小島慶子の幻影を振り払う、赤江珠緒の「うっかり道」『たまむすび』

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TBS RADIO 『たまむすび』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  どこの世界においても前任者の残したイメージというのは非常に厄介なもので、後を継ぐ人間は、同じ路線を歩くのか、まったく別の路線を切り拓くのか、という厳しい選択を迫られることになる。しかも受け手はわがままなもので、常にその両方を望んでいる。ラジオの世界において、近年もっともそんな厳しい状況からスタートしたのが、『たまむすび』(TBSラジオ 月~金曜13:00~15:30)という番組だろう。  『たまむすび』は2012年4月、『小島慶子 キラ☆キラ』の枠を引き継ぐ形でスタートした。無論まったくの別番組なのだから、「前任者」という言い方はふさわしくないのかもしれない。しかし『たまむすび』開始当初、聴き手が明らかに「小島慶子的なもの」を求めていたという意味では、小島は前任者以上の存在だった。  番組は月~木曜を『モーニングバード!』(テレビ朝日系)でおなじみのフリーアナウンサー赤江珠緒が、金曜をTBSアナウンサーの小林悠がパーソナリティーを務め、曜日ごとに変わるパートナーとの2人体制で進めていく形をとっているが、パートナーのうち月曜担当のビビる大木と木曜担当のピエール瀧は『キラ☆キラ』から引き継いだ形であるため、『たまむすび』は“『キラ☆キラ』の後継番組”というイメージが余計に強くなってしまった。  番組開始直後、いち早く小島の幻影から抜け出したのは、皮肉にも金曜の小林悠×玉袋筋太郎コンビのほうで、「スナックママ×スナックの常連客」という初期設定が意外にも見事にハマり、初回から『キラ☆キラ』とはまったく別のベクトルを打ち出すことに成功した。  一方で月~木曜の赤江のほうは、「何事に対しても小島的な強い自己主張を求められているのに、その期待にうまく応えられない」という状況に陥っていた。実際、赤江のリアクションには、「へぇ~」「ふ~ん」「なるほど」といった相槌の言葉が多く、その先の感想や主張が特に出てこないという場面が続いた。  ただ、ここで改めて考えなければいけないのは、「じゃあ自己主張があればいいのか?」という問題である。そしてその先には、「小島は本当にそんなに最高だったのか?」という問題が横たわっている。そもそも受け手の期待がお門違いだったという可能性だって、充分にあるのではないか?  僕は小島のことを、「普段は厳しいが、時に生徒の趣味に理解を示す生徒指導の先生」のように感じていた。正義感が強くなかなか意見を曲げないが、生徒のバンド活動や休み時間の遊びには意外と寛容で、気が向くと自分も飛び入り参加したりするという、ある種、漫画的な人気教師のキャラクターである。自分が生徒であった頃には面倒な教師だと感じるが、卒業後に思い返すと、叱られたときの理不尽な気持ちも授業中の無闇な緊張感もすべてがいい思い出になり、卒業生が訪ねてくるタイプだ。  確かに、それはもちろん人気者の一つの典型ではあるのだが、同じくTBSラジオでパーソナリティーをしている伊集院光や爆笑問題の太田光、おぎやはぎの小木が公言しているように、小島を苦手だという人も多く、彼女の自己主張は面白いこともあれば、いきすぎて説教臭く感じることも多い。それに対し番組内で「オジキ」という愛称を授けたライムスター宇多丸はさすがの慧眼だが、『キラ☆キラ』とはつまり、「小島という教師が、サブカル畑のパートナーやリスナーという生徒たちを相手に、自分の意見・主張をぶつけていく」という対立構造を原動力としていた。意見の対立は大きな熱を生みだすから、SNS上でも派手に盛り上がりやすいし、逆に厳しい先生が生徒の意見をすんなり受け入れた際には、それはそれで珍しい出来事として価値が上がり話題になる。  もちろん、そういう形を全否定するつもりはない。その代わり、全肯定するつもりもない。「小島が『キラ☆キラ』で作り上げた形は、けっして唯一無二の理想形ではない」ということだ。ラジオの世界はもっと広い。そういう意味で、『たまむすび』の中で赤江は、ようやく自分なりの形を見つけ始めている。  その変化のきっかけとして象徴的なのは、10月から始まった「おばあちゃんのつぶやき!」というコーナーである。南海キャンディーズの山里亮太をパートナーに迎えた火曜日の14時台最初に配置されたこのコーナーは、老婆のナビゲーションで番組レギュラー陣の問題発言やミスをわざわざ紹介して糾弾していくという、正直「内輪ウケ」のコーナーである。  要はNG集のような企画なのだが、この揚げ足取りのようなコーナーが『たまむすび』全体の、さらには赤江というパーソナリティーの魅力を確実に掘り当て、凝縮しているのである。特に赤江の、番組開始当初の集中力が完全にどこかへ飛び去ってしまったかのようなミスや思い違い、いい加減な発言が妙に光り輝いており、早くも「女高田純次」の称号を授かってもいいのではないかというレベルにまで接近している。「ビートルズのメンバーの名前は?」と訊かれて、「ポールとマッカートニー」と回答。読むべき原稿をすっかり見失って「ペラペラペラ」とあちこち探しまわる音のみ長時間響かせる。「『モーニングバード!』で木みたいな服着てたよね」と他番組でのファッションセンスまでもイジり倒される。「天然ボケ」というよりは、単純に「かなりいい加減な人」という印象で、テレビや『たまむすび』開始当初のイメージからは相当な飛距離がある。そしてその隙が、不思議と彼女の人間的魅力につながっている。  赤江は以前、「子どもの頃にセミを取ってパンツに入れていた」というエピソードを披露したことがあって、そこには天然系のポテンシャルが垣間見えたが、確率的にはまぐれ当たりのようなものだった。しかしこのコーナーに触発されたのか、近ごろは安定して「うっかりミス」を供給するようになっており、ユーミンの好きな曲を訊かれて「卒業アルバム」(正解は「卒業写真」)、「ラマーズ法」を「サマーズ法」と言い間違えてみたり、「オリンピックのタイミングでつい巨大な世界地図を買ったが、デカすぎて貼れずリビングに放置」という向こう見ずな行動を告白したりと、完全にパンドラの箱を開けてしまった無双状態になっている。  何よりも人間的魅力が番組の面白さに直結しやすいラジオというメディアにおいて、パーソナリティーがどこまで心の扉を開いていくのか、あるいはリスナーやスタッフの力で開かれていくのかというのは重要なファクターだが、その開き方も、開くタイミングも、人間の一生と同じく千差万別である。もちろん自力でガンガン開いていく小島のようなタイプの人もいるし、一枚も開けずに番組が終了してしまう人もいる。だが、前任者の残したインパクトの大きさを考えると、赤江が開始半年にしてようやく離陸したのは必然ともいえるだろう。赤江珠緒には新しい「昼の顔」となるべく、「うっかり道」を迷わず邁進してほしい。その先にはきっと、小島とはまったく似ても似つかない「向こう側」が見えてくるはずだ。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) 「逆にラジオ」過去記事はこちらから

