『栗本薫と中島梓』レビュー:家庭環境と過剰な想像力による孤独感をBL作品として昇華した、稀代のストーリーテラー

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』(里中高志、早川書房) 

【概要】

 100巻を超えるファンタジー小説『グイン・サーガ』シリーズや、ミステリー小説『伊集院大介』シリーズなど、エンターテインメント作家としての功績が広く知られている「栗本薫」。彼女は評論家、音楽家、舞台演出家の「中島梓」という一面も持っていた。幅広い活動と超人的な創作スピード、1980~90年代のサブカルチャー黄金期を支えていた彼女。周囲の人々への綿密な取材と資料で、彼女の人生と内面に切り込んだ評伝。

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 昨年多くのドラマ賞を受賞した『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)に続き、19年4月期のドラマ『きのう何食べた?』(テレビ東京系)も視聴者からの大きな支持を集めた。10年ほど前には「隠れて楽しむもの」という人も多かった“ボーイズラブ(BL)”ものが、テレビというマスメディアを席巻したことに、時代の潮目を感じる人も少なくないだろう。矢野経済研究所によると、自身を「BLオタク」と考える人は推定50万人。もはやメジャージャンルとして定着感があり、今後ますます商業的な広がりが予見される。

 「ボーイズラブ」という言葉が生まれたのは約30年前、1990年代初頭。それまでは、男性同士の関係性を主題に書かれた女性向けコンテンツは「JUNE」「やおい」などと呼ばれることが多かった。「JUNE」の語源は、78年に創刊された日本初の「女性読者を対象にした、男性同士の恋愛を書いた創作」を専門とする商業誌「JUNE」(サン出版、創刊当時は「comic JUN」)からくる言葉だ。

 厳密に言えば「JUNE=BLの前身」ではない。しかし、“主に男性同士の濃い関係性を題材にしたコンテンツ”という大枠、書き手、読者層など重なり合うところも多く、JUNEは、現在大きく広がるBLの源流のひとつであり、80年代のJUNEの隆盛、書き手の輩出が、現在のBLに果たした役割は小さくはないだろう。

 そんな雑誌「JUNE」の創刊に深く関わり、読者の開拓、書き手の育成にも努めたのが、中島梓だ。今回は、「JUNE」やBLへの寄与という側面から、『栗本薫と中島梓』を読み解いてみたい。

 77年、24歳で評論家「中島梓」として群像新人賞を受賞し、その翌年には「栗本薫」名義で江戸川乱歩賞を当時の最年少で受賞。主に2つの名義で作品を世に出し続けた彼女は、評論、ファンタジー、ミステリー、SF、ホラー、そして男性同士の性愛を描いたJUNEなど多彩な分野で活躍し、56歳で亡くなるまでに424冊(文庫化、再販を除く)にも上る著作を出版した。さらに、舞台にのめり込み、何度も脚本・演出を手掛け、ミュージシャンとしてピアノ演奏やライブ活動も定期的に行い、長唄や清元の名取でもあった。加えて同人誌も販売し、パソコン通信でファンと日々やりとりし、mixi上でも日記を書き、その上で発表の当てのない小説を書きためていたという。

 「JUNE」初代編集長には「何かをしていないと正気を保てないというくらい、病的なほどエネルギッシュ」、ファンクラブ会長には「書いてないと死んじゃうような人」と評された。中島の夫や息子、母の回想からは、自身でも制御できない過剰な想像力に振り回され、孤独感や不安を手離せない生涯だったことがうかがえる。著者は、その一因を家庭環境にあると推察する。

 裕福な家庭に長女として生まれ、何不自由なく育ってきた中島だが、彼女の弟は生後間もなく重度の障害を抱えた。中島梓の名前で書かれた私小説『弥勒』によると、主人公(中島)の母は「お姉ちゃんがとこちゃん(弟)の分までおつむをもってっちゃったからね」「本当はともたん(弟)は大秀才だったのよね」と口癖のようにつぶやく。中島は、どうしても弟中心に回らざるを得ない家庭に複雑な思いを抱え、弟への嫉妬自体に罪悪感を覚える。著者や中島の夫は、彼女が両親から十分な愛情を注がれていたとみているものの、当時に、両親と弟の強固な絆からはじき出されたという孤独感が、異様とも呼べるほどの創作意欲に影響を与えたと考察している。

 彼女がデビュー前に書きためていたのが、初期の代表作ともなる『真夜中の天使』だった。19歳の美少年が芸能界の大物男性たちに抱かれながら歌手として成り上がり、マネジャーとの暴力的とも呼べる愛を紡ぐ。本作のあとがきの中で、中島(栗本)はこうつづったという。

「ただ私にとってそのとき切実に知りたかったこと――それは、一人の人間が、どうしたら、ほんとうに孤独ではなくなるか、ということでした。(略)かれらはみんな、何とかして他人に、ものすごく、全存在をかけるほど強烈に関心をもってほしかっただけなのです」

 『栗本薫と中島梓』の著者は、「中島梓の活動のなかで、<JUNE>という雑誌は非常に重要な位置を占めている」という。創刊初期、注目の新人作家として多忙だったにもかかわらず、中島・栗本名義のほかにも複数の筆名で小説を「JUNE」に寄稿し、新人育成も買って出るほど精力的に活動した。なぜ中島は「JUNE」というジャンルに強く固執したのか。彼女は、投稿小説を講評するコーナー「小説道場」内で、「JUNEにおける男どうしの必然性というのは『この個人でなくてはならない』ことの強調」であると説いている。さらに、JUNE小説は「誰からも理解されないのではないか」「他の人間とひとつになることができないのではないか」といった少女の孤独や不安に応えるものとして存在するジャンルだと解説(『小説道場』第1巻)する。

 そして「男性同士の性愛関係に熱狂する女性オタク層」――今では“腐女子”と呼ばれる層については、現代に通じるジェンダー的な感覚の鋭さをもって論じる。

 中島は、当時の腐女子層を「現代社会で弱者に立たされた者たちの過剰適応」だと捉えていた。91年当時の人気漫画やアニメにおいて、女性としての評価が「いっそう身も蓋もない美醜や老若、性としての優劣に集約」されるようになったと指摘。男性同士の関係性をメインにする作品は、そんな社会の選別のまなざしから逃れつつ、「人に人を欲させる愛という見知らぬ素材を存分に解剖したりいじりまわしたりすることができる」と分析している(『コミュニケーション不全症候群』ちくま文庫)。

