キンプリ分裂、タッキー退任に見るジャニーズ事務所「創業家一強体制」の大リスク

 平野紫耀、岸優太、神宮寺勇太のメンバー3人が来年5月に脱退し、その後は永瀬廉と高橋海人の2人で活動することが発表された、ジャニーズ事務所のKing & Prince(以下、キンプリ)。平野と神宮寺は脱退と同時に、岸は秋に事務所を退所するという。

 脱退発表に至った経緯を報じているのは、『週刊文春』2022年11月17日号(文藝春秋)だ。記事によると、平野がジャニーズ事…

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ジャニー喜多川氏との“夜の儀式”――「僕のペニスを吸っているのは……」15歳の“僕”が越えた最後の一線

 国民的アイドルとして知られるSMAP、嵐を筆頭に数多くの男性グループを輩出しているジャニーズ事務所。近年はSnow Manがデビューと同時に大ブレークを果たした。日本を代表する芸能事務所のひとつだが、10月23日は、そんな事務所を作り上げたジャニー喜多川氏の誕生日だ。

 履歴書の写真を見ただけで、その少年の成長した姿が見えるという逸話や、ジャニーズJr.にホタテの貝柱を配るといった個性的なエピソードに事欠かない同氏だが、一方でタレントに対する長年のハラスメント行為についても、長年まことしやかにささやかれている。

 2021年1月、元ジャニーズJr.の前田航気が海外向けメディア「ARAMA! JAPAN」に登場し、ジャニー喜多川氏のセクシャリティーやハラスメント行為について発言して話題を集めた。

 前田は18年9月頃までジャニーズJr.として活動。人気ジャニーズJr.ユニットの7 MEN 侍に所属し、舞台を中心に活動していた。「ARAMA! JAPAN」のインタビューに応じた前田は、「ジャニーズのタレントや社内のほかの誰かからアイドルの虐待について聞いたり、見たりしたことがありますか?」という質問に対し、ジャニー氏が「同性愛者」だと明かした上で、Jr.の何人かは、デビューをめがけて、ジャニー氏と「性交」を望んでいた……などと証言している。

 さらに「これが虐待と見なされるかどうかはわかりませんが、ジャニーズJr.と喜多川氏の間に性交があったことは確かです」と、話しているのだ。

 ジャニーズ事務所は、1980年代よりジャニー氏による性的虐待がうわさされ続け、これまでにも元タレントによる“暴露本”がたびたび物議を醸してきた。

 88年に元フォーリーブスの北公次が半生記『光GENJIへ』(データハウス)を出版し、ジャニー氏の“行為”を告発。翌年にも初代ジャニーズのメンバー・中谷良が『ジャニーズの逆襲』(同)でジャニー氏の性癖や、事務所の内情を暴露。90年代には平本淳也、豊川誕らも追随し、その全ての暴露本で、ジャニー氏の性的虐待について触れている。

 サイゾーウーマンでは、これら暴露本で告発された“行為”の内容を過去に何度も取り上げてきた。中でも、元・光GENJIの木山将吾による『SMAPへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(05年、鹿砦社)は、歴代の暴露本の中でもジャニー氏を糾弾すべくつられた「過激な内容」となっている。

 ジャニー氏と出会った高1の秋、15歳の頃から語られる“行為”の実態とはーー? あらためて再掲する。
(編集部)


(初出:2018年9月12日)

 他の被害者たちは漠然としか告白しないし、また、偽っている。僕もそうだった。みんなそうだ。彼らが真実を口にできないのは、ジャニー喜多川の行為が人間の尊厳を破壊するものだからだ。忘れられるはずがないだろう……。なぁ、ジャニーさんよ。

 かつてジャニーズ事務所のタレントとして活躍した、元タレントたちの告白本から、ジャニー喜多川氏が行ってきたホモセクハラ・性的虐待のリアルに迫る本連載。

 前回は、元・光GENJIの木山将吾氏が2005年に出版した『Smapへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(鹿砦社)から、少年をいきなりスター軍団の中に放り込んで夢心地にし、デビューをほのめかして心を溶かし、若い肉体にしのびよるジャニー氏のおなじみにして決定力バツグンの手口を、著書の中から紹介した。

 木山氏の背後から抱きつき、硬くなった下半身を木山氏にこすりつけながらズボンの中にイキ果てるという、盛りのついた犬のような行為に木山氏はショックを受けたものの、その直後に、木山氏は雑誌の取材を受けることとなり、いきなりの雑誌デビューを果たす。自分がシンデレラ・ボーイとなった実感が、ジャニー氏への疑問を薄めていくのだった。

 だが、そんな木山氏の様子をいいことに、ジャニー氏はさらに大胆な行為に出てきたという。

 合宿所で過ごす3回目の夜となった日、大部屋で1人で寝ていた木山氏のもとに、全身から香水のニオイをぷんぷんさせたジャニー氏がやってきて、足のマッサージをはじめたのだという。

 もうこのことにはマッサージに慣らされてしまい、ジャニーさんに触られることに対する抵抗がなくなっていた。

 だが、当然、それだけで済むはずはなかった。

 ジャニー氏の手は、木山氏の股間に伸び、巧みな愛撫に勃起したことを確かめると、スウェットのズボンをゆっくり引き下げてきたという。そして、若く元気な木山氏のペニスを前に、ジャニー氏は「はぁ、はぁ、はぁ」と犬のように鼻を鳴らしたかと思うと、

 次の瞬間、僕のペニスは生暖かいものに包まれた。同時に激しい快感の波が僕を襲った。

 木山氏にとって生まれてはじめてのフェラチオ体験だったという。

 そうだ、今、僕のペニスを吸っているのは、あのジャニーさんなんだよ。「やばいよ」と我に返った瞬間、そのまとわりつくナメクジのような舌の絶妙なテクニックで、ジャニーさんの口の中で果ててしまった。

 ジャニーさんはそれをゴクリと飲み込んだ。

 僕は初めてフェラチオをされた。相手は六十歳の男だった。でも、それが、この合宿所では当然の夜の儀式だった。

 タレントとしてデビューするための……。

 ジャニー氏のお気に入りとなった木山氏は、何をするにもジャニー氏についていくようになる。ジャニー氏は、木山氏を赤ん坊のように扱い、食事の際も食べ物を口に運び、箸を持たせることすらなかったそうで、その関係性は、幼子を持つ母親か、かいがいしい新妻かのようだったという。

 そして夜は、隣で仲間が寝ている中で、ジャニー氏に精液を吸われる日々が続いたという。

 ジャニーさんは律儀にも、全員と一緒にお風呂に入り、彼らのカラダのすべてを洗う。そして、その後は暗くした部屋にしのびこみ、今度は一人ずつ、全員を犯していくのだ。みんな、隣で仲間が寝ている中で、ジャニー氏に精液を吸われているのである。

 僕にフェラチオをして、いつものように、暖かいお絞りで僕の性器を丁寧にふき終わった後、隣のベッドの新人の中学生の男の子のもとへ移動した。

 木山氏は、〈これに耐えなければデビューできないというのは本当だ〉と言い、ジャニーズ、フォーリーブス、光GENJI、SMAP、すべてのアイドルがそうであると断言する。特別扱いを受け、濃密すぎるジャニー氏との2年間を過ごした、木山氏の言うことだけに、説得力は十分だ。

 そんな木山氏が、ついにジャニー氏との最後の一線も越えてしまったのは、テレビデビューを果たした直後だったという。

 同著の第4章「僕はジャニー喜多川とセックスをした」の項に、その詳細は官能小説かのように、数ページにわたって克明に記されている。

 その日のジャニー氏は、明らかにいつも以上にヤル気満々で、まずは少年の弱みを知り尽くしたフェラチオで、木山氏を1度目の射精に導く。さらに足の指の一本一本にまで舌を伸ばし、またしても激しいフェラで木山氏に襲い掛かり、なんとアナルにまで舌を伸ばしてきたという。木山氏の下半身は「うそだろ!」という思いと裏腹に、気付けばパンパンに張り詰めてしまったという。

 そこにひんやりとした感触を覚えた。何かがペニスに塗られたみたいだ。

 と思った瞬間……!

「ああ~~~っ!」

 ジャニーさんの嬌声だ。そして、僕のペニスは口ではない何かが生暖かくしめつけられるものに包まれた。
恐る恐る目を開けた。

「げっ! うそだろ!」

 今にも叫びそうになった。ジャニーさんが僕の上に馬乗りになっているじゃないか。そして、上下運動をはじめた。

 まさか、ケツの穴に、僕のチンポを!

