【おたぽるより】
東京新聞社会部の望月衣塑子記者の取材活動を通して、日本社会が抱える同調圧力や忖度の正体に迫り、辺野古基地移設問題、伊藤詩織 準強姦事件、森友問題、加計学園問題など、世間を騒がせた社会問題が続々と描かれる前代未聞のドキュメンタリー。
『A』『A2』『FAKE』に続く、森達也監督待望の新作『i-新聞記者ドキュメント-』が遂に完成した。
森達也が描くドキュメンタリー作品の鈍く不透明な煌めきは、いったいどこからやって来るのだろう?
その謎を解き明かそうと、森が発表する映像や文章、講演やトークライブに幾多の時間を費やしてきた。そんな中、交流を前提としたイベントに集う、筆者のような一介の表現者に、森はいつも優しく実直に接してくれるのだった。
8月3日の午後、『鈴木邦男生誕100年祭』が「阿佐ヶ谷ロフトA 」で開催された。れいわ新撰組の山本太郎代表とともに、森がゲストとして出演する恒例のイベントに、過去に何度か登壇させて頂いた筆者も駆けつけ、トークライブを拝聴した。
その打ち上げの際、偶然にもロフト席亭の平野悠、ミュージシャンのPANTA、そして森と同じテーブルに座ることになったのだ。
早速、向かい合わせになった森から近況を訊ねられたので、筆者が企画から携わり、2017年の劇場公開後も上映イベントなどに精力を注いだ映画『パーフェクト・レボリューション』(監督:松本准平)について報告させて頂くと、森は瞬時に興味を示してくれた。
身体障害者の男性を題材にしたドキュメンタリーは多々あれど、そのようなテーマを劇映画として製作するのは至難の業で、電動車椅子で活動する主人公を熱演した稀代のアーティスト、リリー・フランキーの配役なしには、劇場公開も考えられなかったという制作事情をお伝えした。
興味深く頷いていた森が、劇映画における主演俳優のリアルな表現力という部分に同調してくれて、筆者は感嘆した。モデルとなった熊篠慶彦と筆者の関係や、筆者と松本准平が考える障害者差別への疑問符、そしてリリー・フランキーと熊篠の10年余りに渡る友情、それらすべてが結実し、主人公のクマに血が通った瞬間を実感したことなど、一通りの経過を説明させて頂いた。
ところが、森から驚きの事実を打ち明けられた。
近年、とある劇映画の演出を依頼された際、思い入れの強い主人公を演じる俳優が一向に決まらず、配役の遅れから諸々の準備が滞ってしまい、クランクインを待たずして自ら監督を降板してしまったと言うのだ。
森のあっけらかんとした告白に、相応のショックを受けたのは確かだったが、それとは別にある想いが筆者の脳裏をかすめていった。そして、森を見据えながら意を決して、「森さんは俳優業がスタートですから。その部分だけは譲れませんよね」と伝えた。
一瞬、はにかんだような表情を浮かべた森だったが、なぜ主演俳優の表現力に固執するのかを、具体的な例を挙げて熱心に語ってくれた。
森のドキュメンタリー映画に登場した数多くの人間たちに触れてきた筆者は、 『A』における荒木浩の苦悩や、『A2』の地域住民たちの憤怒と緩み、『FAKE』では佐村河内守とその妻、そして佐村河内と対立する新垣隆が織りなす奇妙な人間模様を、即興で演出してしまう手腕を高く評価しているだけに、森が主演俳優に求める表現力が、表層的な演技を指す言葉ではないことは容易に想像できてしまう。
若き日の森は、俳優として劇映画や舞台演劇に出演しつつ、職業を転々とした後、ドキュメンタリー番組のディレクターとして頭角を現してきた人物だった。
当然、そんな過去の自分と重なり合うであろう被写体に様々な感情を投影しつつ、その背景を冷徹に見据える演出家であることは今や周知の事実である。
かつて筆者も俳優業では食べていけず、ロフトプロジェクトの映像部門で制作を担当し、仕事仲間と設立した映像制作会社では企画から演出、配給から宣伝までの業務を日々、手探りで実践していった。そんな、慌ただしい日常の合間を縫うようにして俳優を続けてきた身としては、森の心情が痛いほど理解できるのだ。
森と意気投合した筆者は流れに身を任せ、二次会へと参加した。途中、『あいちトリエンナーレ2019 表現の不自由展・その後』を巡る取材で駆けずり回っていたルポライターの昼間たかしから、「どうしても特集記事に森さんのコメントが必要なので、直ぐに伺います」との連絡があり、二次会で森の取材が始まった。
