さて、前回に引き続き話題は「イカ天」である。 この番組を中心としたムーブメントについては、拙著『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)でも多くのページを割いて執筆した。というか、途中からページが足りないので、編集者と相談してページ数を調整して、増やしてもらった。 それでも、まだ書き足りない。 この時代のバンドの音楽史的な位置づけについては、専門の書き手がいるだろうから、そういう人たちの文献を参考にするといい。 ここで筆者が記すのは、あくまで視聴者~にわかな素人目線である。 いや、実に原点から素人目線である。 「イカ天」が隆盛を極めていた頃、筆者はまだ地方在住の中学生。ただ、地方とはいえちゃんと深夜に「イカ天」は放送されていた大都会・岡山である。その番組が面白いと聞いたのはクラスでの会話だったか、何かの雑誌だったか……。ともあれ、背伸びしたい厨二病の季節。深夜に筆者もチャンネルを回した。 そうして、ワクワクしながら観たイカ天の記憶。 今、思い出すのは、当時の相原勇がメッチャ可愛かったなあということだけである……。 おそらく、何かの拍子に「イカ天という番組が面白い」と聞き、チャンネルを回したはいいけど、筆者と同じ気分を味わった少年たちは、多かったのではなかろうか。とりわけ、地方には。そう「イカ天」「ホコ天」に象徴された80年代末期のアマチュア・バンド・ブームの地方のティーンエイジャーへの波及は少し遅かったのである。 当時、多くの雑誌が都会の最新情報を伝えてはくれたけれども、それは「あくまで遠くで起こっていること」に過ぎなかった。 だから「都会に行けば、ここで記されているようなことを実際に体験できるのだ」という思いに若者たちは取り憑かれていたハズだ。 それは、ネットなどを通じて情報や流行が、都会と地方で同調、画一化しているように見える現代との大きな違いではないかと思う。 ■「たま」はコミックバンドだと思われていた記憶 「イカ天」発のバンドとして記憶されるのは、奇妙ないでたちで谷崎や太宰の一節を歌う「人間椅子」。なぜか股間モッコリのレオタードスタイルで歌う「ブラボー」。バックで琴の音色が響く「マサ子さん」など多数。 そうした中で、とりわけ知名度があったのは「たま」だと思う。「たま」が「イカ天」に初めて出演したのは1989年のこと。翌90年には「さよなら人類」でメジャーデビュー。オリコン初登場1位となり、58万枚以上を売り上げている。その奇妙な音楽は、なぜか人々に大いにウケた。 これもどうだろう。 今「さよなら人類」を聞き直すと、音楽的センスのスゴさは自ずと理解できるハズ。けれども、当時はそうじゃなかったんじゃないかな。これも、とりわけ地方では、そういう印象が強かったハズ。 ともすればすぐに消えてしまいそうなコミックバンド。あるいは「ランニングの人が気持ち悪い」と、今の我々なら「何を言うんだ!!」と反論するような感想を持つ人も大勢いたと記憶している。 実のところ、これは筆者の個人的な記憶に過ぎない。けれど、新しすぎてついていけなかったような記憶がある人も多いのではなかろうか。 でも、そんな声は現代では、ほとんど拾うことはできない。 人の記憶というものは、調子のよい部分だけ盛られて残る。そうして盛られた記憶の中で、人はあたかも自分も世間の一般的な認識のとして話題に参加するもの。 こうして、当時のリアルな空気感は消えていく。それを救うのは、地道な取材と資料調査しかない……。 (文=昼間たかし)『たまセレクション』(日本クラウン)
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みなさん……そんなに「イカ天」面白いと思ってなかったんじゃないか?
さて、前回に引き続き話題は「イカ天」である。 この番組を中心としたムーブメントについては、拙著『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)でも多くのページを割いて執筆した。というか、途中からページが足りないので、編集者と相談してページ数を調整して、増やしてもらった。 それでも、まだ書き足りない。 この時代のバンドの音楽史的な位置づけについては、専門の書き手がいるだろうから、そういう人たちの文献を参考にするといい。 ここで筆者が記すのは、あくまで視聴者~にわかな素人目線である。 いや、実に原点から素人目線である。 「イカ天」が隆盛を極めていた頃、筆者はまだ地方在住の中学生。ただ、地方とはいえちゃんと深夜に「イカ天」は放送されていた大都会・岡山である。その番組が面白いと聞いたのはクラスでの会話だったか、何かの雑誌だったか……。ともあれ、背伸びしたい厨二病の季節。深夜に筆者もチャンネルを回した。 そうして、ワクワクしながら観たイカ天の記憶。 今、思い出すのは、当時の相原勇がメッチャ可愛かったなあということだけである……。 おそらく、何かの拍子に「イカ天という番組が面白い」と聞き、チャンネルを回したはいいけど、筆者と同じ気分を味わった少年たちは、多かったのではなかろうか。とりわけ、地方には。そう「イカ天」「ホコ天」に象徴された80年代末期のアマチュア・バンド・ブームの地方のティーンエイジャーへの波及は少し遅かったのである。 当時、多くの雑誌が都会の最新情報を伝えてはくれたけれども、それは「あくまで遠くで起こっていること」に過ぎなかった。 