ポケモン映画20周年記念作『キミにきめた!』に隠された、初代脚本家・首藤剛志の“幻の最終回”

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『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』公式サイトより
 8月も終わってしまった。ということで“夏休み映画”もまもなく上映終了だ。夏休みといえば、大作映画や話題作が一挙に公開される季節。今年も各映画会社が社運を懸けたであろう邦画・洋画がめじろ押しだった。  僕も、全国ツアーの合間にいろいろと夏休み映画を楽しんだ。たとえば洋画では、なんといってもマイケル・ベイの『トランスフォーマー/最後の騎士王』がやりすぎですごかった。猛烈なジェットコースターっぷりでありながら、なぜか3時間もあり、まったく理解の範疇を超えていて、マイケル・ベイは頭がどうかしているとしか思えないクレイジームービーだ。  そして邦画では、ポケモン映画の20周年記念作『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』が最高だった。これがどれくらいよかったのかというと、ポケモン映画の金字塔と呼ばれる第1作『ミュウツーの逆襲』に匹敵するほどの「最高傑作」だと思うわけだ。  それも、最新作としての面白さ、「今のポケモン」としてのメッセージを保ちつつ、初期のポケモンのイメージも乱反射させた、長年のファンへのサービスもたっぷりの正しき「アニバーサリー映画」になっている。  というわけで、間もなく上映終了してしまうであろうポケモン映画のコラムを、まだ見てない人向けの「ネタバレなし編(赤)」と、もう見た人向けの「ネタバレあり編(緑)」の2本立てでお送りしたい。 ■「ネタバレなし編(赤)」  今年の劇場版は、ポケモン映画としては異例だった。ポケモン映画は、毎年新しい「伝説」や「幻」と呼ばれる特別なポケモンを主役に添えて公開され、すでに子どもたちの夏の風物詩となっているわけだが、今回は予告から「おや!? ポケモン映画の様子が……?」である。まず、ポケモン映画は第1作『ミュウツーの逆襲』から、昨年公開の『ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ』(これもいい映画だった)に至るまで、タイトルに主役となる「伝説」「幻」のポケモンの名前を必ず冠してきた。19年間、一度の例外もなく、必ず、だ。  それが、今回初めて“ない”。代わりにタイトルに冠されたのは「キミにきめた!」。テレビアニメ版ポケモンの主人公・サトシが仲間のポケモンを繰り出す時に叫び続けてきた、定番のセリフだ。  さらに、パンフレットに目を向けてみると……。ポケモン映画の劇場パンフレットというのもまた、タイトルと同じように必ずメインとなる特別なポケモンが表紙を飾ってきた。しかし今作の表紙は、「サトシとピカチュウ」だ。  今作にも新しい幻ポケモン・マーシャドーが登場するのだが、主役はあくまでサトシとピカチュウということなのだ(それも、昨年までパンフレットの表紙を飾ってきた伝説ポケモンたちと同じく「横顔のアップ」の構図になっているのがニクい)。    これだけでも、今年のポケモン映画が「いつもとは違う」ことがテレキネシスのように伝わってくる。  そして最初に解禁されたキービジュアルは、サトシとピカチュウが夕景の空を見つめる姿だ。その先には、優雅に飛んでいく伝説ポケモン「ホウオウ」。これだけでピンとくる人もいるだろう。  アニメの世界でサトシとピカチュウの旅立った日、すなわち1997年の4月1日に放送された第1話のクライマックスで、サトシたちの前に姿を現したのがホウオウだった。この「ホウオウ」は、その当時まだ開発中だったゲーム「ポケットモンスター」シリーズの2作目『ポケットモンスター金・銀』に登場が告知されていた、言うなれば「まだ見ぬ」新ポケモンだった。  そのウワサの新ポケモンの登場にくぎづけになると同時に、当時ホウオウは「歴史に残るような天才の前にしか姿を現さない」という設定が語られていて、この前途多難そうなサトシとピカチュウのコンビにこれからどんな大冒険と栄光が待っているのか、僕らは胸を躍らせた。  サトシは言う。 「いつか一緒にあいつに会いに行こうぜ!」  そういうわけで、「ホウオウ」はポケモンアニメにとってちょっと特別なポケモンなのだ。そんなホウオウとの出会いをキービジュアルに添えたことからわかるように、今回のポケモン映画は20年前と同じ「サトシ旅立ちの日」が舞台。言うなれば、アニメ『ポケットモンスター』第1話のリメイクなのだ。  しかし、キャラクターにサトシの初期の旅の仲間たち(タケシ、カスミ)がいないことからわかるように、ある種のパラレルワールド、サトシとピカチュウの「もう一つの旅立ちの可能性」を描いている。  そしてその旅は、今の子どもたちはもちろん、サトシと一緒に旅をしたことがあるすべての世代に届く、感動的でちょっとビターなものになっている。  僕は、最初のポケモン赤緑からプレイした世代なので、20年前のポケモンアニメ第1シーズン(通称・無印)の第1話が放映された日、テレビの前で正座してワクワクしながら待っていた。あれ以来、20年間、ポケモンアニメはずっと側にあって、特に意識せずともふとした時にテレビを見たり、映画を見に行ったり、つかず離れずのいい関係性で一緒に歩んできたと思う。  そして、最新作『キミにきめた!』を見て、20年間好きでいられたポケモンアニメへの一つの大きな区切りがつけられた感じがしたのだ。  おそらくポケモンのアニメは、その人気が続く限り終わらない。サトシとピカチュウは、サザエさんやドラえもんのキャラクターのように永遠に年をとらないまま、終わらない旅を続けるだろう。  つまり、ポケモンアニメに真の意味での「最終回」はやってこないわけだが、今回の映画は一つの「最終回」の可能性を見せてくれる。少なくとも僕にとっては、あの日に見届けた旅立ちの、20年越しの終着点だった。「いつか一緒にあいつに会いに行こうぜ!」の「いつか」がやってきたのだ。  そんなわけで、サイゾー読者にもぜひ見てもらいたい今年のポケモン映画なのであった。 ■「ネタバレあり編(緑)」  さて、まだ見てない人はここから先に進んではいけない。  ピカチュウがしゃべった。  これは衝撃だったと同時に、とても感動的だった。  ピカチュウの想いが通じたことを表すシーンで、おそらくサトシのイメージの中の出来事なのだが、どんなにピンチになってもモンスターボールに入らないピカチュウが、その理由を「ずっと一緒にいたいから」という“言葉”でサトシに伝えるのだ。  ある意味、禁じ手とも思えるこのシーン。もちろんこんな演出は、ポケモンアニメ20年の歴史で初めてである。そもそもピカチュウは、なぜモンスターボール=ポケモンの捕獲装置の中に入らないのか?   これについては、初代ポケモンの脚本家・シリーズ構成であった首藤剛志さんがこんなことを言っている。 「いつまでも自己を失いたくないのだ。“自己を見失うな”ということも、このアニメのテーマにしたかった。ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物になりたくないのである」  ポケモンアニメを語る上で、初期のポケモンアニメを支えた首藤さんは決して無視することのできない存在だ。  今作のエンドロールにも「一部脚本・首藤剛志」のクレジットが映るので、多くの初代ポケモンアニメのファンたちを落涙させたとか、させないとか。  ポケモンアニメを貫くテーマや世界観の基礎は、この首藤さんの手による部分が大きい。原作ゲームの「ポケモン」と「トレーナー」の関係は、ともするとモンスターボールで捕獲したポケモンを「道具」のように扱って代理戦争をしているように映る。  実際にポケモンがどんなに戦い傷つき敗北しても、トレーナーは傷つくことはなく、(なぜか)お小遣いを巻き上げられて敗走するだけで、ポケモンもまたどんなに酷使されても死ぬことも文句を言うこともない。  対戦ゲームなのだから当然だが、首藤さんはこの「所有」の関係性がアニメに極力反映されないようにシリーズ構成を行った。「バトル」をアニメの主軸にせず、ポケモンとの「出会いと触れ合い」をアニメのメインテーマにしたのだ。  その結果が、ボールに入りたがらない=所有物になりたくない=自分の意思でサトシと旅をするピカチュウであり、ポケモンのために自分が傷つくことをいとわないサトシのキャラクターなのだ。  ポケモンの第1話、そしてそのリメイクでもある『キミにきめた!』で、出会ってからずっとサトシの言うことを聞かなかったピカチュウがサトシのために戦うことを決意するきっかけとなったのは、身を投げ出し、自ら傷ついてでもピカチュウを守ろうとするサトシの姿だ。  本来のゲームでは絶対に選択できないこの行為があることで、あくまでサトシとピカチュウはそれぞれが傷つき認め合った対等のパートナーであり、お互いの意思でこれからの旅がスタートすることを印象付けた。  首藤さんの作り出したこの導入がなければ、もしかしたらポケモンアニメは強力なポケモンを道具のように繰り出すバトルだけが延々と続く、ありがちな少年向けアニメになってインフレの末に短命で終わっていたかもしれない。  あくまでポケモンアニメのテーマは「勝利」ではなく「信頼」であること、それはシリーズが首藤さんの手を離れてからも繰り返し語られる。  そういう意味でも、このピカチュウがしゃべり「自分の意思でサトシと共にいる」と伝えるシーンは、長い年月を共に旅してきたからこそ成り立つシーンであり、かつポケモンアニメの根底に流れるテーマをもう一度浮き上がらせ言語化する、まさに20年間のポケモンシリーズのハイライトだった。  このシーンに象徴されるように『キミにきめた!』は、初代シリーズ構成の首藤さんの脚本を直接的にリメイクしただけにとどまらず、ちょっと味付けは甘めだが、首藤さんのイメージを受け継ぎつつ、「今のポケモン」として描き出したシーンが多く見受けられる。  ここで、ポケモンアニメにおける首藤さんについて、もう少し書いておきたい。  首藤さんの最大の功績は、サトシとピカチュウの関係性を作り上げたことともう一つ、あるキャラクターたちを創造したことにある。  悪の組織に属しながら、落ちこぼれでマイペース、あくまで独自の美学に基づいてサトシとピカチュウを付け狙うラブリーチャーミーな敵役、ロケット団のムサシ、コジロウ、そして人間の言葉をしゃべるポケモン・ニャースだ。  首藤さんは、子ども向けアニメの「優等生」的な制約の中で自由がきかない主人公チームに対比する、「遊び」がきく大人のキャラクターとしてロケット団の3人(?)を創造した。この存在が、ポケモンアニメにさらなる「抜け」を生んだのは間違いない。  かくいう僕も、ロケット団の3人が大好きで、何度も笑わされ、感動させられてきた。彼らの魅力は、「間抜け」で「落ちこぼれ」で「情けない」敵役キャラクターでありながら、やる時にはやる「自分たちの基準」を持っていて、実は本当の部分では孤高の存在であることだ。  だからこそ、どんなに間抜けでもかっこよく、その結果として何度空の彼方に吹き飛ばされようと、その敗北は清々しく希望に満ちている。アニメの文法にしたがった単純な「悪いやつ」でもなければ、「やっぱりいいやつ」でもない、自分たち自身でもどっちかわからないで画面の中でドタバタ右往左往しながら、その都度自分たちの信じる行動を選択していく。  首藤さん風に言うなら、迷いながらも「自己存在を失っていない」キャラクターたちなのだ。そう、ポケモンアニメのキャラクターたちからは、「自己存在」というテーマが見えてくる。そして、そのテーマが結実したのが、首藤さんが脚本を担当した劇場版第1作『ミュウツーの逆襲』だ。  この映画は、コピーされた生命を題材にとった「自分とは何か?」というダイレクトな「自己存在への問いかけ」がテーマだ。作られたクローン生命であるミュウツーとコピーポケモンたちは、自分の“本物”と戦い勝つことでしか“自己存在”を見つけられないと考えている。こうして自己存在を懸けて、コピーポケモンと本物のポケモンが傷つけ合う。ミュウツーも、自らのクローン元であるミュウと激突する。  そんな中、相手を傷つけることを拒否するポケモンがピカチュウと、クローンと一緒にただ月を眺めているニャースだ。ロケット団のニャースは、人間になりたくて、人間の言葉をしゃべれるようになった、非常に変わったポケモンだ。人語習得という大技に力を使い果たしたばかりに、進化したり、新しい技を覚えることすらできない=もはやポケモンとしての機能を持っていない、という設定もある。ピカチュウと同じくモンスターボールには入らず、ムサシとコジロウともあくまで「同僚」であり「対等な仲間」だ。彼はポケモンでありながら、人間でもある、言うなれば「境界線上のポケモン」といえる。そしてそれは、ポケモンでもなければ、人間でもない、「何者でもない」ことでもある。  そう、「自己を見失わない」ということは、「誰の所有物にもなれない=どこにも属することができない」ということと背中合わせなのだ。ピカチュウもまた、トレーナーの所有物でもなければ、野生のポケモンでもない。  彼らは、自分たちの自己存在の曖昧さを抱えながら、それでも「自分でいよう」という選択を続けてきた。だから、「何者でもない」葛藤を恐れないし、そのために他者を傷つけることを選ばない。この戦いを見て「昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで、やな感じ~」と嘆く、ムサシとコジロウ。彼らも「悪役」でもなければ、「正義の味方」でもない。組織の中で出世することもできなければ、誰に感謝されるわけでもない。それでも「自分」でいようとしてきた彼らは、「他者」の存在を否定しない。 「自己存在を失わない」者は、「他者との共存」を選択できるんじゃないか。これもまた、首藤さんがポケモンシリーズに込めた想いの一つでもある。実は、ポケモンアニメは放送開始の段階では1年、そのあとも長くとも4年で終わる予定で、首藤さんはすでに最終回の構想を持っていた。  この『ミュウツーの逆襲』にも、幻の最終回へとつながる要素がちりばめられているという。このプロットは、いろいろなところに掲載されていると思うので、ここでは手短に話そう。 ***  ある日、「ポケモンと人間の共存は不可能」という結論に達した両者が対立し、大きな争いになっていく。ポケモン側のリーダーに担ぎ上げられたピカチュウは、サトシと共に戦いを止めようとするが事態は改善せず苦悩する。  そんな中、奮闘するのが、あのロケット団の3人だ。彼らの存在が、人間とポケモンにとっての「共存」の道標になり、さらにミュウツーも現れる。  ピカチュウ、ロケット団、ニャース、ミュウツー……みんなその葛藤を抱きながらそれでも「自己存在」を求めて旅を続けてきた。次第に彼らは「自己存在への問い」に答えを見いだしていく。 「自己存在のある限り、我々はどんな者たちとも共存できる」という答えを。  ……年月がたち、老人になったサトシが過去のことを回想している。ピカチュウとの冒険の日々は、少年時代の幻想だった。  ポケモンたちは、少年時代のサトシの目を通して見ていた架空の存在だったのだ。翌朝、目を覚ましたサトシは、また少年の姿。しかし、その世界にポケモンはいない。今度は現実の世界で、自分を探し、他者との共存を目指す旅が始まるのだ。 ***  このプロットには、いつか虚構(ゲーム)の世界と別れ、現実へと回帰して自分の世界で一歩を踏み出してほしい、そしてその世界で「自己存在」と「他者との共存」を目指してほしいという首藤さんのメッセージが感じ取れる。  さらに、この幻の最終回のプロットを見ると、今回の『キミにきめた!』の中にいくつかのイメージが反映されているのがわかる。  特に、「老人になったサトシ=サトシのような服装の老人・ボン」「ポケモンのいない世界=マーシャドーによりサトシの見た夢(?)の世界」の2つは顕著だ。  しかし、映画ではこれらの意味合いが反転して使われているのも面白いところだ。首藤案では大人になりポケモンのいる世界に別れを告げている老人サトシだが、映画に登場するボンという老人はホウオウを20年間追いかけ続ける「ポケモンを卒業できない大人」なのである。  これは、首藤さんの言うところの「虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子ども」そのものである。  そして、20年たった今もポケモンの世界を卒業しないでいる、僕を含むファンの姿でもある。さらに、「ポケモンのいない世界」がマーシャドーの見せた「悪夢」的な空間として描かれているのも印象的だ。最終的にサトシは、ピカチュウの存在を思い出すことで、ポケモンの世界へと回帰する。  しかし、ここの描き方に違和感を覚える人もいるのではないだろうか? これ、もしかしたらポケモンの世界のほうが夢なのではないか、マーシャドーの影響で少年の純粋さを失いかけたサトシが「ポケモンの夢」から覚めかけてしまったのではないか……などと、妄想すればきりがないが、とにかく首藤さんのイメージを乱反射させつつ、その解釈は逆になっているのもまたこの映画の面白いところなのである。  首藤案では、最後にポケモンのいない世界での冒険が始まるところでエンドマークとなる。「ポケモンの世界」と決別しながら、これから視聴者の子どもたちが飛び込んでいく現実の世界に希望を持たせるエンディングだ。  対して『キミにきめた!』のラストシーンは、いつも映画の冒頭に流れる「ポケットモンスター、縮めてポケモン」から始まる「ポケモン」の存在をもう一度再確認するナレーションが流れる。  これはサトシと、それを見守る僕らの旅がこれからも続いていくことを予感させる、虚構の世界(ポケモンワールド)の希望に満ちたものだ。  この2つのエンドマークが指し示しているものは、大きく違う。  ポケットモンスターは、スタートした時からは想像できないくらい長い歴史と多くのファンを持つようになった。アニメのポケットモンスターも、もちろん首藤さんだけのものではないし、首藤さんが関わらなくなってからのポケモンアニメの歴史のほうがはるかに長いのだ。  多くの人々が共に歩んできて、これからも歩んでいくポケモンにとっては、今のエンディングがふさわしいのだろうと思う。 『キミにきめた!』は、首藤さんをはじめ、原点であった「かつてのポケモンアニメ」へのリスペクトと、「今のポケモンアニメ」としてのメッセージや挑戦が融合した映画だ。その2つが、まったくの別物だとは思わないが、やはり同じものであるともいえない。  ポケモンアニメは変わり続けてきた。これからも今の子どもたちに届くような新しい進化を続けていくだろうし、それを願っている。  ただ、20周年という節目に、過去と現在のポケモンをつないでくれた『キミにきめた!』は、20年に一度のポケモンアニメからの素晴らしいギフトだった。それだけは記しておきたい。 ※首藤剛志さんの発言等については、「シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家」(http://www.style.fm/as/05_column/05_shudo_bn.shtml)からの引用です。首藤さんが自身のキャリアについて独特の筆致で書き残した素晴らしいコラムです、興味のある方はご一読を。 ゴジラ映画史上最大の異端児坂野義光監督に捧ぐ『ゴジラ対ヘドラ』にまつわるエトセトラの画像2 ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

