今年も例年通りならば、そろそろ大みそかのNHK『紅白歌合戦』の出場歌手が発表される時期を迎えたが、関係者の間で注目されているのは、昨年は落選した演歌歌手の小林幸子が復帰できるかどうかだという。 「昨年春先の“お家騒動”で、長年二人三脚で歩んできた個人事務所の女社長らとケンカ別れ。自ら個人事務所を設立しただけではなく、長年所属していた大手レコ-ド会社『日本コロムビア』からも独立し、レコードレーベルを設立した。『紅白』には“レコード会社枠”があり、ただでさえインディーズでは厳しい上、幸子が袂を分かった女社長をバックアップしていたのは“芸能界のドン”ことバーニングプロダクションの周防郁雄社長。なかなか女社長に頭を下げない幸子に周防氏も怒り心頭で、自らの影響力を最大限に発揮して『紅白』から幸子を締め出した」(芸能デスク) 幸子といえば、長年にわたって、美川憲一との豪快衣装対決が紅白の名物となり、美川が落選後も豪華衣装を披露し続けていたが、昨年ついに落選。今年はすでに動画サービス「ニコニコ動画」の年越し生ライブが決定している幸子、同ライブの会見では紅白の衣装構想を明かし、「(出場は)NHKさんが決めること」と復帰に向けて意欲満々だったが、どうやら今年も復帰はなさそうだという。 「8日に島倉千代子さんが肝臓がんで死去。その際、親交のあった芸能人のコメントが次々と発表された。そんな中、小林はマスコミ各社に直筆のコメントをファクスで送ったが、周防氏がB担と呼ばれる各スポーツ紙のバーニング担当記者に『幸子がコメント出してるらしいけど、来ても紙面に載せるな!!』と指示。翌日のスポーツ紙を見ると、各紙とも掲載を見送り、一部スポーツ紙のネット版にのみ幸子のコメントが掲載されていた。幸子といえば島倉さんとかなり親交が深く、島倉さんも14日の都内で行われる葬儀に来てほしかったはず。ところが、その葬儀で周防氏が友人代表・葬儀副委員長に名を連ねているだけに、幸子は行けるはずがない。またしても周防氏があからさまな“幸子潰し”を行ったことで、まだまだ“お家騒動”が解決していないことを露呈。となると、現時点では今年の紅白出場も絶望的」(レコード会社関係者) スポーツ紙のネット版によると、幸子は「母さんから頂いたおそろいの指輪が宝物です。本当に突然でまだ気持ちの整理がつきません。母さん! ゆっくり休んでください」などとコメントしたが、天国の島倉さんも幸子の今後を案じているに違いない。『小林幸子ベスト・コレクション~演歌篇~』(日本コロムビア)
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故人そっちのけで……島倉千代子さん葬儀で、芸能マスコミは“芸能界のドン”に首ったけ!?
今月8日に肝臓がんのため亡くなった演歌歌手の島倉千代子さんの葬儀・告別式が14日、東京・青山葬儀所で営まれ、関係者やファンら3,000人が最期の別れを惜しんだ。「人生いろいろ」などヒット曲を持つ昭和の大スターの最期を送ろうと集まった芸能マスコミだったが、実は別の「人物」と「団体」に熱視線を送っていたという。 後輩歌手の石川さゆりらが弔辞を読み、およそ2時間かかった葬儀。 「参列者の中には岡田彰布元・オリックス監督ら、芸能界以外からの参列者も多数いました。それだけ影響力が大きい歌手であったというのが、会場の顔ぶれから見ても容易に想像できましたね」(芸能関係者) だが、実は別の人物の登場時に、最も注目度が高まっていたという。 「今回の葬儀の副委員長で友人代表に、“芸能界のドン”バーニングプロの周防郁雄氏の名前が入っており、会場では葬儀をしっかり取り仕切っていました。出棺時には外まで出てきて、故人に手を合わせていたのですが、なんせ高齢ということもあり、近影を撮りたくてもなかなかそのチャンスが少ない芸能関係者の1人。中には『このために取材しに来た』というカメラマンもいたほどです」(在京ワイドショースタッフ) もう1つ、注目度が高かったのは、「大日本新政會」という民族派団体だった。 「最近、周防氏の言動に敏感なこの団体が、彼が葬儀を取り仕切ることを知り、葬儀所前に街宣車を走らせて活動をするという情報が流れていました。実際に登場すれば、それこそ現場は大混乱に陥っていたでしょうが、結果的には1台も来なかった。さすがに島倉さんの最期を邪魔したくないという、人道的な考えになったのでしょうね」(同) 75歳という年齢で最期を迎えた稀代の名歌手の冥福をお祈りしたい。『島倉千代子全曲集2013』(日本コロムビア)
故・島倉千代子さんに合掌──細木数子に“地獄を見せられた”波乱の人生に幕
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす! 「東京だよおっ母さん」や「この世の花」のヒットで戦後の歌謡史を飾り、「人生いろいろ」で庶民を励ました島倉千代子さんが、肝臓がんのため死去、享年75歳だった。 島倉さんといえば、決して忘れられないのは、細木数子女史が絡んだ愛人の借金問題だ。ヒット曲を次々に飛ばして大スターだった島倉さんは、1961年にファンが投げたテープが目に当たって失明寸前に陥った。島倉さんの目を救ったのは当時、五反田で眼科医を開業していたM医師だった。失明の危機を救ってくれたM医師は島倉さんにとっては“命の恩人”。ところが、その感情がいつの日にか愛情に変わっていた。 しかし当時、島倉さんは元阪神タイガースの藤本勝巳内野手と結婚していたために、M医師とは不倫関係に陥った。その後、離婚が成立。島倉さんは、晴れてM医師との関係を深めた。 だが、金のなる木をつかんだM医師は眼科以外の事業に手を出して、失敗。振り出した手形が不渡りになって、2億4,000万円という莫大な負債を抱え、蒸発した。すると、手形の裏書をした島倉さんの元には、連日のように暴力団関係の債権者が押しかけ、激しい取り立てをしたという。ショーが終わって新宿コマ劇場の楽屋を出て車に乗ると、暴力団関係者が車のボンネットの上に乗って嫌がらせをするなど、地獄の日々を送った。 そんな時に島倉さんの前に現れたのが、占い師になる前の細木数子女史だった。2人は「ミュージック・オフィス」という事務所を設立。一緒になって、借金を返済してくれるという細木女史は、島倉さんにとって救世主だった。細木女史と組んだのち、大スターだったため、電車の切符の買い方も知らなかった島倉さんは、借金返済のために電車にも乗って働き続けたという。しかし、働けど働けど、借金は減らず。逆に2億4,000万円が12億円の負債に膨らんだという。 いくら世間知らずの島倉さんでも、おかしいと思ったようだ。一説には、細木女史は愛人だった暴力団組長とグルになって、島倉さんを騙していたともいわれた。騙されたことに気がついた島倉さんは当時のコロムビアレコードの会長に泣きついて、借金を肩代わりしてもらい、細木女史と袂を分かったというのだ。 筆者は、この一件について島倉さんに直接取材したが、島倉さんは「細木さんは、一度はお世話になった方。死んでも真相は話しません」と固く口を閉ざした。 それからしばらくたってから、細木女史が占い師としてデビュー。取材に行った筆者は、細木女史の暴力団組長の愛人について質問したところ、「昔だったら、人別帳に載っていない人」と答えたので、それをそのまま掲載したところ、細木女史から「こんな品性下劣な記者に初めて会った」とお叱りをいただいた。その後、占いなどで暴利をむさぼり続けている細木女史には、その言葉をソックリ返したいと思ったものだ。 細木女史に見なくてもいい地獄を見せられながらも、再起して歌い続けた島倉さんに、あらためて合掌! (文=本多圭)「人生いろいろ」(COLUMBIA)