 これらの考察は、80~90年代初めに書かれた論であり、社会環境や、ジャンルそのものの成熟段階が全く異なるため、現代では当てはまらない面が多々見られる。しかし、まだ一部にしか知られていなかった「男性同士の関係に熱狂する女性オタク層」を、彼女らの苦しみに寄り添う形で評論の俎上に載せ、外部との橋渡し役になった功績は大きい。

 中島は、デビュー前から晩年までJUNE小説を書き続けた。それはもちろん、あふれるように湧き出たアイデアの泉によるものであるだろう。しかし『栗本薫と中島梓』を読むと、創作衝動の代償のようにつきまとう孤独感から生涯目をそらせなかった彼女が、自分と同じような不安を抱える少女への助けになりたいという願いを込めて、JUNE小説を世に送り出し続けていたようにも思える。現代のBLの隆盛、華やかな広がりの底には、中島の、そして幾人もの書き手による救済の意思が、今もひそやかに流れているのかもしれない。そんな思いに至ってしまう一冊だ。

(保田夏子)

『彼女が大工になった理由』レビュー:“ニュースサイトの仕事”に疲れた彼女が、“手で作る仕事”から得た学び

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■『彼女が大工になった理由』(ニナ・マクローリン著、宮崎真紀訳/エクスナレッジ)

【概要】
 仕事を辞め、アパートを引き払い、恋人とも別れた30歳女性が、全くの未経験から大工の世界に飛び込んだ――。ボストンの新聞社で一日中パソコンに向かい続けることに疲弊した著者が、大工という職業に就き、戸惑い失敗を重ねながら新たな自分を発見した数年を振り返る、異色の大工エッセイ。

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「目覚めている間はたいていパソコンの画面の前でクリックしているようになって何年かすると、自分が椅子の上に乗ったただの肉のかたまりになってしまったことに気づいた。(略)脳みその皺がしだいに伸びて、ゆっくりと頭が鈍り、怠惰になっていく」

 パソコンの前で一日中デスクワークをする人、何時間もインターネットを見続けてしまうような人なら、誰もが自分のことを言われているようでヒヤリとしてしまうこのテキストは、ノンフィクションエッセイ『彼女が大工になった理由』(エクスナレッジ刊)の著者ニナ・マクローリンが、ニュースサイトの編集に倦み疲れていた時を振り返った言葉だ。

 ボストンの新聞社に勤め、ジャーナリストの仕事を天職だと思っていたニナ。就職した当初は楽しく、充実した日々を過ごしていたが、インターネットの台頭によって仕事の内容が徐々に変化し、「無数のクリック」が仕事の大半になったとき、生きる意味を見失ってしまう。「実体があるものを相手にしたい、手でさわれるものができあがる仕事がしたい」という思いで仕事を辞め、同時に恋人とも別れ、引っ越し、人生をリセットすることになる。

 そんな彼女が、偶然見つけた「大工見習い:とくに女性の方、応募をお待ちしています」という募集に飛びつき、募集主である女性大工・メアリーに情熱を認められ、採用される。プラスドライバーとマイナスドライバーの違いもわかっていない、本当に素人からの転身だった。30歳・未経験から大工見習いを始めることになったニナが、何もかもが初めての環境の中で、失敗を重ねながらもさまざまな技術をゆっくりと自らのものにしていく様子がつづられていく。

 本書の大半は、大工としての日常を活写するエッセイだ。タイルを貼り、階段を解体し、テラスを作り、壁を設置する。その日の気候や現場にいる同業者や雇い主との会話、工具の扱いや作業内容を細かに語り、さらに、その作業でどんなに肉体を消耗したかについて丁寧につづる。それは、大工という職業に興味がない人にとっては、退屈な描写になる――かと思いきや、その描写こそが、このエッセイにほかにはない魅力を与えている。

 自分の力で新たな壁ができあがったことに興奮し、戸棚の出来栄えに誇りを持つニナの様子は生き生きとしていて、体を動かして実体のあるものを生み出したり、触れ合ったりすることの楽しさを雄弁に語っている。「抽象などいっさいない、完全な現実」と彼女が感嘆するように、物理的に疑いようのない仕事の成果が彼女の自信につながり、肉体は疲労していても、帰路に就く彼女の世界は記者時代よりずっと明るく輝いている。

 そしてもうひとつ、本書の大きな魅力は、ニナのボスである女性大工・メアリーの存在だろう。白髪まじりのショートヘアで43歳、歯はガタガタで口数は少なく、車や家は乱雑に散らかっている。ニナよりさらに小柄で高い声で話し、「妖精さんのよう」と描写されたメアリーだが、彼女だけ想像上の存在なのでは、と疑ってしまうほど上司として理想的な存在だ。

 全くの未経験であるニナに対して根気強く接し、自分の持つ知識や経験値を惜しげもなく分け与える。メアリーのアドバイスを聞かなかったせいでニナが失敗しても、ニナのうっかりした行動で親指の爪をはがされても、「大工仕事の大部分は失敗をどう挽回するか考えることだよ」と諭し、冷静にフォローに回る。職人気質でぶっきらぼうではあるが、娘について話す時は柔らかい表情を見せ、パートナー(メアリーは同性愛者で、女性と結婚している)には甘い声で優しく接する。上司として、職人として、ほとんど完璧な振る舞いを見せるメアリーのファンになってしまう読者は多いだろう。

 どんなに失敗しても、知恵を絞ってフォローし、じっくり指導してくれるメアリーの仕事への態度から、次第にニナも忍耐強さを学びとっていく。仕事でも恋愛でも人間関係でも、ひとつのミスで投げ出さず、時間と労力を注ぐことが重要だと悟ったニナは、自身の変化を受け入れ、いままでになかったほど深くわかり合える恋人を得て、さらに感情的なしこりがあった父親との関係も、穏やかに再構築していくことになる。本書は30代女性の、静かでダイナミックな成長物語でもあるのだ。

 エッセイの中には、しばしばアントン・チェーホフ、サミュエル・ベケット、ガブリエル・ガルシア=マルケスといった作家たちの名作や古典からの引用がなされ、彼女の思索を華麗に彩っている。しかし、「世界じゅうの言葉を集めても本棚はできない。人がやるのを観察し、自分でやり、失敗し、何度も挑戦したすえに、やっと完成するのである」という彼女の実感に満ちた素朴な言葉は、本書の中ではそれら文豪の言葉に負けないほど美しく強い。

