しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 ある女性のキャラクターを語るとき、その言動が「天然」か「ぶりっ子」かという判断を、人は無意識のうちに下している。存在を丸ごと全肯定することに喜びを覚える一部の寛容なアイドル・ファンでない限り、そのキャラクターが作為的であるか否かというのは、好き嫌いの決定的な判断材料になり得る。たとえばTBSアナウンサーの田中みな実は、今のところ明らかに後者と見られているだろう。「週刊文春」(文藝春秋)の「嫌いな女子アナ」アンケート二連覇という実績が、それを如実に物語っている。 では、田中はどこまで本物のぶりっ子なのか? いや「本物のぶりっ子」は「人として偽物」ということになるので紛らわしいのだが、「本音のメディア」といわれるラジオであれば、きっとその真偽が明らかになるはずである。 彼女のラジオ番組『田中みな実 あったかタイム』(TBSラジオ 毎週土曜18:30~19:00)は、どういうわけか、いま最も緊張感あふれるラジオ番組のひとつである。すでに番組タイトルからして十二分にきな臭いが、その異様に牧歌的な番組名は、結果としてむしろ内容の危うさを際立てるために存在している。そしてここで言う「緊張感」や「危うさ」とは、シンプルに「リアリティー」や「面白さ」と言い換えることも可能で、実はこの番組、「真正面から本音をぶつけ合う」という、非常にラジオ的な根本原理で回っているのである。 とはいえ番組の基本構造は、会社の同僚であるTBSアナウンサーをゲストに呼んで語り合う「あったかトーク」というコーナーを中心に、その前後に彼女の一人しゃべりを配した、至ってシンプルなもの。アナウンサー同士、しかも同じ会社の社員同士のトークとなると、互いに保身前提で全方位的に気を遣うような、いかにも生ぬるい内容を想像してしまうが、実際にはむしろその逆。同じ職場であるという互いの距離の近さを利用したノーガードの近接格闘の様相で、遠慮会釈なく踏み込んだステップから喜怒哀楽、さまざまなパンチが繰り出される。 たとえば、後輩アナウンサーの小林悠を迎えた回では、小林の趣味である「仏像好き」「ダム好き」を「作戦」だと田中が激しく追及。「美人が親近感を持ってもらうためのかわいさアピール」とまで言ってのけ、しまいには「なんか嫌なことあった? だからダムとか見て、気持ち解放されちゃってんじゃないの?」と勝手に心配までし始めるという怒濤の展開。しかし、必ずしも田中の一方的な攻勢ではなく、田中が「あざとさを感じる」と小林を評すれば、「あなたにあざといと言われたくないです」と、後輩の小林も返す刀で激しく切りつける。 また、先輩アナウンサーの駒田健吾を迎えた回では、「距離がある感じ」「苦手なタイプのアナウンサー」と番組冒頭から田中への苦手意識を表明していた駒田が、トークが進むにつれ田中からのダメ出しにロープ際へと追い込まれてゆき、「(TBS社屋に)田中さんと会わなくて済む動線がほしい」という、本気でそう思ってなければ絶対に出てこない究極の一言が駒田の口からリリースされるに至る。 いやもちろん、同僚だからこそここまで言っても大丈夫、という意識はところどころ垣間見えるし、互いの声のトーンからはユーモアも少なからず感じられる。しかし一方で、本気であり本音であるというのも、そのフレーズの端々から如実に伝わってくる。 だが何よりすごいのは、相手にこれだけ厳しいセリフを、面と向かって言わせてしまう田中のキャラクターである。これはある意味、「ゲストから本音を引き出す力」という、アナウンサーに不可欠な能力といっていいだろう。「引き出す」というよりは「火をつける」に近いが、結果として対話が盛り上がり、聴き手を惹きつけているのは間違いない。 では、田中はなぜ相手の本音を引き出すことができるのか? それは、彼女が非常にストレートな発想を持ち、なおかつそれに自覚的だからだろう。 通常、素直でストレートな思考回路を持っている人間は、そのことに意外と自覚的でない場合が多い。それを世間では「天然」と呼ぶのかもしれず、いい意味でも悪い意味でも「空気が読めない」という表現が当てはまる。反対に、空気を読み真っすぐな思考を隠し通すことで何者かを演じ続けるのが「ぶりっ子」ということになるだろうか。 しかし番組を聴いていて驚くのは、時に語られる彼女の自己分析が、恐ろしく的確であるように思えることだ。「上昇志向の塊」「野心家」「頑固」「0か100かみたいな人間」「すぐ顔に出る」「意外と自分に自信がない」「奥ゆかしさや遠回りする感じが足りない」「社交的に見えて、まったく心を開いていない。開けない。開くのが怖い」―世評とほぼ変わらぬその自己分析からは、予想外の客観性が見て取れる。そして、世間で言われていることに自覚があるからこそ、相手に何を言われても受け止めることができるし、相手にも同等のパンチを受け止めることを要求する。いかにも帰国子女っぽいコミュニケーション術だといえるかもしれないが、「何者かを演じている」わけではないのは確かだろう。少なくともこの番組において彼女は、どちらかというと本当のことを言い過ぎている。 つまり田中は、「天然」でも「ぶりっ子」でもない。「天然」にしては自分を知りすぎているし、「ぶりっ子」にしては脇が甘すぎる。しかし、目の前の相手につい思ったことを口走ってしまうそのストレートな言動が、複雑怪奇な世の中とたびたび衝突することは容易に想像できるし、そんな他者との衝突こそがこの番組の面白さになっている。ラジオを聴くことで、多くの人にとってその印象が大きく変わるアナウンサーの一人だろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからTBSラジオ『田中みな実 あったかタイム』
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信玄とノムさんを融合させる松村邦洋至高の技が、歴史への扉を開く『DJ日本史』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 歴史とはつまり「ワイドショー」であり、四次元版「すべらない話」である。数年に一度レベルの衝撃的事件という「点」の連続によって歴史という「線」は成立しているが、つまるところ個々の「点」は当然のことながら生々しい人間ドラマであって、単なる客観的事実の連続ではない。そんな人間臭い歴史のエンタテインメント性を如実に感じさせてくれる番組が、『DJ日本史』(NHKラジオ第1 隔週月曜21:05~21:55)である。 番組MCを務めるのは、大河ドラマ狂であり日本史通として知られる松村邦洋と、江戸文化歴史検定一級を持つ「お江戸ル」の堀口茉純の2人。松村に関しては、テレビ(特に『電波少年』)におけるイジられキャラのイメージが強いが、ラジオの世界では『オールナイトニッポン』のパーソナリティーを担当していたこともあり、そのしゃべりの評価は高い。そしてこの番組はまさに、松村の芸人としての確かな力量をベースに作られている。 しかし『DJ日本史』という番組名であるからには、DJは「日本史に登場する人物」でなければならない。ここで松村の、稀有な特殊能力が生きてくる。松村といえばビートたけしなどのモノマネ芸でおなじみだが、彼のモノマネには、二つの大きな特徴がある。一つは「発言の方向性までマネる」という技で、何を質問されても「本人が言いそうな答えをアドリブで返す」という能力を持っている。そしてもう一つは「モノマネのモノマネをする」というスタイルであり、この二つの能力が、松村の「偉人モノマネ」を可能にしている。 番組内の要所要所で松村は、歴史上の偉人になりすましてフリートークを繰り広げる。彼のモノマネが似ているあまり、つい普通に受け入れてしまいそうになるのだが、そこで行われていることは、実のところ、とんでもなく複雑怪奇なことなのである。なぜなら聴き手である我々は、それら歴史上の人物本人のしゃべりを、まったく聴いたことがないからだ。