「ウケるようになって、戸惑ってる……」気鋭の女性コンビ・日本エレキテル連合の“コント道”

nihonele01.jpg  今、お笑い界を震撼させている1組の若手女性コンビがいる。アウトローな関西人カップルの逃避行を描いた「ナニワシンドローム」など、過剰なまでにディテールにこだわったコントを演じる日本エレキテル連合だ。彼女たちは今年の「キングオブコント」でも準決勝に進出。『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)、『ぐるぐるナインティナイン』『芸人報道』(ともに日本テレビ系)などにも出演経験があり、業界内での評価は高い。  あの独創的でどぎつい世界観のコントはどこから生まれているのか? 普段は何をしているのか? すべてが謎に包まれている2人の素顔に迫る。 ――コンビを組んだきっかけは? 中野 私たちはもともと関西のお笑い養成所に通っていて、そこで知り合ったんです。初めはそれぞれがピンで活動してました。私の相方に対する第一印象は最悪で「こいつ、売れないな」って思ってました。 ――どう悪かったんですか? 中野 本当に寒かったんです。面白くなくて、イタい感じだったんで。同期で女の子は私たち2人だけだったんですけど、こいつとだけは絶対やりたくないなあと。どうせすぐ結婚して辞めるんだろうなあ、って思ってました。 橋本 めっちゃ言うやん!(笑)ピンで活動していたときは、同期で女の子が2人しかいなかったので、お互い意識はしていたんです。でも、中野さんのほうがライブに出てもウケるし、お客さんの投票でどんどん上の方のライブに昇格していって。私はずっとスベってたんで、そこは差がありました。 ――コンビを組もうと切り出したのはどちらからですか? 橋本 私からです。1人でやっててもらちが明かないので、「どうかコンビを組んでください、お願いします」って、土下座して。 中野 そのときに「なんでもするから」って言われたんですよ。それで「なんでもするなら組んでやるよ」って。いまだにその約束は続いてます。 橋本 いま一緒に住んでるんですけど、毎朝モーニングコーヒーを入れて起こしてあげたりとか、なんでも言うことを聞いて、中野さんの世話をしてます。 中野 パジャマののり付けまでさせてますから。 ――橋本さんとしては、そこまでしてでも組みたかった、と。 橋本 はい、私は中野さんがすごく面白いと思っていたので、この人の力を借りてなんとかやっていこう、って思いまして。 中野 私はこの人の我(が)を出さないようにして、一から作り上げていきました。この人が私のキャンバスなので。コンビを組んで育てていくのが楽しかったですね。 ――実際に組んでみてからはどうでしたか? 中野 本当に苦労しました。なんでも言うこと聞くって言ったのに何もできなくて。例えば、ボケとツッコミっていう役割があるのに、そんなにボケないし、かといってツッコミもできない。あと、買い物を頼んでも間違えたりとか。 ――別のものを買ってきちゃうとか? 中野 それもありますし、何を買うか忘れて「んあんだっけ?」って電話かかってきたり。 橋本 そうね、買い物に行っても中野さんに5回ぐらいは電話かけたりしてましたね。今はちゃんと学習をして、メモを取るっていうことを覚えたので。 ――取ってなかったんですね! 橋本 でも、私は私で、中野さんが人見知りで人付き合いが苦手っていうのはわかってるので、そこはがんばってフォローするようにしてます。この間、中野さんが先輩の長井秀和さんとしゃべっていて。人見知りすぎて何を話したらいいかわからなくて、血液型を聞いてましたから(笑)。 nihonele02.jpg ――コントの衣装と小道具へのこだわりが強くて、大量に持っているそうですね。 中野 はい、ネタで使ってない衣装も多いです。私たち、コントのネタは30本くらいしかないんですけど、衣装だけで300着ぐらいあります。そのために家を一軒借りました。あと、ガレージも借りたりして、そういうところにもお金がかかってます。 ――一度買ったものは捨てられない、っていう感じですか? 中野 そうですね、ゴミ屋敷です。 橋本 モノが多すぎて管理ができないのがつらいですね。本当はもっといっぱいいろいろ欲しいのに、どこにしまっていいかわからない。だから、コントで「これが欲しい」って思ったら、準備のために3時間ぐらい前から探し始めないといけないんです。 中野 一応、1つの部屋に3本物干し竿をかけて、そこに衣装がバーッとかけてあるんですけど、それでも足りなくて。メガネだけで50個ぐらいあったりして、それがいろんなところに散らばってます。 ――普段はどうやって衣装や小道具を探してるんですか? よく行く店とかありますか? 中野 あります。近所に行きつけの店が4つ。そのうちの1つのリサイクルショップはすごいですよ。今そこで狙ってるのが、でっかいお琴。ゴルフクラブが1本100円だったりとか、とにかく格安なんです。 橋本 あと、作業服・作業用品の専門店。あそこは楽しいですね。 中野 私たち、ルミネとか行って買い物するよりキャッキャ言ってますね。「ゴム手袋がある!」とか「どのヘルメットにしよう?」とか、そういうのが楽しいです。 橋本 「胸に差すボールペンは何色にする?」とか、いろいろアイデアが膨らんで2人でテンション上がっちゃいますね。あと、フリーマーケットとか骨董市は必ず調べて、時間があるときは遠出してでも行こうって決めていて。それと、市のリサイクルの掲示板みたいなのがあって、そこに「燕尾服譲ってください」っていうのは出してます。探してるんですよ、燕尾服。 中野 あと、十二単。 橋本 なかなかないんですよね。 ――でも、そういうやり方で衣装や小道具を買ったりしていると、さすがに出費がかさみそうですね。 中野 でも、見ちゃうと欲しくなるんです。「あのときあれを買ってなかったからこのネタができない」ってなる方が怖い。 橋本 その辺は2人で意見が一致していて、お金を惜しまず買うようにしてます。最近、こんな(両腕で抱えるくらいの)でっかい鈴が欲しいって言ってて。 中野 何に使うかっていうのは決めてないんですけど、でっかい鈴は探してます。 ――ご自分たちの普段着は買わないんですか? 中野 そうですね。相方は今年の夏、Tシャツ2枚だけで乗り切りました。 橋本 帰ったらすぐ洗って、干して。 中野 自分たちの服なんてもう何年も買ってないですね。興味がないわけじゃないんですけど、そのお金があるなら衣装を買いたい。 ――衣装と小道具にそこまでこだわるのはなぜですか? もともと買い物好きなんですか? 中野 いや、違います。コントのためです。女子だから、変身願望があるというか、違う人になれるのが楽しくて。アクセサリーとかまでこだわっちゃうんです。別の役なのに同じ衣装を着てるっていうのがすごく嫌で、変えちゃったりとかするんです。いろいろなネタをやるけど、メガネやネクタイも一度もカブってないです。そんなとこ誰も見てないんですけど。 nihonele03.jpg ――お2人がコントで演じるキャラは、しゃべり方などにもクセがあって、アクが強い人が多いですね。それはどうしてですか? 中野 最初はおとなしいんですけど、キャラを入れていくうちにだんだんおかしくなるんです。初めは普通だったのに、完成したら全然違う。 橋本 だんだん盛っていって、原型をとどめてない。最近はキャラを演じながら、お互いを笑わせようっていう感じでやってるので、楽しいですね。 中野 見ている人の中には原型の方が好きだったっていう人もいますね。最近はだんだんわけわからなくなってきて、抽象絵画みたいになってるので。 橋本 「最初こんなんだったっけ?」って言われます。 ――ネタはどうやって作ってるんですか? 中野 いろいろなパターンがあるんですけど、衣装を着て鏡の前に立って、さあ、何しよう、って考える場合もあります。あとは、街を歩いていて「あの人、やりたいなあ」って思いついたり。 橋本 ネタは全部中野が書いてるんですけど、「このせりふが言いたい」っていうところから作っていったネタもあります。 ――例えば? 中野 「政治家の愛人やるんだったら、本妻が訪ねてきたときにお茶出すぐらいの器量ってもんを持っときなさいよ」って啖呵(たんか)が切りたい、とか。私が政治家の妻という役柄でそのせりふを言いたくて、そこからネタを作ったりしましたね。 ――ネタの発想はどこから来ているんでしょうか? 橋本 ネタが始まって板付き(演者が舞台に立っている状態)で明転(舞台が明るくなること)したときに「こいつら何やるんだろう?」って思わせるようなことを考えます。 中野 一番最初の印象でウケないと最後までウケないんです。最初に明転したときに2人を見て笑いが起きたら、だいたい最後まで行ける。 ――ネタを見ているときのお客さんの反応はどうですか? 笑われる以外にもあります? 中野 悲鳴があがることもありますね。あと、「何やってんだ」という感じでにらみつけてくる人もいます。そういう反応には慣れてますけど。かといって、あまりに笑われるとこっちが戸惑うんです。笑ってくれるのはありがたいんですけど、自分たちも探り探りやってるので、ああ、こういうのがウケるんだ、とか思ったり。 ――最近はテレビに出る機会も増えてますね。 中野 本当にありがたいんですけど、「世も末だな」って思います(笑)。私たち、ずっと「何してるの?」って言われてきて、全然ウケなかったのに。だんだん認められて、ウケるようになってきて、ありがたいんですけど戸惑ってます。私たちにみんなが合ってきてるっていうのが今度は怖くなってきて。逃げなきゃ、って思いますね。 橋本 何が目的なの?(笑) ――今後の目標はありますか? 橋本 とにかくコントで認められたいっていうのがあるので、「コントが面白いやつといえば、日本エレキテル連合」とみんなに認識されるようになりたいです。 中野 コントでは「見た目が中身を邪魔しない」っていうのを目指してます。見た目も中身のディテールも両方成立してるのって、歌舞伎ぐらいだと思っていて。それをやっている芸人さんがほかにまだいないので、できるようになりたいです。 (取材・文=お笑い評論家・ラリー遠田/撮影=名鹿祥史) ●にほんえれきてるれんごう 橋本小雪と中野聡子からなるお笑いコンビ。2007年結成。 https://twitter.com/elekitel_denki http://ameblo.jp/elekitel/

「狙うはオネエハーフタレント枠」“オネエすぎる一流イケメンモデル” IVANって何者!?

