「医者に診せてはいけません」フィリピン仕込みの“心霊手術”で破滅した、日本心霊学会の“神さん”【豚の血・心霊手術詐欺事件 後編】

 1996(平成8)年10月。「手術室」で心霊手術の真っ最中だった日笠志摩子(仮名・当時57)のもとに、警察がなだれ込んだ。昭和のころ、テレビで「心霊手術」をご覧になった方もいるのではなかろうか。病を患う患者を寝台に寝かせ、その患部に術者が手を突っ込む。何やら手元を動かすと、患者の体から病巣と思しき血まみれの臓物が取り出される。メスも麻酔も使わないのに患者は痛みも感じず、手術が終わるのだ。

 かつて、まるで奇跡のようにテレビで放送されていた、この摩訶不思議な手術で、もちろん病気が治るわけでもない。しかし平成の時代に、日本でこの「心霊手術」を行っていたとして詐欺容疑で逮捕されたのが、志摩子である。

 被害者は全国で約300人にのぼり、被害総額は数千万とも億単位ともいわれる。さらに札幌の“患者”からは600万円のベンツまでプレゼントされていた。

 心霊手術という名の詐欺治療を続けてきた志摩子は、第二次世界大戦が始まる前の1939年、三重県某市の海岸沿いにある漁業の町に生まれた。 食べ物のない時代だったが、漁業の街の住人が飢えることはなかった。街の男たちは、洋服や和服の生地のニセ反物を売り歩く“詐欺商法”で儲けていたのだ。

▼前回まで

化粧品のセールスレディーの傍ら“心霊療法”

 そんな大人たちを見て育った志摩子は、群を抜いて“おませな子”だったという。父親の女性関係の多さに愛想をつかした母親は、3人目の子を産むと実家に帰ってしまった。魚の加工業で成功していた父親は、さらに女性関係に熱心になった。祖母が面倒を見てくれはするものの、長女だった志摩子は、幼い頃から弟や妹の母代わりを強いられた。

「私はお母ちゃんに捨てられたんだ。なのに、お父ちゃんはいつも若くてきれいな女の人ばっかり追いかけてる」

 幼心に人間不信が植え付けられた志摩子は、中学生になる頃には同級生の中でも異色の存在となる。人当たりがいいのに負けん気が強く、野心が人一倍強い女子へと成長していた。

「私は結婚なんかしない。それより世間を股にかけてお金を稼がなくちゃ。そうでなきゃ、人生つまらない」

 高校を卒業すると同時に地元を飛び出し、名古屋に出て、大手化粧品会社に就職。歩合制の化粧品のセールスレディーとなる。これと思った相手であれば、男女問わず懐に入る話術をすでに持っていた志摩子は、たちまちトップの売り上げを記録した。

 このセールスレディの仕事と並行して始めたのが、もっと儲かる独自の“心霊療法”だった。セールスのために赴いた先に病人がいると聞くと、志摩子はこう言うのだ。

「私が治せると思う」

 訝る客に、さらにたたみかける。

「お加持さん(編注:加持とは患部に手をかざしながら治癒や癒やしなどを与えていく手法)って知りませんか? 私の祖母は、ずいぶんと人助けをしてきました。医者から見放された人が、祖母のお加持さんを受けると治ってしまうんです。私は小さい頃から霊感が強くて、いつの間にか祖母と同じようなことができるようになっていたんです。やってみましょう」

 もちろん、志摩子は加持祈祷などやったこともないが、彼女は人の気持ちを掴むことにかけて、ずば抜けていた。独特の強い眼差しで、相手の瞳の奥を覗き込むように見ると、相手はそれだけで飲まれてしまうのだった。

 患部をなでて、さも治療をしたかのように振る舞うと、いい気持ちになり「治った」と勘違いする客が続出。“治療”による収入が、化粧品販売のそれを越えるまでに、さほど時間はかからなかった。

 演技力と度胸で始まった“治療”に、生来の野心が加わり、志摩子は独自の心霊療法を独自に磨き上げていく。お香を焚き込め、般若心経を唱え、ピラミッドパワーを利用し……と、客が信じそうなものを、片っ端から取り入れていった。

 そして20代のうちに、心霊療法の副収入でマンションを購入。30代になると化粧品のセールスレディを辞めて、心霊療法に専念する。住まいもマンションから、新たに購入した新築戸建てへと移り、そこも手狭になると、敷地80坪の豪邸へと引っ越した。

 敷地内には黄金のピラミッドを備え、ますます彼女は“それっぽく”なってゆく。そんな折、「心霊手術」を学びに渡ったフィリピンで出会ったのが、4歳年上のフィリピン人心霊手術師、ケニー(仮名)だった。

 ケニーの心霊手術を目の当たりにした志摩子は唸った。

〈これはすごい。病巣を目の前で取り出して見せたら、患部をさするだけの私の治療よりずっと説得力がある。カネも高くとれる。私も……〉

 2人はたちまち意気投合。志摩子は日本とフィリピンを何度も往復し、セブ島などで観光客を相手に施術をした。ケニーの心霊手術を間近で見ながら、志摩子は“トリック”を習得したのだ。

 口コミを聞きつけて日本から心霊手術ツアーに訪れる客も絶えず、心霊手術と称した詐欺行為は順風満帆だった。このまま海外にいれば、彼女の運命も違っていたかもしれない。

 だが志摩子は1995年、逮捕前年に、日本に戻ることになった。バブル崩壊からの不況で、日本からの心霊手術ツアー客が減少したことも影響していた。

 日本での心霊手術に使う“手術室”は、日本各地のホテル会議室だった。警察による摘発を逃れるために、拠点を定めず場所を借り、転々としながら詐欺を重ねていた。ところが件の会社役員の妻が警察に相談に訪れたことから、彼女の詐欺人生に終止符が打たれることとなったのである。

「医者に診せてはいけません。薬を飲んだり、医者の手術を受けたりすると私のパワーが効かなくなります。それと私が治療をしていることを口外しないでくださいね。腕の悪い医者にねたまれていて医師法違反で捕まりそうなんです」

 志摩子は客にこう言い含めて“手術”を施していた。無論、詐欺が発覚しないための方便だ。しかし、すがる思いで彼女のもとを訪ねた者たちにとって、この口止めはかえって、心霊手術の神秘性を高めてしまったことだろう。

■参考資料
「週刊大衆」(双葉社)1996年11月18日号
「週刊女性」(主婦と生活社)1997年1月21日号

素手で病巣の臓物をグチャ……「心霊手術」で数億円稼いだ、“神さま”と呼ばれた女【豚の血・心霊手術詐欺事件】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

【三重 豚の血・心霊手術詐欺事件】

 三重県某市から車を北に30分ほど走らせたところにある、ひなびた街。山裾にしがみつくように建ったホテル別館の大会議室が、彼女の“オペ室”のひとつだった。しかし、オペと言っても、我々が思い浮かべるそれではない。室内には消毒液でなく、お香の匂いが立ち込めている。

 寝台の周りを半円状に取り囲んでいるのはナースではなく、下着一枚の姿になった男女。一同が食い入るように見つめていたのは、髪を引っ詰めた女の手元だった。彼女は寝台に横たわる“患者”の体から、麻酔もメスも使わずに、素手で血だらけの病巣を取り出してしまうのだ。

 1人の“手術”を終えるのに1分とかからない。寝台を取り囲んでいた男女たちも、順番に寝台に寝そべり“手術”を受けてゆく。

 グチャ、グチャ……

 女は時折、小さく念仏を唱えながら、寝台に寝そべる患者の“病巣”から臓物を引っ張り出し、バケツに投げ込む。お香の匂いのなかに、かすかな獣の臭いが混じる。

 この“手術”で本当に病巣が取り除かれるわけではない。女が施していたのは「心霊手術」だ。

血まみれの臓物を素手で取り出す「心霊手術」

 三重県のホテル別館・大会議室に患者ではなく警察がなだれ込んできたのは、1996(平成8)年10月。「手術室」では、まさに心霊手術の真っ最中だった。

 昭和のころ、テレビで「心霊手術」をご覧になった方もいるのではなかろうか。病を患う患者を寝台に寝かせ、その患部に術者が手を突っ込む。何やら手元を動かすと、患者の体から病巣と思しき血まみれの臓物が取り出される。メスも麻酔も使わないのに患者は痛みも感じず、手術が終わるのだ。

 かつて、まるで奇跡のようにテレビで放送されていた、この摩訶不思議な手術で、もちろん病気が治るわけでもない。しかし平成の時代に、日本でこの「心霊手術」を行っていたとして詐欺容疑で逮捕されたのが、冒頭の女・日笠志摩子(仮名・当時57)である。

 志摩子が患者の患部から取り出されたかのように見せている臓物は、豚の血を脱脂綿に浸したものに鶏の皮をかぶせたものだった。それをあらかじめ隠しておいて、パッと取り出す。「心霊手術」とは名ばかりの、単なる手品だった。

 しかし、ワラにもすがる思いの重病人たちは、口コミでの評判を聞きつけ、志摩子のもとに全国から殺到した。自宅周辺には高級車が並び、1人では階段も登れないような高齢者や、担架に乗せられた重病人がやってきていたそうだ。