笑いと文学をつなぐ究極読書芸人の隠れ家的ユートピア『ピース又吉の活字の世界』

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『第2図書係補佐』(幻冬舎)
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  ピースの又吉直樹は、今もっとも売れている芸人の一人である。そんな彼が、華やかなテレビのゴールデンタイムの裏で、驚くほど静かに、ひっそりと文学を語っている。芸人ラジオのゴールデンタイムといえば、テレビの喧噪がすっかり遠のいてからの時間帯、つまり『JUNK』(TBSラジオ)や『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送されている、深夜1:00~3:00である。今ピースがラジオをやるならば、まさしくそのどちらかの枠がふさわしいだろう。しかし、又吉にとってラジオ初のレギュラー番組となる『ピース又吉の活字の世界』(ニッポン放送 水曜20:00~20:30)は、そのどちらの枠でもなく、時間も短く、コンビでもなければ、お笑い芸人然としたハイテンションでもない。30分間、又吉が本の魅力をただひたすら語るという、それだけの番組だ。しかしこれが、妙に面白い。その面白さの中に含まれる「妙さ」こそはまさに、優れた文学作品を読んだときに感じる面白さである。  お笑い芸人が、お笑い以外の趣味を核とした枠組みで番組をやることは、テレビでもラジオでも時にあるが、多くの場合、その芸人の持つ面白さは、扱っているジャンル自体の持つ面白さの枠内に押し込められてしまう。車好きの芸人が自動車の番組をやっても車自体の面白さには勝てず、競馬やパチンコの番組をやっても、その中でその芸人ならではの特長を出すのは、とても難しい。しかし、この『活字の世界』という番組においては、むしろテレビでの又吉よりも面白いといっていいくらい、彼の本領が発揮されていると感じる。それはきっと、本というものが、又吉にとって趣味という領域をはるかに越えてしまっているからだ。  初回放送で又吉は、「本が好きな人が世の中に増えて、どんどんみんな小説を書いて、その面白い小説が読める世の中になれば、最高の人生を過ごせるんじゃないかと思ってる」という、本好きのユートピア幻想ともいうべき理想論を掲げた。まるでこの世には本と人間以外には何も存在していないような、恐ろしくピュアでロマンティックな理屈である。又吉にとって本とは、すでに趣味の領域を越えて、イコール世界になっている。そんなことをいうと、「書を捨てよ、町へ出よう」と寺山修司のような、リア充目線のお説教がどこからか飛んできそうだが、本は人が書いたものである以上、それは人の思考回路そのものであり、さらには人の発想が組み立ててきた世界そのものであるということも、またひとつの事実ではないか。  だから又吉の中では、お笑いも文学も、同じ世界の中に含まれる。どちらも人の思考回路が露出した結果であり、それこそが人間そのものを表現しているということに違いはない。又吉にとって、文学は別腹に入れるべき単なる趣味ではない。彼はこの番組の中で、「笑いと文学は密接な関係にある。ほとんど一緒なんじゃないかとさえ思う」と語る。その二つは同等の、そして同種のものなのだ。だからこそ又吉は、文学における笑いを、お笑いと同じく「緊張と緩和」の構造から読み解いたり、敬愛する太宰治の作風について、「ナルシストな自分をさんざん書いて、そのあと転がり落ちるようなオチつけたり」する「お笑い芸人の手法」だと分析することで、世間に蔓延する「文学は暗い」という誤解を鮮やかに解いてみせる。  とはいえ、この番組の面白さは、そういった又吉の真摯な文学語りのみにあるわけではない。又吉が本の魅力を語ったり、本にまつわるゲストと話をしていく中で、芸人・又吉の根本にある奇妙な感性が、ところどころひょっこりと顔を出してくるのが楽しい。「売れない時代に古本を読みすぎて、新品の本を見たら紙が白すぎて目がチカチカした。僕にとっては日焼けしてる本が常識だった」と反転した価値観を披露し、「太宰はなんていったら怒るかをずっと考えていた時期がある」という謎の(しかしちょっとわかる)妄執を明かし、「バスを降りるとき、たくさん人が乗ってるのに、自分しかそこで降車ボタンを押さないと、『こんなとこで降りる奴はセンスがない』と思われるんじゃないかと思ってしまう」と、期待を越えるスケールの被害妄想を具体的に公表してみせる。又吉は本の魅力のベースにあるのは「共感」の力だと語るが、その先にある生理的な「違和感」というのも、また大きな魅力である。笑いも文学も、「共感」と「違和感」の狭間にできた渦のような場所から生まれる。  ゲストに訪れた歌人の穂村弘は又吉のことを、「次の瞬間、ものすごいことをこの無表情な人はしてしまいそうな感じがする」「それはもしかしたら、テレビでは映してはいけないようなことかもしれない」と評したが、そんな「共感の向こう側に突き抜けてしまいそうな危うさ」こそがまさに、文学と又吉に共通する最大の、そして不可解な魅力なのだと思う。テレビサイズには収まらない「又吉の世界=活字の世界」は、そのまま「ラジオの世界」にも通じている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第8回】気づきすぎるコラムニストが、虫めがね的観察眼で見いだす小さな大発見『えのきどいちろうの水曜Wanted!!』 【第7回】「安住二世」と呼ばれたくないTBS若手アナが解き放つ、暗黒のポテンシャル『ザ・トップ5~リターンズ』 【第6回】めくるめく複眼思考の、ひとりしゃべりキングダム『宮川賢のまつぼっくり王国』 【第5回】地方FMというアウェイの地に築かれた、毒舌王の強烈な磁場『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』 【第4回】「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

