明石家さんまとは漫才ブームの時に何回か飲みに行ったけど、最近は行かんね。当時はさんま、あんまり飲まなかったからね。 それに、みんな、自分の世界をつくる。先輩と飲みに行ったら、せこせこせなあかんからね。自分は自分でいたいんやと思う。芸は明るくて面白い。島田紳助がいなくなってから、あの明るさとトークが余計、際立ちますね。 紳助と比べると、さんまの明るさはカリフォルニア。紳助は演歌っぽい。涙を流す番組も作るし、ジャパンやね。さんまはとことん明るい。人にインタビューして涙を流す番組はやりませんもん。頼んでもたぶんやらないと思う。紳助はホントに涙を流す、感情が激しいから、ジーンとくるんですよ。 タモリさんとは付き合いはありませんが、フジテレビの『笑っていいとも!』の前の番組『笑ってる場合ですよ!』の司会をやっていたのはボクなんですよ。タモリさんの芸はお笑い芸人の芸とは違う。テレビの中のお笑い。テレビ芸。だから、30年以上もやれたんやと思います。すごいですよ。あの人だからやれるんですよ。漫才師は、あれじゃ物足らんもんね。わしらは一生懸命、笑わそうとするから、持たない。お笑い芸人は「司会どうぞ」と言われたら、自分がしゃべらないと損するみたいにしゃべる、だから飽きられる。 その点、タモリさんは淡々としてる。人にやらせて見てる。だから、年数をやれたと思いますよ。その余裕が長続きの秘訣だと思います。さんまもそうですが、芸人は自分が笑かさないと気が済まないからね。 紳助は兄弟弟子ですから、引退後も「嫁共々、元気にやっています」というようなメールは来ますよ。引退前は、紳助がいるときに大阪のミナミの寿司屋や東京の寿司屋にも遊びに行きましたけどね。 あいつ、一人っ子だから寂しがり屋なんですよ。引退して沖縄にいた時も、周りに人がたくさんいたみたいですが、常に周りに誰かがいないと落ち着かない。わかりますよ。近所のお山の大将みたいなもんですよ。 ああいうことになってしまったことは仕方ないけど、お笑いとしては、もったいない。これだけは、ほんま、そう思いますわ。 紳助にはもう一度、芸能界に戻ってきてほしい。あそこまで作り上げたネタで人を笑わせているんですよ。あんなヤツおらん。俺とは上下関係ですから、俺の前では「ハイ」としか言いませんけど、すごいヤツですよ。 うちのカミさんが日本テレビの『行列のできる法律相談所』に出た時も、カミさんを「姉さん」、ボクには「兄さん」。「兄さん、食事に行きましょう、先輩なんやからおごってくださいよ」。紳助のほうが稼いでいてもそうです。かわいいですよ。あいつの性格は子どもっぽいし、変わりませんよ。 あれから1年間、誰が紳助の代わりをやるのかテレビを見てましたが、誰もおらん。最近になって誰かが見つかった。それは私です、アハハ。冗談ですよ。誰かがしゃべらなあかん。年寄りから子どもまで、みんなにわかりやすい番組ができればいいですね。 俺らは物のない時代に生まれてきて、ネタが豊富。今の30代の若手は裕福な時代に生まれてきてるから、ネタがないのかなぁ。番組でやっていることは、楽屋受けが多い。だから、大人が若手の芸人を見ない。わからないからですよ。自分たちだけがどこの派閥やとか、この間、誰それとメシを食いに行ったとか言われても。 特に漫才師は基本コンビでしょ。それぞれの名前を知っている大人は少ないですよ。先日、某売れっ子漫才師に新幹線で会ったんですよ。コンビ名は知っているけど、個人はどっちがどっちかわかりませんよ。芸を披露する、寄席番組がないからですよ。寄席番組を作ろうとしたら、ものすごい数のネタがいる。年に1回くらいならいいけど、1週間に1度だったら、それだけのネタをやれる芸人はいませんよ。 演歌のヒット曲が少なくなってほかのものに変わっていくみたいなもんで、今はお笑いも変わっていっている。最近、第2次お笑いブームが終わりだといわれているけど、絶対、なんかできたら違うもんが来る。 漫才ブームで売れている時に一瞬、このまま行くと思いましたよ。でも、マスコミが最近、漫才は面白くないと言ったらホントに面白くなくなっていたことに気づく。マスコミのほうが早いですよ。マスコミはお客さん目線や視聴者目線で書くから当たってますよ。 誰か紳助に司会をやらせて――。 今の若手のお笑いは気の毒。ボクなんか、がばいばあちゃんに育てられたから、62歳まで生きてこられた。今の時代だからこそ70歳の人の話を聞かなきゃダメですよ。 ばあちゃんの家に預けられてよかったですよ。あんだけお金がなくて、7人も子どもがいて、子どもが大きくなったと思ったら私を預かって、平気だもん。普通だったら、7人育て上げたら、孫を預かるのは嫌だと思うでしょ。でも、うちのばあちゃんは7人も8人も一緒だから連れてこいと。それで広島から母親に佐賀に連れていかれた。明るいばあちゃんでね。学校から帰って、腹へったと言うと、気のせいやと言うんです。 私も子どもだからそうかなと思うでしょ。それでテレビもラジオもないから、外に遊びにいこうとすると、外に遊びにいくと腹がへると言う。なら、どうしたらいいの? と聞く。寝なさい。寝なさいといってもまだ夕方の4時半。冬なんか日が落ちるのが早いから4時半に寝てましたよ。なかなか、朝が来ない。寝ても寝ても夜中、寝るのは力仕事でしたよ。 やっと朝が来て、ばあちゃん、朝ご飯と言うと、昨日食べたやないかと。素晴らしいばあちゃんでしたよ。普通だったら悲しい顔をして孫に対して今日はご飯がないと言う。