かつてテレビには、「司会者」という職業が存在していた。たとえば児玉清であり、愛川欽也だ。あるいは大橋巨泉や石坂浩二、草野仁や生島ヒロシもそう呼ばれていた。普段は役者業をしながら、あるいはアナウンサーとしてその地位を確立した後、彼らは「司会者」としてテレビショーの進行を務めた。だが2015年現在、「司会者」と呼ばれるタレントはそう多くはない。多くの場合、番組での進行はいわゆる芸人が務めるようになり、結果として「司会者」というポジションは特別なものではなくなった。 だが近年になって、この「司会者」という役割に日が当たり始めている。テレビ朝日系『パネルクイズアタック25』の司会がこの4月から谷原章介に代わるというのは、その一例だといえるだろう。番組の性質もあるが、視聴者の嗜好として、そろそろ攻撃的な番組ではなく、落ち着いた雰囲気の番組を見たいという欲求がおそらくそこにはある。特に年輩の視聴者にとっては、その傾向は強くあるだろう。 それでは今、「司会者」の椅子を狙えるタレントはどこにいるのか? その答えのひとつが、3月16日に放送された『草なぎ剛の第23回がんばった大賞』(フジテレビ系)にあった。この番組における草なぎ剛の司会ぶりは、草なぎ剛にしかなし得ない、非常に独特なものだといえるだろう。 この番組の特殊な点は、バラエティ番組には普段あまり出演することのない俳優・女優が多数出演しているというところにある。『問題のあるレストラン』『残念な夫。』『デート 〜恋とはどんなものかしら〜』『ゴーストライター』『銭の戦争』に出演する役者陣が一堂に会して、それぞれの収録現場でのNGシーンを見て楽しむという趣旨だ。ここで最も重要なのは、出演する役者陣に負担をかけず、できるだけリラックスして番組に参加してもらわなくてはならないという点である。通常のバラエティ番組のような攻撃的な笑いではなく、俳優・女優の自然体の魅力を引き出すというのが、この番組の「司会者」に求められる仕事なのだ。 この意味で草なぎ剛の司会は、見事というほかなかった。果たして彼がどのようにして役者陣の自然体の魅力を引き出したのか、3つの例で紹介してみたい。 (1)司会者であることに照れている 番組の冒頭は、NGシーンのVTRから始まる。それを受ける草なぎ剛の言葉が、スタジオの一言目だ。草なぎ剛は、明らかに台本に書かれていたであろうセリフを、おそらく一字一句違わずに視聴者に伝える。「早速ドラマNGシーンをご覧いただいたわけですが、いやー面白かったですねー」とあえて気持ちを込めず、ただこの文章を読み上げる。そして直後、自分自身でこう告げる。「うん。ボク、司会してます」と。 番組の司会者が「司会してます」と発言するというのは、滅多にあることではない。ここには草なぎ剛の照れがある。司会者だからといって大仰に司会者ぶることを、草なぎ剛は本能的に拒否する。そしてそれは、出演する役者陣にも影響を与える。バラエティ番組に出演しているからといって、無理にバラエティ仕様である必要はない。草なぎ剛の「司会してます」という発言は、間違いなく役者陣を落ち着かせる。 番組冒頭の草なぎ剛のこの発言で、明らかに空気ができ上がる。司会者である草なぎ剛が司会者であるということ自体に照れている。それによって役者陣は、番組に対して気負うことなく、自然体の自分を見せることができるのだ。 (2)自分の立場を弱く打ち出す 司会者というポジションは進行であり、出演者への会話を振るという役目も担っているから、本来であればほかの出演者よりも一段強い立場にいる。草なぎ剛はしかし、そこから降りてしまう。ほかの出演者に対して「玉ちゃん(キスマイ玉森裕太)元気? (大島)優子ちゃんも助けてね」と自らヘルプを要請し、さらには「皆さん今日、一言は絶対しゃべってくださいね」とまで口にする。これは、仕事で来ているのだからしゃべるようにという命令ではなく、皆さんがしゃべることで自分を助けてほしいという意味合いである。 つまり草なぎ剛の司会術とは、自分が周囲を助けるのではなく、自分が周囲から助けられるという、かなり特殊な形なのだ。それはきっと草なぎ剛の人となり、パーソナリティと、あるいは周囲の人物を信頼しきっているという意識による。そのために、草なぎ剛は自分を弱く打ち出す。ローラに対して「僕のドラマ見てる?」と問いかけ、即座に「見てなーい」と返されるというやりとりは、草なぎ剛にしかできないものだといえるだろう。 テレビ番組はチームプレイだといわれるものだが、草なぎ剛は誰よりもそれを理解している。番組をよくするためになら自分を犠牲にすることを一切厭わない、強いプロ意識がそこにはある。 (3)あくまでも部外者である ここまで草なぎ剛の独特な司会術について書いてきたわけだが、しかし彼は番組終盤で、司会者として極めて正しい選択をする。ほぼすべてのVTRを見終わって、出演者たちがそれぞれ面白いと思った場面を口にする流れだ。そこで草なぎ剛もどれが印象に残っていたかを問われるのだが、その答えがすごい。「いっぱいありすぎて、何がなんだかねえ」と、回答そのものを拒否するのである。 ここで、スタジオでは笑いが起こる。何かひとつぐらい答えなさいよと、そういった意味での笑いだ。しかしここでの草なぎ剛の選択は、一人のタレントとしては笑いの対象ではあるが、司会者としては極めて正しい。そもそも司会者とは、番組の出演者でありながら部外者である。ここで司会者である草なぎ剛が何かしらの答えを発したら、それが番組としての総意になりかねない。だからこそ草なぎ剛は、そこでの回答を避ける。司会者としては、明らかに正しい選択だといえるだろう。 さらに恐るべきは、(1)(2)の伏線があるために、この発言が笑いになっているというところだ。決して派手ではない。目に見えるすごさではない。だが、この日の『草なぎ剛の第23回がんばった大賞』が常にハッピーな空間だったのは、司会者である草なぎ剛の功績である。恐るべき司会者の誕生が、この日、確かに行われたのだった。 【検証結果】 ここまで読んでいただければお分かりかもしれないが、この草なぎ剛の司会術は、明らかにタモリの影響下にある。草なぎ剛本人がどこまで意識しているかは分からないが、『笑っていいとも!』で長年共演したタモリのDNAは、間違いなく彼に宿っているのだろう。気を張らない、欲張らない、がんばりすぎないという司会術。「やる気のある者は去れ」というタモリの言葉は、確かに草なぎ剛に根付いている。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa
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石原良純が示す二世タレントの3つの極意 フジテレビ系『有吉弘行のダレトク!?』(3月3日放送)を徹底検証!