笑いと文学をつなぐ究極読書芸人の隠れ家的ユートピア『ピース又吉の活字の世界』

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『第2図書係補佐』(幻冬舎)
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  ピースの又吉直樹は、今もっとも売れている芸人の一人である。そんな彼が、華やかなテレビのゴールデンタイムの裏で、驚くほど静かに、ひっそりと文学を語っている。芸人ラジオのゴールデンタイムといえば、テレビの喧噪がすっかり遠のいてからの時間帯、つまり『JUNK』(TBSラジオ)や『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)が放送されている、深夜1:00~3:00である。今ピースがラジオをやるならば、まさしくそのどちらかの枠がふさわしいだろう。しかし、又吉にとってラジオ初のレギュラー番組となる『ピース又吉の活字の世界』(ニッポン放送 水曜20:00~20:30)は、そのどちらの枠でもなく、時間も短く、コンビでもなければ、お笑い芸人然としたハイテンションでもない。30分間、又吉が本の魅力をただひたすら語るという、それだけの番組だ。しかしこれが、妙に面白い。その面白さの中に含まれる「妙さ」こそはまさに、優れた文学作品を読んだときに感じる面白さである。  お笑い芸人が、お笑い以外の趣味を核とした枠組みで番組をやることは、テレビでもラジオでも時にあるが、多くの場合、その芸人の持つ面白さは、扱っているジャンル自体の持つ面白さの枠内に押し込められてしまう。車好きの芸人が自動車の番組をやっても車自体の面白さには勝てず、競馬やパチンコの番組をやっても、その中でその芸人ならではの特長を出すのは、とても難しい。しかし、この『活字の世界』という番組においては、むしろテレビでの又吉よりも面白いといっていいくらい、彼の本領が発揮されていると感じる。それはきっと、本というものが、又吉にとって趣味という領域をはるかに越えてしまっているからだ。  初回放送で又吉は、「本が好きな人が世の中に増えて、どんどんみんな小説を書いて、その面白い小説が読める世の中になれば、最高の人生を過ごせるんじゃないかと思ってる」という、本好きのユートピア幻想ともいうべき理想論を掲げた。まるでこの世には本と人間以外には何も存在していないような、恐ろしくピュアでロマンティックな理屈である。又吉にとって本とは、すでに趣味の領域を越えて、イコール世界になっている。そんなことをいうと、「書を捨てよ、町へ出よう」と寺山修司のような、リア充目線のお説教がどこからか飛んできそうだが、本は人が書いたものである以上、それは人の思考回路そのものであり、さらには人の発想が組み立ててきた世界そのものであるということも、またひとつの事実ではないか。  だから又吉の中では、お笑いも文学も、同じ世界の中に含まれる。どちらも人の思考回路が露出した結果であり、それこそが人間そのものを表現しているということに違いはない。又吉にとって、文学は別腹に入れるべき単なる趣味ではない。彼はこの番組の中で、「笑いと文学は密接な関係にある。ほとんど一緒なんじゃないかとさえ思う」と語る。その二つは同等の、そして同種のものなのだ。だからこそ又吉は、文学における笑いを、お笑いと同じく「緊張と緩和」の構造から読み解いたり、敬愛する太宰治の作風について、「ナルシストな自分をさんざん書いて、そのあと転がり落ちるようなオチつけたり」する「お笑い芸人の手法」だと分析することで、世間に蔓延する「文学は暗い」という誤解を鮮やかに解いてみせる。  とはいえ、この番組の面白さは、そういった又吉の真摯な文学語りのみにあるわけではない。又吉が本の魅力を語ったり、本にまつわるゲストと話をしていく中で、芸人・又吉の根本にある奇妙な感性が、ところどころひょっこりと顔を出してくるのが楽しい。「売れない時代に古本を読みすぎて、新品の本を見たら紙が白すぎて目がチカチカした。僕にとっては日焼けしてる本が常識だった」と反転した価値観を披露し、「太宰はなんていったら怒るかをずっと考えていた時期がある」という謎の(しかしちょっとわかる)妄執を明かし、「バスを降りるとき、たくさん人が乗ってるのに、自分しかそこで降車ボタンを押さないと、『こんなとこで降りる奴はセンスがない』と思われるんじゃないかと思ってしまう」と、期待を越えるスケールの被害妄想を具体的に公表してみせる。又吉は本の魅力のベースにあるのは「共感」の力だと語るが、その先にある生理的な「違和感」というのも、また大きな魅力である。笑いも文学も、「共感」と「違和感」の狭間にできた渦のような場所から生まれる。  ゲストに訪れた歌人の穂村弘は又吉のことを、「次の瞬間、ものすごいことをこの無表情な人はしてしまいそうな感じがする」「それはもしかしたら、テレビでは映してはいけないようなことかもしれない」と評したが、そんな「共感の向こう側に突き抜けてしまいそうな危うさ」こそがまさに、文学と又吉に共通する最大の、そして不可解な魅力なのだと思う。テレビサイズには収まらない「又吉の世界=活字の世界」は、そのまま「ラジオの世界」にも通じている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第8回】気づきすぎるコラムニストが、虫めがね的観察眼で見いだす小さな大発見『えのきどいちろうの水曜Wanted!!』 【第7回】「安住二世」と呼ばれたくないTBS若手アナが解き放つ、暗黒のポテンシャル『ザ・トップ5~リターンズ』 【第6回】めくるめく複眼思考の、ひとりしゃべりキングダム『宮川賢のまつぼっくり王国』 【第5回】地方FMというアウェイの地に築かれた、毒舌王の強烈な磁場『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』 【第4回】「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

気づきすぎるコラムニストが、虫めがね的観察眼で見いだす小さな大発見『えのきどいちろうの水曜Wanted!!』

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TBSラジオ『えのきどいちろうの水曜Wanted!!』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  えのきどいちろうは、気づきの人である。しかし彼の書くコラムには、何も特別な事件は起こっていないように読めるし、彼のラジオは何も有意義なことは言っていないように聞こえるかもしれない。だがそれは、受け手が気づく前に、まだ彼だけしか気づいてない面白さについて書いたりしゃべったりしているからで、そのポップな文体やゆるい口調とは裏腹に、受け手は彼が見つけた面白さに必死についていくことで、数々の発見や幅広い視野を手に入れることができる。面白さとは本来、そういう発見の過程にこそあるもので、すでに知っていることを再確認して安心する作業ではない。  この10月に始まった新番組『えのきどいちろうの水曜Wanted!!』(TBSラジオ 水曜20:00~21:50)は、まさにそんなえのきどいちろうの面白さが、尻尾の先まで詰まった番組だ。ラジオでは、『BATTLE TALK RADIO アクセス』や『ミミガク』(いずれもTBSラジオ)のパーソナリティー、そして『くにまるジャパン』(文化放送)へのコメンテーター出演等、近年はわりと報道方面の役割を担うことが多く、それはそれでお堅い話題に柔らかな切り口を持ち込むという意味で面白いのだが、『Wanted!!』といういよいよ完全に無意味なことができる場を与えられたことで、彼の異様なまでの「気づき力」が、感触的にはあくまでも彼らしくゆるゆると、しかし内容的には全開、そして濃密に発揮されている。  えのきどの「気づき力」の根底にはもちろん精度の高い観察眼があるが、その眼にはめ込まれたレンズは天体望遠鏡的なそれではなく、むしろ虫めがね的なものだ。遠くよりも近くを見る視力がズバ抜けている。たとえば初回の番組冒頭で彼は、「新番組はいつぐらいまで新しいのだ?」という、普通に考えればものすごくどうでもいいテーマを掲げた。開始1時間までが新番組なのか、半年たっても新番組と呼んでいいのか。そんなこと、ほかのパーソナリティーはきっと誰も気にしていない。新番組を始めるにあたっては、自己紹介をしたり、番組で何をしていきたいかという抱負を語ったり、あるいは最近あった面白い話をしたりというのが定番であり、それでも十分にパーソナリティーにとって目の前にある題材だといえる。さらに、番組名自体について疑問を持ったり、思い入れを語ったりするというのもよくある話だ。  しかしえのきどは、おそらく台本や企画書であれば番組タイトルの前になんとなくついている、そして新聞のラジオ欄であれば、やはり番組名の前に燦然と輝いている、「新」の字に真っ先に引っかかりを覚え、居ても立ってもいられなくなってしまったのである。番組名よりも手前でとどまって考えてしまう。いちいちそんなところで立ち止まってしまったら、一向に前に進むことなどできない。毎朝起きて、「ベッドからの起き上がり方」について考えたり、「なぜ人は二足歩行をするのか」を考えていたら社会生活が立ちゆかない。そうやって大人は無意識のうちに、手前のことを考えないようになる。しかし、これこそが本物の好奇心であり観察眼であって、だから好奇心旺盛な子どもはすべての角をあみだくじのように曲がって寄り道をして迷子になり、目の前のボールを追いかけて遠くから来る車に気づかず飛びだしてしまうのだ。  だが、その小学生のような目線で見つけた疑問が、そのまま手前にとどまっているのではなく、いつの間にかはるか遠くまで飛躍していくのがえのきどの真骨頂。「新聞はいつまで『新』聞なのか?」「古新聞という言い方は古いのか新しいのか?」「新幹線はいつまで『新』幹線なのか?」「京成は新京成のことを、『アイツいい気になりやがって!』『いつになったら大人になるんだ』と思ってるはず」などと、この世に蔓延するさまざまな「新」に疑問を投げかけていく。そこまで来ると、聴いているこちらも、「新番組がいつまで新番組かはどうでもいいにしても、新幹線がまだ新幹線なのはなんだか納得いかないぞ」とか、「いくらなんでも新京成にバカにされる京成はかわいそうだ!」(完全にイメージだが)という気分になってくる。実際にリスナーからも、「考えてみれば新宿や新橋も全然新しくない」「みなとみらいはいつか『みなと過去』になるのか?」なんて抜き差しならない疑問が数々噴出してきて、コーナーをいくつか挟みつつも、気づけば「新」に関する話題のみで2時間弱の番組が終わるという、おそらくは史上もっとも小さいテーマから飛躍的な盛り上がりを見せるという稀有な事態が起こっていた。  そして、先日の4回目の放送(3回目はTBSでは裏送りのため放送がなかったが、Podcastで聴取可能)では、アシスタントの川瀬良子という、これまた文字どおり手前にいる人間にスポットを当て、「川瀬良子が悲しみを受け止めるのだ」というテーマで、リスナーからの悲しい報告をアシスタントにひたすら投げ続ける千本ノックのようなことをやり、川瀬のポテンシャルを見事に引きだしていた。  リスナーからの「道ばたの黄色いゴミネットが秋田犬に見えた」という疲れきったメールに対し、「それは悲しい。ゆっくり休もう」という優しさあふれる回答の後、突如「犬がネットをかぶっていたのかもしれない」と急角度から新たな可能性を疑う川瀬は、たしかに落ち着いた番組進行能力と天然由来の率直さを兼ね備えた「知的なローラ」とも言うべきキャラクターを感じさせる逸材で、最後にはえのきども「川瀬さんのキャパシティに感動した」「川瀬にぶん投げときゃ間違いない」と半ば降参するように、その予測不可能な能力を確信するほど。わからないことを「わからない」とはっきり言ってしまうその素直さは、何よりもわからないものに興味を抱くえのきどにとってまさにお宝であり、彼女が「わからない」という反応を示したことを突き詰めていけば面白くなる、という試金石でもある。  わからないことの中に飛び込んでいって、面白さを発見する。それが大事なことは誰もがわかっているはずだが、そのわからなさが、どこか遠くの、目の届かないはるか先のどこかにあるような気がして、面白さを探すことをあきらめてしまう。ネット社会になって以降、あふれる情報の海の前で、漠然と遠くを見つめてやり過ごすことが増えているような気配があるが、実は我々が見落としがちな面白さとは、遠く視野の外にあるものではなくて、目の前の、近すぎてちょうど死角になっているような場所に隠れているのかもしれない。近くを見るというのは、「近視眼的」という言葉もあるように悪い意味で捉えられがちだが、遠い目をしているだけでは何も見つけられない。えのきどいちろうはそんな大事なことを、教える気なんてさらさらないとぼけた口調と鋭い観察眼でこっそり示してくれる。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第7回】「安住二世」と呼ばれたくないTBS若手アナが解き放つ、暗黒のポテンシャル『ザ・トップ5~リターンズ』 【第6回】めくるめく複眼思考の、ひとりしゃべりキングダム『宮川賢のまつぼっくり王国』 【第5回】地方FMというアウェイの地に築かれた、毒舌王の強烈な磁場『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』 【第4回】「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