 志摩子は三重県某市の自宅に「日本心霊学会」という看板を掲げ、口コミで治療を受けに来る患者たちに「このままではガンになる」「半年もしないうちに植物人間になる」などと言って不安にさせ、心霊手術を施していたという。

「1回の料金は3万円で、だいたい1人あたり30回から50回くらいは“手術”していたそうです。ガンや不治の病で、ワラをもつかみたいという患者の弱みにつけこんだ卑劣な犯罪」(警察)

 逮捕のきっかけとなったのは、名古屋市内の当時61歳会社役員。約150万円を騙しとられているというから、50回ほど、心霊手術を施してもらったのだろう。この役員は病院では「直腸ガンは完治した」と診断されていたが、志摩子から「このままでは再びガンになる」と脅され、彼女のもとに通っていた。

 そんな夫を見るに見かねて、同年3月、妻が警察に相談に訪れたのだった。

「ただ、被害者に被害を受けたという認識がないので、苦労しましたね。日笠にまんまと騙されていたんです」(同)

 被害者は全国で約300人にのぼり、被害総額は数千万とも億単位ともいわれる。さらに札幌の“患者”からは600万円のベンツまでプレゼントされていた。

 千鶴子は、昭和の時代にフィリピンで学んだ“心霊手術”とは名ばかりの手品の腕前と、巧みな話術で患者たちを欺き「心霊手術でどんな病気も治せる」と豪語していた。

 実際に、肩こりに悩んでいる時に志摩子から血を抜いてもらったという近所の老人は言う。

「わしらは日笠さんのことを神さんと呼んでおりました」

 40年近く、心霊手術という名の詐欺治療を続けてきた志摩子は、神ではなく人間で、第二次世界大戦が始まる前の39年、三重県某市の海岸沿いにある漁業の町に生まれた。戦争が終わったのは彼女が小学校1年生のとき。

 食べ物のない時代だったが、漁業の街の住人が飢えることはなかった。ここでの暮らしは、志摩子の詐欺師としての出発点といえる。当時、とある商売が町で大流行したのだ。

「うちの父ちゃんと息子は“たんもんや”になって留守にしとるんだわ」

 この町では、男たちは漁師の仕事や学校を放ってまで“たんもんや”に出ていった。“反物屋”が訛ったと思しきその言葉は、洋服や和服の生地のニセ反物を売り歩く“詐欺商法”を意味していた。反物の両端だけに本物の生地を織り込んだそのニセ反物を使い、客の前で反物の端だけを炙ってみせる。

「純毛かどうかは繊維を燃やしてみればわかるんです……独特の匂い、この焦げかた、正真正銘の純毛です」

 と、このようにして、端の純毛だけ燃やして全てが純毛の反物であると客を騙し、仕入れ額の数十倍の高値で売りつけるというやり方だった。彼らは町に戻ると、金の指輪の大きさや、ロレックスの高級腕時計を自慢しあったりした。

――続きは7月25日公開です

■参考資料
「週刊大衆」(双葉社)1996年11月18日号
「週刊女性」(主婦と生活社)1997年1月21日号

悠仁さまはどうなる? 昭和天皇から今上天皇まで授けられた「帝王学」と、秋篠宮家の考える教育の現在

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――昭和までの歴代の陛下と学習院の関係は意外と距離があったとわかり、びっくりしています。一方で、幼い浩宮さま(=現・天皇陛下)が幼稚園に進まれる際、「学習院は長い間皇室のご恩をこうむってきた」と学習院幼稚園を選んでいただくよう、安倍能成院長(当時)がアピールしていたそうですが……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) ちなみに、昭和中期までに皇族のお子さま方は幼稚園に行くケースが増えてきていたようですが、皇位を継ぐとみなされるお子さま(※皇太子と呼ばれるのは小学校高学年くらいの年齢で所定の儀式を終えてから)だけは幼稚園には行かず、御所内で特別な教育を受けてから学習院初等科に入学するものだと考えられていました。

――昭和天皇は学習院初等科を卒業後、中等部には進まずに、多岐多様な授業カリキュラムを御所で5人の学友と受け続けたと聞きましたが、その皇子にあたられる現・上皇さま(平成の天皇)は、どんな教育をお受けになったのでしょうか?

堀江 上皇さまは、学習院大学に入学した最初の天皇にあたられます。そもそも学習院大学が発足したのは昭和24年(1949年)で、上皇さまが16歳のときに新設された大学です。ちなみに上皇さまは父宮である昭和天皇とはことなり、学習院の中等科、高等科に通いながら御所で個人授業をうけて「帝王学」を修めることになったといわれています。その講師の一人がアメリカ人女性で、日本では“バイニング夫人”として知られる、エリザベス・J・G・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining)でした。

――アメリカ人から君主のあり方について学ぶというのは斬新ですね!

堀江 昭和天皇がアメリカからやってきた教育施設団に感銘を受け、国際的な視野を持つ将来の天皇を育成したいと考えた末の人選だったといわれています。いちおう名目としては英語の個人授業だったようですが、ヴァイニングは上皇さまに自身の意思を明確にすること。そして、憲法を遵守し、国民とともに存在する近代的な君主像……つまり象徴天皇として生きていくための心構えを、長い立憲君主制の歴史を持つイギリス王室などを例にとって伝えたとされています。

――へー知りませんでした。たしか、イギリス王室のエリザベス2世も、子どもの頃からほかの学科は二の次で、憲法を個人授業で叩き込まれて育ったといわれますよね。

堀江 そうなんです。熱烈な君主主義者の多いイギリスではなく、アメリカ人の女性を教師にすることで、中立的な視野が獲得できると昭和天皇は考えたのかもしれません。ヴァイニングの任期は1年の予定でしたが、彼女は人柄も良いので、学習院中等科の英語教師として大人気となり、足掛け4年あまりの日本滞在となりました。

――ヴァイニング夫人がアメリカに帰国後、上皇さまは新設された学習院大の政治学科にご進学となったわけですね。

堀江 しかし、上皇さまは公務のせいで進級に必要な出席日数が足りず、それこそ皇族としての特権というか、見逃しも受けることができず、このままでは留年してしまう……となった時、なんと大学を退学なさってるんですね。

――ええっ?

堀江 中退より留年のほうが問題視されるという価値観は、現代人のわれわれにはないかもしれません。上皇さまはその後、聴講生として、大学卒業までのカリキュラムを学習院大で修了なさったので、宮内庁のホームページには「学習院大学教育ご修了」という記述になっていますね。

――となると、学習院大学に入学、そして正式な形で卒業なさった最初の天皇は現・天皇陛下ということになりますか?

堀江 はい。現在の天皇陛下こと今上陛下は学習院の大学院時代、イギリスのオックスフォードのマーティンカレッジの大学院にも留学していますね。今上陛下の「帝王教育」は学習院高等科時代には始まっていたとされています。

 毎週一回のペースで、父宮(現・上皇さま)と共に昭和天皇を訪問して、お話をうかがうと同時に、同じ頃から学習院大学名誉教授だった児玉幸多から歴代天皇についての個人授業もお受けになったとのことです。

堀江 ちなみに、歴代天皇が崩御した日に、天皇家では「式年祭」と呼ばれる儀式を内々で行う習慣があります。昭和時代には、「式年祭」の前日に天皇が学者を招いて、明日、祭事を執り行う天皇についての個人授業を受けるのだそうです。現在も同じような形で続いているかはわかりませんが……。

――明治から現在の天皇陛下にいたるまで、皆さまがお受けになられた教育のうち、公開されている一部の情報をお話いただきましたが、学ぶ場所もその内容も本当にバラバラなんですね。ここに共通点は見いだせるのでしょうか?

堀江 おそらく、明治時代以前はここまで皇太子の教育がバラバラということはなかったと思うのです。ただ、明治維新の後、日本の天皇は世界中の国々と交流を持つようになり、日本の中だけに収まる存在ではなくなりましたよね。

 とくに昭和天皇以降、国内や世界情勢はもちろん、そしてヨーロッパの君主たちとも対等に付き合える存在となるためのカリキュラムが、その時々の問題意識を反映して課されていると感じました。

 また、明治時代以降、父帝から皇子に皇位は継承されており、その関係性において、帝王学が授けられていったことが(すべては情報公開されてはいないものの)推測されますね。

――となると、今後というか現在の帝王学の状況が気になるところです。

堀江 現天皇陛下には愛子内親王しかおられません。女性天皇が誕生しないと想定すると、皇位はまず秋篠宮家の当主である文仁親王、そして、そのお子さまである悠仁親王に継承されるという流れになると思います。

 現天皇を叔父に持つのが悠仁親王ですが、叔父と甥というのは少々、距離がありますし、どのように帝王学が伝授されているのかは気になるところだなと思いました。

 帝王学というのは、皇太子にだけ、帝位経験者から伝えられていくものです。天皇陛下より、秋篠宮さまは上皇さまとの距離が近いと書かれていることを見るのが多いのですが、もしかしたら、皇嗣殿下である秋篠宮さまこと文仁親王に、上皇さまから一子相伝式に帝王学の伝授も行われているのかもしれません。

――悠仁親王が帝王学を学ぶようになるのは、皇嗣殿下こと文仁親王への伝授が終わってから、ということでしょうか? 

