多くのテレビドラマにおいて、というかすべてのジャンルのフィクションにおいて、主人公とは視聴者と視線を同一にする。あるいは、少なくとも視聴者から共感を呼ぶような形で描かれる。例外はあるが、それが基本的なルールだ。しかし『ど根性ガエル』の主人公・ひろし(松山ケンイチ)は、そうではない。視聴者が時にイライラしてしまうほどだらしなく、頼りなく、期待通りに成長してくれない。 たとえば第3話。前回、あれだけ大見得を切って終世のライバル・ゴリライモ(新井浩文)が経営するパン屋に就職すると言ったひろしだが、初の出勤日を迎えても母ちゃん(薬師丸ひろ子)から起こされて「え、仕事? あぁ、そうかぁ」とすっかり忘れている始末であり、働いて何か欲しいものでもないのかと水を向けられても「あったら、もっと前に働いてるだろ」と開き直る。いいからとっとと働けよ、30過ぎて何やってるんだ、と腹を立てる視聴者も少なくないだろう。 ひろしは、主人公として実にめんどくさい。視聴者が望むような成長や変化をしてくれない。なぜか。それは彼が、これまでの過去と現状に十分満足しているからである。母ちゃんから夢を訊かれたひろしは、こう答える。 「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉と、いつまでもよ」 そうである以上、ひろしは主人公ではあるが、取り立てて成長や変化を願っているわけではない。だがしかし、30歳だ。それに何より、お前は主人公ではないのか。そういった視聴者のいら立ちを、ヒロインである京子ちゃん(前田敦子)は、ひろしの母ちゃんとの会話の中でこう指摘する。 「子どもの頃から変わってないはずなんですけどね。でも大人になると、駄目なとこが目立っちゃうのかな」 そう、ひろしは変わっていない。子どものままでいただけだ。変わってしまったのは周りの環境である。このことに対してのひろしの、心の奥底にあるであろういら立ちが『ど根性ガエル』というドラマを特殊なものにしている。 第3話では、ここに至るまでのゴリライモの成長と変化が明かされる。かつては親の商売であるパン屋という商売をバカにしていたが、今は改心して、恩返しのために日本一のパン屋を作ろうとしている。仕事も挨拶もちゃんとしていて、従業員思いでもあり、すっかり大人だ。ひろしが変わらずにいる間に、ゴリライモはいつの間にか成長と進化を遂げていたのだ。 通常のドラマであれば、このゴリライモの成長と変化をきっかけとして、主人公が変わることを決意する。実際、ひろしはその夜、自宅で粘土を使い、パンを作る練習をする。この際、ピョン吉(声:満島ひかり)が力を貸そうかと提案するのだが、ひろしはそれは反則だと言い、自分の力だけで変わろうとしているのだ。そして練習のかいあって、翌日の仕事はうまくいき、評価もされる。 いい感じじゃないか。これでこそ、ドラマというやつだ。しかし『ど根性ガエル』が特殊なのは、ここにカタルシスを置かないという点にある。同僚に褒められたひろしは、喜ぶ顔ひとつ見せずに「俺は、なんのために頑張ってんだ?」と自問するのだった。実に、めんどくさい主人公である。 これは冒頭にも書いた通り、ひろしがこれまでの過去と現状に十分満足しているからというのもあるが、もうひとつの個性として、一般的な常識をそのまま受け入れずに自分で導いた答えしか信用しないというキャラクターにも依る。つまりひろしは、子どもなのだ。大人ならこうするべき、という考え方が通用しない。 ピョン吉がこっそりセッティングした就職祝いの席でも、ひろしはいら立ちを隠さない。寄せ書きに書かれた「頑張れ」「おめでとう」という文字を見て心底嫌そうな顔をする。「そんなに素晴らしいかね、働くってのは」と身もフタもないことを言い、ピョン吉ともケンカになる。ここにはひろしのピョン吉に対する、勝手に大人になりやがって、という怒りもあるだろう。 ひろしは子どもである。年齢を重ねたら働くべきだとか、労働は無条件で価値のあるものである、といった一般常識を信じない。ゴリライモの言葉には心を打たれたとしても、それはゴリライモ自身が導いた答えであり、ひろしの答えではない。 そしてひろしは、自分の職場にピョン吉を連れていくという選択をする。『ど根性ガエル』第3話におけるこの流れは、一般的なテレビドラマとはまるっきり逆だ。