“年に一度本気になれる『R-1』”1票差に泣いた田上よしえ 来年の戦略は「打倒、浅井企画」!?

IMG_2785_.jpg  2月に放送された『R-1ぐらんぷり2013』(関西テレビ・フジテレビ系)の決勝において、バーテンダーの毒舌系コントで視聴者の心を掴んだ芸歴15年のピン芸人・田上よしえ。  優勝には届かなかったものの、40歳にしては中途半端にかわいらしいルックスと飄々とした口ぶりで、「私は『家政婦は見た!』を、見ない!」などと叫ぶ姿は、初見の人々にも他の女芸人とは違った独特の印象を残したのではないだろうか。  まだ胸に一抹の悔しさの残る彼女に、話を聞いた。 ――『R-1』お疲れ様でした。優勝は逃しましたが、1票差の接戦でしたね。 田上よしえ(以下、田上) ずーっとチャレンジし続けてきた大会なので、ようやくかって感じで、出られてほんとうれしかったですね。来年は、浅井企画に食いつかれるように頑張りたいっす! ――浅井企画の関根勤さんと欽ちゃんファミリーの勝俣州和さんだけが、田上さんに1票も入れなかったですからね(笑)。浅井企画以外に、敗因はどこだと思いますか? 田上 最後のオチのチョイスを間違えちゃいました。いつもは曲に合わせて踊ってオトすネタなんですけど、時間を食っちゃうと思って、変な下ネタに変えちゃって(笑)。 ――お尻の割れ目に名刺を挟んで「ケツメイシ!」ってギャグですね。 田上 それでも高田純次さんは2票入れてくれたんで、やっぱ自分は純次寄りかもしれないですね(笑)。 ――ちなみに、優勝後の妄想はしましたか? 田上 賞金500万円の使い道ばかり考えてましたね。「とりあえず借金返して~、税金払って~、そんな残んねえなっ」みたいな。若手芸人は、みんな借金あって大変ですから……。 ――次の目標も、やはり『R-1』ですか? 田上 そうですね。あれはピン芸人にとって年に一度、本気になれる大事な大会なので。今回、スギちゃんとか“一発さん”たちと一緒の(トーナメントの)グループがいいんだなってことを学んだので(笑)。次回は、あるあるフリップ芸人と一緒にならないようにしたいですね。 ――そういえば、『R-1』後に、TwitterでAKBヲタに絡まれてましたよね。 田上 「ユーキャンのCMは、資格がなくても生きていけそうなヤツばっか」みたいな小ネタを入れたら、「ばっか」が「バカ」に聞こえたみたいで。TwitterでAKBヲタが突撃してきました(笑)。 IMG_2727_.jpg ――そもそも、田上さんがお笑いを始めたきっかけはなんですか? 田上 最初は、漠然とタレントになりたいなあと思ってて。18歳からいろんな事務所を転々としながら、エキストラをやったりしてたんです。『北の国から』(フジテレビ系)にも、看護士の格好で純とすれ違ったりとか、いろんな役でうろちょろしてますよ。で、ある日、受けたオーディションで「何やりたいの?」って聞かれて、「バラエティとか出たいっすね~」って言ったら、人力舎の養成所を紹介されて。 ――エキストラ時代を含めると、芸歴20年を超えるんですね。芸人をやめようと思ったことは? 田上 ないですね。やっぱ芸人さんて、面白いじゃないですか。芸人が周りにいると、ほんとに楽しいんですよ。だってほら、一般人って、ほんっとつまんないじゃないですか! その面白くなさで、よく生きていられるな! って思いますもん(笑)。 ――まさかの一般人差別(笑)。 田上 一般人って、どこかねじ曲がってて、面白くない上になんかヘンなんですよ。もう頭おかしい人ばっかですもん! つまんないわ、人殺すわ、「なんなの!?」って(笑)。私、普段バーで働いてるんですけど、お客さんと話してても、ちゃんとしてる人って100人に1人くらいなんですよ。それに比べて芸人とか芸能人って、ほんと常識人だなって思いますね。それにしても、こんなに一般人を攻撃することないよねえ。あははは! ――田上さんの基準は、「面白いか、面白くないか」なんですね。それは芸人になってからですか? 田上 昔からですね。普通の会社でOLやってた時も、みんなでお昼食べながら「こいつら、つまんねえええええ!」って思ってましたから(笑)。 ――この先も、芸人以外では生きていけなさそうですね。 田上 そうですね~。こんなんじゃ、いつまでも結婚できないだろうし、もし結婚して子ども産んでも、公園デビューできないだろうし。将来のことは何も考えてないですけど、小銭を稼げるうちは、同じくらいやさぐれた芸人たちと一緒に、楽しく続けていきたいですね。 (取材・文=林タモツ) ●たのうえ・よしえ 1972年、東京都生まれ。プロダクション人力舎スクールJCA6期生。『爆笑オンエアバトル』(NHK)第3回チャンピオン大会決勝、第4回チャンピオン大会ファイナル進出。『R-1ぐらんぷり』2010年にサバイバルステージ3位、2013年に決勝進出。ちなみに誕生日はクリスマスイブの12月24日。

“軟式globe”パーク・マンサーがダンススクールの校長に!? EXILE、千原せいじとの意外なカンケイ

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撮影=尾藤能暢
 ラッパー発掘企画と言いながら、ほぼ変な替え歌コーナーと化していた『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」。その中でもひときわ異彩を放っていたユニット「軟式globe」を覚えているだろうか? globeの「Love again」に乗せて「アホだなぁー」と歌っていたあのユニットだ。  その軟式globeで狂ったラップを繰り広げていたパーク・マンサー(マーク・パンサー役ね)は、現在「サンガ」という名で、千原せいじが理事長を務めるダンススクールの校長になっているという。なんだか人生いろいろ……。パーク・マンサーことサンガに、当時の裏話から、ダンススクールの話までを訊いた! ■パーク・マンサーはEXILEの元・弟子! ――えーっと、軟式globeのパーク・マンサーさんですよね? 「元・パーク・マンサーのサンガです!」 ――まあ、ほとんどの人はサンガさんのことをパーク・マンサーとして認識してると思うんですけど、アレをやる前は何をしてたんですか? 「もともとはダンサーで、実はEXILEのHIROさんの弟子だったんですよ」 ――あ、そんなつながりが! 「ダンサーになるために富山から出てきて、HIROさんと知り合ったんですが、当時のHIROさんはZOOとEXILEの狭間のどん底だった時期で結構やさぐれてて(笑)、こっちはせっかく夢を持って東京に出てきたのに『ダンサーなんかやっても食えないよ』とか言われてましたけど」 ――そんな本流のダンサー志向だったのに、なぜパーク・マンサーに? 「自分よりもダンスはヘタなのに、ルックスのいい後輩連中が先に売れてったり……という状況を見てきて、普通に格好いい踊りをしててもダメなんじゃないかな、っていう気持ちがあったんです。その頃、HIROさんたちと飲み屋に行く機会があって、そこでダンススクールの先生たちのモノマネをやったらメチャクチャ受けたんですよ。それで、普通のダンスよりも、もっと面白いエンターテインメント要素を取り入れたほうがいいのかなと思ったんです。そんなタイミングでB-RAP HIGH SCHOOLが始まり、友達から『お前にピッタリのコーナーがあるよ』と教えてもらって、オーディションに参加しました」 378A8131.jpg ■一夜にして普通に街を歩けなくなった ――本家のglobeは好きだったんですか? 「あんまり知らなかったです(笑)。地元が田舎なもんで、地上波のテレビで見られるダンスってTKサウンドが多かったんですけど、globeさんってダンサーいないじゃないですか?(笑) だからSAMさんのマネをしてみたり、安室ちゃんのバックダンサーに憧れたり……」 ――マーク・パンサーには憧れなかったんですか? 「それはまあ……いい人だと思いますけど(笑)。当時みんな“なんで白髪のおじちゃんがラップしてるんだろう”って思ってたんじゃないですかね(笑)。でも、一応パーク・マンサーをやる時には意識しました」 ――どこを意識したんですか!? 髪形から何から全然違うじゃないですか! 「アレは当時、ダンシング刑事っていうユニットをやっていたので、それ用の髪形なんですよ。松田優作をイメージしたアフロに、それだけじゃ面白くないから、前髪だけストレートにして……。全然関係のない髪形でマーク・パンサー役をやっていたというのもウケたんじゃないですかね。それに『キムタクみたいになりたいと思って東京に出てきたのに、どうしてこんな変なことやってるんだろう』という葛藤もあり……その感じがまた面白がられたのかもしれないですけど(笑)」 ――番組がオンエアされてから、生活は変わりましたか? 「いやー、一夜にして普通に街を歩けなくなりましたよ。金は全然持ってないのに、異常なほど知名度だけ上がっちゃって。まだ普通にアルバイトしてましたからね。それに、いろんな人が寄ってくるようになりました。あの時、もっと遊んどけばよかったですよ……当時はまだ業界のことが分かってなかったので、全然遊べませんでしたね」 ――いきなりそんな有名になって、有頂天になったりはしなかったんですか? 「完全に天狗でしたね(笑)。番組に出た瞬間にガーッと人気が出て、でも1クールくらいで『もう無理だなー』と思って。なんとか面白くしようといろいろ試行錯誤はしていたんですが、それでも10回くらいやったら、明らかにお客さんが盛り下がってるのが分かっちゃったんですよ。『もう、このネタを続けてても無理だなー』って」 ――まあ、globeの替え歌に限定された中でやっていくのは、なかなか難しいですよね。 「『アホだな』という曲でやれる動きもネタも、やり尽くしちゃったのかもしれません。しかも番組の特性上、あのキャラでほかの番組に出るわけにもいかなかったので。だから人気がなくなって消えていったわけではなく、自分から辞めさせてもらったんです」 ――ほかの番組に出てなかったとは思いませんでした。とにかくインパクトは強かったですから、妙に記憶に残ってますよ。 「たぶん『学校へ行こう!』にも、20回くらいしか出てないんじゃないかと思います。でも、いまだにこれだけ覚えてもらっているというのはありがたいですね。パーク・マンサーとしての活動をやめてからも、しばらくはパーク・マンサーとしか見られませんでしたから。……今はルックスも全然変わっちゃったんで、こっちから言わないと気付かれませんけど」 378A8173.jpg ■ライバルはパーク・マンサー ――その後は、主に役者として活動していたそうですが。 「パーク・マンサーをやる前から舞台に出たりはしていたんですが、パークでガーッとネームバリューが上がって、いろいろと仕事が来るようになったんですね。それで『オレ、役者でも行けるなぁー』とか調子に乗ってたんですけど、現場に行ったら全然セリフが言えなかったりして……。いろいろとヘマしました」 ――一気に人気が出たパーク・マンサーと比べ、役者としてはなかなか芽が出ていない状態ですが、それでも役者にこだわっている理由は? 「僕は最終的にエンターテイナーになりたいと思ってるんで、そのためには俳優としても結果を出さなきゃならないんですよ。パーク・マンサーではある時期、お笑いの世界で結果を出したなって思ってますから。同じ人間なのに、アイツ(パーク・マンサー)のせいで人生を振り回されているくらいなことになっているので、まずはパークを乗り越えたい。誰が一番のライバルかって言ったら、パーク・マンサーですから!」 ――そんなサンガさんは今、千原せいじさんが理事長を務めるダンススクール「せじけんスタジオ」の校長をやられているわけですけど、どういった経緯があったんですか? 「役者だけじゃ食えないんですけど、バイトをやるなら少しでも業界とつながれる場所でやりたかったので、知り合いの芸人さんに紹介してもらって、せいじさんがオーナーのバーで働いてたんですよ。それでちょうど一年くらい前、せいじさんがオープン前にフラッとやって来て飲みだして。しかもその日は全然お客さんが来なかったので、せいじさんとじっくり話す機会が訪れたんです。このチャンスに、僕っていう人間をなんとかアピールしようと思い『昔、ダンスやってたんですよ』とか話していたら『ほっかー。オレ今度、ダンススクールやろと思とんねん』って。義務教育でダンスが必修になるっていうのもあり、ダンススクールを作ろうという構想があったらしいんですね。『ほなお前、校長な』って」 ――えー、いきなり! 「もうこっちはポカーンですよ。でも、まあ飲みの席での話だろうなと思っていたんですけど、それからせいじさんに会うたびに、ちょっとずつ話が進んでるんです。物件が決まったのが去年の6月頭くらいで7月にはオープンでしたから、本当に右も左も分からない状態でのスタートでしたね。ダンスを教えたことはあったけど、スクールの運営なんてやったことないから、いまだにバタバタしてますよ」 ――それでも、これはチャンスだと。 「うーん、大変は大変ですけど、チャンスなんでしょうね。僕は絶対に売れるんで(笑)、そうなった時に、こんな面白いエピソードってないと思うんですよ。先生と呼ばれる職業はたくさんありますけど、校長と呼ばれる人はなかなかいませんからね(笑)」 ――そのせじけんスタジオで今、「せじけんアクターズ」一期生の募集をしているそうですけど、コレはどんな企画なんでしょうか? 「生徒という感じではなく、一緒にやっていける仲間を集めたいっていう感覚ですね。自分が結果を出せてないから大きなことは言えませんが、今って兵隊みたいな、コマのひとつで甘んじて、自分が王将になろうっていう人が少ないと思うんですよね。たとえばテレビとかで今の若い子たちを見ていても、『なんでそんな狭い表現の幅でやろうとしているの? もったいない』って思っちゃうんです。自分はHIROさんが、どん底の状態からEXILEを立ち上げていく過程を見てきたんで、そういうふうに、やりたいことができないなら、自分たちで状況を変えていくという気持ちを持っていたい。それを一緒にやれる人たちに、応募してきてもらいたいです!」 (取材・文=北村ヂン) ●サンガ 1978年、富山県生まれ。2002年、『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」で、「軟式globe」 パーク・マンサーとしてブレイク。その後、役者に転身。ドラマや映画、舞台などで精力的に活動中。今春放送 『リッチマン、プアウーマン』(フジテレビ系)スペシャルに出演。12年より、千原せいじが理事長のダンススクール「せじけんスタジオ」の校長も務める。 <http://sejikenstudio.com/