それなのに彼のモノマネは間違いなく面白いし、似ているとさえ感じるのである。これは一体どういうことなのか? この偉人モノマネにも、二種類の型がある。一つ目のパターンは、「大河ドラマで徳川家康の役をやっていた津川雅彦のマネをする」というような、「モノマネのモノマネ」というスタイルである。松村は津川のモノマネを得意としている上、無類の大河ドラマ好きでもあるので、「徳川家康役の津川雅彦」のマネができるという図式が自然と成り立つ。これならばセリフもドラマ内のものが使えるため、聴き手のイメージも、ドラマ内の津川を通じて徳川家康に到達することができる。 これだけでも十分に変則的なスタイルなのだが、問題はニつ目のパターンで、こちらははるかにスタートからゴールまでの経路がねじれている。たとえば松村は野村克也の口調で、武田信玄のマネをする。本人は信玄だと言っているのだが、そのボヤき口調は完全にノムさんのものだ。確かに「智将」というイメージは共通しているが、もちろんノムさんが信玄役をやったことなどない。信玄にボヤく印象もない。しかしその発言内容からは、それぞれの息子の名前が「勝頼」と「克則」で似ていて、ともに同程度に期待外れだったという共通点が、細い糸のように浮かび上がってくる。するとそのボヤき口調までが、不思議と徐々に信玄のものであるように思えてくるのである。これはちょっと異様な体験であり、ある種の発明であるといってもいいだろう。 松村は同様に、ビートたけしの口調で聖徳太子のマネをし、在原業平に出川哲朗口調で「ヤバイよヤバイよ!」と言わせ、足利義昭の口からは「信長神の子不思議な子」というノムさんが田中将大を評した名ゼリフが飛び出す(つまりノムさんは、信玄にも義昭にもなる)。こうなるともう完全にカオスの様相だが、しかしモノマネにはなぜか、「マネされた本人に突如として親近感が湧く」という効能があるのも事実。おかげでその後、素に戻った松村と堀口によって語られる歴史上のエピソードが、抵抗なくすんなりと入ってくるようになる。 歴史をエンタテインメントとして楽しむには、キャラクターを入口とするのが最もスムーズであり、大河ドラマや歴史小説、あるいは『信長の野望』や『戦国BASARA』のようなゲームから入る人も多いが、一瞬にしてキャラクターに入り込めるという意味では、この番組で繰り広げられる松村のモノマネ芸は、歴史への入口として最適かもしれない。 そして実は、この松村のモノマネ芸自体にも興味深い歴史がある。彼はまず、2004年に糸井重里の『ザ・チャノミバ Tea for us.』(TBSラジオ)という番組でこの偉人モノマネ芸を披露。その翌年、糸井の働きかけにより、『ほぼ織田信長のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)が実現し、その放送は一部ラジオリスナーの間で伝説化。そしてさらにしばしの時を経て、11年には『JUNK 爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)内でこの芸が、再び大々的にフィーチャーされることになる。その際、爆笑問題の2人が松村のモノマネに大爆笑し続ける様子が非常に印象的だった。 そんな紆余曲折の末、いまNHKという場所で、その絶品のモノマネ芸はようやく定位置を得た。さまざまな識者に引き立てられ、計3つの局を渡り歩きながら力をつけてゆくそのプロセスは、まるで主君を替えつつも家を守り抜く戦国武将のようでもある。『DJ日本史』とは、そんなたくましい芸をきっかけに日本史への入口を切り拓いてくれる、斬新な歴史エンタテインメント番組である。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHKラジオ第1『DJ日本史』
『JUNK』パーソナリティー全員を巻き込む剛腕・太田光の過剰性『爆笑問題の日曜サンデー』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 爆笑問題の太田光は「過剰の人」である。そしてその過剰性は、時に周囲をも巻き込む原動力となる。人はより過剰なものに反応することによってポテンシャルを引き出されるもので、理想的な場の中心には、必ず刺激的なモチベーターが必要になる。3月24日、『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ 毎週日曜13:00~17:00)内の企画として催された「10周年突破記念! JUNK大集合!!」はまさに、そんな太田光の過剰性が空気を作り上げた場に、名だたる芸人たちの化学反応を呼び込む舞台となった。 この「JUNK大集合」という企画は、同局の深夜番組『JUNK』のパーソナリティーを全員集めて公開生放送を行うという、いわばお祭りである。2011年に行われた前回はエレ片のスケジュールが合わず欠席したが、2度目となる今回は伊集院光、爆笑問題、山里亮太、おぎやはぎ、バナナマン、エレ片と、初めて全パーソナリティーが勢揃いする形となった。だがメンツが揃えば、すなわち面白くなるという読みは明らかに早計で、「人数が多くなるとそれぞれの良さが消える」というのはテレビでよく見る光景である。 さらにいえば、深夜ラジオの魅力の一端はその密室的な空気にあり、各パーソナリティーがそれぞれの番組内でリスナーとの間に独自の世界観を作り上げているため、人を集めたからといって単純な足し算で笑いの量を見積もることはできない。リスナーとパーソナリティーの一対一の関係が基本となるラジオでは、スペシャルウィークに聴取率狙いのゲストをひとり呼ぶだけでも、その世界観があっけなく壊れ、途端につまらなくなってしまうというようなことが度々起こるのである。つまりこういった企画の中心には、自らの強力な世界観で全体を引っ張りつつも、各人の自由を許容する人材が求められる。 もちろん、爆笑問題の番組内企画という形式を取っている以上、番組のホストである爆笑問題の世界観に、他の芸人がゲストとして合わせていくのは当然といえば当然のなりゆきなのだが、合わせにいくと取れないというのが笑いの難しさでもある。理想はゲストがホストに話を合わせるのではなく、ホストがゲストの話を引き出すという形だが、これには「引き出す」というより、「こじ開ける」といったほうがいいくらいの強引さが必要だというのは、黒柳徹子が見事に証明している。タイプは違えど太田光の過剰性はまさに、この相手の心の扉をこじ開ける強引さに直結している。それは「相手の懐に飛び込む勇気」とも、「異様な好奇心」ともいえる。もちろん「デリカシーのなさ」と言い換えることも可能だが。 相方の田中裕二、TBSアナウンサーの江藤愛と共にステージに飛び出した太田光はまず、「爆笑問題の峯岸みなみと申します」とのっけからふざけきった自己紹介を披露し、オープニングトークにおける「潰れろ、ニッポン放送!」のひとことで、一瞬にしてその場に一般常識とは別個の世界観を築き上げる。「世界観」といえば聞こえはいいが、つまりは常識的な限界点を自ら真っ先に突破してみせることで、他の出演者にも観客にもリスナーにも、この場の自由を担保していることになる。小説の一行目や漫画の一コマ目と同じく、ラジオのオープニングトークには、その世界の枠組みを規定する機能がある。昼間の放送でありながら、太田のこのひとことで、発言の基準は深夜放送の枠組みへと一気にこじ開けられた。 その後、各曜日のパーソナリティーをステージに呼び込むと、太田は限界すれすれの質問を投げかけることで各人の魅力を次々と引き出してゆく。たとえばおぎやはぎ小木に対し、「お前、森山良子と結婚したんだっけ?」と真ん中高めに明らかな釣り球を投げつけ、小木の「誰があんなババアと」という期待以上の危険球を引き出す。また、ラジオ界におけるこの先の見通しについて伊集院光が「永(六輔)さんを待つ」と微妙にボカした言葉を発すると、太田はすぐさま「永さんの何を待つの?」