つらくなりますよ。ばあちゃんは全部、笑いながらでしたね。 あとは学校に行って、給食ですよ。当時の給食はまずかったらしい。とくに脱脂粉乳のミルク。クラスの55人の半数は飲まない。そのおかげで余っていたミルクを7~8人分飲んでいた。昔はわかりやすかった、ガリガリの子は貧乏人の子どもだった。割と裕福な子どもはふっくらしていた。俺は貧乏人の子どもだけどふっくら、反比例していた。ミルクのおかげです。近所歩いてもよく、いいとこの子かなと言われた。だから、楽しかった。 お金がないところに幸せがあるとばあちゃんは言ってたけど、ほんまでっせ。8年間、お世話になって、母ちゃんのところに帰れる日が来て、ばあちゃんに俺みたいなアホはこれから人生どうなるのかと聞いたら、ものすごく笑いながら、アホはそんなことに気づかないから大丈夫と言われた。気づかないままの62歳。 ばあちゃんに育てられたからこそ、人を笑かすことができるんやと思いますわ。 『北野演芸館』(TBS系)見たけど、温かい。温かいから芸人は自由にやっている。その点、なんとかグランプリね、審査員席に文化人やわけのわからないアイドルが座って偉そうに言ってるけど、アンタに言われたくないですよ。 お笑いの審査員はお笑いがやらな。相撲を見に行って、審判席に野球選手が座っていますか。プロ野球の実況中継でも歌手が解説に加わって「ヘタな捕り方ですね」と言ったら、怒りたくなるでしょ。 で、何をやりたいかというと、大人のトークショーですね。ゲストで一番当たっている人を呼んでもいいし、何十年も前に当たった人も呼んでいい。いろんな話をして懐かしいと悲しますんじゃなくて、笑かしたい。ショーですね。ゲストひとりを笑かす。例えば、黒柳徹子さんや美輪明宏さんみたいな知的な人から、あまり笑うイメージのない沢尻エリカさんなどでも自信がありますよ。 たけしにも言われたけど、ボクの人生はビックリするくらい変化がある。それに、何もなくて生まれてきたから全部捨てても気にならん。地位とかもいらんし。よくテレビで見てますよと言われても、うれしくない。もうこだわっとらんもん。 ただ、最近になって、お笑いはこうじゃないかと思い始めた。紳助がいなくなったからですよ、何か物足らん。若手の芸人たちが食べる番組をやっているでしょ。本心じゃないと思う。テレビ局は強いから、こういう番組をやりたいと言われたら断れない。仕方なくやっているかもね。本当は違うことで笑かしたいんだと思う。 昔、『オレたちひょうきん族』に出演していたんですよ。プロデューサーが「実力がある人は残るのよ。ない人は消えるのよ」と言ったんです。ボクに直接言わんとマネジャーに言えと伝えたんで、ケンカして降りたんです。ヘタということですもん。 最後に電話がかかってきて「洋七さん、もう1回、出てください」と言ってきましたよ。世の中、ケンカはある。でも、2~3分で忘れる。ボクはそんなに気にしない。 今はただ、面白い番組を作りたいなと思ってます。 (企画・構成=本多圭) ●しまだ・ようしち 1950年、広島県生まれ。本名・徳永昭広。広陵高校出身。1975年に島田洋八と漫才コンビ「B&B」を結成し、ツービート、紳助・竜介とともに「漫才ブーム」を牽引した。
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【島田洋七“がばい”独占手記/第2回】次長課長・河本準一の“生保不正受給”騒動は「情けない!」
吉本興業の後輩・河本準一の生活保護の不正受給問題。情けないですわ。私が小さいときなんか、がばいばあちゃんがあんだけ苦労して生活保護なんか受けてないんですよ。 とりあえず、昔の人は働こうとしか思わなかった。うちのばあちゃんは44歳でじいさんを亡くしたとき、7人の子どもがいた。生活保護も何もなかった。7人きょうだいで、長女がうちの母親なんです。「これから先どうするの?」と近所の人のほうが心配する。ばあさん、くるっと振り返って「今から寝ます」と言ったらしい。 なんでそんなことを言ったのか聞いたら、「死んですぐに、そんなこと考えられるわけがない。頑張るんは私なんや」と。河本にも聞かせてやりたいですわ。 北野武の映画『アウトレイジ 最終章』が10月に公開されるけど、ボクにはたけしが映画監督と言われてもピンと来ん。たけしとは“漫才ブーム”で売れる前から、亡くなった横山やすしさんの紹介で知り合って、仲良くなりました。でも、いまだに照れ屋だから、電話でも恥ずかしそうに用件だけ言ってすぐ切っちゃうもん。「じゃーな」って。 たけしとやった1時間のショクナイ(業界用語で内職)の漫才はスリルがありましたよ。 漫才ブームが去った直後でしたよ。ボクが、ある保険会社に頼まれたんです。それまで歌手でやってたけど、ギャラが高すぎる。それに歌手も飽きたということで「漫才で1時間持ちますかね」と相談されたんです。 で、「たけしとどうですか?」と言ったんですよ。そしたら向こうが、「そりゃ無理でしょ」と言いましたよ。でも、やらなしょうがないとたけしに言ったんです。酒を飲んでいる時に「金はともかく、それじゃ行ってみっか」ということになって、3回行きましたよ。 忙しいたけしがショクナイで営業を行っているとは誰も思いませんよ。ギャラはたけしが相方のビートきよしさんに遠慮して言わなかったけど、1時間なんてやったことはなかった。ボケも突っ込みもありません。お互いボケと突っ込みですよ。ボクは田舎もんをバカにするネタ。