“軟式globe”パーク・マンサーがダンススクールの校長に!? EXILE、千原せいじとの意外なカンケイ

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撮影=尾藤能暢
 ラッパー発掘企画と言いながら、ほぼ変な替え歌コーナーと化していた『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」。その中でもひときわ異彩を放っていたユニット「軟式globe」を覚えているだろうか? globeの「Love again」に乗せて「アホだなぁー」と歌っていたあのユニットだ。  その軟式globeで狂ったラップを繰り広げていたパーク・マンサー(マーク・パンサー役ね)は、現在「サンガ」という名で、千原せいじが理事長を務めるダンススクールの校長になっているという。なんだか人生いろいろ……。パーク・マンサーことサンガに、当時の裏話から、ダンススクールの話までを訊いた! ■パーク・マンサーはEXILEの元・弟子! ――えーっと、軟式globeのパーク・マンサーさんですよね? 「元・パーク・マンサーのサンガです!」 ――まあ、ほとんどの人はサンガさんのことをパーク・マンサーとして認識してると思うんですけど、アレをやる前は何をしてたんですか? 「もともとはダンサーで、実はEXILEのHIROさんの弟子だったんですよ」 ――あ、そんなつながりが! 「ダンサーになるために富山から出てきて、HIROさんと知り合ったんですが、当時のHIROさんはZOOとEXILEの狭間のどん底だった時期で結構やさぐれてて(笑)、こっちはせっかく夢を持って東京に出てきたのに『ダンサーなんかやっても食えないよ』とか言われてましたけど」 ――そんな本流のダンサー志向だったのに、なぜパーク・マンサーに? 「自分よりもダンスはヘタなのに、ルックスのいい後輩連中が先に売れてったり……という状況を見てきて、普通に格好いい踊りをしててもダメなんじゃないかな、っていう気持ちがあったんです。その頃、HIROさんたちと飲み屋に行く機会があって、そこでダンススクールの先生たちのモノマネをやったらメチャクチャ受けたんですよ。それで、普通のダンスよりも、もっと面白いエンターテインメント要素を取り入れたほうがいいのかなと思ったんです。そんなタイミングでB-RAP HIGH SCHOOLが始まり、友達から『お前にピッタリのコーナーがあるよ』と教えてもらって、オーディションに参加しました」 378A8131.jpg ■一夜にして普通に街を歩けなくなった ――本家のglobeは好きだったんですか? 「あんまり知らなかったです(笑)。地元が田舎なもんで、地上波のテレビで見られるダンスってTKサウンドが多かったんですけど、globeさんってダンサーいないじゃないですか?(笑) だからSAMさんのマネをしてみたり、安室ちゃんのバックダンサーに憧れたり……」 ――マーク・パンサーには憧れなかったんですか? 「それはまあ……いい人だと思いますけど(笑)。当時みんな“なんで白髪のおじちゃんがラップしてるんだろう”って思ってたんじゃないですかね(笑)。でも、一応パーク・マンサーをやる時には意識しました」 ――どこを意識したんですか!? 髪形から何から全然違うじゃないですか! 「アレは当時、ダンシング刑事っていうユニットをやっていたので、それ用の髪形なんですよ。松田優作をイメージしたアフロに、それだけじゃ面白くないから、前髪だけストレートにして……。全然関係のない髪形でマーク・パンサー役をやっていたというのもウケたんじゃないですかね。それに『キムタクみたいになりたいと思って東京に出てきたのに、どうしてこんな変なことやってるんだろう』という葛藤もあり……その感じがまた面白がられたのかもしれないですけど(笑)」 ――番組がオンエアされてから、生活は変わりましたか? 「いやー、一夜にして普通に街を歩けなくなりましたよ。金は全然持ってないのに、異常なほど知名度だけ上がっちゃって。まだ普通にアルバイトしてましたからね。それに、いろんな人が寄ってくるようになりました。あの時、もっと遊んどけばよかったですよ……当時はまだ業界のことが分かってなかったので、全然遊べませんでしたね」 ――いきなりそんな有名になって、有頂天になったりはしなかったんですか? 「完全に天狗でしたね(笑)。番組に出た瞬間にガーッと人気が出て、でも1クールくらいで『もう無理だなー』と思って。なんとか面白くしようといろいろ試行錯誤はしていたんですが、それでも10回くらいやったら、明らかにお客さんが盛り下がってるのが分かっちゃったんですよ。『もう、このネタを続けてても無理だなー』って」 ――まあ、globeの替え歌に限定された中でやっていくのは、なかなか難しいですよね。 「『アホだな』という曲でやれる動きもネタも、やり尽くしちゃったのかもしれません。しかも番組の特性上、あのキャラでほかの番組に出るわけにもいかなかったので。だから人気がなくなって消えていったわけではなく、自分から辞めさせてもらったんです」 ――ほかの番組に出てなかったとは思いませんでした。とにかくインパクトは強かったですから、妙に記憶に残ってますよ。 「たぶん『学校へ行こう!』にも、20回くらいしか出てないんじゃないかと思います。でも、いまだにこれだけ覚えてもらっているというのはありがたいですね。パーク・マンサーとしての活動をやめてからも、しばらくはパーク・マンサーとしか見られませんでしたから。……今はルックスも全然変わっちゃったんで、こっちから言わないと気付かれませんけど」 378A8173.jpg ■ライバルはパーク・マンサー ――その後は、主に役者として活動していたそうですが。 「パーク・マンサーをやる前から舞台に出たりはしていたんですが、パークでガーッとネームバリューが上がって、いろいろと仕事が来るようになったんですね。それで『オレ、役者でも行けるなぁー』とか調子に乗ってたんですけど、現場に行ったら全然セリフが言えなかったりして……。いろいろとヘマしました」 ――一気に人気が出たパーク・マンサーと比べ、役者としてはなかなか芽が出ていない状態ですが、それでも役者にこだわっている理由は? 「僕は最終的にエンターテイナーになりたいと思ってるんで、そのためには俳優としても結果を出さなきゃならないんですよ。パーク・マンサーではある時期、お笑いの世界で結果を出したなって思ってますから。同じ人間なのに、アイツ(パーク・マンサー)のせいで人生を振り回されているくらいなことになっているので、まずはパークを乗り越えたい。誰が一番のライバルかって言ったら、パーク・マンサーですから!」 ――そんなサンガさんは今、千原せいじさんが理事長を務めるダンススクール「せじけんスタジオ」の校長をやられているわけですけど、どういった経緯があったんですか? 「役者だけじゃ食えないんですけど、バイトをやるなら少しでも業界とつながれる場所でやりたかったので、知り合いの芸人さんに紹介してもらって、せいじさんがオーナーのバーで働いてたんですよ。それでちょうど一年くらい前、せいじさんがオープン前にフラッとやって来て飲みだして。しかもその日は全然お客さんが来なかったので、せいじさんとじっくり話す機会が訪れたんです。このチャンスに、僕っていう人間をなんとかアピールしようと思い『昔、ダンスやってたんですよ』とか話していたら『ほっかー。オレ今度、ダンススクールやろと思とんねん』って。義務教育でダンスが必修になるっていうのもあり、ダンススクールを作ろうという構想があったらしいんですね。『ほなお前、校長な』って」 ――えー、いきなり! 「もうこっちはポカーンですよ。でも、まあ飲みの席での話だろうなと思っていたんですけど、それからせいじさんに会うたびに、ちょっとずつ話が進んでるんです。物件が決まったのが去年の6月頭くらいで7月にはオープンでしたから、本当に右も左も分からない状態でのスタートでしたね。ダンスを教えたことはあったけど、スクールの運営なんてやったことないから、いまだにバタバタしてますよ」 ――それでも、これはチャンスだと。 「うーん、大変は大変ですけど、チャンスなんでしょうね。僕は絶対に売れるんで(笑)、そうなった時に、こんな面白いエピソードってないと思うんですよ。先生と呼ばれる職業はたくさんありますけど、校長と呼ばれる人はなかなかいませんからね(笑)」 ――そのせじけんスタジオで今、「せじけんアクターズ」一期生の募集をしているそうですけど、コレはどんな企画なんでしょうか? 「生徒という感じではなく、一緒にやっていける仲間を集めたいっていう感覚ですね。自分が結果を出せてないから大きなことは言えませんが、今って兵隊みたいな、コマのひとつで甘んじて、自分が王将になろうっていう人が少ないと思うんですよね。たとえばテレビとかで今の若い子たちを見ていても、『なんでそんな狭い表現の幅でやろうとしているの? もったいない』って思っちゃうんです。自分はHIROさんが、どん底の状態からEXILEを立ち上げていく過程を見てきたんで、そういうふうに、やりたいことができないなら、自分たちで状況を変えていくという気持ちを持っていたい。それを一緒にやれる人たちに、応募してきてもらいたいです!」 (取材・文=北村ヂン) ●サンガ 1978年、富山県生まれ。2002年、『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」で、「軟式globe」 パーク・マンサーとしてブレイク。その後、役者に転身。ドラマや映画、舞台などで精力的に活動中。今春放送 『リッチマン、プアウーマン』(フジテレビ系)スペシャルに出演。12年より、千原せいじが理事長のダンススクール「せじけんスタジオ」の校長も務める。 <http://sejikenstudio.com/

