まず断言してしまうが、ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』は、フジテレビ月9の歴史に名前を刻む名作になるだろう。月9というか、テレビ史に残る作品だ。たとえば『東京ラブストーリー』(同)や『101回目のプロポーズ』(同)をリアルタイムで見ていたら、あるいは北海道が舞台というつながりで『北の国から』(同)をリアルタイムで見ていたとしたら、こんな気持ちになっていたのかもしれない。あらゆる場面が美しく、そして尊い。これがテレビで無料で見られる(かつ、公式サイトでは第1話の放送終了後7日間、無料配信までされている)というのがほとんど奇跡に近い、珠玉のテレビドラマだ。 脚本は坂元裕二。1991年に『東京ラブストーリー』の脚本を手掛け、社会現象を起こした張本人が、月9での恋愛ドラマに帰ってきた。近年は『それでも、生きてゆく』(2011年/同)、『最高の離婚』(13年/同)、『問題のあるレストラン』(15年/同)など、社会性の強い人間ドラマで視聴者をうならせてきた坂元が、満を持してのストレートな恋愛ドラマ。視聴者からの事前の期待も高かったわけだが、第1話において、すでにそのハードルをやすやすと飛び越えている。 恋愛を物語るということ。それは坂元にとって、脚本を書くという行為とおそらく本質として似ているのだろう。ゼロから何か出来事を起こすということではなく、登場人物に実際に起こった出来事を取捨選択して描くというのが坂元の手法だ。だから、そのリアリティが私たちの心を打つ。それは恋愛を物語るという行為も同じであり、人はしばしばただの“偶然”を、自分たちに起きた“奇跡”だと捉え、そうして特別な恋に落ちる。そこには語り手の意図が実は確かに存在しているのだが、恋をしている者はそれに気付かない。だからこそ、その恋は特別なのだ。 実際、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』でも、かなりの“偶然”が起こっている。ヒロインである音(有村架純)に手紙を渡すため北海道へ出かけた練(高良健吾)は、クリーニング店で初対面を果たしてから、3度も北海道で出会っている。そんなことがあるだろうか? 結構広いぞ、北海道。だが、あるのだ。あるから描かれている。それは“偶然”ではなく、ただの“奇跡”だ。 この“偶然”を、作劇上のご都合主義だと切り捨ててしまうのも理屈としては可能だが、そうさせないのが坂元の脚本、特にセリフだろう。実際に登場人物が生きている、今もどこかで暮らしていると思わせるリアリティがある。そのリアリティがあるからこそ、“偶然”は“奇跡”として私たちに届く。たとえば音と練の、こんなやりとりだ。 音「(トラックの荷台に積まれた大量のダンボール箱を見て)何が入ってんの?」 練「桃の缶詰です」 音「わたし、こんなに桃の缶詰持ってる人、初めて見た。これだけで、あなたのこと好きになる人いると思うよ」 練「(戸惑い)」 音「ねえ、東京ってさ、ひと駅ぶんぐらい歩けるって本当?」 練「本当です」 音「(すぐさま)ウソだ」 練「3駅ぐらい歩けますよ」 音「(練の胸を叩いて)ウソ言うな! 3駅って、選手やん」 練「選手じゃないです」 音「競技やん」 練「競技じゃないです。3駅歩く競技、ないです」 音「(笑ってアメを渡して)アメ食べ」 有村架純と高良健吾の演技によって、このセリフは本当に生きている人間の言葉になる。特に有村が演じる音の、本心を言うときにだけ関西弁になってしまうという設定、あるいは相手の言葉を待たずに自分の意見を言う勝手な性格、心の底では北海道を出たいと願っている彼女の気持ちが、このやりとりの中に集約されている。ちょっとあまりにも美しすぎるとしか言いようがない。 こういったリアリティこそが“偶然”を“奇跡”に変えているわけだが、それでも“偶然”をただのご都合主義として捉えたい方もいるかもしれない。そういった方には、こう言っておきたい。これはあくまでも、音が語る物語なのだと。この作品は音の主観で描かれていて、それは物語の最初の場面で示唆されている。 幼少期の音が、公園で草に向かって話しかけている。「あんな、お年玉返すから、お母さん返してほしいねん」と。そこで母親(満島ひかり)の声がする。「音」と、彼女を呼ぶ声が。幼少期の音が振り返ると、そこには彼女の養父となる男(柄本明)が立っている。 母親はすでに亡くなっている(音は母親の遺骨を抱いている)から、ここで母親の声が聞こえるというのは現実的にはおかしい。にもかかわらず、それが起こっているということは、これは音の主観であるということだ。だからこの物語は、音が振り返るひとつの特別な恋愛の話であり、少なくとも第1話において「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」と語っているのは音だ。これはあくまでも音が語る物語であり、実際にどこまで何が起こっていたのかを、他者である我々は知ることができない。音は練と3度も会っていないのかもしれないし、養母は本当は立ち上がっていないのかもしれないし、大雨の中でサイレンなんて鳴っていなかったのかもしれない。だが、音にとってそれは確かに起こったことであり、恋愛というのはしばしばそういうものだ。 こうして“偶然”は”奇跡”に変わる。それは恋愛に許された、あるいはテレビドラマを創るという行為に許された、ひとつの特権なのだ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』フジテレビ
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「ガウディ計画編」は再生を描いた──『下町ロケット』が掲げた“TBS品質”の矜持
