体力の限界? 業界への不満? “ミスターAV男優”加藤鷹が卒業を決意した、ホントの理由

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 昔はすんごくアンダーグラウンドだったものの、今ではすっかり市民権を得てメジャーな存在となっているアダルトビデオ。毎月毎月、無数のタイトルが発売されているけど、それでもよっぽどのAVマニア以外の人にとっては、いまだにAV男優=加藤鷹というイメージが強いのではないだろうか。  そんな、ミスターAV男優・加藤鷹が先日、年内いっぱいでAV男優から卒業することを発表した。  27年間、現役AV男優として活躍し、今まで共演した女優さんは8,000人以上ともいわれている鷹さんだが、さすがに御年54歳、AV男優をやるには体力的にムリがあるのだろうか……!? 果たして鷹さんが卒業を決意した真の理由とは? ■「加藤鷹は、もうAVを辞めた」というデマが流れていた ――先日、今年いっぱいで引退すると発表されましたが、その辺の話を聞きたいんですが……。 加藤鷹 いや引退じゃないから、卒業ね! AV男優を卒業するだけだから。今、オレの全活動においてAVっていうのは20%くらいなんで、「引退」って言っちゃうと、ほかの活動も全部辞めちゃうイメージあるじゃない? AKB48だって、卒業したからって芸能界を辞めるわけじゃないでしょ? だからAVD(AV男優)48卒業って言ってるんだけど(笑)。 ――しかし、AV女優さんならともかく、AV男優さんで卒業をちゃんと表明する人って珍しいんじゃないですか?  うん、わざわざ発表する人なんて今までいなかったと思うよ。 ――あえてそれを発表したというのは?  デマが多いから。3年くらい前から、「加藤鷹は、もうAVを辞めた」っていうデマが広まっていたんだよ。 ――えっ、そうなんですか?  新人の女優さんが入ってくると、「せっかくこの業界に入ったからには1回、加藤鷹と仕事してみたいなぁー」って指名してくれることがあるのね。でも、そこでスタッフが「もう芸能ばっかりで、AVはやってないみたいですよ」とか言ってるらしくて。オレは辞めるとか辞めないとか一度も言ったことがないのに。後に、その子と現場で一緒になった時に「まだやってるんですね」なんて言われたりして。女の子経由でそういう話が入ってくるんですよ。 ――なんでそんなデマを流すんですかね?  スタッフが、めんどくさいだけなんだよ。昔は女優さんが男優を指名するって普通だったんだけど、最近はスタッフ側のペースが崩れちゃうからイヤがるみたい。まあ、自分たちが決めた男優でやってくれたほうが楽だろうからね。だから、使いやすくてギャラも安い男優が重宝されるわけ。今は大量生産・低コストだから、いかにお金を使わないかってことしか考えてない。ちょっとでもいいモノを作りたいって考えてる人が、いなくなっちゃったんだよね。 ――確かにAVって、毎月メチャクチャ出てますからねぇ。  最近の若手に聞くと、1回現場に入ると3本撮りはしているって聞くもん。ヘタしたら5本撮りとか……1日の撮影で5本DVDが作られているってことだよ! ――そういう場合でも、ギャラは一緒なんですか?  1日拘束されていくら、だからね。その辺はホントにいい加減。別に午前0時をまたいだからって、2日分ってこともないし……。そんな状態のまま、AV業界が大きくなりすぎちゃったんだよね。だって、オレが男優になった27年くらい前なんて、年間で1万タイトルも出てなかったんだよ。せいぜい7000~8000タイトル。それが今、年間10万タイトルくらい発売されているからね。15倍くらいになってるの。それでいて、トータルで売れてる量はむしろ減ってるんだから。発売されるAVの9割近くは1,000本も売れてないらしいし、そうなると「ちょっとでもいいモノを!」……なんて考えられなくなっちゃうよね。 P1120330.jpg ■仕事なんて、好き嫌いでやるもんじゃない ――ところで、鷹さんってもともとAV男優どころか、AV業界志望ですらなかったんですよね。  今でも別に男優志望じゃないからね(笑)。 ――えーっ、27年もやってきて!  別に、やりたくて始めたわけじゃないから。今の人たちは、自分のやりたい、好きな仕事がないからってニートになったりするけど、オレからしたら仕事なんて好き嫌いでやるもんじゃないからね。先日引退を発表したヤクルトスワローズの宮本慎也がいいこと言ってたけど「好きで始めた野球だけど、プロに入った瞬間に野球が仕事になった。今は楽しむなんてできない」って。とりあえず、好きでも嫌いでも働いてなきゃダメですよ、人間。就職できなかったら、マクドナルドでバイトするでもいいじゃない。そこで社員に誘われるかもしれないし、何かを見いだすかもしれないわけで。それが面白いんだから。 ――で、そんな鷹さんがAV男優になったきっかけって、なんだったんですか?  もともとはなんの目標もなく、金も持たずに東京に出てきちゃったんで、とにかく日銭を稼いで食っていかなくちゃならなかったんだよ。それで最初はテレビの制作会社に入ろうと思ったの。地元(秋田)にいた頃、カメラマンをやってたから。でも、ことごとく断られて、「テレビだと難しいけど、AV業界だったら入れるんじゃない?」と言われたんで、「なるほど、そういう業界もあるのかー」って。それで、当時「アップル通信」とか見ると巻末にメーカー一覧が載ってたから、片っ端から連絡してみて。「なんでもやるなら使ってやる」って言われて、この業界に入ったんだよね。 ――最初は、制作スタッフ側だったんですね。  そう、ホントになんでもやったよ。機材を運んだり、照明を片付けたり、運転手もやったし……。女優さんが窓際に立っておしっこするのを、ゆうたろうが持ってるようなブランデーグラスで受けたりもした。たぶん、あれがオレのAV初出演シーンだと思うけど(笑)。で、そうやってなんでも一生懸命やるから上から気に入られて、営業部長から「営業に来ないか」って誘われたの。 ――それは相当気に入られたんですね。  でも、営業って秋田にいる頃にやったことがあったんで、同じことはやりたくないなって……。とはいえ、それを断るとなると、同じ会社なんで制作にもいづらいじゃない。そこで「男優になったら、もっと稼げるかな」と思って先輩に相談したら、「電話してやるから、ダメ元でやってみ」って。 ――そうやって偶然が積み重なって始めたAV男優が、向いていたっていうことですか。  うーん、今でもあまりうまくできてる感はないんだけどね」 ――でも、やはり鷹さんといえばザ・AV男優というイメージは強いですし、ほかの人たちとの差別化は考えたんじゃないですか?  うーん……差別化を考えたことがあるとすれば、とにかく「実績を残してギャラを上げていく」ってことだよね。 ――ああ、AV男優の中には、その発想がない人も多そうですよね。  それ仕事じゃないよね、趣味でしょ。オレは最初から仕事って考えてたから、費用対効果は考えるよね。「これだけの労働で、これは安いよな」って。もちろん、「ギャラを上げて」って言う前に、やることをちゃんとやって。 ――よく言われますけど、男優のギャラってそんなに悪いんですか?  まあ、みんなスタートは1万円だよね。日雇い人夫と一緒。そうなると、かけ算でしかないから、30日仕事すれば30万円。それが2万円になれば60万円。4万だったら100万超えるな、とか。オレ、商業高校卒業だから、そういうことばっか考えちゃうの(笑)。わりと3万円くらいまではすぐに上がったんだけど、そこからが大変で……。当時、5万以上もらってる男優さんっていなかったから、なかなかそれ以上にはならなかったね。先輩たちを追い越すまでに、20年近くかかったもん。 ――時間はかかったとはいえ、それだけ鷹さんの実力が評価されたということですよね。  当時は、男優さんの力量を大事に思っていてくれた、っていうのもあるだろうね。たとえほかのヤツより1~2万高くても、オレに頼みたいっていう人がいっぱいいたの。今は予算もキビシイから、クオリティーよりもその1~2万がもったいないという発想になっちゃう。 ――確かに、クオリティーを求めなければ、安くても男優をやりたいって人はいくらでも見つかりそうですしね。 P1120341.jpg  本当にいいモノを作りたいと思っていれば、たとえば監督が自分のギャラを多少減らして……っていう発想になると思うんだけど、今、そういう発想でAV撮ってるのってTOHJIRO(AVメーカー「ドグマ」代表取締役)くらいしかいないと思うんだよね。あの人はもともと映画屋さんだから。黒澤明の時代から、映画を作る人は銭金なんてどうでもいいんだよ。自分の撮りたいモノを作って、それで赤字になっても関係ない、みたいな。まあ、それが許されない時代なんだろうけどね。だから、日本映画もアダルトビデオもショボくなってるよ。 ――サラリーマン気質の監督が増えているということですかね?  もう監督ともいえないよ。会社から「こういうの撮って」という紙が来て、その通りに作るということしか考えてないんだから。別に昔がよかったとも思わないけど、単純に志が高い人間が多かったような気がする。「給料が安くても、エロ好きだからいいんですよ!」っていうヤツがいっぱいたからね。だから、よく「鷹さんに続くスター男優が出てきませんね」なんて言われるけど、別に若手が悪いわけじゃなくて、スター男優を育てられない今の業界自体に問題があると思う。 ■国会議員・加藤鷹誕生!? ――AV男優卒業の話に戻りますけど、いつか辞めるだろうなっていう発想はあったんですか?  5~6年前まではなかったね。 ――その頃、何があったんですか?  ずーっと、AV男優っていう肩書にこだわりもあったし、現役であるということにもこだわりがあったんだけど、やっぱり痛々しく見えたらアウトだな……って思いだしたのが5~6年前の話。ジャイアント馬場みたいに、周りからどう思われようと生涯現役みたいな生き方も美しいとは思うけどね。それに、「加藤鷹」というイメージが強すぎて、自分のやりたいと思っていることと世間のイメージが合わないというジレンマは感じていたんで。 ――やりたいことというのは?  たとえば、よく女性雑誌なんかで性の悩みを抱えている女性の相談に乗ったり……という企画があるんだけど、そこでオレに求められるのはAV男優としての軽いコメントなんだよね。ヘタな性教育の先生よりも、性の知識は豊富だと思うし、本当はもっと真剣に悩みに答えてあげたいという気持ちも持っているんだけど、「AV男優」という肩書があるうちはなかなか難しいな、とか。 ――確かに鷹さん、イベントなどでは真面目にその辺を語ったりしますしね。  だから「いつか離れるべきなのか?」「いつか辞める時が来るだろうな」というのは少しずつ考えるようになって。んで、決め手になったのが2年前に親父が亡くなったこと。オレも今、54歳だし、仕事をバリバリやれるのも、あとせいぜい10年くらいかなって思って……。その10年で何をやりたいか、と考えていったらAVから離れるのもいいかなと。 ――今後、一番やりたいことってなんですか?  うーん、まあ今年いっぱいはAVも続けるし、それからのことは模索中だよね。でも実は去年、会社を作ったの。 ――えっ、なんの会社なんですか?  会社の定款に書かなきゃいけないんで、アプリの制作だ、飲食業だ……と、なんでもかんでも入れちゃったよ。もう、なんでも屋状態。それで会社の名前は「株式会社 加藤鷹商店」(笑)。もちろん、今までやって来たことと、まるっきり無関係なことはしないとは思うけどね。 ――じゃあ、今後は会社社長として頑張っていくわけですね。  社員ゼロだけど(笑)。それと、以前からお世話になっていた性教育の先生が、去年の衆議院選で国会議員になって。その先生から、冗談半分に「議員にならないか」って誘われてたりもするんだけど。 ――おおーっ、まさかの政界進出! 鷹さんの知名度だったら、AV業界から初の国会議員もあり得ますよ!  昔、「AV新党」ってのもあったけどねぇ(笑)。まあ、今年いっぱいでAV男優を卒業してからが本当にスタートだと思っているので、そんなに期待しないで待っていてください! (取材・文・写真=北村ヂン)

