日本最大級の過ち「ハンセン病」隔離政策の実態を伝えるミステリー『蛍の森』

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『蛍の森』(新潮社)
 ハンセン病――。それは、らい菌という細菌が原因の感染症で、体の末梢神経が麻痺したり、重症化すると、体が変形していく病。しかし、衛生状態や栄養状態のよい現代の日本では、ほとんど発病することはなく、感染する可能性は限りなくゼロに近い。  日本国家は、かつてハンセン病患者に対し、とんでもない過ちを犯した。明治時代、諸外国から、文明国としてハンセン病患者を放置するべきではない、と非難を浴びると、患者を一般社会から隔離させた。1931年には「らい予防法」という法律を成立させ、警察や保健所がハンセン病患者を見つけると、強制的に療養所へ送り込んだ。これらの一連の働きかけにより、国民は“危険な伝染病”と誤認。ひとたび病気にかかれば、本人はもちろん、家族を巻き込んで村八分にされ、最後には家族にも見放され、孤独に死んでいく、という壮絶な人生を送らざるを得なくなった。  今回紹介する『蛍の森』(新潮社)は、これまでノンフィクション作家として活躍してきた石井光太氏による、初のフィクションだ。「小説新潮」内で2年間連載していた原稿をまとめたもので、テーマは“ハンセン病患者の遍路”である。  四国八十八か所を巡礼するお遍路さんのことは、誰でも知っているだろう。では、“へんど”という言葉は知っているだろうか? この言葉は、乞食やハンセン病患者の遍路を指す蔑んだ呼び方で、彼らは一般的な遍路道ではなく、人目につかない密林に自分たちだけの遍路道を作り、ひっそりと隠れて八十八か所を回った。しかし、彼らの遍路に終わりなどなく、死ぬまで神にすがるような必死の思いで歩き続けたのだ。  石井氏は、大学時代に彼らの存在を知り、足かけ10年以上にわたり、遍路経験を持つハンセン病患者に会いに出かけた。本書は、彼らの話や海外の類似ケースなどをベースに、ハンセン病患者たちが集う香川県高松市の密林で起きた60年前の出来事と、現代の老人3人の謎の失踪事件が交差していくミステリーに仕上げている。  この物語のどこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのかはわからない。けれど、すさまじいまでのリアリティが伝わってくる。 「らいになるってことは、人間として認めてもらえなくなるってことなんだよ。家になんて帰れるはずがねえだろ!」 「生きちゃいけなかったのよ。らい病者っていうのは、この世でのうのうと生きてちゃいけない存在なの。山の中にこもって誰の目にも触れず、最後まで無心で巡礼をしていればいいんだわ」  登場人物から吐き出される言葉は、どれも鋭く心を突き刺す。また、あるハンセン病患者が山から下りて姿を現した時のこと。村人がわらわらと集まり、寄ってたかって暴行を続け、羽交い絞めにして木の棒を目に突き立てた。眼球が垂れ下がり、地べたにはいつくばって苦しむ姿を見て、村人だけでなく、警察官までもが手を叩いて笑っていた……といった残酷な描写は、正直、読んでいて何度も気持ち悪くなる。と同時に、もっと読みたい、という思いが込み上げ、400ページを超える超大作にもかかわらず、最後の1行まで、あっという間に読み切ってしまった。  なぜ、フィクションにしたのか――。最初に疑問が浮かんだが、読み終えて理解した。これは、ノンフィクションにはできない。「らい予防法」が廃止されたのは1996年。まだ20年もたっていない。今も、この平和な日本で、差別の恐怖におののき、一般社会へと出られない人が存在しているのだから。 (文=上浦未来) ●いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争などをテーマに取材、執筆活動を行っている。『物乞う仏陀』(文藝春秋)、『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『遺体』(新潮社)、『地を這う祈り』(徳間書店)、『ルポ 餓死現場で生きる』(ちくま新書など著書多数。

元ハンセン病患者が語る激動の半生とジブリ作品に込められた宮崎駿の想い

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 10年前の3月、新聞各紙に厚生労働大臣・坂口力(当時)の名前である謝罪広告が掲載された。 「ハンセン病患者・元患者に対しては、国が『らい予防法』とこれに基づく隔離政策を継続したために、皆様方に耐え難い苦難と苦痛を与え続けてきました。このことに対し心からお詫び申し上げます」  この前年、小泉純一郎内閣総理大臣(当時)によって、政府はハンセン病国家賠償請求訴訟判決への控訴棄却を決定。国は正式にハンセン病に対して、これまで取ってきた政策の誤りを認めることとなった。1996年に「らい予防法廃止法」が施行されるまで、感染を防止するという名目で、隔離政策が推進されてきたハンセン病。しかし、その原因となるらい菌の感染力はとても弱く、日常生活を共にしても感染するような病気ではない。国や医学界は昭和20(1945)年代にその事実を知りながらも、隔離政策を推奨する「らい予防法」を1996年まで存続させてきたのだ。  厚生労働大臣の謝罪から10年。ハンセン病を取り巻く状況はどのように変化しているのか。東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館に佐川修氏を訪ねた。  ハンセン病療養所「多磨全生園」に併設されている国立ハンセン病資料館。この施設の立ち上げから精力的に活動を行い、現在でも語り部としてその悲劇を語り継いでいる佐川氏は今年83歳。自身も元ハンセン病患者であり、国や法律に振り回された半生を送った。  ハンセン病に罹患すると、末梢神経障害と皮膚症状を併発し、顔面や手足にひどい変形を生じさせることもある。14歳からハンセン病患者として、隔離施設の中で生きてきた佐川氏。病気自体は完治しているものの、今でも後遺症の影響で右手が動くことはない。 R0030967.jpg 「ハンセン病というだけで、これまで罪人のような目で見られてきました。古来より禍々しい病気として敬遠され、仏教の教えでも、過去には『前世で悪いことをしたからハンセン病になった』と伝えられていたんです」  とくに身体が変形してしまう症状が人々に恐れられ、ハンセン病は特別な偏見の目で見られてきた。 ■「ハンセン病の大ボス」御用学者の影響力  ハンセン病の特効薬である「プロミン」は1943年に開発された。日本でも、1949年に使用が開始され、不治の病ではなくなっている。では、いったいなぜハンセン病の問題は50年にわたって放置されてしまったのだろうか? そこには、ある学者の影があるという。 「光田健輔(1876〜1964年)という学者が、日本のハンセン病治療にとても大きな影響力を持っていたんです。彼が強制隔離政策や優生政策(患者に対する断種・不妊手術)を推進しました。さらに、彼の弟子にあたる人々が各地の療養所の所長などの立場になり、ハンセン病治療の現場を牛耳ってきた。光田先生が亡くなり、彼の影響力が弱まってから、ようやく隔離政策をはじめとするハンセン病治療に対する議論が活発になったんです。彼は、まさにハンセン病の大ボスのような存在ですね」  冗談めかして語る佐川氏だが、その眼光は鋭い。  現在では、らい予防法は廃止され、ハンセン病国家賠償請求訴訟にも勝訴、社会の無理解から解放されたハンセン病患者や元患者たち。メディアにその名前が登場することもなく、ハンセン病はすでに“終わった”病気であるとされている。そんな認識に対してもまた、佐川氏は深いため息をつく。 「表面的にはハンセン病の問題は解決されたことになっていますが、いまだに根強く偏見は残っている。小学校の先生が怪談として『ハンセン病患者が墓場を掘り起こす』という話を子どもたちに聞かせていたこともあったし、ホテルで元患者の宿泊が拒否される事件もあった。とんでもないことです」  もちろん、佐川氏自身もそんな偏見の被害者だった。 「でも、僕は比較的大丈夫なほうだった。いわれのない差別には言い返すから、そうすると相手が黙っちゃうんです」  闊達な口調で言い返す佐川氏の姿は頼もしい。しかし、そんな佐川氏ですらも、いまだに心の傷が癒えない差別を経験した。 「私たち夫婦には子どもはいませんが、かつて一度だけ子どもができたことがあります。けれども、療養所の職員から『あなたたちは産まないほうがいい』と言われ、堕ろさなければならなくなった。堕ろした後、看護婦さんから『男の子でしたよ』と言われました。その子どもが生きていたら、もう50歳以上。その後妻は、子どもができないように不妊手術を受けさせられました」 R0030948.jpg  ハンセン病患者の遺伝子を残さないために、国は患者たちに対して強制的に不妊治療を受けさせた。しかし、ハンセン病は遺伝するものではない。ましてや、佐川氏のこのエピソードも、特効薬が開発された後の時代だ。生まれてくることのなかった子どもたちもまた、ゆがんだハンセン病政策の被害者だった。 ■ハンセン病問題に取り組む宮崎駿  このハンセン病の問題に対し、別の角度から意識を持って取り組んでいる意外な人物がいる。スタジオジブリの宮崎駿だ。『千と千尋の神隠し』(2001)や『もののけ姫』(1997)などで、ハンセン病患者と思われるキャラクターを登場させている宮崎氏は、資料館にも足繁く通っており、佐川氏とも懇意にしている。 「普通に見たらわからないかもしれませんが、包帯でぐるぐる巻きの描写や、名前を取られてしまうといった設定はハンセン病患者そのものなんです。宮崎さんは記念碑や保育園を作ったときにもここに来ていただきましたし、寄付をいただいたこともあります。周囲に子どもがいるとサインをねだられて大変なんですよ」  力強いサポーターの存在を武器に、ハンセン病に対する偏見に取り組む佐川氏。宮崎氏のほかにも国会議員をはじめとする要人と交渉しながら、これまで数万人以上の人々にハンセン病の現状を訴え続けてきた。  では、そんな半生を、佐川氏はどのように思っているのだろうか? 「ハンセン病になったこともひとつの試練だったんだと思います。この病気になったから、いろいろな人とも知り合うことができ、活発に活動することが出来ました。子どもがいて、平凡な人生を送っていたらどうなってたかな……。考えないこともないけど、いまさら考えても仕方ないです」  現在、多磨全生園では260人の入所者が暮らしている。平均年齢は現在84歳。およそ、あと20年もすぎればハンセン病の記憶は日本から消えていくだろう。だが、このままハンセン病を終わらせていいのだろうか。はたして、ハンセン病から日本の社会は何かを学ぶことができたのだろうか。その半生のほとんどを偏見にさらされた佐川氏は多磨全生園の自治会長として、とてもつつましい願いを語る。 「現在残っている患者たちの終焉を見届けるつもりです。みんなが安心して生活をし、穏やかに死んでいけるよう、自治会長として頑張っていきたいですね」  そのささやかな願いを勝ち取るために、佐川氏をはじめ、ハンセン病患者や元患者たちは想像を絶するほどの戦いを強いられてきた。ハンセン病の存在を隔離政策によって無視してきたように、その苦闘の歴史をわれわれはまだ直視できていないのではないだろうか。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●さがわ・おさむ 1929年、東京都生まれ。国立ハンセン病資料館運営委員。10代よりハンセン病療養施設に入所し、現在も多磨全生園に生活する。語り部として、自身の経験を講演しながら、これまでに数万人へハンセン病への理解を呼びかけている。2006年4月から多磨全生園入所者自治会会長。
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