「あのとき、イスで殴らなければ……」ブラックジャック・マリガンと浜口京子をめぐる不思議な縁

hamaguchi0417
「彼がいなかったら、浜口京子は存在していなかった!」  アメリカの人気プロレスラーの死に、日本の古いプロレス関係者から意外な話が飛び出た。4月7日(現地時間)、アメリカのプロレス団体「WWE」が伝えた往年の元レスラー、ブラックジャック・マリガンことロバート・デロイ・ウィンダムの死。最近は心臓発作で入院していたというマリガンさんは73歳だったが、プロレス関係者の口からはレスリング選手「浜口京子」との意外な接点が明かされたのだ。  マリガンさんは元アメリカンフットボール選手で、1967年にプロレスラーに転向。身長2メートル、黒いカウボーイハットと口ヒゲで西部劇のスタイルで人気となり、たびたび来日もしていた。70年12月に初来日したときのことを、当時存在した団体「国際プロレス」の元関係者が証言した。 「マリガンは台東区体育館(現・台東リバーサイドスポーツセンター)で行われたラッシャー木村とオックス・ベーカー(ともに故人)の金網デスマッチで、ベーカーのセコンドに付いていたんだけどね、ベーカーが劣勢になると金網の中にパイプイスを投げ入れて加勢したんだよ。ベーカーがそれで木村の左足を殴って、複雑骨折させてしまった。試合後、木村は浅草の病院に入院していたんだけど、黙って寝ていられなくて、後輩のアニマル浜口を連れて行きつけの小料理店へ行った。そこにいた看板娘が、浜口の現在の奥さま、初枝さん。浜口が彼女にひと目惚れして結婚、後にレスリングの五輪メダリストとなる京子ちゃんが生まれたってわけ。つまり、マリガンがあのとき金網にイスを投げていなければ、京子ちゃんはこの世に生を受けていなかったのさ」  マリガンはその後、全日本プロレスでジャイアント馬場と、新日本プロレスでアントニオ猪木とも対戦。母国でもWWA世界ヘビー級王座を奪取するなど活躍し、80年代からは人気団体WWF(現WWE)にも出場。息子のバリー・ウインダム、ケンドール・ウインダムもレスラーになったが、90年にそのケンドールとドル札の偽造で逮捕され、2年間の懲役刑を受けた。再び表舞台に出たのは2006年、WWEの殿堂入りで姿を見せたことだった。 「日本で成功したスタン・ハンセンの指南役で、ハンセンのカウボーイキャラもマリガンにならったものといえる。ストリートファイトではプロレス最強といわれた。だって、ケンカが強いことで知られたブルーザー・ブロディですら『一番強いのはマリガンだ』と言っていたんだから。治安の悪い場所で試合したときに5~6人の不良を片手で叩きのめしたなんて話も聞いたし、控室で起こったレスラー同士のいざこざを腕力で片付けたこともあったんだ」(同)  現在は孫にあたるブレイ・ワイアットとボー・ダラスがWWEで活躍しているから、親子3代のプロレス一家を率いていたことになる。38歳になる京子の進退には、両親が「現役続行か結婚か」で意見が割れていると週刊誌に報じられていたが、関係者は「京子ちゃんが結婚して子どもをレスラーにすれば、マリガン同様、親子3代のアスリートになるんだけどね」と話している。 (文=片岡亮/NEWSIDER Tokyo)