 こんなことが許されていいはずはない。

 だが、デビューへの道のりと思ってこの地獄に耐えてきた木山氏に、ついにデビューが決まる。

「次のデビューが決まったよ。グループ名は『光GENJI』。そこのメンバーにYOUは入るからね。佐藤も諸星も一緒だよ」

 しかし、実際に、光GENJIとしてポスター撮りや、アイドル誌の取材まで受けながら、デビューしたグループに木山氏の姿はなかった。

 彼になにがあったのか。次回では、木山氏がデビューを目前にジャニーズを去る原因となったという、都市伝説的に語られてきた、ジャニー氏のもう一つの重大疑惑について、複数の告白本から改めて検証していこうと思う。

(渡邊孝浩)

※今日では差別意識を助長する表現ですが、「逆セクハラ」同様、「セクハラ」が男性から女性への“行為”と限定されていた当時の社会的状況を伝えるため、時事用語と捉え、1999年の「週刊文春」(文藝春秋)報道から引用しています。


<バックナンバーはこちらから>

54年前、毒牙にかけられた「初代ジャニーズ」(第1回)
16歳の「おれ」にジャニー喜多川が繰り返した性行為(第2回)
13歳を誘い犯した、ジャニー喜多川のパワハラと“行為”(第3回)
16歳の“僕”が「スター抜てき」と引き換えたもの(第4回)
「行為」をしなければJr.で終わる(第5回)
ジャニー喜多川氏の「泡風呂の儀式」「頬にキス」(第6回)

ジャニー喜多川さんの青春の地「高野山米国別院」、その父はエンターテインメントに「頭が切れる人だった」【命日に偲ぶ】

 ジャニー喜多川さんが亡くなってから早3年。7月9日の命日にその功績を偲んで、ジャニーさんと縁が深いアメリカ・ロサンゼルスの「高野山米国別院」にお話を聞いてきました。同院は、僧侶だったジャニーさんの父が戦前に主監を務め、ジャニーさんきょうだいが生まれ育った場所。2019年8月、ジャニーさんが亡くなって1カ月後にジャニーズJr.の美 少年が同地で公演を行い、最近でもTravis Japanが訪れるなど、現在でもジャニーズ事務所とつながりのある寺院です。高野山米国別院の第10代主監、松元優樹さんにジャニーさんや喜多川家にまつわる歴史を聞きました。

・松元優樹(まつもとゆうき)
米国ロサンゼルスの高野山米国別院、第10代主監。1979〜82年まで高野山米国別院に開教師として赴任。その後、シアトル高野山に5年務めて帰国。2020年1月から高野山米国別院で主監を務める。

ジャニー喜多川さんの父、 3代目主監・喜多川諦道先生

 高野山真言宗の海外布教が始まって、公式には今年で110年になります。1912年、米国へ船に乗ってひとりのお坊さんがやってきました。ロサンゼルスには既に日本人の移民が住んでいましたので、浄土真宗はじめ、さまざまな日本の仏教がロサンゼルスで開教していました。真言宗の教宣に関しては1912年ということになっています。

 高野山真言宗の組織は、いわゆる管長猊下(げいか)という宗教上のトップがおりますが、運営側のトップとして宗務総長というお役職があります。その下に、教学部長とか財務部長、法会部長というお役職があり、宗教団体としてのピラミッドができています。それが、高野山真言宗という宗教団体の組織です。

 明治期、すでに日本人の海外移民は行なわれていました。中国大陸をはじめ、ハワイ、アメリカ太平洋沿岸地域に進出していた日本人に対し、高野山でもこれらの地域での開教に強い関心を持っていたのです。そこで、時の管長猊下より北米宗教事情を視察と開教を命じられた青山秀泰(しゅうたい)というお坊さんが、1909年(明治42年)、船に乗ってサンフランシスコに上陸したのでした。

 その方がこの高野山米国別院、初代主監・青山秀泰先生であります。真言宗が北米大陸に初の布教所「米国大師教会」を設立したのが12年(明治45年)ですから、実に3年もの間、苦労を耐えて初志貫徹されたということです。青山先生は1921年(大正10年)に帰国されました。

 青山先生の跡を継いで米国大師教会第2代主監に就任したのが高田宝戒(ほうかい)先生という方でした。高田先生は1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで主監をお務めになられました。この方も非常に秀才でして、説教をさせたらほかの宗派の人も敵わないというくらいお話が上手な方だったそうです。

 そして、3代目が喜多川諦道(たいどう)というお坊さんです。この喜多川諦道先生こそ、ジャニー喜多川氏のお父さまです。この方の履歴が面白い。

 世の中にはいろいろなタイプの人間がいるように、お坊さんにもいろいろなお坊さんがいます。諦道先生は、明治29年に大分県でお生まれになりました。諦道先生が13歳のとき、高野山に登って、お坊さんの修行を始めました。諦道先生のお葬式をしたのは、高野山の山の中にある普賢院様というお寺ですが、この普賢院様に、諦道先生は弟子入りをしました。その関係で、普賢院さんにお葬式をお願いをすることになったんだろうと思います。

 諦道先生がお坊さんになった当時の普賢院様のご住職は、重松寛松僧正という方でした。重松僧正はいろいろな政界、財界の方と懇意にされていらしたそうです。その中のお一人が大隈重信さんでした。重松僧正が上京する際には、しばしば諦道先生をお伴としていたようで、諦道先生も、大隈さんから可愛がられていたようです。

 そのようなご縁があったことから、諦道先生も胸の内に海外への関心は大きくなったようです。しかも、このような中央政財界の方から「あなたも、一度世界を見てきてはどうか」と勧められ、十分な餞別まで喜捨していただき海外に行く段取りをしました。こうして世界一周の旅の準備も整い、1923年(大正12年)9月15日の船の予約をとり、アメリカに向けて出港することにしていました。

 ところが、9月1日に関東大震災が起こったために、諦道先生は一時渡航を延期してお見舞いのために上京されます。この時、永田秀次郎東京市長より犠牲者の供養を依頼され、遺骨を持って高野山までお帰りになったというエピソードが残っています。実際に諦道先生が外遊の旅に出たのは、翌年の1924年(大正13年)の2月でした。

 また、こんな話もあります。外遊の準備を進めていた時、大阪の山下敬二郎外事課長という方が喜多川先生の「諦道」という名前を見て、「もしあなたが僧侶であるなら『開教師』の辞令を所持していたほうが何かと便利であろう」と助言をしてくれたおかげで、時の高野山宗務長であった藤村密幢師に願い出て辞令を交付してもらい、渡米したという経緯が残されています。

 諦道先生は、サンフランシスコ行きの船に乗り合わせていた米国大師教会信徒の植松磯男氏のすすめで、ロサンゼルスの大師教会に参拝し、高田主監にあいさつをしました。そして、高田先生に手伝いを頼まれてしばらく滞留することになりました。

 最初は2〜3カ月のつもりでしたが、高田先生が急に日本へ帰国することになり、「次の先生が来るまで」という約束で大師教会を任せられることに。しかし、なかなか後任者が現れなかったために、諦道先生は一大決心をして大師教会のために尽力することを決め、大阪から栄子夫人を呼び寄せたのです。ここに、喜多川諦道第3代主監が誕生したのです。

 喜多川先生は、とにかく非常にユニークな方で、ご自身のことを「ヤクザ」「遊び人」と平気で言う方でした。とはいうものの、それだけにとどまる人ではなかったことは明らかです。そうでなければ、10年間も教会の運営に携わることなどできたはずがないのです。諦道先生の帰国後は、どういう経緯か定かではありませんが、大阪で「杵万」というおかき屋、ぜんざい屋をやったりするほどの方で、ちょっと桁外れな、お坊さんらしくない方ですね(笑)。

 諦道先生は、1924〜34年まで10年間主監を務めました。その間に喜多川さんがやったことのひとつに、ものすごく大きなことがあります。それは「グループを作る」ということだったんです。

 まず、真っ先に手をつけたのは、諦道先生の主監就任時にすでに衰退していた「大師教会婦人会」を復興させることでした。なんと、喜多川先生は教会で料理講習会を開いたのです。当時、ロサンゼルス第一と言われていた料理人を招き、日本料理から西洋料理に至るまでを講習してくれるというので、あっという間に大人気となり、教会に入り切らないほどの盛況ぶりであったと聞いています。その上達した料理の腕前を披露したのが、日本海軍水兵さんたちへの歓迎・接待会でした。

 ロサンゼルスから南におよそ1時間のところに、サンペドロという港があります。そのサンペドロに日本からの軍艦が着く。軍艦が着くと、日系人はこぞって将校さんとか、いわゆる上の位の方々のお接待をしていました。

 でも、諦道先生は違いました。高野山の婦人会はペーペーの水兵さんたちを「いらっしゃい。お接待してあげますから、うちにいらっしゃい」と招待していました。だから、その昔、高野山は「水兵さんのお寺」といわれるほどでした。

 やがて、この高野山婦人会の奉仕活動は世間が知るところとなり、手伝いを申し出るご婦人方や食材を寄進してくれる人々も現れ、ロサンゼルス日系人社会では名物となっていったのです。この企画、立案、実行によって高野山婦人会が急速に充実していったことは言うまでもありません。

