あのクネクネダンスの原点は、石野卓球のPVだった!? 「NO MORE 映画泥棒」“中の人”o-kiの素顔

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現在40歳のo-kiさん。ダンス歴は25年!
 映画館でおなじみのCM「NO MORE 映画泥棒」。「劇場内での映画の撮影・録音は犯罪です」というメッセージとともに、クネクネと踊る通称・カメラ男の姿は誰もが一度は目にしたことがあるだろう。そんなカメラ男の“中の人”が先日、『笑っていいとも!』(フジテレビ系)で素顔を披露。生キレキレダンスとそのイケメンっぷりに、ネット上は一時大騒ぎとなった。そこで“中の人”こと、ダンサーのo-ki氏の素顔をさらに探るべく、独占取材を敢行した! ――先日の『いいとも!』出演後は、一時「Google」の検索ワード上位にお名前が挙がるなど、大反響でしたね。 o-ki ネタがネタなんで、一時的に盛り上がるだろうなとは思っていましたが、予想以上でしたね。でも、実はカメラ男の“中の人”であること自体は別に隠していたわけじゃなくて、ネットで調べれば僕の素性は出てくるんですよ。 ――この「NO MORE 映画泥棒」CMは、2007年の映画盗撮防止法の施行を受け、同年6月から第1弾、10年3月からはダウンロード違法化に合わせた第2弾、12年11月からは違法ダウンロード刑事罰化に合わせた第3弾に切り替わっているそうですね。最新バージョンではカメラ男の人数が増えていて、ビックリしました。
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(c)「映画館に行こう!」実行委員会
o-ki すべて僕一人でやってます。今まではフリースタイルで踊っていたんですが、新バージョンでは、振付け担当に「振付稼業air:man」が入ってやっているので、以前よりマネしやすいかもれませんね。 ――そもそも、どういう経緯でカメラ男になったんですか? o-ki 以前からかぶり物をつけて気持ち悪い動きをする、というのをずっとやっていて、PVやCMなどにも出ていたんですが、オファーが来た直接のきっかけは、堤幸彦監督のホラー映画『サイレン』の主題歌を石野卓球さんが担当されて、そのPV(「石野卓球 サイレン」YouTube検索結果)を作ったんです。大きなテレビのモニターをかぶった黒スーツの男が、不穏な音に合わせて気持ち悪く踊るというものだったんですが、それを見た「映画泥棒」の監督が、“そのままのイメージで使いたい”ということでオファーを受けました。 ――確かに、カメラ男を彷彿とさせるPVですね。 o-ki 実は第1弾放映後に、「子どもが泣く」とか「怖すぎる」といった声があったようで、だんだんと怖さを薄くしていってるんですよ。第2弾では、キャラクターを増やして怖さを分散させたつもりなんですが、まだ怖いって言われているようで……。それで第3弾では完全にポップなイメージで、音も怖くないようになりましたよ。 ――“中の人”ならではの苦労って、何かあるんですか? o-ki うーん、特にないですね。僕、たいがい誰かの“中の人”なんで。YUKIちゃんの「JOY」のPVに出てくる黒ずくめの男や、木村カエラさんの「jasper」の男のキャラクターも僕です。マスクをかぶって踊るというのが好きなので、そういう仕事が来るんでしょうね。自分が踊るというより、何かのキャラクターになってパフォーマンスしているほうが性に合ってるんですよ。
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Vシネ好きが高じて、過去には俳優としてVシネにも
出演していたという、異色の経歴を持つ。
――そう言われてみると、みんな“気持ち悪い”動きをしてますね(笑)。普段はそういったお仕事を中心に、ダンサーや振付師としてご活躍されているということですが。 o-ki 年も年なんで、率先してダンサーの仕事をするって感じではなく、普段は副理事をしているNPO法人 「Japan Hip-Hop Dance Association」(以下、協会)のPR活動やイベント制作などが多いですね。 ――この協会では、どんなことをしているんですか? o-ki ヒップホップに限らず、ダンスを通じてみんなをつなげていくための協会です。メインの仕事は、毎年3月にやっている「JAPAN HIPHOP CHAMPIONSHIP」という大会。この大会は世界47カ国でやっていて、毎年8月には「WORLD HIPHOP CHAMPIONSHIP」という世界大会があるんです。いわば、ヒップホップダンスのオリンピックです。日本大会で3位までに入ったチームが参加できます。 ――今年は3月30~31日にディファ有明で開催されるこの大会、o-kiさんは毎年、MCとして出演されているそうですが。 o-ki カテゴリーごとに年齢や人数の規定があるので、それに沿っていれば誰でも出場できます。子どもから40歳過ぎまで、過去には70歳を越えた方もいらっしゃいましたね。ほかにもヒップホップの大会はたくさんありますが、この大会は競技としての要素が強いですね。世界共通規定に基づく点数制で、内容も決まったものを入れなくてはいけないですし、シンクロとかに近いんじゃないでしょうか。実際、参加者はみんな日本で勝ち抜いて世界戦に行こうというやつばかりなので、アスリートみたいですよ。 ――世界的に見て、日本のレベルってどうなんですか? o-ki 実は、日本のダンスのレベルはすごく高くて、これまでメダルを取らなかったことってないんです。日本人って根本的には、昔からダンスが世界一うまいと思ってるんですよ。細かい動きが得意で、みんなでぴったり合わせることができる。実際、昨年のジュニア部門(6~12歳)の3位、バーシティ部門(12~18歳)の1位と3位は日本人なんですよ。せっかくみんないい成績を残しているのに、この大会自体があまり知られていないのはもったいないなと思って、今年は僕がこうやって表に出て積極的にPRしているわけです。 ――確かに、“カメラ男”のo-kiさんがこうやってメディアに出ると、PR効果抜群ですね! o-ki 僕はダンスで食べていこうと思ったことはないし、今もそういう感覚はあまりないんです。実際、ダンス以外のこともしてますし。ただ、ダンスが好きだから、踊れる場所が身の回りからなくならないでほしい。そのためには、ダンスが盛り上がることをすればいいって話で。そうすれば当然僕の仕事にもつながるし、それが増えれば増えるほど、みんなの仕事も出てくる。そんなふうに、ダンスというカルチャーをバックアップする役割を担っていきたいなと思っているんです。僕は、みんなが踊れる場所があったらそれでいい。だから、顔を隠しているのが好きなんです。 (取材・文=編集部) jhc.jpg ●「JAPAN HIPHOP CHAMPIONSHIP」 日程 3月30~31日 場所 ディファ有明 < http://www.hip-hop-japan.com/>

「“韓国文化はパワフル”というのはいいことだけではない」『息もできない』ヤン・イクチュンの苦悩

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 2009年、製作・脚本・主演・編集も自ら兼ねた鮮烈な監督デビュー作『息もできない』で話題をさらった、韓国映画の鬼才ヤン・イクチュン。そんな彼が今、『かぞくのくに』(監督:ヤン・ヨンヒ)や『中学生円山』(監督:宮藤官九郎)に俳優として出演するなど、日本映画界での仕事を活発化させつつある。その一環として、山本政志プロデュースの短編競作企画『シネマ☆インパクト』にも監督として参加。来日中の彼に最近の活動、そして韓国と日本の映画界の違いなどについて訊いてみた。 ――まず今回の『シネマ☆インパクト』に参加することになった経緯は? ヤン・イクチュン(以下、ヤン) この企画の主催者である山本政志監督と、偶然このコーヒーショップ(取材場所「カフェ・テオ」。『シネマ☆インパクト』上映館「オーディトリウム渋谷」と同じビルの一階)の前でお会いしたことがきっかけです。僕は映画館で吉田光希監督の『家族X』のトークショーに出演した後だったんですけど(2011年10月22日、渋谷ユーロスペース)、その時に山本さんが撮られた作品のDVDをいただきました。それから一緒にお酒を飲みに行って、しばらくたった後に山本さんから参加依頼のメールをもらって。自分としても、新しい挑戦になるかなと思ってお引き受けしました。 ――山本監督のDVDには何が入っていたのですか? ヤン 『ロビンソンの庭』(86年)と『闇のカーニバル』(81年)と、あともう一本。『ロビンソンの庭』は、とても良い映画ですね。80年代の日本映画は挑戦的で実験的な映画が多い。以前に韓国の日本映画祭で見た『狂った果実』(81年/監督:根岸吉太郎)なども素晴らしい作品だなと感激しました。 ――今回の企画で監督された18分の短編『しば田とながお』ですが、日本人の役者で日本語の映画を演出された体験はいかがでしたか? ヤン 基本的には、普段とあまり変わらないと思います。細かい言葉のニュアンスがよくわからないのは正直ありますが、それは演じる役者本人が一番よく知っていると思うので。演出もいつもと変わらず、カメラも役者もリハなしで本番に入るスタイルでやりました。 ――今回の企画には、ほかの日本人監督も複数参加されていますが、ほかの方の作品はご覧になりましたか? ヤン 実はまだなんですよ。でも、僕は橋口亮輔監督のファンなんです。『ハッシュ!』(01年)や『ぐるりのこと。』(08年)を海外の映画祭で見たんですが、すごく良かった。韓国に輸入される日本映画はまだ数が限られているので、映画祭とか特集がある時に見ています。 Ikjune02.jpg ――ヤンさんは俳優として、昨年公開された映画『かぞくのくに』や、これから公開になる宮藤官九郎監督の『中学生円山』に出演してらっしゃいますね。韓国映画界と日本映画界を往来する面白さ、そこにある違いはどんなものですか? ヤン 『息もできない』以降、韓国では映画界と少し距離を置いているんです。そこで新しい試みとして日本映画に出てみようかってことになったんですけど。日本から韓国の映画界を見ると、日本の昔……70~80年代へのノスタルジアに近いような羨ましさがあるのではないでしょうか。スタッフとキャストが一丸となって、みんなでエネルギーを突っ込んで作る。でも韓国からすると、日本の映画界の分業化されているシステムが羨ましい。映画産業自体は、韓国より日本のほうが何倍も大きいです。長編映画の製作自体も、韓国だと年に100本くらいですけど、日本だと400本以上ですから。韓国で最近作られている映画は、予算100億ウォン(約9億円)くらいの、大きいエンタテインメント映画ばかりに偏っている傾向が見られます。 ――では逆に、韓国ではどういった層がアート系やインディペンデント映画を見ているのでしょう? ヤン 30~40代でしょうか。このくらいが文化的な映画に興味を持っている年代です。今の日本みたいに、韓国も経済や政治だけじゃなくて、文化を余裕を持って楽しむ傾向へと変わってきてはいますが、なかなかそのほかの世代は関心が強くない。  韓国の場合は、社会変化を求める国民のエネルギーが依然高いんですね。たまに日本の知人と話すと、たいてい彼らは、日本文化の良い面より停滞している状況について嘆くことが多い。でも、それは変化の時期を越えて安定期に入ってるということなので、良いことだと思うんです。日本の場合は大変な震災を受けたし、政治家が替わったりしても社会自体は変わらないじゃないですか。韓国は大統領が一人替わっただけで国全体が動くので、個人個人の感情のアップダウンが激しくて、いろいろともやもやしてしまうんです。そういうエネルギーって、悲しいエネルギーだと思うんですね。悔しさとか。あくまで“マザファッキンエナジー”であって、“グッドエナジー”ではない(笑)。それを外から見ると、韓国の文化はパワフルだなって受け止められるんですね。でもエネルギッシュな面は、単純にいい面だけではないってことです。 ――すごく面白いお話ですね。『息もできない』を撮られた後に、韓国の映画界と距離を置いたのはどういった理由だったんでしょうか? ヤン 『息もできない』を撮るために、ほかからの出資がなかったので、お金を全部自分で集めたんですね。さらに監督、シナリオ、編集、ポスプロ、マネージメント、公開まで全部自分でやったんです。いわば、100メガくらいのハードディスクで5テラくらいの仕事をしたので、壊れてしまった(笑)。それと、映画が終わったあとにいろんなオファーが殺到したんですが、それにも対処しきれませんでした。僕はすっかり疲れてしまい、しばらく映画を作ること、役者をやること自体が嫌になってしまったんです。 ――燃え尽き症候群のような? ヤン そうですね。精神的にもつらかったので、病院に通って薬をもらったり。そのあと日本に来て休養して、韓国の人間関係から自由になれたことで随分リフレッシュできました。不思議なことに、昔は考えたこともないくらい、今は“映画そのもの”が愛しくなったんです。映画産業のシステムやスタッフの待遇などにも興味があります。 ――監督と俳優業のバランスは、どうなっていますか? 監督としての次回作に期待する声も大きいと思いますが。 ヤン はっきりとは分けていません。その都度、自然に任せます。全エネルギーを一方に突っ込んで燃え尽きた経験があるので、もっとバランス良く仕事をすることに決めたんですね。なので余計なオファーには応えずに、自分にベストなものを選択して、それにエネルギーを注ぎ込むように変わりました。 ――そのベストの選択の中に、『中学生円山』もあるんですね。 ヤン 実はこの依頼にはつい即座にOKを出してしまったんですが(笑)、そのあとで宮藤さんのことをインターネットで調べたりして、『GO』など、とても良い作品を書かれているシナリオ作家であり、監督であることを知りました。撮影現場では思いやりのある監督で、とても楽しかったですよ。韓国で作品を選ぶ場合は今もすごく気を使うので、海外作品のほうが選択しやすいのかもしれません。『かぞくのくに』にしろ『しば田とながお』にしろ、良い選択だったと思います。学んだこともたくさんありましたし、以前と比べて自分に余裕を持てるようになりましたね。 (構成=森直人/写真=堀哲平) ●ヤン・イクチュン 1975年、韓国生まれ。俳優、映画監督。00年代前半から役者として活動をしながら、09年に『息もできない』で長編映画を初監督。日本を含め、韓国内外で高い評価を受けた。12年にはヤン・ヨンヒ監督の自伝的映画『かぞくのくに』に出演。5月18日からは宮藤官九郎監督作品『中学生円山』の公開が控える。1月26日~2月8日に開催された『シネマ☆インパクト』にて短編『しば田とながお』を上映。