「あのとき、イスで殴らなければ……」ブラックジャック・マリガンと浜口京子をめぐる不思議な縁

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「彼がいなかったら、浜口京子は存在していなかった!」  アメリカの人気プロレスラーの死に、日本の古いプロレス関係者から意外な話が飛び出た。4月7日(現地時間)、アメリカのプロレス団体「WWE」が伝えた往年の元レスラー、ブラックジャック・マリガンことロバート・デロイ・ウィンダムの死。最近は心臓発作で入院していたというマリガンさんは73歳だったが、プロレス関係者の口からはレスリング選手「浜口京子」との意外な接点が明かされたのだ。  マリガンさんは元アメリカンフットボール選手で、1967年にプロレスラーに転向。身長2メートル、黒いカウボーイハットと口ヒゲで西部劇のスタイルで人気となり、たびたび来日もしていた。70年12月に初来日したときのことを、当時存在した団体「国際プロレス」の元関係者が証言した。 「マリガンは台東区体育館(現・台東リバーサイドスポーツセンター)で行われたラッシャー木村とオックス・ベーカー(ともに故人)の金網デスマッチで、ベーカーのセコンドに付いていたんだけどね、ベーカーが劣勢になると金網の中にパイプイスを投げ入れて加勢したんだよ。ベーカーがそれで木村の左足を殴って、複雑骨折させてしまった。試合後、木村は浅草の病院に入院していたんだけど、黙って寝ていられなくて、後輩のアニマル浜口を連れて行きつけの小料理店へ行った。そこにいた看板娘が、浜口の現在の奥さま、初枝さん。浜口が彼女にひと目惚れして結婚、後にレスリングの五輪メダリストとなる京子ちゃんが生まれたってわけ。つまり、マリガンがあのとき金網にイスを投げていなければ、京子ちゃんはこの世に生を受けていなかったのさ」  マリガンはその後、全日本プロレスでジャイアント馬場と、新日本プロレスでアントニオ猪木とも対戦。母国でもWWA世界ヘビー級王座を奪取するなど活躍し、80年代からは人気団体WWF(現WWE)にも出場。息子のバリー・ウインダム、ケンドール・ウインダムもレスラーになったが、90年にそのケンドールとドル札の偽造で逮捕され、2年間の懲役刑を受けた。再び表舞台に出たのは2006年、WWEの殿堂入りで姿を見せたことだった。 「日本で成功したスタン・ハンセンの指南役で、ハンセンのカウボーイキャラもマリガンにならったものといえる。ストリートファイトではプロレス最強といわれた。だって、ケンカが強いことで知られたブルーザー・ブロディですら『一番強いのはマリガンだ』と言っていたんだから。治安の悪い場所で試合したときに5~6人の不良を片手で叩きのめしたなんて話も聞いたし、控室で起こったレスラー同士のいざこざを腕力で片付けたこともあったんだ」(同)  現在は孫にあたるブレイ・ワイアットとボー・ダラスがWWEで活躍しているから、親子3代のプロレス一家を率いていたことになる。38歳になる京子の進退には、両親が「現役続行か結婚か」で意見が割れていると週刊誌に報じられていたが、関係者は「京子ちゃんが結婚して子どもをレスラーにすれば、マリガン同様、親子3代のアスリートになるんだけどね」と話している。 (文=片岡亮/NEWSIDER Tokyo)

