19日放送のドラマ『刑事ゆがみ』(フジテレビ系)第2話の視聴率は、5.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と、前回から1.8ポイントの大幅ダウン。私の観測範囲では、初回を見た人みんながみんな「面白ーい!」と言っていたので、かなり意外な結果です。どうなってんだろ。 ともあれ、今回も振り返りです。 (前回のレビューはこちらから) 今回、刑事・弓神(浅野忠信)と羽生(神木隆之介)が扱うのは、アラフォー女教師・千里(水野美紀)の部屋で、千里の学校で教育実習をしていた大学生・打越(中川大志)が襲われた事件。千里の部屋に暴漢が侵入したところ、訪ねてきた打越ともみあいになり、千里は暴漢が振り回した花瓶によって腕を負傷。打越はこぼれた水にすべってテーブルで頭を打って、意識不明です。つまりは、不法侵入、強制性交等の未遂、それに傷害で犯人は逃走中とのことです。しかし、襲われた千里はなぜか被害届を出さず、暴漢の検挙に協力的ではありません。 ちなみに、この狂言レイプという設定はほぼ原作通り。ですが、この7月に強姦罪が強制性交等罪に変更になり、親告罪ではなくなったことで、聞き取り捜査を拒む千里と、捜査をしなければならない警察との間の軋轢が追加されていたりして、ドラマの「今っぽさ」を演出する意欲が感じられます。 そうなんです。『刑事ゆがみ』を2話目まで見て感じるのは、「意欲的な作品だなぁ」ということなんです。ネタバレはネット上にいくらでもありますし、FODでまだ無料で見られるので、ここではお話の筋は置いておいて、この刑事ドラマの特色について考えてみたいと思います。 主人公のひとりである弓神のキャラクターは、ある意味で類型的です。出世には全然興味がないけど情には厚く、ぐうたらに見えて、実はものすごい切れ者。行動は破天荒なのに洞察力に優れ、臨機応変な考え方で真相に迫る。 そうした人物のバディを設定する場合、あらゆる面で対照的な人物である必要があります。出世欲が強く熱血漢だが、違法行為に対しては杓子定規に法を当てはめて摘発しようとする。よく働くけど、真相はあまり見えていない。一度誰かが犯人だと思い込んでしまえば、そうと決めつけて思考停止してしまう。弓神のバディとして登場した羽生は、そうした刑事です。要するに、基本的に弓神に比べて面白みのない、刑事としての魅力に欠けた人物として、弓神を引き立てることになります。 『刑事ゆがみ』でも、こと「真相解明」という本筋の部分では、こうしたセオリーに則っています。刑事として、羽生は弓神の足元にも及びません。しかし、刑事としての実力以外の部分で、羽生という人物は多くの情報を持っているのです。たとえば「25歳童貞(本人は否定している)」だったり、「女教師AVマニア」だったり、「女の下着に見入ってしまう」だったり。こうした下品な人物を、当代きっての清潔感を誇る清潔俳優・神木隆之介が演じることで、“ギャップ萌え”が生まれることになります。また、羽生が弓神よりケンカが強いという設定も、2人の関係性に目新しさを感じさせます。 例えば今回、千里家に不法侵入した容疑者として取り調べを受けた下着泥棒(斎藤工)を、羽生はレイプ犯だと決めつけますが、自白を引き出すことができません。困り果てた羽生はGoogleで「自白 誘引方法 心理戦」と検索します。それを検索しているスマホに、羽生がレンタルショップで「女教師モノ」のAVを物色している姿を弓神が盗撮した動画が届く。こうした細やかなエピソードを重層的に挟むことで、羽生が弓神に比べて迂闊であることと、チャーミングな人物であることが同時に語られる。 弓神のようなキャラクターは、放っておいても視聴者に愛されるものですが、『刑事ゆがみ』は羽生をいかに魅力的な人物として描くか、弓神同様に視聴者に愛されるキャラクターに育て上げるかというところに、大きな労力を割いているように感じます。 また、今回ほとんどチョイ役といってもいい下着泥棒の斎藤工ですが、こちらも実に丁寧に描写されます。 羽生は、下着泥棒がエスカレートしてレイプ犯になったと決めつけています。同じ性犯罪者ですので、そういうこともない話じゃないのでしょう。 でも、そうじゃない。そうじゃないことを説得力を持って語るために、ドラマは下着泥棒に美学を与えました。 専用のレンタルコンテナにこだわりを持って収納され、優秀な(?)下着は電飾を仕込んだマネキンに着けさせている。ナンバリングされた下着のデータベースは、すべて頭の中に入っている。こうして並々ならぬ「下着だけ」への執着を表現したうえで、斎藤工に「本人いなきゃ失礼だろうが!」というセリフを吐かせました。彼は、被害者が不在の家に空き巣的に泥棒に入ることを潔しとしません。徹底的にリサーチし、被害者が寝息を立てている横で下着を盗むことにこだわっているのです。 つまり、彼は今までも(泥棒キャリア8年だそうです)、レイプしようと思えば、できる状況は何度もあったというか、泥棒に入ったすべてのケースで、無防備に寝ている女が横にいたということです。それでも、絶対に指一本触れてこなかった。彼に限っては、決してレイプ犯にはエスカレートしない純粋な下着コレクターであることが、こうした具体的なエピソードで説得力を得るわけです。 事件の被害者となった千里についても、同様に多くの情報が与えられていましたが、それはまあ、興味があれば見てみてください。42歳の喪女の、初めての恋に導かれた悲劇です。百人一首の恋の歌をモチーフに、泣ける展開になってます。 今回の事件を見ていて、感じたことがあります。 公式ホームページでプロデューサーの藤野良太さんが、「本作品のコンセプトとして、アクションや謎を解くだけではなく、主人公たちが向き合う事件に“時代性”を込めるというのがあります」と語っています。これを読んだとき、けっこう不安になったんです。何しろあのフジテレビですので、またぞろ適当に流行りモノに便乗するだけの安っぽい原作改変で「ファン激怒!」みたいなことになるんじゃないのーと。 あくまで印象ですけど、確かに1話目の痴漢えん罪をめぐる女同士の嫉妬のもつれにしても、今回の喪女の悲恋にしても、現代を感じさせるものではありました。でも、適当に乗っかってる感じがしないんです。 むしろ、脚本家の女性たちが「今、これなら深く掘れる」「今の私なら、こういう事件にリアリティを持たせることができる」といった感じの、まずは“当事者性”ありきでの“時代性”に見える。あくまでそう見えるという印象でしかないんですが、作家の当事者性が投影された作品というのはクオリティ云々の前に、迫ってくるものがあるよね、という話です。 逆に、当事者性なくこれだけ腰の入った脚本が作れるライターがいるなら、それはそれで業界の未来は明るいと思いますし。 それにしても視聴率、ねえ……。 (文=どらまっ子AKIちゃん)フジテレビ系『刑事ゆがみ』番組公式サイトより
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TBS日曜劇場『陸王』盤石の14.7%スタートも、そろそろ“サービス残業”を美談にするのはやめませんか?
池井戸潤原作、八津弘幸脚本、福澤克雄演出と、TBS日曜劇場が同枠のヒットドラマ『半沢直樹』『下町ロケット』と同じ布陣で挑む『陸王』は、初回14.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と盤石のスタートです。役所広司が15年ぶりの連ドラ主演だったりとか、今をときめく山崎賢人と竹内涼真が競演してたりとか、話題性も十分ですし、コケる要素がまるで見当たりません。というわけで、第1話を振り返りです。 ■設定の時点で“勝ってる” お話は、埼玉県行田市で100年続く足袋屋さん「こはぜ屋」が、その技術を応用してランニングシューズを作ろうと奮闘する挑戦譚。実際にモデルになった老舗の足袋会社があるそうですが、もうこの「ランニング足袋」の存在自体がドラマチックですもんね。町工場の技術でロケットを飛ばそうという『下町ロケット』同様、設定の時点で勝ちは決まったようなものですし、池井戸さんが適切な人材配置を施した原作小説も、「どうぞ映像化してください」というメッセージをビンビンに感じるエンタメ作品に仕上がっています。 序盤の物語を転がすのは、「こはぜ屋」を担当する銀行員の坂本っちゃん(風間俊介)です。「不況だわ~斜陽だわ~」と嘆くばかりの「こはぜ屋」社長・宮沢(役所)への融資が厳しくなってきたとみるや、「新規事業を考えてください」とハッパをかけます。 すると宮沢は偶然、デパートのシューズ売り場で五本指の軽いランニングシューズを発見。「足袋みたいだ……」とつぶやくと、足袋の技術を応用した素足感覚のシューズを作ることを閃きました。実は「こはぜ屋」、先代の時代にもマラソン足袋の開発を手がけ、頓挫した歴史があったのでした。 坂本っちゃんは、その申し出に賛同すると、さっそくランニングの専門家であるスポーツ用品店の有村(光石研)を宮沢に紹介。ランニングブームの昨今、カカトに厚い緩衝剤の入ったシューズがもてはやされているせいで「人間本来の走り」が失われ、よくないフォームが原因でケガをする人が増加しているという話を聞き、宮沢はマラソン足袋の意義を再認識することになります。 このあたり、完全に坂本っちゃんが神の配剤を担う“救世主”として機能しています。普通に考えて、こんなにすぐ「足袋屋」と「足袋っぽいシューズを推す専門家」が出会っちゃうのは、ご都合主義そのものなんですが、坂本っちゃんが単に優秀な銀行員であるだけでなく、その行動がいちいち彼の「理想の銀行員であろう」という信念に重ねて描かれるので、全然ムリ目に見えません。坂本っちゃんによるこうした出会いの導きは、ある意味で“奇跡”なわけですが、『陸王』そのものが「信念によって奇跡を起こす物語」なので、むしろそうしたストーリー哲学の強度を増す方向に働いている。こういうところが、池井戸さんの適切な人材配置の真骨頂です。 もうひとり、物語に推進力を与えるのが、ダイワ食品という食品会社で実業団ランナーをしている茂木くん(竹内)。もともとは野球少年だったものの、肘を壊して陸上に転向。その後、箱根で鳴らした有望株でしたが、どうやらフォームに不安があるそうです。有村に誘われて息子・大地(山崎)とともにレースを観戦しに行った宮沢の目の前で、茂木くんは故障リタイアしてしまいます。普通に考えて、こんなにタイミングよく「フォーム矯正に役立つ足袋っぽいシューズを作りたい足袋屋」と「フォーム矯正が必要な元有望選手」が出会っちゃうのもアレですが、2人の芝居が実に熱いので飲み込まされてしまいます。 ちなみに大地は就職浪人で、面接に落ちまくり中。「こはぜ屋」では、腰かけ的に働いているだけ。もともと工学部の出身で、ケガでサッカーをあきらめた過去があります。なので、野球をあきらめてマラソンで再起した茂木くんに、強いシンパシーを感じているようです。茂木くんの故障を目の前で見た大地は「どんだけ努力したって、できないことってあんだよなぁ」と、しょぼくれてしまいます。もはや人生に対するモチベーションはゼロ。そんな大地に、宮沢はランニングシューズを作る決意を述べます。 