「“韓国文化はパワフル”というのはいいことだけではない」『息もできない』ヤン・イクチュンの苦悩

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 2009年、製作・脚本・主演・編集も自ら兼ねた鮮烈な監督デビュー作『息もできない』で話題をさらった、韓国映画の鬼才ヤン・イクチュン。そんな彼が今、『かぞくのくに』(監督:ヤン・ヨンヒ)や『中学生円山』(監督:宮藤官九郎)に俳優として出演するなど、日本映画界での仕事を活発化させつつある。その一環として、山本政志プロデュースの短編競作企画『シネマ☆インパクト』にも監督として参加。来日中の彼に最近の活動、そして韓国と日本の映画界の違いなどについて訊いてみた。 ――まず今回の『シネマ☆インパクト』に参加することになった経緯は? ヤン・イクチュン(以下、ヤン) この企画の主催者である山本政志監督と、偶然このコーヒーショップ(取材場所「カフェ・テオ」。『シネマ☆インパクト』上映館「オーディトリウム渋谷」と同じビルの一階)の前でお会いしたことがきっかけです。僕は映画館で吉田光希監督の『家族X』のトークショーに出演した後だったんですけど(2011年10月22日、渋谷ユーロスペース)、その時に山本さんが撮られた作品のDVDをいただきました。それから一緒にお酒を飲みに行って、しばらくたった後に山本さんから参加依頼のメールをもらって。自分としても、新しい挑戦になるかなと思ってお引き受けしました。 ――山本監督のDVDには何が入っていたのですか? ヤン 『ロビンソンの庭』(86年)と『闇のカーニバル』(81年)と、あともう一本。『ロビンソンの庭』は、とても良い映画ですね。80年代の日本映画は挑戦的で実験的な映画が多い。以前に韓国の日本映画祭で見た『狂った果実』(81年/監督:根岸吉太郎)なども素晴らしい作品だなと感激しました。 ――今回の企画で監督された18分の短編『しば田とながお』ですが、日本人の役者で日本語の映画を演出された体験はいかがでしたか? ヤン 基本的には、普段とあまり変わらないと思います。細かい言葉のニュアンスがよくわからないのは正直ありますが、それは演じる役者本人が一番よく知っていると思うので。演出もいつもと変わらず、カメラも役者もリハなしで本番に入るスタイルでやりました。 ――今回の企画には、ほかの日本人監督も複数参加されていますが、ほかの方の作品はご覧になりましたか? ヤン 実はまだなんですよ。でも、僕は橋口亮輔監督のファンなんです。『ハッシュ!』(01年)や『ぐるりのこと。』(08年)を海外の映画祭で見たんですが、すごく良かった。韓国に輸入される日本映画はまだ数が限られているので、映画祭とか特集がある時に見ています。 Ikjune02.jpg ――ヤンさんは俳優として、昨年公開された映画『かぞくのくに』や、これから公開になる宮藤官九郎監督の『中学生円山』に出演してらっしゃいますね。韓国映画界と日本映画界を往来する面白さ、そこにある違いはどんなものですか? ヤン 『息もできない』以降、韓国では映画界と少し距離を置いているんです。そこで新しい試みとして日本映画に出てみようかってことになったんですけど。日本から韓国の映画界を見ると、日本の昔……70~80年代へのノスタルジアに近いような羨ましさがあるのではないでしょうか。スタッフとキャストが一丸となって、みんなでエネルギーを突っ込んで作る。でも韓国からすると、日本の映画界の分業化されているシステムが羨ましい。映画産業自体は、韓国より日本のほうが何倍も大きいです。長編映画の製作自体も、韓国だと年に100本くらいですけど、日本だと400本以上ですから。韓国で最近作られている映画は、予算100億ウォン(約9億円)くらいの、大きいエンタテインメント映画ばかりに偏っている傾向が見られます。 ――では逆に、韓国ではどういった層がアート系やインディペンデント映画を見ているのでしょう? ヤン 30~40代でしょうか。このくらいが文化的な映画に興味を持っている年代です。今の日本みたいに、韓国も経済や政治だけじゃなくて、文化を余裕を持って楽しむ傾向へと変わってきてはいますが、なかなかそのほかの世代は関心が強くない。  韓国の場合は、社会変化を求める国民のエネルギーが依然高いんですね。たまに日本の知人と話すと、たいてい彼らは、日本文化の良い面より停滞している状況について嘆くことが多い。でも、それは変化の時期を越えて安定期に入ってるということなので、良いことだと思うんです。日本の場合は大変な震災を受けたし、政治家が替わったりしても社会自体は変わらないじゃないですか。韓国は大統領が一人替わっただけで国全体が動くので、個人個人の感情のアップダウンが激しくて、いろいろともやもやしてしまうんです。そういうエネルギーって、悲しいエネルギーだと思うんですね。悔しさとか。あくまで“マザファッキンエナジー”であって、“グッドエナジー”ではない(笑)。それを外から見ると、韓国の文化はパワフルだなって受け止められるんですね。でもエネルギッシュな面は、単純にいい面だけではないってことです。 ――すごく面白いお話ですね。『息もできない』を撮られた後に、韓国の映画界と距離を置いたのはどういった理由だったんでしょうか? ヤン 『息もできない』を撮るために、ほかからの出資がなかったので、お金を全部自分で集めたんですね。さらに監督、シナリオ、編集、ポスプロ、マネージメント、公開まで全部自分でやったんです。いわば、100メガくらいのハードディスクで5テラくらいの仕事をしたので、壊れてしまった(笑)。それと、映画が終わったあとにいろんなオファーが殺到したんですが、それにも対処しきれませんでした。僕はすっかり疲れてしまい、しばらく映画を作ること、役者をやること自体が嫌になってしまったんです。 ――燃え尽き症候群のような? ヤン そうですね。精神的にもつらかったので、病院に通って薬をもらったり。そのあと日本に来て休養して、韓国の人間関係から自由になれたことで随分リフレッシュできました。不思議なことに、昔は考えたこともないくらい、今は“映画そのもの”が愛しくなったんです。映画産業のシステムやスタッフの待遇などにも興味があります。 ――監督と俳優業のバランスは、どうなっていますか? 監督としての次回作に期待する声も大きいと思いますが。 ヤン はっきりとは分けていません。その都度、自然に任せます。全エネルギーを一方に突っ込んで燃え尽きた経験があるので、もっとバランス良く仕事をすることに決めたんですね。なので余計なオファーには応えずに、自分にベストなものを選択して、それにエネルギーを注ぎ込むように変わりました。 ――そのベストの選択の中に、『中学生円山』もあるんですね。 ヤン 実はこの依頼にはつい即座にOKを出してしまったんですが(笑)、そのあとで宮藤さんのことをインターネットで調べたりして、『GO』など、とても良い作品を書かれているシナリオ作家であり、監督であることを知りました。撮影現場では思いやりのある監督で、とても楽しかったですよ。韓国で作品を選ぶ場合は今もすごく気を使うので、海外作品のほうが選択しやすいのかもしれません。『かぞくのくに』にしろ『しば田とながお』にしろ、良い選択だったと思います。学んだこともたくさんありましたし、以前と比べて自分に余裕を持てるようになりましたね。 (構成=森直人/写真=堀哲平) ●ヤン・イクチュン 1975年、韓国生まれ。俳優、映画監督。00年代前半から役者として活動をしながら、09年に『息もできない』で長編映画を初監督。日本を含め、韓国内外で高い評価を受けた。12年にはヤン・ヨンヒ監督の自伝的映画『かぞくのくに』に出演。5月18日からは宮藤官九郎監督作品『中学生円山』の公開が控える。1月26日~2月8日に開催された『シネマ☆インパクト』にて短編『しば田とながお』を上映。