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 毎回、大御所芸能人や文化人、一流スポーツ選手などが自らの過ちを告白し、悔い改める人気バラエティ番組『有吉反省会』(日本テレビ系)。これまでにも、さまざまな著名人が衝撃の告白を行い、話題を振りまいてきた同番組から、またニューカマーが誕生した。  パリコレ経験もある超一流トップモデル・IVAN(アイヴァン)が、オネエであることをカミングアウトしたのだ。スペインと日本人のハーフである父親とメキシコ人の母親を持つ、その端正な顔立ちと抜群のスタイルからは到底想像もつかないオネエしゃべりや仕草だけでも驚きだが、さらに番組内でぶっちゃけた“元彼”をめぐって、放送後はネット上がお祭り騒ぎに。“オネエハーフタレント枠”を狙うIVANとはいったい何者なのか、本人を直撃した。 ――こう見ると、本当に女性っぽいですね。 IVAN あはは。ありがとうございます。普段はだいたいこんな感じです♪ メンズの服着る時は男装だと思ってますから。 ――『有吉反省会』出演後の反響はいかがでしたか? 特に女性ウケがよかったみたいですが。 IVAN 想像以上に反響がありましたね。ブログのコメントもすごかったです。街を歩いてても、「有吉反省会?」ってひそひそ声が聞こえたり……。おかげさまで、その後も番組に呼んでいただいています。 ――オネエに目覚めたのは、いつ頃なんですか? IVAN 物心ついた時からですね。“なんで男の子の列に並んでいるんだろう”とか、プール入る時に“女の子はかわいい水着なのに、なんで自分はパンツなんだろう”みたいな違和感はありましたね。女の子として扱われたい、という思いが常にありました。 ――初恋も男性……? IVAN もちろんでございます! 同じ小学校だった、サッカー部のカワマタくん♪ 勉強はできるし、サッカー部のキャンプテンだし、学校のアイドルだったんです。私が彼のこと好きっていうのは友達伝いになんとなく広まっていたんですが、卒業式の時に名札もらったんです。こないだの同窓会で会うまで、ずっと好きでしたね。あんまり変わってなくて、やっぱり思い出って色褪せないからドキドキしちゃって……。まぁ、彼には奥さんも子どももいたんですけど。でも私、実は同窓会では一番モテたんです。「ちょっとホテル行こうよ」とか、「今日は俺がIVANを持って帰る!」とか(笑)。 ――女性と付き合ったことはあるんですか? IVAN カモフラージュとして、何人かありますよ。でも、大変でしたね。やっぱり最終的には友達みたいになっちゃうし、同性の感覚になっちゃうので、女の子に言い寄られても「ごめんね、あたしレズじゃないんだ」って。 ――チューとかエッチは? IVAN うふふふ……Bくらいは頑張ってするんですが、ビジネスみたいな感じ。抵抗はすごくありましたね。これが女にモテないオネエだったらいいんですけど、私モテちゃうの! ごめんなさい、自分で言っちゃって……。当たりが優しいから、中性的な人に見られちゃうみたいで。毎回、別れる時は結構大変でした。 ――『有吉反省会』では、俳優の鈴木亮平さんやサッカーの内田篤人選手、やり投げのディーン元気選手といった和風顔が好みだと言っていましたが、いま恋人は? IVAN いないです。仕事と事務所マネジャーさんたちが恋人です! ――アイドルみたいな発言ですね(笑)。そもそも、デビューのきっかけはなんだったんですか? IVAN 子どもの頃から子役のタレントアカデミーに入ったり、沖縄アクターズスクール(東京地区1期生)でレッスンを受けたりしていたんですが、本格的にお仕事として始めたのは18歳の時ですね。カリフォルニアの高校を卒業して、日本に帰ってきてすぐにスカウトされたんです。 ――モデル時代は、オネエってことを隠していたんですか?
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“男装”すると、こうなります。
IVAN はい、最初は言わなかったですね。男性モデルとしてお仕事いただいていたので、絶対オネエだなんて言えない雰囲気でした。 ――男性として誌面を飾るのに、抵抗なかったんですか? IVAN 自分が男だというのは中学校くらいの時に認めたことだし、“しょうがないな”“いつか体もちゃんと変えられればいいな”って思って生活していたので、そういった抵抗はなかったです。モデルで仕事ができるなら、これでやるしかない。男らしくしなくちゃ、って気が張っていましたね。 ――そんな中、カミングアウトしようと思ったきっかけは? IVAN ちょうど自分がモデルやってる時のファッションの流行が、グラムロックだったんですね。メイクしたり、髪の毛伸ばしたり。だんだん、自分のオネエの部分をポッケから出せるようになったんです。細いデニムにハイヒール履くとか。「よっしゃ、これこれ!」って。で、徐々にレディースのショーに出てみないかって話が来たり、そこから少しずつ扉が開けるようになりました。モデル業界では、みんな知ってたんじゃないかな。 ――IVANさんはわずか3年のモデル活動の中で、パリコレまで行っちゃったわけですが、トップモデル業界はオネエって多いんですか? IVAN う~ん、基本的には女好きな遊び人ばっかりですけど、バイセクシャルな人は多かったですね。私みたいに、あからさまにオネエオネエしている人はいなかったですけど、知ってるモデルの中にはちょこちょこいましたね。私が初めてお付き合いした男性も、モデルちゃんでした。 ――へぇー! 彼もバイだったんですか? IVAN 私もともと、付き合う男はみんなストレートな人なんです。ノンケ食いってやつです。ゲイの人とはぜんぜん付き合ったことがなくて、むしろモテない……。だいたい最初にモーションかけるとわかるんです。「この人、イケるかも」って。ダメそうだったらまったくアプローチしないし。イケそうな人にはガンガン行きますね。彼の場合も「これ、絶対食える」と思ってモーションかけたら、案の定、コロコロコロって……。そこで味占めましたね(笑)。 ――狙った獲物は、だいたい落とせる? IVAN はい、だいたい(笑)。気になった男性には、得意の腰フリダンスで迫ります♪ ――07年にはPENICILLINのHAKUEIさんプロデュースで歌手デビュー。グラムロック歌手としてご活躍され、その後、突然失踪。ホームレス生活を送っていたというウワサは本当ですか? IVAN はい。歌手活動は方向性が違ったり金銭トラブルがあって、ある日不満が爆発して、荷物まとめて、当時住んでいた事務所の寮から飛び出したんです。一度フェイドアウトしようと思って。今振り返ると、身勝手で申し訳ない気持ちでいっぱいなんですが。行く当てもなく、とりあえず隅田川のホームレスが集まっているところに行って「すいません、ホームレスになったんですけど、派閥があるみたいなんで、教えてください!」って弟子入りしたんです。そこでワンカップ飲みながら、いろいろ教えてもらって。  その後、一旦、兄の紹介で建築現場で働かせてもらったんですが、こんなだから「はぁ~~」とか言ってコンクリートパレットも持てないし、足場も「きゃ~!」って言いながら歩いてるし、無駄にデカいからヘルメットもゴンゴンぶつかるし。“もうダメだ、私どこで生きていけばいいんだろう”って……。で、再びホームレスに戻ったんです。それで今度は、新宿西口公園に行って。ブルーシートまではいきませんでしたけど、炊き出しもらって、そのへんで寝起きしてました。そんな生活が1カ月くらい続きましたね。 IMG_5890_.jpg ――そこからどう立ち直ったんですか? IVAN ちょうど母が海外からビザの申請で日本に来ていて(※IVANの母親はメキシコ人)、私がいなくなったって聞いて、あちこち探し回っていたみたいで。その頃、母の知人の家の近くの路上で寝泊まりしていたので、ばったり道端で再開して……。2人とも号泣でしたね。それで一緒に海外に行って、2年くらい生活していました。 ――やっぱり、ホームレスはつらかったですか? IVAN つらいというより、“ここまで落ちたか”という絶望のほうが大きかったです。モデル業界で頂点を見て、華やかなところにいて、着るものにも食べるものにも困らなくて。輝いている時って、周りってすごいんですよ。「姫、姫」ってもてはやされて、何をやってもOK。それとホームレスという境遇が本当に真逆すぎて……。モデル時代のいい思い出を思い出しながら、日々過ごしてました。フランス行った時に食べたクリームブリュレ思い浮かべながら、そのへんの草食べたり……。そこまで落ちたっていう自覚はあったので、あとは死ぬか上がるしかないと思っていました。絶望と希望の狭間って感じでしたね。もし母と会わなかったら二丁目で働いてるか、ヘタしたらホストになってたかも。 ――芸能界に戻ったワケは? IVAN やっぱり業界に未練があったので、最後のチャンスだと思って日本に帰ってきたんです。友達のカフェで働きながら基盤を作り、今の事務所を紹介してもらいました。今後はバラエティを中心に、とりあえず目の前にある仕事を一つひとつこなしていけたらなと思っています。将来的には、セルフプロデュースできるようになりたいですね。IVANというブランドを発信していきたいなって。それがどういう形になるか、まだわかりませんが。 ――マツコ・デラックスさん、IKKOさんをはじめとするオネエタレントの方たちとは交流があるんですか? IVAN いや、実はまだないんです。周りから派閥がすごいとか、あーだこーだ言われるので、ちょっと今から不安なんですけど……。先輩方、お手柔らかにお願いします! (取材・文=編集部) ●アイヴァン メキシコ人の母と、スペイン人と日本人のハーフの父を持つクォーター。メキシコ生まれ。2歳の時に奈良に移住。1998年に沖縄アクターズスクール東京地区第1期生に選ばれ、約1年間、歌やダンスのレッスンを受ける。その後渡米し、カリフォルニア州の高校に進学。卒業後帰国し、モデル活動を始める。04年にはパリコレのモデルに選ばれ、世界のトップモデルとしても活躍。07年からPENICILLINのヴォーカリストであるHAKUEIの全面プロデュースによる音楽活動も始める。 あいばんのオフィシャルブログ <http://ameblo.jp/ivan0209/> ●出演情報 ・11/1(金)発売 雑誌「月間デ・ビュー」(オリコン・エンタテインメント) ・11/3(日)OA 『行列のできる法律相談所 親泣かせな芸能人はじめての親孝行SP』『有吉反省会』(ともに日本テレビ系) ・11/12(火)OA 『今夜くらべてみました』(同)

「ムルギーランチは、ただの“料理”じゃない」東京カリ~番長が語る、ナイルレストランの美学

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左から3代目のナイル善己氏、水野仁輔氏。
 店のガラス戸を開けると、インド人の店員・ラジャンが大きな目でじろりとこちらを睨みつけてくる。メニューも見せず、「ムルギーランチでいい?」と一言。しばらくすると、チキンとキャベツ、ポテトがトッピングされたカレー「ムルギーランチ」が運ばれる。客の目の前でチキンから骨を抜き取り、お馴染みのフレーズ「カンペキに、混じぇて食べて」と言い残して去っていくラジャン。ウワサによれば、ここで、混ぜなければ怒られるらしい……。  「ナイルレストラン」は、おそらく日本で一番愛されているインド料理店だ。インド独立運動に携わっていた革命家であるA・M・ナイルが創業した日本初のインドレストラン。東銀座・昭和通り沿いに店を構え、歌舞伎座楽屋口の向かいにあることから、故・中村勘三郎をはじめ、数々の歌舞伎役者に愛されるばかりでなく、タモリや関根勤などの芸能人、また松竹や電通に勤めるビジネスマンにまで愛されている。  いったい、ナイルレストランは、ほかのインド料理店と何が異なっているのか? 「東京カリ~番長」としても活躍し、『銀座ナイルレストラン物語』(小学館)の著作がある水野仁輔氏に、そのナイル愛を聞いた! ――水野さんがナイルレストランに初めて入ったのは、いつ頃ですか? 水野仁輔氏(以下、水野) 大学生の頃だから、もう20年くらい前になります。カレーを食べ歩く中で、名店のひとつとして食べました。その頃は、創業者のA・M・ナイルさんが、お店に立っていたかいないかという時期。2代目のG・M・ナイルさんが店を切り盛りしていました。
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看板メニューのムルギーランチ
――当時、ムルギーランチを食べた感想は? 水野 ナイルレストランの看板メニューであるムルギーランチは、おいしいと思っていました。けれども、自分でカレーを作ったり、いろんな店に行ったりもしていますから、ムルギーランチよりもおいしいと思うカレーもいっぱいあって、ムルギーランチが一番、というわけではありませんでした。 ――決して「ムルギーランチ信者」というわけではなかった。ではなぜ、ナイルレストランに関する本を執筆するくらい、どっぷりと漬かってしまったんでしょうか? 水野 「カリ~番長」の活動を開始し、雑誌やガイド本などで文章を書く中で、「お店の常連に勝てないのではないか」というジレンマがありました。僕の記事を読んで「店のよさがわかっていない」と思う常連はきっといるはず。そこで、どこかの店舗の常連になり、常連がどういう気持ちでお店に通うのかを知りたかった。それを踏まえれば、また別の文章が書けると思ったんです。そこで、ナイルレストランの常連になろうと思った。  ナイルレストランは1949年に創業した日本で最も古いインド料理店ですから、常連になる価値はあります。何十回も通って、顔を覚えてもらい、声をかけてもらえるようになり、ようやく名前を呼んでもらうところまで行き着きました。初めて店主のG・Mナイルさんから「水野くん」と呼んでもらったときは、うれしかったですね。 ――常連になると、味も変わってくるのでしょうか? 水野 常連になることによって、ムルギーランチが別物のカレーになりました。 ――「別物」……というと? 水野 それまではムルギーランチを料理として客観的に分析していましたが、常連になってからはただの「料理」としては味わえなくなった。店に入り、ナイルさんやラジャンと言葉を交わし、2階に上がって、ハーフライスのムルギーランチを食べる。それらの一連を含めた主観的な「体験」がナイルレストランです。客観的な評価はできません。 DSC_0333xx.jpg ――客観から主観へ。ある意味、「お袋の味が最高」という感覚に近いものがありますね。 水野 そうですね。例えば、初めて来た人が口コミサイトで星をつけるのも指標として意味があるものですが、食べる楽しみは決してそれだけではない。「いつもとちょっと味が違う」「シェフが挨拶してくれた」というような体験を含めて、常連客は楽しんでいるんです。それが味に直結し、お店を楽しむことにつながります。 ――確かに、「料理以外の楽しみ方」は、特にメディアにいると見落としがちになってしまいます。 水野 味覚は好みの問題で十人十色。一人の人間の中でも、時期によっておいしいと感じる味は違います。店で提供されるカレーを楽しむだけでは、受動的な楽しみ方にすぎません。料理をもっと「能動的に食べる」ということをナイルレストランに教わりました。  もしも、料理が口に合わなかったら、もしかしたら自分の努力が足りないのかもしれません。もう少し努力してお店との関係を築けば、より料理がおいしくなるかもしれない。人間関係でもそうですよね。嫌いだと思っていた人でも、意外な発見でいい奴になることもあります。以前は、そういう向き合い方で、カレーに向き合ってこなかったんです。 ――数多くの人が、水野さんのように、「ナイルレストランは特別だ」と語ります。では、いったい、どうしてナイルレストランだけが特別なインド料理店になり得たのでしょうか? 水野 店主のG・M・ナイルさんが、誰よりもこの店とこの味を愛しています。それが最大の理由でしょうね。取材では、何時間も自慢話が続くことがある。でもそれは、自慢じゃなくて自信なんですね。以前、ナイルさんは「自分の店で作った料理に絶対的な自信を持って出す。『お口に合うかわからないけど……』なんていうスタンスで出すなら、店なんてやらないほうがいい」と熱弁していました。ナイルさんは誰よりもナイルレストランを愛し、ムルギーランチが日本一だと思っています。 ――創業者のA・M・ナイルさんから2代目のG・M・ナイルさんに代わっても、ムルギーランチの味はまったく変わっていません。それも自信の証しでしょうね。 水野 そうですね。それにナイルさんは、クレバーな経営者でもあるんです。代々のレシピを変えないことがブランディングにつながる、ということを見抜いています。ナイルさんは「預金通帳の金額が増えるのが楽しみ」と語るんです。普通、そんなことを取材であっけらかんと語る人はなかなかいませんよ(笑)。 ――その自信が嫌みにならないのも、ナイルさんの明るいキャラクターがあって成立するものですね。 水野 本を執筆するにあたって、常連客に「ムルギーランチのどこがおいしいのか?」という質問をぶつけました。少し意地悪な質問ですが、すると、みんなきょとんとするんです。質問の意味もわからないくらい、常連客にとって、ムルギーランチがおいしいというのは当然のことなんです。 ――すっかりみんな「ムルギーランチ信者」なんですね。水野さんは、今後、ナイルレストランにはどうなってほしいですか? 水野 常連として100周年を祝いたいですね。50周年の時はホテルでパーティをしたそうですが、100周年パーティには参加したいです。あと35年です。その頃には、僕もムルギーランチを食べられないかもしれませんが、まだ70代なのでぎりぎり生きていると思います(笑)。 ――その頃には、3代目のナイル善己さんも70歳を超えています。100周年を迎えるためには、4代目の育成が必須です。 水野 大丈夫。誰も後継者がいないならば、僕が必ず見つけてきます! (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●みずの・じんすけ 1974年、静岡生まれ。99年に結成した男性8人組の出張料理集団「東京カリ~番長」の調理主任。全国各地のさまざまなイベントに出張して、テーマに合わせたカレーと音楽を提供している。2008年にインド・スパイス料理を研究する男性4人組の日印混合料理集団「東京スパイス番長」を結成。編集長としてカレー本の制作に没頭している。カレーに関する著書は15冊以上。