だから「都会に行けば、ここで記されているようなことを実際に体験できるのだ」という思いに若者たちは取り憑かれていたハズだ。 それは、ネットなどを通じて情報や流行が、都会と地方で同調、画一化しているように見える現代との大きな違いではないかと思う。 ■「たま」はコミックバンドだと思われていた記憶 「イカ天」発のバンドとして記憶されるのは、奇妙ないでたちで谷崎や太宰の一節を歌う「人間椅子」。なぜか股間モッコリのレオタードスタイルで歌う「ブラボー」。バックで琴の音色が響く「マサ子さん」など多数。 そうした中で、とりわけ知名度があったのは「たま」だと思う。「たま」が「イカ天」に初めて出演したのは1989年のこと。翌90年には「さよなら人類」でメジャーデビュー。オリコン初登場1位となり、58万枚以上を売り上げている。その奇妙な音楽は、なぜか人々に大いにウケた。 これもどうだろう。 今「さよなら人類」を聞き直すと、音楽的センスのスゴさは自ずと理解できるハズ。けれども、当時はそうじゃなかったんじゃないかな。これも、とりわけ地方では、そういう印象が強かったハズ。 ともすればすぐに消えてしまいそうなコミックバンド。あるいは「ランニングの人が気持ち悪い」と、今の我々なら「何を言うんだ!!」と反論するような感想を持つ人も大勢いたと記憶している。 実のところ、これは筆者の個人的な記憶に過ぎない。けれど、新しすぎてついていけなかったような記憶がある人も多いのではなかろうか。 でも、そんな声は現代では、ほとんど拾うことはできない。 人の記憶というものは、調子のよい部分だけ盛られて残る。そうして盛られた記憶の中で、人はあたかも自分も世間の一般的な認識のとして話題に参加するもの。 こうして、当時のリアルな空気感は消えていく。それを救うのは、地道な取材と資料調査しかない……。 (文=昼間たかし)『たまセレクション』(日本クラウン)
「女のコがパンツを脱ぐ!!」やらせ番組だと思われていた「イカ天」への期待
5月に上梓した『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)は、ことのほかに話題となり、派生してさまざまな依頼もあり、ありがたいことこの上ない、今日この頃。 とはいえ、新書のページ数ゆえに、けっこうな部分を削除せざるを得なかった。というよりも、実際に本に記述したのは取材や調査で知った事実の十分の一程度か。まだまだ、書きたい衝動の収まらぬ事どもは、山の様にあるという具合である。 例えば、当時のテレビ事情。「イカ天」こと『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)のブームについては、ページを調整して、なるべく多くを語った。現在ありがちな回想では、多くの新たなスタイルのバンドが誕生し、盛り上がったことが語られる。 ただ、これは歴史の「綺麗な」一面に過ぎぬ。 実のところ、この番組が盛り上がった理由は、なんといっても世の男子たちが「女のコがパンツを脱ぐ」可能性に賭けていたことにある。第1回の放送で、完奏できなかったガールズバンド「ヒステリック」が「バカヤロー! ズボン脱ぐぞ! オラ!」と叫んで、パンツまで脱いでしまったのである。肝心の部分は、カメラマンの妙技で電波には乗らなかったのだが、噂が噂を呼び「何が起こるかわからない番組」=「もしかすると、エロいハプニングが起こるかもしれない」と考えて、チャンネルを回す人は急増したというわけである。 実は筆者も、肝心のこのシーンを観たのは、21世紀になってから。YouTubeが普及したことで、ご家庭のビデオテープに保存されていたであろう過去のテレビ番組の録画を、アップする人は増えた。著作権的な部分での是非は別として、なかなか見る機会のない、こうした映像を見ることができるのは貴重だ。 で、肝心のシーン。文字や言葉で聞くのと、実際に見るのは、まったく別。「バカヤロー!」と突然画面に入ってくるメンバーは、まったくエロくない。演奏シーンは見たことがないのだが、パンクバンドなのだろうか。エロくなくて怖いのである。 21世紀の今では忘れられた感覚だが、90年代まで世の男子は、新聞のテレビ欄をチェックして、深夜に放送されるエロそうな番組を探すことに余念がなかった。 朝、テレビ欄で深夜1時頃から『エマニエル夫人』放送なんてのを見つけると、もう一日中、興奮は止まらない。居間に1台しかないテレビで、どうやって家族に見つからないように番組を楽しむか。エロを楽しむためには、知恵と冒険が欠かせなかったのである。 1995年からフジテレビ系列深夜で放送されていた『THEわれめDEポン』なんて、テレビ欄を見る限り、絶対にお色気番組。だが、期待してチャンネルを回すと始まったのは芸能人による麻雀対決……これ以降、いまだに「テレビを容易に信じてはいけない」という気持ちは強い。 ■やらせ番組だと思われていたイカ天 さて、前述のイカ天におけるパンツ事件だが、この実相に迫っているのはメディア批評誌「創」1989年10月号に掲載された小森収「視聴率は二の次? 深夜TVの奇妙な隆盛」である。ここでは、番組のプロデューサーだった、田代誠のコメントが記されている。 「番組も最初は理解されていなくて、ヤラセの出来レースだと、バンド側が思ったらしいんですね。優勝するバンドは決まっていて、それがプロデビューするために仕組まれた番組なんだと。それで、どうせチャンピオンになれないのなら、メチャクチャやっちゃえということだったのじゃないか」 実に、この記事で記されているオーディション風景は和やかなものだ。番組前の説明会で「本番中パンツは下ろさないでください」という注意もあるが「必ずしもそうしたハプニングがこれからも起こると、考えているようには聞こえない。そういう注意自体シャレで言ってるようである」とある。 かくて、番組は隆盛を極め、新たな音楽の世界を繰り広げていくわけである。そこでは、次々と、それまでにないスタイルのバンドが登場したのであった。 ということで、続く。 (文=昼間たかし)『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)
「女のコがパンツを脱ぐ!!」やらせ番組だと思われていた「イカ天」への期待
5月に上梓した『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)は、ことのほかに話題となり、派生してさまざまな依頼もあり、ありがたいことこの上ない、今日この頃。 とはいえ、新書のページ数ゆえに、けっこうな部分を削除せざるを得なかった。というよりも、実際に本に記述したのは取材や調査で知った事実の十分の一程度か。まだまだ、書きたい衝動の収まらぬ事どもは、山の様にあるという具合である。 例えば、当時のテレビ事情。「イカ天」こと『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)のブームについては、ページを調整して、なるべく多くを語った。現在ありがちな回想では、多くの新たなスタイルのバンドが誕生し、盛り上がったことが語られる。 ただ、これは歴史の「綺麗な」一面に過ぎぬ。 実のところ、この番組が盛り上がった理由は、なんといっても世の男子たちが「女のコがパンツを脱ぐ」可能性に賭けていたことにある。第1回の放送で、完奏できなかったガールズバンド「ヒステリック」が「バカヤロー! ズボン脱ぐぞ! オラ!」と叫んで、パンツまで脱いでしまったのである。肝心の部分は、カメラマンの妙技で電波には乗らなかったのだが、噂が噂を呼び「何が起こるかわからない番組」=「もしかすると、エロいハプニングが起こるかもしれない」と考えて、チャンネルを回す人は急増したというわけである。 実は筆者も、肝心のこのシーンを観たのは、21世紀になってから。YouTubeが普及したことで、ご家庭のビデオテープに保存されていたであろう過去のテレビ番組の録画を、アップする人は増えた。著作権的な部分での是非は別として、なかなか見る機会のない、こうした映像を見ることができるのは貴重だ。 で、肝心のシーン。文字や言葉で聞くのと、実際に見るのは、まったく別。「バカヤロー!」と突然画面に入ってくるメンバーは、まったくエロくない。演奏シーンは見たことがないのだが、パンクバンドなのだろうか。エロくなくて怖いのである。 21世紀の今では忘れられた感覚だが、90年代まで世の男子は、新聞のテレビ欄をチェックして、深夜に放送されるエロそうな番組を探すことに余念がなかった。 朝、テレビ欄で深夜1時頃から『エマニエル夫人』放送なんてのを見つけると、もう一日中、興奮は止まらない。居間に1台しかないテレビで、どうやって家族に見つからないように番組を楽しむか。エロを楽しむためには、知恵と冒険が欠かせなかったのである。 1995年からフジテレビ系列深夜で放送されていた『THEわれめDEポン』なんて、テレビ欄を見る限り、絶対にお色気番組。だが、期待してチャンネルを回すと始まったのは芸能人による麻雀対決……これ以降、いまだに「テレビを容易に信じてはいけない」という気持ちは強い。 ■やらせ番組だと思われていたイカ天 さて、前述のイカ天におけるパンツ事件だが、この実相に迫っているのはメディア批評誌「創」1989年10月号に掲載された小森収「視聴率は二の次? 深夜TVの奇妙な隆盛」である。ここでは、番組のプロデューサーだった、田代誠のコメントが記されている。 「番組も最初は理解されていなくて、ヤラセの出来レースだと、バンド側が思ったらしいんですね。優勝するバンドは決まっていて、それがプロデビューするために仕組まれた番組なんだと。それで、どうせチャンピオンになれないのなら、メチャクチャやっちゃえということだったのじゃないか」 実に、この記事で記されているオーディション風景は和やかなものだ。番組前の説明会で「本番中パンツは下ろさないでください」という注意もあるが「必ずしもそうしたハプニングがこれからも起こると、考えているようには聞こえない。そういう注意自体シャレで言ってるようである」とある。 かくて、番組は隆盛を極め、新たな音楽の世界を繰り広げていくわけである。そこでは、次々と、それまでにないスタイルのバンドが登場したのであった。 ということで、続く。 (文=昼間たかし)『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)
バブル時代、東京から脱出を志す人々がいた──1989年「SPA!」地方会社の『ゆとり生活』を読む