堀江 一定期間、その授業を受けたからといって、それだけで「帝王学を修了しました!」などと軽々しく終わるものではないでしょうし、一生をかけて学び続けるものなのかもしれませんが……。

 また、これまでのお話を聞いていると、帝王学とされるものも非常に多種多様なカリキュラムによって形成されており、ご本人もしくはお父様が「これが帝王学だ」と考えたものが、帝王学の実情というような推測もできますね。

――正解はないし、間違いもない、ということですね。

堀江 以前、このコラムの連載の中で、典型的な上流階級出身の子どもたちに囲まれて暮らすのではなく、幼稚園から大学までさまざまな家庭出身の子どもたちの中で暮らすことが、悠仁親王への帝王学だと秋篠宮家では考えられているのではないか……ということを私はお話しました。

 ただ、この度、保阪正康さんの記事(「天皇家の教育」全内容、『新潮45』2002年1月号)を読む機会があり、考えが少々、変わってきました。明治以降の歴代の天皇も十代後半の頃……つまり中学・高校時代に帝王学の授業を受けはじめているのですよね。

――なるほど。悠仁親王はこの春から高校生なので、ちょうど今の時期にあたりますが、勉強が忙しくて、帝王学に割く時間はあるのか? と疑問ですが……。うわさによれば、東京大学もしくはそれに類する難関大合格を目指しているそうですから。

堀江 そのとおり。かくいう私も受験戦争経験者で、内部進学ではなく、一般受験で早稲田大学の第一文学部に入りました。20年以上も前の話になりますが、あの当時、模試の合格判定C評価を得るにも偏差値68の学部でしたから、より高い合格確率を得ようとするなら偏差値70以上は必要で、実際の試験も倍率10倍以上でした。

 東大が復活させた推薦入試制度がどんなものかはよくわかりませんが、それを利用するにも偏差値70以上の高校で悠仁親王はトップの成績を維持する必要があると想像されます。また仮に推薦ではなく学力試験を受ける場合、文類では理科や社会はそれぞれ2科目必要とされ(2021年時点)、受験時間は倍増します。

――高学歴志望のほかの学生さんと混じって受験で四苦八苦することこそが、悠仁さまの帝王教育の一貫だと秋篠宮さまはお考えかもしれません。

堀江 眞子さまの結婚に際しても「失敗する権利すらないのはかわいそう!」とする記事が出ていましたよね。悠仁親王の場合はそれに加えて「苦労する権利」の話でしょうか。苦労といえば聞こえはいいけれど、人間としての基盤を築くべき十代の貴重な時間の大半を、学校の勉強だけに費やすことになってしまいますから……。

 人間としての基盤を築くことって、宇多田ヒカルの言葉でいう「人間活動」だと私は解釈しているのですが(笑)、それが受験などの理由で人よりも遅れてしまった人は、20代以降、自分で自分を育て直す必要がでてきたりして、わりと厄介なのですよ。

 悠仁親王がどういうお方なのか、われわれに公開された情報はあまりに限定されていますが、参考文献から不適切ととらえかねない引用を行ったり、皇族特権の使用をうわさされる推薦入試で難関高校に入ってしまったり……。正直、不安があります。そもそも東大を目指すとして、そこになにか目的があるのでしょうか? 

――大企業に有利に就職する、官僚を目指すというわけもないでしょうし。

堀江 東京大学の教授の誰それに師事したいということもいえますが、学習院の中等科、高等科に通いながら、天皇陛下がなさったように個人教授を受けるのでは不十分ということなのでしょうか。

 例えば、高等科までは学習院で、大学も内部進学するだろうと見られていたのに、ある日突然、東大を受けに来ている悠仁親王姿が学力試験の会場で目撃され、そのまま合格してしまう……というシナリオであったなら、世間もここまで否定的にはならなかったと思うのですよね。

――私立である学習院に比べ、国立の東京大学は定員に相当シビアですよね? もちろん不合格の可能性もあります。

堀江 そうなんですよ。昔の話ですが、昭和天皇の第一皇女・照宮成子さんの結婚相手で、(旧皇族の)東久邇盛厚さんが戦後に東大受験をしているのですが、東大は「学力不十分」として彼を容赦なく落としていますしね……。

 受かれば、「私(の子)は落ちたのに!」という根強いアンチが生まれるだろうし、落ちてしまっても、皇族に必須の「カリスマ性」を支える神秘性が恐ろしく目減りしてしまうことになり、頭の痛い話だと思いました。いずれにせよ、東大進学はうわさ話にすぎませんが、帝王学のゆくえを考えると、今後の展開が気になるばかりです。

参考:保阪正康 「天皇家の教育」全内容 (『新潮45』2002年1月号)

秋篠宮さま、大学時代に「7人の恋人」? 眞子さん結婚との「ただの偶然とは思えない」共通点

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回からは、秋篠宮家について振り返っています。

秋篠宮さま、宮内庁の顔を曇らせた「反抗」 眞子さん結婚の「先例」に

――小室眞子さん、佳子さまは国際基督教大学で青春を謳歌したと伝えられていますね。眞子さんは小室さんと出会い、佳子さまはダンスのサークルに入られ、それぞれ充実していたのではないでしょうか。

堀江宏樹氏(以下、堀江) そのお父さまである秋篠宮さまは、学習院大学法学部に通っていた当時、佳子さまのタンクトップ通学、へそ出しダンス写真などとは比較にならない位、奔放な行動を連発されていたようですよ。

――もし、当時ネットがあれば礼宮(あやのみや)をモジって、“チャラの宮”なんて言われてしまっているかも……。

堀江 まさに。

 1986年の「FOCUS(10月24日号)」の「礼宮文仁親王20歳―――目白のスナックで“青春の横顔”拝見」という記事によると、礼宮さまが約10人ものSPを店の外で立たせたまま、東京・目白の住宅街の「小ぢんまりしたスナック」にて、ビートルズの『イエスタデイ』をギターでつまびく姿が目撃されたとのこと。お酒を酌み交わし、煙草をくゆらせる御学友たちとのお写真がパパラッチされておられます(笑)。

――20歳にしてこの貫禄!

堀江 絶対に十代のうちから……ってかんじですよね(笑)。しかも「隣りのテーブルの客に声をおかけになった」礼宮さまが「一緒に楽しく飲みましょう」と持ちかけたり、大学の同級生の女性を見送るといって店を出ていってから、「30分ほどして店に戻った」りしています。自由なお姿が描かれていますね。

――もしかして、宮様がお見送りしたのが紀子さまだったとか!?

堀江 いや、違うのです(笑)。礼宮さまは女性には積極的で、同86年の「週刊現代(9月13日号)」には「ウワァ~礼宮さまに肩を抱かれた20歳美女の身辺」という、いかにも80年代っぽい軽薄さに満ち溢れたタイトルの記事が掲載されています。

 “事件”が起きたのは、礼宮さまの東南アジア旅行中……宮さまが委員長を務める学習院大のサークル「自然文化研究会」の活動の一貫で、御一行はシンガポールの植物園を訪問したのですね。ところが真っ昼間から、それも日本からの報道カメラマンが10数人いるのを承知の上で、礼宮さまが同行の竹山則子さんの肩を「ほんの五秒ほどではあったが(略)抱いてみせたのである」。

 これに対し、宮内庁は「こちらでは(略)話題にもなっていませんね」とコメントするだけ。随行した東宮侍従の富士亮氏も、「(肩を抱いたことに)特別に感想はない」とクールに答えるだけでした。

――え、チャラくないですか(笑)? 礼宮さまのそうした行動は日常茶飯だったと?

堀江 そうでしょうね。礼宮さまをめぐる報道を見ていると、兄宮(現・天皇陛下)とご自分の境遇をお比べになり、皇室のあり方に “反抗”するお姿を報じた記事がある一方、ハッキリ言えば、かなりのチャラ男として人生を楽しんでらっしゃいます(笑)。

――翌87年の「女性自身(5月5日号)」(光文社)には、「僕には7人の恋人がいる!」とタイトルの文字が踊る記事が……。

堀江 礼宮さまの奔放さに、マスコミが食らいついてきている姿がうかがえますよね。21歳当時の礼宮さまのこの発言については「7人というのは、つまり“特定の人はいないよ”という意味」など説明されてはいるのですが。

――しかし、この時からすでに紀子さまと笑顔で並んでいる写真が大きく掲載されていますね。

堀江 そうなんです。皇室記者は紀子さまこそが 宮さまの“本命”と認識していたことがわかりますね。この頃の礼宮様は、特技のギターの弾き語りに磨きをかけておられ、南こうせつの『神田川』や浅川マキの『かもめ』が十八番だったそうです。

――『神田川』って(笑)。風呂なしアパートに暮らし、銭湯の前でふるえながら、同棲中の恋人男性が出てくるのを待つ貧しい女性の気持ちが、殿下に想像できたのでしょうか?

堀江 浅川マキの『かもめ』も、「港町のあばずれ」なんて歌詞が出てくるんですよね~。わかってたのかな(笑)。礼宮様は「新人類の殿下」などと呼ばれていたそうですが、否定的なニュアンスは記事にはまったくないですね。マスコミから非常に愛されています。

 88年の「週刊現代(3月5日号)」の「次男坊殿下礼宮さま 教授令嬢とのデートの親密度」という記事によると、皇居の敷地で、礼宮様がオレンジ色のフォルクスワーゲンに本命の紀子さまを乗せてドライブ。毎日のようにお二人だけの「ハラハラ、ドキドキの」時間を過ごしていると報じた記事が載せられます。お二人が部屋にこもって3時間も出てこなかったことなどが書かれていますね。

――そして、この頃からすでに「もしかして、兄宮より先にご成婚かも」と囁かれはじめていた? 