尾崎豊、BOOWY、ブルーハーツが豪雨の中で競演! 地獄の第1回フジロックよりヒドい、史上最低のロックフェス

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(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会
 その場にいる7万2000人が、ほとんど遭難同然。断続的に降りしきる雨は誰しもの身体を芯から冷やし、体力と気力を奪っていく。観客にはサンダル履きやTシャツ程度の軽装も目につく。緑の傾斜の上からはとめどなく泥水が流れ、それがスタッフルームにまで押し寄せる。強い風雨の前には、持参した傘もロクに役に立たない。近隣の学校の体育館には、体調を崩した500人が緊急搬送されたという。  しかし、出演者には当時を代表するロック・アーティストがズラリ。尾崎豊、BOOWY、佐野元春、HOUND DOG、RED WARRIORS……それにTHE BLUE HEARTSに、岡村靖幸も。天国と地獄が背中合わせのまま、夜通しで続いた12時間の宴。1987年8月22日に阿蘇のふもとで行われたこの野外音楽フェスティバル<BEATCHILD>を映画化したのが『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』である。 「記憶のある部分と、まったく忘れている部分と、ありましたね。まるで失った記憶を取り戻すような感じで見ていましたけど……見終わった印象は、いろんな意味で<すごいな>ということでした」
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上から佐野元春、尾崎豊、THE BLUE HEARTS
(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会
 感慨深そうに語るのは、当日の出演者のひとりだった白井貴子。80年代屈指の女性ロック・ヴォーカリストであった彼女は、このフェス<BEATCHILD>の前半でステージに立った。朝から昼にかけて強風や豪雨に見舞われた会場は、夕刻の開演時からは小雨程度に落ち着いていたのだが、白井の出番直前からドシャ降りになってしまう。すでに濡れネズミの観客たちをさらにビショビショにしていく雨は舞台上にも機材関係の混乱を引き起こし、スタッフたちはてんやわんや。白井はそんな極限状態でマイクに向かわなければならなかった。カメラが収めた舞台袖で待機する彼女の横顔は、明らかに脅えている。 「やっぱり不安でしたね。あの時は、来てくれた人を守ってあげたい、雨の当たらない、暖かいところに連れていってあげたいという気持ちと、いやいや違う、こんな豪雨を克服するライヴをすべきなんだと思う自分とがありました。あともうひとりの自分は<誰か中止って言ってくれないかな>と思ってましたね。どんなライヴができるだろう? という不安もあったし……いろんなものが相まって、あんな顔になっちゃったんだと思います。でも映像を見ると、意外と朗らかに歌っていたので、うわぁよかった、と思いました(笑)」  とはいえ、映像で確認する限りでも、尋常でない状況は伝わってくる。ステージ上は屋根もないので、豪雨はすべて白井とバンドの上に直接降り注ぐ。そのため、すぐにギターの音が出なくなるトラブルが発生、バンドはドラムセットの上に急遽組まれたテントの下で演奏することになる。さらに強まる雨の中では、感電の恐怖だってあっただろう。それでも気丈にパフォーマンスを続ける白井は、どうにか観客の頑張りに応えようと、バケツの水をかぶったりする。 「目の前からバンドメンバーがひとり消え、またひとり消え、最後にはモニターもなくなりました。ひどい状況は慣れっこでしたけど、あそこまでひどいことはなかったですね。特に私の時は豪雨だったし……こんな状況だから<もう裸一貫、やるしかない>という思いでした。あの大変な中、ファンの人たちはじっとこらえて私たちを待ち続けてくれたし、ライヴを成立させるために裏方スタッフは死にもの狂いで動いてくれていたわけですからね。舞台に飛び出してからは、やめようとは、これっぽっちも思わなかったです。アンプもダメになったけど、よそのバンドのを借りてきてくれて、音が出るようになったし。あの時のファンの人とスタッフには、頭が上がらないです」
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撮影=後藤秀二
 映画では、このあとも悪条件下でのパフォーマンスが続いていく。BOOWYのギタリスト・布袋寅泰は立てていた髪が、豪雨で見事にズタズタ。それでもギターをかき鳴らす。尾崎豊は渾身の歌の中で、ステージの床にキスをしている。スタッフの決死の尽力のおかげか、音響面でのトラブルはかなりの部分で対応されていったようだ。それについて、白井が微笑みながら語る。 「私、ロック業界では、特に女の子に関しては<線路引き>だと言われてたんですよ。それである人が『この時の天候や出演順が神の配剤のようだった』とおっしゃったんですけど、すごく言い当ててるなと思いましたね。線路引きの私の時は豪雨になって、それが(渡辺)美里ちゃんの頃からは雨がやみ始め、トリの佐野(元春)さんの時には、みんな晴れ晴れとした笑顔になって(笑)。朝日も上がる中<SOMEDAY>が響き渡って……すごいなって思いました」  こうしてフェスは、そして映画は感動的なクライマックスに向かっていく。ただ、映画の観覧に際しては、当時の時代状況を踏まえておいたほうが、理解と認識をより深められるはずだ。  まず感じるのが、当時のフェス文化がいかに未成熟だったかということ。もっとも80年代には「フェス」という呼び名自体がなく、音楽ファン全般のそれに対する思い入れも今ほど強いものではなかった。ちなみに映画のキャッチコピーは「史上最低で、最高のロックフェス」だが、劇中で「フェス」という呼び方は一度もされていない。代わりに場内アナウンスで「ロック・イベント」と言われるシーンがある。
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豪雨の中で歌う、白井貴子。
(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会
 そしてこの頃は主催者も参加者も、さまざまな面で意識が浅かったのだろう。冒頭で書いたように、観客の多くは軽装で、傘を使用。あらかじめ荒天が予想される可能性があれば、今であれば主催者側は来場者に注意を促す告知をするものだが、そうした動きもなかったようだ。そして映画のナレーションの中には「中止はありえない」というひとことがある。こんなにまで過酷な状況になっても開催を強行するしかないイベントだったということ自体が、今では考えられないし、ありえない。 「なんで中止にしなかったかは諸説あるんですよ。まずは3万人のはずが、7万2000人という予想を上回る数のお客さんが来てしまったこと。あとはオールナイトだから(客を輸送する)バスの運転手さんは熊本市内に戻ってしまって、朝まで戻ってこない。携帯電話もない時代だから、深夜には連絡も取れないんです。それに、仮にお客さんが市内に戻ったとしても泊まるところもないから、ここにいてもらうしかない。今なら考えられないですよね」  ほかにも、これも現在では通例になっているタイムテーブルの発表が行われておらず、観客は次に誰が出てくるのかを知らずに、お目当てのバンドをひたすら待つしかなかった。とはいえ、これは当時のイベント文化がそうしたもので、タイムテーブルを客側に伝えておくという常識自体がなかったためだ。現に、富士の天神山で行われた第1回目のFUJI ROCK FESTIVALでも、タイムテーブルは事前にしっかりとした形で観客に周知されていなかった。  そう、この映画を見て多くの人が連想するのが、やはり悪天候に見舞われ、2日間のうちの1日が中止になった初回のFUJI ROCKのことだろう。その開催は、このBEATCHILDのちょうど10年後である1997年のこと。思えばFUJI ROCKはその初回の反省があるからこそ、第2回以降から今に至るまで、日本の音楽フェスを牽引する存在となっていけたわけだが……。ひとつ感じるのは、このBEATCHILDの失敗をちゃんと踏まえていれば、日本のフェス文化はもっと早く定着し、FUJI ROCKの苦々しい第1回目もなかったのではないかということ。それだけBEATCHILDのことは当時あまり報道されなかった。筆者もこのイベントの惨状は時々話に聞く程度で、現実的にどれだけひどい状況だったかを伝えたメディアは極めて少なかったと記憶している。 IMG_7603.jpg 「いや、メディアの方々もBEATCHILDのことは知っていたし、取材にも来てたんだけど、みんな雨でカメラがダメになったり、ライヴを1本(1アーティスト)撮ってしまったら仕事終わり、みたいな感じだったんです。豪雨に恐れおののいて、帰ってしまったんですね。それに人って、すごいショックなことがあると口をつぐんでしまうじゃないですか。あの時は、みんながそうだったんじゃないかと思いますね。だけど今こういうことがあったら、すぐにネットに載って、誹謗中傷が始まったり、重箱の隅をつつくような状態になりかねない。でもBEATCHILDは幸か不幸かそんな状況にさらされることもなく、封印され、守られ、タイムカプセルに入った状態で、こうして映画になったんだと思います」  ところで、この映画で違和感を覚えるのはナレーションだ。これは制作サイドの意図なのだろうが、26年前の映像に、やれロックの魂だとか7万2000人の思いがどうとか、クサすぎるほどの美辞麗句を乗せているのが、どうにも引っかかるのである(監督は、数々のCMや、音楽畑ではビデオクリップやドキュメンタリーなどの秀逸な作品を残してきた佐藤輝)。何しろ実際の現場は、どう見てもロックとか魂どころではない過酷さで、それを今の視点でヘンに美化しているように思えて仕方がない。もっともあの頃の音楽シーンにそうした過剰な熱意があったのは確かだし、それを持つ人間たちがいたからこそ、こうした無謀な状況での一大イベントが奇跡的に完遂されたのだとも思うのだが。 「<ロックは心構えだ>みたいなセリフがあって、私もすごいなと思いました(笑)。あの信じがたい状況と、しかも26年も前、重さあっての言葉だと。私のパートでは、舞台からバンドのメンバーもモニターさえも何もなくなっても歌ったことを今回の制作スタッフにお伝えし、その状況を伝えるコメントを付け加えていただきました」  ともかく、80年代後半のメジャーなロック・シーンの一断面がこの映画にあることは間違いない。イベントの序盤に登場するTHE BLUE HEARTSや岡村靖幸はオーディエンスにまだ完全に認知されていない初期のライヴだし、今では音楽以外の場で見かけることも多いDIAMOND☆YUKAIが艶やかにシャウトするRED WARRIORS、雨に濡れてもクールなTHE STREET SLIDERS、翌年に解散するBOOWYといったバンドの演奏シーンには圧倒される。DVD化される予定のない本作品を見に映画館に足を運ぶメイン層は年配の音楽ファンであろうが、若い人たちでもなにがしかの感慨を覚えるのではないだろうか。 「私は今あらためて、あの時来てくれた7万2000人の方に、感謝の気持ちでいっぱいです。それは多くのアーティストが同じ気持ちだと思います。会場周辺の学校の子どもたちにはBEATCHILDに行かないように指導があったそうですし、とにかくあの場所にいてくれたみんな、そしてライブを見たくても寒さに倒れ、見られなくて悔しい思いをした人にも、ぜひ見てもらいたいですね」 (取材・文=青木優) ●『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』 監督/佐藤輝 音楽監督/佐久間正英 出演/THE BLUE HEARTS、RED WARRIORS、岡村靖幸、白井貴子、HOUND DOG、BOOWY、THE STREET SLIDERS、尾崎豊、渡辺美里、佐野元春(出演順) 配給/ライブ・ビューイング・ジャパン、マイシアター 10月26日(土)よりイオンシネマ、TOHOシネマズ、Tジョイほか全国ロードショー (c)BEATCHILD1987製作委員会 <http://www.beatchild.jp>