“軟式globe”パーク・マンサーがダンススクールの校長に!? EXILE、千原せいじとの意外なカンケイ

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撮影=尾藤能暢
 ラッパー発掘企画と言いながら、ほぼ変な替え歌コーナーと化していた『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」。その中でもひときわ異彩を放っていたユニット「軟式globe」を覚えているだろうか? globeの「Love again」に乗せて「アホだなぁー」と歌っていたあのユニットだ。  その軟式globeで狂ったラップを繰り広げていたパーク・マンサー(マーク・パンサー役ね)は、現在「サンガ」という名で、千原せいじが理事長を務めるダンススクールの校長になっているという。なんだか人生いろいろ……。パーク・マンサーことサンガに、当時の裏話から、ダンススクールの話までを訊いた! ■パーク・マンサーはEXILEの元・弟子! ――えーっと、軟式globeのパーク・マンサーさんですよね? 「元・パーク・マンサーのサンガです!」 ――まあ、ほとんどの人はサンガさんのことをパーク・マンサーとして認識してると思うんですけど、アレをやる前は何をしてたんですか? 「もともとはダンサーで、実はEXILEのHIROさんの弟子だったんですよ」 ――あ、そんなつながりが! 「ダンサーになるために富山から出てきて、HIROさんと知り合ったんですが、当時のHIROさんはZOOとEXILEの狭間のどん底だった時期で結構やさぐれてて(笑)、こっちはせっかく夢を持って東京に出てきたのに『ダンサーなんかやっても食えないよ』とか言われてましたけど」 ――そんな本流のダンサー志向だったのに、なぜパーク・マンサーに? 「自分よりもダンスはヘタなのに、ルックスのいい後輩連中が先に売れてったり……という状況を見てきて、普通に格好いい踊りをしててもダメなんじゃないかな、っていう気持ちがあったんです。その頃、HIROさんたちと飲み屋に行く機会があって、そこでダンススクールの先生たちのモノマネをやったらメチャクチャ受けたんですよ。それで、普通のダンスよりも、もっと面白いエンターテインメント要素を取り入れたほうがいいのかなと思ったんです。そんなタイミングでB-RAP HIGH SCHOOLが始まり、友達から『お前にピッタリのコーナーがあるよ』と教えてもらって、オーディションに参加しました」 378A8131.jpg ■一夜にして普通に街を歩けなくなった ――本家のglobeは好きだったんですか? 「あんまり知らなかったです(笑)。地元が田舎なもんで、地上波のテレビで見られるダンスってTKサウンドが多かったんですけど、globeさんってダンサーいないじゃないですか?(笑) だからSAMさんのマネをしてみたり、安室ちゃんのバックダンサーに憧れたり……」 ――マーク・パンサーには憧れなかったんですか? 「それはまあ……いい人だと思いますけど(笑)。当時みんな“なんで白髪のおじちゃんがラップしてるんだろう”って思ってたんじゃないですかね(笑)。でも、一応パーク・マンサーをやる時には意識しました」 ――どこを意識したんですか!? 髪形から何から全然違うじゃないですか! 「アレは当時、ダンシング刑事っていうユニットをやっていたので、それ用の髪形なんですよ。松田優作をイメージしたアフロに、それだけじゃ面白くないから、前髪だけストレートにして……。全然関係のない髪形でマーク・パンサー役をやっていたというのもウケたんじゃないですかね。それに『キムタクみたいになりたいと思って東京に出てきたのに、どうしてこんな変なことやってるんだろう』という葛藤もあり……その感じがまた面白がられたのかもしれないですけど(笑)」 ――番組がオンエアされてから、生活は変わりましたか? 「いやー、一夜にして普通に街を歩けなくなりましたよ。金は全然持ってないのに、異常なほど知名度だけ上がっちゃって。まだ普通にアルバイトしてましたからね。それに、いろんな人が寄ってくるようになりました。あの時、もっと遊んどけばよかったですよ……当時はまだ業界のことが分かってなかったので、全然遊べませんでしたね」 ――いきなりそんな有名になって、有頂天になったりはしなかったんですか? 「完全に天狗でしたね(笑)。番組に出た瞬間にガーッと人気が出て、でも1クールくらいで『もう無理だなー』と思って。なんとか面白くしようといろいろ試行錯誤はしていたんですが、それでも10回くらいやったら、明らかにお客さんが盛り下がってるのが分かっちゃったんですよ。『もう、このネタを続けてても無理だなー』って」 ――まあ、globeの替え歌に限定された中でやっていくのは、なかなか難しいですよね。 「『アホだな』という曲でやれる動きもネタも、やり尽くしちゃったのかもしれません。しかも番組の特性上、あのキャラでほかの番組に出るわけにもいかなかったので。だから人気がなくなって消えていったわけではなく、自分から辞めさせてもらったんです」 ――ほかの番組に出てなかったとは思いませんでした。とにかくインパクトは強かったですから、妙に記憶に残ってますよ。 「たぶん『学校へ行こう!』にも、20回くらいしか出てないんじゃないかと思います。でも、いまだにこれだけ覚えてもらっているというのはありがたいですね。パーク・マンサーとしての活動をやめてからも、しばらくはパーク・マンサーとしか見られませんでしたから。……今はルックスも全然変わっちゃったんで、こっちから言わないと気付かれませんけど」 378A8173.jpg ■ライバルはパーク・マンサー ――その後は、主に役者として活動していたそうですが。 「パーク・マンサーをやる前から舞台に出たりはしていたんですが、パークでガーッとネームバリューが上がって、いろいろと仕事が来るようになったんですね。それで『オレ、役者でも行けるなぁー』とか調子に乗ってたんですけど、現場に行ったら全然セリフが言えなかったりして……。いろいろとヘマしました」 ――一気に人気が出たパーク・マンサーと比べ、役者としてはなかなか芽が出ていない状態ですが、それでも役者にこだわっている理由は? 「僕は最終的にエンターテイナーになりたいと思ってるんで、そのためには俳優としても結果を出さなきゃならないんですよ。パーク・マンサーではある時期、お笑いの世界で結果を出したなって思ってますから。同じ人間なのに、アイツ(パーク・マンサー)のせいで人生を振り回されているくらいなことになっているので、まずはパークを乗り越えたい。誰が一番のライバルかって言ったら、パーク・マンサーですから!」 ――そんなサンガさんは今、千原せいじさんが理事長を務めるダンススクール「せじけんスタジオ」の校長をやられているわけですけど、どういった経緯があったんですか? 「役者だけじゃ食えないんですけど、バイトをやるなら少しでも業界とつながれる場所でやりたかったので、知り合いの芸人さんに紹介してもらって、せいじさんがオーナーのバーで働いてたんですよ。それでちょうど一年くらい前、せいじさんがオープン前にフラッとやって来て飲みだして。しかもその日は全然お客さんが来なかったので、せいじさんとじっくり話す機会が訪れたんです。このチャンスに、僕っていう人間をなんとかアピールしようと思い『昔、ダンスやってたんですよ』とか話していたら『ほっかー。オレ今度、ダンススクールやろと思とんねん』って。義務教育でダンスが必修になるっていうのもあり、ダンススクールを作ろうという構想があったらしいんですね。『ほなお前、校長な』って」 ――えー、いきなり! 「もうこっちはポカーンですよ。でも、まあ飲みの席での話だろうなと思っていたんですけど、それからせいじさんに会うたびに、ちょっとずつ話が進んでるんです。物件が決まったのが去年の6月頭くらいで7月にはオープンでしたから、本当に右も左も分からない状態でのスタートでしたね。ダンスを教えたことはあったけど、スクールの運営なんてやったことないから、いまだにバタバタしてますよ」 ――それでも、これはチャンスだと。 「うーん、大変は大変ですけど、チャンスなんでしょうね。僕は絶対に売れるんで(笑)、そうなった時に、こんな面白いエピソードってないと思うんですよ。先生と呼ばれる職業はたくさんありますけど、校長と呼ばれる人はなかなかいませんからね(笑)」 ――そのせじけんスタジオで今、「せじけんアクターズ」一期生の募集をしているそうですけど、コレはどんな企画なんでしょうか? 「生徒という感じではなく、一緒にやっていける仲間を集めたいっていう感覚ですね。自分が結果を出せてないから大きなことは言えませんが、今って兵隊みたいな、コマのひとつで甘んじて、自分が王将になろうっていう人が少ないと思うんですよね。たとえばテレビとかで今の若い子たちを見ていても、『なんでそんな狭い表現の幅でやろうとしているの? もったいない』って思っちゃうんです。自分はHIROさんが、どん底の状態からEXILEを立ち上げていく過程を見てきたんで、そういうふうに、やりたいことができないなら、自分たちで状況を変えていくという気持ちを持っていたい。それを一緒にやれる人たちに、応募してきてもらいたいです!」 (取材・文=北村ヂン) ●サンガ 1978年、富山県生まれ。2002年、『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」で、「軟式globe」 パーク・マンサーとしてブレイク。その後、役者に転身。ドラマや映画、舞台などで精力的に活動中。今春放送 『リッチマン、プアウーマン』(フジテレビ系)スペシャルに出演。12年より、千原せいじが理事長のダンススクール「せじけんスタジオ」の校長も務める。 <http://sejikenstudio.com/