 抽象的な思索に耽り、バーチャル世界に身を置くことも大事だ。しかし、どちらか一方ではなく、抽象と具象を両輪としてバランスよく走らせた時の充実感は、より人生を豊かにするのかもしれない。ニナは、本書を出版した後、大工業と著述業を両立し、活躍を続けている。インターネットの発達で、人類史上、おそらく最も急激に抽象にまみれている私たちだからこそ、本書の言葉に耳を傾けることは、自身の人生を見直すヒントになるだろう。

(保田夏子)

『私がオバさんになったよ』レビュー:“排他的な日本”を生き抜く上で、最も必要なスキルは……

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■『私がオバさんになったよ』(ジェーン・スー、幻冬舎)

『私がオバさんになったよ』レビュー:排他的な日本を生き抜く上で、最も必要なスキルは……の画像1

■概要

 『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(同)で、アラサー女性が引っかかりがちな諸問題を軽妙に提示し、講談社エッセイ賞を受賞したコラムニスト、ジェーン・スー氏。『私がオバさんになったよ』は、彼女が「テーマを設けず自由に話したい」と思った8人の“中年”と、縦横無尽に語り合った最新対談集。

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 大型連休前の忙しさに流される中で、気がつけば「人生再設計第一世代」と定年したてのおじさんのような名札を貼られていた30代後半~40代の氷河期世代。個人的には「再設計もなにも、まだ一度もまともに人生設計したことない」という困惑はあるものの、働き方、家族の在り方、社会保険制度、何をとっても親世代のような人生を送るのは難しいだろう。『私がオバさんになったよ』は、その世代が、対話を通して自分たちの生き方やスタンスを改めて整理し、「人生後半」の先にある(はずの)明るさを信じようとする対談集だ。

 対談相手は、タレント・光浦靖子、作家・山内マリコ、脳科学者・中野信子、社会学者・田中俊之、漫画家・海野つなみ、ラッパー・宇多丸、エッセイスト・酒井順子、文筆業・能町みね子。さまざまなジャンルでオリジナルな活躍をする中年男女たちが、気の赴くままに自由に話しつつ、若さを失ったことでぶつかった壁、逆に得た視点などを気さくに語り合う。

 その中で、特に出色となっているのは、脳科学者・中野氏との対談だ。中野氏の科学的見地に、コラムニストといういわば文系の代表のようなジェーン氏の知見が加わり、今の日本を覆う「時代の空気」とその先を予見する、鋭敏な社会分析にもなっている。

 話題は多岐に広がっているが、重点的に語られたテーマのひとつは「多様性」だ。近年にその重要性が叫ばれつつ、「そのあとすごいスピードで『排他』が来たから混乱する」と漏らすジェーン氏に、仲間意識と他者への攻撃性に相関を見いだす医学研究の結果を例に挙げながら、「不寛容はいけない、仲良くしましょうって口では言うんだけど、(略)でも、この仲良くしましょうこそが不寛容の源になっている」と打ち返す中野氏。

 仲良くしようとすればするほど、他者への攻撃性が高まってしまうという前提から2人が提示する多様性への最適解は、「放置」「干渉しない」だ。「放置しつつ、社会で見守り、困っている時には助ける」というシステムを日本で成立させる困難さを踏まえた上で、それでも中野氏は「こんなに私たちが多様でなければならなかった事情がある」と、多様性が種の生存戦略として有効であることを科学的に解説する。

 多様性に乏しい種は、外的な環境変化で簡単に滅びやすい。加えて中野氏は、「集団に馴染めなかった奴ら」が人類の活動範囲を広げてきた人類史の一面も挙げる。もともと肥沃なアフリカの森の中で暮らしていた人類の祖先のうち、逸脱者=マイノリティーが森を下り、危険な狩りを始め、寒冷地や砂漠で暮らす術を編み出し、海を渡る――。「人類の歴史は逸脱者の歴史」でもあり、多様性を抱えていればいるほど、種としてタフになることが、さまざまな角度から指し示される。それは、集団の在り方としても同様だろう。

 2人は、「干渉できない者には愛着はわかない」という率直な感覚を認めつつ、他者の多様性を尊重するための第一歩として、「自分自身も多様性の一部を担っていると自覚する」ことを勧める。それは、それぞれ違う分野において働き盛りの最前線を走っていながら、若手でも大御所でもない“オバさん”同士だからこそたどり着く結論であり、対談全体に、今の日本において、社会性と多様性の両輪を走らせるための手がかりがちりばめられている。

 ほかにも、男性学を研究する田中俊之氏や『逃げるは恥だが役に立つ』(講談社)の作者・海野つなみ氏との対談から、男性にかかっているプレッシャーがコインの裏表のように女性の生きづらさにつながっているという考察や、地方でも東京でも社会階層の分断・固定化が強化されている現状を見据える作家・山内マリコ氏との対談など、本書には、そこかしこに今の社会が抱える歪みと、その歪みに向かい合ってみた人の“途中報告”が詰まっている。

 さまざまな対話に通底するメッセージは、「普通はこうだから」「これまではこうだったから」などという枠にとらわれず、自分でひたすら考え抜くことの重要性だ。オバさんになった私たちは、結婚、育児、介護、病気、それぞれバラバラの事情と責任を抱えていて、中年以降の人生をどう歩むにも自分なりの解答を見いだすしかない。あまりにも漠然とした問いの厳しさに途方に暮れたとき、この本に登場する、考えることを諦めない面々の「人生、折り返してからの方が楽しい」という確信は、迷いの先にある未来におぼろげな光を当ててくれるだろう。本当はオバさんだけでなく、男女や世代にかかわらず、幅広い大人に読まれてほしい一冊だ。

『南極ではたらく』レビュー:「中年女性」や「キャリアブランク」を生かした著者の強さ

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『南極ではたらく:かあちゃん、調理隊員になる』(渡貫淳子、平凡社)

■概要

 映画『南極料理人』(2009)で、南極で働く人々の姿に刺激を受け、「ここで働きたい! この人たちのごはんを作りたい!」と決意した調理師・渡貫淳子。3度目の応募で合格し、民間人女性初の女性調理隊員として、第57次南極地域観測隊に参加した2年弱を中心に、著者の半生をつづったエッセイ。バラエティー番組『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)で紹介され、大きな反響を呼んだ「悪魔のおにぎり」などの「家庭で作れる南極リメイクレシピ」も掲載。