一連の騒動に対してシャープな分析を加えつつ、どこか奔放な発言が飛び出したりもして、森の褌で相撲を取る昼間も満足そうな様子だった。
取材後、意外なことに昼間の著作『コミックばかり読まないで』の話題に移り、森はその書籍タイトルや、取材内容を手放しで褒めてくれたのだ。タイトルを命名した筆者と、著者の昼間が感極まった状態のまま、その晩は森と表現の自由について遅くまで語り明かした。
別れ際、改めて森に近況を伺ったところ、「秋に新作ドキュメンタリーのマスコミ試写があるので、その頃になったら試写状を発送します」と約束をしてくれたのだった。
10月15日の夜、 新宿歌舞伎町の「ROCK CAFE LOFT is your room」で開催された、『音楽航路Vol.3 ~ 森達也監督と蓮池透さんと一緒にニールヤングを語る』の出演者として来店する森を、筆者はタピオカミルクティーを飲みながら、客席の片隅で待っていた。
しばらくして現れた森に、約束通り『i-新聞記者ドキュメント-』のマスコミ試写状を送って頂いたお礼を述べ、開演前の楽屋で雑談に応じたのだが、その時点で最も重要なラストシーンの編集がまだ終わってないことを告げられた。
イベントは盛況のうちに終了したが、打ち上げの席に座る間もなく、森は急ぎ足で編集スタジオへと駆け戻っていった。
その晩は、出番を終えたロフトプロジェクト社長の加藤梅造が、店で飲んでいた筆者と昼間を歌舞伎町へと誘い出し、森達也作品の影響力について夜遅くまで語ってくれたのだった。
このような過程を経て、筆者は113分にも及ぶ『i-新聞記者ドキュメント-』の完成作を、10月24日のマスコミ試写初日に鑑賞した。
ところが、100分を過ぎた辺りからうるうるとし、不覚にもラストシーンの、とある人物が語りかけるナレーションを聴いた途端に涙があふれてしまった。試写室に明かりが灯ると、周辺のマスコミ関係者からは賞賛と同時に険しい表情が見て取れた。
近くの座席にいた昼間が憮然とした表情で近寄ってきて、語気を強めたアジテーションを耳元で連呼したが、ハンカチで涙を拭う筆者を一目見て、話しかける相手を間違えてしまったというようなバツの悪い表情を浮かべ、即座に立ち去ってしまった。
まさか、本作で涙を流そうとは想定外もいいところで、一呼吸おいて試写室を退出しようと考え、もう一度涙を拭った。
ロビーに出ると、辺りを見回していた昼間が、「森さんがいない、森さんがいないぞ」と狼狽していた。『A2』『FAKE』のマスコミ試写の際には、参加者一人一人に丁寧に挨拶する森の姿を知っているだけに少々残念だった。
「敵は試写に潜り込んでいる、配給会社も危険な場面に森さんを……」と昼間が呟いた瞬間、
受付カウンターの奥の方で、うつむきかげんにキーボードを叩く森らしき人物を見つけた。
伏し目がちに筆者を見据えた森は、立ち上がってはくれたものの、「どうも有難う。えっ、なんで泣いてるの?」と訝しんだ。言葉に詰まった筆者は、とりとめもなく「いや、ラストシーンの映像とナレーション、あの演出に涙があふれてしまって……」と伝えるのがやっとだった。昼間がそんなやりとりを眺めつつ、透かさず写真に収めてくれた。

今作はメディアに対して問題提起をする作品であって、決して人々の涙を誘うような映画ではないはずだと森は語ったが、その眼差しは、想定外の感想に涙で潤んでいるようにも感じられた。
かつて、森のドキュメンタリー映画の主要人物たちは、ある事件をきっかけとしてマスコミから一斉にバッシングを浴びせられたり、負のレッテルを貼られたまま人々の記憶から消し去られてしまった者たちばかりだった。
そんな者たちが森の取材動機に共鳴し、対話の過程でメディアには決して見せなかったであろう素顔や本音を吐露するシーンが、映画的には最大の見せ場になっていたはずだ。
新聞社や出版社、テレビ局といったメディア側からの激しいバッシングを受けた一個人に、森という一人の表現者がカメラを抱えて寄り添い、メディアが報道していない事柄を細やかに記録して、最終的に映画というメディアの力で問題の本質を世に問う手法から、筆者を含む幾多の表現者たちは数多くのことを学んでいった。
ところが、『i-新聞記者ドキュメント-』では、過去作の揺るぎない構造に捻じれが生じてしまったかのような錯覚と、戸惑いを覚えずにはいられない……。
それは、手負いの強敵として描かれてきたメディア側の新聞記者が、本作ではヒロインとして登場するからだ。
しかしながら、この程度のことで森に対する作家性の変節を唱える人はセンスがない。
映画の冒頭から在京の大手新聞社ではなく、中日新聞社が発行する『東京新聞』の望月と連呼する姿が効果的に描かれており、さらには、否が応にも男性記者が大多数を占める分野で、夫と子育てや家事を分担し、共働きで新聞記者を続ける女性像が共感を誘い、序盤から終始一貫したヒロイン像が提示されるのだ。
そして、この明確なヒロイン像こそが、新聞社というメジャーな報道機関に身を置きつつも、取材現場でマイナーな扱いを甘受してしまう望月と、フリーランスという極めてマイナーな地点に立脚しながらも、メジャー級の問題作を次々と発表してきた森の取材姿勢との対比を、鮮明に打ち出してくれるのだった。
望月が様々な取材先で、「納得のできる答えを頂いていないので、繰り返しています」と追及し、目立てば目立つほど、それらの特異点から排除される様子が執拗に描かれていく。その一方、森は望月の真骨頂とでも呼ぶべき、首相官邸で行われる官房長官の記者会見に狙いを定め、必ずや映画のキャメラで記録しようと奔走するのだが……。
本作を例えるならば、ノンフィクション作家・沢木耕太郎の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作『テロルの決算』の読書時に感じた、61歳の野党政治家と17歳のテロリストの、人生の一瞬の交差にも連なる、とてもスリリングな結末を想起せてくれる作品なのだ。
実のところ、筆者は映画評論を執筆するつもりなど微塵もなかったが、数多の映画ファンに本作の魅力を上手く伝える方法はないものかと、この数日余り頭を悩ませていた。なので、この先はとても個人的で映画ファン特有の独りよがりな文章で締めくくらせて頂ければと考えている。
その昔、松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手と呼ばれた映画監督・大島渚は、1961年の松竹退社後にATGや海外資本と提携して『絞死刑』『儀式』『愛のコリーダ』などの問題作を発表。
佐藤慶、戸浦六宏、小松方正、さらには藤竜也といった、どちらかといえば印象の暗い、個性派俳優たちを好んで配役していた。
ところが、1983年に『戦場のメリークリスマス』という大作映画を監督した際には、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしといった、いわゆる同時代的なカリスマをメインキャストに抜擢して、作品もロングランヒットを記録した。
地元の名画座で背伸びして鑑賞した大島の特集上映で、ATG時代の作品などを鑑賞して大島のファンになっていた筆者は、『戦メリ』の配役を知って驚いてしまった。
今回、『i-新聞記者ドキュメント-』の試写後に、ふと想い出したのが、大島渚監督の『戦メリ』なのだ。
佐村河内守や新垣隆のスクリーンから受けるイメージが、佐藤慶や戸浦六宏の陰鬱さや怪しさを多分に含んだキャラクターだったとするならば、本作のヒロインとも呼べる望月衣塑子からは、しなやかで美しく、それでいて芯の強い、『戦メリ』のデヴィッド・ボウイにも似た風情を感じとってしまった。
大島が少年時代に体験した、第二次世界大戦の悲惨な傷跡や、学生運動を通して実感した反戦への誓いを、作品に昇華させて世界へと発信する際、映画や演劇の世界で実績を積んだプロの俳優よりも、時代を左右するほどのパワーを秘めた、ロック、テクノ、お笑いといった突出したジャンルから見事に飛躍したアーティストたちを、敢えて軍人役にキャスティングして、数多の若者たちに戦場の酷さや滑稽さを訴えたかったのではないかと推測する。
そして、森も同じような動機から、望月衣塑子という同時代的なヒロインを得て、「この国ではジャーナリズムが機能していない」という危機感を共有し、ドキュメンタリー映画の制作に賭けた心情は、限りなく大島に近い感覚なのだろう。
『i-新聞記者ドキュメント-』 に登場する生身のヒロインは、いつも美しいメーキャップとオシャレな装いのまま、タクシーに乗って取材先を目指す。緊急時ともなれば、社会部との通話は最新装備で対応(端末を手に持たない)、その状態で歩行しては所構わず感情を発露させている。
そして、望月衣塑子という同時代的な名前を最大限に活用し、社会部のデスク要員と密に連携するスタイルで、日々の慌ただしい取材を消化していく。時には訪問先のアポイントメントや遠方取材の段取りまで、鉄壁のフォローで取材活動を後押しして、高額な報酬を支払う東京新聞。ジェームズ・ボンドは実在しているのではないかという錯覚に陥ってしまうような、リアリティーとカッコよさなのだ。
逆に、筆者が関係するフリーランスの実例を挙げると、バーゲンで洋服をまとめ買いしては何年も着回し、移動は一番交通費の安いルートを検索するか、もしくはチャリ……。見栄を張り、持っていないと拙いと感じるOA機器などは、PCマニアの後輩に頼んで秋葉原で中古品を捜してもらう……。
フリーランスの宿命で、放送局の孫請けやら、出版社からの面倒な依頼の際は、番組名や媒体名を執拗に連呼する……。時間が切迫した際は、同業者を頼ると不利な交換条件を出されるので、一呼吸おいてグーグルと交信。未払いや請求無視が度重なって今では人間不信……。
同等のモチベーションで取材現場へと邁進しているはずなのに、昨今では会社員とフリーランスの収入格差が相当にシビアな問題となっている。
そんなことを漠然と考えつつも、筆者が最も注視する登場人物について記したい。
劇中、その人物は無精髭が伸びたままの状態で、いつも大きなリュックサックを背負っている。華やかでファッショナブルな女性記者の傍らで、時々スクリーンに映り込むこの無精髭の男性は、どこか場違いな雰囲気を身にまとっていた。
官邸前の公道で意味不明な停止を警官から強要されたり、独自のネットワークを駆使して撮影を決行しようとするのだが、閉塞状況に風穴を空けることはできない。
女性記者が執拗に訴え続ける、現政権への問題意識が顕在化していく渦中で、どこか運の悪さばかりが目立ってしまう。その後も、無精髭の男性の承認欲求はどうにも満たされないまま、無残なエンディングへと向かってしまうのだった。
しかし、そのような不運の連続を映像というフィルターを通して体感する時、いったいどのような化学反応が起きるのだろうか? 読者のみなさんには、本作の後半部分を注意深く鑑賞して頂きたい。
骨太なドキュメンタリー作品を細腕でグイグイと引っ張ってきたはずの女性記者の取材活動に、中盤以降は何故か既視感を覚えてしまい、どことなく凡庸な女性に見えてしまうことが多かったのは、筆者一人だけなのだろうのか?
結果的に、『テロルの決算』や『タクシードライバー』、または『ジョーカー』に象徴されるような、活劇的カタルシスは終ぞ訪れなかった……。
ところが、本作のラストシーンは、絶妙な劇伴と大胆な編集を得て、時代や国家を超越する飛躍的なエピソードへと突入する。
そんな意欲的なシーンの中で、ヒロインの引き立て役のような存在でしかなかった無精髭の男性が、突如として風貌、生業、性差、貧富、宗教、民族、肌の色への謂れなき偏見に逆行し、全人類共存への堂々たるメッセージを放つのだ。
その、大胆で豊穣な表現力に筆者は一瞬で魅了されてしまった。この大団円で見せる不屈の反骨精神こそが、年季の入った表現者ならではの深い味わいとなり、本作の主演が誰なのかを知らしめるに相応しい、秘めたるパワーを発揮するのだ。
ラストシーンの、胸を突き動かされるようなモノローグが、無精髭の男性の本心なのだと気づかされた時、その感動から涙があふれ出てくるのだった……。
筆者は敢えて、この作品の主演俳優の名を記さない。
(構成=昼間たかし事務所/取材・執筆=増田俊樹)
『i-新聞記者ドキュメント-』
11月15日(金)より、新宿ピカデリーほか全国公開
企画・製作:河村光康
エクゼクティヴ・プロデューサー:河村光康
監督:森達也
出演:望月衣塑子
制作・配給:スターサンズ
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