放送開始前から大きな期待を集めていたドラマ『下町ロケット』(TBS系)だが、12月20日に放送された最終回の視聴率は全10話の中で最も高い22.3%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)を記録。作品の内容も回を追うごとに密度を増し、多くの視聴者を満足させた。ここでは、第6話から第10話までの「ガウディ計画編」を振り返ってみたい。 ドラマ『下町ロケット』は、第1話から第5話までは池井戸潤の小説『下町ロケット』を、第6話から第10話までは同『下町ロケット2 ガウディ計画』を原作としている。全10話のドラマ作品で2冊の小説を原作としているというのも珍しいが、それゆえに毎回密度の濃い内容となった。原作のテーマを換骨奪胎し、絶妙の形で見せていくやり方には、この作品をテレビドラマとして視聴者に届けたいという制作者のプライドを感じずにはいられない。佃製作所が「ロケット品質」を掲げるのなら、この作品は「TBS品質」を掲げたテレビドラマだといえるだろう。 原作との違い、というか、原作の表現するものをテレビドラマとしてふさわしい見せ方に変えている部分はいくつもあるが、「ガウディ計画編」の初回となる第6話でも見事な脚色が加えられている。それは、佃航平(阿部寛)や佃製作所の開発者たちが、福井市にある株式会社サクラダを訪れる場面でも象徴的だ。 人工弁「ガウディ」を開発しようとしている株式会社サクラダの社長、桜田章(石倉三郎)は、自身が「ガウディ」に専心している理由を明かす。彼には娘がいたのだが、17歳のときに重い心臓弁膜症で亡くなっていたのだ。それを聞いた航平と佃製作所の社員は心を打たれるのだが、この場面は、原作ではこう描かれている。 *** 「仕事ってのは、いろいろですね」 やがて、その口から出てきたのはそんな言葉だ。 「桜田さんとウチとでは、仕事をする理由がまるで違う。人の数だけ、仕事をする意味があるのかな」 「そうかもな」 佃はいった。 「だからこそ、おもしろいんじゃないか。———なあ、やってみないか」 *** 原作では、こういったやりとりがあって、佃製作所が「ガウディ」の開発に加わることになる。小説であれば、不自然さはない。小説『下町ロケット』では夢を追いかけるというテーマだったが、『下町ロケット2』ではそれだけではなく、せざるを得ない理由によって仕事をする者もいるというのがテーマになっているからだ。それは医療という新しい分野に関わることになる佃製作所が越える、ひとつの壁でもある。 これに対して、ドラマ『下町ロケット』の第6話は、原作にはなかった場面を付け加えている。それはあくまでも全10話のストーリーとして見せるために、原作『下町ロケット』と『下町ロケット2』をつなぐ役割を果たしている。具体的には、原作と同じく「仕事っていうのはいろいろですね」「人の数だけ仕事をする意味がある」と佃製作所の唐木田(谷田歩)が言う、それを聞いた航平は、同意はしながらも、根底は同じなんじゃないかと伝え、こう口にする。 「(日本が本格的なロケットを手掛けるようになった)最初のきっかけは、1959年に起きた伊勢湾台風だといわれています。死者、行方不明者、5,000人以上。未曾有の大災害でした。そういう被害を二度と出さないために(略)ロケット開発はこんにちに至るまで進歩を続けてきました」 そして桜田に対して「(人工弁を開発することが)いつか夢だと言える日が来てほしい」と告げるのだった。このエピソードを付け加えることによって、ドラマ『下町ロケット』の第6話以降はそれまでのストーリーと分離することなく地続きのものとなり、さらには第6話以降のテーマをも指し示している。 ドラマ『下町ロケット』の第6話以降、「ガウディ計画編」は、つまり再生の物語である。原作にもそういった描かれ方は多くあるのだが、ドラマでは再生というテーマを強く打ち出している。第6話で追加されたこの伊勢湾台風のエピソードはその象徴だといえるし、ドラマの中でそれを宣言した場面だといってもよい。 ロケットという夢や未来を目指す技術であっても、その根底には悲しみや後悔がある。逆に言えば、悲しみや後悔はいつか夢や未来を目指す技術になり得る。航平の言葉はそれを指し示しているのだし、そしてこの言葉は、桜田を再生させるものでもある。また、これから佃製作所が挑む人工弁という技術自体が再生を目指すものだから、これは第6話以降に通底するテーマでもある。 原作『下町ロケット』の発行日は2010年11月24日であり、『下町ロケット2』の発行日は15年11月5日だ。その2冊の間に日本を襲った大災害は、伊勢湾台風がそうであったように多くの悲しみや後悔を生み、そして日本の技術の象徴ともいえる原子力発電所への幻想も崩壊した。だがそれでも、技術者は立ち上がるのだ。悲しみや後悔を、夢や未来へと変えるために。ドラマ『下町ロケット』の「ガウディ計画編」が描く再生とは、まさにそういった種類のものだ。 原作で描かれていない再生は、ドラマの最終回となる第10話でもエピソードとして追加されている。サヤマ製作所の社員で、データを偽造した月島(福田転球)は「もう一度取り戻しましょうよ。技術者としてのプライドを」と説得されて社長の椎名(小泉孝太郎)を告発し、技術者としての再生が示唆される。あるいは、椎名の亡くなった父親の開発した技術が新型ロケットの重要な部品として使われていることが明かされ、死をもってなお技術が再生される。そして椎名もまた、最後の最後で技術者としての再生を誓い、物語は終幕を迎えるのだった。 どんな悲しみや後悔も、人は乗り越えることができる。口に出してしまうといささか気恥ずかしいこの言葉を、再生というテーマで映像化したのがドラマ『下町ロケット』の「ガウディ計画編」だ。だからこそこの作品は、今を生きる我々の心をつかみ、多くの共感を得たのではないだろうか。 余談ながら、逆にドラマでは描かれていないが、原作ではしっかり描かれているのが、世良公則が演じた医師・貴船の再生である。貴船の再生の場面は原作では、ある意味でひとつのクライマックスだといってもいい。ドラマ『下町ロケット』を楽しんだ方は、そちらも併せて読んでみてはいかがだろうか。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日曜劇場『下町ロケット』|TBSテレビ
『下町ロケット』は原作から何を足し、何を引いたか……スピード感を得た“21世紀の『水戸黄門』”像
2015年10月クールの連続ドラマの中で最も注目を浴びている作品といえば、やはり『下町ロケット』(TBS系)になるだろう。原作はご存じ、池井戸潤。『半沢直樹』(同)の大ヒットは記憶に新しいが、ここ最近の地上波だけでも『七つの会議』(NHK総合)、『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ系)、『ルーズヴェルト・ゲーム』(TBS系)、『ようこそ、わが家へ』(フジテレビ系)、『民王』(テレビ朝日系)と、ドラマ化が続く。現在の日本のテレビドラマ界は、池井戸なしでは成立し得ないのではないか、と思えるほどだ。 『半沢直樹』の大ヒットを経験していることもあり、TBSとしても気合十分。かつ『下町ロケット』は、過去にWOWOWでドラマ化されているという経緯もあり、負けるわけにはいかないところだ。そして事実、期待通りのヒット作品となる。初回の視聴率こそ16.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)だったが、右肩上がりで数字を伸ばし、ロケット編の最終回となる第5話では20.2%という高視聴率を記録。