普通であれば、ピョン吉から離れて独りで頑張るひろし、という展開がカタルシスを呼ぶわけだが、『ど根性ガエル』はそれが逆転している。それはひろしが「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉といつまでもよ」と語った以上、ほかのドラマとは逆転していたとしても『ど根性ガエル』にとっては必然でもある。ひろしはめんどくさい主人公なのであり、だからこそ彼が導き出す答えは、特殊なものとなる。 だが、『ど根性ガエル』という作品に全体として流れる切なさは、まさにこの部分にある。ピョン吉の死と別れは第1話から想起されていて、ひろしの「このまんま平穏無事に暮らしていくこと」という願いはおそらくかなうことはない。そしてそのことを、いまだひろしは知らないのだ。ピョン吉は働いているひろしを励まして「楽しいんだよ。母ちゃん、オイラ楽しい」と涙を流す。その涙の本当の意味を、我々視聴者は知っている。だからこそ『ど根性ガエル』は作り物の感動ではなく、リアルに胸に迫るものとして、見る者の心を打つのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
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ドラマの登場人物が“自立”するとはどういうことか?『ど根性ガエル』第2話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 ドラマ『ど根性ガエル』の第2話は、主人公・ひろし(松山ケンイチ)の朝食の場面から始まる。前回威勢のいいことを言っていたにもかかわらず、相変わらずの無気力ぶりを発揮し、ダラダラと無駄飯を食べようとするひろしに、母ちゃん(薬師丸ひろ子)は説教。朝食を食べさせてもらえないことに怒ったひろしは、家を出てしまう。 ひろし、30歳である。さすがに母親が朝食を食べさせてくれないからといって、家出するような年齢じゃないだろう。もうちょっとしっかりしたらどうなんだ。視聴者のそんな声を代弁するように、道ですれ違ったヒロイン・京子ちゃん(前田敦子)はひろしを叱る。 「あんたの年で『家出』って言わないでしょうが」 「(それは『家出』ではなく)自立」 この場面はひろしのダメさを笑うシーンでもあるが、同時にこの第2話のテーマの核心も突いている。『ど根性ガエル』の第2話とは、主人公・ひろしが“自立”を決意する物語だ。 それでは、“自立”とはなんだろうか? 少なくともドラマという物語においては、他者や環境による要請からではなく、あくまでも自らの意思で行動を決めるというのが“自立”だ。最終的に、この第2話でひろしは終世のライバルであるゴリライモが経営するパン屋で働くことを決意するのだが、そこまでの描き方を非常に丁寧にやってくれるのが『ど根性ガエル』である。 先述した京子ちゃんとの会話の中で、ひろしは「働いたら結婚してくれんのか!?」と問いかける。ひろしの目的は、京子ちゃんとの結婚だ。そしてこういった条件がそろっている以上、ひろしを早く働かせたくなるのが制作者の心情だろう。この会話をきっかけとして、早々にひろしがゴリライモ(新井浩文)のパン屋で働くことを決める、という展開も十分あり得たはずだ。 だが、『ど根性ガエル』はそうしない。もし、ここでひろしが働くことを決めてしまえば、その動機はひろし自身のものではない。京子ちゃんとの結婚のために働く、というのは、あくまでも他者からの要請である。それでは、ひろしは“自立”することができないのだ。ひろしの行動や決意は、ひろし自身が見つけたものでなければ、本当の“自立”にはならない。 そこでひろしは、ゴリライモの移動販売車を拝借して、旅に出る。ここで旅の目的は、特に明かされない。最終的には、朝食の場面を伏線として、「うまい米を食べたかったから」という理由が明らかになるのだが、その目的はむしろ後付けに近い。ひろし自身、自分の行動や決意がどんなものになるのかがわかっていないのだから、ただ彼は車を走らせる。着いたのは、福島県の田んぼであった。 そこでひろしは農家を営む老夫婦と出会い、農作業の手伝いをすることになる。米という「日常」の象徴に、手間ひまがかかっていることに、ひそかに感銘を受けるひろし。またこの場面で農家の老夫婦からは、米だけでなくパンだってそうじゃないか、というサジェスチョンを受ける。ここでひろしは「日常」の意味に気付くのだ。直接は描かれていないが、この老夫婦によるパンについての語りがあるからこそ、最終的にひろしがライバルのゴリライモの下で働くことを決意するという展開が自然なものとなる。こうして、ひろしは“自立”する。それは、こんなセリフで表現されている。 「根性出すってことは、かっこ悪いことをちゃんとやるってことなのかもな」 かっこ悪いことというのは、つまり「日常」にほかならない。「日常」をちゃんと生きるということが、ひろし自身が見つけた動機であり、その動機を自分自身で見つけたからこそ、ひろしはこのとき“自立”したのだといえる。 そして『ど根性ガエル』は、その大原則として「日常」の意味を描く作品である。主人公のひろしだけではない。ひろしが旅に出たために、主要登場人物のほぼ全員が、ゴリライモの工場に泊まり込むことになる。面倒なことだ。しかし、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)は、この状況に際して「なんだか楽しそう」と口にする。そして彼らは、寿司屋の梅さん(光石研)が握った寿司をみんなで食べるのだが、その光景は確かに楽しそうなのだ。 我々が住む「日常」は楽しいことばかりではない。面倒なこと、しんどい場面だってたくさんある。それでも「なんだか楽しそう」と口にできるのが、人間のしぶとさだ。言ってみれば、それがすなわちど根性というものでもあるだろう。常識やルールに縛られたり、誰かの幸せをうらやむのではなく、今ここにある「日常」を楽しめるということ。『ど根性ガエル』は、軽いタッチでその真理を描く。むしろ軽いタッチだからこそ、その真理は視聴者の胸に素直に届くのだ。 また、この第2話では、そういった真理の対比として、ゴリライモが配置されている点も素晴らしい。ゴリライモはひろしをバカにしながらもうらやんで「お前(ひろし)に勝つのが好きなんだよ、俺は」や「なんで俺はあいつ(ひろし)に勝てねえのかなあ」と口にする。経営者として成功を収めているゴリライモだが、ひろしという他者に勝つということを大目標としている以上、彼もまたある意味で“自立”できてはいないのだった。 第3話では、ゴリライモが懸命に働く理由が明らかになるようだ。彼がどのようにして、ひろしという呪縛から逃れて“自立”することができるのか。ただの悪役でなく、愛すべき男だからこそ、興味は尽きない。またひとつ、『ど根性ガエル』を見逃せない理由が増えてしまった。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
『ど根性ガエル』原作モノの連続ドラマが、第1話で描くべきこととは
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 言うまでもないことだが、テレビドラマには2種類ある。すでに小説やマンガなどで原作が存在しているものと、そうではないオリジナル作品だ。昨今のテレビドラマでは前者が優勢であり、2015年7月クール作品でも『花咲舞が黙ってない』『デスノート』『婚活刑事』(日本テレビ系)や『エイジハラスメント』(テレビ朝日系)などなど、原作のドラマ化作品は数多い。 そして、日本テレビの土曜夜9時枠でスタートした『ど根性ガエル』もその一つだ。オリジナル作品ではなく、原作をドラマ化するメリットはいくつか存在する。すでに作品としての面白さがある程度保証されていることや、それゆえに企画が通りやすいということ、あるいは放送前からの話題性というメリットも大きいだろう。だがその分、デメリットもあり、特に原作のファンが多い場合は、そのドラマの内容次第では多くの否定的意見が寄せられることになる。 それでは、本作『ど根性ガエル』はテレビドラマ化に当たって、原作をうまく料理することに成功しているのかどうか? 結論からいえば、完全に成功している。プロデューサーの河野英裕と脚本家の岡田恵和は、2013年の『泣くな、はらちゃん』(日本テレビ系)でファンタジーの世界から人間ドラマを描いた名コンビ。さらに、主演の松山ケンイチとは09年の『銭ゲバ』(同)で、1970年に描かれたジョージ秋山作品を見事に現代ドラマへと昇華させた。