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 『南極ではたらく』は、30代半ばで「南極で働きたい!」と大きな目標を見つけ、40代で実現した女性の明るいパワーに満ちた“お仕事エッセイ”だ。

 約1年間、南極圏内の昭和基地で、研究や観測・設備維持を行う南極地域観測隊(越冬隊)。著者が所属した「第57次南極地域観測隊」は30人、平均年齢40歳超。1年間、食糧や機材などの補給が入ることはなく、主にひとつの施設で30人が暮らすことになる。水や電気などライフラインの使用には制限があり、天候によっては外出もできない。厳しい自然環境下、わずかな判断ミスがチーム全体の生死を左右する、責任の重いプロジェクトだ。

 調理関係の職に就き、結婚・出産後は一度職を離れ、一児の母として暮らしていた渡貫氏は、なにげなく見た新聞記事や映画『南極料理人』をきっかけに、南極での「調理隊員」という仕事に強く惹きつけられる。「自分の心の中に一滴、しずくが落ちたような気がした」と、出会いはまるで少女マンガで描かれる恋のようだが、彼女の行動は現実的で迅速だった。

 SNSを通じて人脈を得て、調理隊員経験者に自身をしっかりプレゼンし、推薦状をもらう。体力勝負の職務であり、現実的に40代という年齢や性別は不利に働くというアドバイスを受けるも、3度目の応募で合格。民間人女性として、そして母親として初の調理隊員となり「第57次南極地域観測隊」に所属することになる。

 極地での勤務がどれだけ特殊かは想像することは難しいが、“調理師”という比較的身近な役割を通して描かれることで、わかりやすく伝わってくる。基地の厨房で毎日3食プラス間食・夜食の調理が仕事ではなく、出発前には2,000品目、30トンという約1年分の使用計画を立て、仕入れを行う能力が求められる。赴任後は、雪上車内や、直前まで凍っていた基地外の小屋で料理することもある。さらに夏期には、建物の本格的な修繕も担当し、1年を通して、雪かきや雪上車の運転など、調理以外の作業にも加わる。

 南極ならではの不便さや隊員とのけんか、失敗経験なども語られるが、調理隊員を務めている時の渡貫氏の筆致は、基本的にどの局面でも生き生きとして、ユーモアに満ちている。それは彼女の目に映るほかの隊員の様子も同様で、エッセイのそこかしこに心からやりたい仕事をやっている人特有の充実感がちりばめられている。

 本書の帯には「平凡な主婦」と書かれている主婦だが、専門教育を受け、料理学校職員・講師を経験するなど、そもそも調理師として十分な実力があったからこそ合格したのは間違いないだろう。しかし著者自身は、「ごはんを作ったり、洗濯ものをたたんだり、子どもにお小言を言ったりといった日常は、平凡でなんてことのない毎日かもしれません。(略)でも、そのなんてことのない日常こそが自分のスキルになっていたと気が付いたのも南極でした」と、南極越冬隊という特殊な環境下で、主婦・母親としての平凡なスキルが自分を支えていたと語る。

 大学教授、建設技術員など異なるバックグラウンドを持った人々が、基本的には対等に協力し、寝食を共にする1年間。上下関係に頼らず、価値観や性格が合わない人とも、粘り強くコミュニケーションをとる能力は、仕事だけをこなしているより、主婦業や育児を通して、より培われやすいものなのかもしれない。

 加えて、女性隊員の中でも最年長であり、唯一の育児経験者だった渡貫氏が、男女隊員の間で言いにくいことを伝える架け橋のような役目を果たしている様子もうかがえる。女性であること、中年であること、出産・育児でキャリアにブランクがあること。それらはデメリットとして取り上げられがちだが、キレイごとではなく表裏一体のメリットもあるのだ。

 年齢や環境を言い訳にせず、むしろ糧にして、「これをやりたい」という意志をまっすぐに実現させた渡貫氏の姿はすがすがしく、単純にとても格好良い。「主婦であるからとやりたいことを我慢するのも違うなと思うようになった」とつづる彼女のエッセイの、まっとうな明るさに力づけられる人は多いだろう。

(保田夏子)

『あちらにいる鬼』レビュー:誰にも理解されない「一筋縄ではいかぬ男への恋慕」が結びつけた、妻と愛人の数奇な友情

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■『あちらにいる鬼』(井上荒野、朝日新聞出版)

■概要

 2008年には『切羽へ』(新潮社)で直木賞を、18年には『その話は今日はやめておきましょう』(毎日新聞出版)で織田作之助賞を受賞するなど、多様な作風で実績を残す作家・井上荒野。彼女の最新刊『あちらにいる鬼』は、男性小説家とその妻、小説家の愛人を描いた長編小説だ。自身の父であり芥川賞作家である井上光晴と母、父と不倫関係にあった瀬戸内寂聴がモデルになっていることで、大きな反響を呼んでいる。

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「作者の父井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった」

 寂聴から寄せられた異色の帯文が目を引く本作は、著者の父母と、父の愛人だった寂聴の関係をフィクションに昇華した小説だ。作中に登場する小説家・白木篤郎は明らかに光晴で、篤郎の愛人・みはる(出家後は寂光)は、寂聴そのままだ。そう聞いてしまうと、よその家庭のゴシップをのぞくような下世話な好奇心を携えて本を開かざるを得ないのだが、本作で淡々と描かれているのは、人生の華として扱われがちな恋愛の、重くて鬱々とする側面だ。

 「戦後派」を代表する作家・篤郎は、妻子がいるのに、好みの女性を見つけたら口説かずにはいられない、そしてそのことを妻に無意識に伝えずにはいられない、どうしようもない男だ。美しく、プロのような料理の腕前をもち、篤郎の仕事の助手でもある、妻として非の打ちどころのない笙子(しょうこ)は、そんな夫にあきれつつも、数カ月単位で恋人を替える夫の行状に知らぬふりを続けていた。そんな中、仕事の旅行で篤郎と出会った流行作家・みはるは、彼に引かれ、関係を持つようになる。作家の師弟としても結びついた2人は、これまで篤郎がカジュアルに繰り返してきた恋愛とは異なる、深い関係を紡ぎだす。数年の交際ののち、恋愛の行き着く先に死を感じたみはるは、生き抜くために出家を決める。出家という反則技で無理やり恋愛関係を断ち切りつつ、友人として篤郎をつなぎ留めたみはる(寂光)に羨望を覚えた笙子は、寂光と友情のような関係を作り上げていく――。

