当代随一の“イジられキャラ”狩野英孝の取扱説明書が更新された。しかし、書き換えた主は意外にも、縦横無尽にツッコむ剛腕司会者ではない。むしろその対極に位置する、ボケの世界の住人・バカリズムこと升野英知である。つまりそこにあるのは、「ツッコミ対ボケ」という、笑いの典型的な構図ではない。12月9日、『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送 毎週月曜22:00~24:00)にゲスト出演した狩野は、升野の繰り出す質問によって巧みに「泳がされる」ことで、秀逸な迷言・妄言を連発することに成功した。 この日の放送はスペシャルウィークにつき、特別編成の3時間スペシャル。その中の1時間を、番組は狩野に費やした。「費やした」という言葉が、これほど相応しいケースも珍しい。何しろそこには、中身などひとつもなかったのだから。 番組中盤、ゲストとして呼び込まれた狩野はまず、「テレビでは話さない、狩野さんの素顔に迫りたい」と、升野からその主旨を告げられる。この時点で、これ以降の会話が芸人同士の馴れ合いではなく、一定の距離を保ったインタビュー形式であり、ドキュメンタリーであることが決定される。なんの前触れもなくバカリズムワールドが立ち上がり、狩野ワールドを完全に飲み込んだ瞬間である。 だが次の瞬間、いきなりそのバカリズムワールド崩壊の危機が訪れる。「僕はそういう風には思ってないですけど、テレビだと割と飛び道具的な部分もあるじゃないですか?」という升野の質問に対し、狩野が「パーティーグッズ扱いね」と、思わぬ自覚を明かしたのである。まさかの展開である。自分自身を客観的に把握されてしまうと、このコントは終わってしまう。 状況を立て直すため、升野は「今おいくつなんですか?」という、恐ろしくどうでもいい質問を放つ。だが、そのどうでもいい流れが功を奏し、続けて放った「ひとりっ子なんですか?」という問いに、「ふたりっ子です!」と即答する狩野。いよいよエンジンが掛かってきた。手応えを得た升野が一歩踏み込んで、「イジられるという部分はあったんですか?」と訊くと、「いやいやいやいや、そんなの一切ないですよ!」と断言し、「クラスでのパーティーグッズ的なポジションではなかったんですか?」という質問には、「ないないないないないない」と食い気味に6回否定する狩野。冒頭の「パーティーグッズ扱い」に対する自覚症状はなんだったのかという、摩訶不思議な立ち直りっぷりである。そして、いよいよ狩野らしい自己肯定感の強いフレーズが、期待以上の極小スケールで放たれる。 「学級会でも、相当回してましたからね、僕」 学級会をまるで『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)のように語る、この「針小棒大」感こそが狩野の真骨頂である。映画学校時代には、「レボリューション」というあだ名で呼ばれていたらしい。 さらに、これまた誰も興味のない狩野の恋愛話の流れから、「バレンタインのチョコを最高何個もらったことがあるか?」という升野の問いに対し、「それ、お母さんも入れていいんすか?」「入れてよかったら、3かな」と、自慢気に答える狩野。返す刀で升野は「じゃあ、2もらったってことですね」と、無駄に膨らんだ内容をきっちり整理する。“わざわざ足したものを引く”という、完全に不毛なプロセスが生む、この絶妙な不条理感。これぞ、天然キャラのポテンシャルを巧みに引き出す、升野流「泳がせ術」の真髄である。 それにしてもこの、「お母さんも入れていいんすか?」という狩野の提案は、やはり天才的だ。とにかく数を増やすことでスケール感を出したいのだろうが、「この分だけ増やしますよ」と自ら宣言してから増やした分は、カウントされないに決まってる。思考回路のスタート地点とゴールがまったくつながっていないというのは、やはり一種の才能だと思う。幼稚なだけかもしれないが。 その後も狩野の武勇伝は尽きることなく引き出され、「高2のとき、病院の屋上で先輩にボコられた(理由は『弁当屋の前を女と歩いていたから』)」「新百合ヶ丘の駅前でやったストリートライブで100人以上集め、それが『新百合の幻の伝説』と呼ばれている」「マセキのライブで何カ月もスベり続け、スベりストレスで血尿が止まらなくなった」等、気がついてみれば、どこまでが本当でどこからがウソだかさっぱりわからない「ファンタジックなドキュメンタリー」という、新ジャンルを開拓。狩野の去り際になってようやく、このインタビューのテーマが「『ラーメン、つけ麺、僕イケメン』が生まれるまで」という、壮大なんだか小さいんだかわからないものであったことが明かされ、腑に落ちない狩野を尻目に、1時間にわたるインタビュー形式の長尺コントが完成する。 狩野が去った後、番組のラストで升野は、「新しい絡み方を聴いてしまったから、ちょっと聴いてる人たちの脳が疲れたかな」と語っていたが、まさにそんな斬新な角度がスリルを生むような、これはちょっと革新的な放送だった。リスナーとパーソナリティーが共犯関係にあってゲストを陥れているという感覚は、紛れもなくドッキリの構図ではあるが、ゲスト本人はただ自分にとっての事実(それが「真実」であるかどうかは別にして)を話し、騙されたという自覚もなく帰ってゆく。そういう意味でこれは、ドッキリでもドキュメンタリーでもコントでもない。あるいは、それらすべてなのかもしれない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』
「9134」カテゴリーアーカイブ
「大モテない先生」の結婚という危機をも容赦なき笑いに変える『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 ひとりの芸人の結婚により、非モテの共同戦線に衝撃が走った。11月16日深夜に放送された『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』(TBSラジオ 毎週土曜深夜1:00~3:00)の番組終了間際、パーソナリティーのひとりであるエレキコミックのやついいちろうとタレント・松嶋初音の結婚が、思いがけずサラッと発表されたのである。果たしてこれは非モテの希望なのか、裏切りなのか? 客観的に見れば、これはもちろんいち芸人の結婚に過ぎない。しかしやついは、番組内で「大モテない先生」と崇め奉られ、先陣を切って非モテの本音を吐露することで多くのリスナーを惹きつけてきた。もちろん、すべては聴き手とのあうんの呼吸を前提とするユーモアであり、全体が丸ごと一種のコントとさえいえるかもしれないが、その根底に「モテない」「モテたい」という共感が横たわっていたのは間違いない。番組HPにも、《JUNKの中でも抜きん出てモテない3人がお送りする、モテの下流社会ラジオ》という文字が躍っているように。 そもそも、深夜ラジオはいつから非モテのものになったのか。たとえば昔の人気番組であったビートたけしやとんねるずの『オールナイトニッポン』には、少なくともパーソナリティー側に非モテ感はほとんどなく、むしろスター然としたモテ感のほうが強かった。リスナーの投稿ネタは今と変わらず非モテ感満載だったが、構図としては、モテの先輩としてのパーソナリティーが、非モテの童貞リスナーたちの言動を、自らの青春時代に照らし合わせて笑い懐かしみながら引っ張ってゆくという形だった。 