何かと地方取材に行く機会が多い、今日この頃。どこの地方でも必ず、都会の喧噪を逃れて移住してきた人には出会うものである。 最近は、地方の自治体が移住者を求めて、広く門戸を開く、いうケースも増えてきた。けれども、移住には覚悟が必要なもの。単に、都会に疲れて逃げてきたような人に、地方の狭い人間関係やしきたりは厳しい。そうして、せっかく移住した地域を恨んで姿を消す人も絶えない。 これだけさまざまな情報が飛び交い、移住のために最低限必要なことがわかっている時代であるにもかかわらず。 現代とは少々違う意識で「なんだかよくわからないが、とにかく忙しい」そんな会社勤めが当たり前だったバブル時代。残業に疲れても、飲み歩くことこそ当時の美学。現代よりも集団行動が強いられていた時代ゆえに、そこに疲弊する人も多かった。 朝から晩まで、仕事に接待にぐるぐる回り、同僚と飲んでは午前様。「24時間戦えますか」というリゲインのCMが流行したりもしたけれど、サラリーマンは疲れていた。 そうした中で入ってくるのが、海外、とりわけヨーロッパの情報である。ヨーロッパでは、もっと休暇が長く、サラリーマンでも優雅にバカンスを楽しむのが当たり前らしい。 そうした優雅な実例として、イタリア人的な生活や文化が理想とされたことを覚えている人は少ない(なお、バブル時代。もっともイタリア的な日本人とされたのが石田純一である)。 この好景気が続けば、日本にもやがてバカンス文化が定着する。そんな分析もされていたけれど、それはいつのことやらわかっていなかった。 だが、もう都会に我慢できなくなった人たちは、早々と地方へと移住していったのである。 「SPA!」(扶桑社)1989年8月30日号掲載の「地方会社の『ゆとり生活』に心ひかれる」は、地方の企業で働きながら、都会とは違い優雅に暮らす人々の姿を紹介している。 もう地方にもバブルの恩恵が普及していた時代である。地方だからといって賃金が低いといったデメリットも顕在化はしていなかった。そして、バブルの恩恵で儲かる企業の福利厚生は、地方でもやっぱりすごかった。 静岡県清水市(当時)にある鈴与倉庫が福利厚生用に購入したのは、総額2,200万円のヨット。 「土日はほとんど船を出します。伊勢の鳥羽や伊豆半島、大島まで足を延ばすこともある。船頭付きの保養所みたいなものですね」 と、同社の社員はコメントしている。なんとも優雅な感じもするが、これって休日にも上司と一緒にヨットで海に出かけなくてはいけないということか。うん、こういった距離感が好きな人には、とても歓迎されそうだ。 この会社を選んだ人は先見の明があったなと思うのが、現在も「おかめ納豆」で知られるタカノフーズ。会社があるのは、都会の喧噪とは無縁な茨城県小美玉市。紹介文で「つくばに近い」というのは少々無理がありそうな気もするが、女子社員の多さがアピールされている。 きっと、記事を見て就職した人もいるだろう。絶対に潰れそうもない安定感のある納豆を生業にして、社内結婚して幸せに暮らしている人もいることだろう。 逆に、記事中で紹介されている企業の中には諸行無常を感じる会社も。 長野県諏訪市のチノンがそれだ。 そう、かつては数々の名機で知られたカメラメーカーである。しかし、90年代に経営の多角化に失敗。コダックの傘下に入り、その歴史を終えた(商標はかつての関連会社が取得し、現在も継続)。 そんな、後の歴史を知ってるがゆえに、記事中に求める人材として「経営の多角化を目指す必要上、型にはまらない活動的な人」と書かれているのは、どこか悲しい。 でも、この時期のチノンは地方企業でありながら、信じられないほどのイケイケムードが詰まっている。 独身寮は、全員個室で温泉付き。40畳の宴会場まであって、寮費は月3,000円。30歳の給与が24万2,200円と記されているが、もう入社早々から、好きなだけ遊んで貯金もできそう。 独身社員の全員が車を所有。「諏訪湖、美ヶ原は庭のようなもの」と、夢のようなライフスタイルが描かれているではあるまいか。 バブル時代。都会から逃げて、地方へと移住していった人は、どこか「負け」の感覚を持っていたかもしれない。 でも、会社選びを間違えなければ、21世紀の今「あの時、決断してよかった……」と人生を振り返っている人が多いように思える。 (文=昼間たかし)「SPA!」(扶桑社/1989年8月30日号)
バブル時代、東京から脱出を志す人々がいた──1989年「SPA!」地方会社の『ゆとり生活』を読む
何かと地方取材に行く機会が多い、今日この頃。どこの地方でも必ず、都会の喧噪を逃れて移住してきた人には出会うものである。 最近は、地方の自治体が移住者を求めて、広く門戸を開く、いうケースも増えてきた。けれども、移住には覚悟が必要なもの。単に、都会に疲れて逃げてきたような人に、地方の狭い人間関係やしきたりは厳しい。そうして、せっかく移住した地域を恨んで姿を消す人も絶えない。 これだけさまざまな情報が飛び交い、移住のために最低限必要なことがわかっている時代であるにもかかわらず。 現代とは少々違う意識で「なんだかよくわからないが、とにかく忙しい」そんな会社勤めが当たり前だったバブル時代。残業に疲れても、飲み歩くことこそ当時の美学。現代よりも集団行動が強いられていた時代ゆえに、そこに疲弊する人も多かった。 朝から晩まで、仕事に接待にぐるぐる回り、同僚と飲んでは午前様。「24時間戦えますか」というリゲインのCMが流行したりもしたけれど、サラリーマンは疲れていた。 そうした中で入ってくるのが、海外、とりわけヨーロッパの情報である。ヨーロッパでは、もっと休暇が長く、サラリーマンでも優雅にバカンスを楽しむのが当たり前らしい。 そうした優雅な実例として、イタリア人的な生活や文化が理想とされたことを覚えている人は少ない(なお、バブル時代。もっともイタリア的な日本人とされたのが石田純一である)。 この好景気が続けば、日本にもやがてバカンス文化が定着する。そんな分析もされていたけれど、それはいつのことやらわかっていなかった。 だが、もう都会に我慢できなくなった人たちは、早々と地方へと移住していったのである。 「SPA!」(扶桑社)1989年8月30日号掲載の「地方会社の『ゆとり生活』に心ひかれる」は、地方の企業で働きながら、都会とは違い優雅に暮らす人々の姿を紹介している。 もう地方にもバブルの恩恵が普及していた時代である。地方だからといって賃金が低いといったデメリットも顕在化はしていなかった。そして、バブルの恩恵で儲かる企業の福利厚生は、地方でもやっぱりすごかった。 静岡県清水市(当時)にある鈴与倉庫が福利厚生用に購入したのは、総額2,200万円のヨット。 「土日はほとんど船を出します。伊勢の鳥羽や伊豆半島、大島まで足を延ばすこともある。船頭付きの保養所みたいなものですね」 と、同社の社員はコメントしている。なんとも優雅な感じもするが、これって休日にも上司と一緒にヨットで海に出かけなくてはいけないということか。うん、こういった距離感が好きな人には、とても歓迎されそうだ。 この会社を選んだ人は先見の明があったなと思うのが、現在も「おかめ納豆」で知られるタカノフーズ。会社があるのは、都会の喧噪とは無縁な茨城県小美玉市。紹介文で「つくばに近い」というのは少々無理がありそうな気もするが、女子社員の多さがアピールされている。 きっと、記事を見て就職した人もいるだろう。絶対に潰れそうもない安定感のある納豆を生業にして、社内結婚して幸せに暮らしている人もいることだろう。 逆に、記事中で紹介されている企業の中には諸行無常を感じる会社も。 長野県諏訪市のチノンがそれだ。 そう、かつては数々の名機で知られたカメラメーカーである。しかし、90年代に経営の多角化に失敗。コダックの傘下に入り、その歴史を終えた(商標はかつての関連会社が取得し、現在も継続)。 そんな、後の歴史を知ってるがゆえに、記事中に求める人材として「経営の多角化を目指す必要上、型にはまらない活動的な人」と書かれているのは、どこか悲しい。 でも、この時期のチノンは地方企業でありながら、信じられないほどのイケイケムードが詰まっている。 独身寮は、全員個室で温泉付き。40畳の宴会場まであって、寮費は月3,000円。30歳の給与が24万2,200円と記されているが、もう入社早々から、好きなだけ遊んで貯金もできそう。 独身社員の全員が車を所有。「諏訪湖、美ヶ原は庭のようなもの」と、夢のようなライフスタイルが描かれているではあるまいか。 バブル時代。都会から逃げて、地方へと移住していった人は、どこか「負け」の感覚を持っていたかもしれない。 でも、会社選びを間違えなければ、21世紀の今「あの時、決断してよかった……」と人生を振り返っている人が多いように思える。 (文=昼間たかし)「SPA!」(扶桑社/1989年8月30日号)
住むならどっち!? 多摩と湾岸で迷ったバブル時代と80年代雑誌の“ユルさ”
タイトルで「どっち」と書いたけれども21世紀の今、ほぼ決着がついているのは、ご存じの通り。 多摩地域のボロ負けである。 その名前の通り、まるで神殿のような街が建設されたパルテノン多摩は陳腐なものになってしまった。そして、高度成長期以降、多くの人々が夢を抱いて住んだ多摩ニュータウンは、もはや完全なオールドタウン。歩道と車道の完全分離のように考え抜かれた都市計画も、いざやってみると夜道が危ないなどの危険ばかりを生み出した。 片や湾岸地域は、タワーマンションが乱立する完全な未来都市。バブル時代は倉庫を改造したウォーターフロントの店が繁盛していた勝どきや芝浦の風景は、ガラリと変わった。とりわけ勝どきの変貌は著しい。低層団地や倉庫群は完全に取り壊されて、すべてタワーマンションへと生まれ変わった。今後、マンションの価格は下落する=今はバブルといわれはするけども、繁栄を謳歌していることに間違いはない。 そんな多摩と湾岸と、どちらが優れているのか混沌とした時期の記事。「週刊プレイボーイ」(集英社)1989年9月19日号「東京を考える特集 のっぺり東京のふたつの顔『多摩VS湾岸』」が、今回のお題である。 この記事、どちらに住もうかと迷う、子どもも生まれたばかりの若夫婦の対話形式で綴られていく。なんだけれども、まず設定が少々、トンでいる。 「ボクがいま住んでいるのは足立区の綾瀬です。あの『幼女誘拐殺人事件』で影が薄くなっちゃったけど、『女子高生リンチ殺人事件』が起きたあの“狂気の街”綾瀬なのです」 いやいや、現代の雑誌、あるいはネット記事で書いたら、即座に赤字を入れられそうな一文である。この不謹慎なユルさこそが80年代。これとは別だが、雑誌のグルメレポで「原爆が落ちたような美味さ」という、酷い文句を見出しでどーんと書いても「ああ、そんな衝撃的な美味さなのだなあ」程度で受け止めてくれるのが80年代なのである。これも、アゲアゲムードの中での余裕ということなのか。 さて、この記事でたびたび比較対象として提示されるのは、多摩市と江東区。湾岸といっても当時は、まだまだ開発途上にあった地区。 記事は、それぞれの市役所に話を聞いたりして、オススメポイントを提示していくのである。 でも、そうしたデータと共に記されるオススメポイントは、狙っているかのような無軌道ぶり。もんじゃ焼きの本場を「江東区の月島」なんて記していたりする。これが、ネタなのか本気なのか判然とし難いが(月島は中央区です、念のため)、後者だとすれば、今では人気スポットの月島が、いかに見向きもされない街であったかを如実に現しているように思えるのだ。 そんな感じなので、とにかく多摩も湾岸も、オススメされても、まったく住みたい気分にならない。 「湾岸はさ、海があるんだ。親子揃ってウィンド・サーフィンなんてかっこいいぞ」 「多摩の奥のほうでは熊が出るって話もあるし」 こうして、会話形式で綴られる記事は、いつしか青山に住みたいという妻の本音へとシフトしていく。 ここでわかるだろうか。この記事の本質は「多摩VS湾岸」ではないことを。 そう、少し捻くれた形で港区や千代田区といった内陸部に住むことのできない人々の、怨嗟の声を綴りたかったのだ。 家賃が高騰し、買いたいものが溢れても、給料の上昇スピードが遅かった時代。人々は、怨念を内に貯め込んで暮らしていたのだ。 (文=昼間たかし)「週刊プレイボーイ」(集英社/1989年9月19日号)
パソコン通信で彼女ができる? アマチュア無線では“オタサーの姫”が殺されていたバブル時代
「パソコン通信で、彼女ができる!!」 ああ、これを読んでパソコン通信を始めたヤツもいたんだろうなあ~。そんな感慨に耽ってしまう記事が掲載されているのが「スコラ」1989年5月25日号。 この記事読んでいるだけで、ホントにパソコン通信を始めたら彼女ができるんじゃないかというほどにテンションが高い。なにしろパソコン通信を「電脳空間に広がる一大ナンパワールド」と煽り、こんなふうに誘惑する。「スコラ」(スコラ/1989年5月25日号)
「オタク」「暗い」といわれる代表的人種がパソコンマニアだったのはもう過去のこと。ちょっと待て、と思った。ナンパの一歩先であるセックステクニックやらを掲載しまくっていた「スコラ」を、当時パソコン通信をやるような人々が読んでいたのだろうか。少し考えて腑に落ちた。この記事の対象者は「オタク」でも「ネクラ」でもないナンパ大好きな男子たち。そんなヤツらの新たなナンパ目的の社交場としてパソコン通信を提唱しているというスタイルだったというわけだ。 もはや、あらゆる機器がネットワークで接続された21世紀。もう誰もがスマホを用いてインターネットに接続するのは頭で考えなくてもできることになった。けれども、この時代は隔世の感がある。なにしろ電子メールひとつとっても、概念を理解させるのが大変だ。 なので、会話形式での解説で次のように文章が綴られる。 「早速メールを送ってみよう」 「メールっていうのは?」 「ネットワークの中の郵便だ。特定の個人に送るもので、絶対他人には見られることがない」 「そっか。じゃあ『はじめまして。今なにやってるの? 今度ハチ公の前で待ち合わせしよう』と」 「アホか! そんなこと書いたって絶対だめだ。テレクラと勘違いしないように」 <中略> 「結構まだるっこしいんですね」 当時は声掛けナンパの全盛期である。ナンパの利点は、学校や職場など、いつも身を置いているコミュニティと違ってしがらみがないというのが、まずひとつ。そして、即座にイエス・ノーの結果が出るというのがもうひとつ。テレクラも、その延長で隆盛したという側面があった。なので、ナンパに長けた者が新たな狩りの場所として開拓しようとすれば、パソコン通信のまだるっこしさに戸惑ったのではなかろうか。
■ナンパが苦手なボーイにこそ魅力的だったパソコン通信 だから、パソコン通信でナンパを試みたのは、日常からナンパを繰り広げている男子よりも、もう一段下の気弱な男子だったのではないかとも推測できる。というのも、この記事よりも少し前「ホットドッグプレス」1989年2月25日号でも、やっぱりパソコン通信で恋人をゲットする方法が指南されているのである。「ホットドッグプレス」といえば、言わずと知れた恋愛マニュアル雑誌の王道。現代的な視点では、決してうまくいくはずもないナンパテクを掲載しまくっていた同誌では、恋人づくりにおけるパソコン通信の優位性をとにかく煽る。 お互いにパソコン通信の仲間意識があるから、意気投合するのは素早い。かつまた、パソコン通信では顔が見えないから絶対に“今度あいましょう”なんて話に発展するはず。 <中略> 実際に、パソコン通信で知り合った2人が結婚しちゃったって新聞記事がこの間出てました。 そんな夢にあふれるパソコン通信。でも、人間とは愚かなもの。現代と変わらず、コミュニティの中ではさまざまな愛憎のもつれが存在していたのだろう。 ■アマチュア無線では男女交際のもつれで殺人事件も そこでふと思い出して調べてみたのが、80年代にあったアマチュア無線で出会った男女が別れ話になった結果の殺人事件。1987年12月に起こったこの事件。調べて見ると、いろいろオカシイ。 被害者は名古屋在住の当時32歳のピアノ教師の女性。犯人は20歳の専門学校生。この年の5月アマチュア無線で知り合った2人は交際を開始。人妻だったピアノ教師は8月になって夫と別居していたというから、かなりの熱の入れようだったのだろう。ところが、秋になると女性のほうが一気に冷めモードに。12月に入りクリスマスの夜に徹夜で話し合ったが女性の方が「ほかにいい人がいる」と言い出したため、絞殺。東名高速を飛ばして都内に向かい、結局、八王子市に遺体を遺棄したというもの。 これだけなら、ちょっと複雑な男女間の愛憎劇なのだが「中日新聞」1987年12月31日付には、こんな一文が。 捜査本部は、別居中の夫からアマチュア無線仲間の親しい男性がいたとの情報を得、交際していた三人の男性の追跡調査を開始。 え? これはオタサーの姫の殺人事件? いやはや、オタサーの姫は、この時代から存在していたということか。 ちなみにこの記事、被害者の弟のコメントも掲載されているのだが…… 「姉にどんな交遊関係があったのか知りませんでした。犯人逮捕と言われても犯人がどんな男だったのか分からず複雑な気持ちです」と沈痛な表情で話していた。 事件にまでは至らずとも、誰も幸せにならない男女交際は、いつの時代も存在していたということなのか。 (文=昼間たかし)「ホットドッグプレス」(講談社/1989年2月25日号)
黒木香の焼肉屋は良心的だった!? タレントショップの流行に煽られた「一般人のサイドビジネス」
「GORO」(小学館/1989年4月27日号)
やたらとみんな稼いでいたと誤解されがちな、バブル時代。でも、好景気が正社員の給与に反映されるまでには、長い時間がかかった。 大卒初任給がようやく20万円台を突破したのは1989年のこと。アルバイトの時給が高騰する一方で、正社員の給与は低く抑えられていた。 現代では、好景気の割に意外と儲かっていないサラリーマンも多かったというバブル時代の真実は、忘れられている。みんな経費が使い放題だったとか、給料はすぐに上がったという神話を信じて、お得な人生を送ったバブル世代に対する怨嗟をにじませているのである。 だが、すべてのサラリーマンがそうであったワケではない。現代でも、会社の部署によって経費の使える、使えないはさまざま。業種によっては、いつの時代にあっても常に儲からないのが当たり前なんてのも珍しいものではない。 例えば出版業界だってそうである。当時、雑誌編集部で働いていたような編集者に聞くバブルの逸話は、とにかくゴージャス。会社に出勤するよりも、飲み歩くのが仕事みたいになっている者もいた。でも、当時は雑誌が売れまくる一方で、書籍はあまり売れない時代。吉本ばななの登場によって、文芸書は再び脚光を浴びるようになるわけだけれど、硬派な書籍を担当していた編集者なんて今も昔も儲かってはいないもの。 だから、職場などで「バブル時代は最高だった」と吹聴して回るバブル世代のヤツらの言説を、容易に信じてはいけないのである。 そんな儲からない時代だけれども、現代と大きく違うのは、儲からない時にどうすればいいかという意識である。現代において、稼ぎも少なく残業も多い人々は、ネットでブラック企業に勤務する我が身を嘆くばかり。 でも、バブル時代は違った。 仕事が忙しかったといわれるバブル時代。でも、忙しいハズなのに、多くの人々は体を酷使することを厭わなかった。雑誌やテレビを見れば、次々と物欲をそそられるものが登場する。街はキラキラと輝き、カネを持ってそうなヤツらが我が物顔で歩いている。 疲れた体を引きずって精神をすり減らす現代と違い、多くの人々はサイドビジネスで稼ぐという手段を選択したのである。 「ゴージャスに遊びたいから、そのためにもっと稼いでやる!!」 そんな意識がバブル時代の標準だったというわけである。 ■芸能人みたいにサイドビジネスを 本業の給与とは別に、月に10万円は稼ぎたい。そんなサラリーマンたちが挑戦していたのは、さまざまなサイドビジネスであった。コンビニなどでバイトをする者も多かったようだが、もっとハイレベルな副業に挑戦する者も多かった。 土日だけ住宅販売の仕事をして、成功報酬制で3カ月で150万円を稼いだ猛者もいる。そんな情報が流れれば、我も我もと挑戦するのは当然。深夜に運転代行を始める者もいれば、結婚式の司会や探偵など、どうやって見つけたんだというサイドビジネスも、当時の雑誌には数多く掲載されている。 ここで、現代の人々は疑問に思うのではなかろうか? まだまだ終身雇用制が存在し、会社への忠誠心が強かった時代に、なぜそんなにサイドビジネスに熱心になることができたのか。その理由は遊ぶ金だけではない。当時、流行していたタレントショップが、サイドビジネスのハードルを下げたという側面は否定できない。 「GORO」1989年4月27日号に掲載された、綱島理友によるルポ記事「タレントの店を見笑する!!」。「見笑」と書いて「ミーハー」と読むこの記事は、もはや誰も覚えていない原宿におけるタレントショップの乱立を記録している資料である。原宿駅を一歩外に出れば、もう右も左もタレントショップばかり。 北野倶楽部にフックンの店、コロッケの店に高田純次の店……。聖飢魔IIの「ぬらりんハウス」は、聖飢魔IIの弁当箱まで売っていたそうである。そんな店は、どこもかしこもはやっていた。 あっちも行列、こっちも行列、どこか行列しないで入れる店は無いのか。と見廻すと、一軒ありました。行列ナシ、すぐに入れるという店が。「島崎俊郎商店」。(前出「GORO」) さらに、この記事では原宿を離れてもタレントショップはわんさかあることを、丁寧に記録している。渋谷にあった黒木香の焼肉屋は「ランチメニューは値段の割にボリュームもあり、実に良心的にやっている店」と記す。 恵比寿には酒井法子の「のりピーハウス」。自由が丘には松田聖子の「フローレス・セイコ」……と、タレントショップは都内ばかりかと思いきや、江川卓の「きりんこ」は「東名横浜インターからクルマで10分位である」という。 いったいなぜ、そんなところに店をオープンしようと思ったのか? こうした芸能人たちが、どういう目的で開業したのかイマイチ不明なタレントショップの隆盛だが、そうした存在が一般人にも何か一稼ぎ考えようかという意識を与えていたことは間違いない。 (文=昼間たかし)「SPA!」(扶桑社/1989年3月9日号)
結局は9割が大樹に拠った……80年代に「フリーター」を推奨した人々の、その後の人生
フリーターという言葉を広めたのは、リクルートのアルバイト情報誌「フロム・エー」(現在は休刊)。 1987年には「フロム・エー」創刊5周年を記念して『フリーター』というタイトルの映画もつくられている。この映画、金山一彦演じるフリーターの若者が、羽賀研二や鷲尾いさ子とともに人材派遣サークルなるもので活躍する映画。なぜか途中から三浦友和とビジネスで対決するという筋立てで、フリーターというよりはベンチャー企業を立ち上げた若者たちの青春映画という趣き。 ともあれ、この映画を通じて喧伝されたのは、フリーターという新しい生き方。その生き方で享受されると信じられたのが、会社や社会に縛られない自由な生き方というものである。 アルバイトの賃金はうなぎのぼり。正社員の賃金はまだまだ抑えられていたバブル前期。この新たなライフスタイルは、大いに魅力的だった。何しろ、当時、学生が必死にアルバイトをすれば40万、50万円と稼ぐことも可能だった。なのに、卒業して就職すると給料は20万円足らず。「やってられるか」感は、ずっと強かったのだろう。 「財界展望」1988年10月号(財界展望新社)では、学生援護会が行った学生の意識調査を紹介しているが、ここでは4人に3人の割合で学生はモラトリアム意識を持っていることや、当時、徐々に導入されつつあったフレックスタイム制にも強い関心を示していることが記されている。 アルバイトによって、目先のカネには困らない中で「もしかしたら、会社に勤めなくても、一生好きにやっていけるのではないか」という希望が、現実味を持っていたのである。 ■フリーターを絶賛した人々の現在 それを、若者を「使う」側の人々が、さらに後押しをした。フリーターというのは、充実した人生を送ることのできる素晴らしい生き方なのだと……。 バブル時代、学研が発行していた女性誌「ネスパ」1988年5月号の特集「フリーアルバータの魅力!!」は、そんなフリーターとして生きることを絶賛しまくる記事。すでにリード文からしてテンションが高い。 仕事=フルタイムワーク……なんて考え方はもう古い! 自分のライフスタイルにあわせて好きな時、好きな形(スタイル)で働く人たち、これがフリーアルバイターです。 やりたいことをやりぬくためにあえて就職しないという生き方、ステキだと思いませんか? ……こんなテンションで始まる記事ゆえに、紹介されるフリーターとして生きる女性たち=読者が憧れるべき存在もレベルが高い。 まず紹介されるのは、昼は劇場事務で稼ぎつつ夜は舞台に立っている劇団女優。週6日働いて、月収は15万円。なるほど、誌面にとっては理想的な夢に生きているタイプ。いったい、今はどうしているのかと調べてみたら、現在も女優業のほか舞台演出や脚本で活躍を。いやいや、早稲田の二文→劇団って、これはフリーター以前にそういう生き様じゃ……。 おそらく、こんな初志貫徹な人生は例外中の例外。続いて紹介されるのは、毎日ウィンドサーフィンをするために、仕事は月に20日ほどキャンギャルやイベントコンパニオンだけという女性。文中では「24歳までは本気で海で遊ぼうと決めた」と書いているから、今は陸に上がって暮らしているのかなと勝手に想像。 もっとも強烈なのは、子ども会のボランティアが楽しいので、仕事は週3日、月収5万円のみという女性が。これ、賞讃されるよりも、誰かが止めたほうがよい案件だと思うのだけど、どうだろうか? そんなフリーターの女性たちよりも強烈なのが、特集の後半に登場するフリーターとしての生き方を賞讃する業界人たち。 こちらは、現在の状況も追いやすかったので、そちらも一緒に紹介したい。 まず「女性は自分の好きな仕事をしたいから、結果的にフリーターが多くなる」という主旨で語る、当時「とらばーゆ」編集長だった江上節子氏は、現在は武蔵大学で教授に。 「いつも燃えていないといけないんです」と語るシンガー・和田加奈子氏は、その後、一般男性と結婚し引退。離婚後、マイク眞木と再婚し、時々テレビにも出演している。フリーターの名付け親ともいえる「フロムエー」編集長だった道下勝男氏は、さまざまな企業を経て、トータルヘルスプロデュースを行う企業の役員に名前がある。 なんだろう。フリーターを推奨していたハズの人々から感じる「寄らば大樹の陰」感は。 唯一、企業に入っても先細りならばフリーでもよいのではないかと語る、西川りゅうじん氏は、現在もさまざまな大規模イベントのプロデューサーなどに名を連ねている。この西川氏の生き様で賞讃したいのは、いかに時代が変われども、常にバブル的な動きのある場所を見つけ、そこで自身の仕事を生み出すクリエイティブ力。 いや、結局、これくらいの能力がなければフリーターはできなかったのか。世の中は残酷なものだ。 (文=昼間たかし)当時の「プレイボーイ」(集英社)には、こんな誌面も……