 笙子とみはる、交互に替わる2人の女性の視点を通して、約半世紀にわたる3人のもつれた関係が浮かび上がる本作。全編を通して際立っているのは、まず、白木篤郎という男の一筋縄ではいかない姿だ。

 小説に真摯に向き合い、社会の不均衡のせいで報われない人々に心底心を痛め、自費を投ってまで地方の人々の啓発に心を砕き、幼い娘たちが大人になることに思いを馳せて涙ぐむ。そんな純粋な優しさや情熱と表裏一体で、女性にだらしなく、女を口説いては捨てることをやめられない。流産させられたことで自殺を図った女への見舞いに妻を遣り、自分はその妹と付き合い始める。口説いている女たちを、寂光の自宅に連れてくる。都合が悪くなれば、子どもがつくようなウソでその場をしのぐ。ウソをついているうちに本人も真実と信じ込んでしまうため、周囲が否定すると怒りだしてしまう。

 そんなでたらめな男に本気で呆れているのに、笙子も寂光も結局死ぬまで篤郎を手放さない。2人の目に映る篤郎は、ウソも優しさも同じぐらいの熱量で吐き出す厄介な男だ。他の誰にも理解されない矛盾した篤郎への理解と恋情が、笙子と寂光の間では共有できたからこそ、篤郎の死後も2人の交流が静かに続いていくのだろう。

 本作冒頭から最後の一文まで貫かれているひとつのテーマは、一旦とらわれてしまえば理屈も通らない、恋愛の不可思議な一面だ。3人とも初めての恋でもないのに、それぞれの恋に人生を大きく翻弄され、執着から逃れられない様子は、はたから見ればまるで病のようだ。実際、本作の中では、恋と病はほぼ同様に描かれている。

 終盤、長年数多の“浮気”と“本気”を黙認してきた笙子が、篤郎の軽い浮気に「どうして今許せないのかわからないまま」初めて強烈な嫉妬を爆発させる。それは、自覚症状はないものの、篤郎ががんに侵され始めたタイミングだった。さらに、寂光の視点ではより端的に、「白木がわたしから離れていく。(略)病気はあたらしい女みたいに、彼に寄り添っていた」と示される。ふたりにとって篤郎の病が彼の新しい恋愛のように映るのは、3人の長く深く絡み合った恋愛関係自体が病である、という著者からの示唆のようにも見える。

 篤郎の死後、笙子自身の希望で、寂光が住職を務める寺に篤郎の墓がつくられ、笙子も共に入ることになる。そして、現実でも、井上夫妻の遺骨は、寂聴が住職を務める天台寺に納められている。「誰にもわかりはしないのだ」「好きなように推測すればいい」――寂光の独白通り、3人の誰より近いところで見てきた荒野が推測を昇華させた本作は、ずっしりとした読みごたえを残す一冊だ。
(保田夏子)

『少女まんがは吸血鬼でできている』レビュー:中世への憧れとBL的世界が詰まった“吸血鬼ジャンル”を徹底分析

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『少女まんがは吸血鬼でできている』レビュー:中世への憧れとBL的世界が詰まった吸血鬼ジャンルを徹底分析の画像1

■『少女まんがは吸血鬼でできている 古典バンパイア・コミックガイド』(中野純・大井夏代、方丈社)

■概要

 私設図書館「少女まんが館」共同館主である中野純・大井夏代夫妻による、「吸血鬼ジャンル」に特化した少女まんがガイドブック。名作吸血鬼まんが『ポーの一族』(萩尾望都、小学館)をはじめとした1950~70年代の古典少女まんがを中心に、終戦直後の少女雑誌の「よみもの」から現代の人気作まで総ざらいし、吸血鬼ジャンルの特有の魅力を徹底的に紹介してくれる1冊。ほぼすべての作品がカラー画像で収録されている。

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 女子高校生と神秘的な雰囲気をまとった美形ヴァンパイアの恋を描いた映画『トワイライト』シリーズが、アメリカを中心に爆発的ヒット作となったのは約10年前。この作品を見た人々の中で、日本の少女まんがに親しんできた人の多くが思ったであろう、「なんか……少女まんがっぽい!!」。本格的なバトルシーンなど独自の魅力を備えている作品だが、その設定やキャラクターの雰囲気に、過去に親しんだ華やかな空気を感覚的に嗅ぎ取った人は多いのではないだろうか。

 そんな感覚に最も熱く共感してくれるのが、中野純・大井夏代夫妻かもしれない。少女まんが研究家であり、「少女まんが館」を運営する2人が著した『少女まんがは吸血鬼でできている』は、タイトル通り、少女まんがの“定番”である「吸血鬼モノ」を収集し、ほぼすべての作品にカラー写真と丁寧なレビューを添えた完全ガイドブックだ。

 『リボンの騎士』(手塚治虫、講談社)や『ベルサイユのばら』(池田理代子、集英社)、『キャンディ・キャンディ』(水木杏子・原作、いがらしゆみこ・画、講談社)が少女まんが界の「健全な名作」として君臨するなら、吸血鬼モノは少女まんがの「不健全な名作」として、「実は少女まんがの黄金時代を築いてきた陰の立役者」ではないかという考察のもと、吸血鬼まんがの歴史をひもといていく。

 人気シリーズものである『ポーの一族』、『夢の碑(いしぶみ)』(木原敏江、小学館)、『最終戦争』シリーズ(山田ミネコ、白泉社ほか)などの長編については、1シリーズごとにレビューと考察を加え、それぞれの作品がその後にどのような影響を与えたかを解説する。

 さらに、「少女まんがに吸血鬼が初めて登場した作品かもしれない」という横山光輝の『紅こうもり』。そこから始まる50~70年代の作品群については、雑誌掲載の読み切り作品や、『ガラスの仮面』(美内すずえ、白泉社)の「カーミラの肖像」などの作中作に至るまで徹底的に押さえられ、80年代以降も『ときめきトゥナイト』(池野恋、集英社)や『トランシルヴァニア・アップル』(樹なつみ、白泉社)、さらには『黒薔薇アリス』(水城せとな、秋田書店)といった近年の作品まで、代表的な作品が取り上げられている。

