『いつもひとりだった、京都での日々』『わたしの好きな街』レビュー:新生活=有意義な日々、じゃなくていい

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

【概要】

『いつもひとりだった、京都での日々』(宋欣穎・著、光吉さくら・訳、早川書房)

 東京アニメアワードをはじめ複数の映画賞を受賞し、2019年、米アカデミー賞長編アニメーション賞エントリー25作にも選出されたアニメーション映画『幸福路のチー』を手掛けた台湾の女性映画監督・宋欣穎(ソン・シンイン)。彼女が留学生として京都大学で過ごしたひとときを振り返ったエッセイ。

『わたしの好きな街:独断と偏愛の東京』(SUUMOタウン編集部監修、ポプラ社)

 雨宮まみ、岡田育、ひらりさ・もぐもく(いずれも劇団雌猫)、山田ルイ53世、山内マリコら総勢20名の著名人・文化人が、東京で暮らすこと、偏愛する街、上京の思い出について本音を語るエッセイ・インタビュー集。

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 進学、就職などで、見知らぬ土地で新生活を始める人が多い春。慣れない環境に身を置き、生き抜く人に向けて、孤独感や寂しさが力に変わるような2冊の本を紹介したい。

 『いつもひとりだった、京都での日々』は、台湾の作家・映画監督の宋が京大生として京都に滞在した約2年間を、色彩豊かに振り返ったエッセイ。京都に暮らすさまざまな人との触れ合いを中心につづられているが、タイトルに冠されているように、どこか孤独感が漂っている。しかし、著者が漂わせる寂しさは、同時にどこかすがすがしさを連れてくるものだ。

 「湯婆婆」のような老女が夜だけ開く古い喫茶店、電灯のない真っ暗な部屋で一人の生活を愛する「金子さん」、南米の音楽に乗りながら創作料理を振る舞ってくれる60歳の「名和さん」、舞妓を偏愛する「赤内くん」――。このエッセイに登場する京都の人々は、外部の人が「日本人」「京都の人」と聞いた時に想像するような、典型的なタイプはほぼいない。それは、変わった人ばかりを取り上げているわけではなく、“普通の人”が普通に持つその人だけの個性を著者が逃さずすくい上げているからだろう。そんな彼女のフィルターを通して京都の暮らしをのぞき見ることで、市井の人々の普通の日常生活が、時には幻想小説の一幕のような光景として映し出されていく。

 渡日直前、親友の自死に直面したエピソードから幕を開ける本作には、ある種の感傷が最後まで通底している。親友に最後にぶつけた言葉を後悔しつつ、ロボットのように無理やり日常生活をこなしていた著者は、あるきっかけで鴨川の光る川面を眺めながら、どうしても過去には戻れないことを悟る。川の水は流れ続け、戻ることはないが、彼女はそこに寂しさだけでなく美しさも見いだす。日本でできた友人「金子さん」が「ずっと同じ環境にいると、きれいな風景も目に入らなくなる。そうなると人は麻痺しちゃう」と彼女に漏らしたように、長く親しんだ人や風景から無意識に受け取っていた美しさや幸福に気づくのは、たいてい受け取れなくなってからだ。過去に戻れないことは人を苦しめるが、進むしかないからこそ、新たな場所で別の幸福を見つけることもある。

 この一冊の中で、著者自身も、出会った友人たちも、すみかを替え仕事を替え、家族を作ったり離れたり、亡くなったりして、とどまることなく移ろいゆく。表層はあくまで淡々とすべらかな筆致だが、状況や環境が変わることで生じる景色が開けるような楽しさと、息が止まるほどの悲しさ、両方が丁寧に写し取られている。だからこそ、新たな環境で戸惑う人々の感傷を優しく包み、前を進ませてくれるようなエッセイになっている。

 『わたしの好きな街: 独断と偏愛の東京』は、時に「住む場所ではない」などと揶揄される過密都市・東京に暮らす多様な20名の著名人・文筆家らが、東京や上京について語ったエッセイ&インタビュー集。「この街のオススメスポット」といったガイドブック的な要素はないが、書き手が個人的に愛する場所や思い入れのある街の思い出により、「東京」という都市の魅力が複層的に描き出されている。

 東京は、いわば複数の街の集合体であり、一言でその特色を語り尽くすのは難しい。しかし、「あの街で暮らした十年間が、たぶん、私の青春だった」とつづる雨宮まみのエッセイ「西新宿」には、まさに「一つの側面では語りきれない東京像」が凝縮されている。都庁やパークハイアット東京、高層ビルが林立するエリアと、昔ながらの住宅が密集するエリアがほぼ隣接する西新宿。古アパートの1階に住みながら、2つのエリアを日常的に行き来していた雨宮が、「こんな生活には、いつか別れを告げてやる」と怒りにも近い情熱をじりじり燃やす日々は、その熱も相まって、東京と、東京という場所が象徴する「上への情熱」が端的に書き残されている。

 また、作家・山内マリコが「本当に全然ダメだった」「一体なにをしていたかというと、なにもしていなかった」と振り返る「吉祥寺」も、まるで一編の短編小説のような味わいを残す。25歳で上京し、駅まで徒歩30分、立派な畑や野生のタヌキを確認できる部屋で過ごした4年間は、一見優雅なようで、自身の不安に押しつぶされないようもがいた日々でもあった。玉川上水ののどかな景色を背景に、とある吉兆を大切に受け取ったエピソードは、少し滑稽ながらも美しい。

 ほかにも「あの街での毎日が明るいものではなかった」と回顧する芸人・山田ルイ53世の「中目黒」、自身の育った街の魅力を「なんとなくぐちゃっと、全部入り」と愛たっぷりに表した、もぐもぐ(劇団雌猫)の「町田」など、都心から郊外まで、本書にはそれぞれ東京についての思い出や偏愛が詰まっている。この一冊で、表情をさまざまに変える東京の一端を知ることができるだろう。

 書き手たちが振り返る思い出は各人各様だが、輝かしいばかりの時期より、あやふやに過ごした日々や、映えない日常を重ねていた街のエピソードが圧倒的に多い。うまくいかなかった時期や無為に過ごした風景のほうが、書き手の記憶に強く焼き付き、それが人生を助ける礎石になることもある。上京を控える人や東京で暮らす人だけではなく、先の見えない日々にもどかしさを抱える人々にも届いてほしい一冊だ。

『氷室冴子とその時代』レビュー:誰より少女の自立を願っていたのに、少女小説家の“レッテル”に悩んだ作家の苦悩

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『氷室冴子とその時代』(嵯峨景子、小鳥遊書房)

■概要

少女小説の文脈で語られることが多かった故・氷室冴子を、コバルト文庫以外の小説やエッセイを含めた作家活動、プライベートにもスポットを当て再構築した評論。当時の社会情勢や少女小説の盛衰とともに、知られざる氷室の仕事や功績を改めて見直す一冊。

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 氷室冴子は、1980年代~90年代前半に少女時代を過ごした女性にとって、なじみ深い作家の1人だ。代表作である『なんて素敵にジャパネスク』(集英社、以下『ジャパネスク』)はシリーズ累計発行部数800万部を超え、「学校中高生読書調査」では84~95年までランクインし続けた。実際、79年生まれの筆者にとっても『ジャパネスク』は、小学校高学年から中学生にかけてクラスで回し読みされていた人気シリーズで、主人公の瑠璃姫や高彬の活躍は、決して一部の漫画・小説好きのグループだけのものではなく、クラスの多くの女子にとって共通の話題だったと記憶している。