石原良純の露出が、ひっそりと増えている。最近テレビをつけていて、こう思ったことはないだろうか。あれ、また石原良純が出ている、と。それはおそらく気のせいや勘違いではない。現在、石原良純は『モーニングバード!』(テレビ朝日系)、『みんなの疑問ニュースなぜ太郎』(同)にレギュラー出演。『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(同)や『ここがポイント!!池上彰解説塾』(同)にもレギュラーといっていい頻度で出演している。特にテレビ朝日系の情報・報道よりの番組において、硬軟織り交ぜた意見を語るパネラーやMCというのが得意分野だといえるだろう。 だが実際、石原良純とは何者なのだろうか? その答えをしっかりと口にできる人間はそう多くはないだろう。気象予報士の資格を持っているということは知っている。ただそれ以外は、なんだかよく分からない。ひどくふわっとしたイメージしかない。ここで、3月3日に放送された『有吉弘行のダレトク!?』(フジテレビ系)を紹介しよう。この番組に、石原良純は同じく気象予報士である天達武史と共に出演したのだが、街頭インタビューで街の人々からこんな意見が寄せられる。 「天達のほうがプロっぽい」 「(石原良純は)ビジネスっぽい。ビジネス天気予報」 「天気予報する人に見えない。(「ではどう見える?」という質問に)元都知事の息子」 と散々な言われようである。そもそも、気象予報士であるというイメージすら揺らいでいる。結局のところ、いまだに石原良純は、元都知事の息子、と思われているのだ。確かに父親はかの石原慎太郎であり、その弟は石原裕次郎、誰もが道をあける名門中の名門である。そんじょそこらの二世タレントとは比べ物にならない、いわば、二世タレント中の二世タレント。そのイメージは、やはり石原良純に延々とついて回るものなのだ。 二世タレントは大成しない、というジンクスがよく言われる。これはある意味で真実であり、ある意味で誤りである。確かに大成しない二世タレントは数多く存在するが、その逆に、大成した二世タレントも数多い。要は大成するにせよしないにせよ、二世タレントだから、という理由は頭につくわけで、二世タレントはそのイメージで語られる。当たり前の話だが、大成する二世タレントもいれば、大成しない二世タレントもいるのだ。政治の世界で有能な二世議員もいれば無能な二世議員もいるというのと、まったく同じ話である。 では、大成する二世タレントとはどのようにして生み出されるのか? 大きく分けて、2種類がある。まずは、二世タレントであるメリットを武器にするタイプ。そしてもう一方は、二世タレントであるというデメリットを克服するタイプである。 二世タレントであるメリットを武器にするタイプは、役者や音楽家など、いわゆる芸能的な分野に多い。最も分かりやすい例は、歌舞伎役者になるだろう。幼い頃から英才教育をほどこされているため、スタートラインに立った時点ですでに優れている。田村正和や加山雄三、中井貴一などの現代劇の俳優にとっても、親の日常生活を幼い頃から見ているというメリットはあるだろう。そもそも親の職業として芸能活動が身近にあるのだから、すぐ手を伸ばしやすいところに芸能があるといってもいい。 だが石原良純は、そのタイプではない。役者としての仕事ならともかく、タレントとしての活動においてその出自や環境はメリットというよりも、むしろデメリットのほうが大きい。親はすごいのに息子はボンクラ、という他者からの先入観と闘わなければならないからだ。また二世タレント特有の性質として、無駄に大物感がある、という部分も忘れてはならない。その大物感をいかにして世に出すものにできるかが、このタイプの二世タレントの勝負どころである。 そして石原良純とは、この後者のタイプにおいて成功を収めたといえるケースだ。それではいかにして、二世タレントであるというデメリットを克服し、石原良純は成功を収めているのか? そこには大きく分けて、3つの姿勢がある。石原良純のタレントとしての強みとは、以下の3つの姿勢を正しく守っているという点にある。 (1)視聴者の気持ちを代弁できているか? 二世タレントが最も避けなくてはいけないのが、視聴者との気持ちの乖離だ。これが少しでも勘づかれた場合、その発言からは一切の説得力が失われる。結局あの人は特別な家の人だから、と思われたらそこで終わりだ。その点、石原良純の振る舞いは完璧に近い。 たとえば前述した『ダレトク!?』において、元F1ドライバーの中嶋悟が狭い駐車場に車庫入れするというVTRが流れる。その際、MCの有吉弘行とアシスタントが中嶋悟のテクニックを褒めるのだが、そこで石原良純は突っ込みを入れる。「(そんなことで)中嶋を語るなよ!」と。この発言は正しい。実際にVTRでおかしなことをやっているのだから、突っ込みとしては正しいのだが、この発言のあとで石原良純はこう付け加える。「……と、多くの人が思ってると思いますよ?」と。 この、顔に似合わない上品なデリカシーこそが、石原良純の真骨頂だ。あくまでも、視聴者目線を忘れないというスタンス。いわば、視聴者の気持ちを代弁するただの一人の人間として、石原良純はVTRを受けている。上から目線を一切感じさせないこのスタンスは、二世タレントである石原良純が発明した画期的な手法だ。 (2)自分の弱みを見せられるか? 二世タレントとは、そもそもが強い存在である。いわば、初めから持っている人種であり、自分の弱みを見せる、あるいは自分の弱みを造り出すということがある程度必要とされる。 石原良純の場合、それは『モーニングバード!』のコーナー『アカデミヨシズミ』で行われている。このコーナーは、日常生活の健康に関して石原良純が専門家に話を聞きに行くというものなのだが、実際に石原良純の体の悪いところが示されるというのがポイントである。3月2日の放送では、首の傾きが肩こりの原因になっているのではというテーマだったが、計測したところ、石原良純の首はちゃんと傾いている。驚く石原良純。「えーっ! 絶対こっちに傾いてる!」と大騒ぎだ。こういう場所でしっかりと自分の体の不調が存在しているというのが、石原良純の特徴である。 石原良純の肉体が完璧なものなのであれば『アカデミヨシズミ』で語られることは他人事となり、おそらくこれほど長くは続いてはいない。体の不調という弱みが石原良純にはある。このコーナーのためにあえて健康になりすぎないという努力をしていても不思議ではなく、やはり石原良純の現在のポジションは日々のたえまぬ努力によって造り上げられているのだ。 (3)いじられることをいとわないか? 二世タレントであるというデメリットを克服するタイプの二世タレントにおいて、最も重要なのがこの点である。生来持っている大物感を捨てることは、やはりどうしたって難しい。親や出自が偉大であればあるほど、その大物感は身に染み付いているからだ。 この点での石原良純には、ほとんど向かうところ敵なしといった強さがある。『ダレトク!?』においても、スタッフと出演者は気象予報士としての石原良純をいじるわけだが、確実に求められた以上の答えを放ち続ける。「最近も(気象予報士)やってるんですよね?」と有吉弘行から問われた石原良純は「『スーパーニュース』、クビになっちゃったからさあ!」と、具体的な番組名を出し、さらに「クビ」をいうデリケートな単語を自ら口に出す。このサービス精神。さらには「クビになってから何年もたってるけど(まだ)染みてんのよ……」と哀愁を漂わせることも忘れない。これほどまでにいじらせてくれる大人は、そうそういないのではないか。 石原良純がすごいのは、ただいじられるのを待つのではなく、いじらせるような要素を自身から放り込んでくるという点だ。受けではなく、攻めのいじられ。それを自らの言動によって周知のものにしている。こうして石原良純は、二世タレントというデメリットを克服し、テレビから必要とされているのだ。 以上、3つの姿勢において、石原良純のやり方は、他の追随を許さないほどに完璧なものだといえるだろう。これほどの二世タレントが果たしてこの先、出てくるのだろうか。興味を持って、待ちたいところである。 【検証結果】 文字数のため本文では触れていないが、日本の芸能界において石原良純クラスのポテンシャルを持つ二世タレントは、現状、あと二人いる。一人は長嶋茂雄の息子である長嶋一茂であり、もう一人は渡辺徹を父に榊原郁恵を母にもつ渡辺裕太だ。石原良純を加えたこの三人を、二世タレント三羽がらすと呼んでみたい。いずれもタレントとしては二世タレントであるというデメリットを克服するタイプの二世タレントだが、本文で述べた3つの姿勢をそれぞれのやり方で見事に達成している。この三羽がらすの今後の活動については、この先も本連載で述べていくことになるだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『西部警察 キャラクターコレクション ジュン 五代純』(ポニーキャニオン)
中山秀征はなぜ“大物”で居続けられるのか? 日テレ『ネプ&イモトの世界番付』(2月13日放送)を徹底検証!