「赤羽は、僕の創造力をはるかに凌駕している」赤羽漫画家×犯罪ジャーナリストの異色対談【後編】

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■前編はこちらから 丸山 清野さんは先ほど「本当にとんでもないものは、路地裏にある」とおっしゃっていましたが、『知らない街』でも怪人「三本足のサリーちゃん」にまつわる怖い話を描いていますよね。こういう怪奇的な話は好きなんですか? 清野 昔から好きですね。板橋にも、高島平の自殺団地とかそういうことがちょくちょくありますけど、赤羽は本当にそういう話が多いんですよ。雑誌に載るレベルではないのですが、そのへんにいる人からも怖い話が出てきてゾッとするんですよね。 丸山 最近聞いて、怖かった話はありますか? 清野 とある不動産屋さんが匿名で裏事情を書いているサイトがあって、そこでゾッとする記事を見つけました。僕が昔住んでいたアパートでの、ちょっと不幸な事件について書かれていたんですよ。 丸山 えっ……まさかの展開ですね。 清野 確かにそのアパートに住んでいた頃、いろいろあったんですよ。やけに高くて暗いロフトがあったんですけど、そこから物音や人の気配がして。壁が薄かったので隣の部屋かなと思っていたのですが、調べたら、もうとっくに引っ越して空室で。料理している時にも、換気扇から長い髪の毛みたいなものが垂れ出ていて、それを見た時に「髪の毛ではなくて、謎の物体と目が合った」と直感的に思っちゃったんです。その瞬間、髪の毛がニュルニュル~と換気扇に吸い込まれていって。 丸山 まだ漫画家として、あまり売れていない時に住んでいたんですか? 清野 そうです。なぜかいつも家に帰りたくなくて、それが知らない街に繰り出す原因のひとつでもあったんです。当時は無職で、全然お金がなかったにもかかわらず、結局4年で引っ越したんです。まあ、今振り返ると、オバケ的な話は全部僕の妄想でしょうけどね。あの時、ノイローゼ気味でしたし。今振り返ると、実に住み心地のいい、素晴らしいアパートでしたよ。機会があったら、また住みたいです\(^o^)/ 丸山 ……そのほかにも、赤羽には根深くて怖いネタがありそうですね。 清野 うーん、赤水門という赤羽で一番有名な心霊スポットがあるのですが、荒川に飛び込んだ人が昔から流れ着いているところなんです。水門の先にあるちょっとした中州は鬱蒼としていて、昼なのに暗くどんよりしている。中州にはベンチが置いてあって、ベンチの横に木があるんですが、そこでよく人が首を吊るんですね。「どうぞ死んでください」という感じで、ベンチに立って首を吊れるように配置してあるんです。僕の知り合いの居酒屋のマスターが早朝散歩しにいくと、ちょくちょく吊られているんですって。 丸山 それは、人が首吊っているってこと? 清野 そうなんです。自殺です。つい最近も赤羽でゲリラ豪雨があったんですが、3人の釣り人が中州で釣りをしていて、雨が降りだしたので一時的にそのいわくつきの木の下に避難したら、その瞬間、雷が落ちた。一人が亡くなり、一人心肺停止で、一人は生き残ったんですけど、あの場所には木がたくさんあるのに、なんであの木に落ちたんだろうと思うんですよね。『赤羽』にも、いくつかそういう心霊的な話も出てきますが、相当オブラートに包んで描いていますね。やっぱり住んでいる人もいるので。 ■清野とおる、街取材の極意とは? 丸山 赤羽愛にあふれる清野さんだけに、赤羽のスナックに行ったら、清野さんのサイン色紙がたくさんありそうですね。 清野 あることはありますけど、実際そんなに名乗ることはないので。一人で飲む時はたいてい、スーツ着てビジネスバッグを持って、サラリーマンの体で行くんです。 丸山 潜入取材にしても、相当徹底していますね(笑)。取材中に話を振られた時のための、架空の設定ってあるんですか? 清野 それがまた面白いんですよ。その都度、いろいろな設定を考えているんです。店に若い客がいたら「俺、mixi作ってんだよ」とか言ったりして。 丸山 身分偽装することで、聞き出せる話も多いんですか? 清野 そうですね。あとはちょっと変身願望もあって、私服で普通にスナックに行っても、いつもの低いテンションのままなんですけど、スーツを着て設定を考えて、お酒の勢いでそれを貫き通すと、普段の自分とは全然別の人格が出てくるんですよ。その人格がお店の人たちとうまいこと意気投合して仲良くなれた時の達成感はすごいです。  『知らない街』では私服で歩きましたが、ほかの取材はたいていスーツですね。カバンの中には一応ノートパソコンを入れています。変身のためのアイテムは、『赤羽』の連載が始まって、ある程度お金に余裕ができた時に買いました。最初は汚い安物のカバンを使っていたんですけど、スナックって意外とそういうところを見るんですよね。なので、そのカバンは燃やして、新宿でブランド物のビジネスバッグを買って(笑)。最初の頃は私服でスナックに行くと、まだ営業時間なのに「ごめんなさい、今日終わっちゃったの」とか「予約で埋まっているの」と断られることが何度もあったんです。初見のペーペーの若者ですから、不審に思ったんでしょうね。でもスーツ着てカバン持って行くようになってからは、100%入れてもらえます。 丸山 出張族かもしれないし、サラリーマンなら継続してお金を落としてくれるかもしれないと思ってもらえる。そこまで客商売に精通したら、いよいよ赤羽でスナックを経営したりとかしないんですか? 清野 いや、接客は僕は無理ですね。一番無理だと思う理由は、「地縛客」と呼んでいるのですが、大してお金を落とさないにもかかわらず、延々といる客。自分のどうでもいい話をマスターに聞かせたりして。僕、それで気が狂っちゃった店主を知ってるんですよ。赤羽駅からちょっと離れた場所にある喫茶店なんですけど、行くたびにおっさんがコーヒー1杯だけ飲んでいて、マスターにずっと話しかけているんです。マスターも「はい、そうですね」「ははは」とか生返事なんですけど、毎日いるんですよ、そのおっさん。開店から閉店まで。それである日行ったら、潰れていた。あんな客の相手してたら、気がいくらあっても狂い足りないですよ。 丸山 それはキツいですね……。 清野 どこの店にも、絶対に常連客がいるんです。この『知らない街』の取材でも、どの店に行っても常連とおぼしき人が必ずいました。寂しくて、居場所が欲しいんでしょうね。 ■清野流・スナック攻略法 丸山 スナック攻略のツボって、例えばどんなものがあるんですか? 清野 企業秘密なので、全部は話せませんけど(笑)。例えば入店時、いきなりドアを開けるのではなく、入る前に耳を澄ませて、中の様子をうかがうんです。カラオケで盛り上がっている店は、歌っている最中は人と話せないのでなるべく避けますね。入るとしても、歌が終わってから。ママは、そういうところを見ているんです。座る位置もママに聞いて、最初はおとなしく飲むんですけど、常連が歌い始めたら飲むのをやめて、歌っている人のほうに姿勢ごと向けるんです。間奏の時は拍手して終わったあと「うまいっすね~」とか言うと、まずその常連は味方になってくれる。あと、なるべくトイレから離れた席に座って、トイレに行く時はママに一言「トイレお借りしてもいいですか?」と聞いて、お客さんの後ろの狭い空間を通る時は「ちょっと後ろ失礼しますね」とか言って、さりげなく肩にボディタッチしたり。あと、これは僕のジンクスなんですけど、トイレを掃除するんですよ。 丸山 トイレ掃除を?(笑) 清野 お店によっては、お客さんがトイレに行くたびに掃除をするママもいるんです。トイレットペーパーを三角折りにして、前のお客さんが汚したところを僕が掃除したあとにママがトイレ掃除に行ったら、もうこっちのものですね。さらに「営業時間は何時までですか?」「休みは何曜日ですか?」と聞いたりすると、好感を持たせることができる。 丸山 すごいノウハウですね。しかも、かなり蓄積されている。スナックは自分の嗅覚で選ぶんですか? 清野 自分の嗅覚だけです。 丸山 それだけスナックに行っていたら、ママさんと仲良くなってしっぽり……みたいなこともありそうですけど。 清野 僕の場合、そこには重点を置いていないんですよ。どちらかというと、面白い客に重点を置いているので。基本観察ですよ。 丸山 清野さんと同年代、もしくはもっと若い奴がふらっと来ることもあるんですか? 清野 たまにいるんですよ、物好きの手だれが。『知らない街』の中でも描いたんですが、久留里という街に行った時にも出会いましたね。おじさんしかいない場末の居酒屋にいきなり入ってきて、すぐカウンターに座って自然に溶け込んでいるんですよ。そこからはもう、僕と彼との戦いです。どちらが先にこの店を落とせるか、みたいな感じで。全力でトイレも掃除して、結局僕のほうがママからお土産をたくさんもらいましたからね。 丸山 「店を落とす」って(笑)。 清野 客のおじさんも若者には名刺を渡さなかったけど、僕にはくれましたから。「どうだ参ったか! 赤羽だぞ、こっちは!」と思いましたね。 丸山 やりますね、清野さん(笑)。 清野 名刺は戦利品なんですよ。「名刺=私は、あなたに心を許しましたよ」という証しじゃないですか。集めた名刺を家に持ち帰って、ニヤニヤしながら飲むんです(笑)。今後もこの人とは広がりそうだな、面白そうだなという人の名刺は取っておきますね。次に会った時のために、名刺の裏に覚えている限りのパーソナルデータを書いておく。常連客を落とす一番の基本は、名前を覚えておくことなんです。再会した時に「○○さん、この間はありがとうございました。勉強させてもらいました」と下から行くと、仲良くなれる。 丸山 さすがですね。全然コミュ障じゃないじゃないですか。 清野 そういう人に対しては行けるんですけど、普通の同世代の人に対してはコミュ障です。 丸山 ちなみに、そこまで培った「赤羽力」を、取材以外で発揮する場ってないんですか? 清野さんが合コンに行ったら面白そうですけど。 清野 実はどれだけ通用するのか試してみたくて、何度か行ったことありますよ。しかし、スナックや居酒屋で気持ちイイほど通用するテクが一切通用せず、終始しどろもどろで……。 ■赤羽「愛」と今後の展望 丸山 知人が赤羽に住んでいて、たまに飲みに行くのですが、住宅地も飲み屋も風俗もあって、街としても発展していますよね。成熟しきって、端っこが腐っているような感じというか。清野さんは、赤羽の街をどう捉えていますか? 清野 恥ずかしい話、最初は上から目線で赤羽のことを描いていたんです。「どれ、いっちょ赤羽でも描いてみるか」と。でも、ひとつ描くとその上をいくことが起こるので、今となっては「赤羽様に描かせていただいている」ような感じです(笑)。これまた恥ずかしい話ですが、連載を始めた時はコミック3巻分くらいのネタしかなかったんです。 丸山 ひとつの街であそこまで描くって、すごいですよね。 清野 描いている最中も、現在進行形で、とんでもないことが次から次へと起こりますからね。 丸山 清野さんは、顔出しはしていませんけど、街を歩いていて声をかけられたりするんですか? 清野 最近増えてきましたけど「清野さんですか?」と聞かれて、「えっ?」「は?」「えええっ!?」って聞き返すと、だいたい大丈夫ですね。 丸山 清野さんって、悪ふざけ好きですよね(笑)。なんでそこまで大胆に悪ふざけできるんですか? 漫画家さんって、一般的に社交性がなく、控えめというイメージがあるんですけど。 清野 基本的には社交性皆無ですよ。会話の間とか超怖いですし、次にどんな話題を振ろうか考えていると、こんがらがって黙っちゃうタイプなんです。でも「一期一会の悪用」と言っているのですが、知らない街なら、どう思われてもいいやと思える。ただ、赤羽は、すごく落ち着きますね。なんせ赤羽の人は独特なので、かえってやりやすい。お酒の席では、なおさらです。 丸山 一期一会の悪用(笑)。ほかの漫画家さんとの交流も、ブログなどを拝見する限りは結構ありますよね。 清野 知人は多いですが、友人は限られています。 丸山 『赤羽』は今までなかったタイプの漫画ですけど、ほかの漫画家さんの目を意識されたりしますか? 清野 一切意識していないですね。 丸山 今のノンフィクションスタイルのルポ漫画がヒットしているからこそのジレンマは、ありますか? ストーリー漫画を描いてみたいとか。 清野 最近ちょっとあるんですよ。デビューした頃はずっと創作のギャグ漫画を描いていたんですけど、赤羽に住み始めてから、目の前で起こる現実の数々が、僕が紙とペンで描く面白いことを、はるかに凌駕しているんですよ。だったら、単純にこの街をそのまま描きたいと思ったのがきっかけなんですけど、最近それがちょっと悔しくなってきまして。赤羽の街の面白さをさらに超えた漫画を描きたいなと思うんですけど、超える自信は今のところ皆無ですね。とりあえず、赤羽のまだ描いていない部分を早く描き尽くしてスッキリしたいです。 丸山 そうしたら赤羽から引っ越すんですか? 清野 ちょっとまだなんとも言えないんですけど、とにかくたまっているネタを描いてスッキリして、次に行きたいですね。やり尽くさないと気持ち悪いので。作家にはいろいろなタイプがいると思います。例えば友人の押切蓮介君みたいに、器用にいろいろなジャンルの仕事をこなせるタイプ。彼の場合は、ちゃんと作品のクオリティも高いんですよ。僕は不器用な人間なので、掛け持ちしたら、天津飯の分身の術理論じゃないですけど、それぞれのスピードとパワーが弱くなってしまうと思うんですよね。赤羽を描いているうちは、赤羽だけに全力投球しようと決めています。『知らない街』は掛け持ちでしたが(笑)。 丸山 ここまで赤羽を推している人って、過去にいませんよね。なぎら健壱さんくらいで(笑)。 清野 林家ペー・パー子さんはずっと赤羽に住んでいて、赤羽絡みの特集が組まれると、必ず出ていますよ。先週、ようやく林家ぺーさんと赤羽のスナックで飲めました。 丸山 そろそろ赤羽利権が、清野さんに転がり込んでくるんじゃないですか? 清野 そういうものには、極力ノータッチでいこうと思っていますので。赤羽の人たちからイラストの依頼が来ても、怖いのでお金は取りませんし。単純に恩返しという意味もありますけど、やっぱりイメージは大切ですからね。ヒヒヒヒ。 (構成=編集部) ●せいの・とおる 1980年生まれ。東京都板橋区出身。地元・赤羽に生息する奇妙な人々を生き生きと描いた漫画『東京都北区赤羽』(Bbmfマガジン)が大ヒット。現在、双葉社の「漫画アクション」にて『ウヒョッ!東京都北区赤羽』を連載中。 Twitter <https://twitter.com/seeeeeeeeeeeeno> ●まるやま・ゆうすけ 1977年生まれ。宮城県仙台市出身。編集者、官能小説家、ゴーストライターなど幅広く活動する傍ら、考古学者崩れの犯罪ジャーナリストとして、著作を執筆。別のペンネーム・丸山ゴンザレスとして海外紀行ものも発表している。主な著作に『アジア罰当たり旅行』『図解裏社会のカラクリ』『悪の境界線』など多数。 Twitter <https://twitter.com/marugon>

