「元夫を騙して妊娠」「出会い系で男遊び」田舎町の工場で熟成される“女の秘密”のいやらしさ

 今回ご紹介する『わたつみ』(中央公論新社)は、日本海に面した京都の田舎町が舞台の物語である。ちくわなどの練り物製造工場である「わたつみ」には大勢の女性が働いており、主人公の京子も、30歳をすぎて東京からこの故郷に戻り、ここに勤めるようになった。

 狭い田舎町ではウワサ話が一番の娯楽である。京子が「東京から出戻って来た」という話はすぐに広まった。彼女は、東京で映画製作をしていたが、とある男に騙されて多額の借金を背負い、故郷に逃げてきたのだ。

 この工場で働く女たちの多くは、仕事と自宅を往復するだけの日々を送っている。人のウワサだけを唯一の楽しみとしている住人たちの目を気にして、窒息しそうになりながらも、それぞれが“生きるため”の快楽を手に入れようと必死でもがいているのだ。

 一見、平凡で無個性な彼女たちだが、その多くは「わけあり」で、一皮剥けばグロテスクなほどの生々しさを露呈する。シングルマザーである元ヤンキーの美津香は、人目を偲んで元夫との逢瀬を繰り返している。元夫が、この街の住人ではない、若く愛らしい女性を後妻に迎えたことに嫉妬し、安全日だと嘘をついて元夫の子を妊娠した。

 東京で知り合った一回り年上の男性と結婚をしたくるみは、「星空フレンド」というオーガニックカフェを夫婦で営んでいるが、自然素材にこだわりながらも、店は閑古鳥が鳴いており、くるみが工場で働かなければ生計が立たない。そんな夫との暮らしに辟易し、こっそりジャンクフードを食べている。ほかにも「わたつみ」には、処女だが密かにローターで遊ぶ女、不倫をしている女、夫とのセックスがない寂しさを紛らわせるために出会い系を使って知らない男と寝る女もいる。

 彼女たちはそれぞれに秘密を抱えながらも決して口には出さず、また、自分と同じように秘密を持つ女を嗅ぎ分ける才能に長けている。本作は京子の話を主軸として、複数の女たちの生臭い物語を淡々と綴っているのだ。

 終始、女たちの好奇の視線が交錯する本作は、ページを進めるごとに息苦しさを覚えるが、同時に女の妖しい艶かしさや官能を感じる。その際たる理由は、彼女たちが自らの“性”を秘密にしている点だと筆者は考える。“子を産むためではないセックスを欲しがる”という、ある意味動物としては無意味な性欲を持て余し、密かに翻弄される様子は、同性の視点からでも、とてもいやらしく感じるのだ。

 ストレートなセックス描写こそ少ないが、この1冊に染み渡る女たちの“欲”は、「わたつみ」という閉鎖的な空間で熟成され、何にも変えがたいほどにいやらしく匂い立つ。子宮の奥がくすぶるような、むず痒い女の性を感じさせる1冊である。
(いしいのりえ)

妻、愛人、部下とのセックスを謳歌する経営者――自称「満ち足りた男」を暴く爽快感

 女性である筆者は、男性が書く官能小説よりも女性が書いたものの方に共感を抱くことが多い。やはり同性であるからこそ同調できる部分があるのだろうが、もっと言うと、著者が男性である場合、登場人物の女性が男性にとって好都合な存在に映ることが多いのだ。

 そんな中、久しぶりに女性登場人物の全員に共感を持てる、男性作家の官能小説と出会えた。石田衣良の『夜の桃』(新潮社)である。

 主人公の雅人は、“全てを手に入れた男”だ。事業で成功をして会社は順風満帆、神宮前の自宅でフラワーアレンジメントの教室を営む妻・比沙子との間に子どもはいないが、結婚して12年たった今でも恋人同士のようなメールのやりとりをし、激しいセックスをしている。

 一方、4年間交際している愛人・麻衣佳との仲も順調だ。彼女は美しく、また雅人が家庭を持っていることに対して文句ひとつ言わない女性である。むしろ、自分という存在がありながら、比佐子をも抱いている雅人に対して「夫婦仲が良くて嬉しい」とまで言う、最高のセックスパートナーだ。

