ドラマ『ど根性ガエル』は全10話の作品であり、当然ながら第10話が最終回となる。そして『ど根性ガエル』が最終回のテーマに選んだのは、終わることについてだ。前回ピョン吉(声・満島ひかり)と別れてしまったひろし(松山ケンイチ)は、口ではそう言わないが、少しずつ大人になろうと努力している。母ちゃん(薬師丸ひろ子)に起こされる前に起きたり、ご飯をよそってもらったときに感謝を述べるなど、その変化は小さいがここまで一切変わることのなかったひろしにとっては大きいものだ。 こういった最終回の形というのも、当然あり得るし、むしろ自然なものだと言っていいだろう。主人公が唯一無二の仲間と去って、自分だけの人生を歩き始める。それはきっと「いい話」になるはずだ。だが我々の愛するひろしは「いい話」が何より苦手な男だった。「でもやっぱおかしい」と気付き、不満を口にする。 「なんで俺が大人になるためにピョン吉がいなくなんなきゃいけねえんだよ。ピョン吉は俺のために生きてたっていうのか? そりゃ失礼ってもんだ、ピョン吉っていう生き物に対してよ」 このひろしの面倒くささが『ど根性ガエル』の最終回を特殊なものにする。面倒くささ。あるいは、ひろしは嫌がるかもしれないが、優しさと言ってもいい。ピョン吉に限らず、ひろしは、というか『ど根性ガエル』は、ある人物がドラマを進めるためだけに配置されることを許さない。全ての人物はその人生を生きていて、役割はそのあとについてくる。誰もが自分の人生を選び取ることを許されているというのが『ど根性ガエル』の世界だからだ。 「つまんねえだろうが、このまま終わりなんてよ」 ひろしのこの言葉が、『ど根性ガエル』の最終回に、一人の新たな登場人物を産む。それはひろしとよく似た男(松山ケンイチ/二役)だ。言わばもう一人のひろしが町に現れ、いくつかの事件を起こし、そして結果として彼が黄色いアマガエルの上に倒れ込むことで、ピョン吉が復活する。 ひろしとよく似た男、ひろし2号(とピョン吉が呼んでいる)は、外見だけでなく境遇もひろしとよく似ている。ただ一つだけひろしと違うのは、ピョン吉と出会わなかったという点だ。だからどこか弱々しく、ひろしのように無駄な自信や空元気は持ち合わせていない。ピョン吉と出会うことがなかったため、ど根性を持っていないもう一人のひろしを叱りつけるのは、ヒロインの京子ちゃん(前田敦子)だ。 「あんたにね。いや、今の時代に足りないのは、ど根性だよ! 分かったか!」 京子ちゃんのこの台詞でも分かるように、ひろし2号が何を象徴しているかは明らかだ。彼はただの、ひろしによく似た男ではない。我々視聴者を象徴し、具現化した存在がひろし2号だ。我々はひろし2号という登場人物の体を借りて『ど根性ガエル』の世界へと迷い込んでいる。 『ど根性ガエル』とは、カエルがシャツの中で生きるという現実にはあり得ない設定の物語だ。だから、ひろしだけが成長するという結末では、実は我々視聴者にとっては、なんの解決にもなっていない。「結局、俺たちにはピョン吉がいないから」と、よその話になってしまう。だから我々を代表したひろし2号が語られなくてはならない。ピョン吉と出会うことのなかった我々視聴者をも、『ど根性ガエル』は強引にその物語の中に引きずり込むのだ。 ひろしの母ちゃんは、自分をいらない存在だと考えてしまっているひろし2号に「生まれてきたんだから、生きてていいんだよ」と告げる。そしてその上で、こう諭してくれる。 「自分でお話を終わりにするようなこと、考えちゃダメなんだよ」 自分でお話を終わりにするというのは、つまり自己の中で何かを完結させてしまうということだ。それは「ど根性」という考え方から最も遠い行為である。居心地は確かに良いかもしれない。余計な干渉や衝突もない。だがその生き方は、少なくとも、面白くはない。終わってしまったら、面白くないのだ。だから、多少強引でも、一般的なルールに抗うことになっても、一歩はみ出してみる。自分でお話を勝手に終わらせないために。そういった決意そのものが「ど根性」と呼ばれるものだ。 そして『ど根性ガエル』の最終回もまた、お話を終わりにしない。ひろし2号は自分の元いた場所に帰っていく。これまでよりもちょっとだけバカになって。「バカになれたなら、もう大丈夫だね」という台詞が、彼の、つまりは我々視聴者の、未来を保証している。ドラマ『ど根性ガエル』が一旦の最終回を迎えたとしても、ひろし2号は生き続ける。もちろん我々視聴者も。『ど根性ガエル』が教えてくれた愛おしさや、優しさや、だらしなさや、その全てを胸の中に入れて我々は我々の生活に戻っていく。そうして我々の生活は、終わることなく、新しい始まりを続けていくのだ。 ドラマ『ど根性ガエル』は全10話をもって最終回を迎えた。それでもなお、まだ何も終わってはいない。我々視聴者の心の中に『ど根性ガエル』がある限り、『ど根性ガエル』は終わらない。バトンは我々に渡された。「ど根性」を日々の生活でくらわせるのは、今度はぼくらの番だ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日本テレビ『ど根性ガエル』
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なぜこの9人と一匹は、これほどまでに愛おしいのか?『ど根性ガエル』第9話
『ど根性ガエル』もいよいよ第9話となり、最終回も間近だ。主人公のひろし(松山ケンイチ)をはじめとする登場人物の9人、そしてピョン吉(声:満島ひかり)という一匹の平面ガエルとの別れも近い。この『ど根性ガエル』は、第1話からピョン吉との別れを想起させる形で描かれているが、視聴者である我々はピョン吉だけではなく彼ら9人と一匹、全員と別れざるを得ないわけで、当たり前の話ではあるが連続ドラマというフォーマットは寂しいものだ。作品が愛すべきものであればあるほど、その別れの寂しさは強くなる。 本連載ではこれまで主にひろしとピョン吉について語ってきたわけだが、『ど根性ガエル』という作品は、いわゆる主人公である彼らだけではなく、すべての人物に対して惜しみない愛を与えて描く。9人と一匹。ひろし、ゴリライモ(新井浩文)、五郎(勝地涼)、ひろしの母ちゃん(薬師丸ひろ子)、京子ちゃん(前田敦子)、よし子先生(白羽ゆり)、梅さん(光石研)、町田校長(でんでん)、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)、そしてピョン吉。