なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

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『ベケットといじめ』(白水uブックス)
 滋賀県大津市で中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺をした事件は、連日多くのニュース番組で報道されている。生徒を守るはずの存在である教育委員会や学校側の不手際、「いじめ」という言葉ではくくれないほど凄惨な事件の内容は、社会に衝撃をもたらしている。  大津市の事件では生徒へのアンケートなどから「葬式ごっこ」といういじめが発覚したが、これは、1986年に起こったいじめ自殺事件「中野富士見中学校いじめ自殺事件」でも行われていた手口であった。そして、この中野富士見中学の事件を、繊細な手つきで分析したのが、日本を代表する劇作家である別役実だ。  野田秀樹、鴻上尚史、松尾スズキら後発の劇作家たちに対して多大な影響を与えた別役実。ネットユーザーならば、デイリーポータルZなどでも執筆するイラストレーターのべつやくれいの父といえばピンとくるだろうか。彼が中野富士見中学の事件を手がかりに、日本の社会構造を分析した『ベケットと「いじめ」』(白水uブックス)を読むと、25年以上前に出版された本ながら、まるで大津市のいじめ事件のことを書いているように錯覚してしまう。  中野富士見中学校の事件も、生徒による被害者への日常的な暴行、教師たちの保身、そして「葬式ごっこ」と、大津市の事件と酷似している。中野富士見中学で自殺したSくんは、机の上に自分の写真や、担任教師までもが参加した寄せ書き、線香までしつらえられた「葬式ごっこ」の現場を目の当たりにしながら、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑った。  また、遺書には「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉に続き、「オレが死んだからって、他のやつが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君たちもばかなことをするのはやめてくれ」と綴られている。  このいじめ自殺の深層を分析するにあたって、別役が参照するのが、不条理演劇の大家として『ゴドーを待ちながら』などの作品を執筆したサミュエル・ベケットだ。  簡単に、不条理演劇について解説しよう。  19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。  「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。  では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?  その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。  「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。  劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。  例えば、大津市の事件において「どうして逃げなかったんだ」という疑問の声が聞かれる。けれども、いじめの当事者たちは、主体的に行動する「個人」ではなく、「関係性のなかの『孤』」であるのだから、「逃げる」という主体的な選択ができない。だから、「逃げろ」というアドバイスは届くことがない。同様に「いじめをやめろ」という言葉も響くことはないだろう。  では、いじめを止める方法はないのだろうか? 『ゴドーを待ちながら』の登場人物たちが永遠に来ることのないゴドーを待ち続けなければならなかったように、ひとたびいじめの構造が生まれたら、誰もそこから逃れることはできないのだろうか?  別役は2007年に、『ゴドーを待ちながら』の後日譚として、『やってきたゴドー』という作品を執筆している。タイトル通り、ゴドーがやってきて「ゴドーです」と名乗るこの作品。しかし、待ち続けていたはずの男たちは、「わかっています」と言うだけで、どうしても待ち焦がれていたゴドーとの出会いを喜ぶことはできない。この作品を通して、別役は僕らを縛り付けて、がんじがらめにしている関係性は、ひどく無意味なものであると宣言しているように感じる。  この25年間、いくら「いじめはいけない」と声高に叫んでも、学校の中からいじめがなくなることはなかった。別役の劇をヒントに取り、いじめを止める方法を考えるならば、「いじめる―いじめられる」という関係の“先”を見せることで、当事者たちに関係そのものの無意味さやバカバカしさを気づかせることではないか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●べつやく・みのる 1937年、旧満州(現・中国東北部)生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。戯曲『象』(62年)で注目され、『マッチ売りの少女』(66年)と『赤い鳥の居る風景』(67年)で岸田国士戯曲賞を受賞。2007年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊國屋演劇賞受賞。