“軟式globe”パーク・マンサーがダンススクールの校長に!? EXILE、千原せいじとの意外なカンケイ

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撮影=尾藤能暢
 ラッパー発掘企画と言いながら、ほぼ変な替え歌コーナーと化していた『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」。その中でもひときわ異彩を放っていたユニット「軟式globe」を覚えているだろうか? globeの「Love again」に乗せて「アホだなぁー」と歌っていたあのユニットだ。  その軟式globeで狂ったラップを繰り広げていたパーク・マンサー(マーク・パンサー役ね)は、現在「サンガ」という名で、千原せいじが理事長を務めるダンススクールの校長になっているという。なんだか人生いろいろ……。パーク・マンサーことサンガに、当時の裏話から、ダンススクールの話までを訊いた! ■パーク・マンサーはEXILEの元・弟子! ――えーっと、軟式globeのパーク・マンサーさんですよね? 「元・パーク・マンサーのサンガです!」 ――まあ、ほとんどの人はサンガさんのことをパーク・マンサーとして認識してると思うんですけど、アレをやる前は何をしてたんですか? 「もともとはダンサーで、実はEXILEのHIROさんの弟子だったんですよ」 ――あ、そんなつながりが! 「ダンサーになるために富山から出てきて、HIROさんと知り合ったんですが、当時のHIROさんはZOOとEXILEの狭間のどん底だった時期で結構やさぐれてて(笑)、こっちはせっかく夢を持って東京に出てきたのに『ダンサーなんかやっても食えないよ』とか言われてましたけど」 ――そんな本流のダンサー志向だったのに、なぜパーク・マンサーに? 「自分よりもダンスはヘタなのに、ルックスのいい後輩連中が先に売れてったり……という状況を見てきて、普通に格好いい踊りをしててもダメなんじゃないかな、っていう気持ちがあったんです。その頃、HIROさんたちと飲み屋に行く機会があって、そこでダンススクールの先生たちのモノマネをやったらメチャクチャ受けたんですよ。それで、普通のダンスよりも、もっと面白いエンターテインメント要素を取り入れたほうがいいのかなと思ったんです。そんなタイミングでB-RAP HIGH SCHOOLが始まり、友達から『お前にピッタリのコーナーがあるよ』と教えてもらって、オーディションに参加しました」 378A8131.jpg ■一夜にして普通に街を歩けなくなった ――本家のglobeは好きだったんですか? 「あんまり知らなかったです(笑)。地元が田舎なもんで、地上波のテレビで見られるダンスってTKサウンドが多かったんですけど、globeさんってダンサーいないじゃないですか?(笑) だからSAMさんのマネをしてみたり、安室ちゃんのバックダンサーに憧れたり……」 ――マーク・パンサーには憧れなかったんですか? 「それはまあ……いい人だと思いますけど(笑)。当時みんな“なんで白髪のおじちゃんがラップしてるんだろう”って思ってたんじゃないですかね(笑)。でも、一応パーク・マンサーをやる時には意識しました」 ――どこを意識したんですか!? 髪形から何から全然違うじゃないですか! 「アレは当時、ダンシング刑事っていうユニットをやっていたので、それ用の髪形なんですよ。松田優作をイメージしたアフロに、それだけじゃ面白くないから、前髪だけストレートにして……。全然関係のない髪形でマーク・パンサー役をやっていたというのもウケたんじゃないですかね。それに『キムタクみたいになりたいと思って東京に出てきたのに、どうしてこんな変なことやってるんだろう』という葛藤もあり……その感じがまた面白がられたのかもしれないですけど(笑)」 ――番組がオンエアされてから、生活は変わりましたか? 「いやー、一夜にして普通に街を歩けなくなりましたよ。金は全然持ってないのに、異常なほど知名度だけ上がっちゃって。まだ普通にアルバイトしてましたからね。それに、いろんな人が寄ってくるようになりました。あの時、もっと遊んどけばよかったですよ……当時はまだ業界のことが分かってなかったので、全然遊べませんでしたね」 ――いきなりそんな有名になって、有頂天になったりはしなかったんですか? 「完全に天狗でしたね(笑)。番組に出た瞬間にガーッと人気が出て、でも1クールくらいで『もう無理だなー』と思って。なんとか面白くしようといろいろ試行錯誤はしていたんですが、それでも10回くらいやったら、明らかにお客さんが盛り下がってるのが分かっちゃったんですよ。『もう、このネタを続けてても無理だなー』って」 ――まあ、globeの替え歌に限定された中でやっていくのは、なかなか難しいですよね。 「『アホだな』という曲でやれる動きもネタも、やり尽くしちゃったのかもしれません。しかも番組の特性上、あのキャラでほかの番組に出るわけにもいかなかったので。だから人気がなくなって消えていったわけではなく、自分から辞めさせてもらったんです」 ――ほかの番組に出てなかったとは思いませんでした。とにかくインパクトは強かったですから、妙に記憶に残ってますよ。 「たぶん『学校へ行こう!』にも、20回くらいしか出てないんじゃないかと思います。でも、いまだにこれだけ覚えてもらっているというのはありがたいですね。パーク・マンサーとしての活動をやめてからも、しばらくはパーク・マンサーとしか見られませんでしたから。……今はルックスも全然変わっちゃったんで、こっちから言わないと気付かれませんけど」 378A8173.jpg ■ライバルはパーク・マンサー ――その後は、主に役者として活動していたそうですが。 「パーク・マンサーをやる前から舞台に出たりはしていたんですが、パークでガーッとネームバリューが上がって、いろいろと仕事が来るようになったんですね。それで『オレ、役者でも行けるなぁー』とか調子に乗ってたんですけど、現場に行ったら全然セリフが言えなかったりして……。いろいろとヘマしました」 ――一気に人気が出たパーク・マンサーと比べ、役者としてはなかなか芽が出ていない状態ですが、それでも役者にこだわっている理由は? 「僕は最終的にエンターテイナーになりたいと思ってるんで、そのためには俳優としても結果を出さなきゃならないんですよ。パーク・マンサーではある時期、お笑いの世界で結果を出したなって思ってますから。同じ人間なのに、アイツ(パーク・マンサー)のせいで人生を振り回されているくらいなことになっているので、まずはパークを乗り越えたい。誰が一番のライバルかって言ったら、パーク・マンサーですから!」 ――そんなサンガさんは今、千原せいじさんが理事長を務めるダンススクール「せじけんスタジオ」の校長をやられているわけですけど、どういった経緯があったんですか? 「役者だけじゃ食えないんですけど、バイトをやるなら少しでも業界とつながれる場所でやりたかったので、知り合いの芸人さんに紹介してもらって、せいじさんがオーナーのバーで働いてたんですよ。それでちょうど一年くらい前、せいじさんがオープン前にフラッとやって来て飲みだして。しかもその日は全然お客さんが来なかったので、せいじさんとじっくり話す機会が訪れたんです。このチャンスに、僕っていう人間をなんとかアピールしようと思い『昔、ダンスやってたんですよ』とか話していたら『ほっかー。オレ今度、ダンススクールやろと思とんねん』って。義務教育でダンスが必修になるっていうのもあり、ダンススクールを作ろうという構想があったらしいんですね。『ほなお前、校長な』って」 ――えー、いきなり! 「もうこっちはポカーンですよ。でも、まあ飲みの席での話だろうなと思っていたんですけど、それからせいじさんに会うたびに、ちょっとずつ話が進んでるんです。物件が決まったのが去年の6月頭くらいで7月にはオープンでしたから、本当に右も左も分からない状態でのスタートでしたね。ダンスを教えたことはあったけど、スクールの運営なんてやったことないから、いまだにバタバタしてますよ」 ――それでも、これはチャンスだと。 「うーん、大変は大変ですけど、チャンスなんでしょうね。僕は絶対に売れるんで(笑)、そうなった時に、こんな面白いエピソードってないと思うんですよ。先生と呼ばれる職業はたくさんありますけど、校長と呼ばれる人はなかなかいませんからね(笑)」 ――そのせじけんスタジオで今、「せじけんアクターズ」一期生の募集をしているそうですけど、コレはどんな企画なんでしょうか? 「生徒という感じではなく、一緒にやっていける仲間を集めたいっていう感覚ですね。自分が結果を出せてないから大きなことは言えませんが、今って兵隊みたいな、コマのひとつで甘んじて、自分が王将になろうっていう人が少ないと思うんですよね。たとえばテレビとかで今の若い子たちを見ていても、『なんでそんな狭い表現の幅でやろうとしているの? もったいない』って思っちゃうんです。自分はHIROさんが、どん底の状態からEXILEを立ち上げていく過程を見てきたんで、そういうふうに、やりたいことができないなら、自分たちで状況を変えていくという気持ちを持っていたい。それを一緒にやれる人たちに、応募してきてもらいたいです!」 (取材・文=北村ヂン) ●サンガ 1978年、富山県生まれ。2002年、『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」で、「軟式globe」 パーク・マンサーとしてブレイク。その後、役者に転身。ドラマや映画、舞台などで精力的に活動中。今春放送 『リッチマン、プアウーマン』(フジテレビ系)スペシャルに出演。12年より、千原せいじが理事長のダンススクール「せじけんスタジオ」の校長も務める。 <http://sejikenstudio.com/

“軟式globe”パーク・マンサーがダンススクールの校長に!? EXILE、千原せいじとの意外なカンケイ

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撮影=尾藤能暢
 ラッパー発掘企画と言いながら、ほぼ変な替え歌コーナーと化していた『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」。その中でもひときわ異彩を放っていたユニット「軟式globe」を覚えているだろうか? globeの「Love again」に乗せて「アホだなぁー」と歌っていたあのユニットだ。  その軟式globeで狂ったラップを繰り広げていたパーク・マンサー(マーク・パンサー役ね)は、現在「サンガ」という名で、千原せいじが理事長を務めるダンススクールの校長になっているという。なんだか人生いろいろ……。パーク・マンサーことサンガに、当時の裏話から、ダンススクールの話までを訊いた! ■パーク・マンサーはEXILEの元・弟子! ――えーっと、軟式globeのパーク・マンサーさんですよね? 「元・パーク・マンサーのサンガです!」 ――まあ、ほとんどの人はサンガさんのことをパーク・マンサーとして認識してると思うんですけど、アレをやる前は何をしてたんですか? 「もともとはダンサーで、実はEXILEのHIROさんの弟子だったんですよ」 ――あ、そんなつながりが! 「ダンサーになるために富山から出てきて、HIROさんと知り合ったんですが、当時のHIROさんはZOOとEXILEの狭間のどん底だった時期で結構やさぐれてて(笑)、こっちはせっかく夢を持って東京に出てきたのに『ダンサーなんかやっても食えないよ』とか言われてましたけど」 ――そんな本流のダンサー志向だったのに、なぜパーク・マンサーに? 「自分よりもダンスはヘタなのに、ルックスのいい後輩連中が先に売れてったり……という状況を見てきて、普通に格好いい踊りをしててもダメなんじゃないかな、っていう気持ちがあったんです。その頃、HIROさんたちと飲み屋に行く機会があって、そこでダンススクールの先生たちのモノマネをやったらメチャクチャ受けたんですよ。それで、普通のダンスよりも、もっと面白いエンターテインメント要素を取り入れたほうがいいのかなと思ったんです。そんなタイミングでB-RAP HIGH SCHOOLが始まり、友達から『お前にピッタリのコーナーがあるよ』と教えてもらって、オーディションに参加しました」 378A8131.jpg ■一夜にして普通に街を歩けなくなった ――本家のglobeは好きだったんですか? 「あんまり知らなかったです(笑)。地元が田舎なもんで、地上波のテレビで見られるダンスってTKサウンドが多かったんですけど、globeさんってダンサーいないじゃないですか?(笑) だからSAMさんのマネをしてみたり、安室ちゃんのバックダンサーに憧れたり……」 ――マーク・パンサーには憧れなかったんですか? 「それはまあ……いい人だと思いますけど(笑)。当時みんな“なんで白髪のおじちゃんがラップしてるんだろう”って思ってたんじゃないですかね(笑)。でも、一応パーク・マンサーをやる時には意識しました」 ――どこを意識したんですか!? 髪形から何から全然違うじゃないですか! 「アレは当時、ダンシング刑事っていうユニットをやっていたので、それ用の髪形なんですよ。松田優作をイメージしたアフロに、それだけじゃ面白くないから、前髪だけストレートにして……。全然関係のない髪形でマーク・パンサー役をやっていたというのもウケたんじゃないですかね。それに『キムタクみたいになりたいと思って東京に出てきたのに、どうしてこんな変なことやってるんだろう』という葛藤もあり……その感じがまた面白がられたのかもしれないですけど(笑)」 ――番組がオンエアされてから、生活は変わりましたか? 「いやー、一夜にして普通に街を歩けなくなりましたよ。金は全然持ってないのに、異常なほど知名度だけ上がっちゃって。まだ普通にアルバイトしてましたからね。それに、いろんな人が寄ってくるようになりました。あの時、もっと遊んどけばよかったですよ……当時はまだ業界のことが分かってなかったので、全然遊べませんでしたね」 ――いきなりそんな有名になって、有頂天になったりはしなかったんですか? 「完全に天狗でしたね(笑)。番組に出た瞬間にガーッと人気が出て、でも1クールくらいで『もう無理だなー』と思って。なんとか面白くしようといろいろ試行錯誤はしていたんですが、それでも10回くらいやったら、明らかにお客さんが盛り下がってるのが分かっちゃったんですよ。『もう、このネタを続けてても無理だなー』って」 ――まあ、globeの替え歌に限定された中でやっていくのは、なかなか難しいですよね。 「『アホだな』という曲でやれる動きもネタも、やり尽くしちゃったのかもしれません。しかも番組の特性上、あのキャラでほかの番組に出るわけにもいかなかったので。だから人気がなくなって消えていったわけではなく、自分から辞めさせてもらったんです」 ――ほかの番組に出てなかったとは思いませんでした。とにかくインパクトは強かったですから、妙に記憶に残ってますよ。 「たぶん『学校へ行こう!』にも、20回くらいしか出てないんじゃないかと思います。でも、いまだにこれだけ覚えてもらっているというのはありがたいですね。パーク・マンサーとしての活動をやめてからも、しばらくはパーク・マンサーとしか見られませんでしたから。……今はルックスも全然変わっちゃったんで、こっちから言わないと気付かれませんけど」 378A8173.jpg ■ライバルはパーク・マンサー ――その後は、主に役者として活動していたそうですが。 「パーク・マンサーをやる前から舞台に出たりはしていたんですが、パークでガーッとネームバリューが上がって、いろいろと仕事が来るようになったんですね。それで『オレ、役者でも行けるなぁー』とか調子に乗ってたんですけど、現場に行ったら全然セリフが言えなかったりして……。いろいろとヘマしました」 ――一気に人気が出たパーク・マンサーと比べ、役者としてはなかなか芽が出ていない状態ですが、それでも役者にこだわっている理由は? 「僕は最終的にエンターテイナーになりたいと思ってるんで、そのためには俳優としても結果を出さなきゃならないんですよ。パーク・マンサーではある時期、お笑いの世界で結果を出したなって思ってますから。同じ人間なのに、アイツ(パーク・マンサー)のせいで人生を振り回されているくらいなことになっているので、まずはパークを乗り越えたい。誰が一番のライバルかって言ったら、パーク・マンサーですから!」 ――そんなサンガさんは今、千原せいじさんが理事長を務めるダンススクール「せじけんスタジオ」の校長をやられているわけですけど、どういった経緯があったんですか? 「役者だけじゃ食えないんですけど、バイトをやるなら少しでも業界とつながれる場所でやりたかったので、知り合いの芸人さんに紹介してもらって、せいじさんがオーナーのバーで働いてたんですよ。それでちょうど一年くらい前、せいじさんがオープン前にフラッとやって来て飲みだして。しかもその日は全然お客さんが来なかったので、せいじさんとじっくり話す機会が訪れたんです。このチャンスに、僕っていう人間をなんとかアピールしようと思い『昔、ダンスやってたんですよ』とか話していたら『ほっかー。オレ今度、ダンススクールやろと思とんねん』って。義務教育でダンスが必修になるっていうのもあり、ダンススクールを作ろうという構想があったらしいんですね。『ほなお前、校長な』って」 ――えー、いきなり! 「もうこっちはポカーンですよ。でも、まあ飲みの席での話だろうなと思っていたんですけど、それからせいじさんに会うたびに、ちょっとずつ話が進んでるんです。物件が決まったのが去年の6月頭くらいで7月にはオープンでしたから、本当に右も左も分からない状態でのスタートでしたね。ダンスを教えたことはあったけど、スクールの運営なんてやったことないから、いまだにバタバタしてますよ」 ――それでも、これはチャンスだと。 「うーん、大変は大変ですけど、チャンスなんでしょうね。僕は絶対に売れるんで(笑)、そうなった時に、こんな面白いエピソードってないと思うんですよ。先生と呼ばれる職業はたくさんありますけど、校長と呼ばれる人はなかなかいませんからね(笑)」 ――そのせじけんスタジオで今、「せじけんアクターズ」一期生の募集をしているそうですけど、コレはどんな企画なんでしょうか? 「生徒という感じではなく、一緒にやっていける仲間を集めたいっていう感覚ですね。自分が結果を出せてないから大きなことは言えませんが、今って兵隊みたいな、コマのひとつで甘んじて、自分が王将になろうっていう人が少ないと思うんですよね。たとえばテレビとかで今の若い子たちを見ていても、『なんでそんな狭い表現の幅でやろうとしているの? もったいない』って思っちゃうんです。自分はHIROさんが、どん底の状態からEXILEを立ち上げていく過程を見てきたんで、そういうふうに、やりたいことができないなら、自分たちで状況を変えていくという気持ちを持っていたい。それを一緒にやれる人たちに、応募してきてもらいたいです!」 (取材・文=北村ヂン) ●サンガ 1978年、富山県生まれ。2002年、『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」で、「軟式globe」 パーク・マンサーとしてブレイク。その後、役者に転身。ドラマや映画、舞台などで精力的に活動中。今春放送 『リッチマン、プアウーマン』(フジテレビ系)スペシャルに出演。12年より、千原せいじが理事長のダンススクール「せじけんスタジオ」の校長も務める。 <http://sejikenstudio.com/