中山秀征について、多くの人はあまり深くは考えない。考える必要がないからである。我々視聴者にも日々の生活があり、暮らしがあり、中山秀征について考えるよりも優先される事柄は山のようにある。だから私たちは、中山秀征についてあまり深く考えようとしないわけだが、それでもふとした瞬間にテレビをつけて気付き、驚くことになる。中山秀征の立ち位置は、数年前と寸分たりとも変わっていない。2015年2月現在もなお、中山秀征は“大物”タレントとしてテレビの中にいる。 もちろん、出演番組の変化はある。特に中山秀征の場合は2005年10月にスタートした『ラジかる!!』(日本テレビ系)から11年3月に終了した『DON!』(同)まで長く帯番組の司会を務めており、当時と比べれば現在はさまざまな番組へのゲスト出演も多い。だが、どんな番組においても、中山秀征は中山秀征として扱われる。ブレークするわけでもなく、あの人はいま的なポジションに陥ることもない。多くの変化が日々訪れるテレビの世界において、中山秀征だけが揺るぎなく、不動の位置にいる。 中山秀征の職業が、芸人や俳優なのであればまだ分かる。それらは目に見えやすい結果や実績が形となる職業であり、言わば替えのきかないポジションだからだ。しかし中山秀征の職業は、少なくとも視聴者から見たときには、あくまでもタレントだ。いくらだって替わりがいるのではないかと思いがちだが、しかし事実としてそうなってはいない。それではなぜ、中山秀征だけが特別なのか? 一体なぜ、中山秀征はいまだに“大物”タレントとしてテレビから求められているのだろうか? その答えの一つが2月13日に放送された『ネプ&イモトの世界番付』(日本テレビ系)に隠されているわけだが、その前に、同月17日に放送された『たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学』(朝日放送)を紹介したい。この日の番組は3時間スペシャルということもあり、番組冒頭から始まったVTRは実に36分以上も続く。中山秀征をはじめとするスタジオゲストはつまり、番組開始から36分間は延々VTRのワイプの中でのみの出演となる。ゲスト出演者としては、かなり結果を残すのが難しい状況であることは間違いない。 しかもそのVTRは、50歳代の一般女性2人が、血管が若返るとされている酸性泉でどれだけ血糖値が下がるかを検証するというもの。なかなかに、リアクションが難しいお題である。だが中山秀征は、事実、結果を残す。番組開始から36分を過ぎて初めてスタジオに降りて、メインMCであるビートたけしに続いて口を開いたのは中山秀征であった。彼はこう言った。 「テレビ界、初じゃないですか? 知らない奥さま2人の旅」 この一言で、中山秀征のこの日の仕事は8割がた終わったと言っても過言ではないだろう。中山秀征はゲストでありながら、この一言で番組の取扱説明書を呈示している。そして明らかにそれは、スタジオゲストに求められている役割でもある。これほどVTRの多い番組でスタジオに求められているのはプラス要素ではなく、むしろVTRと視聴者をつなぐ橋渡し的な部分だ。そして事実、それを行ったのは、中山秀征その人である。本人がどこまでそれを意識しているかはさておき、少なくとも中山秀征が重要な仕事を行ったというのは紛れもない事実だ。 中山秀征はなぜ“大物”で居続けられるのか? その答えはここですでに出ている。中山秀征が“大物”にふさわしい仕事をしているからだ。メインMCかゲスト出演者かどうかは関係なく、その立場において中山秀征は“大物”に求められる仕事をしている。それでは“大物”に求められる仕事とは何か? それはつまり、番組としてのある種の決まり事を視聴者に解説する、あるいはその決まり事を呈示するということにほかならない。 2月13日に放送された『ネプ&イモトの世界番付』は、通常放送とは異なりクイズスペシャルと題して放送された。冒頭のコーナーは、○○な国1位、というヒントが4つ出されて各チームが早押しでどの国かを回答するというもの。ここでもゲスト出演者である中山秀征が、番組としての流れを作っている。数問のクイズに対して、中山秀征がどう回答したかは以下の通りだ。 「ロシア」(→不正解) 「中国」(→正解) 「インド」(→不正解) 「インド」(→不正解) 番組開始からおよそ8分しかたっていないが、我々視聴者はすでに中山秀征が張り巡らせた罠の中にいる。お気づきだろうか? 重要なのは「インド」の2つの不正解だ。この二度目の「インド」で不正解となった際に、メインMCである名倉潤は「何回インド言うねん!」と突っ込んでいる。当然そうなるだろう。それに対して中山秀征と同じチームのハライチ・澤部佑は「インドに懸けてるんです、我々!」と返す。中山秀征はだめ押しのように「次(の問題は)インドください」と要求する。そしてそこから先の展開は、言わずもがなだろう。 二度の「インド」で不正解した後、次の問題で、果たして正解は「インド」だ。しかし、それを答えるのは敵のチームである。中山秀征が作った「インド」の流れは、すなわち番組としての決まり事は、これによって完成する。 確かにこの流れに新しさはない。似たような景色を、我々は何度もテレビで体験している。しかしこれが、これこそが、中山秀征の真骨頂だ。テレビという非日常において中山秀征は延々と、淡々と、そして極めて巧妙に、日常を創出し続けている。いわば中山秀征とは、テレビの中から、テレビの楽しみ方を視聴者に分かりやすく伝えるという、そういった存在だと言ってもいい。 中山秀征が目指すものは、今あるものの破壊ではなく、繰り返される楽しい日常の創造である。イノベーションではない。だが、ウェルメイドなテレビの作法を中山秀征は守り、その枠組みを越えずに番組としての決まり事を呈示する。気が遠くなるようなその作業を、表情ひとつ変えずに続けられる人物はそうはいない。そして中山秀征とは、確かにそういった人物の一人であり、だからこそ中山秀征は、今でもなお“大物”としてテレビから求められ続けているのだ。 【検証結果】 かつて、中山秀征が批判される時代があった。それはいわゆる「タレント」に対しての批判そのものであり、テレビ自体がイノベーションを求めていた時代の要請だともいえるだろう。だが、時はたつ。その頃を振り返って当事者たちが懐かしむほどに、それはもう昔の話になった。どちらが良いとか悪いとかではなく、あの頃はあの頃であり、今は今だ。驚くべきことに、中山秀征は当時と一切変わることがない。中山秀征だけが、あの日からずっとただ一人、中山秀征を続けている。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa群馬県観光イメージアップポスター
渡辺徹に学ぶ“しんどくない”生き方 フジテレビ『有吉くんの正直さんぽ』(1月31日放送)を徹底検証!
なんだかしんどい世の中である。どこを向いてもギスギスしている。立場を明確にすることが何よりも求められ、かと言って自分と違う意見に耳を貸すのかと思えばそんなことはなく、壁を挟んだ言葉の応酬はお互いの差異を際立たせるだけで、延々平行線をたどるばかりだ。あらゆる人の、あらゆる場所を、しんどさが覆い隠そうとしている。そして、こういった呑気な考え方もまた批判されてしまいそうな、そんなしんどい世の中である。 そんなしんどい世の中でも、フジテレビ系では『有吉くんの正直さんぽ』が放送されている。有吉弘行と生野陽子アナウンサーがゲストとともに街を散歩するという、ただそれだけの番組には、一切のしんどさがない。散歩が好きな人が散歩をしている。ただそれだけだ。しんどくない。特にこれといったルールや目的地もない。それもまた、しんどくない。そして1月31日の放送でゲスト出演した渡辺徹(と、ずんの2人もだが)は、まさしくしんどくないタレントの筆頭といえるだろう。 昨年11月に放送された日本テレビ系『有吉反省会』でも指摘されていた通り、渡辺徹はまずそもそも、現在の本業がよく分からない。俳優として活躍していた過去はもちろん知られているが、今はどちらかといえば俳優というよりは「『ダウンタウンDX』(同)によく出る人」としてのイメージのほうがずっと強い。あるいは「かなり昔に『スーパーマリオクラブ』(テレビ東京系)の司会をやっていた人」だろうか。いずれにせよ、ほとんどの視聴者は、渡辺徹のことを俳優だとは思っていないはずだ。取り立てて、何もない人。それが渡辺徹だ。そしてその何もなさこそが、渡辺徹のしんどくなさ、言い換えれば安心感へとつながっている。 実際に『有吉くんの正直さんぽ』の中でも、渡辺徹は決して目立つような何かをしているわけではない。だが、明らかに場を支配している。それはなぜか。渡辺徹は、基本に忠実だからだ。ここで言う基本とは、すべての芸事に通じる「上げて、落とす」というスタイルである。渡辺徹はそのスタイルを絶対に崩さない。具体的に、この日の番組で実際に起こった一つの例を挙げよう。 (1)一同、銀座の街でウインドウに絵画が飾られた画廊を目にする。 (2)渡辺徹が「銀座には画廊が似合うねえ」と発言する。 (3)その発言を聞いたほかの出演者と視聴者が、確かに、と納得する。 (4)渡辺徹が「俺はこの絵がいいな」と言って、中華料理屋の看板の料理写真を指さす。 (5)出演者が渡辺徹にツッコんで笑いが起きる。 「上げて、落とす」になぞらえると、(2)が「上げて」であり、(4)が「落とす」である。重要なのは(2)の存在だ。(4)だけが単独で存在しても確かに落ちにはなるのだが、その落ちへの落差を大きくするために渡辺徹は(2)を自らの発言によって用意している。もちろん、基本中の基本ではある。