8月も終わってしまった。ということで“夏休み映画”もまもなく上映終了だ。夏休みといえば、大作映画や話題作が一挙に公開される季節。今年も各映画会社が社運を懸けたであろう邦画・洋画がめじろ押しだった。 僕も、全国ツアーの合間にいろいろと夏休み映画を楽しんだ。たとえば洋画では、なんといってもマイケル・ベイの『トランスフォーマー/最後の騎士王』がやりすぎですごかった。猛烈なジェットコースターっぷりでありながら、なぜか3時間もあり、まったく理解の範疇を超えていて、マイケル・ベイは頭がどうかしているとしか思えないクレイジームービーだ。 そして邦画では、ポケモン映画の20周年記念作『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』が最高だった。これがどれくらいよかったのかというと、ポケモン映画の金字塔と呼ばれる第1作『ミュウツーの逆襲』に匹敵するほどの「最高傑作」だと思うわけだ。 それも、最新作としての面白さ、「今のポケモン」としてのメッセージを保ちつつ、初期のポケモンのイメージも乱反射させた、長年のファンへのサービスもたっぷりの正しき「アニバーサリー映画」になっている。 というわけで、間もなく上映終了してしまうであろうポケモン映画のコラムを、まだ見てない人向けの「ネタバレなし編(赤)」と、もう見た人向けの「ネタバレあり編(緑)」の2本立てでお送りしたい。 ■「ネタバレなし編(赤)」 今年の劇場版は、ポケモン映画としては異例だった。ポケモン映画は、毎年新しい「伝説」や「幻」と呼ばれる特別なポケモンを主役に添えて公開され、すでに子どもたちの夏の風物詩となっているわけだが、今回は予告から「おや!? ポケモン映画の様子が……?」である。まず、ポケモン映画は第1作『ミュウツーの逆襲』から、昨年公開の『ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ』(これもいい映画だった)に至るまで、タイトルに主役となる「伝説」「幻」のポケモンの名前を必ず冠してきた。19年間、一度の例外もなく、必ず、だ。 それが、今回初めて“ない”。代わりにタイトルに冠されたのは「キミにきめた!」。テレビアニメ版ポケモンの主人公・サトシが仲間のポケモンを繰り出す時に叫び続けてきた、定番のセリフだ。 さらに、パンフレットに目を向けてみると……。ポケモン映画の劇場パンフレットというのもまた、タイトルと同じように必ずメインとなる特別なポケモンが表紙を飾ってきた。しかし今作の表紙は、「サトシとピカチュウ」だ。 今作にも新しい幻ポケモン・マーシャドーが登場するのだが、主役はあくまでサトシとピカチュウということなのだ(それも、昨年までパンフレットの表紙を飾ってきた伝説ポケモンたちと同じく「横顔のアップ」の構図になっているのがニクい)。 これだけでも、今年のポケモン映画が「いつもとは違う」ことがテレキネシスのように伝わってくる。 そして最初に解禁されたキービジュアルは、サトシとピカチュウが夕景の空を見つめる姿だ。その先には、優雅に飛んでいく伝説ポケモン「ホウオウ」。これだけでピンとくる人もいるだろう。 アニメの世界でサトシとピカチュウの旅立った日、すなわち1997年の4月1日に放送された第1話のクライマックスで、サトシたちの前に姿を現したのがホウオウだった。この「ホウオウ」は、その当時まだ開発中だったゲーム「ポケットモンスター」シリーズの2作目『ポケットモンスター金・銀』に登場が告知されていた、言うなれば「まだ見ぬ」新ポケモンだった。 そのウワサの新ポケモンの登場にくぎづけになると同時に、当時ホウオウは「歴史に残るような天才の前にしか姿を現さない」という設定が語られていて、この前途多難そうなサトシとピカチュウのコンビにこれからどんな大冒険と栄光が待っているのか、僕らは胸を躍らせた。 サトシは言う。 「いつか一緒にあいつに会いに行こうぜ!」 そういうわけで、「ホウオウ」はポケモンアニメにとってちょっと特別なポケモンなのだ。そんなホウオウとの出会いをキービジュアルに添えたことからわかるように、今回のポケモン映画は20年前と同じ「サトシ旅立ちの日」が舞台。言うなれば、アニメ『ポケットモンスター』第1話のリメイクなのだ。 しかし、キャラクターにサトシの初期の旅の仲間たち(タケシ、カスミ)がいないことからわかるように、ある種のパラレルワールド、サトシとピカチュウの「もう一つの旅立ちの可能性」を描いている。 そしてその旅は、今の子どもたちはもちろん、サトシと一緒に旅をしたことがあるすべての世代に届く、感動的でちょっとビターなものになっている。 僕は、最初のポケモン赤緑からプレイした世代なので、20年前のポケモンアニメ第1シーズン(通称・無印)の第1話が放映された日、テレビの前で正座してワクワクしながら待っていた。あれ以来、20年間、ポケモンアニメはずっと側にあって、特に意識せずともふとした時にテレビを見たり、映画を見に行ったり、つかず離れずのいい関係性で一緒に歩んできたと思う。 そして、最新作『キミにきめた!』を見て、20年間好きでいられたポケモンアニメへの一つの大きな区切りがつけられた感じがしたのだ。 おそらくポケモンのアニメは、その人気が続く限り終わらない。サトシとピカチュウは、サザエさんやドラえもんのキャラクターのように永遠に年をとらないまま、終わらない旅を続けるだろう。 つまり、ポケモンアニメに真の意味での「最終回」はやってこないわけだが、今回の映画は一つの「最終回」の可能性を見せてくれる。少なくとも僕にとっては、あの日に見届けた旅立ちの、20年越しの終着点だった。「いつか一緒にあいつに会いに行こうぜ!」の「いつか」がやってきたのだ。 そんなわけで、サイゾー読者にもぜひ見てもらいたい今年のポケモン映画なのであった。 ■「ネタバレあり編(緑)」 さて、まだ見てない人はここから先に進んではいけない。 ピカチュウがしゃべった。 これは衝撃だったと同時に、とても感動的だった。 ピカチュウの想いが通じたことを表すシーンで、おそらくサトシのイメージの中の出来事なのだが、どんなにピンチになってもモンスターボールに入らないピカチュウが、その理由を「ずっと一緒にいたいから」という“言葉”でサトシに伝えるのだ。 ある意味、禁じ手とも思えるこのシーン。もちろんこんな演出は、ポケモンアニメ20年の歴史で初めてである。そもそもピカチュウは、なぜモンスターボール=ポケモンの捕獲装置の中に入らないのか? これについては、初代ポケモンの脚本家・シリーズ構成であった首藤剛志さんがこんなことを言っている。 「いつまでも自己を失いたくないのだ。“自己を見失うな”ということも、このアニメのテーマにしたかった。ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物になりたくないのである」 ポケモンアニメを語る上で、初期のポケモンアニメを支えた首藤さんは決して無視することのできない存在だ。 今作のエンドロールにも「一部脚本・首藤剛志」のクレジットが映るので、多くの初代ポケモンアニメのファンたちを落涙させたとか、させないとか。 ポケモンアニメを貫くテーマや世界観の基礎は、この首藤さんの手による部分が大きい。原作ゲームの「ポケモン」と「トレーナー」の関係は、ともするとモンスターボールで捕獲したポケモンを「道具」のように扱って代理戦争をしているように映る。 実際にポケモンがどんなに戦い傷つき敗北しても、トレーナーは傷つくことはなく、(なぜか)お小遣いを巻き上げられて敗走するだけで、ポケモンもまたどんなに酷使されても死ぬことも文句を言うこともない。 対戦ゲームなのだから当然だが、首藤さんはこの「所有」の関係性がアニメに極力反映されないようにシリーズ構成を行った。「バトル」をアニメの主軸にせず、ポケモンとの「出会いと触れ合い」をアニメのメインテーマにしたのだ。 その結果が、ボールに入りたがらない=所有物になりたくない=自分の意思でサトシと旅をするピカチュウであり、ポケモンのために自分が傷つくことをいとわないサトシのキャラクターなのだ。 ポケモンの第1話、そしてそのリメイクでもある『キミにきめた!』で、出会ってからずっとサトシの言うことを聞かなかったピカチュウがサトシのために戦うことを決意するきっかけとなったのは、身を投げ出し、自ら傷ついてでもピカチュウを守ろうとするサトシの姿だ。 本来のゲームでは絶対に選択できないこの行為があることで、あくまでサトシとピカチュウはそれぞれが傷つき認め合った対等のパートナーであり、お互いの意思でこれからの旅がスタートすることを印象付けた。 首藤さんの作り出したこの導入がなければ、もしかしたらポケモンアニメは強力なポケモンを道具のように繰り出すバトルだけが延々と続く、ありがちな少年向けアニメになってインフレの末に短命で終わっていたかもしれない。 あくまでポケモンアニメのテーマは「勝利」ではなく「信頼」であること、それはシリーズが首藤さんの手を離れてからも繰り返し語られる。 そういう意味でも、このピカチュウがしゃべり「自分の意思でサトシと共にいる」と伝えるシーンは、長い年月を共に旅してきたからこそ成り立つシーンであり、かつポケモンアニメの根底に流れるテーマをもう一度浮き上がらせ言語化する、まさに20年間のポケモンシリーズのハイライトだった。 このシーンに象徴されるように『キミにきめた!』は、初代シリーズ構成の首藤さんの脚本を直接的にリメイクしただけにとどまらず、ちょっと味付けは甘めだが、首藤さんのイメージを受け継ぎつつ、「今のポケモン」として描き出したシーンが多く見受けられる。 ここで、ポケモンアニメにおける首藤さんについて、もう少し書いておきたい。 首藤さんの最大の功績は、サトシとピカチュウの関係性を作り上げたことともう一つ、あるキャラクターたちを創造したことにある。 悪の組織に属しながら、落ちこぼれでマイペース、あくまで独自の美学に基づいてサトシとピカチュウを付け狙うラブリーチャーミーな敵役、ロケット団のムサシ、コジロウ、そして人間の言葉をしゃべるポケモン・ニャースだ。 首藤さんは、子ども向けアニメの「優等生」的な制約の中で自由がきかない主人公チームに対比する、「遊び」がきく大人のキャラクターとしてロケット団の3人(?)を創造した。この存在が、ポケモンアニメにさらなる「抜け」を生んだのは間違いない。 かくいう僕も、ロケット団の3人が大好きで、何度も笑わされ、感動させられてきた。彼らの魅力は、「間抜け」で「落ちこぼれ」で「情けない」敵役キャラクターでありながら、やる時にはやる「自分たちの基準」を持っていて、実は本当の部分では孤高の存在であることだ。 だからこそ、どんなに間抜けでもかっこよく、その結果として何度空の彼方に吹き飛ばされようと、その敗北は清々しく希望に満ちている。アニメの文法にしたがった単純な「悪いやつ」でもなければ、「やっぱりいいやつ」でもない、自分たち自身でもどっちかわからないで画面の中でドタバタ右往左往しながら、その都度自分たちの信じる行動を選択していく。 首藤さん風に言うなら、迷いながらも「自己存在を失っていない」キャラクターたちなのだ。そう、ポケモンアニメのキャラクターたちからは、「自己存在」というテーマが見えてくる。そして、そのテーマが結実したのが、首藤さんが脚本を担当した劇場版第1作『ミュウツーの逆襲』だ。 この映画は、コピーされた生命を題材にとった「自分とは何か?」というダイレクトな「自己存在への問いかけ」がテーマだ。作られたクローン生命であるミュウツーとコピーポケモンたちは、自分の“本物”と戦い勝つことでしか“自己存在”を見つけられないと考えている。こうして自己存在を懸けて、コピーポケモンと本物のポケモンが傷つけ合う。ミュウツーも、自らのクローン元であるミュウと激突する。 そんな中、相手を傷つけることを拒否するポケモンがピカチュウと、クローンと一緒にただ月を眺めているニャースだ。ロケット団のニャースは、人間になりたくて、人間の言葉をしゃべれるようになった、非常に変わったポケモンだ。人語習得という大技に力を使い果たしたばかりに、進化したり、新しい技を覚えることすらできない=もはやポケモンとしての機能を持っていない、という設定もある。ピカチュウと同じくモンスターボールには入らず、ムサシとコジロウともあくまで「同僚」であり「対等な仲間」だ。彼はポケモンでありながら、人間でもある、言うなれば「境界線上のポケモン」といえる。そしてそれは、ポケモンでもなければ、人間でもない、「何者でもない」ことでもある。 そう、「自己を見失わない」ということは、「誰の所有物にもなれない=どこにも属することができない」ということと背中合わせなのだ。ピカチュウもまた、トレーナーの所有物でもなければ、野生のポケモンでもない。 彼らは、自分たちの自己存在の曖昧さを抱えながら、それでも「自分でいよう」という選択を続けてきた。だから、「何者でもない」葛藤を恐れないし、そのために他者を傷つけることを選ばない。この戦いを見て「昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで、やな感じ~」と嘆く、ムサシとコジロウ。彼らも「悪役」でもなければ、「正義の味方」でもない。組織の中で出世することもできなければ、誰に感謝されるわけでもない。それでも「自分」でいようとしてきた彼らは、「他者」の存在を否定しない。 「自己存在を失わない」者は、「他者との共存」を選択できるんじゃないか。これもまた、首藤さんがポケモンシリーズに込めた想いの一つでもある。実は、ポケモンアニメは放送開始の段階では1年、そのあとも長くとも4年で終わる予定で、首藤さんはすでに最終回の構想を持っていた。 この『ミュウツーの逆襲』にも、幻の最終回へとつながる要素がちりばめられているという。このプロットは、いろいろなところに掲載されていると思うので、ここでは手短に話そう。 *** ある日、「ポケモンと人間の共存は不可能」という結論に達した両者が対立し、大きな争いになっていく。ポケモン側のリーダーに担ぎ上げられたピカチュウは、サトシと共に戦いを止めようとするが事態は改善せず苦悩する。 そんな中、奮闘するのが、あのロケット団の3人だ。彼らの存在が、人間とポケモンにとっての「共存」の道標になり、さらにミュウツーも現れる。 ピカチュウ、ロケット団、ニャース、ミュウツー……みんなその葛藤を抱きながらそれでも「自己存在」を求めて旅を続けてきた。次第に彼らは「自己存在への問い」に答えを見いだしていく。 「自己存在のある限り、我々はどんな者たちとも共存できる」という答えを。 ……年月がたち、老人になったサトシが過去のことを回想している。ピカチュウとの冒険の日々は、少年時代の幻想だった。 ポケモンたちは、少年時代のサトシの目を通して見ていた架空の存在だったのだ。翌朝、目を覚ましたサトシは、また少年の姿。しかし、その世界にポケモンはいない。今度は現実の世界で、自分を探し、他者との共存を目指す旅が始まるのだ。 *** このプロットには、いつか虚構(ゲーム)の世界と別れ、現実へと回帰して自分の世界で一歩を踏み出してほしい、そしてその世界で「自己存在」と「他者との共存」を目指してほしいという首藤さんのメッセージが感じ取れる。 さらに、この幻の最終回のプロットを見ると、今回の『キミにきめた!』の中にいくつかのイメージが反映されているのがわかる。 特に、「老人になったサトシ=サトシのような服装の老人・ボン」「ポケモンのいない世界=マーシャドーによりサトシの見た夢(?)の世界」の2つは顕著だ。 しかし、映画ではこれらの意味合いが反転して使われているのも面白いところだ。首藤案では大人になりポケモンのいる世界に別れを告げている老人サトシだが、映画に登場するボンという老人はホウオウを20年間追いかけ続ける「ポケモンを卒業できない大人」なのである。 これは、首藤さんの言うところの「虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子ども」そのものである。 そして、20年たった今もポケモンの世界を卒業しないでいる、僕を含むファンの姿でもある。さらに、「ポケモンのいない世界」がマーシャドーの見せた「悪夢」的な空間として描かれているのも印象的だ。最終的にサトシは、ピカチュウの存在を思い出すことで、ポケモンの世界へと回帰する。 しかし、ここの描き方に違和感を覚える人もいるのではないだろうか? これ、もしかしたらポケモンの世界のほうが夢なのではないか、マーシャドーの影響で少年の純粋さを失いかけたサトシが「ポケモンの夢」から覚めかけてしまったのではないか……などと、妄想すればきりがないが、とにかく首藤さんのイメージを乱反射させつつ、その解釈は逆になっているのもまたこの映画の面白いところなのである。 首藤案では、最後にポケモンのいない世界での冒険が始まるところでエンドマークとなる。「ポケモンの世界」と決別しながら、これから視聴者の子どもたちが飛び込んでいく現実の世界に希望を持たせるエンディングだ。 対して『キミにきめた!』のラストシーンは、いつも映画の冒頭に流れる「ポケットモンスター、縮めてポケモン」から始まる「ポケモン」の存在をもう一度再確認するナレーションが流れる。 これはサトシと、それを見守る僕らの旅がこれからも続いていくことを予感させる、虚構の世界(ポケモンワールド)の希望に満ちたものだ。 この2つのエンドマークが指し示しているものは、大きく違う。 ポケットモンスターは、スタートした時からは想像できないくらい長い歴史と多くのファンを持つようになった。アニメのポケットモンスターも、もちろん首藤さんだけのものではないし、首藤さんが関わらなくなってからのポケモンアニメの歴史のほうがはるかに長いのだ。 多くの人々が共に歩んできて、これからも歩んでいくポケモンにとっては、今のエンディングがふさわしいのだろうと思う。 『キミにきめた!』は、首藤さんをはじめ、原点であった「かつてのポケモンアニメ」へのリスペクトと、「今のポケモンアニメ」としてのメッセージや挑戦が融合した映画だ。その2つが、まったくの別物だとは思わないが、やはり同じものであるともいえない。 ポケモンアニメは変わり続けてきた。これからも今の子どもたちに届くような新しい進化を続けていくだろうし、それを願っている。 ただ、20周年という節目に、過去と現在のポケモンをつないでくれた『キミにきめた!』は、20年に一度のポケモンアニメからの素晴らしいギフトだった。それだけは記しておきたい。 ※首藤剛志さんの発言等については、「シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家」(http://www.style.fm/as/05_column/05_shudo_bn.shtml)からの引用です。首藤さんが自身のキャリアについて独特の筆致で書き残した素晴らしいコラムです、興味のある方はご一読を。『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』公式サイトより
●タカハシ・ヒョウリ
“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。
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