と無慈悲に掘り下げ、「永さんの幸せを待つ」という伊集院の一見温かな(その実どす黒い)名答を導き出す。しかもそれだけでなく、続けて「『永六輔』から『永眠』になる」とまで言ってしまうのがまさに太田光の過剰性で、ここまでいくとさすがにいき過ぎにも思えるが、この過剰性が各芸人を刺激し、この場でしか生まれ得ない笑いを導き出していたのも間違いない。 このような太田の質問投球術は、まるで「強い球を投げないと強い球は返ってこない」と堅く信じているような剛腕っぷりで、しかし相手の実力が確かな場合に限り、それは真実である。問題はむしろ、こういった特殊な企画外には、その剛腕を存分に発揮する場があまりないように見える(発揮してもカットされてしまう)ことで、このように「場の空気を作る能力」を持った太田こそが、誰よりもそれを許してくれる「場」を求めているのではないか。『爆笑問題の検索ちゃん』や、その流れをくむ現在の『ストライクTV』(共にテレビ朝日系)あたりでも確認できるように、芸人・太田光はお気に入りの芸人に囲まれている場でこそ、その本領を遺憾なく発揮する。つまり自らが作り上げた場の中から、最も恩恵を受けているのも太田自身であり、「強く投げたボールを強く投げ返されることで、次にさらに強いボールを投げることができる」という、自らの過剰性をきっかけに周囲を巻き込んで発動する「過剰性のループ状態」こそが、太田光の笑いの真骨頂なのである。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからTBS RADIO|爆笑問題の日曜サンデー
等身大の感覚を生きたまま届ける『久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 ラジオの面白さを測る基準のひとつに、「リスナーとの距離感」というのがある。もちろんそれは基本的に、近いほうがいい。近すぎるとナメられるという危惧もあるが、それでも近いに越したことはない。言い方を換えれば、「近づいてもナメられない」のが面白い番組ということになるかもしれない。『久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0(ZERO)』(ニッポン放送 毎週火曜深夜3:00~5:00)は、まさにそんな「リスナーとの近さ」を感じさせつつ、リスペクトを勝ち得ている番組のひとつである。 そしてこの番組が、4月から『オールナイトニッポン』1部(同深夜1:00~3:00)へと「昇格」することになった。その要因はやはり、漫画家・久保ミツロウと自称漫画家(実質エッセイスト/イラストレーター)・能町みね子の日常を起点とした、等身大のトークにあるだろう。そういう言い方をすると、「等身大なんて簡単じゃないか」と思いがちだが、それは等身大の怖さをわかっていない。等身大の怖さとは、その感覚をそのまま言葉にすると、ごく普通のつまらない話にしかならないところにある。等身大の感覚はリスナーの共感を生みやすいが、それを面白く語るには、まずその感覚が普通とはちょっとズレているか一歩奥まで達していること、そしてその次の段階として、その感覚を「言語化する能力」に優れていることがどうしても必要になる。 たとえばある日の放送で、久保は能町に、「くしゃみの時のワードって決まってますか?」と問いかける。明らかに妙な質問である。しかしその言葉の裏には、「くしゃみをするときに、やたらわざとらしく『ハクション』と発声する人がいる」とか「くしゃみをする際、言語化できない珍妙な声を発する人もいる」という事実認識から、「そもそもくしゃみに声は必要なのか」という問題意識に至るまで、結構な情報量が感覚的に読み取れる。もちろん、そこまでいちいち明確に計算した上で言葉を発しているわけではないだろうが、これだけの思考回路を、一行の言葉にして発することのできる能力というのは、言葉しかないラジオという世界では、やはり間違いなく強力な武器になる。ちなみに、その質問に対し能町は、「『はい!』で全部出る。フォロースルーがない」と答えている。「はい!」と明確に発音してくしゃみをしているというのも面白いが、くしゃみが短く終わってしまうことを「フォロースルー」というスポーツ用語で表現しているところに、そこはかとないおかしみがある(確かにくしゃみもひとつの運動であり、意外と体力を消耗する、)それに対し久保は久保で、「へっくし!」と全部ひらがなでハキハキと明快に発音しないと気が済まないと言い、「『へっく』で跳ねて『し』で着地」と、独特の感覚を的確に言語化してみせた。 よく笑いや面白さについて語るときに、人は「共感」という言葉を頻繁に持ち出すけれど、相手の共感を得るためにはただ面白い感覚や発想があるだけでは駄目で、自分の中に発見したその「感じ」を的確に言語化できなければならない。言葉を通じて相手に届かなければ、共感は完成しない。 たとえば芸人のラジオを聴いているときに、「言いたいことの根っこにある感覚はなんとなくわかるし面白いんだけど、なんかもっとふさわしい言葉がある気がする」と思うことが時々ある。また反対に、アナウンサーのしゃべりを聴いていると、「言葉のチョイスは確かなんだけど、その根底にある感覚が普通すぎる」と感じることがある。もちろんそういう人たちは、それでも感覚が抜群だから言葉が追いつかなくても面白かったり、逆に言葉だけの力でねじ伏せる剛腕の持ち主だったりする場合もあるのだが、やっぱり入り口(鋭敏な感覚)と出口(言語化能力)が高次元で両立しているのがベストな状態であるのは間違いない。時に「反応」を「はんおう」と読み違えてみたり、「泥酔」を「どろよい」と覚え間違えていたりというお茶目な「萌えポイント」を持つ久保と能町だが、こと感覚を言語化する能力においてはいまのラジオ界でも突出したものがあり、そんな2人の言葉がリスナーの共感を獲得しているのは、当然の結果であるといえる。 とはいえ、4月から時間帯が早くなることによって、「インディーズバンドがメジャーと契約したときの不安」のようなものを漠然と感じているリスナーも多いかもしれない。だが、久保は番組内で昇格する事実を発表した際、「この時間だから聴いてくれた人がたくさんいるのを知ってます」「寂しいのは、この時間帯を去ること」と、リスナー目線の感覚を言葉にすることを忘れなかった。この感覚とそれを言語化する姿勢がある限り、リスナーがさらに近づくことはあっても、2人のもとを離れることはないだろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0(ZERO)』
誰よりも芸人想いな「殿」が鳴らす、現代お笑い界への警鐘『ビートたけしのオールナイトニッポン』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 それ以降もあまたの才能あふれるお笑い芸人が出現し続けているにもかかわらず、なぜ誰もビートたけしの位置にたどり着けないのか? 実は、多くの芸人やお笑いファンがあきらめと共に棚上げにしているそんな根本的疑問について、誰よりも真剣に考えているのは当のビートたけし本人なのかもしれない。2月24日、「オールナイトニッポン45時間スペシャル」内で放送された『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)において、たけしは目にもとまらぬ冗談の絨毯爆撃を浴びせつつも、お笑い界の現状に関し重大な疑問を投下した。 この日の放送は、ラジオの女房役である高田文夫が体調不良により欠席したため、松村邦洋と浅草キッドの2人を迎えての4人体制で進められた。弟子及び後輩芸人に囲まれたその状況こそが、たけしの熱い芸人論を導き出したといえるかもしれない。 最近のたけしは、『THE MANZAI』(フジテレビ系)の最高顧問や、自らのチョイスで若手芸人を集めたネタ特番『北野演芸館』(TBS系)等の番組内で、若手芸人のネタに寸評を加える場面が増えている。