ハリウッド映画の脚本メソッドにおいても、対立する場面を設置するというのはイロハのイだ。落差こそがカタルシスを生む。それは感動であれ、笑いであれ、同じことだ。しかし、この基本中の基本をやること、どれだけベテランになってもそれをやり続けるというまさにその点が、渡辺徹のタレントとしての真骨頂である。 さらに渡辺徹は、この「上げて、落とす」というシンプルな手法を突き詰めて、長い時間をかけた「上げて、落とす」を実践する。この日に番組で訪れたのは日本を代表する繁華街、銀座。このあたりには各都道府県のアンテナショップが多数存在していて、一同はその店舗を巡ることになる。渡辺徹は茨城県育ちだ。おそらく、というかほぼ間違いなく、茨城県のアンテナショップにも行くことになるのではないか。そう見越したであろう渡辺徹は、茨城県のアンテナショップに行ったときに「落とす」ことができるように、周到に準備をする。たとえば、有吉弘行の出身県である広島のアンテナショップで、あえて突っ込みどころを探して指摘していくのだ。それによって茨城県のハードルを「上げて」いる。茨城県のアンテナショッップで「落とす」ために。長い時間をかけて「上げて」きた茨城県の優位性を、その場所で「落とす」ことを狙って。 事実、番組の中で茨城県のアンテナショップにも行くことになるのだが、茨城県民の方には失礼な言い方になることは承知で、まあ、大したことはないわけである。そりゃあそうだろう。茨城県に限った話ではなく、その土地で愛されている素晴らしいものなんて、よそでありがたがるようなものではない。そして渡辺徹は「上げた」ハードルを「落とす」ように、茨城県の特産品を紹介する。自信を持って推せるものは、干し芋ぐらいしかない。クワの葉っぱのお茶も、取り立てて美味というわけではない。ワラで作った納豆を紹介する際は、製品として大量生産されている納豆と比べて「(味が)まったく違いますね」と言い切った渡辺徹だが、一同が感心する様子を見るとすぐに「いや、『まったく』は嘘ですけど」と正直に口にしてしまう。そういうものだろう。日常なんて、何か特別なことばかりがあるわけではないのだ。 しかしそれは、とここで一気に話を戻すが、しんどくない。心地よいしんどくなさだ。なんというか、それぐらいがちょうどいい。特別な何かがあるわけではない。干し芋ばかりが充実している。そこには勇ましい決意や言葉や態度はないけれど、しんどくない日常の景色がある。それぐらいで、いいんじゃないか。何もなくたっていいじゃないか。わざわざしんどくなる必要なんて、どこにもない。世界をギスギスさせるようなことを口にするくらいなら、干し芋をかじって笑っているほうがずっとましだろう。 渡辺徹の「上げて、落とす」というスタイルは、すべての芸事に通じる基本中の基本だが、同時に人生を生きる上での、基本中の基本でもある。「上げて」ばかりじゃしんどくなる。そのしんどさにずっと耐えられるほど、人はたぶん強くない。だからこそ人はユーモアや笑いを発明したのだし、テレビだってきっとそうだ。今の社会情勢を考えろとか、有事の際に何を呑気なことを言ってるんだとか、そんなのは本末転倒である。「落とす」ことができるからこそ、人生は生きるに値する。これは別に、理想論や夢物語なんかじゃない。少なくとも、渡辺徹は、それをずっとやっているのだ。 渡辺徹は銀座の街を歩きながら、こうつぶやく。何も特別な言葉じゃないが、だからこそ、どこか心に残る。 「銀座はやっぱり建物がおしゃれで、見て歩いてるだけで楽しいよ」 これぐらいで、いいんじゃないか。銀座だから特別なのではない。世界中のどこに行ってもその土地の景色はあり、「建物がおしゃれで」の部分を変えれば、どこでだってそう思うことはできるだろう。見て歩いてるだけで楽しい。世界はずっと昔からもう、そのようなものとして用意されているのだ。確かにしんどい世の中ではある。だけど、世界はそればかりじゃない。少なくとも2015年1月現在、私たちが暮らすこの国で、散歩は禁じられてはいない。 【検証結果】 『有吉くんの正直さんぽ』ではランチをどの店で食べるかという、極めてどうでもいいと思いがちだがとても大切な問題が、毎回のようにテーマとなる。この日はお店を探して歩く途中、ガード下にいろんなお店が連なっているスポットを発見。そこでは一軒一軒が日本のさまざまな地域の料理を提供しているのだが、もちろん茨城県に限定した店舗はない。そこで渡辺徹は「ここに茨城があった」と言って、指をさす。その指の先にあるのは、シャッターで閉じられた何かの跡地だ。そのジョークはとても面白かった。自分が茨城県の出身者だったら、もっと面白かっただろう。それぐらいの距離感でいい。それぐらいの愛がちょうどいい。しんどくない生き方へのヒントが、そこには確かにあったように思う。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『GOLDEN☆BEST 渡辺徹~シングル・コレクション~』(ソニー・ミュージックダイレクト)
京さま慎ちゃんが教える本当の旅の楽しさとは 日本テレビ『火曜サプライズ』(1月20日放送)を徹底検証!
1月20日に日本テレビ『火曜サプライズ』が放送される数日前から、番組宣伝のスポットがオンエアされていた。人気コーナー「京さま慎ちゃんの47都道府県で飛ばすぜ!」では、山陰本線の大岩駅でおいしいケーキ屋を探すようだ。だがそのスポットの中で、おいしそうなケーキは一切出てこない。おそらく店を探す途中であろう、京本政樹と柳沢慎吾と付き添いのDAIGOが「今日は風が強い」と言っているだけだ。台風でもないし、見た感じ、まあまあ強いなという程度の風だが、京さま慎ちゃんの二人は大パニック。大はしゃぎである。そして、ナレーションが引き取る。「一体どうなってしまうのか!?」と。知らんがな! しかし、この光景こそが「京さま慎ちゃんの47都道府県で飛ばすぜ!」の魅力だ。あくまでも旅番組であり、日本全国の隠れご当地グルメを探すという目的はある。そして実際に、その地方のグルメに、最終的にはありつくことになる。だが、見終わった後に視聴者が覚えているのは、そのグルメがおいしそうかどうかといったことではない。京本政樹と柳沢慎吾がキャッキャ言い合ってはしゃいでいる、その景色だけなのだ。おいしそうなグルメや情報性ではなく、京さま慎ちゃんの楽しんでいる姿を視聴者は求めており、実際に彼ら二人が楽しんでいる様子は、実に魅力的だ。 なぜ、京さま慎ちゃんは魅力的なのか? それは一言で言うなら、彼らのでたらめさだ。今この瞬間が楽しければ、そのほかのことは大抵どうでもいい、という極めて大ざっぱなスタンスである。例えばローカル線に乗り、何ひとつ構えることなく、普通の顔で、柳沢慎吾は隣に座った主婦に話しかける。まあ、もうこの時点でかなりでたらめである。芸能人でありテレビ番組であるにもかかわらず、長年連れ添った夫婦のような気安さだ。だが主婦との会話が始まると、でたらめさはより加速していく。 二人が会話している様子を見た京本政樹が「不倫旅行(のようだ)」と冷やかし、主婦は「(顔を)隠しといてね」と冗談めかす。すると柳沢慎吾が、それでは自分の出番がカットされてしまうと物言いをつけ「そういうのは、ダメよ~、ダメダメ」と現在大流行中のギャグを口にする。そこに照れなどは一切ない。ただ思いついたから口にしている。言いたかったんだろうな、たぶん。そして、主婦は柳沢慎吾に乗っかる形で「(じゃあ)私は『いいじゃないの~』って言うね」と提案し、実際に「いいじゃないの~」と言う。当然、柳沢慎吾へのフリである。柳沢慎吾の「ダメよ~、ダメダメ」待ちだ。そこで柳沢慎吾は、果たしてどうしたか? 特に何も言わないのだった。いや、言わへんのかい! まるっきりでたらめである。 これは別に狙ってすかしたとか、フリに気付かなかったというわけではおそらくない。柳沢慎吾は、日本エレキテル連合のネタの流れをきちんと把握していないのだろう。だから「いいじゃないの~」が「ダメよ~、ダメダメ」へのフリであるということを、そもそも知らないのではないか。その証拠として、柳沢慎吾は「ダメよ~、ダメダメ」と言いながら、主婦に対して「アケミちゃん!」と言っている。いや、お前がアケミちゃんやろ! 完全に間違っている。つまり柳沢慎吾は「アケミちゃん!」と言いたいだけなのだ。こんなにでたらめな話もないだろう。 しかし、その柳沢慎吾の言わば無知さを、非難するほどバカバカしいこともない。そもそもが、でたらめなのだ。何を言ってもしょうがない。むしろ細かいことや整合性に捉われず、でたらめであっていい、今この瞬間が楽しければあとは二の次三の次だ。難しいことはいらない。正しいツッコミなど必要ない。京さま慎ちゃんは、今この瞬間を楽しんでくれていればいい。それこそが、視聴者が京さま慎ちゃんに求めるものである。 そしてそのことは、京さま慎ちゃん自身も自覚をしている。この放送の数日前に「傑作選」として放送された回で、一同は「かにっこ館」という博物館へ行く。日本に生息しているカニが多数展示されていて、海の生物とも触れ合えるスポットだ。通常の旅番組なら、出演者が博物館の展示を見たり、アトラクションを楽しむ様子を見せるだろう。なぜならそれが、旅番組というものだからだ。 だがその常識は、京さま慎ちゃんには通じない。彼らは「かにっこ館」の前にある池を見つけて、その池は暑い夏の日には入ってもいいそうなのだが、今は冬だ。京さまは慎ちゃんをその池に入れようとして、慎ちゃんは京さまに「お金を払うから許してくれ」と懇願する。このくだりが、延々続く。二人とも、ただただ楽しそうだ。完全にはしゃいでいる。