なぜいじめはなくならない? 劇作家・別役実がひもとく、いじめ自殺の不条理な深層

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『ベケットといじめ』(白水uブックス)
 滋賀県大津市で中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺をした事件は、連日多くのニュース番組で報道されている。生徒を守るはずの存在である教育委員会や学校側の不手際、「いじめ」という言葉ではくくれないほど凄惨な事件の内容は、社会に衝撃をもたらしている。  大津市の事件では生徒へのアンケートなどから「葬式ごっこ」といういじめが発覚したが、これは、1986年に起こったいじめ自殺事件「中野富士見中学校いじめ自殺事件」でも行われていた手口であった。そして、この中野富士見中学の事件を、繊細な手つきで分析したのが、日本を代表する劇作家である別役実だ。  野田秀樹、鴻上尚史、松尾スズキら後発の劇作家たちに対して多大な影響を与えた別役実。ネットユーザーならば、デイリーポータルZなどでも執筆するイラストレーターのべつやくれいの父といえばピンとくるだろうか。彼が中野富士見中学の事件を手がかりに、日本の社会構造を分析した『ベケットと「いじめ」』(白水uブックス)を読むと、25年以上前に出版された本ながら、まるで大津市のいじめ事件のことを書いているように錯覚してしまう。  中野富士見中学校の事件も、生徒による被害者への日常的な暴行、教師たちの保身、そして「葬式ごっこ」と、大津市の事件と酷似している。中野富士見中学で自殺したSくんは、机の上に自分の写真や、担任教師までもが参加した寄せ書き、線香までしつらえられた「葬式ごっこ」の現場を目の当たりにしながら、「なんだ、これー」「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑った。  また、遺書には「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉に続き、「オレが死んだからって、他のやつが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君たちもばかなことをするのはやめてくれ」と綴られている。  このいじめ自殺の深層を分析するにあたって、別役が参照するのが、不条理演劇の大家として『ゴドーを待ちながら』などの作品を執筆したサミュエル・ベケットだ。  簡単に、不条理演劇について解説しよう。  19世紀から20世紀初めにかけて書かれた近代劇は、「誰が」「どうして」「何をするか」を重視する。近代劇の代表作として知られるイプセンの『人形の家』を例に取れば、「主人公の女性であるノラが」「社会性に目覚め」「人間として独立していく」までを描き、あらすじもとても明確だ。しかし、1950年代から登場した不条理演劇では、登場人物や、その人物が持つ感情も、とても曖昧なものとなっている。人間は、はっきりと意識的に自らの行為を選び取っているわけではない。そのような視点から描かれた『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという誰だかわからない人物をただずっと待ち続けるという不明瞭なストーリーだ。  「葬式ごっこ」の現場で、近代劇であれば「どうしてこんなことをするんだ」「誰がやったんだ」というセリフが発せられなければならない、と別役は語る。だが、自殺したSくんが発したのは「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と、状況を説明する言葉。それは、もしも劇中のセリフだったらば、あまりにも“下手”なセリフといえるだろう。あるいは遺書にしても同様だ。彼が語るのは、いじめのつらさではなく、彼をいじめていた人々に対する忠告である。別役は「追い詰められて死んでしまったという場合に感じられるはずの肉声のようなものが聞こえてこない」と疑問を呈する。  では、いったいなぜSくんは、そのような言葉しか持っていなかったのだろうか?  その原因を、別役は「個人」としての主体が独立しておらず、「関係性のなかの『孤』」という自我しか存在していないことに求める。主体的に行動する個人ではなく、対人関係の中でしか自分を認識できず、それゆえに関係性に従いながらでしか行動することができない「孤」。近代から現代へと以降する過程で、その変化は徐々に起こっていった。とくにネットが浸透し、SNSをはじめ匿名の空間に関係性だけが肥大化していく現在において、「関係性の中の『孤』」という認識はもはや当たり前のものとなっているだろう。  「関係性のなかの『孤』」だから、Sくんの「主体的な」肉声が聞こえてくることはないし、葬式ごっこに直面しても憤ることはない。現在の言葉で言い換えるならば「空気を読んで」その状況を説明する言葉しか発することができなかった。もしかしたら、加害者側も、自分が行っている行為が「暴行」や「恐喝」といった、「主体的な行動」であるとは思っていないかもしれない。このいじめの関係性から抜け出すために、Sくんという孤は自殺という方法を選んだ。  劇作家である別役は、中野富士見中学の事件を指して「ドラマがない」という。それは、『ゴドーを待ちながら』の登場人物が、受動的に待つだけで、徹底的に「ドラマがない」ことと共通している。  例えば、大津市の事件において「どうして逃げなかったんだ」という疑問の声が聞かれる。けれども、いじめの当事者たちは、主体的に行動する「個人」ではなく、「関係性のなかの『孤』」であるのだから、「逃げる」という主体的な選択ができない。だから、「逃げろ」というアドバイスは届くことがない。同様に「いじめをやめろ」という言葉も響くことはないだろう。  では、いじめを止める方法はないのだろうか? 『ゴドーを待ちながら』の登場人物たちが永遠に来ることのないゴドーを待ち続けなければならなかったように、ひとたびいじめの構造が生まれたら、誰もそこから逃れることはできないのだろうか?  別役は2007年に、『ゴドーを待ちながら』の後日譚として、『やってきたゴドー』という作品を執筆している。タイトル通り、ゴドーがやってきて「ゴドーです」と名乗るこの作品。しかし、待ち続けていたはずの男たちは、「わかっています」と言うだけで、どうしても待ち焦がれていたゴドーとの出会いを喜ぶことはできない。この作品を通して、別役は僕らを縛り付けて、がんじがらめにしている関係性は、ひどく無意味なものであると宣言しているように感じる。  この25年間、いくら「いじめはいけない」と声高に叫んでも、学校の中からいじめがなくなることはなかった。別役の劇をヒントに取り、いじめを止める方法を考えるならば、「いじめる―いじめられる」という関係の“先”を見せることで、当事者たちに関係そのものの無意味さやバカバカしさを気づかせることではないか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●べつやく・みのる 1937年、旧満州(現・中国東北部)生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。戯曲『象』(62年)で注目され、『マッチ売りの少女』(66年)と『赤い鳥の居る風景』(67年)で岸田国士戯曲賞を受賞。2007年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊國屋演劇賞受賞。