そう考えていくと、やはりターニングポイントとなったのは、伊集院光のブレークだろう。彼以降、パーソナリティー自身の「現役非モテ感」が、リスナーの共感と信頼を勝ち得るという図式が一般化する(もちろん語り手の話の面白さが大前提だが)。とはいえそんな伊集院も、やついと同じくタレントと結婚しているのだが。ちなみに、いま最も「現役非モテ感」のあるパーソナリティーといえば、ナインティナインの岡村隆史だろうか。 つまり冒頭で「非モテの共同戦線」といったのは、そういった「パーソナリティーとリスナーが同じ非モテの地平でつながっている状態」を指すのだが、では『エレ片』はその戦線崩壊という危機に、どのようなスタンスで立ち向かったのか? 先々週の投げっぱなしの結婚発表を受けた先週の放送はまさに、リスナーのそのような問題意識を受けて立つような興味深い内容だった。 この日の放送はまず、「エレ片の結婚ト太郎」という、緩めにもじったタイトルコールから始まった。実は結婚発表後のポッドキャストで、「エレ片」の「片」ことラーメンズの片桐仁は、自分だけやついの結婚を知らされていなかったことにマジギレし、「やついは昔から隠すから」「腑に落ちない」「疎外感がすごい」などと完全にすねていたのだが、ここでは別人のように朗らかに番組タイトルを叫ぶという意外な幕開け。となれば、このままぬるいお祝いムードで番組が進むのかと思いきや、やついの相方である今立進が徐々にリスナーの鬱屈した気持ちを代弁し始める。「『モテない』ってとこで生きててほしかった」「『モテない』の走りが速すぎて背中が見えないやついさんでいてください!」「モテない(ウサイン)ボルトでいてください!」と、非モテのトップランナーを惜しむ言葉を連発。浮ついた祝福ムードは、すっかり雲散霧消する。 一方で、片桐も負けてはいない。「奇跡っちゃ、奇跡ですよね。結婚ってこと自体が」「『こんな奇跡がありましたよ』ってのを、リスナーも体験できたわけだからね」と完全に上から目線の皮肉を浴びせ、今立の「映画化したほうがいいよ、映画化」という決定打を導き出す。今立の口からはさらに「俺はアルフィーの高見沢さんになる」という、誰も求めていない永遠の王子宣言まで飛び出し、やついの結婚を「事実」から「ネタ」へと鮮やかに調理して番組に取り込んでゆく。 それ以降も、リスナーからの罵詈雑言(「やついさんは、もう死んじゃうんですよね?」「死刑宣告と同じ」「これはどう考えても詐欺です」等)まみれの祝福メールを読み上げ、さらにはわざわざ声優をスタジオに呼んで、結婚までの道のりを悪意に満ちた視点から異様にぶ厚くラジオドラマ化してイジり倒した挙げ句、最終的には今立も片桐もすっかりやついの結婚に飽きて興味を失い、「先週のことのよう」とまで言い放つに至るという、めくるめく展開。結婚という事実をネタとして徹底的に消費し尽くすことで、リスナー間に漂う、得も言われぬモヤモヤ感を笑いに乗せて吹き飛ばし、いったん状況をリセットしてパーソナリティー3人のフォーメーションを再構築することに成功しているように思えた。 ラジオは本音のメディアだとよくいわれるが、さすがにここまで剥き出しに、容赦なく味方を追い込む番組は滅多にない。しかし、その容赦のなさこそが面白さであり優しさでもあるという、そういう過酷な状況の中で信頼を獲得しているのが芸人という人たちなのだと、この回を聴いてあらためて痛感させられた。もちろん今後は、特に非モテ感の扱いにおいて方向性に変化が生じてくるかもしれないが、この3人の手に掛かれば、あらゆる事実はネタとして笑いに昇華されるに違いない。むしろ、この結婚を機に3人の関係がどう動いてゆくのかに興味が湧く。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』
現在進行形で動き続ける、奇術的トークステーション『久米宏 ラジオなんですけど』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 『報道ステーション』(テレビ朝日系)を見ているといまだに、「このニュースについて、久米宏なら何を言うだろう」と考える。それは古舘伊知郎の切れ味の悪さに対する不満であると同時に、久米の鋭さが視聴者に遺した確かな副作用でもある。だがその副作用には、絶好の特効薬がある。『久米宏 ラジオなんですけど』(TBSラジオ 毎週土曜13:00~14:55)というラジオ番組である。 近年はテレビにほとんど出なくなった久米の、現在唯一のレギュラー番組である。ラジオというメディアは基本的に、しゃべり手のポテンシャルを引き出すという機能を持つ。中には大御所が「昔取った杵柄」をただ振り回すだけのラジオ番組も存在するが、この番組における久米は、むしろ新鮮味にあふれている。 この番組において久米の面白さを最も高純度で引き出しているのは、12分間にわたるオープニングトークである。彼の話術の最大の特徴は、「話題が動き続ける」ことにある。毎度12分の長尺の中で、政治・気象・宇宙・スポーツ・カルチャー等々、あらゆるジャンルを自在に横断しつつ複数の話題が入れ替わり立ち替わり登場するのだが、その展開は、ひとつの話が別の話題に「変わる」ことの連続というよりは、やはり話題が「動き続ける」という方が感触的に正しい。完全に転換するわけでも、完全につながっているわけでもない。その絶妙な按配がスリルを生む。 たとえば9月の放送では、まもなく日本シリーズが行われるというスポーツの話題から、「にっぽんシリーズ」か「にほんシリーズ」かという発音問題へとつなぎ、そこから自身のアナウンス学校時代の思い出話へ突入。自分たち新入社員がアナウンス学校でやっていたのは「毎日恥をかくこと」であり、一緒に恥をかいた者同士に生まれる「同期愛」や「連帯感」というものがある、という話へ。そして最後には、会社は違うが同期入社のあのアナウンサーの名を「Mもんた氏」と無意味なイニシャル混じりで挙げ、「擁護するわけではないですけど、同じ年に同じように恥をかいたと思うと、ある種の連帯感というものがある。ただの連帯感ですけど」と複雑な余韻を残してオープニングトークを終えた。 タイムリーなスポーツの話題から入り、自身の思い出話を経て、最後に再びタイムリーな芸能の話題に戻る、という「現在→過去→現在」という時間の往還も見事だが、実は最後の「Mもんた氏」の話題は現在形であると同時に過去の思い出話でもあって、最終的に最も刺激的な話題で現在と過去を包括するという理想的な形で終えている。さらには時制の問題だけでなく、彼の場合、自身と話題との距離感というのも自由自在で、世間的なニュースと自身の身のまわりの出来事が同次元で語られる。この場合であれば、スポーツと芸能ニュースの間にプライベートな話題が挟まれる形になっているが、やはりラストの「Mもんた氏」の話は、芸能ニュースであるとともにプライベートな話でもあるという二重構造になっている。 また、正月一発目のオープニングトークでは、マグロの初競りの話が資本主義原理の話になりマグロの睡眠の話になり、突如目の前のアシスタント堀井美香アナの居眠り疑惑へと発展したのち、総務省の睡眠調査データを持ち出してきて検証した結果、堀井アナはやはり秋田美人だという地点になぜか着地するという、至極アクロバティックな展開。