川崎フロンターレのFW・大久保嘉人は悪童と呼ばれる。Jリーグ最多得点記録を更新中で話題になっているが、同時にJ1通算警告記録も持っており、退場記録でも歴代2位につけている。当然、守備の機会が多くなる中盤か守備の選手が警告はもらいやすいため、ランキングに他のFW選手はいない。 先月29日に行われたガンバ大阪対川崎フロンターレ。前半39分、大久保の肘がガンバFW・宇佐美貴史のアゴに当たり、流血する一幕があった。日刊スポーツによると、肘を当てられた宇佐美が大久保に詰め寄るも、「点取ってから言えよ! それでも代表か!」と一喝されたという。この2人のやり取りが今話題になっている。 ファンの間では、「肘打ちとそれは関係ないだろ」「いったん謝るのが先だ」「代表に入れない八つ当たりだろ」などの批判の声も多く上がっているが、意外にも好意的な意見も多いという。 「大久保は悪童のイメージが強いんですけど、実は最近ピッチ内では大人になってきているんですよ、その証拠に、ここ数年でレッドカードの数は激減してます。冤罪退場疑惑で話題になった昨年を除けば、約6年間もらってないんですよ。それでも悪童のイメージが抜けないのは、やっぱり口が悪いからでしょうね。過去にも、ラフプレーを言及されて『今日はワザとはやってない』と発言したり、田中・マルクス・闘莉王率いる名古屋DF陣に対し『ルーズだからやりやすい』と挑発したりしています。しかし、大久保はプロレスでいうヒールの役をわざと買っているとわかっているファンは多いので、こういうのは盛り上がるんですよ。昔はただのDQNだったんですが、言うなれば今はプロのDQNて感じですかね。今回の件に関しても『ずっと言いたかったんだろうなぁ(笑)』『さすが! 大久保は自分をわかってる!』『ちょくちょくテレビに出る大久保の地元の友達もいい感じ!』と、好意的な意見も多いんですよ。故意ではないにしろ肘打ちして、さらには暴言を吐いても許されるってある意味すごいですよね」(スポーツライター) 大久保は過去のインタビューで「宇佐美は俺より個人技もある。駆け引きを覚えればもっと点が取れる」と、実力を認めるコメントを残している。いくら活躍しても代表に入れない自分の境遇から出た今回の発言だとしても、調子の出ない宇佐美に対して激励の意味も込めている部分は少なからずあったのだろう。日本のサッカーをプレー以外でも盛り上げていく大久保嘉人に、これからも注目していきたい。 (文=沢野奈津夫)『大久保嘉人の挑戦―Desafio』(角川書店)
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フロンターレ風間監督のコメントが哲学的すぎる!「よくわからないけど名将の風格」!?
川崎フロンターレが絶好調だ。開幕7戦無敗で首位を走り、FW・大久保嘉人はJリーグ通算ゴール記録を更新。チームは明るい話題にあふれている。そんな中、先日アウェーで行われたFC東京戦の監督インタビューが、哲学的すぎると話題になっている。 ――試合ごとにメンバーを入れ替えていますが、あえて固定していないのでしょうか。それとも固定できないのでしょうか。そこのメリットとデメリットについて。 風間監督 最初に言うと、メリットとデメリットは答えなくていいと思います。財布の中を見せると思ったほど入っていなかったり、急に1万円札が抜けていたりと。そういうことは突然のこと。この何試合かの中で、どのくらいの確率であるのか、というのがある。何かを固定しなければいけないというわけではないので。そういうところがなかなかできない。 「FC東京戦当日の朝、MF・大島僚太が急な発熱を起こし、出場できなかったことを言っているみたいなんですが、かなり哲学的な言い回しですよね。『急に1万円札が抜けてたり』っていうのも、よくわからないです。過去にも風間監督は『3バックは、簡単にいうとCBが3人いるということ』など、当たり前のことなのか、それとも深い言葉なのか、我々凡人にはよくわからないコメントを残しています。ファンは『よくわからないけど、勝ってるからいい』『よくわからないけど、名将の風格』『よくわからないけど、いいこと言ってるね』と、混乱しながらも喜んでるみたいですね。風間監督は現役時代ドイツで長くプレーしていたので、この言い回しはその影響かもしれません」(スポーツライター) こういった独特の言い回しが頻繁に出てくるのは、チームに対しての自信の証しだ。風間政権になって4年目、強豪と言われつつもシーズンを通して結果を残せないフロンターレが、初優勝を飾るのは今年なのかもしれない。 (文=沢野奈津夫)川崎フロンターレ公式サイトより
