島袋寛子の離婚原因は早乙女友貴の不倫? ハードな人生を歩むSPEEDたち

 1月31日に離婚を発表した、SPEEDの島袋寛子と俳優の早乙女友貴。さらに2月16日発売の「女性セブン」(小学館)では、早乙女とモデル・女優の石田ニコルとの深夜密会&お泊りデートが報じられた。

 記事によると、早乙女は2月9日の夜、出演中の舞台『キングダム』終演後に都内の深夜営業のカラオケバーで石田と過ごしていたとのこと。その2日後には石田の部屋に泊まったという。早乙女は、女…

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SPEED4人全員そろわず、弘中アナ&玉川徹が退社? 2022年10月の人気芸能記事

「日刊サイゾー」で2022年10月に人気のあった芸能ニュース記事を、若手記者Cと中年記者Zでプレイバック!

 

若手記者C 10月は久しぶりにジャニーズ以外の記事もかなり読まれました。特にテレ朝から弘中綾香アナと玉川徹氏が離れるのでは?という記事…

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目黒蓮『silent』好評の一因は手書き?SPEED3人だけ集結の理由は…週末芸能ニュース雑話

記者I 秋ドラマも続々と始まり、その中でも一際、注目されているのがフジテレビ木曜劇場の『silent』。川口春奈が主演、Snow Man・目黒蓮が共演する本作は初回視聴率6.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)で第2回は6.9%とそこまで高い数字ではなかったもののTVerの総合ランキングでは高い評価を得ています。
 
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SPEEDの再集結にメンバー4人全員が勢ぞろいしなかった理由  

 10月2日、芸能養成所・沖縄アクターズスクールが主催した音楽イベント『沖縄アクターズスクール大復活祭~本土復帰50周年記念~』が沖縄県内で開催され、同スクール出身の島袋寛子が出演し、1990年代後半から島袋とともにダンス&ボーカルグループ・SPEEDのメンバーとして活躍した、参院議員の今井絵理子氏と女優の上原多香子がサプライズ出演したことを、各スポーツ紙が報じた。
 
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“解散”から20年…SPEEDメンバーそれぞれの現在地 虎党アピールに「ロシア入国禁止」…

 1990年代に一世を風靡した4人組ダンスボーカルユニット・SPEED。2000年3月31日の解散から20年以上、三度目の再結成を経て事実上の解散となった2013年から8年以上となる今になって、メンバー2人の近況が相次いで注目された。

 女優として活動していたものの、現在は芸能活動休止中の状態となっている上原多香子。4月24日に神宮球場で行われた東京ヤクルトスワローズ対阪神タイ…

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ハロプロや48グループだけじゃない! 極私的平成アイドル史【ライブアイドル編】

 昭和が平成に変わった時、私はもうヲタクだった。ネットの環境こそなかったものの、アイドルやサブカルについての雑誌は数多く出版され、そこで得た情報を元にアイドルの現場に向かっていたものだ。

 平成も間もなく幕を閉じる。それに合わせ、さまざまな観点で、この時代を総括したり、振り返ったりという記事が公開されている。アイドルの分野についてもしかりだ。

 ただし、ただ“平成に流行ったアイドル”を列挙しても、それは多くの人が承知していることであり、単に記憶をなぞる程度にとどまってしまう。そこで今回は、平成のアイドル史をたどるとともに、私が個人的に経験したアイドル状況を紹介し、流行したアイドルとはどのような関係性が生まれたのかをまとめてみたい。

 まず、今回は「ライブアイドル編」である。

 

“アイドル冬の時代”を越えて

 最初に、平成初期のアイドル界が、どのような状況だったかを確認しておこう。

 多くの人が語っているように、その頃は「アイドル冬の時代」だった。誰もが名前を知るようなアイドルはほとんどおらず、皆「アイドルファンだけが知っている」という程度の存在だった。

 そんな中、私が夢中になっていたのは、酒井法子だった。ヒット曲こそ飛ばしていないものの、テレビの歌番組には頻繁に出演し、地方に住んでいた私なども、十分に“ファン”としての楽しみを享受できたのだ。

 その頃、アイドルライブの定番の場所が「デパートの屋上」であった。多くのデパートの屋上にイベント用のステージがあり、そこで歌を歌い、握手会をしていた。私が酒井法子を初めて生で見て、握手をしたのも、ショッピングセンターの屋上だった。

 そして、平成2年、後のライブアイドル文化に大きな影響を与える2組がデビューする。「東京パフォーマンスドール」(初代・以下、TPD)と「宍戸留美」である。

 TPDは、それまでニューミュージックやロック系のアーティストが出演していたライブハウス、「原宿RUIDO」を拠点に、ライブを見せることをメインとした活動を開始。3年後には、武道館2Days公演を成功させるまでになった。後に、モーニング娘。のプロデュースで大ブレイクするつんく♂も、TPDのファンであったことを公言しているし、ハロー!プロジェクトのステージを見ても、TPDの影響は随所に感じられる。

 一方の宍戸留美は、ソニーレコードからメジャーデビューするも、2年後に事務所との契約を解消。フリーで活動する道を選ぶ。まだ個人で発信することが難しい時代、わずか18歳の少女が始めた活動が、後のフリーで活動する地下アイドルの礎となっていくのである。

 それと同じ頃、テレビなどの活動の場が減っていったアイドルに、歌う場を提供しようという試みが始まる。『歌姫伝説』と名付けられたこのイベントは、原宿RUIDOや川崎クラブチッタなどで、コアなアイドルファンを集めて、人気を集めていった。

 実は、これらのアイドルライブが広まっていった背景には、ライブハウス側の事情もあった。平成が始まった頃に起こっていた「バンドブーム」が一段落し、多くの会場で出演者が減ってきたのである。そこに、ある程度客の呼べるアイドルの公演を入れることによって、空いている時間をなくすという方針をとったのだ。つまり、ライブアイドルが始まった背景には、出演者と会場の利害が一致したという理由があるのである。

 諸説あるが、いわゆるアイドル冬の時代が終わるのは、平成5年頃だ。きっかけは安室奈美恵のブレイクである。彼女をアイドルと見ることに違和感を覚える人もいるかもしれないが、男女ともに彼女に憧れを持ち、その歌に酔いしれていたことを考えれば、まさに平成を代表するアイドルの一人といっていいだろう。

 彼女に続いて人気を博したのが、同じ沖縄アクターズスクール出身の「SPEED」である。平成8年のデビュー時、最年少の島袋寛子はまだ小学生ということで、その後のアイドルの低年齢化にも影響を与えた。

 もう一つ、その頃からアイドルの楽しみ方に変化を与えたものがある。「パソコン通信」の登場だ。現在のように画像や動画が扱えるものではなく、文字だけのやり取りであったが、テレビやライブの感想をリアルタイムで書き込める手段として、アイドルファンの間では大いに活用された。私も、当時のニフティサーブにあった「SPEED会議室」で、彼女たちへの思いをたくさん書き込んでいた記憶がある。

 もちろん、その後普及するインターネットも含め、アイドルたちは、その活動を告知する手段として大いに利用した。先に挙げた宍戸留美なども、いち早くネットに取り組んだ一人といっていいだろう。

 このようにして、地上と地下、両方で育まれていった平成のアイドル文化だが、そのどちらにも大きな影響を及ぼす存在が誕生する。それが平成10年の「モーニング娘。」である。

 彼女たちは、テレビ番組『ASAYAN』(テレビ東京系)から誕生し、人気となっていった。もちろんメジャーなアイドルである。ここで注目すべきは、『ASAYAN』という番組が、メンバーが決まっていく過程をつぶさに放送していたということだ。

 これまでの“生まれたときから運命づけられていたような特別な存在”から、“自分の今いるところからの延長線上”にあることを認識させた。つまり、「アイドルになるための方法」を、全国の女性たちに知らしめたのだ。後の、地上・地下にかかわらず、モーニング娘。に憧れてアイドルになる人が増えたのは、そのような理由もあったからだろう。

 そして、今でも地下アイドルの現場では、モーニング娘。をはじめとした、ハロプロの楽曲がよく歌われる。それは、このような経緯を考えれば、ごく自然な流れなのである。

 その頃、私は何をしていたかというと、メジャーなアイドルが出てきたことを横目で見つつ、ライブハウスなどでのアイドルライブに通っていた。まだ今のようなフォーマット(地下アイドルが複数出演→物販→特典会)ができておらず、その内容はさまざまであったが、新しい文化が生まれてくる胎動のようなものを感じていたものだった。

 モーニング娘。、そしてハロプロが破竹の勢いで人気を博し、アイドル界が盛り上がっていた平成17年、AKB48グループが劇場公演を開始する。48グループと、その後、ライバルグループとして結成された坂道シリーズの躍進については、改めて語るまでもないだろう。

 この時期のもう一つ大きな出来事として、「アイドリング!!!」の存在を挙げておきたい。平成18年にフジテレビのCSで番組がスタートして以来、9年間に渡りバラエティ豊かな放送を続けてきた。一方、音楽に関しても、クオリティの高い楽曲が多く、ライブなども積極的に行っていた。彼女たち、そしてスタッフの一番の功績は、平成22年から開催されている、日本最大級のアイドルフェス『TOKYO IDOL FESTIVAL』(TIF)の開催であろう。

 私も、第1回から参戦しているが、いわゆる“地下”を中心に活動しているグループや、ローカルアイドルなども出演しており、現在のアイドルブームを作り上げた立役者ともいえる。

 平成も後期に入ると、ライブアイドルはますます多様化をしていく。TIFに加え、『アイドル横丁夏まつり!!』『@JAM EXPO』といったフェスが開催され、アイドルが出演するライブ会場も増えていく。また、ネット環境の普及により、アイドルたちがSNSなどでファンと直接交流することもできるようになる。地方に住んでいても、情報を得て、アイドルの魅力を感じたりすることもしやすい時代になったのだ。

 ただ、その反動として、アイドルのグループのサイクル(結成から解散、メンバーチェンジまでの期間)が早くなっているようにも感じる。ファンが常に新しいものを求めるために、それに対応する基軸などを打ち出さなくてはいけなくなったのだ。これは、どこが悪いということではない。新しさを感じつつも、変わらない魅力を維持する、それは、時代が変わろうともアイドルが人気を保っていくための秘訣であるだろう。

 そして現在、ハロプロ、48グループ、坂道シリーズは引き続き人気を集め、地下のアイドル現場も健在だ。

 平成の30年間で、アイドルを取り巻く環境は、驚くほど変化した。つらい冬の時代を乗り越え、今のアイドル文化が花開いたことを思うと、いちアイドルヲタクとして、感慨深い思いだ。

 この10連休には、「平成最後の」「令和最初の」と銘打ったライブが数多く開催される。今のアイドル文化の礎となった、平成アイドルの足跡を感じながら、新しい時代を迎えてみてはいかがだろうか。

(文=プレヤード)

ハロプロや48グループだけじゃない! 極私的平成アイドル史【ライブアイドル編】

 昭和が平成に変わった時、私はもうヲタクだった。ネットの環境こそなかったものの、アイドルやサブカルについての雑誌は数多く出版され、そこで得た情報を元にアイドルの現場に向かっていたものだ。

 平成も間もなく幕を閉じる。それに合わせ、さまざまな観点で、この時代を総括したり、振り返ったりという記事が公開されている。アイドルの分野についてもしかりだ。

 ただし、ただ“平成に流行ったアイドル”を列挙しても、それは多くの人が承知していることであり、単に記憶をなぞる程度にとどまってしまう。そこで今回は、平成のアイドル史をたどるとともに、私が個人的に経験したアイドル状況を紹介し、流行したアイドルとはどのような関係性が生まれたのかをまとめてみたい。

 まず、今回は「ライブアイドル編」である。

 

“アイドル冬の時代”を越えて

 最初に、平成初期のアイドル界が、どのような状況だったかを確認しておこう。

 多くの人が語っているように、その頃は「アイドル冬の時代」だった。誰もが名前を知るようなアイドルはほとんどおらず、皆「アイドルファンだけが知っている」という程度の存在だった。

 そんな中、私が夢中になっていたのは、酒井法子だった。ヒット曲こそ飛ばしていないものの、テレビの歌番組には頻繁に出演し、地方に住んでいた私なども、十分に“ファン”としての楽しみを享受できたのだ。

 その頃、アイドルライブの定番の場所が「デパートの屋上」であった。多くのデパートの屋上にイベント用のステージがあり、そこで歌を歌い、握手会をしていた。私が酒井法子を初めて生で見て、握手をしたのも、ショッピングセンターの屋上だった。