「僕は、街に対しては基本ドMなんです」赤羽漫画家×犯罪ジャーナリストの異色対談【前編】

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 東京都北区にある「赤羽」を舞台にした異色のノンフィクション漫画、『東京都北区赤羽』(Bbmfマガジン)や『ウヒョッ!東京都北区赤羽』(双葉社)が人気を集めている。一説によれば、赤羽では『ONE PIECE』より売れているというから驚きだ。  その作者である清野とおる氏が、これまで赤羽で培った、奇人や珍妙な店を引き寄せる力をもって、まったく知らない街を取材した新刊『全っっっっっ然知らない街を歩いてみたものの』(大洋図書)を上梓した。その刊行を記念して、裏社会を取材しながら国内外の危険な街を徘徊し続ける犯罪ジャーナリストの丸山ゴンザレス氏を迎え、2人で全っっっっっ然知らない街を歩いて対談することに。果たして、どんな展開を見せるのか!?  「街歩き」をキーワードにする2人が訪れたのは、足立区の谷在家(やざいけ)だった。ところが、待ち合わせ時間になっても丸山氏が現れない。いら立ちを隠せない清野氏をよそに、時間だけが経過する。  30分後…… 丸山ゴンザレス氏(以下、丸山) すいませーん。来たことない街だったので……遅刻しちゃった。 清野とおる氏(以下、清野) 全っっっっっ然気にしないでください。 丸山 で、どこ行くの? 清野 それを今探していたんですよ……ここなんてどうですか? (駅前の地図を指さしながら、なにやら候補地を選別する清野氏) 丸山 喫茶○○ですか……よさそうな名前ですね。 清野 ニオイますよね。 丸山 ええ、確実にニオってきますね。  「なんもねーな」「ただの住宅地」と暴言にも似た無駄話をしながら、谷在家の街を歩く両氏。十数分後に喫茶○○に到着し、対談開始となった。 ■なぜ赤羽を出て、知らない街を描いたのか? 丸山 早速で恐縮ですが、この店ってなんかニオイませんか……トイレ臭いっていうか、なんというか。 清野 確かに、ちょっとニオイますけど…… 丸山 まあいいや。では本題に入りますね。新刊の『全っっっっっ然知らない街を歩いてみたものの』(以下、『知らない街』)は、どのような本なのでしょうか? 清野 本題への入り方がなんとも……とりあえず、どこかに行くときって、大抵は最初に明確な目的地を設定して、ネットでおいしい店とか調べてから出かけるじゃないですか。でも、それだと刺激がないので、本当に全然知らない街を適当に設定して、行き当たりばったりで歩く。目的のないことを目的に設定した軌跡をまとめた本ですね。 丸山 いきなり本題になってしまいますが、なんでも事前にネットで調べてから出かけるという風潮へのアンチテーゼもあるのでしょうか? 清野 別にアンチってほどではないのですが。以前に書いた『東京都北区赤羽』(以下、『赤羽』)や『ウヒョッ!東京都北区赤羽』でもそうなんですけど、基本的に僕は、ネットではあまり調べないようにしてるんですよ。   丸山 編集の方から、今回の対談でのルールもそうだと聞いたので……それで遅刻したっていうのもあります。 清野 言い訳はさせませんよ。でも、調べないほうが面白いじゃないですか。無駄にトラブルが起こったりしますが、この街(谷在家)はまったく何もありませんね。さすがにここまで平穏で何もないとは思いませんでしたけど(笑)。 丸山 びっくりしましたね。駅に降りたときに「あ、これは(何もなさすぎて)ヤバイ」と思いました(笑)。それでも、取材前のリサーチの有無は『知らない街』の大きなテーマだと思うのですが、ここだけの話、本当に何も調べないんですか? 清野 いやいや、本当に何も調べてないです。むしろ、迷ったりする過程のすべてが目的となっていますね。 丸山 新刊『知らない街』と既刊の『赤羽』との違いはありますか? 読者の方も『赤羽』と比較してイメージしていると思うのですが。 清野 新刊のほうが言い方は悪いですが、知らない街なだけに、もう「描き捨て」ですね。「旅の恥はかき捨て」じゃないですけど、どう思われてもいいやぐらいの気持ちで描きました。赤羽の場合は、ホームなんでそうもいかないですけど。 丸山 『赤羽』だと、どうしてもホームレスとか飲み屋が中心になりますけど、『知らない街』では街並みの描写がメインですよね。 清野 風景に関しては、けっこうちゃんと描きましたね。 丸山 楽しみ方としては「清野さんが赤羽以外を歩くとこうなるよ」という、いい見本という感じでしょうか? 清野 そうですね。どの街にも、ある程度楽しみはあるので。あとはそのへんを歩いているおばあさんに話しかけたり、初見のスナックや居酒屋を攻めたりというような、今まで僕が『赤羽』で培ったテクニックが、ほかの街でどれだけ通用するのか試したかったんですよね。 丸山 この本は「赤羽力」の体現なんですね(笑) 。 ■街ルポのスタイルは、いかにして生まれたのか? 丸山 そもそも、どうして街や人をテーマに漫画を描き始めたんですか? 清野 なんででしょうね……。ホームページを始めたのが2003年頃なんですが、そのときの日記を見ても、用もないのにちょくちょく知らない街に行っているんですよね。あのときは全然仕事もなく、精神的にも満たされていない時期で、自分の生活環境が嫌で嫌でしょうがなかったので、現実逃避ですよね。03~04年から『赤羽』の連載が決まるまでは、ちょくちょく歩いていました。 丸山 ちょうど私が無職だった時期と重なっていますね。私は清野さんの2つ上の35歳なんですけど、当時は日雇いバイトとかしていました。その頃は、ほかにやることもないので、無意味に街をうろうろしていましたね。だから、清野さんの行動って、すごくよくわかります。清野さんの漫画は、主人公が「自分」ですよね。なぜそのスタイルにしたんですか? 清野 実は自分のようで、俯瞰すると全然自分じゃないんです。なるべく本心は出さないようにしています。このキャラは僕が描く一番普通の顔で、一番シンプルな男の顔を描こうとして描いたのが、この髪形やこの顔なんです。『知らない街』は『赤羽』と比べると若干毒を吐いたり鬱っぽさを出したりしていますが、それでも本心はあまり出さないようにしています。読者が感情移入しやすいよう読者目線で描いているので、自分のようで自分じゃないんですよね。 丸山 みんなはこれが清野さんだと思っているし、見た目が同じだから『赤羽』と同じキャラクターだと思うけど、実はちょっと違うんですね。 清野 まったくもって違います。 丸山 あと『知らない街』でも『赤羽』でも、主人公がすごい悪そうな笑顔をするときがありますよね。 清野 そういうときは、本来の僕かもです(笑)。 丸山 そこはそうなんですね(笑)。最初から「キャラクターに自分をある程度投影しているけど、100%ではない」というスタイルだったんですか? それとも、試行錯誤の末に、たどり着いたのでしょうか? 清野 今のスタイルが確立したのは、やっぱり『赤羽』のときですね。連載を始めるときに、主役は自分ではなく赤羽と決めていたので。清野という登場人物は、あくまで赤羽の引き立て役なんです。 丸山 それはつまり『赤羽』も『知らない街』も主人公は街だと。 清野 そうですね。自分のねじ曲がった感性を出さないように。多少は出ちゃってますけど(笑)。 丸山 自分では、ねじ曲がっていると思っているんですか? 清野 まあ、少なからずねじ曲がってはいるでしょうね。描けないようなひどいことも、結構いろいろ思ったりしてますし。 ■どうやって「街」を選ぶのか? 丸山 今回、清野さんが選んだ対談場所が足立区の谷在家ですが、「街選びの基準」ってあるんですか? 清野 僕は、街に対しては基本ドMなんですよね。 丸山 ドM!? どういうことですか? 清野 突拍子もないところへ行って、とんでもない目に遭いたいとか。今回の『知らない街』にも収録されているんですが、せっかくの休みに北海道の発寒中央(はっさむちゅうおう)なんて絶対に行きたくなかったんです。だけど、飛行機が遅れまくっていたりとか、ひどい目に遭うとゾワゾワするんですよね。 丸山 トラブルに燃えるタイプですね。私も同じ性質なので、よくわかります。ちなみに海外には行かないんですか? 清野 海外は怖いんですよ。都市伝説であるじゃないですか、「だるま女」とか。あとは映画の『ホステル』みたいな、猟奇的な事件に巻き込まれるイメージしかないから……。 丸山 悪夢と自分の状況がつながってしまうんですね……考えすぎだと思いますけど(笑)。 清野 でも、そう考えてしまうんです。いまだにパスポート持っていませんもの。 丸山 編集の方が、勝手にパスポート作って清野さんを連れ去ったら面白いと思いますよ。 清野 それでも絶対に行きたくないですね。人って結構とんでもない刺激を求めたり、価値観を変えるために海外とか宇宙とかに行こうとするじゃないですか。そうではなくて、本当にとんでもないことは、そのへんの薄暗い路地を曲がった先とかにあったりすると思うんですよね、意外と。そういう身近な部分を見過ごして、海外に行く人とかが多いと思う。 丸山 私は「より遠くに、より危険なところに」という意識がすごく強かったのですが、そんな時に『赤羽』を読んで「こういうこともあるんだ」と思って衝撃を受けた記憶がありますね。 清野 僕の場合は、たまたま赤羽に住んでいたから、そういうことに気づけたんだと思います。 丸山 清野さんは、東京生まれ東京育ちですよね。インタビューで「自分のプロフィールは明かさない」とおっしゃっていたのを読んだような覚えがあるのですが。 清野 いや、結構明かしていますよ。顔はあんま出していないですけど。ウィキペディアにも出身地や年齢が出ていますが、隠しているわけではないです。 丸山 東京生まれ東京育ちなのに、東京で知らない街があるんですか? 清野 まだまだたくさんあります。 丸山 私は地方出身者ですし、皇居の東側にはあまり行ったことがなくて東京の知識がすごく偏っているんですけど、清野さんにとっての東京ってどこらへんなんですか? 清野 僕は板橋区と北区だけですね。あとは何も知らないです。出かけることもありますけど、せいぜい新宿、池袋、渋谷とか大きい街ぐらいで、そこに至るまでの細々とした街はちゃんと歩いたこともないですし。 丸山 例えば雑司が谷なんて、池袋と高田馬場という誰もが知っている地名の間にありますが、実際に歩いたことがある人は少ないですよね。 清野 そういう、エアポケット的なところが一番好きなんですよ。 (後編に続く/構成=編集部) ●せいの・とおる 1980年生まれ。東京都板橋区出身。地元・赤羽に生息する奇妙な人々を生き生きと描いた漫画『東京都北区赤羽』(Bbmfマガジン)が大ヒット。現在、双葉社の「漫画アクション」にて『ウヒョッ!東京都北区赤羽』を連載中。 Twitter <https://twitter.com/seeeeeeeeeeeeno> ●まるやま・ゆうすけ 1977年生まれ。宮城県仙台市出身。編集者、官能小説家、ゴーストライターなど幅広く活動する傍ら、考古学者崩れの犯罪ジャーナリストとして、著作を執筆。別のペンネーム・丸山ゴンザレスとして海外紀行ものも発表している。主な著作に『アジア罰当たり旅行』『図解裏社会のカラクリ』『悪の境界線』など多数。 Twitter <https://twitter.com/marugon>

人気タレントの妻と、芸能ビジネスを乗り切る経営者……2つの顔を融合する京子スペクター

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 浮き沈みの激しい芸能界で20年以上も活躍し、さらに成長を続けるには――。そんな秘訣をまとめた『デーブ・スペクターの作り方』(東京書籍)を7月に上梓した京子スペクターさん。人気タレントのデーブ・スペクターさんの妻であり、所属事務所「スペクター・コミュニケーションズ」の社長でもある。妻と経営者、2つの顔を使い分けながら実践してきたショービジネスや版権ビジネスの世界を勝ち抜く戦略と、人気タレントを作り上げた手腕について聞いた。 ――「スペクター・コミュニケーションズ」という社名からもわかるように、京子さんはデーブ・スペクターさんをメインのタレントとして扱っている芸能事務所を経営されているわけですが、今日のデーブさんの高い認知度や安定した人気をどう見ていますか? 京子スペクター(以下、京子) デーブに対しては多くの方が、普段何しているのか、本業はなんなのかなどの疑問を持っているかもしれません。だからといって「あの人は今」みたいな消えたタレントのような立ち位置ではなく、20年以上も芸能界で活動を続けられているのは、デーブ・スペクターという人間に「何か」があると思って興味を持ってくださるとうれしいですね。 ――いまだに未知数の部分がある。つまり、タレントとして飽きられていないということでしょうか? 京子 そうですね。視聴者の方々が“まだ何かあるのではないか”と。デーブは同じエピソードを使い回したりせず、常に新しいものをキャッチしています。その上で「近い将来にこういうことがあるのではないか」という提案的なコメントをしたりする。大げさに聞こえるかもしれませんが、時代と共に歩んで、一歩ぐらい先を見せるようにしているんです。 ――社長としては、そのあたりのことを意識的に指示していたりするんですか? また、タレントとしてのデーブ・スペクターを「作る」にあたり、どういったことを実践されていますか? 京子 まだまだ積極的に攻めるべきだと思っているので、意識的というよりは、自然にやっているという感じです。それと、受ける仕事に基準を設けて、こちらの想定外のイメージがつかないように気をつけていますね。例えば講演の仕事はどういう会社からのオファーなのかを徹底的に調べ、わからない会社のものは受けないようにしています。テレビは、はやっている番組の出演依頼は、なるべく受けます。より好みしているようでしていないし、していないようでしている。時代時代に合ったもので、今どれが一番必要かを見極めているんです。 ――競争の激しい芸能界で、デーブさんが生き残っている理由は、そこにあるんですね。 京子 そう思って頑張っています。あとは、常に最新の情報を収集しているということ。情報というのは必ずしも、新聞やニュースでわかることだけではないんです。芸能、スポーツ、文化など、あらゆる方面に情報網を張り巡らせて、敏感にキャッチしている。だからこそ、これからのブーム予想や、提案するべきアイデアが生まれてくるんです。 ――デーブさんのミステリアスな部分と情報収集力が合わさって、世の中では「デーブさんCIA説」がささやかれていますが、どう思ってらっしゃいますか? 京子 それは昔から言われていますが、「皆さんおっしゃっているな」くらいの認識ですね。でも、デーブの情報収集能力はCIA並みですよ(笑)。CIAの分析官でも、ここまでやらないと思います。本当に徹底的に調べますので。 ■経営者として心がけていること ――ここで、あらためてスペクター・コミュニケーションズについてお聞きしたいと思います。タレント事務所や版権ビジネスなど幅広く展開されていますが、メインの業務はなんですか? 京子 デーブやほかのタレントさんのテレビ出演が一番のメインですね。それにプラスして、いろいろな最新情報を持っていますので、使わないのはもったいないということで、情報をメディアに流すということも始めました。もともとはデーブがアメリカ人ということもあってアメリカの情報が多かったのですが、今ではアメリカだけでなく世界中の情報を紹介しています。  最近では、イギリス王室のロイヤルベビー出産に関する、まだ日本に上陸していなかったネタをテレビ番組でご紹介しました。日本のメディアがどこも放送していない情報を、最初にうちが紹介しなければ意味がない。同じようなことをやっている会社はほかにもありますので、ほかとは違う特化した何かがないと競争に勝てないんですね。同じようなニュースをどの局でもやっているということであれば、デーブじゃなくてもいいわけです。どこも持っていない情報を手に入れて、どこにも出ていないニュースを最初に発表するのが、スペクター・コミュニケーションズの特長だと考えています。 ――記憶に新しいところでいうと、マイケル・ジャクソンが亡くなったとき、デーブさんはテレビに出ずっぱりでしたよね。今回のロイヤルベビー誕生も、デーブさんはかなり準備していたんですか? 京子 寝ないでやっていましたね。いつ生まれるかわからないですし、どのテレビ局からお声がかかるかもわからないので、1週間寝ずに過ごすみたいな感じでした。普段も睡眠時間は3~4時間で決して長いわけではないのですが、それでもずっと起きているのはしんどいようです。そんなとき、デーブは必ずユンケルを飲みますね。以前は一日2~3本飲んでいたんですけど、漫画家のやくみつるさんに「飲みすぎはよくない」と言われて、ここ1年くらいは1本にしています。 ――スペクター・コミュニケーションズは、ご夫婦で経営されているそうですが、デーブさんが経営について口を出してくることはあるのでしょうか? 京子 それはないですね。そもそもデーブはお金に無頓着なので、会社の運営には向かないと思います。一方で私は経営者ですから、予算やビジネスの観点で、どうしたら会社がうまく回っていくかを考えています。その意味では、デーブが伸び伸びと活動できる環境を作ってあげるのが私の役目だと思っています。 ――スペクター・コミュニケーションズにはデーブさん以外にも、自民党の片山さつきさんや若貴兄弟の母である藤田紀子さんも所属していますが、かなりの少人数で運営されていますよね。少数精鋭の経営スタイルは、意識してそうされているんですか? 京子 そうですね。今のスタッフは知り合いからの紹介で採用したのですが、全員長く続いています。紹介してくださる人が続けられそうな優秀な人を、責任を持って紹介してくれるということもあるんでしょうね。ですから、今でも事あるごとに「誰か、いい方いませんか?」とアピールしています。 ――京子さんとスタッフの方たちの関係を見ていると、経営者でありながら、上司にもチームメイトにもお姉さんにもなっているように感じるのですが、自分の立ち位置を意識されていますか? 京子 小さな会社ですので、誰もが私(経営者)のことだけを見て動いているわけじゃありません。来社したお客様への対応や、汚れているところがあれば掃除をするなど、率先して動く意識をみんなが持っているのです。私が指揮官という感じで操作しているわけじゃないんです。それぞれの意思で動くことは小さい会社では必要なことだと思っていますし、小さいなりの利点もあります。 ――京子さんは、大学やどこかの会社で経営学を学んだというわけではないですよね。どうやって経営者としての勉強をしてきたのでしょうか? 京子 父が会社を経営していましたので、その背中を見て育ったというのが大きいですね。お父さん子ということもあって、常にそばでビジネスを学んでいました。小さいときから将来サラリーマンと結婚するというイメージはなく、自分で事業を起こして何かやりたいと思っていました。 ――京子さんがいろいろな仕事をされていたということは、実はあまり知られていないと思います。もともとはアメリカのホテルニューオータニのコンシェルジュだったんですよね。コンシェルジュは多種多様な要望に応えなければならない、すごく難しい仕事ですが、そういった経験は今に生かされていますか? 京子 アメリカでは不動産業と旅行会社とコンシェルジュを経験しましたが、コンシェルジュの経験はすごく役に立ちましたね。聞かれたことに、なんでも答えなければいけないので。 ――アメリカで社会人経験を積んだあとは、日本に帰国してデーブさんの仕事を手伝いながら、そのまま経営者になったんですよね。実際に経営をしていく中で学ぶことは多かったのでしょうか? 京子 それが一番多かったですね。実際に自分で起業・経営してみて思ったのですが、商売には向き不向きがあって、まず自分自身が商売をすることが好きでなければできないと思うんです。それがベースで、そこから何ができるかというときに、オファーを受けるか否かの判断が一番難しいと思いますが、まずやってみなければわからないので、チャンスを逃さないでほしいですね。まずやってみる。チャンスが来たときは、もったいないかそうじゃないかを考えるんです。自分にできることなのに、断ってしまうのはもったいない。 ――「スペクター・コミュニケーションズ」にとって、転機はなんでしたか? 京子 『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)への出演ですね。デーブはそれまで『笑っていいとも!』(フジテレビ系)などのバラエティ番組がメインだったのですが、自分の意見をしっかり発言できたのが『朝生』でした。あそこがコメンテーターの原点だと思いますね。 ――出演するときは「これはチャンスだ」と意識していたんですか? 京子 もちろんそうです。ああいうチャンスは、なかなかありませんので。『笑っていいとも!』やそれまで出ていたクイズ番組は、ほかの外人タレントさんと一緒でしたが、デーブ・スペクター個人として一人で出演したのは『朝生』が最初でした。しかも、こちらから売り込んだのではなく、番組からのオファーだったので、まさにチャンスでした。 ――最近のお仕事で、飛躍のきっかけになったものはありますか? 京子 今はやはり、海外の映像の独占での提供ですね。デーブが入れなくていいと言っていたので、今までは画面に「スペクター・コミュニケーションズ」のクレジットを入れていなかったんです。しかし弊社は広告もやっていないし、宣伝に一切お金をかけていませんので、名前を売るために今は提供した映像に必ず「スペクター・コミュニケーションズ」と明記するようにしています。『とくダネ!』(フジテレビ系)には何年も映像を提供していますが、クレジットを入れたのは今年に入ってからですね。デーブを何度も何度も説得して、やっと今年OKが出たんです。 ――夫婦円満というと、すべてにおいてイエスマンでいることが大事だと思われがちですけど、意見のぶつかり合いは普通にあることですよね。 京子 そうですね。特にビジネスに関しては。お互い意見をぶつけ合うからこそ、しこりが残らない。経営者としても夫婦としても大事なことです。意見の対立ですので、いいアイデアが出てきたりもしますし。 ■パートナーだからわかるデーブ・スペクター ――京子さんは、妻としてデーブさんをどう見ていますか? 公私共にパートナーでいらっしゃいますが、どのように折り合いをつけているのでしょうか? 京子 デーブがやりたいことを第一に考えるようにしています。私がこうしてほしいということではなくて、デーブが気持ちよく仕事ができる状況が、私にとっても気持ちがいい状況なんです。ですから、デーブが忙しすぎて私と一緒に過ごす時間が取れない、といった不満はないです。本当は一緒に旅行に行けたらいいのですが、それができないのは見ていてわかるので。彼がやりたい状況を作ってあげられることが私の喜びですから、不満じゃないんですよね。デーブの喜びが私の喜びなんです。 ――ご夫婦の中で「このときは一緒に過ごす」みたいな決まりごとはありますか? 京子 一切ないですね。自由です。ただ帰ってきたら必ず挨拶して、仕事がどうだったかを確認します。そういった報告も含めて、夫婦の会話は多いです。よく結婚してから会話がなくなるなんて聞きますけど、うちは全然そんなことないですね。 ――デーブさんも京子さんもサービス精神のある方なので、お互いに自然と会話をするのかなと思うのですが。 京子 そうですね。それはありますね。無理していたら、30年以上も続きませんから。 ――夫婦の会話といえば、デーブさんは、ご家庭でもダジャレを言うんですか? 京子 言います(笑)。裏表のない人ですから。あのままです。 ――今も会社が成長し続けているのは、お2人の絆と、たゆまぬ努力があるからなんですね。 京子 それが理想です。あとはデーブの人のよさ。計算高くテレビに出演していたら、たぶんここまで来ていなかったと思います。悪意はないし、計算もしないですから。例えば先日デーブが『サンデージャポン』(TBS系)でこの本を紹介したのですが、『デーブ・スペクターの作り方』の「作」の文字が手で隠れてしまったんですよ。私だったら気を利かして表紙が全部見えるように持ちますが、デーブは計算も何もなく、ただ持って見せてしまう。ジョークを言うのも自分が褒められたいということではなく、みんなに楽しんでもらいたいんです。そんな具合に本当に計算していないので、「あのときこうしておけばよかったじゃない」ということがいっぱいありますね。 ――最近では、ご夫婦でのテレビ出演も増えてきました。30数年の結婚生活を経ても芸能界の第一線にいるのはすごいことだと思いますが、そうなった今、夫婦で目指していることはありますか? 京子 特別に意識してはいませんが、やはり私とデーブは思いが同じで、今よりもっと向上したいという意識があります。現状に全然満足していないんですよ。夫として見たデーブは、もう100点満点以上です。でもタレント、デーブ・スペクターとして見たときは、まだまだ現状には満足していません。満足していない部分を毎日埋めているという感じです。これからも、努力は怠らずに成長していきたい。そう思っています。 (取材・文=丸山佑介/犯罪ジャーナリスト) 株式会社スペクター・コミュニケーションズ <http://www.spector.co.jp/> デーブ・スペクターのTwitter <http://twitter.com/dave_spector>