 また、「ボーイスカウト第379隊」の結成は諦道先生の大きな功績の一つです。大師教会には信徒の子弟を中心に、青年会、少女会、日曜学校がありましたが、折り目正しい生活と、強い倫理観、責任感を養い、かつ全世界共通の規律によって規制された人種差別のないボーイスカウトのスポンサーになろうと、諦道先生は決心したのです。この隊はのちに、米国中で最も優秀な活動だと選ばれて、アメリカ大統領に謁見をすることになります。

 そんなボーイスカウトの晴れ舞台は、2019年に美 少年(ジャニーズJr.)も出演した、リトルトーキョーのフェスティバル『ニ世ウィーク』(二世週日本祭)のパレードで先頭を行進すること。この行進は今でも続いているのです。諦道先生はボーイスカウト379隊の初代チャプレン(宗教的指導者)として名を残しています。

 このように、エンターテインメントや、団体を立ち上げこと、人を喜ばすことにものすごく頭の切れた方が、実はジャニーさんのお父さまだったのです。

 今ここは「高野山米国別院」という名前で、「米国大師教会」時代から名称と建物が変わっていますけれども、新しいお堂を作ろうというムーブメントを起こしたのも喜多川先生です。

 諦道先生を中心に多くの人たちが集まってくるので、お堂が狭くなってどうにもならなくなりました。折りしも米国大師教会の地主であった会社から立ち退きを命じられ、ほかの場所へ移らなくてはならない事態が起こったのです。そして、このリトルトーキョーのど真ん中に土地を求めることになり、そして今「高野山米国別院」というのがここに建っているわけです。

 さて、喜多川先生がいよいよ日本に帰ることになると、ものすごい活躍をした方だけに、当然地元の日系人からは惜しまれるわけです。「まだ帰らないでくれ」という署名運動も起こり、アメリカの日系人の新聞「羅府新報」に「温情開教師喜多川師出発。誰からも持たれし親しみ」というタイトルのもとに10年間に及ぶ師の開教生活を讃える記事が新聞に載ったくらい、帰国が悲しまれたそうです。

 記事には、「大師教会開教師喜多川諦道師は愈々明日午後四時出帆の秩父丸に乗船,家族同伴帰朝の途に上る事になった。(中略)大師教会の事業は,救済,社会矯風,教育凡百の方面に亘って居るが,水兵の歓迎,困窮者の救助,下町方面の諸問題の解決等謂はば侠客的な潜行運動が多く,それは喜多川開教師の温情主義から発生した救民衆生済度で,在留同胞の実情からして無くてはならない一つの社会運動であった。従って個人的にでも団体的にでも同師の世話を受けた者は少なくない。今回の帰朝に際しても協会員は勿論一般同胞からも惜しまれて,引き止め運動なども起きたが事情止むなく,故国の教化界に入って活動することになったのである」(原文ママ)と載っています。

 そして、喜多川さんは日系人社会から感謝状をもらって、秩父丸という船で、昭和8年(1933年)8月26日に長く住み慣れたロサンゼルスに数々の思い出を残して日本に帰ることになりました。

 ここに、「高野山米国別院五十年史」というのがあります。その中に、喜多川諦道先生については、何ページにもわたって功績がつづられ、記録が残っています。

 終戦から4年後の昭和24年(1949年)、ジャニーさんらきょうだい3人は学業修了のために、またロサンゼルスに帰ってきます。高校を卒業するためですね。それはごきょうだいがアメリカで生まれ、アメリカの市民権を持っていたからこそ実現したのです。そのときに米国別院にいたのが、高橋成通先生というお坊さん。喜多川諦道先生の後を受けてやってきた4代目の主監です。

 ジャニーさんきょうだいは高橋先生とも面識があったので、よく別院にも出入りをしていたようです。それは、ジャニーさんの好きな芸能がたくさんあるところだったからです。父・諦道師が心血を注いできた芸能が、その後もこの別院で受け継がれていました。ジャニーさんは別院で催し物があるときは、よくアルバイトとしてステージ周りの手伝いをしていたそうです。

 当時、ジャニーさんは、リトルトーキョーで写真館を営む、写真家であり米国別院の信徒である宮武東洋さんの家族と仲が良かったようです。この宮武さんは、戦前・戦中・戦後を通して日系人の写真を撮り続けた人物で、日系人界では名の知られた方です。

 宮武さんは人気写真家で、戦後すぐの頃日本からロサンゼルスを訪れた有名人・芸能人のほとんどを撮影していて、宮武さんのアルバムには、1953年に訪米した当時の皇太子(現・上皇)も写っています。ここに、ジャニーさん兄弟と高橋さんの長女、フランセス中村さんが一緒に撮影した写真があります。フランセスさんは父の高橋先生と一緒に、諦道さんのお父様が営んでいたぜんざい屋を訪ねてごちそうになったこともあったそうです。

 また、ジャニーさんが渡米した翌年の1950年に朝鮮戦争が勃発するのですが、彼はアメリカ国民として米軍に徴兵されています。その後、朝鮮半島での兵役を終えた後、ジャニーさんはアメリカには戻らず、経由地である日本に残り、そしてジャニーズ事務所を設立したのです。

 日系人というのは、戦前・戦中・戦後を通じて人種差別の対象でした。私も40年前にロサンゼルスに来たときに、やっぱり差別を受けました。そういうこともあったので、日系人は戦前〜終戦後、自分たちの文化を外に発信することができなかったんです。

 例えば日本の空手、柔道、剣道で「試合をしましょう」「会場を借りましょう」となっても、「日本人には貸さないよ」と言われる。そういうことが続きました。そこで、高野山はどうしたかというと、多目的ホールを造ろうと。試合をやったり、日本の浪花節や三味線のお師匠さんが来たときに披露できるようなステージもあるホールを。

 今、ここの高野山ホールのキャパシティは600人です。ステージがあって、その奥にお堂があります。お堂の前の戸板をパタパタと閉じると、お堂の中は見えない。このステージを使って、例えば浪曲や三味線や歌舞伎などもやっていた。ジャニーさんは、そういうショーがあるときに、ステージボーイとして大道具を出したり、小道具を渡したり、幕を閉めたり、ライティングをしたり、マイクロフォンをセッティングしたりしていました。

ジャニー喜多川さんにはお父様の「人を楽します」血が流れていた

 その後、ジャニーさんは日本に帰って、テレビ界に進出していくことになるんですけれども。おそらくジャニーさんの血の中には、お父さまのそういう「人を楽します」とか「人を喜ばす」という、その血がそのまま流れていたんでしょう。

 また、ボーイスカウトを作ったり水兵さんを招待するくらい、お父さまは若い人たちを集めるのが得意だった。やっぱり影響されていたのかもしれないですね。やはり「血」と言いますか、「DNA」だと思います。

 「別院百周年記念誌」には、フォーリーブスが訪問した記録も残っています。美 少年、Travis Japanと訪問が今でも続いているのは、喜多川ファミリーの心の中に、アメリカに対する感謝の気持ちと、米国別院への懐かしい記憶があるからだろうと思います。ジャニー氏、メリー女史とも、アメリカにおける数々の経験や、父親との高野山別院との関係を懐かしく感じていらしたことは確かでしょう。

 現在、高野山にあるジャニーさんのお墓は、お父さまの喜多川諦道先生が弟子入りをした普賢院様の管理する墓所の一角にあります。それは取りも直さず、普賢院様と喜多川家との密接な関係の中で築かれたということでしょう。

 喜多川諦道僧正というお父さまが、大分県から高野山に登って、そして普賢院というお寺のお弟子となり、そして「世界を見てこい」と言われて、アメリカへ渡った。そこではみんなに慕われて、慕われて、慕われて、そして日本に帰り、今度はその後を追うように、ジャニーさんがアメリカに戻ってきて、そこでさまざまなことを勉強した。そして日本に帰り、彼は花を咲かせた。そして帰ってゆく場所は、お父さんのふるさと、高野山だった。

 「阿字(あじ)の子が 阿字の古里 立ちいでて また立ち還る 阿字の古里」という御詠歌があります。「あ」という字、「あ」という音はインド語の母音からきていて、日本語で「あ」は一番最初の音。英語でも「A」から始まります。「あ」という響きには、ものの始まりという意味があるんです。この和歌は「ものの始まりから始まった私たちは、またものの始まりに立ち返っていくのだ」という意味。大分から普賢院、アメリカ、やがて日本で花を咲かせて、また普賢院に帰っていった。すべては縁ですね。

 2019年に美 少年が『二世ウィーク』でパフォーマンスをしたときのことです。JA CCC(日米文化会館)という、アメリカで一番大きな日系文化センターに800人が入るホールがあり、音響も素晴らしく、オーケストラもできる設備が整っています。そのホールの庭で、美 少年はパフォーマンスをしました。