超常現象を信じる人がいるから超常現象は起きる!? 新鋭ロドリゴ監督が暴くスピリチュアル系の欺瞞

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ロバート・デ・ニーロが盲目の超能力者を演じた
新感覚サスペンス『レッド・ライト』。堤幸彦監督の『トリック』が好きな人には
見逃せない内容なのだ。
 超能力は存在するのか? 超常現象は実在するのか? スペイン出身の俊英ロドリゴ・コルテス監督の新作サスペンス『レッド・ライト』は非常に興味深い題材を扱っている。オカルト雑誌「ムー」愛読者ならずとも気になる内容だ。しかもキャスティングがすごい。空中浮遊に透視能力、さらには心霊手術まで披露する伝説の超能力者に名優ロバート・デ・ニーロ。超能力者のトリックを見破る超常現象バスターズに『エイリアン』シリーズのシガーニー・ウィーバーと『バットマン ビギンズ』(05)などクリストファー・ノーラン作品の常連俳優キリアン・マーフィー。さらに『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(2月23日公開)でカルト宗教団体から逃げ出した少女役を熱演し、ブレイク確実視されている若手女優エリザベス・オルセンも出演。邪悪な超能力者サイモン・シルバーと超常現象バスターズの間で熾烈な心理戦が繰り広げられる。異色サスペンス『[リミット]』(10)の成功でハリウッド進出を果たしたロドリゴ監督が来日。企画意図やロバート・デ・ニーロへの想いについて語った。  『レッド・ライト』のオープニングエピソードがとてもシンボリックだ。超常現象バスターズである物理学者のマーガレット博士(シガーニー・ウィーバー)と助手のトム(キリアン・マーフィー)は、ポルターガイスト現象で騒がれる一軒家を訪ねる。家の中に招かれた2人は降霊術の最中にテーブルが宙に浮き、部屋中の家具が揺れ動くのを目の当たりにする。おろおろする家の住人を尻目に、バスターズの2人は落ち着いたもの。見事な洞察力でポルターガイスト現象の謎を解き明かす。「超常現象は、超常現象を信じる人の前で起きる」。それがバスターズ2人の共通する考えだ。
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スペイン出身のロドリゴ・コルテス監督。
「スペインでも70~80年代にユリ・ゲラーブームがあって、みんなでスプーン曲げやったよ(笑)。
でも、デ・ニーロが演じるサイモンはユリ・ゲラーと違って、とても邪悪な存在なんだ」。
ロドリゴ・コルテス監督(以後、ロドリゴ) 「今回の脚本を書き上げるために、僕は1年半の時間を掛けてリサーチしたんだ。超能力や超常現象を肯定する派と否定する派の両方の立場について取材したよ。対立する2つの立場を取材して分かったことは、どちらも同じだということ。自分の都合のいい理由や証拠だけを持ち出して、自分たちは正しいと信じている。肯定派は肯定できる部分だけを見て、否定派は否定できる部分だけを見て、自分たちを正当化しているわけなんだ。要は、人間とはまず最初に結論を用意して、そのために都合のいい事象だけを自分の中に取り込んでいく生き物だということ。もちろん起きた現象が人間に影響を与えることはあると思うよ。でも、逆に人間の心理が現象に影響を与えている場合もあると僕は思うんだ」  本作はパッと見はサイキックホラーものと思いがちだが、実は超能力や超常現象といったものに惑わされる人間の心理について描いている。単なるジャンル映画で済ませないロドリゴ監督の意欲が感じられる。
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超能力者サイモン・シルバーの秘密を暴くことに
のめり込んでいくトム(キリアン・マーフィー)。
怪しさ漂うサイモンにどうしようもなく惹き付けられてしまう。
ロドリゴ 「超能力や超常現象を使ってサギまがいの行為を働く人たちのエピソードをいろいろと盛り込んでいるけど、それはあくまでも物語のバックグラウンドとして描いたもの。マーガレットやトムたちは科学的に超能力や超常現象の謎を解き明かそうとするわけだけど、ではその謎を追っている自分自身は何者であるのかということがメインテーマなんだ。僕がいちばん興味を持っているのは『人間を突き動かしている原動力は何か?』ということ。僕が今回の脚本を書きながら考えたことは、『矛盾こそが人間を突き動かしているのではないか』ということだったんだ。人間は誰しも『こんな人間になりたい。理想の人間に近づきたい』と思うもの。でも、その一方では、今の自分とは別の自分になることを恐れるという矛盾も抱えている。こういった矛盾は誰もが抱えている問題。そういった人間の持つ矛盾、複雑な内面こそ、僕は面白く感じられる。その命題を、どうすればエンターテインメント作品にすることができるかを考えて作ったのが、この作品なんだ」  次々と自称超能力者のトリックを見破るマーガレット博士は、タイトルとなっている“レッド・ライト”という言葉の意味を劇中で説明する。超能力ショーなどが開かれる会場では、超能力に救いを求める人たちの群れの中に、違和感を放つ存在が紛れ込んでいる。それがレッド・ライトだと。悩みを抱える人たちや超能力を妄信的に信じている人たちは超能力者が披露する技に夢中で、周囲を気にかける余裕はない。そんな人たちからどれだけお金を搾り取ることができるかを値踏みしている輩が会場には徘徊している。そいつの尻尾をつかめば、超能力者の化けの皮も剥ぐことができるというわけだ。だが、そのレッド・ライトは「危険、ここから先は近づくな」という信号でもある。 ロドリゴ 「“レッド・ライト”という言葉自体は僕が考え出したもの。でも僕は1年半掛けて取材する中で、超能力を科学的に研究するチームに参加して一緒に作業にも加わったし、逆に超能力を売り物にしてお金を稼いでいる人たちも取材したんだ。客席にサクラを用意したり、ステージ上にいる自称超能力とは別に仕掛けを用意している陰のスタッフがいることは、実際に頻繁に使われている手口なんだ。僕自身は70年代の政治サスペンスが大好きで、自動車の中でシガーニー・ウィーバーがエリザベス・オルセンにレッド・ライトについて話すシーンをやりたかった。業界の秘密を大物がビギナーに教えるくだりは、いかにも社会派スリラーっぽいだろ(笑)」  本作の売りは、ロバート・デ・ニーロの出演。マーガレット博士でさえ恐れをなす伝説の超能力者サイモン・シルバーをデ・ニーロがケレン味たっぷりに演じてみせている。デ・ニーロのカリスマ性を生かした、うまいキャスティングといえる。
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優秀な物理学者であるマーガレット博士(シガーニー・ウィーバー)だが、
サイモン・シルバーを非常に恐れている。
過去にテレビの公開討論番組でサイモンに打ち負けた過去があった。
ロドリゴ 「僕にとってロバート・デ・ニーロはスーパースター。僕がそもそも映画監督を目指すようになったのは、マーティン・スコセッシ監督の影響。そしてスコセッシ監督作品といえば、ロバート・デ・ニーロだよね。スコセッシ監督とデ・ニーロが組んだ実録犯罪映画『グッドフェローズ』(90)は、僕にとって忘れられない1本。マイベストムービーを3本挙げるなら、『グッドフェローズ』に、やはり2人のコンビ作『レイジング・ブル』(80)、それにデ・ニーロの出世作『ゴッドファーザーPART Ⅱ』(74)だね。そのくらいデ・ニーロのことが好きだったので、脚本を読んだデ・ニーロが『出演してもいい』と返事をくれたときは信じられなかった。僕は、あくまでも起きた事実しか信じない人間なんだ(笑)。物事って98段目までうまく昇れても99段目で足を踏み外したら、せっかくの全体像を知らずに終わることになるので、慎重を期したよ。本作の撮影のためにデ・ニーロが飛行機に乗ったと聞いたとき、初めてホッとしたんだ(笑)」  ロゴリゴ監督の期待に応えたデ・ニーロが、伝説の超能力者役にどのようなデ・ニーロ・アプローチみせたかは、スクリーンで確かめてみてほしい。自称超能力者のうさん臭さ、はったり感をうまく醸し出していることは確かだ。  ドキュメンタリー監督でもある森達也氏の著書『職業欄はエスパー』(角川書店)では、超能力者と呼ばれる人たちは取り巻く環境とメディアとの関係性に大きく左右されていることに言及。また、地下鉄サリン事件以降、テレビでは安易にオカルトをネタにした番組を放送することも減ったとしてある。だが結局のところ、超能力は存在するのかどうかは断定されないまま『職業欄はエスパー』はページを終えている。無粋ではあることは承知で、ここはロゴリゴ監督に超能力者は存在するのか、超常現象は実在するのかを聞いてみよう。 ロドリゴ 「その質問に対する、僕の答えは『I don’t know.』。僕は、超能力者が存在するのかどうかといった問題には興味が持てないんだ。最初に話したように、人間は自分の立場によって、自分に都合のいいようにしか解釈できないもの。だから僕がここで自分の考えを話しても意味がないよ。自分で考えて、自分で回答を見つけ出すことこそが大事だと思うんだ。でも、まぁ、超能力や超常現象はいくら頭の中で考えても正解は出てこないと思うけどね。ひょっとしたら、この世界には特殊な能力を持った人が存在するかもしれない。でも、それは『ピアノが抜群にうまい人がいる』といったことと大差ないようにしか僕には思えないんだよ(笑)」  なるほど、ならば少年期に憧れたスーパースターを起用して、自分のイメージする世界を映画にしたロドリゴ監督も特殊な能力の持ち主なのかもしれない。 ロドリゴ 「そんなふうに考えたら、世界中が超能力者だらけになってしまうよ。まぁ、そのほうが楽しいかもしれないね(笑)」  ロバート・デ・ニーロやシガーニー・ウィーバーといったハリウッドスターたちの競演に、超能力や超常現象をめぐるトリックのタネ明かしなどの見どころを用意した『レッド・ライト』。超能力肯定派も否定派も、一見の価値あるドラマとなっている。 (取材・文=長野辰次) redlight05_deniro.jpg 『レッド・ライト』 監督・脚本・編集/ロドリゴ・コルテス 出演/ロバート・デ・ニーロ、キリアン・マーフィー、シガーニー・ウィーバー、エリザベス・オルセン  配給/プレシディオ 2月15日(金)よりTOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー  (c)2011 VERSUS PRODUCCIONES CINEMATOGRAFICAS S.L. (NOSTROMO PICTURES) / VS ENTERTAINMENT LLC <http://gacchi.jp/movies/red-light> ●ロドリゴ・コルテス 1973年スペイン生まれ。『Concursante』(07)で長編監督デビュー。イラン戦争を題材にしたワンシチュエーションサスペンス『[リミット]』(10)がサンダンス映画祭で上映され、各国の配給会社で争奪戦が繰り広げられた。3作目となる『レッド・ライト』でハリウッド進出を果たす。『レッド・ライト』のシナリオハンティング中に得た情報をベースに作った、ドキュメンタリータッチのスーパーナチュラル・スリラー『アパートメント:143』(11)の製作&脚本も担当している。

いつも心に「ぺっこり45度」、再ブレイク中のずん・飯尾和樹を構成する“謙虚な毒”

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撮影=後藤秀二
 ずん・飯尾和樹とは、稀代のギャグメイカーであり大喜利テクニシャンでもある。振られたトークは必ずヒットで打ち返す。フェイスも愉快。それなのに、なぜか大ブレイクすることなく、今年で芸歴22年。しかし、昨年あたりからじわじわと世間が飯尾熱を帯びだしたことに、アナタはお気づきだろうか。中堅ベテラン芸人ブームの一角を担う存在でありながら、どこか正体不明。今一番気になる芸人、飯尾和樹の魅力をどこよりも早く、かつ濃密に解き明かす! ――2012年からの怒涛の「飯尾フィーバー」に対して、ご自身はどう思われていますか? 飯尾和樹(以下、飯尾) いやいやいやいや、そんなことはないですよ。 ――芸人界でも非常にミステリアスな存在である飯尾さんが普段どんなことを考えているのかを、今日はぜひともお伺いしたいと。 飯尾 まったくもって普通ですよ……住むんだったら、日当たりのいいところがいいとか。 ――(笑)。では、飯尾さん的に2012年はどんな年でしたか? 飯尾 そうですね。確かに、Suicaのチャージがすぐなくなりました……以前は1000円チャージしておけば、4日、ヘタしたら1週間はもっていたのに。強気に5000円チャージしてその日になくすっていう経験もしまして。人間、調子ぶっこいちゃいけませんね。 ――テレビで見る機会が増えてファンとしてはうれしい限りですが、果たしてなぜ今「飯尾」なのかと。 飯尾 だいたい相方とネタを作るにしたって、今こういうのがウケるとか、こういうのがキテるとか、まったく分からないんですよ。俺たちの場合は、40過ぎのオヤジが笑い合ったものを客に見せるというシステム。それもずっと変わっていないので、本当にどうしてですかね? ――そもそも、芸人を目指されたきっかけとは? 飯尾 うちの両親が『男はつらいよ』が大好きでして、いつも家族で見に行ってましたねぇ。あぁこんな感じで、旅芸人かなんかになれたらいいなぁと。甘い考えで。でも実際に芸人になるにはどうしたらいいのか、よく分からなかったんですよ。 ――どうやって浅井企画に? 飯尾 それはですね、地元の先輩が就職して、五反田エリアの営業担当になったんですね。その時に「飯尾、浅井企画って事務所が五反田にあるぞ」って電話番号を教えてくれて。で、電話をかけたら「一回、顔見せにこい」って言われたんです。ちょうど事務所が「若い子たちを使って喜劇をしたい」と考えていたようでして。 ――タイミング良かったですね! 飯尾 そうなんですよ。で、「お前のちょっと前に、飛び込みで来たやつがいる」って紹介されたのがウド(鈴木)でした。ウドは電話もせず突然事務所にやって来て、「あの~ぼく~」って(笑)。スタッフも驚いて「こういうのは、ちゃんとアポを取って……」と説明したら「ハイ! 分かりました!」って事務所を飛び出して、下の公衆電話から「あの、わたくし、先ほどの」ってかけてきたらしいです(笑)。その1年後くらいに、天野(ひろゆき)が来ました。 ――ウドさんとコンビを組もうとは考えなかったんですか? 飯尾 それは思わなかったなぁ。ボケ同士で、ぶつかっちゃうからじゃないですか。僕は最初、幼なじみと組んでいたんですけどダメで、それから「La.おかき」を5年やってダメで、それでやすと組んだんです。キャイ~ンはね、早かったですよ。結成してもう3年後くらいには『いいとも!』に出てましたからね。 _MG_7323.jpg ――同期のブレイクを、飯尾さんはどんな気持ちで見ていたんですか? 飯尾 とにかく「いっせーのせ!」って、同じ条件でやるわけじゃないですか。条件一緒なんだから、文句のつけようもない。あいつらスゲーな、面白いなって。本当はもっと悔しがったりするべきでしょうね(笑)。ただ、最初にブレイクしてくれたおかげで、いい人ばっかり紹介してもらえました。気の合うスタッフとのご飯に、俺たちを呼んでくれたりして。キャイ~ンがね、俺たちの前に転がっている砂利を全部取り除いてくれたようなもんです。それなのに、俺たちは自分で足ひねってた。なんでこんな真っ平な道で……(笑)。今までそうやって大チャンスを何回逃してきたことか! ――チャンスをモノにできなかった原因とは? 飯尾 昔から、どうしようもなく気が小さいんです。2回連続してスベると、もう固まっちゃう。「La.おかき」を解散して「ずん」を組むまでの2年間は、それこそ出られるのはキャイ~ンのラジオぐらい。でも、そこで気づいたんですよ。あの二人だって、会話の全部がスタッフたちにウケているわけじゃない。だけど、果敢にいくんですよね。それを見て「この世界で生きていくなら、スベったっていくしかないんだ」ということを知ったんです。スベってショックを受けるっていう神経を捨てなきゃいけないと。もちろん、ウドや天野は2回言って伝わらなくても、3回目にはすごい笑いにしますけど。ピンでいた2年間で、それを叩き込まれました。 そう、キャイ~ンがガーッといっていた当時、僕からしたら芸人として理想のコースを歩んでいるようにしか見えなかったんですが、でも、会うとちょっとため息ついてたりするんです。楽しいは楽しいけど、やっぱりやりたいことの2割くらいしかできないって。え? そうなの? この世界は、実力が認められたら、やりたいことなんでもやれるんじゃないの? と。そこには、時間帯の問題とか表現方法とかいろいろあるんですよね。でも、「その2割で思いっきり楽しむんだ」ってあの二人が言っているのを聞いて、あぁ上に行ったら行ったで、そんな悩みがあるんだと。それに比べたら、俺の悩みはなんてちっぽけな。「ぱっくりピスタチオ」が30人の前でスベっている自分を悩んでる場合じゃねぇだろと(笑)。 ――売れた後も大変ということを知ってしまうと、芸人としてのモチベーションを保つのが難しそうですが。 飯尾 僕の場合は、誰かに「やってください」って言われてやってるわけじゃないから(笑)、モチベーションとか考えたことはないですね。だって、すごい大物の方がパッと引退したって、2~3カ月したらもう代わりの人が出てくる世界ですよ。代わりなんて本当はいないんだけど、それでも普通にテレビは回っていく。そう考えると、もう「好き」以外の理由はないんじゃないですかね。 ――芸人を辞めようと思ったことは? 飯尾 ピンになった2年間ですね。でも「あぁ無理かな~」って思ってる時に限って、天野やウド、関根(勤)さんや小堺(一機)さんが笑ってくれる。あの方々に「いやぁ面白いね~」って言われると、「一線で活躍している人たちがそう言ってくれるんだから、もしかしたらまだイケるか?」つって。なんて言うんですかね、痛み止め打ちながらやってきたというか(笑)。いやぁ、勘違いって大事! ――その「痛み止め感」は、“現実逃避シリーズ”にも表現されているような。 飯尾 「なんでも10円で買えたらな~」とか、3~4年前に本気で言っていたことですから(笑)。「ビル・ゲイツの1万円って、俺たちでいう何円か」「1円くらいなんじゃねーか」とか。ちょっとアブナイくそジジイたちですよ。現実逃避しながら粘ってましたね。30過ぎて続けるのって、もうそれしかない。 _MG_7301.jpg ――飯尾さんを語る上で外せないのが「大喜利」だと思いますが、大喜利力はどうやって鍛えてきたのですか? 飯尾 僕に大喜利を教えてくれたのは『内P』でした。あの番組はスベってもなんでも、すべて笑いにしてくれて。内村(光良)さん、さまぁ~ずさん、TIMさん、ふかわ(りょう)くん……終わってから、必ず飲みに行くんですよ。その時に「あの答えは良かった」とか「あれはもっとこうすれば」とかアドバイスもらって、まるで塾に行っているようでした。ギャラもらってるのに。だいたい遅いんですよね、俺は。芸人になって2~3年で習得するべきことを、30から学んでいたとは。 ――しかし、その成果が『ダイナマイト関西』、さらに『IPPONグランプリ』へと続くと。 飯尾 両番組には、本当に助けていただきました。去年『IPPONグランプリ』に出た時は、それはもう緊張で、ガクガクで。やっぱり俺は一人じゃダメなんだなって思った瞬間でもあったんですけど、ステージに出ていく時にですね、自分はメンバーの中の最後から二番目、ラストは(千原)ジュニアくん。そこでジュニアくんがいきなり「飯尾さんって、おいくつなんですか?」って。え? 今それ!? 「あ、よ、43」って言いながら出て行きました。でも、そのおかげで緊張がほぐれた。始まったら始まったで、右のジュニアくん、左の小籔(千豊)くんが、俺のボケを両サイドでツッコんでくれるんですよ。新喜劇の座長と稀代のトークマシンがですよ? そうしたらノッていくじゃないですか。あれはねぇ、もう事務所を挙げてお礼に行かなきゃいけないお二人です。バームクーヘンの一つでも持って。 ――点数を競う番組でありながら、そんな一体感が。 飯尾 僕より5歳も6歳も年下なのに、やっぱりこう自分の城を持てる人たちというか、すべて笑いにするっていう責任感、愛情があるんです。もう、ここの家の子になりたいって思いましたもん。どっか部屋空いてませんか? 多少日当たり悪くてもいいですからと。 ――飯尾さん自身が城を持ちたいとは? 飯尾 やっぱり城を持つ人というのは、ボケがウケた時にそれにカブせてもっと大きな笑いにする時よりも、スベった時にどう笑いに変えていくかっていう、その力がすごいんです。緊急オペの時にどれだけの実力を発揮できるか、ですね。俺なんかもう、ぐっちゃぐちゃの状態で運ばれてきますから(笑)。面白い要素がイマイチお客さんに伝わっていない時に、松本(人志)さんが一言添えるだけでドーンとウケるじゃないですか。あのニンニク注射! 僕には、あんなことできません。「あ~」って言いながら一緒に溺れちゃう。だから、いつも若手に「MCさんにはどっぷり甘えろ」って言うんです。関根さんや小堺さんみたいに、ボケをひとりで処理できるような人はまれだと。最初は甘えて甘えていったほうがいい。気持ち悪いですけどね、40過ぎて「甘えよう」って決心した芸人も(笑)。でも、結局、今までいろんな芸人さんに甘えてきたなって。周りの人に助けてもらって。 ――しかし、正直レギュラーがないって不安ではないですか? 飯尾 以前、出川(哲朗)さんに「僕、関根さんのラジオ以外レギュラーがないんですけど」って相談したことがあったんです。そうしたら隊長……あ、僕らは出川さんを“隊長”って呼んでるんですけど、隊長が「あ~飯尾くん、僕が何年レギュラーなしでやってると思ってんの! だいじょぶ、だいじょぶ。そのほうが動けるからァ」って。そうか、確かにそのほうが動けるよな、と。僕は何か新しい仕事が入ったら、まず隊長に相談します。『IPPON』の時もそうです。出川さんはお酒飲まないんで、俺たちだけ散々飲ませてもらい、最後は家のそばまで愛車のポルシェで送ってくれましてね。降りる時に「隊長、行ってきます、『IPPON』」って言ったら、「あ~飯尾くん、『IPPON』グランプリは人生を変えると思うから、全力で!!」って。 _MG_7294.jpg ――隊長カッコイイ!! 飯尾 何かあると、すぐメールをくれますし。「あ~飯尾君、よかったね、ハネたらしいね。スタッフから聞いたよ~」とか。「あ~飯尾君、MCのあの方はスカしたらダメだよ。全力でぶつかってって」とか。額の横で中指立てながら話してくれるのもシュールなんですよ(笑)。 ――昨年は、やすさんの事故という大きな出来事もありました。あの事故を経て、コンビとしての気持ちに変化はありましたか? 飯尾 そうですね。作戦というか、こういう感じでいったほうがいいのかなっていうのを話すのもやすですし、お前の言う通りにやったらスベったじゃねーかって責めるのもやすですし(笑)。先輩方にも「ああいうことがあったから、気合が入ったんじゃないか?」って言われましたけど、よく考えてみたら、相方があそこまでにならないと気合入んないようじゃダメですよね。最初から、あの気持ちでやってりゃよかったのに(笑)。でも、こういうふうに笑えるようになってよかった、本当に。 ――今回のインタビューで、飯尾さんの天性の人たらし力を確信しました(笑)。しかも、そのほんわかムードの中に「毒」もあるから油断できません。 飯尾 それ、以前(さまぁ~ずの)三村(マサカズ)さんに言われたことあります。「お前のギャグには毒入っているよな」と。 ――でも、誰も傷つけない毒なんです。 飯尾 もうそれは単なる独り言ですね(笑)。浅井企画という事務所自体に、ギラギラ感というか、他人を蹴落としてでものし上がっていくぜ! というような風潮がなくて。そこには「結局は自分」っていう気持ちがあるからかもしれませんが。 ――すべては自分次第であると。 飯尾 そう、“対誰か”じゃなくて。「負けたくない」という気持ちは、起爆剤的なものであればいいんですけど、でも「あいつより上に行きたい」とかは違うような気がしてまして、お笑いの世界では。やすと俺は一番笑ってるって言われますもん、お客さんと一緒に。 ――最後に2013年パーフェクト飯尾イヤーに向け、何か野望があれば。 飯尾 そうですね。まぁ、本当に、オヤジが好きなことやってますんで、一つ温かい目でよろしくお願いします(ぺっこり)。あと野望……月二回はキャイ~ンと仕事したいなぁ。キャイ~ンや浅井企画の芸人たちと一緒に仕事したいです。みんなで飯食い行って、ネタ作ったり。 ――『内さま』みたいな感じですか? 飯尾 いいですね~。やりたいですね本当に。私たちとしては、勇気のあるディレクター様大募集ということで(笑)。とりあえず3カ月、私たちに賭けてみませんか? 衣装はもちろん自前で大丈夫です!! (取材・文=西澤千央) ●いいお・かずき 1968年、東京生まれ。91年デビュー。もともとは村山ひとし(現放送作家・演出家)と「La.おかき」というコンビ名で活動していたが、解散後、やすと2000年に「ずん」を結成し現在に至る。ボケ担当。