つまり、宮沢のランニングシューズで茂木くんを復活させることができれば、それはしょぼくれた大地を励ますことにもつながるというわけです。こういう人材配置、ホントに上手い。 第1話では、なんだかんだで「こはぜ屋」の工員さん総出で試作品を作り上げたり、番頭のお爺ちゃんに苦虫を噛み潰されたり、それなりに試作品が認められたり、有村に「軽くていいけど、ソールの耐久性が問題だ」と言われたりしながら、2時間たっぷりと見応えのあるドラマらしいドラマを見せてくれました。最後に、「こはぜ屋」に肩入れしすぎて左遷されることになった坂本っちゃんが「軽くて丈夫なソールの材料」になりそうな素材を持って来てくれて、夢がつながります。坂本っちゃんのミラクル救世主ぶりたるや! ■ニューヒロイン爆誕! 阿川佐和子って、こんなにかわいかったっけ!? キャストは、どなたもすばらしくハマっています。一流スポーツメーカーの営業社員・小原を演じるピエール瀧や、実直なシューフィッター・村野の市川右團次なんて、ほとんど当て書きじゃないかってくらいドハマリしてます。 そんな中、原作中の存在感をはるかに超えて華やかに立ち上がったキャラクターが、阿川佐和子演じる「こはぜ屋」縫製部門のリーダー・正岡あけみです。 納期が怪しい作業があれば「ねえ、みんな! 絶対間に合わせるよぉ~!」と鬨の声を上げておばちゃんたちを奮い立たせ、マラソン足袋開発チームの会議に参加すれば「ハ・ダ・シ・か・ん・か・く♪」と小さな身体をピョンピョン揺らしてみたり。プロジェクトにビビり始めた宮沢社長に涙ぐんで共感して見せたかと思えば、飲み会で番頭さんと言い合いになると「クソじじい!」と言い放つ。 その振る舞いすべてが、たいへんにキュートなのです。連ドラへのレギュラー出演は今回が初めてだそうですが、完全にニューヒロイン誕生といえるでしょう。阿川さんの存在は、『陸王』の大きな武器になると思います。ホントかわいかった。次回以降も楽しみ。 ■で、“サビ残”の話なんですが…… ランニングシューズの開発にあたって、「こはぜ屋」の縫製部門のおばちゃんたちは、サービス残業をさせられていました。当然、不満も出てくるわけですが、同調圧力が働いてハッキリ拒否することができません。『陸王』は老舗企業が舞台ですが、現代劇ですので、ちょっと引っかかる部分ではありました。 銀行からの融資が厳しくなり、宮沢社長は融資継続の条件として「新規事業の中止」と「リストラ」を迫られます。結果、突っぱねてシューズの開発を続けることになりますが、おばちゃんたちに与えられた選択肢は「リストラされるか」「サビ残させられるか」の二者択一という状況でした。 これ、個人的にはそんなに「ひでえな」とも思わなかったんですが、引っかかったのには理由があります。 「残業すれば工賃は割り増しになる。これまでの残業分だけでも、コストはすでに計画を上回っていた」(池井戸潤『陸王』集英社より) つまり原作では、「こはぜ屋」は残業代を払ってるんです。ドラマでは、あえて変更してる。 ドラマの制作陣の間で、その方が、よりドラマチックであろうという判断が働いていることに、どうしても引っかかってしまう。結果、社長と銀行との間で“福沢節”ともいえるエモーショナルなやり取りが生まれて感動的なシーンが演出されているので、失敗ではないと思うのですが、プロット上、どうしても“サビ残である”という必然性があったのかなというところに疑問が残る。サビ残じゃなくてもいいのに、サビ残という設定を追加していることに、「その方が尊い」「無償の労働は美しい」という主張が見える。 というか、たぶん主張でもないんだろうな。視聴者の多くが「その方が尊い」と感じると踏んで、そうしている。けど、世間的にはちょっとズレ始めてて、私も含めて引っかかってしまう層が昔より多くなったし、そうした層の声がネットによって表に出やすくなってる。 たぶん今、過渡期なんでしょうね。あと数年もすれば、テレビドラマも、もうちょいこのへん敏感に排除する時代が来ると思います。せっかく高品質で面白いドラマなんで、こういうとこでケチが付いちゃうのはもったいないなーと。そんな感じでしょうか。 (文=どらまっ子AKIちゃん)TBS日曜ドラマ『陸王』番組サイトより
“史上最低脚本家”のリベンジが始まる!?『刑事ゆがみ』初回7.6%も、高評価スタート!
神木きゅんが大人になってる! もう神木さんじゃん! と、まず軽くびっくりしましたねえ。個人的に、ちゃんと見たのは映画『桐島、部活やめるってよ』(2012)以来だったので。 というわけで、浅野忠信と神木隆之介が“バディ”を組む刑事ドラマ『刑事ゆがみ』(フジテレビ系)がスタートしました。初回視聴率は7.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)とイマイチでしたが、個人的には、かなり高評価です。高評価スタートです。 原作は、2006年に『弁護士のくず』がドラマ化されたことでも有名なマンガ家・井浦秀夫さんの同名コミック。『弁護士のくず』の主人公弁護士が九頭(くず)という名前だったのと同じく、本作で浅野が演じる主人公のベテラン刑事は弓神(ゆがみ)という名前。性格が歪んだ弓神さんは、下の名前が適当(ゆきまさ)であることからして、まあ適当な人物です。適当で歪んでいるので、言葉遣いは悪いし、行動は粗暴だし、上司には逆らうし、違法捜査もするし、でも真実に辿りついて事件を解決するのは、いつだって弓神。そういうダークヒーロー的なキャラクターとして登場します。いかにも浅野さんに似合いそうな役ですし、実際、劇中で浅野さんは実に楽しそうに演じています。 そんな弓神と“バディ”を組むのが、神木さん演じる羽生(はにゅう)刑事。こちらは原作では弓神に振り回されてホトホト困り果てるだけの役割でしたが、ドラマではしっかり人格と背景が与えられていて、より弓神との関係性の描かれ方が深まっています。この羽生というキャラクターの肉付けが、まず成功しているなぁと感じたんです。原作ではほとんど金魚のフン状態だった羽生が、弓神と“対等なバディ”として浮き立ってきている。もともとこの2人が画面に出てるだけでそこらへんのドラマよりリッチに見えて眼福なんですが、冒頭からキッチリ「対等ですよ」という主張が盛り込まれているので、緊張感が生まれていました。 なので、冒頭の取り調べシーンとその後の屋上で包丁を振り回してるおじいちゃんを捕まえるシーンあたりで、これはおもしろくなりそうだという期待感が出てきました。 ■脚本家は“最低視聴率”請負人!? このドラマの脚本にクレジットされているのは3人。1番手は倉光泰子さんです。倉光さんといえば「フジテレビヤングシナリオ大賞」出身で、初めてメーンを張った昨年4月期の『ラヴソング』において平均視聴率8.5%を叩き出し、当時の「月9史上最低記録」を塗り替えた人物。さらに、今年1月期に再び月9に挑んだ『突然ですが、明日結婚します』で全話平均6.7%と、またまた最低記録を更新するという、そんな感じの方なのです。 そして、この2本の作品は、そんな最低な数字以上に、ドラマの出来としても最低だったと感じました。詳しくは各ドラマの最終話レビューに書きましたが(『ラヴソング』/『突然ですが、明日結婚します』)、まあ2作とも見るに堪えない、時間の無駄としか言いようのない、連続ドラマとして成立してない作品です。 でも、倉光さんのことは、ずっと引っかかってたんです。たぶんこれ、倉光さんは悪くないよなぁーと、ずっと思ってた。『ラヴソング』は第4話からストーリーが迷走して破綻しましたが、おそらく主要人物が事情で出演できなくなったことがその原因でしょうし(そしてその理由はたぶん、上の最終回レビューでの推測とは別です)、『突然ですが』は、そもそも撮影が始まっていた別のドラマが中止になって、急ごしらえで見切り発車させた企画なので、全然時間がなかっただけなんじゃないかと。だから、『刑事ゆがみ』には期待していたんです。ちゃんと準備期間があれば、倉光さんは面白いものを書くんじゃないかと。 なぜなら、『ラヴソング』も第3話までは、かなり完成度が高いと感じていたからです。倉光さんの脚本は、人物のキャラクター付けがとにかく細やかで、命を吹き込むのが上手い。プロット上は不必要な、なんでもない仕草を挿入することで、その人の性格や暮らしぶりを想像させてしまう。さらに、例えばAという人物がBという人物に、最初にどう話しかけるかということにすごく気を使っていて、ファーストコンタクトの瞬間にもう関係性が明示されてしまう。そういう瞬間が、『ラヴソング』の第3話までに数多く訪れていたことが、とても印象に残っている。だからこそ、『ラヴソング』のその後の迷走や『突然ですが』の雑すぎる仕上がりに超ムカついていたわけですけど。 ■そういう倉光節とミステリーの相性が抜群でした そうした細やかな性格の肉付けによって立ち上がった新米刑事・羽生という人物は、原作よりずっと豊かな人間性を持って画面に現れました。そして、1シーンか2シーンで、もう弓神と羽生の関係性は確かなものとして伝わってくるのです。 本作は基本的に事件の犯人を探るミステリーですし、何しろ面白いからFODとかで無料で見てもらった方がいいと思うので、ストーリーについては今回は書きません。 ただ、特筆すべきは、倉光さんが『ラヴソング』で見せた細やかなキャラクター付けという作業が、今回ミステリーの中で行われることによって、人物像を肉付けするだけでなく、事件解決の伏線として機能していることです。犯人の動機や、刑事2人の行動原理にウソっぽさがないし、どの人物にも大いに共感してしまう。共感してしまうから、罪を犯したり、捜査をしたりしている彼らの“痛み”がダイレクトに伝わってくる。 『刑事ゆがみ』には、ドラマの都合で動いている(ように見える)人物が1人もいませんでした。それぞれの人物が自分の信念で行動している(ように見える)のです。それは、脚本家がすべての登場人物に寄り添っている証拠だと思いますし、丁寧にキャラクターの心の中からウソを取り除いた結果だと思います。 本作の演出の1番手は、『ラヴソング』でもコンビを組んだ西谷弘さん。『ガリレオ』や『任侠ヘルパー』を手がけた、フジテレビでは御大ともいえる大先生です。しかし『ラヴソング』では、その第3話まででクレジットから名前が消えてしまい、最終話でようやく戻ってきたということもありました。 だからこのドラマは西谷さんと倉光さんにとって“リベンジ”の意味合いもあるんだろうなと思うし、数字的にこんだけコケてもチャンスを与えられた倉光さんが、とりあえず第1話では良い仕事をしたということが、けっこう感動的だったりするんです。 とはいえ、刑事ドラマはやっぱり事件が面白くないと、どうしようもありません。原作はまだ3巻しか出てないし、いかにも現代ドラマに採用するには古臭い設定の事件に多くのページが割かれていたりするので、いずれオリジナルで事件を構築するという、人物造形とはまるで違う脳みそを使わなければいけない段階も来ることでしょう。応援してますし、もしつまんなくなったら、それも正直に書かなきゃなーと思ってます。 (文=どらまっ子AKIちゃん)フジテレビ系『刑事ゆがみ』番組公式サイトより
“史上最低脚本家”のリベンジが始まる!?『刑事ゆがみ』初回7.6%も、高評価スタート!
神木きゅんが大人になってる! もう神木さんじゃん! と、まず軽くびっくりしましたねえ。個人的に、ちゃんと見たのは映画『桐島、部活やめるってよ』(2012)以来だったので。 というわけで、浅野忠信と神木隆之介が“バディ”を組む刑事ドラマ『刑事ゆがみ』(フジテレビ系)がスタートしました。初回視聴率は7.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)とイマイチでしたが、個人的には、かなり高評価です。高評価スタートです。 原作は、2006年に『弁護士のくず』がドラマ化されたことでも有名なマンガ家・井浦秀夫さんの同名コミック。『弁護士のくず』の主人公弁護士が九頭(くず)という名前だったのと同じく、本作で浅野が演じる主人公のベテラン刑事は弓神(ゆがみ)という名前。性格が歪んだ弓神さんは、下の名前が適当(ゆきまさ)であることからして、まあ適当な人物です。適当で歪んでいるので、言葉遣いは悪いし、行動は粗暴だし、上司には逆らうし、違法捜査もするし、でも真実に辿りついて事件を解決するのは、いつだって弓神。そういうダークヒーロー的なキャラクターとして登場します。いかにも浅野さんに似合いそうな役ですし、実際、劇中で浅野さんは実に楽しそうに演じています。 そんな弓神と“バディ”を組むのが、神木さん演じる羽生(はにゅう)刑事。こちらは原作では弓神に振り回されてホトホト困り果てるだけの役割でしたが、ドラマではしっかり人格と背景が与えられていて、より弓神との関係性の描かれ方が深まっています。この羽生というキャラクターの肉付けが、まず成功しているなぁと感じたんです。原作ではほとんど金魚のフン状態だった羽生が、弓神と“対等なバディ”として浮き立ってきている。もともとこの2人が画面に出てるだけでそこらへんのドラマよりリッチに見えて眼福なんですが、冒頭からキッチリ「対等ですよ」という主張が盛り込まれているので、緊張感が生まれていました。 なので、冒頭の取り調べシーンとその後の屋上で包丁を振り回してるおじいちゃんを捕まえるシーンあたりで、これはおもしろくなりそうだという期待感が出てきました。 ■脚本家は“最低視聴率”請負人!? このドラマの脚本にクレジットされているのは3人。1番手は倉光泰子さんです。倉光さんといえば「フジテレビヤングシナリオ大賞」出身で、初めてメーンを張った昨年4月期の『ラヴソング』において平均視聴率8.5%を叩き出し、当時の「月9史上最低記録」を塗り替えた人物。さらに、今年1月期に再び月9に挑んだ『突然ですが、明日結婚します』で全話平均6.7%と、またまた最低記録を更新するという、そんな感じの方なのです。 そして、この2本の作品は、そんな最低な数字以上に、ドラマの出来としても最低だったと感じました。詳しくは各ドラマの最終話レビューに書きましたが(『ラヴソング』/『突然ですが、明日結婚します』)、まあ2作とも見るに堪えない、時間の無駄としか言いようのない、連続ドラマとして成立してない作品です。 でも、倉光さんのことは、ずっと引っかかってたんです。たぶんこれ、倉光さんは悪くないよなぁーと、ずっと思ってた。『ラヴソング』は第4話からストーリーが迷走して破綻しましたが、おそらく主要人物が事情で出演できなくなったことがその原因でしょうし(そしてその理由はたぶん、上の最終回レビューでの推測とは別です)、『突然ですが』は、そもそも撮影が始まっていた別のドラマが中止になって、急ごしらえで見切り発車させた企画なので、全然時間がなかっただけなんじゃないかと。だから、『刑事ゆがみ』には期待していたんです。ちゃんと準備期間があれば、倉光さんは面白いものを書くんじゃないかと。 なぜなら、『ラヴソング』も第3話までは、かなり完成度が高いと感じていたからです。倉光さんの脚本は、人物のキャラクター付けがとにかく細やかで、命を吹き込むのが上手い。プロット上は不必要な、なんでもない仕草を挿入することで、その人の性格や暮らしぶりを想像させてしまう。さらに、例えばAという人物がBという人物に、最初にどう話しかけるかということにすごく気を使っていて、ファーストコンタクトの瞬間にもう関係性が明示されてしまう。そういう瞬間が、『ラヴソング』の第3話までに数多く訪れていたことが、とても印象に残っている。だからこそ、『ラヴソング』のその後の迷走や『突然ですが』の雑すぎる仕上がりに超ムカついていたわけですけど。 ■そういう倉光節とミステリーの相性が抜群でした そうした細やかな性格の肉付けによって立ち上がった新米刑事・羽生という人物は、原作よりずっと豊かな人間性を持って画面に現れました。そして、1シーンか2シーンで、もう弓神と羽生の関係性は確かなものとして伝わってくるのです。 本作は基本的に事件の犯人を探るミステリーですし、何しろ面白いからFODとかで無料で見てもらった方がいいと思うので、ストーリーについては今回は書きません。 ただ、特筆すべきは、倉光さんが『ラヴソング』で見せた細やかなキャラクター付けという作業が、今回ミステリーの中で行われることによって、人物像を肉付けするだけでなく、事件解決の伏線として機能していることです。犯人の動機や、刑事2人の行動原理にウソっぽさがないし、どの人物にも大いに共感してしまう。共感してしまうから、罪を犯したり、捜査をしたりしている彼らの“痛み”がダイレクトに伝わってくる。 『刑事ゆがみ』には、ドラマの都合で動いている(ように見える)人物が1人もいませんでした。それぞれの人物が自分の信念で行動している(ように見える)のです。それは、脚本家がすべての登場人物に寄り添っている証拠だと思いますし、丁寧にキャラクターの心の中からウソを取り除いた結果だと思います。 本作の演出の1番手は、『ラヴソング』でもコンビを組んだ西谷弘さん。『ガリレオ』や『任侠ヘルパー』を手がけた、フジテレビでは御大ともいえる大先生です。しかし『ラヴソング』では、その第3話まででクレジットから名前が消えてしまい、最終話でようやく戻ってきたということもありました。 だからこのドラマは西谷さんと倉光さんにとって“リベンジ”の意味合いもあるんだろうなと思うし、数字的にこんだけコケてもチャンスを与えられた倉光さんが、とりあえず第1話では良い仕事をしたということが、けっこう感動的だったりするんです。 とはいえ、刑事ドラマはやっぱり事件が面白くないと、どうしようもありません。原作はまだ3巻しか出てないし、いかにも現代ドラマに採用するには古臭い設定の事件に多くのページが割かれていたりするので、いずれオリジナルで事件を構築するという、人物造形とはまるで違う脳みそを使わなければいけない段階も来ることでしょう。応援してますし、もしつまんなくなったら、それも正直に書かなきゃなーと思ってます。 (文=どらまっ子AKIちゃん)フジテレビ系『刑事ゆがみ』番組公式サイトより
最終回6.0%の『僕たちがやりました』 原作以上の残酷さに痺れる「物語が主人公を救わない」物語
この8月で29歳になった窪田正孝が高校生役を演じることに「無理がある」とか「ない」とかいう話題も、すっかり懐かしくなった『僕たちがやりました』(フジテレビ系)も最終話。このドラマに関しては、気に食わない人は徹底的に気に食わなかったようで、視聴率は今回も6.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と前回の第9話を下回りました。 で、結論から言えば、面白かったです。面白かったという感想を前提に、話を進めます。 (前回までのレビューはこちらから) 前回、野音で開催されているコンサートに乱入し、ド派手な“自首”を敢行したトビオ(窪田正孝)たち矢波高爆破事件の真犯人4人組。一度は揉み消されたその容疑を自白し、互いに手を取りながら「僕たちがやりました!」と絶叫。清々しい表情を浮かべていましたが、そんなに事は思い通りには進みません。何しろこのドラマでは、冒頭の爆破事件からして、何ひとつ彼らの思い通りには進まないのです。 彼らの“自首”がひとしきり終わると、ステージには動物マスクをかぶった怖い人たちがハンマーを担いで乱入。思い切り4人の頭をブッ叩いて、そのまま拉致していきました。 案の定、拉致したのは容疑をもみ消したパイセン(今野浩喜)の父親・輪島宗十郎(古田新太)の手下たちでした。トビオが目を覚ますと、廃倉庫のような場所。顧問弁護士の西塚(板尾創路)と、パイセンの異母弟で超怖いレイム(山田裕貴)がいて、一緒に拉致されてきたパイセンと伊佐美(間宮祥太朗)、マル(葉山奨之)は正座させられています。 弁護士は、とりあえずパイセンだけ殺して闇に葬って、あとの3人は逃がすことにしたようです。マルと伊佐美は言うことを聞いてすぐ逃げましたが、トビオは逃げません。 「逃げた2人のほうが意味わかんねえよ、今までの自分、殺すために来たんじゃねえのかよ!」 レイムくんは、パイセンに加えてトビオも殺せることになったので、楽しそうです。飛びかかってきたトビオに暴れられてナイフこそ手放してしまったものの、パイセンに馬乗りになってボコボコにしています。 「上手くいくと思ったか? 世の中、お前が勝つようにはできてねえんだわ。ゴミは死ぬまでゴミなんだよ!」 拳とともに、レイムくんの言葉のナイフがパイセンに突き刺さります。しかしその直後、レイムくんの腹にパイセンの手にしたナイフがぐっさりと刺さるのでした。 「俺のどこが悪いねん、どこがゴミやねん。俺がゴミやったらお前らもゴミやぞ! 同じ人間ちゃうんか! みんなゴミちゃうんか! 生きる価値なんか、みなないぞ!」 転がるレイムくんに、今度はパイセンが馬乗りになります。 「俺はただ、楽しく生きたかっただけじゃ!」 ナイフが振り下ろされ、レイムくんは息絶えました。 レイムくんを殺害したパイセンを、警察が確保。それでも結局、輪島が裏から手を回し、パイセンは誤認逮捕で錯乱し、トビオたち高校生3人を脅迫して“自首”を試みたものの、結局「矢波高爆破事件は起こしていない」ということになり、トビオはまたしても罪を償う機会を失うのでした。 というところまでは、細部こそ違えど、ほぼ原作通り。ここから、大きな改変が行われることになります。 ■この改変に「主演・窪田正孝の見せ場を作る」以上の意味があったのか このドラマは、オリジナルキャラを投入したり時系列をいじったりしながらも、話の筋の“面白さ”や“作品の思想”といった部分は、原作コミックに頼り切っていたように見えました。ドラマ単体で何かを主張することはなく、だからこそ原作ファンからも「原作通りだ!」