この中の誰一人と誰一匹欠けても成立しない世界として『ど根性ガエル』は描かれている。 ではなぜ『ど根性ガエル』の登場人物はみな愛おしいのだろうか? それは、ドラマの作中で描かれていない部分がしっかりと描かれているからだ。少しわかりづらい言い方になってしまったが、たとえば『ど根性ガエル』の第9話では、こんな場面がある。 ピョン吉のために何かしてあげたいと思ったひろしは、自らの発案で「ピョン吉パン」という新商品を作る。そのことを、宝寿司で店番をしている町田校長と京子ちゃんのおばあちゃんに告げる場面だ。町田校長は、実はピョン吉のシャツを着ているのだが、ひろしはそれに気付かず、ピョン吉に対する本心をこっそり吐露するのだった。人生の先輩である2人に対して「いやもう俺はね、大変なのよ。ダメじゃないのにダメなフリしたりね。大人なのにガキのフリしたりね」と冗談めかしながらも、ひろしは言う。 「悲しいこともつらいことも全部一緒。どっちか一人じゃダメなんだよ。ひろし&ピョン吉だからな」 このセリフの奥の深さが『ど根性ガエル』の真骨頂だといえる。ドラマ『ど根性ガエル』は、原作マンガの16年後を描いた作品だ。この奇抜な設定にしっかりとした背骨を与えるために、『ど根性ガエル』がやらなくてはならないこととは何か。それは、描かれていない16年間を描くことだ。原作マンガの世界から今までに、何が起こり、彼らはどう過ごしていたのか。『ど根性ガエル』はその難問から逃げず、真摯に向き合っている。 上記の「悲しいこともつらいことも全部一緒」というたった一言が、16年分のひろしとピョン吉を描いている。16年間もたてば、いろいろある。悲しいこともつらいことも。それらを全部ピョン吉と一緒に過ごしてきたという自覚がひろしにはあり、だからこのセリフが生まれている。これが、ドラマの作中で描かれていない部分をしっかりと描くということだ。そしてこういった心遣いがすべての登場人物に対してなされるからこそ、『ど根性ガエル』の9人と一匹はこれほどまでに愛おしい。 第9話、福男を決めるレースの直前。ひろしとゴリライモと五郎がライバルとしてやり合っている。ひろしの母ちゃんと京子ちゃんの間でも、密かに女同士の戦いが始まっているようだ。よし子先生の靴はスタート早々脱げてしまうが、肝心の梅さんは事前の練習中に骨折していて役には立たない。町田校長は老体に鞭打ってスターターを務め上げ、京子ちゃんのおばあちゃんはうれしそうにシンバルを叩く。誰一人欠けてはいない。誰一人欠けてはならない。そしてピョン吉は、笑っている。 見事レースに優勝し、翌朝目覚めたひろしは、シャツからピョン吉がいなくなっていることに気付く。町中探しまわって家に帰ったひろしは、ピョン吉が去ったそのシャツを着て母ちゃんに言う。「飯にしようぜ、母ちゃん」と。 祭りには、いつものみんなが集まっている。誰もがピョン吉の不在に気付いているが、そのことを口にはしない。「おうゴリライモ、ゴリライモだね、相変わらずお前さんは」「よう京子ちゃん、相変わらずかわいいね」とはしゃぐひろしに、ゴリライモが声をかける。 「お前、相変わらずひろしだな」 このセリフにもまた、16年分が詰まっている。あるいはそれよりずっと昔から、幼いころからひろしを見てきたゴリライモの思いが「相変わらず」というたったひとつの言葉に込められている。言葉にしなくたってわかってしまう。そして、そのときドラマの登場人物は、我々視聴者と同じ地平に立つ、生きた人間としてそこにいる。彼らが声を上げて神輿をかつぐとき、誰を想っているのかがわかってしまう。だからこそこの9人と一匹はこれほどまでに愛おしく、そしてだからこそ、別れはこれほどまでに寂しいのだ。 次回、『ど根性ガエル』は最終回を迎える。待ち遠しいと思うと同時に、その日が来なければよいのにと思ってしまうのは、おそらく筆者だけではないだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa日本テレビ『ど根性ガエル』
このドラマにとって“仲間”とは何を指すのか? 『ど根性ガエル』第8話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第8話は、ゴリライモが出馬した区議会議員選挙の投開票の一日を追った話だ。といってもゴリライモだけに焦点を当てているわけではない。全ての登場人物に対して敬意を持って描き、作り手の意図を前には出さず、しっかりとその人物を見つめる『ど根性ガエル』だけあって、ゴリライモに関わる全ての人物が有機的に絡み合う、愛おしい時間がそこにはあった。 冒頭からゴリライモがひろしに、当選したらヒロインの京子ちゃんにプロポーズすることを告げる。「お前にだけは先に宣言しておこうと思ってな」というゴリライモの台詞が憎い。ひろしとピョン吉はゴリライモの応援のために集会で漫才を披露するのだが、いちいち京子ちゃんの表情を確認するひろしは嫌になるくらいに人間的で、ぐっと心を掴まれる。 投票の際も、ゴリライモに一票を投じるのか悩むひろし。仲間であるゴリライモには当選してほしいが京子ちゃんと結婚されるのも悔しいのだ。夜になって、みんなが集まる選挙事務所にも行かずに独り家でいじけているひろし。そこへ迎えに来るのはやはり五郎だ。五郎は「いじけてる先輩を連れて行くのは自分の役目」と言い、ひろしを選挙事務所へ連れて行く。 そう、誰もが、誰かのために行動している。そう書いてしまうと少し恥ずかしく思えてしまうが、これまでの『ど根性ガエル』が描いてきた登場人物の個々のキャラクターが魅力的なだけに、その行動が一切偽善的に見えない。こいつだったらこうするだろう、と思えるようなこれまでの人物造形があるから、決して説教くさい話にならない。これは連続ドラマというフォーマットならではの、そして『ど根性ガエル』ならではの美しさだと言えるだろう。 そして選挙事務所についたひろしは、自身の提案により、ゴリライモにピョン吉のシャツを着させる。 「根性出るだろ? 弱気の虫はこいつが追っ払ってくれるからよ」 実はゴリライモがピョン吉を着るのは、このときが人生で初めての経験だということも明かされる。