堀江 はい。翌89年秋にはその予感は現実となり、イギリスに短期留学した23歳の礼宮さまを、同い年の川嶋紀子さんが「離れていても心は一緒です」と笑顔でお見送りしていますね。お二人のご結婚は「来年(=1990年)6月に決定」とすべてがトントン拍子で進んでいったのでした。

――小室夫妻も2012年、国際基督教大学1年生の時に知り合っており、眞子さんが同年8月にイギリス留学で日本を離れる直前に交際が開始されました。そして13年には小室さんから眞子さんにプロポーズがあったそうですよね。すごい共通性が……。

堀江 そうなんです。こうなると、ただの偶然とは思えませんよね。眞子さんはあきらかにご両親を意識して行動というか、そういうふうに振る舞えば、先例があるから自分も許されると判断なさっていたのかも……。

堀江 紀子様のご実家・川嶋家と皇室出身の礼宮様にも、大きな経済格差がありました。学習院大の職員用住宅の3LDKの「アパート」に暮らしていた紀子様を「3LDKのプリンセス」などという陰口もありました。

 「SPA!(89年9月6日号)」(扶桑社)に掲載された川嶋家の暮らす「共同住宅」は、エレベーターもなさそうな古びた公営団地のようです。これが“平成のシンデレラ”のご実家か~、という驚きはありますね。

――眞子さんは小室さんとの結婚において、ご両親の結婚までの過程を意識的、あるいは無意識的に踏襲していたのかもしれませんね。

堀江 その可能性は多いにあります。ただ、紀子さまには周囲と問題ばかり起こしている小室佳代さんのような困ったご家族はいませんでしたが……。

 礼宮さまと紀子さんのご結婚に反対する声は、実は少なからずありました。そもそもお二人のお話がまとまっていく頃は、昭和天皇の喪中にあたり、礼宮さまの兄の浩宮さま(現・天皇陛下)も、いまだ雅子さまとの結婚が決まらぬまま、30歳をそろそろ迎えようとなさっていました。少なくとも保守的な意味で完璧な縁談ではなかったはずです。

――なるほど。結婚で身を固める場合、皇室では30歳を節目として強く認識するものなのですか?

堀江 たしかに浩宮さまも「結婚は30歳くらいを目安に」などと発言しておられました。ただ、これは皇室というより、90年代の日本人の年齢感覚ではないでしょうか。

 1994年には山口智子さん主演のドラマ「29歳のクリスマス」が放送され、人気を呼びました。99年にも財前直見さん主演のドラマ「お水の花道〜女30歳ガケップチ〜」が放送されました。

 30歳をすぎれば“売れ残り”で、それは“ガケップチ”に転落することだとする感覚……まぁ、わからなくはないですけど、そういう価値観を反映したドラマがたくさん作られたのが、眞子さんのご両親の青春時代だった90年代後半という時代の風潮です。

 それから現代まで30年近くたちました。それなのに、眞子さんは古い時代の年齢感覚に縛られすぎだったのでは? とは思いますよね。

――30という数字にはとらわれません、といった言動を見せていたら、現代感覚を有した皇女として支持を集めたかもしれません。

堀江 はい。礼宮さまご夫妻のご結婚から、小室夫妻の結婚までの約30年の間に、日本の経済は悪化、空気も暗く、重たくなりました。価値観も保守化しつつあります。

 礼宮さまの青春時代である80年代後半~90年代、世間における皇室とはあくまで外国の王族・皇族の日本版にすぎなかったのかな、という印象もありますよね。

 しかし、2000年代初頭には爆発的なスピリチュアル・ブームが起きました。神仏が再び身近になり、同時に公務と祭祀に励まれる平成の天皇陛下(現・上皇陛下)のお姿を見てきた国民は、皇族をやはり“神”に近い存在だと感じるようになりました。

 皇族がたは人間でありながら、常人とは異なる“神”に近い存在で、そのように振る舞うことこそ“真の皇族らしさ”だと考える層が増えたのです。そういう空気を、若い皇族がたはどのように受け止めておられるのか。理解しておられるのか、という問題はありますが。

――話が飛んでしまいましたが、結局、礼宮さまと紀子さまはどうなったのでしょうか?

堀江 紀子さまに国民的な人気が高まったことを追い風に、お二人の関係はトントン拍子で進み、「昭和天皇さまの喪中に……」などと一部の上流層、宮内庁関係者の顔を曇らせたこと以外の大きな障壁はありませんでした。

 逆に昭和天皇の喪中の暗い空気を吹き飛ばすような、皇室の明るいニュースが国民から必要とされ、それがお二人の結婚を逆に早めた、と。

 かくして1990年6月29日、礼宮文仁親王と川嶋紀子さんとの結婚をきっかけに、秋篠宮家が創設されたのです。

 次回は秋篠宮家の子育てを取り上げます。

84歳男性と「何度も男女関係ありました」――中年パート主婦2人が独居老人を絞殺するまで【群馬・独居老人殺人事件:後編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 1983年の仕事納めも近い年の瀬の群馬県。国鉄桐生駅にほど近い中心街に、織都の栄華を残す元遊郭の3階建てアパートがあった。この2階に住む逸見隆史さん(仮名・84=当時)は、市役所や新聞社、生命保険会社などを渡り歩いたのち、8年前に退職。年金と息子からの仕送りで、年末の慌ただしさとは無縁な一人暮らしをしていた。

 ところが、12月20日に部屋の布団で発見された逸見さんは、絞殺されていた。年をまたぎ、84年1月8日に逮捕されたのは、静岡に住む主婦2人。野口ミツ(仮名・49=当時)と、共犯の柿山奈美(同・50=当時)だった。

▼前編▼

84歳の逸見さんと「男女関係がありました」

 年金と息子からの送金で、六畳一間のアパートに質素に暮らしていた逸見さんは、貯金から友人や知人に金を貸していた。しかも利息をとるのだが、これが安くはなかった。

「2,000円借りて、4日後に返したら元金、利息含んで2,500円になっていた」(近所の老人の話)

 この逸見さんからも、ミツは金を数回借りていたのだ。近所の主婦が言う。

「あのおじいさんがよく取り立てに来ていましたね。『いつ来てもいない』とこぼしてましたよ」

 タクシー運転手の男と再婚したころには、新しい夫のきょうだいの手前もあり、隣近所への金の無心は控えるようにはなっていたが、サラ金からは以前にも増して借りまくり、パチンコ屋通いの日々も相変わらずだった。

 これに気がおさまらないのが、金を貸しっぱなしだった逸見さんである。再婚先を突き止め、返済を迫ったのだ。

 これにはミツも頭を抱え、逸見さんの住むアパートの管理人に相談を持ちかけた。そのうえで、管理人も交えて話し合いが持たれたのだが、この管理人が、なぜか2人を前に、男女関係の有無を問いただした。

 それには理由があった。逸見さんは、高齢にもかかわらず、日頃からアパート内でこう公言していたからだ。

「女に不自由して困る」
「朝は、いまでも元気に立っちゃって」

 ミツは管理人の出し抜けの問いに、「(男女関係は)ありました」とぽつり答えた。それも「数えられないくらい」だったという。近隣からは“見栄っ張り”で“演技をする”という評判だったミツの言葉をどこまで信じられるかという問題はあるが、この日は結局、逸見さんの借金返済要求は、断念せざるを得なくなったという。

 ミツにとって残る問題は、サラ金からの取り立てのみとなった。しかし、転居先を探し当てた業者は、夫の勤めるタクシー会社に押しかけるようになり、夫は退社を余儀なくされる。その後、夫婦で静岡県三島市へと夜逃げしたのだ。

 しばらくしてミツは三島市内の工場にパート勤めに出るが、わずか12日で辞めてしまった。このパート先で知り合ったのが、奈美である。

 夫はトラック運転手で、帰宅は週に一度ほど。上の2人の子はすでに就職し、事実上は長女と次女との3人暮らしであった。アパートの家賃支払いに滞りはなかったが、生活は苦しく、町内の自動車部品工場へパートに出ていた。

 そこを辞め、次のパート先で知り合ったのがミツだった。2人が共に働いたのはわずか12日間だったが、このときは奈美もサラ金の返済に追われており、同病相憐れむ仲となったのだ。

 一方、ミツはこのパート先を辞めたあと、働いた形跡はなく、それどころか、桐生市に住んでいたころに足繁く通っていたパチンコ屋に再び通い始めた。さらには、それまでパチンコ屋に行くこともなかった奈美も、ミツに教えられ、2人でパチンコ屋に日参するようになる。

「奈美は地味でしたが、ミツは金縁のメガネをかけて、派手な色の服を着ていたから目立ちました。2人そろって毎朝11時ごろ来るんですが、腕のほうはねぇ……」

 店主が振り返る。多い時、ミツは5万円もスっていたという。気づけば2人は、三島市内のサラ金からそれぞれ、200万円ほどの借金をしていた。

 事件の2カ月ほど前から、奈美は、近所の主婦を訪ねては「子どもの高校の月謝が払えない」「給料日前で現金が手元にない」といった口実で、次々と借金を重ねるようになっていた。このままいけば破滅しかない……そんなとき、ミツが逸見さん殺害を持ちかけた。