これはプライムタイムのドラマとしては2015年度最高の記録であり、第二の『半沢直樹』になるかどうか、期待が集まる。 『下町ロケット』に限らず、小説原作をテレビドラマにする際はある程度の脚色が必要となる。それではこの作品では、原作にどのような脚色が加えられているのか。そして、テレビドラマとしての『下町ロケット』は、その脚色においてどのような成功を収めているのか。第1話から第5話までの「ロケット篇」を振り返り、検証してみたい。 <原作を削るのではなく、原作に足すという手法> ドラマ『下町ロケット』では、原作で重要だった要素はほぼそのまま生かされている。基本的には原作の主要な登場人物はすべてドラマでも活躍するし、あの場面が削られてしまった、というケースはほとんどない。強いて言うならば、前半で資金繰りに苦しむ場面は小説からドラマになる際にはかなり短めに処理されているが、小説のように登場人物の内面を描くことができないという映像の特性を考えれば、もっともな演出だといえるだろう。 逆に、原作にはなかったが、ドラマにする上で足されている要素はいくつかある。登場人物でいうと、主人公の佃航平(阿部寛)の娘、利菜(土屋太鳳)は原作にも登場するのだが、登場回数は増え、かなり大きな役回りを演じている。これは『下町ロケット』がテレビ作品であり、幅広い層に向ける必要があるからだろう。親子のやりとりをしっかり見せることによって、ただの企業ものではない、家族ドラマとしての側面を描くことに成功している。 また、原作からの最も大きな改変といえるのが、第2話の裁判シーン。航平が証人喚問で呼ばれて法廷に立ち、技術者としてのプライドを述べる重要な場面だが、実はこの場面は、原作には存在していない。この派手な場面を作ることによって、第2話の視聴率は17.8%と、第1話を越えることに成功。連続ドラマにおいて重要な第2話にこの派手なエピソードを付け加えることによって、視聴者を増やす動機付けにつながったといえるだろう。 <日本のテレビドラマではあまりない情報量の多さ> 『下町ロケット』をテレビドラマにするにあたってTBSが取った戦略は、「ロケット篇」だけで全話を構成するのではなく、続編の『下町ロケット2』を含めて全話に詰め込むというものだった。この手法により、またすでに述べたようにテレビドラマのオリジナルの要素まで加えていることもあり、この作品は一般的な日本のテレビドラマと比べてかなり情報量が多い。テンポも早く、全体を通してのカットのつなぎやセリフの間も非常に早い。これにより、視聴者が一切飽きることなく、一話を最後まで見てしまうという習慣付けに成功している。 情報量の多さを処理する上で効果的に使われている演出が、松平定知によるナレーションだ。毎回頭に入るこのナレーションだが、普通であれば前回までのあらすじを視聴者に紹介するという役割に過ぎないところ、前回から今回に至るまでに何があったかも説明するという離れ業を演じている。 たとえば第4話、佃製作所が帝国重工からの審査を受ける回だが、この回の頭のナレーションでは帝国重工の審査する側の溝口(六角慎司)と田村(戸次重幸)の簡単な紹介と富山敬治(新井浩文)との関係性の説明がなされる。これをナレーションだけで処理するというのは、かなりアクロバティックな演出だろう。通常のドラマであれば、この3人が話し合う場面を映像として見せるわけだが、それをあえてせずにナレーションで処理する。かつ、前回までのあらすじと交えてそれがなされているために、視聴者としての違和感はまったくない。前回までのあらすじと思って見ていたら、そのまま今回のエピソードに引き込まれるという、シームレスな演出方法になっている。 この情報量の多さとテンポを重用視する演出は、むしろ海外のドラマに近いともいえるだろう。視聴者が多くの海外ドラマに触れ、そのスピード感を知っている今、『下町ロケット』は新たなスタイルを模索し、それを確立しつつある。 <どの回を見ても楽しめるという『水戸黄門』的スタイル> これまでに述べた演出方法により、『下町ロケット』が何を目指し、また何に成功しているのかというと、どの回を見ても楽しめるという、いわば『水戸黄門』的スタイルだ。通常の日本のテレビドラマであれば、どれか1話を見逃してしまうとその後の話についていけないということは多い。というか、全話を通して見る視聴者を前提としているためにそうならざるを得ないわけだが、『下町ロケット』はそうではない。第何話から見ても楽しめるというスタイルを突き詰めていて、だからこそ視聴率が右肩上がりになるという成功を収めている。 各種デバイスの発達やHDD録画視聴というスタイルの普及により、テレビドラマを毎週同じ時間にお茶の間に座って見る、という昔ながらの視聴方法はすでに崩れている。『下町ロケット』はそれを前提として新たなテレビドラマのスタイルを追求する、“21世紀の『水戸黄門』”だといえるだろう。第6話以降、このまま上昇飛行が続いていくのかどうか、見逃せないところだ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日曜劇場『下町ロケット』|TBSテレビ
『下町ロケット』は原作から何を足し、何を引いたか……スピード感を得た“21世紀の『水戸黄門』”像
2015年10月クールの連続ドラマの中で最も注目を浴びている作品といえば、やはり『下町ロケット』(TBS系)になるだろう。原作はご存じ、池井戸潤。『半沢直樹』(同)の大ヒットは記憶に新しいが、ここ最近の地上波だけでも『七つの会議』(NHK総合)、『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ系)、『ルーズヴェルト・ゲーム』(TBS系)、『ようこそ、わが家へ』(フジテレビ系)、『民王』(テレビ朝日系)と、ドラマ化が続く。現在の日本のテレビドラマ界は、池井戸なしでは成立し得ないのではないか、と思えるほどだ。 『半沢直樹』の大ヒットを経験していることもあり、TBSとしても気合十分。かつ『下町ロケット』は、過去にWOWOWでドラマ化されているという経緯もあり、負けるわけにはいかないところだ。そして事実、期待通りのヒット作品となる。初回の視聴率こそ16.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)だったが、右肩上がりで数字を伸ばし、ロケット編の最終回となる第5話では20.2%という高視聴率を記録。これはプライムタイムのドラマとしては2015年度最高の記録であり、第二の『半沢直樹』になるかどうか、期待が集まる。 『下町ロケット』に限らず、小説原作をテレビドラマにする際はある程度の脚色が必要となる。