“ゴジラ映画史上最大の異端児”坂野義光監督に捧ぐ『ゴジラ対ヘドラ』にまつわるエトセトラ

ゴジラ映画史上最大の異端児坂野義光監督に捧ぐ『ゴジラ対ヘドラ』にまつわるエトセトラの画像1
『ゴジラ対ヘドラ 東宝DVD名作セレクション』(東宝)
『ゴジラ対ヘドラ』という映画がある。  ゴジラシリーズの11作目として1971年に公開されたこの映画は、シリーズ最大の「異色作」ともいわれ、一部ゴジラファンの間で熱烈な人気を誇る。  当時の社会問題であった「公害」が受肉し、そのまま実体化したような怪獣「ヘドラ」と、ゴジラが戦う――。新怪獣とのバトルが通例となっていたこの時期の娯楽路線のゴジラにおいて、ヘドラは異端の対戦怪獣だった。  そもそもゴジラは、人間の生んだ「核」という負の領域からヌッと現れた怪獣だ。54年の第1作『ゴジラ』で、人々はその存在に戦争の亡霊を見いだし、恐怖した。その脅威を排除するために全力を尽くし、沈みゆくゴジラに自らの過去も重ねて祈りを捧げた。  それから時がたち、地球の、子どもたちの味方になっていったゴジラの前に立ちはだかったのは、くしくも同じ人間が生んだ「公害」という負の領域からヌッと現れたヘドラだ。言うなれば、ヘドラは70年型の「新ゴジラ」だった。  この映画では、メッセージを背負っているのはゴジラではなく、ヘドラのほうなのだ。子どもの声に応えてどこからともなく現れたゴジラは、もはや実態を持たない、子どもたちが生んだ妄想のヒーローのようにすら見える。重量もなければ、奥行きもない、書き割りのようだ。そして、ヘドラは強い。ゴジラが対峙した怪獣の中でも最強の部類だ。  感情を見せず、ただヘドロやスモッグを吸いつくし、全身から有害物質をまき散らし、無尽蔵に成長することだけを本能としている。それはそのまま、公害を撒き散らしながら膨れ上がる日本の姿を暗示している。メッセージを持った敵は強い。  痛みも感じず、体が崩れても死なないヘドラに対して、今作のゴジラは鬼神のように立ち向かう。新たな「ゴジラ」であるヘドラに勝つには、自身の「ゴジラ」を取り戻すしかない。敵の「重さ」をむしり捨てるように、ヘドラの肉体をえぐり取っていく。  これはゴジラにとって「アイデンティティー」の戦いなのだ。  そこには余裕に満ちたヒーロー然とした姿はなく、ただ目の前の脅威を消滅させるために泥にまみれ、片目を潰され、腕は白骨化し、人類の武器まで利用して、満身創痍で辛くも勝利する。夕日に照らされ、死にゆくヘドラを傍目に佇むゴジラ、そこにかぶさる荘厳なコーラス。その姿は、自らの亡霊を葬り去っているかのようだ。第1作で沈み行くゴジラを見つめた人々と、ゴジラがダブる。  映画は、「そして、もう一ぴき?」という新たなヘドラの出現を予感させるスーパー(字幕)で終わる。  これもまた、新たなゴジラの存在を予感させた第1作目の『ゴジラ』と同じだ。  僕は、この『ゴジラ対ヘドラ』こそが、第1作目の『ゴジラ』に迫ることができた唯一のゴジラ映画だと思っている。そこには、監督の「ゴジラには、その時代の文明批評的なメッセージが必要だ」という並々ならぬ想いがあるからだ。  この映画を監督したのが、坂野義光さん。生涯において、メインの監督作はこれ1本。そして、その坂野さんは、5月7日に亡くなった。享年86歳。  少し自分の話をしたい。人にはそれぞれの「特撮」を卒業するタイミングがある。僕にも、特撮を卒業しそうなときが二度あった。一度は、小学校高学年になったとき。アニメや漫画やゲームに夢中で、特撮番組を見なくなった。これは、ほとんどの人が特撮番組を卒業する至極まっとうなタイミングで、多くのクラスメイトも戦隊ヒーローの話をしなくなったし、怪獣ソフビを買ったり、ウルトラマンのガチャガチャを回す人もいなくなった。  でも、そのときハマったアニメとその監督が、特撮のDNAを持っていることに気づき、すぐに戻ってきた。  そのアニメは『新世紀エヴァンゲリオン』で、監督は雑誌でスペシウム光線のポーズを決めている庵野秀明さんだった。  次のタイミングは中高生のときで、こちらのほうが大きかった。音楽に目覚めたのだ。それまで漫画家志望だったのに、一夜で音楽家に変わった。とにかく曲を作ったりする人になりたかった。特に「サイケ」と言われる音楽が妙に気に入った。どこまでがハードロックで、どこらへんがサイケで、どこからがプログレかよくわからなかったが、反復されるリズムや、エコーの効いたボーカル、主役のオルガン、ワウ、ファズが気に入った。  子どもの頃に好きだった特撮に対する興味は薄れて、音楽に夢中になった。  そんな時に、何かの雑誌で「ヘドラはサイケだ!」という一文を見つけた。言われてみれば、子どもの頃に見た『ゴジラ対ヘドラ』は変な映画だったよな……と思い返し、レンタル屋で借りて見てみた。  そこからの91分。開始早々に突如流れる「かえせ!太陽を」というサイケデリック歌謡曲、「水銀、コバルト、カドミウム……」と公害物質を連呼するAメロ、「かえせ!」「かえせ!」の大合唱、子どもからゴジラに捧げる作文、オタマジャクシのようなヘドラの融合と成長、ボディペインティングの歌姫と、魚人間が踊り狂うゴーゴークラブ、荒削りなバンドの演奏、麻雀中にヘドロに巻き込まれて死ぬサラリーマン、ヘドロに沈むメガネ、32分割されるニュース映像、赤ん坊の泣き声、不吉なアニメーション、バタバタと倒れる女子学生、めちゃくちゃ唐突に白骨化する通行人、富士の裾野100万人ゴーゴー(100人くらいしかいない)、役に立たない自衛隊、そして悲痛なまでのゴジラの死闘、強烈なイメージの数々が流れ込んできた。  この瞬間、自分の「好きになった物」と「好きだった物」がつながり、直列電流のような強力な電気が体内を走った。 「おれ、こういうのが好きなんじゃん!」  人生が決まってしまったような瞬間だった。  それ以来、僕は自分が好きになるものを、直列電池のようにつなぎ合わせて生きてきた。一人の人間のことだ。同じリズムの中で愛したものに、古いも新しいも、はやりもダサいもない。 『ゴジラ対ヘドラ』は、僕の中で大きな作品となった。  さて、冒頭で書いたように坂野さんは、この『ゴジラ対ヘドラ』の1本しかメインでの監督をしていない。もともと東宝で黒澤明監督はじめ数々の巨匠の助監督を務めた経験のある坂野さんは、70年の大阪万博・三菱未来館での映像制作を大成功させ、新進気鋭の監督として抜擢された。その記念すべき1作目が『ゴジラ対ヘドラ』だったのだが、それだけのキャリアを持つ坂野さんがこれ1本しか監督をしていないというのは不思議な話だ。一部では「坂野義光は“ゴジラを飛ばして”東宝の逆鱗に触れて、干された」ともいわれている。 『ゴジラ対ヘドラ』のクライマックス、死闘の末にヘドラを追い詰めたゴジラだったが、ヘドラは使い古した肉体を脱ぎ捨てるように脱皮し、飛翔して逃げ出してしまう。それを追いかけるべくゴジラが取った行動は、尻尾を抱え込むようにして丸まり、口から地面に向けて放射火炎を噴き出したのだ。その「逆噴射」ジェットで空に飛び上がったゴジラは、そのまま飛行してヘドラを追いかけ、体当たりで叩き落とす!  それまでのゴジラにはなかった強烈なこの「空飛ぶゴジラ」のシーンが、坂野さんが「ゴジラを飛ばした男」とまで呼ばれる由来だ。  しかし、公開後にこのシーンを見たプロデューサーの田中友幸さんが難色を示し、「ゴジラのキャラクターを変えてもらっては困る」「坂野にはもう特撮映画は撮らせない」と述べたという。真偽のほどはわからないが、日本映画の斜陽とも重なり、この数年後に坂野さんは劇映画の世界を離れることとなる。  では、これで坂野さんの映像作家としてのキャリアは終わってしまったのか?  そんなことはない。むしろ、ここから坂野さんは、その行動力と企画力で、数々の功績を残していく。 まず、坂野さんは助監督時代から培ってきた水中撮影の技術で、数々の水中映像のドキュメンタリーの傑作を生み出していく。困難に直面しながらも、水中撮影のノウハウを切り開いてきた坂野さんは、日本の水中撮影のパイオニアと言っても過言ではない。  さらに万博での経験から、大型映像の未来を予感した坂野さんは、独自に日本初の大型映像「ジャパネックス・システム」を開発。80年代には、大型映像用のコンテンツの制作にも積極的に関わっていく。  いまやIMAX3D、4DMXなどの大型上映システムが映画の主流になっているが、坂野さんは40年も前からこの未来を予測し、その普及と発展に尽力してきた。  そして坂野さんの夢は、この大型映像システムで、もう一度ゴジラの映像を作り出すことだった。2003年、坂野さんはIMAX3D用にゴジラとヘドラが登場する短編を企画し、東宝との権利契約も締結する。  しかし、この『新ゴジラ対ヘドラ』は資金難に直面し、企画は頓挫寸前になってしまう。転機は10年、この短編3D映画の企画がとある人物の目に止まり、そこから「坂野版3Dゴジラ」は、さらに規模を拡大してハリウッド製作の長編映画として生まれ変わることとなる。  その人物が、レジェンダリー・ピクチャーズのトーマス・タル会長であり、その企画から生まれたのが、14年に公開されたギャレス・エドワーズ監督作『GODZILLA』だったのだ。この大作映画のスタッフロールに、坂野さんは「エグゼクティブ・プロデューサー(製作総指揮)」として大きくクレジットされた。  坂野さん自身の願いであった「環境問題に根ざしたシナリオとメッセージを」という想いも反映され、原子力発電所の事故を背景としたシナリオが完成した。  坂野さんは、自らのデビュー作であり、自身が特撮映画の世界を去るきっかけともなったゴジラの世界に、40年ぶりに帰ってきたのだ。そして、それはゴジラ映画自身の10年ぶりの復活でもあり、その復活の仕掛け人がゴジラ映画史上最大の異端児だった、というオマケ付きだ。  こんな痛快なことがあるだろうか?  スタッフロールに出た「YOSHIMITSU BANNO」の名前に、多くの『ゴジラ対ヘドラ』ファンは感動した。この坂野さんの企画書からスタートしたレジェンダリー版ゴジラは、今後も続編が予定されており、坂野さん亡き後も続いていく。  長年の夢を実現させ「新ゴジラ」をハリウッドで完成させた坂野さんだが、まだまだやりたい企画が山ほどあるようだった。14年、僕が見に行った坂野さんのトークショーでも、ヘドラが登場する新しい企画を進めたいと語っていた。  最近も、福島第一原発事故により新たなヘドラが登場するという『新ヘドラ』の企画を進めていたという。亡くなる直前まで、いくつもの企画を構想し、最新の映像技術を追いかける「現役映像作家」だった坂野さん。  そのエネルギーを『ゴジラ対ヘドラ』という1本の映画の中で追体験できる僕らは幸福だ。そして、坂野さん自身による『新ヘドラ』は残念ながら実現しなかったが、人間がいる限り、その陰から生まれる怪獣もまた、必ずいる。  新たなゴジラ、新たなヘドラは、時代の陰からヌッと現れてくるだろう。だからこの原稿も、このスーパーで終わる。 「そして、もう一ぴき?」 参考文献:『ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』 ゴジラ映画史上最大の異端児坂野義光監督に捧ぐ『ゴジラ対ヘドラ』にまつわるエトセトラの画像2 ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