また、著書『間抜けの構造』(新潮新書)の中でも、漫才の「間」と「スピード」の問題について触れるなど、以前よりも他者の笑いについて語る機会が増えてきているのは間違いない。そしてその多くは、ほぼ「ベタ褒め」と言っていいほどに、最近の若手芸人のネタのクオリティを、その鍛え上げられたスピードや練り込まれた構成力など、主に技術面において高く評価するものだった。いずれのコメントもさすがと感じさせる的確なものであったが、その一方にはまた、その奥に何か言い足りていない部分、技術以前の段階にある重大な何かを匂わせるような余韻が常に漂っているように感じていた。それがこの日のラジオでは、もう一歩先へと突っ込んだ形で語られた。 番組後半、最近の芸人のネタについて話が及ぶと、たけしは「今はもう高度だろ」と、まずはその技術的な巧みさを絶賛する。テレビで語られるたけしのネタ評は、そこからどこが高度なのかという具体論に展開し、若手を激励して終わる形が多いが、この日はそこにとどまらず、話題はより広い領域へと展開する。「高度っていうか、漫才じゃなくてもう芝居になってきたな。もう、つかこうへいになってきた」と。 「高度」という縦への純粋なプラス評価が、その実「漫才・コントから芝居への変容」という横への変化でしかないという事実に、正確に修正される。いや修正というよりは、目の錯覚でごまかされていたものを、別角度のカメラから捉え直すことで正確に捉え直した、という感じだろうか。芝居的なものは一見したところ高度には見えるが、それが笑いにとってプラスになる変化であるとは限らないということだろう。実際、今のお笑いコンテストにおいては、中身の面白さよりもスタイルの新しさを求める審査員も増えている。だがその新しさとは、単に隣の芝生から枠組みをごっそり持ってきて当てはめただけのものでしかないことも多く、「コントとしては新しく見えるが、芝居の世界ではありがち」な手法であったりする。 そしてたけしはさらに、そんな「芝居化するネタ」について、「客は前の漫才に少し飽きてきたから面白いかもわかんないけど」と観客の立場へと瞬時に視点を切り替えた後、グッとカメラ位置をクレーンで上昇させるように、テレビ界全体を俯瞰してみせる。「それで終わればいいけど、テレビのタレントとして活躍することがメインだとしたら、そりゃ駄目だな。(漫才は)コンビでしかありえないから。司会をやるのもまったく違う話」であると。 たけしのこの言葉からは、お笑い学校に入って、お笑いコンテストで優勝して、ひな壇芸人になって、レギュラー番組を持って、やがて司会者になるという、今の芸人が売れるための「正規ルート」となんとなく思われているものが、実は根本的に間違っているのではないか、という疑問が改めて浮かび上がってくる。 そしてたけしは、「漫才師を目指してるのか、タレントを目指してるのか」と、大前提としての芸人のスタンスに疑問を投じる。この言葉はさらに重いが、これはしかし、売れてから急速にタレント化していく若手芸人を必ずしも責めているわけではない。それどころか、たけし自身も幅広くタレント活動をしているという事実がある。だからこれはむしろ、業界全体に対しての、「面白い漫才師を育てたいのか、有用なタレントを育てたいのか」という問いかけなのではないか。 もしかしたら、漫才師をテレビ受けするタレントや司会者に育て上げるということは、ピッチャーとして獲得した選手をキャッチャーとして育てるような、もっといえばピッチャーとして獲った選手を球団経営者として育てるような、あるいは大食いチャンピオンを横綱に育てるような、思いのほかトリッキーな育成法なのかもしれない。これは別に芸人やスポーツの世界に限ったことではなく、はたから見れば似たように見える職業でも、求められる職能がまったく違うというのはよくあることだ。 現状として、漫才師が漫才師のまま芸能界のトップに立つという例はなく、お笑い芸人のゴールは冠番組の司会者と、なぜか相場が決まっている。それはまさに「大人数をまとめる立場になればなるほど給料が上がる」という会社のシステムとまったく同じ構造なわけだが、そもそも「ネタの面白さ」と「大人数をまとめる能力」を同列に評価できるはずがない。「ネタ作りの能力」と、今のテレビが求めている「タレント性」が似て非なるものであるのも、歴代コンテスト優勝者たちが図らずも証明してしまっている。 もちろん、こんなことを言ってみたところで、ただちに何かが解決されるわけではない。たけしもそんなつもりで発言をしているわけではなく、逆に簡単に解決法を提案できるような浅い問題であれば、わざわざ口にしないだろう。だがそろそろ、『M-1』が作り上げた芸人の出世システムを、本格的に見直すべき時期に来ているのかもしれないというのは、業界内の誰しもが、いやテレビの前のお笑いファンだって、なんとなく感じているはずだ。たけしの言葉は、にもかかわらずそこに気づかぬふりをして、このまま進んでいこうとする業界全体への警鐘に違いない。そしてその言葉は、今のビートたけしが、誰よりも有能な若手芸人の出現を待ちわびていることの証明でもある。そんな照れること、たけしが素直に認めるはずはないけれど。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから
スッキリしない問題を掘り起こす元祖狂犬芸人の鋭利な牙『加藤浩次の金曜Wanted!!』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 かつての「狂犬」も、いまやすっかり「朝の顔」。そう思っている人にこそ聴いてほしい番組が、この『加藤浩次の金曜Wanted!!』(TBSラジオ 毎週金曜20:00~22:00)である。その牙は滾(たぎ)る感情を乗せたナイフではなく、あらゆる問題を掘り起こす黄金のつるはしへと形を変え、進化を遂げている。『金曜JUNK 加藤浩次の吠え魂』(TBSラジオ)以来約3年ぶりとなるこの期間限定番組(2013年1~3月の計12回)において、そのトークの精度は確実に、目に見えて向上している。 とはいえ、それは「加藤浩次は情報ワイド番組の司会を務めることで、ジャーナリスティックな発言をするようになった」というだけの変化ではない。もちろん「多角的な視点の獲得」という意味では明らかに『スッキリ!!』(日本テレビ系)の司会経験(そしてテリー伊藤の影響)が生かされているはずだが、この『金曜Wanted!!』は情報も議論も逡巡も分析も、すべてがユーモアに昇華されていくという点において、純然たるお笑い芸人のラジオとしての面白さにあふれている。だから、聴き手も構える必要はまったくない。 彼のトークの真骨頂は、その根っこに宿る強い問題意識にある。子どもの学校行事で見た奥さんの走り方に思いのほか幻滅し、「結婚するんだったら、嫁の全力疾走を見てから結婚したほうがいい」と豪語する加藤は、だから海辺でアハハと追いかけっこするような典型的なカップルの行為はみんなやっておくべきで、そこで走り方を見極めてから結婚したほうがいいという突拍子もない結論をいったん導き出し、さらにはそんな嫁が3人の子どもを走り方教室に通わせているという矛盾に、「お前だろ!」と激しくツッコミを入れる。だが問題はそこでは終わらず、笑いの先に「ルックスありきで結婚してる部分もある」という誰もが隠したがる本音や、「関係が安定してくると、嫌なところが見えてくる」という問題を提示し、お笑いコンビにも当てはまる話としてトークを縦横無尽に展開していく。 また、体罰の話題になると、体罰は基本的に否定した上で、「体罰はするけどガリガリ君をおごってくれる先輩がいて、俺はその先輩のことが好きだった」と、体罰という問題に「好き嫌い」という別角度の基軸を持ち込むことによりさらに問題をややこしくした上で、ではどこまでならOKなのか、親子の場合はどうなのか、と自らを右へ左へ揺さぶりながら話を進行していく。 