またある時は、ベテルギウスの話がいつの間にやら「小説すばる」(集英社)の話(星つながり)になっていたり、中村勘三郎の話が足利義満にたどり着いたりと、動きながらパスをつないだその先にファンタジーを生み出していく筋立てには、まるで久米自身がよく話題にする欧州最先端のフットボールを目撃しているような興奮がある。 とはいえもちろん、毎度そこまで超難度のアクロバットが決まるわけではなく、特に複数の話題をつなげようという意志が感じられない回もあれば、着地がふわっと流れる場合もある。だが、そんなときにもトークが魅力的に感じられるのは、その展開力や表現力だけでなく、彼の情報収集能力によるところが大きい。そしてその基盤には、彼の「現在形の情報に対する異様なまでの貪欲さ」がある。 そもそもこの風変わりな番組タイトルには、「ラジオなんですけど、テレビの話をしよう」という意味が込められていたという。フリートークでも最近見たドキュメンタリーやニュース、ドラマの話から入ることが多いが、いずれにしろ昔のものではなく、今やっている番組が取り上げられることが圧倒的に多い。ほかにも新聞、本、映画、インターネットなど、あらゆるメディアから得た情報、あるいは自身の日常体験をきっかけに話が進められるが、彼の視点は常に現在を中心に捉え続けている。 歳を重ねるにつれて価値観が凝り固まり、現在の情報に対して閉じた状態で独断を述べる傾向は一般に間違いなくあるが、今の久米は69歳にして、おそらく現在の世界に対して最も開けた状態にあるのではないかと思わせるほどに、あらゆる情報を次々と貪欲に取り込んでいる。やはり仕事を減らしたことにより、自由に使える時間ができたことが大きいと思われるが、その話の端々から伺える博識っぷりは並大抵ではない。 そして知識もやはり、獲れたてが一番おいしい。見た直後のテレビの話や読んだ直後の本の話というのは、なぜか面白い。仕入れたばかりの知識にはまだ確かな熱が残っていて、内容だけでなくそのテンションまで丸ごと相手に伝わるのだろう。だからこの番組には、現在と併走し続ける臨場感があり、動き続ける久米宏の現在進行形がここにある。彼はなお自らを更新し続けている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『久米宏 ラジオなんですけど』(TBSラジオ)
タモリのドーナツ化した個性を築き上げた「なりすまし力」という才能『われらラジオ世代』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 タモリほど個性が強いのに、適応力のある人間はいない。基本的に相反するこの2つの要素がタモリの中で平然と両立しているのは、実はタモリの持つ個性が、一般にいわれる個性とは基本的に異なるからだ。彼の個の中心は、常に空洞化されている。そのドーナツの中心にある穴こそが、タモリである。 『笑っていいとも!』(フジテレビ系)終了を電撃発表した翌日から、タモリが5年ぶりのラジオ・パーソナリティーを務める番組が3夜連続で放送された。ニッポン放送開局60周年記念番組『われらラジオ世代』(ニッポン放送 10/23水曜~10/25金曜21:00~21:50)という大仰な名を持つその番組は、しかしいかにもタモリらしい密室的な「個」を感じさせる内容だった。 この番組は「ラジオの現在、過去、未来を語る」というコンセプトで、それぞれの曜日に久保ミツロウ&能町みね子、笑福亭鶴瓶、ももいろクローバーZをゲストに迎えてトークを展開する、というものだが、タモリにかかれば核となるコンセプトなどもはや関係がない。そこにあるのは、ゲストとの対話によって導き出される秀逸な「こぼれ話」の集積であり、中心ではなく辺縁にこそ、彼の面白さの本質がある。 番組は生ではなく事前収録されたものであり、ゆえに『いいとも』終了の件には一切触れていない。だがそんな目先のこと以上に、タモリの過去、現在、未来を貫く本質的な哲学が、なんでもない周辺から、どうでもいいようなふりをして語られる。 初日の放送では、久保&能町を相手に、タモリ流の摩訶不思議な人間関係学が披露された。タモリが『オールナイトニッポン』をやっていた頃の話になると、「いろんな悪口ばっかり言ってました」と懐かしみ、「悪口言ってると(相手が番組に)出てきてくれる」「出てきたら結構面白い。いまだにつき合いありますけどね」と意外な場所へと着地する。今でいうと、完全にドランクドラゴン鈴木拓的な「炎上ビジネス」だが、敵(のちに味方)は近田春夫や井上陽水といった売れっ子の猛者たちである。なんと覚悟の据わったイタズラ心だろうか。 さらに話は、「悪口言って、随分得したことがあるんですよ」と続き、「ワインが嫌い」だと言えば、食通の小説家が「最高級のものを飲ましてやる!」と息巻いてヨーロッパからワインを持ってきて飲ませてくれ、フランス料理もブランデーもその方式で最高級のものを味わえたという。その話を聴いた能町が「『まんじゅう怖い』みたいですね」といったのはまさに言い得て妙だが、結果としてそこからワイン好きになるのではなく、「一番いいのを飲んだからワインはもう(飲まなくて)いい」と、最終的に「無に帰す」のがいかにもタモリらしい。 2日目の鶴瓶との対話では、さらに人間タモリの本質に迫る言葉が不意に登場する。30歳で芸能界入りしたタモリは、歳下の鶴瓶や、さらには明石家さんまよりも芸歴では後輩であるからややこしい、という話の流れから、「(歳下の先輩に対し)どこでなし崩しに先輩面をするかが、この世界に入ったときの第一命題だった」と、タモリの口から思わぬ告白がこぼれた。鶴瓶はその言葉がにわかには信じられぬようで、「悩んでたん?」と何度も確認していたが、そこで「悩んでた風を出したら、ますます乗り遅れるから」と答えるタモリは、やはり一枚上手だ。その後、「入って4~5年目で『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)の審査員やってた」という今では考えられない話に至り、いよいよタモリの本質を突く、決定的なフレーズが本人の口から飛び出す。 「俺の本当の芸は『なりすまし』ってやつだよね」 確かに、タモリの持ち芸である4カ国語麻雀もインチキ神父もイグアナのものまねも、紛うかたなき「なりすまし」の極致である。その能力は、赤塚不二夫や山下洋輔や筒井康隆など、彼を東京に連れ出した才人たちからの無茶ぶりに即応することで鍛え上げられたものであると同時に、そういう稀有な力を持っているからこそ、彼は東京に引っ張り出されたともいえる。タモリはいまだに、タクシーの運転手相手に医者になりすますなどして楽しんでいるという。新聞を読むのも、あらゆる職業になりすますためだと。 あるいは『いいとも』司会者という30年以上にわたる「昼の顔」も、長すぎる「なりすまし」だったのかもしれない。そう考えたのは、番組最終日のももクロを迎えた回では、最初の2日間と違い、彼の個性よりも「昼の顔」的な適応力が前面に出ていたからだ。 終始ももクロのペースで進められたこの日の会話は、タモリの話を心待ちにしていた人間にとっては、正直物足りないものだった。タモリは前日の鶴瓶との会話の中で、ラジオの魅力について、「過剰に盛り込むことはいらない」「自分の外に出すもんじゃなくて、心の中で自問自答してるようなことを乗せたほうが面白い」と語っていた。