「コーヒーを押すと、ミルクティーが出てきた」10年ぶり復活のボキャ天芸人・松本ハウスが語る“統合失調症”のリアル

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撮影=尾藤能暢
 お笑いコンビ・松本ハウスを覚えているだろうか? ちょっと正気とは思えないクレイジーなパフォーマンスを繰り出すハウス加賀谷と、それに冷静に突っ込む松本キック。1990年代に『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ系)でブレイクし、一時はかなり頻繁にテレビなどに登場していたのだが、ある時期を境にパッタリと表舞台から消えてしまった。  実はハウス加賀谷はコンビ結成以前から統合失調症を患っており、症状の悪化によって1999年、松本ハウスは活動休止に追い込まれていたのだ。  それから約10年の休止期間を経て、2009年よりコンビを復活して活動を再開しているが、このたび、加賀谷の統合失調症体験について綴った著書『統合失調症がやってきた』(イースト・プレス)が発売された。「統合失調症」って名前は聞くけど、実際どんな病気なのか? そして、お笑い芸人が病気を語る理由とは!? ■病気のエピソードも、ネタにしちゃえばいいじゃないか ――キックさんは、コンビを組む段階では加賀谷さんが病気だということは知らなかったんですよね。 松本キック(以下、キック) そうですね。とはいえ、初めて事務所で会った時から、明らかに挙動不審でしたけど。 ――そんな挙動不審な人と、どうしてコンビを組もうと思ったんですか? キック おかしなヤツだな~……とは思いましたが、とにかく目立ってましたから。それに事務所の同期が3人だけだったんですけど、僕と加賀谷が漫才志望で、あとのひとりはコント志望だったんですよ。だから必然的に相方は加賀谷しかいないと。 ハウス加賀谷(以下、加賀谷) キックさんから誘われて、ボクは即オッケーしました! キック 「ちゃんと考えてんのかコイツ?」というくらい即答でしたね。ただ、コンビを組んだのはいいけど、コイツがやたらと遅刻をしてくるんですよ。「事務所で新しいネタを作ろう」と待ち合わせしてても来ない。当時は携帯がなかったんで、家に電話をしたら「すいません、寝てましたー」って。それから1時間待っても来ないから、また電話したら「寝てましたー」。さらに1時間待っても、やっぱり来ない。で、「寝てましたー。……今日、行かなきゃダメですかねぇ?」ですよ。「もうふざけんな!」ってブチ切れて。 加賀谷 あの時は、ホントに寝てたんですよ。朝の薬を飲もうと思ったら、間違えて夜寝るための薬を飲んじゃって、そのままコテッて……。 キック いくら面白くても、そういうところがちゃんとしてないヤツとはコンビ組んでいけないなと思っていたんですけど、その後、「実は統合失調症を患っていて、中学の頃から幻聴が聞こえていた。高校では幻覚が見えて、グループホームを経て、なぜかお笑いの道に走った」という経緯を知って……そういうことだったのかと。 ――統合失調症だからコンビを組むのはやめよう、ということにはならなかった? キック 加賀谷という面白い人間が、たまたま精神疾患を持っていたというだけですからね。話を聞くと病気のエピソードも面白いし、それもネタにしちゃえばいいじゃないかと。とにかく漫才をやりたかったんで、「しょうがない、面倒見るしかないか」っていう感じで、特に抵抗はなかったですね。 ――当時から加賀谷さんのギリギリなキャラは話題になっていましたが、どこまでがガチで、どこからがキャラだったんですか? 加賀谷 ボクらエンターテイナーなんで、まあエンターテインメントですよ。 ――……??? キック 全部キャラを作ってたってこと? 加賀谷 だからそのー……あのぉー……。 キック 最初から「リハビリ漫才だ」って言ってましたし、精神疾患を持っている“加賀谷”という人間がキャラクターの一部になっていたことは間違いないですね。
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――普段の加賀谷さんの行動なんかも、ネタに取り入れたりして? キック 漫才に関しては普通に作り込んだネタでしたけど、フリートークでは加賀谷のおかしな行動をよく話題にしていました。こいつ、「コーヒー買ってきて」っていうと、絶対にミルクティーを持ってくるんですよ。 加賀谷 それがですねぇー、自販機に行ってちゃんとコーヒーのボタンを押したのに、ミルクティーが出てきたんですよ。 キック 出てこないよ! 加賀谷 出てくるんですよぉ~。「この自販機はもうダメだ!」と思って、隣の自販機でコーヒーを押しても、またミルクティーが出てくるんですよぉ。 キック お前がミルクティーのボタンを押してるんだよ! 加賀谷 いや、押してない押してない! 絶対に押してないですッ! ――それは天然で押し間違えてるか、幻覚が見えているか、どっちかですよ。 加賀谷 幻覚ではないと思うんで……自販機がおかしいんだと思いますよ。ベンダーがクラッシュしてるんですよぉ。 キック お前の頭がクラッシュしてるよ! ■ボクの嫌いな「自分」が評価されるという矛盾 ――学生時代は「自分は臭いと思われているんじゃないか」と気になるあまりに幻聴が聞こえていたそうですけど、そういう人が自分のことをネタにして笑われる芸人になって大丈夫だったんですか? 加賀谷 「自己臭恐怖」というヤツですね。ずっと「アイツ、臭いよ」という幻聴が聞こえていて悩んでいたんですけど、お笑い芸人として笑われる分には、全く気にならなかったですねぇ。キックさんも「お前、死臭がするよ!」とか突っ込んでくるんですけど、それは平気なんです。お笑いの仕事を17歳で始める前に1年間、グループホームに入っていたんですけど、そこでだいぶ休めて、幻聴を聞くこともなくなっていたというのも大きいかもしれません。 ――お笑いを始めた頃は、精神的に調子がよかったんですね。 加賀谷 まあ統合失調症の薬は飲んでましたけど。 キック 時々、遅刻をしたりするくらいで、行動もそこまでおかしくはなかったですしね。 ――それから『ボキャブラ天国』でガーンとブレイクしていくわけですが、やはりその忙しさで精神的におかしくなってしまったという部分もあったんでしょうか? 加賀谷 それも一因だったと思います。とにかく小さい頃から、自分自身が嫌いだったんですよ。それなのに、そんな自分がボキャ天ブームで急に評価されるようになっちゃって。ボクの嫌いな「自分」がマスメディアで評価されているという矛盾で、うれしいのと嫌なのとがごちゃ混ぜになって、感情のコントロールができなくなってしまったんです。 ――キックさんは、加賀谷さんの症状が悪化していたのには気付かなかったんですか? キック 単に疲れているのかなって思っていました。ブームのピーク時は、1年半くらい休みがなかったですからね。同じように『ボキャブラ天国』で売れていた人間を見ても、みんな忙しいから疲れてるんですよ。だから、加賀谷が楽屋に入るなりゴローンって床に転がったりしてても、「疲れてるんだろうなぁ~……」って。一応、本番になるとちゃんと仕事をしていたんで、まさか症状が悪化しているとは気付かなかったですね。 ――幻聴や幻覚が出るほど症状が悪化しても、キックさんには言い出せなかったんでしょうか? 加賀谷 キックさんはすごく心配してくれちゃうんで、知られたくなかったですねぇ。 キック 病気をこうやって隠そうとするのも、よくないんですけどね。
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――病院には定期的に通っていたんですよね? 加賀谷 はい、思春期精神科というところに通っていて、薬もドンドン増えていたんですが、それをちゃんと飲んでいなかったんですよ。「服薬コンプライアンス」っていうらしいんですけど、お医者さんから指示された用量用法を守らないで、「今日は調子がいいから大丈夫」とか、自分の判断で薬を減らしたりしていたんです。それが一番よくなかったですねぇ。 キック 結果的に僕が知った時には、いきなり「入院します」でしたから。しかも、加賀谷ひとりでは来られないんで、お母さんに連れられて来てたんですよ。 加賀谷 母親には「ボクちょっと調子悪いみたいなんだ」って連絡をしていたんですけど、後になって聞いたら「ここで私がなんとかしなかったら、取り返しのつかないことになる」と思っていたみたいです。だから「潤さん(加賀谷の本名)、もう入院しなさい」って。でも、ボクにはお笑い芸人しかないんですよ。17歳の時にお笑い芸人になって、それしかやったことがなかったんで、お笑い芸人・ハウス加賀谷じゃなくなったら、何者でもなくなっちゃうんです。それが怖くて怖くて仕方がないから「入院しないでなんとかする!」としがみついていて。結局、それでますます調子悪くなっちゃって、「こりゃもう入院するしかないな……」と。 ――せっかくお笑いとして売れだした時に活動停止しなくちゃならないということで、キックさんとしてもキツかったんじゃないですか? キック ちょっと前まで「か・が・や・でーす!」とかいってみんなを笑わせていた人間が、ここまで落ちちゃうのかっていうくらい落ちてたので、自分の心配どころじゃなかったですね。「はよ治して、戻ってこいよ!」なんて言葉はかけられなかったですもん。 加賀谷 症状が悪化していることによる落ち込みと、「これで終わりだ」という落ち込みとダブルの絶望がありましたから……。 キック だからボクも「お前がもし芸人やりたかったら、10年たってからでもいいから、やりたいって言いに来いよ」って言ったんですけど……本当に復活まで10年かかりました(笑)。 ――その直後、精神科病院に入院するわけですが、ブームの最中だけに周りには思いっきり気付かれますよね。 加賀谷 入院した初日に「あっ、ハウス加賀谷だ!」って言われましたね。でも、「ボクはもうハウス加賀谷じゃないんです……」って言ったら、それ以降は全く言われなくなりました。 キック そこはみんな当事者なんで、察してくれたんでしょうね。 ■ウワーン、またコンビやりたいんですぅ~ ――その後、新薬と出会って症状が劇的に改善されたということですが、それまでの薬とそんなに違うもんなんですか? 加賀谷 全然違いましたね。自分の身体を覆っていた“膜”みたいなものがサーッと取れていくような……。それまでは何にも興味が持てなくて、ずーっと部屋に閉じこもって本だけを読んでいたんですけど、急にボクが元気になっていろんなことに興味を持ちだしたから、家族会議が開かれましたもん。「今度は躁になったんじゃないか!?」って。お母さんは「アナタには人間としての感情の機微がなくなってしまったと思っていたけど、それが戻ってきた!」と泣きださんばかりに喜んでいましたねぇ。 ――ある意味、そこまで自分に合う薬と出会えたというのは運がよかったですよね。 加賀谷 出会うまでに5~6年はかかりましたけど、それでも早かったと思いますね。いろいろな薬を試しているうちに副作用で大変なことになってしまった人も、たくさん知っているので。 キック もちろん、加賀谷がこれだけ元気になっている薬でも合わない人には合わないですし、症状がひどくなって再入院した人もいるし。薬の効果というのは人によって千差万別なので、そこだけは気をつけてほしいですね。 ――新しい薬と出会って元気になってからも、コンビ復活まで4~5年はかかっているわけですが、その間は何をしていたんですか? 加賀谷 もちろん、すぐにでもお笑いをやりたいという気持ちはあったんですが、自分でもとても芸人をやれるような状態じゃないことが分かっていたんで、まず体力をつけなきゃいけないなと。体重も105キロくらいありましたし。……ということで、毎日家の周りをグルグルと5~6時間歩き回ってました。 キック その界隈じゃ、絶対有名人になってたよ! 加賀谷 体力も戻ってきて、調子もよくなって……それでもなかなか「もう一回やりましょう」とは言えなかったですね。やっぱり、せっかくブームに乗っている時期なのに迷惑をかけたっていうのがすごいあるんで。 キック 僕の方も、コイツが入院する直前の状態を見ているんで、症状が悪化した原因となったお笑いを「もう一回やろう」とは言い出せなかったですね。もしまた悪くなったら、責任取れないじゃないですか。 加賀谷 そんな、お互いに言いたくても言い出せないという、甘酸っぱ~い時期をしばらく過ごしましたねぇ。
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――その間も、こまめに連絡は取り合っていたんですか? キック 連絡も取っていましたし、コンビを復活するちょっと前くらいからは家にもよく遊びに来てましたからね。そのたびに、「今日は言おう」と思っていたみたいですけど。 加賀谷 でも言えなくて……。思い詰めて、最終的には電話で言いましたからね。でも感情が高ぶっちゃって「ウワーッ」て泣いちゃって。 キック 電話でいきなり泣きだすから、また症状悪化したんじゃないかと思いましたよ。「大丈夫か、お前!?」って(笑)。 加賀谷 「ウワーン、またコンビやりたいんですぅ~」って。 ■よくある話 ――そして、再び「松本ハウス」として活動を始めるわけですが、その際に病気のことを前面に出していくかどうか、という判断があったんじゃないでしょうか? キック 確かに、復活当初は事務所もなくフリーで活動していたこともあり、「全部のネタを病気フィルターで見られても困るな」ということで、そこは悩みましたね。結果的には、障害者をテーマにしたバラエティ番組『バリバラ~障害者情報バラエティー~』(NHK Eテレ)に出させてもらったり、ネタの中でも病気のことを扱ったりと、その辺をオープンにしていくことにしたわけですが。 ――最近では統合失調症についての講演会をやったり、学会に出席したりもしているそうですね。 キック 「日本統合失調症学会」という、東大から京大から海外の教授までやって来るようなすごい真面目な学会に呼んでいただいて、「加賀谷はこういう症状がありました。ボクはそれにこう接していました」みたいな感じで発表させてもらったんですけど、最初はホントに「すごいとこに来たな……」と思いましたね。壇上に「はい~松本ハウスで~す!」とか元気よく出ていったんですが、かつて味わったことのない視線を浴びましたよ。 加賀谷 ボクは味わったことがある視線ですけどね。診察の時の先生の目ですから。そこで、「か・が・や・でーす!」って言って。 キック その瞬間に、何人かの先生がメモを取りだして! 加賀谷 メモじゃないですよ、カルテですよアレは。 キック もちろんそこでネタをやる予定なんてなかったんですけど、ちょっと時間が余っちゃったので、なぜかやることになっちゃって……。ネタの中で加賀谷が「ウワーッ」って叫ぶシーンがあるんですが、そこでまたみんなメモ出してましたから。「コレ、ネタじゃなくて症状だと思ってるんじゃないか?」って。 加賀谷 カルテがドンドン増えてましたね。 キック でも、その発表は精神科医の先生たちも、ものすごくよかったって言ってくれました。 加賀谷 お医者さんたちって、入院中の患者のことはよく分かっているんですけど、退院してからどういうふうにしているのかは分からないんで、すごく興味深かったみたいです。 ――今回、どうしてこの病気について振り返る本を出そうと思ったんでしょうか? キック 実は、復活する前後から、本を出さないかという話は何度か頂いていたんですね。ただ、当時は自分らがどうなるか分からない時期だったこともあり、お断りしていたんです。その後、『バリバラ』に出させてもらったり、講演会をやらせてもらう中で、「自分らに伝えられることがあるな」と思うようになって、今回の本を出版することにしました。 加賀谷 本の作り方としては、ボクが話したことをキックさんが文章にまとめてくれたんですが、本当に吐きながら当時のことを思い出しましたね。「明日はキックさんにこういうことを話そう」とメモを取っているだけで、ブワーッて吐いちゃったりして。 ――最近、調子はいいわけですよね? 加賀谷 エクセレントですね! ――それでもフラッシュバックしてしまうくらい、つらい思い出だったんですね。 加賀谷 それくらい、こじ開けたくない記憶なんだと思います。 キック この本を読んでいても、どうしても読めなくて飛ばしちゃう部分があるって言ってますからね。
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――そんな、同じ症状を持っている人たちの参考になれば……という面もあるんでしょうか? 加賀谷 あくまでボクの場合の話なので、参考というか……“ちょっとしたヒント”くらいにしてもらえたら、という感じですけどね。 キック 精神疾患を持っている当事者もそうですけど、ご家族や周りの人たちにも読んでもらいたいです。突然、身近な人がそういうことになったら、どう接したらいいか分からないと思うので。実は本のタイトルも「よくある話」にしようかとも思っていたんです。今、日本には100人に1人くらいの割合で統合失調症を持っている方がいるらしいんですけど、それくらいありふれた、誰でもなる可能性のある病気なんですよ。 加賀谷 それなのに、世間では間違ったイメージで見られがちですからねぇ。 キック しかも精神疾患って、ものすごく分かりづらい病気なんですよ。たとえば今、加賀谷が統合失調症だなんて、言われなきゃ分かりませんからね。だから「統合失調症ってどういうことなの?」「精神科病院ってどんなとこなの?」くらいの興味からでもいいと思いますんで、手に取ってもらいたいです。 ――最後に、芸人として今後やりたいと思っていることを教えてください。 加賀谷 やっぱり漫才をやっていきたいですね! キック 自分らしかできない表現で漫才をやりたいです。あとは、ボキャブラブームの時に果たせなかった夢として、お金を稼いで「松本ハウス」っていうマンションを建てたいんですよ。借りに来た人に「ホントに、こんなとこに住むのー?」って。 加賀谷 住人が出したゴミも漁って「こんなもの捨てるの~?」とか(笑)。 (取材・文=北村ヂン) ●まつもとはうす ハウス加賀谷(1974年2月26日生まれ)と、松本キック(1969年3月8日生まれ)で91年に結成。『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ系)、『進め!電波少年』(日本テレビ系)などに出演しブレイクしたが、加賀谷の統合失調症悪化により99年から10年にわたり活動を休止。現在は、テレビや講演会などで活躍中。http://projectjinrui.jugem.jp/ ニコニコ生放送『松本ハウスのガ!ド!バ!』(毎月第3月曜更新) http://ch.nicovideo.jp/channel/nicojockey/