“軟式globe”パーク・マンサーがダンススクールの校長に!? EXILE、千原せいじとの意外なカンケイ

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撮影=尾藤能暢
 ラッパー発掘企画と言いながら、ほぼ変な替え歌コーナーと化していた『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」。その中でもひときわ異彩を放っていたユニット「軟式globe」を覚えているだろうか? globeの「Love again」に乗せて「アホだなぁー」と歌っていたあのユニットだ。  その軟式globeで狂ったラップを繰り広げていたパーク・マンサー(マーク・パンサー役ね)は、現在「サンガ」という名で、千原せいじが理事長を務めるダンススクールの校長になっているという。なんだか人生いろいろ……。パーク・マンサーことサンガに、当時の裏話から、ダンススクールの話までを訊いた! ■パーク・マンサーはEXILEの元・弟子! ――えーっと、軟式globeのパーク・マンサーさんですよね? 「元・パーク・マンサーのサンガです!」 ――まあ、ほとんどの人はサンガさんのことをパーク・マンサーとして認識してると思うんですけど、アレをやる前は何をしてたんですか? 「もともとはダンサーで、実はEXILEのHIROさんの弟子だったんですよ」 ――あ、そんなつながりが! 「ダンサーになるために富山から出てきて、HIROさんと知り合ったんですが、当時のHIROさんはZOOとEXILEの狭間のどん底だった時期で結構やさぐれてて(笑)、こっちはせっかく夢を持って東京に出てきたのに『ダンサーなんかやっても食えないよ』とか言われてましたけど」 ――そんな本流のダンサー志向だったのに、なぜパーク・マンサーに? 「自分よりもダンスはヘタなのに、ルックスのいい後輩連中が先に売れてったり……という状況を見てきて、普通に格好いい踊りをしててもダメなんじゃないかな、っていう気持ちがあったんです。その頃、HIROさんたちと飲み屋に行く機会があって、そこでダンススクールの先生たちのモノマネをやったらメチャクチャ受けたんですよ。それで、普通のダンスよりも、もっと面白いエンターテインメント要素を取り入れたほうがいいのかなと思ったんです。そんなタイミングでB-RAP HIGH SCHOOLが始まり、友達から『お前にピッタリのコーナーがあるよ』と教えてもらって、オーディションに参加しました」 378A8131.jpg ■一夜にして普通に街を歩けなくなった ――本家のglobeは好きだったんですか? 「あんまり知らなかったです(笑)。地元が田舎なもんで、地上波のテレビで見られるダンスってTKサウンドが多かったんですけど、globeさんってダンサーいないじゃないですか?(笑) だからSAMさんのマネをしてみたり、安室ちゃんのバックダンサーに憧れたり……」 ――マーク・パンサーには憧れなかったんですか? 「それはまあ……いい人だと思いますけど(笑)。当時みんな“なんで白髪のおじちゃんがラップしてるんだろう”って思ってたんじゃないですかね(笑)。でも、一応パーク・マンサーをやる時には意識しました」 ――どこを意識したんですか!? 髪形から何から全然違うじゃないですか! 「アレは当時、ダンシング刑事っていうユニットをやっていたので、それ用の髪形なんですよ。松田優作をイメージしたアフロに、それだけじゃ面白くないから、前髪だけストレートにして……。全然関係のない髪形でマーク・パンサー役をやっていたというのもウケたんじゃないですかね。それに『キムタクみたいになりたいと思って東京に出てきたのに、どうしてこんな変なことやってるんだろう』という葛藤もあり……その感じがまた面白がられたのかもしれないですけど(笑)」 ――番組がオンエアされてから、生活は変わりましたか? 「いやー、一夜にして普通に街を歩けなくなりましたよ。金は全然持ってないのに、異常なほど知名度だけ上がっちゃって。まだ普通にアルバイトしてましたからね。それに、いろんな人が寄ってくるようになりました。あの時、もっと遊んどけばよかったですよ……当時はまだ業界のことが分かってなかったので、全然遊べませんでしたね」 ――いきなりそんな有名になって、有頂天になったりはしなかったんですか? 「完全に天狗でしたね(笑)。番組に出た瞬間にガーッと人気が出て、でも1クールくらいで『もう無理だなー』と思って。なんとか面白くしようといろいろ試行錯誤はしていたんですが、それでも10回くらいやったら、明らかにお客さんが盛り下がってるのが分かっちゃったんですよ。『もう、このネタを続けてても無理だなー』って」 ――まあ、globeの替え歌に限定された中でやっていくのは、なかなか難しいですよね。 「『アホだな』という曲でやれる動きもネタも、やり尽くしちゃったのかもしれません。しかも番組の特性上、あのキャラでほかの番組に出るわけにもいかなかったので。だから人気がなくなって消えていったわけではなく、自分から辞めさせてもらったんです」 ――ほかの番組に出てなかったとは思いませんでした。とにかくインパクトは強かったですから、妙に記憶に残ってますよ。 「たぶん『学校へ行こう!』にも、20回くらいしか出てないんじゃないかと思います。でも、いまだにこれだけ覚えてもらっているというのはありがたいですね。パーク・マンサーとしての活動をやめてからも、しばらくはパーク・マンサーとしか見られませんでしたから。……今はルックスも全然変わっちゃったんで、こっちから言わないと気付かれませんけど」 378A8173.jpg ■ライバルはパーク・マンサー ――その後は、主に役者として活動していたそうですが。 「パーク・マンサーをやる前から舞台に出たりはしていたんですが、パークでガーッとネームバリューが上がって、いろいろと仕事が来るようになったんですね。それで『オレ、役者でも行けるなぁー』とか調子に乗ってたんですけど、現場に行ったら全然セリフが言えなかったりして……。いろいろとヘマしました」 ――一気に人気が出たパーク・マンサーと比べ、役者としてはなかなか芽が出ていない状態ですが、それでも役者にこだわっている理由は? 「僕は最終的にエンターテイナーになりたいと思ってるんで、そのためには俳優としても結果を出さなきゃならないんですよ。パーク・マンサーではある時期、お笑いの世界で結果を出したなって思ってますから。同じ人間なのに、アイツ(パーク・マンサー)のせいで人生を振り回されているくらいなことになっているので、まずはパークを乗り越えたい。誰が一番のライバルかって言ったら、パーク・マンサーですから!」 ――そんなサンガさんは今、千原せいじさんが理事長を務めるダンススクール「せじけんスタジオ」の校長をやられているわけですけど、どういった経緯があったんですか? 「役者だけじゃ食えないんですけど、バイトをやるなら少しでも業界とつながれる場所でやりたかったので、知り合いの芸人さんに紹介してもらって、せいじさんがオーナーのバーで働いてたんですよ。それでちょうど一年くらい前、せいじさんがオープン前にフラッとやって来て飲みだして。しかもその日は全然お客さんが来なかったので、せいじさんとじっくり話す機会が訪れたんです。このチャンスに、僕っていう人間をなんとかアピールしようと思い『昔、ダンスやってたんですよ』とか話していたら『ほっかー。オレ今度、ダンススクールやろと思とんねん』って。義務教育でダンスが必修になるっていうのもあり、ダンススクールを作ろうという構想があったらしいんですね。『ほなお前、校長な』って」 ――えー、いきなり! 「もうこっちはポカーンですよ。でも、まあ飲みの席での話だろうなと思っていたんですけど、それからせいじさんに会うたびに、ちょっとずつ話が進んでるんです。物件が決まったのが去年の6月頭くらいで7月にはオープンでしたから、本当に右も左も分からない状態でのスタートでしたね。ダンスを教えたことはあったけど、スクールの運営なんてやったことないから、いまだにバタバタしてますよ」 ――それでも、これはチャンスだと。 「うーん、大変は大変ですけど、チャンスなんでしょうね。僕は絶対に売れるんで(笑)、そうなった時に、こんな面白いエピソードってないと思うんですよ。先生と呼ばれる職業はたくさんありますけど、校長と呼ばれる人はなかなかいませんからね(笑)」 ――そのせじけんスタジオで今、「せじけんアクターズ」一期生の募集をしているそうですけど、コレはどんな企画なんでしょうか? 「生徒という感じではなく、一緒にやっていける仲間を集めたいっていう感覚ですね。自分が結果を出せてないから大きなことは言えませんが、今って兵隊みたいな、コマのひとつで甘んじて、自分が王将になろうっていう人が少ないと思うんですよね。たとえばテレビとかで今の若い子たちを見ていても、『なんでそんな狭い表現の幅でやろうとしているの? もったいない』って思っちゃうんです。自分はHIROさんが、どん底の状態からEXILEを立ち上げていく過程を見てきたんで、そういうふうに、やりたいことができないなら、自分たちで状況を変えていくという気持ちを持っていたい。それを一緒にやれる人たちに、応募してきてもらいたいです!」 (取材・文=北村ヂン) ●サンガ 1978年、富山県生まれ。2002年、『学校へ行こう!』(TBS系)の人気コーナー「B-RAP HIGH SCHOOL」で、「軟式globe」 パーク・マンサーとしてブレイク。その後、役者に転身。ドラマや映画、舞台などで精力的に活動中。今春放送 『リッチマン、プアウーマン』(フジテレビ系)スペシャルに出演。12年より、千原せいじが理事長のダンススクール「せじけんスタジオ」の校長も務める。 <http://sejikenstudio.com/