 そして、平成2年、後のライブアイドル文化に大きな影響を与える2組がデビューする。「東京パフォーマンスドール」(初代・以下、TPD)と「宍戸留美」である。

 TPDは、それまでニューミュージックやロック系のアーティストが出演していたライブハウス、「原宿RUIDO」を拠点に、ライブを見せることをメインとした活動を開始。3年後には、武道館2Days公演を成功させるまでになった。後に、モーニング娘。のプロデュースで大ブレイクするつんく♂も、TPDのファンであったことを公言しているし、ハロー!プロジェクトのステージを見ても、TPDの影響は随所に感じられる。

 一方の宍戸留美は、ソニーレコードからメジャーデビューするも、2年後に事務所との契約を解消。フリーで活動する道を選ぶ。まだ個人で発信することが難しい時代、わずか18歳の少女が始めた活動が、後のフリーで活動する地下アイドルの礎となっていくのである。

 それと同じ頃、テレビなどの活動の場が減っていったアイドルに、歌う場を提供しようという試みが始まる。『歌姫伝説』と名付けられたこのイベントは、原宿RUIDOや川崎クラブチッタなどで、コアなアイドルファンを集めて、人気を集めていった。

 実は、これらのアイドルライブが広まっていった背景には、ライブハウス側の事情もあった。平成が始まった頃に起こっていた「バンドブーム」が一段落し、多くの会場で出演者が減ってきたのである。そこに、ある程度客の呼べるアイドルの公演を入れることによって、空いている時間をなくすという方針をとったのだ。つまり、ライブアイドルが始まった背景には、出演者と会場の利害が一致したという理由があるのである。

 諸説あるが、いわゆるアイドル冬の時代が終わるのは、平成5年頃だ。きっかけは安室奈美恵のブレイクである。彼女をアイドルと見ることに違和感を覚える人もいるかもしれないが、男女ともに彼女に憧れを持ち、その歌に酔いしれていたことを考えれば、まさに平成を代表するアイドルの一人といっていいだろう。

 彼女に続いて人気を博したのが、同じ沖縄アクターズスクール出身の「SPEED」である。平成8年のデビュー時、最年少の島袋寛子はまだ小学生ということで、その後のアイドルの低年齢化にも影響を与えた。

 もう一つ、その頃からアイドルの楽しみ方に変化を与えたものがある。「パソコン通信」の登場だ。現在のように画像や動画が扱えるものではなく、文字だけのやり取りであったが、テレビやライブの感想をリアルタイムで書き込める手段として、アイドルファンの間では大いに活用された。私も、当時のニフティサーブにあった「SPEED会議室」で、彼女たちへの思いをたくさん書き込んでいた記憶がある。

 もちろん、その後普及するインターネットも含め、アイドルたちは、その活動を告知する手段として大いに利用した。先に挙げた宍戸留美なども、いち早くネットに取り組んだ一人といっていいだろう。

 このようにして、地上と地下、両方で育まれていった平成のアイドル文化だが、そのどちらにも大きな影響を及ぼす存在が誕生する。それが平成10年の「モーニング娘。」である。

 彼女たちは、テレビ番組『ASAYAN』(テレビ東京系)から誕生し、人気となっていった。もちろんメジャーなアイドルである。ここで注目すべきは、『ASAYAN』という番組が、メンバーが決まっていく過程をつぶさに放送していたということだ。

 これまでの“生まれたときから運命づけられていたような特別な存在”から、“自分の今いるところからの延長線上”にあることを認識させた。つまり、「アイドルになるための方法」を、全国の女性たちに知らしめたのだ。後の、地上・地下にかかわらず、モーニング娘。に憧れてアイドルになる人が増えたのは、そのような理由もあったからだろう。

 そして、今でも地下アイドルの現場では、モーニング娘。をはじめとした、ハロプロの楽曲がよく歌われる。それは、このような経緯を考えれば、ごく自然な流れなのである。

 その頃、私は何をしていたかというと、メジャーなアイドルが出てきたことを横目で見つつ、ライブハウスなどでのアイドルライブに通っていた。まだ今のようなフォーマット(地下アイドルが複数出演→物販→特典会)ができておらず、その内容はさまざまであったが、新しい文化が生まれてくる胎動のようなものを感じていたものだった。

 モーニング娘。、そしてハロプロが破竹の勢いで人気を博し、アイドル界が盛り上がっていた平成17年、AKB48グループが劇場公演を開始する。48グループと、その後、ライバルグループとして結成された坂道シリーズの躍進については、改めて語るまでもないだろう。