「昭和最大のミステリー」下山事件を読み解くブックガイド

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『日本の黒い霧〈上〉』(文藝春秋) 
 昨年、海の向こうのトランプ大統領が使った「ポストファクト主義」という言葉が注目を集めた。「ポスト真実」とも言うらしい。無数のあらゆる情報が飛び交う現代においては、「真実かどうか」よりも「それに対する感情や、個人的な意見」のほうが影響力を持っている、という意味の言葉だ。この言葉を聞いた時、僕は「下山病」を思い出した。  そう、日本には「下山病」という病気がある。60年以上前に生まれたこの病は、一度かかると非常に治療が難しい。  ゲザンビョウ? 高山病の逆? いやいや違う。「しもやまびょう」と読む。初代国鉄総裁・下山定則氏の名前に由来する。下山総裁こそが、昭和最大のミステリーと呼ばれる「下山事件」の主役であり、このミステリーの謎解きに取り憑かれた人々を「下山病患者」と呼ぶのだ。  1949年7月6日午前0時30分過ぎ、常磐線・北千住駅と綾瀬駅の間の線路上で、列車に「轢断」された死体を発見した。約85メートルにわたってバラバラになっていたその轢死体は、色白で肉付きがよかったために当初は女性と思われたが、散乱する所持品の中に「国鉄総裁・下山定則」の名刺等が発見されたことから、事件は急激に騒がしくなっていく。まさに、轢死体発見の15時間前、下山総裁は日本橋の三越に入っていく姿を運転手に見届けられたのを最後に行方不明となり、失踪事件として捜査が開始されていたのだ。轢死体は、下山総裁本人であることが確認され、このニュースは列島中を駆け巡った。  
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現在の日本橋三越(筆者2017年撮影/以下同)。下山総裁は、三越の重役や得意客などが使う本店南口から入って失踪した。店内で複数の店員に目撃されている
 下山氏は、同年に発足した国鉄の初代総裁となった人物だ。技術畑出身でありながら異例の抜擢を受けた彼に課せられた仕事は、実に10万人近い国鉄職員の人員整理。1949年当時は本格化する冷戦に突入した時代であり、日本の占領統治を行うアメリカは、日本を「反共産主義の砦」として再生すべく、経済の立て直しを急いでいた。そのために実施された「ドッジ・ライン」と呼ばれる経済政策の一環として、全国で28万人の公務員の人員整理、いわゆる「首切り」を日本政府に要求した。下山総裁は事件当時、まさにこの人員整理を迫られ、そのリストを発表している最中だった。こうした緊迫した状況の中での、遺体発見。  当初は、これらの「首切り」のプレッシャーを受けての「自殺」と考えられ、マスコミもそれに寄った報道を行った。しかし、遺体の司法解剖の結果からは「他殺」の可能性が浮かび上がった。それだけでなく、検視を行った各機関による見解が、「他殺」と「自殺」で真っ二つに割れたのだ。注目されたのは、列車に轢断された下山総裁の遺体が、生きている状態で轢断された=「生体轢断」か、死んでいる状態で轢断された=「死後轢断」か、だ。生体轢断なら自殺である可能性が高いが、死後轢断ならどこか別の場所で殺害されて線路上に放置された、つまり他殺だということになる。それを判定する鍵は、下山総裁の傷口が生きている間にできたことを示す「生活反応」があるかどうかだ。最初に司法解剖を行った東京大学の古畑教授は、死後轢断と判定した。つまり他殺だ。しかし、そのあとに司法解剖を行った東京都監察医務院の八十島監察医、慶應義塾大学の中舘教授は「生体轢断」、つまり自殺の可能性が高いと主張した。マスコミもこれに追従し、朝日新聞や作家の松本清張などは「他殺」、毎日新聞などは「自殺」を支持し、一大論争に発展した。 「他殺」「自殺」それぞれを支持する人々によって無数の証拠や証言が集められたが、結局、論争が結論を見るには至らず、捜査本部は同12月31日に解散。翌年、「自殺」と結論付ける内部資料「下山白書」が週刊誌に流出、という非公式な形で一応の結末を見た。しかし、この報告書に対しても、「他殺派」から無数の事実誤認や捏造を指摘されている。 ……と、あらましがめちゃくちゃ長くなってしまったけど、お察しのように、こういうことがサラサラと書ける時点で、僕も「下山病」罹患患者の一人なのだろう。いやいや、僕なんかかなり軽度のほうだと思うが。それで、今回の記事なんだけど、「下山事件」の真実に迫ろう!ということではない。そんなことをしたら、それこそ何十年という歳月、何百ページという原稿が必要になる。じゃあ、何をやろうかというと、この国でひそかに増殖を続けてきた「下山病」の世界を、代表的な書物を読み解くことで、ちょっとガイドしてみようと思う。なんたって、この「下山論争」、今も続いているのだ。今この瞬間も、書籍コーナーの一角で、ネットの片隅で、下山事件に関する「新事実」が現れては消え、「自殺なのか他殺なのか」「他殺なら黒幕は誰なのか?」という論争が続いているのだ。  下山事件に関する書籍のうち最も有名で、導入に適しているのは、推理小説家・松本清張の『日本の黒い霧』(1960年)だろう。戦後、GHQ統治下で起きた事件に焦点を当て、裏で糸を引くGHQの陰謀を暴き出したノンフィクション小説で、一大ベストセラーとなり、「陰謀=黒い霧」という概念を日本に植えつけた。下山事件に関する本はどれも情報量が多いために分厚かったり、また本職の物書きでない人が書いているものが比較的多いということもあってか、「ん? 文章が読みづらいかな?」っていう瞬間も少なくない。要するに、完読するのに気合が必要な本が多く、よほど興味のある人でないと読み切るのが難しいものもある。でも、この清張の『日本の黒い霧』なら大丈夫! 「帝銀事件」「松川事件」などのいくつかの事件に関する推理がオムニバス形式で収録されていて程よい長さだし、さすがベストセラー小説家! という感じでグイグイ読ませる。事件の概要がとてもわかりやすい名著だ。ただ、前述のように清張の結論は「他殺」であり、本書でもさまざまな推理を巡らせ黒幕を暴き出しているのだが、いかんせん、全体的に論拠に疑問点が残るものが多い。残念ながらノンフィクションとしては取材も不十分で、あくまで下山事件を題材にした「推理小説」として読みたい一冊だ。
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旧八洲ホテル跡地。三越から徒歩数分の場所にあった八洲ホテルは、清張が「黒幕」と指摘したGHQ参謀第2部(G2)の特殊部隊「CIC」の拠点であった
 さてそれでは、コレ! と言える「他殺本」はどれか? 事件発生当時から取材を担当し、独自の調査で線路上の血痕などさまざまな「新事実」を見つけ出し、捜査本部にも食い込んでいた朝日新聞の記者・矢田喜美雄氏が執筆した『謀殺 下山事件』(1973年)だろう。映画にもなった本書には、とにかく新事実や新証言が多く登場し、「他殺派の急先鋒」として、さまざまな「下山本」に引用される機会も多い。本書を読めば、ほとんどの人が間違いなく「なるほど……これは他殺なんじゃないか」と考えるだろう。一読者としては、それくらい「他殺」という結論への導き方が、勢いと説得力に満ちているパワーのある本だ。だがしかし、問題点として挙げられるのが、その「新事実」を証言する「新証人」が、みーんな仮名だったりイニシャルだったりで、どこの誰だかわからないことだ。確かに昭和の闇に迫る危険な証言で匿名なのはわかるが、あまりにも都合よく、「この本にしか登場しない新証人」が多すぎないかい? という疑問は当然湧いてくる。「他殺」という結論に向かって走っていくためのパーツを、ムリヤリこしらえたような違和感は拭えない。これは多くの書籍で批判されている部分で、後に平成3部作といわれる「平成になってから出版された下山本」でもやり玉に挙がっている。  その平成3部作の中では、『下山事件 最後の証言』(2005年)は読み逃せない一冊だろう。平成3部作はそれぞれ別の著者が書いているが、基本的にこれが「元ネタ」といってよい。本書は実にセンセーショナルだ。なんたって、著者・柴田哲孝氏の祖父が下山事件の実行犯として深く関わっていた!? という内容なのだ。その祖父が所属した実行犯グループと名指しされる「亜細亜産業」なる会社についての調査・考察が、「平成3部作」共通の大きなキモだ。さまざまな証人に会い、謎に迫っていく――という筋書きは、読み物としてめちゃくちゃ面白い。実行犯グループの写真なども多数掲載されていて、もうこれが正解ジャン、やばいジャン、他殺ジャン、と思うだろう。とにかく近年話題になった「下山本」の中で最もインパクトが大きく、「亜細亜産業関与説」は今ではスタンダードのひとつになっている。
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旧ライカビル跡地。「亜細亜産業」が入っていたといわれるライカビルは、写真の正面のビルの右脇にあった。正面の旧日本貿易会館ビルは、地下通路で三越とつながっている。
 さて、ここまで読んで「あれ?」と思う人もいるかもしれない。「他殺派の本ばっかで、自殺派の本がないじゃん」と。そうなのだ。下山事件に関する本、いわゆる下山本で話題になるのは、ほとんどが「他殺本」だ。自殺派の本もあるにはあるが、まずそもそもの数が少ない。さらに、当然っちゃ当然なのだが、「下山事件は、謀殺事件だった! 新事実発見! 黒幕は…○○!」というセンセーショナルな切り口の本でなければ、ちっとも売れないし話題にもならない。そのため、「実はね~自殺だよ」という本はどうしても地味な扱いを受けて読まれる機会も少なく、早々と絶版になってしまうのだ。結果、世に出回るのは「他殺派」の本ばかり、という状況になる。実際、下山事件を少しかじったことのある人は、「果たして誰が? どの組織が黒幕か?」という部分において差異はあっても、ほとんどの人が「下山事件は他殺に決まってる」と考えているんじゃないだろうか。僕も実際、いろんな他殺派の本を読みあさっていた頃は、「これは絶対、謀殺だよな~」と考えていた。しかし、次に紹介する本を読んでから、「どうもおかしい」と考えだすようになった。「自殺派のバイブル」であり、「究極の下山本」、佐藤一著『下山事件全研究』(1976年)だ。
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 とにかく、分量が多い。600ページオーバー、しかもすべて小さな文字の二段組みで、よほどの読書ジャンキーじゃないと、これを読み切るのは不可能だ。それもそのはず、本書は、事件に関するあらゆる資料や証言、そして検証実験の結果を極力「客観的」に網羅しようという意図で作られた本なのだ。そのため、分量は膨大で、かつストーリー仕立てになっていないために「物語を追っていく興奮」などまったくない。著者の佐藤氏は、福島県で起きた列車転覆事故「松川事件」の被告として一度は死刑判決を受け、その後「冤罪」が証明され、無罪を勝ち取った人物だ。清張らに誘われ、下山事件の研究に参加したが、さまざまな調査を進めるにつれ、「自殺」への確信を深めていき、清張らと袂を分つことになる。研究の集大成を提示し、そこから導き出される結論として、本書は「自殺説」を支持し、各「他殺説」への反論も掲載している(前述の『謀殺 下山事件』への反論もある)。言うなれば、とてつもなく硬派な「自殺派」の本なのだ。その上、76年に出版されるも、09年に再版されるまで、ずっと絶版だった。そもそもかなり高い本なのだが、絶版なので一時期は古書市場で高値がついていた。片や、紹介した他殺派の『日本の黒い霧』『謀殺 下山事件』『下山事件 最後の証言』は、どれも文庫でも出版されていて、書店でワンコインでお手軽に安く買える。どう考えても、『全研究』は誰にも読まれない。一人の読者が本書を手に取る間に、一体何千人の読者が他殺派の本を読むんだろうか。そんなことを考えてしまうほど、ハードルの高い本だといえる。  しかし、そのハードルを越えて読むと、驚かされるのは、諸々の「下山本」が、どれほど「自分たちの望む結論に都合の良い証言や実験結果」しか引用していないか、ということについてだ。もちろん、『全研究』は結論から言えば「自殺派」の本であり、自殺と結論付けるバイアスが「まったくかかっていない」と言う気はない。しかし、それが極力少ないのは間違いなく、これが感覚としてわかるだけでも、本書には一字千金の価値があるんじゃないだろうか。これに照らし合わせると、平成3部作の『下山事件 最後の証言』も、かなり重要なポイントを「あえて」いくつも無視して「結論ありき」で話を進めている、という事実が見えてくる。『最後の証言』はものすごく興味深く面白い本だが、僕はこれもまた下山事件を題材にとった推理小説のようなものに近いと考えてしまう。  それで、冒頭の「ポスト真実」の話に戻るのだが、下山事件に関する証言や実験結果は、うわさ話のようなものも含めれば無数に存在する。そもそも司法解剖の結果ですら、それぞれの研究機関によって判定が違うのだ。尽きることなく結論の違う「陰謀」が暴き出され続けることからもわかるように、極端な話、必要なパーツだけを望むようにピックアップしていけば、自分の思い描くストーリーを構築するのも不可能ではないのだ。たとえば下山総裁の奥さんの発言として、失踪直後に「自殺かもしれない」と心配していたとする証言Aと、後年になって「下山は殺された」と周りに言っていたとする証言Bが存在する。自殺派は証言Aだけを、他殺派は証言Bだけをピックアップする。こうして意識的にせよ無意識的にせよ、無数の取捨選択が繰り返された結果、われわれが「真実」として受け取ってきたストーリーが作り上げられるのだ。そして「真実」が謎である限り、あらゆる推論に等しく真実である可能性がある。いや、もはや真の意味での「真実」は問題でなく、下山事件には「それに対する感情や、個人的な意見」だけが存在するのかもしれない。まさに、下山事件は「面白ければ、なんでもあり」の、「ポスト真実」を地でいく無法地帯なのだ。  そして、この無法地帯を永久にさまよい歩く病が、「下山病」だ。「真実」という太陽を探して、地面を掘り続けるのだ。空を見上げることなく、死ぬまでそれを続けるのだ。「おそろしい病気だな~」と思った。そこのあなた。ここまで原稿を読んだら、もう、伝染(うつ)ってますよ。 *** 【後記】  暖かくなってきた4月のある日、僕は五反野を訪れた。駅から10分ほど歩いた、線路脇の道や公園からやや遠めに見える伊勢崎線(いまは東武スカイツリーラインというらしい)と常磐線が交差するポイントが、68年前に下山総裁が列車に轢かれた場所だ。夜の闇の中に電車が通るたび、音を立てて地面を揺らし「そこ」を光のレールが通過する。轢断現場の近くの高架下の、ほとんどの通行人が見逃しそうな片隅に、「下山国鉄総裁追憶碑」が作られている。そこに添えられた下山総裁の肖像を見ていると、時代に翻弄され無念の死を遂げた一人の紳士の姿が浮かび上がってくる。下山本を読み進めたある時から、それまで「昭和最大のミステリー」のパーツのひとつにすぎなかった下山総裁という存在が、穏やかな表情で、一人の人間として、自分の中に立ち上がってくる瞬間があった。時代が違えば、優秀な技術者としての職務を全うしたかもしれない、市井の人として穏やかに生きたかもしれない。もちろん会ったことも話したこともない人物だが、先述の「真実」がなんであれ、彼の魂の安寧に想いをはせずにはいられない。下山事件の無法地帯では、こういう「感情や、個人的な意見」も許されるだろう。合わせた手をほどいて歩きだすと、夜風に吹かれて、その感情はどこかへ吸い込まれるように飛び去っていった。その風の行く先を見ると、下山事件が、今も風に吹かれて揺れている。
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下山総裁轢断現場周辺
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「下山国鉄総裁追憶碑」
「昭和最大のミステリー」下山事件を読み解くブックガイドの画像8 ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

