「あと3年……」フィギュア高橋大輔が走り続けてきた、ソチ五輪までの長いマラソン

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『それでも前を向くために be SOUL 2』(祥伝社)
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。 「あと3年」  2011年のモスクワ世界選手権終了後、男子フィギュアスケーターの髙橋大輔はそう心に決めた。  8位に終わった06年トリノ五輪から成長を遂げた高橋は、右膝のケガを乗り越え、10年のバンクーバー五輪で日本男子シングルとして初となる銅メダルを獲得。一躍、日本のトップフィギュアスケーターとしてその名を轟かせた。だが、その直後となる10-11年シーズン、思わぬスランプが彼を襲った。 「その後(バンクーバー後)の1年は、『オリンピックメダリストとして勝たなければ』という強迫観念と、『キレイな引き際にしたい』という欲と、『バンクーバーオリンピックでやめておけばよかったのかも…』という迷いがあった」(『それでも前を向くために be SOUL 2』祥伝社)  戦績を見れば、3回の優勝を飾った10-11年シーズンも決して悪くないものだった。しかし、自身としては、納得がいく演技ができなかったのだろう。モスクワ世界選手権を5位で終えた時、高橋は「あと3年」という目標を自らに打ち立て、現役続行の道を選んだ。  11年春にボルト除去手術をして1カ月間スケート靴が履けないブランクを過ごしたが、「3年」という目標を立てた彼は、その期間をすがすがしい思いで過ごした。3年間におよぶ長い「調整期間」、ひとつひとつの試合を「自分を試す場」に設定し、苦手意識のあったバレエにも挑戦。華やかなジャンプだけでなく、スケートのそもそもの滑り方までも抜本的に見直した。結果を急がず、ゆっくりと時間をかけることによって徐々に気持ちは変わっていく。「迷いと濁りが消えて、すっきりと素直にスケートに向けるようになった」。すると、高橋はあることに気づいた。 「やっとスケートが生きがいになった」  12年からは、手術をした膝の痛みが再発する。課題としている4回転ジャンプも、パーフェクトに決めることができない。また、高橋らが男子フィギュアを牽引したことによって、羽生結弦をはじめとする若手のレベルは格段に上がっており、心には不安や焦りの気持ちも湧いてくる。だが、目標は3年後だ。まるでマラソンを走るかのように、遠いゴールに向かって一歩ずつ歩みを進めていった。11-12シーズンはすべての試合で3位以内につけ、続く12-13シーズンも極度の不調に陥った2試合以外はすべて優勝か準優勝という試合を続けていったのだ。  五輪シーズンとあって、各選手の活躍に一層の注目が注がれた今シーズン。「いったい誰が代表に選ばれるのか」と、周囲はかたずをのんで見守っていた。高橋は10月のスケートアメリカこそ4位に終わるも、NHK杯で見事優勝し、五輪という目標に近づいた。しかし、11月26日、練習中に右足を負傷し、2週間の安静を余儀なくされてしまう。その結果、さいたまの全日本選手権では5位というふがいない結果に終わってしまった。それでも、日本スケート連盟が選出した五輪代表選手は高橋大輔だった。「あと3年」その決意が実り、再び大舞台への切符を手にした瞬間だった。  高橋は、ソチを最後に現役引退を表明しているわけではない。しかし「人生の岐路に立っている」と告白する。彼は、ソチ五輪に向けて、こう語っている。 「結果がどうあれ、有終の美でなくても、悔しくても充分やり切った、と思えれば理想。でもあくまでも理想。僕はたとえいい結果でも、もっとできたはずと思うだろうし、どこかに絶対に悔いは残るし、完全に満足も納得もしないものだと思っている。『自分自身の納得』は一生しないと思うから、もうそれは求めない」(『それでも前を向くために~』)  ソチで彼はいったいどのような結果を残すのか? そして、ソチ後、彼はいったい何を選択するのだろうか? 高橋の「3年間」は、この2月に区切りを迎える。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

「国民的大スターの、父の名前を汚すことになる」落ちこぼれの青年が、横綱・白鵬になるまで

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白鵬オフィシャルサイトより
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  2000年、モンゴルから渡ってきた7人の青年たちは、大阪・大東市に連れてこられた。「いったい、これからどんなことが待ち受けているのだろうか……」。日本語も話すことができない彼らの胸は、期待と不安でいっぱいだった。  「摂津倉庫」そこは、アマチュア相撲では有名な実業団だ。彼らは、大相撲の力士になるためにやってきたのだった。この中にいた青年、ムンフバト・ダヴァジャルガルはおとなしく、色白で、か細い青年だった。とても、相撲なんか取れないだろう……誰もがそう思った。相撲部屋の親方やスカウトたちが稽古風景を見学し、モンゴルからやってきた青年たちは次々と入門部屋を決めていくのに、彼の元に近づく親方はいない。仕方なくモンゴルに帰国するためのチケットを取り、両親にも帰国することを電話で伝えた。だが、見るに見かねた同郷の大先輩・旭鷲山の計らいで、彼は宮城野部屋への入門が決まった。  白鵬の、横綱への第一歩はこうして始まった。  父、ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲の横綱選手。モンゴルでは「長嶋茂雄や王貞治ぐらい知られている」という国民的な大スターだ。レスリングのモンゴル代表としても活躍し、メキシコ五輪でモンゴル人初となる銀メダルを獲得する快挙を成し遂げている。一方、母親の職業は医者。遡ればチンギス・ハーンにつながる家系の出身であり、親戚にも大臣や実業家などが多い。幼き日の白鵬は、サラブレッッドとして生まれ育ったのだ。  少年時代は、マイケル・ジョーダンを神様と仰ぎながら、バスケットボールに熱をあげていた白鵬青年。しかし、初めての海外旅行に行けるという軽い気持ちで、来日した。  宮城野部屋に入門すると、細身の青年は、同じモンゴル人の先輩・龍皇関の存在を支えに、厳しい稽古に文字通り歯を食いしばりながら耐えた。相手を指名して続ける「申し合い稽古」や、ひたすらに相手にぶつかっていく「ぶつかり稽古」などで身体を鍛えていく日々。新弟子の頃は、その厳しさについていけず、「兄弟子に髪の毛をつかまれ、引きずり回された」と振り返る。言葉の壁にもぶつかり、何度となく兄弟子から怒られた。 「いまシンドイからと相撲をやめてモンゴルに帰ったら、お父さんに恥をかかせることになる、名前を汚すことになる。それだけは避けなければならない。だったらどうするか。頑張って我慢して、一つでも上位の力士たちと戦って強くなることだ」(『相撲よ!』角川書店)  2001年3月の大阪場所で初土俵を踏んだ白鵬。しかし、デビュー直後の序の口、三段目で一度ずつ負け越している。横綱に昇進した関取で、序の口で負け越した者はいない。つまずきながら、一歩ずつ白鵬はステップを上がっていった。  そんな彼が、なぜ横綱になることができたか? 白鵬は、師匠・熊ヶ谷親方の言いつけを守り、入門した当時主流となっていた欧米式のウエイトトレーニングに手を出さず、四股やすり足などの伝統的な稽古を熱心に行った。そして、先代貴ノ花や、名横綱・双葉山などの相撲をDVDでひたすら研究する。真面目に、愚直に努力を重ね、横綱という最高級の栄誉をもぎ取ったのだ。  そして2007年、白鵬の横綱昇進を受けて誰よりも喜んだのは父だった。  「私は20世紀の横綱、ダヴァ(白鵬)は21世紀の横綱です。こんなことって世界に例がないでしょう」と喜びを爆発させた父。そして、息子に向けて、横綱の心得をこう語った。「大横綱になるには、心・技・体がそろい、常に自分を磨くことだ。国民に愛される横綱になりなさい」  横綱になって以降、白鵬は双葉山に続く連勝記録63勝や、7年連続最多勝記録を打ち立て、現代の名横綱に数えられる存在になった。モンゴル相撲で、そして日本の大相撲でと、親子2代にわたって国民的スターとなった白鵬は、父の教えを守り、父の存在を支えにしながら土俵へと上がっているのだ。今場所では、いったいどんな闘いを見せてくれるのか楽しみだ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●はくほう・しょう 本名は、ムンフバト・ダヴァジャルガル。1985年3月11日、モンゴル国ウランバートル市生まれ。姉3人兄1人の5人きょうだいの末っ子。15歳で来日。中学時代はバスケットボール選手として全国3位と活躍。宮城野部屋入門後、2007年に結婚した夫人との間に1男1女。初土俵:2001年3月場所。新十両:04年1月場所。新入幕:04年5月場所。

「速いだけでなく、強いチームを!」鬼監督・大八木弘明がつくり出した駒大陸上部の黄金時代

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『タスキを繋げ!―大八木弘明-駒大駅伝を作り上げた男』(晋遊舎)
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  今年も箱根駅伝の優勝候補に名乗りを上げている駒澤大学。10月の出雲駅伝、11月の全日本大学駅伝で2連勝した駒大にとって、今回の箱根は「学生駅伝3冠」という大記録をかけた戦いだ。この駒大陸上部を率いるのが、選手たちから「鬼」と恐れられ、同時に慕われている名将・大八木弘明。1996年に監督に就任すると、それまで低迷にあえいでいた駒大陸上部を見事強豪チームに仕立て上げ、02~05年の4連覇をはじめ、箱根駅伝で実に6回の優勝を飾っている。  いったい、大八木監督は、どのようにして、チームを最強の駅伝軍団に仕立て上げてきたのだろうか? ノンフィクションライター・生江有二氏による大八木監督のドキュメント『タスキを繋げ!』(晋遊舎)から、その秘密を見てみよう。  学生時代は、駒大の選手として箱根を走っていた大八木。1年生の時には山登りの5区を、そして2、3年生の時には花の2区を任されていた。しかし、4年生の時には箱根駅伝に出場していない。ケガや体調不良ではなく、年齢制限に引っかかったためだ。  高校卒業後、大八木は家庭の事情によって大学進学をあきらめざるを得なかった。印刷会社に就職し、実業団選手として経験を積むも、高校生の頃に抱いた「箱根を走りたい」という夢は捨てきれない。川崎市役所に勤めながら、駒澤大学の夜間学部に進学したのは25歳の時だった。  遅いデビューだったものの、周囲の学生よりも身体が出来上がっていたことが幸いし、念願の箱根で区間賞を2回獲得する活躍を見せる。また、この当時から後輩たちの指導を行っており、すでに監督としての才能を発揮していた。その後、ヤクルトで実業団選手兼コーチとして活躍していた大八木が、駒澤大学のグラウンドに戻ったのは96年、38歳の時だった。  だが、彼の前に現れたのは、やる気に満ちあふれるアスリートたちの姿ではなかった。合宿所にはゴミが散らばり、あたかも「山賊のすみか」のような様相を呈している。スロット台や麻雀卓だけでなく、長距離選手にとって天敵ともいえるタバコが灰皿にうず高く積まれており、朝練も不定期……。「毎日のように罵声を飛ばして生活改善からはじめなければならなかった」と、大八木は当時を振り返る。  京子夫人の協力を得て、選手たちにバランスのよい食事を摂らせ、生活習慣を改善。規律を取り戻し、練習に打ち込める環境を整えていくと、だんだんと選手たちの顔色も変わっていく。1年目の箱根こそ総合12位という成績に終わったものの、2年目には早くも復路優勝(総合6位)という快挙を成し遂げた。  ある時は、視聴者から「監督がうるさい」とクレームがくるほど、大八木は声が枯れるまで選手たちに檄を飛ばす。その熱量に促され、選手たちも自らの体力の限界を超えた走りをすることができるのだ。大八木の下でコーチを務める高橋正二は、その育成方法についてこう証言する。 「(大八木監督は)練習の中でつかみ取る気迫を鍛錬することが第一義であると語っているように思います。集団走で離れたら、離れっぱなしで終わらせるな、必ず追いつけと、指示を出す。そうした我慢強さ、挑戦心を選手に持てと言うのですね」  大八木は、地味で粘り強く走る「泥臭い走り」が好きだと明言している。彼の理想は「速いだけでなく、強いチームを!」だ。駅伝はゴールまでの速さを競う競技であると同時に、チーム対チーム、人間対人間の勝負でもある。選手たちの「気迫」や「我慢強さ」を鍛え上げることで、駅伝という「競技」で勝てるチームを育て上げているのだ。  しかし、大学の運動部である以上、選手たちは純粋なアスリートではない。駅伝の指導者でありながら教育者でもある大八木は、08年の箱根駅伝に優勝した喜びの中、自身の仕事をこう語った。 「心から感動したことが、走ることをやめたのちも、常に生きていく支えになっていく。その瞬間を選手ひとりひとりに知ってもらいたい。それが私の願いだし、鬼になる理由です。1位になった栄誉とか、大学の名誉とかいうのは一瞬ですが、全員で笑い合って感動したという思い出は一生忘れません」  この正月も、箱根の山に鬼監督・大八木の声がこだまする。そして、その声に力をもらった駒大選手たちは、過酷な箱根への道を走り抜けていくだろう。レース中に聞こえる大八木の怒号は、選手にとって、その後の人生を支える希望としても響いてゆくだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

「ああいう馬に巡り合いたい……」名騎手が忘れられない真の名馬・シンボリルドルフ

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JRA公式サイトより
 芝2,500mのレースで争われる有馬記念ならば、タイムはおよそ2分30秒あまり。その一瞬一瞬に、冷静な判断力で馬を操るのが騎手の仕事だ。そんな厳しい競馬の世界で、岡部幸雄は1967年から2005年にかけて38年間、1万8646レースを戦い続けた。G1レースの勝利数は38勝、通算成績は2943勝。この勝利数は、武豊に次いで歴代2番目の数字となっている。岡部は日本競馬会に輝かしい実績を残した騎手だ。  71年からたびたび海外を訪れ、各地の競馬を学んだ岡部。現在でこそ、多くの騎手が海外遠征で修業を積んでいるが、当時まだそんな事例は少数派だった。騎乗実績としては、アメリカを中心に12カ国で騎乗し、98年にはタイキシャトルに騎乗して仏・ジャック・ル・マロワ賞に勝利。このほかにも、彼は乗馬フォームや調教時のジーンズの着用、エージェント制度の導入など競馬にまつわるさまざまな事柄を学び、日本に導入していった。保守的な日本競馬会において、岡部の導入する斬新なスタイルを「アメリカかぶれ」と罵る声も上がったが、現在では、その多くが日本でも定着しているのだ。当代一のスタージョッキーである武豊ですら、インタビューで「岡部さんの偉大さがつくづくわかりました。僕があの人の影響をすごく受けていた、ということにも気づいた」と、その影響を語っている。  そんな岡部にとって、忘れられない馬が「皇帝」の異名を付けられた名馬・シンボリルドルフだ。  84年の皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3冠をはじめ、有馬記念、ジャパンカップ、天皇賞など、圧倒的な強さでG1レースを手中に収め続けたシンボリルドルフ。そのすべてのレースで、鞍の上にまたがったのが岡部だった。彼は38年間の長きに渡る騎手生活を過ごせた理由として、シンボリルドルフとの出会いを語る。 「また、ああいう馬に巡り合いたい。もう一度、ああいう馬をつくりたい――。ルドルフに出逢ってからは、そんな想いに取りつかれてしまったのである」(『勝負勘』/角川oneテーマ21)  では一体、シンボリルドルフの何が特別だったのだろうか?   例えば84年の日本ダービー。第3コーナーを回って、第4コーナーを過ぎても、シンボリルドルフの位置取りは7〜8番手。いくら岡部がムチを入れても、シンボリルドルフは本気で走ろうとはしなかった。最後の直線になり、焦る岡部は強めのムチを入れる。しかし、皇帝はまだ動こうとしない。だが、「さすがのシンボリルドルフもここまでか……」と誰もが思った残り400メートル。突如としてルドルフのエンジンに火がつくと、あっさりと先行馬を抜き去って、先頭でゴールに飛び込んでしまった。  レース後にビデオを見返した岡部は、残り400メートルの地点が「仕掛けのタイミングとしてピッタリだった」ことに驚く。騎手ではなく、馬が勝手にレース展開を読み、勝利までの最短距離を計算していたのだ。 「ルドルフは私の指示をそのまま聞くのではなく、自分でレースをつくったのである。そして私は、それによって理想の仕掛けのタイミングを学ぶことができた」(『勝負勘』)  シンボリルドルフが出走したレースは16戦。岡部の生涯戦績のわずか1000分の1にも満たないものだ。しかし、若き日の岡部にとって、ルドルフとともに戦った16戦で得た喜びや悔しさが、その後の騎手人生を送るための大きな財産となった。そして、彼は歴史に名を残すトップジョッキーに成長していく。おそらく岡部にとって、後にも先にもルドルフ以上の馬はいなかっただろう。  引退後、岡部は、北海道に暮らしていたシンボリルドルフの元を訪れている。いつも、気性が荒いシンボリルドルフは、傍に来た人間に対して悪戯をするのだが、岡部が近づいていってもおとなしく過ごしていたという。2011年、「皇帝」の異名を持つ名馬は30歳でその生涯に幕を閉じた。 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●おかべ・ゆきお 1948年群馬県生まれ。84年、シンボリルドルフで無敗のクラシック3冠達成をはじめ、数々の名馬でGI制覇を成し遂げた。その見事な手腕は「名手」と称される。85年からほぼ毎年、海外のレースに参戦する国際派ジョッキーとしても活躍。競馬関係者からは畏敬の念をこめて「ジョッキー」の通り名で呼ばれる。05年3月20日、「生涯一騎手」の人生を貫き、38年間の騎手生活に終止符を打つ。

南アフリカW杯落選の悔し涙から4年 夢を追い越した、香川真司の戦い

1505355421128.jpg アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  2010年、南アフリカワールドカップ。岡田武史監督率いる日本代表23人の中に、香川真司の姿はなかった。アジア最終予選にも出場していたものの、岡田監督が選んだのは彼ではなかった。香川は、サポートメンバーとして、南アフリカで日本代表チームの戦いを見ていた。  「野球をさせたい」という父親の意向に反して、小学生の頃からサッカーばかりしてきた香川は、中学生になると、両親と暮らす神戸から、仙台市に拠点を置く「FCみやぎバルセロナ」に入部する。プロを目指す子どもたちならば、Jリーグのユースチームに入るのが一般的。しかし、彼は「街クラブ」へのサッカー留学を選んだ。 「プロのクラブチームに所属すると、トップ昇格することでしかプロへの道は開けない。しかも進める道はそのチームだけ。それよりも街クラブに入れば、いろいろなところから注目されてオファーがもらえる」(『香川真司』汐文社) と、小学生にして、冷静すぎる判断を下していたのだ。  親元を離れてサッカーに打ち込んだ中高生時代の香川は、全国大会での華々しい成績やU-15日本代表への選出などにより、17歳でセレッソ大阪に入団。ユース所属の選手を除き、高校卒業前の選手がプロ契約を結ぶのは初めてだった。1年目こそ試合への出場機会はなかったが、2年目からは大ブレーク。レギュラーを獲得すると、セレッソにとって欠かせない選手に成長していく。  Jリーグなどでの活躍が評価され、2008年に日本代表として選出された香川。しかし、ワールドカップ南アフリカ大会にはまさかの落選。「ワールドカップメンバーになれるとはあんまり思っていなかったんですよね(笑)。だから、悔しさってそんなにないんです」(「週刊プレイボーイ」集英社)と語った香川だが、代表落選の当日に開いた記者会見では、悔し涙を滲ませていた。  そして2010年、ドイツ・ブンデスリーガの古豪、ボルシア・ドルトムントへと移籍する。  香川は、ピッチの上と同様に、常に冷静な判断を下す。それは、「プロになる」という目標のために仙台に一人渡った時もそうだし、ドルトムントに移籍する前に、ブンデスリーガを訪れ、サポーターたちの熱狂の渦中で自分の実力がここで通用するのかを見定めた時もそうだ。そして、彼が出した答えが「通用する」。事実、マスコミ各紙が選出するブンデスリーガの年間ベストイレブンや、欧州年間ベストイレブンに名を連ねるほどの活躍を果たし、クラブをリーグ優勝へと導く。  そして2012年、香川は英プレミアリーグの名門・マンチェスターユナイテッド(以下、マンU)に移籍。膝の負傷によって戦列を離れるアクシデントもあったが、プレミアリーグにおいてアジア人選手初のハットトリックなどの偉業も達成し、またしてもチームのリーグ優勝に貢献。その活躍は「不敗神話」とも形容されている。  サッカー界は、来年のワールドカップブラジル大会に向けて、最高潮の盛り上がりを迎える。「日本代表に選ばれて、海外に出て活躍したい」と宣言していた少年は、今では日本代表にもマンUにも欠かせない選手に成長し、夢のさなかを生きているのだ。しかし、その熱に浮かされることなく、やはり香川の分析は冷静そのもの。日本代表にとって「ワールドカップまでにやらなければならないことがまだまだある」と語る。 「今はみんなから信頼されてきて、攻撃の組み立てに関われる時間が多いのは確かですが、チャンスを決めきれるようにチャレンジしていかなければならないですし、味方にも要求していかなければならない。そうすれば、もっと可能性は広がりますし、大きな可能性があると思っています。まだまだ改善の余地がありますね」(「SAMURAI SOCCER KING」12月号増刊/講談社)  どこまでも冷静に分析し、ストイックに磨きをかける。日本はもちろん、マンUのルーニーが一目置き、デイヴィッド・モイーズ監督もその知性を高く評価している。来年25歳になる若者は、ブラジルの地で、その夢をどこまで更新していくのだろうか。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

二度のバッシングと名将の称号 サッカー岡田武史監督が証明した“日本人の実力”

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『日本人を強くする』(講談社)
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  日本代表を初めてワールドカップに連れて行ったのも、南アフリカ大会で決勝トーナメント進出をもぎ取らせたのも彼だ。先日、中国リーグでの監督退任を発表した岡田武史監督。彼の日本サッカー界に対する功績は計り知れないだろう。しかしながら、時にはバッシングの嵐が吹き荒れ、その解任が声高に叫ばれたこともある。いったい、岡田の日本代表監督としてのキャリアとはどのようなものだったのか? 福島大学・白石豊との共著『日本人を強くする』(講談社)から、もう一度見直してみよう。  1997年、W杯フランス大会アジア予選の途中に、加茂周から引き継ぐ形で監督に就任した岡田。まだほとんど世間に名を知られていなかったものの、次の試合までは一週間しかなく、監督を任せられる人材はコーチを務めていた岡田しか存在しなかった。急場しのぎの就任を不安視する声もあったが、絶不調だったチームは見事立ち直った。「ドーハの悲劇」から4年、見事予選大会を勝ち抜き、本大会へと駒を進めた日本代表を、世間は「岡ちゃんフィーバー」で迎え入れた。  しかし、フランス大会ではアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに対して3戦全敗。盛り上がった世間からの岡田への信頼は、「経験不足の監督」として手のひらを返すようにひどいバッシングへと姿を変える。「人間不信に陥るほど」と、岡田は当時のバッシングのすさまじさを語っている。  その後、岡田はコンサドーレ札幌の監督に就任し、J2チームをJ1へと導く。さらに、横浜F・マリノスの監督に転じると、Jリーグ2連覇の快挙を成し遂げた。当時、岡田の方針は、ロジカルにサッカーを思考すること。当初、その試みは成功を収めていた。しかし、その雲行きはだんだんと怪しくなっていく……。 「2005年あたりから何か引っかかるようになった。理詰めでサッカーを分析し、あたかも将棋の駒のように選手を動かすことに対して、私の中で“こんなのでいいのかな”という思いが湧いてくるようになったのである」  選手は岡田の顔色をうかがい、指示を待ちながらプレーするばかり。そんな方法では、強いサッカーを生み出すことはできない。岡田の疑念が膨らむにつれて、マリノスの成績は下降。2連覇を果たしたチームは、下位に低迷するようになってしまったのだ。06年、岡田はマリノス監督を辞任する。  そして、07年暮れ、またしても岡田には“急場しのぎ”の役割が回ってきた。脳梗塞によって倒れたイビチャ・オシムの後任として、再び日本代表監督就任の打診を受けたのだ。「チャレンジしてみたかった」という岡田は、そのオファーを受諾。次のW杯南アフリカ大会までは3年の時間があった。  岡田は、自分の手腕に絶対の自信を持ちながら采配を振るうタイプの監督ではない。悩みながら、苦しみながら、ベストな采配をギリギリまで考え抜いていく。 「指導者としての能力を考えた時に決してそんなに大したことはないんです。(中略)走りだしてみたら、いろんな人が助けてくれて、今に至っています」  岡田は、W杯南アフリカ大会での目標を「ベスト4」に掲げた。これまで日本が出場したフランス大会、日韓大会、ドイツ大会で、日本代表の最高位はベスト16。その目標は大風呂敷だった。だが、岡田は本気だ。体格で世界の選手に劣る日本人が互角に闘い抜くために、岡田は体操競技や陸上競技など、他ジャンルのスポーツの知識を活用。骨盤の使い方を矯正することで、日本人の身体で戦えるサッカーを鍛え上げた。さらに、代表招集期間以外には、選手たちに手紙を書き「本気でベスト4を目指そう」というメッセージを送った。岡田のその姿勢に、選手たちも次第に感化されていく。  日本代表は09年、アジア予選を制し、W杯へと駒を進めた。  だが、W杯イヤーになって、またしても岡田へのバッシングが吹き荒れた。キリンチャレンジカップでは、ベネズエラ相手に0-0の引き分け、東アジアサッカー選手権では韓国に、4月にはセルビアに完敗する。いったい、日本代表は大丈夫なのか……そんな不安が多くのメディアでささやかれ、南アフリカに向かう空港では、岡田監督の解任を訴える横断幕も掲げられた。  南アフリカ大会で、カメルーン、オランダ、デンマークという格上チームと同じ組になった日本にとって、岡田の掲げたベスト4という目標は絶望的だった。1勝もできずに帰ってくるのではないか……誰もがそう考えただろう。しかし、本田圭佑を1トップに据えた岡田ジャパンは、初戦カメルーン戦に1-0で勝利、オランダには0-1で惜敗したものの、続くデンマーク戦では3-1の勝利を飾り、決勝進出を決めた。  デンマーク戦は、岡田の人生でも、そして日本代表としても誇るべき試合だった。  「おちょくるぐらいのプレーをしていい」と選手を鼓舞したデンマーク戦。選手たちは自らの考えで果敢に動き回り、格上のチームを翻弄する。そこには、岡田の顔色をうかがうような選手の姿はない。まさに岡田が理想とするサッカーだった。本田、遠藤、岡崎のシュートによって3点をもぎ取った日本代表。失点も、わずか1点しか許さなかった。  決勝トーナメント初戦、日本代表はパラグアイ戦にPKの末敗れた。この瞬間、彼らの、そして岡田のワールドカップは幕を閉じた。しかし、ベスト4に入れなかったことを叱責する者もいなければ、まさか「岡田解任」という言葉を吐く者もいない。日本代表が世界を相手に互角に戦ったのだ。 「たくさんのチームをつくってきたが、その中でも1、2位を争う素晴らしいチーム。ピッチの中でも日本人の誇り、脈々とつながる日本人の魂を持って戦ってくれた」  岡田は、監督として、世界の舞台で日本人のサッカーが互角に戦えることを証明したのだ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

「浪人時代を忘れない」背番号19に秘められた、レッドソックス上原浩治の決意

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『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』(創英社/三省堂書店)
アスリートの自伝・伝記から読み解く、本物の男の生き方――。  10月19日、ボストン・レッドソックスのクローザー・上原浩治がアメリカの宙に舞った。チャンピオンシリーズで1勝3セーブ6イニング無失点の記録をマークし、MVPも受賞した上原。38歳という年齢、ケガや不調に見舞われながらも、プロ入り15年にして世界一の座をもぎ取ったのだ。幾度となく回り道を強いられながらも、決してあきらめずに野球に取り組んできた彼が、世界を制するまでの足跡を、2010年に刊行された自伝『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』(創英社/三省堂書店)から振り返ってみよう。  「雑草魂」という言葉で、流行語大賞に選ばれたように、上原はエリートコースから程遠いキャリアをたどった。5歳から地元の野球チームに入り、その楽しさに目覚めた上原少年。だが、中学校には野球部はなく、陸上部に入部せざるを得なかったが、三段跳びで大阪府5位の記録を残すなどの好成績を挙げた。野球がしたかった上原にとって、陸上は決して本意ではない選択だった。しかし、上原はこう振り返る。 「陸上をやっていたお陰で、プラスになったこともあるのは否定しない。走りこみをしたことで下半身が強化出来たし、走り幅跳びや三段跳びは跳躍競技だから全身のばねを使う。野球選手にとってもばねがあるというのは重要なフィジカルファクターであり、そのメリットは決して小さくなかったはずだ。(中略)そうした点を勘案すれば、陸上のトレーニングは上原浩治というピッチャーの基本を鍛え、土台を形成したといえる」  高校になり、名門の東海大学付属仰星高校に入学し、晴れて念願の野球部に入部した。しかし、それまで軟式野球一辺倒だった上原に対し、硬式野球でバリバリに鍛えられてきたほかの選手との差は明らか。上原は当初、ずっとバッティングピッチャーを任される。だが、監督は上原のコントロールのよさに目をつけ、ピッチャーに誘う。ここから快進撃が続くのか……と思いきや、上原はそれを断ってしまう。ピッチャーの練習に課せられる走りこみが嫌だったからだ。  3年生になるとようやくピッチャーに転向するものの、公式戦で投げたのは3試合、6イニングのみ。上原の秘めた才能はまだ開花されない。本人も「プロへ挑戦したいとは考えていなかった」というように、まだ本気ではなかったのだ。  上原の本気が芽生えるのは、19歳の頃だ。  大学受験に失敗し、1年の浪人期間を味わった上原。予備校通いが続き、野球をやりたくてもできないという環境に直面する。片や、同期の高橋由伸や川上憲伸などの有力選手は大学に入っても花形選手としてメディアをにぎわせている。受験勉強漬けになった自分と、野球漬けの日々を送る彼ら。差がつくのは明らかだ。しかし、上原はそれに腐ることなく、むしろ彼らの活躍に刺激され、対抗心が芽生えていった。  そして、大阪体育大学に入ると、メキメキと頭角を現した。阪神大学野球1部リーグで、通算成績36勝4敗、最優秀投手賞4回、リーグ新記録の1試合20奪三振という華々しい成績を収め、学生選抜日本代表としても、キューバの強豪チームを撃破。当然、プロ野球がそんな逸材を放っておくわけはなく、ドラフト1位で球界の盟主・読売ジャイアンツに入団した。  今度こそ、上原の順風満帆な野球人生が始まる……と書きたいところだが、上原のキャリアはそんなに簡単なものではなかった。  プロ1年目こそ、キャッチャーの村田真一や、桑田真澄らのアドバイスを頼りに、15連勝を含む20勝の最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率という投手4冠に輝き、新人賞、沢村賞、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞するなど、華々しい活躍をした。しかし、プロ入り2年目の2000年7月2日のカープ戦、清水隆行の送りバントを処理する際に「ブチッと音が聞こえた」。上原に付きまとう肉離れの始まりだ。そのシーズンは、なんとか戦列に復帰するも、思うように登板できないフラストレーションが蓄積。翌年も、肉離れや膝の痛みに苛まれた上原は、現在に至るまでケガと戦うこととなる。  そんなハンデを背負いながらも、ジャイアンツ時代には100勝以上の記録を挙げ、WBCやオリンピック代表としても活躍した上原。プロ入り10年を経て、FA権を獲得すると、日本球界を代表する投手として、メジャーリーグに挑戦した。  実は、上原のメジャーへの挑戦は2度目となる。プロ入団に際し、23歳の上原は、熾烈な争奪戦を繰り広げていたアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツの間に揺れていた。大型ルーキーの気持ちは、メジャーリーグへの挑戦にほぼ固まっていたが「100%の自信がなかったら、来ないほうがいい」と、エンゼルスのスカウトから忠告を受ける。生活や言葉など、当時メジャーリーグへの挑戦は、野球以外での要素で不安も大きかった。上原の決心は崩れ、ジャイアンツに入団した。  それから10年、上原の心から迷いは消えた。満を持してボルチモア・オリオールズのユニフォームに袖を通すと、34歳のルーキーは、相変わらず故障にも苛まれながら、必死でメジャーリーグの世界に食い下がった。そして、テキサス・レンジャーズを経て、ボストン・レッドソックスに移籍。先発から中継ぎへ、そして抑え投手へと役割を変えながら、世界を代表する絶対的な守護神「koji」へと成長していく。  「苦難」「忍耐」「試練」「挫折」上原のこれまでを振り返ると、そんな言葉が浮かんでくる。しかし、彼はそんなキャリアを恨んではいない。 「我慢と努力を重ねてきたのなら、もう後はなるようにしかならない。結果がどうであれ、悔いのないようにやるだけなのだ」  ワールドシリーズのマウンドで、上原の背中にはジャイアンツ時代から15年間変わることのない背番号「19」が付けられていた。「(19歳だった)浪人時代を忘れないように」上原は、その背番号を選んだ理由をそう語っている。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

甲子園の激闘から7年……楽天優勝の立役者・田中将大が歩んだ軌跡

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『田中将大 ~若きエース4年間の成長~』(小学館)
アスリートの自伝・伝記から読み解く、本物の男の生き方――。  2006年夏の甲子園、決勝に駒を進めたのは、斎藤佑樹の早稲田実業と田中将大の駒澤大学附属苫小牧高校だった。延長15回にまで及んだ両校の戦いは1対1の引き分けで決着がつかず、翌日の再試合に持ち込まれる。結果、3対4で早稲田実業に軍配が上がった。  早稲田大学に進学した斎藤に対して、田中は東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。監督は、知将として知られる野村克也だった。  今期・楽天イーグルスは球団初となるパリーグ優勝、日本シリーズ出場を果たした。田中は、この快挙の一番の立役者といって過言ではないだろう。開幕から24連勝という記録は、日本プロ野球史上初のものだ。  あの甲子園から7年、いったい、田中はどのようにして成長をして、楽天を優勝へと導いていったのだろうか?  プロ1年目から、田中は一軍のマウンドを任された。記念すべきデビュー戦となった3月29日の対福岡ソフトバンクホークス戦。「ビビらずに、どんな相手にも、向かって投げられたらいいなと思います」と意気込みを語ったが、結果は惨敗に終わる。1回2/3を投げて、6安打3奪三振、1四球で6失点。負け投手にこそならなかったものの、その内容はKOと呼ぶにふさわしいものとなった。  だが、このKO劇には野村監督の思惑があったという。日本球界を代表する選手に成長すると判断した野村監督は、高卒ルーキーをあえて強力打線を誇る福岡ソフトバンクホークスとのアウェー戦に送り出した。抑えれば自信につながるし、もし打たれても這い上がってくるだろうという読みだ。結果、プロの洗礼を浴びた田中は、ルーキーシーズンに11勝を記録、新人王を獲得した。   「田中が投げると、負けていても不思議と逆転した試合が多かったように思います。野手は『ルーキーが頑張っているのだからなんとかしてやろう』と意気に感じていましたし、マウンド上で闘志を前面に出す投球スタイルはチームメイトを引き込む魅力がありました」(『楽天イーグルス 優勝への3251日』角川SSS新書)  ルーキー時代の田中と同じ楽天のユニフォームを着ていたスポーツジャーナリスト・山村宏樹は当時を振り返り、こう表現する。田中という怪物ルーキーの存在がチーム全体のムードを盛り立てた。  恩師・野村監督と共に、田中に影響を与えた人物が岩隈久志。楽天草創期を支えた選手であり、2012年にメジャーリーグに渡るまで、7年間をチームのエースとして活躍した。そんな岩隈の背中を見ながら若い時代を過ごせたことは、田中にとって大きな財産となった。 「私が入団したとき、岩隈久志さんという大エースがいました。ルーキーなのに生意気にも岩隈さんのことは意識していましたし、直接アドバイスを頂いたり、見て学んだりすることも本当に多くありました」(『田中将大 ~若きエース4年間の成長~』小学館)  ピッチングフォームから、試合運び、球場の外での過ごし方など、田中は、岩隈から多大な影響を受けて成長。そして、2012年からは楽天を離れ、シアトル・マリナーズで孤軍奮闘する岩隈に代わり、田中が名実ともにエースの座に就任する。昨シーズンはケガなどに泣かされ10勝という例年に比べると振るわない成績に終わったが、今シーズンは破竹の勢いでペナントレースを爆進。その活躍を間近で見る小山伸一郎投手は、田中に生まれた変化を見る。 「昨季までは、打たれたら力んで、力でねじ伏せようとしていたのですが、2013年は力むこともなく、最終的にゼロで抑えてイニングを終えればいいと考えているようです。緊迫したゲーム展開でも、イニング間に気持ちを上手く切り替えていますし、まさに大人ですね。練習でも、私生活でも、全てにおいてメリハリが効いていますし、このメリハリが、ピンチを迎えてからギアを上げて抑える、マウンドさばきに繋がっていると思います」(『楽天イーグルス 優勝への3251日』角川SSS新書)  エースとして、1シーズンを乗り切ることは決して容易いことではない。それを実現するために、田中は緩急のリズムをつかんだ。その成長が、今シーズンの優勝につながったのだ。  2010年に、田中は「理想の投手像」を次のように語っている。 「やっぱり周りから信頼を得られて、『お前が投げれば勝てる』とか『お前なら任せられる』と思われるピッチャーになりたいですね。あとは、チームの流れが悪い時に自分でその流れを変えられるような、チームにとって影響力のあるピッチャーにもなりたいです」(『田中将大 ~若きエース4年間の成長~』小学館)  今、この目標が達成されたことは、誰の眼にも明らかだろう。甲子園の怪物から楽天のエースへ、そして日本球界のエースへと一歩一歩成長を続けた田中。かつては興味を示していなかったものの、現在、その眼はメジャーリーグをも視野に入れている。上原浩治、松坂大輔、ダルビッシュ有、そして先輩・岩隈久志らが活躍する本場・アメリカに飛び込み、日本のエースが世界のエースとなる日も近いかもしれない。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])