テレビ界の“明日のジョー”『5時に夢中!』名物Pが明かす、お化け番組の作り方

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 2012年、スカイツリーからの送信を開始。電波状況も改善され、ますます視聴者の裾野を広げている独立系ローカルテレビ局TOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)。アニメは名作・新作を問わず週60本放送、さらにはテレビで初めてバーチャルアイドル「初音ミク」の特集番組を組むなど、キー局には見られない独自色を強く打ち出している。しかし、何よりMXを象徴する番組は『5時に夢中!』をおいてほかにはないだろう。マツコ・デラックスや岩井志麻子ら“猛獣・珍獣”を巧みに操る一方で、時には自身の下半身事情まで晒される番組名物プロデューサー大川貴史氏。彼にあらためて聞く、お化け番組『5時に夢中!』の“これまで”と“これから”。 ――大川さんは『5時に夢中!』をどんなコンセプトで作ったのですか? 大川貴史氏(以下、大川) 僕は営業からスポーツ局に異動になって、そこで1年くらいADをやっていましたが、ある時いきなり上が全員抜けちゃったんです。まだできたばかりの会社なので、政権争いがスゴかったんですよ(笑)。それで自動的に僕が一番年上になったので「じゃあ、お前がプロデューサーやれ!」みたいなノリでした。前身の音楽番組の頃はあまりにもお金がなくて、レーベルからお金をもらい、その代わりにこの人を使う――みたいなやり方でなんとかしのいでいたんですが、これがいろいろめんどくさい。出演者がスポンサーでもあるから、なかなか自由にはやらせてもらえないんです。制作会社の社長の愛人を使わなきゃいけないとか(笑)。そういう矛盾を、まず一つ一つ排除して。  うちの会社の中では、帯番組に動くお金が一番大きいんですね。そうなるといつも「帯番組をつぶせ」っていう議論になる。放送が決まってからも「やっぱりなくせ」。で、ある時になったら「やっぱりやれ」と。出演をオファーしていた(岩井)志麻子さんには「どっちなんじゃい!」と、菓子折りブン投げられましたよ(笑)。でも、それで腹くくったというか、いつ終わるか分からないんだったら、自分が興味のある人に出てもらおう。それだったら、終わっても後悔しねぇなって(笑)。それで「どっちにしろ誰も見てねぇし、スポンサーいねぇし、誰にも世話になってないから、言いたいこと言っちゃおうぜ」というコンセプトになりました。 ――意識した視聴者層は? 大川 当時の上層部的に、夕方の番組といえば『夕やけニャンニャン』のイメージ。中高生がワ~ッと集まるような番組にしてくれ、と。でも、まったく引きがないんですよ。で、急遽、新しい番組を立ち上げろと言われた時に、どうしたらいいか全然分からなくて。『5時に夢中!』というタイトルは「五里霧中」が由来なんです。実際、その時間帯に中高生はいないんですね。調査したら、5時の在宅率は主婦層が圧倒的に多い。これはもう主婦向けしかない。しかも、その時間の裏番組は全部真面目なニュースでしょ。だったらこっちは極端に色のある人たちに出てもらって、主婦向けに本音トークをしてもらおうと。主婦が絶対読まない夕刊紙を題材に、真面目な顔しながら面白おかしく、ニュースパロディみたいな形でと、試行錯誤しながらたどり着いたのが現在の姿です。 ――制作段階で参考にした番組はありましたか? 大川 テレビだったら『サンジャポ』、雑誌だったら「噂の真相」や「サイゾー」ですね。おべんちゃらでもなんでもなく(笑)。ある種マニアックかもしれないけど、熱狂的な信者を生むような。それくらい濃くやらないと視聴者に刺さらないんですよね、うちの場合。電波が弱いんで。キー局と同じコンテンツをMXが流したって、絶対数字なんて取れるはずないですからね。MXはローカル局であり、後発局でもありますから。  ただ全国ネットと違って、僕らはある程度刺激に強い、東京人だけを相手にすればいい。田舎のおじいちゃんおばあちゃんや、お子さんたちのことは考えなくていいんです。僕は第二次ベビーブーム世代で、視聴者層もだいたいその辺りがターゲット。この世代って深夜ラジオ全盛期でしょう。だから、深夜ラジオが夕方やってるっていうニュアンスでやるのがいいかなとは思っていました。大抵のことは深夜ラジオが教えてくれますしね(笑)。 ――条件的には厳しいけど、だからこそやれることをやると。
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大川貴史プロデューサー
大川 逆手に取って……って聞こえはいいですけど、結局はやれることが限られるので、そこを極端にしていっただけです。予算もそうですけど、人もいない。そうなると、この労力をどう効率的に回すか。だって帯番組なのに、当初はスタッフが5人だったんですよ(笑)。本来はできることから始まる発想なんてダメなんでしょうけど、実現不可能なことで会議しても、僕らの場合はしょうがないから。スタッフを育てながら、番組を作っていくしかない。だけど、いい感じに仕上がったところで、みんな辞めてっちゃう。もっとカネのイイところに(笑)。今は徐々に体制が整ってきて、スタッフも増えてきて、これからもっと面白いことができるかな~とは思ってるんですけどね。 ――荒波の中で船出をした『5時に夢中!』が、現在ではすっかりMXの看板番組に。ヒットの理由は、どんなところにあるのでしょうか? 大川 何が理由でヒットしたかなんて分かりませんよ。そんなの分かってたら、世の中のすべての企画は大成功しているはず。ただ、MXは数字だけを評価する会社でもないので、そうなると逆に何を信じていいかが難しい。たまたま僕が最初の異動でADをやっていた時、まだ売れる前のTKOさんがMCだったんですね。それが死ぬほど面白かった。安田大サーカスさんとか、小島よしおくんとかも出ていました。彼らがみんな売れてくれたことで、自分の目線に自信が持てたことは確かです。僕が面白いと思ったことは、世の中も面白いと思ってくれる。勝手な自信ですけど。 ――マツコさんを筆頭に、女性コメンテーターさんは皆さん売れっ子になっていますし。人選が絶妙だと思います 大川 この番組のメイン視聴者層、子育てしながら見ている主婦の人っていうのは、昔ながらの“幸せをつかんだ人”じゃないですか。家庭もあって、子どももいて。ただ、そういう人たちが本当に幸せかどうかは誰も分からない。だから、結婚や出産を選んだ主婦とは真逆な選択をして、なおかつ幸せに生きていそうな人たちを並べて、違う価値観を視聴者たちにぶつけてみたいなっていうのはありましたね。「温かな家庭=女性の幸せ」という画一的な価値観に対しても、一石を投じたいなと。まぁ、後付けですけどね(笑)。僕は自分の母親を見て、そう思っていたんです。幸せの条件は整っているんですけど、まったく幸せそうに見えなかった。本当はもっとやりたいことがあったんじゃないか、子どものために我慢しているんじゃないかっていうのは、なんとなく子どもの頃から思ってたんですよね。 ――主婦のガス抜きという側面もあると。 大川 そうそう。誰だって一歩間違えれば、こういう人生だったかもしれない。志麻子さんなんか毎週ヤリマン自慢してますけど、家庭の主婦だってチャンスがあったら覗いてみたい世界なんじゃないですか? あと歴代の男性司会者がボロクソに叩かれるっていうのも、世の主婦たちにとっては代弁なんでしょう。ダンナに対するね。溜飲が下がるらしいんです。 ――個人的に思い入れのある企画は? 大川 「おママの花道」(※註)ですね。女性の人生って、男には計り知れないところじゃないですか。僕は男子校で、しかも全寮制で、大学まで野球やってて、めちゃくちゃ男尊女卑の世界で生きてきました。だけど、知れば知るほど「女ってスゲーぞ!」と。スナックのママというのはその象徴みたいな人たちで、それこそ圧倒的な現実を生きている。離婚したとか、借金背負わされたとか。男だったら自殺するかもしれないなっていうことを、淡々と生きちゃうんですよね。その凄みみたいなものを見せたいっていうのが「おママ」です。 ――予定調和なき世界というのが『5時に夢中!』の大きな魅力だと思いますが、大川さんの中で「言論の自由」のボーダーラインは、どのように設定しているのですか? 大川 そうですね、人格を貶めるようなことですかね。個人攻撃のような。皆さん、そんなこと言わないですけど。「好き」とか「嫌い」とか言う分には個人の自由ですからいいんですけど、「アイツは本当は○○だ」のような、裏の取れない話はダメかなとは思います。新聞社から頂いた情報はあくまでも入り口であり、コメンテーターさんにはどれだけ脱線してもらっても構いません。皆さんの妄想や世界観でしゃべってもらう分には、いくらでも。ただ、出演者さんは、ほとんど悪口は言ってないんです。人によってはそう聞こえるかもしれないけど、基本的には自虐。「私はこう思う」ってこと自体を咎める理由は何もないし、それがまったく言えなくなっちゃう世の中だったら本当に怖いと思いますしね。普通の人なら記事そのものを受け入れますけど、出演者の方々はその先を見ていたり、まったく見方が違ったりとか、視点が本当に独特だから、何年やっても飽きないのかなと思います。 ――サイゾーもそうですが、表層部分だけを見て「悪口だ」とされるのが一番つらい(笑)。 大川 「こういう見方もあるんじゃないの?」っていう問題提起なんですよね。こうやって見たら、もっと面白いんじゃない? と。僕らが王道になっちゃうほうが世の中おかしいな、って思うし(笑)。 ――『5時に夢中!』がサブカルだという意識は? 大川 まったくないですね。ただ、僕自身は吉田豪さんや水道橋博士さんのようなサブカル的な人が好きです。それは「こういう見方があるんだな」っていう視点が好きなんです。キャッチボールをしていても、とんでもない方向から球が来るような。 ――『5時に夢中!』は、いつサブカルのアイコンになってもおかしくないと思いますが、番組がずっと「下世話」を貫き通しているのがすごいなと。 大川 サブカルは、もう「権威」ですからね。本当にいつ終わるかも分からない低予算番組なので、出てくれる人はみんな“ほかで飯が食える人”です。テレビがなくても飯を食っていける人のほうが、本当のことを言ってくれるから。それが、いい意味での下世話感を生んでいるのかもしれません。 ――刹那的に始まったものが、ここまで長く続いている。 大川 結局は「偉大なるマンネリ」を作った人が勝ちなんですよね。ドリフみたいな。僕も40で、見てくれている人も同世代だと仮定すると、新しいことを追い続けるよりも、水戸黄門的な定番モノが欲しくなると思うんですよ。昔の人は情報も多くなかったから、みんな似たような生活をしていて、同じようなモノ見て、同じようなモノ食って。そういう共通項が多いほど、共感を呼ぶのかなとも思います。『5時に夢中!』を始めて、最初にリアクションがあったのは、実はゲイの方たちと水商売の人たちだったんです。コアに反応にしてくれた層です。『5時に夢中!』は、水商売の人のための“めざましテレビ”でもある。これから接客する人たちの情報収集として。もしできることなら朝の5時くらい、水商売の人たちが帰ってくるくらいの時間に再放送したいですね。 ――再放送! ぜひお願いしたいです! 大川 ギャラの問題がね(笑)。ほら、皆さん大手事務所に入ってるから、二次使用とかなんとか大変で。今でも番組予算の3分の2くらいはギャランティーじゃないですかね。だからこっちはいつまでたっても人が足りない。人も足りなきゃ機材も足りない。編集室なんて奪い合いですよ、わが社は(笑)!! しかし、あえてそういう配分にしているのは、何はさておきトークが番組の生命線だから。とはいえ、キー局の10分の1にも満たないギャラです。本当によく出てくれるな、って涙が出ます。皆さん義理堅いんです。 ――これからの『5時に夢中!』は、どんな展開を考えていますか? 大川 ちょっとやってみようかなって思ってるのは、祝日だけコメンテーターを一人足そうかと。3人いると、いろいろシャッフルもできるし。ふかわさんがようやく溶け込んできて、チームワークが取れてきたところですしね。DVDもね……新聞使ってるから難しいんだよなぁ。それこそイベントやったり、本出したりしてみたいですけどね。いざやるとなると、僕が全部やらなきゃいけないから、めんどくさい(笑)。なんで権利処理まで僕がやらなきゃいけないんだと。会社として専門家が全然いないし、前例もないから、なるべくその第一歩になりたいと思ってはいるんですけど。一番いいのは、地方局に買っていただくことでしょう。暴走族みたいに全国制覇していきたいですね。 ――昨今のテレビ界では「地方から東京へ」というインパクトが目立っていますが、『5時に夢中!』が地方にもたらす影響は大きいと思います。 大川 『5時に夢中!』というか、MX自体がマイノリティなんです。東京という都会のマイノリティ。出演者さんが弱者の味方なのは、ご自身もマイノリティの自覚がある方が多いから。だから根底にあるものが優しいんですよ。スポンサーニーズには全然応えてくれないけど(笑)。もしウチがフジテレビみたいに恵まれている会社だったら、マツコさんはすぐに辞めていたと思いますよ。視聴者からのお便りで「もう何年も笑ってなかったけど、この番組で笑うことができた」ってもらった時、あぁ誰かの役には立ってるんだなって。常に逆風の中で生きている人たちの味方でありたいなと思っています。リアル“明日のジョー”として。 (取材・文=西澤千央) ※註 スナックのママが己の波瀾万丈な人生を赤裸々に語り、魂を込めて熱唱する、月曜日の人気コーナー。