最終日のにぎやかな放送はそれとは真逆の方向であるように聞こえたが、ここであえて自分を出さず、司会者の役割に徹するその適応力こそが、タモリを密室芸人から「昼の顔」に押し上げたということもできる。そしてその適応力とは、つまり「なりすまし力」のことでもあって、それは間違いなく彼の個性の本質でもある。タモリの中で、個性と適応力は一体化している。 タモリはこの週、同局の昼ワイド番組『上柳昌彦 ごごばん!』で旧知の上柳アナからインタビューを受け、「やる気のある者は去れ!」という自らの言葉に続けて、こんなことを言っていた。 「やる気のある奴っていうのはね、中心しか見てないんだよね。お笑いってのは、だいたい周辺から面白いものが始まっていく。やる気のある奴はそれを見てない」 ちなみにその昔、『オールナイトニッポン』でタモリはこう言った。 「思想をまとってくる者ほど愚劣な者はない。一番悪い奴は、最初に思想をまとってやってくる」 つまりこれは、「思想を持たないという思想」である。自らの中心を持たないという思想である。彼の個性に中心はなく、周辺しか存在しない。その個は巧妙にドーナツ化されている。彼はその中心の穴から周辺を眺め、面白いものを常に探している。そしてドーナツは、穴が開いているからおいしい。その真ん中の穴こそが、タモリなのである。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『タモリ』(Sony Music Direct)
不慣れなラジオの世界に切り込む、大喜利王者の一番槍『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 あのバカリズムが、ラジオで意外にも初々しさを炸裂させている。初々しさとはつまり、ある種の違和感であり、かわいげであり、アナーキーさでもある。リスナーによるネタ投稿を重視する芸人ラジオとバカリズムが得意とする大喜利との親和性を考えると、むしろなぜこれまで彼がラジオという場所にコンスタントな活動の基盤を持たなかったのか不思議なくらいだが、この10月から始まった『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送 毎週月曜22:00~24:00)は、バカリズムにとってラジオで初めての、まさしく「待望の」レギュラー冠番組である。 バカリズムの発散する初々しさは、自らも番組内で認めているように、実のところラジオに対する「不慣れ」から来ている。3度の単発放送を経てのレギュラー化ではあるが、まだまだ十分に不慣れである。それは、ラジオパーソナリティーとしての経験値の少なさによるものであると同時に、ラジオリスナーとしての経験不足によるところが大きいだろう。実際、バカリズムは芸人には珍しく、これまでラジオをあまり聴いてこなかったという。彼のネタのニッチな方向性からすると、ラジオの投稿職人上がりだといわれたほうがむしろ自然なくらいだが。ちなみにそのコントの作り込み具合と映画学校出身であることから、映画もさぞたくさん見ているだろうと思われがちだが、こちらもそんなに見ておらず、30過ぎてから『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をようやく見て、おすすめ映画に挙げたら笑われたという。 さらにはラジオや映画だけでなく、各方面の情報に疎いらしく、大人気朝ドラ『あまちゃん』(NHK)も見ていないため、NHKのレギュラー番組に出演者が来た際にはリアクションに困り、「ですよねー」と「そうそう」という当たり障りのない相づちでなんとか乗り切ったと語る。『半沢直樹』(TBS系)も見ていないから「倍返しだ!」とカマされてもさっぱり乗れず、「お・も・て・な・し」もいまだによくわかってないから「どうやら、滝川クリステルさんが放ったギャグなんですよ」と、いい感じの誤解を表明してみせる。 つまりこの人にとって、不慣れであり情報に疎いということはある種のデフォルトであって、さほど珍しい状態ではないということである。この状態で頻繁に単独ライブを開催するほどのネタを高水準で生み出し続けているというのは信じがたい事実だが、むしろ「まっさらな状態で物事に向き合える」という創作上のメリットがあるというのもまた間違いない。それは彼のように「物事に新たな角度を見出す」タイプの人間には必要不可欠なスタンスである。 たとえば、バカリズムには「都道府県の持ちかた」という代表的なネタがある。彼は以前、伊集院光の番組にゲスト出演した際にその発想の源について訊かれ、「たまたま部屋に貼ってあった地図をボーッと眺めていたら、どこに何県があるとかわからないから、都道府県が情報ではなく『形』として目に飛び込んできて、持つとしたらあそこだよなぁ」と思ったのがきっかけだと語っていた。情報が頭に入っていないからこそ、プレーンで新たな視点を獲得できるという、まさに彼の創作スタンスを象徴する好例だろう。もちろん、最後の「持つとしたら」の部分へたどりつくには、常人にはなし得ない飛躍が必要だが。 そんなバカリズムの創作姿勢を踏まえてこの『オールナイトニッポンGOLD』を聴いてみると、彼の不慣れに感じられる部分が、実は新たな視点を獲得するための強力な武器であることが見えてくる。 基本的に彼はまだ、「ラジオならではの距離感」に取り込まれていない。それが不慣れであり初々しくも感じられる最大の要因なのだが、あらゆるジャンルには特有の距離感というものがあって、それはリアルとSNS上の人間同士の距離感がまったくの別物であるように、ラジオにも独特の距離感というものがある。その距離感はその世界においては「常識」になっているから、そこに新たな基準を持ち込むと、一時的に受け手の混乱を招いたりもする。 実際、レギュラー放送初回の冒頭でバカリズムは、リスナーからの「なんとお呼びしたらいいですか? 好きな呼ばれ方はありますか? もしくはリスナーとわかる呼び方を新たに決めるとか」という内容の、ラジオでは良くあるタイプの距離感を詰めてくるメールを途中まで読んだ上で、「長い!」のひとことで一蹴するという、会心の一撃をいきなり繰り出した。結果として、このやりとり自体が「ありがちなラジオ」に対するパロディとして成立しており、すでに互いの距離感が確定している状態であれば温かい笑いが生まれるはずなのだが、その後リスナーからは、「オープニングでバッサリとリスナーを切り捨てる姿に足が震えています。バカリズムさんは僕たちのことが嫌いですか?」「バカリズムさんは長いメールが嫌いということで……」という怯えたメールが寄せられるという不測の事態に。 とはいえ確かに、この手の質問メールは半ば儀礼的なもので、特に面白く答えようのないものであるという判断は、おそらく正しい。ちょっと厳しいように感じるかもしれないが、これはリスナーを単なるファンとしてではなく、対等な対話相手としてその実力を認め、尊重するというスタンスの表れでもある。その証拠に、彼はコーナーに寄せられたそれぞれのメールに対し、非常に分厚いコメントをつけ加えて笑いを増幅させる。