という評価を得てきたのだと思います。 以前より、「ラストはオリジナルになる」と公言されてきた『僕やり』が、いよいよそのラストに向けて走り出すことになります。 普段からパイセンが入り浸っていたトビオたちの高校には、マスコミが大挙して押し寄せています。そのマスコミに対し、トビオは屋上から、再び“自首”を試みます。 自分たちが真犯人であることを証明するため、余っていた爆弾を教室の窓ガラスに仕掛け、それを爆発させたのです。2階の教室のガラスが、1枚割れます。とても、10人も死者が出るような爆発ではありません。 「あの日、俺らがやろうとしてたのは、たったこれだけのことだったんだよ!」 プロパンガスに引火し、大爆発が起こってしまったあの事件。10人も死んで、実感がわかなくて、ただ怖くて、ずっと逃げて、関係ない人まで巻き込んで、大事な人まで騙して、死ぬこともできなくて、そんな自分でも「最高の友だちだ」と言ってくれた爆破事件被害者の市橋(新田真剣佑)も自殺しちゃって、もうどうしたらいいのか、トビオは本当にわからないのです。 だから、やっぱり自首するしかなかった。自由になるためには、自首するしかなかった。 「ごめんなさい、ごめんなさい、頼むから、俺たちを捕まえてくれよ……」 トビオの告白は、しこたま胸を打ちます。テレビで見ていた伊佐美もマルも、すぐに出頭するしかありません。 自首することで自由になろうとした若者が、結局自首できず、罪を償う機会を与えられないまま、その後の人生を過ごす苦悩が描かれたのが、原作のラストでした。一方でドラマ版のトビオは、自首に成功します。 ここまで語られてきた物語の定義として「自由を得るための唯一の方法は自首」でした。そして原作では、「あの事件で自首できなかったから、その後もトビオは自由ではなかった」という形のエピローグになっています。ドラマでは、事件について正反対の落とし前がつけられました。どちらがいいとか悪いとかいう話ではなく、それだけ大きな改変が行われたということです。 おかげで、最終回にふさわしい主人公の大演説シーンが繰り広げられ、ドラマは大いに盛り上がることになりました。 ■「罪を償った」はずのドラマ版では、物語はトビオを救わない トビオ、伊佐美、マルの3人は、どうやら少年院に送られたようです。出所後、トビオは職を転々としますが、どこに行っても矢波高爆破事件のネットニュース記事が残っているせいで、自主退社を余儀なくされています。もう事件から、10年が経っていました。 そしてある日、出所してきたパイセンが3人に集合をかけます。4人は再会を喜び合いますが、あのころのように楽しかったのは、ほんのひとときでした。 パイセンは、お笑い芸人を目指すと言います。小坂から大坂に改名し、獅子舞をかぶって「ファルコン大坂」という芸名で、ピン芸人をやると言うのです。もうすでに、ピンネタも作っていました。あまりにしょうもないので、伊佐美とマルは帰っちゃいました。 トビオは「人を殺してるのに、楽しそうに夢を語っている」パイセンが気に食わない様子。しかし、パイセンは「生きてんねんやから、しゃーないやろ」と言います。残っているのは「笑いだけなんよ」と。まあ初回からいろいろギャグとかやってたパイセンですが、売れる見込みがないことは誰の目にも明らかです。それでも「生きてんねんやから、しゃーないやろ」と。「トビオ、お前には何が残ってる?」と。 トビオは目を伏せ、静かにそれを言葉にします。 「ときどき、死にたくなる自分です」 パイセンの返事は重く、とても優しいものでした。 「そうか、でも、たまーに死にたくなるのが、お前が生きてる証拠や」 伊佐美は2人目の子どももできて、幸せに暮らしていました。マルは自首作戦に費やしたパイセンの金の余りをくすね、その資金でキャバクラを開業し、相変わらずしたたかに生きています。事件前に、彼らが標榜していた「そこそこの日常」を生きています。 この再会のくだりも、ほとんど原作のままのセリフ回しで再現されました。違うのは、原作のトビオも「ときどき死にたくなる」ものの、仕事も家庭もあって、それなりに「そこそこの日常」を生きているということです。その日常の中で、それでも絶対に拭いきれない罪悪感との折り合いの付け方を見出し、とりあえずは苦しみから解放されながら生きていくことになります。 ドラマ版のトビオは、「いつか望んでいたそこそこの日常は、もう永遠に手にすることはできない」と言います。「永遠に」だし、それでも「生きる、生き続けなきゃ……」と悲壮な決意を持って、終幕を迎えます。 これ、めちゃくちゃ残酷だなーと思ったんです。自首が成功して、少年院に入っても罪悪感が軽くならないなら、じゃあどうすればいいんですか、脚本家さんと。トビオは、ほんのイタズラに加担しただけで、一生苦しめというのですかと。そこそこの日常が永遠に手に入らない人生を、それでも「生き続けろ」と、最後の最後で主人公に救いを与えず突き放した脚本に、背筋が寒くなるのです。結果、ドラマ版の『僕たちがやりました』がトビオに与えた人生は、地獄そのものでしかありませんでした。 そしてたぶん、それは脚本が意図的に与えたものではなかったはずです。ドラマ版のオリジナルのラストシーンを模索していくうちに、やはり窪田くんの見せ場を増やした方がよかろうという判断から「屋上での大演説→自首成功」というシークエンスが生まれ、それにGOサインが出た。結果、自由になりたくて自首したはずのトビオに、物語は自由を与えることができなかった。表面上は取り繕ったものの、どうしても思想的な辻褄が合わなくなってしまったのだと思います。 最終回を盛り上げることと引き換えに、物語のメッセージがボヤけることになった。テレビドラマとしてそれがいいとか悪いとかいう話でなく、じっくり見ていて「そういう状態になってるなー」と感じた、という話です。 ■じゃあ、どこが面白かったのか テンポのいい演出と劇伴がいいね、ということは何度も書いていますが、『僕たちがやりました』の最大の長所は、やっぱり俳優だと思います。 主演の窪田正孝は、初回のボンヤリ感からして見事に高校生だったと思いますし、中盤の逃亡シーンでも、そのボンヤリ感をずっと残したまま、過酷な状況に身を置いていました。 ボンヤリ感がクライマックスまで残っていたことにより、最終回の屋上での演説の必死感、たどり着いた感がより際だつことになったと思います。“キャラが薄い”ことが個性だったトビオという役を、キャラが薄いまま最終局面まで運んできたのは明らかに計算された演技プランのはずですし、第1話の冒頭と最終話のラストで、まるで別人のような顔に見えたことは、主役が物語を演じきったことの証左だと思います。 間宮祥太朗と葉山奨之は、このドラマを見ていた人からすると、しばらくは「伊佐美の人」「マルの人」というイメージが抜けないのではないでしょうか。ともにマンガ的なデフォルメを残しつつ、デフォルメのないトビオとの対話を違和感なくこなしていました。その上で間宮は根っからのヤリチンに見えたし、葉山はクソ野郎に見える。そして、間宮は最終話でも基本いい奴であまり変わってないし、葉山はクソ高校生からクソ度合が増したクソ大人に成長しているように見える。振る舞いひとつにも、彼らに流れた10年が見えたような気がします。 永野芽郁はすごいですね。17歳でこの落ち着き、この存在感。セリフ回しにリアリティあるし、表情の変化も大きくて、見ていて楽しい女優さんです。川栄李奈は役回りの関係で振り幅が少なく、能力全開とはいきませんでしたが、安定感あってよかったと思います。 ■そして何より、パイセンなんです 第1話のレビューも書きましたが、この物語のキーになるのは、明らかにパイセンだと思いました。キャラも顔面もセリフも、まったくリアリティが考慮されないマンガキャラ。普通に考えて、実写にしたらスベるし、冷めるし、画面から浮くし、演じる俳優が損をする役回りです。そういうキャラが、物語の中心に立ってる。難役だし、重い仕事だと思いました。 今野浩喜、最初から最後まで、まったくスベってません。画面上でスベりながら、役柄としてスベらない。こんなことをできる役者って、日本に何人いるのかってレベルだと思いました。ホメ過ぎでもなんでもなく、すげえー! と思ったのです。 というか、白状してしまえば、わたしは今野くんとは古い知り合いで、彼のキャリアについてもよく知っていますので、今野くんが校舎の壁を乗り越えたり護送車に乗せられたりしているシーンには変な笑いが出てしまいましたし、最終回で「俺には笑いしか残ってない」とか言われたら変に泣きそうになってしまったりしちゃうわけですが(このセリフは今野への当て書きではなく原作通りです)、そういうの抜きにしても、この作品での当たり役は俳優としてのさらなる飛躍のきっかけになると思うし、なってほしいと願うのです。 独特な顔面に加え、長年コントで培った独特な会話リズム、ナレーション仕事もこなす意外に独特な美声、奇妙に整った独特なスタイルなど、使われようによっては、まだまだ新しい今野浩喜が見られると思いますので、みなさま何卒よろしくお願いいたします。 (文=どらまっ子AKIちゃん)関西テレビ『僕たちがやりました』番組公式サイトより
最終回6.0%の『僕たちがやりました』 原作以上の残酷さに痺れる「物語が主人公を救わない」物語