たけしは下ネタは言いませんからね、得意な毒舌で1時間。会場は大爆笑でしたよ。今までで一番スリルがありましたね。1時間ですよ。今の若手は3分か5分。俺らを見習えって。 やっていて、たけしの記憶力は抜群だと思いましたね。漫才やりながら「昔、このネタ、10年くらい前やったよな」と。普通、10年前のネタ、忘れまっせ。彼ははっきりと覚えている。すごいと思いましたね。 たけしは映画を作ったり絵を描いたり多才ですが、彼にはお笑いの脳がある。頭の中は7割がお笑いですよ。だから、映画監督と言われてもピンと来ない。 そのたけしだって「フライデー事件」を起こした時は、あんなに強気な発言をしていたけど、「俺、漫才をできるかな」と弱気になった時もありました。石垣島の砂浜で、海の水が膝まで満ちてくるのも忘れて話しました。 マスコミの目がうるさいし、暖かいところがいいやろと沖縄の石垣島に行ったんですよ。芸能人って、事件を起こすと関わり合いになりたくないから、付き合うのをやめる人が多いでしょ。ボクの場合は売れる前からの友だちですからね。 ひとりじゃ寂しいだろうと思って、石垣島に何度も行きましたよ。強気な発言をしてましたが、裁判の判決を待っている時でしたからね。砂浜に座りながら「俺、刑務所に行くんやろか」と話してましたよ。「もし、懲役になったら、しょっちゅう面会に来いよ」と言うから、「そんなところ、しょっちゅう行けんやろ」と言いましたよ。「冷たい」と言うてたけど。 やっぱりビビッてたんですよ。ワイドショーで裁判所に入っていく時の顔と、執行猶予の判決が出て、出てくる時の表情はまったく違ってましたからね。紺のスーツに、カッターシャツ。実刑が決まれば、そのまま刑務所行きですからね。真剣な顔でしたよ。 石垣島では砂浜に海水がだんだん満ちてきて、膝の上までつかるまで気がつかないくらい話しましたよ。「もし、刑務所に入ったら、お笑いなんかできなくなる。どうしようかな」と言ってました。「もし、北野武という人間が芸能界からいなくなるんだったら、俺だってやめて広島か佐賀に帰る」と言いましたよ。 フライデー事件が終わった後にバイク事故でしょ。あの頃は3~4年に1回、何かありましたね。よく「死にたい」と言ってましたね。バイク事故から4年後に2人で会った時に、「ボチボチ何かやらな」と言ったら、たけしが「アホか、おまえがせい」って言うから「俺、別にすることないもん」言うたけど。 時々、人のせいにする。 TBSの『ニュースキャスター』で“洋七伝説”なんてコーナー作って勝手なことを言ってますが、自分がやったことを俺がやったことにしている。よく友だちが自分でやりながら人のせいにするのと同じですよ。 たけしとは漫才ブーム直後、2人で銀座で遊びましたよ。2人ともお客さんに連れて行ってもらったことはあったけど、自腹は初めて。たけしが、銀座には月に200万円稼ぐホステスが5~6人いるという週刊誌の記事を、1軒200万円かかると勘違いして、お互い2,000万円抱えて銀座に行きました。 8丁目のクラブ「G」というところに行きましたよ。入り口で「カバンを預かりましょ」と言われましたけど、「大金が入っているからいいです」と断ったら、変な目で見られました。 店に入っても、安いところばかりで飲んでいるから落ち着かない。20分たった頃にママを呼んで、「今、帰ったらいくらですか?」と聞いたんです。「クラブは一緒です」。それでも心配だから、また20分くらいたってから、ママを呼んで「今、帰ったらいくらですか?」と聞いたら、「普段、どんなところで飲んでんですか?」と聞かれましたよ。時間制の安いところと言ったら、「クラブは関係ない、1時間半はいてください」と言われて安心しました。 たけしが「洋七、こういうところで寿司を頼むと金持ちに見えるぞ」と言うんで、ボーイを呼んで、ホステスたちの分も含めて5人前頼んだんです。また、ボーイを呼んでたけしはほかの客にも聞こえる声で、「いま頼んだ寿司は並じゃなく、上、上」と連発したんです。そしたら、ピアノを弾いていた黒人が「お呼びですか?」と来た。その人、ジョーという名前だったんですよ。「あなたじゃなくて寿司の上」と言って戻ってもらいました。 ボトルを入れる時も大変でした。ボクら高い酒は飲まんから、ボトルの名前もようわからん。当時、レミーマルタンというブランデーがはやっていた。たけしに「レミー知ってるか?」と聞いたら「レミーなんてねえちゃん知らねぇよ」と言う。店のボーイが「ヘネシーはどうですか?」と言ったらたけしは「ヘネシーって外人は知らねえな」。仕方なくサントリーのリザーブを頼んだら、ないと言われた。当時、日本のウイスキーはクラブに置いてなかったんです。 2人で割り勘でしたが、13万円。30年以上前ですが、ママが安くしてくれたんでしょうね。あんなきれいな人がぎょうさんいるとは思いませんよ。安かったですよ。それに「サインしてくれ」と言うホステスもいませんしね。 佐賀のスナックだったら大変ですよ、じいさんばあさん、軽四輪に乗せて「ほら、洋七、来てッとばい」。家からじいちゃんばあちゃん、連れてくるなって。 (続く/企画・構成=本多圭) ●しまだ・ようしち 1950年、広島県生まれ。本名・徳永昭広。広陵高校出身。1975年に島田洋八と漫才コンビ「B&B」を結成し、ツービート、紳助・竜介とともに「漫才ブーム」を牽引した。
【島田洋七“がばい”独占手記/第1回】「消えた」と言われて……講演会年200本!