「ラーメンは減点法の食べ物」である

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イメージ画像(足成より)
「おいしさ」や「味」を定義する言葉というのは、たくさんある。たとえば「とってもフルーティー」。これ、相当難しい言葉だと思う。僕は、生レバ刺しを食べると、よく「とってもフルーティー」と言う。そのたびに、周りからは意味不明だと非難の声が上がる。しかし、僕の中では、新鮮でおいしいレバ刺しは「フルーティー」以外の何ものでもないのだ。プリプリと、まるで果実にようにみずみずしく、さわやかささえ漂ってくる。「いや、フルーツ味じゃないし」と言われたら、それはおかしいと反論する。「フルーティー」が果実にだけ使われる言葉だとしたら、果実は当然全部フルーティーに決まってて、そんな言葉は必要ないだろう。なら「ホタティー」という言葉があったら「このホタテ、すごいホタテ味で、とってもホタティー!」と使うのか? ホタテ関係にしか使えないのか? ここでは、フルーティー=果実そのものでなくても「果実のように」おいしいものやみずみずしいものも指す言葉に違いないのだ。味ってさ……それくらい自由なものなんじゃないんか? と、一語でもこんなふうに開幕と同時に侃々諤々と議論する。  いかように、「食」にまつわる言葉は難しい。「味」や「おいしさ」「食べ物へのイメージ」は人それぞれの主観的なものだし、万人を納得させる「食言葉」は意外と少ないのではないか。  この手の「食」にまつわる言葉をいろいろと思い浮かべると、最高の市民権を得ているのは「空腹は最高のスパイス」ではないだろうか? これに異を唱える人は少ないだろう。「いやいや、聞いてくれよ! 俺はおなかいっぱいのときのほうが、なんでもおいしくなる!」っていう人がいたら、それは病気か呪いだ。子どもでも老人でも「空腹は最高のスパイス」なのは間違いない。この言葉の持つ圧倒的メジャー感、メインストリーム感はすごい。ロックでいうビートルズ、漫画界でいう手塚治虫のような、燦然と輝く金字塔だ。  さて、最近、僕には非常にお気に入りのラーメン店がある。一番ハマっていた時期は、わざわざ電車に乗って毎日のように通った。このラーメンを食べたときには、ちょっとそれまで味わったことのない感動があった。10席もない小さめのラーメン店なのだが、すべてにおいて非の打ちどころのないラーメンを出す。烏骨鶏のラーメンで、ハム状のしっとりした鳥チャーシューと、気の利いた旬の青野菜が添えられている。トッピングはワサビというのも変わり種だ。そのラーメンを何度か食べながら、「いったい、こんなに俺のハート(と胃袋)を撃ち抜くこのラーメン、ほかのラーメンと何が違うんだ?」と考えた。確かに、とてもうまい。ズルズル。しかし、うまいラーメンには、人生の中でたくさん出会ってきたはずだ。ズズーッ……。では、このラーメンだけ何が違う……? ゴクリ。  すると、食べ終わった瞬間に、あることに気づいたのだ。食べ始めたときにおいしいのは当然なのだが、食べ終わったときの満足感が違うんだ、ということに。一口目の「うま~い」という100点の気持ちが、最終的に最後の一口を食べるときまで下方修正することなく100点で「うま~い」のだ。グラフに表すと横一直線。昔からラーメンについて思っていたのは、一口目はおいしいけど、食べ進むうちに急降下していき、最終的に本当の意味での満足を得られない食べ物なのではないか……? ということだ。どんな食べ物でもそういう傾向はあると思うが、ことラーメンは、その傾向が強いんじゃないか、という疑いが拭えなかった。店に入ったときのワクワク感、「これからラーメン食べてやるぜ!」という気合が、「うひょ~、こんなにおいしい食べ物があっていいのかしらん」という一口目を経由し、食べ進むほどに減退していき、店を出るときには満腹感と同時に、一種特有の倦怠感に変わっている。グラフに表すと……表さなくていいか。とにかく、これが僕の抱くラーメンのイメージであった。「いや、当然だろ、それが普通だろ」「お前が年取っただけだよ!」と憤りの諸兄。僕もそう思っていた。しかし、それが、このラーメンにはなかったのだ。店に入ったときのワクワク気分と、店を出るときのウキウキ気分が同じなのだ。アンビリーバボー。まさに奇跡体験。  つまりこのラーメン、「減点法で100点」なんだ! 一口目が100点のラーメンは幾度となく出会ってきたかもしれない。しかし、減点法で最後まで100点のラーメンには出会ったことがなかった。自分がこのラーメンにスペシャルを感じたのは、その最後まで面倒見てくれる懐の広さによるものだったのか、自分は、こういうラーメンを探していたのか、と。ラーメンを食べて己を知る。白い烏骨鶏スープに映る自分の顔をじっと見る(映らない)。ラーメンは、己を映す鏡なのかもしれない。  というわけで、この経験から僕がたどり着いた食言葉を、ここに書き残しておきます。 「ラーメンは減点法の食べ物」  いかがだろうか。皆さんは共感していただけるだろうか? 「ラーメンは減点法の食べ物」であるの画像2 ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

考えるな、感じろ――「デヴィッド・ボウイ」という宇宙をめぐる探検

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 イギリスのミュージシャン、デヴィッド・ボウイが地球を去ってから、1年がたつ。  僕が、この世で一番好きな人だ。  ここで紹介するには多彩すぎるそのキャリアの終着点、69歳の自らの誕生日にアルバムを発売し、その2日後に死去するという、必要以上の完璧さで彼は去った。  多くの著名人から追悼コメントが寄せられ、SNSはR.I.P.で埋まり、数枚の追悼編集盤がリリースされた。僕自身も、極東の島国からボウイの死に際して文章(http://hyouri-t.jugem.jp/?eid=964)を書いた。  あれから1年、2017年1月8日(ボウイが生きていたら、70歳になる日)、史上最大とうたわれるボウイの回顧展『DAVID BOWIE is』が日本にやってきた。  世界9都市を回り、アジア圏では日本が初開催となる催しは、うたい文句通り、史上最大のボウイに関する博覧会で、おそらく未来においても、これほど巨大な企画は行われないと思う。ボウイにまつわる膨大な「証拠品」の数々が、だだっ広いスペースに陳列されている。「総括」にふさわしい著名な衣装、直筆のメモ、イラスト、楽譜、写真、映像……。見ても見ても終わらないそれは、明確な順路もなく、意図的に未整理に並べられているようだ。  その「証拠品」たちは、ネット時代特有の感覚を想起させる。展覧会それ自体が、ボウイが言うところの、巨大な「記憶装置」のようだ。来訪者たちはさながら、未整理のハードディスクドライブの大海原に投げ込まれた小魚だ。  そして膨大な情報が、ある種の「選択の権利」を与えてくれる。  限られた時間の中で、すべてを享受することはできない。では、何を意識的に見て、何を無意識的に見ないのか?  僕らはこの意識的な選択と、無意識的な拒否を繰り返すことで、ボウイの宇宙のミニチュアを自分の中に再構築する。精密なパーツを組み合わせて立派な宮殿を作る人もいるだろう。できるだけたくさんの情報から全貌に迫ろうとする人もいるだろう。まったく何かわからない奇妙なオブジェを作り上げる人もいるだろう。  どれもいい。  どれもが、デヴィッド・ボウイなのだ。  つまり、デヴィッド・ボウイというのは「それ」なのだ。 ■アイコンと化した衣装たちと、ボウイが外部に求めた刺激  すべてが並列に扱われている『DAVID BOWIE is』展において、「注目すべき展示」というのは選びづらい。しかし、ボウイ入門者に向けてオススメする視点で、いくつかピックアップしてみようと思う。  まずは、それぞれがアイコンと化した衣装たちだろう。  ボウイは基本的に1つのツアーを1つの衣装で回りきることが多く、ジャケット写真などで着ている衣装と合わせて、各時期の作品世界を象徴する衣装が無数に存在する。有名な「出火吐暴威」という当て字が入った衣装など、その一部を手がけたのは日本人のデザイナー・山本寛斎氏だ。  これらの衣装が、実にめまいがするほどおびただしい数、展示されている。衣装をまとうマネキンには、1975年に作られたボウイのライフマスクのレプリカが貼り付けられていて、さながら無数のボウイの亡霊に取り囲まれているような錯覚を覚える。  もう1つは、少し矛盾するようだが、無造作に挿入される「ボウイ以外」の展示だ。  この『DAVID BOWIE is』展の特色として、ボウイが時代的に影響を受けた、ないし受けたであろう同時代のアーティストの情報が挿入されている。  ボウイは、常に自分のクリエイティビティと融合し得る、表現の「ツール」になるであろう外部の刺激を求めていた。いくつかの部品の組み合わせから、まったく鮮やかな独自の表現に到達するさまは、まるで発明家のようでもある。  それゆえに(逆説的に)、ボウイの音楽はそれらが溶け合う、さまざまな場所へとつながるターミナル(駅)になっているわけだ。  ボウイの宇宙には、無数のドアが眠っている。これを探訪する旅も楽しい。  ここまで読んでくれたボウイをよく知らない諸兄の中には、「なんだ、ボウイさんというのはずいぶん捉えどころのない人だなー」と感じる人もいるだろう。  SF世界のフォークシンガー、グラムロックの始祖、ガリガリに痩せたプラスチック(偽りの)・ソウル、ベルリンの青白い貴公子、水色のスーツに身を包んだスーパースター……。  確かに、ボウイのペルソナは無数に存在して、全貌をつかむことは難しい。しかし、ひとつだけ、誰にでも感じられる、ボウイ世界を貫く柱がある。  それは、彼の声だ。  いかなるジャンルの音楽でも、ボウイが歌うとジャンルの意味合いを消し去ってしまう。この驚異的な歌声は、彼の美学それ自体が、音として顕在化したかのようだ。ぜひ、展示と共に彼の声を感じてほしい。  そうそう! 番外編としては、日本限定の「David Bowie Meets Japan」コーナーの存在がある。前出の山本寛斎氏以外に、ここでは2人の日本人が登場し、ボウイについて語る。それは、故・大島渚監督『戦場のクリスマス』(83年)で、ボウイと共演した北野武&坂本龍一のお2人だ。「たけし、ボウイを語る」とは、なかなか新鮮な光景なので、お楽しみに。 ■「考えるな、感じろ」  さて、『DAVID BOWIE is』展では、この深遠なパーソナル宇宙を旅しようという勇気ある探検者に、特殊なヘッドフォンが配られる。これらは特定の展示物に近づくと、展示にまつわる音声や音楽を自動で再生する。最近、さまざまな展示会などでオプションとして採用されているシステムだが、『DAVID BOWIE is』展では、基本的に全員、必ず着用しなければならない。これなしでは成立しないように設計された展示は、画期的であると同時に、実に猥雑だ。  歩いていると次々音が切り替わり、ほかの展示を見ていても、近くの映像の音が再生されて聴こえてくる。この猥雑さ、破廉恥さが、ものすごくボウイらしい。常に変化し、誰よりも時代に「キャッチー」でありながら、誰にも本質をつかませなかったボウイの、その活動が作り上げたつぎはぎだらけの宇宙を、少々質の悪い宇宙船で旅しているようだ。  最大の展示スペースでは、ボウイの音楽がワンフレーズずつ切り刻まれたメドレー、というよりも、ボウイ自身が愛読したウィリアム・バロウズの「カットアップ手法」を用いたようなBGMも流れている。 「SOUND&VISION」と名付けられた巨大なライブの部屋では、四方から別のライブ映像が再生され、それぞれの音声が順番に耳元で再生される。  これらの氾濫する音声は、「理解するな」と言わんばかりだ。  かつては、情報が少ない中での「考えるな、感じろ」だった。『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』(80年)で、ヨーダが文明のほとんどない森深くで、ルーク・スカイウォーカーにフォースの修行をさせたように。  しかし、いまや情報が氾濫しすぎて、「考えるな、感じろ」になった。多すぎて多すぎて多すぎることが、逆に「無」に近づいていく。  ボウイの代表曲のひとつ「SPACE ODDITY」(69年)の中で、宇宙を遊泳中に消息を絶ったトム少佐のように、虚無の宇宙をさまよう感覚は、無限の可能性の中を泳いでいるようなものなのかもしれない。1980年、ボウイ自身の楽曲「Ashes to Ashes」の中で、トム少佐はジャンキーで、宇宙遊泳は妄想だった、と歌われた。  しかし、それもまた、多元宇宙の可能性のひとつだ。  僕らは常に、可能性の中で生きている。  無限の可能性の中で、意識的な選択と、無意識的な拒否を繰り返して、自分を作っている。  それは、今も宇宙を遊泳するトム少佐の相似形だ。  死してなお、ボウイは教えてくれる。  僕らは、「僕ら内・インナースペース」の宇宙飛行士だ。宇宙は、外だけでなく、内にも無限に広がっていく。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

