婦町で、馬車引きをして暮らす物静かな両親のもとに9人きょうだいの7番目として生まれ、中学卒業まで家族と暮らした。
子どもたちは学校を卒業すると都会に働きに出る時代。和子も同級生らと同じように、集団就職で家を出た。紡績工場や温泉旅館などに勤めたのち、10代後半からホステスとして働き始め、熱海や神戸、横浜、東京などのスナックを10年ほど転々とする。

 そして82年、東京のスナック経営者と結婚。長女を出産したが、結婚生活はすぐに破綻し、事件の前年9月、城丸家近くのアパートに、1歳になる娘と移り住み、再び夜の街へ。すすきのの高級クラブにホステスとして復帰した。

 英徳くんの両親は、近所のアパートに住む和子と面識はなかった。しかし、城丸家は近所では目立つ資産家であり、父親は代議士秘書を務める地元の名士だったという。警察は、和子が借金を抱えていたことから、身代金目的の誘拐ではないかとも疑ったが、捜査の初動が早かったためか、城下家に身代金の要求はなかった。

 そして、警察による任意の取り調べも成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後、和子は娘とともにアパートから夜逃げしてしまう。

 近隣住民は、和子が重そうな段ボールを運び出す様子を目撃していたというが、それ以上の手がかりは得られないまま、事件は風化していった。彼女へ疑惑の目が再び向けられたのは、それから3年半がたってからのことだ。

 しかもそれは、英徳くんの失踪に関してではなく、冒頭の新十津川町の火災についての“疑惑”だった。彼女は、娘とともに火災を逃れたあの「妻」だったのだ。

「おれ、殺される」夫が残していた言葉 

 和子はいつも借金を抱えていた。幼い娘を連れ札幌のアパートを夜逃げしたのちも、夜の街で恋仲になった客に金を借りては、別の返済に充てると言う生活を続けていた。新十津川町の裕福な農家、山田寿夫さん(仮名)とも店で出会ったという。

「見合い話を進めようとしていたら、和子のほうから家に押しかけてきた。言うには『借金があって結婚できない。300万円あれば整理がつくから、用立てて欲しい』。寿夫は『炊事、洗濯さえしてくれたら農作業なんかしなくていい』と喜んでカネを出した」(寿夫さんの親戚)

 こうして二人は事件から2年後の86年に結婚した。近所の住民が覚えているのは、和子の農作業姿ではなく「パチンコに出かける姿」だった。子どもを幼稚園に送り出した後、毎日のようにタクシーを走らせ、隣の市のパチンコ店に通った。170センチ近くある長身に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。その容姿で、香水の匂いを漂わせながら颯爽と農村を歩く和子は、近所では目立つ存在だった。

 結婚生活は長くは続かなかった。結婚翌年の年の瀬に起こった火災によって、寿夫さんが亡くなったからだ。和子に向けられた疑惑は、夫の死についてだった。

 不審な点はいくつもあった。未明の火災にもかかわらず、和子と娘らはコートやブーツなど外出着で身なりを整えて避難していたこと。通帳や実印などを持ち出していたこと。燃えなかった納屋に、和子の荷物がほとんど移されていたこと。そして寿夫さんには総額1億7000万円もの生命保険がかけられていたことなどだ。

「おれ、殺される」

 寿夫さんは死ぬ前、姉夫婦にこんなことを漏らしていた。

「金遣いが荒い嫁だと聞いていたから、それで食い殺される意味かと思って、詳しく聞かなかった。そこにあの火事だ。『ああ、このことだったか』と全て納得いった」(寿夫さんの兄)

 警察は和子を調べたが、火災の原因特定には至らなかった。そして和子もまた、寿夫さんの死亡保険金を請求しなかったため、支払われることもなかった。

――後編は5月6日更新