“絶対王者”吉田沙保里はなぜ生まれたか──日本レスリング界の強さの秘密を探る『日本レスリングの物語』

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『日本レスリングの物語』(岩波書店)
 日本中が沸いたロンドン五輪で、日本選手団は7個の金メダルと14個の銀メダル、17個の銅メダルを獲得した。体操の内村航平や卓球の石川佳純、女子サッカー代表などにメディアの注目は集まるが、日本の金メダルのうち4つは吉田沙保里、伊調馨、小原日登美、米満達弘がレスリング競技で獲得したものだった。  数にして、日本の獲得した金メダルの半数以上を占める日本レスリング界の活躍。レスリング競技における金メダルの数でも、大国ロシアと同数の世界一。日本レスリング界の強さは、世界でも群を抜いているのだ。  いったい、どうして日本はこんなにレスリングが強いのか? その秘密を解き明かすべく、日本におけるレスリングの歴史を記した一冊が、ノンフィクションライター・柳澤健氏による『日本レスリングの物語』(岩波書店)だ。    日本におけるアマチュアレスリングの歴史は、1920年代にまでさかのぼる。1921年早稲田大学柔道部の庄司彦雄とプロレスラー、アド・サンデルが靖国神社で戦った異種格闘技戦を端緒として、日本にレスリングは導入された。引き分けに終わったこの試合の後、庄司はレスリング先進国のアメリカに留学。帰国後の1931年には、早稲田大学に日本初のレスリング部を設立した。  翌年にはロサンゼルス五輪に初めて選手を送り出した日本レスリング界。しかし、その実力はまったく伴っていなかった。レスリングという新しいスポーツに流れてきた選手たちのほとんどは柔道の経験者。当時は柔道がオリンピック種目となっていなかった時代であり、選手たちはオリンピックに出場できるという理由だけで、柔道の経験を応用できるレスリングに流れたのだった。全員が柔道の高段者だったものの、もちろんレスリングと柔道は異なる競技。ロサンゼルス五輪では惨敗を喫し、続くベルリン五輪でもかろうじて入賞者は出せたもののメダルには届かなかった。  その潮目が変わるのは、戦後になるまで待たなければならない。  身長が低く、脚が短いという体型を活かし、欧米の強豪たちをタックルでねじ伏せる日本レスラーたちが活躍したのは1952年に開催されたヘルシンキ五輪。日本選手団のうち唯一となる金メダルを石井庄八が獲得し、戦後復興期の国民たちを勇気づけた。この金メダルに勢いづき、次のメルボルン五輪では、日本が生んだ世界の殿堂入りレスラー笹原正三と池田三男が金メダルを獲得し、その実力を見せつけた。  黎明期から世界レベルへの発展に至るまでに、レスリング界に尽力した人物が八田一朗だ。早稲田大学レスリング部の初代主将であり、卒業後は大日本アマチュアレスリング協会を設立。私財をなげうちながら、レスリングの強化だけに人生を費やした。その人柄もユニークそのものの八田は、「ライオンとにらめっこをさせる」「合宿中は選手の夢精や自慰まで管理する」「将棋の名人の話を聞く」とハチャメチャな練習メニューを考案し選手を鍛える。「豪放」というイメージがふさわしいその人柄で、後年は参議院議員にも立候補した八田、1983年に永眠するまで日本レスリング界を牽引していった。  一方、女子レスリングの歴史は80年代から始まる。黎明期は女子プロレスブームにあやかりながら選手を集めなければならないほど注目度は低かったが、2004年のアテネ大会よりオリンピック種目に認定されるやいなや、吉田沙保里、伊調馨の2人の金メダリストを送り出す。さらに2008年北京大会、2012年ロンドン大会でもこの2人は金を獲得し前人未到のオリンピック3連覇を達成した。この女子レスリングの歴史を支えた人物が福田富昭だ。スパルタ練習を行いながら選手を強化し、マスコミをうまくリードしながらその普及に尽力。福田もまた八田と同様に、人生のすべてを女子レスリングに投じた人物だ。  新潟県の山奥の廃校を私財を投じて購入した福田は、そこを女子レスリングの合宿所兼道場としてしまった。「まわりには誰もいないから、いくらしごいて泣き叫んでも大丈夫」と福田が意図したように、そこでの練習は苛烈を極め、女子選手に対し、バットや竹刀で殴られるのは当たり前というトレーニングを課した。  また、女子レスリングの代名詞となったアニマル浜口・浜口京子親子の知名度も、福田の功績によるところが大きい。実は、アニマル浜口はボディビル出身であり、レスリングの技術はほとんどない。そんな彼を福田は無理矢理コーチに据え、メディアの注目が集まるように仕向けた。アニマル本人もはじめは当惑していたものの、福田からの「選手全員に向かって、マスコミの前でがーがー吠えろ」という指示を忠実にこなし、いつの間にか「気合だ!」という名言まで誕生。女子レスリング界に欠かせない存在となっていったのだった。  次のリオデジャネイロ五輪でも、日本レスリング界の活躍は世界中の注目を集めるだろう。その強さの陰には、八田一朗と福田富昭という2人の男が積み上げてきた類まれなる努力があることを思い出してほしい。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])