「安住二世」と呼ばれたくないTBS若手アナが解き放つ、暗黒のポテンシャル『ザ・トップ5~リターンズ』

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TBSラジオ『ザ・トップ5~リターンズ』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  ラジオは時に、人の印象を反転させる力を持つ。またしても、テレビでの爽やかなイメージを覆すことで、ひとりのモンスターを目覚めさせてしまった。怪物の名は、山本匠晃。その端正なルックスから「安住二世」ともいわれている、入社5年目のTBSアナウンサーである。そんな彼が、初めてのラジオ・パーソナリティーを務める10月開始の生放送新番組『ザ・トップ5~リターンズ』(TBSラジオ 毎週火曜~金曜18:00~20:00 山本は水曜担当)で、隠されていたネガティブ・パワーを存分に炸裂させているのである。  『ひるおび!』や『さんまのスーパーからくりTV』等の番組で見かける彼は、基本的に清く正しい。だが一方では、なぜだか常時テンパっている感触が画面からにじみ出ていて、司会者にツッコまれると何も返せずにただあたふたする、という場面も多く、どうにも空気が読めていない感じが常に漂っている。それが若さや不慣れによるものなのか、あるいは本人の性質によるものなのか判別できぬままに、時おり見かけてはもどかしい気分に陥っていたのだが、ラジオでのしゃべりにより、このたび完全に後者だと判明した。彼は極度の「緊張しい」なのである。それゆえに、緊張が一瞬解けたときには、雪崩のごとく本音が流れ出して止まらない。そのギャップから来る解放感があまりにスリリングで、一瞬たりともラジオから耳が離せない。  そして、その緊張感をさらに増幅させる装置が、『トップ5』独特のスタート形式である。『ザ・トップ5~リターンズ』は、昨年10月から今年3月まで放送された『ザ・トップ5』からパーソナリティーを一新した、いわば2ndシーズンに当たる番組であり、曜日ごとにパーソナリティーとパートナーを替えた二人編成で進行される。しかし、出演者の二人は事前の顔合わせが一切なく、初回放送中に初めましての挨拶と名刺交換をするという、非常に珍しいぶっつけ本番形式を取っている。そのため各曜日ともに、初対面の緊張感から互いの探り合いを経て、回を重ねるごと徐々に二人の息が合っていく過程を楽しむ番組でもあるのだが、特に水曜日に関しては、その緊張感増幅装置が山本の緊張を完全にオーバーヒートさせ、前シーズン経験者で謎の経歴を持つパートナーのコンバットREC(ビデオ考古学者)をあきれさせながらも驚嘆させるほどの、意外な後ろ向き発言が繰り出され続けるという異常事態を生んでいる。  番組は、「新感覚“残業支援系”ランキングトークバラエティ」と銘打っているように、世の中にあふれるさまざまなランキングを紹介しながら進んでいくのだが、正直そんな企画書的な体裁はどうでもいいとばかりに、初回から山本のネガティブな個性が噴出。冒頭のタイトルコールで「残業」を「塹壕」と噛む不穏なスタートから、「アナウンサー間にイジメはあるのか?」というコンバットRECの質問に対し、「距離を置きたい先輩はたくさんいる」という期待以上の返答。さらに「『ロッキー』が好きな人とは仲良くなれる」という年輩のコンバットRECに対し、「特に思い入れはないです」という空気の読めない正直すぎる答えの後、すぐに自らの過ちに気づいて「ごめんなさい」と謝ったかと思えば、「曲は好きなんですけど……」というむしろマイナスでしかないフォロー。そして、トークが一段落した後の曲明けには、突如として自省モードに突入し、「聴いているすべての皆さんにお知らせします。冒頭から気分を暗くさせてしまいまして、申し訳ございませんでした」という正式謝罪が前触れもなく飛び出すという、完全に錯乱した展開。その後も、「両手の痺れと手汗が止まらない」「安住二世とはいわれたくない」「仕事終わりはすごい一人になりたくなる」などとネガティブ発言を連発しつつ、試食のコーナーでは、「僕、今日なんにも喉を通らなくて」とつぶやきながら豚かばやき丼をしゃべれなくなるほど頬張り、「まさかRECさんの前で、こんなに食べられるとは思わなかった」と自分に驚いてみせるという、まったく先の読めない小悪魔的言動に、聴き手は振り回されっぱなしなのである。  2回目の放送でも、緊張している山本のためにと、コンバットRECが持ってきたハーブティー各種を次々飲みながら、そんなスピードで効くはずないだろというテンポで、飲んだ端から「落ち着きます」「包まれるような感じ」などと信用できないコメントを連発。「先週よりリラックスしてる感じがする」といわれれば、「リラックスはしていない」と即座に否定し、かと思えば「最近、耳たぶの吹き出物と寝違えに悩んでいる」などと唐突に自分語りを始めるマイペース&ネガティブっぷり。しかし、その突然すぎる寝違えの話題が、コンバットRECも首に痛みを抱えているという話につながると、その痛みの原因となった「中学生時代に自転車に乗っていて車に轢かれたが、恥ずかしくて自転車を担いで逃げた」という秀逸なエピソードを引き出すなど、早くも二人の化学反応を感じさせる展開を見せ始めている。表面的にはしばしば行き違っているように聞こえる二人の会話も、一を訊けば十答える博識のコンバットRECが辛抱強く山本を鍛え上げている構図にも見えて、まるで『ドラゴンボール』でピッコロが孫悟空の息子である孫悟飯に稽古をつけるような(そういえば、山本の品のある甘えん坊キャラクターは悟飯に似ている)微笑ましい光景にも思えてくる。  そんな極度にマイペースかつネガティブな山本の面白さは、初回の番組後半に本人の口から飛び出した「人に嫌われたくない。かといってあんまり人のこと好きじゃない」という、「自己愛の強さ」に根っこがあるのだと思う。だが、この「自己愛の強さ」というのは、実はラジオリスナーが安住紳一郎を讃える際のキーワードでもあって、本人はそう呼ばれることを快く思っていないとはいえ、やはり彼が「安住二世」と呼ばれるにふさわしいポテンシャルを感じさせるのは間違いない。過剰な「自己愛」の表明は、ラジオにおいては反転して「可愛げ」として受け入れられることがしばしばある。ただし、安住が若い時分から新人離れした落ち着きを見せていたのに比べると、その点において大いに不安を感じるのもまた確かで、そこを「何が飛び出すかわからない面白さ」ととるか、「不安定すぎて面白さどころではない」と感じるかで、評価は大きく分かれるところだろう。個人的には、「何が飛び出すかわからない」度合いの大きさにおいて安住よりも勝っているところに、「安住二世」の枠には収まらない得体の知れぬ可能性を感じるのだが、それもこの番組をどう乗り切っていくのかで変わってくるだろう。  しかし、彼のネガティブさが、“残業支援系”という番組キャッチコピーにある通り、結果として疲れたサラリーマン(というより、OLや主婦かもしれないが)への癒やしをもたらしてくれることもまた間違いない。もちろん方向性はちょっと違うが、近ごろ話題のネガティブ・モデル栗原類が万人に大いなる癒やしを結果的に与えているように、正直と不器用を由来とするネガティブさは、時にウソをつき常に器用な振る舞いを求められる現代の大人にとって、数少ない心の支えとなる。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第6回】めくるめく複眼思考の、ひとりしゃべりキングダム『宮川賢のまつぼっくり王国』 【第5回】地方FMというアウェイの地に築かれた、毒舌王の強烈な磁場『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』 【第4回】「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