つまり彼には、自分発信でトークを進めていく中で、その途上に次々と問題を発見していくという能力(であり癖)が非常に強くあって、リスナーにとっては目の前の問題を解決してくれるというよりは、「解決できないが考えるべき問題」を提示してくれるという面白さがある。実はこれこそがラジオにおけるトークの醍醐味でもあって、数分間話した程度ですっかり解決できる問題であれば、そんなものはそもそも問題でもなんでもない。話す、そしてその話を聴くという行為の本当の面白さは、考えるべき問題に出会い、それについてねばり強く考え続けるプロセスにこそある。 そしてさらに、この番組の重要な鍵を握る人物として、そんな加藤浩次の問題意識を刺激し続けるパートナー、ケンドーコバヤシの存在がある。意外にも思えるが、加藤とその後輩芸人であるケンコバはこれまであまり付き合いがなく、加藤の「あまり話したことがない人とやりたい」というリクエストにより、この組み合わせが実現したという。ケンコバが稀代のくせ者であるのはもはやいうまでもないが、いち早く加藤の小洒落たカリアゲ頭に着目し、「共産国の指導者みたいな髪型」と指摘してみせたのは、彼もまた違った角度からの「問題意識の鬼」であることの証明であろう。あの髪型に隠されたありもしないメッセージ性を勝手に読み取るという、問題のないところにまで火をつけて問題にしてしまうその特殊能力は、すでに加藤の問題意識をも大いに刺激しており、番組内に謎の試みを2つ生み出している。 ひとつは、普通ならばアシスタントの女性やアナウンサーが読むであろう天気予報のコーナーを、ケンコバに読ませるという試みである。それだけなら単に「いい声だが不慣れ」というだけなのだが、そこで加藤の「天気予報だって、感情を込めて読んだほうがいいのではないか?」という不可解な問題意識が発動したことにより、適度にエモーショナルに、しかしあざとくなりすぎない程度にという加藤の指導を受けながら、毎週ケンコバは極度のプレッシャーのもと天気予報読みに励んでいる。 もうひとつの試みは、20時台ラストの挨拶の場面である。『Wanted!!』は、TBSラジオでは22時までの2時間番組だが、それ以外のネット局では21時までの放送となっている。つまり20時台の最後には、TBS以外で聴いている人にはお別れを、TBSで聴いている人にはまだ続きがあることを同時に伝えなければならないという難しさがある。そこにただならぬ問題を感じた加藤は、その2つの情報をどうしても的確に伝えなければならないという出所不明の使命感から、ケンコバとの掛け合いで挨拶をするという斬新な手法を編み出し、加藤「TBSラジオ以外でお聴きのみなさん、来週までさようなら」、ケンコバ「まだまだーッ!」という、至極わかりづらい挨拶が毎週繰り出されることになった。 実にくだらない試みではあるが、これもすべて加藤浩次の強い問題意識のなせる業である。これぞ「聖域なき改革」である。そしてリスナーは、意外とこういった細かい工夫を楽しみに聴いており、尻尾まであんこを詰めてくれる鯛焼き屋を信用するように、「こんな隅っこまで面白いなら、本編はもっと面白いに違いない」と確信する。そしてその確信は、この番組に関しては裏切られることはない。残念ながら番組は3月に終了することが予め決まっているが、ぜひこの2人のコンビネーションを、4月以降もなんらかの形で聴かせてほしいと願う。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『加藤浩次の金曜Wanted!!』
「日本一熱い男」の変幻自在な文体に、聴き手も本人もキリキリ舞い『松岡修造のオールナイトニッポンGOLD』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 松岡修造といえば、紛うかたなき「天然」である。ただし生粋の天然キャラでありながら、一方では明確な目標に向かって地道なトレーニングを重ねてきた「努力の人」でもあるというところに、ほかの天然キャラとは違う彼の決定的な「ねじれ」がある。こういう極端な「ねじれ」は、特にラジオにおけるひとりしゃべりのような自由な空間では、想定外の面白さを生み出すことが多い。生み出すというよりは、「露呈する」といったほうが正しいかもしれないが。1月18日に放送された『松岡修造のオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送 22:00~23:50)は、まさにそんな修造の持つ独特の「ねじれ」がところどころ炸裂する番組であった。 「天然」の面白さの第一は、まず何よりもその言動の意外性にあるが、ラジオパーソナリティー初挑戦となる修造は、確かにこの番組を意外な言葉で起動させた。 「緊張で手が凍ってる……」 思いがけず弱気なスタートだった。ちなみに番組が掲げたテーマは、「目標に向かってガンバレル秘訣、心技体」という、この上なく熱く前向きなものであるのにもかかわらず、である。だが、すっかり肩すかしを食った気分になるかと思いきや、なぜか彼が弱気な発言をすると、聴いてるこっちはむしろ安心感を覚え、勇気すら湧くから不思議だ。この言葉は聴き手側にも明らかに、何らかの「ねじれ」を生じさせていた。だが修造は、そんなリスナーの安堵感を先読みして、「ふざけんじゃねえよ!」と突如、その弱気な流れをぶち壊しにかかる。一寸先も読めぬフリートークの幕開けである。 もちろん修造の「ねじれ」は、この程度では止まらない。怒りを露わにしたその直後には、「僕のことを、いつも前向きでどんなことにも熱い人だと思ってんじゃないっすか? 殺菌してなんでもやっちゃう人だと思ってんじゃないっすか?」と、怒りの理由を並べたてる中にこっそり「自分が最近はもっぱら『ファブリーズの人』だと思われている」ということを匂わせる「殺菌してなんでもやっちゃう人」という自虐的な笑いを冷静に放り込んでくるこの狡猾さ。やはりこの男、単なる「天然」ではない。 とはいえ、本業であるテニスの話になると一転、修造は非常に冷静かつ論理的な語り口になる。しかし、そのテニス語りが佳境に入ってきたあたりで修造はふと我に返り、「僕のこの鼻声、わかってくれてないでしょ」と、実は自分がいま風邪をひいていることを唐突に告白しはじめる。ちょっとでも油断すると、聴き手はこの急激な視点変更に危うく置いてけぼりを食らいそうになる。そして、さんざん風邪の話をした挙げ句、「だけど今日の目標は、言い訳をしないってことだから」と臆面もなく逆サイドに切り返してくるアクロバティックな展開。 そう、修造の話が面白いのは、まさにこの「切り返し」の瞬間が頻繁に訪れるからで、それは、彼が愛し続けてきたテニスというスポーツに似ている。急に弱気になったり強気になったり、感覚的になったり理論的になったり、右だといった直後に左だといったり、そういう反復横跳び的な「切り返し」が、そしてラリーのごとく頻繁に両極を往来する運動が、修造の脳内では常に繰り返されているのである。 しかし、考えてみればそれは当然のことで、実は誰の脳内でもそういった「切り返し」の運動は起こっている。ただ普通の人間は、そういった揺れる思考をひとつの方向へと一本化した上で発言しなければ社会生活をスムーズに送れないから、「切り返し」を省略して考え進める癖がついているというだけだ。そしてひとつの方向へと迅速に意見をまとめていく大人のスキルを磨いているうちに、いつの間にか思考の「切り返し」を表現できなくなっていく。自分の中にある逆サイドの意見を、すっかりなかったことにしてしまう。だが、そこには決定的な嘘がある。あったものをなかったことにするというのは、間違いなく嘘でしかない。しかし社会的に求められる能力とは、そういう「方向づけ」の能力であるケースが多いのも、残念ながら事実である。作業効率を優先するならば、頻繁な「切り返し」を許している暇はないからだ。ところが効率最優先の姿勢は、わりと高い確率で面白さの敵になる。 事実この番組中にも、修造の「切り返し」能力がうまく発揮されない時間帯というのがあった。それは、街の人に「目標に向かって何してますか?」と訊いたインタビュー音源に修造がオリジナル格言で答えるというコーナーと、23時台をまるまる割いて齋藤孝教授をゲストに迎えた時間帯である。その両者に共通していえるのは、いずれも「修造が自身の脳内で思考を切り返す時間が足りない」という時間的制約だ。前者は次から次へと街の人の声が繰り出されるため、「与える幸せを振りまいていこう。今が大事!」「具体的に動けば、目標は達成できる!」というように、思いのほかひねりのない格言に終始していたし、後者のトークコーナーでは、修造は齋藤教授の発言を引きだす黒子の役割に徹していたため、むしろ苦手な「方向づけ」の能力を求められる場面が多く、あまり彼らしさを発揮するスペースがなかった。 冷静に考えてみると、放送時間のほぼ半分は修造らしさが発揮されていなかったことになるわけだが、そもそもそんなみみっちい安定感を修造に期待しても仕方がない。さまざまな両極を「切り返し」ていくのが修造の才能である以上、「好不調」とか「向き不向き」の間を右往左往するのもまた彼の魅力であり、その「切り返し」の中からこそ、彼独特の「ねじれ」が生まれてくるのだから。 そして修造は最後に、この日人生初となったパーソナリティー体験を振り返り、靱帯を痛めかねない強烈な「切り返し」を伴うこんな熱い言葉を、自分自身へと浴びせて番組を終えた。 「緊張したりうまくいかなかった反省ばかり、でも後悔するな!」 それは彼自身への叱咤激励であると同時に、間違いなくリスナーへのエールでもあった。思うようにいかない現実をひと息で三つも並べたてておきながら、それを「後悔するな!」のひと言で鮮やかに跳ね返すこの一文。それは確かに理想論ではあるけれど、修造の脳内から感覚的に飛び出してくるこのアクロバティックな「切り返し」の発想は、きっとあらゆる聴き手の現実に、重要な揺さぶりをかけたに違いない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから「それでも信じてる/ラブレター」(Dreamusic)
「ヨイトマケ」の圧倒的パフォーマンスの根底に宿る「遊び」の精神『美輪明宏 薔薇色の日曜日』

『美輪明宏 薔薇色の日曜日』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。
日本の2013年は、「ヨイトマケ・ショック」とともに明けた。いまだ世間には、その衝撃的パフォーマンスの余韻が色濃く残っている。それほどまでに、2012年大みそかの『NHK紅白歌合戦』で披露された美輪明宏の「ヨイトマケの唄」がもたらしたインパクトは絶大だった。それは単に世代を越えたというだけでなく、むしろ若い世代にこそ衝撃的だったかもしれない。そこには確実に、今どきの流行歌に蔓延する一面的な「共感」を越えた、得体の知れぬ何かがあった。では、それはいったいなんなのか? それはもちろん、美輪明宏自身の得体の知れなさから来ている。
さて、そんな謎めいた人物の本質に迫りたいときこそ、ラジオの出番である。テレビ等の他メディアでの露出が多い人物でも、ラジオにおける語りでは、より深い根っこの部分をてらいなく率直に披露する。『紅白』の翌日、つまり2013年元日にはちょうど、『美輪明宏 薔薇色の日曜日 愛の手引書2013』(TBSラジオ)という番組が放送されていた。これは、普段は日曜の早朝に放送されている10分番組『美輪明宏 薔薇色の日曜日』(毎週日曜7時ごろ~ TBSラジオ『吉田明世 プレシャスサンデー』内)のスペシャル版であり、毎年正月恒例の特番となっている。だが、その内容はいつも以上に得体の知れないものだった。それはゲストとして呼ばれた相手が、博覧強記の「知の巨人」荒俣宏であったせいもある。美輪は黒柳徹子と同様、「打てば響く」相手を迎えたとき、いつも以上にその真価を発揮する。
今回の番組は一貫して、「人生を楽しく過ごすための知識と文化について」というテーマで進行された。これは普段から美輪が唱えている主張であり、「知識と文化は心のビタミン」という言葉が象徴的である。「今の日本人は、肉体を維持するための栄養は過剰に摂取しているが、一方で心の栄養分である知識と文化が不足し、精神が栄養失調を起こしている」と美輪は言う。これは「知識」や「文化」という言葉から何を思い浮かべるかによっては、あるいは非常に説教臭く感じる主張かもしれない。たとえば「知識」から「受験勉強」を、「文化」から「形骸化した古くさい慣習」を連想するならば、これはまったく面白味のない主張と感じられるだろう。
だが番組内で、美輪はもうひとつ、「遊び」という重要な言葉を頻繁に使っている。ここで言う「遊び」とは無闇な放蕩のことではなく、「遊び心」というときの「遊び」である。実はこれこそが、知識と文化と心の三者をつなぐキーワードであり、今の日本人に最も欠けている要素でもある。そしてまた、美輪明宏という人物の根本を形成する本質でもある。
美輪は文化を「日常を逃れ、ロマンの世界に身を浸し、リフレッシュするための先人たちの知恵」と定義する。その代表が「祭り」という文化であり、ゲストの荒俣は、「被災地のお年寄りに話を聞くと、みんな口を揃えて『お祭りやりたい』と言っている」と語る。これはまさに「遊び」の重要性を示しているが、「遊び」という言葉の意味するところは、そういった大掛かりなものばかりではない。2人の共通の知人である水木しげるの話になった際、荒俣が「水木さんは対談のとき、寝たフリをして相手の本音を聴き出すという技を持っている」という逸話を披露すると、美輪は「それも遊びですよね」と軽やかに言う。美輪の言う「遊び」とはつまり、受け身の「遊び」ではなく、集団あるいは個人が自らの手で作り上げ、積極的に仕掛けていく「遊び」を指している。
そして、美輪の「遊び」の感覚を象徴する逸話として極めつきなのは、番組後半に披露された、江戸川乱歩との出逢いのエピソードである。美輪の舞台『黒蜥蜴』に話題が及び、その原作者である江戸川乱歩、そして脚本を手掛けた三島由紀夫との関係について荒俣が訊ね、その質問に答える形で、美輪は次のように語った。
ある日、東京へ出てきた美輪が歌っていた銀座の店に、中村勘三郎(先日亡くなった18代目勘三郎の父)が、江戸川乱歩を連れてきた。美輪はかねてより乱歩作品の読者であったため、乱歩に「先生、明智小五郎ってどんな人?」と、小説に登場する架空の私立探偵について訊ねた。すると乱歩は自らの腕を出し、「ここ(腕)を切ったら、青い血の出る人だよ」と粋に返す。そして乱歩が美輪に、「じゃあ、キミはどんな血が出るんだい?」と試すような質問を投げかけると、美輪は「七色の血が出ますよ」と鮮やかに切り返したという。乱歩は、そんな美輪が16歳だと聞いて仰天したらしい。
そもそも、この話をしているときの美輪が、「こないだ亡くなった勘三郎さんのお父様の勘三郎さんが」と説明を加えたり、「江戸川さんが」と江戸川乱歩を「さんづけ」で呼んだりしているのを聴くだけでクラクラするような、まるでおとぎ話のような世界観だが、この稀有な会話の端々からも、美輪の言う「遊び」の感覚が、16歳にしてすでに美輪の中に存分に備わっていたということが証明されている。しかも、この会話の主導権を握っているのは乱歩ではなく、明らかに美輪のほうである。最初に架空の人物について、その作者に真正面から訊ねるということ自体が、「遊び」を仕掛けているといえる。それに対し乱歩が、明智小五郎がまるで実在の人物であるかのようにスラッと、それでいて期待に違わぬファンタジックな答えを返すあたりはさすがだが、最初の思い切った質問に宿る遊び心こそが、美輪自身の「七色の血が出る」というアクロバティックな回答を導き出したといっても過言ではない。