 80年代後半から湧き起こった少女小説ブームを牽引した一人であり、さらに、スタジオジブリによってアニメ化された『海がきこえる』(徳間書店)、『銀の海 金の大地』『クララ白書』(共に集英社)、など、数々のヒット作を生み出した氷室。『ジャパネスク』の大ヒットもあり、「コメディを得意とする少女小説家」というイメージも根強い。しかし、『氷室冴子とその時代』は彼女の全仕事を徹底的に解読し、イメージをアップデートさせてくれる一冊だ。さらに氷室らをきっかけとして「少女小説」がブームになり、変容した経緯も明らかにしている。

 77年、大学在学中に作家デビューを果たした氷室は、結婚を強く望む母の元を離れて経済的に独立するために、コメディ路線に作風を変え、少女向けレーベル・コバルト文庫で出版した『クララ白書』『雑居時代』(集英社)などで大きく読者の支持を集める。そして、平安時代を舞台に、あえて現代的な口語を駆使したコメディ活劇『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで、その人気を確立することになる。本書によると、『ジャパネスク』シリーズは、2冊同時発売された際には初版で合わせて100万部近く発行されている。単純比較はできないが、2017年、村上春樹の『騎士団長殺し』(全2巻)の初版発行部数が2冊合わせて100万部だったことが出版界の大きなニュースになっていることを見ても、破格の部数であることがわかる。

 本書は、コメディ路線で人気を確立し始めた氷室が、当時死語となっていた「少女小説」という言葉を意識的に自身に冠し始めたことを指摘している。少女を作品の主題としていた小説家・吉屋信子を愛読していた氷室にとって、少女小説は思い入れの深い言葉だった。「女の子がなにものにも矯められずに生きられる世界を描くことで、私は無条件に自分の性の原型としての女の子を祝福したかった」とエッセイにつづったように、氷室の描く少女は主体的で、自身で考え行動することが魅力につながるキャラクターとして造形され、そこに当時の読者の大きな共感があった。

 しかし、氷室らコバルト文庫の人気作家たちが爆発的な売れ行きを見せたことで、少女小説は“金脈”として多方面から発見されてしまう。他社の参入もあり、次第に「少女小説」から氷室らの意思や文脈は剥ぎ取られ、実際は多様なジャンルを包括するものであったが、特に外野からは「少女の一人称モノローグ体」「共感できるヒロイン造形」「マンガチックな展開」といったマニュアル化されたジャンルとして捉えられることが多くなる。

 量産された「少女小説」ブームの波に「チョコレート売ってるんじゃないんだから」と違和感を唱えていた氷室も、良くも悪くもその波に巻き込まれていく。時に評論家から「小説ではない」と軽んじられ、取材記者から「処女じゃないと書けないんでしょ」などと暴言を吐かれるなか、一度は自ら冠した「少女小説家」という肩書から、少しずつ距離を置くようになっていく経緯が、複数の資料をもとに解説される。

 その後の氷室は、少年を主人公とした小説や、一般向けのエッセイ・小説、家庭小説ジャンルのプロデュースなど、さまざまな仕事を手掛けている。ひたすら結婚を求める母との葛藤をつづった一般向けのエッセイや、アニメ化された『海がきこえる』で少女以外の読者層を獲得し、“自分の一番書きたいもの”と語った一切のコメディ要素が排された古代ファンタジー『銀の海 金の大地』を生み出す。「少女向けのコメディ作家」というポジションでは語りきれない、常に新たな表現を求めて作風や文体を変えた作家であったといえるが、休筆期間を経て新作発表直後にがんを告知され、08年51歳で早逝する。本書では新作が生まれなかった期間、氷室の死の前後も含め取材し、氷室の人柄がしのばれるエピソードも丹念に伝えている。

 氷室と同じ生年の漫画家・作家――柴門ふみ、高橋留美子、森博嗣らが、現在も一線で活躍していることを思えば、氷室氏の早逝は惜しまれるものだ。本書では、『名探偵コナン』(小学館)シリーズ中のある連作が氷室作品へのオマージュになっていることをはじめ、ライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズ(KADOKAWA)や、小説家・柚木麻子の作品に登場する氷室作品、同じく作家の上遠野浩平、奈須きのこらが影響を受けた人として氷室を挙げたテキストを追うことで、彼女の作品やスタイルがどのように現代のエンタメ作品に引き継がれたか、丁寧に考察している。

 しかし、本書において90年代以降に生まれた世代と氷室の「断絶」が指摘されているように、同時期に同ジャンルで活躍した他の作家と比べて、現代で氷室作品がしっかり読み継がれているとは言い難い。熟練したストーリー展開、歴史ものにおいては綿密な時代考証に裏打ちされた設定の下で描かれた彼女の作品群は、現代の読者にも十分エンタテインメント作品として強度を持つものだ。さらに、氷室が初期から一貫して描き続ける、男性や大人に媚びず、環境や思想の違う友人と連携して、それぞれのスタイルで世界の困難に立ち向かっていく少女像は、既に成人した“元少女”をもまだまだ魅了し、勇気づけてくれる。同書と共に、氷室の作品群が改めて評価され、一人でも多くの人々の元に届くことを祈りたい。

『氷室冴子とその時代』レビュー:誰より少女の自立を願っていたのに、少女小説家の“レッテル”に悩んだ作家の苦悩

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『氷室冴子とその時代』(嵯峨景子、小鳥遊書房)

■概要

少女小説の文脈で語られることが多かった故・氷室冴子を、コバルト文庫以外の小説やエッセイを含めた作家活動、プライベートにもスポットを当て再構築した評論。当時の社会情勢や少女小説の盛衰とともに、知られざる氷室の仕事や功績を改めて見直す一冊。

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 氷室冴子は、1980年代~90年代前半に少女時代を過ごした女性にとって、なじみ深い作家の1人だ。代表作である『なんて素敵にジャパネスク』(集英社、以下『ジャパネスク』)はシリーズ累計発行部数800万部を超え、「学校中高生読書調査」では84~95年までランクインし続けた。実際、79年生まれの筆者にとっても『ジャパネスク』は、小学校高学年から中学生にかけてクラスで回し読みされていた人気シリーズで、主人公の瑠璃姫や高彬の活躍は、決して一部の漫画・小説好きのグループだけのものではなく、クラスの多くの女子にとって共通の話題だったと記憶している。

 80年代後半から湧き起こった少女小説ブームを牽引した一人であり、さらに、スタジオジブリによってアニメ化された『海がきこえる』(徳間書店)、『銀の海 金の大地』『クララ白書』(共に集英社)、など、数々のヒット作を生み出した氷室。『ジャパネスク』の大ヒットもあり、「コメディを得意とする少女小説家」というイメージも根強い。しかし、『氷室冴子とその時代』は彼女の全仕事を徹底的に解読し、イメージをアップデートさせてくれる一冊だ。さらに氷室らをきっかけとして「少女小説」がブームになり、変容した経緯も明らかにしている。