被災者はサバイバーズギルトにどう対処している? 中田秀夫監督による映像碑『3.11後を生きる』

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『リング』シリーズの世界的ヒットで知られる中田秀夫監督。
今回は被災地で働く人々の姿を丹念に取材して回った。
 中田秀夫監督が自主製作として完成させたドキュメンタリー映画『3.11後を生きる』が2月23日(土)より劇場公開される。東日本を襲った大震災から4か月後となる2011年7月から中田監督は津波の被害が大きかった岩手県、宮城県の沿岸エリアに入り、4か月間にわたって取材撮影を続けた。津波によって家族を一瞬にして失うという悲劇に見舞われた人々があの日をどのように受け止め、また“3.11後”をどのように生きているのかを中田監督は追っている。中田監督といえば、『リング』シリーズを大ヒットさせたホラー映画の名手。『リング』(98)や『仄暗い水の底から』(02)では家族と引き離される恐怖を描いてきたが、本作との関連性について問うと大きく首を振った。「今回のドキュメンタリーと劇映画はまったく別物」と明言する。海外でも活躍する人気監督を突き動かしたものは、果たして何だったのだろうか。  中田監督はこれまでに3本のドキュメンタリー映画を撮ってきた。『唇からナイフ』などで知られるジョセフ・ロージー監督の評伝『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』(98)、中田監督の師匠である小沼勝監督と“にっかつロマンポルノ”を扱った『サディスティック&マゾヒスティック』(00)、ハリウッド映画『ザ・リング2』(05)での体験をベースにした『ハリウッド監督学入門』(08)とどれも映画業界を題材にしたもの。いわば、ドキュメンタリー製作を通して中田監督は自分の足元を見つめてきた。
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岩手県山田町でスナックを経営する三浦恵美子さん。
ひとり娘と3人の孫を失い、自分が代わりになれなかったことを責めている。
中田 「今までに撮った3本のドキュメンタリーはそうですね。もともと僕は学生の頃からドキュメンタリー映画が好きで、『岩波映画製作所』に入りたいなと思っていたんです。岩波映画はもうないんですが、羽仁進、黒木和雄、土本典昭といったドキュメンタリー監督たちが活躍していた映画会社で、憧れていました。結局、僕は『にっかつ撮影所』に入り、劇映画の世界に身を置くことになったわけですが、今回はドキュメンタリーを撮ることで現実の社会と向き合わざるを得なかった。でも現実社会と向き合うほどの思想を持たない人間が社会問題を扱うドキュメンタリーを作ることはおこがましいという気持ちもあり、自分がいる世界を撮るのが順当だろうという気持ちで今まではやってきていたんです。ですから、被災地で取材を進めた今回は、今までの自分が撮ってきたドキュメンタリーとは大きく異なりますね」  中田監督の劇場デビュー作となった『女優霊』(96)は、もともとは英国留学中に撮影を始めた『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』を完成させる資金を捻出するために撮ったもの。その後、『リング』シリーズをヒットさせた後に『サディスティック&マゾヒスティック』、ハリウッドデビュー後に『ハリウッド監督学入門』を撮っている。中田監督のキャリアを振り返ると、節目節目にドキュメンタリーを残していることが分かる。 中田 「確かにそういう一面はあるかもしれません。今回の企画は、最初はテレビ用のドキュメンタリー番組としてスタートしたものでした。でもかなり初期の段階で、テレビ局側とどうまとめるか話し合った結果、今回は僕個人の自主映画としてやった方がいいという判断で進めていくことになったんです。ドキュメンタリーを撮るときは、自分の中で“やりたい”という衝動と“やらねば”という気持ちが重なると“何がなんでもやる”という心境になるんです。今回は最初こそテレビ局からの話でしたが、自分自身でやると決めてからは、がむしゃらにやるという気持ちになりました。自分のお金で撮るわけですから、そうならざるを得なかったわけです(苦笑)。劇映画の場合はほとんどがオファーを受けて向こうの提示したテーマに沿って撮ることになるんですが、それに対して自分の中から沸き上がってくるものを撮っているのがドキュメンタリーだと言えるかも知れません」
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家族5人を失った漁師の五十嵐康裕さん。
「海を糧にしてきたので、海を憎いとは言えない」とタラ漁を再開することに。
 自宅に残した両親、妻、2人の子どもを失ったタラ漁師の五十嵐康裕さん、車で迎えにきたひとり娘と3人の孫が目の前で津波に呑み込まれたスナック経営者の三浦恵美子さんらが“あの日”を振り返る。ナイーブな演出で知られる中田監督にとって、家族と引き裂かれた人たちにカメラを向けることは容易な作業ではなかったはずだ。 中田 「辛い、大変だと思うと、もうカメラは向けられません。そこは事前にリサーチして、お話できる状態かどうか確認してからカメラを回しています。アポなしで撮影するような突撃取材はしていません。向こうも、『こいつなら話せるかな』という、お互いに感じ合うものがあってインタビューが成立したように思います。カメラに向かって話すことで気持ちの整理ができたのではないか? いや、インタビュー中はとてもじゃないけどこちらも余裕はないし、僕の口からはそんなことは言えない。ただ、まだ被災から4か月で行方不明の方たちが多い状況だったので、身内に行方不明者がいる方の場合は過去形にならないよう語尾には注意しました。恐る恐るインタビューしていては取材になりませんが、最低限そういうことは気を遣いました」 ■懸命に働くのは悲しみを一瞬でも忘れたいがため  町を呑み込んだ津波のニュース映像や被災後の生々しい情景も盛り込まれているが、本作の主眼は“3.11”を生き延びた人々が被災地で懸命に働く姿だ。新たにスナックを始めた三浦さんはお化粧をしてカウンターに立ち、お客さんに笑顔を見せる。漁師の五十嵐さんは家族を奪った海に向かって仲間たちと漁へ出ていく。仕事とは単にお金を稼ぐ行為ではなく、個人と社会を結びつけるものでもあることがポジティブに描かれている。
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「取材を始めたからには途中で止めるわけにはいかなくなった。
完成させることが最低限の義務だと思った」
と中田監督は製作過程を振り返った。
中田 「働かざるを得ないというよりも、何もしないでジッとしていると頭を掻きむしり、どこかに消え去りたくなるような苦しみに襲われるんだと思います。僕もそのような立場だったら、そうなるでしょうね。三浦さんの場合は仏壇に供える花代を稼ぐためでもあるし、三浦さんと同様に家族や家を失ったスナックの従業員たちを食べさせていくためでもあるわけです。だからこそ、前向きに働いている。いや、まだ前向きという言葉は早過ぎるかもしれません。ばっくりと開いた心の傷を、仕事をすることで少しでも縫い合わせる、縫い合わせるのは無理でも、ヒリヒリする痛みを仕事に集中することで一瞬でも忘れることができる。それは長いスパンで見れば、傷の回復に繋がるのかも知れない。もちろん、傷自体は一生消えることはないでしょう。傷という言い方も失礼かも知れない。喪失感とでも言いましょうか。飲み屋とかに行くと、意外とみなさん明るいんですよ。でも、それは笑っていないとやっていられないから。笑いながらも、五十嵐さんが『タイムマシンがあって、あの日のあの時刻の1~2分前に戻ることができたら』と口にすると、みんな泣き出してしまうんです。前向きに懸命に生きようとする気持ちとどうして自分は生き残ってしまったんだろうという、二つの引き裂かれる想いの中で大きく揺らぎながら、被災地の方たちは暮らしているんです」  『3.11後を生きる』は、残された人たちは復興を目指して懸命に働いているという美談だけでまとめることなく、被災地の問題点についても言及する。被災地では略奪行為や暴動は起きなかったと報道されているが、実際にはショッピングセンターで衣料品の略奪が行なわれ、警察も金銭がらみでないものは見逃していたこと。ほぼ海抜0mという危険な場所に介護老人保健施設を建て、入居していた高齢者たちや介護スタッフが犠牲となったことへの行政責任についても触れている。 中田 「被災地のネガティヴな面を強調するつもりはありません。本当に『うわぁ……』と言葉を失ってしまう部分に関しては編集でカットしています。やはりカットしましたが、避難所では食料品の分配を巡るトラブルも起きていました。『日本人は譲り合いの精神で、略奪行為はなかった』というイメージは外国人やマスメディアが伝えているものであって、現実は違うんだよということだけはちゃんと言っておきたかった。危険な海沿いに介護施設を建てたことに対する行政責任は当然問われるべきですが、その危険性を事前に報じなかった地元メディアにも責任があるように思います。原発問題もそう。福島第一原発の危険性を指摘していた物理学者の高木仁三郎先生がいましたが、どれだけのメディアが高木先生の言葉に耳を傾けたことか。そういう僕自身も学生の頃は原発反対運動に参加したりしていたのに、映画の世界に入ってからは何もせずにいた。でも、今回はジャーナリスティックに問題を追求するというよりも、“職業意識”について描いたものにしています。海抜0mに建てられた介護老人施設で介護スタッフの責任者として働いていた加藤譲さんは車椅子で待機していた高齢者を救おうとして施設に戻り、波に呑まれてしまった。船長だった父親の加藤昭二さんから『責任者が逃げるのは、いちばん最後だ』と教えられ、その教えを忠実に守ったわけです。オーナーや行政側の責任を問うと昭二さんは話していますが、その一方では自分の教えを守ったことで息子を失ったことに苦しんでいる。本当に引き裂かれる想いでしょう……」
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三浦さんらは青森県恐山へ。菩提寺・南院代の「前世の因果という考えは、
亡くなった人を軽んじることになる」という言葉に耳を傾ける。
■“前世の因縁”に悩む、残された人たち  撮影クルーは終盤、日本三大霊山のひとつに数えられる恐山へと向かう。「恐山菩提寺」の院代・南直哉さんが説く「死者は生きている人以上に強烈に存在する。あせらずに亡くなった人との付き合い方を学ぶことが大切」という言葉が印象的だ。南さんの著書を読んでいた中田監督から、自分が生き残ったことに悩んでいた三浦さんを誘って恐山まで会いに行ったそうだ。 中田 「僕自身が震災の前から人の生き死について関心を持ち、永平寺で19年間修業された南院代にお会いできればと思っていました。被災地沿岸部には曹洞宗の信者の方が多かったこともあり、曹洞宗を宗旨とする菩提寺に行くことを考えたんです。もちろん、遺族の方たちが『行きたくない』と言えば、違った終わり方を考えなくてはいけなかったんですが、三浦さんは『娘や孫たちの供養をしたい』と言ってくれた。三浦さんを始め被災地の多くの方たちが、『自分は何か悪いことをしたのだろうか』『前世の因縁があるのだろうか』という考えに囚われている。サバイバーズギルトに悩んでいるんです。南院代の話を聞きに行くことで、救済にはならなくとも、大きな喪失感に覆われた人にどういう言葉を掛けてあげられるか、どういう会話が成り立つのかが分かれば……という想いがありました。」  3.11によって日本人の意識は大きく変わったと言われている。『3.11後を生きる』を撮った中田監督はどのように感じているだろうか? 中田 「3.11によって世界がガラリと変わった人もいるでしょうね。僕自身は、被災地にいたわけでもないし、家族や家を失ってはないので、そんなことを言える立場にはありません。でも、被災地の方たちは大きく変わっているはずです。南院代が言われていたことですが『日本は明治以降は富国強兵で進み、敗戦以降は経済最優先で来て、バブル以降は新自由経済を追求したところに震災が起きてしまった。』と。仏教用語で『少欲知足』という言葉があります。そもそも欲するものが少なければ、比較的楽に足ることを知る境地に至れるわけです。経済成長=幸福という考え方は改める必要はあるでしょう。もちろん経済不況からは脱しないといけないけど、国土強靭化や公共事業への投資による経済再生だけでいいのかとは思います。まだ2年も経っていないのに、メディアも含めて『喉元すぎれば熱さ忘れる』になっていないかということも気がかりです。被災地の方たちにもう少し気を配れる為政者はいないものかと思いますね」  中田監督が撮った『3.11後を生きる』は自戒の念も込めた映像による鎮魂碑なのかも知れない。編集を終えた中田監督はDVDを持って、被災地を再訪。五十嵐さんの新居で、三浦さん、加藤さんと一緒に鑑賞している。上映終了後、3人の口から言葉は出なかった。ただし、最後まで見届けてくれたそうだ。 (取材・文=長野辰次/写真=名鹿祥史) 『3.11後を生きる』 製作・監督/中田秀夫 撮影/さのてつろう 編集/高橋信之、山中貴夫 録音/三澤武徳 整音/柿澤潔 効果音/柴崎憲治 音楽/川井憲次 配給/エネサイ 2月23日(土)よりオーディトリウム渋谷にてロードショー <http://wake-of-311.net> ※ 2月24日(日)~3月1日(金)オーディトリウム渋谷にて中田秀夫監督によるドキュメンタリー映画『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』(98)、『サディスティック&マゾヒスティック』(00)、『ハリウッド監督学入門』(08)を連日特集上映。 ●なかた・ひでお 1961年岡山県生まれ。1985年にっかつ撮影所に入社。助監督を経て、92年にテレビドラマ『本当にあった怖い話』(テレビ朝日系)で監督デビュー後、文化庁芸術家在外研修員として渡英。帰国後、『女優霊』(96)で劇場デビュー。『リング』(98)の大ヒットでJホラーの旗手となる。『ザ・リング2』(05)でハリウッドデビュー。『Chatroom/チャットルーム』(10)はイギリスで製作・撮影された。その他、『ラストシーン』(02)、『仄暗い水の底から』(02)、『怪談』(07)、『L change the WorLd』(08)、『インシテミル 7日間のデス・ゲーム』(10)などを監督。5月には前田敦子、成宮寛貴主演作『クロユリ団地』の公開が控えている。