それではこの作品では、原作にどのような脚色が加えられているのか。そして、テレビドラマとしての『下町ロケット』は、その脚色においてどのような成功を収めているのか。第1話から第5話までの「ロケット篇」を振り返り、検証してみたい。 <原作を削るのではなく、原作に足すという手法> ドラマ『下町ロケット』では、原作で重要だった要素はほぼそのまま生かされている。基本的には原作の主要な登場人物はすべてドラマでも活躍するし、あの場面が削られてしまった、というケースはほとんどない。強いて言うならば、前半で資金繰りに苦しむ場面は小説からドラマになる際にはかなり短めに処理されているが、小説のように登場人物の内面を描くことができないという映像の特性を考えれば、もっともな演出だといえるだろう。 逆に、原作にはなかったが、ドラマにする上で足されている要素はいくつかある。登場人物でいうと、主人公の佃航平(阿部寛)の娘、利菜(土屋太鳳)は原作にも登場するのだが、登場回数は増え、かなり大きな役回りを演じている。これは『下町ロケット』がテレビ作品であり、幅広い層に向ける必要があるからだろう。親子のやりとりをしっかり見せることによって、ただの企業ものではない、家族ドラマとしての側面を描くことに成功している。 また、原作からの最も大きな改変といえるのが、第2話の裁判シーン。航平が証人喚問で呼ばれて法廷に立ち、技術者としてのプライドを述べる重要な場面だが、実はこの場面は、原作には存在していない。この派手な場面を作ることによって、第2話の視聴率は17.8%と、第1話を越えることに成功。連続ドラマにおいて重要な第2話にこの派手なエピソードを付け加えることによって、視聴者を増やす動機付けにつながったといえるだろう。 <日本のテレビドラマではあまりない情報量の多さ> 『下町ロケット』をテレビドラマにするにあたってTBSが取った戦略は、「ロケット篇」だけで全話を構成するのではなく、続編の『下町ロケット2』を含めて全話に詰め込むというものだった。この手法により、またすでに述べたようにテレビドラマのオリジナルの要素まで加えていることもあり、この作品は一般的な日本のテレビドラマと比べてかなり情報量が多い。テンポも早く、全体を通してのカットのつなぎやセリフの間も非常に早い。これにより、視聴者が一切飽きることなく、一話を最後まで見てしまうという習慣付けに成功している。 情報量の多さを処理する上で効果的に使われている演出が、松平定知によるナレーションだ。毎回頭に入るこのナレーションだが、普通であれば前回までのあらすじを視聴者に紹介するという役割に過ぎないところ、前回から今回に至るまでに何があったかも説明するという離れ業を演じている。 たとえば第4話、佃製作所が帝国重工からの審査を受ける回だが、この回の頭のナレーションでは帝国重工の審査する側の溝口(六角慎司)と田村(戸次重幸)の簡単な紹介と富山敬治(新井浩文)との関係性の説明がなされる。これをナレーションだけで処理するというのは、かなりアクロバティックな演出だろう。通常のドラマであれば、この3人が話し合う場面を映像として見せるわけだが、それをあえてせずにナレーションで処理する。かつ、前回までのあらすじと交えてそれがなされているために、視聴者としての違和感はまったくない。前回までのあらすじと思って見ていたら、そのまま今回のエピソードに引き込まれるという、シームレスな演出方法になっている。 この情報量の多さとテンポを重用視する演出は、むしろ海外のドラマに近いともいえるだろう。視聴者が多くの海外ドラマに触れ、そのスピード感を知っている今、『下町ロケット』は新たなスタイルを模索し、それを確立しつつある。 <どの回を見ても楽しめるという『水戸黄門』的スタイル> これまでに述べた演出方法により、『下町ロケット』が何を目指し、また何に成功しているのかというと、どの回を見ても楽しめるという、いわば『水戸黄門』的スタイルだ。通常の日本のテレビドラマであれば、どれか1話を見逃してしまうとその後の話についていけないということは多い。というか、全話を通して見る視聴者を前提としているためにそうならざるを得ないわけだが、『下町ロケット』はそうではない。第何話から見ても楽しめるというスタイルを突き詰めていて、だからこそ視聴率が右肩上がりになるという成功を収めている。 各種デバイスの発達やHDD録画視聴というスタイルの普及により、テレビドラマを毎週同じ時間にお茶の間に座って見る、という昔ながらの視聴方法はすでに崩れている。『下町ロケット』はそれを前提として新たなテレビドラマのスタイルを追求する、“21世紀の『水戸黄門』”だといえるだろう。第6話以降、このまま上昇飛行が続いていくのかどうか、見逃せないところだ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日曜劇場『下町ロケット』|TBSテレビ
連続ドラマにとって“最終回”とは何か?『ど根性ガエル』最終話
ドラマ『ど根性ガエル』は全10話の作品であり、当然ながら第10話が最終回となる。そして『ど根性ガエル』が最終回のテーマに選んだのは、終わることについてだ。前回ピョン吉(声・満島ひかり)と別れてしまったひろし(松山ケンイチ)は、口ではそう言わないが、少しずつ大人になろうと努力している。母ちゃん(薬師丸ひろ子)に起こされる前に起きたり、ご飯をよそってもらったときに感謝を述べるなど、その変化は小さいがここまで一切変わることのなかったひろしにとっては大きいものだ。 こういった最終回の形というのも、当然あり得るし、むしろ自然なものだと言っていいだろう。主人公が唯一無二の仲間と去って、自分だけの人生を歩き始める。それはきっと「いい話」になるはずだ。だが我々の愛するひろしは「いい話」が何より苦手な男だった。「でもやっぱおかしい」と気付き、不満を口にする。 「なんで俺が大人になるためにピョン吉がいなくなんなきゃいけねえんだよ。ピョン吉は俺のために生きてたっていうのか? そりゃ失礼ってもんだ、ピョン吉っていう生き物に対してよ」 このひろしの面倒くささが『ど根性ガエル』の最終回を特殊なものにする。面倒くささ。あるいは、ひろしは嫌がるかもしれないが、優しさと言ってもいい。ピョン吉に限らず、ひろしは、というか『ど根性ガエル』は、ある人物がドラマを進めるためだけに配置されることを許さない。全ての人物はその人生を生きていて、役割はそのあとについてくる。誰もが自分の人生を選び取ることを許されているというのが『ど根性ガエル』の世界だからだ。 「つまんねえだろうが、このまま終わりなんてよ」 ひろしのこの言葉が、『ど根性ガエル』の最終回に、一人の新たな登場人物を産む。それはひろしとよく似た男(松山ケンイチ/二役)だ。