 77年、大学在学中に作家デビューを果たした氷室は、結婚を強く望む母の元を離れて経済的に独立するために、コメディ路線に作風を変え、少女向けレーベル・コバルト文庫で出版した『クララ白書』『雑居時代』(集英社)などで大きく読者の支持を集める。そして、平安時代を舞台に、あえて現代的な口語を駆使したコメディ活劇『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで、その人気を確立することになる。本書によると、『ジャパネスク』シリーズは、2冊同時発売された際には初版で合わせて100万部近く発行されている。単純比較はできないが、2017年、村上春樹の『騎士団長殺し』(全2巻)の初版発行部数が2冊合わせて100万部だったことが出版界の大きなニュースになっていることを見ても、破格の部数であることがわかる。

 本書は、コメディ路線で人気を確立し始めた氷室が、当時死語となっていた「少女小説」という言葉を意識的に自身に冠し始めたことを指摘している。少女を作品の主題としていた小説家・吉屋信子を愛読していた氷室にとって、少女小説は思い入れの深い言葉だった。「女の子がなにものにも矯められずに生きられる世界を描くことで、私は無条件に自分の性の原型としての女の子を祝福したかった」とエッセイにつづったように、氷室の描く少女は主体的で、自身で考え行動することが魅力につながるキャラクターとして造形され、そこに当時の読者の大きな共感があった。

 しかし、氷室らコバルト文庫の人気作家たちが爆発的な売れ行きを見せたことで、少女小説は“金脈”として多方面から発見されてしまう。他社の参入もあり、次第に「少女小説」から氷室らの意思や文脈は剥ぎ取られ、実際は多様なジャンルを包括するものであったが、特に外野からは「少女の一人称モノローグ体」「共感できるヒロイン造形」「マンガチックな展開」といったマニュアル化されたジャンルとして捉えられることが多くなる。

 量産された「少女小説」ブームの波に「チョコレート売ってるんじゃないんだから」と違和感を唱えていた氷室も、良くも悪くもその波に巻き込まれていく。時に評論家から「小説ではない」と軽んじられ、取材記者から「処女じゃないと書けないんでしょ」などと暴言を吐かれるなか、一度は自ら冠した「少女小説家」という肩書から、少しずつ距離を置くようになっていく経緯が、複数の資料をもとに解説される。

 その後の氷室は、少年を主人公とした小説や、一般向けのエッセイ・小説、家庭小説ジャンルのプロデュースなど、さまざまな仕事を手掛けている。ひたすら結婚を求める母との葛藤をつづった一般向けのエッセイや、アニメ化された『海がきこえる』で少女以外の読者層を獲得し、“自分の一番書きたいもの”と語った一切のコメディ要素が排された古代ファンタジー『銀の海 金の大地』を生み出す。「少女向けのコメディ作家」というポジションでは語りきれない、常に新たな表現を求めて作風や文体を変えた作家であったといえるが、休筆期間を経て新作発表直後にがんを告知され、08年51歳で早逝する。本書では新作が生まれなかった期間、氷室の死の前後も含め取材し、氷室の人柄がしのばれるエピソードも丹念に伝えている。

 氷室と同じ生年の漫画家・作家――柴門ふみ、高橋留美子、森博嗣らが、現在も一線で活躍していることを思えば、氷室氏の早逝は惜しまれるものだ。本書では、『名探偵コナン』(小学館)シリーズ中のある連作が氷室作品へのオマージュになっていることをはじめ、ライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズ(KADOKAWA)や、小説家・柚木麻子の作品に登場する氷室作品、同じく作家の上遠野浩平、奈須きのこらが影響を受けた人として氷室を挙げたテキストを追うことで、彼女の作品やスタイルがどのように現代のエンタメ作品に引き継がれたか、丁寧に考察している。

 しかし、本書において90年代以降に生まれた世代と氷室の「断絶」が指摘されているように、同時期に同ジャンルで活躍した他の作家と比べて、現代で氷室作品がしっかり読み継がれているとは言い難い。熟練したストーリー展開、歴史ものにおいては綿密な時代考証に裏打ちされた設定の下で描かれた彼女の作品群は、現代の読者にも十分エンタテインメント作品として強度を持つものだ。さらに、氷室が初期から一貫して描き続ける、男性や大人に媚びず、環境や思想の違う友人と連携して、それぞれのスタイルで世界の困難に立ち向かっていく少女像は、既に成人した“元少女”をもまだまだ魅了し、勇気づけてくれる。同書と共に、氷室の作品群が改めて評価され、一人でも多くの人々の元に届くことを祈りたい。

『しらふで生きる』レビュー:酒、趣味、人間関係に無意識で依存している人に響く「解脱」までの日々

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『しらふで生きる 大酒飲みの決断』(町田康、幻冬舎)

『しらふで生きる』レビュー:酒、趣味、人間関係に無意識に依存している人に読んでほしい、「解脱」までの日々の画像1

【概要】
大酒飲みとして知られていた作家・ミュージシャンの町田康が、「酒をやめよう」と突然思い立った。ドクターストップがかかったわけでもなく、心境の変化があったわけでもないのに、なぜ禁酒を始めたのか。習慣化されていた飲酒をどのようにやめ、禁酒で心身がどう変わったか。内面の葛藤や、精神状態の変化が饒舌につづられるエッセイ。

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 「飲みに飲んで、差されれば必ず受け、差されなくても手酌で飲んで斗酒をなお辞さない」ような酒豪生活を30年間1日も休まず続けていた作家・町田康。その彼が禁酒を始めた。酒を断ってからの数年の変化をつづる『しらふで生きる 大酒飲みの決断』は、「禁酒」という行為を通して、町田氏の人生観の変遷を大真面目に、かつエンタテインメントとして描き切った一冊だ。それは、何にも依存したことのない、バランスのとれた生活を送っている人にとっては喜劇のように読めるだろう。しかし、アルコールに限らず、何かへの依存に悩んでいる人にとって、このエッセイは脱却の手がかりになるかもしれない。

 大まかに「(酒を)なぜやめたか」「どうやってやめたか」「やめたらどうなったか」という3つのパートから構成された本作。酒を断って1年半弱の時点から語られる序盤は、町田康らしさが炸裂する、饒舌な「酒飲みの申し開き」だ。

 「人生の目標、目的は酒を飲むことであり、すべては酒のために存在する」「飲んでいないときはただ耐えるだけ」「いずれ死ぬのに、節制など卑怯」と酒を心底愛していた町田氏にとって、「飲みたい」こそが正気で、「飲まない」が狂気だ。仕事中は飲まない、昼からは飲まないというルールを守っているから中毒ではない、と述べつつ、「飲む以外のことの価値が(略)とても低くなっている」状態の不毛さに気づいていてもアルコールを欲してしまう。そんな自身のせめぎ合いを、「飲みたい、という正気と飲まないという狂気の血みどろの戦い」と表し、徹底的に戯画化していく。

 「酒飲みが意志の力で完全に酒をやめるのは重い土嚢を千袋運ぶより辛い」「『こんなに苦しいなら酒を飲むしかない』『その酒をやめてるのだ』を7秒に4回繰り返す」と、と多彩な比喩を駆使しつつ、酒への衝動に七転八倒する姿は滑稽でつい笑わされてしまうが、どこかシンパシーを感じてしまう人は多いだろう。苦しみながらも、医療機関や周囲に頼らず、どこまでも自身の内面と向き合うことで禁酒を実行し、「人生は幸福である必要はない」「他人と自分を比べることで自分の価値を計らない」という内観に帰着する過程は、おもしろおかしく描かれてはいるが、ほとんど哲学だ。