『紅白』における「ヨイトマケの唄」が大きな感動を呼んだのは、もちろん「母が子を想い、子が母を想う」歌詞の内容によるところもあるだろう。だがより重要なのは、我々がそこから受け取ったものが、一般的な「共感」に基づくぬるくて心地よい感動ではなく、もっと先鋭的で突き刺さるような、決定的な感動であったということだ。その感動の種類は、「共感」というよりは「違和感」といったほうが近いものであったかもしれない。ひとりで男女複数の役割を演じるというスタイル、歌が主役と割り切っての黒衣黒髪にシンプルなカメラワークという極端にミニマムな演出、以前は出場を断った『紅白』に77歳にして初出場するという英断、「紅組と白組の間の桃組で出ます。衣装はヌードです」という事前会見での軽妙洒脱な発言など、美輪の言動はすべてにおいて遊び心にあふれている。そんな「遊び」の精神こそが美輪明宏の得体の知れなさの正体であり、そのカリスマ的魅力の根源にある。
「遊び」と「感動」という言葉は、イメージ的になかなか結びつきにくいかもしれないが、優れた芸術やエンタテインメントの中で、それらは必ずや両立している。お涙頂戴の「遊びなき感動」まみれの今だからこそ、いま一度「遊び」の重要性を見直す必要があるだろう。
(文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>)
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ビートたけしが『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』で披露した、マシンガントークの神髄

『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。
映画監督としての世界的知名度を得て以降も、いまだなおテレビの世界に君臨し続けるビートたけし。だがその笑いの実力が、いま現在も常時発揮し尽くされているとは正直言い難い。しかし、そんなたけしの全盛期さながらのマシンガントークが、ラジオの世界で久々に炸裂した。そしてそれは、今のお笑い界に何が足りないのかを浮き彫りにした瞬間でもあった。12月14日、かつてともに『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)や『北野ファンクラブ』(フジテレビ系)を作り上げてきた「もうひとりの相方」の冠番組『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)生放送へのゲスト出演。これはまさに、すべてのお笑いファンにとって「神回」というべき放送だったと言い切れる。
この番組の主である高田文夫は、今年4月から心肺機能疾患で入院し、約半年間の療養期間を経て、11月に番組へと復帰した。そして復帰から初めて迎えたスペシャルウィークに、快気祝いのような形でたけしが駆けつけたという形である。すでにその男気あふれる経緯を聴くだけでも、往年のファンは涙ものには違いないが、そういった感傷や感動といったレベルを遙かに越えたところで、この日のたけしは笑いの権化と化していた。
たけしは冒頭から高田の復帰を、「香典でひとり2万ずつ飲もうと思ってた」と皮肉で祝福。そして「心臓が4回止まった」「ペースメーカーつけてんのよ。林家ペースメーカー」「(北朝鮮が)ミサイル撃ってきたら鳴るんだよ。ピピピって」という高田の自虐ボケに対しては、「自衛隊入ったほうがいい」「炭鉱のカナリアとか」と、別の職種をすぐさま提案。さらには、入院以降禁煙しているという高田に、「肺をニコチンで固めちゃえば病気の入りようがない」と、独自の理論で命がけの喫煙を推奨するなど、徹頭徹尾異様な高密度のトークを繰り広げた。
これはもちろんいつもの「たけし節」なのだが、驚くべきはこの日のたけしのしゃべりが生み出す圧倒的なスピード感で、近年滑舌が悪くなってきているせいもあって、ほとんど聴き取れるか聴き取れないかギリギリのレベルで矢継ぎ早に強い言葉が繰り出されていく。高田の絶妙な相槌がたけしの舌を加速するのは想定内だし、高田の復帰でテンションが上がっているせいもあるだろう。しかしここにはそれ以前に、今の世代の笑いと、たけし世代の笑いの、決定的な違いがある。受け手に対する親切さの問題である。
本気モードに入ったときのたけしのしゃべりは、今の芸人のしゃべりに比べて、圧倒的に不親切なのである。逆にいえば、受け手である我々が、適度なテンポで、滑舌良く、相手の顔色を読みながら、順序立てて懇切丁寧に語られる、そんな今どきの笑い話にすっかり飼い慣らされているともいえる。たけしが反射的に繰り出す速射砲のような言葉の数々は、いつだって説明不足のまま、聴き手を振り切って前のめりに突っ走る。そして聴き手がそれを消化吸収するのを待つことなく、気づけばすっかり別の話題へと展開している。これは一言でいえば、やはり「不親切」ということになるだろう。
そんなことをすれば、結果として聴衆は取り残されるというのが、今のお笑い界の常識になっている。いやお笑い界以前に、話をする際の一般常識である。だが重要なのは、笑いというものが本来、一般常識を十分に把握した上で、それを破壊することによって生み出されるものだということだ。「破壊」という言葉が強すぎるならば、「枠組みを広げる」とか、「常識を更新する」と言い換えてもいい。それらの革新はいずれも、受け手に合わせた親切な方法では不可能なのである。つまり、聴衆のニーズをマーケティング的に把握した上で生まれた親切かつ常識的な話法では、聴き手を圧倒するレベルの面白い話をするのは難しい。
たけしのしゃべりは聴き手にとって不親切だが、それゆえに圧倒的多数の心をつかんできたのも間違いない。平板な説明を極力排除することで、強力な言葉が連続することになり、話の密度が高まる。実際のスピード以上にストーリーの進行速度が上がり、先へ先へと進む推進力の強さが、聴き手に対する牽引力になる。それにより、聴き手の空気を読んでそのペースに合わせずとも、聴き手に「ついていきたい」と思わせるのが、たけし話法の神髄である。
しかしまた一方では、かつてそういう不親切さを放送局が許し、またそういう放送局をスポンサーが許したという環境的要因がある。そんな時代に実績を積み上げたからこそ、今たけしはこの不自由な時代にただひとり、圧倒的に自由なトークを展開することができる立場にいるというのも、また疑いようのない事実だろう。今の若手芸人には、もちろん彼らならではの面白さがあるが、彼らを取り囲む現状が不親切さを許さないものであることも、また問題視していかなければならない。それは、放送局とスポンサーに対して視聴率という強力な数字を握っている、我々受け手側の狭量でもある。
受け手に対して親切なものが、受け手の求めているものであるとは限らない。それは単に、想定内で出来のいいだけの、つまらないものかもしれない。破壊力ある不親切が、ユーザー目線の親切より素晴らしい場合だってある。いつだってこうして受け手の価値観を揺さぶってくれるのが、ビートたけしの真骨頂なのである。
(文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>)
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楽屋オチを吹き飛ばす、ネガティブ若様ご乱心の新境地『オードリーのオールナイトニッポン』

『オードリーのオールナイトニッポン』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。
芸人はまずネタで世に出て、キャラで認知され、フリートークでようやく本当に売れる。いまお笑い界はほぼそのワンパターンなサイクルで回っているが、意外と3段目の話術のハードルが高いというのは、近年のコンテスト決勝進出者の「その後」を見れば明らかだろう。『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送 土曜深夜1:00~3:00)は、2009年10月、前年末の『M-1グランプリ』準優勝の勢い冷めやらぬ中、およそ理想的と思われるタイミングでスタートした。