「なぜ、お城型のラブホテルは消えたのか?」目からウロコの“エッチ空間”の歴史学

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目黒エンペラー
 幼い頃、街中にそびえ立つお城を見て、不思議に思った読者の方も多いのではないだろうか。年齢を重ねるにつれ、あのお城がラブホテルだったことを知り、その後、自らも利用するようになる。今ではすっかり、あのお城を見なくなってしまったが……。  そんな日本の性愛空間について、連れ込み旅館からモーテル、そして現在のラブホテルまでを豊富な資料と共に考察したのが『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房)だ。著者の金益見氏に、1970年代以降から現在までのラブホテルの流れを中心に話を聞いた。 ――ラブホテルに興味を持ったのはなぜですか? 金益見氏(以下、金) 小学生の時、テレビドラマで殺人事件の現場として描かれていたのがラブホテルで、その時、初めてラブホテルを認識しました。中高生になると、「ベッドの下に死体がある」とか「注射器が置いてある」といった、危険なイメージの噂を耳にするようになりました。ですから、ラブホテルに対して「セクシャルなイメージ」というより、「ダークで怖いイメージ」を抱いていました。ところが、90年代に入ると情報誌で明るくポップなイメージで特集を組まれるようになり、私の中のイメージとのギャップに違和感を抱き、調べてみようと思ったんです。 ――確かに、テレビドラマのサスペンスでは、そういった怖いイメージで描かれていた印象があります。今まで何軒くらいのラブホテルを取材されているのでしょうか?  だいたい300軒ほどではないかと思います。ただ、何軒かというよりは、何室見たかのほうが重要なのです。1軒のラブホテルでも、一番料金の高い部屋と、真ん中、一番安い部屋を見ないと、そのホテルが何を発信しているのかわかりません。 ――30代以上の読者の中には、ラブホテルといえば、幼い時に街中で見かけた“謎のお城”の印象が強いと思います。その先駆けとなったのが、1973年にできた目黒エンペラーだったわけですね。  ラブホテル業界において、目黒エンペラーはエポックメイキング的存在です。外観はおとぎの国をイメージした西洋風の古城でした。また外観だけでなく、当時の資料映像を見ると、奇抜な仕掛けが満載でした。例えば、ゴンドラバスという仕掛けです。これは男女が裸でシースルーのゴンドラに乗ると、ゴンドラごと移動し、お風呂に浸かるというものです。今見ると「こんなんいるか?」と思うような仕掛けですが(笑)。しかし、そういった外観や仕掛けが、それまでの連れ込み旅館のイメージを一掃したのです。  また、当時を知るアメニティ会社の方に話を聞くと、取材に来たマスコミに、粗品として3,000~5,000円くらいのライターを渡していたそうです。そのため、マスコミが押し寄せ、大変な話題となり、都内だけでなく全国から観光客が押し寄せたそうです。  すると、お城の外観をしたホテルであればお客さんが来ると考えた全国のラブホテル経営者が、次々と同じような外観のホテルを造っていったのです。これはラブホテル業界の特徴で、何年かにひとり、遊び心のある経営者が出て、新たな試みをして成功すると、それがあっという間に広がるんですね。また、ラブホテルの建築は特殊なので、数社の建築会社が請け負っています。その数社が全国にホテルを作っているので、外観としては似たようなホテルが多くなります。 ――その後、1985年に新風営法が施行され、ラブホテルの外観もシンプルでシックなものへ変わっていくと。その理由とはなんでしょうか?  新風営法では、ラブホテルを明確に定義しました。その定義には、回転式のベッドや1平方メートル以上の鏡の設置などが含まれています。新風営法の定義するラブホテルに当てはまると、立地条件が限られてしまいます。そこで、新風営法の定義に当てはまらないようなホテルを造り、旅館として登録する流れができます。そうすればラブホテル禁止区域でも建てられますし、警察の関与も少なくなります。業界の中では、この法律はザル法とも揶揄され、抜け道ができたんですね。  もうひとつの理由は、ゴージャスでケバケバしいラブホテルに対して女性側が「あれ、なんなん?」と言い始め、ホテル選びの主導権が女性に移り始めたのも大きいと思います。その頃は女性がラブホテルのことをブティックホテルと言い始めた時期で、スタイリッシュでシンプルな、ハイセンスなものを求め始めました。それまでのラブホテルというのは男性が考える「女性が喜びそうなもの」、それがお城やメルヘンチックな外観に反映されていたのですが、この頃から女性のニーズを取りり入れ始めます。それまでのラブホテルは外観にしても、一見すると女性の意見を取り入れているように見えますが、真の意味で女性のことを考えるという意識がありませんでした。例えば、アメニティは男性用の髭剃りや、ヘアートニック、シャンプーなどしかなかったのです。  また、シンプルでシックな流れになった理由として、建築費が安く済んだことも挙げられます。お城のようなゴージャスな外観ははやりましたし、マスコミも取り上げてくれましたが、建築費が膨大になり、真似をできない経営者もいました。こうした3つの理由が、シンプルでシックなホテルの増加に拍車をかけました。 ――85年には、男女雇用機会均等法が改正されています。そういった時代の空気もあったのでしょうか?  そのあたりについてはさほど詳しくはないのですが、時代の流れとして婚前交渉をしないという意識が薄まってきたでしょうし、女性が3歩下がって歩く時代ではなくなり、積極的に意見を言える時代になったのではないでしょうか。 ――90年代に入り、「ぴあ関西版」などの情報誌でラブホ特集が組まれるようになりました。この影響は大きかったのでしょか?  私はそう考えています。というのも、それまでラブホテルの情報はありましたが、役に立つ情報はありませんでした。マスコミはそのホテルの中でも、話題となるような一部の部屋だけを取り上げていましたが、実際に行っても、目当ての部屋には入れないことが多々あった。結局、それまでのマスコミ情報というのは、話題であって情報ではなかったのです。  情報誌が特集を組むことにより、休憩は何時から何時まで、料金はいくらか、アメニティは何があるのかを調べられるようになりました。それまでラブホテルというのは、事前に調べて行く場所ではなく、行き当たりばったりで行く場所であったのが「この日、この時間に、このホテルに行こう」とできるようになったのが、情報誌がもたらした大きな変化です。 ――ここまでゴージャスからシンプル・シックという流れがあり、現在はどんな方向なのでしょうか?  現在はホテルのタイプも増え、ありとあらゆるニーズに応えられるホテルが乱立している状況ですね。世の中のニーズの多様化に伴い、ラブホテルもそうした傾向にあります。これまで休憩は大阪1時間、東京2時間でしたが、時間設定もバラバラです。ホテル側もマーケティングをし、利用客のニーズに合わせて時間設定をしています。ですから、現在こんなホテルがはやっていると言うのが難しい。本当に多種多様で、セクシャルな仕掛けを追求しているホテルもあれば、リゾートや癒やしを追求しているホテルもあります。また、シティーホテルのデイユース(日中、時間貸しで部屋を利用できる)も増えてきました。 ――最近の若い人はあまりホテルを利用しなくなり、ラブホテル業界自体も、70年代に比べるとさほど儲からなくなっていると聞きます。これは、自宅に自室を持てるようになったという日本の住宅事情の変化が大きいのでしょうか?  住宅事情ももちろんありますが、恋愛事情が変化したこともあります。ひとつには、草食系男子に代表されるように、あまりセックスをしないカップルが増えた。また、漫画喫茶やカラオケボックスのように個室空間や遊ぶ方法も増え、しかも安く遊べるようになった。90年代までのラブホテルは、セックス以外にもカラオケを楽しんだりと、セックス「も」できる場所でした。現在の若い人にとって個室空間は増えましたが、漫画喫茶やカラオケボックスでセックスをするわけにはいかない。ですから、逆にラブホテルはセックス「を」する場所になっているのではないでしょうか。 ――数社の建築会社がホテルを造っているということですが、地域差はあるのでしょうか?  私は北海道と沖縄には取材に行ったことがないのですが、それ以外の地域では地域差というより、都市部か田舎かという違いが大きいですね。都市部では、ホテルのフロントで対面するところもありますが、田舎では絶対に対面では難しい。田舎では、隣近所との付き合いが密ですから。 ――海外には、日本と同じようなラブホテルはあるのでしょうか?  あるにはありますが、日本のような形態で造っても、同じようには利用されていません。例えば、韓国にも日本のラブホテルと外観やフロントが同じようなホテルがあります。ですが、女性同士の利用や、ビジネスホテル代わりに利用されています。また、フランスには、日本のラブホテルのようなセクシャルな感じを取り入れた高級なシティーホテルのスイートルームがあります。 ――本書には、昔のホテルの新聞広告などの資料も多数掲載されていますね。  資料集めには大変苦労しました。ただ、ある教授に言われた言葉に救われました。「君の研究をキワモノ扱いする人もいる。ラブホテルを研究したところで、世間にどう評価されるかはわからない。でも、君しかラブホテルの研究をしていないから意味がある。この研究の資料を残しておかないと、数百年後の人たちは、今の時代のラブホテルのことがわからない。100年後の人を読者に想定しなさい」。こう言われ、100年後の人たちのことを考えて頑張れましたね。 ――出版後の反響はどうですか?  前著の『ラブホテル進化論』はとにかく話題性はありましたが、本書は著名な学者さんが書評を書いてくださったりと、わりと堅いところから評価されています。通史としてまとめたので、学問として評価されたのかなと思います。 (構成=本多カツヒロ) kimsan_0131.jpg ●きむ・いっきょん 1979年大阪府生まれ。神戸学院大学大学院人間文化学研究科地域文化論専攻博士後期課程修了。現在、神戸学院大学非常勤講師、大手前大学非常勤講師を務める。著書に『ラブホテル進化論』(文藝春秋)、共著に『サブカルで読むセクシュアリティー欲望を加速させる装置と流通』『恋愛のアーキテクチャ』(共に青弓社)がある。