『キングスグレイブFF15』に見る、スクエニの「不気味の谷」をめぐる戦い

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『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』(アニプレックス)
 さて、皆さんは「不気味の谷」をご存じですか? 「そんな怖い谷は、わたしの地元にはありません!」って、僕の地元にも、王蟲やモルボルが生息してそうな谷はありません。  これ、CGとかロボットの業界で、2000年代から使われるようになった言葉だ。もともとは1970年代に日本人のロボット工学者が提唱した概念で、それが近年になって海外でも頻繁に使われるほどポピュラーな言葉になった。  そして今、この「不気味の谷」をめぐる戦いが熱い!  この「不気味の谷現象」は簡単に説明すると、「ロボットの姿や動きを人間に似せていくと、リアルになるにつれて、それを見た人の好感度や親近感が高まっていく。しかし、ある一定よりリアルさが高まった瞬間、それまでの好感度が反転して、ものすごく不気味に感じてしまう現象」のこと。  つまり、中途半端にリアルなものが一番不気味、ということだ。  また、この現象は「そこから、さらにリアルさを増していってほとんど人間と区別できないレベルに達すると、嫌悪感が一気に反転して好感に転じる」という特徴もある。  この好感度の動きをグラフで描くと、リアルさが一定レベル以上に高まるとグイーンと急降下して嫌悪ゾーンに突入して、さらにリアルになって反転してグイーンと急上昇するまでが「谷」のような極端な線を描くため、「不気味の谷」と名付けられたのだ。  まず、はっきり言おう。ネーミングセンスありすぎ博士! いや、天才か!  不気味の谷、かっこよすぎる。中2の頃に住みたかったものだ。  で、そんな願望はともかく、この言葉が近年になってにわかに多用されているのは、この現象がCGで描かれた人間にも当てはまるからだ。  みんなも見覚えがないだろうか? すっごくリアルで不気味なCGキャラクター。または、めっちゃリアルなのに、動きが異様に不自然なCGキャラクター。こうしたキャラクターたちは不気味の谷を越えられず、その谷底に消えていった犠牲者であったといえる。  そうなのだ、世界の映画やゲームのCGの世界でのここ10年くらいは、この「不気味の谷」をいかに攻略するかの戦いだった。  折しも2016年は、動物キャラクターたちをフルCGで描いた海外映画『ズートピア』『ペット』『ファインディング・ドリー』、人間「以外」をすべて完璧なフルCGで描いた『ジャングル・ブック』が大ヒット。さらに日本産でも、リアルなゲーム発の完全フルCG映画『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』や動物路線の『ルドルフとイッパイアッテナ』なんかが公開され、世はフルCGの春真っ盛りだ(秋だけど)。  CGの世界において、無機物はかなり早い段階で違和感のないレベルでの描写が可能になった。人間以外の動物も、もはや実写で実際にそこにいるのと区別つかないレベルに達しているのは『猿の惑星:新世紀』や『ジャングル・ブック』を見ているとわかる(超すごい)。  しかし、何よりも見慣れている「自分自身」でもある人間の顔や動きは、まだまだ違和感なく描くのは途方もない労力と資金がいる大変なことだ。  たとえばピクサーの作品が、基本的にキャラクターをデフォルメしているのにも、この「不気味の谷」の影響がある。実は初期のピクサーのプロトタイプの作品は、ちょっとキャラクターがリアルで不気味だったのだ。その反省から、どこまでCGをリアルにすると人は嫌悪感を覚えるかを注意深く検討し、デフォルメされ完成されたのが、ピクサーのキャラクターなのだ。  一説には、ボードに無数のCGキャラクターの写真を貼り、どこから不気味に感じるかをリサーチしたそうだ。ある意味、ピクサーは不気味の谷の最強の攻略法を実践している。「そもそも谷を越えない」という「勇気ある撤退」を選択したのである。この方法は、今ではフルCG映画の主流にまでなっている(要するに、アニメの3DCG化だ)。  しかし、実在の役者と絡ませたりできる、実写を再現したような人間キャラクターを描こうとする場合、どうしても「不気味の谷」を越える完璧にリアルな人間のCG表現が必要になる。それでは、誰かが真っ向から不気味の谷に挑戦するしかない。戦争だ!  さて正直、結論からいえば、今でもほとんどのフルCGで描かれた人間のキャラクターは不自然だ。たとえば『ジャングル・ブック』が動物や風景はすべてフルCGで表現したのに、主役の少年や登場人物だけは実写を採用した理由のひとつには、その表現の困難さがあるだろう。ここ10年ほどのCG技術というのは、日本よりはるかにハリウッドのほうが進んでいるといわれている。  特に数年前のある時期から、巨額の資金を投じ続け驚異的な進化をしたハリウッドのCG技術と日本映画のCG技術の間に、簡単には越えられない「壁」ができてしまったという話を聞いたことがある。そんなハリウッドでも、人間をフルCGで描く映画は、そう簡単には作れない。単純に、映画1本分の人間キャラクターをフルCGで描く労力とお金を考えると、生身の役者を使った方がいろいろ楽でよい、というのもあるだろう。  さらにアメリカは、役者の権利などにものすごく厳しい国だ。たとえば、フルCGの役者が簡単に使えるような世界になると、本物の役者は失業してしまう、というので、アメリカでは人間をフルCGで描くことに、映画俳優組合(SAG)からクレームがつくというウワサも聞いたことがある。  「え~、そんなバカな!」とも思うけど、これは、音楽業界でもあった話だっていうから驚きだ。70年代、初めて「コンピューターで打ち込むドラム」が登場した頃は、全米ドラマー組合みたいなところから「生身のドラマーの仕事がなくなる!」というクレームがついて「打ち込みのドラムを使うときは、生身のドラマーをアドバイザーとして雇うべし」という暗黙のルールが誕生したという。  そんな中、今夏公開された日本『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』は、ゲームの前日譚を登場人物も含めて、完全フルCGの映画として公開するという意欲的な作品だった。  FFといえば、2001年に、巨額の予算を投じたフルCG映画を公開し、スクウェア(現スクウェア・エニックス)が傾くほどの失敗をしたことがある。皮肉にも、この失敗が「フルCGによる実写の壁」を強く意識させることとなり、「不気味の谷」という言葉が市民権を得るきっかけになったともいわれる。  しかし、熱い……。熱いじゃないか! あれだけの大失敗をしても、もう1回FFのフルCG映画をリベンジするその精神。それだけでも見に行く価値があるじゃないか。  というわけで見に行ったのだけど、やはり、ほとんどのシーンでは「ゲームのCGが動いている」ようにしか見えない。無数のキャラクターが、不気味の谷に落ちていく幻影が浮かぶ。  しかしその中に、ある瞬間、不気味の谷を越えた! と思えるシーンが現れた。そのあともいくつかのシーンで、本物の人間にしか見えない瞬間が、ある。  不気味さは……ない!  いける!  あともうちょっと技術が進歩したら、日本のフルCG映画作品でも不気味の谷を越えられる! 途中から映画の内容はそっちのけで「頑張れ! あとちょっとで谷を越えられるぞ! 頑張れ!」という謎の応援をずっとしていた。  映画の内容はともかく、『KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV』は、日本のフルCG映画が「不気味の谷」を越えるための助走として、ナイスチャレンジだったと思う。  もうひとつ、日本での試みとしては、フルCG女子高生キャラクター「Saya」がある。  これは石川晃之さん、有香さん夫妻という、個人ベースで作られたフルCGのキャラクターだ。このSaya、公開されたのは昨年で、その段階では「不気味の谷」を越えられていなかったという印象を受けた。やはりCGだ……という不気味さ、不自然さがあった。  しかし、今年公開された最新版ではさらにアップデートされ、ほとんど実写にしか見えないレベルにバージョンアップしていた! 日本人やアジア人の顔、というのは彫りが深い他の人種の顔に比べて情報量が少ないので、フルCGで描くのがさらに難しいといわれている。個人レベルでこのクオリティ、門外漢ながら脱帽です。  石川夫妻は、不気味の谷を越える長い攻防戦に、ついに「勝ち」の光明を見いだしたのだ。  というわけで、これから町中で、テレビで、ネットで、そして映画館で。フルCGの人物を目にする機会はどんどん増えていくだろう。中には、まだまだ「不気味の谷」に落ちていくキャラクターがたくさんいるだろう。その時に、その不気味さの裏に「不気味の谷」を越えるための熾烈な攻防戦が今も行われていることを頭の片隅でも思ってみると、面白いんじゃないかな。  僕は「不気味の谷をめぐる戦い」を知ってから、谷を越えるために奮闘している世界中のCGクリエイターの目に見えぬ、記録に残らぬ努力に、想いをはせるようになった。そして、そのCGが「不気味の谷」を完全に乗り越えて、まったく実写と区別がつかないようになった時、僕は、誰にも言わず、心の中で彼らに鳴りやまない拍手を送るつもりだ。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

僕らが『この世界の片隅に』を「名作」と呼ぶわけ

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『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』(双葉社)
“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、「オワリカラ」のボーカル・タカハシヒョウリが、いま気になるカルチャーを取り上げる、月1連載。  公開前日まで映画の存在も知らなかった、原作も読んだことがなかった人間による、ネタバレなしの長文です。  そうです、まず正直に言うと、僕はこの映画の存在を公開前日まで知らなかった。 『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで製作費を集めて作られた、ある意味「インディーズ映画」に当たるもので、公開館数も多くはなく、大作映画のような大宣伝も行われていない。  もちろん映画製作サイドが、さまざまなイベントやネットでの企画を通して精力的にプロモーションしていることは後に知ったが、本当、申し訳ないことに僕はそれほどアンテナの高い人間ではなく、映画の情報が目に入ることはなかった。  公開の前日にサイゾー編集部から、この映画を見てみないか、という提案をもらったときに初めて存在を知った。  その時に「見てみたいけど、文章を書けるかはわからないです」と答えた。もう一度正直に言って、原作も読んだことがなかった。  それで、HPを見たり、広告に躍る「主演声優は、のん!」の文字を見た時には、極端な反戦メッセージ映画、お涙ちょうだいの恋愛ものなどがぐるぐると脳内でイメージされ、どんどん書ける自信がなくなっていった(今となっては、土下座します)。  僕は本業ミュージシャンで、こうしてコラム的な文章を書く機会をもらっているのですが、いわゆる「評論家」的な存在とは程遠いと思っている。そこには明白に線引きが存在していて、自分の中のはっきりしたルールじみたものもある。  つまり、どんなものについての文章でも、人に読んでもらう価値のある作品に仕立てられる「技術」と「経験」を培ってきた人がプロです。僕にはそれが明白に足りないでしょう。  それでも、僕みたいな人間がみんなに読んでもらおうと文章を書くなら、これはもう「0か100について書く」しかない。それは、日々生きている中で出会った「本当に書きたい」という熱が湧くものについて、「本当に書く」ということです。 『この世界の片隅に』についてのコラムの最初にこんなことを書いているのは、ひたすら自分語りがしたいわけではなく(したいけど)、せめてそれくらいの熱で書いてみたいと思う「徹底的な」映画だったから。  莫大な宣伝費をかけた「大作」でないなら、こういうものを僕らは「力作」と呼ぶんだろう。  そして、これを「名作」と呼んでいくだろうと思う。  この作品は、こうの史代さんによる原作マンガの映画化だ。昭和の初め、太平洋戦争、「すず」という1人の少女~女性の、広島・呉での生活を通して、その風景に迫り来る暴力=戦争の時代をも描いていく。 「戦争を題材としております!」とか言うと、暗くて重く、反戦メッセージが前面に出た作風か、または「ねぇ、そもそもこれ、本当に戦争を題材にした意味ある?」という単なるお涙ちょうだいか、そのどちらか(または、そのどちらも)を想像したくなるけど、『この世界の片隅に』は、もちろんそのどちらでもない、なんだかすごく不思議な、手触りの戦争マンガだ。  作品の中心にあるのは、等身大の「生活」であり、「愛情」。すずという1人の、歴史の上では名もなき女性の、「なんやしらんがつられておかしうなって」くる生活が描かれる。  たとえば戦時中の食糧難を、とっても愉快なお料理マンガ風に描いちゃうあたりとか、絶対ほかの人には描けない、ある意味ものすごい剛胆だと思います、こうの先生。  しかし、このマンガの持つスーパーなところはそれだけでなく、目の前の暮らしの細部を描けば描くだけ、その背景にある暴力の理不尽さが描き出されていくことだ。  僕らは予備知識として、1945年の8月6日と9日に何があり、8月15日に何があったのかを知っている。  目の前の面白おかしいやりとりの裏側で、“時限カウンター”が確実に少しずつ進んでいることを、僕らは意識せずにはいられない。  そしてそれが実際に襲いかかり、その影が描ききられた後には、その向こうの希望すら感じさせるのだ。  また、作画がとんでもない職人技で、原作の豊かな筆致そのままのキャラクターたちが、アニメならではのリアルな昭和初期広島の風景の中に違和感なく描き出されていく。 「原作の再現度がすごい」というだけなら、原作ファンにとって至福のプレゼントで良かったネ、ということになるが、このアニメは原作の世界をさらに大きく拡張することに成功していると思う。  その要因は2つある。  1つは片渕須直監督の「徹底的な考証と、冷酷な演出」、そしてもう1つはキャラクターたちがアニメ化という儀式で手に入れた「声の力」だ。  原作とアニメで僕が決定的に印象が違うと感じたのは、アニメにおいて神のような「記録する視点」が登場したことで、作品全体に「冷酷な客観性」が際立っている点だ。  たとえば片渕監督が長い年月をかけ調べ尽くし、こだわり抜いたという兵器に対するリアルな描写が、原作においては「抽象的であるがゆえの迫力」をまとっていた「戦争」という恐怖に、さらなる肉体的なリアリティを与えている。  主人公のすずは、絵を描くのが好きだ。そのすずの目を通して見る世界を「絵画のように切り取った」シーンが原作にいくつか出てくる。これらのシーンは後々の展開も含めて、とても重要で、原作のキモになっている素晴らしいシーンなのだが、ある意味で主観的で、受け手の想像力にも委ねられた「余白」のようにやわらかだ。  これに象徴されるように、こうのさんの原作には、読む者が入り込めるような優しい曖昧さが常に存在する。  そしてこれは、いわゆる「日常系マンガ」の大部分がそうであるように、バイブレーションの合う人にとっては心地よい余白でありながら、それ以外の人にはチューニングが必要な「別チャンネル」になっている。  しかし、時間軸を持つアニメでは、この原作のやわらかく抽象的な手触りの、「その前」と「その後」を俯瞰的に描いている(時間といえば、先述の時限カウンターも、「時間の流れ」がある映画のほうがはるかに冷酷に、容赦なく時を刻んでいくように感じた)。  ここに、この映画の無敵の布陣が出来上がる。  いや、待てよ。  普通に考えれば、「徹底的で偏執的なリアル演出」というのはよくある監督の独りよがり、アニメにおいて異物になってしまうんじゃないの……?  いや、しかし大丈夫なのだ。 『この世界の片隅に』では。大丈夫なのだ。  なぜなら、原作でも、やっぱり「生活」や「仕草」や「時代」に対する描写は、「徹底的」だからだ。細部を描き込むことで、全体を表出していく――というベクトルが原作もアニメも一致しているので、違和感なく2つのリアリティが同居、むしろ相乗効果を生んでいる。  僕が一番好きななのは、冒頭のシーンだ。  これ、開始1分くらいなんでネタバレじゃないと思うが、まだ幼いすずが海苔の入った包みを背負うところ。この時に、すずがちょっと変わった背負い方をする。身体の半分くらいもある包みを背負うためには、普通に持ち上げて背負ってはバランスを崩してしまう。  そこで、幼いすずは荷物を壁に押し付けて、そこに背中を合わせてこれを背負う。  本当に小さなシーンなのだが、この時に「この映画、いいなー!」と思った。もし小さな身体の自分がこんなに大きな荷物を背負うなら、確かにこうするよな! という「身近さ」で、あっという間に「すず」という人が、確かにこの時代、広島に息づいていたように感じさせてくれる。  これは原作にもあるシーンなのだが、それをすごく自然に丁寧に演出したアニメーションが、見ている人を作品の世界にすっと連れて行ってくれる。  このシーンだけでも、類いまれなほど幸福なアニメ映画が始まったとわかるよ。  そして、この冒頭でもう1つ驚かされるのが、すず役の声優を担当したのんさんの声。  純粋さと、素朴さと、普通さと、たくましさ……いま思えば、すずの全部が声の中に色づいている。言ってしまえば、声がすずの物語自体を語っているような。 「あぁ、そうなんだ。すずさんっていう人、そこにいるんだ」と思ってしまう。  ここばっかりは、ぜひ劇場で見て聞いてほしい。  のんさんだけでなく、潘めぐみさんらプロ声優の演技も素晴らしく(ちなみに11歳の稲葉菜月さんの「なんやしらんがつられておかしうなってきた」の言い方が最高)、作品に引き込み、その時々を必死に生きるキャラクターたちの声と、声にならない想いも、伝えてくれる。  豊かな原作、徹底的な演出、完璧な配役、これらが混然となったアニメ映画が理想だ理想だと言いながら、僕らは実際にそんな映画を人生で何本見ることができるだろうか?  今、それができるんだ。  というわけで、長々と書いてきたが、原作ファンや、絵柄やのんさんの主演に惹かれた人は、もうこの映画を見ているか、見に行こうと決めてるはずだ。 そこで僕としては、自分に似た「この映画、ちょっとどうなの」「あんまり褒められてて、ちょっと……」「クラウドファンディングで低予算なんでしょ」と勘繰ってる、理屈っぽい、「『シン・ゴジラ』について議論するの大好き」的な頭でっかち系の諸兄に対して、この文章を書いてみた。  何より「知らなかった」、近くでやってなくて「行かなかった」で、この作品に触れなかった人を1人でも減らせたらうれしく思います。  あと、僕はこの映画の根底にあるのは、やっぱり怒りだと思います。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

僕らが『この世界の片隅に』を「名作」と呼ぶわけ

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『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』(双葉社)
“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、「オワリカラ」のボーカル・タカハシヒョウリが、いま気になるカルチャーを取り上げる、月1連載。  公開前日まで映画の存在も知らなかった、原作も読んだことがなかった人間による、ネタバレなしの長文です。  そうです、まず正直に言うと、僕はこの映画の存在を公開前日まで知らなかった。 『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで製作費を集めて作られた、ある意味「インディーズ映画」に当たるもので、公開館数も多くはなく、大作映画のような大宣伝も行われていない。  もちろん、さまざまなイベントやネットでの企画を通して精力的にプロモーションしていることは後に知ったが、本当、申し訳ないことに僕はそれほどアンテナの高い人間ではなく、映画の情報が目に入ることはなかった。  公開の前日にサイゾー編集部から、この映画を見てみないか、という提案をもらったときに初めて存在を知った。  その時に「見てみたいけど、文章を書けるかはわからないです」と答えた。もう一度正直に言って、原作も読んだことがなかった。  それで、HPを見たり、広告に躍る「主演声優は、のん!」の文字を見た時には、極端な反戦メッセージ映画、お涙ちょうだいの恋愛ものなどがぐるぐると脳内でイメージされ、どんどん書ける自信がなくなっていった(今となっては、土下座します)。  僕は本業ミュージシャンで、こうしてコラム的な文章を書く機会をもらっているのですが、いわゆる「評論家」的な存在とは程遠いと思っている。そこには明白に線引きが存在していて、自分の中のはっきりしたルールじみたものもある。  つまり、どんなものについての文章でも、人に読んでもらう価値のある作品に仕立てられる「技術」と「経験」を培ってきた人がプロです。僕にはそれが明白に足りないでしょう。  それでも、僕みたいな人間がみんなに読んでもらおうと文章を書くなら、これはもう「0か100について書く」しかない。それは、日々生きている中で出会った「本当に書きたい」という熱が湧くものについて、「本当に書く」ということです。 『この世界の片隅に』についてのコラムの最初にこんなことを書いているのは、ひたすら自分語りがしたいわけではなく(したいけど)、せめてそれくらいの熱で書いてみたいと思う「徹底的な」映画だったから。  莫大な宣伝費をかけた「大作」でないなら、こういうものを僕らは「力作」と呼ぶんだろう。  そして、これを「名作」と呼んでいくんだろうと思う。  この作品は、こうの史代さんによる原作マンガの映画化だ。昭和の初め、太平洋戦争、「すず」という1人の少女~女性の、広島・呉での生活を通して、その風景に迫り来る暴力=戦争の時代をも描いていく。 「戦争を題材としております!」とかいうと、暗くて重く、反戦メッセージが前面に出た作風か、または「ねぇ、そもそもこれ、本当に戦争を題材にした意味ある?」という単なるお涙ちょうだいか、そのどちらか(または、そのどちらも)を想像したくなるけど、『この世界の片隅に』は、もちろんそのどちらでもない。なんだかすごく不思議な、手触りの戦争マンガだ。  作品の中心にあるのは、等身大の「生活」であり、「愛情」。すずという1人の、歴史の上では名もなき女性の、「なんやしらんが、つられておかしうなって」くる生活が描かれる。  たとえば戦時中の食糧難を、とっても愉快なお料理マンガ風に描いちゃうあたりとか、絶対ほかの人には描けない、ある意味ものすごい剛胆だと思います、こうの先生。  しかし、このマンガの持つスーパーなところはそれだけでない。やわらかく、表情豊かな筆致で目の前の暮らしの細部を描けば描くだけ、その背景にある、硬質で無機質な暴力と時代の理不尽な影が描き出されていくのだ。  僕らは予備知識として、1945年の8月6日と9日に何があり、8月15日に何があったのかを知っている。  目の前の面白おかしいやりとりの裏側で、“時限カウンター”が確実に少しずつ進んでいることを、意識せずにはいられない。  そしてそれが実際に襲いかかり、その影が描ききられた後には、その向こうの希望すら感じさせるのだ。  また、作画はとんでもない職人技で、原作の豊かな筆致そのままのキャラクターたちが、アニメならではのリアルな昭和初期広島の風景の中に違和感なく描き出されていく。 「原作の再現度がすごい」というだけなら、原作ファンにとって至福のプレゼントで良かったネ、ということになるが、このアニメは原作の世界をさらに大きく拡張することに成功していると思う。  その要因は2つある。  1つは片渕須直監督の「徹底的な考証と、冷酷な演出」、そしてもう1つはキャラクターたちがアニメ化という儀式で手に入れた「声の力」だ。  原作とアニメで僕が決定的に印象が違うと感じたのは、アニメにおいて神のような「記録する視点」が登場したことで、作品全体に「冷酷な客観性」が際立っている点だ。  たとえば片渕監督が長い年月をかけ調べ尽くし、こだわり抜いたという兵器に対する描写が、原作においては「抽象的であるがゆえの迫力」をまとっていた「戦争」という恐怖に、さらなる肉体的なリアリティを与えている。  主人公のすずは、絵を描くのが好きだ。そのすずの目を通して見る世界を「絵画のように切り取った」シーンが原作にいくつか出てくる。これらのシーンは後々の展開も含めて、とても重要で、原作のキモになっている素晴らしいシーンなのだが、ある意味で主観的で、受け手の想像力にも委ねられた「余白」のようにやわらかだ。  これに象徴されるように、こうのさんの原作には、読む者が入り込めるような優しい曖昧さが常に存在する。  そしてこれは、いわゆる「日常系マンガ」の大部分がそうであるように、バイブレーションの合う人にとっては心地よい余白でありながら、それ以外の人にはチューニングが必要な「別チャンネル」になっている。  しかし、時間軸を持つアニメでは、この原作のやわらかく抽象的な手触りの、「その前」と「その後」を俯瞰的に描いている(時間といえば、先述の時限カウンターも、「時間の流れ」がある映画のほうがはるかに冷酷に、容赦なく時を刻んでいくように感じた)。  ここに、この映画の無敵の布陣が出来上がる。  ……いや、待てよ。  普通に考えれば、「徹底的で偏執的なリアル演出」というのは、よくある監督の独りよがり、アニメにおいて異物になってしまうんじゃないの……?  いや、しかし大丈夫なのだ。 『この世界の片隅に』では、大丈夫なのだ。  なぜなら、原作でも、やっぱり「生活」や「仕草」や「時代」に対する描写は、「徹底的」だからだ。細部を描き込むことで、全体を表出していく――というベクトルが原作もアニメも一致しているので、違和感なく2つのリアリティが同居、むしろ相乗効果を生んでいる。  僕が一番好きなのは、冒頭のシーンだ。  これ、開始1分くらいなのでネタバレじゃないと思うが、まだ幼いすずが海苔の入った包みを背負うところ。この時に、すずがちょっと変わった背負い方をする。身体の半分くらいもある包みを背負うためには、普通に持ち上げて背負ってはバランスを崩してしまう。  そこで、すずは荷物を壁に押し付けて、そこに背中を合わせてこれを背負う。  本当になにげないシーンなのだが、この時に「この映画、いいなー!」と思った。もし小さな身体の自分がこんなに大きな荷物を背負うなら、確かにこうするよな! という「身近さ」で、あっという間に「すず」という人が、確かにこの時代、広島に息づいていたように感じさせてくれる。  これは原作にもあるシーンなのだが、それをすごく自然に丁寧にアニメーション化し、見ている人を作品の世界にすっと連れて行ってくれる。  このシーンだけでも、類いまれなほど幸福なアニメ映画が始まったとわかるよ。  そして、この冒頭でもう1つ驚かされるのが、すず役の声優を担当したのんさんの声。  純粋さと、素朴さと、たくましさ……いま思えば、すずの全部が声の中に色づいている。言ってしまえば、声がすずの物語を語っているような。 「あぁ、そうなんだ。すずさんっていう人、そこにいるんだ」と思ってしまう。  ここばっかりは、ぜひ劇場で見て聞いてほしい。  のんさんだけでなく、潘めぐみさんらプロ声優の演技も素晴らしく(ちなみに、11歳の稲葉菜月さんの「なんやしらんが、つられておかしうなってきた」の言い方が最高)、作品に引き込み、その時々を必死に生きるキャラクターたちの声と、声にならない想いも、伝えてくれる。  豊かな原作、徹底的な演出、完璧な配役、これらが混然となったアニメ映画が理想だ理想だと言いながら、僕らは実際にそんな映画を人生で何本見ることができるだろうか?  今、それができるんだ。  というわけで、長々と書いてきたが、原作ファンや、絵柄やのんさんの主演に惹かれた人は、もうこの映画を見ているか、見に行こうと決めてるはずだ。  そこで僕としては、自分に似た「この映画、ちょっとどうなの」「あんまり褒められてて、ちょっと……」「クラウドファンディングで低予算なんでしょ」と勘繰ってる、理屈っぽい、「『シン・ゴジラ』について議論するの大好き」的な頭でっかち系の諸兄に対して、この文章を書いてみた。  何より「知らなかった」、近くでやってなくて「行かなかった」で、この作品に触れなかった人を1人でも減らせたらうれしく思います。  あと、僕はこの映画の根底にあるのは、やっぱり怒りだと思います。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