付き添いのDAIGOは呆れたように「(博物館に)入る前のそこで、ここまで楽しめる人たちあんまりいない」とこぼすが、そこで京本政樹自身がこう言うのだ。 「これが(この旅の)醍醐味!」と。 言われてみれば、確かにその通りだ。旅が楽しいのは、目的地があるからではない。旅をするという時間、そのものが本来の目的なのだ。確かに、目的地を決めて、ガイドブックを手にして、準備万端で出かける旅もあるだろう。だが京さま慎ちゃんは、そうはしない。小学生が初めての修学旅行を楽しむように、彼らは旅の余分な部分こそを楽しんでいる。 冒頭で記した「風が強い」というのもそうだ。そこで起こっているのは、「風が強い」ということだけである。ほかには何もない。それでも、京さま慎ちゃんはものすごく楽しんでいる。つまり人は、大抵のことを楽しめるのだ、本当は。どんな場所でも、何もなくても、人はそこそこ楽しめてしまう。それは忘れてしまいがちだが、そう悪いことでもないなと、京さま慎ちゃんは教えてくれる。まあ、やっていることは、今を楽しんでいるってそれだけなのだけど。 【検証結果】 「京さま慎ちゃんの47都道府県で飛ばすぜ!」は、日本の全国各地で旅をしている。あの二人なら都内を巡ってもまったく変わらないだろうが、彼らは地方へ行く。それはなぜか。その土地の人々が彼らに出会えるからだ。特に地方であればあるほど、有名人との出会いは貴重である。実際に番組の中でも、大勢の人が京さま慎ちゃんと出会えたことを心から喜んでいる。その喜びはきっとそれぞれの家に持ち帰られて、あるいは職場や学校へ持ち出されて、楽しい会話に形を変えるだろう。旅は人を介して拡散される。つまりは、旅が旅をする。今日もきっと、どこかの誰かの家で、京さま慎ちゃんは旅をしている。それはただひたすら単純に、楽しいだけ、の旅だ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『火曜サプライズ 京さま慎ちゃんの都バスで飛ばすぜぃ! 夢の下町バス編』
太川陽介が示す、日本の美徳とは――テレビ東京『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』(1月3日放送)を徹底検証!
かつて日本人は、控えめさと几帳面さを美徳としていた。そしてまた、和をもって尊しとなるという考え方は言葉にせずとも共有のものであった。そんな時代が、確かにあった。そう昔の話ではない。隣国の悪口を叫びながら街を練り歩いたり、早く子どもを産めと議会でヤジを飛ばしたり、東京駅の記念Suicaを求めて「それじゃ、転売できねえんだよ!」と言いだすような人々が出現する少し前までは、確かにそういう時代だったのだ。 それでは、控えめさと几帳面さという日本人の美徳は、誰からも失われてしまったのか? もちろん、そんなことはない。少なくとも太川陽介にはそれがある。テレビ東京の人気番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』のリーダー役。決して自分が出しゃばらない控えめさ。常に地図を広げて路線をさぐる几帳面さ。そして、蛭子能収というノーデリカシー・モンスターを相手にしても、決して怒らず、和をもって尊しとするその態度。彼がいなくては、この番組は成り立たないというのは断言できる。 1月3日に放送された『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』は、3時間45分のスペシャルであった。このシリーズの言動によって、現在何度目かのブレークを果たしている蛭子能収だが、やはりこの番組での蛭子能収はひと味違う。3時間45分の間、ずっとイライラさせてくれる。番組のオープニングで、太川陽介から「絶対、息抜きに来てるでしょ?」と問われて「俺だって、これに賭けてるんだから」と反論するのはいいのだが、顔が完全にニヤニヤしている。明らかに、そんなことを思っていないというのが丸見えだ。 数えだしたらキリがないが、ゲストのマルシアに対して「歌手のイメージないね」「まっすぐ歩くことができないんだね」と絶対に言わなくていい一言を言ってみたり、バスの中で財布を下向きに開いて小銭をすべてこぼすという無駄な面倒さを披露してみたり、バスを待っている間に近くに食事をする店がないため「ガソリンスタンドで出前を取ってもらう」という、実にこしゃくなアイデアを提案してみたりと、まさに蛭子能収ワールド全開。視聴者として見ている分には、“腹立つわー”と笑えてしまうのだが、一緒に3泊4日の旅をする太川陽介からしたら、たまったものではないだろう。 しかも、今回のゲスト(マドンナ)はマルシアだ。番組冒頭で「私は一日200歩しか歩かない」と堂々と宣言し、番組開始からわずか8分で愚痴を始める始末。もはやスタッフが太川陽介を本気で怒らせようとしているとしか思えないわけだが、それでも太川陽介は決して怒らない。二人に気を遣い、そして献身的にチームを引っ張る。理想的なリーダーである。一体なぜ太川陽介は、誰に対しても怒ることがないのだろうか? また、どうすれば、そんなことが出来るのか? ここに一冊の本がある。執筆者は太川陽介。書名は『ルイルイ仕切り術』(小学館)という、2014年9月に出版された一冊であるが、一体これを誰が買うのかと勝手ながら心配になる。しかしその中身は、いわゆるタレント本の中でもかなり充実したものとなっており、「仕切る人間は“決断”をしなければいけないけれど、それが“独断”であってはいけないと思う」といったリーダー論や、番組が始まる際にプロデューサーから言われた言葉が「本当にまったく台本のない旅番組をやりたい」というものだったりと、非常に示唆に富んでいる。 この本の中で書かれているのが「蛭子さん級にイライラする人に対処する」という、太川陽介が見つけた一つの真理だ。果たして太川陽介は蛭子能収にイライラしてしまう自分を、どうやってコントロールしたのか。少し長くなるが、引用してみたい。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』(テレビ東京)
だいたい考えてみれば、悲観的であろうと前向きじゃないことをいおうと、それが蛭子さんの個性なんですから。あの個性がなければ蛭子さんじゃないんですから。 みなさんも、時にはどうしようもなくイライラする人と出会うことがあると思うんです。 そういう時は潔くあきらめる。あきらめて、そういう個性の人なんだ、と大きな心で受け入れる。 そしたら、最近は本当にあまりイライラしなくなったんです。あきらめるのだ。あるいは言葉を変えれば、自分とは違う人間の存在を認める、ということになるのかもしれない。かつて立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と語ったが、太川陽介にとってもまた、蛭子能収との路線バスの旅は、人間の業の肯定なのだろう。自分と考え方が違うからといって、排除や差別をするのではない。むしろそのまま受け入れる。まさしく日本的な思想であり、そしてそれはいま多くの日本人が失いかけているものでもある。 よくよく考えれば『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』という番組の企画そのものが、日本的というか、日本ならではのものだろう。バスが時間通りに到着しなければ、そもそも企画にならない。そしてバスが時間通りに到着する真面目な国は、世界を見回してもあまり多いわけではない。テレビの画面には映らない多くの日本人の几帳面さや控えめさ、あるいは和をもって尊ぶという精神がこの番組を成立させているのであり、そのリーダーである太川陽介が日本的であるというのは、おそらくただの偶然ではないだろう。 景気の先行きも見えず、殺伐とした事件は絶えず起こり、イライラすることの多い世の中である。笑うよりも怒るほうがたやすい時代だ。だが、そのたやすさに甘んじるのが正しい道であるとは限らない。タクシーや高速道路を使わずに、ただただ愚直に路線バスと自らの足を使って初めて見える景色がある。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』が教えてくれるのは、そういったことではないか。 シリーズ第19弾となる今回の旅で、一行は一人のバス運転手と出会った。高校の教員をやっていたその男性は、去年からバス運転手の仕事を始めたそうだ。その理由は、この『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』という番組が好きで、運転手をやってみたかったから。そう、人が季節をめぐるように、バスは路線を周り続ける。イライラする必要なんてないのだ。ここがどんな場所であれ、この世界は、それほど悪いものではない。 【検証結果】 2014年の暮れに行われた衆院選で自民党の安倍総裁が掲げたスローガンは「この道しかない」という、この息苦しい世の中のムードを的確に捉えた勇ましい言葉だった。だが、それは『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の思想とは真逆のものだといえるだろう。道なんていくらでもある。そして人は、どの道を選んでもいい。差別や排除など必要ないのだ。あの蛭子能収に対してもイライラしない太川陽介という人間の存在は、確かにそれを証明している。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa
『笑っていいとも!』終了で迎えたテレビの大きな転換期 カギを握る「タレント」は?