言わばもう一人のひろしが町に現れ、いくつかの事件を起こし、そして結果として彼が黄色いアマガエルの上に倒れ込むことで、ピョン吉が復活する。 ひろしとよく似た男、ひろし2号(とピョン吉が呼んでいる)は、外見だけでなく境遇もひろしとよく似ている。ただ一つだけひろしと違うのは、ピョン吉と出会わなかったという点だ。だからどこか弱々しく、ひろしのように無駄な自信や空元気は持ち合わせていない。ピョン吉と出会うことがなかったため、ど根性を持っていないもう一人のひろしを叱りつけるのは、ヒロインの京子ちゃん(前田敦子)だ。 「あんたにね。いや、今の時代に足りないのは、ど根性だよ! 分かったか!」 京子ちゃんのこの台詞でも分かるように、ひろし2号が何を象徴しているかは明らかだ。彼はただの、ひろしによく似た男ではない。我々視聴者を象徴し、具現化した存在がひろし2号だ。我々はひろし2号という登場人物の体を借りて『ど根性ガエル』の世界へと迷い込んでいる。 『ど根性ガエル』とは、カエルがシャツの中で生きるという現実にはあり得ない設定の物語だ。だから、ひろしだけが成長するという結末では、実は我々視聴者にとっては、なんの解決にもなっていない。「結局、俺たちにはピョン吉がいないから」と、よその話になってしまう。だから我々を代表したひろし2号が語られなくてはならない。ピョン吉と出会うことのなかった我々視聴者をも、『ど根性ガエル』は強引にその物語の中に引きずり込むのだ。 ひろしの母ちゃんは、自分をいらない存在だと考えてしまっているひろし2号に「生まれてきたんだから、生きてていいんだよ」と告げる。そしてその上で、こう諭してくれる。 「自分でお話を終わりにするようなこと、考えちゃダメなんだよ」 自分でお話を終わりにするというのは、つまり自己の中で何かを完結させてしまうということだ。それは「ど根性」という考え方から最も遠い行為である。居心地は確かに良いかもしれない。余計な干渉や衝突もない。だがその生き方は、少なくとも、面白くはない。終わってしまったら、面白くないのだ。だから、多少強引でも、一般的なルールに抗うことになっても、一歩はみ出してみる。自分でお話を勝手に終わらせないために。そういった決意そのものが「ど根性」と呼ばれるものだ。 そして『ど根性ガエル』の最終回もまた、お話を終わりにしない。ひろし2号は自分の元いた場所に帰っていく。これまでよりもちょっとだけバカになって。「バカになれたなら、もう大丈夫だね」という台詞が、彼の、つまりは我々視聴者の、未来を保証している。ドラマ『ど根性ガエル』が一旦の最終回を迎えたとしても、ひろし2号は生き続ける。もちろん我々視聴者も。『ど根性ガエル』が教えてくれた愛おしさや、優しさや、だらしなさや、その全てを胸の中に入れて我々は我々の生活に戻っていく。そうして我々の生活は、終わることなく、新しい始まりを続けていくのだ。 ドラマ『ど根性ガエル』は全10話をもって最終回を迎えた。それでもなお、まだ何も終わってはいない。我々視聴者の心の中に『ど根性ガエル』がある限り、『ど根性ガエル』は終わらない。バトンは我々に渡された。「ど根性」を日々の生活でくらわせるのは、今度はぼくらの番だ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日本テレビ『ど根性ガエル』
なぜこの9人と一匹は、これほどまでに愛おしいのか?『ど根性ガエル』第9話
『ど根性ガエル』もいよいよ第9話となり、最終回も間近だ。主人公のひろし(松山ケンイチ)をはじめとする登場人物の9人、そしてピョン吉(声:満島ひかり)という一匹の平面ガエルとの別れも近い。この『ど根性ガエル』は、第1話からピョン吉との別れを想起させる形で描かれているが、視聴者である我々はピョン吉だけではなく彼ら9人と一匹、全員と別れざるを得ないわけで、当たり前の話ではあるが連続ドラマというフォーマットは寂しいものだ。作品が愛すべきものであればあるほど、その別れの寂しさは強くなる。 本連載ではこれまで主にひろしとピョン吉について語ってきたわけだが、『ど根性ガエル』という作品は、いわゆる主人公である彼らだけではなく、すべての人物に対して惜しみない愛を与えて描く。9人と一匹。ひろし、ゴリライモ(新井浩文)、五郎(勝地涼)、ひろしの母ちゃん(薬師丸ひろ子)、京子ちゃん(前田敦子)、よし子先生(白羽ゆり)、梅さん(光石研)、町田校長(でんでん)、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)、そしてピョン吉。この中の誰一人と誰一匹欠けても成立しない世界として『ど根性ガエル』は描かれている。 ではなぜ『ど根性ガエル』の登場人物はみな愛おしいのだろうか? それは、ドラマの作中で描かれていない部分がしっかりと描かれているからだ。少しわかりづらい言い方になってしまったが、たとえば『ど根性ガエル』の第9話では、こんな場面がある。 ピョン吉のために何かしてあげたいと思ったひろしは、自らの発案で「ピョン吉パン」という新商品を作る。そのことを、宝寿司で店番をしている町田校長と京子ちゃんのおばあちゃんに告げる場面だ。町田校長は、実はピョン吉のシャツを着ているのだが、ひろしはそれに気付かず、ピョン吉に対する本心をこっそり吐露するのだった。人生の先輩である2人に対して「いやもう俺はね、大変なのよ。ダメじゃないのにダメなフリしたりね。大人なのにガキのフリしたりね」と冗談めかしながらも、ひろしは言う。 「悲しいこともつらいことも全部一緒。どっちか一人じゃダメなんだよ。ひろし&ピョン吉だからな」 このセリフの奥の深さが『ど根性ガエル』の真骨頂だといえる。ドラマ『ど根性ガエル』は、原作マンガの16年後を描いた作品だ。この奇抜な設定にしっかりとした背骨を与えるために、『ど根性ガエル』がやらなくてはならないこととは何か。それは、描かれていない16年間を描くことだ。原作マンガの世界から今までに、何が起こり、彼らはどう過ごしていたのか。『ど根性ガエル』はその難問から逃げず、真摯に向き合っている。 上記の「悲しいこともつらいことも全部一緒」というたった一言が、16年分のひろしとピョン吉を描いている。16年間もたてば、いろいろある。悲しいこともつらいことも。それらを全部ピョン吉と一緒に過ごしてきたという自覚がひろしにはあり、だからこのセリフが生まれている。これが、ドラマの作中で描かれていない部分をしっかりと描くということだ。そしてこういった心遣いがすべての登場人物に対してなされるからこそ、『ど根性ガエル』の9人と一匹はこれほどまでに愛おしい。 第9話、福男を決めるレースの直前。ひろしとゴリライモと五郎がライバルとしてやり合っている。ひろしの母ちゃんと京子ちゃんの間でも、密かに女同士の戦いが始まっているようだ。よし子先生の靴はスタート早々脱げてしまうが、肝心の梅さんは事前の練習中に骨折していて役には立たない。町田校長は老体に鞭打ってスターターを務め上げ、京子ちゃんのおばあちゃんはうれしそうにシンバルを叩く。誰一人欠けてはいない。誰一人欠けてはならない。そしてピョン吉は、笑っている。 見事レースに優勝し、翌朝目覚めたひろしは、シャツからピョン吉がいなくなっていることに気付く。町中探しまわって家に帰ったひろしは、ピョン吉が去ったそのシャツを着て母ちゃんに言う。「飯にしようぜ、母ちゃん」と。 祭りには、いつものみんなが集まっている。誰もがピョン吉の不在に気付いているが、そのことを口にはしない。「おうゴリライモ、ゴリライモだね、相変わらずお前さんは」「よう京子ちゃん、相変わらずかわいいね」とはしゃぐひろしに、ゴリライモが声をかける。 「お前、相変わらずひろしだな」 このセリフにもまた、16年分が詰まっている。あるいはそれよりずっと昔から、幼いころからひろしを見てきたゴリライモの思いが「相変わらず」というたったひとつの言葉に込められている。言葉にしなくたってわかってしまう。そして、そのときドラマの登場人物は、我々視聴者と同じ地平に立つ、生きた人間としてそこにいる。彼らが声を上げて神輿をかつぐとき、誰を想っているのかがわかってしまう。だからこそこの9人と一匹はこれほどまでに愛おしく、そしてだからこそ、別れはこれほどまでに寂しいのだ。 次回、『ど根性ガエル』は最終回を迎える。待ち遠しいと思うと同時に、その日が来なければよいのにと思ってしまうのは、おそらく筆者だけではないだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日本テレビ『ど根性ガエル』
このドラマにとって“仲間”とは何を指すのか? 『ど根性ガエル』第8話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第8話は、ゴリライモが出馬した区議会議員選挙の投開票の一日を追った話だ。といってもゴリライモだけに焦点を当てているわけではない。全ての登場人物に対して敬意を持って描き、作り手の意図を前には出さず、しっかりとその人物を見つめる『ど根性ガエル』だけあって、ゴリライモに関わる全ての人物が有機的に絡み合う、愛おしい時間がそこにはあった。 冒頭からゴリライモがひろしに、当選したらヒロインの京子ちゃんにプロポーズすることを告げる。「お前にだけは先に宣言しておこうと思ってな」というゴリライモの台詞が憎い。ひろしとピョン吉はゴリライモの応援のために集会で漫才を披露するのだが、いちいち京子ちゃんの表情を確認するひろしは嫌になるくらいに人間的で、ぐっと心を掴まれる。 投票の際も、ゴリライモに一票を投じるのか悩むひろし。仲間であるゴリライモには当選してほしいが京子ちゃんと結婚されるのも悔しいのだ。夜になって、みんなが集まる選挙事務所にも行かずに独り家でいじけているひろし。そこへ迎えに来るのはやはり五郎だ。五郎は「いじけてる先輩を連れて行くのは自分の役目」と言い、ひろしを選挙事務所へ連れて行く。 そう、誰もが、誰かのために行動している。そう書いてしまうと少し恥ずかしく思えてしまうが、これまでの『ど根性ガエル』が描いてきた登場人物の個々のキャラクターが魅力的なだけに、その行動が一切偽善的に見えない。こいつだったらこうするだろう、と思えるようなこれまでの人物造形があるから、決して説教くさい話にならない。これは連続ドラマというフォーマットならではの、そして『ど根性ガエル』ならではの美しさだと言えるだろう。 そして選挙事務所についたひろしは、自身の提案により、ゴリライモにピョン吉のシャツを着させる。 「根性出るだろ? 弱気の虫はこいつが追っ払ってくれるからよ」 実はゴリライモがピョン吉を着るのは、このときが人生で初めての経験だということも明かされる。小学生時代、こっそり羨ましいと思っていたゴリライモの回想もあり、ひろしがゴリライモのために、ゴリライモのことを思ってピョン吉を着させるという意味もより深くなる。 結果、わずか一票差でゴリライモは当選。ひろしが自分の気持ちよりもゴリライモの当選を願った一票が、当選を決めた。誰かのために、という思いが結末を変える。この、誰かのために、という思いは「選挙」であり「政治」の本質そのものであって、ゴリライモを応援した誰もが喜んでいる。そしてゴリライモは、誰かのために、という思いを知っているからこそ、良い政治家になるだろうということも示唆される。 今回、仲間というものを描いた『ど根性ガエル』はこのままハッピーエンドに向かおうとするのだが、ここで終わらないのがまた『ど根性ガエル』だ。そこへ着いていけていない人物が、実は一人いる。ヒロインの京子ちゃんだ。彼女は涙を流しながら、本心を吐露する。 「女とかじゃなくて、人として、もっとちゃんとして生きたいの。人として、仲間に入れてよ。お願い。お願いします」 確かに京子ちゃんは、ひろしにとってもゴリライモにとっても、片思いの対象ではあるが、実はそれだけの存在でしかないと言えばそうかもしれない。いや、実際には勿論ひろしにとってもゴリライモにとってもそれだけの存在のはずはないのだけれど、京子ちゃん自身はそう思ってしまっている。人としての仲間には、入れていないと。 ここに『ど根性ガエル』が、仲間というものをどう捉えているかが描かれている。ただ単純に一緒にいれば仲間というわけではない。そして、目的を同じくして行動しているという状態でさえも、おそらく仲間ではない。自分を一人の個人として見てもらうこと。そういった個人として存在することを許されるということ。それが仲間なのだ。 これまでこの連載で描いてきたように、『ど根性ガエル』は人々の多様性を是とする。そうであるならば、目的や行動も違っていて良い。だがそれでも、仲間であることは出来る。むしろその人、個人の多様性や個性、あるいは面倒くささも全て含めて引き受けるというのが、仲間になるということであり、それはおそらくどんな場面でも許されているのだろう。 ひろしは京子ちゃんにこう告げる。 「決まってんじゃないですか。人として仲間なんて、当たり前じゃないですか。何があったってね、仲間は仲間ですよ。死ぬまでね、いや、死んだって仲間だよ」 そばにいるから仲間なのではない。仲間でいることを決めるからこそ、人は仲間になる。そしてそれはきっと、本当は誰にだって出来ることなのだ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
『ど根性ガエル』第6話は、8月15日に戦争をどう描いたか?