 コツコツと貯金しており、高齢で、一人暮らしの老人……逸見さんをターゲットに据えた理由は、それだけではなかった。ミツは、「サラ金以上の厳しさ」で借金を取り立て、返済不能な女性には交際を迫る、そんな逸見さんに対する“意趣返し”も含めて計画を立てたのだった。

 アパートの管理人がかつて逸見さんとミツの間に立って話し合いを設けたとき、肉体関係の有無を尋ねていたが、そのころミツは週に1、2度、逸見さんのアパートを訪れ、セックスに応じ、下着やワイシャツなどの洗濯もしていた。

 2人は新幹線などを乗り継ぎ、静岡から桐生へ。逸見さんの部屋を訪れ「泊めてほしい」と持ちかけ、3人で川の字になって床に就く。

 やがて逸見さんが寝入るのを見計らい、持参した紐をまずは奈美が、逸見さんの首に巻きつけた。その片方を、ミツに手渡す。そして両方から、2人で互いに紐を引っ張り、逸見さんの首を絞めた。

 気持ちがたかぶっていたのか、2人は桐生市から三島市まで戻る時、タクシーで桐生から栃木県まで移動。殺害後に逸見さんの預金通帳からミツが引き出した90万円は、折半し、2人とも三島市内のサラ金業者への返済にあてたという。

 とはいえ、完済には程遠い。1人の老人を殺したのは金のためか、それとも、逸見さんから“金利”として何度も体を求められたことからか。

◎参考文献
「サンデー毎日」1984.1.29号
「週刊新潮」 1984.1.19号
「アサヒ芸能」 1984.1.26号
「週刊現代」 1984.1.28号

49歳主婦、借金1000万円で一家夜逃げの先で……パート仲間をつなげた「サラ金」【群馬・独居老人殺人事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

【群馬・独居老人殺人事件】

 1983年の仕事納めも近い年の瀬の群馬県。国鉄桐生駅にほど近い中心街に、織都の栄華を残す元遊郭の3階建てアパートがあった。この2階に住む逸見隆史さん(仮名)は、市役所や新聞社、生命保険会社などを渡り歩いたのち、8年前に退職。年金と息子からの仕送りで、年末の慌ただしさとは無縁な一人暮らしをしていた。

 84歳とは思えぬほど元気な彼の趣味は競艇とパチンコ。近所の米屋の主人は、きちんとスーツにネクタイをしめた逸見さんが自転車にまたがり外出するのをよく見かけていた。

 3キロほどある桐生競艇場には、レースがあるたびにこの自転車で出かけていたが、舟券は買ってもせいぜい500円くらいで、もっぱら観戦だったという。

 ところがここ2日ほど、元気なはずの逸見さんの姿が見えない。自転車も止められたままだ。

 不審に思ったアパート管理人の母親が、外から逸見さんの部屋を眺めても、窓にはすだれがかかっていて、中の様子がわからない。ドアを叩くも応答はない。部屋に入っても人の気配がない。ところが布団を見ると、逸見さんはその中で浴衣姿のままうつぶせになって死んでいた。

静岡に暮らす2人の中年女性

 12月20日にアパート管理人の母親により発見された逸見さんは、絞殺されていた。ところが、部屋には争った形跡がなかったことから、桐生署の捜査本部は、顔見知りによる犯行と断定。聞き込みで「中年の女性2人が逸見さんを訪ねていた」ことを掴む。

 さらに、部屋からは逸見さんの預金通帳が盗まれており、そこから90万円が引き出されていることもわかった。このとき、銀行の防犯カメラは女の姿を映していた。

 年をまたぎ、84年1月8日に逮捕されたのはその女・野口ミツ(仮名・49=当時)と、共犯の柿山奈美(同・50=当時)だった。

 ふたりは静岡県に暮らす主婦。サラ金から大金を借りているという共通点があった。ミツは10年ほど前から逸見さん方に出入りし、逸見さんから金も借りていたという。遠く離れた桐生市に住む逸見さんとは、どのようにして出会ったのか。

 逮捕されたミツと奈美は、その日のうちに桐生署に移送された。このとき、ミツは待ち構える報道陣を前に「ごめんなさい。お騒がせして申し訳ありません」と、しおらしく頭を下げた。その顔は、今にも涙で崩れそうにも見える。

 しかし、桐生市内の商店主はこれをテレビのニュースで見ながら言った。

「あぁ、またやっているよ」

 この商店主は、事件の4年前まで近所に住んでいたミツに金を貸して、踏み倒されているのだ。

「アレは演技ですよ。とにかく、口はうまいし愛想はいいし、あの芝居にウッカリ乗せられたらたいへんだよ。刑事さんだってだまされかねないね」

 あきれかえるように続けた。こと借金をするにあたって、ミツは天賦の才を備えていたという。

「まず、小金をためていそうなひとり暮らしのお年寄りに近づくんだ。そして、買い物や洗濯をしてあげて親しくなる。それからさりげなく借金を頼むんだが、最初の1、2回目はちゃんと返すんだね。それも、両手をそろえて頭を畳にすりつけて涙を流しながら『どうもありがとうございました』とやるんだよ。これには貸したほうもいたく感激しちゃう。それで、次も貸しちゃうんだけど、これが一番金額が大きくて結局、返ってこないんだよ」

 こうして踏み倒された金額は人それぞれだったというが、大方が2,000〜3,000円から、3〜4万円ほど。一件あたりの金額はさほど大きくないものの、近所を総なめにしているだけに、チリも積もれば大金になる。

 栃木県生まれのミツは中学を卒業して桐生市の工場に就職。ここで知り合った男と結婚し、ほどなくして子どもが産まれ母親となる。「如才なくて交際上手、子ども好き」な女性だったといわれるが、鉄工所や食料品店などにパート勤めするようになってから、生活ぶりが変わった。

 まず服装が派手になり、パチンコ屋に出入りするようになる。娘の成人式には分不相応な晴れ着を購入。そのうえ「自分で働いて自分で返せる」と、夫に内緒で知人からも金を借りまくった。先の商店主も、そのひとりだろう。

 さらにはサラ金にも手を出す。ところが、ついにこれに気づいた夫から、ミツは離婚を言い渡されてしまったのだ。

 夫は娘を連れ、家を出て行ったが、ミツはすぐにタクシー運転手の男と再婚する。この男にも2人の子どもがおり、そしてミツと同じように借金があった。「彼女に借金があることを承知の上」での再婚だったというが、雪だるま式に増え続ける借金は、事件を起こす83年の2月には群馬県内のサラ金業者39社500万円に上り、知人や他県のサラ金からの借り入れも含めると、約1000万円にもなっていた。

 激しい取り立てに、夫の子どもを、夫の前妻の実家に預け、夫婦2人で静岡県三島市に夜逃げする。偽名で家を借り、ゼロからの再出発を果たす準備を静かに整えた。

 ところが、ここまできても、ミツの性格は変わらなかった。「群馬に大きな家がある」などと、近所に吹聴する。そのうえ、居所を探し当て、取り立てに来たサラ金業者にも泣き落としをかけ、のらりくらりと返済を免れ続けていた。それに、近所の者にはワケありだと勘づかれていたようだ。

「家財道具を何も持たないで引っ越して来ましてねぇ。いきなり部屋の中が見えないように板で囲いを作り始めたんですよ。こりゃ、きっと犯罪を犯したか、サラ金に追われてるんだとピンときましたね」(三島市・ミツ宅近所の主婦の話)

 別の近所の主婦も「新しく近所に引っ越した人には、皆が『あの人から借金を頼まれても絶対に貸すな』と注意して回ったほどです」とこぼす。ところが本人は一向に気にかける様子もなく、ミツは連日、パチンコに明け暮れていた。

「それも、電話でタクシー呼んで通ってるんだものね。それで今日は1万使ったとか、2万使ったとか言っているんだから。買い物もタクシーですよ。服だってオーダーメイドだって自分で言っていましたよ。要するに見栄っ張りなんです」(同)

 一時は借金を支払うために近くの一杯飲み屋で働き始めた。だが、店のママもこぼす。

「とにかく、ミツのいうことは十が十ウソだね。そのうえ、手癖が悪くてね、ウチで働いていた2カ月ほどの間に、カラオケのテープとかタバコがケースごとなくなっているんだ。家から歩いても5分とかからない距離なのに、大きな紙袋持って来てたから、おかしいナとは思ってたんだけどね」

 こんなうわさが飛び交うミツが、逸見さんと知り合ったのは事件から8年ほど前だった。

昭和天皇の娘がタバコ屋に!? 夫は年収200万円? 一般人と結婚した皇女6人、知られざる「その後」と日常生活

 10月26日、秋篠宮夫妻の長女・眞子さんが、大学時代から交際していた小室圭さんと結婚を果たした。式を行わず、一時金も受け取らないという異例ずくめの展開となったが、東京・渋谷のマンションで生活後はアメリカ・ニューヨークで結婚生活をスタートさせる見込みだ。

 海外の地でサラリーマンの妻として生きることになった眞子さんは、今後どんな生活を送るのだろうか? そこで今回は眞子さんと同じく、一般人と結婚した皇女の歴史を振り返っていこう。歴史エッセイストの堀江宏樹さんによる連載「日本の“アウト”皇室史!!」から、皇女6人の事例を再掲する。

昭和天皇の長女:港区の300坪のお屋敷でセレブ生活! でも「お金がない」!?