違和感ではなく、共感を拾い集めたい――メディアが報じない「北朝鮮の日常」

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(c)Ari Hatsuzawa
 写真集『隣人。38度線の北』(徳間書店)は、写真家の初沢亜利が2009年から3年間にわたって北朝鮮を取材した記録だ。しかし、平壌をはじめ新義州や咸興などの地方部まで撮影した本書をめくってみると、どこか違和感が生まれる。テーマパークで無邪気に遊ぶ人々や、マラソン大会に参加するランナー、海水浴を楽しむ人々……。人民服を着た軍人すらも、あっけらかんとした笑顔で写っている。  多くの日本人がイメージする「北朝鮮」とは、スタジアムで一糸乱れぬマスゲームを披露する姿や、重苦しく垂れこめた曇り空の下で貧困と圧政に苦しむ人々だった。だからこそ、北朝鮮とは“悪い国”であり、イラン、イラクとともに「悪の枢軸」として認定されたはずだった。  僕たちがこれまでテレビのニュースで見てきた「北朝鮮」とは、一体なんだったのだろうか? 初沢氏の写真は、無言でこの問いを突きつけてくる――。 ■北朝鮮を取り巻く状況 ――『隣人~』は、北朝鮮をモチーフにした写真集の中でも、かなり異質な仕上がりなのではないかと感じました。この作品に迫るにあたり、まず、初沢さんが北朝鮮に興味を持ったきっかけを教えてください。 初沢亜利(以下、初沢) 北朝鮮に興味を持ったのは、写真家であるからというわけではなく、拉致問題などの報道に触れ、市民感覚として芽生えたものでした。ただ、写真家としてメディアで仕事をしている立場から、報道の方向性やその意図を推し量りながら見る部分もあります。当時は、反北朝鮮ナショナリズムを盛り上げることで、「救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)」や「拉致議連(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)」といった組織の利害に流れが傾き、拉致被害者やその家族が蚊帳の外の状態だったんです。 ――特に、2000年代の初めから中盤は、ナショナリズムを煽る北朝鮮報道が多かった記憶があります。 初沢 拉致被害者の家族も高齢化してきており、そろそろ対北朝鮮姿勢を見直さなければならない。それにもかかわらず、強硬路線一辺倒では日朝関係が動くこともなく、安全保障上の脅威も高まったままです。この状況で写真家として何ができるかを考え、2010年から4回にわたって北朝鮮を訪れました。 ――一般に、北朝鮮では自由に撮影できないというイメージがあります。北朝鮮が用意した2人の案内人に監視されながら、初沢さんは不自由なく撮影できたのでしょうか? northkorea1728.jpg 初沢 案内人の目を盗んで撮影しようとする記者が多く、彼らもメディアの人間に対しては警戒心を働かせています。僕の場合、彼らと信頼関係を築くことで、少しずつ撮影させてもらえる範囲を広げていきました。 ――北朝鮮の案内人と信頼関係を築く……一筋縄ではいかなそうですね。 初沢 いえ、とことん正直に接しただけです。ストレートに自分の気持ちを伝え、「なんでこうなんですか?」と文句も言います。拉致問題やミサイル発射の話などもしました。そうやって、時間をかけて信頼を獲得することで、撮らせてくれる範囲を広げていったんです。また、撮影した写真はすべて見せました。彼らにとっては、あまり国外に見せたくない浮浪児の写真などもありましたが、消してくれという指示はありませんでしたね。向こうも(消してくれと)言うか言わないか迷いながら、結局言わなかったようです。 ――信頼を得ることで、自由を獲得したということですね。 northkorea142.jpg 初沢 完全な自由というわけではなく、軍事施設などの本当にマズい場所は初めから行くことすらできません。ただ、地方部を含め、自分の納得のいく写真を撮ることはできました。  僕の発表の方法によっては、案内人たちが上層部から「なんでこんな写真を許可したのか」と咎められ、職を失ったり、それ以上の事態に発展する可能性もある。それでも「写真を消せ」と言わなかったのは、僕が悪意なく伝えてくれることを信じてくれたからでしょう。実際、朝鮮総連の人も、この写真集を見て「よくここまで撮らせてもらったね」と驚いていました。 ――案内人としても、ニュートラルな北朝鮮の姿を伝えたいという気持ちがあるのでしょうか? 初沢 日本語を学び、日々日本人に接している案内人たちは、基本的に親日家ばかり。彼らこそ、日朝国交正常化を本当に望んでいる人たちなんです。案内人の一人である金さんは、30年前に2週間日本を旅したことがあるそうです。90年代に入って日本に来ることができなくなってしまいましたが、30年前の思い出を大切にしていました。ニュートラルな視点で北朝鮮の生活が伝われば、何か変わってくれるんじゃないかという期待はあるでしょうね。 ■腋毛を剃らない北朝鮮女性! ――3年間にわたった4回の取材の中で、北朝鮮の変化はあったのでしょうか? 初沢 内情はわかりませんが、平壌は経済発展をしているような変化を遂げています。高層マンションが数多く建設されていますね。 ――北朝鮮にタワーマンション!? 初沢 ただ、停電になると30階まで歩いて上がらなければならないそうです(笑)。あんなに見栄っ張りの国なのに、平壌でも普通に停電します。 ――そういった詳細な情報は、実際に訪れた初沢さんならではですね。本書巻末に掲載された文章にも書かれていた「違和感ではなく共感を拾い集める」という言葉が印象的でした。 northkorea0276.jpg northkorea94.jpg 初沢 「共感」とは、決して深いレベルの話ではありません。例えば北朝鮮でもマラソンをやっているんだとか、ボウリングをしているんだとか、そういうことです。我々が日本でやっているのと近いことをしている姿には、やはり驚かされますよね。 ――僕も、本書を見ながら、北朝鮮人が水着を着ていることを意外に感じてしまいました。 初沢 そういう意味の共感を拾い集めたいと思ったんです。先入観によって形成された北朝鮮像を狙い撃ちする写真は必要ありませんでした。 ――初沢さんが特に共感された部分はどこでしょうか? 初沢 女性が腋毛を生やしているところでしょうか。あれはグッと来ましたね~。 northkorea0104.jpg ――(笑)。北朝鮮では腋毛を生やすのが普通なのでしょうか? 初沢 そうです。そのくせ、無防備に、濡れた髪を縛ったりするんです。 ――脇がガラ空きになる! 初沢 ですから、腋毛が写っているカットも掲載しています(笑)。 ■マスメディアと北朝鮮 ――……話を戻しますが、北朝鮮人も同じように生活の営みがあること、それに共感することは、日本人が北朝鮮という国を考える上で、とても大切な視点だと思います。ただ、日本に伝えられる情報からは、北朝鮮人の体温が伝わってくることはほとんどありません。 初沢 日本人が持っている北朝鮮観は、マスメディアによって形成されてきたイメージです。そのことに、この写真集を見て気付いてもらいたいですね。 ――“マスメディアによって形成されてきたイメージ”というのは、上流階級が住む平壌などの都市部と、貧困にあえぐ地方部というステレオタイプな見方ということでしょうか? 初沢 そうですね。ただ、誤解してほしくないのは、マスメディアと真逆のことをしたいということではありません。そういった先入観や思い込みを持って北朝鮮に行かない、ということです。実際に訪れてから初めて撮影は始まります。「北朝鮮だからこういうカットを狙おう」というのは、先入観です。それを持たないのは表現者にとって、とても大事なことだと思います。  東日本大震災の被災地を撮影した写真集『True Feelings』(三栄書房)を昨年発表したのですが、この作品でも、メディアで伝えられている被災地像とは違う側面を切り取っています。『隣人~』と併せて見ていただければ「マスコミとはなんなんだろう?」「今まで見ていたものはなんなんだろう?」と、あらためて問い直すきっかけになるでしょうね。 northkorea0789.jpg ――独裁国家である北朝鮮に負けず劣らず、自由主義である日本でもマスコミや大資本によって先入観が植え付けられ、印象は少なからず操作されています。当たり前に接する情報への「問い直し」は、とても重要なことです。 初沢 もちろん、北朝鮮を肯定しているわけではありません。僕自身は、言論の自由も移動の自由もない北朝鮮では、絶対に生活したいとは思わない。しかし、彼らには彼らなりの国家のあり方があり、彼らなりに生きているんです。独裁体制が問題だから潰せ、というアメリカを中心とする西側からの圧力は内政干渉でしょう。 ――初沢さんとしては今後、日朝関係に関して、どのような変化を期待しますか? 初沢 日朝関係については、とても悲観的です。政府は「拉致問題の解決なくして日朝国交正常化なし」とし、その「解決」について「拉致被害者全員の帰国」「拉致問題の全容解明」「実行犯の日本への引き渡し」との公式見解を発表しました。この高いハードルが足かせとなって、日本政府は身動きが取れていません。北朝鮮としても「拉致問題は解決済み」というのが金正日の遺訓になってしまっており、平行線が続くでしょう。  理想としては、日朝平壌宣言に基づいて、まずは国交正常化をするべきです。1兆5000億~2兆円といわれる経済援助額も、一度に払う必要はありません。拉致問題の進展の度合いに応じて払うべきでしょう。国交が樹立すれば、双方に大使館ができ、人や物資、情報の交流が行われることになります。交流が少しずつでも深まれば、おのずと安全保障上の脅威も取り除かれていくことになるのではないか。経済交流が進めば、日本の国益にもなるでしょう。経済制裁を強化しながら「拉致被害者を帰せ」と叫ぶだけでは、なんの解決にもなりません。少しずつでも成果を出していくことが、政治の役割だと考えています。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) arihatsuzawa.jpg ●はつさわ・あり 1973年、フランス・パリ生まれ。上智大学文学部卒業。第13期写真ワークショップ・コルプス修了。イイノ広尾スタジオを経て、フリーランスとして活動する。ファッション、グラビア、クルマ、宝塚歌劇などの撮影を手がけながら、作品発表も精力的に行っている。