無縁社会、年金問題……沈みゆくこの国の現実! 国際派監督が描いた密室ドラマ『日本の悲劇』

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国際映画祭で活躍する小林政広監督。「年金不正受給は海外でも起きている。日本だけの問題じゃないんです」と語る。
 2010年7月、東京都足立区で起きたある事件が日本全国に衝撃を与えた。111歳だったはずの男性がミイラ状態のまま自宅で30年間にわたって放置されていたことが発覚し、その男性の家族が年金不正受給を罪に問われ逮捕されたのだ。この事件が明るみになるや、全国で100歳を越える行方不明老人が膨大な数に上ることが判明した。“長寿大国”という日本の看板を揺るがしたこの事件に強い関心を示したのが小林政広監督。これまでにイラク人質事件を題材にした『バッシング』(05)がカンヌ映画祭コンペ部門に選出、佐世保少女刺殺事件にインスパイアされた『愛の予感』(07)がロカルノ映画祭で4冠受賞するなど、日本社会が抱える厄介な問題に独自のアプローチ方法で向き合ってきた国際派監督だ。そんな小林監督のシナリオに魅せられたのは仲代達矢、北村一輝、大森暁美、寺島しのぶという4人の実力派俳優たち。崩壊していく日本の家庭を息詰まる緊張感の中で描いた密室ドラマ『日本の悲劇』に込めた想いを小林監督に訊いた。 ──年金を頼りにギリギリの生活を送る父子(仲代、北村)の抜き差しならぬ物語。足立区で起きた事件をまざまざと思い起こしました。即身仏化した父親と家族が暮らしていた足立区の事件を、小林監督は当時どのように感じたんでしょうか? 小林政広監督(以下、小林) びっくりしましたよ。そんなことがあるのかとね。最初は別に映画にしようと考えたわけじゃないんです。ただ、「嫌な事件だな」と。でも『バッシング』のときもそうだったんですが、自分で「嫌だな」と感じたときほど気になるわけです。その嫌な感じの正体はなんだろうとね。そこでシナリオを書くことで、事件についていろいろと考えるんです。一体、どんな家族だったんだろう? どういう人が即身仏になろうと考えるのだろうとね。即身仏になろうとする人だから、きっと大正とか明治生まれの人でしょう。うちのオヤジと同じくらいの年齢だったのかな。映画の世界でいえば黒澤明みたいに意志が強く、決断力のある人だろうなどと考えるわけです。そう考えるうちに興味が湧いてくる。今回は『春との旅』(10)に主演してくれた仲代達矢さんのことが念頭にありました。仲代さんがかつて演じた『切腹』(62)のイメージが思い浮かびましたね。 ──小林正樹監督の『切腹』も、食い詰めた下級武士の悲壮な物語でしたね。 小林 そう、婿夫婦を失った浪人が復讐を果たす物語。覚悟を決めた男の物語でしょう。覚悟の決め方が魅力的だった。「あっ、自分が描こうとしている男も覚悟を決めた人間なんだ」と気づいたわけです。逆にいえば、現代人って覚悟が決められないんだなって思えてきた。そうこう考えていくうちに、キャラクターが作られていったんです。 ──『バッシング』や『愛の予感』は、実際に起きた事件を詳細にリサーチすることはしていないと語っていましたが、今回も年金不正受給の実状を具体的に取材したわけではない? 小林 えぇ、していません。どうして、そのような事件が起きてしまったのかという問題の構造性や社会的なことにはさほど興味がないんです。それよりも、どうしてそんな行動に走ってしまったんだろうという人間の内面的な部分に興味があるんです。足立区の事件があって、しばらくして一度シナリオを書き上げたんですが、自分で読んでみてあまり面白くなかった。それでそのシナリオは放っておいたんですが、そうしているうちに2011年3月になって東日本大震災があり、そこから震災も含めた現代の家族のドラマとして考え直したんです。震災の前から景気が悪くなり、社会が息苦しくなったなぁと自分は感じていたんですが、それはみんなが感じていたことだろうと。みんなの表情が暗くなった頃からの、小さな家族の歴史みたいなものを描いてみたいと思い、今回の作品になったんです。
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思うように再就職できない息子(北村一輝)と闘病中の父親(仲代達矢)。父親が受け取るわずかな年金が親子の生命線だった。
──タイトルを聞くと、巨匠・木下惠介監督の『日本の悲劇』(53)を思い浮かべる人もいると思います。木下監督の『日本の悲劇』は、戦後の厳しい経済状況の中で慎ましい母子家庭が崩壊していく様子を描いていましたが……。 小林 木下監督の作品は別に意識していないですね。どんな内容だったか、あまり覚えてないくらい(苦笑)。実は木下監督とは別に、もうひとつ『日本の悲劇』(46)というタイトルの映画があるんです。これは亀井文夫という監督が撮ったドキュメンタリーですが、とんでもない内容です。軍と軍需産業が結託して戦争を起こしたことを糾弾した内容で、資本主義、金儲けのために戦争が始まり、その後には死体の山が累々……という。このドキュメンタリーは戦争が終わった翌年の1946年に公開され、GHQにフィルムを没収されて公開1週間で打ち切られたんです。これは公開するのも命懸けだったでしょう。すっごい映画ですよ。あの映画に比べると、ボクが撮ったのは本当に小っちゃな家族の物語ですよ。 ■板の上で死にたいという役者の願望 ──小林監督の『日本の悲劇』は無縁社会、年金問題を扱った社会派ドラマということになるんでしょうが、とある家庭内で起きるドメスティックバイオレンスならぬドメスティックサスペンス、もしくは密室パニック映画として観ることもできそうですね。 小林 そうですね。まぁ、でも今回はエンタテインメント性とかは何も考えないで作ったんです。だって、ひとりの男が餓死してミイラになる話ですよ。普通の神経じゃ、こんな映画は作りませんよ(苦笑)。自分でも一度はダメだと思った内容だったけど、3.11後にもう一度書き直して、それで整合性がついたというわけではないんですけどね。やっぱり仲代さんが「やる」と言ってくれたことが大きかった。共犯者がひとりでもいてくれると映画って動き出すものなんです。商業性うんぬんでもないですね。こんな映画は今までなかったから、逆に役者はやってみたいと思うんじゃないですか。普段はコマーシャルな仕事でみんな食べているわけだけど、原点に戻ってじっくり役に取り組んでみたいと潜在的に思っている役者はけっこーいると思いますよ。 ──仲代達矢演じる父親・不二男の背中をカメラはずっと撮り続ける。亡くなった親の思い出というと、どうしても顔より背中のほうが鮮明に浮かんできます。
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「今回は娯楽性、商業性は考えなかった」と話す小林監督だが、独自のインディペンデントスタイルを突き詰めたものに『日本の悲劇』は仕上がった。
小林 そうなんです。仲代さんの背中をずっと撮っていたんだけど、役者ってどうしてもカメラのほうに振り向いて演技したがるから、そのときは「ずっとそのままで」と言おうと思っていたんです。背中から撮ることの意味も仲代さんには説明しました。「これは不二男の回想ですから、不二男は影になってほしい」って。仲代さんは納得してくれました。終始、背中を向けたまま、動かなかった。すごいですよ(笑)。覚悟を決めた男と、死に行く父親を見届けることに心が揺れ動く息子の物語。年金の不正受給の話じゃなくなっていますよ(苦笑)。実際にね、ボクの母親が亡くなったとき、1年くらい病院に通っていました。世話をしながら、正直なところ「早く死なないかな」と思ったりしたこともありました。治らない病気の場合、延命治療にどれだけの意味があるんだろう。本人は「痛い、痛い」と苦しんでいるわけです。でも、薬を注射されて気分がいいときもあって、そういうときは「あぁ、オフクロが生きていてよかった!」とも思うわけです。死んでゆく親を看取る子どもの気持ちは、絶えず揺れています。悪魔的になったりもするし、健気な子どもになったりもするんです。 ──仲代さん、東海テレビが今年劇場公開した『約束 名張毒ぶどう酒事件死刑囚の生涯』では冤罪死刑囚を演じていましたが、本作でも「撮影中に役者人生をまっとうできれば本望だ」と言わんばかりの迫真の演技です。 小林 『春との旅』の宣伝でご一緒したときには「もうボクは無名塾もやめて、バイクで世界を旅して、どこかで野垂れ死にできればいい」と言ってましたよ。「バイクの免許は持っているんですか?」と尋ねると、「持ってない」と答えてましたけど(笑)。まぁ、演じることは根っから好きなんだと思いますよ。本人に確かめたわけじゃないですけど、「板(舞台、セット)の上で死ねれば最高だ」と思ってるんじゃないですかね。今回の撮影は2週間でした。仲代さんが疲れないよう、明るい時間に撮影が終わるように余裕のあるスケジュールを組んだんですが、1ショットが長くて凄い緊張感の中での撮影だったんです。1ショットごと息を止めながら撮影しているような感覚。撮っている側が気絶しそうになってしまった(苦笑)。 ──再就職がなかなかできない息子・義男には、『女理髪師の恋』(03)以来の小林監督作品への帰還となった北村一輝。最近は『妖怪人間ベム』『テルマエ・ロマエ』などすっかりメジャーシーンで活躍する人気俳優に。 小林 でも、全力を出し切る仕事というのはしてなかったと思うんですよ。今回の現場はそうじゃなかった。持っているものを全部出さないと成立しない。だから、苦しいという感覚もあったかもしれないけど、楽しいという感覚のほうが勝っていたと思いますよ。『日本の悲劇』のクランクイン直前まで『ATARU』の撮影を北村くんはやっていたんですが、それで深夜に『ATARU』の撮影が終わってから別のスタジオを自分で借りて朝まで役づくりをやっていたそうです。大森暁美さんも寺島しのぶさんもそうですが、誰も撮影現場に台本を持ってくる役者はいませんでした。毎回そうなんですが、みんなしっかり役づくりしてから現場に入ってくれるんです。 ■答えが出ない問題にこそ、大事なものが隠されている ──家族がみんなそろうシーンは涙腺直撃です。まさか小林監督が“泣かせ”に走るとは思いませんでした。ライアン・ゴズリング主演の『ブルーバレンタン』(10)やギャスパー・ノエ監督の『アレックス』(02)を思わせる反則技の演出じゃないですか? 小林 『ブルーバレンタイン』って、こういう映画なの? 観てないので分からない(笑)。『アレックス』はずいぶん前に一度観たかな。偶然ですよ。あまりシリアスなシーンばかりはどうかなと思って、後から考えたシーンなんです。シナリオを書いてて自分でグッと来ちゃった(笑)。自分で書きながらあらためて思いましたよ。人が幸せだなって感じる瞬間はほんの一瞬なんだなって。しかも、感じている瞬間はそれが「幸せだ」とは気づかないものなんですよ。
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母(大森暁美)と嫁(寺島しのぶ)がそろった家族の食卓。いつまでも続く平凡な日常風景になるはずだったが……。
──幸せが通り過ぎた後で、人はそれが「幸せだった」ことにようやく気づくんですね……。あらためてお聞きしますが、小林監督は年金不正受給問題をどのように考えていますか? 小林 正規雇用の仕事が少ない、鬱病が増えている、自殺者が減らない……。やっぱりお金の問題ですよね。お金を稼ぐことができず、食べることもままならない。アベノミクスで景気が良くなったとニュースで報じられるけれど、誰も実感できずにいる。反原発を訴えた山本太郎に、宮根誠司が「江戸時代に戻るんですか?」と言ったことが話題になったけれど、どこかで意識改革は必要でしょう。原発だけじゃなくて、資本主義の在り方をね。発展途上国だけどインドのほうが、今の日本より精神的に豊かなように映りますよね。日本以上に米国はもっと悲惨なことになってるでしょ。社会そのものを見つめ直さないとね。でも、ボクは政治家でも政治学者でもないんで、具体的にどうすればいいのかは分からないんですが。 ──分からない問題、答えが出ない問題にカメラを通して向き合うのが映画監督のようですね。 小林 そうね。答えがすぐに出せるなら、映画を撮る必要はないわけです。答えが待っているものじゃ、作っていても面白くない。解決できないものを考えていきたいですね。解決できないものの中にこそ、もっと大切なことがあるように思うんですよ。映画づくりというのは、ひとつのテーマをとことん考える作業だと思うんです。大切なのは答えを出すことじゃなくて、考えて考えて考え尽くすことだとボクは思う。 ──問題だらけの日本の年金制度ですが、映画監督に年金制度ってあるんでしょうか? 小林 フランスでは映画を1、2本撮った監督は監督協会に入会できて、映画が撮れずにいる間は協会から毎月20~30万円くらいの手当が支給されるんですよ。だからフランスの映画監督は4~5年に1本くらいしか映画が撮れなくても、けっこー優雅に暮らしているんです。フランスではそれだけ映画が文化として高く評価されているわけです。日本の映画監督協会? ボクは入ってないから詳しいことは知らないけど、年に1度集まっての飲み会などの親睦が目的じゃないかな。あっ、そうだ。日本脚本家連盟には一応入っているんだけど、いよいよ来年から年金が支給されるんです。年に1万2,000円なんだけどね(笑)。フリーランスで働く人間にとって、今がいちばん厳しい時代じゃないですか。 (取材・文=長野辰次/撮影=名鹿祥史) 『日本の悲劇』 脚本・監督/小林政広 出演/仲代達矢、北村一輝、大森暁美、寺島しのぶ  配給/太秦 8月31日(土)より渋谷ユーロスペース、新宿武蔵野館ほか全国順次公開 (c)2012MONKEY TOWN PRODUCTIONS  <http://www.u-picc.com/nippon-no-higeki> ●こばやし・まさひろ 1954年東京都生まれ。高田渡に弟子入りし、林ヒロシの名でフォーク歌手として活動。その後、郵便局員などを経て、シナリオライターデビュー。約500本ものドラマを手掛けた。監督デビュー作『CLOSING TIME』(96)は「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」で日本人初のグランプリ受賞。『海賊版=BOOTLEG FILM』(99)、『KOROSHI 殺し』(00)、『歩く、人』(01)で3年連続カンヌ映画祭に招待。『バッシング』(05)はカンヌ映画祭コンペ部門に選出された。『女理髪師の恋』(03)はロカルノ映画祭特別大賞、『愛の予感』(07)はロカルノ映画祭初となる4冠を受賞。仲代達矢を主演に迎えた『春との旅』(10)は毎日映画コンクール日本映画優秀賞ほか数多くの賞を受賞。その他にもEXILEの眞木大輔と吉瀬美智子が主演した『白夜』(09)、震災直後の宮城でロケ撮影した『ギリギリの女たち』(11)などコンスタントに作品を発表している。