弟弟子の島田紳助がいなくなってから、若手のお笑いが司会をやってるけど、うまくないね。紳助がネタを練りに練り上げて、相手に放り投げて笑いを取ろうとしたのに、若手は相手が失敗したのを突っ込むだけ。ネタを増やそうとしない。だから、飽きられる。 紳助が辞めて、若手よりさんまの番組のほうが視聴率がいいでしょ。若手より、さんまのほうが相当おもろいもん。 わいも、もう一度、司会やトークショーをやって笑わしたいと、5年前の8月から“美女軍団”を擁する「オスカープロモーション」に移籍したんです。お笑いの連中の間では「どうやって、オスカーにもぐり込んだんだ?」って。米倉涼子や上戸彩、美女モデルが6,000人以上いる。そりゃ話題にもなりますよ。わいはこれまで、吉本興業しか知らんしね。辞めて4年。東京のお笑いのプロに移ったとしても、何も変わらん。お笑いじゃないところのほうが、新鮮なネタができる。新しい学校に転校したみたいで、ドキドキしてますわ。自分でビックリするような変化。普通、わいみたいな人生ないんとちゃいますか。 親友の北野武(ビートたけし)が『佐賀のがばいばあちゃん』(徳間文庫)が売れた時に、「洋七、上がって、落ちて、上がって、落ちて、3回目はベストセラー作家かよ。オイラも本を出しているけど、こんなに売れない。600万部だろ、想像がつかないよ」と言ってましたよ。 初めは自費出版ですよ。それが徳間書店に持ち込んだら、単行本として出版してくれた。売れただけでもすごいと思ったのに、『がばいばあちゃん』シリーズは600万部以上売れた。それだけじゃない。レコードも出て、テレビドラマ化。我が人生が映画化、それに舞台化もされたんです。こんなことってない。 ところが、吉本を辞めてから1~2年テレビに出んかったら、「アカン、消えた」と言われる世界。テレビ出演の話もあったんですが、立ち消えのケースが多かった。 5年前までは、講演会ばかりやっていたんです。多い時で年間200本。講演会の依頼は日本一でしたよ。この間、原発の被災地の福島県に講演に行ったんです。その日で4,311カ所目だと言ったら、お客さんは驚いてましたよ。講演回数はダントツの日本一ですからね。 吉本興業を辞めてから約10年、テレビにはほとんど出ませんでしたが、講演会の依頼は多い時は200本。銀行や保険会社、いろんな企業からありますよ。テーマは「がばいばあちゃんと今のボク」とか「楽しい老後の過ごし方」「人生楽しく生きるのは当たり前」とかね。震災で福島が3回、岩手も。この間は福島のある団体の婦人部から「とにかく、笑かしてくれ」という依頼があって行ってきました。 オール女性というのはいい。ちょっとくたびれているけど、女性ばかりだと笑いの反応が違う。これが男ばかりだと、なかなか笑わないんで苦労する。男はなんで暗いのかね。特に50、60、70歳。何か面白いことを言っても「へへへ」。笑ったら損やと思っとんのやろね。以前、男ばかり1,300人の前でやったことがあった、どこの会社とは言わないけど、ある大きな建設会社。暗い。 その点、女性は明るい。婦人部の講演会で一番受けたのは「『ひとつになろう日本』というなら、日本の人口の1億2,000万人が福島に行ってみんなで深呼吸しよう」と。「そうなれば放射能が薄くなる」と言ったら、爆笑してましたね。 あと、福島に旅行に行って帰りに、みんながガレキを5キロずつ背負って帰るとか。「みんなが背負って帰ったらなくなりますよ」と言ったら、拍手喝采でしたよ。それを自治体が「ガレキはいらん」とか「受け入れられない」とか、意味がわからんですよ。ガレキ、ガレキと言ってますが、普通のガレキと違うんですよ。いろんな人が犠牲になった、魂が入ったガレキなんですよ。本当なら、全国の市町村が「うちがやる」と言わな。ワイドショーを見ていたら、赤ちゃんを連れた35~36歳くらい主婦が「赤ちゃんに何かあったらどうするんですか?」って。おまえの顔がどうするんですか、アホかと思いましたよ。 私は広島出身だからわかります。広島は原爆を落とされたんです。その5年後に私は生まれた。元気ですよ。起きたことは仕方がないけど、やっていることがワケわからん。一番腹が立ったのは、家に帰ってはダメな区域がありますよね。そこに泥棒が入るって最低ですよ。ああいう区域に泥棒に入ったら、普通の罪の10倍と国が言ったらよかった。 そういう決断が遅すぎますよ。 福島に3回、講演に行って感じたことは、何万人もの方が犠牲になられてわかったことが、いっぱいあったということです。とにかく、ずさんな管理をやっている。国会議員の頭の悪さがものすごくわかりましたよ。 私は大企業の講演にも行くんです。生保とか自動車メーカー。大きな企業の研究室に行ったら東大、早稲田と高学歴の人ばかり。その人たちがはっきり言ってましたよ。「頭のいい人は国会議員にならん」と。「頭のいい人は、何十年も働ける大きな会社の研究室に行く」と。だから、国会議員はアホばかりと言ってました。 菅直人元総理、辞めてからすぐに四国に行かんで、なんで福島に行かないのか。鳩山由紀夫元総理も福島に行かないで、なんでイランに行くの? イランに行っていらんと言われた。なんの成果もない。飛行機で行って帰ってくるだけで、何百万の金がかかっている。よう、わからんですわ。 電力会社もそうですわ。何万人もの犠牲者を出して、なんでボーナス5回分先に取らないかんの。そんなアホな話、どこにある。ボーナスなんて儲かってからでしょ。それをボーナスのお金を入れて電気代値上げするんですよ。 福島に講演に行った時に、乗ったタクシーの運転手が「福島県民は非常に我慢強いから、何も言わないけど、胸の中ではいろいろ思っているだろう」って。私も頑張りますと言ったら、「洋七さんは余計なことを考えないで、笑かしてください」と言われましたけど、でも、そういう話は避けて通れないですよ。 (続く/企画・構成=本多圭) ●しまだ・ようしち 1950年、広島県生まれ。本名・徳永昭広。広陵高校出身。1975年に島田洋八と漫才コンビ「B&B」を結成し、ツービート、紳助・竜介とともに「漫才ブーム」を牽引した。
【島田洋七“がばい”独占手記/第1回】「消えた」と言われて……講演会年200本!