 この時期のもう一つ大きな出来事として、「アイドリング!!!」の存在を挙げておきたい。平成18年にフジテレビのCSで番組がスタートして以来、9年間に渡りバラエティ豊かな放送を続けてきた。一方、音楽に関しても、クオリティの高い楽曲が多く、ライブなども積極的に行っていた。彼女たち、そしてスタッフの一番の功績は、平成22年から開催されている、日本最大級のアイドルフェス『TOKYO IDOL FESTIVAL』(TIF)の開催であろう。

 私も、第1回から参戦しているが、いわゆる“地下”を中心に活動しているグループや、ローカルアイドルなども出演しており、現在のアイドルブームを作り上げた立役者ともいえる。

 平成も後期に入ると、ライブアイドルはますます多様化をしていく。TIFに加え、『アイドル横丁夏まつり!!』『@JAM EXPO』といったフェスが開催され、アイドルが出演するライブ会場も増えていく。また、ネット環境の普及により、アイドルたちがSNSなどでファンと直接交流することもできるようになる。地方に住んでいても、情報を得て、アイドルの魅力を感じたりすることもしやすい時代になったのだ。

 ただ、その反動として、アイドルのグループのサイクル(結成から解散、メンバーチェンジまでの期間)が早くなっているようにも感じる。ファンが常に新しいものを求めるために、それに対応する基軸などを打ち出さなくてはいけなくなったのだ。これは、どこが悪いということではない。新しさを感じつつも、変わらない魅力を維持する、それは、時代が変わろうともアイドルが人気を保っていくための秘訣であるだろう。

 そして現在、ハロプロ、48グループ、坂道シリーズは引き続き人気を集め、地下のアイドル現場も健在だ。

 平成の30年間で、アイドルを取り巻く環境は、驚くほど変化した。つらい冬の時代を乗り越え、今のアイドル文化が花開いたことを思うと、いちアイドルヲタクとして、感慨深い思いだ。

 この10連休には、「平成最後の」「令和最初の」と銘打ったライブが数多く開催される。今のアイドル文化の礎となった、平成アイドルの足跡を感じながら、新しい時代を迎えてみてはいかがだろうか。

(文=プレヤード)

デビュー曲から規格外! 平成という時代を駆け抜けたSPEEDの光と影 

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 昨年末、仕事でとあるジャズ系のクラブを訪れた時のこと。その店に掲示されていたのは島袋寛子のライヴの案内だった。明けて2019年の早々にソロでのライヴをするという告知だったのだ。

 これ以前に今井絵理子や上原多香子が、あまり気持ちのよくない話題でマスコミを騒がせていたのを耳にしていたところだった。だから大人になった島袋を見て、連鎖的にSPEEDのことを思い出してしまったのだ。いつかこの連載であの子たちのことを書かないとな、と思った次第である。

 僕は25年ほどこの仕事をしているが、小学生、どころか、中学生相手にインタビュー取材をしたことすらほとんどない(アイドルの仕事をたくさんしているライターやジャーナリストなら珍しくないかもしれないが)。

 唯一の例外が、SPEEDへの取材だった。それもデビュー直後、2枚目のシングル「STEADY」のリリース時。彼女たちが勢いを一気に増していく頃だった。

 取材の目的は雑誌内のクリスマス向けの企画ページで、4人と話したのはこのシングルが出たのと同じ、1996年の11月だったと思う。都内のスタジオの中にそれこそクリスマスツリーのセットが作られて、彼女たちがそこにたたずんで撮影をするという状況。インタビューの内容としては、それぞれのクリスマスの思い出とか、グループでは何をしたとか、そんなゆるい話だ。

 デビューしたばかりの4人本当に若くて……というか、幼くて、まったくスレてなかった印象が残っている。何しろ無邪気だった。あと、みんな、小さかった。当たり前だが。

 そしてそれは、4人それぞれの個性が見えた時間でもあった。今井絵理子は明るくて社交的で、この中では一番アイドルっぽかった。集合インタビューでは声の判別をつけるために最初にレコーダー(当時はカセットテープ)に向かって名前を言ってもらうのだが、今井の最初の声が小さかったので、僕が「あっ、もう1回!」とお願いしたら、「今井絵理子で~す!」とものすごく明るく、おどけて言ってくれた。キュートだし、グループの中心でやっていく素質がある子だろうなと、すぐに感じた。