「満島ひかりは一筋縄ではいかない女優」熊切和嘉監督が描く、自由奔放な女の生きざま

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撮影=後藤秀二
 30歳を過ぎても結婚に焦ることなく、落ち着き払った独身女性がいたとしたら。人々は陰で思うだろう、「未亡人か離婚したか」「きっと何か理由があるんだよ」と。  『夏の終り』の主人公である相澤知子(満島)は、別れた夫のもとに娘を置いてきた、いわゆるバツイチ。年上の作家の小杉慎吾(小林)と週の半分を一緒に暮らしているが、慎吾は残りの日を本妻のいる自宅で過ごす。知子は慎吾に「奥さんと別れて」などと言わず、このまま穏やかな関係を続けたがる。知子のもうひとりの恋人、木下涼太(綾野)には理解できない関係だ。知子は慎吾を自分のものにしたいと、本当に思っていないのか……。  瀬戸内寂聴の私小説でもある、この不可解な三角関係の物語を、『海炭市叙景』の熊切和嘉監督が映画化。満島ひかり、綾野剛、小林薫という俳優陣を迎え、自由奔放な女性の生きざまを映し出した。観賞した男性には賛否両論だという知子だが、熊切監督はどう受け止めたのだろうか? ――熊切監督が文学的な女性映画を作ったことに、正直驚きました。 熊切和嘉(以下、熊切) そうですね。まさに、女性映画を作ってみたいなと思ったんです。女性映画の基準は人それぞれですけど、女優が真ん中にしっかり立っている映画にしたいと思って撮りました。僕にとっては、成瀬巳喜男監督の高峰秀子映画みたいなイメージです。 ――瀬戸内寂聴さんの原作を読んだ時の印象は? 熊切 時代物、文芸物なんてできるのかなと不安に思いつつ読んだんですけど、ヒロインがとにかく面白くて(笑)。思ってたよりずっとはねているし、みっともなさも全開。そこが面白いなと思いました。 ――やはり、ヒロインの知子に惹かれましたか? 熊切 僕は、かわいい人だなと思いましたよ。不器用で、正直で。言わなきゃいいのにっていうことを言っちゃったりするところもかわいい。文芸作品のヒロインって、もっとエレガントだったりただ美しい人が多いけど、そういうヒロインに僕はあまり興味がない。でも『夏の終り』は、常識を平気ではみ出しているし、キレイごとじゃない部分も描いている。だから、やりたいと思いましたね。 ――知子は妻帯者の慎吾と交際しつつ、さらに若い恋人もいます。 熊切 この作品って、ヒロインの魅力のほかに、この関係性の面白さがある。慎吾は夫かと思いきや、本宅に帰っていくんですからね(笑)。複雑で、緊張感があり、奇妙でもある関係性。そこが面白いと思います。 IMG_6800.jpg ――ちなみに、試写を見た男性の反応はどうですか? 熊切 分かれますね。年齢がいっている人は、身につまされるみたいなことをおっしゃってたり。若い人ほど、拒絶反応を示す傾向があるかな。音楽をやってもらったジム・オルークも、「こういう女性は許せない」って言ってましたし(笑)。でも実際はこういう人って身の周りにはいると思うのに、今までの映画の中では、意外と描かれていないキャラクターな気がする。実は、新しいキャラクター像に挑戦したつもりなんです。 ――この時代にあって、なぜ知子がここまで奔放な性格になったかというのを、特に説明もしていませんね。 熊切 それは極力しないようにしました。理解できないぐらいにしたかったので。 ――満島ひかりさん演じる主人公の知子は、原作では30代後半の設定ですが。 熊切 満島さんって独特というか、年齢不詳な感じがいいと思ったんです。やつれた感じに見えるときもあるし。回想シーンで若い時期を演じる必要もあったので、年上の人が若作りするよりは、もともとかわいらしい人がよかったんです。 ――熊切監督から見て、満島さんはどんな女優ですか? 熊切 予想はしてましたけど、一筋縄ではいかない人でした。台本に書いてあるからと、心なくパッとやるような、そんなテレビ的なお芝居をする人ではないし、僕もそういうのはハナから求めてはいなかったですし。自分の核となる部分に、役を落とし込んで演じようとする役者。満島さん自身、知子という役に関しては、「すごく共感できる部分と、まったくわからないところがある」と正直に言っていました。大変な役だったと思います。 ――熊切監督が特に好きな満島さんの表情は? 熊切 ポスターにもなっている、この顔は好きですね。一晩寝ないでくれって頼んだんですよ。寝ずに呆然としていたというシーンだったので。一瞬だけ寝ちゃったらしいですけど、いい顔をしてましたね。 ――前作『莫逆家族 バクギャクファミーリア』とは真逆の作風となりましたね。 熊切 ああいうのをやると、真逆の作品を作りたくなるんです(笑)。そのほうが精神衛生上、いいんですよ。『海炭市叙景』の後だったら、こうはならなかった気がします。僕の作品は大きく二分できて、「白熊切」「黒熊切」なんて言われるんですけど(笑)。『夏の終り』は「白熊切」じゃないですかね。 ――過去の作品においても今作も、マイノリティなキャラクターが多いのはなぜですか? 熊切 あまり光が当たらない人たちに肩入れしてしまうんです。報われない人のほうが好き。映画の企画を考えるとき、いつも思い出す光景があるんですよ。小学2年生ぐらいのとき、地元の帯広にあるイトーヨーカドーの1階のフードコートで、本気モードで昼飯を食べてるおじさんを見て、なぜか切なくなったんですよね。今回も、たとえば小林薫さんが演じるシーンを考えるときなんかに、ふとそれを思い出してました。『莫逆家族』でも、カップラーメンをもそもそ食べてたりとか。実は毎回そういう、哀愁漂う人間のシーンを入れてるんです。 IMG_68343.jpg ――そういった光の当らない人を描こうという意識が、常にあるんですか? 熊切 うーん、その経験は確かにずっと胸にあるんだけど、映画を作っていると、突然変異的に変なキャラクターが生まれちゃうだけで。昔も今もそうなんですけど、出来上がってみないとわからない。あまり計画、計算ができないんですよ。唯一、計算してやっているのは編集だけ。撮影現場では感覚で見ているような感じです。セリフをちょっとぐらい間違えててもOKにしちゃうし。集中して見てはいるけど、気持ちが芝居の中にあればいいっていうスタンスです。 ――熊切監督はいいペースで作品を製作、公開できているように思いますが、映画業界に対する不満や要望はありますか? 熊切 普通ですけど、映画料金って高いよなぁって思います。どうにかならないんですかね。1000円ぐらいだったら、みんなもっと見るのに。一方で、100円でDVDレンタルできたりもしますよね。僕もすごく活用するんですけど、活用しつつ切なくなるというか。前に『ノン子36歳(家事手伝い)』の中で、ヒヨコ何千羽が逃げ惑うというスペクタクルなシーンを大変な思いをして撮ったんですよ。それがレンタル店で「何千羽が100円か…」って、がっかりしちゃって(笑)。 ――「DVDになったら見ればいいや」と思う人が増える一方ですもんね。『夏の終り』も、劇場で見てほしいという思いがありますか? 熊切 『海炭市叙景』と同じチームでやったんですけど、古い日本家屋の中で撮っているので、光と影、陰影をキレイに出すことを心がけたんです。デジタルですが、暗闇の黒がキレイに出せているんですよ。だけどDVDで見ると、暗闇が波打って見えるかもしれない。だから、ぜひスクリーンで見てほしいんですよね。 ――最後に、日刊サイゾー読者にメッセージをお願いします。 熊切 主人公の知子は、見る人によっては拒絶しちゃうぐらい奔放な女性なんですけど、そこで引かずにどうか受け止めてください! きっと魅力がわかるはずです。好きになるかどうかはまた別の話ですが(笑)。 (取材・文=大曲智子) ●くまきり・かずよし 1974年生まれ、北海道出身。97年、大阪芸術大学の卒業制作『鬼畜大宴会』が第20回ぴあフィルムフェスティバルにて準グランプリを受賞。ベルリン国際映画祭パノラマ部門正式招待など、国内外で高い評価を得る。主な監督作に、『アンテナ』『青春☆金属バット』『フリージア』『ノン子36歳(家事手伝い)』『海炭市叙景』など。14年に『私の男』の公開を控える。 natsuowai.jpg 『夏の終り』 8月31日より有楽町スバル座ほか全国ロードショー 監督/熊切和嘉  原作/瀬戸内寂聴『夏の終り』(新潮文庫刊) 出演/満島ひかり 綾野 剛 小林 薫 公式サイト <http://natsu-owari.com> (c) 2012年映画「夏の終り」製作委員会