2014年のテレビを振り返ろうとするなら、フジテレビ『笑っていいとも!』の終了に触れないわけにはいかないだろう。日本に住むすべての人々にとって、そこにあることが当たり前の風景は、2014年3月をもって失われた。テレビ番組とは終わることを宿命付けられたものだと頭では理解していても、一つの時代の喪失を目の当たりにするというのはなかなかに寂しいものだ。しかしだからといって、もちろん「テレビ」そのものが終わってしまったわけではない。 『笑っていいとも!』の最後のセレモニーは、絶対に共演はあり得ないとされていた芸人たちを一つのフレームに収めた。あって当たり前の風景が失われたのならば、あり得ない風景を見ることができるかもしれない。喪失とは、次の誕生への第一歩である。『笑っていいとも!』のセレモニーは最後を告げる葬式であり、同時に新たな時代の誕生を呼ぶ祝祭でもあったはずだ。テレビは新しくなる。新しくならなくてはいけない、そういう時期だ。そんな2014年。テレビで何が起こっていたのか、タレントという視点から振り返ってみたい。 <1>ベテラン勢が見せた「強さ」 『笑っていいとも』が終了した今年、タモリは新番組『ヨルタモリ』(フジテレビ系)をスタートさせた。年齢も年齢であり、大人向けのトーク番組あたりに落ち着くのではという周囲の予想は、いい意味で完全に覆された。タイトルにあるように、まさしく「夜のタモリ」全開のエキセントリックに振り切れたアナーキーな番組。なんというか、ものが違う。第一線で活躍し続けたタレントの「強さ」を、あらためて認識させられたのだった。 また今年は、TBS『水曜日のダウンタウン』が開始された記念すべき年でもある。演出の藤井健太郎氏は1980年生まれであり、いわばダウンタウン直撃世代といえるが、松本人志や浜田雅功に媚びることなく、変に恐れることなく、ただただまっすぐに面白いVTRをぶつけてくる。それを見て笑うダウンタウンの笑顔が、また愛おしい。それでいてこの番組は、小さく閉じることなく世間に向かっている。情報性がないと見てもらえないだとか、このタレントだと数字が取れないだとか、そんな下らない意見には耳を貸さず、自分たちが面白いと思うものは視聴者も面白いと思うはずだという信念。そして、その信念に見合った技術としつこさ。今のダウンタウンだからこそできる出演者とスタッフの化学反応が、この番組には確かにある。 そしてとんねるずは、フジテレビ『みなさんのおかげでした』で新たな秀逸な企画を量産し、ハライチの澤部佑ではなく岩井勇気に「チンピラ」という視点を与えるなど、とんねるずにしかできないやり方で多くの種をまいている。内村光良はNHK『LIFE!』にコントの場を求め、南原清隆の日本テレビ『ヒルナンデス!』は一見ほのぼのしたお昼の情報番組という体裁を取りながらも、実はそのVTRは非常にレベルの高いバラエティをやり続けている。いずれをとっても、今年、ベテラン勢の「強さ」が目立った。それはとても素晴らしいことだが、この牙城を崩す若きタレントが求められているというのも、また事実ではあるだろう。 <2>「本業アリ」タレントのブレーク ふなっしー。ヒロミ。坂上忍。織田信成。いずれも今年ブレークを果たした、あるいは昨年のブレークからさらに飛躍を果たしたタレントだが、彼らには共通点がある。それは「本業がある」という点だ。ふなっしーの本業はあくまでもゆるキャラであり、タレント業はいわば余技であるといってもいい。ヒロミは実業家としての顔を持ち、坂上忍は役者であり、織田信成はフィギュアスケーターだ。タレント業がなくてもおそらく生活していけるであろう人々が、今年ブレークを果たした。 ここ数年でいわゆる「ブレーク」を果たしてきたのは、いずれも芸人であった。特に持ちギャグやフレーズを持った芸人である。スギちゃんしかり、レイザーラモンHGしかり、エド・はるみしかり。今年も日本エレキテル連合というブレーク芸人は誕生したが、かつてと比べてその数は明らかに減っている。これはお笑いブームがいったん終わりを告げたという事実にも由来するが、視聴者や制作サイドが、いわゆる「一発屋」に辟易しているということもあるだろう。むしろ現在の「一発屋」の座は、佐村河内守氏や、小保方晴子氏や、号泣県議が担っている。これ以上の「一発屋」は、もはや必要ないということだ。 だからこそ前述したブレークタレントは、「本業」を持っていることが重要である。本業がほかにある以上、「一発屋」になることはない。テレビ以外の場所が彼らにはあるのだから。そして社会全体がどうかしてしまっている今、この傾向は今後も続くだろう。テレビしか場所を持たないタレントは、なかなか世に出るのが難しい時代が来ているのではないだろうか。 <3>「芸人」は新たな地平を目指す 2014年12月現在、いわゆる「ネタ番組」は日本のテレビには存在していない。数年前のネタブームがウソのようだが、今年は最後の砦ともいえるNHK『オンバト+』が3月をもって終了。いよいよ若手芸人が光を浴びる場所はなくなっている。加えて、前述したように上が「強い」あまり、中堅芸人の高年齢化も進んでいる。どこを見渡しても八方ふさがりの状況で、「芸人」は新たな地平を目指すことになった。 劇団ひとりの『青天の霹靂』映画監督デビューや、アンジャッシュ・渡部のグルメタレントへの転換などもその一つだが、最も象徴的だったのはバカリズム脚本によるフジテレビのドラマ『素敵な選TAXI』が挙げられるだろう。深夜のチャレンジや単発ものではなく、夜10時台の連続ドラマの脚本である。そしてバカリズムはそのハードルを軽やかに飛び越え、脚本家としても一流であることを証明した。決して強いキャストが集まっているわけでもなく、時にはほぼ丸々タクシーの中だけで完結する回もあったが、視聴率的にも大健闘。面白い脚本があればドラマは見られる、という当たり前の事実を知らしめた。 もちろん、そんなことができるような才気と意欲あふれる「芸人」は多くはないだろうが、しかし事実として「芸人」の数に対して席が少なすぎるというのは確かだ。しかしこれは、ある意味ではチャンスでもあるだろう。席がなければ、席を作ればいい。ライブシーンを見れば、漫才もコントもネタの質は充実している。テレビの枠を飛び越えて「芸人」の才能が求められる場所をどうやって作るのかが、これからの「芸人」の課題になるだろう。 <総括> 『笑っていいとも!』終了という事件は、将来から振り返っても大きな転換点だったと語られることだろう。さらにいえば、視聴環境の変化やネットにおける動画配信サービスの充実、ならびにデバイス環境も大きく変わりつつある。コンテンツだけでなく、テレビそのものが大きく変わることを要請されていて、実際に大きく変わりつつある。今後もテレビの試行錯誤が続くことは間違いないが、それでも新しい息吹は確かにある。新しいテレビの時代が、もうすぐそこまで来ている。2015年からのテレビは、果たしてどんな風景を見せてくれるのだろうか? いち視聴者として、楽しみでならない。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『タモリ』(Sony Music Direct)
東国原英夫の「失言」が示す、2014年以降のテレビのあり方『ワイドナショー』(12月21日放送)を徹底検証!
