1989年、女子高生エロスの誕生──雑誌「GORO」がロリコンをとことん変態扱い!

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「GORO」(小学館)1989年11月23日号
 長らく中断しておりました連載「100人にしかわからない本千冊」。このたび、バブルの熱気を再現した著書『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)も無事刊行。  自分では、相当濃厚に記述したつもりなのだが、まだまだ書きたいことはウンとある。というわけで連載第2期は、雑誌・単行本単位ではなく80年代をテーマ別に取り上げる。  その第1回として取り上げたいのは女子高生である。 「ブルセラショップ」や「援助交際」がマスコミに取り上げられて、社会問題になったのは1990年代に入ってから。80年代にもロリコンブームというのはあったけれども、女子高生とか、それよりもさらに下の年齢の女のコと恋愛したいだとか、セックスの欲望を抱くのは、単なるど変態に過ぎなかった。「ロリコンです」と公言したり「女子高生好き」をアピールする輩はは、今以上に変態扱いされたのである。 「GORO」(小学館)1984年7月26日号には「女子高生のぬくもりの残ったセーラー服が販売好調。 買うのは、ナント20代の若者たち」という記事が掲載されているが、内容は完全に変態扱いである。この年まで、すごいエレクチオンで、次々と女をいてこますマンガ『実験人形ダミー・オスカー』が連載されていた「GORO」。そんなマンガを楽しんでいた読者にとってみれば「女子高生ハアハア」は、水準以上に変態に見えたのではなかろうか。  そんな「GORO」が宗旨替えをしたのが、1989年11月23日号。この号において「GORO」は「女子高生マニュアル」というタイトルの大特集を投入する。この特集で特徴的なのは「関東制服ベスト15」と題して、オシャレな制服の学校に通う女子高生たちが、顔出しで登場しまくっていること。これに先行する形で森伸之の『東京女子高制服図鑑』(弓立社)が、最初に刊行されたのは1985年。その頃から数年をかけて「女子高生ハアハア」という意識は熟成されていったのだろう。
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「GORO」1988年2月11号
■国士舘、帝京、東京国際、大東文化は素人童貞で大学生活が終わる  でも、世の男性たちが女子高生へと対象年齢を下げた根本的な原因はなんだろう。ひとつ考えられるのは、女子大生を相手にすることの困難さである。80年代を通じてブームとなった女子大生は、同年代の若者からオッサンまでが愛おしみ、必死で口説く巨大なカテゴリーであった。  けれども、そこには困難さが存在した。少なくとも、オッサンならばカネを持っていなければモテない。80年代後半、急速に普及したクレジットカードだが、ある程度の年であれば年会費の高いゴールドカードを持っていなければ、まずステージにも上がれないという具合。そう、なにかと曖昧な現代と違い、バブル時代には女のコと仲良くなる必須条件は明確だった。  ならば、若者はどうだったか。女子大生が相手にするのは、だいたいが同年代の学生たち。そこで見られるのは通っている学校名にほかならなかった。件の「GORO」1988年2月11号では「これが噂の女子大生算出版 ウラ偏差値リストだッ」という記事を掲載している。  ここでは、とにかく受験を突破して大学デビューを目指したい男子への、極めて残酷な見出しが……。 「大学で決まるSEXの相手」  ようは、どこそこの大学の男子学生は、おおよそ、このあたりの女子大生と付き合うという相関関係があるということ。東大や一橋、都立大に通っていれば、お茶大や東女(とんじょ)あたりの女子大生と。立教・上智・青学あたりは、学内でそれぞれ相手を見つけているという具合。でも、この記事はその先の残酷な真実をも知らせる。たいてい女子大生と付き合えるのは日東駒専あたりまで。それよりも下のランクの国士舘、帝京、東京国際、大東文化では、女子大生には、まったく相手にしてもらえないという事実を突きつけるのだ。  彼女ができる確率は限りなくゼロに近く、寂しい学生生活になること必至だが、コンパのあと先輩にソープに連れていかれるので、童貞喪失だけはできる。  つまり、80年代後半のバブルの空気の中で、日東駒専以下の男子学生たちは、最初から女子大生には相手にもしてもらえない、アウトカーストになっていたのである。  何しろ、学内に希少な女のコがいたとしても、そいつらは、こぞって日東駒専以上の男子と付き合っているもの。学力面では同等だとしても、まったく相手にはされなかったというわけか。  すなわち、女子高生とは世の寂しい男性にとってのフロンティアであったという具合。それが21世紀のJKビジネスへとつながっていくとは、誰が想像しただろうか。 (文=昼間たかし)
1985-1991 東京バブルの正体 (MM新書) あの頃はスゴかった amazon_associate_logo.jpg

文学は悪女とビッチと売春婦でできている──『萌える名作文学 ヒロイン・コレクション』

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『萌える名作文学 ヒロイン・コレクション』(コアマガジン)
 ひと昔前の雑誌と書籍を中心に取り上げているこの連載だが、たまには最近のものも取り上げなくては、と思った。「出版不況」といわれながらも、日本で年間に発行される書籍は7万点以上ある。つまり、多くの本は、読者が知らない間に消えていってしまうのだ。自分が関わった本も、発見されないままに消えていってしまう。それは、あまりに悲しいことである。  というわけで、筆者も携わった『萌える名作文学 ヒロイン・コレクション』(コアマガジン、2010年)を取り上げることにする。  この本の内容を一言で説明するならば、古今東西の文学作品に登場する女性を萌えキャラ化しつつ、真面目に作品を解説するというものである。  筆者の備忘録によれば、最初に企画に参加したのは2010年の4月初頭のこと。それは、一本の電話から始まった。 「昼間さん、文学って詳しいですか?」 と、尋ねてきたのは編集の伊藤氏。伊藤氏は日本刀を、美少女のイラストを添えてひたすら真面目に解説する『萌える日本刀大全』(コアマガジン、2009年)という、これまたマニアックな本を企画して、世間の注目を集めた編集者だ。そんな彼が、文学うんぬんを尋ねてくるとは何事か? 理由はわからないが、筆者も生まれた時から、雑誌と書籍のほかに友達のいない人生。本は山のように読んでいるわけで、「詳しいですよ」と返答する以外に選択肢はなかった。  こうして、企画への参加は電話一本で決まった。なんでも、企画は通ったけど、意外に文学に精通したライターがいなかったので、急遽連絡してきたそうだ(そういえば、この時まで伊藤氏からは2年余りまったく連絡はなかった……)。  筆者の仕事は、作品をセレクトして解説を書くだけ。イラストレーターとの打ち合わせはやらなくてもよいし、楽な仕事だと思っていたら甘かった。なぜなら、これは筆者の人生、人格、そのほかすべてのものを問われる戦いだったからだ。  「萌え」という言葉が日常的に使用されるようになって久しい。しかし、「萌え」とは本質的に、吉本隆明の分類するところの「自己幻想」にすぎない。個人がどのヒロインに萌えるかは、その個人が触れてきた文化によって決定される。どのヒロインに萌えるから無制約に自由であるが、他者がそれに共感するとは限らない。もちろん、自分が萌えているヒロインの魅力を「布教」することは誰も制約しないが、他者が誰に萌えるかをコントロールすることはできないのだ。  そうした中で、商業誌として成立させるために、「最大公約数」となるヒロインをセレクトしていかなければならない。それは、非常に困難な作業であった。当たり前だ、どんなに客観的になろうとしても、結局は自分が萌えることのできるヒロイン像に引きずられてしまうのだから。  かくして数度にわたった打ち合わせは、ほぼ死闘と化した。「こんな女に萌えるわけねえよ」「素人にはわからんのですよ」――。罵倒に激高、鉄拳の飛び合う打ち合わせは続いた。  今、冷静になって当時提出した取り上げるヒロインの案を見てみると「アンタの“萌え”ポイント、おかしいよ」と言われたことも、納得せざるを得ない気もする。ボツになったほうから、いくつか記してみよう(作者・タイトル・ヒロイン名の順である)。 ・安部公房『砂の女』砂の女 ・葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』少女 ・井伏鱒二『黒い雨』矢須子 ・金庸『笑傲江湖』東方不敗 ・作者不詳『ペピの体験』ペピ ・ヘルマン・ヘッセ『青春彷徨』エリーザベト  当時の記憶をたどると、『セメント樽の中の手紙』は「ホラーですよ!」と蹴られ、『笑傲江湖』は「ヒロインじゃねえ!」と怒られ、『ペピの体験』は「萌えとエロを勘違いするな」と、さらに怒られた。『青春彷徨』は、最後まで「ヘッセの作品は入れるべきである」と抵抗したが、一体どこが萌えるポイントかと問われて「エリーザベトは19世紀ドイツにおける最高のサークルクラッシャーである(主人公に気のあるフリをしてデートするが別の男と結婚してしまう)」と回答した結果、ボツになった。  激闘の末に、幾人かのヒロインが選ばれた。ここからが本番である。本文を執筆しつつ、イラストレーターに描いてもらう作中の場面を抜粋し、さらにヒロインの特徴も懇切丁寧に記さなければならない。ここで、大変なことに気づいてしまった。筆者の担当は十数人のヒロイン。つまり、すべての作品をいま一度じっくりと読み込んで、ここぞというシーンを見つけ出さなくてはならないのだ。尾崎紅葉の『金色夜叉』なんかは、熱海の海岸を散歩するところで決め打ちができる。でも、ダンテの『神曲』なんて文庫本で上中下巻もあるし、エミール・ゾラの『ナナ』も相当長い。自分で推しておいてなんだが、上田秋成『雨月物語』の一編「蛇精の淫」から萌えポイントを抽出するのは、ほとんど頓智である。  とはいっても、「危うく萌え殺されるところだったよ……」と言えるほど萌えてやる気で読み込めば、自ずと答えは見えてくるのだ。そもそも、自分が萌えているヒロインばかりなので、当然といえば当然でもあるが。  例えば、エミール・ゾラの『ナナ』のヒロイン・ナナは売春婦であるが、その生き様に萌え殺されそうだ。散々名声を得て金持ちになったかと思いきや、あっという間にカネがなくなって、ならばと街娼を始める。挙げ句に、学校時代の友人とは同性愛になるし、小間使いの女は散々こき使われているのに、女主人ラブ。この周囲を自分色に巻き込みっぷりは、スゲエよ! ゆえにナナが小間使いを「間抜け」と罵ったところ、「あたくし、こんなに奥様が好きで……」とさめざめと泣くシーンを推すしかなかったのだ。文豪・ゾラが「このシーンで萌えてくれ」と思って書いたかどうかは知らないが、萌える(もっとも、ゾラの『居酒屋』『ナナ』など20作品から成る「ルーゴン・マッカール叢書」は、主要登場人物がすべて血縁。まあ、19世紀フランスにおけるOverflowのエロゲーと考えてよい)。  日本では『三銃士』のタイトルで知られている『ダルタニャン物語』の悪女・ミレディーも、萌え要素が尽きないヒロインだ。みんなストーリーは知っていると思うので、ネタバレ気味に話すと、第一部の最後でミレディーは処刑されてしまうわけだが、最後まで逃げようとしたり往生際の悪さがまさに悪女の鏡である。「いずれ仇を討たれるんだから」という捨てゼリフが第二部『二十年後』で現実になるところも、まさに悪女の本領発揮といったところ。  つまり、本書を通して読者が知ることができるのは、現代の漫画・アニメで描かれるヒロインのほとんどの類型は、すでに20世紀前半までに発明されていたということだ。島崎藤村は『新生』でヤンデレヒロイン・節子を描いている。押川春浪『銀山王』は、薄幸と高慢の2つのタイプの令嬢ヒロインの織りなす物語だ。  その上で見えてくるのは、結局、魅力的なヒロインには「悪女・ビッチ・売春婦」の要素が不可欠ということだ。今さら「処女厨」でもあるまいに、黒髪ロングの一途な清純ヒロインのどこに魅力があろうか、と筆者は思う。本書が刊行されたとき、筆者の選んだヒロインを見て多くの人に「いったい、どんな人生を歩んできたら悪女・ビッチ・売春婦にばっか、萌えるようになるんですか?」と聞かれた。  そんなもの、自分でわかっていたら苦労はしない。畜生! 来年の今月今夜のこの月は、俺の涙で曇らせてやる! (文=昼間たかし)