 全てが満ち足りている雅人の前に、若い女が現れる。彼の会社にウェブデザイナーとして入社してきた千映だ。どことなくミステリアスな雰囲気が印象深く、雅人は彼女が気になるようになる。ひょんなことから千映の稀有な生い立ちを知り、さらに興味を持った雅人は、彼女と関係を持ってしまう。しかも、彼女は処女であった。

 妻の比佐子、愛人の麻衣佳、そして千映――3人の女と関係を持つようになる雅人だが、次第に体の相性の良さから、千映の魅力にはまっていく。そして千映もまた、雅人の手ほどきによって快楽を得て、セックスに溺れてゆくのだが――。

 地位も名声も女も手に入れた男の自慢話で終わるかと思いきや、そうはいかないところがこの作品の面白さである。オセロの面がパタパタと白から黒に変わるように、終盤に近づくにつれて、雅人の元にいた3人の女たちは、全員彼から離れていってしまうのだ。

 そして、女たち全員が、同性から見て実に清々しい去り方をするところが爽快である。雅人にとって自分は特別な存在ではないと感じた麻衣佳は別れる決意をし、貞淑な妻を演じていた比沙子は、ボーイフレンドの存在を告白して離婚を切り出す。そして千映は、最も男にとって苦痛を強いる別れ方を選んだ。この結末は、ぜひ女性たちに手にとって読んでいただきたいほどアッパレなものだった。

 雅人のように、男が“満ち足りている”と感じている場合、大抵、女性に少なからず負担を強いているものなのかもしれない。にもかかわらず、呑気にそれを良しとしているだけの男性作家による官能小説は多く、筆者はイラ立ちを覚えていたのだ。そんな男の“満ち足りている”の裏側を暴いてくれたからこそ、この作品に強く共感するのだろう。
(いしいのりえ)

“挿入しなかった昔の女”に思いを募らせる――女流官能小説家が描く“身勝手な男”の深層

 男と女が、いざセックスのシチュエーションになってはみたものの、男性側の都合で最後まで至らなかった場合、女性はこれ以上ないほどのストレスを感じるのではないだろうか。

 男は肉体的に感じれば、どんなシチュエーションでもイケると誤解されがちだが、実はそうでもない。男も女と同じようにメンタルが性欲と直結している部分があるし、相手を大事に思えば思うほど、射精まで致らないとも聞く。

 今回ご紹介する藍川京氏の「花言葉』(『契り』収録、双葉社)は、津山という男性の視点で綴られている作品だ。

 津山が33歳のときに恋をしたのは、25歳の朝香。コンビニの入り口で津山が落とした小銭入れを朝香が拾ってくれた縁で、2人は知り合った。初対面でお茶をし、その後は週に1~2度、定期的に食事をしたり酒を飲むような仲になる。実は津山はすでに既婚者であったが、そのことは朝香に告げずに関係を続けていた。

 既婚者という自身の身分を考え、決して朝香をホテルには誘わずに自制していた津山だが、朝香に誘われて温泉宿へ宿泊することになり、いよいよ腹をくくった。温泉宿で朝香に既婚者であることを打ち明け、2人は肌を重ねる。しかし津山は決して挿入はせず、指だけで朝香を絶頂へと導いた。それは、津山にとっての最後の自制であった。

 それから津山は海外赴任となり、朝香に別れを告げるが、13年後、2人は再会する。朝香のことを忘れられなかった津山は、以前彼女が住んでいたマンションやかつて通っていたバーを訪ね、些細な足がかりを頼りに居所を探る。そして目の前に現れた朝香は、既婚者で、和服の似合う美しい女性へと変貌していた――。

 既婚者の津山が、13年前の女である朝香の身の上を心配し、着物を着慣れている姿を見て「恵まれた生活をしている」と安堵するところに、男の身勝手な視点が非常によく表れていると思ってしまう。

 このように、男が女に対して抱く感想というのは自分本位である場合は少なくない。その後津山は、朝香と最後まで至ることにしたのだが、それは、女として成熟して地に足が着き、生活にも恵まれている朝香だからこそ、手を出しても許される……という思い込みゆえなのではないだろうか。自分都合だけでタイミングを計っている男性に翻弄されては、女はたまったものではない。