弟弟子の島田紳助がいなくなってから、若手のお笑いが司会をやってるけど、うまくないね。紳助がネタを練りに練り上げて、相手に放り投げて笑いを取ろうとしたのに、若手は相手が失敗したのを突っ込むだけ。ネタを増やそうとしない。だから、飽きられる。 紳助が辞めて、若手よりさんまの番組のほうが視聴率がいいでしょ。若手より、さんまのほうが相当おもろいもん。 わいも、もう一度、司会やトークショーをやって笑わしたいと、5年前の8月から“美女軍団”を擁する「オスカープロモーション」に移籍したんです。お笑いの連中の間では「どうやって、オスカーにもぐり込んだんだ?」って。米倉涼子や上戸彩、美女モデルが6,000人以上いる。そりゃ話題にもなりますよ。わいはこれまで、吉本興業しか知らんしね。辞めて4年。東京のお笑いのプロに移ったとしても、何も変わらん。お笑いじゃないところのほうが、新鮮なネタができる。新しい学校に転校したみたいで、ドキドキしてますわ。自分でビックリするような変化。普通、わいみたいな人生ないんとちゃいますか。 親友の北野武(ビートたけし)が『佐賀のがばいばあちゃん』(徳間文庫)が売れた時に、「洋七、上がって、落ちて、上がって、落ちて、3回目はベストセラー作家かよ。オイラも本を出しているけど、こんなに売れない。600万部だろ、想像がつかないよ」と言ってましたよ。 初めは自費出版ですよ。それが徳間書店に持ち込んだら、単行本として出版してくれた。売れただけでもすごいと思ったのに、『がばいばあちゃん』シリーズは600万部以上売れた。それだけじゃない。レコードも出て、テレビドラマ化。我が人生が映画化、それに舞台化もされたんです。こんなことってない。 ところが、吉本を辞めてから1~2年テレビに出んかったら、「アカン、消えた」と言われる世界。テレビ出演の話もあったんですが、立ち消えのケースが多かった。 5年前までは、講演会ばかりやっていたんです。多い時で年間200本。講演会の依頼は日本一でしたよ。この間、原発の被災地の福島県に講演に行ったんです。その日で4,311カ所目だと言ったら、お客さんは驚いてましたよ。講演回数はダントツの日本一ですからね。 吉本興業を辞めてから約10年、テレビにはほとんど出ませんでしたが、講演会の依頼は多い時は200本。銀行や保険会社、いろんな企業からありますよ。テーマは「がばいばあちゃんと今のボク」とか「楽しい老後の過ごし方」「人生楽しく生きるのは当たり前」とかね。震災で福島が3回、岩手も。この間は福島のある団体の婦人部から「とにかく、笑かしてくれ」という依頼があって行ってきました。 オール女性というのはいい。ちょっとくたびれているけど、女性ばかりだと笑いの反応が違う。これが男ばかりだと、なかなか笑わないんで苦労する。男はなんで暗いのかね。特に50、60、70歳。何か面白いことを言っても「へへへ」。笑ったら損やと思っとんのやろね。以前、男ばかり1,300人の前でやったことがあった、どこの会社とは言わないけど、ある大きな建設会社。暗い。 その点、女性は明るい。婦人部の講演会で一番受けたのは「『ひとつになろう日本』というなら、日本の人口の1億2,000万人が福島に行ってみんなで深呼吸しよう」と。「そうなれば放射能が薄くなる」と言ったら、爆笑してましたね。 あと、福島に旅行に行って帰りに、みんながガレキを5キロずつ背負って帰るとか。「みんなが背負って帰ったらなくなりますよ」と言ったら、拍手喝采でしたよ。それを自治体が「ガレキはいらん」とか「受け入れられない」とか、意味がわからんですよ。ガレキ、ガレキと言ってますが、普通のガレキと違うんですよ。いろんな人が犠牲になった、魂が入ったガレキなんですよ。本当なら、全国の市町村が「うちがやる」と言わな。ワイドショーを見ていたら、赤ちゃんを連れた35~36歳くらい主婦が「赤ちゃんに何かあったらどうするんですか?」って。おまえの顔がどうするんですか、アホかと思いましたよ。 私は広島出身だからわかります。広島は原爆を落とされたんです。その5年後に私は生まれた。元気ですよ。起きたことは仕方がないけど、やっていることがワケわからん。一番腹が立ったのは、家に帰ってはダメな区域がありますよね。そこに泥棒が入るって最低ですよ。ああいう区域に泥棒に入ったら、普通の罪の10倍と国が言ったらよかった。 そういう決断が遅すぎますよ。 福島に3回、講演に行って感じたことは、何万人もの方が犠牲になられてわかったことが、いっぱいあったということです。とにかく、ずさんな管理をやっている。国会議員の頭の悪さがものすごくわかりましたよ。 私は大企業の講演にも行くんです。生保とか自動車メーカー。大きな企業の研究室に行ったら東大、早稲田と高学歴の人ばかり。その人たちがはっきり言ってましたよ。「頭のいい人は国会議員にならん」と。「頭のいい人は、何十年も働ける大きな会社の研究室に行く」と。だから、国会議員はアホばかりと言ってました。 菅直人元総理、辞めてからすぐに四国に行かんで、なんで福島に行かないのか。鳩山由紀夫元総理も福島に行かないで、なんでイランに行くの? イランに行っていらんと言われた。なんの成果もない。飛行機で行って帰ってくるだけで、何百万の金がかかっている。よう、わからんですわ。 電力会社もそうですわ。何万人もの犠牲者を出して、なんでボーナス5回分先に取らないかんの。そんなアホな話、どこにある。ボーナスなんて儲かってからでしょ。それをボーナスのお金を入れて電気代値上げするんですよ。 福島に講演に行った時に、乗ったタクシーの運転手が「福島県民は非常に我慢強いから、何も言わないけど、胸の中ではいろいろ思っているだろう」って。私も頑張りますと言ったら、「洋七さんは余計なことを考えないで、笑かしてください」と言われましたけど、でも、そういう話は避けて通れないですよ。 (続く/企画・構成=本多圭) ●しまだ・ようしち 1950年、広島県生まれ。本名・徳永昭広。広陵高校出身。1975年に島田洋八と漫才コンビ「B&B」を結成し、ツービート、紳助・竜介とともに「漫才ブーム」を牽引した。
『しくじり先生』島田洋七が語らなかった“吉本退社”全真相「事実上のクビだった」
その昔、漫才ブームで一世を風靡。2004年に出版された自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』(徳間書店)が累計600万部を超す大ベストセラーになりながらも、テレビ界から消えていた漫才コンビ「B&B」の島田洋七が、7月18日に放送されたトークバラエティ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に登壇。事務所移籍4回、コンビ解消6回、副業失敗、参議院選落選と、しくじり人生を面白おかしく語って爆笑を誘った。 番組では詳しく語らなかったが、洋七と約30年来の付き合いがある筆者から見るに、彼の一番のしくじりは、『がばいばあちゃん』ヒット後の吉本興業からの退社だったのではないかと思わざるを得ない。 デビュー当時、吉本に所属していた洋七は1975年に島田洋八とB&Bを結成し、東京に進出。80年代前半は、ビートたけしの「ツービート」と並んで漫才ブームを牽引し、たけしと共にお笑い界の頂点に立った。洋七はたけしと気が合ったようで、お互い相方ではなく、2人でコンビを組んで営業のアルバイト、業界用語でいう“ショクナイ”で荒稼ぎした。当時、2人の営業ギャラは1日700万円ともいわれていた。洋七は銀行に金を預ける時間もないほど忙しく、東京の千駄ヶ谷に借りていたアパートの押し入れに札束を積んでいたという。 2人はショクナイで稼いだ金で、憧れの夜の銀座デビューを果たした。 