 膨大な作品リストに圧倒されるが、間に差し挟まれる著者によるコラムによって、さらに吸血鬼まんがへの理解が深まる。ホラーにも純愛ものにもなり、少女が憧れる中世ヨーロッパの雰囲気をたたえ、適度に性行為を連想させる吸血行為や絶対的な弱点によってドラマが作りやすく、BL的世界観とも合致――。そんな数多くの要素が絡み合って、少女たちに熱狂的に受け入れられる奥深いジャンルとなり得たことがわかる。

 さらには、少年まんがにおける吸血鬼モノとの比較、少女まんが誌の前身ともいえる20~40年代の少女雑誌の「よみもの」として掲載されていた吸血鬼譚など、周辺ジャンルまで幅広く押さえ解説している。少女まんが好きはもちろん、そうでなくても十分に楽しめる充実の内容だ。

(保田夏子)

『<女流>放談』レビュー:異なる時代を生きた11人の作家の“生の声”によって見えてくる、「女」の変遷

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『<女流>放談』レビュー:異なる時代を生きた11人の作家の生の声によって見えてくる、「女」の変遷の画像1

■『<女流>放談――昭和を生きた女性作家たち』(イルメラ・日地谷=キルシュネライト、岩波書店)

■概要

 1982年当時、駆け出しの日本文学研究者であったドイツ人女性が日本の女性作家に取材したまま非公開となっていたインタビュー集。それが、約36年もの時を経て『<女流>放談――昭和を生きた女性作家たち』として刊行された。生年順に11人の女性作家を「明治生まれの先駆者たち」(佐多稲子、円地文子)、「『戦中派』の戦後」(河野多惠子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子)、「『戦後派』の憂鬱」(津島佑子、金井美恵子、中山千夏)と3つのタームに分けて収録している。金井、中山が改めてメッセージを寄せているほか、特別編として2018年に行われた瀬戸内寂聴へのインタビューも収録。

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 私たちを取り巻く社会情勢、価値観は、ここ100年足らずのうちに急速に変遷し、今も変わり続けている。当たり前ではあるが、当たり前すぎて普段意識することはない、近代の歴史の変遷を実感させられるインタビュー集が同作だ。

 今現在も第一線で活躍する金井、芥川賞をはじめとする数々の文学賞を受賞している人気作家・田辺、政治家としても存在感を見せた中山、女性として初めて芥川賞の選考委員を務めた大庭と河野――。1982年に、日本文学研究者であるドイツ人女性イルメラ・日地谷=キルシュネライトが、近現代の日本文学を語る上でも欠かせない10数名の女性作家に取材したものの、さまざまな事情で邦訳公開されることのないまま30年以上眠っていたインタビューが、イルメラの友人で詩人・伊藤比呂美による働きかけをきっかけに、昨年末に出版された。

 学位を取ったばかりの若いイルメラが、はるばるドイツから来日し、当時活躍していた人気女性作家たちに公衆電話で直接アポイントを入れ、自宅や仕事場に飛び込むようなかたちで敢行されたインタビュー取材(一部は84年・88年取材)。インタビュアーの並々ならぬ熱意に応えるように、作家たちも、小説論のみならずジェンダー観や敗戦した日本で小説が果たす役割について語っている。シビアな質問にも率直に答え、時に取材の域を超えて、友人との会話のように活発に意見を交わしている。

 本書の魅力の1つは、インタビューに答える作家たちの、それぞれの人間味が垣間見える点だ。特に、出版前に故人となってしまった8人のインタビューについては、「原則として音声から起こしたままの記録」となっている。そのためか、取材の導入に当たるなにげないあいさつや、本題からそれた話題、インタビュー中に訪れた隣人との話など、通常のインタビュー記事には掲載されない言葉もつぶさに書き起こされており、今はもう聞くことのできない、作家たちの“生の声”をすぐそばで耳にしているような、貴重な資料となっている。

 そしてもう1つの魅力は、イルメラが全員に共通して「女性の作家としての役目」を主軸に質問を投げかけていることで、当時のジェンダー観のバリエーション、世代による変遷がうかがえることだ。

 イルメラは、さまざまな質問を駆使して、「女流作家」という言葉への違和感、そして単純に女性であることの不公平を炙り出そうとしている。その中で語られる彼女らの境遇を追っていけば、今から100年ほど前には、全く異なる風景だったことに気づかされる。女性は高度教育を受ける資格を得られなかった80年前、貧しければ口減らしに娘だけ家を出された70年前、男性と同様の教育は受けられるものの就職する資格は得られない40年前。そんな中で複数の作家が、上の世代が闘ってくれたから「私たちはかなり楽」と述べ、さらに恵まれるであろう将来を見据えて、後世を生きる女性に期待を懸けている。

 本書を通して読めば、ジェンダー観、人の生き方に対する多様性は、ここ100年足らずの間に急速に更新を重ね続けていて、どのような経緯で今に至っているのか、その潮流の一筋を感じることができる。その時代がまとっていた精神の変遷を、「女性作家へのインタビュー」という1つの軸を通すことで、彼女たちと共に駆け抜けたような爽快感も味わえるのだ。

 また、本書には、イルメラのエッセイとして、当時の日本・欧州の時代背景についての補足、各作家の意見のまとめ、インタビューしたものの収録がかなわなかったという森茉莉、有吉佐和子らの取材時を振り返ったエピソードが収録され、さらに80年代当時は取材時間が取れなかった瀬戸内の2018年版インタビューまで加えられている。

 イルメラは、女性作家たちの発言と現代の状況を照らし合わせながら、「過去を知ることによって、初めて現在をも把握できる」と自身のエッセイを結ぶ。平成も区切りを迎える今だからこそ、本書は特に女性にとって、自分が今立っている場所を知るために有効な、貴重な1冊になるだろう。

(保田夏子)

暴食の醍醐味、硬い食べ物への偏愛……“おいしい”だけじゃない食べ物の魅力をつづった『わるい食べ物』

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『わるい食べもの』(千早茜/ホーム社)

■概要

デビュー作『魚神(いおがみ)』(集英社)で、小説すばる新人賞と泉鏡花文学賞をダブル受賞し、直木賞にも複数回ノミネートされている注目の小説家・千早茜による、初のエッセイ集。世の中に氾濫する「いい食べ物」を横目に、糖質たっぷりの食事への思い入れや、食にまつわる幼少期の思い出、食をめぐる常識への疑問など、さまざまな角度から「食べること」をテーマにした41編が収録されている。