 しかし朝香はそんな津山を受け入れる。男の身勝手さに、ついほだされてしまう、男は弱い生き物だということも受け入れるのが、女の本能……ということなのだろうか。

 本作は、女流官能小説家のトップに君臨する藍川氏の作品だが、男目線を理解し尽くしているように思う。同時に、藍川氏の懐の深さがうかがえる一作である。
(いしいのりえ)

“挿入しなかった昔の女”に思いを募らせる――女流官能小説家が描く“身勝手な男”の深層

 男と女が、いざセックスのシチュエーションになってはみたものの、男性側の都合で最後まで至らなかった場合、女性はこれ以上ないほどのストレスを感じるのではないだろうか。

 男は肉体的に感じれば、どんなシチュエーションでもイケると誤解されがちだが、実はそうでもない。男も女と同じようにメンタルが性欲と直結している部分があるし、相手を大事に思えば思うほど、射精まで致らないとも聞く。

 今回ご紹介する藍川京氏の「花言葉』(『契り』収録、双葉社)は、津山という男性の視点で綴られている作品だ。

 津山が33歳のときに恋をしたのは、25歳の朝香。コンビニの入り口で津山が落とした小銭入れを朝香が拾ってくれた縁で、2人は知り合った。初対面でお茶をし、その後は週に1~2度、定期的に食事をしたり酒を飲むような仲になる。実は津山はすでに既婚者であったが、そのことは朝香に告げずに関係を続けていた。

 既婚者という自身の身分を考え、決して朝香をホテルには誘わずに自制していた津山だが、朝香に誘われて温泉宿へ宿泊することになり、いよいよ腹をくくった。温泉宿で朝香に既婚者であることを打ち明け、2人は肌を重ねる。しかし津山は決して挿入はせず、指だけで朝香を絶頂へと導いた。それは、津山にとっての最後の自制であった。

 それから津山は海外赴任となり、朝香に別れを告げるが、13年後、2人は再会する。朝香のことを忘れられなかった津山は、以前彼女が住んでいたマンションやかつて通っていたバーを訪ね、些細な足がかりを頼りに居所を探る。そして目の前に現れた朝香は、既婚者で、和服の似合う美しい女性へと変貌していた――。

 既婚者の津山が、13年前の女である朝香の身の上を心配し、着物を着慣れている姿を見て「恵まれた生活をしている」と安堵するところに、男の身勝手な視点が非常によく表れていると思ってしまう。

 このように、男が女に対して抱く感想というのは自分本位である場合は少なくない。その後津山は、朝香と最後まで至ることにしたのだが、それは、女として成熟して地に足が着き、生活にも恵まれている朝香だからこそ、手を出しても許される……という思い込みゆえなのではないだろうか。自分都合だけでタイミングを計っている男性に翻弄されては、女はたまったものではない。

 しかし朝香はそんな津山を受け入れる。男の身勝手さに、ついほだされてしまう、男は弱い生き物だということも受け入れるのが、女の本能……ということなのだろうか。

 本作は、女流官能小説家のトップに君臨する藍川氏の作品だが、男目線を理解し尽くしているように思う。同時に、藍川氏の懐の深さがうかがえる一作である。
(いしいのりえ)

若い男に射精してもらえなくなるショック――“ババア”になる前に読んでおきたい『私という病』

 今回は趣向を変えて、小説ではなくエッセイをご紹介しようと思う。今から10数年前、作家の中村うさぎ氏がデリヘル嬢になったことを覚えている方はいるだろうか? 彼女のデリヘル嬢体験ルポは雑誌に掲載され、にわかに読者がざわついていたように記憶している。

 中村氏の『私という病』(新潮社)は、デリヘル嬢となったいきさつから、その体験ルポ、そしてその後の彼女の心境が生々しく綴られている。

 中村氏がデリヘル嬢になろうと思ったきっかけには、とあるホストの存在があった。一回り年下のホストのことを愛した彼女は、金を出させるためのテクニックだと知りつつも、彼の「好きになってしまった」という言葉を受け入れる。

 しかしそのホストは、決して積極的に彼女を抱こうとはしなかった。交際時にたった2回、真っ暗な部屋で、彼は中村氏から頑なに目を背けて行為に至ったが、一度目は射精すらしなかったという。後日、彼女は彼が自分に対して欲情していなかったことに気づき、ひどくショックを受けてしまう。