たとえばエロに関する偏見を募る『エロリズム論』のコーナーでは、「好きなアーティストを訊かれたときに、『誰も知らないと思うけど』を枕詞にしてマイナーバンドを答える女はマグロだ」という投稿に対し、「超わかる」「優越感に浸ってる顔」「サブカルぶってる女の感じ」「わかったわかった、はい詳しい詳しい」「マグロでもカジキマグロ」「貞操観念ゆるいくせにマグロ」「で、乳首が長い」「全然、歳言わない」「会う人によって歳変えてたりする」と、異様に元ネタを深追いして自身の偏見を乗っけまくるシンクロ率の高さ。 かと思えばやはり厳しい部分もあって、各コーナーごとに「面白がり方は発想というよりもチョイスの部分」「変にうまいことたとえるのではなくて、もっと不条理な感じ」などと、もちろん初回というのもあるが、リスナーに踏み込んだ方向性のアドバイスまで授けている。普通は「投稿者任せでコーナーの方向性がその都度変わっていき、収集がつかなくなった時点でコーナー終了」というパターンの番組が多いのだが(それはそれで面白い)、ここまでやるのは、かつて『JUNK』(TBSラジオ)をやっていた頃のアンタッチャブル柴田以来である。しかしこの遠すぎたり近すぎたりするバカリズム独特の距離感は、いずれにしろリスナーのセンスを尊重した姿勢と見るべきだろう。結果として投稿者のモチベーションはかなり上がっているはずだ。 それ以外にも、番組内に挿入される2度のニュースを読み上げる報道部のデスクの女性に異様に興味を示し、「2回目のニュースまでの間、何してたんですか?」「『デスク』って格好いいですよね」「デスクはみんなあるじゃないですか。僕もデスクあるんですよ家に」と急激に距離を詰める質問を連発するなど、その独特の距離感と角度のある視点は至るところに発揮される。 新しいものは常に外部から持ち込まれるといわれるが、もちろんその世界に一歩足を踏み入れたら、外部の人間も内部の人になる。つまり新参者には、内部にいながらにして外部からの視点を持ち続けることが求められるわけだが、ラジオにとってバカリズムは、話のプロである芸人であり投稿職人気質を持っているという意味では内部に、一方でラジオパーソナリティー経験の少なさ、そして聴取経験の乏しさという意味では、今のところまだ外部の感覚を残している。この先、経験を積むことでいくらか様相が変わるのかもしれないが、そもそも彼は、不慣れで情報のないところから奇抜な発想を立ち上げる魔術師である。その点を踏まえるならば、ラジオがバカリズムを飼い慣らすよりも、彼の外側からの視点がラジオをいい意味で変えてくれるのではないかと、期待が膨らむ。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』
高嶋政宏のプログレッシブな面倒臭さ全開の10時間ラジオ『今日は一日“プログレ”三昧3』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 史上最高に「面倒臭い」音楽番組である。何しろ、取り扱う音楽ジャンルが複雑怪奇な「プログレッシブ・ロック」限定で、放送時間は10時間。1曲目から25分強の曲がかかり、やっと終わったかと思えば、今度はうんちくまみれの音楽語りが止まらない。9月23日に放送された『今日は一日“プログレ三昧”3』(NHK-FM 12:15~22:45)は、そんな面倒臭さが絶妙な違和感となって通りがかりのリスナーを惹きつけるような、ある種理想的な音楽番組のありようを提示してくれた。 そもそもこの番組は、毎回ひとつのテーマに特定して一日中音楽を流すという特番「三昧シリーズ」の一環であり、ほかにも『“パンク/ニュー・ウェイブ”三昧』『“プロ野球ソング”三昧』『“ひげ男(メン)ソング”三昧』など、オーソドックスなくくりから斬新すぎてピンとこないくくりまで、これまでもさまざまな『三昧』が放送されている。その中で「プログレ」というテーマは最も硬派な部類に入るが、だからこそ出演者、リスナー共にこだわりが強く、面倒臭いということでもある。 今回はそんな『“プログレ”三昧』の第3弾。番組は、ナビゲーターの山田五郎と音楽評論家の岩本晃市郎とプログレマニアのリスナーが、今回初登場でプログレ初心者のNHK荒木美和アナにプログレの魅力を伝えるプロセスを通じて、ラジオの向こうの初心者リスナーにもプログレの良さをわかってもらおう、という図式である。司会の山田自身がプログレマニアな上、専門の音楽評論家もいて、さらに山田から「プログレはリスナーも面倒臭い」といわれるほどにマニアックなリスナーが山ほどメールを送ってくる状況は、プログレ初心者の荒木アナにとって、すでに十分過酷なアウェイの場といえる。 しかし今回はそこに、さらに恐ろしく面倒臭い男が登場した。「スターレス高嶋」こと高嶋政宏である。キッスのメイクで弟の泥沼離婚問題に関する質問にまで受け答えしたことで、結果的にその天然っぷりと人のよさと比類なきロックへの忠誠心を示すこととなった、あの高嶋政宏である。何しろ、キング・クリムゾンの名曲「スターレス」をその名に冠する男、彼のプログレ愛はもう誰にも止められない(というと、「そんなメジャーなバンドの曲を名乗るようではまだまだ甘い」というのがプログレマニアの面倒臭さなのだが)。 高嶋は登場まもなく、プログレ初心者の荒木アナにロック・オン。映画『バッファロー’66』のサントラでプログレをちょっと聴いたことがあるという荒木アナに対し、「プログレをコンピで聴く女は信用できない」といきなり憤慨。「荒木さん、プログレはベースとドラムの技術を聴かないとダメなんですよ。バスドラの踏みとか」と頼まれてもいない個人教育を始め、「さっと流しちゃダメなんですよ。家帰ってライナーノーツ見ながらヘッドフォンでじっくり聴かなきゃダメ」と正しい聴き方まで熱血指南。その直前には高嶋自身、「キング・クリムゾンの『レッド』を聴きながら毎日ウォーキングしている」と言っていたのに、他人には「ながら聴き」を許さないという見事なまでの自己矛盾。そしてさまざまな曲と目の前のプログレマニア3人の解説を聴いていくうち、「何がプログレかわかんなくなってきました……」とこぼした荒木アナの反応に、「何がじゃないんですよ! 感じてくださいよ!」と突如ブルース・リー化。それまで長々と説明してきた自らの理屈っぽさをも、一撃で全否定してみせる。 ほかにも、荒木アナがプログレならではの長く面倒な曲名に出てくるカッコや「~」まできっちり読まないと急に不機嫌になったり、NEU!(ノイ!)というバンド名の「!」の部分が伝わるように語尾を強調して読んでほしいと言いだすなど、高嶋の面倒臭さは留まるところを知らない。ところが、次の箇所でその読み方を高嶋の指導通りに実践すると、「いいですよ、いいですよぉ」と村西とおる口調で突如、別人のように上機嫌になるあたり、驚くほどの純粋さをも感じさせる。 しかしこの、理屈であって理屈じゃない感じ、そして自己矛盾を抱えたまま進んでいく話の展開の読めなさは、まさにプログレ的なこじれ方といえるかもしれない。言われている方からしてみれば、単なる面倒なオヤジだが……。まさに山田五郎言うところの「プログレ・ハラスメント」である。 しかし同時に、その面倒臭さこそがこの番組の魅力でありプログレという音楽の魅力でもあって、そこを明確に自覚している山田が司会を務めているというのが、やはりこの番組の肝だろう。マニアとしてジャンルの内側にいながら、同時に外側からの視点をも持ち合わせている。内部にマニアックな知識欲を抱えながら、常に外側に向けて開かれた言葉を持っている。この日は20代女性から寄せられたメールも多く読まれ、中には10代のリスナーまでいて驚いたが、そういった70年代プログレ全盛期を知らないリスナーが増えているのは、山田がプログレ及びプログレファン(自身含む)を形容する際たびたび口にする「面倒臭い」という言葉があるからだろう。 通常、マニアがビギナーをその世界に引き入れるためには、何よりもまずその簡単さや取っつきやすさをアピールするものだが、マニア側にいる彼の口から「プログレは面倒臭い」という言葉が発せられることによって、逆に面倒臭いからこそプログレがいい音楽なのだということが伝わる。彼のように、マニアックなものに接したときの第一印象を持ち続けている人の言葉を聴くと、どんなマニアであっても、誰もが初めは初心者であったということに思い当たる。そしてその言葉につられて聴いてみると、プログレも高嶋政宏も、間違いなく面倒臭くて面白い。いや、面倒臭いから面白い。趣味にしろ人間にしろ、実はほとんどのものがそうなのだ。実に面倒臭く、真の意味でプログレッシブな音楽番組である。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHK-FM 『今日は一日“プログレ三昧”3』
ケンドーコバヤシの「許され力」がすべてを笑いに昇華する、性的逸話の解放区『TENGA茶屋』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 世の中には、同じことを言っても許される人間と、そうではない人間がいる。たとえば女性の前で下ネタを言うと大半の男は嫌われるが、中には許される、あるいはむしろ積極的に下ネタを言ったほうがモテるとすら感じられる男がいる。そういう意味で、ケンドーコバヤシほど「許されている男」はいない。本質的には「許されざる男」の要素を多分に持っている彼こそが、いま最も世間に許され、愛されている。『TENGA presents Midnight World Cafe TENGA茶屋』(FM OSAKA 毎週土曜深夜1:30~2:30)とは、そんなケンドーコバヤシの本質的魅力が、余計なフィルターを通すことなくピュアに伝わってくる番組である。関西ローカルの番組だが、場所を問わずポッドキャストで聴くことができる。 そもそもこの番組のタイトルに含まれるTENGAとは、何しろあのアダルトグッズメーカーのTENGAである。日本一下ネタをノーモーションで自然と繰り出す男の番組スポンサーに、TENGAがついている。これぞまさに「Win-Winの関係」であり「鬼に金棒」状態である。これ以上、性的発言に関する自由度が確保された状況など、あり得ないだろう。 そんな解放区でのびのびと放たれるケンコバの発言には、強烈なインパクトと共に、妙なかわいげと後味の爽やかさがある。何事も極端に振り切れたものには、フルスイングの後のような爽快感が残るものなのかもしれない。 たとえば彼は番組内で、自らの自慰行為のスタイルについて赤裸々に語る。普通に考えれば、そんな話にかわいげも爽やかさもあるはずがない。しかし、かつて自慰行為を研究していた時期に、「毛の長いブラシの上をひよこ歩きして擦る」という「ひよニー」を行っていたと臆面もなく語られれば、「ひよこ歩き」というチャーミングすぎる言葉の衝撃と、その説明から思い浮かぶ構図のあまりのバカバカしさに、「性の求道者」という清々しい称号を与えたくもなる。ちなみにこの話は、その前にしていたカーリングの話からの流れであり、「カーリングの女子選手は確かに美人が多いし、あの股関節の可動域は魅力的だが、俺はそれよりもブラシのほうに痺れる」という場所へと見事に着地する。なぜか、カーリングと自慰行為とブラシが、一直線上にキレイにつながっている。何かがおかしいが、美しい。 実は、ケンコバの話術には思いがけぬ着地点が用意されていることが多く、その着地姿勢の見事さを聴き手は爽快感と錯覚する。もちろん本当に爽やかなことなどまったく言っていないのだが、彼の話の中ではなんらかのねじれや飛躍といった価値観の反転が頻繁に起こる。 「部屋に入るといきなり大外刈りされる風俗」にハマッたという話(その時点で十二分に面白いが)の先には、「そのあと受け身の研究するために、柔道の試合をじっくり見た」という本末転倒な着地点が待っている。この4月からアシスタントを務める若手芸人アインシュタインの稲田直樹のルックスに関する話(彼はブサイクであることを前面に出す芸風で知られる)になれば、「お前は前世で神を殺している」と突如スピリチュアル方面へと飛躍した発言を繰り出し、さらには「神話の世界に終止符を打った男」という途方もなくスケール感溢れる異名を授ける。内容的には単なる悪口がさらにエスカレートした形なのだが、そのファンタジックな言葉の響きにはもはや格好よさしかなく、その話の内容と着地点のギャップがもう面白くて仕方ない。すべてが笑いと共に許される。 自由を与えられた空間の中でこそ何かを極端にやり切れるし、極端に振り切れるとその先には逆サイドの端が見えてくる。行くところまで行けば善が悪になり悪が善になり、真面目が不真面目になり不真面目が真面目になり、下ネタにさえある種の品格が生まれてくる。この番組のコンセプトには「性を表通りに」という言葉が含まれているが、それはまさにケンコバが番組内で語っていた、かつての自身の体験に重なる言葉でもある。彼は若手時代、その行きすぎた芸風ゆえ腫れもの扱いされ、あるテレビマンから「お前なんか一生テレビ出れるか!」と言われたことがあるという。そんな男が、今メディアの最前線を張っている。現在のテレビが以前に比べて許容量を増しているとは到底思えないことを考えると、もちろん才能を認めてくれる人々との出会いというのも重要ではあるが、今のケンコバの「許される力」は、彼本来のファンタジックな発想力とトリッキーな話術を自ら大事に育み磨き続けてきたことによってもたらされた正当な結果だろう。この自由なラジオという空間で、それがあらためて明確になる。これほど痛快なことはない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからFM OSAKA『TENGA presents Midnight World Cafe TENGA茶屋』