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 世の中に、「いい食べ物」についての本はあふれている。おいしいレストランを教えてくれるガイド本や健康にいい食材や調理について書かれた本――。小説家・千早茜がつづった『わるい食べもの』は、“食べること”についての思い入れを語るエッセイだが、タイトルから察せられる通り、「いい食べ物」についての話ばかりではない。序文に「おいしいものしか食べたことがない、という人がいたら相当の幸せ者だろう。たいていの人は『おいしい』の裏にある膨大な『まあまあ』や『まずい』や『うまくもまずくもない』を経験して生きている」とある通り、特別ではない日常食への愛から、おいしいというわけではない食事の思い出、体の毒になる暴食の醍醐味まで、「食」というジャンル自体を表も裏も味わい尽くすようなエピソードが詰まっている。

 本作で一貫しているのは彼女の「健康のために食事をするなんて人生の無駄だと思っている。食べる目的はただひとつ。体が求めるから」というさっぱりした姿勢だ。

 自宅で食べるカレーや牛丼は「がんがん食べ『あー食べ過ぎた!』と転がって後悔したい」と語り、体にいい食材だけを食べられるデリに連れてこられれば、豊富すぎる選択肢に「この中から即断できる人ってすごい。日々バリバリ英断を下している意識高い系ビジネスマンならわけもないのかもしれない」とおののきつつ、「菓子と肉への意識だったら私だってべらぼうに高い」と謎の対抗心を見せる。愛する「硬い食べ物」の魅力をつづり、「『ふわふわ~』とうっとりするようなグルメ番組だけではなく、『ものすごい歯ごたえです!』『噛んでも噛んでも終わらない気がします!』『私、もう顎が限界です!』とリポーターが顔をゆがめながら食すグルメ番組があればいい」と妄想する。

 しばしば自身を「偏屈爺」と呼ぶ通り、著者の食へのこだわりは強いが、どのエッセイにも食自体への愛が込められていて、偏屈さを発揮している時ほど「好きなことを語っている人」特有の熱がこもり、妙に生き生きとしている。

 そして、類は友を呼ぶのか、著者の周りにはチャーミングな食いしん坊が集まっている。料理人である著者の夫を筆頭に、大の甘党で「とらやの羊羹なら一本食いができる」篆刻(てんこく)の師匠・S先生。「死んだら棺桶にあんこを詰めてくれ」が口癖の、著者が勤めていた病院のO部長。がんを患い、生きるか死ぬかの瀬戸際でもこっそりケーキを食べ、「いつどうなってもいいように、好きなものを食べ、悔いのない人生を送る」と語った京都の洋菓子店の奥さん。著者によって描写される「体にわるいかもしれないけど、精神にいい食べ物」を愛する人々の姿は、それぞれひと癖ある魅力にあふれていて、その人なりの信念があれば、「体にいい食事」ばかりが食べ方の正解ではないと思わせてくれる。

 ほとんどの人は、日常の食について深く意識することはない。それでも、今日自分が口に入れた食べ物、昨日作ったメニュー、そういった一つ一つの食にはそれぞれの選択があり、自分だけの思い出が詰まっている。『わるい食べもの』は、著者がユーモアを込めて語る食の好みや思い出を楽しくたどるうちに、読者自身の食にまつわる個人的な思い入れをも呼び起こしてくれる。いい食べ物もわるい食べ物も合わせて、あらためて自分の食の記憶を味わいたくなるような1冊だ。

(保田夏子)

お金の支配されない人生が、仕事を自由にする!? 『仕事にしばられない生き方』が問う人生の本質

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『仕事にしばられない生き方』(ヤマザキマリ、小学館)

■概要

 古代ローマに生きる風呂設計技師が、現代日本にタイムスリップし銭湯と出会うコメディ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)。「書店員の選ぶマンガ大賞2010」や「第14回手塚治虫文化賞(短編賞)」を受賞し、2012年に阿部寛主演で映画化もされた同作で知られるマンガ家ヤマザキマリが、自らの半生を振り返りながら、仕事とお金との付き合い方について語るエッセイ。チリ紙交換からビジネス通訳、テレビ番組のリポーターまで、学生のころから国内外で複数の職種を渡り歩き、成功も失敗も味わったからこそ培われた、仕事との距離感が明かされる。

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 海外文化や美術に造詣の深い作品群で知られる、人気マンガ家ヤマザキマリ。『仕事にしばられない生き方』は、ヤマザキ氏の半生を通して、お金や仕事との向き合い方に迫ったエッセイだ。

 ヤマザキ氏の経歴を、「音楽家の母に育てられ、17歳でイタリア国立の美術学校に入学。10年以上イタリアで暮らし、29歳でマンガ家デビュー。43歳の時に『テルマエ・ロマエ』が大ヒットし、現在はイタリアと日本を行き来しつつ、イタリア人の夫や米国の大学に通う息子との関係も良好」――とまとめると、いかにも経済的・文化的素養に恵まれた女性のように映る。その経歴はウソではないが、本エッセイで語られる実態は、その文面から想像する以上に波瀾万丈なものだ。

 早くに父を亡くし、ヴィオラ奏者の母と妹と、北海道の団地で暮らした幼少時代。決して裕福とはいえない経済状況の中でもメリハリをつけて家計をやりくりする母親の下で、幼いころからシビアな金銭感覚を養ってきた著者は、高校に入学してすぐ、チリ紙交換をはじめとするさまざまなアルバイトを経験する。画家を目指した留学先のイタリアでも仕送りはほとんどなく、通訳やガイド、絵描きなど、あらゆる手段で生活費を稼ぎ、さらに恋人の借金返済にも明け暮れることに。

 住居を追い出され、駅で夜を明かすような生活を経て、日本でシングルマザーとなることを選択する。マンガ家としてデビューしたものの、当初は食べていくために、事務職、イタリア語講師、テレビリポーターなど10種以上の職業を掛け持っていた。現在の夫であるイタリア人男性と結婚したことで海外に拠点を移し、マンガ家としても『テルマエ・ロマエ』という大ヒット作が出たものの、昼も夜もなく仕事を受けたことで家庭が崩壊寸前に――。

 そのままマンガやドラマになってしまいそうな起伏の激しい半生。彼女の母親をはじめ、人生に次々と立ち現れる、欠点もあるが憎めないチャーミングな人々とのエピソードを読むだけでも十分に楽しめる本作だが、同時にそんな経験を得たヤマザキ氏だからこそ語ることができる、裕福さや仕事上の成功についての強いメッセージが込められている。

 たとえば、「物腰はちゃんとしてるのに、そろいもそろって、お金がない」若者が集う文化サロン“ガレリア・ウプパ”を「第二の家」としていたイタリア時代。そのサロンで対話や討論の醍醐味を知ったヤマザキ氏は、主宰者が貧しさの中で亡くなったことに触れつつ、「与えられた命と知性を使って、この世界をより深く掘り下げ、知っていく喜び」が最高のぜいたくだと語る。

 一方で、『テルマエ・ロマエ』のヒット後、夫がシカゴ大学の客員教授となり、米国で暮らしていた時期については、「はたから見れば、エリート校の研究者として教鞭をとり、タワーマンションの高層階で暮らしているなんて、アメリカン・ドリームそのもの」と語りつつも、そこに喜びはない。彼女自身は仕事を受け過ぎた過労で、夫と息子はそれぞれ厳しい競争にさらされ、家族全員が疲弊していく。経済面で苦労することがなく、どんなに傍から見て成功していたとしても、本人たちが幸せかどうかは全く別の話なのだ。

 いくつものエピソードに繰り返し織り込まれているのは、ヤマザキ氏の、“お金は非常に大切なものだが、本当のぜいたくは「お金がすべて」という考えに対抗できる価値観を培うこと”という信念だ。お金への向き合い方に一本筋が通れば、仕事も自分の生き方に添ってくる。達観した潔い彼女の姿勢に、勇気づけられる人も多いだろう。つい近視眼的に「働くこと」だけについて考えて行き詰まりそうな時、本作には、いったん立ち止まって視点を変え、現状を俯瞰させてくれるようなヒントが詰まっている。

(保田夏子)

趣味、処世術、自分を解放するためのツールとして……“装うこと”の自由を示した話題の本『だから私はメイクする』

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

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『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』(劇団雌猫、柏書房)

■概要

 オタク女性の浪費の実態をポジティブにあらわにした『浪費図鑑』(小学館)で話題をさらった女性チーム「劇団雌猫」。彼女たちの新作『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』(柏書房)もまたネット上では大きな反響を呼んでいる。化粧やファッションを中心に、エステや整形、矯正下着やダイエットなどさまざまなジャンルの美にこだわりを持つ女性たちが、その思い入れや自身の美意識をつづり、それぞれの「装う理由」をあらわにしていく匿名エッセイ集。

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 ナチュラルメイクに一切興味がなく、“作り込まれた顔”にこだわる「あだ名が『叶美香』の女」。普段の仕事着は適度な服装で通し、プライベートで本気を出す「会社では擬態する女」。逆に、仕事場で納得いくまで装うことで自信を持って職場で振る舞う「デパートの販売員だった女」「仕事のために○○する女」。アイドルに「かわいい」と言われるために限定コスメをチェックする「アイドルにモテるために化粧する女」――。

 自分のため、仕事のため、愛する“推し”のため……理由は違えど、装うことにこだわりを持つ女性15人が、愛するブランドやお気に入りのサービスを語るエッセイ集『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』は、「装うこと」というフィルターを通して、現代を生きる女性の半生を浮き彫りにする自伝短編集でもある。

 メイクやファッションは、良くも悪くも、現代に生きる女性の多くにとって切っても切れない存在だ。だからこそ、オシャレが好きでも嫌いでも、理由について真剣に語り始めれば、知らず知らず社会に向き合う自分のスタンスが浮き彫りになり、その女性の生き方の一片がにじみ出る。

 例えば、「痩せたくてしかたがない女」。幼いころからふっくらとした体形で、「かわいい」を感じさせるものが嫌い、「キラキラ、ふわふわしたものは自分には似合わないだろう」と思っていた女性が、あることで感情を爆発させた際に、ふいに「嫌いだと思い込んで自己防衛していた」「私は本当はこういう風になりたかったんだ」と自分の本心に気づく。自分の欲望を無意識に抑えていたのは、ふさがりかけていた人生の傷口を開くことになるかもしれないからだ。それでも、自分を縛る思い込みは自らの手でほどくことができるし、本心に気づけばどんなに傷が痛くても、視界が一気に広がるような感覚を味わえる。一人の人間の変化を鮮やかに捉えた、よくできた短編のようなエッセイになっている。

 また、特別企画として収録された、TBS宇垣美里アナウンサーのインタビューも秀逸だ。ミスキャンパスを経て、民放キー局のアナウンサーになるという、ある種の典型的な「世間が求める女性像」を体現するような経歴を持つ宇垣だが、そんな彼女にとってのメイクは「自分のためのもの」。

 一見おとなしそうで、周りから「御しやすい女性」と思われた学生時代の苦労、就職して「笑ってるだけでいいから」と“お人形”でいることのストレスをためた新人時代を経て、今は「ふっきれた」という宇垣。人一倍周囲の視線にさらされるからこそ、外見には自覚的な意思うと戦略がある。強い女に見えるメイクを意識し「化粧は魔除け」「自分の身を守るためによそおってる」「ヒールを履いてるときは『気に入らないことがあったら、これで踏み潰しちゃうぞ(ハート)』という気持ち」ときっぱり語る彼女はすがすがしく、明確にスタンスを示す姿勢はシンプルに格好いい。

 本書に収められたエッセイやインタビューはどれも、時に迷い傷つきながらも「こうありたい」という理想を掲げ、自分の人生と向き合っている人が持つ強さがある。だから、前書きにつづられた、「自分の『好き』をつらぬいた格好も、世間の『ウケ』を狙った格好も、その人の生き方の表明である限り、ひとしく美しく、そしてめちゃくちゃかっこいいものなのです」という言葉が、きれいごとではなくしっくりくるのだ。

 メイクや美容は、好感度の高い女を目指すためだけのものではないし、ましてや嫌々“量産型”の鋳型に自分を押し込めるために使うものではない。女性は(本当は男性も)、自分のために装ったり、時にあえて装わなかったりすることを自覚的に選択することができる。『だから私はメイクする』は、「外見を飾る」ことの楽しみを、よくあるわかりやすい型に収めずに、人生を楽しむ手段の一つとしてバリエーション豊かに示している。装う/装わないことへの固定概念を外し、新たな扉を開くきっかけになってくれるだろう。

(保田夏子)