それは大きなチャンスであると同時に、フリートークの実力を試される高いハードルでもあった。オードリーの場合、ネタの中に春日という強烈な個性が存在していたため、ネタとキャラがセットで(というか、ネタの中でキャラが)ブレイクし、1・2段目のハードルは一気に飛び越えた感があった。しかし、2人のしゃべりを基盤とするラジオという場、しかも毎週2時間という長丁場では、ネタという緻密な構築物を連発し続けることもできず、春日というキャラクターのゴリ押しも飽きられる危険性が高い。結果、ネタでもキャラでもなく、「何をしゃべるか」という勝負になる。
だが正直、番組開始当初のオードリーの勢いであれば、何をしゃべってもよかったのだと思う。その時点で注目を集めている人たちが楽しそうに話していれば、ファンは無条件でついてくる。ファンの数が多ければ、それで十分に通用する。実際、『オードリーのANN』は異様に楽屋オチ的な内輪話の多い番組で、売れない頃に劇場で共演していたショーパブ芸人たちの話が、毎週のように繰り出されていた。「バーモント秀樹」や「ビトタケシ」といったモノマネ芸人の名前が当然のように連呼され、彼らの話をするとき、オードリーの2人はいつも爆笑している。個人的にはその状況に「置いてけぼり感」を感じることが多かったが、内輪話が多いのは『ANN』の伝統でもある。とんねるずもビートたけしも内輪話は多かったし、それが面白かった。
では、彼らレジェンドの内輪話とオードリーの内輪話では何が違うのか? 単純にいってしまえばスケール感と豪快さで、前者の内輪話は「遊びは芸の肥やし」といわれていた世代ならではの、破天荒な言動を前提として成立していた。たけしやとんねるずは毎日のように夜の街に繰り出し、種々多様な人に出会い、いつも何かに巻き込まれていた。自らがそんな渦の中心にいつもいるから、彼らの話には当事者ならではの臨場感があって、リスナーをグイグイ引き込んでいく力があった。しかし、今の芸人にそういうタイプは少ないし、そもそもそんな時代でもない。
オードリーは、そんな大御所芸人たちが作ってきた『ANN』の伝統を、自身の特性とは無関係に、素直に受け継ぎすぎたのではないか。あるいは番組のスタートが人気急上昇期であったがゆえに、しゃべろうにも忙しすぎて社会ネタを仕入れる時間も遊ぶ暇もなく、身近なところから話題を拾っていくうちに、やがてそのパターンが定着したとも考えられる。
しかし、だからといって、オードリーが面白くないというわけではまったくない。オードリーにはオードリーならではの面白さがあって、近ごろ若林のフリートークにおいて、新境地が2方向に開拓されつつある。
ひとつはネガティブの権化である若林の「自己分析話」で、実は若林の場合、内輪どころか、もっと対象範囲を狭めて自分自身の内省的な話をしたほうが、ねじれた価値観が浮き彫りになって面白い。
例えば8日の放送では、「自分のようにネガティブな人間は、10いいことがあっても、1嫌なことがあったら、10いいことがあったのを忘れる」「1嫌なことがあったのをチョイスして数珠つなぎにしたのが人生だと思ってるから、『生きてて楽しくない』とかいいだす」と冷静かつ的確すぎる自己分析を披露。すると直後、急激にトップギアに入り、「ただのバカなんだよ!」「生きるセンスがない」と瞬時に自己嫌悪モードに突入。かと思えばその反動からか、究極のポジティブ人間である春日に対し、「お前は生きる才能がある」「生きるセンスがすごい」「生きるのに向いてる」と褒め言葉を連発。しかし話はそこで終わらず、続けて「春日さんは自分が好きじゃん?」と質問を投げかけ、「世界で一番自分が好き」という春日の期待以上の回答を受け取ると、「だからつまんないんだよね」と返す刀で一刀両断。もう誰が味方で誰が敵だか、どこをけなしてどこを褒めたいんだかわからないくらいにこじれた思考回路だが、この発想の転がり方は、あまりにもリアルにネガティブな人間の脳内の動きを言い表していて、怖いくらいに刺さってくる。
そして若林のもうひとつの新境地は、この11月から展開されている「キャバクラ話」である。春日ではなくて、若林のである。
キャバクラに行くこと自体、まったく若林の内向的なイメージにそぐわないが、それどころか若林は最近、一人のキャバ嬢にすっかりハマッているという。しかもそのお相手の「ゆめちゃん」というキャバ嬢は、若林いわく、「本仮屋ユイカが茶髪にして耳に4つピアス開けた感じ」という、いかにもキナくさいルックスの持ち主。さらには「歌手を目指している」「ボイストレーニングのためにカナダへ留学したくて、その資金を稼ぐためにキャバクラで働いている」なんていう眉唾ものの典型的なプロフィールが若林の口からポンポン飛び出してきて、挙げ句の果てには、「キャバクラで働くような子じゃない」「留学の資金援助をしたい」とまで言いだして、春日にたしなめられる始末。もちろん。その口調には冗談っぽいニュアンスも含まれているのだが、こういった若林の「ポジティブに生きようとする動き」の空回り具合も間違いなく面白く、今後の展開から耳が離せない。
そもそも、話が内輪ウケで閉じてしまうのは、パーソナリティーの2人だけが登場人物や事件をすでに知っていて、聴き手がそれらを知らないというケースが多い。すでに感覚を共有している2人に対し、聴き手は感覚も知識も追いつかぬまま置き去りにされるからだ。ならば逆に、話し手も聴き手も全員が知っている話をすれば内輪ウケにはならないのだが、その代わり全員にとって既知であるため、今度は聴き手を驚かせるのが難しくなる。
そこで内輪ウケを避ける別の方法として、上に挙げた若林の2例のように、「パーソナリティーの片方だけが知っていることを話す」という手法がある。例えば、最初に挙げた若林の自己分析話の例でいえば、若林のネガティブな思考回路を、正反対のポジティブ人間である春日はまったく共有できていない。だから若林は目の前の春日を納得させるために、手を替え品を替えいろんな角度から、自分の考えや感覚を伝えようと必死に説明を試みる。それにより、若林の冷静な分析力が生かされ、話は当事者ならではの熱を帯びる。もうひとつのキャバクラ話に関しても、春日はゆめちゃんのことを知らないから、彼女がどんな娘なのかという質問をリスナーになりかわって若林にぶつける。そして若林は春日の質問に答える形で、結果的にゆめちゃんの人物像をリスナーへ詳細に伝えることになり、その行間から若林独特のうぶな女性観が浮かび上がってくる構図になっている。つまりナビゲーターとしての春日が、リスナーの立場から若林の中だけにある閉じた情報や感覚を、外に向けて開いているのである。
オードリーはもともと非常に仲の良いコンビで、学生時代から多くの共通体験をしてきているから、これまではどうしても、2人がすでに共有している話をすることが多かった。しかしここへ来て、共有する過去話のストックが切れてきたり、別々の仕事が増えてきていることで、「片方がもう一方の知らない話をする」という場面が増えてきており、どうやらそれが、結果として内輪ウケを解消する方向へと機能している。番組開始から3年を経過し、むしろネタが切れてきたここからが、本当のフリートークといってもいい。
ラジオという一見閉じた(しかし本当は万人に開かれている)世界の中へとリスナーを引き込むための入り口として、どういう話題を選んでいくのか。フリートークというのはその名の通り、何を話そうと自由なはずなのだが、一度ひとつの方法を選び取ってしまうと、別の方法を選ぶのは意外と難しくなる。そんな状況の中、今のオードリーには、楽屋オチ以外の魅力的な選択肢が、次々と開けてきている感触がある。それは固定ファンへ向けられた放送が、新たに幅広い層へとアピールしていくために、間違いなく通らなければならない道である。
(文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>)
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