『ロンハー』『アメトーーク!』の仕掛け人・加地倫三が明かす、“たくらみ”と“アクシデント”の両輪

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好調・テレ朝を支える頭脳・加地倫三氏。
 昨年、1959年の開局以降初めての「年間プライム視聴率1位」を達成したテレビ朝日。フジテレビ、日本テレビなどかつての王者たちが苦戦する中、好調テレ朝を支えるのは、もはやこの局の代名詞となりつつあるバラエティ枠である。今回、『たくらむ技術』(新潮新書)を上梓した同局プロデューサー加地倫三氏は『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』などのヒット番組で同局プライムトップに貢献するとともに、現代のテレビバラエティの潮流を生み出すキーパーソンの一人。多くの芸人からラブコールを受ける加地氏は、どんな「たくらみ」を持ってテレビ制作に臨むのか。そこには万年“二番手”だからこそ成し得た、逆転の発想があった。 ――『たくらむ技術』の中で、「『ロンドンハーツ』や『アメトーーク!』が芸人さんをブレイクさせたのではなく、もともとその人に才能があったからだ」と書かれていましたが、ではなぜ、芸人さんはほかの番組では見せない顔を、この2つの番組で見せるのか。その理由に、今回の「たくらむ」という意味の本質があるように思います。 加地 『アメトーーク!』は、「この番組に出るときの芸人さんが一番面白い」と言われることを目標にしています。その人の面白いところを最大限に出す番組にしたいと。『ロンドンハーツ』ももちろんそうですが、あの番組はまた違うイジリ方をするので……ドッキリや暴露などでハメたりしながら面白いという形に。 ――『アメトーーク!』はトーク、『ロンドンハーツ』はドキュメンタリーという具合に、それぞれ「たくらみ方」が違うと。 加地 以前親しい人に『ロンドンハーツ』をやっている時の僕と、『アメトーーク!』をやっている時の僕とでは、顔が違うと言われたことがありまして(笑)。『アメトーーク!』の時は柔らかい表情なのに、『ロンドンハーツ』では急に鋭くなると。確かに『ロンドンハーツ』の時は何かイジってやろうとか、痛いトコ突いてやろうみたいな、それこそ常に企んでいますね。『アメトーーク!』の場合は、まず個人戦でトークを完結させる。それをみんなで一緒に盛り上げる。個人戦を積み重ねての団体芸。一方『ロンドンハーツ』は誰かをイジって拾って……という笑いが多いので、MCを含めて最初から団体芸になるんです。そういう意味で、各番組のタイプによって合う合わないが、芸人さんにもあるかもしれません。 ――芸人さんひとりひとりを、よく観察すると。 加地 すべての企画に、シミュレーションは欠かせません。この人だったらこうなるだろうな、こういう展開になるだろうな、と。シミュレーションの段階で見えないものは、基本的に排除しています。もちろん思い通りにならないことも多いですけど、それなりに大枠として流れを持っている。自分なりの勝算があって、初めて現場に行きます。 ――その上でのアクシデントなんですね。 加地 若い頃は、思った通りに進まないと、焦ったりイライラしたり。うまくいかないことも逆に見せたほうが面白いと考えられるようになってから、楽になりました。『アメトーーク』で誰かが思いっきりスベった時や『ロンドンハーツ』のドッキリでのハプニングなど。以前、パンブーの黒瀬に恋愛ドッキリ仕掛けたんですが、答えがなかなか出なくて、白でも黒でもないところをグルグルしている。で、最終的に「グレー」ということに。これがリアル! って(笑)。落ちないものは落ちないし、かといって真っ白でもないし。グレーという答えが出せるようになってから、より強くなった気がします。
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――視聴者的にも、新たな選択肢が与えられた瞬間でした。 加地 あのグレーが、また次のドッキリの伏線になるんです。「白、黒……グレーもあるかも」と。前回のグレーがあるから、「黒」と「白」が生きてくる。全部一回キリではなく、次に続いていくものです。 ――それは、本書にも出てきた『アメトーーク!』の“捨て回”にもつながりますね。ヒット企画の合間に「え? これは何?」という回をあえて挟む。“食シリーズ”や、女性観客がポカンとする“男塾”や“ビーバップ”などなど。マニアックな回を作る上で、気を付けていることはなんですか? 加地 大きく2つあって、まず知らない人が面白いと思えるか。もう一つは、それをすごく好きな人が見ても満足できるか。そのジャンルの素人さんへの理解と、「置いてけ」の笑いのバランスですね。漫画でいえば、雨上がりの蛍原さんは漫画をまったく知らないので、蛍原さんに説明するという初期設定を設けます。だけど、そこにはその漫画への愛にあふれた芸人さんばかりがいるので、マニアックなワードがどうしても出てくる。蛍原さんの「そんなん分からんわ!」って言うところを、それが好きな視聴者には「こんなことテレビで言っちゃって……オレは分かるけど」って、“オレだけ感”を堪能してもらえるんです。 ――“食シリーズ”のスーパースローとか、“超くだらない!”と思いつつグッとくるんですよ(笑)。 加地 これは僕の持論なんですけど、テレビを見る時はなんらかの設定というか、ラインを引きませんか? 「こうなるだろうな」と予測する見方もあるだろうし、「つまんなそうだな」「面白そうだな」もひとつのラインですよね。自分の設定から振り幅としてどっちに振れるかを、面白さの基準にしていると思うんです。“油揚げ”は、その設定がものすごく低い(笑)。それをちょっと超えれば「意外と面白かった!」って思ってもらえる。逆に期待値がものすごく高かったら、80点でも満足してもらえないし。そもそも「油揚げ芸人」というタイトルでも見てくれるということは、もう優しい気持ち以外の何物でもない(笑)。 ――大仰なタイトルやCM明けの煽りは、その正反対に作用しますね。 加地 期待値を超えるものを時々でも出していれば、煽ってもいいとは思います。だけど今のテレビは、煽ってるのに超えないものがほとんどなんです。だから視聴者も「引っかかんねえぞ」って見なかったり、見たとしても「やっぱり大したことないじゃん」と、その番組に対して悪意さえ持ってしまう。サイゾーさんの場合の煽りはね、それとはまったく別次元だと思いますが(笑)。 ――サイゾーという媒体の特性でしょうか。煽ってナンボの。 加地 それこそ歴史だと思います。ずっとそのスタンスを貫いてきた、というブランドですよ。僕は「ブレない」ことをずっと目指していて、それはさまぁ~ずから学んだんですけどね、ブレないカッコよさというものを。ブレないとブランドになるんですよ。 ――『アメトーーク!』や『ロンドンハーツ』は、もう立派なブランドだと思うのですが。 kaji04.jpg 加地 いいえ、常にあるのは恐怖心だけ。『アメトーーク!』でいえば、「○○芸人」のアイデアがなくなったらどうしよう、『ロンドンハーツ』でいえば定期的にやっているヒット企画が飽きられたらどうしよう、今まで出てくれていた芸人さんたちにそっぽ向かれたらどうしようという怖さもあります。だから、次を生産しないと不安で不安でたまらない。そういう意味で、『アメトーーク!』も『ロンドンハーツ』も常に右肩下がりなんです。怖いんですよ。今年の年末の特番でやる企画も、今の段階で一つは埋めないと怖い。春にも秋にもスペシャルがあるのに、先に年末のことを考えてしまうんです。遠くがある程度決まっていると、安心してそこに進んでいけるでしょう。本当は来週、再来週の企画を会議で詰めなきゃいけないのに、「2年後のために、これをやっとかなきゃいけないよな」という話で時間の大半を使っちゃう(笑)。で、相棒であるチーフDの朝倉に「加地さん、再来週のアレを決めないと」と諭される。 ――ドッキリで言えば、最終目的地の「落とし穴」が決まっていれば、どんな展開でもOKになると。 加地 そうですよ。ただね、落とし穴の場合は「落とせない」っていう場合もある。でも、家まで建てたのに落とし穴に落ちなかったら、それはそれでめちゃめちゃ面白いじゃないですか? もしかしたら、落とし穴に落ちるより面白い。いや、「それが面白い」って言ってしまえばいい。たとえば、落とすはずだったノブコブ吉村に途中でネタばらしをせざるを得なくなったら、「吉村、ちょっと来い」ってロケバスに乗せて家まで連れて行って「この家、オマエを落とすために建てたのに、どうしてくれるんだ!」って追い込むでしょ。「今から落とすから、ちゃんとリアクション取れ」って無茶振りして、案の定全然リアクション取れなくて……とか。 ――目に浮かびます(笑)。 加地 ドッキリの現場って、超面白いんですよ。ライブ感がすごい。その面白さを知ってしまっているから、決めるのがつまらないんです。さっきの話と矛盾しているかもしれないけど、決めれば安心できても、その通りになっては面白くないというか。だって、しょせん僕たちスタッフが頭の中で考えたことですよ。僕らが会議で思いつくことなんて、視聴者は予想済みです。やっぱり、人の頭の中は超えていかないと。『アメトーーク!』も『ロンドンハーツ』も踏み外したら踏み外してもらっていいし、違うほうに流れたら「いけー!」って思います。 ――だから、演者さんが生き生きとしているんですね。 加地 「やりやすい」とは言ってもらえてますね。「任せてくれてる感じがする」と。ただ誤解されたくないのは、すべてを演者さん任せにしているわけじゃないんです。それがなかなか言葉にしづらいところではあるのですが。 ――それこそ、「たくらむ」部分じゃないでしょうか。ひな壇の座る場所ひとつ取っても、意味があると。たとえば(カンニング)竹山さんをザキヤマさんと有吉さんで挟んだところとか。 kaji02.jpg 加地 山崎と竹山くんの絡みは、実は『アメトーーク!』の「立ちトーーク」という企画から始まったんです。あの2人が同時期に『虎の門』(※かつてテレ朝で放送していた、伝説の深夜バラエティ)に出ていたから、隣にしたら何かしら面白い流れになるんじゃないかって。そうしたらまぁ、山崎が竹山くんのトークをことごとく邪魔する(笑)。で、竹山くんを『ロンドンハーツ』に引っ張ってきたら、さらに有吉も乗っかってきたと。逆にまったく馴染みのない人同士を隣にして、新たな化学反応を期待する場合もあります。 ――最近「このたくらみはハマったな」と感じた組み合わせは? 加地 そうですね……たとえば、似てる似てると言われる狩野と出川さんは、あえて隣には置きません。ちょっと離す。隣だとけん制し合っちゃうんですけど、ちょっと遠くにすると爆発する。出川さんが失敗した時に、狩野がクスクス笑ってましてね。ロンブーの淳が「狩野、超笑ってんじゃん!」ってツッコんだら、一段目に座っていた出川さんが三段目の狩野に向かって「オマエ……!」って飛びかかっていったんですよ。 ――見ました。しかも、パンチが届かなかった! 加地 はい(笑)。 ――加地さんの「たくらみ」とは、芸人さんやタレントさんへの深い思いと表裏一体の関係なのですね。 加地 カッコイイこと言えば、一緒に作っていく“仲間”ですからね。仲間は守りたいです。番組に来てくれるということは、僕らのことを必要としてくれているということだから、それには全力で応えたい。だからそうじゃない人には、そんなに優しくしないですよ(笑)。 ――今、加地さんと同じように芸人さんから高い支持を受けているテレビマンとして、テレ東の佐久間宣行さん(『ウレロ』『ゴッドタン』)や伊藤隆行さん(『もやもやさまぁ~ず』)の名前が挙げられると思いますが、お2人の存在を加地さんはどのように感じていますか? 加地 やっぱり気になりますよ。2人とも面識はありますし、ご飯食べたりもします。佐久間くんに関しては「あぁ、いいやつが出てきた!」という感じ。次世代のテレビは、こういう人が担っていくのでしょう。うちの若い子たちに、本当はいろいろな話をしてほしい。伊藤さんには絶対にテレ東の社長になっていただきたい。僕は職人タイプのテレビ制作者ですけど、伊藤さんはプロデューサー気質、経営者気質なんですよ。戦略家なんですね。伊藤さんが社長になったら、テレ東はすごいことになると思います。 ――最後にお伺いしたいのですが、ご自身がバラエティの新しい流れを担っている、という自負はありますか? 加地 年齢的にも、僕らが引っ張っていかなきゃいけないとは思っています。この本を出したのも、少しずつでも後ろの世代に何かを残さなきゃという気持ちです。本当はフジテレビに入りたくて、でも入れなくて、だから僕は二番手だという気持ちはずっとありました。フジテレビはバラエティ界の巨人軍。ただ、巨人が突っ走り過ぎてもペナントレースは盛り上がらない。ライバルの阪神が競らないとね。だから僕は、テレ朝は阪神になるべきだと。強い阪神になってフジテレビを脅かす存在になればいいと思って、ずっとやってきたんです。ありがたいことに、今テレ朝は好調な成績を上げさせてもらっていますが、やっぱり王者であるフジテレビが強くなければ、テレビ業界全体は活性化されません。もしこれからテレ朝が業界をけん引する立場になるとするなら、もちろん今までと同じ戦い方ではダメ。この形で1位を取っても、業界の発展にはつながらない。トップを走るなら、もっと別のアプローチを考えないといけないですね。 (取材・文=西澤千央/撮影=岡崎隆生)