――今回からしばらくは、昭和天皇の娘、皇女についてお聞きしたいです。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 昭和天皇には5人の皇女がおられました。夭逝なさった久宮祐子内親王以外の4人の内親王が成人し、そして結婚もなさったということですね。というわけで、トップバッターは“長女”の照宮成子(てるのみや・しげこ)内親王です。

 まだ戦前の1943年、成子内親王は、東久邇宮盛厚(ひがしくにのみや・もりひろ)王と結婚なさいました。お相手は「天皇の娘(内親王)は、皇族の男性に嫁ぐ」という古くからのルールに従い、宮内省(当時の宮内庁)内で慎重に人選がされたことがわかっています。ちなみに成子さまのご結婚について、世間一般ではとくにニュースにはならなかったようですよ。

――今だったら大ニュースになりますよね。報道が規制されていたということでしょうか?

堀江 それもあるでしょうが、結婚相手はあくまで皇族男性の中から選ばれるということで、「意外なあの方に決定!」というようなニュース性が乏しかったのでしょう。

 

昭和天皇の第3女:結婚のお相手候補でマスコミを騒がす

――今回からお話いただくのは、昭和天皇の三女にあたる孝宮和子(たかのみや・かずこ)内親王のご結婚生活ですね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。和子内親王の人生は、本当にドラマティックなものでした。そしてこの方ほど、マスコミから注目される結婚生活を経験した皇女は、過去にはいなかったでしょう。ご成婚まで何回もお相手が浮上しては消え、を繰り返していますからね。そしてご結婚後も、本当にいろいろと事件がおありでした。

――ご結婚されるまでに、どんな方が内親王のお相手候補になってきたのですか?

堀江 これがかなり複雑な経緯をたどっているのですね。

 天皇の娘である内親王の嫁ぎ先は皇族であるべき、という昔ながらのルールに基づき、戦後の1946年、16歳になっていた和子内親王の結婚相手として、賀陽宮邦寿(かやのみや・くになが)王のお名前が挙がっています。これが1人目のお相手候補でした。

 しかし、和子内親王の母宮である香淳皇后が結婚に反対を表明なさいました。香淳皇后には、賀陽宮家の家風にお気に召さない点があったこと。そして、結婚するのに16歳はあまりにも早いのではないかという声もありました。

昭和天皇の第3皇女:エリート夫が愛人と“変死”! スキャンダルまみれの生活

――前回から、昭和天皇の第3皇女である和子内親王の結婚についてお話を伺っています。一介の主婦となるべく、家事の修行を積まれた和子さんは、ついに3回目の縁談で、鷹司平通(たかつかさ・としみち)さんとの結婚を決められましたが、新婚生活はどうだったのでしょうか?

堀江 最初は、とても良かったのです。さすがに元・侍従長の百武三郎さんのお家に1年間“ホームステイ”しただけのことはあったようですよ。宮内庁の経費で派遣されてきた女官と女嬬(にょじゅ)、つまり、家事指南役のメイドと、家政婦の2人が当初いたそうなのですが、それも約10カ月で御所に戻ってしまったほど、和子さんの家事スキルは高かったようです。

――和子さんの夫になられた平通さんのご経歴、お人柄は?

堀江 1959年(昭和34年)の「週刊読売」(読売新聞社)4月5日号には、「東大工学部卒の技術屋で教養、趣味とも一流人」とありますが、 実際は大阪理工科大学(現近畿大学)卒業だそうです。

 しかし、現代日本でいうワンルームとはニュアンスがかなり異なり、「23平方メートルくらい」の一部屋で書斎、食堂、応接室、居間を兼用。そこにはピアノ、テレビ、食卓、ソファーなどが置いてあったそうな。つまり、ダイニングキッチンですね。1階にはほかに応接間や、女中部屋がありました。2階にご夫婦の寝室などはあったのだと思われます。

https://www.cyzowoman.com/2021/09/post_352601_2.html

昭和天皇の第4皇女:結婚後は「タバコ屋の看板娘」に!? お相手は「牧場主」

――このところ、昭和時代の皇女にまつわる結婚事情についてうかがっています。前回は、昭和天皇の第3皇女、和子内親王のスキャンダルだらけだった結婚生活をお話しいただきました。

堀江 今回は、昭和天皇の第4皇女、順宮厚子(よりのみや・あつこ)内親王の結婚生活についてです。1951年(昭和26年)7月、厚子内親王(21)と、池田隆政さん(24)の婚約が発表されると世間は驚きました。池田さんは旧・岡山藩主の家系に嫡男として生まれた方で、世が世なれば「大名家の若様」です。

 しかし、池田さんはこの時すでに青年実業家として成功を収めていました。しかも彼が営んでいるのは牧場で、「皇女が岡山の牧場主に嫁ぐことになった!」ということでより大きなニュースとなったのです。

――牧場主がお相手ですか! 

堀江 厚子さんの父宮である昭和天皇は、池田さんを高く評価していたようですね。昭和天皇も学者として、動植物に興味が深い方でしたから。

昭和天皇の第5皇女:東京プリンスホテルに勤務! 夫は年収200万円

――戦後の日本の空気を華やかにした、注目の女性皇族・清宮貴子さま。昭和天皇の末娘(五女)にあたられます。貴子さまの結婚相手は、「民間人」であるだけでなく、現在でいえば年収200万円台のサラリーマン男性でした。お二人の新婚生活はどうなったのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 皇女という「雲の上」の存在が、清貧サラリーマンの家庭に嫁ぐことになった面白さもあり、新婚のお二人の周りはマスコミの記者だらけとなりました。新婚旅行先だった宮崎にも当然のように報道陣がついてきていたのです。

――まるでストーカーめいていますね。

堀江 しかも旅路の様子まで、生放送の番組で取り上げられようとしていました。戦後に復活しはじめた皇室の人気を支えた元・皇女としては、マスコミからの要請をそう簡単に蹴るわけにもいきませんからねぇ……。

 宮崎へは神戸から船旅でしたが、その様子が1時間に渡って生中継されたのです。しかも、途中に「便秘薬」のCMが流れたことも大きな話題になりました。

三笠宮崇仁親王の第2女:婚約発表で“元カレ”が登場、皇室から「手切れ金」が支払われた?

堀江 ここで思い出したのですけれど、こういう興味深い逸話も昭和時代にありました。昭和天皇の弟君にあたる、三笠宮崇仁親王殿下の第2女・容子(まさこ)内親王が、1973(昭和48)年3月からスイスとフランスにそれぞれ1年ずつ留学なさっていたとき、パリでフランス人青年と恋愛問題をおこされたといううわさですね。

――うわさ、ですか。

堀江 あくまで、うわさです。パリで容子内親王がお暮らしになっていたころ、日本人留学生たちから、フィリップ・ギャル氏という画家の卵の男性を紹介され、一時期、とても親密になったというのです。容子内親王と彼の馴れ初めには異説もありますが、それは後ほど。

 容子内親王は、タバコもお酒も豪快に嗜まれることで一時期有名だったのですが、それもすべてギャル氏から教わったそうですよ。

――ギャル氏とは、どんな方だったのでしょうか? 

旧皇族・久邇宮家の娘:新居は飯田橋の2部屋アパート、しかし4年で離婚!

――ときの皇太子殿下(現・上皇陛下)と美智子さまのご成婚パレードに、複雑な想いを抱いたという旧皇族・久邇通子さん。激動の昭和を生き抜いた元・プリンセスです。民間出身ながら皇太子妃になられた美智子さまと、旧皇族出身ゆえに民間人の男性との結婚もままならない自分……。立場の違いに泣きたくなりそうです。

堀江宏樹氏(以下、堀江) しかし、このまま家で鬱々としていても仕方ないと考えるのが、前向きな通子さんという女性でした。通子さんは「働く女性」となることを決意し、津田義塾で英文タイプを専門的に習いはじめます。後には首席という優秀な成績で卒業、大協石油(現・コスモ石油)に入社したのです。

 いまだ親族から結婚は許されないものの、学習院大学で出会った永岡義久さんとのデートも続いていたそうです。しかし、二人がお付き合いをはじめて5年半もの月日が過ぎようとしていました。

 結婚に反対したまま通子さんの父・朝融さんが肝硬変で倒れ、近親者の取り計らいで通子さんと永岡さんの結婚が決まりました。意識不明の父の枕元で婚姻届の用紙を二人で書いたそうです。新居は飯田橋の2部屋のアパートでした。

――2万坪の渋谷の豪邸に生まれたプリンセスの新婚新居としては、侘しいですね……。

堀江 この頃すでに永岡さんはサラリーマンになっていました。通子さんも働きながら、主婦としても一生懸命にがんばるのですが、悲しいことに同居するほど「性格の不一致」は広まり、二人の結婚生活は4年で終わってしまうのです。

旧皇族・久邇宮家の娘:学習院大学で恋人と出会うも……

堀江宏樹氏(以下、堀江) 今回お話したいのは、激動の昭和を生き抜いた、旧姓・久邇通子さんという旧皇族の女性のお話です。

――久邇家といえば、前にも出てきた久邇宮家ですよね?