「漫才とは、2人の掛け合い……じゃなかった!?」まったく新しい漫才コンビ・ウエストランドに迫る

westland01.jpg  漫才は時代と共に進化する。その進化の最前線にいるのがウエストランドの2人だ。ボケの河本太が一言つぶやくたびに、ツッコミの井口浩之が早口で長々と言葉を浴びせていく。「漫才は2人の言葉の掛け合いである」という定説を覆す、1:100の一方的なやりとり。この斬新なスタイルが評価されて、『THE MANZAI』では2年連続で認定漫才師に選出。今年4月には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の準レギュラーにも抜擢された。新世代漫才師の代表である2人に、話を聞いた。 ――10月23日にお2人にとって初めてのDVD『漫才商店街』が発売されます。ここに収録するネタは、どうやって選ばれたんですか? 井口 まあ、最近やってる長いツッコミのやつと、そうなる前の昔のネタ。それも入れないと、見る方も疲れちゃうと思うんで。こいつに聞いたら「なんでもいい」って言ったから、じゃあこっちで決めようと。 河本 そうですね。僕はDVDのタイトルすら知らなかったです。収録の当日に聞きました。 ――収録では、河本さんがミスを連発していたそうですが。 井口 本当にそうですよ。できあがったDVDをチェックしたら、9本中7本はミスってましたから。せりふが出てこないとか、ありとあらゆるミスをしてますよ。その辺も楽しんでもらえることを祈るしかないですね。 ――では、このDVDの収録以外でもミスをすることが多いんでしょうか? 井口 そうですよ、ミスしかしてないです。『オンバト+』(NHK)でも、ミスしたままオンエアを勝ち取ったこともありますし。「今日、牛丼屋……じゃなかった、ファーストフードの店員やりたいんだけど」って。芸人が「じゃなかった」って言います!? もともとめちゃくちゃな漫才なので、僕らだから許された、みたいなところもありますけどね。 河本 最近、特に(ミスが)多いですね。2回に1回ぐらいは間違えます。 ――それは、ご自分ではどうしてだと思われますか? 河本 ……待ってる時間が長くて。 井口 いや、あれは待ってる時間じゃないんだよ。 河本 次のせりふまでの間に違うことを考えちゃうんですよ。 井口 でも、最初のせりふでいきなり間違えることもありますからね。こいつは、とにかく余裕ぶっこくんですよ。DVD収録のときも、後輩が見に来てたから格好つけてネタの練習をしないんですよ。それで本番でミスる。舞台袖に来て出番直前になってから、事の重大性に気付いて震え出すんですよ。『THE MANZAI』の予選のときもそうでした。 ――昔のネタをやってみた感想は? 井口 楽しかったですね。DVDの収録がなかったら、一生やらなかったかもしれないので。思い出す、いいきっかけになりました。 westland04.jpg ――河本さんも、昔のネタでは結構しゃべってますよね。 河本 楽しかったですけど、ずっとラクしてきたので、昔のネタやるのか、みたいないらだちはあります。仕事増やされた感が。 井口 最低の人間だな! ――井口さんが長いツッコミをする、今の漫才が生まれたきっかけは? 井口 昨年の元旦の『新春レッドカーペット』(フジテレビ系)のオーディションのときですね。僕らはそれまで、民放の番組のオーディションは全部落ちてたんです。「特徴がないからダメだよ」って言われていて。それでもうやけくそになって、ネタ考えずにアドリブで、1個だけボケて長くつっこむみたいなのを悪ふざけでやったんです。それがたまたま引っかかって番組にも出していただいたので、味をしめて、これはいけるわ、って。 ――そのスタイルが、お2人には合ってる感じがしますね。 井口 そうですね。前の形で普通に漫才やってるときにも、もともとツッコミが長かったんですよ。台本では一言なのに延々とつっこんだりしてたので。あと、こいつが2行以上のせりふをしゃべれないっていう、特殊な病気で。 ――覚えられないんですか? 河本 はい、覚えられない。 井口 すごいできないやつなんですよ、信じられないくらいに。そういう意味では、今の漫才の形は合ってたんでしょうね。 河本 楽ですよ、すごく。でも、今はそれに慣れすぎてそれが普通になってるので、これ以上増やされると、ちょっとイラッとしますね。 westland03.jpg ――もともと井口さんは目立ちたがり屋で、たくさんしゃべりたいタイプなんですよね。 井口 そうですね、無理してないですから。こいつがしゃべり出すのは、本当に嫌ですね。2人とも楽屋のテンションのままって感じなので。漫才は、そのほうがいいのかなっていうのがあります。そういう意味では、こいつができなくてよかったのかもしれないですね。普通の漫才ができなさすぎてこうなりましたから。落第生の究極形というか、落第しすぎていいことになったのかも。 ――そのせいで誰も見たことがない漫才が生まれた、と。 井口 だからおそらく、こいつほどできない人はいないんでしょうね。みんなもう少しできるんでしょうね。 ――河本さんは、これだけ「できない」と言われても全然悔しがらないですね。 河本 悔しくはないですね。お笑いにまったくプライドがないので。よほどのことがないと怒らないです。 井口 ヘタに何か言ってくるよりは、僕としてはやりやすいです。 westland02.jpg ――井口さんは最近の若手芸人の中では珍しく、バラエティ番組などでも積極的に前に出ていきますね。 井口 そうですね。あとから考えると怖いんですけど、その瞬間は目立ちたいと思ってるだけです。 ――河本さんは中学時代から井口さんを見てきていると思うんですが、その頃から目立ちたがり屋なところはあったんでしょうか? 河本 性格は……リーダーですよね。実は気が強いし、すごく真面目。なんでもちゃんとしてないとダメなところがあって。 井口 前に出る話と全然関係ねえよ! 河本 自分が全部把握していないといけないタイプで。時間にも厳しくて、ちゃんと時間通りじゃないといけないんです。 井口 だから、前に出る話はどうなったんだよ! 質問に対する受け答えじゃないだろ。 河本 ああ、目立ちたがり屋でした。 井口 無理くり着地したな! ――井口さんはこれだけ背が低いのに、周りから「かわいい」とはあんまり思われていないみたいですよね。 河本 そうなんですよ。 井口 「何くそ感」が出ちゃってるんでしょうかね。モテない、人気ない、お金ない、っていうのがあって。そういうことで「何くそ」って思ってないと力が出ないタイプなので。 ――『いいとも』の準レギュラーでありながら、今もアルバイトをされてるそうですね。 井口 はい、今テレビに出るギャラだけじゃ食っていけないですから。お金がない分、頑張るしかない。僕らはどこに行っても常にアウェーですからね。何を言ってもウケるようなところでやったことがないんで、そういう意味では頑張れますよ。 ――事務所の先輩である爆笑問題のお2人から、何か言われたりすることはありますか? 井口 お2人ともすごく優しいですね。太田(光)さんは、僕らがやってるようなめちゃくちゃなネタもいいって言ってくれてるし、こいつが「せりふ間違えちゃってすいません」って言ったら、「別にいいんだよ、お前がどんどん間違えて、井口が慌ててるのが面白いんだから」って。 河本 太田さんには「あんまり練習するな」って言われました。 井口 「予定調和になると面白くないから、何も考えずにやれ」って。そうやって節々でありがたいことを言っていただけるので、うれしくなりますね。ほかに誰に何を言われてもいいや、っていうふうにプラスに捉えられますから。 ――今後の夢は? 井口 人気番組には普通に出たいですし、王道を行きたいですね。でも、やっているうちにまた、これもできない、あれもできない、っていうふうになって変わっていくかもしれないですけどね。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田/撮影=名鹿祥史) ●うえすとらんど 井口浩之、河本太からなるお笑いコンビ。2008年結成。 <http://ameblo.jp/westland-iguchi/> <https://twitter.com/westiguchi>

武田鉄矢が語る、ユニークすぎるアジア文化論『101回目のプロポーズ』が愛される理由とは?