 ふざけているような、真剣なような町田節に引っ張られるうちに、3カ月、半年、1年、3年と着々と禁酒は継続され、徐々に「飲まない状態が正気」になっていく。そして、「痩せた」「睡眠の質が向上した」「浪費しなくなった」「脳髄のええ感じにより仕事が捗るようになった」「精神的に余裕が生まれた」など、序盤の葛藤がうそのように、立て続けに禁酒のメリットが挙げられるようになる。酒をやめても幸せになるわけではないし、賢くなれるわけでもないとつづられているが、終盤の心象風景は憑き物が落ちたように軽やかで、もうアルコールに溺れることに魅力を感じているようには見えない。

 本書の冒頭では、自身の起こした酒席でのトラブルを幾つも挙げつつ「『ああ、あの人は酒飲みだから』ということで、風景として受け入れられ」てきたと振り返っている。優れた作家であり、作家デビュー前から熱狂的な支持を受けるミュージシャンでもあった彼の周囲には、おそらく「酒に溺れるような破滅的な生き方こそ、一流のアーティスト」と称賛する人もいただろう。しかし、禁酒後のほうが「仕事が目に見えてよくなる」と断言する町田氏の言葉は、一部の人が持つような、ある種凝り固まったアーティスト像を気持ちよく吹き飛ばしてくれる。

 「酒を飲んでも飲まなくても、人生はもともと寂しいもの」「渇いているからといって(銭で購える)幸福をがぶ飲みすると、その後がもっと苦しくなる」という持論は、酒の話ではあるが、何かに依存している人すべてに通じる話でもある。本作は、「酒徒を論難したり排撃したりするのはやめてほしい」とある通り、飲酒を否定するものではない。おそらく、適量で収められるなら、禁酒する必要もないのだ。ただ、町田氏がそうであったように、「適量」と思って気づかずに依存状態に陥っている場合もある。酒に限らず、趣味やSNS、ショッピング、特定の人間関係――本来やるべきことをやめてまでやりすぎてしまったり、不足すると過剰に不安になったりするものに覚えがあるとしたら、実は依存状態に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。そんな、自身の無自覚な一面を突き付けられ、ぞっとしてしまう一冊でもある。
(保田夏子)

『子育てとばして介護かよ』『親の介護をしないとダメですか?』:同居も無理もしない介護のリアルを描く

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

 

『子育てとばして介護かよ』(島影 真奈美、KADOKAWA)

 別居している義母からのかみ合わない電話をきっかけに、義父母の認知症が立て続けに発覚。「仕事は続ける」「同居はできない」という前提で挑む、「介護1年生」エッセイ。義父母が拒む中でどう認知症の認定を受けてもらい、ケアサービスまでこぎ着けるか、お役所仕事の介護申請とどう折り合うか、夫との危機感の差をどう受け止めるか――。初めての介護に振り回された日々を、イラストを交え、軽やかにつづる。現在も仕事と大学院研究と介護の「3足のわらじ」をはく著者の、途中報告リポート。

『親の介護をしないとダメですか?』(吉田 潮、ベストセラーズ)

 コラムニスト・吉田潮が、自身の父の老化を見つめ、母による介護の限界を経て、特別養護老人ホーム(特養)に入所してもらった日々を、母と共同の介護日誌とともに振り返る。元新聞記者で闊達だった父から意欲が減少し「文化」がなくなる経緯や、頻繁な転倒や排泄の失敗を家族で介護する困難さ、施設選びに際する注意点や特養の実態、実際にかかった費用など、介護の現実が淡々と書かれている。「美談でもないし、悲惨な状況にも陥っていないし、自宅介護は一ミリもお勧めしない」、異色の介護エッセイ。

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 年に1度か2度会うたびに、親が小さくなり、老いていく。一定の年齢になれば、それは当たり前のことなのに、普段親と離れて暮らしていると、その事実に心ひそかにうろたえてしまう。それは、私が「老い」をよく知らないからだ。

 「老い」とは、年を取ることで体や精神的機能が衰えていくこと。頭では理解していても、核家族で育ち、進学で地元を離れそのまま就職し、仕事でも私生活でも高齢者と深く関わらない日常を過ごしていると、老化が具体的にどういう状態なのか、実はまったくわかっていない。「老い」という科目を履修しそびれたまま大人になっている不安が、時折頭をよぎって、しかし「まだ大丈夫」と先送りにしている。

 9月中旬に、そんな老化と介護の現実の一端を見せてくれる本が、2冊ほぼ同時に刊行された。『子育てとばして介護かよ』と『親の介護をしないとダメですか?』は、どちらも40代女性著者による、「親の介護」「親の認知症」の始まりを書いたエッセイ。前者は、別居する義父母の認知症に気づき、ケアサービスを受けるまでを振り返り、後者は、急激に身体機能が衰えた実父が特養に入所する過程を語っている。状況はそれぞれ異なっているが、両作とも「仕事を辞めない、同居もしない」というスタンスをとっている点が共通する。

 大学院で老年学を研究している島影氏と、過去にホームヘルパー2級を取得している吉田氏。ある程度の知識があるといっていい両者が、エッセイを通して強く訴えているのは、介護において「自分(もしくは家族)が『少し無理すればなんとかなる』」という考えの危うさだ。

 別居したまま、義父母の介護の窓口となった島影氏は、「少し無理すればできること」を重ねて、次第に精神的に追いつめられる。彼女は、介護への対応を強制されたわけではない。しかし、周囲の空気を読んで「自分がやったほうが早い」と対処しているうちに、無意識のうちに抱えきれない負担を抱えてしまう。そのような状況は珍しくはないだろう。そんな彼女が、小さなことからでも周りに「できない」と発信することで、新たな選択肢が増え、環境が変わった過程も丁寧につづられている。

 一方、『親の介護を―』は、「同居介護はしない」「介護はその道のプロに任せるべき」という著者の姿勢は当初から一貫している。しかし、著者の母の根強い「夫の介護は妻がやるもの」という意識を変えることは難しい。病に倒れて身動きが取れなくなった両親を助けながら、安易な「自宅介護」が、悲劇を生み出す種になり得ることに警鐘を鳴らす。

 「自分がやらなくては」という精神は一見美徳だが、“火事場の馬鹿力”は永遠には出せない。介護者が疲弊してしまえば、最終的には被介護者も十分なケアを受けられなくなってしまう。被介護者のためにも、持続性のある介護環境を作るために、どのように情報を集め、公共サービスをどのように活用していくか、両作にはその対策がちりばめられている。

 手続きや費用面の解説など、実用的に役立てられる面も多くあるが、両作の一番の魅力は、「要介護」に至る前の段階から、日常生活を送ることが困難になるまでの「老い」の実態の一端が、美化されず、深刻にもなりすぎずに具体的に描かれている点だ。『子育て―』には、身体的には健康で一見何の問題もないように見えるのに、会話に妄想が入り込む「認知症」と向き合う難しさが、『親の介護を―』には、身体的な衰えに加え、好奇心旺盛だった父から「文化」が削がれていくさまがつづられる。