「たけしがどこかの週刊誌の記事を勘違いして、銀座では1回店に入ると2,000万円かかると思い込んでいた。それを真に受けて、お互い2,000万円抱えて、銀座のクラブに行きました。入り口で店員が『バッグを預かります』と言うけど、2,000万円入っている、もし取られでもしたらと思って『いいです』とバッグを抱えながら店内に入って行ったら、相当怪しまれましたよ」と、洋七は当時を述懐する。 「普段から高い酒を飲まんから、ボトルの名前もわからん。当時、レミーマルタンというブランデーがはやっていた。たけしに『レミー知ってるか?』と聞いたら、『レミーなんてねえちゃん、知らねえな』と言う。店のボーイが『ヘネシーはどうですか?』と言ったら、『そんな外人は知らねえな』。そんなギャグみたいなやりとりをしてたし、安いところばかりで飲んでいるから落ち着かない。ママに、盛んに『いま帰ったら、いくらですか?』と聞いて、『時間は関係ない。金額は一緒です』と言われた。勘定は2人で13万円でした。ママが気の毒に思って、まけてくれたみたいですね」(同) その後、たけしが“フライデー襲撃事件”を起こして逮捕され、芸能活動謹慎に追い込まれた。 洋七は「たけしがフライデー事件を起こしたでしょ。マスコミの目がうるさいし、暖かいところがいいやろと、(たけしは)沖縄の石垣島に行ったんですよ。芸能人って、事件を起こすと関わりたくないから、付き合うのをやめる人が多いでしょ。僕の場合は売れる前からの友達ですからね。一人じゃ寂しいだろうと思って、石垣島に何度も行きましたよ。芸能界やめようかなと、弱気な発言もしていました。『北野武という人間が芸能界からいなくなるんだったら、俺だって、広島か佐賀に帰る』と言いました」と語っていた。石垣島で2人の友情がさらに深まったことは想像に難くない。 その後、たけしは復帰。お笑いだけでなく、映画監督としても“世界のキタノ”と呼ばれるようになった。一方、洋七の仕事は激減。副業に手を出すようになった。埼玉県の所沢でラーメン店を開業するも失敗。その後、悪い人間に誘われて、静岡県の伊豆で温泉民宿を始めようとしたが、肝心の温泉が出ずに、だまされて失敗。その後、たけしと後輩の明石家さんまに反対されながらも、六本木に「ゲイ(芸)バー」をオープンした。店に入って来たたけしは、着物を着てオカマに扮した洋七を見て、「ヤメロ! バカヤロー。恥ずかしいじゃねえか。早く、化粧を取れ。金に困っているなら金をやるから、こんな恥ずかしいことはヤメロ!」とマジ切れしたという。さんまはさんまで「兄さん、情けないです。やめなはれ」と止めた。しかし、洋七はやめなかった。 筆者も仕方なく、店に何本かボトルをキープして、銀座のクラブのママやホステスたちをアフターで連れて行った。ところが、関西から客として暴力団関係者が大挙して押しかけ、店はわずか2カ月足らずで閉店した。副業もしくじった洋七だったが、その後、出版した自叙伝が600万部超す大ベストセラーになって、講演会で全国を飛び回る日々が続いた。 洋七は『しくじり先生』で、「がばいは自費出版だったのを新聞記事で見た徳間書店が飛びついて、全国発売した」と語っていたが、真相は違う。自費出版したものの、どこの書店も相手にしてくれなかった洋七から「出版社を紹介してくれ」と頼まれた筆者が、徳間書店の書籍部長を東京プリンスホテルで紹介。前年に徳間から出版された、筆者がプロデュースした『ビートたけしの黙示録』がヒットした実績を買われて、徳間が出版を承諾したというのが真相だ。しかし、大ベストセラー作家になったにもかかわらず、その後、洋七にはテレビ局からオファーがなくなり、お茶の間から姿を消した。 デビュー当時、洋七は吉本に所属していたが、漫才ブームで大ブレークした時は、吉本とは関係がない東京の事務所だった。ブームが去って仕事が激減したことで、吉本に出戻った。ところが『がばい~』の出版印税をめぐって、吉本の上層部と衝突。当時、吉本の副社長だった大崎洋社長が激怒していたのを記憶している。 表向きは契約切れということで退社したが、事実上のクビだった。その後、テレビ局からオファーがなくなった。たとえオファーがあったとしても、出演が実現することはなかった。現在、洋七は大手のオスカープロモーションと契約しているが、キー局の番組に出づらくなっているという状況は変わらない。吉本のパワー、恐るべしだ。しかし、洋七の親友のたけしが「洋七のしゃべくりにかなうお笑い芸人はいない」と絶賛するように、彼はしゃべくりの天才だ。『しくじり先生』への登壇を機に、再起することを期待したい。 (文=本多圭)島田洋七オフィシャルブログ「洋七の庭」より
芸能界復帰への動きも……? “盟友”島田洋七が明かす、島田紳助の現在

ビートきよしをオフィス北野に──ビートたけしの“優しさ”を島田洋七が明かす
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
ビートたけしの親友で元「B&B」の島田洋七から、「たけしは、ほんま、優しいな、きよしさんもよかった」と、たけしの相方のビートきよしの「オフィス北野」入りを素直に喜ぶ電話がかかってきた。
長期にわたって活動休止状態のお笑いコンビ「ツービート」のビートきよしが、たけし所属の「オフィス北野」に4月1日付で所属。約30年ぶりにコンビが完全復活すると報道された。
ツービートから出発したたけしが、お笑い界の重鎮と呼ばれ、映画界では“世界のキタノ”といわれるまでの過程には、タレント生命を賭したフライデー襲撃事件、生死の境をさまよったバイク事故などの試練をかいくぐってきた生き様があった。
一方、たけしがピンで売れたため、きよしは「太田プロ」から独立して、フリーに転身。一時は役者を目指して俳優の事務所に所属したが、生まれついての山形訛りが直らず、仕事は来なかった。その後、元「B&B」の島田洋八と「うなずきトリオ」を組むが、これもまた、うまくいかなかった。
生活に困るきよしを見かねて、たけしは、『菊次郎の夏』ほか、北野作品に出演させたり、自身の特番には事あるごとに起用してきた。去年の秋頃、たけしは筆者に「きよしさんがメチャメチャ、ゴルフがうまいんだよ。おいらがパターが入らないと、『タケちゃん、考えて打たなきゃダメだよ』だって。『お前には言われたくないよ。漫才やってた時、考えたことあったのか?』と言ってやったよ」と、うれしそうに語っていた。
ゴルフを通じて、きよしと再び密接になったたけしは、去年の暮れに「オフィス北野」にきよしを誘ったという。
洋七は「きよしさんの生活が大変だということがわかって、誘ったんだと思いますよ。たけしという男は、そういう優しい男なんですわ」と感激していた。
たけしは2011年から、フジテレビの『THE MANZAI』の最高顧問を務めている。今年の「東京スポーツ映画大賞」の授賞式では、同番組の審査の在り方をボロクソに批判したたけし。今年は同番組に、ツービートとしてチャレンジすることも明らかにしているだけに、今から期待したい。また、その話を聞いた洋七は「たけしがツービートを復活させたんなら、『B&B』ももう一度やらなあかんな」と意欲を燃やしていた。洋七のしゃべくりのスピードは、今の若手のお笑いが束になってかかってもかなわない面白さがある。しかも、洋八ではなく、たけしが相方だとさらに絶妙なコンビになる。
昔、たけしと洋七のコンビが、職内(内職)で2時間トークして、2人で700万円のギャラを稼いだという話は十分納得できる。ツービートやB&Bの復活もいいが、たけし&洋七の漫才も、みんなの前で聞かせてほしい。
(文=本多圭)
「紳助の後を継ぐのは自分」オスカー移籍の島田洋七が若手芸人たちに宣戦布告!

島田洋七公式サイトより
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
以前、当コラムでも紹介した通り、「オスカープロモーション」に移籍が決定した元人気漫才コンビ「B&B」の島田洋七に久しぶりに会って、話す機会があった。
洋七は07年8月に吉本興業を契約終了で退社して以降、テレビへの露出がパタッと消えた。真相は、洋七の大ベストセラーになった『佐賀のがばいばあちゃん』の印税の配分をめぐって、吉本と意見が対立。クビ同然で辞めたことで、テレビの制作側から敬遠されていたのだ。この5年間、洋七は『佐賀のがばいばあちゃん』を舞台化。地方で公演する傍ら、年200本近い講演会をこなしていたという。
洋七によれば、これまでの講演数は4,000回以上。「ダントツで日本一やと思う」と豪語する。しかし、弟弟子の島田紳助が引退した後の若手のお笑い芸人たちの芸の稚拙さを見て、もう一度お笑いをやりたいという気持ちが芽生え、既存のタレントとの軋轢が多くなるお笑いに強いプロダクションではなく、お笑い部門を強化中のオスカープロを選んだようだ。オスカー移籍について、「新しい学校に転校したみたいでドキドキしている」と言う。
洋七のお笑いの才能は、ビートたけしが認めていたほど。2人にまつわるエピソードも多い。
洋七は、“漫才ブーム”の前に故・横山やすしさんからたけしを紹介されて、彼と付き合うようになった。ブームで売れて、大金が入った洋七とたけしは、お互い2,000万円を抱えて、初めて銀座の高級クラブに遊びにいった時の豪快なエピソードを語ってくれた(これについては後日、報告する)。さらに、たけしの“フライデー事件”の裁判中に、たけしがマスコミの目を避けるために沖縄の石垣島に逃避行した際、洋七が頻繁に訪ねて、砂浜で延々と語り合い、潮が満ちて、膝が水に浸かるのに気づかないほどだったという思い出話も、今回初めて語ってくれた。芸能界において、年下の洋七がたけしを呼び捨てにするのは、こういった深い結びつきがあったからだ。また、ブームが去った直後に、保険会社から「演歌歌手はギャラが高いし、それにもう飽きた。漫才だけで1時間、ショーをできないか」と相談を受け、ダメ元でたけしに話したら「やってみっか」となって、2人で1時間の漫才の営業を3日間やったこともあったという。「1時間でっせ。一番スリルがありましたよ。今の若手のお笑いは3分。長くて5分。見習えってーの」と意気軒昂だ。
ほぼ即興で、1時間も漫才ができるお笑いは、今でもたけしと洋七しかいないかもしれない。それだけに、洋七の本格復帰で、2人の漫才が復活することを期待したい。たけしに洋七がオスカープロに移籍したことを伝えると、「洋七のしゃべりにかなうやつはいない、応援しなきゃな」と言ってくれた。
洋七は「紳助が抜けた後、紳助の後を継ぐヤツが現れん。だけど、やっと見つけた。それは私です」と自信をチラつかせた。浮き沈みの激しい芸能界で洋七は3度、上がったり、落ちたりを経験してきた。4度目のチャレンジに注目したい。
(文=本多圭)
「もう一度、本当のお笑いブームを」島田洋七にオスカー移籍で巡ってきた“最後のチャンス”

『転起力。―人間「島田洋七」から
何を学ぶのか』
(創英社/三省堂書店)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
人気お笑いコンビの元「B&B」の島田洋七が、8月1日付で“美の総合商社”として、6,000人以上のタレントやモデルを抱えるオスカープロモーションに移籍した。洋七の盟友であるビートたけしは「洋七のしゃべりはオイラより面白い」と日ごろから絶賛していただけに、洋七のオスカー移籍によるテレビ界への復帰は、閉塞感漂うお笑い界に新たな刺激を与えてくれるのではないか、と筆者は期待している。
「B&B」はデビュー当初、吉本興業所属だったが、退社して上京。日本テレビ系の『お笑いスター誕生!!』に出演し、洋七のパワーとスピード感あふれる漫才は審査員を圧倒して、初代グランドチャンピオンとなった。その後、ビートたけしの「ツービート」らと80年代に漫才ブームを興して、一世を風靡。ツービートとはライバル関係のようにも見えたが、たけしが起こした「フライデー事件」をきっかけに、2人の関係は親密になった。事件後の謹慎中、マスコミの目を逃れて沖縄の石垣島に潜伏していたたけしのもとを、洋七が頻繁に訪ねて励ましたことから、2人の関係はお互い“戦友”と呼ぶほど親密なものになったのだ。
その後、漫才ブームが去った後に、筆者はたけしと親しかったこともあり、洋七との接点も増え、個人的にも付き合うようになった。3人で銀座のクラブをハシゴして、お姉ちゃんを口説いたこともあったが、仕事が減少した洋七は試行錯誤を重ねた末に、吉本に出戻った。
その頃だったろう。筆者は以前から、洋七から自費出版していた自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』をどこかの出版社に売り込んでくれないかと相談されていたため、徳間書店で出せるようにプロデュースした。すると『がばいばあちゃん』はジワジワと火がつき、まさかの大ベストセラー。シリーズ累計600万部を超えて、出版不況に苦しむ徳間書店を救った。笑い話になるが、あの時は洋七を助けるつもりで見返り抜きに徳間を紹介したが、なぜちゃんと徳間とプロデュース印税契約しなかったのかと悔やまれてしょうがない(笑)。