大久保嘉人のダサすぎるプレーが、もはやかわいい? “狂犬”と呼ばれた男の振り上げた拳はどこへ──
4日、J1リーグ第2ステージ第13節、川崎フロンターレ対ガンバ大阪が等々力陸上競技場にて行われた。注目は、得点王ランキングで共に首位を走るフロンターレの大久保嘉人と、ガンバの宇佐美貴史のエースストライカー対決だ。結果は、5対3でフロンターレに軍配が上がり、2得点を挙げた先輩である大久保の勝利となった。しかし、観戦していた一部のファンの間では、得点王争いよりも、大久保のある“行動”の方が気になってしまったという。 「試合終了間際、ドリブルでペナルティエリアへ侵入しようとした大久保選手は、後ろからガンバの選手にラフプレーを受けて倒されました。怒った大久保選手は猛然と立ち上がり、拳を振り上げたのですが、ラフプレーを行った相手が遠藤選手だとわかると、怒りの矛先を無関係な選手に切り替えたんです。ヤンチャ坊主のイメージだった大久保選手だけに、ファンは唖然としていましたよ。上下関係の厳しい国見高校出身だけに、年上には逆らえないんですかね? それとも、遠藤選手がよっぽど怖かったのか……。いずれにしろ、これを見たファンは『あれ? 狂犬と呼ばれた大久保はどこへ?』『ダサイを通り越して、もはやかわいいだろ』などの声が上がっていましたよ」(スポーツライター) 前日インタビューで大久保は、宇佐美に対して「申し訳ないけど自分は(得点王を)2回取ってるから」と挑発めいた発言をしていました。かっこよくヒールに徹していただけに、今回の行動は少しバツが悪そうに見える。しかし、みている方が気恥ずかしくなる大久保の行動は、これだけではなかった。 「大久保選手の2点目のPKのシーンなんですが、ゴールを決めた後に大久保選手は一直線に相手GKの東口選手に駆けより、挑発行為を行いました。もちろん相手サポーターからは反感を買ったのですが、結果的には今回の“キレる相手すり替え事件”のダサさが、より際立ったという形になってしまいましたね。ファンの中では『あの挑発もビビりながらやってたんじゃない?』『東口にはケンカ売れるのに、遠藤には売られても買えないのかよ!』と、“狂犬”大久保のイメージはすっかりなくなってしまいましたね」(同ライター) 33歳を迎えた今も活躍を続ける大久保は、昔に比べて精神的にもかなり大人になっている。東口への挑発行為も、インタビューでのビッグマウスぶりも、全てはJリーグを盛り上げるためにわざとやっていることだろう。しかし、“本当に逆らえない相手”とマッチングしてしまった今回は、運が悪かったと諦めるしかない。 (文=沢野奈津夫)『情熱を貫く亡き父との、不屈のサッカー人生』(朝日新聞出版)
“燃え尽き症候群”から大逆転の代表選出 サッカー大久保嘉人を奮起させた、父の遺書
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。 2010年6月29日、サッカーW杯・南アフリカ大会。パラグアイとの一戦で、日本代表はPK戦の末に敗れた。日本代表にとって初となる決勝トーナメント進出を懸けた戦いだったが、あと一歩のところで、ベスト8の称号はするりと逃げていった。そして、初めて日本代表としてW杯に出場した大久保嘉人の戦いも終わった。 「俺、もう代表はないから」(『情熱を貫く』朝日新聞出版) 日本代表の青いユニフォームを脱いだ大久保は、妻に向かってこう語った。W杯で持てる力のすべてを出し尽くし、すでにその精神は限界を迎えていたのだ。 日本に帰国した後、大久保は、ひどい倦怠感に襲われた。ボールを蹴ることも、走ることもできなくなり、慌てて病院で検査を受けるも、体調に問題は見当たらない。カウンセリングの結果、医師は、大久保に「オーバートレーニング症候群」という診断を下した。それは、別名「燃え尽き症候群」とも呼ばれている心の病。人生を懸けた戦いの後には、これまで味わったことのないような苦しみが待っていたのだ。 サッカーができなくなってしまった彼は、過去に痛めた左膝半月板の手術をし、療養先として長崎県・五島列島を選んだ。テレビも見ず、携帯電話の電源を切った大久保の目的は、左膝以上に、心を治療することだった。