2014年もまたさまざまな出来事が起こった年ではあったが、テレビでは果たして何が起こっていたのか。今年のテレビを象徴する人物として名前が挙げられるべきは、芸人でも、俳優でも、アイドルでもないだろう。佐村河内守氏と新垣隆氏であり、小保方靖子氏であり、野々村竜太郎氏であるはずだ。少なくとも2014年のテレビを席巻し、視聴者の欲望を満足させたのは、ドラマやバラエティではなく、彼らのリアルな記者会見の姿であったことは間違いない。 テレビは時代を象徴するものだから、テレビを考えるということはその時代を考えることでもある。では、2014年はどういう時代なのか? 一言で言ってしまうと、「むき出しの時代」ということになるかもしれない。キャラクターの強い人々の記者会見を楽しむという行為は、下世話を通り越してむしろ下衆とも言えるが、その善悪はともかくそれが今のモードである。かつては品がないとしてどこか遠慮があったものだが、その考え方は古い。何しろ「むき出しの時代」なのだから仕方がない。 それは、世間で起きたさまざまな事件にも感じ取ることができる。ヘイトスピーチであれ、安倍首相の発言や政治行動であれ、あるいは先日のJR東京駅で起きた記念Suicaの発売におけるゴタゴタも、まさしくその一例だろう。「すべての人に行き渡るように販売する」と言う駅員に対して「それだと転売できねえんだよ!」と声を荒げるというのは、まさしく2014年的だ。身も蓋もない。恥という意識がそこにはない。誰もかれもがむき出しである。ここ数年は「可視化の時代」と言われていたわけだが、それがエスカレートして「むき出しの時代」に突入したのが、2014年だと言えるだろう。 そしてテレビはまた、その時代の変化を感じ取りながら、世間に対してその時代なりのアプローチをする。その最も象徴的な番組が、松本人志がコメンテーターとなり、世の中のニュースについて語る『ワイドナショー』だ。2014年4月からは、それまで『いいとも増刊号』を放送していた枠に移動、というのもまた象徴的である。そもそも松本人志は、世間の変化に対して非常に敏感であり、独特の嗅覚を持っている。というか、売れる芸人にはそれが必ずあるわけだが、『ワイドナショー』もまた彼の嗅覚の鋭さを示している。確かに時代は変化しているのだ。 だが、その時代の変化を感じ取れずに、うまく対応できていないタレントも、また存在する。12月21日に放送された『ワイドナショー』のゲストは、長嶋一茂、ホラン千秋、そして東国原英夫であった。取り上げたニュースは、小保方氏のSTAP細胞問題に終止符が打たれた、というもの。長嶋一茂は「STAP細胞が見つかったと聞いて、希望を持った人がいるのに」と語り、ホラン千秋は「小保方氏を心配してしまう」と、女性目線からの意見を投げかけた。 そして、その後に続く東国原英夫のコメントは、次のようなものだった。 「待ってるドナーがいるわけですよ。僕、どれぐらい期待したか」 そう語った瞬間、完全に微妙な空気がスタジオに流れる。要は、自身のハゲネタに持っていこうとしているのだ。しかし明らかに、東国原英夫に求められているコメントはそっちではない。松本人志が「もうね、すぐそうやってハゲネタに逃げるでしょ?」と返して一応の流れは断ち切られるのだが、これは明らかに東国原英夫の作戦ミスだと言うしかない。 政治家としての手腕はともかく、タレントとしての東国原英夫は優秀である。少なくとも、これまでは優秀であった。その優秀さは、空気を読むうまさ、という点に尽きる。たけし軍団で鍛えたその能力は、特筆すべきものがある。だがしかし、残念ながら、ずれてきてしまっている。時代が、あるいは『ワイドナショー』が求めるものを、勘違いしている。これは、かなり致命的なものだ。 『ワイドナショー』が求めるものは、持ちネタではない。むしろむき出しの対応力や、その人の本質こそが求められている。ハゲネタを、しかも長嶋一茂が真剣にドナーの失望を語ったあとに披露するというのは、明らかに間違っているし、そこで笑いが起きるはずはない。視聴者がドナーの失望を想起したあとに、東国原英夫のハゲネタで笑うだろうか? これは明らかに、失言だと言えるだろう。少なくとも、政治家として活動していた人間が言うべきことではない。そのズレが、微妙な空気を呼ぶ。明らかに、対応できていないのだ。 この『ワイドナショー』という番組が、あるいは松本人志が求めているのは、たとえば社会学者・古市憲寿の異常なまでの潔癖性と身も蓋もない恋愛観や結婚観であり、コラムニスト・犬山紙子の独自の視点からの男性観や女性観であり、あるいは武田鉄矢の常人にはたどり着かないほどのキラーな発想である。それら、個人の突飛な本質が「むき出し」になる瞬間こそがこの番組の肝であるし、それこそが面白いのだ。「むき出しの時代」に対して「むき出しの個人」で対抗するというのが、本来の『ワイドナショー』の本質である。 繰り返すが、テレビは時代を象徴するものだ。だからこそ「むき出しの時代」へと社会が変わりつつある今、テレビもまた変わらざるを得ないだろう。『月曜から夜ふかし』『有吉反省会』(日本テレビ系)、『櫻井有吉アブナイ夜会』(TBS系)などの番組は、その一端だと言えるかもしれない。あるいは、『解決!ナイナイアンサー』(日本テレビ系)、『爆報!THE フライデー』(TBS系)もそうだろう。時代に応じてテレビは変わる。そしてまたタレントも、その変化に気付いて対応できなくては淘汰される時代が、すぐそこまで来ているのではないだろうか。 【検証結果】 一応言っておくが、「むき出しの時代」や、それに対応するテレビ番組を非難するわけではない。前提となるルールが変わりつつある今、テレビがそれに対応せざるを得ないというのは当然の帰結である。だがここで重要なのは、どのような作法でその変化に対応するかだ。やり方は数多く存在する。だからこそ、そこでは作法と技術が必須となる。2014年以降。テレビは今、まさしくその岐路にある。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ワイドナショー』フジテレビ
ローラはなぜ自由に生きられるのか? フジテレビ系『SMAP×SMAP』(12月8日放送)ほかを徹底検証!