「繰り返し、繰り返し……」記憶を失ったGOMAがたどり着いた、第2の人生のスタートライン

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撮影=後藤秀二
 2009年11月、ディジュリドゥ奏者のGOMAが首都高速で追突事故に遭い、記憶障害を負った。オーストラリア先住民の管楽器であるディジュリドゥの日本における第一人者として知られ、国内外の大型フェスにも多数参加するなど順調にキャリアを積んでいた彼を襲った突然の事故に、多くのファンがショックを受けた。一時は復帰が絶望視されたものの、リハビリ期間を経て徐々に回復する過程を描いた『フラッシュバックメモリーズ 3D』が、1月19日(土)より新宿バルト9ほかで公開される。  メガホンを取ったのは、サブカル界の新星として脚光を浴びるドキュメンタリー作家・松江哲明監督。「過去」と「現在」という2つの物語をひとつの時間軸で描くこの作品には、本人に対するインタビューは一切登場しない。GOMAとThe Jungle Rhythm Sectionのスタジオライブが「現在」を描き、その背景で事故に遭うまでのGOMAの半生、そして事故から復帰までの道のりという「過去」が、映像や写真、そしてGOMAと妻・純恵の日記を使って映し出される。これまでの3Dとは一線を画す、画期的な映像作品でもある。昨年10月に行われた『第25回東京国際映画祭』では観客賞を受賞し、各所で話題となっている。  GOMAは、撮影時のことは覚えていない。たぶん、このインタビューのことも。なぜなら、事故によって過去の記憶を部分的に失っただけでなく、新しい記憶も定着しづらくなるという記憶障害を負ったからだ。今日の出来事は、1週間ほどしか覚えていられない。どんどん記憶が失われていく時間軸のない世界で、GOMAはひとり生きている。けれど、この映画から伝わってくるのは悲壮感ではなく、強烈なまでの生のエネルギーだ。いったい、この映画はGOMAにとってどんなものなのか、話を聞いた。 *** ――まず、撮影のきっかけから教えてください。松江監督とは、以前からお知り合いだったんですか? GOMA プロデューサーの高根順次さんから僕のドキュメンタリーを作りたいというお話をいただき、彼の紹介で、映画にも出てくる事故後初めてバンドで行ったお披露目ライブに来てもらったのが最初です。しかしこの話をいただいた時、受けていいのかどうか悩みました。本当は言いたくないこと、人には隠しておきたいことも含めてオープンにしていかないと、いい作品にはならない。そういう部分の葛藤はすごくありました。監督や映画のスタッフと何回か会って、自分の中で「大丈夫だ」と納得できるまで、少し時間がかかりました。 _MG_0451.jpg ――今回の作品では、事故から復帰するまでの道のりがGOMAさんと妻・純恵さんの日記を軸に描かれています。純恵さんと松江監督の信頼関係も必要だったと思いますが。 妻・純恵さん 松江監督はとても、笑顔が素敵な人だなと(笑)。空気感とか、この人だったら大丈夫、というのを最初にお会いした時に直観的に感じました。 ――GOMAさんは撮影前から「人を元気にする映画にしたい」と話していたそうですが、最初に完成版を見た時は、いかがでしたか? GOMA すごいエネルギーの塊だと思いました。それまでは失った記憶を埋めていくことに多くのエネルギーを使っていましたが、もうそんなことはしなくてもいい。今の自分にできることで、新しいものを作っていきたい。そういったことに日々のエネルギーを使いたいと思えるようになりました。やっと2回目の人生のスタート地点に立てるなという気持ちです。 ――事故から約3年、ひとつの区切りがついた瞬間でもあったんですね。ここ10年ほどの記憶が消え、新しい記憶も維持するのが難しいそうですが、事故直後はどのような状態だったんですか? GOMA  5分、10分前の記憶も消えていく、過去の写真を見ても、なぜその場所に自分がいて、笑っているのかがわからない状態でした。その頃のことは、ほとんど覚えていません。 ――事故から3年がたちましたが、当初と比べると、どれくらい回復しているのですか? GOMA 記憶障害について、自分で回復具合を感じるのは困難です。なぜなら、目で見えてわかるものではないし、回復したとしても、自分自身は前からそうだったように感じてしまうんです。家族が言うには、“記憶は1カ月は持たないけれど、1週間くらいならだいたい覚えていられる”と。 ――GOMAさんは事故後、突然、緻密な点描画を描き始め、2010年夏には初の個展『記憶展』を開催されました。色鮮やかで自由なモチーフで描かれた絵画の数々は、突然異なる映像が頭の中に飛び込んでくる「フラッシュバック」という記憶障害の症状を表現する上でも、映画の中で重要な役割を果たしています。 _MG_0515.jpg GOMA 絵は描かないと気持ち悪くなるんです。時間があれば、ずっと描いています。最初は事故に遭ってから意識が戻るまでに見ていた光の世界を描きたくて始めたのですが、最近は具体的なものになっています。でも、なぜ点描画なのかは、自分でもわかりません。 ――突然描きだした絵とは反対に、しばらくはディジュリドゥが楽器だとわからない状態だったそうですね。特別な呼吸法を必要とするディジュリドゥは、普通の人がいきなり吹けるものではないと聞きますが、再び音が出せた時に、何か感じるものはありましたか?  GOMA ディジュを最初に吹けた時のことも覚えてないです。ただ何百回も繰り返せば、“脳で覚える記憶”ではない“身体の記憶”が使えるようになるという方程式がわかったというのは、生きるヒントになっています。何事も繰り返してやれば、ほかの人より時間はかかるかもしれないけれど、必ずできるようになる。それがわかってきたのは大きいですね。 ――必死のリハビリと周りの支えもあって、事故から1年7カ月後にはステージ復帰を果たされました。バンドの存在は、これまで以上にGOMAさんのアイデンティティになっているのでしょうか? GOMA 存在は大きいですね。最近、ようやく実感として把握できるようになってきました。バンドのメンバーだけじゃなくて、家族や映画の仲間も、本当にみんなに支えられて生きているんだと感じますね。 ――映画の中で「記憶を失った今の自分を過去の自分の言葉が支え、今の自分が未来を作る」というメッセージがありましたが、不安や恐怖、あるいは事故に対する恨みといった気持ちから、前向きになれたのは、何かきっかけがあったのですか? GOMA 事故に遭ってからの3年間、実はほとんど人に会っていなかったんです。会っても誰かわからないし、話しかけてもらっても会話にならない、挨拶したとしても次に自分が挨拶できるかわからない。そういう不安が常にありましたから。けれど、このまま自分の周りだけの世界で時間を過ごして死んでいくのか、それとも社会や仲間たちとつながって死んでいくのかを考えた時、どちらにしても死ぬなら、もう1回みんなとつながってここから外へ飛び出したいと願いました。高速道路の事故は、亡くなる人もいる。でも僕は助かった。後遺症は残ったけれど、最後に決断するのは自分でしかありませんでした。ちょうど自分の気持ちが前向きになってきた時に映画の仲間と出会って、偶然の必然じゃないけど、いいタイミングでどんどんつながっていった。彼らとの出会いも大きかったですね。視点を変えるというのは、とても大切なことだと思います。この先も人生何が起こるかなんて誰にもわからないけれど、それをどう捉えていくかは自分次第ですからね。 ――GOMAさんにとって、この映画はどのようなものですか? GOMA この3年間はよくわからない自分の記憶と葛藤していたから、僕がこの映画から元気をもらっています。僕にとっては宝物であり、すごく豪華な思い出アルバムですね。 (取材・文=編集部) ●GOMA ディジュリドゥアーティスト・画家。1997年、単身で渡豪。数々のコンペティションに参加し、入賞。98年、アボリジニーの聖地アーネムランドにて開催された「バルンガディジュリドゥコンペティション」では準優勝し、ノンアボリジニープレイヤーとして初受賞という快挙を果たす。国内外の大型フェスにも多数参加し、自身の10周年の活動をまとめた映像制作をしていた2009年、交通事故に遭い高次脳機能障害の症状が後遺し、MTBI(軽度外傷性脳損傷)と診断され活動を休止。事故後まもなく、緻密な点描画を描き始める。2010年夏に行われた初の個展『記憶展』として結実し、各種メディアや全国版の新聞にも取り上げられ、社会的な関心を集めた。その後も懸命にリハビリを続け、2011年6月に静岡で行われた野外フェスティバル「頂」にてシークレットゲスト出演、FUJI ROCK FESTIVAL’11にて伝説のライブを行い、奇跡の復活を成し遂げた。 fbm004.jpg ●『フラッシュバックメモリーズ 3D』 監督:松江哲明 プロデューサー:高根順次(SPACE SHOWER TV) 製作:SPACE SHOWER NETWORKS INC. 宣伝:SPOTTED PRODUCTIONS、SPACE SHOWER NETWORKS INC. 配給:SPOTTED PRODUCTIONS <http://flashbackmemories.jp/>