 誰でもいいから自分を女として見てほしい、そして欲情してほしい。そんな想いから、中村氏は歌舞伎町のデリヘルで働くことを決意する。彼女は3日間で十数人の客を取る。年齢も風貌もさまざまだが、どの男性も“普通”の男性たちだ。デリヘル嬢として初対面した彼女を見下すわけでもなく、対等に接し、欲情し、射精をする。

 容姿だけで十数人の男たちに性の対象として選ばれ、女として扱われた経験は、当時47歳だった彼女の欲求を満たしたのだろうか? 一回り年上の“ババア”である自分に対して、射精を果たすことができなかった男に、彼女は何を感じたのだろうか? デリヘル嬢になった後の、ホストに対する想いは書かれていなかったが、私はホストとの忌まわしい過去は、ある程度癒やされたのではないだろうかと思った。

 しかしその一方で、デリヘル嬢としての勤めを終えた中村氏は、 自分のことを“見下す”周囲の視線を感じるようになる。それは、客でも、同性である女でもない、男からの視線だった。彼らは彼女に、「体を売った女」というレッテルを貼り、誰とでも寝る女だと侮蔑するのであった。

 本書は、軽快な文章で書かれているため、さらりと読めてしまうが、同性である私たちにとって強烈な警笛を鳴らしていると感じてしまう。女は誰しもババアになる。女として見られなくなる。その時に、心の落としどころをどこへ持っていくのか、考えるべきだと言っているように思うのだ。

 もともとセックスが苦手であった女性は、さっさと「上がり」とするのもいい。男と“寝たい”と思う人は、そのために自分をとことん磨き上げるのもいいし、若い男に“笑われたくない”ならば、同世代の恋人を持つのもいい。女として扱われなくなることが、自分にとってどの程度の衝撃であるかを把握して、自分が何を望んでいるのか知っておくことが大切なのではないだろうか。

 繰り返すが、私たち女は、誰しもが必ずババアになる。だから、心の準備と覚悟をしておかなければならない。このエッセイは、中村氏がそのことを、身をもって私たちに提示してくれた指南書なのだ。
(いしいのりえ)

若い男に射精してもらえなくなるショック――“ババア”になる前に読んでおきたい『私という病』

 今回は趣向を変えて、小説ではなくエッセイをご紹介しようと思う。今から10数年前、作家の中村うさぎ氏がデリヘル嬢になったことを覚えている方はいるだろうか? 彼女のデリヘル嬢体験ルポは雑誌に掲載され、にわかに読者がざわついていたように記憶している。

 中村氏の『私という病』(新潮社)は、デリヘル嬢となったいきさつから、その体験ルポ、そしてその後の彼女の心境が生々しく綴られている。

 中村氏がデリヘル嬢になろうと思ったきっかけには、とあるホストの存在があった。一回り年下のホストのことを愛した彼女は、金を出させるためのテクニックだと知りつつも、彼の「好きになってしまった」という言葉を受け入れる。

 しかしそのホストは、決して積極的に彼女を抱こうとはしなかった。交際時にたった2回、真っ暗な部屋で、彼は中村氏から頑なに目を背けて行為に至ったが、一度目は射精すらしなかったという。後日、彼女は彼が自分に対して欲情していなかったことに気づき、ひどくショックを受けてしまう。

 誰でもいいから自分を女として見てほしい、そして欲情してほしい。そんな想いから、中村氏は歌舞伎町のデリヘルで働くことを決意する。彼女は3日間で十数人の客を取る。年齢も風貌もさまざまだが、どの男性も“普通”の男性たちだ。デリヘル嬢として初対面した彼女を見下すわけでもなく、対等に接し、欲情し、射精をする。

 容姿だけで十数人の男たちに性の対象として選ばれ、女として扱われた経験は、当時47歳だった彼女の欲求を満たしたのだろうか? 一回り年上の“ババア”である自分に対して、射精を果たすことができなかった男に、彼女は何を感じたのだろうか? デリヘル嬢になった後の、ホストに対する想いは書かれていなかったが、私はホストとの忌まわしい過去は、ある程度癒やされたのではないだろうかと思った。