めくるめく複眼思考の、ひとりしゃべりキングダム『宮川賢のまつぼっくり王国』

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『宮川賢のまつぼっくり王国』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  『宮川賢の誰なんだお前は?!』で世間の常識をぶち壊し、『サタデー大人天国! 宮川賢のパカパカ行進曲!!』で素人を意のままに弄び、『夜な夜なニュースいぢり X-Radio バツラジ』(いずれもTBSラジオ)『宮川賢のおはよう! スプーン』(ラジオ日本)でニュースへのキャッチーな入り口をこじ開けてきた宮川賢が、世間でも素人でも社会情勢でもなく、ただひたすら自分自身と向き合うひとりしゃべりの番組が『宮川賢のまつぼっくり王国』(TBCラジオほか、関東圏はラジオ日本 土曜深夜4:00~4:30)である。  「ひとりしゃべり」というと、いかにも矮小なイメージを受けるかもしれないが、実のところラジオのひとりしゃべりとは、硬軟軽重真面目不真面目全部が入る、非常に魅力的な入れ物なのである。宮川の傑出した能力とは、まさにそういった真面目と不真面目を自在に往来しながら縦横無尽に語れるところで、だからこそ彼は、ニュースとエンタテインメントをつなぐ貴重な存在として重宝されてきた。しかし、それはあくまでも『バツラジ』や『おはよう! スプーン』のように、ニュース番組というカッチリとした枠組みがあって初めて発揮される能力なのでは、と感じていたのだが、この『まつぼっくり王国』でのひとりしゃべりを聴くと、番組の枠組みとは関係なく、いやむしろ枠組みを取っ払った自由な空間においてこそ、すべてを分け隔てなくエンタテインメント化してみせる宮川の能力が存分に発揮されていると感じる。  ではなぜ宮川には、深刻な話題も暗いニュースも、何もかもを娯楽として提供することができるのか。ひとつには、彼がそもそも劇団の主宰者であり、演出家であり、脚本家であり、俳優であるという点にある。つまり演劇という、深刻なテーマをエンタテインメントとして見せる場の出身である、というのもあるが、より重要なポイントは、彼には劇団を構成する複数の重要な役割がすべてひとりでできてしまうという点にある。複数の役割をこなすには当然、複数の視点が必要になり、特に脚本や演出を手掛けるとなるとすべての俳優の視点が必要になる。これは単に「だから宮川賢はいろいろできてすごい」という話ではなく(もちろんすごいが)、宮川がどんな話題にもエンタテインメントとしての切り口を見だして提供できるのは、彼が常に複数の視点を持ち合わせている人間であるからだ。  だが、複数の視点を持つというのは、単なる技術的な話ではない。自分ではない人間の視点を持つということは実質的には不可能であり、想像力を働かせることしかできない。だから宮川のひとりしゃべりには、彼自身の想像力が生み出した他者の視点が、容赦なくツッコミを入れてくる。いや、実際にはツッコミを入れる人はその場にいないので、ツッコミの言葉は入ってくるはずもないが、彼は明らかにツッコミや反対意見を的確に想定した上で話を先に展開させている。たとえば原発の話をするとき、福島にいる人とそれ以外の人という立場だけでなく、「福島以外の東北にいる人」の複雑な気持ちや、さらには反原発を声高に主張することで利権を追求する企業の思惑にまで想像の網を広げながら、さまざまな角度からの意見を自分の中でぶつけるようにして語っていく。そういったニュースを取り上げる際にも、社会情勢それ自体というよりは、そのニュースに反応したさまざまな人々を自分の中に想定し、彼らと真正面から向き合うように考えが語られる。また、ラジオの理想と現実について語る際には、世間の不景気、ラジオ局側の苦悩、リスナーの要望、パーソナリティーの理想、そしてスポンサー側の思惑に至るまで、各方面に想像をめぐらしながら多角的に考えを進めていく。  もちろん、自らの本拠地である演劇論に関してもそうで、劇団主宰者としての目線だけでなく、作者、演者、観客、さらには過去未来などあらゆる立場から現状をあぶり出し、展望を見据えていく。そして重要なのは、それら複数視点の中には真面目なものもあれば皮肉やユーモアにあふれた不真面目なものもあるということで、だから真面目な話にも笑いの視点が容赦なく入ってくるし、逆に笑い話が突如として深刻なメッセージ性を帯びることもある。それによって話の深みが増し、ひとりしゃべりがいつの間にかエンタテインメントとして成立する。  しかも、これだけの多様な視点が、5分程度の話の中で目まぐるしく立ち現れ、曲やリスナーからのメールを挟みつつ話題を変えながら、硬軟取り混ぜた3つ4つの話を繰り広げて30分があっという間に過ぎ去っていく。終わってみれば、まるで10人もの話を聴いたかのような聖徳太子的聴後感すら残るが、短時間の中に複数視点が混線することなく同居できているのは、間違いなく宮川というひとりの人間=パーソナリティーが話をしているからである。大人数で話をすれば豊かな議論になるとは限らないが、だからといってひとりの想像力に頼むのがよいかといえば、それはそのひとりの人間の想像力にかかっているとしかいえない。ラジオのひとりしゃべりとは、自由であると同時に危険なものでもあるが、宮川のような想像力にあふれたパーソナリティーにとって、それが絶好のシチュエーションであるのは間違いない。ここは目に見えぬ無数の声が宮川の中で響き合うことで生まれた、ひとりしゃべりの理想の王国である。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第5回】地方FMというアウェイの地に築かれた、毒舌王の強烈な磁場『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』 【第4回】「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