2014年はローラの年であった。今月11日にニホンモニターが発表した「2014タレントCM起用社数ランキング」によると、ローラの起用社数は男女合わせて単独トップとなる14社。『あまちゃん』効果で人気が跳ね上がった有村架純が13社、CM女王の呼び声も高い上戸彩や堀北真希がともに12社ということを考えると、驚くべき数字といえるだろう。 ローラの最大の武器といえば、ともかく彼女の「自由さ」に尽きる。本業はモデルであり、美貌もスタイルも抜群でありながら、そのイメージにとらわれない奔放な言動。いわゆる「天然キャラ」ともまたひと味違う、独特の存在感がある。枠にはまらない自由な生き方。どこを見ても窮屈で締め付けの多いこんな時代だからこそ、ローラの自由さを人々は求めている。 そんなローラが自らの素顔を語ったのが、8日に放送されたフジテレビ系『SMAP×SMAP』だ。普段はテレビであまり見せることのないトップモデルとしての一面や日常生活を語ったわけだが、そこにはローラの生きる哲学が隠されていた。ローラはなぜ自由に生きられるのか? 多くの人のヒントにもなるであろう3つのポイントを紹介したい。 【1】ローラは自分の居場所を持っている トップモデルとして活躍するローラは、今年だけでも実に25回も雑誌の表紙を飾っている。ランウェイを歩く姿も映像で流されるのだが、いつもテレビで見せる笑顔は一切なく、キリッとした表情だ。テレビで見ることはないが、ローラの本業とはあくまでもモデルであり、そのプロ意識は高い。そしてこの、本来の居場所を持っているということが、タレントとしてのローラの自由さを担保していることは間違いないだろう。 我々視聴者がここから学ぶことは多い。一つの場所しか持っていない人間は、ときにそのことによって追い詰められがちである。SNSによるコミュニケーション空間や、職場や学校などのリアル空間、あるいは母親の子育てにしてもそうだが、一つの場所に捉われすぎるのは危険なのだ。仕事でも趣味でも行きつけのバーでもなんだっていいが、本来の自分を出せる場所を一つ持っているだけで選択肢が増える。帰る場所がなくて自由に生きられるほど、大抵の人間は強くはないのだ。 【2】ローラは決して無理をしない 中居正広からモデルっぽい顔をやってくれと頼まれたローラは、一瞬挑戦しようとするが「ダメだ。今日はスイッチが入らない」とあきらめてしまう。それが見せどころであるかどうかは関係ない。できないことはやらないのだ。また、好きな異性はできないのかと尋ねられたローラは「たまに一瞬思うことはあるけど、次の日には忘れちゃう」と答える。これがおそらく、彼女の本質だろう。好きな異性に限らず、悲しいことやつらいことなども「次の日には忘れちゃう」というのがローラという人間なのだ。 ローラは過去や未来にとらわれることなく、今を生きている。だからこそ、圧倒的に自由だ。自分自身を把握することさえ放棄し、ただ、今この瞬間を楽しんでいる。あたかも生まれたての赤ん坊が世界を見るように。確かに生きていれば、嫌なことも多い。だが世界には、それでも楽しさが溢れている。ローラにはそのことが分かっている。彼女の生き方とは、人生讃歌そのものである。 【3】ローラはいつも笑っている そういえば、ローラはいつも笑っている。なので、数えてみた。中居正広と二人でしゃべる8分01秒間で、彼女は実に25回も笑っていた。19.2秒に1回は笑っているという計算になる。この頻度で、笑っているのだ。ほほえむのではなく、声を上げ、ときに手を叩いて笑っている。林家パー子でも、これほどは笑っていないのではないか。相手の話を聞き、そして自分の話をしながら、ローラはくるくると笑っている。 ローラはたぶん、生きていること自体が楽しくて仕方ないのだろう。そしてそれは他人事ではなく、我々にもできることだ。難しい顔をするのは簡単である。だけど、それはひどくつまらない。ローラのようにかわいい顔で笑うのはちょっと難しいかもしれないが、それでも真顔よりは笑顔のほうがずっとマシに見える。笑ってみよう。それは人間だけに許された、とびきりの歓びなのだから。 【検証結果】 ローラはいつでも今を生きている。今を生きることそのものを楽しんでいる。テレビにおいて、それをやり続けた先人が一人だけ存在する。彼は、今年の4月からはお昼の顔ではなくなったが、いつでも今を肯定していた。彼が毎日お茶の間に向かって新宿アルタから呼びかけた「いいとも!」というかけ声は「オッケー!」という口癖に形を変えて、ローラの中でいまだ生き続けている。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaaローラ オフィシャルブログより
モー娘。道重さゆみが伝える3つの仕事の極意 日テレ『おしゃれイズム』(11月16日放送)ほかを徹底検証!
西暦2003年。朝青龍がモンゴル人として初となる横綱昇進を果たし、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が公開され、新語・流行語大賞に「なんでだろう~」が選ばれたこの年の1月19日、道重さゆみがモーニング娘。に加入した。あれから11年と10カ月。モーニング娘。が国民的スターだった時代も、セールス的に伸び悩んだ時代も経験した道重さゆみは、リーダーとしてグループの再ブレークを実現させ、そして未来のモーニング娘。を築くために、14年11月26日の横浜アリーナ公演でモーニング娘。’14を卒業する。 彼女の偉業を書き始めればきりがないので、ここではテレビタレントとしての道重さゆみに注目しよう。それを語る上でまず欠かせないのが、09年1月3日に放送された日本テレビ系『おとなの学力検定スペシャル小学校教科書クイズ!』だ。司会はくりぃむしちゅーの上田晋也。この番組にパネラーとして出演した道重さゆみは、当時自身の方向性に悩んでいた時期ということもあり、ここで結果を残すと心に決めて珍回答を連発、一気にバラエティ界の中心へと足を踏み込むのだった。 バラエティ番組のソロ仕事が増えるにつれ、道重さゆみはある事実に気付く。それは、一般層において、モーニング娘。の知名度は非常に低いという残酷な現実だった。「モーニング娘。」という閉じられた世界ではコンサートでもお客は集まるため、思いもよらなかったその事実を目の前にして、彼女は一つの決断をする。自分が嫌われてもいいから、とにかく今のモーニング娘。に興味を持ってもらおうという、それは明らかに茨の道。その道を、道重さゆみは自ら選んだ。 そして道重さゆみは、「私はかわいい」というアイドルとしては禁忌とも言えるナルシストキャラを開発、さらにそれを毒舌キャラへと進化させる。テレビ朝日系『ロンドンハーツ』でも脚光を浴びて完全にブレーク。この年の秋の「週刊文春」(文藝春秋)の「女が嫌いな女ランキング」で第10位に選ばれるほど、多くの視聴者から嫌われながらも、バラエティから必要とされる存在になることで、今現在のモーニング娘。の認知度を上げていった。 そのイメージの鮮烈さゆえに、テレビタレントとしての道重さゆみに対して今でもそういった印象を持っている視聴者は多いのではないだろうか? 実際、11月16日に放送された『おしゃれイズム』を見れば、それは明らかだ。くしくも『小学校教科書クイズ!』の司会であった上田晋也から「なんで辞めようと思ったの?」と問われた道重さゆみは、後輩たちが頼もしくなってきたからという理由を挙げながらも「自分も25歳っていう年にもなったし、かわいいうちに卒業したいっていうのは(ある)」「かわいいは確かに継続していくと思うんですけど、ピークは今だなって思ったんです」と回答。ここでスタジオの観客からは笑いが起こっている。これはまさに、道重さゆみのナルシストキャラが印象に残っているからこそ起こる笑いだ。 しかし、それは道重さゆみの、ほんの一時代のほんの一面にすぎない。彼女は普段から、アイドルに必要なものは「かわいさ」だと公言しており、モーニング娘。のリーダーに就任した際も「かわいいモーニング娘。にしたい」とマニフェストを掲げている。自身のかわいさについての「ピークは今だなって」という発言は、笑いを取りに行った発言ではなく、本心から彼女はそう思っている。だからこそ、人生を捧げて愛したモーニング娘。を去らなければいけないのだ。 かわいさのピークを迎えた道重さゆみは、11月26日にモーニング娘。’14を卒業する。それでは、彼女が残したものは何もないのだろうか? というと、もちろんそんなことはない。彼女は2014年5月14日に放送されたある番組で、自らが学んだ極意を公のものにしている。それはアイドルにとっての極意でもあるが、人生の半分近くをモーニング娘。のメンバーとして過ごした道重さゆみにとっては、人生の極意でもあり、また仕事の極意でもある。決して他人事ではなく、万人に共有されるべき金言なのだ。 道重さゆみがその極意を語った番組とは、テレビ金沢で放送された『となりのテレ金ちゃん 金沢駅で逢いましょう』というローカル番組である。この番組にゲストとして出演した道重さゆみは、ご当地アイドルとして活動するJumpin’のメンバーから相談を受け、アドバイスを伝えている。大きく分けて以下の3つが、彼女が後世に遺したその極意である。『道重さゆみ SAYUMI』(ZETIMA)