 しかしその一方で、デリヘル嬢としての勤めを終えた中村氏は、 自分のことを“見下す”周囲の視線を感じるようになる。それは、客でも、同性である女でもない、男からの視線だった。彼らは彼女に、「体を売った女」というレッテルを貼り、誰とでも寝る女だと侮蔑するのであった。

 本書は、軽快な文章で書かれているため、さらりと読めてしまうが、同性である私たちにとって強烈な警笛を鳴らしていると感じてしまう。女は誰しもババアになる。女として見られなくなる。その時に、心の落としどころをどこへ持っていくのか、考えるべきだと言っているように思うのだ。

 もともとセックスが苦手であった女性は、さっさと「上がり」とするのもいい。男と“寝たい”と思う人は、そのために自分をとことん磨き上げるのもいいし、若い男に“笑われたくない”ならば、同世代の恋人を持つのもいい。女として扱われなくなることが、自分にとってどの程度の衝撃であるかを把握して、自分が何を望んでいるのか知っておくことが大切なのではないだろうか。

 繰り返すが、私たち女は、誰しもが必ずババアになる。だから、心の準備と覚悟をしておかなければならない。このエッセイは、中村氏がそのことを、身をもって私たちに提示してくれた指南書なのだ。
(いしいのりえ)

男女の秘密は「言えなければ言えない」ほど燃える――三浦しをんの官能表現が“そそる”ワケ

 恋愛の定義というものは人それぞれである。一般的に、1人の人を愛することをそういうのだろうが、不倫や略奪などの禁断の愛など、たとえ正当法とはいえなくとも、当人同士の間には恋愛感情が存在していれば、それは恋愛なのだ。

 『きみはポラリス』(新潮社)は、そんな「普通ではない恋」を綴った11作の短編集である。同性に恋心を寄せる男性が主人公の話や、自分の息子である赤ん坊と妻の行動を不可解に感じ、妻に対して悶々とする夫の話など、まるで今どこかで繰り広げられているような、身近で少し風変わりな恋愛が綴られている。

 中でも注目したいのが『私たちがしたこと』だ。飲食店で働く主人公の朋代は、現在恋人はいないが、店にランチを食べに来る男性が気になっており、高校時代からの友人である美紀子とともに、深夜その男性の話をして盛り上がるような毎日を送っている。

 約1カ月後、美紀子の結婚式のために、2人はウエディングドレスを制作していた。手を動かしながら、片思いする男性の話をしていると、話題はいつしか地元の話へと移る。

 高校を卒業してから6年もたつというのに、美紀子は、高校時代のある日の朋代をずっと気にしていた。その日を境に、朋代は地元に寄り付かなくなり、恋人を作ることを一切しなくなったのである。

 朋代には、秘密があった。

 高校時代、俊介という恋人がいて、ほとんどの時間を彼と共に過ごしていた。お互いに母子家庭、父子家庭で育った2人は、互いの家へ行って共に夕食をとったり、セックスをしたりしていたのだ。

 ある夜、体調を崩した俊介を看病し、彼の自宅を後にした朋代は、見知らぬ何者かに襲われてしまう。茂みの中に押し倒され、男のペニスが朋代にあてがわれた時、男は突然河原に倒れこんだ。そこには、棒を持った俊介が立っていた。俊介は何度も男を棒で殴り、気づくと男は動かなくなってしまう。そして2人は、男を河原に埋め、“共犯者”となったのである。

 秘密を朋代から打ち明けられた美紀子は、俊介を自分の結婚式に来るように誘った。6年ぶりに再会した2人が出した、6年前の恋愛の結論とは――。

 もちろんこの物語のような重大な秘密を持つ関係は、現実にはあり得ないとは思うが、昔の恋愛を振り返ると、2人だけにしか理解し合えない秘密を持っていたという人は少なくないだろう。些細なことだと、2人だけの呼び名で呼び合ってみたり、セックスの時に特定の相手とだけ楽しむプレイがあったりしないだろうか。

 2人だけの秘密は、より強い絆を与え、情熱的に恋を盛り上げるためのスパイスとなる。それは、“決して誰にも話してはいけない”ことほど、より効果的なのだ。そんな“秘密”の数々が散りばめられたこの短編集は、他人の秘密を覗き見しているようで“そそる”1冊となっている。
(いしいのりえ)

自意識過剰な男とのセックス後に読みたくなる、川端康成『眠れる美女』が描く老いらくの性

 これまで出会った男性の中で、自分を“大きな男”に見せようと、嘘の自分を装う人はいなかっただろうか。それは、セックスの場面で、非常に顕著に現れる。

 男性にとってセックスは、いかに自分が優れた男であるかを示す行為でもあるがゆえに、女性が求めるものと相違が生じてしまう。例えば、今まで何人もの女性と体を重ね、ある程度自分のセックスに対して自信を持つ男性は、女性に対してマウントポジションを取ろうとする。その愛撫や体位が、女性にとって実はがっかりするものである場合は、少なくないはずだ。一方で、経験の浅い男性には、その逆も言えるだろう。セックスの場で、過剰なほど卑下して、女性を戸惑わせることもよくある。

 そんな男性と出会って辟易としてしまったとき、小説の中の素直で可愛らしい男性に救いを求めたくなる。長く受け継がれている川端康成の名作『眠れる美女』(新潮社)も、その1作品だと私は考えている。

 初老の主人公・江口は、とある知人の紹介で“眠れる美女”の館を訪れる。館には、その名のごとく美女が眠りについており、そこを訪れた人々は、美女の体を鑑賞したり、肌に触ることが許されている。しかし本番行為は決して行ってはいけない。

 この館に入れる男性は、男性機能が衰えた老人であること、そしてこの館の存在を口外しないことを厳守できる者だけ。現在は孫を持ち、つい最近まで浮気をしていた江口は、最初はこの館のことを斜めに見ていたが、ひとたびカーテンの向こうの美女を目の当たりにした途端、強く心が躍った。

 美女の乳房にそっと手を乗せてみると、それまで半ば人生を諦めていた江口の胸は、少年時代のように高鳴り、体の中にもう1人の自分がいるのかと錯覚するほど、純粋に興奮してしまう。

 半月後にこの館を訪れた江口は、目の前で眠っている美女を「若い妖婦」と比喩するが、彼女は、自分から何をすることもなく、ただ目の前で眠りについているだけ。彼女に触れると、江口はこれまでの女たちを振り返り、さらには母の腕の中までをも回想してしまうのだ。

 ただただ受動的な美女を目の前にした江口からあふれ出る“性”。そこにあるのは決して、私たち女が実体験で知ることのできない本来の男たちの姿。老いらくを感じた川端康成だからこそ表現できた、自意識の取り払われたリアルな男の本能ではないだろうか。

 本作のような男のストレートな性が描かれた話を読むと、オブラートに包んだやりとりが繰り広げられる実体験の恋愛など、なんとちっぽけなものだろうかと感じてしまう。男も女も、むき出しの自分の性は墓場まで持っていくもの。だからこそ、この作品は名作といわれているのではないだろうか。
(いしいのりえ)

自意識過剰な男とのセックス後に読みたくなる、川端康成『眠れる美女』が描く老いらくの性

 これまで出会った男性の中で、自分を“大きな男”に見せようと、嘘の自分を装う人はいなかっただろうか。それは、セックスの場面で、非常に顕著に現れる。

 男性にとってセックスは、いかに自分が優れた男であるかを示す行為でもあるがゆえに、女性が求めるものと相違が生じてしまう。例えば、今まで何人もの女性と体を重ね、ある程度自分のセックスに対して自信を持つ男性は、女性に対してマウントポジションを取ろうとする。その愛撫や体位が、女性にとって実はがっかりするものである場合は、少なくないはずだ。一方で、経験の浅い男性には、その逆も言えるだろう。セックスの場で、過剰なほど卑下して、女性を戸惑わせることもよくある。

 そんな男性と出会って辟易としてしまったとき、小説の中の素直で可愛らしい男性に救いを求めたくなる。長く受け継がれている川端康成の名作『眠れる美女』(新潮社)も、その1作品だと私は考えている。

 初老の主人公・江口は、とある知人の紹介で“眠れる美女”の館を訪れる。館には、その名のごとく美女が眠りについており、そこを訪れた人々は、美女の体を鑑賞したり、肌に触ることが許されている。しかし本番行為は決して行ってはいけない。

 この館に入れる男性は、男性機能が衰えた老人であること、そしてこの館の存在を口外しないことを厳守できる者だけ。現在は孫を持ち、つい最近まで浮気をしていた江口は、最初はこの館のことを斜めに見ていたが、ひとたびカーテンの向こうの美女を目の当たりにした途端、強く心が躍った。

 美女の乳房にそっと手を乗せてみると、それまで半ば人生を諦めていた江口の胸は、少年時代のように高鳴り、体の中にもう1人の自分がいるのかと錯覚するほど、純粋に興奮してしまう。

 半月後にこの館を訪れた江口は、目の前で眠っている美女を「若い妖婦」と比喩するが、彼女は、自分から何をすることもなく、ただ目の前で眠りについているだけ。彼女に触れると、江口はこれまでの女たちを振り返り、さらには母の腕の中までをも回想してしまうのだ。

 ただただ受動的な美女を目の前にした江口からあふれ出る“性”。そこにあるのは決して、私たち女が実体験で知ることのできない本来の男たちの姿。老いらくを感じた川端康成だからこそ表現できた、自意識の取り払われたリアルな男の本能ではないだろうか。

 本作のような男のストレートな性が描かれた話を読むと、オブラートに包んだやりとりが繰り広げられる実体験の恋愛など、なんとちっぽけなものだろうかと感じてしまう。男も女も、むき出しの自分の性は墓場まで持っていくもの。だからこそ、この作品は名作といわれているのではないだろうか。
(いしいのりえ)

「姉弟間のセックス」「放尿シーン」も……団鬼六、容赦ないSM描写で女性を輝かせる手法

 “いやらしい女”は、時として聖女のように神々しく感じられる。快楽に順応し、恥を捨てて「気持ち良い」と叫ぶ姿は、どんな何物にも代えられないほど圧倒的に美しいと思う。

 そんな女性の震えるような美しさを教えてくれたのが、官能小説家の大御所・団鬼六氏である。それを引き出すために、鬼六氏は2011年に死去するまで、あらゆる手法で、ねちっこい陵辱描写を書き続けてきた。今回ご紹介する『鬼ゆり峠』(幻冬舎)も、上下巻にわたり鬼六節が炸裂し、耽美なSM世界を繰り広げている。

 江戸時代、浪路とその弟の菊之助は、父親の仇を討つために“鬼ゆり峠”を訪れていた。浪路は美しい容姿を持つ武士の妻であり、また剣の名士でもあった。2人は、ヤクザたちの手にかかり、陵辱されたのち、浪路の陰核と菊之助の陰茎を切り取るという残虐な処刑にかけられそうになる。

 2人は、あらゆる手法で弄ばれる。縛られ、言葉で罵られるだけではない。尿意を極限まで我慢させられ、足を全開にして放尿を強いられる。浪路は、その様子をヤクザたちに嘲笑され、号泣する。

 姉と弟同士での愛撫、また肉体関係を強要され、弟が姉の尻に挿入するという衝撃的なシーンもある。浪路は、ついに女中・千津と女同士の関係も強いられるようになる。それぞれの性器を愛撫しあううちに、千津は浪路を愛していることに気づく。千津は醜い男たちの目の前で裸を晒しながら、浪路に愛撫をされ、快楽と喜びを感じてしまうのだ。

 このように、鬼六氏のSM描写は容赦がない。浪路は徹底的に男たちに辱めを受けるのだが、一方で、そんな薄汚い男たちに晒しものにされればされるほど、輝くのである。

 浪路は、肉体的ではなく、精神的に追い込まれていたと思う。SMというと、肉体的な痛みを伴うイメージが強いが、この作品では、どちらかというと、延々と弄ばれ、蔑まれる浪路の精神面にこそ目がいき、そんな中でも家名を守るために凛と耐え忍び、さらには快楽を得ていく姿は、逆に男たちを弄んでいるように見える。だから、彼女を美しいと感じてしまうのではないだろうか。鬼六氏が書く女の逞しさは、SMという物語を通して、さらに神々しさを増すのかもしれない。
(いしいのりえ)