 JA CCCエグゼクティブアートディレクターの小阪博一さんが「パフォーマンスをするんだったら、高野山米国別院でやったらどうか」と言って、それで美 少年は別院でもやることになったわけです。

 本当ならばJA CCCのホールでやれば800人入りますし、音響、照明、全て設備がそろっているからいいかもしれないけれども、ジャニーズ事務所も「高野山でやるんだったら」ということで、音響も照明も外部発注、電気も電源車まで入れて、『ARIGATO KOYASAN』コンサートをやってくれました。

 今年は、Travis Japanに『二世ウィーク』へ出ないかとJA CCCがオファーをしましたが、なにかご予定があるのか修行中だからか(笑)、出演はかないませんでした。

 私が主監に就任して2年半の間に、ジャニーズ事務所と関係ない若い人たちが、どこから聞いたのか「日本に帰る前にお参りさせてください」とコロナ禍であってもお堂にやってくるんです。「音楽をやってるなら、一度は別院を訪れたほうがいいよ」と言われたと言うんですね。私はホールの明かりをつけて、ステージでトップサスペンション(照明)を浴びさせてあげています。日本の芸能を楽しんでもらおうと奔走した人が作ったステージの上に、あなたは立っているよ、と。

SixTONES・田中樹&松村北斗、ジャニー氏の『Mステ』“暴挙”を暴露!? リハーサルで急に来る“使い”の正体とは

 SixTONESメンバーがパーソナリティを務めるラジオ番組『SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル』(ニッポン放送)。10月16日放送回では、音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系、以下『Mステ』)の思い出を振り返る中、ジャニーズ事務所前社長・ジャニー喜多川氏の“暴挙”ともいえる演出に触れる一幕があった。

 この日のラジオには、田中樹と松村北斗が出演。自由なトークを繰り広げる中、『Mステ』の司会を担当しているタモリが“ギネス世界記録”に認定されたという話題になった。タモリは1987年4月3日放送回から司会に就き、今年9月17日放送回までで34年168日が経過。「同一司会者による生放送音楽番組の最長放送」として11月17日発売の書籍『ギネス世界記録2022』日本語版(KADOKAWA)に掲載されることを、テレビ朝日が10月14日に発表したばかりだった。

 このニュースを紹介した後、2人は「『Mステ』に初めて出演したのはいつ頃だったか」と回顧。松村は「(ジャニーズJr.時代に)Hey!Say!JUMPさんとかの後ろにつけてもらったかな」、田中は「俺、たぶんKAT-TUNさん(が出演した時)だと思うな」と、それぞれ懐かしんだ。

 そんな話から、Jr.時代の『Mステ』エピソードで盛り上がる2人。「Jr.は『Mステ』出る時に大部屋じゃない」(田中)「ひと教室分ぐらいある」(松村)と楽屋が非常に大きかったことを明かし、学校を終えて夕方5時頃に現場入りする学生のJr.もいたそう。

 さらに田中いわく、「カメラリハーサルの映像を延々見させられて。振り付け師さんに怒られて。そのまま本番まで延々またダンスして、本番みたいな。髪形を整える時間とかほぼなかった。だからもうそのままよ」と、慌ただしく生放送の出番を迎えていたという。そんな中、「先輩に被っちゃうから、ちょっとこっちズレて」と指示が入ったり、立ち位置が変わることによって振り付けが変わったりと、その場で臨機応変な対応が求められたとか。

 このような“位置変え”が起こる理由はほかにもあり、松村いわく「『目立たせたいJr.がいるから』みたいな感じで」指示されるのだといい、田中は「そう、急に来るのよ! “ジャニーさんからの使い”が。ジャニーからの使いがたまに来るのよ」と補足。続けて「『見たことない!』みたいなやつが。ジャニーさんが『これ君たちと一緒に踊らせて』って言われて、真ん中に“ボンッ”て入ってくるのよ」と熱弁していた。

 “ジャニーさんからの使い”は衣装も周りのJr.とは違っていたそうで、松村によれば、みんなが赤ベストを着用している中、一人だけ「黒ガムテ(黒いガムテープ)でデザイン入れるんですよ。そのまま本番出されてんの」と、目立たせるために急きょおそろいの衣装に手を加えることもあったとか。さらに「当時の衣装って、結構、黒ガムテで作られてること多いんですよ、ホントに。白いパンツのサイドライン、黒で入ってるとか」と詳細に振り返っていた。

 また、“Jr.あるある”として「(衣装の)靴のサイズが合わないとかめっちゃあった」と明かした田中は、大きなダンボールに詰め込まれた黒い靴を自分で選んで履くものの、25~26cmがすぐになくなるため、ブカブカの靴を履いて番組に出たことがあるという。それだけでなく、左右違うサイズの靴を履いた経験もあったそうで、「26と28(cm)とかになってる時ある」と、下積み時代ならではの経験を楽しそうに話していた。

 このトークを受け、リスナーからは「Jr.もいろいろ大変だね。自分ならメンタルが持たないかも」「ジャニーからの使いがくるって、スゴい世界」「『Mステ』は髪形を直す時間もなかったし、急にジャニーさんからの使いが飛び込んでくることがあるって……ジャニーズJr.ってスゲーなあ」など、驚きの声が続出。これからも、こうした貴重なエピソードが聞ける機会に期待したい。

ジャニーズ“最凶”のV6・坂本昌行、「ジャニーさんの顔に泥を塗った」伝説とは? 「ドラマ主役を断った」作品明らかに

 かつて、ジャニー喜多川前社長から“恐れられていた”ほど、若かりし頃は尖っていたというジャニーズ“最凶”の男ことV6・坂本昌行。V6の20th Century(坂本・長野博・井ノ原快彦)がパーソナリティを務めるラジオ番組『V6 Next Generation』(JFN系、2月20日放送)では、そんな坂本の伝説的なエピソードを懐かしむ一幕があった。

 長野は1986年、坂本と井ノ原は88年にジャニーズ入りを果たしたが、V6としてデビューする前には、ともに光GENJIのバックダンサー「平家派」なるユニットで活動した時期も。この日の放送では、入所順で2年先輩になる長野について「スゴいですね、もう。(ジャニーズ事務所)入所、4月で35周年」「芸能活動35周年、(年数だけ見たら)演歌歌手ですよね」と、称えた坂本。

 坂本が「17歳で入ってさ、すぐ平家派ってことは、意外と出世早かったんだね、俺」と過去を振り返ると、2人は「早いよ。坂本くんエリートだよ」(井ノ原)「エリートコースですよ。だって、平家派に来て、センターで踊ってた方が抜けたじゃないですか。バックで踊ってる。それで、そこにいきなりポンってセンター入って来たもんね、坂本くんね」(長野)と、ヨイショ。

 そんな話の流れから、井ノ原は武田鉄矢主演のドラマシリーズ『3年B組金八先生』(TBS系)のオーディションで、「(坂本が)大絶賛されたっていう伝説があって」と、切り出した。井ノ原いわく、坂本は『金八』の主役(生徒役)に決まりかけていたものの、「僕、学校があるんで」と断ったことを、頻繁にジャニー氏がこぼしていたんだとか。これに関して、坂本本人は、

「主役のオーディション行って。そんなお芝居なんてやったことないし、ドラマなんて……みたいなことを思って受けたのよ。そしたら、ちょっと態度悪かったんだろうね。だけど、その主役の対抗馬の不良役みたいな役に『ぜひ』ってお話をいただいたものを、『学校がありますんで』って(断った)。どのツラ下げてって感じだったんですけど」

と、回顧。井ノ原が「『何しにきたんだよ』ってなるだろうね、向こうはね。『そういうのクリアになった人が来るんでしょ』っていう」とドラマ制作陣の気持ちを想像すれば、坂本は「ジャニーさんの顔に泥を塗ったって感じだよね、本当に」と、今になって反省しているそう。

 また、近年のジャニーズタレントは大学進学者も多く、学業と芸能活動の両立が基本となっているだけに、井ノ原は「それずっと(ジャニー氏から)言われてたもん。『あいつさ、「学校なんで」』。まぁ、今だったら当たり前なんだけどね」と、かつては芸能活動を優先する者が多かったとも言及。

 当の坂本が「俺の動機もそこだからね。学校辞めるために事務所入った」と思い返すと、長野は「なのに、受かったのに『学校あるんで』って(笑)」とツッコミ。一方で、井ノ原は「当時さ、坂本くんとオーディション行くと、だいたい坂本くんに質問が集中してさ。『君、もう一回ここのセリフ読んでみてくれ』とかさ。坂本くんばっかりが言われてた思い出があるよ」と明かしており、『金八先生』以外のオーディションでも坂本は目を引く存在だったようだ。