ベンチャー企業もカルト!? 元「エホバの証人」ビジネスパーソンが語る“社会の中の洗脳”

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著者の佐藤典雅氏。
 地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教や、白装束集団のパナウェーブ研究所、ミイラ事件のライフスペースなど、「カルト宗教」の行動や思想は、一般人にとっては理解しがたい。  『ドアの向こうのカルト』(河出書房新社)を上梓した佐藤典雅氏は、「東京ガールズコレクション」を手がけた現役ビジネスマンでありながら、25年にわたって「エホバの証人」の信者だった人物だ。エホバは世界で739万人、日本でも20万人以上の信者を持ち、有名人ではシンガーソングライターの矢野顕子や『クレヨンしんちゃん』の作者である故・臼井儀人氏などが知られる。また、マイケル・ジャクソンも元信者だった経歴を持ち、あのプリンスも現役である。  佐藤氏が本書で描くのは、9歳の頃から信者となり、35歳になるまで過ごしたエホバでの日々と、そこから脱会するまでの半生。いったい、元カルト信者は、どんな視点から世界を見ているのだろうか? ――6年前に佐藤さんは「エホバの証人」を脱会されました。本書を執筆するきっかけはなんだったのでしょうか? 佐藤典雅氏(以下、佐藤) 宗教をやめてから、その世界とは無縁の生活を送ってきました。もう、自分の中ではすでに過去のことになっていたんです。ただ、完全にその経験を消化しきれておらず、感情的に押し込めていたんです。けれども、たまたま子どもの頃のビデオを見る機会があり、押し込められていた感情が一気にあふれてきた。そして、衝動的に、ブログにその経験を書きました。60日分のエントリーを、わずか2日間で書いてしまったんです。 ――反響はどうでしたか? 佐藤 宗教のことを詳細に書くのは初めてでした。誰も興味ないだろうと思っていたのですが、恋愛やセックスについて書くよりも、はるかに大きな反響があったんです。個人的な宗教体験に、そこまで多くの人が興味を示すのが不思議でしたね。宗教に関係する知り合いがどう反応するかには興味がありましたが、宗教に関係のない知り合いからも「面白い」という反応でした。 ――外の人間からすれば、カルト宗教の実態やそこでの経験は、とても興味をそそられます。しかし、佐藤さん本人としては、そこまで特殊な経験だと思っていなかった? 佐藤 9歳からエホバの証人に入っていたので、特殊だと思っていなかったんです。親が濃い宗教に引っかかってしまったけれども、脱会できてよかったね、といった程度の体験だと思っていました。 ――25年間で経験した布教活動や、集会の様子、周囲の信者など、さまざまなエホバの証人の内幕が綴られています。中でも興味深かったのが、オウム事件の時に「カルトは大変だな」と、エホバの証人の信者たちが言い合っていたという描写でした。なんというか……皮肉ですね。 佐藤 エホバの証人たちは、この世のあらゆる悪はサタンの仕業だと信じています。まさか自分たちが洗脳されているなんて、考えたことはありませんでした。「サタンの宗教に騙されてしまってかわいそう」と思っています(笑)。ただ、僕はそれと同時に「彼らは幸せだろうな」と感情移入もしていましたね。同じ信仰を持っている人と連帯しながら共同で生活する。それは、ある意味とても幸福なことなんです。 ■村上春樹の『1Q84』では描かれなかった、エホバ信者の心情 ――また、年に1度行われる大会の様子もすごいですね。佐藤さんのホームページには、横浜スタジアムを埋め尽くす人々の写真が掲載されています。 佐藤 大会の会場にはある種の高揚感があり、ハイになることができます。同じ信条、価値観を持っている人が集まっているので、連帯感があります。会場の外の人たちは、とても“かわいそうな人”という意識でした。 ――サッカーの試合やロックバンドのライブのような高揚感でしょうか? 佐藤 そうですね。ただし、熱狂的にワーッと興奮するのではなく、ふわ~っとおとなしく、心地よい波が押し寄せてくるんです。 ――「カルト宗教」「エホバの証人」といえば、一般的にはおどろおどろしいイメージを持たれます。しかし、本書に描かれているエホバの証人の内幕は、ある意味「健康的」という印象です。 佐藤 なるべく細かく人物を描写するように気をつけました。カルトの信者だからといって特別に違う人ではありません。うちの両親なんかは典型的で、街で会えば普通にいい人。もちろん、周囲の信者も同じです。ただ、宗教の話になると異常性を帯びてくる。  村上春樹は『1Q84』(新潮社)でエホバの証人を題材にしていますが、なぜ信者がそれにハマってしまったかという心境までは書いていません。彼らは「ひたすら強く信じていた」と書きますが、「なぜ信じていたか」は当事者でないとわからない部分なのでしょう。この部分をあぶり出したかったので、我が家を例に、どうやってカルトにのめり込んでいくかを詳細に描いています。 ――本書は佐藤家にエホバの証人の勧誘がやってくるところから始まり、そのまま一家全員がエホバの洗礼を受ける過程を詳細に追いかけます。 佐藤 僕が書きたかったのは、信者の意識の変化です。読んでいる中で、読者もある意味エホバの証人に“洗脳”されます。そして、脱会する場面の描写で、バーンとその洗脳を解き放つんです。 ――読書によって、洗脳のプロセスを体験できる。佐藤さん自身は、今振り返って、信者だったことで得たメリットは何かありますか? 佐藤 エホバは信者間のコミュニティがとても強く、家族のようなものです。父親の仕事の都合で、日本とアメリカを転々としていたのですが、どこに引っ越しても心配はありませんでした。コミュニティが強いので、現在問題となっているような、孤独死や孤立といった問題も起こりようがないんです。 ■社会に蔓延する、排他的な意識と“洗脳” ――では、エホバの異常性はどこにあるのでしょうか? 佐藤 「教団以外のすべての人が、サタンに支配されている」と洗脳されていることですね。信者ではない人と一緒に飲みに行くのも反対されますし、信者ではない友達や彼女も作れない。 ――「サタンに支配されている人」との付き合いを持てない。まっとうに社会生活を送ることは難しいですね……。 佐藤 しかし、そのような概念はキリスト教全般に見られます。キリスト教には「キリスト教ではないから悪」という考え方が根付いています。  例えば、アメリカと中東の戦争がそう。「キリスト教ではない」から、イラクのようなイスラム国に対して爆弾を落とすことに、アメリカはあまり良心を痛めません。インディアンを迫害した時代から、そのような考え方が脈々と続いているんです。中東の問題は、石油が原因だといわれますが、あくまでも引き金でしかありません。そこには根深い宗教問題が横たわっているんです。 ――しかし、一般のキリスト教は、エホバの証人ほど過激ではありません。 佐藤 カトリックは、いわば大企業病のようなもの。競争の必要もないし、結束力も求められない。「なんとなくやっていればいい」ので、平和に見えるんです。しかし、その本質にはサタンへの恐怖があります。 ――キリスト教はそもそも抑圧的で排他的な宗教である、ということ? 佐藤 キリスト教というよりも、一神教といったほうがいいでしょう。イスラム、ユダヤ、キリスト、すべて神は一人です。自分たちの神が一人である以上、他の神が神であるわけがない。一神教には、他のものを排除する性質が秘められているんです。 ――戦争のような政治的な問題のほかに、佐藤さんが活躍しているビジネスの世界ではどうでしょうか? エホバでのスピーチは、ビジネスの現場でのプレゼンテーションの練習に役立ったと書かれていますね。 佐藤 そのような、ビジネスの現場で役に立つスキルを得られたことも確かです。また、構造として、ブランディングやマーケティングというのは、少なからず宗教のような「洗脳」という要素がありますから、その方面を理解する上でも信者だった経験が役に立っています。 ――ブランディングが洗脳? 佐藤 自らの思想や価値観、哲学を付加価値として売るというロジックですから、軽い洗脳ですよね。 ――確かに“アップル信者”なんていう言葉もあります。 佐藤 ベンチャー企業は、その典型例でしょう。例えば、かつてのライブドアはYahoo!に勝つために、「ライブドア以外は敵」として社員の結束力を高めました。その結束力によってハイになり、突き進む。そういう意味では「信者以外は、すべてサタンに支配されている」というエホバと変わらないんです。その結束力の中心になるために、ベンチャーにはホリエモンやスティーブ・ジョブズといったカリスマ経営者が求められるんです。 ――エホバの信者であったことを、後悔している部分はありますか? 佐藤 後悔していた時期もありますが、トータルで考えて、自分なりに意味があったんだろうと考えるようにしています。過去を悔いるよりも、この経験からどういうことを教訓として学べるかが大切だと思いますね。 ――ただ、それにしては25年間という年月は長すぎます。また、佐藤さん自身、「高等教育を受けることを推奨しない」という当時のエホバの方針から、大学進学もあきらめましたよね? 佐藤 子どもの頃からエホバが当たり前だったので、25年間が長いかどうかもわかりません。それに、人生、手持ちのカードに文句を言っても始まらないでしょう。宗教の時代に得た物事の考え方や人の意識の捉え方は、Yahoo!で働いていた時代や、東京ガールズコレクションを立ち上げる際などのビジネスに応用できています。大切なのは、後悔しながら過去に生きることではなく、自分が今持っているカードをどのように未来に生かすかだと思います。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●さとう・のりまさ 1971年広島県生まれ。少年期の大半をアメリカで過ごす。Yahoo!を経て、ブランディング社で東京ガールズコレクション等のプロデュースを行う。2010年に事業戦略のコンサルとして独立。現在はロス在住。著者に『給料で会社を選ぶな!』(中経出版)がある。