地方FMというアウェイの地に築かれた、毒舌王の強烈な磁場『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』

『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』
公式サイトより
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  芸人・有吉弘行の才能は、説明するまでもなく、すでにテレビで十分に開花しているように見える。その「いかにも開花した感じ」には、『進め!電波少年』(日本テレビ系)時代の彼が、お笑いの能力とはほぼ無関係な感動路線で売れたという前フリが異様に効いているということも影響しているだろう。少なくとも視聴者には、有吉はいきなり面白く生まれ変わったように見えた。「ヒッチハイクの人」から「毒舌王」へと。  だが、そんな鮮やかでマジカルな変身譚が、事実であるはずはない。芸人が才能を開花させるためには、必ず適切なフィールドを必要とする。どんなに能力があっても、それを発揮させてくれる場がなければ、世に知られぬまま終わる。しかし、そのフィールドを手に入れるためには、まず先に能力を認められなければならない―芸人に限らず、あらゆる才能の前には、そんな無限ループが立ちはだかっている。その無限ループを突き破れなければ、どんなに才能があろうと、無能の人と呼ばれて終わる。  あらめてそんなことを考えたのは、彼のラジオ番組『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』(JFN系 日曜20:00~21:55)こそが、有吉の才能を最大限に引き出すことのできる究極のフィールドであると感じているからだ。この番組を聴いた者は必ず、テレビにおける有吉の面白さには、まだ先も奥も果てしなく存在していると知ることになる。  普通に考えれば、お洒落イメージの強いFMラジオというのは、純粋な笑いを志す芸人にとってあまり良いフィールドではないかもしれない。ましてこの番組は、JFN系列の番組ではあるが、その中心であるTOKYO FMでは放送されていないのである。だが有吉は、東京では放送されていないのを逆手に取るように、この番組を前代未聞の解放区に仕立て上げることに成功した。間違いなく、内容の過激度では現在のラジオ番組の中で群を抜いているし、比べるとしたら往年の『ビートたけしのオールナイトニッポン』あたりの伝説的番組を引き合いに出すしかない。  番組は有吉のフリートークとリスナー(この番組では愛を込めて「ゲスナー」と呼ばれる)からのメール、そしてネタコーナーというオーソドックスな構成になっているが、番組の自由すぎる空気を作り出しているのは間違いなく、有吉の思いつき次第でどこへ飛んでいくかわからない変幻自在のフリートークである。『24時間テレビ』(日本テレビ系)の裏で、番組冒頭からロクにやったこともない加山雄三のモノマネで「サライ」の一番を朗々と歌い切る。アシスタントの若手芸人には単なる思いつきで足の角質を一週間分集めてこさせた上、名前が悪いと言いがかりをつけて突如「イノシシ太郎」に改名させる。『キングオブコント』決勝進出を決めた前途有望な若手を呼びつけて、最下位になるよう呪いを掛けるなど、なんの意味もない、誰も得しない思いつきを暴君のごとく連発していくという完全なフリースタイルは、もちろんそれだけでは終わらない。その人を食ったようなスタンスは、リスナーと、月替わりで呼ばれるアシスタント(太田プロの後輩芸人。デンジャラス安田のみ先輩)にまで多大な影響を及ぼし、全方位的に言いたい放題な、ルール無用のバトルフィールドを作り上げていく。  リスナーからのメールは「おい有吉!」から始まるのがいつしか当たり前になり、ネタコーナーには、ゲストに来たふかわりょうが「同じ無法地帯でも2ちゃんのほうがまだいい」と嘆くほどに行きすぎた芸能人イジリが殺到、一方で後輩芸人も単に有吉に従うだけでなく、時に調子づいた有吉をスカして巧みに泳がせ、機を見て果敢に反論を試みては見事な返り討ちに遭う。そうやって番組を構成するすべての要素が先鋭化し、それらが入り交じって渦をなすことで、有吉の独裁政権下にありながら遠慮無用の無礼講状態であるという、高度な矛盾を孕んだ笑いのカオス=磁場が完成しているのである。  だがそんな強力な磁場は、決して偶然の産物ではない。ラジオにおいて優秀な投稿者やアシスタントを育てることは重要であると同時に非常に難しいことだが、有吉はかつての戦国武将のように自ら鬨の声(この番組の場合「奇声」)を上げ、先陣を切って「ここまでやっていいんだ」と限界を取り払ってみせることで、リスナーやアシスタントが存分にその能力を発揮できる自由で柔軟なフィールドを、地方のFMラジオというアウェイの地に構築してみせた。空気を読める芸人はあまたいるが、0から磁場を作り出せる芸人はあまりに稀少だ。それは有吉が、自らの才能発揮の場を渇望する長い冬眠の時期を経ることで開花させた、稀有な能力なのかもしれない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第4回】「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』