この8月で29歳になった窪田正孝が高校生役を演じることに「無理がある」とか「ない」とかいう話題も、すっかり懐かしくなった『僕たちがやりました』(フジテレビ系)も最終話。このドラマに関しては、気に食わない人は徹底的に気に食わなかったようで、視聴率は今回も6.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と前回の第9話を下回りました。 で、結論から言えば、面白かったです。面白かったという感想を前提に、話を進めます。 (前回までのレビューはこちらから) 前回、野音で開催されているコンサートに乱入し、ド派手な“自首”を敢行したトビオ(窪田正孝)たち矢波高爆破事件の真犯人4人組。一度は揉み消されたその容疑を自白し、互いに手を取りながら「僕たちがやりました!」と絶叫。清々しい表情を浮かべていましたが、そんなに事は思い通りには進みません。何しろこのドラマでは、冒頭の爆破事件からして、何ひとつ彼らの思い通りには進まないのです。 彼らの“自首”がひとしきり終わると、ステージには動物マスクをかぶった怖い人たちがハンマーを担いで乱入。思い切り4人の頭をブッ叩いて、そのまま拉致していきました。 案の定、拉致したのは容疑をもみ消したパイセン(今野浩喜)の父親・輪島宗十郎(古田新太)の手下たちでした。トビオが目を覚ますと、廃倉庫のような場所。顧問弁護士の西塚(板尾創路)と、パイセンの異母弟で超怖いレイム(山田裕貴)がいて、一緒に拉致されてきたパイセンと伊佐美(間宮祥太朗)、マル(葉山奨之)は正座させられています。 弁護士は、とりあえずパイセンだけ殺して闇に葬って、あとの3人は逃がすことにしたようです。マルと伊佐美は言うことを聞いてすぐ逃げましたが、トビオは逃げません。 「逃げた2人のほうが意味わかんねえよ、今までの自分、殺すために来たんじゃねえのかよ!」 レイムくんは、パイセンに加えてトビオも殺せることになったので、楽しそうです。飛びかかってきたトビオに暴れられてナイフこそ手放してしまったものの、パイセンに馬乗りになってボコボコにしています。 「上手くいくと思ったか? 世の中、お前が勝つようにはできてねえんだわ。ゴミは死ぬまでゴミなんだよ!」 拳とともに、レイムくんの言葉のナイフがパイセンに突き刺さります。しかしその直後、レイムくんの腹にパイセンの手にしたナイフがぐっさりと刺さるのでした。 「俺のどこが悪いねん、どこがゴミやねん。俺がゴミやったらお前らもゴミやぞ! 同じ人間ちゃうんか! みんなゴミちゃうんか! 生きる価値なんか、みなないぞ!」 転がるレイムくんに、今度はパイセンが馬乗りになります。 「俺はただ、楽しく生きたかっただけじゃ!」 ナイフが振り下ろされ、レイムくんは息絶えました。 レイムくんを殺害したパイセンを、警察が確保。それでも結局、輪島が裏から手を回し、パイセンは誤認逮捕で錯乱し、トビオたち高校生3人を脅迫して“自首”を試みたものの、結局「矢波高爆破事件は起こしていない」ということになり、トビオはまたしても罪を償う機会を失うのでした。 というところまでは、細部こそ違えど、ほぼ原作通り。ここから、大きな改変が行われることになります。 ■この改変に「主演・窪田正孝の見せ場を作る」以上の意味があったのか このドラマは、オリジナルキャラを投入したり時系列をいじったりしながらも、話の筋の“面白さ”や“作品の思想”といった部分は、原作コミックに頼り切っていたように見えました。ドラマ単体で何かを主張することはなく、だからこそ原作ファンからも「原作通りだ!」という評価を得てきたのだと思います。 以前より、「ラストはオリジナルになる」と公言されてきた『僕やり』が、いよいよそのラストに向けて走り出すことになります。 普段からパイセンが入り浸っていたトビオたちの高校には、マスコミが大挙して押し寄せています。そのマスコミに対し、トビオは屋上から、再び“自首”を試みます。 自分たちが真犯人であることを証明するため、余っていた爆弾を教室の窓ガラスに仕掛け、それを爆発させたのです。2階の教室のガラスが、1枚割れます。とても、10人も死者が出るような爆発ではありません。 「あの日、俺らがやろうとしてたのは、たったこれだけのことだったんだよ!」 プロパンガスに引火し、大爆発が起こってしまったあの事件。10人も死んで、実感がわかなくて、ただ怖くて、ずっと逃げて、関係ない人まで巻き込んで、大事な人まで騙して、死ぬこともできなくて、そんな自分でも「最高の友だちだ」と言ってくれた爆破事件被害者の市橋(新田真剣佑)も自殺しちゃって、もうどうしたらいいのか、トビオは本当にわからないのです。 だから、やっぱり自首するしかなかった。自由になるためには、自首するしかなかった。 「ごめんなさい、ごめんなさい、頼むから、俺たちを捕まえてくれよ……」 トビオの告白は、しこたま胸を打ちます。テレビで見ていた伊佐美もマルも、すぐに出頭するしかありません。 自首することで自由になろうとした若者が、結局自首できず、罪を償う機会を与えられないまま、その後の人生を過ごす苦悩が描かれたのが、原作のラストでした。一方でドラマ版のトビオは、自首に成功します。 ここまで語られてきた物語の定義として「自由を得るための唯一の方法は自首」でした。そして原作では、「あの事件で自首できなかったから、その後もトビオは自由ではなかった」という形のエピローグになっています。ドラマでは、事件について正反対の落とし前がつけられました。どちらがいいとか悪いとかいう話ではなく、それだけ大きな改変が行われたということです。 おかげで、最終回にふさわしい主人公の大演説シーンが繰り広げられ、ドラマは大いに盛り上がることになりました。 ■「罪を償った」はずのドラマ版では、物語はトビオを救わない トビオ、伊佐美、マルの3人は、どうやら少年院に送られたようです。出所後、トビオは職を転々としますが、どこに行っても矢波高爆破事件のネットニュース記事が残っているせいで、自主退社を余儀なくされています。もう事件から、10年が経っていました。 そしてある日、出所してきたパイセンが3人に集合をかけます。4人は再会を喜び合いますが、あのころのように楽しかったのは、ほんのひとときでした。 パイセンは、お笑い芸人を目指すと言います。小坂から大坂に改名し、獅子舞をかぶって「ファルコン大坂」という芸名で、ピン芸人をやると言うのです。もうすでに、ピンネタも作っていました。あまりにしょうもないので、伊佐美とマルは帰っちゃいました。 トビオは「人を殺してるのに、楽しそうに夢を語っている」パイセンが気に食わない様子。しかし、パイセンは「生きてんねんやから、しゃーないやろ」と言います。残っているのは「笑いだけなんよ」と。まあ初回からいろいろギャグとかやってたパイセンですが、売れる見込みがないことは誰の目にも明らかです。それでも「生きてんねんやから、しゃーないやろ」と。「トビオ、お前には何が残ってる?」と。 トビオは目を伏せ、静かにそれを言葉にします。 「ときどき、死にたくなる自分です」 パイセンの返事は重く、とても優しいものでした。 「そうか、でも、たまーに死にたくなるのが、お前が生きてる証拠や」 伊佐美は2人目の子どももできて、幸せに暮らしていました。マルは自首作戦に費やしたパイセンの金の余りをくすね、その資金でキャバクラを開業し、相変わらずしたたかに生きています。事件前に、彼らが標榜していた「そこそこの日常」を生きています。 この再会のくだりも、ほとんど原作のままのセリフ回しで再現されました。違うのは、原作のトビオも「ときどき死にたくなる」ものの、仕事も家庭もあって、それなりに「そこそこの日常」を生きているということです。その日常の中で、それでも絶対に拭いきれない罪悪感との折り合いの付け方を見出し、とりあえずは苦しみから解放されながら生きていくことになります。 ドラマ版のトビオは、「いつか望んでいたそこそこの日常は、もう永遠に手にすることはできない」と言います。「永遠に」だし、それでも「生きる、生き続けなきゃ……」と悲壮な決意を持って、終幕を迎えます。 これ、めちゃくちゃ残酷だなーと思ったんです。自首が成功して、少年院に入っても罪悪感が軽くならないなら、じゃあどうすればいいんですか、脚本家さんと。トビオは、ほんのイタズラに加担しただけで、一生苦しめというのですかと。そこそこの日常が永遠に手に入らない人生を、それでも「生き続けろ」と、最後の最後で主人公に救いを与えず突き放した脚本に、背筋が寒くなるのです。結果、ドラマ版の『僕たちがやりました』がトビオに与えた人生は、地獄そのものでしかありませんでした。 そしてたぶん、それは脚本が意図的に与えたものではなかったはずです。ドラマ版のオリジナルのラストシーンを模索していくうちに、やはり窪田くんの見せ場を増やした方がよかろうという判断から「屋上での大演説→自首成功」というシークエンスが生まれ、それにGOサインが出た。結果、自由になりたくて自首したはずのトビオに、物語は自由を与えることができなかった。表面上は取り繕ったものの、どうしても思想的な辻褄が合わなくなってしまったのだと思います。 最終回を盛り上げることと引き換えに、物語のメッセージがボヤけることになった。テレビドラマとしてそれがいいとか悪いとかいう話でなく、じっくり見ていて「そういう状態になってるなー」と感じた、という話です。 ■じゃあ、どこが面白かったのか テンポのいい演出と劇伴がいいね、ということは何度も書いていますが、『僕たちがやりました』の最大の長所は、やっぱり俳優だと思います。 主演の窪田正孝は、初回のボンヤリ感からして見事に高校生だったと思いますし、中盤の逃亡シーンでも、そのボンヤリ感をずっと残したまま、過酷な状況に身を置いていました。 ボンヤリ感がクライマックスまで残っていたことにより、最終回の屋上での演説の必死感、たどり着いた感がより際だつことになったと思います。“キャラが薄い”ことが個性だったトビオという役を、キャラが薄いまま最終局面まで運んできたのは明らかに計算された演技プランのはずですし、第1話の冒頭と最終話のラストで、まるで別人のような顔に見えたことは、主役が物語を演じきったことの証左だと思います。 間宮祥太朗と葉山奨之は、このドラマを見ていた人からすると、しばらくは「伊佐美の人」「マルの人」というイメージが抜けないのではないでしょうか。ともにマンガ的なデフォルメを残しつつ、デフォルメのないトビオとの対話を違和感なくこなしていました。その上で間宮は根っからのヤリチンに見えたし、葉山はクソ野郎に見える。そして、間宮は最終話でも基本いい奴であまり変わってないし、葉山はクソ高校生からクソ度合が増したクソ大人に成長しているように見える。振る舞いひとつにも、彼らに流れた10年が見えたような気がします。 永野芽郁はすごいですね。17歳でこの落ち着き、この存在感。セリフ回しにリアリティあるし、表情の変化も大きくて、見ていて楽しい女優さんです。川栄李奈は役回りの関係で振り幅が少なく、能力全開とはいきませんでしたが、安定感あってよかったと思います。 ■そして何より、パイセンなんです 第1話のレビューも書きましたが、この物語のキーになるのは、明らかにパイセンだと思いました。キャラも顔面もセリフも、まったくリアリティが考慮されないマンガキャラ。普通に考えて、実写にしたらスベるし、冷めるし、画面から浮くし、演じる俳優が損をする役回りです。そういうキャラが、物語の中心に立ってる。難役だし、重い仕事だと思いました。 今野浩喜、最初から最後まで、まったくスベってません。画面上でスベりながら、役柄としてスベらない。こんなことをできる役者って、日本に何人いるのかってレベルだと思いました。ホメ過ぎでもなんでもなく、すげえー! と思ったのです。 というか、白状してしまえば、わたしは今野くんとは古い知り合いで、彼のキャリアについてもよく知っていますので、今野くんが校舎の壁を乗り越えたり護送車に乗せられたりしているシーンには変な笑いが出てしまいましたし、最終回で「俺には笑いしか残ってない」とか言われたら変に泣きそうになってしまったりしちゃうわけですが(このセリフは今野への当て書きではなく原作通りです)、そういうの抜きにしても、この作品での当たり役は俳優としてのさらなる飛躍のきっかけになると思うし、なってほしいと願うのです。 独特な顔面に加え、長年コントで培った独特な会話リズム、ナレーション仕事もこなす意外に独特な美声、奇妙に整った独特なスタイルなど、使われようによっては、まだまだ新しい今野浩喜が見られると思いますので、みなさま何卒よろしくお願いいたします。 (文=どらまっ子AKIちゃん)関西テレビ『僕たちがやりました』番組公式サイトより