「正直、ヒットするとは思わなかった」長井龍雪が語る『あの花』制作秘話とアニメの可能性

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アニメ業界一、照れ屋だといわれる長井監督。
 2011年4~6月にフジテレビ・ノイタミナ枠などで放送されたアニメ、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(通称『あの花』)。見たことはなくとも、タイトルだけは聞いたことがあるという人も、少なくないのでは? 登場するのは、子どもの頃に仲の良かった6人組。小学生のときにそのうちのひとりが事故で亡くなり、疎遠になってしまっていた彼ら。しかし、死んだはずの女の子・めんま(本間芽衣子)が、元リーダーじんたん(宿海仁太)の前だけに現れたことをきっかけに、高校生になった5人は再会。押し込めていた想いを解放していく物語だ。 一方通行の恋心、仲間への嫉妬心、取り戻せないあの日……。若者の心情が痛々しく描かれるアニメでありながら、それでも少しずつ前に進む彼らを丁寧に描いたことで共感と評判を呼び、深夜にもかかわらず、大ヒット。Blu-rayとDVDの累計出荷本数は27万本を記録した。あれから2年。テレビシリーズを再編集し、彼らの1年後の新規エピソードを加えた『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』が、夏の終わりに公開される。監督は、テレビシリーズ『あの花』はもちろん、『とらドラ!』や『とある科学の超電磁砲』シリーズも手がけた長井龍雪。次世代を担うアニメ監督である長井監督にとっての『あの花』とは? そしてアニメの可能性とは? たっぷりと話を聞いた。 ――『劇場版 あの花』、今まさに制作中ですか? 長井龍雪(以下、長井) はい、まさに真っ最中です(笑)。ほかの作品もやっているので、そっちもやりつつですが(編注:取材時は『とある科学の超電磁砲S』放送中だったため)。さすがに年齢的に徹夜はキツいので、適度に睡眠を取りながら頑張っているところです。 ――それでは、渦中だからこそのお話をいろいろ聞かせてください(笑)。2011年春にテレビ放送された『あの花』は、その面白さがクチコミで広がり、普段あまりアニメを見ない人も見るほどブームになりましたね。 長井 まさかこんなに喜んでいただけるなんて、スタートしたときは全然思ってなかったんです。もちろん自分としての満足度は高かったけど、それとお客さんが満足してくれるかはまた別なので。自信を持って面白いと思って作っていましたけど、なんせ地味な話なので。正直売れる気はまったくしませんでしたね。 ――地味かもしれないですが、見た人たちの心には確実に刺さったと思いますよ。 長井 そう言っていただけるとうれしいですね。飛び道具的な部分はあったにせよ、淡々と続く地味な話だと思うので。 ――劇場版の話はいつ出たんですか? 長井 テレビシリーズが終わって、しばらくたってからですね。放送中はなかったです。 ――そうなんですね。放送後、物語の舞台となった埼玉県秩父市でファンイベントを行っていたので、放送中から大ヒットの手応えは感じていたのかと。 長井 でも、あのイベントは早い段階から仕込んでいましたから。秩父でやるって話を最初にされたとき、「みんな、何言ってるんだろう?」って思いましたもん(笑)。「なんで秩父に、そんなに人が集まると思うんだ!?」って、完全に引いてました。 378A4532.jpg ――結果、イベントは大成功でしたよね。そもそも『あの花』って、どの年代をターゲットにしていたんでしょうか? ノイタミナ枠だったので、20~30代ぐらいなのかと思ってましたが。 長井 いや、もうちょっと若い世代ですね。作ってる僕が30代後半だから、その年代の雰囲気は出ちゃうんですけど、30代が懐かしがるものって、ちょっと気持ち悪いなって思って(笑)。もうちょっと若い人たちが何かを感じられるように、とは考えてました。 ――でも、フタを開けてみれば30~40代の人たちにも支持されました。世代というより、あまり明るい青春を送れなかった人たちからも共感を得られたというか。 長井 そうですね。僕も、そんなキラキラ光る青春時代はなかったですから。でもじんたんたちって、物語中でキラキラして見えるんですけど、やってること自体はすごく鬱々としてる。鬱々していてもいいんだよっていう、自己肯定の話なのかなって。 ――そんな裏テーマがあったんですか!? 長井 今にして思えばですけどね(笑)。作っている最中はわりと入り込んでるので、キャラクターがつらいときは「つらいよね」って思いながら作ってたりもするんです。終わって、いい作品だと捉えてくれるお客さんがいて初めて、そういうふうにも見てくれてたんだって思えるんですよ。 ――監督としては、何にポイントを置いて演出をしていたんでしょうか? 長井 やはり感情表現が一番の土台になっていますね。もともとの企画が、「小学生の頃に仲良かった友達って、大人になると疎遠になるよね」というところから始まったんです。関係性の話を根っこにして、各キャラクターの気持ちの動きが見えるようにしたいと思って作ってました。 ――事故で死んでしまった女の子・めんまをここまで前面に出すことは、最初から決めていたんですか? 長井 いえ、最初の設定では狂言回しみたいな役割だったんですよ。それが話を進めるにつれて、重要度がどんどん増していった。正直「じんたんって、そんなにめんまのこと好きだったのか」って僕らが思うぐらい(笑)。「小学生のときの話だぞ!?」って思いながらも、そうなっていったんですよね。最初は第1話みたいにふわっと現れてふわっと消えるぐらいの予定だっためんまが、ふわっとは消えられない感じになってきた。そういう意味ではとてもライブ感のある作品でしたし、そこに役者さんの声と芝居が入ることで、性格的な部分がさらに膨らみました。 ――じんたんについては、どう捉えていましたか? 最初は学校にも行かず家に引きこもっているという、主人公らしからぬ主人公でしたが。 長井 序盤の、彼が鬱々としてるときはとても共感できたんです(スタッフ一同笑)。でも「なんかこいつカッコイイな」って思いだしたら、僕とは距離ができてしまいましたね(笑)。じんたんは一番成長が見えるキャラクター。乗っかりやすい、見えやすいキャラクターではありました。 ――『あの花』は、普段アニメを見ない人も見やすい作品です。深夜アニメ慣れしたファンに向けた作品と、区別をしていたんですか? 長井 いや、僕は、間口は広く取りたいな、といつも思ってるんです。実は、僕の奥さんがアニメを全然見ないんですよ。ですから常に、うちの奥さんでも見られるアニメを作る、というのは意識してます。逆に言うと、アニメファンだけに向けて作ることはあまり考えてないですね。でもうちの奥さんにとっては、『あの花』でさえアニメってだけでハードル高いらしくて。どんな話なのって聞かれて説明しても、最中に『やっぱりいいわ』って遮られるし、まず褒めてはくれないですしね(一同苦笑)。なんだろう、このつらい話……愚痴ではないですよ(笑)。 378A4759.jpg ――確かに、深夜アニメの存在すら知らない人も多いですからね。 長井 はい。そういう人たちがいるんだなってことを、常に意識させられてます(笑)。 ――長井監督は、アニメだから表現できるものって、なんだと思いますか? 長井 アニメのいいところは、全部を自分たちでコントロールできること。コントロールしないと何も起きない、まったくもって作為しかない世界。そういう部分が、怖くもあり面白い部分だと思います。アフレコなので、役者さんの芝居の間すら自分たちで決めることもできる。それは緊張もするし、ハマったときにはとても満足度が高いんです。 ――逆に、アニメで表現できないものは? 長井 僕は、最終的にはないと思ってます。もちろんできる部分とできない部分はある。たまたまカメラに鳥が映り込むというような偶然の奇跡は、アニメだと起こり得ない。それはもどかしくもあります。だけど、いろんな人の手を経てできていくので、その中での驚きというのがあります。だからこそ、手を尽くしさえすれば、表現できない部分はないと信じてます。今はできないことも、いつかできるって思って作っていますね。 ――長井監督の武器はなんですか? 長井 なんだろう……特にないんですよね。コンテを描いてしまったら、もう僕の中ではそうあるべきって決まっちゃうんですけど、そういう良くも悪くも周りが見えなくなるのがいいところなのかなぁ……。人の迷惑も顧みずに大変なカットを作ったり。あんまりよくないですね(笑)。 ――長井監督の絵コンテが素晴らしいという話は、あちこちで見聞きしますよ。 長井 そんなに大したことはなくて、なるべく伝わりやすいものを作ろうとしてるだけです。『あの花』のようなオリジナル作品は無から作っていくので、イメージをスタッフにどれだけしっかり伝えられるかが大事。あまり口が上手くないので、見てわかってもらえるようにコンテはなるべくちゃんと描こう、丁寧に描こうと思ってやっているだけなんです。 ――作品のメッセージがまずあり、監督はそれをどれだけ表現できるかというお仕事ということですね。最後に、読者に向けて『劇場版 あの花』の見どころをお願いします。 長井 テレビシリーズを見ていただいた方には、感謝の気持ちを込めて作りました。テレビシリーズから1年後の物語ですが、キャラクターが成長した部分または成長しなかった部分を見ていただけたらと思います。そんなに構えて見る作品ではないと思うので、初めて見てくれるお客さんも気楽に楽しんでいただけたらうれしいですね。 (取材・文=大曲智子/撮影=尾藤能暢) l_yuo_anohana_01.jpg ●『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』 監督/長井龍雪 脚本/岡田麿里 キャラクターデザイン/田中将賀 声の出演/入野自由 茅野愛衣 戸松遥 櫻井孝宏 早見沙織 近藤孝行 8月31日より全国ロードショー (c)ANOHANA PROJECT <http://www.anohana.jp/> ●ながい・たつゆき 1976年、新潟県生まれ。サラリーマンを経て、アニメ業界に入る。数々のアニメの演出を手がけ、06年『ハチミツとクローバーⅡ』で初監督。08~09年に放送された『とらドラ!』が大ヒットし、その名が一躍広まる。そのほかの主な監督作品に、『とある科学の超電磁砲』(09~10年)、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(11年)、『あの夏で待ってる』(12年)、『とある科学の超電磁砲S』(13年)などがある。

「17万人のメッセンジャーが生まれた」若者を動かした選挙フェスと、三宅洋平のこれから

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 自民党が大勝利を収めた先の参院戦だが、その一方で、新たな変化の兆しがあった。落選した比例代表候補の中で、ダントツの17万6970票を集めた無名の新人候補・三宅洋平。緑の党比例区から立候補したミュージシャンだ。選挙資金2000万円をカンパで集め、「選挙フェス」なる新たな手法で既存の選挙戦に殴り込みをかけた。ステージを組み、ミュージシャン仲間を次々と登場させ、バンドの伴奏に合わせてポエトリーリーディングのような演説を行うそのスタイルは、若者の間で広がる政治忌避を、街頭のフェス化によって変えようという試みだった。「選挙に立候補するのは、俺がみんなより強いからじゃない。あなたと変わりない俺が、勇気を振り絞っただけ」「俺はもう限界までやってるよ、君はどうするの?」――。自分への投票は二の次で、あくまで政治参加を呼びかける三宅の姿は、明らかにほかの候補者とは一線を画していた。全国17カ所で行われたこの選挙フェスは回を追うごとに動員を増やし、投票日前日、渋谷・ハチ公前には1万人以上の人が集まる騒ぎとなった。  惜しくも三宅氏は当選とはならなかったが、選挙後、NHKや朝日新聞でも取り上げられるなど各所で話題となった選挙フェスとは、いったいなんだったのか――。三宅氏に話を聞いた。 ――選挙を終えて約20日たちましたが(※取材時)、まずは現在の心境を教えてください。 三宅洋平氏(以下、三宅) 自分みたいな存在が選挙に出るっていうのはすごく勇気もいったし、どうなるんだろうっていう不安もあった。でも選挙中はとにかく死ぬ気でやっていたから、そういうのを突破した感はありますね。充実感とは少し違うけれど、チェックマークが一個ついたなと。これを受けて、さてこれからどうするか、というところですね。 ――無名の候補者がまさかここまでやるとは、有権者の大半は予想していなかったと思います。 三宅 もっと完璧な立候補の仕方、たとえば今回は見送って2年くらい準備して、いろいろ根回しして、政治家とのコネクションを作って、お金もためて、隙のない戦略で立候補すれば、今回の2~3倍の票を取ることができたかもしれない。けれど、僕は不完全な候補者として、みんなに問題提起をしたかったということもある。選挙制度そのものについてや、マスコミの報道の仕方とか、今回の僕の立候補を通して、みんないろいろな矛盾に気付いたはずです。それに、これまでスタンダードとされていた、議員秘書になって立候補するという枠組みが、少し広げられたとは思っています。 ――やはり17万6970票は、重みがありますか?  三宅 あまりそうは感じてないですね。今回17万票だったというだけで、次の選挙ではまたゼロから1票ずつ取っていく、理解を得ていくということですから。ただ、今回の選挙を通して、17万人のメッセンジャーが生まれたとは思っています。もちろん政治家としては未知数だし不完全だし、目の前の経済を保証してくれる政党でもない。それでも三宅洋平を信用したいと思ってくれた人たちが、僕があがいて見せたように、これから周りの人たちにアクションを起こしていくための自信と勇気を持ったはずですから。 IMG_4802_.jpg ――デビュー当時からライブやネットを通じて社会に対するメッセージを発信していた三宅さんでしたが、今回の出馬を決めた、直接的な要因はなんだったのでしょうか? 三宅 3.11以前から反原発の運動を自分なりにやってきて、デモ、請願、嘆願、陳情、院内交渉までやったけど、ダメだった。これは自分たちが政治家になるしかない、そこまでやらないと社会は動かないなという気はしていました。そんな時に3.11が起こり、自分のミュージシャンとしての人生設計どうこうより、地球の存亡がかかってない? って。好きなことを来世でやるために、きれいな地球を残すためにやるしかないなと思ったんです。 ――政治家にならなくても、ミュージシャンとして多くの人にメッセージを伝えることができるのでは、という声もあったと思いますが。 三宅 原発再稼動のことや憲法改正のことについては僕がアルバムなんて出したって変わらなくて、今すぐ、一市民として抑止しなきゃいけないことなんですよね。正直、すべての人にそういうモードになってほしい。“なに自分の人生生きてるの? そんな暇ないよ。そう思えてないなら、現実認識が甘いよ”って。それが僕の率直な意見ですが、それを一人ひとりに伝えていくのはすごく大変なことだし、なかなか理解されない部分もあると思う。となると、「なんであの人、あんなにがむしゃらに頑張ってるの?」という姿を見せるしかないんですよね。そしたら考えるでしょ? それしか方法がなかったんです。でも、立候補して17万票取るような騒ぎを起こしても、1ミリも変わってないって日々の連続なんですよね。 ――「政治をマツリゴトに」というスローガンを掲げた新しい街頭演説「選挙フェス」は全国17カ所、延べ25会場で行われました。この様子は動画配信されたり、続々とYouTubeにアップされ、瞬く間に拡散されていきました。 三宅 拡声器と街宣車こそ、投票率低下の原因だと思っていたので、僕らなりのやり方を取り入れたんです。ストリートミュージシャンがひどい音を出したら、お客さんに「帰れ!」って言われるでしょ?(笑) 僕がこれまで出演してきたフェスやイベントのコネクションで各地のオーガナイザーがそれぞれ動いてくれ、延べ3000人超のボランティアが協力してくれました。このために、十数年間、全国でライブをやってきたのかもしれない、って思いますよ。 ――ハチ公前をはじめ、どうやって場所を確保したんですか? 三宅 街頭演説は、2~3日前から陣取り合戦なんです。お花見と一緒。日本の政治と選挙って、すごく原始的なんですよ。ほかの政党とモメることもたびたびありましたね。僕らの場合はステージを組んじゃって、そのままどかないという手法だったんですが、「普通、街頭演説って、一カ所●●分だろう」とかいろいろ言われました。でも、そんなルールはどこにも書いてないし、これまで政治家っていうのは、とことん「ルールにのっとってやってますから」って、いろいろなことをゴリ押してきたんですよね。だから半分、その流儀に乗り、書いてないことはやっていいんだねって、そこはギリギリの駆け引きです。 ――スピーチの中では、現在の政治の主流となっている、異なる意見を叩き潰すというやり方ではなく、お互いが対等に認め合い、納得できるまでとことん話し合う「チャランケ」(アイヌ語で談判、論議の意)の重要性を訴えていました。 IMG_4839_.jpg 三宅 「政治くそ」「官僚ふざけんな」「マスメディアファック」ってやってても、相手がデカすぎるんですよね。僕も以前はそれをやってしまっていたけれど、3.11で変わった。このやり方では、だめだったんです。やみくもに反対するだけでは、事故になるまで原発を止められなかった。どうあがいたって実権を握っているのは政府なんだから、彼らのモノの考え方を変えてもらうしかない。だから相手の意見を否定するのではなく、納得するまで話し合いたい。コミュニケーションしたいんです。僕たちはいま主流とされている社会とは違ったオルタナティブなライフスタイル、視点を持っているから、自民党のような保守勢力が思いつかないようなアイデアが出せる。だから政権を打倒するんじゃなくて、国会に僕らの価値観を少し混ぜてほしいんです。日本を僕ら色に少し染めたいんです。 ――選挙後、NHKや朝日新聞でも取り上げられるなど各所で反響を呼んだ選挙フェスでしたが、初めての選挙戦、反省点はどんなところですか? 三宅 単純に与えられた時間が短くてやり切れなかったことが多々あったんですが、手が回らないところをわざと晒しておくことで、みんなが何を手伝ったらいいか明確にわかるようにしておいたんです。そしたら、勝手連が動きだしてくれた。僕らは自民党のような大きな組織じゃないから、ボランティアの協力が生命線だったんです。そうやって付け焼き刃で選挙運動に関わりだしたみんながそれぞれ課題に気付いたので、そこをひとつずつクリアにさせていきたいですね。今後、チームとして組織化していくのかどうかについては、今考えているところです。  僕は自然農が一番だと思っていて、手を加えれば加えるほど、中央集権的なチームになってしまう。そうではなくて、それぞれのスタイルがネットを通じてつながり、必要があれば扶助し合うという、地方分権のひな型のようなものがたくさんできたらいいなと思っています。好きな音楽を選ぶように、自分が支持する人を選び、その人に対してもいろいろと意見が言えるムードを作っていきたいですね。 ――3年後の参院選を目指す一方で、今回の方法論を用い、「1万人の選挙プロジェクト」として地方選に仲間を送り出していきたいとのことですが、今後の一番の課題はなんでしょうか?  三宅 今回の選挙戦を通してできた足がかりをもとにやっていけば、100万、200万と支持の輪は広げられるだろうし、僕以外にもユニークな候補者が増えるでしょう。それくらいの現象は起きていると思います。けれど一方で、託しすぎなんじゃないかと思う部分もあります。僕に投票した17万人の人たちって、まだ紙に1票書いただけなんですよね。「社会をよくする」という意味では、まだ何もやっていないんです。僕に期待してくれるのはいいけれど、その考えってちょっと違うんじゃないかって。選挙期間中も何度となく「応援しないでください。応援させてください」と言ってきましたが、実際、自分の周りをよくするのは自分自身ですからね。それに、みんなが漠然と抱いている政治家像――なんに対しても明確な政策を持っている人間――を変えていかなければならないと思っています。僕自身、政治家はなんでも知っている完璧な人間である必要はないし、わからないことがあるなら、それはその都度、勉強していけばいいと思っています。 ――ご自身が政治家になることよりも、あくまで一人ひとりが自分で考え、政治参加することを望んでいる、と。 三宅 選挙の結果は副産物でしかないし、社会変化を促す大きな原動力が生まれ、あらゆる既得権益者の中にも、もっと多様性のある社会を作りたいという人が増えれば、大成功ですよね。環境をないがしろにする経済政策とか、みんなの生き方を少しシフトチェンジするという目的のためには、これが僕に行使できる最短の道だと思います。これを音楽だけでやろうとしたら、とてつもなく長い道のりです。苦肉の策ではあったけれど、やり始めてみたら仲間が増えた。メディアなんてクソくらえって思っていたけど、いろいろな人がひしめき合っていて、応援してくれる人もたくさんいた。選挙を通して今まで以上に、僕自身の社会の見方が変わった部分もありますね。 (取材・文=編集部) ●みやけ・ようへい 1978年ベルギー生まれ。音楽家。日本アーティスト有意識者会議(NAU)代表。02年から09年まで、レゲエ・ロックバンド「犬式 a.k.a.Dogggystyle」のボーカル・ギターとして、日本はもとより、世界各地でライブ活動を行う。10年 バンド「(仮)ALBATRUS」を結成。11年3月、東日本大震災を期に、東京から沖縄北部の本部町に居を移す。自然農やエネルギー自給を取り入れながら「新しくて懐かしい」ライフスタイルの模索に入る。 <https://miyake-yohei.jp/

あの衝撃作が帰ってくる! 聴覚障害者へのいじめを描いた『聾の形』制作秘話

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「週刊少年マガジン 36・37合併号」(講談社)
 2013年2月。「週刊少年マガジン」(講談社)に掲載された一本の読み切り漫画がネット上を大きくにぎわせた。そのタイトルは『聲(こえ)の形』。聴覚障害者のヒロインがクラスメイトから壮絶ないじめを受ける様を生々しく描くという、少年漫画雑誌という媒体としてはなかなか際どい内容である。絵柄のタッチも力強く、そして骨太。そのストーリー、画面構成、すべてが熟練の技を感じさせる読み応え十分な本作だが、執筆したのは先日初めての連載作品『マルドゥック・スクランブル』(原作:冲方丁)を終えたばかりの新人漫画家・大今良時。弱冠24歳の女流漫画家である。  本作はもともと、2008年の「第80回週刊少年マガジン新人漫画賞」に投稿された作品で、大今は新人賞を受賞。当初は「マガジンSPECIAL」No.12に掲載される予定だったが、その内容の際どさからお蔵入りとなってしまった。しかし、編集部内において、初代『聲の形』は非常に高い評価を得ていたため、「別冊少年マガジン」班長(同誌の編集長的ポスト)は講談社の法務部および弁護士、さらに全日本ろうあ連盟との協議を重ねた結果、ついに11年2月号に掲載。掲載号のアンケートでは、並み居る連載作品を抑えて人気アンケート1位を獲得してしまった。この反響を受けて、13年2月発売の「週刊少年マガジン」12号に投稿作である初代をベースに、全面的に描き直されたリメイク版が掲載。より洗練された画風と構成で生まれ変わった二代目『聲の形』は、多くの漫画ファンの関心を呼び、Twitterやネット掲示板も話題騒然。同誌の発行部数も、掲載号のみ6万部伸びるという前代未聞の事態となり、ついには8月7日発売の同誌36・37合併号より連載スタートすることが決定した。  そんな新人の投稿作品としては異例の盛り上がりを見せ、三度読者の前に姿を現すことになる『聲の形』だが、どんな思いを込めて本作を生み出したのかを作者・大今良時本人に聞いてみるべく、講談社を訪れた。 ■東京に出る資金のために応募した新人賞 ──発表以来、大変大きな反響を得ている『聲の形』ですが、その声は大今先生の耳にも届いていますか? 大今良時(以下、大今) ROM専なんですけど、2ちゃんねるをよく見ているので(届いています)……。 ──そもそも『聲の形』という作品は、いかにして生まれたのでしょうか? 大今 『聲の形』を描き始めたのは18の時です。それまではちょっとした賞くらいにしか引っかかっていなかったので、いつかちゃんと新人賞を取りたいと思っていました。当時は岐阜の実家に住んでいたので、早く東京に出てアシスタント生活をしたいと思っていたんですが、親に反対されてたんです。ちょうど高校を卒業して、一年間くらいアルバイト生活を送っていた頃で、「あんたは一人じゃ何もできひんやろ!」って。それで「新人賞を取れば、お金が手に入るな。これは賞を取るしかない」と思い、決意が固まりました。 ──漫画家への夢や親への説得材料みたいなものが、新人賞獲得のモチベーションとして結実したんですね。 大今 はい。親からは散々「行くな、行くな」と言われていたので、逆に今ここでしか描けないものを描いてしまえと思って、自分の母校を使わせてもらったり、親から手話を教わったりして『聲の形』という漫画が生まれました。その結果、新人賞をもらったんですが、「それでもあかん」って。でも、「担当さんが『東京に来ないの?』って、しつこいんだけど……」って、ちょっとウソ入れて大げさに話したら、そこでようやく認めてくれました。
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大今良時氏
■身近な存在だった障害者たち ──お母様が手話通訳士だそうですが、聴覚障害者の方は身近な存在だったんですか? 大今 はい、身近でしたね。実家に居ながら描ける漫画ということで、こういうテーマを選んだ部分はあります。母から手話を教わったり、身近にいた障害者の方がいじめられていたという話を聞く機会もあったので、どちらかというと自然にこの物語が生まれました。 ──ここ最近の大津市の問題に限らず、定期的にいじめに関するニュースがメディアに出たりもしますが、そういう世間のムードとは関係はなく? 大今 はい。特に私がいじめられていたとか、ニュースを聞いて……というわけではないです。(少し考えて)……ただ障害者の人生、障害者の位置とはなんなのかということは常に考えているんですが、まだ答えが出ていません。この作品の中だと、ヒロイン・西宮硝子の位置ですね。彼女は主人公・石田にとって未知の存在で遠い存在だから、いじめが起こる。点と点を結ぶ話にしたかったのですが、そのためにはニ人は憎み合っていないといけなかったんです。その先にある硝子の位置は、これから探していくことになります。 ──その憎み合った結果である「健常者による聴覚障害者へのいじめ」「いじめの連鎖」という、かなり際どいテーマに、読者のみならず編集部も大きな衝撃を受けたと聞いています。 大今 そう……なんですかね(笑)。現実味とファンタジーのバランスが難しいですね。現実的すぎるという反響も、ファンタジーすぎるという反響も両方いただきました。今も悩みながら描いています。ただ、漫画のために障害者の側からだけでものを言うと、それはそれで考え方が極端になるというか。だから中立的な立場で作品は見てもらいたい、という気持ちはあります。 ──確かに聴覚障害者であるヒロイン・硝子を使って、もっと読者を泣かせる展開にすることもできたと思うのですが、そこはあまり彼女に感情移入しすぎないような構成になっているように感じました。 大今 そうですね。私も、彼女のことをよくわかんない子だと思って描いているんです。やっぱり硝子って主人公にとって何者なのかわからない存在なので、そこを意識して描かないといけないのかなって。知らない存在に対して、どう接していくのかっていう象徴(が硝子)だと思います。 ──そのほかに印象的だったのが、教師のリアルな「大人のズルさ、汚さ」でした。 大今 私はこの先生、好きですよ(笑)。完全に作者目線になってしまうんですけど、最後に主人公をボコボコにしてくれるシーンは特に。貴重な配役を担ってくれています。……そして同時に、昔、先生たちはあんな感じだったなって。それを自分で描けるのがうれしくて。 ──もしかしたら、漫画執筆を通じて、過去の出来事に復讐するというような気分も……。 大今 あるかもしれませんね(笑)。時々、ストレス発散するために漫画を描いているんじゃないか、という錯覚を覚えることもありますね(笑)。 ──漫画を描いている瞬間って気持ちいいですか? 大今 気持ちいいです。よく言われることですが、一番気持ちいいのは、主人公が痛めつけられる瞬間かもしれません。あと、肩書とは真逆の精神を持った大人、あるべき姿と違うことをする大人を描くのが好きです。子どもって失敗しても言い訳ができちゃうんですけど、大人ってあんまり言い訳ができない。その過酷さやかっこ悪さが、すごくいいですね。だからこそ描きやすいというか(笑)。 ■連載版『聲の形』に向けて ──そんな『聲の形』が今回、連載作品になります。読み切りとして描いたデビュー作が、連載作品へと成長していくのはどんな感覚ですか? 大今 二代目『聲の形』は、実は連載の形で編集部の会議に出させていただいたので、ようやく思ったものを描けるといううれしさはあります。でも、すべてはこれからです。現時点では自分はまだスタートラインにも立てていないので、自分の作品がどうこうなったと考えたり、今回の一件で感動とか感激をあまりしちゃいけないのかなと思っています。連載が始まっても打ち切りになるかもしれないので、とりあえず一生懸命描くだけです。はい、おとなしくしてます(笑)。 ──「別冊少年マガジン」班長のTwitterによると、二代目『聲の形』監修を務めた日本ろうあ連盟からは本作に関して「何も変えないでいい。ありがとうございます」とお墨付きがついたそうですが。 大今 うれしいですよね(笑)。ただ、その分、いろいろ考えてしまいます。今後、連載が始まることによって、聴覚障害者の方たちが喜ぶ話にはならないかもしれない。彼らががっかりする話を描くかもしれない。しっかりと、いろいろなことを考えて作ってきたいですね。 ■漫画家・大今良時が描きたいこと ──大今先生が一番影響を受けた作品や、漫画を描くきっかけになったエピソードを教えてください。 大今 漫画家になりたいと本格的に意識する前から漫画を描いていましたし、漫画家しかなかったんですよね。「漫画を描きたいから漫画家になりたい」と。小学生の時に、高田裕三さんの『3×3EYES』を読みながら思いました。漫画の世界に浸っていたんだと思います。 ──そんな大今先生が漫画を通じて、一番描きたいのはどんなことですか? 大今 常に「この人たち」に向けて描きたいという思いは強く持っているんですけど、それを明言してしまうと「その人たち」は見てくれなくなるだろうと思うので、そういうことは極力表に出さないようにしています。ただ、そのメッセージは『マルドゥック・スクランブル』を描かせてもらった時にも通じるテーマだったし、『聲の形』でも出てくると思います。 ──大今先生にとって漫画とは? 大今 その質問かっこいいですね(笑)。それはもう「伝えるための手段」です。……あわわ、恥ずかしい。 ──(笑)。では、新人賞受賞作であり、出世作でもあり、初の週刊連載作品でもある『聲の形』は、大今先生にとって今のところどんな作品ですか? 大今 ギリギリのところで救ってくれる、自分の気持ちを上げてくれる作品かな……。う~ん、まだうまく言えないです。連載が終わって、読者さんの心に届いて、そして売れてくれたら、きっと大好きな作品になると思います。 ──最後に、『聲の形』連載に向けての意気込みをお願いします。 大今 読んでいる人の心に届くように、思いを作品に込めています。暗い物語を描いているんですけど、よくないことが登場人物に起こったとしても、それを肯定してあげられる作品にしたいです。 (取材・文=有田シュン)