堀江 はい。運命が一族に共通しているのなら、久邇家(旧・久邇宮家)は結婚問題で代々モメるということになっているのかもしれないと言えるほど、騒動が尽きないんですね。

 久邇通子さんは昭和8年のお生まれ。過去の連載内では、さんざんな取り上げ方になってしまいましたが、婚約破棄問題を引き起こした朝融王の第3女です。東京・渋谷にあった2万坪の大豪邸(現在の広尾、聖心女子大がある場所)で生まれた通子さんは、生粋のプリンセスといえるでしょう。しかし、その家庭事情は複雑でした。

――もしかして、朝融王はご結婚後も女性に対して“ヤンチャ”だったということですか?

 

舌を噛み切り、喉に包丁を突き立て……団地ママ友3人の深い情欲と恨み【福岡 レズビアン殺人事件:後編】

 1973(昭和48)年2月28日、東福岡署(現・東警察署)に、福岡市の市営住宅に住む池田美里が連行された。池田と同じ団地に暮らす紀子さんは、喉に刺身包丁を用いたと思しき3カ所の刺し傷が認められ、その下腹部は刺身包丁で刺しえぐられていた。

 ふたりが暮らしていたのは、1957年建設の古い市営住宅。102棟で、1棟が2戸の2棟長屋式だった。隣近所の暮らしぶりがすぐ覗けるような団地だ。その主婦同士が加害者、被害者となった凄惨な殺人事件は、近所のものたちの格好のうわさのタネとなった。というより、美里と紀子さんは、事件の前から、うわさの的のふたりだった。

「もうしょっちゅう、池田さんは紀子さんの家に上がり込んどったですね。我が家とおんなじだったですよ」
「ほんとにもうべったりだったですね。あの人たち、同性愛じゃなかね、とうわさが立つくらい」
「仲がよすぎて、憎さ百倍になったとじゃなかですか。ふつうの付き合いじゃなかったですもんねえ」

 ふたりがどちらかの家を訪ねると、すぐにバタバタと雨戸を閉めるといったことからも、うわさは信憑性を増して広まっていった。

▼前回まで▼

金銭トラブルと別にあった問題

 こうした背景から、事件までのふたりの動向は近所のものたちに広く知られていた。それによれば、ふたりは事件前年から、一緒に団地のマーケットで食堂を開くことを計画し、その準備金として美里が紀子さんに170万円を貸していたのだという。加えて、ふたりの関係を知ったと思しき紀子さんの夫が家を出ていったことから、美里は紀子さん家族の生活の面倒も見ていたといわれる。美里の夫が110番通報した際に語っていた「金のもつれ」は確かにあった。

 ところが、事件直前、ふたりの関係は急激に悪くなっていった。事件当日の朝、紀子さん宅に押しかけた美里は、長女が登校したあとを見計らって、6畳間の布団の中で紀子さんを求め、キスをしたが紀子さんは盛り上がってくれない。それをなじると「もう帰んしゃい。来んでよか、と冷たくいわれた」(美里の供述)。

 逆上した美里は、吸っていた紀子さんの舌を噛み切り、台所から刺身包丁を取り出して喉にその刃を突き立てたのだった。6畳間の隅には、噛み切られた舌がころがっており、喉には、折れた包丁の先端部分が残されていた。

 犯行現場からは深い恨みが臭い立つが、この恨みの源泉は金のトラブルだけではない。事件直前に紀子さんが冷たくなったのには理由があった。紀子さんは同じ団地内で、別の主婦と親密な関係になっていたのである。

 それは事件の起きた年のはじめごろ。当時30歳の主婦・悦子さんと、紀子さんが一緒に天神に買い物に行く姿や、映画を見に行く姿が近所の主婦たちに頻繁に目撃されるようになった。美里が紀子さんの家を訪ねても「いま、内職のことで人が来てるから」と追い返し、悦子さんとの逢瀬を楽しむようになったという。

 当の悦子さんは当時、週刊誌の取材に赤裸々に紀子さんとの関係を語っていた。花柄のエプロンのすそを丸めながら、ぽつりぽつりと答える。

「1月の中旬ごろ、団地内の子ども会の会合で話をするようになってからです。
 うちの主人も仕事の関係で月に何日も家をあけます。一度、家を出ていくと、1週間から10日も続けて帰ってこないこともあります……。私の子どもも大きくなって……私の手から離れたいまでは、私も家の中でひとりぼっちの生活なんです。
 そんな気持ちのときなんです。誘われたのは……」

 と話して悦子さんはうつむいた。彼女は紀子さんの誘いに応じ、ママ友を超えた関係になった。悦子さんは当時、やめようという気持ちもあったが、関係を続けたという。紀子さんは、かつて美里が言ったような文句で悦子さんを安心させていた。

「紀子さんは『女同士だと、体の線はくずれないから』って口癖のように言ってましたし……いろいろ、私の心配を取り除くのに気を使ってくれたんです。
 私自身もそういうことが、とても“素晴らしい”と感じるわけではありませんけど……紀子さんが2、3日訪ねてこないと、妙に……ソワソワした気持ちになるんです」

 弱々しい語りだった悦子さんが、低くしっかりした声で続けた。

「それは事実です……。私の方から自然に、紀子さんの家に足が向いてしまうんです」

 そして涙をこぼした。

 夫が留守の間に関係を持っていたふたりのことを、近所の主婦たちは知っていた。もちろん、それは美里にも知られるところとなる。事件の起こった2月、美里が突然、悦子さんの家を訪ねてきて「紀子さんとの交際をやめなければ主人に知らせる」と告げたのだという。悦子さんはもちろん、夫に紀子さんとの関係を明かしてはいなかった。

「突然、家に来て『別れるように』って……ヒステリックに叫ぶんです。
 私、びっくりして……紀子さんにそのことを話したんです。そしたら『心配しなくてもいい。私がキチンとするから』っていうんで、安心してたんです……それが……こんなことになってしまって……」

 こう話しながら悦子さんは泣く。

 恋人だと思っていた紀子さんに別の恋人ができた。「とうちゃんをよその女に取られたよりもくやしい」と事件前、美里は泣いていた。事件の朝、6畳間の布団で美里がキスを求めたとき、紀子さんは別れを告げた。嫉妬と悔しさが爆発した末の犯行だったが、これもまた、団地の主婦たちのうわさとして語られ、いつしか忘れられる。

※レズビアン殺人との名称は、今日では差別意識を助長する表現ですが、1973年の時代背景と社会状況を伝えるため、当時の報道の文言を引用することとしました。

【参考資料】
「週刊大衆」1973.3.22号 (双葉社)
「女性セブン」1973.3.21号 (小学館)
「微笑」1973.3.31号 (祥伝社)
「女性自身」1973.3.31号(光文社)

ご近所の団地ママ友を惨殺……子ども会役員で知り合い「仲が良すぎて」恨みに変わった【福岡 レズビアン殺人事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

【福岡レズビアン殺人事件】

「うちの女房が、人殺しをしたと、さわいどります……」

 1973(昭和48)年2月28日の朝10時すぎ、東福岡署(現・東警察署)。上ずった声で電話をかけてきたのは、池田さん。福岡市の市営住宅に住む鮮魚商の男だった。

 さっそく署員が池田家に駆けつけてみると、妻の美里(仮名・33=当時)が、放心したような顔でフラフラと歩き回り、「奥さんを、殺してしもた」とつぶやいていた。署員がすぐに相手の名を確かめ、池田家から30メートルほど離れた同団地の別の家に向かうと、6畳間に敷かれた布団のなかで、黒木紀子さん(仮名・39=当時)が血まみれになって死んでいた。

 紀子さんはスカートにエプロンをかけた普段着の姿でうつぶせになり、布団から身を乗り出すようにして血まみれで倒れ、周辺にも血が飛び散っていた。

 凶器は池田家の炊事場にあった刃渡り約25センチの刺身包丁。遺体の喉にはこれを用いたと思しき3カ所の刺し傷が認められた。頸動脈の切断が直接の死因だったが、さらに、その下腹部は刺身包丁で刺しえぐられていた。同署員は、紀子さんの遺体を確認後、自宅にいた美里を殺人容疑で緊急逮捕。東福岡署に連行した。

 団地での凶行直後である、その日の朝8時すぎ。美里は夫の営む鮮魚店にふらりと現れ、妙なことを口走った。

「人を殺したら、どうなるんじゃろか……」

 これを聞いた夫ははじめは軽く聞き流していたが、どうも美里の様子がおかしい。問いただしても、はっきりとしたことは言わなかったが、夫は美里が紀子さんに大金を貸していることを知っていた。

「そのもつれから、紀子さんを殺したんじゃないかと思って、110番したんです」

 と夫は当初語っていたが、捜査の結果、判明した実像の構図は全く違っていた。

「私に冷たくするようになった」恨み節を口に

 東福岡署に連行された美里だったが、実はその直前、自宅でウイスキーを飲んだうえに睡眠薬を20錠ばかり飲んでいた。

「逮捕して署に身柄を引き取ってきたときにはメロメロでね。調室の中でアクビをしたり居眠りをはじめたんで『こりゃおかしい!』と思ってすぐ下剤をかけて、そのまま近くの病院に収容しちまったんだよ……」(東福岡署の話)