→Pia-no-jaC←に聞いてみた「ミュージシャンの本命になるにはどうしたらいいんですか!?」

ピアノのHAYATOさん(左)とカホンのHIROさん(右)に挟まれる小明
 昨年の私の一番アイドルっぽい活動といえば、CD「君が笑う、それが僕のしあわせ」の発売です。なんてったってAKB48やSMAPの楽曲を手がけた樫原伸彦先生の作曲ですから、アイドルとして完全に箔がついたと言えましょう。今回はその樫原先生のツテをフルに活用して、インストゥルメンタルユニット→Pia-no-jaC←(ピアノジャック)さんに会わせていただきました! 樫原先生、ありがとう!! HAYATO どうも、ピアノジャックのピアノです。 HIRO ピアノジャックのジャックです。 ――ピアノ担当のHAYATOさんにカホン担当のHIROさん! 初めまして、小明です。以前、日刊サイゾーでAKB48の音大生の松井咲子さんがピアノジャックを好きだと語っていて(記事参照)、それで日刊サイゾーに呼ばれたら、普通、AKBとの対談だと思いますよね。今回はなんだかすみません。 HIRO いやいや、そんなことは。 ――えー、この度は、通算10枚目のアルバムということで……。 HIRO あ、プロモーションもしてくれるんですか? ――いえ、一応聞いてみただけです。ピアノジャックさんと私の共通点は、やっぱり樫原伸彦先生ですよね。ウィアー・ザ・樫原チルドレン、言わば腹違いの兄妹みたいなものだと思うんです。というわけで、私がサイゾーテレビでやっている番組『小明の副作用』のオープニングテーマを作ってもらえませんか? HIRO う……それは、スタッフさんを通していただいて。 HAYATO ちょっと唐突すぎですよ! なんとなく想像はつきましたけども! ――では、樫原先生との出会いを聞いていいですか? HIRO 早いな、切り替えが。 HAYATO うちの社長が、樫原先生に俺たちのライブを見てくれってお願いしてくれて。その時、いくら樫原先生に「音源送って」って言われても「ライブに来てください」って、ライブ日程しか送りつけなかったという。それでライブに来ていただいて、「おもしろい」と言っていただいて。元々、プレイヤーとしての師匠はいなかったんですけど、スタジオに入るたびに技法を教えてもらって、初めて俺の師匠ができたんです。 ――なんだか美しいエピソードですね! 私も樫原先生の作曲でCDを出させていただいたんですけど……。 HAYATO それは、どんな流れで? ――飲みの席で、編集さんが「アイドルの曲作ってもらいたいんですよー」「へー、いいよー」みたいな。 HIRO・HAYATO マジすか!!!! ――マジすよ!!!! ものすごいラッキーだったんですよね。そのときからよくPJライブの話を聞ていましたよ。年間150~200本のライブをこなされるんですよね。今年のツアースケジュールも4月までみっちりで、しかも全国各地。これ……家、いります? HIRO たまにバカらしくなるんですよね。1カ月に2日しか家にいない時もあって。 ――もったいない! 2人で4畳半とか借りればいいんじゃないですか! HIRO 最初はそうだったんですよ。お金もなかったし、4畳半で2万5,000円、1人1万2,500円みたいな。中野あたりにあるんです。 ――そこ、もう空いてるなら私が住みたい……。 HIRO もともと大阪に住んでて、月に1回東京にライブしに来るみたいな感じやって、毎回、キーボードとカホンを持って行くのが大変なんで、倉庫代わりで借りておこうって。 ――暮らせるぶん、トランクルームより安いですね! HIRO 安いでしょ? お風呂はないですけど、寝られるし。けど、借りた瞬間にライブが増えて、ほぼ東京にいることが多くなって……。多分、事務所は、虎視眈々とそれを狙っていたんですよ。「借りたよー」って言った瞬間にガーって増えたんで……。 ――結局、その4畳半にはどれぐらい住まれたんですか? IMG_1642_.jpg HIRO 2年ぐらいかな。 ――けっこう住みましたね! HIRO 契約するとき大変でしたよ。大家さんにも「4畳半に2人で住みます」なんて言えないじゃないですか? 友達みたいな感じで一緒に行ってコソコソ話しながら、やっと借りれた(笑)。 ――2年暮らせば荷物もどんどん増えるし、スペース的に2人暮らしは可能なんですか? HAYATO 2人、抱き合って寝てたよね(笑)。 ――やだ、萌える……(赤面)。 HIRO あと、俺が片付けられないんで、それでケンカしたこともありましたね。最終的に子どもみたいに「この線からこっち入ってきたら全部燃やすからな!!」って……。あと、俺、神戸に住んでたときは、家がなくてライブハウスに住んでた。 ――オペラ座の怪人みたいだけど、つまりホームレス! HIRO ホームレスではないですよ! ちゃんと月3万ぐらいで借りてましたよ! もう閉めちゃってるライブハウスで、トイレもシャワーもなかったんで、トイレはコンビニのトイレ使ってたんです。それで3万は高いですけど、練習し放題なんですよ。 HAYATO そうそう。その時はもうピアノジャックを組んでいたんで、ライブ終わった後に、とりあえずそこで2人で朝まで泊まっていくみたいな。 ――悲惨な貧乏生活も楽器があるとどことなく美しい話になるのが不思議です。じゃあ、まともな生活が送れるようになったのは最近ってことですか? HIRO そうですね。トイレが増えて、シャワーが増えて、徐々に人の暮らしに近づいてきました(笑)。 ――今はもう、麻布とかのコンクリート打ちの高そうなマンションにお住まいなんでしょ……。 HIRO 普通の1DKですよ! 昔はカホンが30個ぐらい家にあったので部屋一面カホンだったんですけど、最近かなりの量を倉庫に移動させて、それでもまだ一部屋楽器ですけど。 ――でも、カホンって四角いから、うまくやれば……。 HIRO そう! 壁っぽくなるんですよね。テトリス的に積んでね。 HAYATO うちも1DKくらい。ツアーが始まるとまた帰れないけど、それはそれで、ツアー先のホテルが快適だったりしますし(笑)。 ――あ、ツアーと言えば、ミュージシャンという職業はツアー先で現地妻が増えると聞きました! 主にネットの匿名掲示板でですけれど! HIRO 現地妻(笑)! 全然増えないんですよ!! チャレンジはするんですけど、全部、流れていく感じです。わかります? 俺の風貌でカホンを叩いても、別に普通じゃないですか? でも、HAYATOの風貌でピアノ弾いてたら、そのギャップにやられるんですね。この際だから言いますけど、営業周りやお店周りを2人でやっていても、HAYATOだけ電話番号を渡されるんですよ! HAYATO (笑)。 ――えーと、ありますよね、そういうことって! HIRO ないですよ! ライブ終わりに紙コップに水もらいにいったら、スタッフさんが「あれ? HAYATOさん、コップになんか書いてありますよ」って言うから見てみたら裏に名前と電話番号書いてあって! 俺のは何にも書いてないのに! 樫原先生に「HIRO、お前はそれでいいのかよ」って言われて急いで水を飲み干して、物欲しそうにうろうろしたりして……。 ――ライブ中に1番しゃべっているのに……。でも、HIROさんはステキですよ! HIRO ありがとうございます。 HAYATO 完全なフォローですね。 HIRO みんな、そうやってフォローはするんですけど、アプローチするのはこっち(HAYATO)なんですよね。わかっています。ありがとうございます。 ――正直、女は基本的にピアニストに弱いと思います……! でも、私もだいたい友達がかわいいとか、姉がキレイだとかで、隣にいる人に注目が集まる方なんで、眼前の人間の熱視線が隣に集中する事はよくありますよ。けっこうしゃべってるのに、完全に私を見ていない状態。 HIRO 視線が隣にガーっていくの、わかりますよね。ツアー最後のHAYATOのMCで、今まで普通に聴いていた人が「ハー……(はぁと)」ってなったりしますもん。 HAYATO なっていないよ、そんなの。 HIRO 目がキラキラしてんなーオイ! って思うよ。 ――HAYATOさんはMCでも真面目なこと話してキメるじゃないですか! いいとこ取りですよ! ずるい! HAYATO それはそれでプレッシャーありますよ。絶対、滑られへんみたいな。だからHIROはいいなって思うよ。失敗して笑いを取れるっていう特権が。 HIRO 俺は、ピアノジャックの滑り担当だから。ピアノジャックは、それでいいんです……。 IMG_1626_.jpg ――逆に、どうやったらミュージシャンから番号を聞かれるんでしょう? ミュージシャンの方と仕事でお会いすることはあっても、番号聞かれることなんて、まったくないですよ。 HAYATO 自分から渡してみたらいいのに。袖とかに忍ばせて、「ありがとうございました~」って……。 HIRO 後ろから、ポケットに入れるとか。 ――旅館で仲居さんにおひねりを渡す感じですね。そのアプローチは職権乱用で会える人に限定されますけれど、例えば普通にライブに通っていて、打ち上げにも呼ばれない普通のファンの場合はどういうアプローチが有効なんですか? HIRO えー、ちょっと本気やないですか! やっぱり、プリクラとか自分の顔がわかるもんがあったほうがいいですね。 HAYATO うん。顔はわかったほうがいいよ。 ――今のプリクラの修正機能は優秀なので、有効そうですね! HIRO あー、1回ノリでHAYATOとスタッフと3人で撮ったんですけど、HAYATOがめっちゃかわいくなっちゃって。 HAYATO 目がめっちゃクリックリになったんですよ! HIRO サングラスですら、クリックリになりましたからね。 HAYATO そうなるとプリクラは効果的じゃないかもね……。だからって写真も怖くなっちゃうからなー。 ――難しいですねー。どういう感じの人と付き合うんですか? 事務所NGでしたら、伏せますけれど。 HIRO 伏せるも何も、いないですけれど(真顔)。 ――ツアーが多いと家にも帰れないし、たまに帰っても疲れてるし、そんな時「ディズニーランド連れてけ」とか言われたりすると思うと……恋人を作るのも面倒になりそうですね。 HAYATO 我慢させてしまうよね。だから、ピアノジャックとしての自分しか知らない人より、音楽と関係ないところで知り合った人の方が、自分を知ってくれていて、楽なのかなって思います。 ――なるほど! つまり、ファンだということを隠して知り合うっていうのが有効そうですね! HAYATO そうかもね! HIRO ガードは1枚なくなるかもね。でも、そういうアプローチをさりげなくできる人はいいんじゃないですか? 俺は番号渡されないですけど。 ――根に持ってますねー! HIRO あ! ありました! 俺もさりげなく渡されたことが! けど、そのままHAYATOと海に飛び込んじゃって、全部濡れて、もらった名前と番号が宝の地図みたいになったんですよ。 HAYATO 美人さんやったのにな……。 ――ご縁がなかったということで……もう一度、2人で暮らせばいいじゃない! ちなみに、お2人はどういう流れでピアノジャックを結成されたんですか? HAYATO 元々は、違うバンドでやってたんですけど、出会って、初めて音を合わせたら、めちゃくちゃ面白くなってしまって。目が合うだけでやりたいことがわかるし、こう、遊んでみても付いてくるし。初めは別のメンバーもいたんですけど……。 HIRO 他のメンバーそっちのけで楽しんでしまって、「いつまでたってもこのソロ終わらないな、もっとやれ! イエーイ!」っていうのをずっとやっていたら、2人になっていました。 ――将来が不安になったことありませんか? HIRO ありますよ。けど、今までCDを10枚出してきたので、それを上回るようにがんばる。昔の自分は超えていきたいと思います。 HAYATO デビューしたときよりも、作るたびにプレッシャーは高くなっていきます。でも、変わらないところは、楽しむところやと思っているので。まぁ、練習は辛いですけど(笑)。レコーディングとかも大変じゃないですか。歌録りとか、大変やったでしょ? IMG_1648_.jpg ――私、独自の音程を持ってるタイプというか、世間ではそれを音痴と言うらしいんですけど、それで、1曲に13時間ぐらいかかったんですよ……。 HAYATO え!! 喉は大丈夫だったんですか!? ――休み休みやらせていただいて、途中で何度か樫原先生が寝落ちされてましたね。「あ、寝た! 休める!」と思いながら。ピアノジャックのレコーディングは楽しそうですよね! HAYATO 道場に近いですよ。レコーディングという名の合宿。 HIRO 合宿というか、軟禁でしたよね。2日ぐらい、スタジオの壁しか見るものがなかった。 HAYATO 寝るときもピアノの下で。 HIRO ご飯を食べるときだけ、2階に行くことが許される。だんだん壁の木目が人の顔に見えてきて……。 ――ストーカーに軟禁されている女みたいですね。法的手段に訴えたら勝てそう……。そんなご苦労を経てのライブ、ぜひ生で観てみたいです。けど、もうけっこうソールドアウト! HIRO ぜひ! 関東近郊だと、千葉あたりは比較的観やすいかも。 ――千葉いいですね! 千葉には実家がありしたよ! もう、ないんですけど……。 HAYATO えっ。 ――気づいたら実家が売られちゃってたんですよ。なので、もう帰る場所がなくて。東京の中野でがんばってアイドルやってたんですけど、そこも都落ちして田舎に引っ越して……もうアイドルも11年めですよ。完全に限界がきています。でも、ここでピアノジャックに番組のオープニングを作ってもらえたら、きっとがんばれる……。 HAYATO リターンしてきたよ! さっきよりはちょっと自然にきましたね。同情を誘う感じで。 ――そんな私にオープニングテーマを。 HIRO・HAYATO ……。 ――(舌打ち)。じゃあ、ツアーがんばってください。また、家に帰れない日々が始まればいいんですよ。今日はありがとうございました。 HIRO・HAYATO 遊びにきてね!  日本ゴールドディスク大賞CLASSIC ALBUM OF THE YEARを受賞したミュージシャンに向かって、延々「ミュージシャンの本命彼女になるにはどうすればいいか」と聞き、「私のために曲を作れ」と主張しつづけたというのに→Pia-no-jaC←はずっと優しかった。というか心が広かった。「やっぱり何かを成し遂げている最中の男のオーラがありますね! 現在進行形で、INGって感じ!」と、この上なく頭の悪い賛辞を浴びせて解散した後、「あ、そこで番号を渡せばよかったんだ」と気づきました。本年こそは職権をフルに乱用し、あわよくばどこかに嫁ぎたい。 (取材・文=小明)
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撮影/市村岬
●→Pia-no-jaC(ピアノジャック) HAYATO(Piano)、HIRO(Cajon)の二人で構成されるインストゥルメンタルユニット。鍵盤と打楽器というシンプルな編成ながら多彩な音を生み出す。ロックでもジャズでもないその独自の音楽性が多方面から注目を受け、ディズニーやゲーム音楽とのコラボレーション、宝塚歌劇団、テレビ番組など、数多くの楽曲提供を行なっている。2012年7月にはヴァイオリニスト葉加瀬太郎氏とのコラボアルバム『BATTLE NOTES』発売。この作品が第27回日本ゴールドディスク大賞 2013 CLASSIC ALBUM OF THE YEARを受賞した。 2012年12月5日にはクラシックを大胆アレンジした『EAT A CLASSIC 4』発売。オリジナル曲とクラシックカバーをサーカスやミュージカルのように様々な演出を駆使して披露するライブパフォーマンスは国内外から絶大な支持を受けており、ライブには子どもから大人まで幅広い層が足を運んでいる。舞台と客席、会場が一体となるピースフルな光景がメディアで取り上げられること多数。9月には東京日比谷野音での全曲ライブを超満員で達成。この圧巻のライブは一度体験する価値あり! ●「→Pia-no-jaC← 5th Anniversary JACKPOT TOUR 2013」 2013年1月18日(金)神奈川県 横浜赤レンガ倉庫1号館ホール【完売】 2013年1月19日(土)埼玉県 HEAVEN'S ROCKさいたま新都心 VJ-3【完売】 2013年1月20日(日)茨城県 水戸ライトハウス【完売】 2013年1月25日(金)京都府 KYOTO MUSE【完売】 2013年1月26日(土)静岡県 Live House 浜松窓枠【残りわずか】 2013年1月27日(日)岐阜県 岐阜Club-G【完売】 2013年2月2日(土)千葉県 行徳文化ホールI& I【完売】 2013年2月3日(日)山梨県 甲府KAZOO HALL【残りわずか】 2013年2月9日(土)宮城県 仙台Rensa 2013年2月10日(日)山形県 ミュージック昭和Session 2013年2月11日(月・祝)秋田県 秋田Club SWINDLE 2013年2月15日(金)長野県 長野CLUB JUNK BOX 2013年2月16日(土)新潟県 新潟LOTS 2013年2月23日(土)香川県 高松オリーブホール 2013年2月24日(日)高知県 高知LIVE HALL CARAVAN SARY 2013年3月2日(土)北海道 Zepp Sapporo 2013年3月8日(金)和歌山県 和歌山OLDTIME 2013年3月9日(土)大阪府 Zepp Namba【残りわずか】 2013年3月10日(日)広島県 広島CLUB QUATTRO 2013年3月12日(火)滋賀県 滋賀U-STONE 2013年3月15日(金)奈良県 奈良NEVER LAND【残りわずか】 2013年3月16日(土)鳥取県 米子AZTiC laughs【残りわずか】 2013年3月17日(日)山口県 周南TIKI-TA 2013年3月20日(水・祝)大分県 大分DRUM Be-0【残りわずか】 2013年3月22日(金)熊本県 熊本DRUM Be-9 2013年3月23日(土)福岡県 Zepp Fukuoka 2013年3月24日(日)長崎県 長崎DRUM Be-7 2013年3月30日(土)愛知県 名古屋市公会堂 大ホール 2013年3月31日(日)石川県 金沢EIGHT HALL 2013年4月6日(土)東京都 渋谷公会堂【残りわずか】 料金:前売 5000円(一部会場でドリンク代必要) チケット発売中