 島袋寛子は、明るくはあるのだが、話をしているさまは、とてもナチュラルだった。頑張って笑うようなことはないし、どちらかというとクール。でも前向き。当時この中では唯一の小学生(6年生)だったが、そんなイメージはあまり受けなかったほどで、やや落ち着きも見えた。

 上原多香子は、存在感が薄かった。ほとんど話さないし、主張することもゼロ。僕はその時、「この子、かわいいけど、性格は地味なのかな。もしかしたら暗いほう?」と感じたくらいだった。あとで1ページ分の記事を仕上げたら、彼女は2回ほど、それも短く発言しただけで、大丈夫かな? と思ったくらいだ(雑誌にはそのまま載った)。後年、たいへんな美女へと成長を遂げた時に「一番地味だったあの子だよな?」と驚いたものだ。

 そして新垣仁絵は、島袋とは違う意味でナチュラルというか、かなりマイペースな雰囲気の子だった。話はちゃんとしてくれるけど、これまた頑張って笑顔を作るようなこともほとんどなく、むしろ淡々としている。あんなに踊る子なのに、ふだんは落ち着いてるのか、と思った。

 こうして各人を見ると、あまり明るくなさそうだが(笑)、それは僕が場を強引に盛り上げるようなインタビュアーじゃないからかもしれない(活字媒体の書き手は、だいたいそういうもんだ)。撮影に入ると、クリスマス風の衣装になった4人は、にこやかだった。若々しく、元気なグループの陽性のエネルギーが、スタジオの中心で輝いていた。その時の写真の出来があまりに良くて、試し撮りを見たマネージメントのスタッフが「写真チェックはなしで大丈夫です」と編集者に言っていたほどだ。今みたいに画像データをPCで直すこともないし、まだ、ゆるい時代だったんだな。それに、SPEEDというグループを取り巻く環境も、おそらく。

 ただ、こうして思い出すと、取材の場での彼女たちの姿は、グループの本質の一端だった気もする。なにしろSPEEDは沖縄アクターズスクールの出身。つまりこの連載でも書いた安室奈美恵やDA PUMP、それにMAXと同じ出自を持つのである。ダンスが好きで、幼い頃からそれを志してきた子たちが集まったグループなのだ。

 ただ、いざデビューして芸能界というところに来ると、ダンスや歌だけやっていればいいわけではなく、それなりの対応力を身につけることが求められる。TVカメラの前ではおどけた姿ができたらいいだろうし、人に面白がられるトークもすべきだろう。それが本分ではないものの、要求される場面で応える能力はあっていい。

 そういうことも、彼女たちは徐々に体得していったに違いない。僕が受けた、決して明るすぎない4人のイメージは、デビュー直後の、まだ無邪気でもよかったタイミングゆえのものだろう。

 さて、SPEEDのデビューはこの少し前の1996年の8月、シングル「Body & Soul」にて。その頃から彼女たちは並のグループとは違う印象があった。何においてもレベルが違ったのである。

 この歌は、ギターのカッティングはシックの「おしゃれフリーク」を彷彿とさせ、そうして連ねられるファンキーな感覚に乗っていく島袋と今井のヴォーカルが秀逸である。当時「これ唄ってるの、ほんとに小学生か!?」と驚いたものだ。のちに多数のカバーも生んだ曲であり、いきなり大ヒットを記録した。プロデューサーは伊秩弘将で、彼の存在もここからクローズアップされていく。

 2枚目のシングルは先ほどの「STEADY」で、今度は横ノリの楽曲で実力を示した。もともとSPEEDは当時のアメリカのR&Bで大人気だったTLCに憧れを持っており、この曲のミディアム寄りのリズムにはその傾向が見られる。時おり聴こえるピーヒョロロ~みたいなキーボードの音色はGファンクを意識しているはずで、そのくらいSPEEDの音楽性にはR&Bやファンクの影が大きかった。そしてそれを小中学生が唄って踊っているという事実が、めちゃくちゃセンセーショナルだったのだ。

 SPEEDは、名曲をどんどん世に送り出していく。歌詞も話題になったのは「Go! Go! Heaven」。伊秩の詞は、あざとさ直前のところでそれをポップに昇華させるバランスがあるが、時々「そこまで唄わせるんか!」ってものもありで、しかしそれもSPEEDには合っていた。そこには彼女たち自身のテーマ、たとえば枠をはみ出して生きること、自分たちにとって大切にしたいことなどが反映されており、リスナーはSPEEDの実像と重ねながら楽しむことができたのだ。