小学生時代、こっそり羨ましいと思っていたゴリライモの回想もあり、ひろしがゴリライモのために、ゴリライモのことを思ってピョン吉を着させるという意味もより深くなる。 結果、わずか一票差でゴリライモは当選。ひろしが自分の気持ちよりもゴリライモの当選を願った一票が、当選を決めた。誰かのために、という思いが結末を変える。この、誰かのために、という思いは「選挙」であり「政治」の本質そのものであって、ゴリライモを応援した誰もが喜んでいる。そしてゴリライモは、誰かのために、という思いを知っているからこそ、良い政治家になるだろうということも示唆される。 今回、仲間というものを描いた『ど根性ガエル』はこのままハッピーエンドに向かおうとするのだが、ここで終わらないのがまた『ど根性ガエル』だ。そこへ着いていけていない人物が、実は一人いる。ヒロインの京子ちゃんだ。彼女は涙を流しながら、本心を吐露する。 「女とかじゃなくて、人として、もっとちゃんとして生きたいの。人として、仲間に入れてよ。お願い。お願いします」 確かに京子ちゃんは、ひろしにとってもゴリライモにとっても、片思いの対象ではあるが、実はそれだけの存在でしかないと言えばそうかもしれない。いや、実際には勿論ひろしにとってもゴリライモにとってもそれだけの存在のはずはないのだけれど、京子ちゃん自身はそう思ってしまっている。人としての仲間には、入れていないと。 ここに『ど根性ガエル』が、仲間というものをどう捉えているかが描かれている。ただ単純に一緒にいれば仲間というわけではない。そして、目的を同じくして行動しているという状態でさえも、おそらく仲間ではない。自分を一人の個人として見てもらうこと。そういった個人として存在することを許されるということ。それが仲間なのだ。 これまでこの連載で描いてきたように、『ど根性ガエル』は人々の多様性を是とする。そうであるならば、目的や行動も違っていて良い。だがそれでも、仲間であることは出来る。むしろその人、個人の多様性や個性、あるいは面倒くささも全て含めて引き受けるというのが、仲間になるということであり、それはおそらくどんな場面でも許されているのだろう。 ひろしは京子ちゃんにこう告げる。 「決まってんじゃないですか。人として仲間なんて、当たり前じゃないですか。何があったってね、仲間は仲間ですよ。死ぬまでね、いや、死んだって仲間だよ」 そばにいるから仲間なのではない。仲間でいることを決めるからこそ、人は仲間になる。そしてそれはきっと、本当は誰にだって出来ることなのだ。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
『ど根性ガエル』第6話は、8月15日に戦争をどう描いたか?
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第6話の放送日は、8月15日だった。日本人にとっては特別な夏の日付である。そして『ど根性ガエル』でも、少しだけ特別な事件が起こる。主人公、ひろし(松山ケンイチ)たちが住む町で、先の大戦で落とされた不発弾が発見されるのだった。こうしてこの作品は、戦後70年という節目の夏に放送されるドラマ作品として、戦争を描くことになる。 これは別段唐突なことではなく、『ど根性ガエル』のプロデューサー・河野英裕と脚本家・岡田恵和は、2013年1月クールのドラマ『泣くな、はらちゃん』で虚構の世界を生きる登場人物に現実の世界の悲惨さや鮮烈さを伝える場面において、かつての戦争や東日本大震災の映像を流したこともある。この手法には視聴者からの賛否両論が集まり、DVD化の際にも修正が加わったそうだが、『ど根性ガエル』にもそういった作り手としての矜持は息づいているし、より洗練された形で現代社会をドラマの中に組み込んだといえるだろう。 ドラマに限らず、テレビというメディアで作られる作品は、常に今と向き合うことを強いられる。本来は、そういったものだ。これほどまでに記録メディアが発達し、インターネットの普及によってワンクリックで動画が見られる時代である。すでに存在する数多くの素晴らしい映画作品を見るよりも、いま放送されているテレビドラマを見るという行動を選んだ視聴者に対して、テレビは今を語らなくてはならない。少なくとも『ど根性ガエル』の作り手は、そういった信念を持ってこの作品を作っているのだろう。 ピョン吉(声:満島ひかり)は、不発弾というのはなんなのかを知らない。作品の主要登場人物の中で唯一、リアルタイムで戦争を知っている人物である、ヒロイン・京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)から爆弾や戦争の話を聞いたピョン吉は、こんな言葉を口にする。 「死んじまうじゃねえか、そんなやつが落ちてきたら。おそろしい野郎だな。おいら許せねえよ」 ここで重要なのは、ピョン吉が批判しているのは爆弾を落とした軍隊でもなく、あるいは戦争に突き進んだ国家でもなく、あくまでも爆弾そのものに対して「おそろしい野郎」と言っている点だ。ピョン吉は人間ではない。人間とは違う世界で生きている。だから爆弾を落とした、もしくは爆弾を作った人間を責めるのではなく、爆弾そのものを自らが共感すべき対象として批判することができるのだ。 そしてまたピョン吉は、この町で70年間も眠り続けた不発弾に対して、こんな気持ちを表明する。 「爆発するの、嫌だったんじゃねえのかな、あいつ。だって爆発したら、何もなくなっちまうじゃねえか。あいつは嫌だったんだよ。爆発してさ、人を殺しちまうのがさ。だから根性出して、黙って眠り続けたんだよ」 戦後70年がたち、今この日本では、戦争に関する意見の表明がやかましい。セミの鳴き声よりも大きな声で、「お前はどっちの立場なのだ?」と繰り返し叫ばれ続けている。だけど、そういったアジテーションなんかよりもずっと素直に、ピョン吉の言葉は心に響く。 ピョン吉の意見は、幼稚で子どもじみているかもしれない。だが少なくとも、不発弾の思いをこれほど率直に代弁することは、ピョン吉にしかできない。それは、考え続けること、あるいは想像力を駆使し続けることの大切さを伝えている。僕たちの住むこの世界には、たくさんの存在があり、それぞれの思いがある。『ど根性ガエル』はフィクションという舞台において、そういったゆるやかな、あるいは豊かな考え方があり得るという尊さを、無視することなく伝えようとしているのだ。 