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オールナイトニッポン公式サイトより
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  夏休みの終わり、やり残した宿題などうっちゃっておけとばかりに、『オールナイトニッポン』を笑いの波が席巻した。「人気お笑い芸人12組総登場! おもしろくてあたりまえ!」という、恐ろしく逃げ場のないキャッチコピーを引っ提げ、『オールナイトニッポン45周年 お笑いオールスターウィーク』というこれまた大仰な名のもとに、8月27日(月)~9月1日(土)の一週間、ニッポン放送の深夜帯は芸人の声で埋め尽くされた。  いま現在、レギュラー編成されているナインティナイン、Hi-Hi、オードリーに加え、千原ジュニア、ハライチ、サンドウィッチマン、バカリズム……というラインナップを見ると、「特別な一週間」というよりはむしろ、「なぜ最初からこの人たちをレギュラーにしなかったのか?」という印象を受ける。この並びこそが、数多のお笑い芸人を育ててきた、本来あるべき『オールナイトニッポン』の姿なのではないか、と。   番組を聴き進めていくにつれ、それは確信に変わると同時に、お笑い芸人がラジオをやる難しさも浮かび上がらせる。最大の問題は、今回のキャッチコピーにもなっているように、「おもしろくてあたりまえ」という感覚である。これはもちろん、土曜の大トリを担当したCOWCOWのネタ「あたりまえ体操」から持ってきたコピーだが、芸人のラジオを聴く際のリスナー側の感覚を的確に表してもいる。放送の中で、千原ジュニアやバカリズムら多くの芸人が、このコピーの「ハードルの上げ具合」に関してツッコんでいたが、これは局側の無茶振りでもなんでもなく、実際に芸人ラジオのリスナーが潜在的に設定している厳しいハードルを言い当てているに過ぎない。  逆にいえば、いま多くのラジオ番組がミュージシャンや声優をパーソナリティーに選んでいる理由の一つもここにある(もちろん「固定ファンを連れてこられる」という理由が第一だが)。芸人以外には、この「おもしろくてあたりまえ」というハードルが、リスナーの中に設定されていないのである。おもしろければそのほうがいいのは当然だが、それがあたりまえだとは思われていない。ミュージシャンや声優は、おもしろいことを言うプロではない。普段はあまり素のしゃべりを聴く機会のないミュージシャンや声優が身近な話をすれば、それだけで充分価値がある。しかも、彼らには声質という武器がある。もちろんデーモン小暮や大槻ケンヂなど、芸人に勝るとも劣らぬおもしろさを発揮するミュージシャンが時に出現するが、近年その確率はけっして高くない。  そしてもう一つ、いま芸人がラジオをやる上でハードルとなるのが、テレビの存在である。そんなのは前からあるじゃないか、と思うかもしれないが、いわゆる「芸人のフリートーク」がここまでテレビの中心を占めるようになったのは、『アメトーーク!』(テレビ朝日系)や『人志松本のすべらない話』(フジテレビ系)以降のことだ。つまり、テレビでも芸人のしゃべりを聴く機会が格段に増えているわけで、そうなると同じ芸人がラジオでしゃべる価値とはいったいなんなんだろう、ということになる。たとえば今回、月曜日の『オールナイトニッポン』を担当した千原ジュニアは、後輩芸人を二人呼んで2時間フリートークのみという番組形態をとっていたが、その中で披露された「女芸人10人と飲みにいった話」は、テレビですでに聴き覚えのある話だった。もちろん、内容的にはやはりおもしろいし、売れっ子なのでトークのネタがかぶることは仕方のないことだろうが、番組全体が、準備してきた話をする『すべらない話』的な空気に包まれており、聴き手との間に「パーソナリティーとリスナー」というよりは、「テレビタレントと視聴者」というべきよそよそしい距離感を感じさせた。  今回登場した12組の中でも、比較的メジャーな芸人たちからは、いずれもそういった「あまりテレビと変わらない」印象を受けた。それはテレビでの露出が多い以上避け難いことではあるが、ラジオをやるならば、テレビよりも深いか鋭いか、あるいはなんらかの意外な側面や思いきった切り口を見せることで、リスナーとの距離感をグッと詰めてほしい、というのが聴き手側のわがままな本音である。  その点、まだあまり正体の知られていないマイナー芸人のほうが、固定したイメージのないぶん、奔放にラジオのフィールドを駆け回り、リスナーとの一体感を獲得することができるのかもしれない。結果、この一週間を通じて最も面白かった芸人は、火曜日の『オールナイトニッポン0』を担当した、12組の中で最もマイナーなラブレターズだった。彼らは『キングオブコント2011』決勝における、直立不動でふざけた校歌を歌うシュールなコントで知られる若手二人組だが、正直それ以外にはまだ何も知られていないといったほうが正しいかもしれない。しかし、彼らはその知名度のなさとラジオの自由さを逆手に取るように、「過剰に卑屈でありながら極度に上から目線」という倒錯したキャラクターを2時間にわたり演じきることで、『オールナイトニッポン』の歴史に見事な爪痕を残した。  金切り声が特徴的なツッコミの溜口は、冒頭から自分たちを、売れっ子芸人が並ぶ今回のラインナップ中の「ローテーションの谷間」だと卑屈に認め、かと思えばリスナーからの温かい励ましのメールを「普通のメールだなぁ~」と一刀両断。「リスナーを育てるのがパーソナリティーの役目だから」と分不相応な上から目線を提示した上で、「覚悟を決めてメールを送ってほしい」「簡単に送りすぎ」「質の高いメールを」と厳しいリクエストを次々とリスナーに突きつける。さらにはリスナーから大喜利の答えを募集しつつ、寄せられた答えにはダメ出しを連発、なのに最後に自ら提示する模範解答は人一倍ショボいという、傍若無人なスタンスでグイグイと聴き手を巻き込んでいく。『キングオブコント』で見た優等生的な印象(単に学ランをきっちり着ていたから、というだけかもしれないが)からはまったく想像もできない荒くれぶりで、爆笑問題や伊集院光を通り越してもはや毒蝮三太夫に向かっているのではないか、というくらいの思い切った毒舌をまき散らすその様子には、不快感どころか爽快感しか感じない。それを止めるでもなく流すでもなく適度に泳がせる相方の塚本の手綱さばきも見事で、リスナーも嬉々としてその設定に乗ることによって、溜口の奔放なキャラを中心に番組が形作られていく感触があった。時にラジオにおいては、パーソナリティーの強引さが、聴き手にカリスマ性と身近さを同時に感じさせることがあるが、この番組はまさにその好例といえる。  芸人はラジオで、テレビの裏話や自らの近況報告をするものだ、と思っている向きは多いかもしれない。特に『オールナイトニッポン』はビートたけしやとんねるずの時代から、そういう傾向が強かった。しかしその一方で、このラブレターズのように、2時間まるまる強烈なキャラクターを演じきって全体をコントとして成立させてしまう、という手法が、テレビとは違う面白さを生み出す可能性だって充分にある。果たしてこのキャラクターを毎回演じきれるのか、売れっ子になってもやり続けることができるのかというのが、レギュラー化へ向けての壁になるだろう(一回限りの面白さというのも確実に存在する)が、「おもしろくてあたりまえ」という芸人に課せられたハードルを越えて、ラブレターズがラジオの自由さと前向きな展望を見せてくれたのは間違いない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ■ラジオ批評「逆にラジオ」バックナンバー 【第3回】五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』 【第2回】局アナの枠を飛び出した、マジカルな思考回路の冒険『安住紳一郎の日曜天国』 【第1回】予測不能な「集団的笑い」の境地『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』

五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』

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『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  8月6日月曜深夜1時、いつも轟くはずの伊集院光の声が、東京から消えた。いや、正確には消えたのではなく、その声はTBSラジオのスタジオで鳴っていた。しかし、なぜか関東地方には届けられなかった。TBSラジオ制作の生放送番組が、TBSラジオ本体では放送されず、地方のネット局では放送されるという、奇妙にねじれた事態が起こっていた。いわゆる、「裏送り」と呼ばれる状態である。  いつもならば、『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ 月曜深夜1:00~3:00)が放送される時間だが、同局では、なでしこジャパンの五輪準決勝の試合が中継されていた。しかし、この試合を放送していたのはTBSラジオだけではない。関東圏の「radiko」の番組表を基準とするならば、AM/FM合わせて9つの放送局が、同じ内容を中継していたのである(ラジオ日本と専門各局は中継せず。さすが、ラジオ日本!)。しかも、オリンピック中継なので、実況・解説はすべて基本的に同じだ。ハーフタイムや試合後にその局ごとの情報が入ることはあるが、決め手になるほどの違いはない。完全に異常事態である。  そんな状況下で行われたこの日の『深夜の馬鹿力』のオープニングトークを、伊集院光は、「基本ふてくされですよね」のひとことでスタートさせた。頼もしいとしか言いようがない。この日の放送は、聴くことができない投稿者たちへの配慮としてネタコーナーは一切やらず、「1000の質問スペシャル」と銘打って読者の質問に次々と答えていくというスタイルを取っていたのだが、リスナーの質問がこの「裏送り」の件に触れると、伊集院は一気にヒートアップ。「バカじゃねえ? って思いますよ、基本的には」「女子サッカー好きな人は、テレビ見るってー」「東京のラジオ局でなでしこの放送やってるところは、バカです」「工夫がない」と、快調にラジオ局およびラジオ業界全体への批判を繰り広げる。  しかしその毒舌が、単なる批判だけでは終わらないところが、伊集院のしゃべり手としての真骨頂でもある。先述のストレートな批判の連打に続けて、「全局音声一緒なの? おりこーさーん」とほめ殺したり、なでしこの相手がフランスだと聞いて、「フランソワーズ・モレシャンが、フランスびいきの慣れない実況をするとかすればいい」と無謀な策を提案。そうかと思えば、「ここまですさんだ気持ちでやってるんだから、絶対勝って!」となでしこジャパンにねじれたエールを送ったりと、「裏送り」という不遇な状況を笑いに変換し、この日の放送は皮肉にも、むしろ伊集院の面白さが際立った回になっていた。  とはいえ、この日の放送だけが特別なわけではない。過去にも伊集院は、番組内において、身内ともいうべきラジオ業界に対し牙をむいてきた。そもそも「育ての親」であるニッポン放送との確執を経てTBSラジオに移籍してきた伊集院のこと、自身に批判的だったニッポン放送上層部の実名を、面白くなるまで繰り返し繰り返し連呼して非難したこともある。また、ニッポン放送が裏番組に単発で『長澤まさみのオールナイトニッポン』をぶつけてあからさまな数字を取りに来た際には、自らも『<嘘>長澤まさみのオールナイトニッポン』を名乗り、まったく似せる気のないモノマネで本人が絶対に言うはずのない下ネタを放ちつつ、ニッポン放送のあざとい姿勢を強烈に当てこするなど、ことニッポン放送に対しては厳しい姿勢を貫いている。  だが、伊集院のフェアなところは、今回の「裏送り」の件と同様に、現在の身内であるTBSラジオにも容赦なく噛みつくという点にある。以前、『小島慶子 キラ☆キラ』でラジオパーソナリティーとしてブレイクを果たした小島慶子が『情熱大陸』(TBS系)に出演した際には、「いつの間にかラジオ界全部を勝手に背負い始めた感じが怖い」と万人がそこはかとなく小島に対して感じている不快感を表明したり、名前や時間帯を変えながらも約27年間続いた小堺一機と関根勤の伝説のラジオ『コサキンDEワァオ!』の終了に際しては、「聴取率はいいのに、スポンサーがつかないという理由で番組が打ち切られるのはおかしい。ならば、スポンサーを取ってくる課の人も一緒に辞めるべき」と、局の姿勢に強く疑問を投げかけた。  いずれの発言も、ラジオの一番組でやるにはあまりにリスクが大きすぎる、というのが大人の判断だろう。だが、伊集院がリスナーの圧倒的信頼を獲得しているのは、まさにこの、時に身内(自身も含む)をも対象とする徹底した是々非々の姿勢であり、あらゆる発言が一瞬にして広まる今の世の中でいまだその姿勢を貫いているのには、相当な覚悟が伴うはずだ。実際、ラジオで批判したタレントと別の現場で遭遇したとき、すれ違い様に「ラジオ聴いてます」と言われて、肝を冷やした経験が何度もあると伊集院は語っている。しかし、それでも彼が是々非々の姿勢を貫き通すのは、その意見のロマンティックなまでの正しさはもちろんのこと、すべての発言がスポンサーでもラジオ局員でもなくリスナーに向けられているという、本来ラジオパーソナリティーが持つべき当たり前の誠実さゆえだろう。だが、この誠実さを継続するのは、けっして簡単なことではない。誰もが空気を読んで安易に意見を曲げる時代に、伊集院光の誠実さは一際輝いて見える。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>)