 この時期、坂本と井ノ原はよく一緒にオーディションへ足を運んでいたといい、マラソンの映画の審査に出かけた際は、帰りにTOKIO・城島茂、国分太一、松岡昌宏と、駅前にある屋台でラーメンを食べたという。そのたびに、井ノ原たちは「絶対、坂本くんに決まりですよ」と会話しながら帰路についていたそうだ。

 しかし、坂本は「でも、(オーディションでは)好印象だったけど、それ全部やってないんだよね、俺」と、ボソリ。「なんなんだろうね。蹴ったというか、お断りしたのは、『金八』のは覚えてるけど。ほかのは全然、覚えてないんですよ。やる気満々で行ったし。なんだろう?」と、不思議な様子だ。

 すると、長野はフォローするかのように「『金八』の時はさ、“別に”って感じで行ったのがよくてさ、そういうのってあるじゃん。『受かります! 頑張ります』って人じゃない人が受かるパターンってよくあるじゃないですか。そんな感じになってきちゃったんじゃないですか」と推測し、井ノ原も「あるある。“付き添いの友達が合格した”みたいなやつね」と、同調。最終的に井ノ原は「懐かしいね。それぞれのオーディションの話とかさ、一緒に受けたオーディションの話とか、また思い出したらちょこちょこしましょうよ」と、まとめていたのだった。

 そんな坂本も、今は数々の舞台で主役を務めるなど、すっかり売れっ子俳優の一人に。若い時のオーディションや苦い経験があるからこそ、演技・表現力が磨かれていったのかもしれない。

ジャニー喜多川氏と15歳の「僕」の“夜の儀式”――「僕は初めてフェラチオをされた」「一人ずつ、全員を……」

 元ジャニーズJr.の前田航気が海外向けメディア「ARAMA! JAPAN」に登場し、ジャニー喜多川氏のセクシャリティーやハラスメント行為について発言したことが話題を集めている。

 前田は2018年9月頃までジャニーズJr.として活動。人気ジャニーズJr.ユニットの7 MEN 侍に所属し、舞台を中心に活動していた。「ARAMA! JAPAN」のインタビューに応じた前田は、「ジャニーズのタレントや社内のほかの誰かからアイドルの虐待について聞いたり、見たりしたことがありますか?」という質問に対し、ジャニー氏が「同性愛者」だと明かした上で、Jr.の何人かは、デビューをめがけて、ジャニー氏と「性交」を望んでいた……などと証言している。さらに「これが虐待と見なされるかどうかはわかりませんが、ジャニーズJr.と喜多川氏の間に性交があったことは確かです」と、話しているのだ。

 ジャニーズ事務所は、1980年代よりジャニー氏による性的虐待がうわさされ続け、これまでにも元タレントによる“暴露本”がたびたび物議を醸してきた。88年に元フォーリーブスの北公次が半生記『光GENJIへ』(データハウス)を出版し、ジャニー氏の“行為”を告発。翌年にも初代ジャニーズのメンバー・中谷良が『ジャニーズの逆襲』(同)でジャニー氏の性癖や、事務所の内情を暴露。90年代には平本淳也、豊川誕らも追随し、その全ての暴露本で、ジャニー氏の性的虐待について触れている。

 サイゾーウーマンでは、これら暴露本で告発された“行為”の内容を過去に何度も取り上げてきた。中でも、元・光GENJIの木山将吾による『SMAPへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(05年、鹿砦社)は、歴代の暴露本の中でもジャニー氏を糾弾すべくつられた「過激な内容」となっている。ジャニー氏と出会った高1の秋、15歳の頃から振り返り語られる“行為”の実態とはーー? いまあらためて再掲する。
(編集部)


(初出:2018年9月12日)

昼は食事を与えられ、夜は精を吸われる――ジャニーさんとの“蜜月”と“恥辱”の日々

 他の被害者たちは漠然としか告白しないし、また、偽っている。僕もそうだった。みんなそうだ。彼らが真実を口にできないのは、ジャニー喜多川の行為が人間の尊厳を破壊するものだからだ。忘れられるはずがないだろう……。なぁ、ジャニーさんよ。

 かつてジャニーズ事務所のタレントとして活躍した、元タレントたちの告白本から、ジャニー喜多川氏が行ってきたホモセクハラ・性的虐待のリアルに迫る本連載。

 前回は、元・光GENJIの木山将吾氏が2005年に出版した『Smapへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(鹿砦社)から、少年をいきなりスター軍団の中に放り込んで夢心地にし、デビューをほのめかして心を溶かし、若い肉体にしのびよるジャニー氏のおなじみにして決定力バツグンの手口を、著書の中から紹介した。

合宿所で、生まれて始めての……

 木山氏の背後から抱きつき、硬くなった下半身を木山氏にこすりつけながらズボンの中にイキ果てるという、盛りのついた犬のような行為に木山氏はショックを受けたものの、その直後に、木山氏は雑誌の取材を受けることとなり、いきなりの雑誌デビューを果たす。自分がシンデレラ・ボーイとなった実感が、ジャニー氏への疑問を薄めていくのだった。

 だが、そんな木山氏の様子をいいことに、ジャニー氏はさらに大胆な行為に出てきたという。

 合宿所で過ごす3回目の夜となった日、大部屋で1人で寝ていた木山氏のもとに、全身から香水のニオイをぷんぷんさせたジャニー氏がやってきて、足のマッサージをはじめたのだという。

 もうこのことにはマッサージに慣らされてしまい、ジャニーさんに触られることに対する抵抗がなくなっていた。

 だが、当然、それだけで済むはずはなかった。

 ジャニー氏の手は、木山氏の股間に伸び、巧みな愛撫に勃起したことを確かめると、スウェットのズボンをゆっくり引き下げてきたという。そして、若く元気な木山氏のペニスを前に、ジャニー氏は「はぁ、はぁ、はぁ」と犬のように鼻を鳴らしたかと思うと、

 次の瞬間、僕のペニスは生暖かいものに包まれた。同時に激しい快感の波が僕を襲った。

 木山氏にとって生まれてはじめてのフェラチオ体験だったという。

 そうだ、今、僕のペニスを吸っているのは、あのジャニーさんなんだよ。「やばいよ」と我に返った瞬間、そのまとわりつくナメクジのような舌の絶妙なテクニックで、ジャニーさんの口の中で果ててしまった。

 ジャニーさんはそれをゴクリと飲み込んだ。

 僕は初めてフェラチオをされた。相手は六十歳の男だった。でも、それが、この合宿所では当然の夜の儀式だった。

 タレントとしてデビューするための……。

 ジャニー氏のお気に入りとなった木山氏は、何をするにもジャニー氏についていくようになる。ジャニー氏は、木山氏を赤ん坊のように扱い、食事の際も食べ物を口に運び、箸を持たせることすらなかったそうで、その関係性は、幼子を持つ母親か、かいがいしい新妻かのようだったという。

 そして夜は、隣で仲間が寝ている中で、ジャニー氏に精液を吸われる日々が続いたという。

 ジャニーさんは律儀にも、全員と一緒にお風呂に入り、彼らのカラダのすべてを洗う。そして、その後は暗くした部屋にしのびこみ、今度は一人ずつ、全員を犯していくのだ。みんな、隣で仲間が寝ている中で、ジャニー氏に精液を吸われているのである。

 僕にフェラチオをして、いつものように、暖かいお絞りで僕の性器を丁寧にふき終わった後、隣のベッドの新人の中学生の男の子のもとへ移動した。

 木山氏は、〈これに耐えなければデビューできないというのは本当だ〉と言い、ジャニーズ、フォーリーブス、光GENJI、SMAP、すべてのアイドルがそうであると断言する。特別扱いを受け、濃密すぎるジャニー氏との2年間を過ごした、木山氏の言うことだけに、説得力は十分だ。

 そんな木山氏が、ついにジャニー氏との最後の一線も超えてしまったのは、テレビデビューを果たした直後だったという。

 同著の第四章「僕はジャニー喜多川とセックスをした」の項に、その詳細は官能小説かのように、数ページにわたって克明に記されている。

 その日のジャニー氏は、明らかにいつも以上にヤル気満々で、まずは少年の弱みを知り尽くしたフェラチオで、木山氏を1度目の射精に導く。さらに足の指の一本一本にまで舌を伸ばし、またしても激しいフェラで木山氏に襲い掛かり、なんとアナルにまで舌を伸ばしてきたという。木山氏の下半身は「うそだろ!」という思いと裏腹に、気付けばパンパンに張り詰めてしまったという。

 そこにひんやりとした感触を覚えた。何かがペニスに塗られたみたいだ。

 と思った瞬間……!

「ああ~~~っ!」

 ジャニーさんの嬌声だ。そして、僕のペニスは口ではない何かが生暖かくしめつけられるものに包まれた。
恐る恐る目を開けた。

「げっ! うそだろ!」

 今にも叫びそうになった。ジャニーさんが僕の上に馬乗りになっているじゃないか。そして、上下運動をはじめた。

 まさか、ケツの穴に、僕のチンポを!