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劇場版『101回目のプロポーズ~SAY YES~』に20年後の星野達郎として出演した武田鉄矢。単なるカメオ出演ではなく、鉄矢節で盛り上げている。
 「僕は死にませ~ん!」 武田鉄矢が浅野温子に向かって叫ぶ名ゼリフで知られる『101回目のプロポーズ』(1991年/フジテレビ系)は、テレビ史に残る人気ドラマとして語り継がれている。平均視聴率23.6%、最高視聴率36.7%を記録した一方、「リアリティーがない」「家族背景が描かれていない」といった辛口の批評も当時トレンディードラマを連発していたフジテレビには向けられていた。ところが、だ。このリアリティーのなさが『101回』伝説を海外へと広めることになった。台湾、香港、韓国などで『101回』は度々オンエアされ、2003年にはチェ・ジウ主演の中韓合作によるリメイク版が作られるなど大人気を博した。家族のしがらみに縛られることのない主人公たちの自由な恋愛観が、自由化・民主化が進みつつあったアジア各国で支持されたのだ。  さらに時間が流れ、『101回』に胸を躍らせた若い世代から映像クリエイターたちが育った2013年、上海を舞台にした劇場版『101回目のプロポーズ~SAY YES~』が完成した。全12話あったオリジナル版のエッセンスを106分に凝縮したこの劇場版は、中国で観客動員660万人を越える大ヒットに。そして10月19日(土)より日本での“里帰り”公開が決まった。フジテレビでの放送から22年が経過した今も、『101回』がアジアでこれだけ根強く愛されているのは何故か? オリジナル版で主人公・星野達郎を演じ、劇場版でも若い主人公たちの背中を押すキーマンを演じた武田鉄矢“先生”にご登場願おう。 ──劇場版『101回目のプロポーズ~SAY YES~』は今年2月に中国で公開され、660万人動員、興収30億円の大ヒット。オリジナル版と劇場版に出演された武田さんは人気の秘密をどう見ていますか? 武田鉄矢(以下、武田) フジテレビのえらい人たちをそこに並べてさ、説教せんといかんよね(笑)。「作るんだったら、こんなドラマを作れよ」とね。『101回』はそれこそアジア的な大ヒットドラマになったわけでしょ? なぜヒットしたのか、テレビ局とあろうものがちゃんと分析しないでどうするの。捜査線ばっかり張ってないでさ(笑)。でも、そういうことでしょ。捜査線が他の国には広まらないということは、捜査事情は国によって異なるということですよね。その点、『101回』は非常にアジア的だった。例えるなら麺類みたいなものじゃないかな。同じ麺類でも、ベトナムではフォー、日本では冷やし中華、北朝鮮では冷麺……と麺と具材の組み合わせ方で、いろんな麺料理が根づいている。
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中国とフジテレビとの合作による『101回目のプロポーズ~SAY YES~』。バブルに湧く上海を舞台に新たな純愛ストーリーが繰り広げられる。
──『101回』は国境を越えて愛されるテイストだったわけですね。 武田 そうだと思うなぁ。よくシコシコ麺だとか喉ごしツルツルだとか麺類が好きな人はこだわるよね。歯ごたえや喉ごしって、実は英訳できないんだってね。麺をすする楽しさ、味わいっていうのはアジア人特有のものらしい。自分が出演し、好評だったこともあり、『101回』のことを僕は愛しているわけだけど、あのドラマは麺類が愛されるのと同じようにアジア中に広まったんじゃないかなぁ。ミャンマーでは視聴率90%だったらしいよ。といってもテレビを持っている人は1000人にひとりの割合らしいけどね(笑)。でもなぜ、こうもアジア一帯で『101回』は人気を得たのか。わかり易い言葉にすれば、それは“格差”ですよ。 ■男女にとっての究極の恋愛ドラマ、それは“異類婚”! ──90年代に純愛ブームを呼び起こした『101回』のテーマは“格差”だった? 武田 僕みたいな男が、浅野温子みたいなイイ女に恋をする。その設定はまさにノンリアリティーなんだけど、僕も浅野温子も懸命に演じたわけです。格差という言葉は冷たく感じるけど、恋愛ってそもそも格差じゃないかな。格差のない恋愛って、つまんないですよ。同じ価値観を持つ男女がお友達感覚でくっついても、簡単に別れちゃう。芸能人でも多いでしょ、そういうカップル。つまりね、男と女って違う世界に住んでいるからこそ、激しく恋が燃え上がるわけです。日本のおとぎ噺は、そんな男女の話ばっかりじゃないですか。絶世の美女にある男が恋をするけど、その美女は実は雪女だったとかね。よくできた女房は本当は鶴だったとか、平凡な男が天女に恋をしてしまうとか。遠野には娘が馬と結ばれた逸話が残されているし、日本書紀や古事記では蛇が嫁をもらうわけです。昔話の世界は格差なんて生易しいもんじゃない、人間という種を越えて異類と恋におちてしまう。異類婚の伝説は日本だけじゃなくて、アジア各地に残っている。自分とはまるで違うものに魅了されるという面白さ、激しさが一種のアジアンテイストなのかなぁ。 ──なんと、『101回』は現代の異類婚ですか!? 武田 『101回』が人気を集めた国を見てみると、まぁ異類とは言わないけど格差がある社会ですよ。香港で『101回』がリメイクされたときは、韓国の大スター、チェ・ジウが矢吹薫役でなくてはダメだったわけです。そんな大スターに、中国から出稼ぎにきた男が恋をしてしまうというね。格差を乗り越えて、手の届かない存在に恋をする。それが『101回』の面白さじゃないかな。 ──『レッドクリフ』(08)にも出演した台湾の誇る美人女優リン・チーリンが、劇場版『101回』のヒロインに。まさに適役ですね。
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『お~い!竜馬』の原作者でもある武田鉄矢。「心の師」と仰ぐ坂本竜馬についても熱く語ってくれた。悩んだときは心の中の竜馬に相談するそうだ。
武田 上海ロケで本物に会ったけどさ、本当に腰を抜かしそうなくらいのベッピンさん。ヒール履いたら180センチくらいあるから、僕なんか軽く見下ろされてしまう(笑)。見るからに台湾の財閥のお嬢さんって感じ。実際に政治家の娘さんなんだってね。そんな育ちのいい美女に、いかにもチンタオから上海に出てきましたといった風情のホアン・ボーくんが恋をしてしまう。ホアンくんは志村けんさんの若い頃みたいな雰囲気なんだけど、どう見ても地方出身の労働者顔ですよ。汗まみれで働く男が、絶世の美女と出会い、どうしようもなく恋におちてしまう。そこが国境を越えて、アジア中で愛された要因じゃないかなと僕は思うよ。 ──劇場版『101回』はオリジナル版に対するリスペクト感がハンパない。しかも現代の上海で経済格差が生じていることにも触れている理想的なリメイク作品に仕上がっていました。 武田 レスト・チェン監督は台湾出身で、高校生の頃にオリジナル版を見ていてくれたらしいね。「お前、饅頭の食い過ぎだぞ」って言いたくなるような顔なんだけど、すごくシャープな感覚の持ち主。でも、可哀想に周りから「武田鉄矢って、すぐ説教したがる面倒くさい俳優らしいぞ。お前に演出できるのか」みたいに冗談半分で吹き込まれたみたいで、撮影現場で全然近寄ってこないんだよ(苦笑)。離れたところから、「じゃあ、お願いします」って言うだけなの。主演のふたりは逆にすごく熱くて、僕ともっと絡むことで『101回』をただの恋愛ドラマよりもっと深いものにしたいという熱意がすごく伝わってきた。こういう風にこれからも若い人たちが作る作品のお役に立てればいいなぁと思いましたね。まぁ、もうちょっと若ければ、チーリンさんにちょっかい出してたかも知れないけど(笑)。 ■“国家”よりも“地域”で物事は考えたほうがいい ──上海というと、『お~い!竜馬』の原作者である武田鉄矢さんにとっては感慨深い地ですよね? 武田 そうなんだよ、『お~い!竜馬』では坂本竜馬が唯一踏んだ海外の地が上海なんだよね。これはまったく史実を無視したフィクションではなく、ちゃんと長州藩に記録が残っているんです。竜馬が土佐藩を脱藩してから徳島までの足取りは分かっているけど、江戸に行くまでの半年間ほど空白期間がある。それもあって、竜馬は上海で高杉晋作に出会うというストーリーを僕は考えたんです。長州藩の記録に高杉晋作が上海に行った記録があって、最後のほうに竜馬の名前も入っているんです。現実的には竜馬が上海に渡航したことは考えにくくて、明治時代になって誰かが手を加えたのではないかと言われているんだけどね。でも、高杉晋作ら幕末の志士たちが上海に足を運んだのは事実。この地で「幕府を倒さないと日本に未来はない」と考えたんだなぁと、そのことは思いましたねぇ。
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町工場を営むホアン・ダー(ホアン・ボー)とチェリストのイエ・シュン(リン・チーリン)の恋を日本から来た星野達郎(武田鉄矢)が励ますことに。
──カンフー映画へのオマージュを込めた『刑事物語』(82)にも主演していますし、中華圏の映画とは縁がありますね。 武田 うん、まだ中国が貧しかった頃は東宝が無料上映をやっていて、『刑事物語』もそのときに上映されていた映画の一本だったんです。『刑事物語』の僕の役名は「片山」だったんだけど、「ペイシャン、ペイシャン」って中国の街を歩くとよく声を掛けられたなぁ。ウイグル自治区に行ったら、取り囲まれるほどの人気でした。「よーし、高倉健までもう少しだ」と思ったんだけど、『刑事物語』に続くヒットが出なかった(苦笑)。今回、リン・チーリンさんたちが熱心に演技に打ち込んでいる現場に一緒にいて、とても楽しかったですよ。今、日本は中国や韓国とうまくいってないけれど、何だか国家、カントリーってさ、つまんないもんだよねぇ。国じゃなくて、アジアってエリアで物事を考えたほうが楽しいし、うまくいくよね。『101回』がさ、アジア中で愛されているのを見るとね。 ──人が人を愛する力は、政治や経済問題を軽く飛び越えてしまう? 武田 僕はそう思うなぁ。政治や経済なんて、大して面白いもんじゃないですよ。第一、政治や経済の問題で、トラックの前に飛び出そうなんて考えないでしょ? みんなさ、最近はポリティカルになり過ぎなんじゃないかな。アジアの人間を国境で分けてもあまり意味がないように思うんです。シルクロード寄りの山岳民族ですとか、椰子の実を拾って食べてる海人族ですとか、そういうざっくりした分け方でいいんじゃないかなぁ。アジアの歴史に関する本をいろいろ読んできたんだけど、中国という大きな国がユーラシア大陸には昔からドンとあって、中国で政治に飽き飽きとした人たちが逃げてきた先が日本なんじゃないかと思うことがあるんだよね。巨大国家で渦巻く政治から逃げてきた人たちにとっての楽天地が日本だったわけですよ。この国があまり国家とか民族とか口にするようになると、ロクなことが起きない気がするんだよ。日本って、のどか~なアジアの一角ってことでいいんじゃないかな。坂本竜馬がかっこよかったのは、土佐弁で日本を語ったからだと僕は思うんです。「このままじゃ、日本はいかんぜよ」と。これを「このままじゃ、日本はダメなんです」と標準語で語ると前東京都知事になっちゃう(笑)。国家よりも自分たちが暮らす地域を単位にして物事を考えたほうが本音で語り合えると思うなぁ。 ──『101回』はどうやら頭で考えるのではなく、食感や皮膚感覚で楽しむドラマのようですね。 武田 うん、『101回』には国境は関係ないんじゃないかな。今回の劇場版だって、“中国映画”じゃないと思うよ。開発の目覚ましい上海を舞台に、チンタオ出身の労働者が、台湾生まれの令嬢に恋するファンタジーですよ。地方から出てきたお兄ちゃんたちが「見てろよ、俺もいつかあんないい女を抱いてみせるぞ」と憧れるというね(笑)。『101回』は“地方出身者”たちの夢物語なんだと思いますよ。 (取材・構成=長野辰次/撮影=名鹿祥史) 『101回目のプロポーズ~SAY YES~』 原作/フジテレビ『101回目のプロポーズ』(脚本:野島伸司) 脚本/ジャン・ウェイ 監督/レスト・チェン  出演/リン・チーリン、ホアン・ボー、チン・ハイルー、カオ・イーシャン、武田鉄矢 配給/ポニーキャニオン 10月19日(土)より角川シネマ新宿ほか全国ロードショー  (c)2013 NCM FUJI VRPA HAM  <http://www.101propose.jp> 101kaime_03.jpg ●たけだ・てつや 1949年福岡県出身。1972年に「海援隊」でデビューし、73年に「母に捧げるバラード」が大ヒット。高倉健主演作『幸せの黄色いハンカチ』(77)で俳優デビュー。79年から『3年B組金八先生』(TBS系)に主演し、2011年まで32年間にわたって坂本金八を演じ続けた。原案&脚本&主演を兼任した『刑事物語』(82)もシリーズ化され、全5作が製作されている。『101回目のプロポーズ』(フジテレビ系)は2012年に『時代劇版 101回目のプロポーズ』として舞台化され、浅野温子と21年ぶりに再共演を果たした。

「伝える力は、伝えたいという愛情に尽きる」生粋の“てれびバカ”西田二郎が語る、テレビの未来

IMG_5446_.jpg  『ダウンタウンDX』(読売テレビ)をはじめ、数々のテレビバラエティを世に送り出しているディレクター、西田二郎。このたび『水曜どうでしょう』(HTB)の名物Dである藤村忠寿氏との対談をまとめた『てれびバカ ツッパリオヤジvs小悪魔オヤジ』(KADOKAWA)を上梓、大きな反響を呼んでいる。今バラエティが抱えている問題点は? これからテレビはどうなるのか? 最前線に立つ西田氏に、その思いを訊いた。 ――『てれびバカ』拝読しました。地方局の希望『水曜どうでしょう』の藤村さんと、大阪からバラエティを牽引してきた西田さんの対談とは、かなりのインパクトでした。 西田二郎(以下、二郎) 僕自身、読売テレビというローカル局で『ダウンタウンDX』を20年やらせてもらっていて、はたから見たら中央でやっていると思われがちなんですけど、立ち位置的には藤やんに近いものがある。僕は大阪から番組を全国に放送していて、一方、藤やんは番組販売という形で全国にコンテンツを届けることを「開拓」した人。そういうところで、お互いシンパシーがありましたね。 ――「テレビが面白くなくなった」と言われて久しいですが、今日は西田さんが今のテレビをどう捉えていて、その中でどういう立ち位置にいて、未来のテレビはどうなっていくと考えているのか、そのあたりをお伺いしたいと思っています。 西田 まず踏まえなければならないのは、物事は面白くしようとする時点でつまらなくなっているということ。面白いと思ったことを実現していくというのは、その時に見えたものを形にしていく作業なので、実は一秒ずつオモロなくなってるんですね。オモロいものというのは、オモロいと思った時点がピークにオモロい。だから、詰め切らんところで止めることも大切です。僕らはO.A.で、オモロさのピークを取らなアカンわけですよ。だったら、このピークを超える余地を残しておかないとダメ。僕たちの場合はそれがダウンタウンで、ダウンタウンは僕らがどんだけピークでオモロいと思っても、それを超えるだけの余地を絶対に持っている。エンタテインメントの人間は、読めないところを、自分の中に残しておかないといけないんですよ。 ――西田さんが担当している『ガリゲル』や『ガリガリゲル』に出演している芸人さんは口を揃えて「西田さんは何を考えているか分からない」と……。 西田 僕ね、芸人さんは安心をさせたらアカンと思てるんです(笑)。芸人さんはクリエイターなんですね。見えてしまったらワクワクしないから、どっか「分からんな」というところを残しておかないと。 ――たとえば『ガリガリゲル』の名物コーナー、“アニメ大喜利”は題材もすごくシュールで、MCであるライセンスの2人も「もはやバラエティではなく、ドキュメンタリーです」とおっしゃっていましたが。 西田 大喜利って、芸人さんの本当に面白い一面を切り出す、ある種、聖域なんです。だから、「大喜利やってください」って頼んだことは、実は一度もない。アニメ大喜利は(ライセンス)藤原君にどうしてもやってもらいたかったから、Twitterで「藤原君アニメ好き?」って質問したんですよ。そしたら彼が「ハイ」言うて、大喜利を了承させたというよりは「藤原君が、アニメが好きっていうから」という理由に乗っかった(笑)。たぶん「大喜利してくれへん?」でもイケる話ですけど、やっぱりそれしたらアカンのですよ、自分の中で。 ――芸人さんに「なんか面白いことやって」っていうのと同じ感覚……? 西田 カンペ出して「ここでボケて」っていうのと同じ(笑)。うまく言えないんですけど、僕が番組を作る上で大切にしていることって、そういうところ。ノンスタの石田君には『ガリゲル』でおかんをおんぶしてもらったんですけど、その時も「君の中にある家族への思いを考えたときに、石田くんにしかできないことある思うねん。テレビを通じて見せられる親子の関係が」って、延々としゃべって。石田君が「分かります」って共感してくれた後に、「あんな、おかんをな……おんぶしてほしいねん」。 ――(笑) 西田 石田君もキョトンですよ。彼にしてみたら、面白い感じでやっていいのか、どうしていいのか分からない。石田君の家族の話聞きながら僕は号泣してるので、どうやらふざけているわけでもなさそうだ。最終的には「なんのことかよく分かりませんけど、頑張ってみます」と了承してくれて。理解できてないと物事が進まないのではなくて、分からへんけど物事が動いていくっていうほうが、僕はステキやなと思うんです。結果「おかんおんぶ」はものすごく反響があって、石田君はレギュラーがバババッと増えたらしいし。 IMG_5415_.jpg ――「おかんおんぶ」はじんわりと泣ける映像なのに、どこか笑っちゃうのが不思議でした。 西田 どう考えたって、やってることはコント(笑)。おかしいんですよ。突然、実家に行っておかん呼び出して、昔の話しながら「おんぶさせてくれへん?」って。まずオモロい世界を作って、その中にホロリとさせる要素を入れるのが通常だとしたら、あれは基本泣かせにかかってる。やり方的に間違ってるんです。  世の中って、なんでも正しいか間違ってるかで判断しがちなんですけど、僕はまず「愛情」ありきで、愛情があれば大いに間違っていいと思ってます。むしろ間違ったほうがいい。「本来だったらこう」っていうのを逸脱すればするほど、愛情の深さは伝わると思うんです。正しいか間違ってるかに終始して愛情がそっちのけになっているコンテンツがたくさん出てくると、人々は面白いとは言いづらくなりますよね。 ――コンプライアンスの順守などでしょうか? 西田 そうですね。でもそれに限らず、「テレビは分かりやすくするべき」という考えに従っていった結果、まったく心に響かないものになってきているともいえる。逆に間違っていたって、伝わるときは伝わります。伝える力というのは、理論性や分かりやすさに答えがあるんじゃなくて、本当に伝えたいという愛情に尽きると僕は思ってるんですね。ただ当然視聴率の問題もありますから、そのバランスは保たなければならないですが。 ――『ダウンタウンDX』は、そのバランスが絶妙だと思います。 西田 DXの「スターの私服」は、数字という面で番組にものすごく貢献してくれています。どうしてあのコーナーが数字を獲れるのかというのは、あとからなんとでも言える。だけど、あのコーナーの前まで、そんな企画は存在しなかったんですよ。たとえ思いついても、先ほどの正しい間違ってる理論にのっとると「ちょっと弱いんちゃうんか」とか理屈をつけられて、実現には結びつかないんです。でも、僕はどうしても見せたかった。ダウンタウンに見せたかったんです。ダウンタウンにスターの私服見せたら、さぞかし戸惑うやろなって。 ――領域が違いますから。 西田 (想像できないから)面白くなるという予感があったんです。周りのスタッフは「ダウンタウンは(服に興味ないから)オモロいこと言わへんのちゃう?」「それより、まずあの2人はやれへんやんか」って心配してましたけど。拝み倒して、とにかく一回だけはやってもらいました。やっぱりあの2人すごいですから、面白くしてくれたわけですよ。でも終わった後「もう二度とせえへんからな、二郎!」って浜田さんに言われて。 ――どう説得したんですか? 西田 プロデューサーのせいにしました。「勝田(P)が、テレビ人生をかけて“スターの私服”がやりたいらしいです!」と(笑)。「オマエ……ほんまアホやなあ」って言いながらもやってくれました。ダウンタウンは。 ――『てれびバカ』の中でも「『ごっつ(ええ感じ)』や『ガキ(の使いやあらへんで)』と同じことをやっても仕方ない」と書かれていました。 西田 そうです。『ごっつ』に関しては、あの番組がゴールデンに行くときに、当時フジの社屋があった駅全面にポスターが貼ってあったんですね。それを見て「駅全部にポスター貼ってもらえるんや……」と全身の力が抜ける思いでした。ポスターだけでもスゴいのに、チャンネル合わせてこれから毎秒驚愕するなんて、僕の気が持たない。結局O.A.を見ることはできませんでした。まぁ、しんどかったですよ。僕ら世代で『ごっつ』見てないテレビマンなんていませんから。だけど、かえってそこを異質に感じてもらえたのはラッキーでした。だからDXは少々ダウンタウン的でないものも認めるべし、と思ってくれる番組になったと思います。 ――ダウンタウンの番組がたくさんできていく中で、DXが長寿番組たり得たというのはまさにそういう理由でしょうか? 西田 まぁここに至るまでに紆余曲折もあって、僕自身がダウンタウンの番組を見ることを禁忌にしたわけですけど、ダウンタウンのことは理解しないといけない。そのために僕はどうしたかというと、「浜田さんになる日」「松本さんになる日」を決めて、その日はひたすらツッコミを入れたりボケ倒したりするんです。もちろん全部ドンピシャにできるわけはないんですけど、せめて「これ言うんちゃうかな」っていうポイントくらいはつかめるようになる。ダウンタウンというフレームが身についたと信じられたんです。これがあればどんな企画を立てる上でも(ダウンタウンが)気色悪いことにはならないという確信が持てたんです、まぁ、自分の思い込みですけど。中身じゃなくて、枠。メロディじゃなくて、リズム。 IMG_5396_.jpg ――『ザ・狩人』もフレームだけあって、あとは自由に芸人さんが音楽を奏でるような番組ですよね。 西田 『ザ・狩人』の場合は、藤井(隆)君が持ってるメロディをテレビで出し切ることをメインに考えていますね。それは本人の希望でもあったので。こちら側からの発信だけではあそこまで飛びきれない(笑)。これは芸人さんがクリエイターであるという一つの証左でもあるかなぁと。なんかやってみな分からへんというフレーム感の中で、藤井君がやってみたいと思うことをスタッフと一緒にハーモニーとして奏でていくことだと思うんです。芸人さんはリズムではなくメロディで勝負する人が多い。要するに「何を言ったらオモロいか」にこだわるのが芸人さん。僕ははたから「芸人さんが歌いやすいリズム」しか考えない。 ――今、テレビにおいて芸人さんがそうしたクリエイティビティを発揮できる場が少なくなっていて、その一つの要因として芸人が飽和状態になっている、中堅~大御所が詰まっていて若手がなかなか出られないなどと言われています。西田さんは、その状況をどうお考えですか? 西田 それは芸人さんの数的な問題ではない気がしてます。20年前でもテレビには出ないけど寄席でめっちゃオモロい芸人さんはいたし、芸人の数が少なかったからテレビに出やすかったわけでもない。これは上岡龍太郎さんが言っていた「テレビ芸」というものだと思うんですけど、テレビへの向き不向きですね。テレビにおいてウケる話術であったり、やり取り。そもそもテレビというフィールドで活躍しなければ(芸人として)成立していないという考え方がどうなのか。僕はいいと思うんですよ、テレビじゃなくても、成り立つ経済圏があれば。テレビ以外でやっていける軸というものがあれば、誰もテレビに見向きもしなくなりますよね。だってそうでしょう、オモロいこと言うても一瞬にして食い散らかされてしまうんですよ、テレビは。さだまさしさんはめっちゃオモロい話するけど、テレビでは出しません。それはテレビが消耗するメディアであり、みんなのイメージに既視感を与えてしまう、神秘性がなくなってしまうから。だからテレビはその代償として、ほかよりも高いギャラをいただけるともいえる。つまりは芸人さんの数の問題ではないと思いますよ。 ――芸人さんがテレビに出るというのは、常に脳みそを全国に晒しているようなものなんですね。 西田 ホンマですよ。国民の皆さんはね、芸人さんはスゴイと、もっと思わなアカン。最近、オモロいことを言ってくれるのに慣れっこになってはいませんか? 僕ね、文化を支えるのは芸人やタレントじゃなくて、ユーザーだと思うんです。かつては城主というパトロンがいて、芸術家を保護していたでしょ。今パトロンは国民、ユーザーなんですよ。それなのに、みんな支えることからは逃げようとする。オモロそうな可能性のあるヤツは長い目で見守っていかんと。その猶予期間が文化を深くさせるんです。今はなんでもその日暮らし的に判断してしまって、一回見ただけで「オモンないな」とか平気で言うでしょ。これは芸人さんが増えたことの一つの弊害で、素人なのに笑いを評価する風潮ができてしまったんですね。どんなに芸人さんが頑張っても、受け皿であるユーザーがそれを受け取るだけの文化的素地がなかったら何も育たないですよ。 ――見る側の歩み寄りが大切だと。 西田 僕ね、今こそ若い世代がSNSの力を発揮するときだと思うんです。SNSを使って煽って盛り上げて、大人がまったく理解できない同世代のスターを作り上げるんです。それこそ間違ってたっていい。なんていうか、見る側の人間がもっとテレビに近づいてきてほしいんですよ。もう作り手側のアプローチはやり尽くしましたから。それが未来の正しいテレビのカタチじゃないでしょうか。 (取材・文=西澤千央) ●にしだ・じろう 1965年生まれ。大阪府寝屋川市出身。読売テレビのチーフプロデューサー・演出家。『ダウンタウンDX』や『ガリゲル』などの人気お笑い番組を多数手がける。

「タレント」という呼び名が私を変えた~デヴィ夫人がどんなオファーも断らない理由~

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撮影=後藤秀二
 歯に衣着せぬ物言いで、芸能界になくてはならない存在となったデヴィ夫人。元インドネシア大統領夫人という経歴を持ち、多くのセレブリティと交流を持つ彼女が、いつからだろうか、ジャージで泥だらけになりながら自転車に乗ったり、瓦割りをしたり、時にははるか上空からスカイダイビングしたり……リアクション芸人たちのお株を奪うような活躍を見せるようになったのは。夫人が体を張るその理由と、そこに至るまでの葛藤を、視聴者おなじみの豪華すぎるリビングで伺った。 ――単刀直入にお伺いいたしますが、「デヴィ夫人は、どんなオファーも断らない」という都市伝説は本当ですか? デヴィ フフフ。入ってきたお仕事は全部こなしたい、という気持ちはありますね。私はさまざまなことに対して挑戦する気持ちを、いつまでも持っていたいと思っているんです。挑戦する気持ちを失った時が、自分が年を取ったということになるんじゃないでしょうか。若さを保つには、何事にも好奇心を持って、興味を持って、探究心を持って挑むことが大事。 ――だから信じられないくらい若々しいのですね。 デヴィ みなさん私のことを非常にインドアな女性だと思っているでしょ? いつもきらびやかなドレスを着て、宝石を身にまとってっていう。全然違うの。人を驚かせるイタズラが大好き。少女時代はガキ大将でしたから。アウトドア・タイプです。 ――あの美貌でガキ大将!? デヴィ そう。スポーツも大好きで、今でも年に一度はスキーに行きます。水上スキーもスキューバも。海水に30m潜水できるライセンスも持っているのよ。ヨーロッパに行けば馬術。ゴルフはクラブがまだ木だった頃から。しないのは……そうね、野球とボクシングくらい(笑)。アナタ、『世界の果てまでイッテQ!』のイルカとのショーの回はご覧になりました? ――はい。あれは本当にすごかった……。 デヴィ ホホホ。本当に大変でしたのよ。ほら、この傷(※向こう脛に数カ所擦り傷アリ)は、あの時のね。海で泳いでいるわけではないので、自分が作った波が壁にぶつかって戻ってくるんです。そこをバランス取らなければならないので、すごく疲れる。プールの高い壁に何度も足を打ちつけられましたし。やっている時は夢中なので痛みも感じないんですけど、終わったら青アザだらけ。 ――イルカの上に乗ってプールを一周する技は、特に難しそうでした。 デヴィ あぁ“サーフィン”ね。あれは絶望的にできなかったんですけれども、最後にやっとコツがわかって。基本的に全部、練習の時のほうが上手にできたわね。本番は時間に追われちゃって。出川(哲朗)さんも練習のほうがよかったんじゃないかしら。 ――あれらはすべて4日間で会得されたんですよね? デヴィ そうですね、3日と半日くらいでしたね。本来水族館の人たちが、1年~1年半かけて覚えるところを、私たちは3日半で覚えなければならなかったの。 ――そもそもイルカショーに出ることが、すごいことだと思うのですが。特にデヴィ夫人の年齢で。 デヴィ 騙されたんです。「海でイルカと泳ぎたい」って言ったら、ああいうことになっただけで。 ――(笑)。出川さんとの相性はいかがですか? デヴィ そうですね。彼はすごくお行儀のいい、真面目な人なんですね。私がそう言うと「営業妨害です」って嫌がられますけど(笑)。でも、日本で一番抱かれたくない男とか、一番モテない男とか、そのキャラを全うしてるのは立派だと思いますね。実際は、いいとこの坊やですのよ。横浜の海苔屋さんの息子さんで。 IMG_8688.jpg ――プロフェッショナルなんですね。 デヴィ あの方は完璧な「アクション芸人」ですから。 ――……リアクション芸人でしょうか。 デヴィ そう! リアクション! 温泉湯に足突っ込んで「アツアツ~」ってね。私手を突っ込んでみたら、全然熱くないんですよ。 ――(苦笑)。リアクション芸人として、出川さんから学ぶことはありますか? デヴィ 彼は与えられた仕事を完璧にこなすでしょ。私自身も期待されていることを全うして、見ている人に楽しんでもらえるいいものができればいいという感じになっていますね。 ――以前サイゾーでインタビューさせていただいた頃(2007年10月)は、ご意見番的な立場でテレビ出演されることが多かったと思うのですが、徐々に体を張る方向にシフトしていきましたよね。 デヴィ それこそ、私のチャレンジ精神ね。私の年齢でああいうことをするって、人間の大いなる可能性ではないですか。みなさんに元気や夢、希望を与える存在に今なりつつあると思うんですよ。だんだんやることがエスカレートしていますけど(笑)。 ――体を張る大変なお仕事を受けるようになったきっかけは? デヴィ 何からでしょうね……えっと、やっぱり『イッテQ』や『うわっ!ダマされた大賞』ですかね。スタッフの方も、最初はビクビクしながら「こんなこと、お願いできますか……?」って訊いてきていたんですよ。それを私がすべて見事にこなしてしまうので、だんだんと大胆になってきて、今じゃ「これもあれも」と。高所恐怖症なのに、バンジージャンプもしました。普通のバンジーじゃなくて、橋の上からのね。あれは本当に怖かったですね。 ――高所恐怖症でバンジー……。 デヴィ あの時はバンジージャンプと川下りがあって、私コロラドリバーで川下りはよくしていたので「それならいいわ」と。川下りをやればバンジーはやらなくてもいいって思っていたの。そしたら両方ですって、アナタ。私が苦い顔をすると監督さんがあまりにがっくりして頭を抱え込んでしまったので、お気の毒で「無理です」とは言えなかったわ(笑)。人生最初のバンジーはマザー牧場というところで、私が催眠術にかかってバンジーができちゃうっていう企画でした。はたから催眠術なんて信じていませんが、私が飛ばなかったら催眠術が偽物だって証明することになっちゃうでしょ。その時も、その催眠術師を助けるために飛びましたよ。 ――さすがにこれは無理……という企画は? デヴィ 私、ジェットコースターがダメなの。絶対乗れない。できないのは、ジェットコースターとマラソンね。 ――しかし、今までマラソンよりジェットコースターより厳しいことを、たくさんされてきたと思いますが。 デヴィ いいえ、マラソンはね、あれは心臓と肺活量の問題ですから。私、肺活量が少ないんです。 ――スカイダイビングとか、イルカショーとか、以前ナイナイの番組で瓦割りにも挑戦されていました。セレブなお仲間たちから「そんなこともするの?」と驚かれませんか? デヴィ それはもう年がら年中(笑)。「ビックリしましたよ。アナタ怖くないの?」って。そりゃスカイダイビングなんて4,000mから飛び降りるわけですから、その瞬間は、それこそ南無阿弥陀仏よ。でも、落ちた途端の美しさや終わった後の達成感から比べたら、どうってことないわよ。私、あと30年は生きたいと思っているの。やっぱり元気の秘訣は、いい仕事をして充実感を得ること、それから楽しくよく遊ぶこと。どんなに仕事で疲れても、時間さえあれば銀座に行ってよく飲んでますのよ。ほとんどの方は毎日を「生活」していますが、私は毎日を「生きて」いる。この差、わかります? IMG_8709.jpg ――なんとなく過ごすのではなく、その時その時を真剣にということですか? デヴィ そう。仕事も遊びも限界を決めない。 ――夫人が、これからやってみたいと思う企画はありますか? デヴィ だんだんすることがなくなってきて(笑)。これから何をしたらいいのかしら……。そもそもあの人たち(テレビスタッフ)は、私が出した提案は絶対採用しないの。南極に行きたいわって言ったら、「1人2,000万かかる」で終わり。地球上で唯一アメリカのイエローストーンにいるアメーバーが見たいって言ってるのに、それもダメ。「NHKの番組になっちゃう」って。イモトさんは結構いろいろなところに行ってるのに。 ――やはりギャップが欲しいんじゃないですか……? デヴィ夫人のパブリックイメージとのギャップが。 デヴィ カナダの大森林で、クマがパシーンって鮭を獲るのも見たいし。 ――(聞いてない……) デヴィ そうそう、アマゾンの奥地にすごいブルーの蝶がいっぱいいるんですよ。キラキラ光る玉虫色の。それを獲りに行きたいって言ってるのに「アマゾンは大変です」でおしまい! ――(……) デヴィ バイカル湖にもプライベートで2回くらい行ってますけど、あの奥にかわいらしいペンギンがいたなんて、その時は知らなかったの。イモトさんは、それを見ているのよ! なんてうらやましい! そういう意味でイモトさんは私のライバルね。 ――まさか夫人のライバルがイモトだったとは!! デヴィ 彼女、私のしたいこと、行きたいところ、全部制覇しちゃってるのよ! ――最後にひとつ教えてください。夫人は、どういう肩書で呼ぶのが正しいのでしょうか? デヴィ やはり何十年「デヴィ夫人」と呼ばれてきましたから、それが芸名みたいになっていますね。スカルノというのは偉大な名前であり政治的な意味もありますので、あまりテレビに出るときには向かない気がします。外交団のレセプションパーティーや晩さん会などでは「デヴィ・スカルノ夫人」となるわけですが。だから逆に「デヴィ夫人」という名前は、ひとつのスイッチになっているともいえますね。  思えば、大統領夫人から社交界の華になり、ビジネスウーマンになってまた社交界に戻り、そして今日本にいる。ずっと「大統領夫人」という肩書で生きてきたのに、日本でのテレビ出演が増えるに従って「タレント」と呼ばれるようになりました。私それがすごいショックで。いつの間にか、私はタレントになっちゃったんだって……。それを自分の中で消化したときに、オファーされた仕事はなんでも受けようと心に決めたんです。そこで殻を脱いだのね。「大統領夫人」という立場も「東洋の真珠」と呼ばれた過去も。ただ余生は思い切り楽しんで生きようと決心しました。それまでは日本に帰るなんて頭の片隅にもなかったんです。私は日本を追い出されたと思っていますし、日本のマスコミとの40年にわたる戦いもありました。彼らに叩かれて叩かれて、抹殺されんばかりでしたから。私の間違った既成概念を作ったのは日本のマスコミです。 ――そのかたくなな気持ちを変えたのが、「タレント」という呼び名だったと。 デヴィ 私の中で「革命」でした。あぁ、それならそうやって生きてやると。プロのタレントとしてね。今まで世界中の王侯貴族とお付き合いしたり、スーパーセレブの方たちと世界の素晴らしい舞台に立ってきましたが、もうそういうことに未練はありません。今は、日本が私にとって最後の場所になるんだと思っています。これからは今まで私が得た幸せを、いろんな形で世の中に還元していけばいい。それは動物愛護やチャリティーね。皆さん意外とご存じないですけど、私テレビの仕事と同じくらいチャリティー活動をしているんですよ。これは最後に、ぜひ書いておいてくださいね。 (取材・文=西澤千央) ●ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ 1940年生まれ。59年、インドネシアの初代大統領スカルノと結婚。日イ友好協会名誉会長に就任し、両国の文化交流、親善に努める。スカルノ政権崩壊後、パリに亡命した後は社交界で活躍。“東洋の真珠”と賛美され続けている。現在は、ボランティアに注力して、野生動物や熱帯雨林の保護、先住民の権利保護など、さまざまな環境保護活動を行っている。 公式ブログ <http://ameblo.jp/dewisukarno/>

山本太郎が出てるけど……原発反対映画じゃなかった!『朝日のあたる家』

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 反・脱原発を主張する人々の内輪ウケじゃない。原発反対を主張して、先の参議院議員選挙で当選を果たした山本太郎氏が出演していることでも話題の映画『朝日のあたる家』の上映が、ようやく都内で始まった。  この作品、最初のメディアでの取り上げられ方は、通常の映画とは少し違った。「原発問題を扱っているので上映館が決まらない」──そんな取り上げられ方ゆえに、原発反対のイデオロギー色の強い作品ではないかと、敬遠する人もいるのではないか。しかし、実はまったくそんなことはないのだ。  これまで、原発や放射能の恐怖を扱った映画は数多く作られてきた。原発を扱った映画では『原子力戦争』や『太陽を盗んだ男』が思い浮かぶ。ちょっとズレるが、核戦争後の放射能の恐怖を描いた『風が吹くとき』や『スレッズ SF核戦争後の未来』あたりは、放射能の恐怖がホントに伝わってくる。「そもそも放射能とは何か?」を解説するドキュメンタリー『世界は恐怖する 死の灰の正体』は1957年の古い作品だが、緻密な解説はいまだに古びていない。  こうした作品に共通しているのは何かといえば、映画=大衆のための娯楽という軸からブレていないことである。  この『朝日のあたる家』もまた、原発事故を題材として家族の絆と故郷の価値という普遍的なテーマを扱った娯楽作なのだ。  物語の舞台となるのは、静岡県の湖西市。中心となるのは、その町に住む平田一家。お父さん(並樹史朗)は農業。お母さん(斉藤とも子)は主婦。長女(平沢いずみ)は大学生。妹(橋本わかな)は中学生である。家族の住む、ショッピングセンターも何もない田舎町の近くには原子力発電所がある。その原子力発電所が地震によって爆発事故を起こしたことで、家族の日常は大きく変わるのだ。  一日だけかと思った避難は、いつまでも続く。ようやく許可された一時帰宅で戻った家は、何者かによって荒らされていて、一家は呆然とするしかない。妹は病気になるが、医者は放射能の影響とは認めようとしない。母親はノイローゼになり、父親はなんとか一家揃って家に帰ろうと奮闘するが、空回りするばかり……。
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 家族が遭遇する出来事は、いずれも福島第一原発事故によって避難を余儀なくされた人々への取材や資料収集を元にした、現実の出来事である。派手さはないが淡々としているがゆえに、かえってリアルである。話題となった山本太郎演じるのは、沖縄に移住してお好み焼き屋をやっている、おじさん(父親の妹の夫)だ。物語中盤、行政は「これから除染を行うので、帰宅してもよい」と許可する。元通りの日常を取り戻したい父親は帰宅し、自分で除染を始める。しかし、放射能の影響を恐れる母親と姉妹は帰宅を拒む。そんな一家がバラバラになりそうな状況を見た、山本演じるおじさんは、一家に沖縄への移住を勧める。しかし、父親は頑として受け付けない。ずっと暮らしてきた故郷を捨てることなど、できないから……。  このように本作は、原発事故を通してあらためて家族と故郷を持つ意味を浮かび上がらせている。東京での公開初日、取材に応じた監督の太田隆文氏は「説教映画ではありませんし“原発をやめろ”と主張するものではありません。前作では書道をテーマにしたのですが、それが原発に変わっただけなんです」と、筆者に語った。  しかし、そうした本質を捉えることなく「原発」が出てくることだけで、多くの映画館が上映に難色を示したのも事実だ。 「“原発だからダメ”という映画館はありませんが、スケジュールとか、ほかの理由で断られましたね。逆にミニシアター系では、原発を扱った作品は儲からないからダメと言われましたよ」(同)  それでも太田監督が映画を通じて伝えたかったものは、徐々にではあるが理解されつつある。すでにロサンゼルスの映画祭で上映され、アメリカ人の観客は、この映画を見て911を思い出す人が多かったという。911の時、ブッシュ政権は「対テロ戦争」を掲げてアフガニスタン侵略へと邁進したが、一方で「テロ」への被害者のケアは、まったく行われなかった。そうした被害者を最後に支えたのは、やはり家族の絆だったのである。「最後は家族」。本作は、その一点を追求しているがために、国家の枠を超えて共感できるのだ。  正直なところ、高度に社会的・政治的な問題である原発事故というものに「家族の絆」などという、あまりにもベタなものを持ち出すことには疑問を感じる人もいるだろう。「現実の問題に感情論で語っても不毛である」と、したり顔で語る人もいるだろう。今後、そうした人々が、この映画を批判してくることは容易に想像ができる。中には、映画を見ないで批判する人もいるだろう。でも、これは「映画」である。新聞やテレビではない。太田監督は語る。
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「テレビや新聞は情報を伝えるものです。それに対して、映画は感情を伝えるものなのです」  公開初日の舞台挨拶では、一家の4人を演じた俳優陣が登壇し挨拶を行った。その中で、母親を演じた斉藤とも子氏は、劇中で感情が高ぶって「(放射能の影響で)死ぬのよ!と言ってしまったが、福島の人が見たらどうだろうと思ったのですが……そのまま、使われていました」と語っている。福島第一原発事故では、死ぬほどの健康被害が出るのか否かをめぐって、さまざまな議論やデータが出されている。  しかし、いくらデータを積み重ねようとも、感情の前にはかなわない。現実に、多くの人が冷静さを失い、感情をむき出しにするしかないところへと追い込まれている。そのことも、映画は教えてくれる。  もうひとつ、本作が商業映画として完成度が高いのは、子どもが見てもわかりやすく構成されていることだ。監督によれば「5歳の子どもが最後まで飽きずに見てくれた」こともあったという。テレビゲームではモニターに子どもを使うこともあるくらい、子どもほど正直な観客はいない。5歳でも飽きずに最後まで見たという事実は、映画の完成度の高さを示すものだといえよう。  原発の話題を口に出すと、まず「反対か賛成かどっちか」から始めなければならない面倒くささがつきまとう。冒頭に記したように、本作を「原発反対映画」と思っている人も多いだろうけど、それはまったくの間違いだ。 「原発事故を題材にした、淡々としたパニックムービー」そんな理解で鑑賞してみるのが、ちょうどよいだろう。この映画、すでに政治主張が固まった意識の高い人だけが称賛するんじゃ、もったいない。 (取材・文=昼間たかし) 『朝日のあたる家』 監督・脚本:太田隆文 製作:「朝日のあたる家」を支援する会 出演:並樹史朗/斉藤とも子/平沢いずみ/橋本わかな/藤波心/いしだ壱成/山本太郎 配給:渋谷プロダクション 東京・渋谷アップリンクほか全国で順次上映中 <http://asahinoataruie.jp/>

イメージは“四枚目”な仮面ライダー!?「もしもVシネの帝王が、16歳の高校生を演じたら……」

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撮影=後藤秀二
 もはや、Vシネの帝王なんて枕詞すら不要。その存在感と演技力で男臭いファン層を獲得している竹内力。来年、50歳を迎える彼が主演する最新作は、16歳の高校生役を演じた『バトル・オブ・ヒロミくん!~The High School SAMURAI BOY~』(10月5日公開)だ。16歳らしい物腰や雰囲気などまるでナシ。眼力と胆力で全国総番長を目指す16歳男子を怪演した竹内力は、演じることについてどんな考えを持っているのだろうか? ――『バトル・オブ・ヒロミくん!~』は、アクションがキレキレでしたね。 竹内力(以下、力) ハリウッドに比べるとアクションシーンはまだまだだけど、逆に言うとCGを全然使ってないからね。ワイヤーとか使ってないんで、それで迫力を出さなきゃいけない。そこはおじさんの割に頑張りました(笑)。 ――今回は16歳の高校生役を演じてますが、こちらも頑張りました?  いや、16歳っていう年齢は全然意識してないね。今作は製作もやっていて、“ヒロミくん”というキャラクターも、もともとオレが作ったものだから。 ――演じる上で、特に制約はなかったんですか?  制約というよりも、仮面ライダーを“四枚目”で演じたらこうなるのかなぁっていうのは、オレの中にあって、それをお茶目に出した感じかな。 ――なるほど。ヒロミくんのキャラは、まさにそうですね。劇中で、ヒロミくんが白目になったりしますが、あれは監督の演出ですか?  あれは、オレの独断(笑)。製作にも関わってるし、この年になったら、細かい演出はあまりされないですよ。 ――アドリブで白目ですか! 台本とストーリーがあれば、あとは任せてもらえる、と?  監督も「ここは竹内力でやってくれ」というお任せの指示で。あとは、その期待の上をいく芝居をするだけだから。 ――本作は、笑わせるシーンも多いですが、シリアスなシーンもあって、全体的にメリハリがある作品だと思います。  例えば、ハリウッド映画の大作でも、DVDを借りてきて家で見ると、タバコを吸うときに火をつけたり、お菓子に手を伸ばしたりとか、(お客さんの)目線が画面から離れるのが、オレらにしてみれば悔しいんですよ。需要と供給のバランスが崩れるというか。一瞬たりとも見逃してほしくない。本作は劇場公開されるし、一瞬一瞬、どこでまばたきをするか、しないか、その部分を計算して芝居しているんで、その0.5秒を見逃されると、俳優として悔しい部分ってあるんですよ。最後まで見たときに、つまらなかった、面白かった、寝てしまったなどなど、お客さんの感想で勝ち負けが決まる。1800円払って、だまされたと思うか、その価値があったかどうか、ね。 _MG_3528.jpg ――いつも、“勝負”の意識というのがあるんですか?  もちろん! 主役の作品に関しては、主役だから作品に対して口出しできる部分ってのがある。監督とかプロデューサーにも、言うべきところは言う。脇役で入ってるときはお邪魔してる感じなので、それは減るけど。主役がいるし、それで現場を崩してはいけないから。 ――製作としても作品に関わることが多いと思いますが、監督はやらないんですか?  昔は助監督を何年も経て、ようやく監督になれたけど、今ではいろんな方たちが助監督をすっ飛ばして映画監督になっちゃって、監督業がすごく身近な職業みたいになってきたと感じるんです。時代とテクノロジーの変化と共に。自分のところにも「映画監督をやりませんか?」っていう話が来たけれど、乗っからなかった。俺の中では、監督はプロフェッショナルな仕事だと思ってますから。 ――プロデューサー業とは、また違うんですね。  製作はプロデューサーが何人かいて、チームプレイでやっているからね。オレだって、製作全体の20%くらいだよ。監督の場合は、それが100%じゃないといけない。そうじゃなきゃ、監督って名乗っちゃいけないよ。 ――ちなみに、俳優や製作以外でも、最近、バラエティにもよく出られてますよね。ああいった番組に出ることは、実はお好きだったり?  普通に家でバラエティ番組を見てる感じですよ。それを撮られているだけで、振られたらなんかしゃべろうかなって。クイズ番組とかでも、家で見てたら普通に考えて、答えたりするじゃないですか。そのまんまですよ。 ――バラエティ番組では、俳優・竹内力をあまり意識しない?  むしろ「普段はこうだよ」っていうのを伝えたいんだよね。ダジャレも言うし。そこでキャメラを意識しちゃったら、疲れちゃうし、全部を演じていたら大変だよ。 _MG_3521.jpg ――バラエティに出ている力さんは比較的、素の部分が出てるんですね。音楽に関してはどうですか? 個人的に、RIKIさんが「完全無欠のロックンローラー」や「燃えろいい女」なんかをカバーしたアルバム『男唄』が大好きなんですよ!  お、ありがとう! うちの公務員の実兄も車でよく聴いてくれてて、「弟はいい詞を書くなー」って思ってくれてるみたい(笑)。実は、来年に新作を出すんですよ。 ――お! 今度はどんな感じに!?  これまでとは、違った雰囲気だね。今はそこまでしか言えないな。 ――NHK『みんなのうた』の10~11月でも「回れトロイカ」を歌いますよね?  まわ~れトロイカ~♪ってね。 ――生歌が聴けた! 『バトル・オブ・ヒロミくん~』のエンディング曲「男の時代」も好きです!  演歌が好きなんで、タイトルも詞も、男の演歌っぽくしたんですよ。ポイントはセリフを入れてるところね。最近、そういうタイプの演歌が少ないから。で、曲が終わったかと思うと、また始まるという、ちょっと冗談っぽくしてね。アイデアはどんどん出てくるんですよ。 ――演歌が好きとは、意外でした。  音楽は、ロックでもムード歌謡でもなんでも好きだよ。最近、男性の演歌歌手って少ないじゃん。 ――まして、男臭い演歌歌手って最近あまりいないですよね。  そうでしょ!  ――もともと、歌手に憧れはあったんですか?  学生時代は文化祭や文化ホールでバンド組んでやってたね。「お前、ドラムやれ。お前はギター、オレはボーカルな」って。楽器の練習しなくていいから。覚えるの歌詞くらいじゃん? それでもカンペ見ながら歌ったりしてたけど、ずっとそれで押し通してきたから(笑)。 ――音楽に関しても、期待してますよ! ちょっと話は戻って、力さん来年正月で50歳じゃないですか。今年から来年にかけて集大成的な部分って、ご自身の中にありますか?  50歳だからじゃなくて、毎年思ってますよ。階段を一歩ずつ上がりたいなって。昔からずーっと思ってた。なかなか階段を上がれなかったり、踏み外したり、転げ落ちたり、何段か飛ばして踊り場まで着いたけど、そこで調子に乗ってそこからまた落ちたり、だまされたりね。 ――ずっと順調というわけではなかったんですね。最近はいかがです?  今まで続けてきた中で、今やっと実がなって、花開く時期がこの50歳じゃないかなとは思うんです。詳しいことは言えないけど、うちの会社で製作した来春公開の素晴らしい映画が控えてますし。それがひとつの集大成になるかな。それでドカン! とかまして、今はその後に続く作品の企画を考えているんですよ。それはVシネの集大成になるかな。今の日本で、オレみたいなこういうキャラクターを作れる人って、オレしかいないぞっていう区切り。来春公開の映画は、今オレが死んだとしても公開されるんで、安心はしてますけど。でも、後ろから押さないでくれよ! ――そんなの怖くてできるわけないじゃないですか! 今日はありがとうございました! (取材・文=高橋ダイスケ) hiromi_main_large.jpg ●『バトル・オブ・ヒロミくん!~The High School SAMURAI BOY~』 監督・脚本:宮坂武志 製作総指揮:竹内力 出演:竹内力、栞菜、倉葉さや、根岸大介、中野裕斗、山口祥行、鈴木希依子、伊崎央登、林田直樹、鎌田雅弘 主題歌:竹内力「男の時代」 配給:RIKIプロジェクト 2013年10月5日(土)より、キネカ大森、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで公開