そして『ど根性ガエル』はこの系譜にありながら、さらにドラマとしての進化を遂げた作品になるだろう。 その理由は、7月11日に放送された第1話ですでに明らかになっている。そもそも、原作モノの連続ドラマがその第1話で描くべきことは何か? 最も重要なのは、以下の2点だといえる。 (1)原作のどの部分をドラマの根底に置くのか? (2)原作をドラマ化するに当たって変化している点はどこか? 原作をドラマ化するということは、当然ジャンルを越えることになる。小説やマンガで描かれたことをそのまま実写のドラマにするというのは不可能であるし、またそれではドラマにする意味がない。原作がいかに面白いものだったとしても、テレビドラマならではのプラスαがなければ、わざわざドラマにしなくてもいいのだから。 そこで必要となるのが、上記の(1)と(2)だ。これは第1話から最終話まで通底するものではあるが、第1話においてそれが視聴者に示される必要がある。それが示されることによって、視聴者は次回へ、あるいは最終話へ向けて、見たいという欲望をかき立てられるのだ。 『ど根性ガエル』では、第1話の冒頭で(1)が示される。橋の上で釣りをしている主人公・ひろし。原作とは違って、すでに30歳である。そこで、風にあおられた子どもの帽子が川に落ちてしまう。ピョン吉の勝手な行動により、川の中に飛び込むことになるひろしは、溺れながらも帽子を手に取り、子どもに返してあげるのだった。 この短いシークエンスで、『ど根性ガエル』における(1)はすでに示されている。このドラマ作品はつまり、原作の「バディもの」の要素を根底に置いている作品だ。ひろしは、自分の意志では川に落ちない。だが、川に落ちてもピョン吉は自分の力では帽子を拾うことができない。どちらが欠けても成立しないひろしとピョン吉の「バディもの」であることがここで視聴者に示されている。 だから、この『ど根性ガエル』の主人公は、あくまでもひろし一人ではなく、ひろしとピョン吉の二人(正確には一人と一匹)である。「バディもの」の通例として、おそらくこれからはお互いに助け合いながらそれぞれが成長していく姿が描かれるはずだ。このようにして、このドラマはこういうお話だというのを真っ先に描くというのが、テレビドラマの作法である。ただ単純に、原作をなぞるような場面を描くのではない。あくまでも、テレビドラマとしての作り手の矜持がここにはある。 さらに『ど根性ガエル』は、(2)をも第1話で示す。原作はあくまでも変わらない日常生活を切り取ったギャグマンガなのだが、それをそのままテレビドラマにするわけではない。これは実写のテレビドラマだ。そこには物語が必要となる。だから、原作にはなかった要素を入れなくてはならない。 それが、ピョン吉との別れの想起だ。第1話の中盤で、ピョン吉がすでにシャツから剥がれかけていることが明らかになる。視聴者以外、ひろしの母親だけがそれを知っているという設定にすることでドラマを重層化・多面化しながら、このドラマでは最終的にピョン吉との別れが描かれることを想起させる。これは最終回が決まっているテレビドラマならではの要素であり、かつ、それは絶対に描かれなくてはならない。永遠に続く平和な日常は、マンガではあり得るかもしれないが、テレビドラマではそうはいかないからだ。 ひろしの母親は、こんなセリフを口にする。 「今日あるものがね、明日もあさっても、そのままずーっと先も、変わらずにあると思ったら大間違いなんだよ!」 このセリフこそが『ど根性ガエル』のテーマであり、この作品が視聴者に伝えるべきことだ。このドラマは、単純にファンタジーを描く作品ではない。『銭ゲバ』や『泣くな、はらちゃん』がそうであったように、ファンタジーの世界に視点を起きながら、我々の生きる世界を描く作品になるだろう。 エンディングでは、すでにひろしのシャツにはピョン吉がいない。それは、最終回までにどう描かれていくのか? ドラマ『ど根性ガエル』は真っすぐな「バディもの」であり、それでいて別れがすぐそばにある作品である。原作をただドラマにしてみました、という作品ではない。少なくともこの第1話は、一つとして非の打ちどころがない、完璧な始まりを成し遂げているといっていいだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ


