「待たせたな!」久々に帰ってきた“ザ・王道”朝ドラ『あさが来た』

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NHK連続テレビ小説『あさが来た』
「待たせたな!」  山本耕史演じる新選組副長・土方歳三が、画面に向かって叫んだ時、「待ってました!」と多くのドラマファンが歓喜した。なにしろ、10年余りの時を経て蘇ったのだ。  2004年に放送された三谷幸喜脚本のNHK大河ドラマ『新選組!』で、山本は土方を演じた。この作品はドラマファンの記憶に深く刻み込まれており、放送終了から10年以上たった今でも語り草になっている名作だ。主演の香取慎吾はもちろん、このドラマで一躍知名度を上げた堺雅人や藤原竜也、オダギリジョーといった若い世代の俳優たちが、瑞々しい青春群像劇のような大河ドラマを作り上げた。その中で山本は、ドラマ上でもドラマ外でも、チームのまとめ役としてドラマを引っ張る存在だった。正直、放映開始前は他の主役級のキャストと比べると格落ち感があり、『ひとつ屋根の下』(フジテレビ系)での車いすの内気な弟役のイメージが強く、彼が“鬼の副長”役でホントに大丈夫かという不安が拭えなかった。だが、終わってみれば、山本主演のスピンオフドラマが作られるほど、彼の土方歳三はハマり、愛されたのだ。  その山本演じる土方が、まさかNHK朝ドラで“復活”するなど、思いもよらなかった。朝ドラで初めて江戸時代後期、つまり幕末を舞台にした『あさが来た』ならではのことだ。だが、単に“幕末の京都・大阪が舞台だから、新選組を出してドラマファンにサービスしよう”というだけなら、ファンはそこまで歓喜しない。むしろ、安易に大事なキャラクターを使うな、と反発していただろう。そうならなかったのは、彼の登場に“必然性”があったからだ。  それはまず、“史実”通りという点だ。『あさが来た』は、起業家の広岡浅子をモデルにしたあさ(波瑠)がヒロインの物語である。モデルの浅子は、両替商の加島屋(ドラマでは加野屋)に嫁ぐ。その加島屋で、新選組が金を借りた借用書が土方歳三の署名入りで見つかっているのだ。だから、ドラマで土方が登場するのは必然だ。  だが、それだけでは物語上の必然性はない。“史実にあるから土方を出します”“どうせ出すなら、土方役で人気のある山本耕史にやってもらいましょう。同じNHKだし”というような安易な登場の仕方では、途端に安っぽくなってしまうし、その場面だけが浮いてしまう。  そこで『あさが来た』では、この土方の登場が、物語上大きなターニングポイントになるように脚色したのだ。ヒロインのあさは、自由奔放でおてんば。彼女と結婚した新次郎(玉木宏)から見ると、“子ども”でしかなかった。実際、結婚後も新次郎はあさと夜を共にすることなく、毎夜のように出歩いていた。  そんな時、やって来たのが新選組だ。当時の新選組は、町民にとっては絶対的存在で恐怖の対象だ。問答無用で幕府再興のために金を貸せと迫る新選組に対し、加野屋の面々はおびえながら言う通りにしようとする。  だが、ここであさが、新選組の土方ら猛者たちを前にして問いただすのだ。 「もし幕府に何かあったら、その400両ホンマに返してもらえるんだすやろか?」  新選組が信用できないのか、と刀を構えすごむ隊士に毅然として言う。 「謝れまへん! 刀と信用は真逆のもんだす!」  その姿を見て、新次郎は「あんたは芯のある大人のおなごはんや。惚れてしもうた」と、初めて大人の女性としてあさを意識し、一夜を共にするのだ。こうして物語上にも必然性を持たせたことで、山本演じる土方の登場をただの“サービス”で終わらせず、「待ってました!」と歓喜させる本当の意味でのファンサービスに仕立てたのだ。  思えば『あさが来た』には、この「待ってました!」と感じさせる王道の展開が張り巡らされている。  例えば、おてんばなヒロインと清楚な姉・はつ(宮崎あおい)との対比や、その嫁ぎ先も陽気な新次郎と陰気なはつの旦那・惣兵衛(柄本佑)という対比も、いわばベタな設定だ。ヒロインの明るく元気で前向きな性格も、いわゆる「朝ドラヒロイン」の典型だ。  長い歴史のある朝ドラにとって、ここまで王道だと、逆に冒険だ。マンネリの謗りを受けてしまう。だが、舞台を幕末からスタートさせたことで、そこからうまく逃れ、懐かしさと安心感とともに新鮮味を出すことにも成功している。時代が変わったことで、王道の設定でも、違和感を覚えないのだ。  両替商は「信用が第一」と繰り返し語られる。一方であさは「変わらなければ生き残れない」と言う。『あさが来た』は、そのどちらも否定しない。それはドラマでも同じだ。ベタを丁寧に描くことで信用を手にし、マンネリを避けるために舞台を変えたりする工夫を施すことで新鮮さと必然性を生んでいく。 『あさが来た』は、まさに「待ってました!」と思える、王道朝ドラなのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

フォトブックも発売! テレ東『週刊ニュース新書』の愛猫“にゃーにゃ”の癒やしと怖さ

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テレビ東京『田勢康弘の週刊ニュース新書』より
 11月11日、ついに「にゃーにゃ」のフォトブックが発売されるという。しかも付録として、DVDも付いているそうだ。これまでの成長を振り返るほか、にゃーにゃの1日に密着したものになるらしい。  にゃーにゃとは、『田勢康弘の週刊ニュース新書』(テレビ東京系)に“レギュラー出演”している猫である。お堅い政治番組の中に映るにゃーにゃの愛らしい姿は癒やしであり、にゃーにゃ見たさに、この番組を見ているという人も少なくないはずだ。  実は、にゃーにゃは2代目だ。もともとは「まーご」という猫が番組マスコットを務めていたが、2014年10月10日急逝。その死は、涙ながらに番組で伝えられた。それを受け、まーごの後継者として起用されたのがにゃーにゃだった。  ゴミ箱に棄てられていたところを、東京都環境局職員に保護されたというにゃーにゃは、まーご以上のおてんば猫だ。討論中も自由に駆け回っている。そう、番組中、猫は放し飼い状態になっているのだ。だから、ゲストの政治家がフリップを使って熱弁しているところを平気で横切って邪魔したり、セットとセットの間を飛び移ろうとして失敗して、ゲストに思わず「あっ!」と言わせたり、頭や体をなでられて気持ちよさそうにゴロゴロしたりと、自由気まま。一方で、セットの奥に行ったきり戻ってこず、しっぽしか映らなかったということもあったりする。民主党のゆるキャラ・民主くんが登場した際、怖がって一目散に逃げていく姿は悶絶モノのかわいらしさだった。その予定不調和な存在こそ、見るものを釘付けにさせるのだ。  猫をスタジオで自由にさせるという、この演出のアイデアは、番組ホストの田勢康弘によるものだった。いや、それどころか、田勢が番組を引き受ける際の条件のひとつが、「猫を出す」というものだったというのだ。 『週刊ニュース新書』と田勢は、このにゃーにゃに象徴されるように、とても“自由”だ。基本的には政治や社会問題をテーマにし、政治家や専門家を招いた討論形式のトーク番組だが、にゃーにゃのように番組も自由気まま。10月3日の放送では、テリー伊藤をゲストに招いて「テレビ」をテーマにトーク。その“参考映像”として、テリーがかつてテレ東で演出した『いじわる大挑戦』などの映像が流れた。いまや深夜に流すのも躊躇するような、稲川淳二が人間ゴキブリホイホイと化す「人間ゴキブリ取り器」や、ゆーとぴあがワニに襟巻きをつける「ワニをエリマキトカゲに」、ヨネスケがお尻に生花を挿し、街を歩く「お尻に生花」が、結構な長尺で土曜のお昼に放送されたのだ。  テリーはそこで、テレビがつまらなくなったと言われることについて「コンプライアンスを言い訳にしたくない」と語ったが、まさに『週刊ニュース新書』にもその心意気が見えてくる。なぜか、その回の後半のテーマが、急に「シニア世代の恋愛」になるというのも自由で謎だ。  謎といえば、8月1日の回も強烈なインパクトだった。作曲家の弦哲也をゲストに招き、「名曲でつづる昭和の歌謡史」と題し、作曲家生活の裏話などを聞いていた。そこまでは政治番組としては「え?」というテーマだが、『週刊ニュース新書』としては驚くようなものではない。だが、この回は、それでは終わらなかった。番組の最後に「北の旅人」を歌いだしたのだ。弦が、ではない。歌ったのは、なんと田勢だ!  もちろん、田勢に歌手の経験はない。政治ジャーナリストだ。どんな気持ちで見ればいいのかまったくわからない、シュールな光景だった。番組のエンディングで「きょうのあとがき」と題して、毎回、田勢が好きな俳句や短歌を紹介するというコーナーがあるのも謎だったが、それの究極版と思うしかなかった。 「政治」という堅いテーマに挟まれる、番組とにゃーにゃの自由さ。それこそが『週刊ニュース新書』の肝だ。すなわち、「政治」もまた、日常の延長にあるということだ。政治を大上段に掲げてしまうのではなく、猫や歌といった“生活”に根差したものと同じ地平にあることを示しているのだ。また、にゃーにゃへの接し方で、ゲストへの感じ方が変わっていくのもこの番組の面白さでもあり、怖さでもある。単なる癒やしの存在だけではなく、リトマス紙的な役割にもなっているのだ。  コワモテの政治家が、にゃーにゃをかわいがり、妙ににゃーにゃが懐いていると、自然とその政治家の好感度が上がってしまうし、逆にかわいがろうとしてもにゃーにゃが拒否してどこかに行ってしまうと、なんとなくその人への見方が変わってしまう。そんなことで左右されてはいけないと思いつつ、どうしてもそう感じてしまうのだ。  政治家を政策よりも最後は結局、人間性で選んでしまうというのは、人間の本質であり、サガだ。にゃーにゃは素知らぬ顔で自由に振る舞うことで、その本質を射抜いているのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

もしいま、松本人志が『M-1』に出場したら? 『下がり上がり』に見る、芸人残酷時代

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「売れていない芸人はクズ」  ダウンタウンの松本人志は、若手芸人時代、事あるごとにそう言われたという。だとするなら、いま芸人界はクズであふれている。90年代後半の“ボキャ天”ブーム以降、断続的に続くお笑いブームの結果、芸人が急増し、現在明らかに供給過多になってしまっている。もちろん、才能がない人が世に出られないことは必然だ。だが、才能があるにもかかわらず、くすぶっている若手芸人も少なくない。  そんな若手芸人をゲストに迎え、松本と陣内智則が話を聞くという番組が芸人ドキュメンタリー『下がり上がり』(フジテレビ系)だ。7月3日深夜に第1回が、10月4日深夜に第2回が放送された。番組がスタートしたきっかけは、松本と陣内が約1年前から行っていた“ランチ会”。そこで陣内は毎回、売れていない若手芸人を呼び、松本に紹介していた。それを、そのまま番組にしたのだ。  これまで迎えたゲストは、プー&ムー、トータルテンボス、ソラシド、井下好井。トータルテンボスを除けば、大多数の視聴者にとってはピンとこないメンツだろう。だが、いずれも“知る人ぞ知る”存在。芸人仲間の間では、その才能が認められている者たちばかりだ。ちなみに、そのランチ会の第1回目の“ゲスト”が、ソラシドの本坊元児だったという。  トークでは、やはり若手芸人の過酷な生活状況が話題になる。たとえば、プー&ムー。おたこぷーの「おたこ体操」が福岡でブームになったが、売れたのはおたこぷーだけ。コンビでの活動は休止状態になってしまった。心機一転、上京したが、東京での仕事はほとんどない。芸人としての仕事は月2回の劇場出演のみ。しかも、ギャラは出ないという。  ソラシドも同じようなものだ。先月の給料は272円だという。劇場の出演料が300円、そこから源泉を引かれて270円。それに、DVDの印税が2円入っただけだった。時折、テレビでも名前を聞くようなソラシドでさえ、そのレベルなのだ。  周りの芸人仲間にいくら評価されても、賞は獲れないし、生活もできない。せっかく才能があっても、その夢をあきらめざるを得ない芸人は大勢いる。  おたこも「春までに結果が出なかったら辞めよう」と相方に伝えたという。 「『そんなん言わんと、頑張れよ』って言うのは好きじゃないねん」 と、松本は言う。 「しょうがないもんな。それも、ひとつの自分たちの判断で」  この番組の大きな魅力のひとつに、若手芸人たちの悩みを聞くうちに、松本がこれまでなかなか話さなかった若手時代の苦労話を語っていることが挙げられる。  ダウンタウンは言わずと知れた“天才”。だから、「売れてない」時期などないと思われがちだ。だが、もちろんそんなことはない。短いながらも認められず、腐っていた時期はあった。デビュー当時は、同期のハイヒールやトミーズの後塵を拝していたのだ。 「(コンビで)ギスギスしていた時はあったかな、20歳過ぎの頃かな。『ダウンタウン、すぐ売れるやろ』って言われてたのが、意外とくすぶってたのが2~3年あって、その時は確かにギスギスしてたな。それこそ、(ハイヒール)モモコと歩いてたら『マネジャーさんですか?』って、しょっちゅう言われてたし」  売れていないと、コンビ仲が悪くなる。すると、お互いが理解できないから、ネタもうまくいかない。ますます仲が悪くなるという、悪循環に陥りがちだ。また、相方に面と向かって何か言うのは照れくさかったりする。そんな時、松本はある“秘策”を使っていた。 「取材を受ける時あるやんか。ダウンタウン2人とライターさんの3人でしゃべる時に、俺はライターさんにしゃべると見せかけて、浜田に言ってるわけ。こうしてほしいと。『浜田がこうこうこういうことをしてくれた時が、すごい楽なんですよね』って、したこともないのに言うのよ」  すると浜田は、それを察してその後、松本がこうしてほしいと思っていたことをやるようになったという。    語られる若手芸人たちの葛藤は、彼らに才能があるからこそ地に足がついていて、余計に切ない。それに対し、時に優しく、時に笑いを交えながら厳しく返す松本の言葉はとても重い。また、若手をフォローしつつ、松本の話を広げる陣内の存在が番組で非常に効いている。たとえば、賞が獲れないと悩む芸人に対して松本は、 「競技人口が明らかに増えた。そうなってくると、賞の数に対して芸人の数が多すぎるから、昔みたいにはいかんわな。これからは賞獲ってない子でも、それなりに出てくると思うけど」 と冷静に語る。そんな松本に陣内は 「もし松本さんが若手芸人の立場で、いま『M-1グランプリ』に出たら、昔のダウンタウンさんみたいなネタで勝負しますか?」 と、絶妙な質問をするのだ。 「正直言うと、もう優勝は目指さないな。えげつない印象を残す。それで優勝したら一番ええけど、えげつない印象残す方に命かけるんじゃないかな」  この考え方こそが、「才能があるだけの若手芸人のひとり」から抜け出す道なのではないだろうか。 『下がり上がり』はトークだけでは終わらない。トークがひとしきり終わると、ブザーが鳴る。舞台の“出番”を告げるブザーだ。そう、彼らがトークをしているのは舞台袖の部屋という設定なのだ。部屋の扉を開けると、そこには客が入った舞台がある。つい先ほどまで苦しい胸の内を晒し、涙さえこぼしていた男が、そのまま観客を笑わせるために舞台ヘ駆け上がるのだ。その後ろ姿は、めちゃくちゃカッコいい。 「さっきまで泣いてたヤツが急にはしゃいでネタやるって、やっぱ芸人ってちょっとおかしい」 と、松本は自嘲気味に笑うのだ。  トークも達者だし、キャラクターも良く、もちろんネタも面白い。そんな若手芸人たちの魅力をじっくりと見せてくれるこの番組はとても優しい番組だ。だが、才能あふれる彼らが、必ずしも売れるわけではないというのを、視聴者も本人たちも知っている。だから、それはあまりに残酷で、それゆえ、あまりに魅惑的なのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

なぜ、日本のマンガはこんなにも豊かなのか? Eテレ『浦沢直樹の漫勉』が映すもの

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NHK『浦沢直樹の漫勉』公式サイトより
「マンガ界が騒然となるんじゃないですかね」  浦沢直樹が、そう興奮しながら収録に向かうのが『浦沢直樹の漫勉』(Eテレ)だ。この番組は『YAWARA!』『MONSTER』『20世紀少年』など、数多くのヒット作を世に放った人気マンガ家・浦沢直樹が立ち上げたプロジェクトだ。  マンガ家の原稿執筆現場に密着し、そのペン先を映像に残そうというのだ。企画の着想は、かつて浦沢が見たNHKのドキュメンタリー番組『手塚治虫・創作の秘密』がキッカケだった。マンガの神様・手塚治虫の作品制作の過程を追ったこのドキュメンタリーが、「衝撃的で新鮮」だった。 「世界のマンガファンって、みんな日本人の描き方を見たがってますよね。世界に配信されるような話だと思うんですよね。日本人のマンガ家のペン先って」  だが、マンガ家の現場は繊細な“聖域”だ。そこにカメラが入っていくのは難しい。そこで浦沢は自らが実験体になり、小型無人カメラを使った撮影システムの開発・構築を行っていった。  試行錯誤の末、番組として初めて放送されたのが、2014年11月9日のパイロット版だ。『沈黙の艦隊』『ジパング』などのかわぐちかいじと、『天才柳沢教授の生活』『数寄です!』などの山下和美に密着したこの放送は、文字通り視聴者を“騒然”とさせ、大反響だった。  そして、今年9月から第1シーズンが始まり、これまで東村アキコ、藤田和日郎に密着(いずれも20日に再放送予定)。今後も18日に浅野いにお、25日にさいとう・たかをがラインナップされている。さらに、来年3月から第2シーズンが始まる予定であることも、すでにアナウンスされている。  この番組の大きな魅力のひとつは、「カリッ、カリッ、シュッ!」というペン先の音だ。 真っ白の紙に時に大胆に、時に繊細にペンを走らせ、登場人物が描かれていく光景はとても気持ちがいい。 「元はやっぱり、白い紙だったってこと。マンガ家さんたちが描くことで、その白い紙に世界が現れる」と浦沢が言うように、そのペン先の音は、世界が生まれる音なのだ。  だが、作業現場もさまざま。その音がほとんど聞き取れない現場もある。たとえば、藤田和日郎の現場だ。 「ムクチキンシ(無口禁止)」と描かれたポスターが貼ってある現場で、藤田は終始アシスタントたちと談笑しながらマンガを描いている。作業中は静かな現場が多い中、異質だ。 「同じ業種として見られてるけど、ひとり1業種なんですよ。ひとり1ジャンル」  と浦沢は言う。  その言葉通り、密着した映像を見ると、同じマンガを描いているのに、現場の雰囲気だけではなく、そのやり方も十人十色だということがわかる。ネームや下描きの描き方、使うペンの種類、コマの枠線の引き方、修正液の使い方など、それぞれのマンガ家が、多種多様なやり方で行っている。  浦沢が冒頭で「騒然となる」と言ったのは、藤田の下描きの描き方、いや、描かなさだ。  通常、マンガ家は、原稿用紙にまず鉛筆などで「アタリ」を描く。これは大まかに人物などの位置関係を示し、構図を決めるものだ。そして、それを元に「下描き」を描く。この「下描き」をペンでなぞる「ペン入れ」をすることで、作品を仕上げていくのだ。  だが、藤田は違う。「アタリ」を描いただけで、なんと「下描き」を飛ばして、いきなり「ペン入れ」をしてしまうのだ。そして、そこに何度も何度もホワイト(修正液)を入れることで、線を彫り出すように描いていく。 「あのホワイトは、魔法の道具ですか?」と驚愕しながら尋ねる浦沢に、藤田はサラッと答える。 「魔法の道具っていうか、こっちが筆記具っていう感じです。要するに、ホワイトとペンの両方でペン入れしていくわけです。線を削って成形している感じが、自分は好きなんですよね」 『漫勉』のもうひとつの魅力は、やはり浦沢の存在だ。作業現場に密着しているだけでは、実際にマンガを描いた経験がある人しか、それがいかにすごいか、いかに特別なやり方か、はわからない。そこに浦沢という“解説者”がいるから、それがよくわかるのだ。  また、プロならではの視点で、決して素人では気づかない部分を看破する。たとえば、東村アキコの回。浦沢は「これは心外なのかもしれないですけど」と断った上で、「東村さん、徐々に横山光輝色が強くなっている」と思いもよらないことを言う。これに対し、東村は「初めて言われた」と驚きつつ、答える。 「まさにそう! 私、一番好きな絵かもしれない、最近。『ひまわりっ』の時に(横山光輝の)『三国志』を見て模写してるときに、なんていい絵なんだって、真似したいって思って、そのへんから影響が強くなった。先生、さすがです!」  また密着VTRでは、それぞれの違い同様、共通点も浮き彫りになってくる。それは「目」へのこだわりだ。みんなそれぞれやり方は違うが、「目」をペン入れするときのこだわりの強さだけは共通している。素人目には、ほとんど違いがないんじゃないかと思えるくらい微妙な差を、何度も何度も描き直しながら完成させる。時には、1コマの一人の「目」だけに1時間半以上かけ、ようやく完成したかと思えば、最終的な仕上げの段階になってまた描き直すということもあった。まさに悪戦苦闘。壮絶な現場だ。それだけ、マンガにとって、「目」の表情が大事なのだ。実際、確かに描き直した原稿を並べると、それぞれまったく印象が違うことがわかる。  僕たちは、『浦沢直樹の漫勉』で世界が生まれる瞬間を目撃することができる。だが、マンガ家たちにとっては、自分が長年かけて生み出してきたノウハウをつまびらきにされてしまうことは決して喜ばしいことではないだろう。それを見せるのは、相当な覚悟が必要だ。  ならば、なぜやるのか。  浦沢は「子どもたちや若い世代の人たちが『うわっカッコイイ』とか『すげぇ』って言ってペンを手に取る状況が起きるのが一番いい」と言う。  そう、すべては未来のために。  かつて手塚のドキュメンタリーで衝撃を受けた浦沢が、その感動を次の世代に受け継ごうとしているのだ。 『漫勉』を見ていると、日本のマンガがなぜこんなにも豊かなのか、その秘密がわかったような気がする。正解はひとつではない。多種多様なやり方こそが豊かさを生むのだ。 「合ってるのか、間違っているのか、ペンを入れないとわからない。鉛筆で描いているのはあくまで下描きなんですよ。それでペンを持つじゃないですか。こう描いた瞬間にそれが覚悟の線になる」  やり方は人それぞれ。その「覚悟」だけに、用があるのだ。それは、マンガに限った話ではないはずだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

全員加害者?『エイジハラスメント』で五寸釘をブチ込まれるのは何か

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『エイジハラスメント』(テレビ朝日)より
「部下の価値が全然理解できてないんじゃないですか? ブタに真珠の価値がわからないのと一緒です」 「あなた、誰に口を利いているの?」 「ブタ!」  毎回、会社でさまざまなハラスメントを目の当たりにする新入社員・英美里(武井咲)が「てめえ、五寸釘ブチ込むぞ」とつぶやきながらたんかを切るというのが、『エイジハラスメント』(テレビ朝日系)の“お約束”的な流れだ。痛快である。  だが、ただ「痛快」だけで終わらないのが、内館牧子脚本の真骨頂だ。例えば、熱心な上司がその熱心さゆえに誤解され、人事異動で他部署に“飛ばされる”と、やはり英美里は我慢できず、常務(風間杜夫)に相談へ行く。 「小森課長の左遷、あれは誤解の上で成り立っています。真実はまったく違います。今からどうにかならないでしょうか?」  この常務は、 “裏”の顔(女性を心底小バカにしている)はともかく、“表”では女性や若い人材を積極的に登用すべき、という方針の持ち主。英美里の必死の訴えを聞き入れ、大団円を迎えてもおかしくなかった。だが、このドラマは一筋縄ではいかない。 「企画管理部に行くのが『左遷』って誰が決めたの? 何を根拠に左遷って言ってるの? おこがましいよ、君! 組織というところは、経営方針も何もかも重層的に絡み合って決まる。左遷だの真実など、乙女の感傷で物を言われては困る!」  ぐうの音も出ない正論で英美里を攻め立て、さらにダメ押しをする。 「若い人の言うことは、たいてい浅くて、軽くて、くだらない。だが、それを必死に訴える姿勢は正しい。しかし、若いからなんでも甘く見てもらえると思うなよ。頭、悪すぎるぞ!」  『エイジハラスメント』は、内館が『汚れた舌』(TBS系)以来、約10年ぶりに手がけた連続ドラマである。内館といえば、強く生きる女性を描かせたら右に出るものはいない脚本家。彼女が満を持して描くのは、ハラスメント渦巻く男社会の中でたくましく生きる女性。まさに、内館本人と重なる。しかも、舞台は大企業の総務部。彼女は、脚本家になる前、同じように会社の総務部で働いていたというから、総務が他部署から「なんでも屋」扱いされている上、「楽でいい」などと蔑視される描写に実感がこもっている。  セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、モラスハラスメント、マタニティハラスメント……さまざまなハラスメントを描いているが、最もこのドラマで描かれているのが、タイトル通り、年齢差別「エイジハラスメント」だ。 「若くて美しい」というだけで、自分が望む、望まないにかかわらず、男性社員にチヤホヤされ優遇される。だが、一方でまともな責任のある仕事に就かせてもらえない。また、「若くて美しい」という範囲から外れた同僚の女性たちからの嫉妬で、理不尽な扱いやイジメを受けてしまう。それが、英美里が受けているエイジハラスメントだ。  逆に「年齢を重ねている」というだけで、不当な扱いを受けるのもまたエイジハラスメントだ。男は女を傷つけ、傷つけられた女は、男にチヤホヤされる女を傷つける――。不毛なサイクルが繰り返されていく。  軽口でハラスメント発言を繰り返し、ついには「女子社員はうんと若いか、できるブスがいい」と口を滑らせる「エイハラ、パワハラ、モラハラ、オールハラのデパート」の次長・浅野(吹越満)に対し、いつものように英美里がたんかを切る。 「私たちだって、男子社員は『うんとイケメンか、できるハゲがいい』ですよ!」  見かねて「もう気が済んだでしょ」と諭す女上司に、英美里はさらに続ける。 「気が済む、済まないの問題じゃありません。ハラスメントを嫌がらせという程度で捉えているから、そういう言葉がでてくるんです。ハラスメントは傷害事件です! 心とプライドを傷つける傷害事件です。ハラスメントをやる人は犯罪者です!」  そんな英美里に、ベテラン社員・桂子(麻生祐未)が口を挟む。 「相変わらず偉そうねえ、親分。そうよ、あなたこそエイジハラスメントの親分、犯罪者よ」  桂子は、英美里が「若さ」ゆえに無自覚に周りの女性を傷つけてきたことを白日のもとに晒した上で、五寸釘をブチ込むように断罪する。 「あなたに、ハラスメントで人を糾弾する資格はない!」 「ハラスメント」とは、それまで無意識的、無自覚的に行われ、「ないこと」とされてきた精神的な形なき暴力に名前を与えたものだ。意識的、無意識的にかかわらず、ハラスメントの被害者にも加害者にもなりうる。それどころか、全員が被害者であり、加害者でもある。女の敵は女であり、弱者の敵は弱者だ。だからこそ、たちが悪い。  加害者を糾弾するのは、別の加害者であり、糾弾されるのは別の被害者だったりする。残るのは、ただ被害者意識だけ……。五寸釘をブチ込みたくても、その対象は曖昧模糊としている。  そんな複雑怪奇な現実を、『エイジハラスメント』は「痛快」な勧善懲悪的様式を装いながら、一筋縄でいかせないことで浮かび上がらせているのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

“子どもだまし”では、子どもはだませない! Eテレ法廷教育ドラマ『昔話法廷』が裁くもの

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『昔話法廷』(NHK)
「もー! 認めなさいよ、このババア!」  裁判官が「静粛に!」と制止する中、“被害者”の白雪姫は我慢できずに“被告人”の王妃につかみかかった。検察官から、リンゴ嫌いのはずの王妃のパソコンに「おいしい リンゴ」という検索履歴があったことを指摘されたにもかかわらず、王妃が顔色ひとつ変えず「白雪姫と同じものが好きだなんて、わたくしのプライドが許さない。だから、こっそり取り寄せたの」と釈明したことに激高したのだ。 「そんなの言い逃れよ、そのりんごを私に食べさせたのよ!」と。  これは、『昔話法廷』(NHK Eテレ)の一幕である。王妃の白雪姫に対する殺意は明白であり、犯行時刻のアリバイもないとし、「殺人未遂」の罪で裁判にかけられた王妃。対する弁護側は、凶器のリンゴに王妃の指紋はなく、王妃の犯行の根拠である、被害者が聴いたという「王妃の高笑い」も毒で意識が朦朧とした状態で聴いたもののため信用性に欠け、証拠不十分で無罪を主張している。  『昔話法廷』はこのように、誰もが知る「昔話」を題材にした裁判を描いている。裁判員となった主人公が、両者の主張を聴きながら真相を考える1回15分間の法廷ドラマである。これまで「3匹のこぶた」「カチカチ山」「白雪姫」という3篇の昔話が裁判にかけられた。  何よりすごいのは、画面のインパクトだ。こぶたやウサギ、タヌキなど、リアルな造形の着ぐるみが法廷に並んでいる。その光景はあまりにもシュールだ。かわいらしい動物キャラの造形とは程遠く、その表情や目つきは“獣”的。  「カチカチ山」裁判で被告人となったウサギの何を考えているかわからない鋭い目つきは、タヌキへの報復のため数々の残虐な行為を働いたことと相まって、さながら、サディスティックなサイコキラーの不気味さを思わせる。そんなウサギが「反省してる」「(タヌキが)死ななくてよかった」と情状酌量を求めつつ、「今度バッタリ、タヌキに会ったら?」と問われ、何も答えられず目をそらすさまは、身震いすらしてしまう。  「3匹のこぶた」裁判では、こぶたの三男・トン三郎によるオオカミ殺害が「正当防衛」が認められるかを争っている。言うまでもないが、こぶたのレンガの家に煙突から侵入したオオカミが、煮えたぎる湯が入った鍋に落ち殺された“事件”である。その家主であるトン三郎は、計画的犯行であるとし、「殺人罪」で裁判にかけられている。だが、彼は殺害自体は認めているのもの、あくまでも自分たちを襲ってくるオオカミに対して突発的に行った反撃であるとして、「正当防衛」を主張しているのだ。  証人尋問では、殺されたオオカミの母や、こぶたの長男・トン一郎が出廷。木南晴夏演じる検察は、オオカミの母を尋問し、オオカミのカレンダーに「3時 豚肉パーティ トン三郎の家」と書いてあり、こぶたに招待されていたらしいことや、遺体を発見した家のテーブルに『オオカミのただしいころし方』という本があったという証言を引き出していく。  対して、加藤虎ノ介扮する弁護士は、「豚肉パーティ」と言ってこぶたが呼ぶのは「自分を食べて」と言っているようなもので、考えられない。また、部屋にあった本は『オリガミのたのしいおり方』だったと反論する。  最終弁論で検察は、直前に大鍋を購入している点や、食事時でもないのに大量のお湯を沸かしていた点、そしてオオカミを鍋から出られないようにフタを固定するために使った石はとても1匹で持ち上げられる重さではなく、3匹で協力した上の計画的犯行であることは明らかと結論付ける。一方、弁護側は、裁判員に心情で訴えかける。 「身の危険を犯してまで、オオカミをおびき寄せるでしょうか?」と。  番組では、最終的な判決までは描かない。もちろんそれは、この番組が「教材」であるという理由が大きい。当然、裁判員制度や裁判がどういったものかを子どもたちに教える教材用の映像として、学校等で使われることを想定して作ったものであろう。  また、同時に道徳的な教材にもなっている。「正義」と言われているものは、本当に「正義」なのか。「常識」や「前提」としてきたものは、本当に疑いなく正しいのか。『昔話法廷』は、誰もが知る「昔話」を題材にし、それを別の側面で見ることで、子どもたちに物事を多角的に見る力を養わせる。  何より、『昔話法廷』が「教材」として優れているのは、この番組が「面白い」ということだ。子どもだましでは、子どもはだませない。本格的法廷ドラマとして大人も楽しめように作りこまれているからこそ、子どもたちも前のめりになり、「教材」となり得るのだ。  今回放送された3篇は、8月21日(午後11時25分~11時55分)と28日(午後11時30分~11時45分)に再放送が予定されているので、未見の方はぜひ見てほしいし、続編もまだまだ見たい。 「桃太郎」「かぐや姫」「浦島太郎」「こぶとりじいさん」……。裁くべき正義や常識は、まだまだある。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

てれびのスキマが見た【日本テレビ】と【フジテレビ】──「平成テレビの完成形」と「元祖テレビの王様」の現在地

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第1回第2回はこちらから> 「テレビは終わった」  などと語られる時、その「テレビ」は「フジテレビ」的なものを指すことが多いのではないでしょうか。なぜなら80年代以降、フジテレビこそがテレビの主役であり、象徴であり続けたからです。本当にテレビは、フジテレビは終わってしまったのでしょうか?  視聴率はわずか1%でも、30~40万人が見ているといわれています。インターネットをはじめ、あらゆるエンタテインメント業界で、その人数を集めるのは至難の業です。しかし、テレビにおいては、わずか視聴率1%でそれだけの人が見ている計算になるのです。その影響力は、今もとてつもなく大きいことは間違いありません。  「テレビ裏ガイド」連載100回記念企画の最終回は、フジテレビと日本テレビについて見ていきたいと思います。  82年から12年間にわたり民放の中で「視聴率三冠王」に君臨したフジテレビ。だが今、フジテレビはテレビ凋落の象徴のように見られている。実際、視聴率では日本テレビに大きく水をあけられているどころか、2位の座も明け渡してしまった。  そもそも、視聴率をこんなにも一般的に注目されるものにしたのはフジテレビ自身だった。「視聴率三冠王」を名乗り、自分たちの威光を大々的にプロモーションしたからだ。それまで、三冠王なんて概念はなかったし(もちろん数値上は存在していたが)、一部の看板枠(土曜夜8時など)の視聴率の動向が注目されることはあったが、個別の番組の視聴率なんて一般の視聴者は気にしていなかった。いわば、現在のフジテレビの首を絞めているのは過去のフジテレビなのだ。  今年の『27時間テレビ』は「テレビの時代はもう終わり?…でも俺、本気出しちゃいます」というコピーで「本気」をテーマに行われた。ナインティナインが総合司会を務め、同局の看板番組のひとつである『めちゃ×2イケてるッ!』がベース。場面場面を見れば、見どころのあるシーンは多々あったものの、正直言って、全体を通してみると、その「本気」が空回りしていたり、肩透かしにあった部分のほうが目立っていた。  そのエンディングが行われている時間帯に、日本テレビでは『世界の果てまでイッテQ!』の看板企画のひとつ、イモトアヤコを中心とした「登山部」による「マッキンリー登頂プロジェクト」が放送されていた。もともとの苛酷さに加え、登山は自分たちの力ではどうしようもない天候という障害もある。どんなに「本気」であろうと、ゴールが約束されていない残酷な旅だ。そんな過酷な状況でも、『イッテQ』ではあくまでも「笑い」をベースにした編集で、その偉業を伝えていた。まさに、日テレ式のドキュメントバラエティの最高峰と呼ぶにふさわしいものだった。  フジテレビ全盛だった80年代後半、日テレは民放3位に低迷していた。その突破口を開いたのが『進め!電波少年』や『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』といった日テレ式のドキュメントバラエティだった。そして94~03年の10年間、「視聴率四冠王」の座に君臨、その後も、現在に至るまで日テレは王者であり続けているのだ。  ゴールデンでは愚直にファミリー向けの番組づくりを徹底して行い、『ザ!鉄腕!DASH!!』『イッテQ』『世界まる見え!テレビ特捜部』『踊る!さんま御殿!!』『笑ってコラえて!』『ぐるぐるナインティナイン』『世界一受けたい授業』……と、各曜日に看板番組と呼べる番組を抱えている。さらに深夜帯には『ガキの使いやあらへんで!!』はもとより、『月曜から夜ふかし』『ナカイの窓』『マツコとマツコ』『有吉反省会』など多様な番組をそろえ、お昼も『ヒルナンデス!』『スクール革命!』と、いまや盤石の構えだ。まさに、現在の日本テレビは、平成のテレビ界の完成形のひとつと言っても過言ではない。  そのライバルであるはずのフジテレビは現在、確かに迷走しているように見える。けれど、この状況は、実は70年代後半の頃とそっくりだ。当時、フジテレビは「振り向けば12チャンネル」などと言われ、低迷していた。それを80年代に入って『THE MANZAI』や『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』の成功で覆していったのだ。  『ヨルタモリ』や『久保みねヒャダこじらせナイト』の演出・プロデューサー木月洋介や、『アウト×デラックス』のディレクター鈴木善貴など、若く優秀な人材も活躍し始めている。たとえば『ヨルタモリ』では、無意味なテロップや過剰な煽りなどを徹底的に排している。その上で、スタジオコントである合間のVTRは、かなりマニアック。どの番組の真似でもない、昨今のテレビのつくり方とはまったく違うアプローチだ。『アウト×デラックス』では、これまで「テレビ的」ではないとされていた人たちに光を当て、多くの新たな人材を発掘している。80~90年代のフジテレビはファミリー層を大胆に切り捨て、時代の最先端にいる若者をターゲットの中心に据えた上で、自分たちが時代を先取りし、牽引していた。それまでの大衆のための「テレビ」観とはまったく違う価値観で、新しい「テレビ」観をつくっていったのだ。そのあたりに、再浮上のヒントがあるのではないだろうか?  かつてフジテレビは、どん底からはい上がり、栄華を極めた。ならば再びフジテレビが、そしてテレビが復活を遂げることは、決して絵空事ではないのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

てれびのスキマが見た【TBS】と【テレビ朝日】──「今のテレビではできないこと」と、どう向き合うか

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<第1回はこちらから> 「今のテレビではできない」  これは、よく聞くフレーズです。確かに、コンプライアンス重視の昨今の風潮もあり、簡単にはできないこともあると思います。けれど、「今のテレビではできない」と言いつつ、「過去の名番組」というエクスキューズをつけるだけで、現在の基準では絶対にダメとされる映像も、普通に「懐かし映像」として流れている場面は多々あります。本当に「今のテレビではできない」のならば、その映像すら流してはいけないはずです。そのことからも、「今のテレビではできない」の大半は自粛であり、萎縮、もっと嫌な言い方をすればただの言い訳だといえるでしょう。  「テレビ裏ガイド」連載100回記念の第2回は、「今のテレビではできない」に果敢に立ち向かっているTBSとテレビ朝日を取り上げたいと思います。 ***  「今のテレビではできない」を「そんなはずはない」と言い続けるように、尖った番組を作り続けているのがTBSの藤井健太郎だ。日曜夜8時に悪意の限りを尽くして笑いを生み続けた『クイズ☆タレント名鑑』から、『テベ・コンヒーロ』『キスマイフェイク』、そして現在の『水曜日のダウンタウン』に至るまで、コンプライアンス重視の今のテレビの限界ギリギリを渡り歩いている(実際、番組中謝罪に至った問題も起こしてしまってもいるが)。  例えば今、「素人」へのドッキリは、テレビでは簡単にはできない。リスクが高すぎるからだ。しかし、『水曜日のダウンタウン』では、「本物そっくりの拳銃で脅す」という一昔前でも素人にはやらないような大型ドッキリを仕掛けた。これは「大阪人でも本物そっくりの拳銃でバーンとやられたらさすがに『やられたー』とは言わない」説というバカバカしい説を検証するために行われたのだが、なんと数カ月前に街頭インタビューを実施し、その人のノリの良さや「テレビに出たいか」を確認。その中から選ばれた人に、忘れた頃を見計らってドッキリを仕掛けたのだ。  あるいは、『クイズ☆タレント名鑑』時代のこと。石川県で落とし穴に転落した夫婦が亡くなるという痛ましい事故が起こった。こういう場合、落とし穴で笑いを取るという企画は放送できなくなるのが通例だ。しかし、『タレント名鑑』では、これを「プロ仕様の落とし穴」と丁寧すぎる解説を加えることで笑わせつつ、放送に踏み切った。そのまま放送すれば、クレームが来ることは必至。だから放送しない、という結論にしてしまうのは、作り手として怠慢だ。工夫すればできることはあるはずなのだ。  「今のテレビでは見られない」ような衝撃映像を次々と見せているのは、やはりTBSの『クレイジージャーニー』だ。マンホールの中で覚せい剤らしきものを打つ男、牛の血を限界まで飲み干し、結果それを吐いてしまう民族、無数のペニスを展示している博物館、拳銃を密造している現場、街中で脱糞する少年……。テレビで見たことのない映像が、次々に流れてくる。「テレビでは、もう新しいものは見られない」などとよく言われるが、そんなのはウソだということをまざまざと見せつけてくれるのだ。  TBSはこの『クレイジージャーニー』をはじめとして、現在『有田チルドレン』『世界のどっかにホウチ民』『有吉ジャポン』……と、24時台のバラエティ番組が充実している。その充実っぷりは、一時期、23時台を席巻したテレビ朝日の勢いに似ている。  90年代後半から2000年代にかけて『ナイナイナ』『「ぷっ」すま』『パパパパPUFFY』『ぷらちなロンドンブーツ』『内村プロデュース』『くりぃむナントカ』、そして『アメトーーク!』『マツコ&有吉の怒り新党』などを生み出してきた「ネオバラエティ」枠の勢いだ。  正直いって、かつての勢いは今のテレ朝にはない。その多くが深夜からゴールデンに昇格したことで番組の深度を失い、失速していってしまったからだ。だが、そんな中で、かつて深夜バラエティで元気だった頃のエッセンスを色濃く感じさせる番組が『しくじり先生 俺みたいになるな!!』だ。やはりこの番組も、もともとは深夜に放送されていた番組。それが今年4月からゴールデンに昇格した。  ゴールデンに移動したことで番組の形が変わってしまうことが懸念されたが、今のところそれは杞憂に終わり、数々の名作回を作っている(ただし、2~3時間スペシャルの乱発で、視聴者にとっては視聴習慣が付きづらい状況になってしまっているのはもったいない)。毎回、数十分という長時間にわたって、一人の先生役が授業を行うという形式。視聴者に飽きさせない画変わりが重要視される「今のテレビ」では成功しない、とされていたスタイルだ。特に、ゴールデンでは敬遠される。  しかし、一から「教科書」を作り、それを元に、本当の授業と同じように講義をするというドキュメント性が相まって、毎回熱のこもった放送となっている。 「今のテレビではできない」なんてことはない。工夫をすれば、逆に「テレビでしかできない」ことに変わる。それができた時、「今のテレビではできない」が壮大なフリになって、強烈なインパクトを残すことができるはずなのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

てれびのスキマが見た【NHK】と【テレビ東京】──テレビ局にとっての“らしさ”とは?

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 2012年6月から始まったこの連載「テレビ裏ガイド」。「面白いテレビ番組を真正面から面白いと紹介する」というコンセプトで毎月2~3本のペースで更新し続け、今回でなんと100回目を迎えます!  面白いテレビ番組だけを取り上げているので、よく直接お会いした人から訊かれることがあります。「ネタは尽きないですか?」と。けれど、3年あまり連載してきて、一度もネタで困ったことはありません。もちろん、自分の書き手としての能力的な問題で、この面白さをどう文章で伝えられるのかと、書くのに困ってしまうことは多々ありますが、取り上げる候補が何も思い浮かばないということはこれまで皆無でした。それだけ「テレビは今も面白い!」と、胸を張って言うことができます。  昨今はテレビがつまらなくなったなどといわれますが、僕の実感はまったく異なります。むしろ、2014年以降のテレビは、ここ十数年の間で最も面白いと言っても過言ではありません。  そこで、100回記念企画として、今回から3回に分けて、民放キー局5局とNHKの各局についての現状を私感たっぷりに語っていきたいと思います。 ***  現在最も元気なのは、NHKとテレビ東京だろう。ともにテレビ局としては、ある意味で異端だ。NHKは公共放送であり、スポンサーを獲得する必要がないため視聴率に縛られることはない。一方、テレビ東京は、キー局としては最後発であり、視聴率最下位は当たり前という状況だった。だから、最低限の視聴率獲得目標基準が各局よりもはるかに低いといわれている。過剰に視聴率にとらわれていない両局が好調なのは、皮肉な話であるのと同時に、そこに何かヒントが隠されているのではないか。  ここでキーワードになるのは、「らしさ」だ。いわゆる「NHKらしさ」「テレ東らしさ」である。例えば、テレ東の人気番組『Youは何しに日本へ?』。  この番組は、空港を訪れた外国人(=You)にタイトル通り「Youは何しに日本へ?」と尋ね、その答えが面白い人に密着するという番組である。低予算ゆえ、大物芸能人をそろえることができないという弱点を補うため、テレ東は「素人」参加番組を数多く手がけてきた。また、タイアップがつきやすいという理由もあってか、旅番組も多い。そんな得意分野を組み合わせた、実に「テレ東らしさ」全開の番組だ。この番組の成功で、『家、ついて行ってイイですか?』や『逆向き列車』など派生番組も生まれ、素人密着ドキュメントバラエティとでも呼べる新たなジャンルを確立したといえるだろう。  テレ東の現在の好調の理由を端的に言い表すならば、それは「できないことはやりません」精神だ。これは、同局の看板プロデューサーである佐久間宣行(『ゴッドタン』『ウレロ』シリーズなど)の著書のタイトルだが、できないことを無理にやっても仕方ない。逆に、できることとは何かを考え抜き、工夫して、できることを増やし、それを確実に実行していくということだ。テレ東の予算では、幅広い層が満足するような番組を作るのは難しいかもしれない。だったら、特定の層に向けて作る。そうすれば、視聴層がハッキリしているため、視聴率争いで負けていても、スポンサーはつきやすい。「固定客」ともいえる、熱烈なファンも生みやすいのだ。ド深夜番組のいち企画だった「キス我慢選手権」が2度も映画化された『ゴッドタン』は、その最たるものだろう。  NHKもまた、「NHKらしさ」が色濃く反映される局だ。だが、時にその「NHKらしさ」が足かせになってしまうこともあった。たとえば、昨年3月の中田宏衆院議員による「コント番組批判」だ。あるコント番組を名指しし、「ドタバタ暴れて人の頭を叩いて笑いを取るようなものではなく、地域性や日本の歴史文化をひもとき、若い人が関心を持てるような番組にしてほしい」などと、「NHKらしさ」を盾に批判したのだ。  これに笑いで対抗したのが、現在もシリーズを重ねている『LIFE!~人生に捧げるコント~』だ。座長である内村光良自らがNHKの古株ディレクター・三津谷寛治に扮し、「非常に低俗な雰囲気、これはまずいですね。NHKなんで」「NHKには『日本各地の地域性や、さまざまな歴史や文化をひもとくような番組』を放送する義務がある」「いくら怒ったからといって、人の頭をバコバコ叩くのはやめていただきたい。NHKなんで」などと、明らかに中田議員の発言を下敷きにした注文をしていくというコントを演じたのだ。  現在民放では、定期的に放送されるコント番組はほとんどなくなった。時間的、予算的コストに、視聴率が合わないからだ。しかし、NHKは違う。民放のように、毎分の視聴率にとらわれる必要はない。逆に、民放のように多くの芸人がひな壇に座るバラエティ番組や多くのタレントを使ったゲームのような企画は、NHKの雰囲気には合わない。だが、お笑いを“作品”のように作るコントなら、NHK的な価値観を保持しつつ、思いっきりふざけられるのだ。一見NHKらしくない『LIFE!』のようなコント番組こそ、実は「NHKらしい」お笑い番組の形なのだ。  一方、『ブラタモリ』は、一見して「NHKらしさ」全開の番組である。毎回テーマとなる土地をタモリが歩きながら、その地形などから歴史の痕跡を探るという極めてターゲットの狭い地味な教養番組。しかし、それを行うのがタモリだという一点で、一気にポップになっている。  『ブラタモリ』には、独特な演出が隠されている。それは、タモリのパートナーであるアナウンサーに「勉強するな」という指示がされているのだ。なぜなら、そのほうがタモリが自由にしゃべれるからだ。実際、『ブラタモリ』では、専門家が出す問題を即座にタモリが答え、アナウンサーがまったく理解できないまま置いてけぼりになっている場面がよく見られる。そんな時、タモリは生き生きと解説し始めるのだ。  進行を任されたアナウンサーが、事前の勉強をしない。それは、NHKの番組ではこれまで考えられなかったことだ。しかし、それがタモリの魅力を最大限生かすための演出なのだ。一見NHKらしい『ブラタモリ』は、実はNHKらしからぬ演出によって支えられているのだ。  テレ東は「テレ東らしさ」を追求することで、唯一無二の存在感を発揮している。『LIFE!』は「NHKらしさ」にとらわれなかったことが、結果的に「NHKらしさ」を生んだ。また『ブラタモリ』は「NHKらしい」番組を作っていく中で、「NHKらしさ」から脱却した演出で成功している。  「らしさ」は、決して自分たちを束縛するものではない。より自由になるための道具なのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) 「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから

「タモリ学」「有吉本」が大ヒット! 新進気鋭のテレビっ子ライター・てれびのスキマとは何者なのか

sukima0414.jpg  当サイトの人気連載「テレビ裏ガイド」(http://www.cyzo.com/cat8/tv_ura/)を執筆する、てれびのスキマこと戸部田誠氏が、『タモリ学』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか』(コア新書)の2冊を上梓した。  前者は、イースト・プレスが運営するウェブ文芸誌「マトグロッソ」の不定期連載をまとめたもの。テレビやラジオ、書籍などでのタモリの発言やエピソードを通して、その哲学や魅力を浮かび上がらせている。一方、後者は、浅草キッド・水道橋博士が編集長を務めるメールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」に連載していた「芸人ミステリーズ」を書籍化。有吉をはじめとする8組の芸人を取り上げ、それぞれの“謎”を通して、芸人の苦悩や、それをいかにして乗り越えていったのかを解き明かす。  戸部田氏は、お笑い、格闘技、ドラマなどをこよなく愛する、いわき市在住の“テレビっ子”だ。ブログ「てれびのスキマ」(http://littleboy.hatenablog.com/)が業界内で話題を集め、あれよあれよという間に、雑誌やウェブで多数の連載を抱える人気ライターに。さらに、そこから時を待たずして、立て続けに2冊上梓。ブックファースト渋谷文化村通り店の週間ランキングで2冊同時にトップ10入りするという、鮮烈なデビューを遂げた。  そんな戸部田氏のコラムの魅力について、あるテレビ誌編集者はこう語る。 「ナンシー関さんが亡くなって以降、“ポスト・ナンシー”を気取るコラムニストが増えましたが、“愛情ある辛口”が売りだったナンシーさんに対し、彼らの多くはやみくもに相手を批判する、ただの悪口でしかないケースが目立つ。それに比べ、“テレビっ子”という視点で、ただただその愛情だけでテレビを語る戸部田さんは、今までにいなかった新しいタイプの書き手ですね。“裏”を読み解くのが主流になってしまったテレビ批評界において、彼の文章にはいつも、番組の作り手や出演者への尊敬のまなざしが感じられます」  戸部田氏の作り手に対する尊敬のまなざしは、かつて、われわれが子ども時代に夢中になってテレビを見つめていたまなざしそのものだ。この2冊は、その頃の気持ちで、もう一度、テレビという魔法の箱をのぞいてみるチャンスを与えてくれる良書といえよう。