『過保護のカホコ』最終回のハッピーエンドに隠された「怨嗟と呪い」の物語を垣間見る
高畑充希主演の『過保護のカホコ』(日本テレビ系)も最終回。視聴率は14.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と過去最高を記録。有終の美を飾りました。 さて、このレビューでは本作で描かれる家族愛を、主に「不穏だ呪いだ」と書き続けてきました。脚本の遊川和彦さんが、カホコやママの異常な家族依存を、若干の悪意を込めてデフォルメしていると思っていたのです。 しかし、どうやらそうでもなかったのかな、というのが最終回を見終えた感触でした。というわけで、振り返りです。どう受け取ったらいいのかわからないまま書き始めてます。 (前回までのレビューはこちらから) 病気で亡くなったばあば(三田佳子)から「この家族を守って」と遺言されたカホコ(高畑充希)は、さっそく親戚たちの問題解決に乗り出します。 やもめとなったじいじ(西岡徳馬)は、カホコに「ばあばに会いに行ってくる、もう探さないでくれ」と言い残して姿を消します。で、どこにいたかと思えば、実家の庭の片隅に身を隠していました。聞けば、結婚したばかりのころ、ばあばとよくかくれんぼをした場所なのだそうです。 「俺はずっとここにいる」と言い張るじいじに、カホコが何やら美辞麗句を並べると、態度が一変。あっという間に立ち直りました。 続いて、先日離婚届を提出したばかりの衛おじちゃん(佐藤二朗)と、ママ(黒木瞳)の妹・環ちゃん(中島ひろ子)の問題も、カホコが「離れてほしくない、一緒にいてほしい、いるべきだ!」と主張すると、あっさり翻意。衛おじちゃんは涙ながらに「俺は君とずっと一緒にいたい、ここにいるみんなとも」とか言い出しました。 このあたりからして、「家族だから」という理由だけで個人が集団に取り込まれていくように見えて、薄気味悪かったんです。それぞれが自分の個人的な悩みと正面から向き合うことを放棄している、つまりは個人でなくなっていく、まるで「家族愛」という毒に感染して人ならざる者になっていくように見える。 なぜなら、カホコが唱える「家族だから一緒にいるべき」という思想は、カホコが個人的な社会経験によって抱いたものではないからです。ママに「家族が常に一緒にいるのは当たり前」と生涯にわたって刷りこまれた上に、ばあばに「家族を守れ」と言い残されたから、という理由だけで、カホコは「家族だから一緒にいるべき」と主張している。以前、従妹の糸ちゃん(久保田紗友)に「家族なんて大嫌い! 気持ち悪い! 特にカホコが嫌い!」と面罵されたことがありましたが、カホコはただびっくりして泣いただけで、糸ちゃんの気持ちを慮ることは一度もありませんでした。糸ちゃんという一個人の心情に寄り添おうとはしませんでした。 今回、手の神経障害で弾けなくなったチェロを売りに行った糸ちゃんから、そのチェロを奪った挙句に「カホコが買う、300万なら貯金ある」と言い出す姿など、醜悪ですらあります。糸ちゃんが、金が欲しくてチェロを売ろうとしているわけじゃないことすらわからないのか、わかっていてこんなに人を傷つけることを言える無神経な女なのか、どう描こうとしたの不明瞭なのですが、カホコの頭を埋め尽くす「家族愛=絶対的正義」という価値観は揺るぎません。そして、そんな家族愛あふれるカホコは、糸ちゃんに「どうしてそんなにチェロを売りたいの?」と質問することもありません。対話を拒絶し、共に進歩や成長を模索することを拒絶し、「おまえはチェロ弾きの女っつー設定なんだから、その設定を守れよ!」と強いるのです。もはや暴力です。 で、まあなんだかんだでカホコはハジメくん(竹内涼真)と結婚して、糸ちゃんも神経障害をおして結婚式でチェロを弾いて、ママも許してくれて、ハッピーエンドとなりました。 ■さて、『過保護のカホコ』とはなんだったのか 先に、「毒に感染して人ならざる者になっていく」と書きました。では、感染源はどこなのか。 それは、ばあばです。ママたちが生まれ育った並木家に嫁いだ当時、ばあばは姑や小姑からひどいイジメを受けていたといいます。 72歳で亡くなったばあばは、21歳でカホコのママ(51)を産んでいますから、イジメを受けていたのはその前の5年間くらいでしょうか。1961~66年あたりだとすれば、世は高度経済成長の真っ只中。洗濯機や冷蔵庫が普及し、家庭における女性の役割に大きな変化が訪れました。一方で、厚生労働省の「人口動態統計(確定数)の概況」によれば、65年の離婚件数は約7.7万件で、終戦直後の47年とほぼ同数だそうです。2016年の資料では21.7万件となっているので、離婚そのものが現代に比べれば、あまり一般的ではなかった時代です。 そうした時代に、姑や小姑からひどいイジメを受けたばあばには、それに耐えるしか選択肢がなかったのかもしれません。しかも、夫はそのイジメを止めようともせず、夫婦2人で家を出ようと提案することもなく、ばあばに水鉄砲で水を浴びせたり、せっかく片づけた落ち葉を頭からぶちまけたりする男です。 そんな環境で、若かりしころのばあばは、幼児退行を起こしたのでしょう。水鉄砲攻撃や落ち葉攻撃といった夫の悪ふざけが「楽しかった」のだそうです。「くよくよしててもしょうがないなーって、吹っ飛んじゃう」のだそうです。それは、苛烈なイジメを受けながらも、この並木家に根差すしか選択肢のなかったばあばの心の闇が作り出した「せめて夫とのひとときを楽しむしかない」という逃避的思考だったのかもしれません。 こうして「家に根差す」以外の選択肢、価値観を失ったばあばの思想は、娘たちにも伝播します。特に、長女であるカホコのママに、ばあばは「厳しく当たった」と言いました。きっとその厳しい指導の中には「家族は一緒で当たり前」という思想も含まれていたことでしょう。 ばあばのこの思想には、作中で語られたエピソードから推測するだけでも「家族は一緒で当たり前(だって、私は逃げられなかったし)」という怨嗟が含まれているように感じます。しかし、おそらくばあばはそうした怨嗟に無自覚ですので、カホコのママにはそれが「家族は一緒で当たり前(だって、その方が幸せに決まってる)」と伝わっていると考えられます。何不自由なく育った中で、怨嗟を種にした「家族愛=絶対正義」という思想だけがママに受け継がれたわけです。それがカホコへの教育方針に反映されていることは、言うまでもありません。 さらに、ママが過酷な不妊治療を経てカホコを出産したことも語られました。このことが、さらにカホコへの過干渉を強めた原因であることは、ママ自身も自覚していたようです。 そんなママに純粋培養されたカホコは、ママがカホコに向けていた過干渉を、親戚一同に対し、全方位的に実行していくことになります。登場した当時は「おまえのような過保護が日本を滅ぼす」と言っていたハジメくんを巻き込み、親戚全員を「家族愛」に感染させ、さらにばあばが「逃げられなかった」並木家の実家に陣取って、その種が怨嗟であることを知らないまま家族愛の絶対神として君臨していくことになるのです。 ハジメくんは結婚1年後も似顔絵屋で収入が不安定なうえ、まだ「創作活動が」とか言っていますので、カホコは思想的にも経済的にも、家の支柱となります。もう誰も、カホコに逆らうことができません。もとより、家族愛という絶対的価値観に支配された親戚たちには、もう逆らう意思もないのです。まるで礼拝のように、誰かの誕生日になれば並木家に集合して祈りを捧げるしかないのです。 ■テーマは「過保護なママ」の解放だったのかな 一方で、カホコを嫁に出したあと、「過保護なママ」だった泉は夫に離婚を切り出します。 「ねえパパ、離婚しよっか?」 「カホコがいなかったら一緒にやることもないし、いいんじゃない? あたしたち」 この提案は、カホコが聞いたら目ん玉飛び出しちゃうくらい、とんでもなく意味がわからない発言でしょう。自ら思考せず、形骸化した「家族愛」だけに囚われるカホコにとって、家族であることは「どんなことがあってもやめられない」(と糸ちゃんに言ってた)ものなので、ママがこんなことを言い出すなんて、完全に想定外であるはずです。 しかし、この「離婚しよっか?」は、並木家でイジメに遭っていたばあばが、決して言い出せなかった一言でもあるはずです。 作中、ママが提案した離婚が夫婦間で成立したかどうかは「想像にお任せします」とのことでした。 第1話から、オープニングで常に表示されていた、歪んだハートマークで囲われたエリア。そのエリアから一歩でも外に出ると、ママはまともに口をきくこともできないという病理が繰り返し語られています。 しかし最終回、カホコを嫁に出すことを決心したママは、エリアの外でも普通に会話し、行動することができました。 離婚を口にしたあと、この歪んだハートマークの歪みは取り除かれ、バランスのいい美しいハートになって徐々に拡大し、消えていきました。ママが、いつどこに行っても自分の意思と行動を妨げられず、思うままに自己表現できる人間になったことが示されます。 この物語は、ばあばにとって地獄だった並木家という環境が、その逃げ道として「家族愛」という毒を生み出し、その毒に犯されたママが、カホコを手放すことによって「家族愛」だけが絶対的な価値観ではないという気付きを得る物語だったのかもしれません。そうして呪縛から解き放たれ、ママが今一度、個人としての人生を取り戻す姿を描いた“失われた時間の再生”の物語。そう解釈すると、わりとすんなり、いろんなことが腑に落ちるかな、という感じです。 だけど、カホコは純粋培養ゆえに気付きの機会がなく、糸ちゃんも、すでに感染済み。並木家の呪いは拡散しながら、未来永劫続いていく……。このドラマは不穏だってずっと言い続けてきましたが、やっぱりこれは呪いだし、この構造は完全にホラーじゃんね。(あくまで個人の感想です) あ、面白いか面白くなかったかでいえば、最終回を見た直後はわからなかったんですが、ここにいたり「すげえ面白い」となってます。はい。 (文=どらまっ子AKIちゃん)日本テレビ系『過保護のカホコ』番組公式サイトより
『過保護のカホコ』最終回のハッピーエンドに隠された「怨嗟と呪い」の物語を垣間見る
高畑充希主演の『過保護のカホコ』(日本テレビ系)も最終回。視聴率は14.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と過去最高を記録。有終の美を飾りました。 さて、このレビューでは本作で描かれる家族愛を、主に「不穏だ呪いだ」と書き続けてきました。脚本の遊川和彦さんが、カホコやママの異常な家族依存を、若干の悪意を込めてデフォルメしていると思っていたのです。 しかし、どうやらそうでもなかったのかな、というのが最終回を見終えた感触でした。というわけで、振り返りです。どう受け取ったらいいのかわからないまま書き始めてます。 (前回までのレビューはこちらから) 病気で亡くなったばあば(三田佳子)から「この家族を守って」と遺言されたカホコ(高畑充希)は、さっそく親戚たちの問題解決に乗り出します。 やもめとなったじいじ(西岡徳馬)は、カホコに「ばあばに会いに行ってくる、もう探さないでくれ」と言い残して姿を消します。で、どこにいたかと思えば、実家の庭の片隅に身を隠していました。聞けば、結婚したばかりのころ、ばあばとよくかくれんぼをした場所なのだそうです。 「俺はずっとここにいる」と言い張るじいじに、カホコが何やら美辞麗句を並べると、態度が一変。あっという間に立ち直りました。 続いて、先日離婚届を提出したばかりの衛おじちゃん(佐藤二朗)と、ママ(黒木瞳)の妹・環ちゃん(中島ひろ子)の問題も、カホコが「離れてほしくない、一緒にいてほしい、いるべきだ!」と主張すると、あっさり翻意。衛おじちゃんは涙ながらに「俺は君とずっと一緒にいたい、ここにいるみんなとも」とか言い出しました。 このあたりからして、「家族だから」という理由だけで個人が集団に取り込まれていくように見えて、薄気味悪かったんです。それぞれが自分の個人的な悩みと正面から向き合うことを放棄している、つまりは個人でなくなっていく、まるで「家族愛」という毒に感染して人ならざる者になっていくように見える。 なぜなら、カホコが唱える「家族だから一緒にいるべき」という思想は、カホコが個人的な社会経験によって抱いたものではないからです。ママに「家族が常に一緒にいるのは当たり前」と生涯にわたって刷りこまれた上に、ばあばに「家族を守れ」と言い残されたから、という理由だけで、カホコは「家族だから一緒にいるべき」と主張している。以前、従妹の糸ちゃん(久保田紗友)に「家族なんて大嫌い! 気持ち悪い! 特にカホコが嫌い!」と面罵されたことがありましたが、カホコはただびっくりして泣いただけで、糸ちゃんの気持ちを慮ることは一度もありませんでした。糸ちゃんという一個人の心情に寄り添おうとはしませんでした。 今回、手の神経障害で弾けなくなったチェロを売りに行った糸ちゃんから、そのチェロを奪った挙句に「カホコが買う、300万なら貯金ある」と言い出す姿など、醜悪ですらあります。糸ちゃんが、金が欲しくてチェロを売ろうとしているわけじゃないことすらわからないのか、わかっていてこんなに人を傷つけることを言える無神経な女なのか、どう描こうとしたの不明瞭なのですが、カホコの頭を埋め尽くす「家族愛=絶対的正義」という価値観は揺るぎません。そして、そんな家族愛あふれるカホコは、糸ちゃんに「どうしてそんなにチェロを売りたいの?」と質問することもありません。対話を拒絶し、共に進歩や成長を模索することを拒絶し、「おまえはチェロ弾きの女っつー設定なんだから、その設定を守れよ!」と強いるのです。もはや暴力です。 で、まあなんだかんだでカホコはハジメくん(竹内涼真)と結婚して、糸ちゃんも神経障害をおして結婚式でチェロを弾いて、ママも許してくれて、ハッピーエンドとなりました。 ■さて、『過保護のカホコ』とはなんだったのか 先に、「毒に感染して人ならざる者になっていく」と書きました。では、感染源はどこなのか。 それは、ばあばです。ママたちが生まれ育った並木家に嫁いだ当時、ばあばは姑や小姑からひどいイジメを受けていたといいます。 72歳で亡くなったばあばは、21歳でカホコのママ(51)を産んでいますから、イジメを受けていたのはその前の5年間くらいでしょうか。1961~66年あたりだとすれば、世は高度経済成長の真っ只中。洗濯機や冷蔵庫が普及し、家庭における女性の役割に大きな変化が訪れました。一方で、厚生労働省の「人口動態統計(確定数)の概況」によれば、65年の離婚件数は約7.7万件で、終戦直後の47年とほぼ同数だそうです。2016年の資料では21.7万件となっているので、離婚そのものが現代に比べれば、あまり一般的ではなかった時代です。 そうした時代に、姑や小姑からひどいイジメを受けたばあばには、それに耐えるしか選択肢がなかったのかもしれません。しかも、夫はそのイジメを止めようともせず、夫婦2人で家を出ようと提案することもなく、ばあばに水鉄砲で水を浴びせたり、せっかく片づけた落ち葉を頭からぶちまけたりする男です。 そんな環境で、若かりしころのばあばは、幼児退行を起こしたのでしょう。水鉄砲攻撃や落ち葉攻撃といった夫の悪ふざけが「楽しかった」のだそうです。「くよくよしててもしょうがないなーって、吹っ飛んじゃう」のだそうです。それは、苛烈なイジメを受けながらも、この並木家に根差すしか選択肢のなかったばあばの心の闇が作り出した「せめて夫とのひとときを楽しむしかない」という逃避的思考だったのかもしれません。 こうして「家に根差す」以外の選択肢、価値観を失ったばあばの思想は、娘たちにも伝播します。特に、長女であるカホコのママに、ばあばは「厳しく当たった」と言いました。きっとその厳しい指導の中には「家族は一緒で当たり前」という思想も含まれていたことでしょう。 ばあばのこの思想には、作中で語られたエピソードから推測するだけでも「家族は一緒で当たり前(だって、私は逃げられなかったし)」という怨嗟が含まれているように感じます。しかし、おそらくばあばはそうした怨嗟に無自覚ですので、カホコのママにはそれが「家族は一緒で当たり前(だって、その方が幸せに決まってる)」と伝わっていると考えられます。何不自由なく育った中で、怨嗟を種にした「家族愛=絶対正義」という思想だけがママに受け継がれたわけです。それがカホコへの教育方針に反映されていることは、言うまでもありません。 さらに、ママが過酷な不妊治療を経てカホコを出産したことも語られました。このことが、さらにカホコへの過干渉を強めた原因であることは、ママ自身も自覚していたようです。 そんなママに純粋培養されたカホコは、ママがカホコに向けていた過干渉を、親戚一同に対し、全方位的に実行していくことになります。登場した当時は「おまえのような過保護が日本を滅ぼす」と言っていたハジメくんを巻き込み、親戚全員を「家族愛」に感染させ、さらにばあばが「逃げられなかった」並木家の実家に陣取って、その種が怨嗟であることを知らないまま家族愛の絶対神として君臨していくことになるのです。 ハジメくんは結婚1年後も似顔絵屋で収入が不安定なうえ、まだ「創作活動が」とか言っていますので、カホコは思想的にも経済的にも、家の支柱となります。もう誰も、カホコに逆らうことができません。もとより、家族愛という絶対的価値観に支配された親戚たちには、もう逆らう意思もないのです。まるで礼拝のように、誰かの誕生日になれば並木家に集合して祈りを捧げるしかないのです。 ■テーマは「過保護なママ」の解放だったのかな 一方で、カホコを嫁に出したあと、「過保護なママ」だった泉は夫に離婚を切り出します。 「ねえパパ、離婚しよっか?」 「カホコがいなかったら一緒にやることもないし、いいんじゃない? あたしたち」 この提案は、カホコが聞いたら目ん玉飛び出しちゃうくらい、とんでもなく意味がわからない発言でしょう。自ら思考せず、形骸化した「家族愛」だけに囚われるカホコにとって、家族であることは「どんなことがあってもやめられない」(と糸ちゃんに言ってた)ものなので、ママがこんなことを言い出すなんて、完全に想定外であるはずです。 しかし、この「離婚しよっか?」は、並木家でイジメに遭っていたばあばが、決して言い出せなかった一言でもあるはずです。 作中、ママが提案した離婚が夫婦間で成立したかどうかは「想像にお任せします」とのことでした。 第1話から、オープニングで常に表示されていた、歪んだハートマークで囲われたエリア。そのエリアから一歩でも外に出ると、ママはまともに口をきくこともできないという病理が繰り返し語られています。 しかし最終回、カホコを嫁に出すことを決心したママは、エリアの外でも普通に会話し、行動することができました。 離婚を口にしたあと、この歪んだハートマークの歪みは取り除かれ、バランスのいい美しいハートになって徐々に拡大し、消えていきました。ママが、いつどこに行っても自分の意思と行動を妨げられず、思うままに自己表現できる人間になったことが示されます。 この物語は、ばあばにとって地獄だった並木家という環境が、その逃げ道として「家族愛」という毒を生み出し、その毒に犯されたママが、カホコを手放すことによって「家族愛」だけが絶対的な価値観ではないという気付きを得る物語だったのかもしれません。そうして呪縛から解き放たれ、ママが今一度、個人としての人生を取り戻す姿を描いた“失われた時間の再生”の物語。そう解釈すると、わりとすんなり、いろんなことが腑に落ちるかな、という感じです。 だけど、カホコは純粋培養ゆえに気付きの機会がなく、糸ちゃんも、すでに感染済み。並木家の呪いは拡散しながら、未来永劫続いていく……。このドラマは不穏だってずっと言い続けてきましたが、やっぱりこれは呪いだし、この構造は完全にホラーじゃんね。(あくまで個人の感想です) あ、面白いか面白くなかったかでいえば、最終回を見た直後はわからなかったんですが、ここにいたり「すげえ面白い」となってます。はい。 (文=どらまっ子AKIちゃん)日本テレビ系『過保護のカホコ』番組公式サイトより
視聴率は6.2%と低いけど……『僕たちがやりました』第9話は、名シーン連発の“神回”だった!
今期もっとも攻めてるドラマ『僕たちがやりました』(フジテレビ系)も、最終回直前の第9話。視聴率は6.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と相変わらず低迷ですが、今回は名シーン連発の“神回”だったと思います。というわけで、振り返りです。 (前回までのレビューはこちらから) 今回はいきなりラストシーンから紹介します。 矢波高爆破事件で10人の死者を出しながら、無罪放免になってしまい、罪悪感に苦しむトビオ(窪田正孝)たち4人は、真実を告白するネット動画を投稿。そのQRコードを貼ったビラを街中にばら撒きながら野外コンサート会場に乱入し、ステージ上で「僕たちがやりました!」と叫び、「捕まえてください!」と自首しました。 なぜそんな面倒な自首をしたかといえば、これくらい派手にやらないと、またパイセン(今野浩喜)の父親である“闇社会のドン”こと輪島宗十郎(古田新太)に揉み消されてしまうからです。 パイセンはマイクを手に、こう叫びます(名シーンその1)。 「人は、間違える生き物です! 間違えた後にどうするかが、その人間の生きる姿やと思います! 僕たちは間違えました──!」 第1話からこれまで、このドラマは、4人の若者が「間違えた後にどうしたか」を描いてきました。それらは概ね身勝手で、姑息で、なんの解決にもならない愚策で、自らの欲望にのみ忠実で、しかし2人が自殺を図るほど、彼らにとっては真剣なものでした。 衝動的に学校の屋上から身を投げ、茂みに落ちて生き残ったトビオは、「生まれ変わって楽しく幸せに生きる」ことを標榜しました。事件の被害者である市橋(新田真剣佑)と友だちになることもそうだし、幼なじみの蓮子(永野芽郁)と付き合うこともそう。トビオの「幸せへの生まれ変わり」は、どうやらうまくいきそうだったんです。 しかし前回、その市橋が「幸せになれよ」と言い残して自殺してしまいました。事件の真相を知る刑事・飯室(三浦翔平)は「結局彼は何も知らずに死んだのだから、うまくやったなぁ。反吐が出るよ」とトビオを責めたてます。この期に及んで、ようやくトビオは「生まれ変わる」ことなどできないのだと自覚することになります。 ひとり、部屋で「やりたいこと」を考えるトビオ。事件直後、パイセンからもらった口止め料の使い道を考えていたとき、マル(葉山奨之)と2人で「やりたいこと」を片っ端から書き出し、あみだくじで決めたことがありました。そのときの答えは「SEX」でした。 同じように、トビオはあみだくじの線を引き始めます。バックには祝祭の音楽が流れています。あみだをひとつ選び、たどり着いた先には「自首」とありました。「うしっ」と小さく、トビオはそれが自分の望む行き先であったことに満足します。トビオが作ったあみだくじのゴールには、すべて「自首」と書かれていました(名シーンその2)。 翌日、トビオがほかの3人に集合をかけると、伊佐美(間宮祥太朗)もマルもすでに部室に来ていました。平然と、何食わぬ顔で、まるで何もなかったかのような顔で「せっかく3人そろったんだからゲームでもやらない?」とか言ってる2人(名シーンその3)に、トビオは自分の下した決断を伝えようとします。 「お遊びはそこまでや!」 パイセンもやってきました。爆破事件の実行犯4人が、久しぶりに顔をそろえることになりました。 「自首する人ぉー?」 パイセンの問いかけに、なんの迷いもなく3人とも手を挙げます(名シーンその4)。事件以降、初めて4人の意見が一致した瞬間でした。決行は4日後の日曜日。パイセンが銀行から下ろしてきた全財産を資金に、4人はいかにも楽しそうに“世の中が引っくり返るような最高の自首”の準備を進めます。 「てか、パイセン最悪死刑ですよ。成人だし」 マルの一言に、パイセンの手が止まります。「左利きの死亡率は100%、右利きも100%、つまり人間はいつか死ぬ」などと意味不明なことを呟くと、夜風に当たりに部室を出て行ってしまいます。 「忘れてたんじゃね?」 「勢いだけで言ってたんかな」 「俺たちだけでなんとかやろうぜ」 準備を再開した3人のもとに、勢い込んでパイセンが戻ってきます。 「おまえらかて死ぬんやぞ! 社会的に死ぬんやぞ! わかってんのか!」 「ハイ」 あまりに平然と、3人が声を揃えて返事をするものだから、パイセンは思い切りセルフビンタして気合を入れ直しました(名シーンその5)。 「最高やな、おまえら!」 最後の夜、トビオはいつも通り蓮子とデートを楽しむと、おもむろに「別れよう。ごめん、もう一生会いたくない」と告げ(名シーンその6)、夜通し泣きながら過ごしました。 伊佐美は今宵ちゃん(川栄李奈)のお腹を触り、その子の名前を「明日男(トゥモロオ)」にしたいと言いました。今宵が英語で「トゥナイト」だから「トゥモロオ」なのだそうです。 「元気なトゥモロオ産めよ!」 そうして伊佐美も、ケジメを付けることができました。 マルとパイセンは風俗で童貞を捨てました。マルは、愛しのキャバクラ嬢・うららちゃん(おのののか)に別れを告げることもできました(このときのマルの「もう来ないよ、オレ」の顔がよかったので、名シーンその7)。 そうして、“最高の自首”の準備は整い、それは成功したかに見えました。ステージの上、4人は固く手をつないで、バンザイをしながら叫んだのです。 「僕たちがやりました!」 トビオにとって、これこそが自由だったといいます。自分たちが犯した罪から逃れることではなく、自首することで自由を手に入れることができたと、トビオ自身が信じたのです。あの、動物マスクをかぶってハンマーを担いだ輪島の手下たちがステージに乱入してくるまでは……。で、いよいよ次回は最終回です。 ■「自首=自由」というパラドックス 犯罪者が警察から逃亡し、逃げ切ることで自由を手に入れるというのが、いわゆる「逃亡劇」のフォーマットです。 しかしこの物語は、罪を逃れて自由を手にしたことで、若者たちが「不自由」に苛まれ、自由を得るために警察に自首をするというパラドックスめいた構造になっています。 つまり『僕たちがやりました』というドラマは、「自由」や「幸せ」が人の立場や地位や身分ではなく、徹底的に個人の心に帰結するものであることを訴えた物語だと思うのです。 そうした大テーマは、大部分を原作に寄りかかる形で語られますが、画面上でシリアスとコメディを行き来しながらテンポよく展開する演出は実に成功していると思います。また、この第9話ではそこから一歩進んで、一貫してコメディトーンのままシリアスな決意や発言や行動が演出されることで、この作品独自の爽快感が現れているように思いました。 そうした爽快感が現れる理由はもちろん演出の方向性や原作に対する理解度だけでなく、俳優部の力も大きいと思うのですが、そのへんはまた次回の最終回で書きたいと思います。 (文=どらまっ子AKIちゃん)関西テレビ『僕たちがやりました』番組公式サイトより
最終回目前で1ケタ転落の『過保護のカホコ』 この保守的な家族像は健全なのか、不健全なのか問題
このレビューでは以前から、このドラマが描く家族愛は「不穏だ呪いだ」と書き続けてきた『過保護のカホコ』(日本テレビ系)ですが、最終回前の第9話にして、あれー普通にいい話になるのかな? という雰囲気が漂ってきました。 ちなみに視聴率は9.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と初めて1ケタを記録しましたが、バレーボールの中継が延長になって45分押しで始まったそうなので、まあ録画して寝ようってなるよね。というわけで、今回も振り返りです。 (前回までのレビューはこちらから) さて、いろいろあってハジメくん(竹内涼真)と結婚することにしたカホコ(高畑充希)でしたが、当然ママ(黒木瞳)は大反対。「結婚する気なら親子の縁を切ってからにしてね」と勘当を宣言します。というか、重い心筋症を患っているママのママであるばあば(三田佳子)の意識がなくなってしまい、それどころではありません。 ママはばあばの入院している病院に泊まり込んで付きっきりで看病していますが、その間にも家族たちのいろんな問題が進行していきます。 ママの妹の環ちゃん(中島ひろ子)は、なんだかよくわからないけど旦那の衛おじちゃん(佐藤二朗)と離婚すると言い出し、衛おじちゃんも酒の勢いを借りて離婚届を提出してしまったので、2人の夫婦関係はおしまいに。カホコは区役所まで押しかけて衛おじちゃんに離婚しないよう説得を試みますが、なしのつぶてでした。 その下の妹の節ちゃん(西尾まり)は、チェリストの夢が破れてヤンキー化した娘の糸ちゃん(久保田紗友)がいちいち逆らうので「出てけ」と言ったら、糸ちゃんがホントに家出。その後、糸ちゃんは弾けなくなったチェロを「売る」と家から持ち出し、ヤンキー仲間のミニバンに乗り込んでいきます。カホコは「チェロは糸ちゃんの魂!」などと言って引き留めようとしますが、こちらもなしのつぶて。糸ちゃんの両親も「あんたは奇跡を起こせる子」「音楽の力でたくさんの人を幸せにできる」「そのときまで応援させてもらえないか、普通の人間にできるのはそれくらいだから」と土下座までしてますが、糸ちゃんはミニバンに乗りこんで去っていってしまいました。 この2つのエピソードって、すごく保守的です。家族だって夫婦だって上手くいかなければ別れたほうがいいことだってあるだろうし、手の神経に障害が出て弾けなくなったチェロなんて売り払って、シンセとMacでも買って新たな音楽表現の手段を一緒に模索したりするのが「応援する親」の役目だろうと思うんですが、とにかくカホコも糸ちゃんの両親も、既存の型を壊さないことに執心するだけ。自分たちのエゴを「家族愛」というパッケージにくるんで繊細なアル中おじさんと繊細な女子高生に押しつけまくります。糸ちゃんが逃げたくなる気持ちがよくわかる。 その「既存の型」の象徴が、ママたちが生まれ育った並木家の実家であり、ママたちを育てたばあばです。病院で目を覚ましたばあばは、開口一番「帰りたい」と言います。ばあばに1日でも長生きしてほしいママは「無理に決まってるでしょ」とたしなめますが、ばあばは「もう一度、私の家が見たいの」と強硬です。カホコも「ばあばにとってあの家は、みんなとの思い出がいっぱい詰まったすっばらしい家なんだよ」と、ばあばに同調。ママが折れて、ばあばは在宅医療に切り替えることに。結果、すぐ死んでしまいました。 ばあばは遺言として、ママにこんな話をしたんです。 「カホコのこと愛しすぎたんじゃないの? 大事なのは、その愛に、自由があるかどうかよ。カホコから考えることを奪わないで」 そしてカホコには「これからは、あなたがこの家と、家族のこと守ってちょうだい」と言い残しました。 ばあばの死は、それこそ情感たっぷりに描かれるわけですが、特にカホコへの遺言は「うぜえな」と思ったんです。糸ちゃんや衛おじさんに追いすがるカホコも「うぜえな」と思ったし、このドラマは、こうしたステレオタイプの保守的な家族愛を「うぜえな」と思わせる方向で作っていたと、ここまで思っていたのです。 3姉妹がみんな実家の近くに暮らして、誰かの誕生日があれば全員で集まってお祝いして……という家族の在り方そのものの、ある意味での“不健全さ”が、もしかしたらストレートに“健全です”という方向で描かれていたのだとすれば、私はドラマ全体を見誤っていたかもしれません。「こんな家族、大嫌い! 気持ち悪い!」と叫び続けた糸ちゃんにこそ共感していた私のほうが、実は不健全なのかもしれない。「家族を守って」という遺言は、呪詛ではなく祝詞なのかもしれない。次週予告にはカホコとハジメの結婚式の様子がありました。そこには、離婚したはずの衛おじさんの顔も並んでいます。 この予告の通り、家族みんな仲良しで大団円のハッピーエンドが訪れるのでしょうか。ずっと不穏当だと思っていたドラマが、実は穏当なもので、こっちの見方がうがっていただけなのでしょうか。 『過保護のカホコ』は、どういう作品だったのか。過保護に育った女子大生を天才若手女優が怪演するキャラクタードラマとしてだけでも十分おもしろかったんですが、ちょっと来週の最終回を見ないと、なんとも言えない感じです。 (文=どらまっ子AKIちゃん)日本テレビ系『過保護のカホコ』番組公式サイトより