辛口2トップの知性と感性が絡み合う、禁じられた遊び『井筒とマツコ 禁断のラジオ』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 「禁断」という言葉には、間違いなく人を惹きつける魔力がある。何かを禁ずるのは、それによって人間がコントロール不能な状態に陥ってしまうからであり、逆にいえばそこには人知を越えた根源的な力があることを意味する。『井筒とマツコ 禁断のラジオ』(文化放送 毎週金曜深夜2:30~3:00)は、映画監督の井筒和幸とマツコ・デラックスの辛口2トップが敵陣自陣関係なくゴールを決めまくる、まさしくその名の通り禁断のラジオである。 番組は進行役の文化放送アナウンサー寺島尚正と、ツッコミ役で映画パーソナリティのコトブキツカサを含めた4名で進められるが、そもそも守備役を2枚置いたこの4人編成という大所帯のフォーメーションが、2トップがいかにアウト・オブ・コントロールであるかを逆説的に物語っている。さらに、それだけではやはり禁句の発動を止め切れぬため、最終的な防御策として「危険な発言部分にかぶせて『オクラホマミキサー』を流し続ける」という特例措置がとられており、時には延々と同曲が掛かり続けることもあって、ラジオをつけるタイミングによっては異様に牧歌的な音楽番組だと思うかもしれない(直後には間違いなくその夢から叩き起こされるが)。 2枚看板を置いた番組の場合、やはり気になるのはそれぞれの魅力が並び立つのか否かという問題だが、この番組においては井筒の放つ強力な言葉が主導権を握る場面が多く、マツコはそこに反応する形でコンビネーションを形成している。毒舌同士という意味ではテレビで有吉と組んでいる時のマツコを連想するし、年輩者相手という意味では池上彰との組み合わせが思い起こされるが、ここでのマツコはそのどちらとも違う感触で、両者以上に井筒とのシンクロ率の高さを感じることが多い。特にエロスに関して手加減のない表現を好む井筒の言語感覚が、マツコの中にある女の部分を思いがけず引き出しているようなところもあって、反対にどんな言葉(たとえば「自衛隊」)からもエロスを連想できるマツコの想像力に、井筒が感心する場面も少なくない。 トークの内容は政治から井筒とコトブキの主戦場である映画、そしてドのつく下ネタに至るまで森羅万象にわたるが、それらが分け隔てなく、理屈と感情を総動員して同じまな板の上でシームレスに語られるのがこの番組の特徴である。真面目な戦争の話と下世話な下ネタの果てに共通の「死」を見だし、徹底的に考え抜いた上で感情を爆発させる。何が上で何が下というのではなく、あらゆる物事を並列に扱うことで見えてくる真実がある。エロ雑誌の付録の使用済みパンティを全員で嗅いでみるという謎の時間帯の直後に、内閣の話をするなんていうカオティックな展開もあった。ちなみに井筒は、かつてはみんな嗅いでいたし自分も嗅いだことがあると告白したのち、しかし雑誌の付録としてつけることには異議を唱え、「もっと牧歌的なノリで嗅げよ。オーガニックに」と憤慨してみせた。付録という、その取ってつけたような形式が「詩的じゃない」とのことだが、この怒るポイントの意外性と、わかるようでわからない、でもやっぱりちょっとわかるというギリギリのラインを突いてくるこの厳密な表現力は、目の前の対象がどんな題材であれ、やはり知性というべきだろう。 そして話題が井筒の本分である映画に及ぶと、その表現はさらに鋭さを増し、暴力的にすらなってくる。レオナルド・ディカプリオを「ガキ顔だろ」と揶揄した流れで「釣りキチ三平みたいな顔しとる」と謎の比喩を繰り出してくるこの跳躍力。見てもいない『戦火の馬』のラストを「最後、馬刺しになって終わりかい」と決めつける力業。そして「3Dメガネが煩わしい」という話になると、目の前のコトブキツカサのメガネが伊達メガネだということを持ち出し、「レンズ入ってへんメガネかけてる奴なんかね、まず泥棒と思ったほうがええよ!」と無茶苦茶な持論へ持ち込む驚異的な展開力。ここまで来るともうすっかりわけがわからないが、でも伊達メガネ掛けてる奴は確かに信用できないような気がしたり、馬の出てくる映画のラストが「馬刺しオチ」だったら間違いなく伝説に残る一本だなと思ったりもして。とはいえ、さすがに釣りキチ三平のたとえはまったくピンと来ないのだが、それでもここまで自信を持って言い切られると、なんだかもう面白くて仕方ない。 つまりこういうのを「痛快」というのだろう。ここでは「禁断」の果てに「痛快」がある。万事につけて手加減がなく、あらゆる言語表現が振り切れた結果としての「痛快」さ。手加減のないものは常に禁ずべき対象と見なされ、実のところ世の中は手加減のおかげでスムーズに回っていたりもするのだが、本当の面白さはそんなスムーズさから外れた場所にこそある。この番組に対する不満は唯一「時間が短すぎること」だけだが、それもすでに聴き手としての禁断症状の一種かもしれない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから文化放送『井筒とマツコ 禁断のラジオ』
大人の死角から真っすぐに繰り出される、子どもたちのスリリングな質問力『夏休み子ども科学電話相談』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 大人の世界では近ごろ頻繁に「ソリューション」なんて言葉がもっともらしく連呼されているが、解決以前にまず「そこにどんな本質的問題があるのか」を見出せなければ話にならない。答えの前には必ず疑問があり、質問がある。そういう意味では「ソリューション」より、「クエスチョン」のほうが偉大だ。今年で30年目を迎える長寿番組『夏休み子ども科学電話相談』(NHKラジオ第1 月~金曜8:05~11:45)をいい大人が聴いていると、つくづくそう思わされる。子どもは「気づき」の天才だ。 いまやネット上であらゆる解決手段が見つかる(本当にそれが解決なのかは別にして)時代だが、この番組は子どもたちと生電話をつなぎ、各分野の専門家の先生方が答えるという古典的スタイルを貫いている。生放送で、相手が子ども、その上表情が見えないという不確定要素の多いこの状況は、自由度の高いラジオの世界でも今どき稀少であり、サプライズ発生率の高さと対話のスリルという意味では、むしろ先鋭的ですらある。 子どもたちの質問の面白さは、何よりもその「角度」にある。見えている世界が同じでも、眺める角度を変えると世界はまったくの別物になる。そしてその想定外の角度は、多くの場合「前提となる知識がない」ことによって生まれている。無知は時にクリエイティブな発想を生む。たとえば6歳の女の子は、「どうして亀は鳴かないんですか?」と質問する。鳴くことよりも、鳴かないことを不思議に思うという発想は、彼女の中に「動物はすべて鳴くものだ」という、知識に基づかない独自の前提条件があることを意味している。「鳴かない動物もいる」と彼女がすでに知っていたら、きっとこんなユニークな質問は出てこないだろう。 加えて子どものすごさは、やはりその発想の異様なストレートさにある。ある少女が発した「ビワの木に砂糖水をあげたら、ビワの実は甘くなりますか?」という問いには、「そういえば、なんでそうじゃないんだろう?」と思わせる不思議な説得力がある。「甘いものを育てるために、甘いものをやる」というのは至極当たり前の発想に思えるが、どうやらそうではなく普通の水をやるべきだということは、みんななんとなく知っている。常識として知ってはいるが、しかし本質的にわかってやっているわけではない。「知っていることを習慣的にやっている」というだけの場面が、人間の生活には少なくない。子どもが真正面に捉えている視野が、大人にとっては死角であるということも珍しくない。この質問には、「知る」ことを「わかる」ことだと勘違いしている大人に警告を発するような、真っすぐな破壊力がある。もちろん質問した本人にそんな意図は微塵もない、というところが微笑ましいのだが。 ほかにも「猿は熱中症にならないのか?」という心優しい問いかけから、「家にあるもので雲を作りたいが、どうすれば作れるのか」という未来の科学者の質問、そして「むかし人間は猿だったと聞いたが、なぜ今いる動物の猿は人間にならなかったのか?」という『猿の惑星』さながらの壮大なクエスチョンに至るまで、大人の価値観に揺さぶりをかけるような鋭い質問が次々と繰り出されてゆく。その一方で、子どもらしい部分も随所に炸裂していて、そんなユルさも番組の大きな魅力になっている。 聴いていてまずドキッとするのは、突如としてすべてに興味を失う瞬間が子どもたちに訪れることで、解答者の先生の口から知らない専門用語が出てくると、彼らは最初の元気な挨拶がまるで別人であったかのように、あからさまにトーンダウンする。そうなると手練の先生方でも状況を立て直すのは難しく、いくら噛み砕いて説明しても、帰ってくるのはとても自分から質問したとは思えない生返事の連続で、しかも話が長くなると子どもがスタミナ切れを起こすという地獄の悪循環が待っている。 もちろん、会話が噛み合わないなんてのは日常茶飯事で、先生が子どもに質問を返すと子どもが突如黙り込んで放送事故寸前になるというのもすっかり定番の事態だ。しかしこれは考えてみれば当たり前のことで、知識レベルも年齢もかけ離れている者同士の間に通用する共通言語を見出すのはひどく難しい。先生方には「専門用語を使わずに専門領域を解説する」という難問が常に課されており、結局のところ最後は理屈ではなく、感覚的に通じ合えるかどうかにかかっている部分もある。考えてみればむしろ、専門用語や共通理解を前提とした普段の我々の対話のほうが例外であって、対話とは本来、共通項という甘えの存在しない場所から立ち上げていくべきものなのかもしれない。 しかし、そういう子どもたちの素直でビビッドな反応は聴いていて本当に楽しく、ラジオという映像のないメディアだと余計に声のトーンや呼吸が如実に伝わるから、ここには普段の大人同士の対話ではあり得ない妙なスリルがあって、一度聴くとどうにも癖になる。しばらく聴いていると、「この子いま先生の質問に焦って『知ってる』って答えたけど、本当は知らないな」なんて知ったかぶりも声のトーンで見抜けるようになってきて、まるでサッカーの試合でも見るように、局面ごとの変化をいちいち楽しめるようになってくる。もちろんそんな楽しみ方は邪道なのかもしれないが、子どもが本来持つ素直さがもたらす想定外の反応は、大人が提示する計画的な「ソリューション」とはまったく別の自由な角度を、いつも我々に突きつけてくる。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHK『夏休み 子ども科学電話相談』
キュウリから原発まで語り尽くす、硬軟自在の吉川ワールド『D.N.A.ロックの殿堂~吉川晃司 Samurai Rock~』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 いま最も格好いい歳の重ね方をしている男のひとりが、吉川晃司だろう。ミュージシャンとしての活躍はもちろん、大河ドラマ『八重の桜』(NHK)の西郷隆盛役から『チョコモナカジャンボ』のCMに至るまで、ある種、ムチャ振りとも思えるキャラクターすら演じてみせる吉川の振れ幅と懐の深さは、ちょっと驚異的ですらある。そしてこの「幅」と「深さ」の両立こそが、吉川の魅力の真髄である。穴を深く掘るには幅が必要であり、幅を保つには深く根差した揺るがぬ軸が必要だ。 『D.N.A.ロックの殿堂~吉川晃司 Samurai Rock~』(JFN系 FM秋田 毎月第4月曜20:00~20:55ほか)は、まさにそんな吉川の「幅」と「深さ」を同時に感じられるラジオ番組である。残念ながら関東では放送されていないが、ポッドキャストで聴くことができる。 番組を聴いてまず驚くのが、その話題の振れ幅の大きさである。「今年はキュウリが大豊作で、毎朝2本ずつ収穫しております」といった趣味の家庭菜園の話や、飼っているメダカやウーパールーパーの話、そして音楽やドラマなど仕事の話はもちろん、震災以降は原発、TPP、消費増税やアベノミクス等の政治的話題に至るまで、吉川のトークは硬軟分け隔てなく自在に展開する。そして、放送初回冒頭で吉川が「自分なりの価値観を話していければ」と語ったように、ジャンケンでグーでもチョキでもパーでもない何かを堂々と繰り出してくるような、吉川独自の価値観があらゆる箇所で思わぬ角度から提示される。 たとえば正月の放送で吉川は、おみくじでは「凶」が好きだと語った。3年連続で「凶」を引いたがいずれも当たり年だった、とのことだが、「俺は名前に『吉』がついてるから、あんまり『吉』がめでたくない。普段からあるから別にいらない」という。なんだかものすごい屁理屈にも思えるが不思議と説得力があって、何より面白い。既存の価値観をそのまま受け入れるのではなく、新たな角度から自分流に解釈するのが吉川流である。彼は「知識をいかに知恵に変換するか」が大事だと語る。「知識は己の身体に一回入れてから頭に戻さないと、知恵には変わらない」と。 またある時は、豪雨の中、ずぶ濡れの人に自分の差している傘を貸してあげるべきだったかどうかと今も悩んでいるというリスナーのメールに対し、吉川は意外な答えを述べる。そのずぶ濡れの人は、雨に打たれることで、何かを洗い流して帰りたかったのかもしれない、と。もちろん、それが正解かどうかは永遠にわからないが、非常に想像力豊かで詩的な発想であり、思い悩む相談者の心も少なからず軽くなったのではないだろうか。 一方で震災や原発について語る際には、「臭いものにはフタをする」この国の政治体質に真っ向から異を唱え、後世に汚名を残すなと警鐘を鳴らす。そしてもちろん、自らも被災地のために具体的な行動を起こしている。 そんな吉川独特の価値観の根底には、彼が歴史から学んだ骨太な人生観がある。吉川は「亡くなったときに初めて人間がひとり完成する」と語り、「死ぬ直前まで夢の途中。旅の途中」だと断言する。さらには、「『人生折り返し地点』という言葉が好きじゃない。折り返してどうすんだよ」と市井の価値観を覆しにかかる。彼が番組内で口にする「朱に交わっても赤にならない」「長いものには巻かれず巻き返せ」「石橋は泳いで渡れ」といった言葉も、吉川が歴史から学び自ら実践してきたこと、あるいは自ら実践したことの答えを歴史の中に見出したものだろう。そしてどんなに真面目なことを語っても、そこにユーモアがあるというのがまさに吉川晃司である。 そもそも価値観というものは、わざわざ振りかぶって提示するものではなく、その人の根底に常に横たわっているものだから、硬軟問わずどんな話題においても必ず見え隠れするはずのものなのだが、それがメディアに乗っかって表れてくるシーンは、残念ながらあまり多くはない。局や番組側の事情によってフィルターをかけられているか、語り手自らがフィルターをかけて過剰防衛しているか、あるいは自分なりの価値観なんてものが語り手に最初からないか。しかしパーソナリティーの価値観が明確にあり、周囲が無駄なフィルターをかけなければ、番組は確実に面白いものになる。もちろんその人選と環境整備が何より難しいのだが、それがラジオ本来の魅力であり、昨今の演出過剰なエンタテインメントが見失いがちな本質でもあるだろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからiTunes Storeより