日常と非日常は常に地続きだ。『ど根性ガエル』という作品がそうであるように、僕たちが生きる世界もそのようにして目の前にある。今回の第6話において、不発弾処理のために人がいなくなったいつもの日常の場面、京子ちゃんの団地であり、ゴリラパンの工場であり、中学校であり、宝すしは、そこに人がいないというワンカットで不気味さを伝えている。それは決して大仰なメッセージではないが、視聴者の心に何かを残す場面だろう。 この連載で何度も言及しているように、『ど根性ガエル』は日常の素晴らしさを伝えるドラマ作品である。だけどそれは、決して能天気に非戦を訴えているというわけではない。どんな出来事が起きたとしても、人間はその状況で楽しむことができるはずだという、不断の実践の可能性をこの作品は示唆している。 不発弾処理により避難区域が設定され、主要登場人物がひろしの家に集まる場面で、つい楽しくはしゃいでしまうひろしの母ちゃん(薬師丸ひろ子)は「ちょっと不謹慎でしたかね、こういうの」と、自分自身に対して疑問を投げかける。それを聞いた京子ちゃんのおばあちゃんは、こう言ってくれる。 「楽しいことに変えちゃうのは、素敵なことよ」 人は、案外しぶとい。それこそが「ど根性」という言葉に象徴される、私たちの目指すべき生き方のひとつなのではないか。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
登場人物はなぜ、誰もが魅力的なのか?『ど根性ガエル』第5話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第5話のテーマは「ないものねだり」である。いつものように始まる朝食の場面。主人公のひろし(松山ケンイチ)は家の外で遊ぶ子どもたちの声を聞き、今が夏休みであることに気付く。当時を思い出してひろしは、毎日のようにクワガタを採りに行っていたあのころ、クワガタが採れなくても楽しかった日々を思い出している。クワガタを採る、という行為そのものが「ないものねだり」の象徴にもなっているが、その懐かしい日々をうらやむひろしの心もまた「ないものねだり」だといえるだろう。 そして今日もひろしを含め、暇な大人たちが集まってくる。いつものように、よし子先生(白羽ゆり)へのプロポーズに失敗する梅さん(光石研)。ヒロイン、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)は、こんな言葉をぽつりとつぶやく。 「自分が手に入らないものを欲しがるようにできてるのよ、人間は。それを片思いって言うのね。人間はみな、何かに片思いをしてるの。それが、生きてるってこと」 その代表的な存在だといえるのが、ひろしだ。今回の第5話では会社の設立記念日ということで、ゴリラパンの一日社長になる。だが、そこでのひろしの行動は常に受け身だ。自分から何かをやろうとか、始めようとか、そういった展開にはならない。大口の注文を受けるというエピソードは確かにあるのだが、それにしたって会社にかかってきた電話をたまたま取ったというだけであり、しかもそのことによって取引先からだまされることになるのだが、それを解決するのはひろし自身ではなく、ゴリライモ(新井浩文)である。 一般的にドラマというものは、主人公の変化や成長を描くものだとされている。だが『ど根性ガエル』のひろしは、決してそういった主人公ではない。常に迷っている。自分が何を欲しがっているのかがわからないため、成長のしようがない。それではなぜ、ひろしは『ど根性ガエル』という物語の中心にいるのか? それは、自分以外の登場人物の隠された魅力を伝えるためだ。ひろしは自分で何か行動を起こすわけではないが、ないものねだりの代表的存在であるということは自他ともに認めている。それが、他者に影響を与えるのだ。 例えば、警察官の五郎(勝地涼)にとってのないものねだりは、社会的なルールを破ることである。横断歩道ではない道を渡ってはいけない。だが、ひろしの存在を想起することにより、道の向こうを歩いている老婆がスイカを落としてしまった際、自ら定めた規範を破って道を渡る。 あるいはゴリライモが一日社長という会社の行事を作ったのは、いつも社長でいることに疲れるからだ、という本心を自ら吐露する。京子ちゃん(前田敦子)もまた、自分が何を欲しがっているのかがわからない、と本音を語る。これは、ひろしが自らのないものねだりっぷりをアピールし、そうやって生きているということからの影響である。ひろしという人物の存在が、ほかの登場人物の隠された本音を発露させる。その結果、人物には多面性が生まれ、だからこそひろし以外のキャラクターは魅力的なものとなっていく。 京子ちゃんのおばあちゃんは、ないものねだりのことを「片思い」という言葉で表現するが、往々にして「片思い」とは心の奥にしまっているものだ。あまり大声で人に言うものではない。だが、ひろしはそうではなく、自分がないものねだりであることも、あるいは、例えば具体的には京子ちゃんと結婚したいという片思いの気持ちも、そのまま口にする。その姿に影響を受けることによって、ほかの人物の本心が露になっていくのだ。 それは『ど根性ガエル』という作品が持つ、本質的な構造だといえるだろう。『ど根性ガエル』はしばしば映画『男はつらいよ』に例えて語られるが、それはひろしのキャラクター造形が寅さんと似ているという目に見える理由だけではなく、主人公が成長や変化をしないことによってほかの登場人物が成長や変化をしていく、という物語としての構造が似ているからだ。 『ど根性ガエル』の登場人物に限らず、人はさまざまな理由や事情で自分の本音を隠して生きるものだ。しかし、ひろしの存在によって、隠していた自分の本音を自覚する。それが伝えるのは、結局、人は誰だって魅力的である、という当たり前の真理だ。第5話の終盤で、ピョン吉(声:満島ひかり)は叫ぶ。 「生きてるだけでいいだろってことだい! ひろし、根性で生きようぜ! 生きてるだけで楽しいだろ? 答え探してんのが楽しいだろ!」 主人公の変化や成長でドラマとしてのカタルシスを生むのではなく、『ど根性ガエル』は今を生きている人々、それは作品の登場人物だけではなく視聴者である我々に対してもだが、今を生きている人々の本質的な魅力を見つめる。『ど根性ガエル』という作品は、我々の暮らしと離れて独立しているのではない。むしろ我々の暮らしに寄り添い、我々はちゃんと魅力的な存在なのだ、ということを伝えてくれる作品なのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
ひろしはなぜ“いい話”になるのを嫌がるのか?『ど根性ガエル』第4話
『ど根性ガエル』の第4話のストーリーの主軸となるのは、花火大会だ。ヒロイン・京子ちゃん(前田敦子)に一緒に行こうと声をかけてフラれる主人公のひろし(松山ケンイチ)、というお約束の展開もあるが、この花火大会はひろしにとって意味がある。子どもの頃、まだ記憶もないうちに父を亡くしたひろし。いつも頭にかけているサングラスは、父の形見らしい。幼いひろしにそのサングラスを渡した母ちゃん(薬師丸ひろ子)は、こう声をかける。 「ずっとつけてな、これを。いいかい。今日は花火大会だ。空の上から、父ちゃん見てんだよ」 ひろしがつけているサングラスは、亡き父から見つけてもらうためのものだったということがここで明かされる。とても“いい話”だ。さらにいうと、親の死というのはひろしに限ったことではなく、主要な登場人物である京子ちゃん、ゴリライモ(新井浩文)、五郎(勝地涼)もそれぞれ親を亡くしている。だからこの第4話は、全員にとって“いい話”になっていい。感動して、誰もが涙するような“いい話”にすることはたやすいだろう。 だがひろしは、ストーリーがそういった“いい話”になることを拒絶する。京子ちゃん、ゴリライモ、五郎が集まってひろしの父の話をしんみりとしているときにも乱入して、その空気を壊す。ひろしがピョン吉に言うには、こうらしい。 「どうせ、五郎のやつが俺の父ちゃんの話でもしたんだろ? 苦手なんだよ、そういう“いい話”の人、みたいになるのはよ」 これはひろしのキャラクターでもあるが、同時に『ど根性ガエル』の全体を通じるテーマ、あるいはルールでもある。『ど根性ガエル』は、“いい話”になることを決して好まない。むやみに感動的になるのを避けているフシさえある。なぜかといえば『ど根性ガエル』が描くのは、伝えたいのは、特別な感動的な場面ではなく、むしろ日常そのものだからだ。 花火大会が雨で中止になったときの母ちゃんの言葉が、それを示している。 「雨なら雨で、あーあ、って空を見上げるだろ? それでいいんだよ。花火も、なーんにもない空でも、上向くのは大事なことなんだよ」 感動的な場面で感動的な言葉が出てくるというのは、当たり前だ。ドラマである以上、そういった力学が働く。だが、『ど根性ガエル』は、そこに対して抗う。『ど根性ガエル』は、日常の素晴らしさを伝える。それはつまり、望まない出来事が起きたときでも視点を変えて見れば新たな発見が生まれる、という人間の底力、いわばど根性の力を、描くということでもある。 たとえ花火が上がらなくても、空はある。そこに何を見いだすかは人それぞれだ。それは“いい話”ではなかったとしても、誰にとっても普遍的な真実である。特別な出来事が起こらなかったとしても、あるいはいま起きていることが望ましくはなかったとしても、人は豊かに生きることができる。母ちゃんの言葉は、それを示しているのだ。 第4話のキーマンとなるのは、かつてゴリライモの手先として憎らしい存在であった、モグラ(柄本時生)である。いってしまえば、サブキャラ中のサブキャラだ。だが彼は、中学のときに転校し、自らを土に埋まるモグラではなく空を飛び回るトンビとして名乗った。今は結婚し、3人の子どもに恵まれ、そして花火職人として町にやって来る。 『ど根性ガエル』は日常の素晴らしさを描く作品として、きっちりと彼の人生を想起させるような描き方をしている。サブキャラだからといって、便利な使い方をするわけではない。彼の人生もまた『ど根性ガエル』の一部なのであり、ちゃんと彼の居場所を用意する。 かつてモグラだったトンビは、雨がやんだとき、親方に頼んで花火を上げる。その花火を見て、町中の誰もが笑顔になる。サブキャラだからといって、何もできないわけではない。むしろ、サブキャラである彼が自分の行動によって人々を幸せにするからこそ、視聴者の心に何かが残る。自分がどんな人間であろうと、どんな環境にいようと、今いる場所でできることをやると決めさえすれば、世界はもうちょっとだけ素敵なものになったりするのだ。 『ど根性ガエル』の第4話は、花火大会という特殊なシチュエーションを用意しながらも、決して特別な“いい話”ではない。日常に当たり前のようにあるべき出来事や、言葉ばかりで構成されている。派手なストーリーではない。号泣するような出来事は起こらない。だが、日常の素晴らしさをうっかり忘れがちな今という時代に、この作品はある。テレビという日常において、日常の素晴らしさを描く。それが、『ど根性ガエル』という作品なのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
ひろしはなぜ、主人公としてめんどくさいのか?『ど根性ガエル』第3話
多くのテレビドラマにおいて、というかすべてのジャンルのフィクションにおいて、主人公とは視聴者と視線を同一にする。あるいは、少なくとも視聴者から共感を呼ぶような形で描かれる。例外はあるが、それが基本的なルールだ。しかし『ど根性ガエル』の主人公・ひろし(松山ケンイチ)は、そうではない。視聴者が時にイライラしてしまうほどだらしなく、頼りなく、期待通りに成長してくれない。 たとえば第3話。前回、あれだけ大見得を切って終世のライバル・ゴリライモ(新井浩文)が経営するパン屋に就職すると言ったひろしだが、初の出勤日を迎えても母ちゃん(薬師丸ひろ子)から起こされて「え、仕事? あぁ、そうかぁ」とすっかり忘れている始末であり、働いて何か欲しいものでもないのかと水を向けられても「あったら、もっと前に働いてるだろ」と開き直る。いいからとっとと働けよ、30過ぎて何やってるんだ、と腹を立てる視聴者も少なくないだろう。 ひろしは、主人公として実にめんどくさい。視聴者が望むような成長や変化をしてくれない。なぜか。それは彼が、これまでの過去と現状に十分満足しているからである。母ちゃんから夢を訊かれたひろしは、こう答える。 「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉と、いつまでもよ」 そうである以上、ひろしは主人公ではあるが、取り立てて成長や変化を願っているわけではない。だがしかし、30歳だ。それに何より、お前は主人公ではないのか。そういった視聴者のいら立ちを、ヒロインである京子ちゃん(前田敦子)は、ひろしの母ちゃんとの会話の中でこう指摘する。 「子どもの頃から変わってないはずなんですけどね。でも大人になると、駄目なとこが目立っちゃうのかな」 そう、ひろしは変わっていない。子どものままでいただけだ。変わってしまったのは周りの環境である。このことに対してのひろしの、心の奥底にあるであろういら立ちが『ど根性ガエル』というドラマを特殊なものにしている。 第3話では、ここに至るまでのゴリライモの成長と変化が明かされる。かつては親の商売であるパン屋という商売をバカにしていたが、今は改心して、恩返しのために日本一のパン屋を作ろうとしている。仕事も挨拶もちゃんとしていて、従業員思いでもあり、すっかり大人だ。ひろしが変わらずにいる間に、ゴリライモはいつの間にか成長と進化を遂げていたのだ。 通常のドラマであれば、このゴリライモの成長と変化をきっかけとして、主人公が変わることを決意する。実際、ひろしはその夜、自宅で粘土を使い、パンを作る練習をする。この際、ピョン吉(声:満島ひかり)が力を貸そうかと提案するのだが、ひろしはそれは反則だと言い、自分の力だけで変わろうとしているのだ。そして練習のかいあって、翌日の仕事はうまくいき、評価もされる。 いい感じじゃないか。これでこそ、ドラマというやつだ。しかし『ど根性ガエル』が特殊なのは、ここにカタルシスを置かないという点にある。同僚に褒められたひろしは、喜ぶ顔ひとつ見せずに「俺は、なんのために頑張ってんだ?」と自問するのだった。実に、めんどくさい主人公である。 これは冒頭にも書いた通り、ひろしがこれまでの過去と現状に十分満足しているからというのもあるが、もうひとつの個性として、一般的な常識をそのまま受け入れずに自分で導いた答えしか信用しないというキャラクターにも依る。つまりひろしは、子どもなのだ。大人ならこうするべき、という考え方が通用しない。 ピョン吉がこっそりセッティングした就職祝いの席でも、ひろしはいら立ちを隠さない。寄せ書きに書かれた「頑張れ」「おめでとう」という文字を見て心底嫌そうな顔をする。「そんなに素晴らしいかね、働くってのは」と身もフタもないことを言い、ピョン吉ともケンカになる。ここにはひろしのピョン吉に対する、勝手に大人になりやがって、という怒りもあるだろう。 ひろしは子どもである。年齢を重ねたら働くべきだとか、労働は無条件で価値のあるものである、といった一般常識を信じない。ゴリライモの言葉には心を打たれたとしても、それはゴリライモ自身が導いた答えであり、ひろしの答えではない。 そしてひろしは、自分の職場にピョン吉を連れていくという選択をする。『ど根性ガエル』第3話におけるこの流れは、一般的なテレビドラマとはまるっきり逆だ。普通であれば、ピョン吉から離れて独りで頑張るひろし、という展開がカタルシスを呼ぶわけだが、『ど根性ガエル』はそれが逆転している。それはひろしが「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉といつまでもよ」と語った以上、ほかのドラマとは逆転していたとしても『ど根性ガエル』にとっては必然でもある。ひろしはめんどくさい主人公なのであり、だからこそ彼が導き出す答えは、特殊なものとなる。 だが、『ど根性ガエル』という作品に全体として流れる切なさは、まさにこの部分にある。ピョン吉の死と別れは第1話から想起されていて、ひろしの「このまんま平穏無事に暮らしていくこと」という願いはおそらくかなうことはない。そしてそのことを、いまだひろしは知らないのだ。ピョン吉は働いているひろしを励まして「楽しいんだよ。母ちゃん、オイラ楽しい」と涙を流す。その涙の本当の意味を、我々視聴者は知っている。だからこそ『ど根性ガエル』は作り物の感動ではなく、リアルに胸に迫るものとして、見る者の心を打つのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
ドラマの登場人物が“自立”するとはどういうことか?『ど根性ガエル』第2話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 ドラマ『ど根性ガエル』の第2話は、主人公・ひろし(松山ケンイチ)の朝食の場面から始まる。前回威勢のいいことを言っていたにもかかわらず、相変わらずの無気力ぶりを発揮し、ダラダラと無駄飯を食べようとするひろしに、母ちゃん(薬師丸ひろ子)は説教。朝食を食べさせてもらえないことに怒ったひろしは、家を出てしまう。 ひろし、30歳である。さすがに母親が朝食を食べさせてくれないからといって、家出するような年齢じゃないだろう。もうちょっとしっかりしたらどうなんだ。視聴者のそんな声を代弁するように、道ですれ違ったヒロイン・京子ちゃん(前田敦子)はひろしを叱る。 「あんたの年で『家出』って言わないでしょうが」 「(それは『家出』ではなく)自立」 この場面はひろしのダメさを笑うシーンでもあるが、同時にこの第2話のテーマの核心も突いている。『ど根性ガエル』の第2話とは、主人公・ひろしが“自立”を決意する物語だ。 それでは、“自立”とはなんだろうか? 少なくともドラマという物語においては、他者や環境による要請からではなく、あくまでも自らの意思で行動を決めるというのが“自立”だ。最終的に、この第2話でひろしは終世のライバルであるゴリライモが経営するパン屋で働くことを決意するのだが、そこまでの描き方を非常に丁寧にやってくれるのが『ど根性ガエル』である。 先述した京子ちゃんとの会話の中で、ひろしは「働いたら結婚してくれんのか!?」と問いかける。ひろしの目的は、京子ちゃんとの結婚だ。そしてこういった条件がそろっている以上、ひろしを早く働かせたくなるのが制作者の心情だろう。この会話をきっかけとして、早々にひろしがゴリライモ(新井浩文)のパン屋で働くことを決める、という展開も十分あり得たはずだ。 だが、『ど根性ガエル』はそうしない。もし、ここでひろしが働くことを決めてしまえば、その動機はひろし自身のものではない。京子ちゃんとの結婚のために働く、というのは、あくまでも他者からの要請である。それでは、ひろしは“自立”することができないのだ。ひろしの行動や決意は、ひろし自身が見つけたものでなければ、本当の“自立”にはならない。 そこでひろしは、ゴリライモの移動販売車を拝借して、旅に出る。ここで旅の目的は、特に明かされない。最終的には、朝食の場面を伏線として、「うまい米を食べたかったから」という理由が明らかになるのだが、その目的はむしろ後付けに近い。ひろし自身、自分の行動や決意がどんなものになるのかがわかっていないのだから、ただ彼は車を走らせる。着いたのは、福島県の田んぼであった。 そこでひろしは農家を営む老夫婦と出会い、農作業の手伝いをすることになる。米という「日常」の象徴に、手間ひまがかかっていることに、ひそかに感銘を受けるひろし。またこの場面で農家の老夫婦からは、米だけでなくパンだってそうじゃないか、というサジェスチョンを受ける。ここでひろしは「日常」の意味に気付くのだ。直接は描かれていないが、この老夫婦によるパンについての語りがあるからこそ、最終的にひろしがライバルのゴリライモの下で働くことを決意するという展開が自然なものとなる。こうして、ひろしは“自立”する。それは、こんなセリフで表現されている。 「根性出すってことは、かっこ悪いことをちゃんとやるってことなのかもな」 かっこ悪いことというのは、つまり「日常」にほかならない。「日常」をちゃんと生きるということが、ひろし自身が見つけた動機であり、その動機を自分自身で見つけたからこそ、ひろしはこのとき“自立”したのだといえる。 そして『ど根性ガエル』は、その大原則として「日常」の意味を描く作品である。主人公のひろしだけではない。ひろしが旅に出たために、主要登場人物のほぼ全員が、ゴリライモの工場に泊まり込むことになる。面倒なことだ。しかし、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)は、この状況に際して「なんだか楽しそう」と口にする。そして彼らは、寿司屋の梅さん(光石研)が握った寿司をみんなで食べるのだが、その光景は確かに楽しそうなのだ。 我々が住む「日常」は楽しいことばかりではない。面倒なこと、しんどい場面だってたくさんある。それでも「なんだか楽しそう」と口にできるのが、人間のしぶとさだ。言ってみれば、それがすなわちど根性というものでもあるだろう。常識やルールに縛られたり、誰かの幸せをうらやむのではなく、今ここにある「日常」を楽しめるということ。『ど根性ガエル』は、軽いタッチでその真理を描く。むしろ軽いタッチだからこそ、その真理は視聴者の胸に素直に届くのだ。 また、この第2話では、そういった真理の対比として、ゴリライモが配置されている点も素晴らしい。ゴリライモはひろしをバカにしながらもうらやんで「お前(ひろし)に勝つのが好きなんだよ、俺は」や「なんで俺はあいつ(ひろし)に勝てねえのかなあ」と口にする。経営者として成功を収めているゴリライモだが、ひろしという他者に勝つということを大目標としている以上、彼もまたある意味で“自立”できてはいないのだった。 第3話では、ゴリライモが懸命に働く理由が明らかになるようだ。彼がどのようにして、ひろしという呪縛から逃れて“自立”することができるのか。ただの悪役でなく、愛すべき男だからこそ、興味は尽きない。またひとつ、『ど根性ガエル』を見逃せない理由が増えてしまった。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
『ど根性ガエル』実写ドラマ化、日本テレビの“真の目的”は大量グッズ売りだった!
7月11日よりスタートした松山ケンイチ主演の連続ドラマ『ど根性ガエル』(日本テレビ系)の初回視聴率が初回13.1%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録した。 主人公・ひろしを松山が演じているほか、ピョン吉の声は満島ひかりが担当。母親役で薬師丸ひろ子、ガキ大将ゴリライモ役で新井浩文、ヒロイン京子ちゃん役で元AKB48の前田敦子らが出演しているが、名作アニメの実写化だけに賛否両論が飛び交っている。 ただ、日テレが今回ドラマ化したのは「関連グッズの大量販売」が目的だという話がある。実際、放送前の番組宣伝があった5月ごろから、関連グッズを求める視聴者の問い合わせが殺到。日テレは、用意周到に関連グッズを大量販売した。 公式ショップや通販で売り出されているのは、カエルのピョン吉が印刷されたおなじみTシャツが、スマホをかざすと反応する仕掛け付きで2,700円。そのほか、クリアフォルダ(300円)、ノート(450円)、ポーチ(1,200円)、ピンバッジ(600円)、そしてサウンドトラックCD(2,500円)など。中でもTシャツは大ヒットで、即日完売。次回は7月下旬の発送となるなど、局内からはうれしい悲鳴が上がっている。 皮肉なことに、ドラマが放送開始されてからは中国製のノーライセンス偽造品を売る業者が大量にネット販売しており、こちらのほうが在庫はしっかりある状況。ただ、購入者からは「偽造品は何度か洗濯しただけでヨレヨレになる」と不評の声も上がっている。 いずれにせよ、「このグッズフィーバーこそがドラマ化の狙い」と話す前出の日テレ関係者によると「テレビ朝日がドラえもんを自社キャラクター化させて、毎年かなりの収益を上げている。できればウチも、このピョン吉を定着させたい。ドラマの評判が良ければ、シーズン2もしくは映画版もやりたいところ」という。 作品は、1970年代に吉沢やすみが「週刊少年ジャンプ」(集英社)に掲載していたコミックがアニメ化でも大ヒット。主人公の少年ヒロシのTシャツの中で生きる不思議なカエル、ピョン吉が人気となっている。 テレビ局のイメージキャラクターでは、NHKがどーもくんを大ヒットさせたが、ほかの局が制作したオリジナルのキャラクターはあまり振るわず、テレ朝のドラえもんやフジテレビのガチャピンとムックのような番組内キャラをヒットさせるケースのほうが手堅いところ。日テレはジブリの宮崎駿による「なんだろう」がヒットせず、「ダベア」という名前の熊をモチーフとしたキャラも知名度はさっぱり。ピョン吉頼みとなるのも理解できる話だ。 ただ局内からは「キャラ売りならアニメをやればいいのに、実写化では子どもたちの人気を当て込めない」と、今回のグッズセールスが一時的なものに終わるというネガティブ予想も聞かれる。今後、安定した数字のキープを願うのはドラマ関係者のみならず、グッズセールスを維持したい商品事業部も同じのようだ。 (文=ハイセーヤスダ)『ど根性ガエル』(日本テレビ)より