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第6話の放送日は、8月15日だった。日本人にとっては特別な夏の日付である。そして『ど根性ガエル』でも、少しだけ特別な事件が起こる。主人公、ひろし(松山ケンイチ)たちが住む町で、先の大戦で落とされた不発弾が発見されるのだった。こうしてこの作品は、戦後70年という節目の夏に放送されるドラマ作品として、戦争を描くことになる。 これは別段唐突なことではなく、『ど根性ガエル』のプロデューサー・河野英裕と脚本家・岡田恵和は、2013年1月クールのドラマ『泣くな、はらちゃん』で虚構の世界を生きる登場人物に現実の世界の悲惨さや鮮烈さを伝える場面において、かつての戦争や東日本大震災の映像を流したこともある。この手法には視聴者からの賛否両論が集まり、DVD化の際にも修正が加わったそうだが、『ど根性ガエル』にもそういった作り手としての矜持は息づいているし、より洗練された形で現代社会をドラマの中に組み込んだといえるだろう。 ドラマに限らず、テレビというメディアで作られる作品は、常に今と向き合うことを強いられる。本来は、そういったものだ。これほどまでに記録メディアが発達し、インターネットの普及によってワンクリックで動画が見られる時代である。すでに存在する数多くの素晴らしい映画作品を見るよりも、いま放送されているテレビドラマを見るという行動を選んだ視聴者に対して、テレビは今を語らなくてはならない。少なくとも『ど根性ガエル』の作り手は、そういった信念を持ってこの作品を作っているのだろう。 ピョン吉(声:満島ひかり)は、不発弾というのはなんなのかを知らない。作品の主要登場人物の中で唯一、リアルタイムで戦争を知っている人物である、ヒロイン・京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)から爆弾や戦争の話を聞いたピョン吉は、こんな言葉を口にする。 「死んじまうじゃねえか、そんなやつが落ちてきたら。おそろしい野郎だな。おいら許せねえよ」 ここで重要なのは、ピョン吉が批判しているのは爆弾を落とした軍隊でもなく、あるいは戦争に突き進んだ国家でもなく、あくまでも爆弾そのものに対して「おそろしい野郎」と言っている点だ。ピョン吉は人間ではない。人間とは違う世界で生きている。だから爆弾を落とした、もしくは爆弾を作った人間を責めるのではなく、爆弾そのものを自らが共感すべき対象として批判することができるのだ。 そしてまたピョン吉は、この町で70年間も眠り続けた不発弾に対して、こんな気持ちを表明する。 「爆発するの、嫌だったんじゃねえのかな、あいつ。だって爆発したら、何もなくなっちまうじゃねえか。あいつは嫌だったんだよ。爆発してさ、人を殺しちまうのがさ。だから根性出して、黙って眠り続けたんだよ」 戦後70年がたち、今この日本では、戦争に関する意見の表明がやかましい。セミの鳴き声よりも大きな声で、「お前はどっちの立場なのだ?」と繰り返し叫ばれ続けている。だけど、そういったアジテーションなんかよりもずっと素直に、ピョン吉の言葉は心に響く。 ピョン吉の意見は、幼稚で子どもじみているかもしれない。だが少なくとも、不発弾の思いをこれほど率直に代弁することは、ピョン吉にしかできない。それは、考え続けること、あるいは想像力を駆使し続けることの大切さを伝えている。僕たちの住むこの世界には、たくさんの存在があり、それぞれの思いがある。『ど根性ガエル』はフィクションという舞台において、そういったゆるやかな、あるいは豊かな考え方があり得るという尊さを、無視することなく伝えようとしているのだ。 日常と非日常は常に地続きだ。『ど根性ガエル』という作品がそうであるように、僕たちが生きる世界もそのようにして目の前にある。今回の第6話において、不発弾処理のために人がいなくなったいつもの日常の場面、京子ちゃんの団地であり、ゴリラパンの工場であり、中学校であり、宝すしは、そこに人がいないというワンカットで不気味さを伝えている。それは決して大仰なメッセージではないが、視聴者の心に何かを残す場面だろう。 この連載で何度も言及しているように、『ど根性ガエル』は日常の素晴らしさを伝えるドラマ作品である。だけどそれは、決して能天気に非戦を訴えているというわけではない。どんな出来事が起きたとしても、人間はその状況で楽しむことができるはずだという、不断の実践の可能性をこの作品は示唆している。 不発弾処理により避難区域が設定され、主要登場人物がひろしの家に集まる場面で、つい楽しくはしゃいでしまうひろしの母ちゃん(薬師丸ひろ子)は「ちょっと不謹慎でしたかね、こういうの」と、自分自身に対して疑問を投げかける。それを聞いた京子ちゃんのおばあちゃんは、こう言ってくれる。 「楽しいことに変えちゃうのは、素敵なことよ」 人は、案外しぶとい。それこそが「ど根性」という言葉に象徴される、私たちの目指すべき生き方のひとつなのではないか。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
登場人物はなぜ、誰もが魅力的なのか?『ど根性ガエル』第5話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第5話のテーマは「ないものねだり」である。いつものように始まる朝食の場面。主人公のひろし(松山ケンイチ)は家の外で遊ぶ子どもたちの声を聞き、今が夏休みであることに気付く。当時を思い出してひろしは、毎日のようにクワガタを採りに行っていたあのころ、クワガタが採れなくても楽しかった日々を思い出している。クワガタを採る、という行為そのものが「ないものねだり」の象徴にもなっているが、その懐かしい日々をうらやむひろしの心もまた「ないものねだり」だといえるだろう。 そして今日もひろしを含め、暇な大人たちが集まってくる。いつものように、よし子先生(白羽ゆり)へのプロポーズに失敗する梅さん(光石研)。ヒロイン、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)は、こんな言葉をぽつりとつぶやく。 「自分が手に入らないものを欲しがるようにできてるのよ、人間は。それを片思いって言うのね。人間はみな、何かに片思いをしてるの。それが、生きてるってこと」 その代表的な存在だといえるのが、ひろしだ。今回の第5話では会社の設立記念日ということで、ゴリラパンの一日社長になる。だが、そこでのひろしの行動は常に受け身だ。自分から何かをやろうとか、始めようとか、そういった展開にはならない。大口の注文を受けるというエピソードは確かにあるのだが、それにしたって会社にかかってきた電話をたまたま取ったというだけであり、しかもそのことによって取引先からだまされることになるのだが、それを解決するのはひろし自身ではなく、ゴリライモ(新井浩文)である。 一般的にドラマというものは、主人公の変化や成長を描くものだとされている。だが『ど根性ガエル』のひろしは、決してそういった主人公ではない。常に迷っている。自分が何を欲しがっているのかがわからないため、成長のしようがない。それではなぜ、ひろしは『ど根性ガエル』という物語の中心にいるのか? それは、自分以外の登場人物の隠された魅力を伝えるためだ。ひろしは自分で何か行動を起こすわけではないが、ないものねだりの代表的存在であるということは自他ともに認めている。それが、他者に影響を与えるのだ。 例えば、警察官の五郎(勝地涼)にとってのないものねだりは、社会的なルールを破ることである。横断歩道ではない道を渡ってはいけない。だが、ひろしの存在を想起することにより、道の向こうを歩いている老婆がスイカを落としてしまった際、自ら定めた規範を破って道を渡る。 あるいはゴリライモが一日社長という会社の行事を作ったのは、いつも社長でいることに疲れるからだ、という本心を自ら吐露する。京子ちゃん(前田敦子)もまた、自分が何を欲しがっているのかがわからない、と本音を語る。これは、ひろしが自らのないものねだりっぷりをアピールし、そうやって生きているということからの影響である。ひろしという人物の存在が、ほかの登場人物の隠された本音を発露させる。その結果、人物には多面性が生まれ、だからこそひろし以外のキャラクターは魅力的なものとなっていく。 京子ちゃんのおばあちゃんは、ないものねだりのことを「片思い」という言葉で表現するが、往々にして「片思い」とは心の奥にしまっているものだ。あまり大声で人に言うものではない。だが、ひろしはそうではなく、自分がないものねだりであることも、あるいは、例えば具体的には京子ちゃんと結婚したいという片思いの気持ちも、そのまま口にする。その姿に影響を受けることによって、ほかの人物の本心が露になっていくのだ。 それは『ど根性ガエル』という作品が持つ、本質的な構造だといえるだろう。『ど根性ガエル』はしばしば映画『男はつらいよ』に例えて語られるが、それはひろしのキャラクター造形が寅さんと似ているという目に見える理由だけではなく、主人公が成長や変化をしないことによってほかの登場人物が成長や変化をしていく、という物語としての構造が似ているからだ。 『ど根性ガエル』の登場人物に限らず、人はさまざまな理由や事情で自分の本音を隠して生きるものだ。しかし、ひろしの存在によって、隠していた自分の本音を自覚する。それが伝えるのは、結局、人は誰だって魅力的である、という当たり前の真理だ。第5話の終盤で、ピョン吉(声:満島ひかり)は叫ぶ。 「生きてるだけでいいだろってことだい! ひろし、根性で生きようぜ! 生きてるだけで楽しいだろ? 答え探してんのが楽しいだろ!」 主人公の変化や成長でドラマとしてのカタルシスを生むのではなく、『ど根性ガエル』は今を生きている人々、それは作品の登場人物だけではなく視聴者である我々に対してもだが、今を生きている人々の本質的な魅力を見つめる。『ど根性ガエル』という作品は、我々の暮らしと離れて独立しているのではない。むしろ我々の暮らしに寄り添い、我々はちゃんと魅力的な存在なのだ、ということを伝えてくれる作品なのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
ひろしはなぜ“いい話”になるのを嫌がるのか?『ど根性ガエル』第4話
『ど根性ガエル』の第4話のストーリーの主軸となるのは、花火大会だ。ヒロイン・京子ちゃん(前田敦子)に一緒に行こうと声をかけてフラれる主人公のひろし(松山ケンイチ)、というお約束の展開もあるが、この花火大会はひろしにとって意味がある。子どもの頃、まだ記憶もないうちに父を亡くしたひろし。いつも頭にかけているサングラスは、父の形見らしい。幼いひろしにそのサングラスを渡した母ちゃん(薬師丸ひろ子)は、こう声をかける。 「ずっとつけてな、これを。いいかい。今日は花火大会だ。空の上から、父ちゃん見てんだよ」 ひろしがつけているサングラスは、亡き父から見つけてもらうためのものだったということがここで明かされる。とても“いい話”だ。さらにいうと、親の死というのはひろしに限ったことではなく、主要な登場人物である京子ちゃん、ゴリライモ(新井浩文)、五郎(勝地涼)もそれぞれ親を亡くしている。だからこの第4話は、全員にとって“いい話”になっていい。感動して、誰もが涙するような“いい話”にすることはたやすいだろう。 だがひろしは、ストーリーがそういった“いい話”になることを拒絶する。京子ちゃん、ゴリライモ、五郎が集まってひろしの父の話をしんみりとしているときにも乱入して、その空気を壊す。ひろしがピョン吉に言うには、こうらしい。 「どうせ、五郎のやつが俺の父ちゃんの話でもしたんだろ? 苦手なんだよ、そういう“いい話”の人、みたいになるのはよ」 これはひろしのキャラクターでもあるが、同時に『ど根性ガエル』の全体を通じるテーマ、あるいはルールでもある。『ど根性ガエル』は、“いい話”になることを決して好まない。むやみに感動的になるのを避けているフシさえある。なぜかといえば『ど根性ガエル』が描くのは、伝えたいのは、特別な感動的な場面ではなく、むしろ日常そのものだからだ。 花火大会が雨で中止になったときの母ちゃんの言葉が、それを示している。 「雨なら雨で、あーあ、って空を見上げるだろ? それでいいんだよ。花火も、なーんにもない空でも、上向くのは大事なことなんだよ」 感動的な場面で感動的な言葉が出てくるというのは、当たり前だ。ドラマである以上、そういった力学が働く。だが、『ど根性ガエル』は、そこに対して抗う。『ど根性ガエル』は、日常の素晴らしさを伝える。それはつまり、望まない出来事が起きたときでも視点を変えて見れば新たな発見が生まれる、という人間の底力、いわばど根性の力を、描くということでもある。 たとえ花火が上がらなくても、空はある。そこに何を見いだすかは人それぞれだ。それは“いい話”ではなかったとしても、誰にとっても普遍的な真実である。特別な出来事が起こらなかったとしても、あるいはいま起きていることが望ましくはなかったとしても、人は豊かに生きることができる。母ちゃんの言葉は、それを示しているのだ。 第4話のキーマンとなるのは、かつてゴリライモの手先として憎らしい存在であった、モグラ(柄本時生)である。いってしまえば、サブキャラ中のサブキャラだ。だが彼は、中学のときに転校し、自らを土に埋まるモグラではなく空を飛び回るトンビとして名乗った。今は結婚し、3人の子どもに恵まれ、そして花火職人として町にやって来る。 『ど根性ガエル』は日常の素晴らしさを描く作品として、きっちりと彼の人生を想起させるような描き方をしている。サブキャラだからといって、便利な使い方をするわけではない。彼の人生もまた『ど根性ガエル』の一部なのであり、ちゃんと彼の居場所を用意する。 かつてモグラだったトンビは、雨がやんだとき、親方に頼んで花火を上げる。その花火を見て、町中の誰もが笑顔になる。サブキャラだからといって、何もできないわけではない。むしろ、サブキャラである彼が自分の行動によって人々を幸せにするからこそ、視聴者の心に何かが残る。自分がどんな人間であろうと、どんな環境にいようと、今いる場所でできることをやると決めさえすれば、世界はもうちょっとだけ素敵なものになったりするのだ。 『ど根性ガエル』の第4話は、花火大会という特殊なシチュエーションを用意しながらも、決して特別な“いい話”ではない。日常に当たり前のようにあるべき出来事や、言葉ばかりで構成されている。派手なストーリーではない。号泣するような出来事は起こらない。だが、日常の素晴らしさをうっかり忘れがちな今という時代に、この作品はある。テレビという日常において、日常の素晴らしさを描く。それが、『ど根性ガエル』という作品なのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)