『がばいばあちゃん』はその後、映画やドラマ、それに舞台化もされた。ところが、このヒットが吉本との関係に亀裂を生じさせた。「ほかの芸人の手前もあるから、たとえ1円でもいいから、吉本に本の印税を入れてくれないか」という吉本の要望を洋七が拒絶したことで関係が悪化し、07年8月に契約終了という形で吉本を去った。その後、洋七のもとにはテレビ制作会社から仕事のオファーが来るものの、途中で「企画内容が変わった」とキャンセルが相次ぎ、テレビの仕事がない状態が5年以上続いていた。要するに、洋七は吉本に干されていたのだ。
そんな厳しい状況が続いている時に、筆者が「オスカーに移籍したら」と勧めた。洋七は、初めは冗談だと思ったらしいが、オスカーの古賀誠一社長が快く会ってくれるということで面談、移籍が決定した。オスカーはお笑い部門を設立したものの、お世辞にも軌道に乗っているとはいえない。大ベテランの洋七を、お笑い部門の牽引役にしたかったということもあるだろう。
一方の洋七も「お笑いについては、今の若手には絶対負けないという自信を持っている」と豪語し、「本当のお笑いブームを復活させる」と意気込む。たけしが太鼓判を押すように、洋七のしゃべりにかなうお笑いタレントは、そうそう見当たらない。その洋七に最後のチャンスを与えてくれたオスカーの古賀社長の懐の深さに、改めて感謝したい。
(文=本多圭)
「もう一度、本当のお笑いブームを」島田洋七にオスカー移籍で巡ってきた“最後のチャンス”

『転起力。―人間「島田洋七」から
何を学ぶのか』
(創英社/三省堂書店)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
人気お笑いコンビの元「B&B」の島田洋七が、8月1日付で“美の総合商社”として、6,000人以上のタレントやモデルを抱えるオスカープロモーションに移籍した。洋七の盟友であるビートたけしは「洋七のしゃべりはオイラより面白い」と日ごろから絶賛していただけに、洋七のオスカー移籍によるテレビ界への復帰は、閉塞感漂うお笑い界に新たな刺激を与えてくれるのではないか、と筆者は期待している。
「B&B」はデビュー当初、吉本興業所属だったが、退社して上京。日本テレビ系の『お笑いスター誕生!!』に出演し、洋七のパワーとスピード感あふれる漫才は審査員を圧倒して、初代グランドチャンピオンとなった。その後、ビートたけしの「ツービート」らと80年代に漫才ブームを興して、一世を風靡。ツービートとはライバル関係のようにも見えたが、たけしが起こした「フライデー事件」をきっかけに、2人の関係は親密になった。事件後の謹慎中、マスコミの目を逃れて沖縄の石垣島に潜伏していたたけしのもとを、洋七が頻繁に訪ねて励ましたことから、2人の関係はお互い“戦友”と呼ぶほど親密なものになったのだ。
その後、漫才ブームが去った後に、筆者はたけしと親しかったこともあり、洋七との接点も増え、個人的にも付き合うようになった。3人で銀座のクラブをハシゴして、お姉ちゃんを口説いたこともあったが、仕事が減少した洋七は試行錯誤を重ねた末に、吉本に出戻った。
その頃だったろう。筆者は以前から、洋七から自費出版していた自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』をどこかの出版社に売り込んでくれないかと相談されていたため、徳間書店で出せるようにプロデュースした。すると『がばいばあちゃん』はジワジワと火がつき、まさかの大ベストセラー。シリーズ累計600万部を超えて、出版不況に苦しむ徳間書店を救った。笑い話になるが、あの時は洋七を助けるつもりで見返り抜きに徳間を紹介したが、なぜちゃんと徳間とプロデュース印税契約しなかったのかと悔やまれてしょうがない(笑)。
『がばいばあちゃん』はその後、映画やドラマ、それに舞台化もされた。ところが、このヒットが吉本との関係に亀裂を生じさせた。「ほかの芸人の手前もあるから、たとえ1円でもいいから、吉本に本の印税を入れてくれないか」という吉本の要望を洋七が拒絶したことで関係が悪化し、07年8月に契約終了という形で吉本を去った。その後、洋七のもとにはテレビ制作会社から仕事のオファーが来るものの、途中で「企画内容が変わった」とキャンセルが相次ぎ、テレビの仕事がない状態が5年以上続いていた。要するに、洋七は吉本に干されていたのだ。
そんな厳しい状況が続いている時に、筆者が「オスカーに移籍したら」と勧めた。洋七は、初めは冗談だと思ったらしいが、オスカーの古賀誠一社長が快く会ってくれるということで面談、移籍が決定した。オスカーはお笑い部門を設立したものの、お世辞にも軌道に乗っているとはいえない。大ベテランの洋七を、お笑い部門の牽引役にしたかったということもあるだろう。
一方の洋七も「お笑いについては、今の若手には絶対負けないという自信を持っている」と豪語し、「本当のお笑いブームを復活させる」と意気込む。たけしが太鼓判を押すように、洋七のしゃべりにかなうお笑いタレントは、そうそう見当たらない。その洋七に最後のチャンスを与えてくれたオスカーの古賀社長の懐の深さに、改めて感謝したい。
(文=本多圭)