 それでも、病院に入る前に、美里がうわごとのように言っていたのが「私に冷たくするようになった……私を捨てる気だ」といった恨み節。背景は、捜査が進められると徐々に明らかになってきた。

 現場となったのは、福岡市の東の外れにあった1957年建設の古い市営住宅。102棟で、1棟が2戸の2棟長屋式だった。隣近所の暮らしぶりがすぐ覗けるような団地だ。その主婦同士が加害者、被害者となった凄惨な殺人事件は、近所のものたちの格好のうわさのタネとなった。というより、美里と紀子さんは、事件の前から、うわさの的のふたりだった。

 この古い団地に一足先に住み始めたのは池田家で、事件の6年前のこと。夫婦とその間に生まれた長女(事件当時9歳)と長男(同6歳)の4人で暮らしていた。紀子さん一家の入居はその翌年の2月。夫婦と長女(同9歳)の3人家族だった。長女が同級生同士の美里と紀子さんは、ママ友としての付き合いが、仲を深めるきっかけになる。

「ここじゃ、子ども会の役員を持ち回りでやっとりますけど、去年(事件前年)の春、ふたりとも役員になってから、特に親しくなったようですね」(近所の主婦)

 ふたりは妙に気が合い、美里が紀子さんの家に入り浸るようになった。それには、紀子さんの家庭の事情もあった。彼女の夫は冷暖房機器の会社に勤めていたが、敷設工事のための出張が多く、ほとんど家にいなかったという。

 紀子さんも、近くのパン工場にパート勤めをしていたが「心臓が悪いとかで、勤務ぶりはほめられたものじゃなかったですね」(パン工場スタッフ)ともいわれ、そんな家庭に美里はすっかり入り込んでしまい、やがて近所の主婦たちがささやき始めたのは、ふたりが単なるママ友ではなく恋愛関係にあるといううわさ話だった。

 美里の供述によれば、たしかにふたりは友情を超えた関係にあったのだが、当時取材した週刊誌に対して、近所の主婦たちは口々に、ふたりの関係を語り出す。

「もうしょっちゅう、池田さんは紀子さんの家に上がり込んどったですね。我が家とおんなじだったですよ」
「ほんとにもうべったりだったですね。あの人たち、同性愛じゃなかね、とうわさが立つくらい」
「仲がよすぎて、憎さ百倍になったとじゃなかですか。ふつうの付き合いじゃなかったですもんねえ」

 ふたりがどちらかの家を訪ねると、すぐにバタバタと雨戸を閉めるといったことからも、うわさは信憑性を増して広まっていった。

 我々が生きる現代でこそLGBTQなど多様なセクシュアリティについて知られるようにはなったが、それに対する差別や好奇の目がゼロかといえば、いまだそうではない。であれば当時、ふたりを見る主婦たちのまなざしはどのようなものであっただろう。

 ふたりは団地に住む主婦たちにとって、うわさ話の格好の対象だった。また美里自身も、ママ友にふたりの関係を尋ねられ「女同士のほうが体の線がくずれなくていい」などと、肉体関係をほのめかすような発言をしていたといわれる。

――続きは8月28日公開

※レズビアン殺人との名称は、今日では差別意識を助長する表現ですが、1973年の時代背景と社会状況を伝えるため、当時の報道の文言を引用することとしました。

夫殺し未遂の女医が語った「男の宿命的な性」への憎しみ――女たちの同情を集めた公判【神戸毒まんじゅう殺人事件:後編】

 1939年(昭和14)4月26日、兵庫県の西側にあるM病院で副院長を務める橋本義男(仮名・当時28)のもとに神戸大丸からカルカン饅頭が届いた。義男と実弟と、実妹の職場の人間がそれを食したところ、全員がチフスに罹患。義男は一時期重体となるも回復したが、実弟はのちに死亡した。饅頭の表面にはチフス菌が塗られていたのである。カルカン饅頭を送りつけたのは、義男の内縁の妻である女医の永尾花子(同・当時29)だった。

 花子は、細菌研究所からチフス菌の培養器3基を持ち出し、饅頭に全て塗りつけてから発送していた。饅頭を使い毒殺しようとした相手は、義男だった。第二次世界大戦勃発の年にありながら、世間の耳目を大いに集めたこの事件は、一般傍聴席の8割が女性で占められていたという。女性の関心を集めたのは、この事件が義男の裏切りをきっかけとしていたものだったからだろう。

 3日続いた公判の終盤、検察官は殺人ならびに同未遂罪として花子に無期懲役を求刑したのに対し、裁判所はのちに、傷害ならびに同未遂罪とし、懲役3年の判決を言い渡した。当然ながら検事はこれを不服として控訴。舞台は大阪控訴院に移った。

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憎しみを抱いた決定的な言葉

 そんな大注目の控訴公判で花子は、チフス饅頭を送りつけるまでの気持ちの揺れを、さらに詳しく証言した。学位取得後の義男に抱いた“ほかの女と結婚しようとしているのでは”という疑念の根拠をこう明かす。

「私が下宿を訪れると、私の下駄を隠したり、知らない女と一緒に写した写真があったり、使途が怪しい貯金通帳が出たり、いまから考えるとどうしてもっと疑わなかったのかと思います」

 そうしてついに義男から告げられたのだという。

「自分は近く見合い結婚をしようと思うからお前とは別れる。自分は学位など欲しくなかった。学資などはいらぬお節介だった」

 花子の方もこう言われたときすでに、義男への愛は憎しみに変わっていた。訴訟を起こし社会的制裁を加えようと画策し、最終的に7,000円で解決したが「その結果はあまり橋本が苦しんだようにみえなかったので私の心は決して晴れませんでした」(控訴院での証言)という。

 そんな中、ふと花子の心は動いた。

「なんとなしにチフス菌に心が惹かれて。これを前にして念じていると、橋本にそれが通じてチフスにかかるような気持ちがしました」
「4月ごろ、弁護士先生のお宅でお菓子をいただいているとき、ふとこんなお菓子にチフス菌を塗ったら、憎い橋本に復讐ができると思いました」

 二つの思いつきにより実行したチフス饅頭による毒殺事件だったというが、しかし花子は義男を苦しめようという気持ちはあっても殺すつもりはなかったとも述べた。

「私はチフス患者を診察した経験から、チフスだけで死ぬとは考えられません。あのときはそんな日頃の知識など全く忘れてただ一途に義男をチフスにかからせて苦しめようと思っただけです」

 一方で義男は、「彼女の態度は夫婦の愛情が疑われるような点が多く、女としてのたしなみがなく、また橋本の両親の悪口を言った」「神戸の旅館で会った時、いきなり『離婚させていただきます。お金は全部返してください』と恐ろしい剣幕で切り出した」など、心変わりは花子の言動が原因だったかのように語る。「断じてありません」、花子はこれを強く否定した。

 最終的に控訴院で検事は花子に対しふたたび無期懲役を求刑したが、こんどは同情論を排し、殺人ならびに同未遂罪として、第一審より5年多い懲役8年の判決となった。被告側は第三審を要求し上告に及んだが、大審院は1940(昭和15)年6月、傷害および同未遂罪を一蹴。控訴院の二審判決を支持し、懲役8年の刑が確定したのだった。

 花子は入獄し、誤って殺害した義男の実弟の冥福を祈り、中国語の勉強に専念する。模範囚として刑期3分の1の懲役2年8ヶ月で仮釈放され、出所するとすぐに更生の地をオーストラリアに求め、工場や病院にて医師として診療を行っていたが、大戦の終わりを迎えたことから郷里である高知に引き上げた。

 ふるさとで静かに余生を送ると思いきや、花子は1948(昭和23)年に地元の市会議員選挙に出馬するという行動に出る。最高点で当選し、35議席の中の紅一点として活躍した。

 朔風冷たい大陸にすっかり痛む心を癒やした花子は、高知で人事相談所を設けて華やかな人生の陰に泣く人々のために親身になって世話し、講演活動も積極的にこなした。そのうち郷里出身の厚生大臣の尽力もあり、11年ぶりに晴れて医師として蘇ったのだ。

 事件から数十年が経ち、56歳となった花子は、毎日新聞高知版での、当時の日赤高知病院勤務の医師との新春女性対談にて、その昔を思い起こさせる発言をしている。毒まんじゅうにて無関係の人間を巻き添えにした罪を償い終えてもなお、その憎しみの源となった橋本への、また全ての男性への諦めにも似た気持ちを抱き続けていた。

「男が浮気するのは当たり前ですよ。男の本能は多角的放散的で、女を見ると『ちょっといけるな』あんな女と遊んで見たいという気を起こす。(中略)この正体を女が理解していないと大変な家庭騒動や悲劇が起こります。男は軽い、いたずらっ気で一晩遊んで来たのが、妻にとっては柔軟年心から信じていた夫に裏切られたと思い込んだり、自分は捨てられたんだと思ったりする。(中略)男の宿命的な性を、女は十分腹に入れてやたらに角を出さずに女の性を守って生きていくことです」

参考文献
「週刊朝日」(朝日新聞出版)1940.3.3
「サンデー毎日特別号」(毎日新聞出版) 1957.5.1