『ど根性ガエル』原作モノの連続ドラマが、第1話で描くべきこととは
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 言うまでもないことだが、テレビドラマには2種類ある。すでに小説やマンガなどで原作が存在しているものと、そうではないオリジナル作品だ。昨今のテレビドラマでは前者が優勢であり、2015年7月クール作品でも『花咲舞が黙ってない』『デスノート』『婚活刑事』(日本テレビ系)や『エイジハラスメント』(テレビ朝日系)などなど、原作のドラマ化作品は数多い。 そして、日本テレビの土曜夜9時枠でスタートした『ど根性ガエル』もその一つだ。オリジナル作品ではなく、原作をドラマ化するメリットはいくつか存在する。すでに作品としての面白さがある程度保証されていることや、それゆえに企画が通りやすいということ、あるいは放送前からの話題性というメリットも大きいだろう。だがその分、デメリットもあり、特に原作のファンが多い場合は、そのドラマの内容次第では多くの否定的意見が寄せられることになる。 それでは、本作『ど根性ガエル』はテレビドラマ化に当たって、原作をうまく料理することに成功しているのかどうか? 結論からいえば、完全に成功している。プロデューサーの河野英裕と脚本家の岡田恵和は、2013年の『泣くな、はらちゃん』(日本テレビ系)でファンタジーの世界から人間ドラマを描いた名コンビ。さらに、主演の松山ケンイチとは09年の『銭ゲバ』(同)で、1970年に描かれたジョージ秋山作品を見事に現代ドラマへと昇華させた。そして『ど根性ガエル』はこの系譜にありながら、さらにドラマとしての進化を遂げた作品になるだろう。 その理由は、7月11日に放送された第1話ですでに明らかになっている。そもそも、原作モノの連続ドラマがその第1話で描くべきことは何か? 最も重要なのは、以下の2点だといえる。 (1)原作のどの部分をドラマの根底に置くのか? (2)原作をドラマ化するに当たって変化している点はどこか? 原作をドラマ化するということは、当然ジャンルを越えることになる。小説やマンガで描かれたことをそのまま実写のドラマにするというのは不可能であるし、またそれではドラマにする意味がない。原作がいかに面白いものだったとしても、テレビドラマならではのプラスαがなければ、わざわざドラマにしなくてもいいのだから。 そこで必要となるのが、上記の(1)と(2)だ。これは第1話から最終話まで通底するものではあるが、第1話においてそれが視聴者に示される必要がある。それが示されることによって、視聴者は次回へ、あるいは最終話へ向けて、見たいという欲望をかき立てられるのだ。 『ど根性ガエル』では、第1話の冒頭で(1)が示される。橋の上で釣りをしている主人公・ひろし。原作とは違って、すでに30歳である。そこで、風にあおられた子どもの帽子が川に落ちてしまう。ピョン吉の勝手な行動により、川の中に飛び込むことになるひろしは、溺れながらも帽子を手に取り、子どもに返してあげるのだった。 この短いシークエンスで、『ど根性ガエル』における(1)はすでに示されている。このドラマ作品はつまり、原作の「バディもの」の要素を根底に置いている作品だ。ひろしは、自分の意志では川に落ちない。だが、川に落ちてもピョン吉は自分の力では帽子を拾うことができない。どちらが欠けても成立しないひろしとピョン吉の「バディもの」であることがここで視聴者に示されている。 だから、この『ど根性ガエル』の主人公は、あくまでもひろし一人ではなく、ひろしとピョン吉の二人(正確には一人と一匹)である。「バディもの」の通例として、おそらくこれからはお互いに助け合いながらそれぞれが成長していく姿が描かれるはずだ。このようにして、このドラマはこういうお話だというのを真っ先に描くというのが、テレビドラマの作法である。ただ単純に、原作をなぞるような場面を描くのではない。あくまでも、テレビドラマとしての作り手の矜持がここにはある。 さらに『ど根性ガエル』は、(2)をも第1話で示す。原作はあくまでも変わらない日常生活を切り取ったギャグマンガなのだが、それをそのままテレビドラマにするわけではない。これは実写のテレビドラマだ。そこには物語が必要となる。だから、原作にはなかった要素を入れなくてはならない。 それが、ピョン吉との別れの想起だ。第1話の中盤で、ピョン吉がすでにシャツから剥がれかけていることが明らかになる。視聴者以外、ひろしの母親だけがそれを知っているという設定にすることでドラマを重層化・多面化しながら、このドラマでは最終的にピョン吉との別れが描かれることを想起させる。これは最終回が決まっているテレビドラマならではの要素であり、かつ、それは絶対に描かれなくてはならない。永遠に続く平和な日常は、マンガではあり得るかもしれないが、テレビドラマではそうはいかないからだ。 ひろしの母親は、こんなセリフを口にする。 「今日あるものがね、明日もあさっても、そのままずーっと先も、変わらずにあると思ったら大間違いなんだよ!」 このセリフこそが『ど根性ガエル』のテーマであり、この作品が視聴者に伝えるべきことだ。このドラマは、単純にファンタジーを描く作品ではない。『銭ゲバ』や『泣くな、はらちゃん』がそうであったように、ファンタジーの世界に視点を起きながら、我々の生きる世界を描く作品になるだろう。 エンディングでは、すでにひろしのシャツにはピョン吉がいない。それは、最終回までにどう描かれていくのか? ドラマ『ど根性ガエル』は真っすぐな「バディもの」であり、それでいて別れがすぐそばにある作品である。原作をただドラマにしてみました、という作品ではない。少なくともこの第1話は、一つとして非の打ちどころがない、完璧な始まりを成し遂げているといっていいだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ









