
『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』(創英社/三省堂書店)
アスリートの自伝・伝記から読み解く、本物の男の生き方――。
10月19日、ボストン・レッドソックスのクローザー・上原浩治がアメリカの宙に舞った。チャンピオンシリーズで1勝3セーブ6イニング無失点の記録をマークし、MVPも受賞した上原。38歳という年齢、ケガや不調に見舞われながらも、プロ入り15年にして世界一の座をもぎ取ったのだ。幾度となく回り道を強いられながらも、決してあきらめずに野球に取り組んできた彼が、世界を制するまでの足跡を、2010年に刊行された自伝『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』(創英社/三省堂書店)から振り返ってみよう。
「雑草魂」という言葉で、流行語大賞に選ばれたように、上原はエリートコースから程遠いキャリアをたどった。5歳から地元の野球チームに入り、その楽しさに目覚めた上原少年。だが、中学校には野球部はなく、陸上部に入部せざるを得なかったが、三段跳びで大阪府5位の記録を残すなどの好成績を挙げた。野球がしたかった上原にとって、陸上は決して本意ではない選択だった。しかし、上原はこう振り返る。
「陸上をやっていたお陰で、プラスになったこともあるのは否定しない。走りこみをしたことで下半身が強化出来たし、走り幅跳びや三段跳びは跳躍競技だから全身のばねを使う。野球選手にとってもばねがあるというのは重要なフィジカルファクターであり、そのメリットは決して小さくなかったはずだ。(中略)そうした点を勘案すれば、陸上のトレーニングは上原浩治というピッチャーの基本を鍛え、土台を形成したといえる」
高校になり、名門の東海大学付属仰星高校に入学し、晴れて念願の野球部に入部した。しかし、それまで軟式野球一辺倒だった上原に対し、硬式野球でバリバリに鍛えられてきたほかの選手との差は明らか。上原は当初、ずっとバッティングピッチャーを任される。だが、監督は上原のコントロールのよさに目をつけ、ピッチャーに誘う。ここから快進撃が続くのか……と思いきや、上原はそれを断ってしまう。ピッチャーの練習に課せられる走りこみが嫌だったからだ。
3年生になるとようやくピッチャーに転向するものの、公式戦で投げたのは3試合、6イニングのみ。上原の秘めた才能はまだ開花されない。本人も「プロへ挑戦したいとは考えていなかった」というように、まだ本気ではなかったのだ。
上原の本気が芽生えるのは、19歳の頃だ。
大学受験に失敗し、1年の浪人期間を味わった上原。予備校通いが続き、野球をやりたくてもできないという環境に直面する。片や、同期の高橋由伸や川上憲伸などの有力選手は大学に入っても花形選手としてメディアをにぎわせている。受験勉強漬けになった自分と、野球漬けの日々を送る彼ら。差がつくのは明らかだ。しかし、上原はそれに腐ることなく、むしろ彼らの活躍に刺激され、対抗心が芽生えていった。
そして、大阪体育大学に入ると、メキメキと頭角を現した。阪神大学野球1部リーグで、通算成績36勝4敗、最優秀投手賞4回、リーグ新記録の1試合20奪三振という華々しい成績を収め、学生選抜日本代表としても、キューバの強豪チームを撃破。当然、プロ野球がそんな逸材を放っておくわけはなく、ドラフト1位で球界の盟主・読売ジャイアンツに入団した。
今度こそ、上原の順風満帆な野球人生が始まる……と書きたいところだが、上原のキャリアはそんなに簡単なものではなかった。
プロ1年目こそ、キャッチャーの村田真一や、桑田真澄らのアドバイスを頼りに、15連勝を含む20勝の最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率という投手4冠に輝き、新人賞、沢村賞、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞するなど、華々しい活躍をした。しかし、プロ入り2年目の2000年7月2日のカープ戦、清水隆行の送りバントを処理する際に「ブチッと音が聞こえた」。上原に付きまとう肉離れの始まりだ。そのシーズンは、なんとか戦列に復帰するも、思うように登板できないフラストレーションが蓄積。翌年も、肉離れや膝の痛みに苛まれた上原は、現在に至るまでケガと戦うこととなる。
そんなハンデを背負いながらも、ジャイアンツ時代には100勝以上の記録を挙げ、WBCやオリンピック代表としても活躍した上原。プロ入り10年を経て、FA権を獲得すると、日本球界を代表する投手として、メジャーリーグに挑戦した。
実は、上原のメジャーへの挑戦は2度目となる。プロ入団に際し、23歳の上原は、熾烈な争奪戦を繰り広げていたアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツの間に揺れていた。大型ルーキーの気持ちは、メジャーリーグへの挑戦にほぼ固まっていたが「100%の自信がなかったら、来ないほうがいい」と、エンゼルスのスカウトから忠告を受ける。生活や言葉など、当時メジャーリーグへの挑戦は、野球以外での要素で不安も大きかった。上原の決心は崩れ、ジャイアンツに入団した。
それから10年、上原の心から迷いは消えた。満を持してボルチモア・オリオールズのユニフォームに袖を通すと、34歳のルーキーは、相変わらず故障にも苛まれながら、必死でメジャーリーグの世界に食い下がった。そして、テキサス・レンジャーズを経て、ボストン・レッドソックスに移籍。先発から中継ぎへ、そして抑え投手へと役割を変えながら、世界を代表する絶対的な守護神「koji」へと成長していく。
「苦難」「忍耐」「試練」「挫折」上原のこれまでを振り返ると、そんな言葉が浮かんでくる。しかし、彼はそんなキャリアを恨んではいない。
「我慢と努力を重ねてきたのなら、もう後はなるようにしかならない。結果がどうであれ、悔いのないようにやるだけなのだ」
ワールドシリーズのマウンドで、上原の背中にはジャイアンツ時代から15年間変わることのない背番号「19」が付けられていた。「(19歳だった)浪人時代を忘れないように」上原は、その背番号を選んだ理由をそう語っている。
(文=萩原雄太[かもめマシーン])