 老化とは、普通にできたことが、まだらに欠けていくこと。本人も自覚しないまま、約束や待ち合わせが守れなくなる。理路整然と会話ができているのに、行きたいところに自力でたどり着けなくなる。それまで好きだった娯楽が楽しめなくなる。予備知識なしに直面すると戸惑ってしまうような、わかりにくい老化を、両者とも時にユーモアを交えながら描写することで、さりげなく読者が「老い」に向き合う心構えをも軽くしてくれる。

 老化は、生きていれば誰もが通過する自然現象だ。さらに言えば、自分もいずれ歩む道でもある。親も、自分自身も、できないことが増えていく中、限られた時間で何ができるのか改めて見直すきっかけにもなるだろう。

 現在進行形で別居介護に直面している人にとっては、心強い友人を得たようなエッセイになっているであろう両作。しかし私は「介護はまだ先の話だから」と、親の老いの兆しと向き合うことそのものも先送りにしている人にも、読んでおくことを勧めたい。ある日突然、「親 介護」「両親 認知症」で検索する必要に迫られる前に。
(保田夏子)

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『子育てとばして介護かよ』『親の介護をしないとダメですか?』:同居も無理もしない介護のリアルを描く

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

 

『子育てとばして介護かよ』(島影 真奈美、KADOKAWA)

 別居している義母からのかみ合わない電話をきっかけに、義父母の認知症が立て続けに発覚。「仕事は続ける」「同居はできない」という前提で挑む、「介護1年生」エッセイ。義父母が拒む中でどう認知症の認定を受けてもらい、ケアサービスまでこぎ着けるか、お役所仕事の介護申請とどう折り合うか、夫との危機感の差をどう受け止めるか――。初めての介護に振り回された日々を、イラストを交え、軽やかにつづる。現在も仕事と大学院研究と介護の「3足のわらじ」をはく著者の、途中報告リポート。

『親の介護をしないとダメですか?』(吉田 潮、ベストセラーズ)

 コラムニスト・吉田潮が、自身の父の老化を見つめ、母による介護の限界を経て、特別養護老人ホーム(特養)に入所してもらった日々を、母と共同の介護日誌とともに振り返る。元新聞記者で闊達だった父から意欲が減少し「文化」がなくなる経緯や、頻繁な転倒や排泄の失敗を家族で介護する困難さ、施設選びに際する注意点や特養の実態、実際にかかった費用など、介護の現実が淡々と書かれている。「美談でもないし、悲惨な状況にも陥っていないし、自宅介護は一ミリもお勧めしない」、異色の介護エッセイ。

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 年に1度か2度会うたびに、親が小さくなり、老いていく。一定の年齢になれば、それは当たり前のことなのに、普段親と離れて暮らしていると、その事実に心ひそかにうろたえてしまう。それは、私が「老い」をよく知らないからだ。

 「老い」とは、年を取ることで体や精神的機能が衰えていくこと。頭では理解していても、核家族で育ち、進学で地元を離れそのまま就職し、仕事でも私生活でも高齢者と深く関わらない日常を過ごしていると、老化が具体的にどういう状態なのか、実はまったくわかっていない。「老い」という科目を履修しそびれたまま大人になっている不安が、時折頭をよぎって、しかし「まだ大丈夫」と先送りにしている。

 9月中旬に、そんな老化と介護の現実の一端を見せてくれる本が、2冊ほぼ同時に刊行された。『子育てとばして介護かよ』と『親の介護をしないとダメですか?』は、どちらも40代女性著者による、「親の介護」「親の認知症」の始まりを書いたエッセイ。前者は、別居する義父母の認知症に気づき、ケアサービスを受けるまでを振り返り、後者は、急激に身体機能が衰えた実父が特養に入所する過程を語っている。状況はそれぞれ異なっているが、両作とも「仕事を辞めない、同居もしない」というスタンスをとっている点が共通する。

 大学院で老年学を研究している島影氏と、過去にホームヘルパー2級を取得している吉田氏。ある程度の知識があるといっていい両者が、エッセイを通して強く訴えているのは、介護において「自分(もしくは家族)が『少し無理すればなんとかなる』」という考えの危うさだ。

 別居したまま、義父母の介護の窓口となった島影氏は、「少し無理すればできること」を重ねて、次第に精神的に追いつめられる。彼女は、介護への対応を強制されたわけではない。しかし、周囲の空気を読んで「自分がやったほうが早い」と対処しているうちに、無意識のうちに抱えきれない負担を抱えてしまう。そのような状況は珍しくはないだろう。そんな彼女が、小さなことからでも周りに「できない」と発信することで、新たな選択肢が増え、環境が変わった過程も丁寧につづられている。

 一方、『親の介護を―』は、「同居介護はしない」「介護はその道のプロに任せるべき」という著者の姿勢は当初から一貫している。しかし、著者の母の根強い「夫の介護は妻がやるもの」という意識を変えることは難しい。病に倒れて身動きが取れなくなった両親を助けながら、安易な「自宅介護」が、悲劇を生み出す種になり得ることに警鐘を鳴らす。

 「自分がやらなくては」という精神は一見美徳だが、“火事場の馬鹿力”は永遠には出せない。介護者が疲弊してしまえば、最終的には被介護者も十分なケアを受けられなくなってしまう。被介護者のためにも、持続性のある介護環境を作るために、どのように情報を集め、公共サービスをどのように活用していくか、両作にはその対策がちりばめられている。

 手続きや費用面の解説など、実用的に役立てられる面も多くあるが、両作の一番の魅力は、「要介護」に至る前の段階から、日常生活を送ることが困難になるまでの「老い」の実態の一端が、美化されず、深刻にもなりすぎずに具体的に描かれている点だ。『子育て―』には、身体的には健康で一見何の問題もないように見えるのに、会話に妄想が入り込む「認知症」と向き合う難しさが、『親の介護を―』には、身体的な衰えに加え、好奇心旺盛だった父から「文化」が削がれていくさまがつづられる。

 老化とは、普通にできたことが、まだらに欠けていくこと。本人も自覚しないまま、約束や待ち合わせが守れなくなる。理路整然と会話ができているのに、行きたいところに自力でたどり着けなくなる。それまで好きだった娯楽が楽しめなくなる。予備知識なしに直面すると戸惑ってしまうような、わかりにくい老化を、両者とも時にユーモアを交えながら描写することで、さりげなく読者が「老い」に向き合う心構えをも軽くしてくれる。

 老化は、生きていれば誰もが通過する自然現象だ。さらに言えば、自分もいずれ歩む道でもある。親も、自分自身も、できないことが増えていく中、限られた時間で何ができるのか改めて見直すきっかけにもなるだろう。

 現在進行形で別居介護に直面している人にとっては、心強い友人を得たようなエッセイになっているであろう両作。しかし私は「介護はまだ先の話だから」と、親の老いの兆しと向き合うことそのものも先送りにしている人にも、読んでおくことを勧めたい。ある日突然、「親 介護」「両親 認知症」で検索する必要に迫られる前に。
(保田夏子)

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【『なにかが首のまわりに』レビュー】“アフリカの女性”が味わう苦さや孤独感は、日本に生きる私たちと地続きなもの

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『なにかが首のまわりに』レビュー:アフリカの女性が味わう苦さや孤独感は、日本に生きる私たちと地続きなものの画像1

■『なにかが首のまわりに』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)

【概要】

 2013年発表の長編『アメリカーナ』で、アフリカ・ナイジェリア出身作家として初の全米批評家協会賞を受賞している女性作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェによる短編集『なにかが首のまわりに』。彼女のスピーチ音源が歌手ビヨンセの「Flawless」に組み込まれたり、クリスチャン・ディオールのTシャツにそのメッセージがデザインされたりと、作家としてだけでなく、アフリカと世界をつなぐオピニオン・リーダーの1人として注目され、幅広いジャンルに影響を与えている。

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 『なにかが首のまわりに』は、ナイジェリア出身女性による、アフリカに生きる女性やアフリカから米国に居を移した女性の人生のひとときを切り取った短編集――と紹介すると、日本に生きる自分には遠い世界の話と感じる人が多いかもしれない。しかし、どの短編にも、特に女性ならばふと感じたことがあるような違和感や苦楽が織り込まれ、まるで親戚の話を聞いているような身近さで彼女らの日常が迫ってくる、きわめて普遍的な物語だ。

 本作に収められている短編は12で、ほとんどがアフリカ女性をメインに据えている。「アジアの女性」でくくられる範囲が非常に広いように、「アフリカの女性」といっても、肌の色や出身民族、家庭環境、経済状況、宗教など、どれをとってもバラバラだ。千差万別な女たちがいるのに、「黒い肌、縮れた髪」という外見で、中身まで印象で判断されてしまう戸惑いを繊細に表現した表題作や「先週の月曜日に」「結婚の世話人」など、米国で生きるアフリカ出身女性の物語が、特に強い印象を残す。

 表題作「なにかが首のまわりに」の女性主人公が生まれ育ったナイジェリアの公用語は英語だ。経済都市ラゴスは貧富の差も激しいが、ビルが立ち並び、車で移動する人も珍しくない。しかし、移民として米国で暮らし始めると「どこで英語おぼえたの?」「アフリカにはちゃんとした家があるの?」「車を見たことはあったの?」など、米国人から悪気のない質問攻めに遭う。アフリカについて無邪気に質問する人々――私たちも無縁ではない――がいかに滑稽に映っているか、恥ずかしくなるくらい正確に捉えている。しかし本作は、そういった先進国の傲慢をカリカチュアすることが主題ではない。本作の冒頭は「アメリカではみんな車や銃を持ってる、ときみは思っていた。おじさんやおばさん、いとこたちもそう思っていた」という、「ナイジェリアに暮らす人々から見た米国」のイメージから始まっているからだ。

 よく知らない国について、または未知の属性を持つ人について、自分の知っている大まかなイメージだけで語りがちなのは誰でも同じことだ。大抵の場合、そこに悪気すらない。しかし、「●●について無知で当然」という態度を、マジョリティーという傘に守られたままで個人に向ければ、相手の自尊心を削る傲慢な行為になる。そして、多数派であればあるほど、そのことに鈍感でいられる。本作では、米国でもアフリカでも、「女性、有色人種、後進国」と、さまざまな局面で弱い立場に属する人々が残酷に自尊心を削られていく瞬間が緻密に描かれている。そこに横たわるやるせなさ、ユーモアといたわり合いで回復しようと試みる人々への共感は、アフリカ出身者だけが感じる特有のものではなく、弱い立場に属したことのある人なら誰もが共有し、慰めを感じられるものだろう。

 本作にはアフリカの政治的・宗教的な抑圧、暴動による苦境を描いた「ひそかな経験」「アメリカ大使館」や、米国での快適な暮らしと故郷の環境の齟齬から生まれるジレンマを描いた「イミテーション」、西洋文化がアフリカにもたらしたものを家系3代を通して描いたサーガ「がんこな歴史家」など、アディーチェだからこそ説得力をもって伝わるトピックもちりばめられている。私たちが報道などで想像しがちな「アフリカ」の一面も描かれてはいるが、その苦難がことさら強調されるわけではない。ネガティブな経験と同じくらい、彼女たちの生きる普通の日常が語られているからこそ、「住む世界の違う人々」ではないことを感じさせてくれるのだ。

 年齢も、育った環境もバラバラな女性の人生を垣間見たような本作の読後には、まるで親密な女友達が遠い土地に増えたような感覚が残る。一度も行ったことのない場所にも、似たようなことで笑ったり、傷ついたりする女たちが多分いて、今日も一日を生きている。そう信じられることは、不思議と私たちを力づけてくれる。文字の羅列が、読者の想像力を思いもよらない場所まで引っぱってくれる――そんな読書の醍醐味を深く感じられる一冊だ。
(保田夏子)

『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描く

『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描くの画像1

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■『待ち遠しい』(柴崎友香、毎日新聞出版)

【概要】

 2014年『春の庭』で芥川賞を受賞した柴崎友香が、出身地・大阪を舞台にした長編小説『待ち遠しい』(毎日新聞出版)。住み心地のいい離れの一軒家で一人暮らしを続ける39歳の北川春子の視点から、60代、20代と世代の違う3人の女性の“ご近所付き合い”を中心に、「現代の生きにくさ」を抱えながらもひたむきに生きる彼女たちの姿が、丁寧に描かれている。

***********

 『待ち遠しい』は、世代も性格も生き方も異なる3人の女性の関わりを中心に描いた小説だ。3人の共通点は、近所に住んでいることと、偶然同じカーディガンを持っていたことくらい。「日本中の人がなにか一つは持っているであろう、低価格カジュアル衣料品店」で買ったそのカーディガンですら、異なる色を選んでいる。

 美大を卒業したものの専門とは関連のない職に就き、一軒家の離れを借りて暮らしている春子(39)はライトグレー。春子の大家の長女で、亡くなった大家に代わって母屋の主となった青木ゆかり(63)は黄色。ゆかりの甥と結婚し、一軒家の裏手に住む遠藤沙希(25)は淡いピンク。本作は、そのカーディガンのように無難で穏やかな女たちが織り成すほっこりした小説――のように見せかけて、世代や価値観の違う人々が、それぞれの「普通」を持ち寄った時に起こる摩擦や違和感、かみ合わなさを丹念に切り取った一作だ。

 大学卒業後、就職氷河期の波にのまれ非正規職を転々としていた春子は、3年前から正社員として事務職に就き、休日は美術館を巡ったり、自宅で趣味の刺繍や消しゴムはんこ作りに打ち込む穏やかな日々に概ね満足している。彼女の周りにいる女性は、春子と同じように独身で働いているか、キャリアをいったん横に置き、子育て中。それが春子にとっての「普通」だ。

 そんな春子に“ご近所付き合い”という新しい世界をもたらしたゆかりにとって、自分の時代の「普通」は「結婚して子どもを育てる人生」だった。しかし、今はいろんな生き方があっていいと理解したうえで、春子と良い友人のような関係を作っていく。明るく世話好きで、人と関わることに生きがいを感じるタイプだったが、夫と母を立て続けに亡くし、子どもからも距離を置かれ、一人で静かに孤独と闘っている。春子の生き方を否定するつもりはなかったのに、春子と近所の男性との仲を取り持とうとし、春子と気まずくなってしまう。

 一方で、沙希の「普通」は、自宅から半径5km以内の世界にぴったり収まっている。近所で生まれ育ち、現在も近所の整形外科に勤め、シングルマザーで苦労して自分を育ててくれた母とは親密すぎる関係だ。「女は結婚して子どもを育てて初めて一人前」という「普通」を疑いなく受け入れ、子どもはかわいいが絶対ほしいというわけではない春子には、「女に生まれてきたんやから、普通は子供ほしくないわけない」「人として普通じゃない」と容赦なく攻撃的な言葉をぶつける。

 本作では、きわめて狭い視野で語られる沙希の「普通」について、正誤のジャッジは下されない。その代わりに、沙紀の攻撃的な物言いやトラブルに巻き込まれた春子の視点で、沙希の半生があらわになっていく。漫画や絵を描くのが好きで、漫画家になりたいと思っていただろう少女時代。暴力を振るう父から自分を守り、昼夜問わず働いてくれた母に、「親子揃ってなんの取り柄もないから」「なんもできへんけど、それでもうちには、この子がいちばん」と言われ続けて育ってきたこと。大学進学をあきらめた彼女にとって、美大に進み、一人で好き勝手に暮らしている(ように見える)春子は、自身のアイデンティティを脅かすような存在だったのかもしれない。しかし、そんな春子自身も沙希と同じように、両親から「なんでもそこそこなんやから、なんもせんでええから」と言われて育ち、その言葉が呪いのように彼女の人生を縛っている。

 春子は沙希の人となりを知るにつれ、彼女を見離せないと感じるようになる。そして沙希もはっきりと考えを改めることはないが、家族とのケンカ、人生の転機を経て、春子やゆかりに頼るようになり、少しずつ変容していく。

 人それぞれの「普通」は、生まれた時代、地域、家庭環境など、不可抗力の要素に影響されているものだ。「普通」が他人によって揺り動かされたとき、相手を批判することは簡単だ。しかし時には悪態をついたり、気まずくなったり、衝突したりしながらも、相手の背景を推し量ることができれば、相手の理解できない面に折り合いをつけて、関係を再生することもできるのだ。

 そしてその過程で、自分の「普通」が数ミリ動いたり、そもそも「普通」であることは必須ではないと気づかされることもある。本作終盤、春子が「自分は普通じゃない」と思ってしまう“負い目”を学生時代からの友人に告白したとき、彼女は即座に「わたしは春子のこと普通とかおかしいとか、そういう基準で考えたことないよ」と返す。たくさんの「普通」が提示され、衝突する本作だからこそ、さりげなく置かれたこの会話は読者を癒やしてくれる。

 『待ち遠しい』には、どの「普通」が正しいといった、わかりやすいカタルシスはない。しかしそれは、私たちが生きる現実そのものでもある。勝ち負けも間違いも衝突も「日常」という大河がのみ込み、一見淡々と日々を紡ぐ春子たち。彼女たちを通して、読者自身の日常に立ち向かう力が蓄えられる一冊だ。
(保田夏子)

『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描く

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■『待ち遠しい』(柴崎友香、毎日新聞出版)

【概要】

 2014年『春の庭』で芥川賞を受賞した柴崎友香が、出身地・大阪を舞台にした長編小説『待ち遠しい』(毎日新聞出版)。住み心地のいい離れの一軒家で一人暮らしを続ける39歳の北川春子の視点から、60代、20代と世代の違う3人の女性の“ご近所付き合い”を中心に、「現代の生きにくさ」を抱えながらもひたむきに生きる彼女たちの姿が、丁寧に描かれている。

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 『待ち遠しい』は、世代も性格も生き方も異なる3人の女性の関わりを中心に描いた小説だ。3人の共通点は、近所に住んでいることと、偶然同じカーディガンを持っていたことくらい。「日本中の人がなにか一つは持っているであろう、低価格カジュアル衣料品店」で買ったそのカーディガンですら、異なる色を選んでいる。

 美大を卒業したものの専門とは関連のない職に就き、一軒家の離れを借りて暮らしている春子(39)はライトグレー。春子の大家の長女で、亡くなった大家に代わって母屋の主となった青木ゆかり(63)は黄色。ゆかりの甥と結婚し、一軒家の裏手に住む遠藤沙希(25)は淡いピンク。本作は、そのカーディガンのように無難で穏やかな女たちが織り成すほっこりした小説――のように見せかけて、世代や価値観の違う人々が、それぞれの「普通」を持ち寄った時に起こる摩擦や違和感、かみ合わなさを丹念に切り取った一作だ。

 大学卒業後、就職氷河期の波にのまれ非正規職を転々としていた春子は、3年前から正社員として事務職に就き、休日は美術館を巡ったり、自宅で趣味の刺繍や消しゴムはんこ作りに打ち込む穏やかな日々に概ね満足している。彼女の周りにいる女性は、春子と同じように独身で働いているか、キャリアをいったん横に置き、子育て中。それが春子にとっての「普通」だ。

 そんな春子に“ご近所付き合い”という新しい世界をもたらしたゆかりにとって、自分の時代の「普通」は「結婚して子どもを育てる人生」だった。しかし、今はいろんな生き方があっていいと理解したうえで、春子と良い友人のような関係を作っていく。明るく世話好きで、人と関わることに生きがいを感じるタイプだったが、夫と母を立て続けに亡くし、子どもからも距離を置かれ、一人で静かに孤独と闘っている。春子の生き方を否定するつもりはなかったのに、春子と近所の男性との仲を取り持とうとし、春子と気まずくなってしまう。

 一方で、沙希の「普通」は、自宅から半径5km以内の世界にぴったり収まっている。近所で生まれ育ち、現在も近所の整形外科に勤め、シングルマザーで苦労して自分を育ててくれた母とは親密すぎる関係だ。「女は結婚して子どもを育てて初めて一人前」という「普通」を疑いなく受け入れ、子どもはかわいいが絶対ほしいというわけではない春子には、「女に生まれてきたんやから、普通は子供ほしくないわけない」「人として普通じゃない」と容赦なく攻撃的な言葉をぶつける。

 本作では、きわめて狭い視野で語られる沙希の「普通」について、正誤のジャッジは下されない。その代わりに、沙紀の攻撃的な物言いやトラブルに巻き込まれた春子の視点で、沙希の半生があらわになっていく。漫画や絵を描くのが好きで、漫画家になりたいと思っていただろう少女時代。暴力を振るう父から自分を守り、昼夜問わず働いてくれた母に、「親子揃ってなんの取り柄もないから」「なんもできへんけど、それでもうちには、この子がいちばん」と言われ続けて育ってきたこと。大学進学をあきらめた彼女にとって、美大に進み、一人で好き勝手に暮らしている(ように見える)春子は、自身のアイデンティティを脅かすような存在だったのかもしれない。しかし、そんな春子自身も沙希と同じように、両親から「なんでもそこそこなんやから、なんもせんでええから」と言われて育ち、その言葉が呪いのように彼女の人生を縛っている。

 春子は沙希の人となりを知るにつれ、彼女を見離せないと感じるようになる。そして沙希もはっきりと考えを改めることはないが、家族とのケンカ、人生の転機を経て、春子やゆかりに頼るようになり、少しずつ変容していく。

 人それぞれの「普通」は、生まれた時代、地域、家庭環境など、不可抗力の要素に影響されているものだ。「普通」が他人によって揺り動かされたとき、相手を批判することは簡単だ。しかし時には悪態をついたり、気まずくなったり、衝突したりしながらも、相手の背景を推し量ることができれば、相手の理解できない面に折り合いをつけて、関係を再生することもできるのだ。

 そしてその過程で、自分の「普通」が数ミリ動いたり、そもそも「普通」であることは必須ではないと気づかされることもある。本作終盤、春子が「自分は普通じゃない」と思ってしまう“負い目”を学生時代からの友人に告白したとき、彼女は即座に「わたしは春子のこと普通とかおかしいとか、そういう基準で考えたことないよ」と返す。たくさんの「普通」が提示され、衝突する本作だからこそ、さりげなく置かれたこの会話は読者を癒やしてくれる。

 『待ち遠しい』には、どの「普通」が正しいといった、わかりやすいカタルシスはない。しかしそれは、私たちが生きる現実そのものでもある。勝ち負けも間違いも衝突も「日常」という大河がのみ込み、一見淡々と日々を紡ぐ春子たち。彼女たちを通して、読者自身の日常に立ち向かう力が蓄えられる一冊だ。
(保田夏子)

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』レビュー:差別の応酬を乗り越え、多様性を成熟させる「元・底辺中学校」生徒の奮闘記

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』レビュー:差別の応酬を乗り越え、多様性を成熟させる「元・底辺中学校」生徒の奮闘記の画像1

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社)

【概要】

 アイルランドの父を持ち、日本人(著者)を母に持つ英国生まれの息子が、人種差別が根強く残る地域の中学校に通うことを決めた――。殺伐とした英国の縮図のような「元・底辺中学校」で、ぶつかり合いながらもたくましく過ごす息子や友人たちの日常を描くノンフィクション。著者は、保育士として見た英国社会を活写したルポタージュ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』で、新潮ドキュメント賞を受賞したブレイディみかこ。英国で教育現場に携わったこともある著者ならではの視点で、今の英国が向き合う混乱と、それに立ち向かう人々が描かれる。

*************

 7月24日、英国では、メイ前首相に代わり、ボリス・ジョンソン首相が就任した。新首相がEU強硬離脱を宣言したことで、英国は欧州のみならず、世界からその動向を注視されている――とはいっても、多くの日本人にとって英国の社会事情はかなり遠い話だ。しかし英国は、日本が近い将来確実に直面し、かつ悩み惑うであろう問題にすでにぶつかり、向き合いつつある“先輩”なのかもしれない。そう感じさせたのが、英国在住のブレイディみかこ氏によるノンフィクション『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)だ。

 白人が圧倒的マジョリティーとして、1991年には人口の94%を占めていた英国。経済のグローバル化や人的移動、少子化が進んだ結果、2011年の調査では白人の割合は87%まで減少した。経済的に成功した移民は子どもを教育レベルの高い学校に入れるため、英国では学費も学力レベルも高いほど人種に多様性があり、一方で学力レベルが低い公立学校には白人労働者階級の子どもが集中するという、著者が“人種の多様性格差”と名付けてしまうような現象が起こっている。

 それまで、比較的裕福(つまり人種も多様)なミドルクラスの子どもが通う地域一番の教育校とされる小学校で、「人種差別はあってはならないもの」と学んでいた著者の息子は、中学進学時に、白人労働者階級の子どもが多く通う「元・底辺中学校」を選んだ。音楽やダンスなど生徒が積極的に興味を持つ分野の教育に力を入れることで、生徒の意欲を育み、学力ランキングも上げることに成功したという、雑多だが活気のある学校だ。しかしそこで息子は、今まで関わりの少なかった層の人々と触れ合い、ミドルクラスに属していては見えない、英国のある種の「現実」とぶつかり、戸惑うことになる。

 通学中に見知らぬ男性に「ファッキン・チンク」(※中国人、ひいては東洋系に向けた差別用語)とののしられたり、自身も移民なのにあからさまに人種差別をする同級生・ダニエルに怒りを覚えたり、衣食住が十分に整わない「アンダークラス(※日本でいう生活保護に近い福祉サービスを受ける層)」に属し、万引で苦しい生活を補おうとする同級生・ティムと出会ったり――。11歳の少年が引き受けるには複雑で重い日々のトラブルに、11歳だからこそ真っすぐ、正面から体当たりでぶつかっていく日常が、母である著者を通して描かれていく。

 著者の息子が持ち帰ってくる日々の悩みは、英国をはじめとする社会がぶち当たっているひずみみそのものだ。「元・底辺中学校」は、人種や国籍の多様性に乏しい代わりに、貧富の差や家庭環境には大きなバラつきがあった。「多様性はいいこと」だと学校で学んでいた息子は、頻発するトラブルの厄介さに「どうして多様性があるとややこしくなるの?」と母に質問する。

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばっかりしてると、無知になるから。(略)多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

 多様性は、差別意識も複雑なものにする。比較的裕福な家庭のダニエルは、金銭的事情で生活用品を十分にそろえられないティムをバカにし、対して英国人であるティムは東欧系であるダニエルの人種を差別することで巻き返そうとする。それは、社会のいたるところで起こっている、差別の応酬だ。対象は人種や国籍、性別に限らない。貧富、階級、出身、性的指向、高齢者と若者などさまざまなレイヤーの差別が複雑に絡み合い、単純に善悪をつけられるほうがまれだ。しかし、複雑な状況について知り、考えることをあきらめれば、それぞれの階層の分断が深まっていくばかりだ。

 息子たちは、学校という場で、その分断と向き合わざるを得ない。いじめも暴力も差別もまん延する中で、息子とダニエルは好きな音楽や映画を通して友情を深め、取っ組み合いのケンカをしたダニエルとティムはサッカーを通して相手を少しずつ認め始める。分断された端と端から、少年たちが小さな手を取り合っていくさまは、大人にとってはまぶしく、学ばされることも多い光景だ。

 年齢より大人びた息子の考え方は、自身がミックスとして生まれ、英国にも日本にもはっきりとした帰属意識を持てないことと無関係ではないだろう。英国では「チンク」とあおられるのに、日本に帰省すれば「ガイジン」と言われたり、知らない中年男性に「YOUは何しに日本へ?」と、しつこく絡まれたりする。ルーツとなるどちらの国からも「異邦人」として扱われる違和感が、彼に成熟を促し、人を区別することにまつわる感覚を繊細にしている。

 日々分断と差別による対立に向き合うための一助として、息子は学校教育で学んだ「エンパシー(empathy)」という概念について両親に語る。エンパシーとは、息子にとっては「自分で誰かの靴を履いてみること」であり、著者は「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだと思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のこと」だとつなげる。それは、英国のみならず、世界中のそこかしこで起きている混乱を乗り越えるために、これから身につけなければいけない能力なのかもしれない。

 日本も、ここ5年で在留外国人が増加の一途をたどり、過去最高を更新し続けている。英国が移民の流入に混乱するさまを、遠い国のこととして見ていられる時間はもう少ないかもしれない。遠くない将来には、ルーツも信念も宗教観も多様な人々と、今よりさらに身近に関わり合って生きることになるだろう。それは、圧倒的なマジョリティとして“楽”に生きてきた人――つまり多くの日本人が、“うんざりするほど大変だし、めんどくさい”ことと向き合うことを意味する。それを受け入れようと受け入れまいと、多様性の広がりが逆行することはない。それならば、前を向いて進んでいくしかない。そう考える人々にとって本書は、肩肘張らない参考書になるはずだ。
(保田夏子)