 こんなことが許されていいはずはない。

 だが、デビューへの道のりと思ってこの地獄に耐えてきた木山氏に、ついにデビューが決まる。

「次のデビューが決まったよ。グループ名は『光GENJI』。そこのメンバーにYOUは入るからね。佐藤も諸星も一緒だよ」

 しかし、実際に、光GENJIとしてポスター撮りや、アイドル誌の取材まで受けながら、デビューしたグループに木山氏の姿はなかった。

 彼になにがあったのか。次回では、木山氏がデビューを目前にジャニーズを去る原因となったという、都市伝説的に語られてきた、ジャニー氏のもう一つの重大疑惑について、複数の告白本から改めて検証していこうと思う。

(渡邊孝浩)

※今日では差別意識を助長する表現ですが、「逆セクハラ」同様、「セクハラ」が男性から女性への“行為”と限定されていた当時の社会的状況を伝えるため、時事用語と捉え、1999年の「週刊文春」(文藝春秋)報道から引用しています。


<バックナンバーはこちらから>

54年前、毒牙にかけられた「初代ジャニーズ」(第1回)
16歳の「おれ」にジャニー喜多川が繰り返した性行為(第2回)
13歳を誘い犯した、ジャニー喜多川のパワハラと“行為”(第3回)
16歳の“僕”が「スター抜てき」と引き換えたもの(第4回)
「行為」をしなければJr.で終わる(第5回)
ジャニー喜多川氏の「泡風呂の儀式」「頬にキス」(第6回)

ジャニー喜多川氏と15歳の「僕」の“夜の儀式”――「僕は初めてフェラチオをされた」「一人ずつ、全員を……」

 元ジャニーズJr.の前田航気が海外向けメディア「ARAMA! JAPAN」に登場し、ジャニー喜多川氏のセクシャリティーやハラスメント行為について発言したことが話題を集めている。

 前田は2018年9月頃までジャニーズJr.として活動。人気ジャニーズJr.ユニットの7 MEN 侍に所属し、舞台を中心に活動していた。「ARAMA! JAPAN」のインタビューに応じた前田は、「ジャニーズのタレントや社内のほかの誰かからアイドルの虐待について聞いたり、見たりしたことがありますか?」という質問に対し、ジャニー氏が「同性愛者」だと明かした上で、Jr.の何人かは、デビューをめがけて、ジャニー氏と「性交」を望んでいた……などと証言している。さらに「これが虐待と見なされるかどうかはわかりませんが、ジャニーズJr.と喜多川氏の間に性交があったことは確かです」と、話しているのだ。

 ジャニーズ事務所は、1980年代よりジャニー氏による性的虐待がうわさされ続け、これまでにも元タレントによる“暴露本”がたびたび物議を醸してきた。88年に元フォーリーブスの北公次が半生記『光GENJIへ』(データハウス)を出版し、ジャニー氏の“行為”を告発。翌年にも初代ジャニーズのメンバー・中谷良が『ジャニーズの逆襲』(同)でジャニー氏の性癖や、事務所の内情を暴露。90年代には平本淳也、豊川誕らも追随し、その全ての暴露本で、ジャニー氏の性的虐待について触れている。

 サイゾーウーマンでは、これら暴露本で告発された“行為”の内容を過去に何度も取り上げてきた。中でも、元・光GENJIの木山将吾による『SMAPへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(05年、鹿砦社)は、歴代の暴露本の中でもジャニー氏を糾弾すべくつられた「過激な内容」となっている。ジャニー氏と出会った高1の秋、15歳の頃から振り返り語られる“行為”の実態とはーー? いまあらためて再掲する。
(編集部)


(初出:2018年9月12日)

昼は食事を与えられ、夜は精を吸われる――ジャニーさんとの“蜜月”と“恥辱”の日々

 他の被害者たちは漠然としか告白しないし、また、偽っている。僕もそうだった。みんなそうだ。彼らが真実を口にできないのは、ジャニー喜多川の行為が人間の尊厳を破壊するものだからだ。忘れられるはずがないだろう……。なぁ、ジャニーさんよ。

 かつてジャニーズ事務所のタレントとして活躍した、元タレントたちの告白本から、ジャニー喜多川氏が行ってきたホモセクハラ・性的虐待のリアルに迫る本連載。

 前回は、元・光GENJIの木山将吾氏が2005年に出版した『Smapへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(鹿砦社)から、少年をいきなりスター軍団の中に放り込んで夢心地にし、デビューをほのめかして心を溶かし、若い肉体にしのびよるジャニー氏のおなじみにして決定力バツグンの手口を、著書の中から紹介した。

合宿所で、生まれて始めての……

 木山氏の背後から抱きつき、硬くなった下半身を木山氏にこすりつけながらズボンの中にイキ果てるという、盛りのついた犬のような行為に木山氏はショックを受けたものの、その直後に、木山氏は雑誌の取材を受けることとなり、いきなりの雑誌デビューを果たす。自分がシンデレラ・ボーイとなった実感が、ジャニー氏への疑問を薄めていくのだった。

 だが、そんな木山氏の様子をいいことに、ジャニー氏はさらに大胆な行為に出てきたという。

 合宿所で過ごす3回目の夜となった日、大部屋で1人で寝ていた木山氏のもとに、全身から香水のニオイをぷんぷんさせたジャニー氏がやってきて、足のマッサージをはじめたのだという。

 もうこのことにはマッサージに慣らされてしまい、ジャニーさんに触られることに対する抵抗がなくなっていた。

 だが、当然、それだけで済むはずはなかった。

 ジャニー氏の手は、木山氏の股間に伸び、巧みな愛撫に勃起したことを確かめると、スウェットのズボンをゆっくり引き下げてきたという。そして、若く元気な木山氏のペニスを前に、ジャニー氏は「はぁ、はぁ、はぁ」と犬のように鼻を鳴らしたかと思うと、

 次の瞬間、僕のペニスは生暖かいものに包まれた。同時に激しい快感の波が僕を襲った。

 木山氏にとって生まれてはじめてのフェラチオ体験だったという。

 そうだ、今、僕のペニスを吸っているのは、あのジャニーさんなんだよ。「やばいよ」と我に返った瞬間、そのまとわりつくナメクジのような舌の絶妙なテクニックで、ジャニーさんの口の中で果ててしまった。

 ジャニーさんはそれをゴクリと飲み込んだ。

 僕は初めてフェラチオをされた。相手は六十歳の男だった。でも、それが、この合宿所では当然の夜の儀式だった。

 タレントとしてデビューするための……。

 ジャニー氏のお気に入りとなった木山氏は、何をするにもジャニー氏についていくようになる。ジャニー氏は、木山氏を赤ん坊のように扱い、食事の際も食べ物を口に運び、箸を持たせることすらなかったそうで、その関係性は、幼子を持つ母親か、かいがいしい新妻かのようだったという。

 そして夜は、隣で仲間が寝ている中で、ジャニー氏に精液を吸われる日々が続いたという。

 ジャニーさんは律儀にも、全員と一緒にお風呂に入り、彼らのカラダのすべてを洗う。そして、その後は暗くした部屋にしのびこみ、今度は一人ずつ、全員を犯していくのだ。みんな、隣で仲間が寝ている中で、ジャニー氏に精液を吸われているのである。

 僕にフェラチオをして、いつものように、暖かいお絞りで僕の性器を丁寧にふき終わった後、隣のベッドの新人の中学生の男の子のもとへ移動した。

 木山氏は、〈これに耐えなければデビューできないというのは本当だ〉と言い、ジャニーズ、フォーリーブス、光GENJI、SMAP、すべてのアイドルがそうであると断言する。特別扱いを受け、濃密すぎるジャニー氏との2年間を過ごした、木山氏の言うことだけに、説得力は十分だ。

 そんな木山氏が、ついにジャニー氏との最後の一線も超えてしまったのは、テレビデビューを果たした直後だったという。

 同著の第四章「僕はジャニー喜多川とセックスをした」の項に、その詳細は官能小説かのように、数ページにわたって克明に記されている。

 その日のジャニー氏は、明らかにいつも以上にヤル気満々で、まずは少年の弱みを知り尽くしたフェラチオで、木山氏を1度目の射精に導く。さらに足の指の一本一本にまで舌を伸ばし、またしても激しいフェラで木山氏に襲い掛かり、なんとアナルにまで舌を伸ばしてきたという。木山氏の下半身は「うそだろ!」という思いと裏腹に、気付けばパンパンに張り詰めてしまったという。

 そこにひんやりとした感触を覚えた。何かがペニスに塗られたみたいだ。

 と思った瞬間……!

「ああ~~~っ!」

 ジャニーさんの嬌声だ。そして、僕のペニスは口ではない何かが生暖かくしめつけられるものに包まれた。
恐る恐る目を開けた。

「げっ! うそだろ!」

 今にも叫びそうになった。ジャニーさんが僕の上に馬乗りになっているじゃないか。そして、上下運動をはじめた。

 まさか、ケツの穴に、僕のチンポを!

 こんなことが許されていいはずはない。

 だが、デビューへの道のりと思ってこの地獄に耐えてきた木山氏に、ついにデビューが決まる。

「次のデビューが決まったよ。グループ名は『光GENJI』。そこのメンバーにYOUは入るからね。佐藤も諸星も一緒だよ」

 しかし、実際に、光GENJIとしてポスター撮りや、アイドル誌の取材まで受けながら、デビューしたグループに木山氏の姿はなかった。

 彼になにがあったのか。次回では、木山氏がデビューを目前にジャニーズを去る原因となったという、都市伝説的に語られてきた、ジャニー氏のもう一つの重大疑惑について、複数の告白本から改めて検証していこうと思う。

(渡邊孝浩)

※今日では差別意識を助長する表現ですが、「逆セクハラ」同様、「セクハラ」が男性から女性への“行為”と限定されていた当時の社会的状況を伝えるため、時事用語と捉え、1999年の「週刊文春」(文藝春秋)報道から引用しています。


<バックナンバーはこちらから>

54年前、毒牙にかけられた「初代ジャニーズ」(第1回)
16歳の「おれ」にジャニー喜多川が繰り返した性行為(第2回)
13歳を誘い犯した、ジャニー喜多川のパワハラと“行為”(第3回)
16歳の“僕”が「スター抜てき」と引き換えたもの(第4回)
「行為」をしなければJr.で終わる(第5回)
ジャニー喜多川氏の「泡風呂の儀式」「頬にキス」(第6回)

ジャニー喜多川氏「ジャニーズJr.と性交あった」発言の波紋ーー暴露本『光GENJIへ』から続く告発の歴史

 かつてジャニーズJr.内ユニット・7 MEN 侍に所属していた前田航気が、WEBメディア「ARAMA! JAPAN」のインタビューで、ジャニーズ事務所前社長・ジャニー喜多川氏の“セクハラ行為”に言及。ジャニーズファンに衝撃を与えている。

 前田は、2011年6月にジャニーズ事務所に入所。18年2月に『ジャニーズ銀座2018~ボクたちの作るジャニカルとスペシャルショータイム~』(4~6月)の開催に向けて結成されたグループ・7 MEN 侍の一員となり、今野大輝、佐々木大光、菅田琳寧、中村嶺亜、本高克樹、五十嵐玲央(後に退所)の7人で活動を始めた。

 ダンス技術を認められた前田は、グループ所属後も同年8~9月上演のダンス&ライブエンターテインメント公演『THE YOUNG LOVE DISCOTHEQUE Re FEVER』にグループから1人で出演。しかしその後、10月頃から『ザ少年倶楽部』(BSプレミアム)の収録を欠席し、雑誌にも登場しなくなったことから、脱退&退所説が浮上した。以降、7 MEN 侍は6人で活動する中、前田は19年8月にTwitterを開設し、事務所を退所していたと報告。

 Twitterでは「育ちの良さ、過去の栄光、学歴や収入といったブランドを取り除いても輝ける人になりたいです。そして、それを体現できる環境に身を置きました」と記し、サンフランシスコに渡って1カ月間のインターンシップを体験していることや、ダンスイベントへの参加など、近況を綴ってきた。現在22歳で、昨年8月には「自分が7年間やってきたことを活かしつつ、7年間やってきたことよりも広い土俵でチャレンジできる環境で4月から働かせて頂きます」と、今春に社会人デビューを果たすと報告。新しいフィールドでスタートを切る前に、Jr.時代の思い出を語る今回のインタビューに応じたようだ。

 1月2日、前田はTwitterで自身のインタビュー記事を宣伝。「ジャニーズJr.時代やジャニーズのあんなことやそんなことに関して赤裸々に語ってます!笑是非に!!」とツイートし、実際に記事内ではジャニーズに入ったきっかけ、Jr.時代の生活を振り返っている。なお、記事は全て英語で書かれているが、ジャニー氏によるアイドルへの“性的虐待”ついて「見聞きしたことはあるか?」といった質問に対しても回答。前田は、ジャニー氏が「同性愛者」だと明かした上で、デビューをめがけて、Jr.の何人かは、ジャニー氏と「性交」を望んでいた……などと証言している。その上で、「これが虐待と見なされるかどうかはわかりませんが、ジャニーズJr.と喜多川氏の間に性交があったことは確かです」と、話しているのだ。

 ネット上のジャニーズファンからは、「前田のインタビュー、引いた。自分は辞めたから言いたい放題なのかもしれないけど、死人に口なしだし、わざわざ言う必要ない」「辞めたグループがまだあるうちに、こういうことは話すもんじゃない」「元7 MEN 侍の前田くん、あんなに暴露していいの? 侍の名前は汚さないで……」と、否定的な反応が多く上がっている。騒ぎが大きくなったためか、前田は前述の告知ツイートを削除。記事も、現在は当該部分がカットされている。

 ジャニーズ事務所は、1980年代よりジャニー氏による性的虐待がうわさされ続け、これまでにも元タレントによる“暴露本”がたびたび物議を醸してきた。

「1988年に元フォーリーブスの北公次が半生記『光GENJIへ』(データハウス)を出版し、翌年にも初代ジャニーズのメンバー・中谷良が『ジャニーズの逆襲』(同)でジャニー氏の性癖や、事務所の内情を暴露。90年代は平本淳也、豊川誕らも追随し、いわゆる元ジャニーズタレントの“暴露本”が発売されました。そんな中、99年に『週刊文春』(文藝春秋)が、ジャニー氏の所属タレントへのセクハラ行為に関して報道。これを受け、ジャニーズサイドは名誉毀損で訴えましたが、04年の最高裁の判決で、同性愛行為が認定されました。そして翌年の05年には、光GENJIのメンバー候補だったという木山将吾氏が『Smapへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(鹿砦社)を書いています。こうした背景や事実があるものの、近年は辞めたタレントがこの問題に公に触れる機会はなく、ファンの間でも“タブー”化されていたため、前田の発言はかなりの衝撃を与えることになったのでしょう。とはいえ、本人は聞かれたことに対して素直に答えただけで、ジャニー氏の性的問題を“告発しよう”といった目的があったわけではなさそうですが……」(ジャニーズに詳しい記者)

 そんな前田には、ジャニーズファンから「ジャニーズブランドにすがってる」という批判も。昨年10月にTwitterで「『絶対にジャニーズブランドにはすがらない』そんなちっぽけなプライドを捨てることで肩の荷が下りて世界が広くなりました。ということでご覧下さい。Snow ManのD.Dです。どうぞ!」とダンス動画をアップしていたこともあり、ジャニーズJr.の肩書を使ったインタビューに関して指摘が入ったようだ。

 一方、7 MEN 侍といえば、SixTONESに代わって19年8月よりYouTubeの「ジャニーズJr.チャンネル」に加わり、昨年大みそかの『NHK紅白歌合戦』には、佐々木を除くメンバー5人が嵐のバックダンサーとして参加したばかり。元メンバー・前田の発言を受けて、現役の7 MEN 侍たちは何を感じているのだろうか?

ジャニー喜多川氏「ジャニーズJr.と性交あった」発言の波紋ーー暴露本『光GENJIへ』から続く告発の歴史

 かつてジャニーズJr.内ユニット・7 MEN 侍に所属していた前田航気が、WEBメディア「ARAMA! JAPAN」のインタビューで、ジャニーズ事務所前社長・ジャニー喜多川氏の“セクハラ行為”に言及。ジャニーズファンに衝撃を与えている。

 前田は、2011年6月にジャニーズ事務所に入所。18年2月に『ジャニーズ銀座2018~ボクたちの作るジャニカルとスペシャルショータイム~』(4~6月)の開催に向けて結成されたグループ・7 MEN 侍の一員となり、今野大輝、佐々木大光、菅田琳寧、中村嶺亜、本高克樹、五十嵐玲央(後に退所)の7人で活動を始めた。

 ダンス技術を認められた前田は、グループ所属後も同年8~9月上演のダンス&ライブエンターテインメント公演『THE YOUNG LOVE DISCOTHEQUE Re FEVER』にグループから1人で出演。しかしその後、10月頃から『ザ少年倶楽部』(BSプレミアム)の収録を欠席し、雑誌にも登場しなくなったことから、脱退&退所説が浮上した。以降、7 MEN 侍は6人で活動する中、前田は19年8月にTwitterを開設し、事務所を退所していたと報告。

 Twitterでは「育ちの良さ、過去の栄光、学歴や収入といったブランドを取り除いても輝ける人になりたいです。そして、それを体現できる環境に身を置きました」と記し、サンフランシスコに渡って1カ月間のインターンシップを体験していることや、ダンスイベントへの参加など、近況を綴ってきた。現在22歳で、昨年8月には「自分が7年間やってきたことを活かしつつ、7年間やってきたことよりも広い土俵でチャレンジできる環境で4月から働かせて頂きます」と、今春に社会人デビューを果たすと報告。新しいフィールドでスタートを切る前に、Jr.時代の思い出を語る今回のインタビューに応じたようだ。

 1月2日、前田はTwitterで自身のインタビュー記事を宣伝。「ジャニーズJr.時代やジャニーズのあんなことやそんなことに関して赤裸々に語ってます!笑是非に!!」とツイートし、実際に記事内ではジャニーズに入ったきっかけ、Jr.時代の生活を振り返っている。なお、記事は全て英語で書かれているが、ジャニー氏によるアイドルへの“性的虐待”ついて「見聞きしたことはあるか?」といった質問に対しても回答。前田は、ジャニー氏が「同性愛者」だと明かした上で、デビューをめがけて、Jr.の何人かは、ジャニー氏と「性交」を望んでいた……などと証言している。その上で、「これが虐待と見なされるかどうかはわかりませんが、ジャニーズJr.と喜多川氏の間に性交があったことは確かです」と、話しているのだ。

 ネット上のジャニーズファンからは、「前田のインタビュー、引いた。自分は辞めたから言いたい放題なのかもしれないけど、死人に口なしだし、わざわざ言う必要ない」「辞めたグループがまだあるうちに、こういうことは話すもんじゃない」「元7 MEN 侍の前田くん、あんなに暴露していいの? 侍の名前は汚さないで……」と、否定的な反応が多く上がっている。騒ぎが大きくなったためか、前田は前述の告知ツイートを削除。記事も、現在は当該部分がカットされている。

 ジャニーズ事務所は、1980年代よりジャニー氏による性的虐待がうわさされ続け、これまでにも元タレントによる“暴露本”がたびたび物議を醸してきた。

「1988年に元フォーリーブスの北公次が半生記『光GENJIへ』(データハウス)を出版し、翌年にも初代ジャニーズのメンバー・中谷良が『ジャニーズの逆襲』(同)でジャニー氏の性癖や、事務所の内情を暴露。90年代は平本淳也、豊川誕らも追随し、いわゆる元ジャニーズタレントの“暴露本”が発売されました。そんな中、99年に『週刊文春』(文藝春秋)が、ジャニー氏の所属タレントへのセクハラ行為に関して報道。これを受け、ジャニーズサイドは名誉毀損で訴えましたが、04年の最高裁の判決で、同性愛行為が認定されました。そして翌年の05年には、光GENJIのメンバー候補だったという木山将吾氏が『Smapへ~そして、すべてのジャニーズタレントへ~』(鹿砦社)を書いています。こうした背景や事実があるものの、近年は辞めたタレントがこの問題に公に触れる機会はなく、ファンの間でも“タブー”化されていたため、前田の発言はかなりの衝撃を与えることになったのでしょう。とはいえ、本人は聞かれたことに対して素直に答えただけで、ジャニー氏の性的問題を“告発しよう”といった目的があったわけではなさそうですが……」(ジャニーズに詳しい記者)

 そんな前田には、ジャニーズファンから「ジャニーズブランドにすがってる」という批判も。昨年10月にTwitterで「『絶対にジャニーズブランドにはすがらない』そんなちっぽけなプライドを捨てることで肩の荷が下りて世界が広くなりました。ということでご覧下さい。Snow ManのD.Dです。どうぞ!」とダンス動画をアップしていたこともあり、ジャニーズJr.の肩書を使ったインタビューに関して指摘が入ったようだ。

 一方、7 MEN 侍といえば、SixTONESに代わって19年8月よりYouTubeの「ジャニーズJr.チャンネル」に加わり、昨年大みそかの『NHK紅白歌合戦』には、佐々木を除くメンバー5人が嵐のバックダンサーとして参加したばかり。元メンバー・前田の発言を受けて、現役の7 MEN 侍たちは何を感じているのだろうか?

KinKi Kids、新曲「KANZAI BOYA」初日13万枚売り上げ! リリース延期が生んだジャニーさんとの“運命的”展開

 KinKi Kidsのニューシングル「KANZAI BOYA」が、6月16日付のオリコンデイリーシングルランキングで初登場首位を獲得。売り上げは前作を1万7,000枚以上も上回り、好スタートを切った。同曲は新型コロナウイルスの感染拡大により、発売日の変更を余儀なくされたが、2人にとっても、ある意味で運命的な日にリリースできたようだ。

 タイトルである「KANZAI BOYA(カンサイボーヤ)」は、キンキが誕生する前に故・ジャニー喜多川前社長が名付けたユニット名。関西出身の2人にかけて命名したもので、堂本光一&堂本剛は過去に何度もネタにしてきたほど、ファンの間でも有名な名前だ。昨年7月にジャニー氏が亡くなった後、同年12月~今年1月開催のコンサートツアー『KinKi Kids Concert Tour 2019-2020 ThanKs 2 YOU』では、剛が作詞・作曲を手掛けたファンクナンバー「KANZAI BOYA」を披露。後に同曲のシングル化が実現した。

「当初の発売日は光一と剛が『初めて出会った日』とされている5月5日だったものの、緊急事態宣言の発令を受けて、リリースは延期に。後日、発売日が6月17日に決まり、初回盤A(CD+DVD)、初回盤A(CD+Blu-ray)、初回盤B(CD+グッズ)、通常盤(CD)が無事に販売開始となりました。初日は13万143枚を売り上げ、堂々のトップに君臨。2位は韓国出身の9人組男性グループ・SF9の『Good Guy』(同日発売)で、こちらの記録は1万7,736枚のため、『KANZAI BOYA』の週間1位は確定でしょう。ちなみに、昨年12月発売のキンキのシングル『光の気配』の初日売り上げは11万3,106枚で、初週記録だと17.2万枚をマークしていました。キンキは『デビューからのシングル連続1位獲得作品数』で歴代1位を保持していますが、今作での42作連続更新も夢ではなさそうです」(ジャニーズに詳しい記者)

 一方、キンキといえば、最近は光一の女性関係が話題になったばかり。2009~10年に、光一主演のミュージカル『Endless SHOCK』でヒロイン役を演じた女優・佐藤めぐみとの間に、交際や同棲説が浮上したのだ。以前より一部ファンの間で囁かれていたそうだが、今年5月2日に2人がそれぞれの公式アカウントで行ったインスタグラムのライブ配信で騒動に発展。配信映像に映る部屋のレイアウトが「似ている」と注目を集めた。これに伴い、一部ネット上のファンが過去の光一の発言と、佐藤のインスタ投稿を検証。愛用アイテムの鉄フライパンや、映画『シンプル・ギフト はじまりの歌声』(18年公開)の鑑賞時期などに共通点が見つかり、両者の親密関係を疑う声が相次いだ。

「佐藤のインスタのコメント欄には、交際の有無について言及してほしいというリクエストも届いていますが、本人はこれらの要望をスルー。光一も6月17日時点で、テレビやラジオなどで交際説を否定していない状態なんです。ウワサが広まった5月下旬以降、佐藤のインスタはしばらく更新が途絶えましたが、翌月の6月2日にストーリーをアップ。同3日の新規投稿からは、コメント欄が表示されない設定に変わるも、過去の5月12日のポストには光一に関する質問がまだ残っています。そんな中リリースされた『KANZAI BOYA』は『光の気配』の初日売り上げより1万7,037枚も増加していますから、光一の熱愛疑惑は、さほどセールス面には影響がなかったようです」(同)

 そんな光一は、公式携帯サイト・Johnny’s webの個人連載「Show must go on」(6月15日付)にて、「KANZAI BOYA」のリリース日の再決定を知った際に、「あること」に気づいたと告白している。昨年6月18日に『SHOCK』のプロモーションで大阪にいたところ、「ジャニーさんが倒れた」と一報を受けた光一は、動揺を抑えて仕事に臨んでいたと振り返った。

「光一によると、ジャニー氏は倒れる前日まで仕事現場に足を運んでいたそう。連載の中で、『ジャニーさんが元気にしていた最後の日6月17日に「KANZAI BOYA」はリリースされます』『こんな偶然ある??』と感慨深げに綴っているんです。リリースが延期になったことで、結果的に運命めいた展開になったようですね。そんな同曲は、キンキなりに『ジャニーさんへの愛情』を表現した曲に仕上がっていて、剛が歌詞に込めた思いは、『誰よりも理解できているつもり』とのこと。CDショップなどには前日の16日に商品が並んでいたものの、正式な発売日は17日です。不思議な巡り合わせの日にリリースされた『KANZAI BOYA』は、キンキにとっても特別な作品になったのでしょう」(同)

 ひとまず、初日のランキングでは好発進だった「KANZAI BOYA」。週間売り上げにも期待が高まる。