豊かな自然に囲まれた五島列島に、大久保は逃げ場を求める。そうしなければ、心がもたなかったのだ……。 サッカーに携わる誰もがそうであるように、大久保もW杯の大舞台に憧れていた。1994年に開催されたアメリカ大会。ブラジルのロマーリオ、イタリアのバッジョ、アルゼンチンのマラドーナ、世界最高のスター選手たちが、小学6年生の大久保を魅了していた。そして、彼らに魅了されたのは大久保だけではなかった。父・克博もまた、W杯という檜舞台のとりこになった。いつしか、親子は「W杯出場」という夢を抱くようになった。 だが、大久保は、2006年のドイツ大会の日本代表の座を、あと一歩のところで逃してしまう。悔しさに打ちのめされながら、テレビの前にかじりつき、1分2敗で戦いを終えた日本代表の姿を見る。そして、2010年までの4年間を、日本代表の座をもぎ取るために捧げることを決心したのだった。ドイツ・ヴォルフスブルクに移籍したにもかかわらず、出場機会が少なかったことから、わずか半年で帰国。世間から「失敗」という目で見られても構わない。彼はブンデスリーガに所属するという名誉よりも、W杯でベストパフォーマンスができるよう、日本のクラブチームを選んだのだ。 そして2010年、岡田ジャパンの一員として、大久保は念願のW杯初出場を果たした。出国前日、「後悔のないように。頑張ってこい」そう言って父は息子を送り出す。父は、その試合を、酸素マスクをつけながら病室のテレビで見ていた。その時、父の体はがんに侵されていたのだ。 そして、大久保は、南アフリカ大会で日本代表のすべての試合に出場した。ゴールネットこそ揺らすことはできなかったが、その夢は現実になったのだ。そして、夢の後遺症は大きくのしかかった。 「お前はバカか!」 「そんなことは、あっちゃならん!」(同) 大久保が代表引退の意向を伝えると、酸素マスクをした父は、息子を怒鳴りつけた。彼にとって、息子の弱音は何よりも我慢ならなかったのだ。けれども、心に穴が開くほど深い倦怠感にとらわれた大久保には、もう、青いユニフォームを着て走るモチベーションは残されていない。 「お父さん、ごめん。俺はもう、これ以上、走れない」(同) 大久保は、そんな言葉をそっと胸にしまった。何年もがんと戦っている父に向かって言える言葉ではなかったのだ。 南アフリカ大会から時を経て、大久保の精神は徐々に回復。なんとかサッカーをできるレベルにまではたどり着いた。所属していたヴィッセル神戸では中盤を任されることも多くなり、プレーの幅も増えていく。しかし、FWとして、得点を挙げ続けてきた大久保には、釈然としない気持ちが残っていた。大久保は、2013年、愛着のあるヴィッセル神戸から川崎フロンターレに移籍。そして、移籍から3カ月後、父は静かに息を引き取った。 危篤の知らせを聞いた大久保は、試合を終えると一目散に故郷である小倉に向かった。父は、大久保が病院に到着すると、まるでそれを待ち構えていたかのように昏睡状態から目を覚ます。医師が言うには、それは奇跡のような出来事だった。しかし、奇跡も二度は続かない。父が亡くなったのは、大久保が到着した翌日の5月12日午後1時33分だった。 最愛の父の病室を片付けていると、姉が白い封筒を持って立っていた。テレビ台の引き出しの2段目に入れられていたその封筒の中には、病床の父が書いた、震えた文字が記されていた。 「日本代表になれ 空の上から見とうぞ」(同) 幼少の頃、大久保の家庭は、その日の食事に困るほどの貧しい家だった。にもかかわらず、父は借金をしながら、サッカーの名門・国見高等学校サッカー部総監督だった小嶺忠敏が作った「小嶺アカデミースクール」に入る大久保の背中を後押しした。父は、その人生を、息子がサッカー選手として活躍するという夢に懸けたのだ。父の最後の言葉は、再び大久保を奮起させた。目標を得た大久保は、初めてJリーグの得点王に輝き、誰もが認める活躍を収めていった。もう一度日本代表に、もう一度W杯に――。それは大久保の願いであり、父の願いでもあった。 父の命日である2014年5月12日、ザッケローニ監督が読み上げた代表メンバー23人の中に、大久保の名前はあった。 ブラジルの空の上で、父は背番号13を見守っているだろう。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])『情熱を貫く』(朝日新聞出版)