「ポケモンカード」とシゲルくんの話

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“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、「オワリカラ」のボーカル・タカハシヒョウリが、いま気になるカルチャーを取り上げる、月1連載。  2016年10月20日は、「ポケモンカードゲーム」20周年だ。エネルギーリムーブ20周年だ。突風20周年だ。にせオーキド博士20周年だ。  ポケモンではなく、「ポケモンカードゲーム」。その名の通り、全世界で大人気の『ポケモン』を題材にしたカードゲームで、ポケモン本体に負けず劣らず、20年間、世界中で人気を集める一大コンテンツだ。 「子どものカードゲームでしょ?」と侮ることなかれ。子どもから大人まで楽しめる、っていうか、もう大人のほうが夢中でやっているカードゲームだ。  そのポケモンカードゲームが生誕20年! それを記念して、初代「ポケモンカード」の復刻リメイクも発売された。  僕、タカハシヒョウリは、まさにポケモン・ド直撃世代で、20年前に最初の初代『ポケットモンスター赤・緑』(96年)が発売された時、小学3年生だった。その時の衝撃は忘れられないのう……と、古参ぶりたいんだけど、実はポケモン発売直後は、ほとんど話題にならなかったと記憶している。  それもそのはず、ポケモンの最初の出荷数はそれほど多くなく、ほとんどのゲーム雑誌でもスルーされていた。なぜなら、ポケモンの「通信して友達と交換・対戦できる」という魅力がこんなにも子どもの人気を集めると、発売前に予想できたメディアがほとんどなかったからだ(「ファミ通」のゲームレビューでは、パッとしない点数を付けられていた)。  そもそもゲーム機「GAME BOY」自体が、この時点ですでに発売7年目を迎える、現役引退寸前のシニアクラスの老体だった(のちにポケモンの大ヒットで新たな可能性を見いだされ、大復活を遂げる)。  そんな状態だったポケモンが、社会現象になるほどの大ブームを巻き起こすまでにはしばらくの助走期間が必要で、発売してからポツポツと「めちゃめちゃ面白いゲームがある」という口コミが、子どもたちの間で広がり始めていた。  こうして草の根的にジワジワと人気が過熱していき、数カ月後には爆発。小学生男子にとって「持ってないヤツは、クラスの話題についていけない」という、必殺マストアイテム的な存在となっていった。  僕も「みんながやっている」という理由で、ゲームショップに走った記憶がある。そして、例に漏れず、超ハマった。  学校が終われば対戦、交換(通信ケーブルを持っているヤツが神になった数カ月だった。僕は持ってなかったなあ)、家に帰っても友人どもを出し抜くためにポケモン育成。日本中で、単三電池が大量に消費されていった。  流行がピークに達した夏頃、「ポケモンカードゲーム」というものが近々発売されるらしいという情報が、当時のガキのバイブル「コロコロコミック」(小学館)に掲載された。 「ポケモンのものなら、ふりかけでも欲しい」というくらい、すでにポケモン漬けの毎日を送っていた僕は、その小さな記事にくぎづけになり、5分おきに読みか返しては「ポケモンカードゲーム」という存在に思いをはせた。  ポケモンが画面を飛び出し、自分の手の中にカードとしてやってきて、友達と対戦できる――。はたして、どんなに楽しいんだろう?  そして忘れもしない、「コロコロコミック」(小学館)96年11月号。ポケモンカードゲーム発売の少し前に書店に並んだこの号は、ポケモンの『青』という新バージョンを同誌限定で通販するという一大企画の受け付けを開始した号で、日本中のポケモンキッズが手に取った。  ここに付録として、ポケモンカードが2枚付いてきた。  台紙に裏向きで貼り付けられていて、それをペリペリとはがすと「ピカチュウ」と「プリン」の3DCGの絵柄が姿を現す。ピカチュウとプリンは、当時のアンケート人気投票で1位、2位だった大スターポケモン様だ。  その2体のポケモンがカードになって、いま僕の手の中にある。この感覚は、想像を越えるものだった。いま見ると、ちょっとしょぼいCGも、当時は恐ろしく美麗に感じた。  発売までの5日間、僕はそのカードを使って特訓(イメージトレーニング)にいそしんだ。もちろん、全部で60枚のカードが必要なゲームなので、手元にある2枚だけでは圧倒的に数が足りなすぎるのだが、それでもイメトレせずにはいられなかった。  さまざまなシチュエーションで、いろいろな対戦相手と戦うことを妄想した。イメトレ以外の時間は、コロコロの記事を穴が開くほど見る。来るべき戦いに備えて、知識も必要だからだ。  その記事の背景には、豆粒くらいの大きさで、さまざまなカードがズラリと並んでいた。それを見て「この絵柄はあのポケモンに違いない……」などと推理したり、脳内でイメトレする。文武両道とはこのことだ。  そして、ついにやってきた発売日。  前夜は、なかなか寝つけなかった。目をつむると、まだ見ぬ無数のポケモンカードたちがズラーッと目の前に現れる。ミュウツーも、リザードンも、ニドキングもいる……。  あぁ、みんなすぐに会えるからね――。  やっと寝付いたあとの夢の中でも、おそらくひたすらカードを愛でていただろう。  翌日、玩具店の開店時間に町へ繰り出した少年タカハシは、衝撃を受けた。 「ぜんぜん売ってねぇ……」  そうなのだ。実は、ポケモンカードゲームは発売時、ほとんど無視された存在だった。  ポケモンカードゲームを開発したクリーチャーズは、製造元の任天堂にも「任天堂ブランド」で発売することを拒否され、やっと見つかった新参の会社・メディアファクトリーからの発売にこぎ着けたものの、大手の流通からも取り扱いを拒否されていた(この辺の詳しい話は、日経BP社の『ポケモンストーリー』を読もう!)。  なんとか流通を見つけて発売にたどり着いたわけだが、ほとんどのお店に満足に商品が並ばない、という不遇のスタートを切った。  ポケモンカードは、完全に「鬼子」だったのだ。  その要因となる背景には、まだ日本でトレーディングカードゲームという文化が根付いていなかったことが挙げられる。実はこの手の、プレイヤーそれぞれがカードを集めて持ち寄り対戦する「トレーディングカードゲーム」が誕生したのは90年代に入ってからだ。  93年にアメリカで誕生した「マジック:ザ・ギャザリング」という対戦型のカードゲームが大流行してから、さまざまな亜種が登場するようになっていたが、96年当時、まだ日本では市民権が得られていなかった。  そんな「マイナー」で「難しい」ゲームは「子どもにはわからないから、はやらない」というのが、当時の業界の大多数の意見だったのだ。  その後、ポケモンカードゲームが子どもたちに1年で約2億枚、2年目は5億枚以上を売り上げたことを考えると、このときの大人たちの思い込みは間違いだったとわかる。  いつでも大人は子どもを侮ってしまう。閑話休題。    とにかく、どこにも売ってないポケモンカードゲームを求めて、タカハシ少年は自転車で走り回った。  最後の望みをかけ、自転車を飛ばして、やってきたのが隣町のイトーヨーカドー。そこでついに、ポケモンカードゲーム「スターターパック」と邂逅したのだ。  ゲームに必要なカード60枚(キラキラのカードは1枚)と、「ラッキー」というポケモンが彫刻されたコインがセットになり、紙製のケースに入って1,300円。税抜き。子どもにとっては、決して安い値段ではない。  それでも、夢にまで見たそのカードは、お年玉を積んでも惜しくないほど価値のあるものに見えた。    僕は数カ月間、夢に見ていたポケモンカードゲームを、ついに手に入れたのだ!(大人になって知ったのは、ポケモンカードゲームを流通させたのは、イトーヨーカドーに太いラインを持つ流通会社・スターコーポレーションだったのだ。いま思えば、ほかのところで売っていなかったポケモンカードが、イトーヨーカドーにはいつもあったのには、ちゃんと理由があったのだ。面白いね、大人になるって!)  初めて買ったケースから出たキラカードは「ミュウツー」だ! 最強のポケモンとして、子どもたちのスーパーヒーローというか、畏敬の念を集める魔王的存在になっていたミュウツーだ。  手が震えた。  実はこのミュウツー、いわゆる「最強のポケモン」なのに、カードゲームでは何が起きたんだ? っていうくらいクソ弱い。しかし、初めて手にした僕はそんなことを知る由もなく、「最強ポケモン」のカードを引いた自分に運命的な何かを感じて悦に浸っていたのだった。  家に帰り、嫌がる兄をつかまえ、父をつかまえ、カードを半分ずつに分けて(本当はこんな遊び方はない)無理やりゲームの相手をさせた。  やっぱりイメージ通り、ポケモンカードゲームは超楽しい!  意気揚々と登校した翌日、タカハシ少年を新たな衝撃が襲った。 「誰もやってねえ……」  そうなのだ。ポケモンカードを心待ちにして、町中探し回っているようなヤツは自分以外に誰もいなかったのだ。  やばい、このままだと家族内だけでプレイする「お正月の花札」みたいな、ものすごく小規模のゲームになってしまう。そんなのは、僕のイメージしたワールドワイド(学校内)なポケモンカードゲームじゃない!  そこで僕は、ポケモンカード啓蒙活動を開始した。   「ポケモンカード知ってる?」「こんなに面白いよ」「まずはスターターを1つ買うだけ」と、押し売りかネズミ講ばりの詐欺師口調でポケモンカードを啓蒙して回った。  すると、そこで1人のクラスメイトが、ポケモンカードに興味を持ってくれた。彼(仮にシゲル君としよう)とは、もともとはそこまで親しくなかったが、彼がポケモンカードを買って2人で対戦や交換をしてハマり込んでいくうちに、どんどん親しくなった。  ポケモンカードも少しずつはやりだし、どんどん売り上げを伸ばして、品薄になるほどの人気を集めた。  ポケモンカードゲームが最初はそんなにはやっていなかった証しに、初代のカード(右下にレアリティマークがない)は意外に数が少なく、今ではプレミア価格がついていたりする。その後もカードは第2弾、第3弾と発売され、全151種類がカードとして出そろい、ポケモンのゲームやアニメと一緒に、日本中で大ブームを巻き起こしていた。  人気を呼んだのは、社会現象になるほどの本家ポケモンやアニメの影響もあると思うが、何よりも丁寧にこだわって作られたカードゲームが、戦略に富んだ真に「面白いカードゲーム」だと、少しずつ子どもたちに理解されていったからだろう。  その頃には、僕とシゲル君の2人は対戦を重ねすぎてかなり強くなっていたので、後から参入してくる友人たちとはちょっと次元が違うバトルを繰り広げていた。少年漫画的にいうなら、まさに「友」と書いてライバルだ。  毎日、放課後は友人たちとカードで対戦する毎日で、新シリーズが出ては買い、親にねだってイベントに出かけ、あっという間に1年近くが過ぎた。  そして97年冬、第4弾が発売された頃だったと思う。僕は相変わらず、ポケモンカードに夢中だったが、ある時からシゲル君とあまり遊ばなくなった。別にケンカしたとかいうわけではなかったのだが、なんだかシゲル君の付き合いが悪くなったようだった。シゲルくんは人が変わって社交性を失ったように見えて、僕は子ども心に、何か腑に落ちないものを感じていた。対戦する機会も激減した。  ライバルを失ったこともあってか、僕自身も少しずつポケモンカードの熱が別のところに移っていって、次第にポケモンカードを追いかけなくなっていった。  ポケモンカードに夢中になったのは、ちょうど1年間くらいだっただろうか?   あれから20年。大人になった今、僕はポケモンカードの原稿を書いている。思い出話だけをしているわけじゃない。実は20年目の今年、僕はポケモンカードに復帰したのだ。  きっかけは、2月に発売された20周年復刻スターターだ。あの日、自転車を飛ばしてイトーヨーカドーで買ったのと同じパッケージで発売された復刻スターターを買ってから、またハマってしまった。  あの頃のようにパックを開けては一喜一憂し、友達(やってる人は2人しかいないけど)と、たまに対戦をしている。  20年ぶりのポケモンカードは、相変わらず興味深くて、戦略的な、面白いゲームだ。9月には、20年前の第1弾のイラストそのままの復刻ブースターも出た。かつてのカードはもう使えないけど、この同じ絵柄の復刻カードは、今のゲーム環境でも使えるように作られている。  懐かしさにほだされて、ポケモンカードに久々に触れてみるのに、こんなに最高のタイミングはない!  一緒にやろうよ、ポケモンカード!  そうそう、最後に、シゲルくんの話だ。  大学生になったころ、母親が地域のボランティア委員会みたいなものに入っていて、シゲルくんの家を訪ねたことがあった。シゲルくんが家族に対して暴力を振るう、というので母親のところに相談が来ていたのだ。  シゲルくんはあれから私立の高校に進学したがすぐに退学し、いくつかの高校に入っては辞めるを繰り返し、3度目の高校生を迎えていた。  その原因を、帰宅した母親はこんなふうに聞かせてくれた。 「シゲルくんの小学6年生の誕生日の前日に、お母さんが家を出て行ったんだって。それから少しずつ荒れていったみたい」  あぁ、あの時だ。  僕たちがポケモンカードで遊ばなくなった、あの時だ。  シゲルくんにとって、ポケモンカードに夢中だった1年間は、いい思い出だろうか? それとも、思い出したくない季節なんだろうか?  大人になった今、彼の中で折り合いがついているのなら、ポケモンカードの話がしたい。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

「ポケモンカード」とシゲルくんの話

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“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、「オワリカラ」のボーカル・タカハシヒョウリが、いま気になるカルチャーを取り上げる、月1連載。  2016年10月20日は、「ポケモンカードゲーム」20周年だ。エネルギーリムーブ20周年だ。突風20周年だ。にせオーキド博士20周年だ。  ポケモンではなく、「ポケモンカードゲーム」。その名の通り、全世界で大人気の『ポケモン』を題材にしたカードゲームで、ポケモン本体に負けず劣らず、20年間、世界中で人気を集める一大コンテンツだ。 「子どものカードゲームでしょ?」と侮ることなかれ。子どもから大人まで楽しめる、っていうか、もう大人のほうが夢中でやっているカードゲームだ。  そのポケモンカードゲームが生誕20年! それを記念して、初代「ポケモンカード」の復刻リメイクも発売された。  僕、タカハシヒョウリは、まさにポケモン・ド直撃世代で、20年前に最初の初代『ポケットモンスター赤・緑』(96年)が発売された時、小学3年生だった。その時の衝撃は忘れられないのう……と、古参ぶりたいんだけど、実はポケモン発売直後は、ほとんど話題にならなかったと記憶している。  それもそのはず、ポケモンの最初の出荷数はそれほど多くなく、ほとんどのゲーム雑誌でもスルーされていた。なぜなら、ポケモンの「通信して友達と交換・対戦できる」という魅力がこんなにも子どもの人気を集めると、発売前に予想できたメディアがほとんどなかったからだ(「ファミ通」のゲームレビューでは、パッとしない点数を付けられていた)。  そもそもゲーム機「GAME BOY」自体が、この時点ですでに発売7年目を迎える、現役引退寸前のシニアクラスの老体だった(のちにポケモンの大ヒットで新たな可能性を見いだされ、大復活を遂げる)。  そんな状態だったポケモンが、社会現象になるほどの大ブームを巻き起こすまでにはしばらくの助走期間が必要で、発売してからポツポツと「めちゃめちゃ面白いゲームがある」という口コミが、子どもたちの間で広がり始めていた。  こうして草の根的にジワジワと人気が過熱していき、数カ月後には爆発。小学生男子にとって「持ってないヤツは、クラスの話題についていけない」という、必殺マストアイテム的な存在となっていった。  僕も「みんながやっている」という理由で、ゲームショップに走った記憶がある。そして、例に漏れず、超ハマった。  学校が終われば対戦、交換(通信ケーブルを持っているヤツが神になった数カ月だった。僕は持ってなかったなあ)、家に帰っても友人どもを出し抜くためにポケモン育成。日本中で、単三電池が大量に消費されていった。  流行がピークに達した夏頃、「ポケモンカードゲーム」というものが近々発売されるらしいという情報が、当時のガキのバイブル「コロコロコミック」(小学館)に掲載された。 「ポケモンのものなら、ふりかけでも欲しい」というくらい、すでにポケモン漬けの毎日を送っていた僕は、その小さな記事にくぎづけになり、5分おきに読みか返しては「ポケモンカードゲーム」という存在に思いをはせた。  ポケモンが画面を飛び出し、自分の手の中にカードとしてやってきて、友達と対戦できる――。はたして、どんなに楽しいんだろう?  そして忘れもしない、「コロコロコミック」(小学館)96年11月号。ポケモンカードゲーム発売の少し前に書店に並んだこの号は、ポケモンの『青』という新バージョンを同誌限定で通販するという一大企画の受け付けを開始した号で、日本中のポケモンキッズが手に取った。  ここに付録として、ポケモンカードが2枚付いてきた。  台紙に裏向きで貼り付けられていて、それをペリペリとはがすと「ピカチュウ」と「プリン」の3DCGの絵柄が姿を現す。ピカチュウとプリンは、当時のアンケート人気投票で1位、2位だった大スターポケモン様だ。  その2体のポケモンがカードになって、いま僕の手の中にある。この感覚は、想像を越えるものだった。いま見ると、ちょっとしょぼいCGも、当時は恐ろしく美麗に感じた。  発売までの5日間、僕はそのカードを使って特訓(イメージトレーニング)にいそしんだ。もちろん、全部で60枚のカードが必要なゲームなので、手元にある2枚だけでは圧倒的に数が足りなすぎるのだが、それでもイメトレせずにはいられなかった。  さまざまなシチュエーションで、いろいろな対戦相手と戦うことを妄想した。イメトレ以外の時間は、コロコロの記事を穴が開くほど見る。来るべき戦いに備えて、知識も必要だからだ。  その記事の背景には、豆粒くらいの大きさで、さまざまなカードがズラリと並んでいた。それを見て「この絵柄はあのポケモンに違いない……」などと推理したり、脳内でイメトレする。文武両道とはこのことだ。  そして、ついにやってきた発売日。  前夜は、なかなか寝つけなかった。目をつむると、まだ見ぬ無数のポケモンカードたちがズラーッと目の前に現れる。ミュウツーも、リザードンも、ニドキングもいる……。  あぁ、みんなすぐに会えるからね――。  やっと寝付いたあとの夢の中でも、おそらくひたすらカードを愛でていただろう。  翌日、玩具店の開店時間に町へ繰り出した少年タカハシは、衝撃を受けた。 「ぜんぜん売ってねぇ……」  そうなのだ。実は、ポケモンカードゲームは発売時、ほとんど無視された存在だった。  ポケモンカードゲームを開発したクリーチャーズは、製造元の任天堂にも「任天堂ブランド」で発売することを拒否され、やっと見つかった新参の会社・メディアファクトリーからの発売にこぎ着けたものの、大手の流通からも取り扱いを拒否されていた(この辺の詳しい話は、日経BP社の『ポケモンストーリー』を読もう!)。  なんとか流通を見つけて発売にたどり着いたわけだが、ほとんどのお店に満足に商品が並ばない、という不遇のスタートを切った。  ポケモンカードは、完全に「鬼子」だったのだ。  その要因となる背景には、まだ日本でトレーディングカードゲームという文化が根付いていなかったことが挙げられる。実はこの手の、プレイヤーそれぞれがカードを集めて持ち寄り対戦する「トレーディングカードゲーム」が誕生したのは90年代に入ってからだ。  93年にアメリカで誕生した「マジック:ザ・ギャザリング」という対戦型のカードゲームが大流行してから、さまざまな亜種が登場するようになっていたが、96年当時、まだ日本では市民権が得られていなかった。  そんな「マイナー」で「難しい」ゲームは「子どもにはわからないから、はやらない」というのが、当時の業界の大多数の意見だったのだ。  その後、ポケモンカードゲームが子どもたちに1年で約2億枚、2年目は5億枚以上を売り上げたことを考えると、このときの大人たちの思い込みは間違いだったとわかる。  いつでも大人は子どもを侮ってしまう。閑話休題。    とにかく、どこにも売ってないポケモンカードゲームを求めて、タカハシ少年は自転車で走り回った。  最後の望みをかけ、自転車を飛ばして、やってきたのが隣町のイトーヨーカドー。そこでついに、ポケモンカードゲーム「スターターパック」と邂逅したのだ。  ゲームに必要なカード60枚(キラキラのカードは1枚)と、「ラッキー」というポケモンが彫刻されたコインがセットになり、紙製のケースに入って1,500円。税抜き。子どもにとっては、決して安い値段ではない。  それでも、夢にまで見たそのカードは、お年玉を積んでも惜しくないほど価値のあるものに見えた。    僕は数カ月間、夢に見ていたポケモンカードゲームを、ついに手に入れたのだ!(大人になって知ったのは、ポケモンカードゲームを流通させたのは、イトーヨーカドーに太いラインを持つ流通会社・スターコーポレーションだったのだ。いま思えば、ほかのところで売っていなかったポケモンカードが、イトーヨーカドーにはいつもあったのには、ちゃんと理由があったのだ。面白いね、大人になるって!)  初めて買ったケースから出たキラカードは「ミュウツー」だ! 最強のポケモンとして、子どもたちのスーパーヒーローというか、畏敬の念を集める魔王的存在になっていたミュウツーだ。  手が震えた。  実はこのミュウツー、いわゆる「最強のポケモン」なのに、カードゲームでは何が起きたんだ? っていうくらいクソ弱い。しかし、初めて手にした僕はそんなことを知る由もなく、「最強ポケモン」のカードを引いた自分に運命的な何かを感じて悦に浸っていたのだった。  家に帰り、嫌がる兄をつかまえ、父をつかまえ、カードを半分ずつに分けて(本当はこんな遊び方はない)無理やりゲームの相手をさせた。  やっぱりイメージ通り、ポケモンカードゲームは超楽しい!  意気揚々と登校した翌日、タカハシ少年を新たな衝撃が襲った。 「誰もやってねえ……」  そうなのだ。ポケモンカードを心待ちにして、町中探し回っているようなヤツは自分以外に誰もいなかったのだ。  やばい、このままだと家族内だけでプレイする「お正月の花札」みたいな、ものすごく小規模のゲームになってしまう。そんなのは、僕のイメージしたワールドワイド(学校内)なポケモンカードゲームじゃない!  そこで僕は、ポケモンカード啓蒙活動を開始した。   「ポケモンカード知ってる?」「こんなに面白いよ」「まずはスターターを1つ買うだけ」と、押し売りかネズミ講ばりの詐欺師口調でポケモンカードを啓蒙して回った。  すると、そこで1人のクラスメイトが、ポケモンカードに興味を持ってくれた。彼(仮にシゲル君としよう)とは、もともとはそこまで親しくなかったが、彼がポケモンカードを買って2人で対戦や交換をしてハマり込んでいくうちに、どんどん親しくなった。  ポケモンカードも少しずつはやりだし、どんどん売り上げを伸ばして、品薄になるほどの人気を集めた。  ポケモンカードゲームが最初はそんなにはやっていなかった証しに、初代のカード(右下にレアリティマークがない)は意外に数が少なく、今ではプレミア価格がついていたりする。その後もカードは第2弾、第3弾と発売され、全151種類がカードとして出そろい、ポケモンのゲームやアニメと一緒に、日本中で大ブームを巻き起こしていた。  人気を呼んだのは、社会現象になるほどの本家ポケモンやアニメの影響もあると思うが、何よりも丁寧にこだわって作られたカードゲームが、戦略に富んだ真に「面白いカードゲーム」だと、少しずつ子どもたちに理解されていったからだろう。  その頃には、僕とシゲル君の2人は対戦を重ねすぎてかなり強くなっていたので、後から参入してくる友人たちとはちょっと次元が違うバトルを繰り広げていた。少年漫画的にいうなら、まさに「友」と書いてライバルだ。  毎日、放課後は友人たちとカードで対戦する毎日で、新シリーズが出ては買い、親にねだってイベントに出かけ、あっという間に1年近くが過ぎた。  そして97年冬、第4弾が発売された頃だったと思う。僕は相変わらず、ポケモンカードに夢中だったが、ある時からシゲル君とあまり遊ばなくなった。別にケンカしたとかいうわけではなかったのだが、なんだかシゲル君の付き合いが悪くなったようだった。シゲルくんは人が変わって社交性を失ったように見えて、僕は子ども心に、何か腑に落ちないものを感じていた。対戦する機会も激減した。  ライバルを失ったこともあってか、僕自身も少しずつポケモンカードの熱が別のところに移っていって、次第にポケモンカードを追いかけなくなっていった。  ポケモンカードに夢中になったのは、ちょうど1年間くらいだっただろうか?   あれから20年。大人になった今、僕はポケモンカードの原稿を書いている。思い出話だけをしているわけじゃない。実は20年目の今年、僕はポケモンカードに復帰したのだ。  きっかけは、2月に発売された20周年復刻スターターだ。あの日、自転車を飛ばしてイトーヨーカドーで買ったのと同じパッケージで発売された復刻スターターを買ってから、またハマってしまった。  あの頃のようにパックを開けては一喜一憂し、友達(やってる人は2人しかいないけど)と、たまに対戦をしている。  20年ぶりのポケモンカードは、相変わらず興味深くて、戦略的な、面白いゲームだ。9月には、20年前の第1弾のイラストそのままの復刻ブースターも出た。かつてのカードはもう使えないけど、この同じ絵柄の復刻カードは、今のゲーム環境でも使えるように作られている。  懐かしさにほだされて、ポケモンカードに久々に触れてみるのに、こんなに最高のタイミングはない!  一緒にやろうよ、ポケモンカード!  そうそう、最後に、シゲルくんの話だ。  大学生になったころ、母親が地域のボランティア委員会みたいなものに入っていて、シゲルくんの家を訪ねたことがあった。シゲルくんが家族に対して暴力を振るう、というので母親のところに相談が来ていたのだ。  シゲルくんはあれから私立の高校に進学したがすぐに退学し、いくつかの高校に入っては辞めるを繰り返し、3度目の高校生を迎えていた。  その原因を、帰宅した母親はこんなふうに聞かせてくれた。 「シゲルくんの小学6年生の誕生日の前日に、お母さんが家を出て行ったんだって。それから少しずつ荒れていったみたい」  あぁ、あの時だ。  僕たちがポケモンカードで遊ばなくなった、あの時だ。  シゲルくんにとって、ポケモンカードに夢中だった1年間は、いい思い出だろうか? それとも、思い出したくない季節なんだろうか?  大人になった今、彼の中で折り合いがついているのなら、ポケモンカードの話がしたい。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw