今号の「婦人公論」(中央公論新社)は、「老後の安心を手に入れる」です。リードには「『人生100年』などと言われるようになり、不安がふくらんでしまう現代。年金や介護など本当に必要なものを知れば、心細さは薄れていくはずです。女性たちの体験談や新情報にふれて、未来の自分をイメージしはじめてみませんか」とあります。読者の声として紹介されていた「私の将来、ココが不安です」には「生活費」「認知症」「定年夫」「親の介護」など「婦人公論」定番ネタがズラリ。でもちょっと待って……。これらのトピックスに関して「婦人公論」が読者の不安解消に作用したことあったかな……どちらかといえば不安倍増の方向に盛り上がる気がするんですが。
<トピックス>
◎特集 老後の安心を手に入れる
◎人生に必要な性と愛
◎「被害者らしく」していては何も変わらないと思ったから
■知性もカネも図々しさもある女たち
とはいえ、「老後不安」は、「婦人公論」では何度もこすられてきた特集です。「あなたの年金生活をシミュレーション」「認知症やがんを予防して『健康で長生き』を目指すには」のような実生活向け企画もあれば、北斗晶×佐々木健介の“夫婦仲良ければだいたい大丈夫”的対談があったり、「最期まで自分の意志で。『尊厳死』という選択」のような真面目なルポも。その中で今回拝見しますのは「親ですもの、子どもに迷惑かけたっていいじゃない?」。こちら、エッセイストの桐島洋子と社会学者・上野千鶴子の対談ですが、名前だけで圧がすごい。
以前から、ちょいちょい「婦人公論」で「私は子どもに面倒みてもらいます」宣言をしていた桐島。「なるべく子どもの世話にはなりたくない」という高齢者が増える中、この桐島の発言はショッキングに取り上げられていました。対談は、この桐島の老後論をフェミニズムの親玉である上野がアカデミズムに補完するというスタイルで進んでいきます。
桐島のこの持論を、上野は「私はとても腑に落ちて、納得したんです。子どもを産み育てるために、女性はものすごいエネルギーと時間を投資しているわけでしょう。老後にちょっとくらいお世話になってもいいじゃないか、と」と賛同。
桐島「他人様に迷惑をかけたり、お国の世話になったりするよりは、身内とりわけ子どもがまず責任を受容してほしいですね」
上野「ところが最近の高齢者は、『子どもの世話にはなりたくない』『迷惑をかけたくない』とおっしゃる」
桐島「どんな親であり子であったにしろ、親子の縁をいやおうなしに結んでしまったのだから。老後、子どもにほどほどの迷惑をかけてもいいと思います」
と、まぁおっしゃることはわかりますけど、そうやって女性が子育て・家事・介護の役割に追い詰められていくのに対するアンチテーゼが「フェミニズム」ではなかったのか……。しかしよくよく読むと上野先生、介護の核心部分では、自分の意見は述べずに華麗にインタビュアーに擬態するんですよね。その辺りの巧さはさすがといえます。
今の「婦人公論」読者層は、「子どもは年老いた親の面倒をみるのは当たり前」という前世代と「親の介護で人生狂わされるなんてまっぴら」という後世代のちょうど谷間にいて、多くの人が「自分は親の介護をするけど自分が子どもに要求できない」というジレンマの中で生きているのではないでしょうか。「子どもに迷惑かけたっていいじゃない」は、そんな悶々とした中高年たちの“開き直りの呪文”なのかもしれません。
さて、老後の安心に続きましては、これも高齢化社会の1つのテーマではないでしょうか。巻末特集「人生に必要な性と愛」。お久しぶりのセックスネタです。「誰かに寄せる想い、肌を交えることでしか得られぬ温もり、そして快感。そんなものとはしばらくご無沙汰……という女性も多いものですが、生きることと直結するあの感覚、思い出してみませんか」とはリードの弁。はて、生きることと直結するあの感覚とは……。
画家で女優の蜷川由紀が、恋人である作家の猪瀬直樹についてアツく語る「猪瀬直樹さんは、私を導いてくれるウェルギリウス」、みんな大好き読者体験手記「あの“快感”が私を変えた」、「アブノーマルな世界にはまる妻たち」ルポも読み応えあります。夫との性交は3回のみ、悩んだ末にネットの世界に性愛を求めた真面目な主婦、絶倫夫との義務としてのセックスに疲れ、指圧師のテクに溺れた女性、「ゼンタイ(全身タイツ)」で、セックスとはまったく違う快感をおぼえる妻、クンニのプロから開発されたり、禁断のNTR(寝取られ)プレイにハマったり……。
一通り読みますと、いかに「夫婦」という形式が、「人生に必要な性と愛」と相性が悪いのかを思い知らされます。だいたいが夫婦での淡泊なセックス、もしくはセックスレスから始まってるんですもん。「性愛」の対象を法的に1人と定めた結果のしわ寄せがこの特集には溢れているといいましょうか。こちら、読者体験手記から抜粋すると、
「そうだ、私の身体はおかしくなっていたのではない。倦怠期だからではない。何かを見失い、忘れていたのだ」
「彼の手が肌に触れると私の全身はシャンパンの泡のように弾けていく。感じるたびに、私は岩のような塊ではなく、花も実もつける豊饒な大地になれるのだと信じることができた」
など、夫以外とのセックスは「傍目には幸福な母親」を性の表現者に変えるよう……。泡になったり大地になったりの大騒ぎです。これがいいことなのか悪いことなのかはわからない、そもそも「婦人公論」はそういうジャッジはしない媒体ですからね。
そんなことを考えながら、特集最後のページ、高齢者の坂爪真吾による性についてのエッセー「『死ぬまでセックス』の呪縛にどう向き合うか」を読んでいたらこんな一文が。「認知症を発症する前は、敬虔なクリスチャンであり、夫は公的機関で重職を担っていました。長女も福祉施設の施設長であり、次女と孫は学校の教師をしている」という87歳の女性が、「認知症になってからは人前で『おっぱい!』『まんこ!』といった性的な言葉を連発するようになった」「笑いながら人前で『おっぱい!』と叫んで胸を露出する」とのこと……。抑圧されていた何かが、認知症をきっかけに、それこそシャンパンの泡のように弾けてしまったのか。性の帳尻合わせの恐ろしさにちょっぴりゾッとした次第です。
「老後の面倒をみてと子どもには言えない」も「女が性的な発言をすべきでない」も、根っこは同じなのかもしれません。本音よりも、社会における自分の見え方を優先した生き方。ジェンダーという檻の中である意味安全な生活を送るのか、本音というパンドラの箱を開けてしまうのか。中高年女性は選択を迫られているのではないでしょうか。
(西澤千央)