五輪なでしこ戦の裏で炸裂した、ラジオの王様の誠実な毒『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』

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『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  8月6日月曜深夜1時、いつも轟くはずの伊集院光の声が、東京から消えた。いや、正確には消えたのではなく、その声はTBSラジオのスタジオで鳴っていた。しかし、なぜか関東地方には届けられなかった。TBSラジオ制作の生放送番組が、TBSラジオ本体では放送されず、地方のネット局では放送されるという、奇妙にねじれた事態が起こっていた。いわゆる、「裏送り」と呼ばれる状態である。  いつもならば、『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ 月曜深夜1:00~3:00)が放送される時間だが、同局では、なでしこジャパンの五輪準決勝の試合が中継されていた。しかし、この試合を放送していたのはTBSラジオだけではない。関東圏の「radiko」の番組表を基準とするならば、AM/FM合わせて9つの放送局が、同じ内容を中継していたのである(ラジオ日本と専門各局は中継せず。さすが、ラジオ日本!)。しかも、オリンピック中継なので、実況・解説はすべて基本的に同じだ。ハーフタイムや試合後にその局ごとの情報が入ることはあるが、決め手になるほどの違いはない。完全に異常事態である。  そんな状況下で行われたこの日の『深夜の馬鹿力』のオープニングトークを、伊集院光は、「基本ふてくされですよね」のひとことでスタートさせた。頼もしいとしか言いようがない。この日の放送は、聴くことができない投稿者たちへの配慮としてネタコーナーは一切やらず、「1000の質問スペシャル」と銘打って読者の質問に次々と答えていくというスタイルを取っていたのだが、リスナーの質問がこの「裏送り」の件に触れると、伊集院は一気にヒートアップ。「バカじゃねえ? って思いますよ、基本的には」「女子サッカー好きな人は、テレビ見るってー」「東京のラジオ局でなでしこの放送やってるところは、バカです」「工夫がない」と、快調にラジオ局およびラジオ業界全体への批判を繰り広げる。  しかしその毒舌が、単なる批判だけでは終わらないところが、伊集院のしゃべり手としての真骨頂でもある。先述のストレートな批判の連打に続けて、「全局音声一緒なの? おりこーさーん」とほめ殺したり、なでしこの相手がフランスだと聞いて、「フランソワーズ・モレシャンが、フランスびいきの慣れない実況をするとかすればいい」と無謀な策を提案。そうかと思えば、「ここまですさんだ気持ちでやってるんだから、絶対勝って!」となでしこジャパンにねじれたエールを送ったりと、「裏送り」という不遇な状況を笑いに変換し、この日の放送は皮肉にも、むしろ伊集院の面白さが際立った回になっていた。  とはいえ、この日の放送だけが特別なわけではない。過去にも伊集院は、番組内において、身内ともいうべきラジオ業界に対し牙をむいてきた。そもそも「育ての親」であるニッポン放送との確執を経てTBSラジオに移籍してきた伊集院のこと、自身に批判的だったニッポン放送上層部の実名を、面白くなるまで繰り返し繰り返し連呼して非難したこともある。また、ニッポン放送が裏番組に単発で『長澤まさみのオールナイトニッポン』をぶつけてあからさまな数字を取りに来た際には、自らも『<嘘>長澤まさみのオールナイトニッポン』を名乗り、まったく似せる気のないモノマネで本人が絶対に言うはずのない下ネタを放ちつつ、ニッポン放送のあざとい姿勢を強烈に当てこするなど、ことニッポン放送に対しては厳しい姿勢を貫いている。  だが、伊集院のフェアなところは、今回の「裏送り」の件と同様に、現在の身内であるTBSラジオにも容赦なく噛みつくという点にある。以前、『小島慶子 キラ☆キラ』でラジオパーソナリティーとしてブレイクを果たした小島慶子が『情熱大陸』(TBS系)に出演した際には、「いつの間にかラジオ界全部を勝手に背負い始めた感じが怖い」と万人がそこはかとなく小島に対して感じている不快感を表明したり、名前や時間帯を変えながらも約27年間続いた小堺一機と関根勤の伝説のラジオ『コサキンDEワァオ!』の終了に際しては、「聴取率はいいのに、スポンサーがつかないという理由で番組が打ち切られるのはおかしい。ならば、スポンサーを取ってくる課の人も一緒に辞めるべき」と、局の姿勢に強く疑問を投げかけた。  いずれの発言も、ラジオの一番組でやるにはあまりにリスクが大きすぎる、というのが大人の判断だろう。だが、伊集院がリスナーの圧倒的信頼を獲得しているのは、まさにこの、時に身内(自身も含む)をも対象とする徹底した是々非々の姿勢であり、あらゆる発言が一瞬にして広まる今の世の中でいまだその姿勢を貫いているのには、相当な覚悟が伴うはずだ。実際、ラジオで批判したタレントと別の現場で遭遇したとき、すれ違い様に「ラジオ聴いてます」と言われて、肝を冷やした経験が何度もあると伊集院は語っている。しかし、それでも彼が是々非々の姿勢を貫き通すのは、その意見のロマンティックなまでの正しさはもちろんのこと、すべての発言がスポンサーでもラジオ局員でもなくリスナーに向けられているという、本来ラジオパーソナリティーが持つべき当たり前の誠実さゆえだろう。だが、この誠実さを継続するのは、けっして簡単なことではない。誰もが空気を読んで安易に意見を曲げる時代に、伊集院光の誠実さは一際輝いて見える。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>)