
(c)多田裕美子
「山谷」という街の意味は、2000年代以降、大きく変わった。
かつては、日雇い労働者の街であり、暴動も発生するような危険な街であった山谷。しかし、00年代以降、労働者の勢いはすっかり影を潜め、今では外国人バックパッカーも集う、静かでおとなしい街へと変貌を遂げている。
そんな山谷の街で、1999年から01年まで、100人以上の男たちを撮影した写真家・多田裕美子のフォトエッセイ『山谷 ヤマの男』(筑摩書房)には、“最後の山谷”の姿が写真と文章で収められている。青空写真館で撮影された山谷に生きる男たちの姿は野性味にあふれ、凛々しく、時にユーモラスであり、まさに山谷でしか見ることのできない顔つき。写真展で発表されたことはあったものの、15年間、多田の元に眠っていたこれらの写真は、4年前、編集者・都築響一氏に見せたことがきっかけで息を吹き返し、やっと刊行へとこぎ着けた。
いったい、かつての山谷の男たちの姿から、何が見えてくるのだろうか? そして、今では外国人や福祉の街に変貌を遂げた山谷とは、いったいどんな街なのか? 多田に訊いた。
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――『山谷 ヤマの男』には、99年から2年間にわたって撮影された山谷の人々の写真とエピソードをつづったエッセーが記されています。そもそも、なぜ、山谷を撮影しようと思ったのでしょうか?
多田裕美子(以下、多田) 私の両親は、72年から01年まで「丸善食堂」というお店を山谷で営んでいました。山谷の労働者たちが毎日通うような酒場ですね。そんな関係もあって、カメラを始めた20代前半の頃に、面白半分でお店に来る人々を撮影していたところ、ある日「撮るんじゃねえ」と、お客さんからコップを投げられてしまった。それで、「山谷は簡単に撮れるものではない」と気づいたんです。だから、いろいろな人から作品として山谷を撮影することを勧められましたが、どうしても乗り気にはなれなかった。しかし、ある時店を手伝っていたら、飲んでいるお客さんの姿がほかの街とは違うことに気づきました。山谷の人々は、過去を語らないし、聞きたがらない、愚痴もこぼさないんです。
――山谷には、過去にさまざまな事情がある人も少なくない。だからこそ、酒場の雰囲気も独特なんですね。
多田 そんな彼らの姿に魅力を感じて、再びレンズを向けることを決心しました。しかし、山谷といっても、私が知っているのは丸善食堂の中だけ。父にも「甘い!」と反対されて、初めて店を出て、ロケハンを始めたんです。そこで見つけたのが玉姫公園。ここしかないと。背景幕を持っていき、毎週末、ポートレート撮影を始めました。
――玉姫公園といえば、山谷夏祭りや朝市「ドロボー市」などが開催される、山谷を代表する場所です。そんな場所で撮影を行うにあたって、恐怖心はなかったのでしょうか?
多田 もちろん怖さもありましたが、自分が思い描いていたイメージを実現できる喜びのほうが大きかったですね。公園の周囲に張り紙をしてモデルを募集したところ、初日から7人も来てくれました。

(c)多田裕美子

(c)多田裕美子
――2年間で、どれくらいの人々を撮影したんですか?
多田 延べ140人ほどですね。初日に知り合ったおじさんが用心棒になってくれて心強かったんですが、公園にも派閥があるから、このおじさんと仲良くしていると撮れない人もいる。だから、こちらから近づいて花札をしたり、お酒を飲んで仲良くなりながら、撮影することもありました。それに、いい被写体に巡り合うと、どうしても写真を撮りたくなってしまうんです。
――「いい被写体」とは?
多田 ほかの街にはいない、その人らしさがにじみ出ている顔つきですね。山谷には、山谷でしかお目にかかれない“顔”というのがあるんです。そして彼らは、少ない荷物の中から一番いいものを着て、被写体になってくれる。撮影の際には、ポーズをお願いするのではなく、彼らの持っている存在感がにじみ出るようにこだわりました。
――表紙に起用されているリンさんをはじめ、圧倒的な存在感ですね(笑)。
多田 実は最近、知人が偶然、リンさんを見つけてこの本の表紙と並べて撮った写真を送ってきてくれたんですが、いい具合に年を重ねていました(笑)。リンさんもそうですが、山谷は、基本的に我が強く、組織では生きられない人ばかり。だから、撮った写真を並べると、個性の強い顔ばかり。今の社会では、個性を出すのではなく、スマートに生きることが良しとされていますが、山谷には個性がムンムンな人々ばかりですね(笑)。
――確かに。当時の山谷の姿を垣間見ているようです。
多田 実は、写真を撮っているときは「山谷」を消したかったんです。被写体の顔だけ撮れば、にじみ出てくるものがあるだろうって。でも、本にするにあたって、当時の「山谷」という街を残したいという気持ちになったんです。
――そんな男たちを通じて、山谷とはどのような街だと感じましたか?
多田 ほかにはない、“情”がある街だと思います。居酒屋でも互いの過去に触れないように、関係性はベタベタしていません。けれども、みんな同じような境遇で、20年も30年も山谷にいる人も少なくない。出稼ぎで来て、帰れなくなってしまった人たちです。だからこそ、すごく人懐っこくて、他人に優しくすることができるんです。お金がなくても、誰かのところで飲むことができるし、逆にお金があれば誰かを飲ませる。不思議なコミュティですよね。みんな末っ子気質で、なぜか7番目という人が本当に多いんですよ。

(c)多田裕美子

(c)多田裕美子
――多田さんが山谷の街を撮影してから、15年がたちました。現在、山谷はどのような環境にあるのでしょうか?
多田 いまだにドヤは多いのですが、日雇い仕事も少なくなり、求人は激減。閉鎖してしまったドヤも、少なくありません。高齢化し、働きに出ることができない労働者は、生活保護を受給しながらドヤで暮らしているんです。およそ8割の宿泊者は、生活保護をもらいながら暮らしているのではないでしょうか。
――そんなに多いんですか?
多田 しかし、行政の関係者に話を聞いたところ、昔から山谷の人々は生活保護を受けたがらないそうです。「国の世話にはなりたくない」というプライドがある。だから、仕事もなくなり、路上生活になり、心身ボロボロになって初めて受給する人が多い。その一方で、そんな状況でも受給せず、路上生活を続ける人もいます
――働けなくなっても「労働者」というプライドが、生活保護の受給をためらわせる。
多田 今は福祉やボランティアの方たちが山谷を支えていて、労働者の街から福祉の街に変わりつつあります。孤独な独居老人が多く住む街としての報道も多いですよね。ただ、彼らも、かつては屈強な労働者だった。この本では、そんな男たちが粋がっている姿を残したかったんです。
――では、もし多田さんが、現在の山谷を撮るとしたら何を撮影すると思いますか?
多田 今の山谷の何を撮りたいかは明確には答えられませんが、今の山谷に託したいことはあります。最近は、かつての労働者以外に、生きづらさを抱え、身寄りもなく、ひとりで生きられない人々が福祉施設で暮らしています。山谷には昔から、社会で生きづらさを抱えた人々を受け入れる土壌があるというか、人へのまなざしがやさしいんですね。近年は安宿のおかげで、外国人観光客も増えてきています。時代の変化を受け入れつつ、これからも他者にやさしい街であり続けてほしいです。
(取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])