 デビュー曲のニュアンスをさらに発展させたかのような曲は「Wake Me Up!」。この頃の彼女たちは、こういうファンキー感がほんとにお得意だ。ちょうどこの歌の頃にライヴを見る機会があり、それはじつに爽やかな、気持ちのいい空間だったことを記憶している。

 この頃になるとSPEEDの存在は一般レベルにまで知られていて、歌やダンスとは別に、ファッションにも注目が集まっていた。当時はストリートファッション全盛で、その波はそれこそローティーンにまで押し寄せつつあり、子どもたちもクールな雰囲気の服を着るようになっていた。僕が渋谷の街中でお茶をしていた時、ちょっとカッコいい服を着た子どもたちが通りを歩いていて、それを見た隣の席の大人たちが「SPEEDみたいな格好してるよね」なんて言ってたのを覚えている。そんな時代だったのだ。

 そしてSPEEDをトップグループの座に押し上げたのはデビュー2年目に放った「White Love」だ。クリスマスというモチーフが若さとみずみずしさ、その一方で、せつなさも漂わせながら、ひとつの実を結んでいる。結果的にこの曲はダブルミリオンというSPEEDのシングルの中で最大のセールスを記録した。

 1998年の初頭には「my graduation」をリリース。満を持しての卒業ソングで、もはや貫禄すら感じられる。

 ただ、あとで知った話だが、グループの活動については、もうこの時期から伊秩をはじめとしたスタッフたちがどうしていくべきなのかを考えていたようだ。確かにあまりに急激に成長した彼女たちは休むことをずっと許されず、さまざまなことが飽和状態になっていた感を受ける。

 この段階では「ALL MY TRUE LOVE」がいい出来の歌だと思う。

 ただ、もはや新鮮味はなく……いや、それはキャリアを重ねれば当然のことなのだが、その代わりの突破口になる何かも見えてこない。相変わらずヒットを飛ばしていたSPEEDだが、それが少しずつ落ち着きを見せ始めた時期でもあった。

 やがてメンバーのソロ曲、そしてソロ活動も始まり、グループの一体感は低下していった。そうなってからも活動を続けたものの、結局SPEEDは2000年の春に解散という節目を迎えることになる。

 以降の彼女たちは、それぞれの活動の合間に再結成~再活動を幾度か繰り返しており、新作も出している。若さいっぱいの言葉とメロディが躍動するあの歌を、大人の年齢になった彼女たちが唄うと、どんなふうに感じるものなんだろう? 再結成のライヴを見たりしたファンは、そんな時の流れを実感したことだろう。

 現在は4人が4人とも、あまりにそれぞれの道を歩んでいて、最初に書いたような報道が多いことを思うと、彼女たちがまた集まり、唄って踊るようなことは難しいのかなと……思ったりする。

 ただ、このことは書いておこう。

 間違いなくSPEEDは、日本の音楽史上に残るローティーン・グループだった。近年、とくにスポーツや将棋といった世界で10代前半の子たちが稀有なパワーを見せているが、J-POPにはSPEEDがいたのだ。その事実は強調しておきたい。

◆「平成J-POPプレイバック!」過去記事はこちらから

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

DA PUMP、祝・再ブレーク! 過去に通過した屈辱の「抱き合わせ商法」

 年末の『NHK紅白歌合戦』の出場者が14日に発表され、DA PUMPの16年ぶりの出場が決まった。今年6月に発売されたシングル「U.S.A.」(SONIC GROOVE)のYouTubeの再生回数が1億回を超え、レコード大賞獲得もウワサされるDA PUMP。見事な復活劇は大きな話題となったが、デビュー時にも業界に伝説を残している。

 DA PUMPは、安室奈美恵、SPEED、MAXらを生んだ沖縄アクターズスクール出身のグループ。デビュー当時のメンバー4人は全員沖縄出身で、1997年にデビューし、翌98年から5年連続で『紅白』に出場したが、デビュー直後の強引なプロモーションは、関係者の間では有名だったという。当時、大手出版社で児童雑誌の編集をしていた男性が振り返る。

「DA PUMPがデビューした97年、私は“学年誌”と呼ばれる児童向け雑誌の編集部にいました。当時はモーニング娘。がデビューする直前で、小中学生の間でSPEEDが圧倒的な人気を誇っていた時期。学年誌には芸能コーナーがあり、飛ぶ鳥を落とす勢いのSPEEDにオファーを出したところ、先方の返事は『DA PUMPも一緒に使うならOK』というものでした。SPEEDとDA PUMPは、いずれも所属事務所がライジングなので、いわゆるバーターというやつです。SPEEDはメンバーが若く(当時10代前半)、なかなか取材の時間が取れないので、編集者の間では『SPEEDで10ページ取りたかったら、DA PUMP用に2ページは空けておけ』などと言われていました」

 いわゆる“抱き合わせ商法”で売り出されたDA PUMP。彼ら自身も、デビューシングルが20万枚ほど売れ、十分に一本立ちできるレベルではあったが、SPEEDの売り上げはさらに1ケタ上をいっており、翌年になってもバーターは続いたという。キー局の番組制作関係者が振り返る。

「98年の夏、SPEED・島袋寛子が主演した映画『アンドロメディア』が制作され、公開直前にゴールデンタイムでスペシャル番組をやりました。当時はメンバー4人が出演するだけで、ある程度の視聴率が見込めただけに、スタジオトークと数曲のライブ、さらに公開が夏休み直前だったので、『SPEEDメンバーの夏休み』というような企画を行い、映画のメイキングシーンなども盛り込む予定でした。しかし、同作にはDA PUMPのメンバーも出演しており、事務所側の希望は『DA PUMPも出せ』というもの。結局、DA PUMPは『トーク+1曲』という形で落ち着きました」

 そんな両グループだが、片やDA PUMPは16年ぶりに紅白出場。SPEEDは再結成するも、活動はフェードアウト状態だが、再始動した際には、今度はSPEEDがDA PUMPのバーターになる“下克上”も夢ではなさそうだ。

今井絵理子議員の“ありがた迷惑”RADWIMPS擁護に、政界関係者が大激怒「目立つことをするな!」

 アイドルグループ・SPEEDで一世を風靡し、参議院議員となった今井絵理子氏(34)が、またまた大暴走だ。12日、久しぶりにブログを更新し、ロックバンド・RADWIMPSの新曲「HINOMARU」の歌詞が軍歌のようだとして物議を醸している件について意見を述べた。

 今井氏は「表現の手法は作家の自由であり、言葉遣いや色使いに正しいも間違いもありません。決して誰かの同意や批判を得たくて作品をつくるわけでもありません。出来上がった作品がすべてなのです。誰にも伝わらない作品もあれば、世界中の人を共感の渦に巻き込むこともあります。それが芸術というもの」とした上で「受け手の個人的な解釈の拡散により作家に釈明と謝罪までさせてしまう今の社会の風潮には賛成することができません」と綴った。

 今井氏といえば、昨年7月、妻子ある神戸市議との不倫疑惑を週刊誌に報じられたが、説明責任を果たさないまま逃げ回り、しばらく雲隠れしていたことで知られている。

 それにもかかわらず、今回の騒動を受け、偉そうに持論を展開したとあって、ネットは案の定炎上した。

 政界関係者は「あまりにも間が悪すぎます。安倍政権は森友・加計問題で劣勢に立たされ、自民党の支持率が落ちている時期。こんな時期に末端の自民党議員が世間の批判を受けるようなことをするなんて信じられませんよ。自民党幹部は『目立つことするな。余計なことするな』と大激怒していますよ」と声をひそめる。

 しかも、ブログを更新した12日は、政界にとって最重要な日だったのだから、政治的なセンスのかけらもない。

「あの日は、今井の地元沖縄県の名護市辺野古移設をめぐり、防衛省が埋め立て海域への土砂投入を8月17日に開始すると通知した大事な日だったんです。それに加え、史上初の米朝首脳会談が行われ、政界が1日中、緊張感に包まれていた日だったのに、参議院議員が呑気にロックバンドの擁護をしているなんて、政治家としての素質がないと言われてもしかたありませんよ」(同)

 また、事態が収束しかけていたにもかかわらず、今井の炎上によって再び注目を浴びてしまった「RADWIMPS」。こればかりはありがた迷惑といったところだろう。今井のタイミングの悪さだけが際立つブログ更新となってしまったようだ。