32年の現役生活に幕を下ろした“球界のレジェンド”山本昌を支えた2人の男

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『山本昌という生き方』(小学館)
 2015年9月30日、ひとりの男が現役引退を発表した。1983年にドラフト5位指名を受けてから32年、山本昌は、中日ドラゴンズでひたむきに野球に取り組んできた。通算219勝、最多勝に3回、沢村賞や最優秀投手などにも輝いた成績は、名実ともに球界を代表するもの。しかし、「レジェンド」と呼ばれた現役生活には、多くの困難があった。  ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団した山本の前には、その当初から挫折が待ち受けていた。プロになって初めての合同自主トレに参加すると、キャンプインの前のウォーミングアップメニューにもついていくことすらできない。全力を出しても先輩たちの走るスピードに置いていかれ、キャッチボールをすれば圧倒的なレベルの差に絶望させられる。「とんでもないところに来てしまった……」と、自主トレ初日からプロの世界に入ったことを後悔し、「奈落の底に突き落とされた」と振り返っている。  その後、プロ5年目になるまで、山本の成績は1軍と2軍の間を行ったり来たりする凡庸なものに終わっている。 「少なくとも才能やセンスに溢れるタイプではなかった。全力投球しても、急速は140kmに満たない。スポーツ選手向きの勝ち気な性格でもない」(『山本昌という生き方』小学館)  では、そんな選手が、どうして現役を続けられたのだろうか? そこには、彼を支える男たちの存在があった。 「向こうのリーグで投げろ」  88年、当時監督を務めていた星野仙一は、山本にドジャース傘下の1Aベロビーチ・ドジャースへの留学を宣告した。絶対に逆らうことのできない非情通告だったが、アメリカでの生活は彼を本物のプロ野球選手へと成長させた。特に、ドジャースの会長補佐を務めていたアイク生原との出会いは、彼の野球を大きく変えるきっかけとなった。  現地で世話役となっていたアイクは、徹底的に野球理念を叩き込む。「初球ストライク」「低めに投げろ」というシンプルなものから、どんなにピンチの状況に追い込まれても「まだ終わったわけではない」という、あきらめない気持ちを持つこと。そして、野球に対する熱意や楽しさ。アイクとの日々は、山本の才能を開花させた。アメリカで、必殺技となるスクリューボールと「1軍の試合でもやれるんだ」という自信を会得すると、1Aのオールスターにも出場。そして、日本に戻った時、彼は中日ドラゴンズの投手の柱となっていた。  星野の勧めたアメリカ留学が、若き日の躍進のきっかけとなったなら、ベテランとなった彼に最大の影響を与えたのは、落合博満だろう。 「勝利至上主義」を徹底した落合は、若手であろうがベテランであろうが、徹底的に実力主義で選手を起用した。落合が中日の監督に就任した04年当時、山本昌の年齢は38歳。普通のチームならば、若手選手に出場機会を奪われてもおかしくない年齢だが、落合は彼の実力を信頼し、ローテーションの一角として起用し続ける。そして、13年にGMに就任した落合は、48歳の山本に対してこう言った。 「マサ、50歳までやってみたらどうだ。誰もやったことがないんだから、挑戦してみろ!」  相次ぐ故障に見舞われながらも、その言葉に奮起させられた彼は現役を続行。14年には1勝をもぎ取り、プロ野球最年長登板記録を更新した。そして、15年10月7日、50歳2カ月の山本は、対広島戦に先発し、打者ひとりに対してスクリューボールを投げて、セカンドゴロに打ち取った。長い長いプロ野球人生の終わりだった。  50歳になっても、山本は「自分がプロ野球選手に向いているのか、いまだにはっきりした答えは出ない」と語る。しかし、そんな彼には唯一にして絶対の才能があった。 「ひとつだけ誰にも負けない点がある。それは“しつこさ”だ。自分のできることをコツコツとやり続ける。しつこく、しつこくやり続けて、僕はこの世界を生き抜いてきた。才能やセンスに溢れ、光り輝く人生は素晴らしい。プロ野球の世界には、そういうスター選手が数多くいる。でも、僕にはできなかった。ただ、才能やセンスがなくても、時間さえかければ、鈍く光る生き方はできるのだ」(『山本昌という生き方』)  32年という長い時間をかけて、自分を磨いていった山本昌。その光は、どんなスター選手にも生み出せない特別な輝きとして、日本球界に記録された。

「陸上界に新しい可能性を示してやる」市民ランナー・川内優輝の使命感とマラソン愛

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『走れ、優輝』(中央公論新社)
 埼玉県庁の市民ランナー・川内優輝が大きくメディアに取り上げられるようになったのは、2011年の東京マラソンがきっかけだった。この大会で、2時間08分のタイムを叩き出し、日本人としては最高位となる3位に入賞した川内。まさか、実業団にも所属しない「市民ランナー」がここまで脚光を浴びるとは、誰も考えていなかった。  以降、国内大会のみならず、シドニーマラソン、エジプト国際マラソン、オーストラリア・ゴールドコーストマラソンなど、海外の舞台でも優勝を収めてきた川内。ロンドン五輪こそ出場できなかったが、2011年の世界陸上テグ大会、2013年の世界陸上モスクワ大会にも出場を果たしている。  公務員としてフルタイムの仕事をこなしながら、市民ランナーとしてトレーニングを積む川内。いったいどうして、川内だけがこのような好成績を残すことができたのだろうか? 彼の母親が執筆した『走れ、優輝』(中央公論新社)を元に、その秘密をのぞき見てみよう。  春日部東高校で陸上部に所属し駅伝を走っていた高校3年生の川内は、学習院大学への進学を決意する。これは、駅伝をする高校生にとって異例の決断だった。学習院の陸上部は、箱根駅伝に出場したことがない、いわば弱小校。けれども、川内は強豪大学に進学して厳しい環境に身を置くことよりも、「楽しく走る」ことを優先した。  だが、学習院大学陸上部に入部した川内の胸には、「本当にこんな練習でいいのだろうか?」という戸惑いが広がる。  高校時代は、春日部東高校で毎日厳しい練習に取り組んできた川内。しかし、大学では朝練もなく、週に2回も休みがある。高校では週に3~4回行われていたハードな「ポイント練習」も、大学では週に2回。監督は「無理をするな」「競り勝たなくていい」とアドバイスを送る……。  だが、意外にも、川内はこの環境でグングンと成績を伸ばしていったのだ。高校時代は厳しい練習によってケガに苛まれていた川内。大学の少ない練習時間は、入念な準備運動や体のケア、少ない時間で効率よく練習することを彼に教えた。高校時代は県大会レベルだった記録は、関東大会で戦えるほどに向上。川内は箱根駅伝の関東学連選抜として、学習院大学初の箱根駅伝出場選手に選出される。  在学中には、2回の箱根駅伝出場で、それぞれ区間6位、区間3位という成績を収めた川内。普通のランナーであれば、実業団に入り、次なるステージに進むのが常識だが、川内が選択したのは「国家公務員試験」だった。実業団からも誘いがあったが、陸上だけでずっと食べ続けられる実力はないと考えた川内は、公務員として勤務しながらマラソンを続けていくことを選択した。  だが、川内は自信がないわけでも、楽な道を選んでいるわけでもない。彼ほどマラソンを愛している人間もいないだろう。当初から、川内の目標は「継続して楽しみながらやっていくこと」と「生涯現役を貫く」こと。彼にとって、マラソンは若い間のスポーツではなく、一生をかけて取り組むものなのだ。試験をパスするも、国家公務員になると陸上の練習時間を確保することは難しいと考えた川内は、内定を辞退して地方公務員に就職する。彼は、マラソンのために埼玉県庁を選んだのだ。  社会人となった川内は、埼玉県立春日部高等学校定時制に埼玉県職員として勤務しながら、毎日2時間ほどを練習に充てている。もちろん、ほかの選手に比較して練習は少なく、実業団選手が月に1000km走るところ、川内は600kmほど。また、実業団では1日に2回、3回と練習を重ねるが、川内の練習は1日に1回のみ。1回きりの練習に集中して取り組むことで、長時間の練習にも勝る成果を上げている。常に限界を超えながら走るのではなく、抜くべき時にしっかりと抜き、メリハリをつけることこそが、川内にとって最も大事な練習メニューなのだ。 「フルタイムで仕事をしているからこそ、常に“走りたい”と思える。一日中練習をしていると、なかなかそうはなりづらいかもしれない」  猛烈な練習に明け暮れた高校時代に思ったような成績を出せなかったものの、大学時代に練習時間が短縮されると川内の記録はとたんに向上した。ほかの選手はいざ知らず、川内にとっては短時間の集中したトレーニングこそが最大の効果を発揮できるようだ。川内は、監督もコーチもなく、市民ランナー仲間とのトレーニングを行っている。自分自身で練習メニューを考え、その結果にも責任を持つ、さながらパンクバンドのようなDIY精神を持つランナーだからこそ、彼は独自の練習を続けることが可能なのだ。  現在、川内は、ある「使命感」に燃えている。 「陸上界に(市民ランナーの)自分が新しい可能性を示してやるぞとか、日本の男子マラソン界を変えるんだ、くらいのつもりになってテンションが高まっています」  実業団に入らずともマラソンを続けられること、そして結果を残せることを、自身の活躍によって証明してきた川内。それは、「プロでなければ戦えない」と無自覚に考えてきた日本陸上界や日本スポーツ界にとって、常識破りの出来事だった。 「整備された登山道以外は困難な道だと思っていても、それが自分にとって困難な道とは限りません。(略)そして、そうした道を選んだほうが、人生も面白いのではないでしょうか」  10月3日に行われる「仁川アジア大会」のマラソンに出場する川内は、金メダルのみを目標に据え、「取れなければ来年の世界選手権の選考レースには出ません」と明言している。もちろん、「生涯現役」を掲げる川内にとってはこのアジア大会や世界選手権はあくまでも通過点に過ぎないだろう。しかし、だからこそ「市民ランナー」が、アジアの頂点に君臨できることを証明してほしい。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

「変化よりも進化」ビニールハウスが生んだ常識外れの天才、競泳五輪メダリスト・松田丈志

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『自分超え―弱さを強さに変える』(新潮社)
 10年前のアテネ五輪から帰った時、松田丈志は悔しさをかみしめていた。400メートル自由形で、日本人として40年ぶりの決勝進出を果たした松田には、世間から多くの注目が集まった。だが、終わってみれば、結果は8位。松田に対する視線は、いつの間にか次々と誕生する日本人メダリストへと移っていき、オリンピックが終わる頃には、誰も彼を見ていなかった。 「成田空港では、多くのカメラと大歓声に迎えられたメダリストたちが貸切バスでテレビ局に向かった後、メダルのない僕たちは自費でリムジンバスに乗りました。メダルを取らなければオリンピックに出ても意味がない。強くそう思いました」(『自分超え―弱さを強さに変える』新潮社)  アテネ五輪後、松田はそれまでの自由形とバタフライを両立させるスタイルではなく、バタフライ1本に絞って練習を再開。力を出し切って8位に終わった自由形よりも、準決勝敗退ながらも自己ベストさえ出ていればメダル圏内だったバタフライでの金メダル奪取を目標に据えた。「変化よりも進化」当時の松田のノートには、そう書き記されていた。  だが、松田の前に強敵が立ちはだかる。「水の怪物」の異名を持つアメリカ人選手、マイケル・フェルプスだ。アテネ五輪では男子100m・200mバタフライ、男子200m・400m個人メドレーなど合計6個の金メダルを獲得している、まさに水泳界のスーパースター。松田の4年間の猛特訓も虚しく、2008年北京五輪では、フェルプスを前に銅メダルに終わった。  いったい、どうすればフェルプスに勝てるのだろうか?  松田の足のサイズは28.5cm。一方、フェルプスの足は34cm。ドルフィンキックを効率よく打つには、圧倒的にフェルプスの体格が優れていた。この天性の差を埋めるために、松田はアメリカ・フロリダ大学を訪れる。スタートとターンを課題と考えた松田は、アテネ五輪金メダリスト、ライアン・ロクテの練習に参加して、その技術を盗もうとしたのだ。  すると、そこには驚きの発見があった。  日本の競泳界では、泳ぎのバランスが崩れるため、筋トレはタブーとされていた。しかし、松田の目の前でロクテはウェイトトレーニングを週3回こなし、バーベル上げや腹筋運動など苦しい練習を行う。スイムの練習でも、日本とは圧倒的に練習量が異なり、キックの練習だけで30分も泳ぎ続けている。フェルプスやロクテは、体格が優れているから活躍しているわけではない。誰よりも厳しい練習を積んできたから、彼らは最速で泳ぐことが可能になったのだ。松田が見た「世界」は、常識外れの場所だった。 「世界一を狙う僕たちは、誰も足を踏み入れたことのない領域に到達し、その上で勝負に勝たなければなりません」(同)  だが、松田自身も、そのキャリアの初めから一貫して「常識外れ」だった。  松田は、宮崎県延岡市にある「東海スイミングクラブ」という小さなプールで競技生活をスタート。そこで、生涯の恩師となる久世由美子に出会い、厳しい練習をこなしていく。メダリストとなってからも、松田は、久世と共にビニールハウスのプールを拠点とした練習を行っており、マスコミからは「ビニールハウス生まれのヒーロー」ともてはやされた。中京大学や国立スポーツ科学センターなどのプールと、延岡のビニールハウスで覆われた25mプールを拠点としながら世界一を目指す。それは前代未聞の挑戦だった。だが、決して整った設備とはいえないこの環境を、彼は「恵まれている」という。 「振り返ってみれば、足りないものがあったおかげで、常に工夫できることはないかと考えるくせがついていました。競り合う選手がいなかったので、いつも自分自身と向き合っていました。そのおかげで自分の心と身体の状態を知るための感覚を研ぎ澄ませられたと思います」(同)  ロンドン五輪では、北島康介を「手ぶらで帰らせるわけにはいかない」とコメントし、流行語大賞にもノミネートされた松田。しかし、個人としては、またしても0.25秒差の銅メダルで涙をのむこととなる。すでに松田の年齢は28歳。引退がウワサされるも、「常識外れ」の男は現役続行を表明した。  13年からは一度久世の元を離れて、北島康介を育て上げた平井伯昌コーチのもとで再出発し、新たな練習方法を獲得。2014年には久世コーチと再タッグを組み「ロンドン五輪以上の最高の泳ぎができるよう精進していく」と決意しながら、再び金メダルへの目標を高らかに掲げた。  瀬戸大也、萩野公介などの若手が台頭する中、松田にとっては、次回の五輪出場すらも簡単なことではない。6月に行われたジャパン・オープンこそ4位に終わったものの、肺炎の病み上がり後に挑んだ東京都実業団水泳競技大会では優勝を飾り、その実力を見せつけることができた。21日から行われる第12回パンパシフィック大会でも、活躍が期待されている。  ビニールハウスプールが生んだヒーローは今年で30歳。2年後のリオ五輪に向け、彼の常識外れな戦いは、まだ始まったばかりだ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

前人未到の記録更新中 体操・内村航平を生み出した母親の本音

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『「自分を生んでくれた人」』(祥伝社)
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  2012年、ノースグリニッジアリーナにて行われたロンドン五輪個人総合決勝。内村航平にとって2度目のオリンピックは、「金メダル間違いなし」という期待を一身に背負った一戦だった。そんなプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのが、航平の母・周子さん。「金メダルを取れなかったら、なんと言えばいいのだろう……」自分が演技をするわけでもないのに、彼女は不安に駆られていた。  父母とも体操選手として活躍した内村家は、いわゆる「体操一家」だ。航平が3歳の頃に、両親は長崎県で体操クラブ「スポーツクラブ内村」を開校。数多くの子どもたちとともに、航平と妹の春日も体操選手として育て上げられた。 「自分たちは犠牲になってもいい。借金をしてでも航平や春日には試合や合宿に行かせてあげました」(内村周子『「自分を生んでくれた人」』祥伝社)  けれども、両親は航平に対して英才教育やスパルタ教育を施したわけではなかった。自宅兼練習場に鉄棒や跳び箱、マットといった体操器具が並んでいる環境に身を置いた航平は、自然に体操の道へと進んでいった。小学校5年生の誕生日にねだったトランポリンの上で、航平は1時間でも2時間でもずっと跳び続け、現在の武器となる類いまれな身体感覚を養っていく。母は「航平の才能は、心から体操を愛していること」と語っている。  だが、彼の才能は幼少期から開花していたわけではない。航平にとって、デビュー戦となった小学校1年生の時の試合では、まさかの最下位。床運動、跳び箱など4種目に出場したものの、まったくいいところを見せられなかった。成長した航平は、中学生の時に全国大会に出場するも、結果は42位に終わっている。 「両親からは何も言われなかったから、自分でやりたいことをやっていましたね。当時は、全中(編註:全日本中学校陸上競技選手権大会)へ行けたらいいなという程度でした。だから通し(4種目/ゆか・あん馬・跳馬・鉄棒)の練習はやったこともなくて、試合はいつもぶっつけ本番だったんです。練習でも基本的にきついことはやらなかったし。でも、おかげですごく楽しく体操ができた。それでここまで続けられたのかなと思っています」(JOCインタビューより/ (http://www.joc.or.jp/column/athleteinterview/athmsg/20080730_uchimura_01.html)。  ケガに悩まされた高校1年生の頃には、全日本ジュニア選手権で個人総合140位だったものの、ようやく高校2年生になって航平は頭角を現していく。同大会で個人総合3位、全国高校体操競技選抜大会で個人総合1位、高校3年生時には高校総体で個人総合2位、全日本ジュニアで個人総合1位に輝く。そして08年、19歳の航平は、初めての五輪となる北京で銀メダルをもぎ取った。  12年、2度目の五輪出場となったロンドンの舞台。「もう無理しなくていいよ、もう十分……」母は我が子を休ませたいと思っていた。失敗すれば、命の危険もある体操の世界。母にとって、航平は歴史的な体操選手であると同時に、かわいい我が子でもある。ロンドンで、母は「私の命と引き換えでもいいから、この子の夢を叶えてあげて……」と祈りを捧げた。そんな祈りが通じたのか、航平は表彰台の一番高い場所に立ち、ノースグリニッジアリーナには君が代の音色が鳴り響いたのだ。 「何より嬉しかったのが、表彰式で受け取った花束を、スタンドにいる私に投げてくれたことでした」  母は、航平が大好きなチョコレートと手縫いのお守りを投げ返した。  ロンドン五輪後も、航平の躍進は止まらない。全日本選手権では7連覇、NHK杯で6連覇、世界選手権4連覇と、前人未到の記録を次々と打ち立てている。もはや、誰もが航平の勝利を確信しており、ロンドン五輪時よりもはるかに大きな重圧がのしかかっているはず……と思いきや、そうでもないらしい。航平は過去に「プレッシャーの意味が分からないんです」と発言している。  一方、母は、「すでにリオではどんな応援をしようかと考えている」と話しているものの、こんな本音も吐露している。 「私としては、こんなこと思ってはいけないのでしょうが、航平がまだまだ現役を続けるということに関しては、心配で仕方がありません」(同)  今月5日からは、世界選手権代表選考会をかねた全日本体操種目別選手権が開催される。昨年アントワープ世界選手権で、日本体操史上最年少の金メダルに輝いた白井健三をはじめとした若手が急成長を遂げる中、内村は今回も王者の貫禄を見せつけることができるのだろうか――。リオ五輪まであと2年。まだまだ、母の気は休まることはないようだ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

“燃え尽き症候群”から大逆転の代表選出 サッカー大久保嘉人を奮起させた、父の遺書

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『情熱を貫く』(朝日新聞出版)
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  2010年6月29日、サッカーW杯・南アフリカ大会。パラグアイとの一戦で、日本代表はPK戦の末に敗れた。日本代表にとって初となる決勝トーナメント進出を懸けた戦いだったが、あと一歩のところで、ベスト8の称号はするりと逃げていった。そして、初めて日本代表としてW杯に出場した大久保嘉人の戦いも終わった。 「俺、もう代表はないから」(『情熱を貫く』朝日新聞出版)  日本代表の青いユニフォームを脱いだ大久保は、妻に向かってこう語った。W杯で持てる力のすべてを出し尽くし、すでにその精神は限界を迎えていたのだ。  日本に帰国した後、大久保は、ひどい倦怠感に襲われた。ボールを蹴ることも、走ることもできなくなり、慌てて病院で検査を受けるも、体調に問題は見当たらない。カウンセリングの結果、医師は、大久保に「オーバートレーニング症候群」という診断を下した。それは、別名「燃え尽き症候群」とも呼ばれている心の病。人生を懸けた戦いの後には、これまで味わったことのないような苦しみが待っていたのだ。  サッカーができなくなってしまった彼は、過去に痛めた左膝半月板の手術をし、療養先として長崎県・五島列島を選んだ。テレビも見ず、携帯電話の電源を切った大久保の目的は、左膝以上に、心を治療することだった。豊かな自然に囲まれた五島列島に、大久保は逃げ場を求める。そうしなければ、心がもたなかったのだ……。  サッカーに携わる誰もがそうであるように、大久保もW杯の大舞台に憧れていた。1994年に開催されたアメリカ大会。ブラジルのロマーリオ、イタリアのバッジョ、アルゼンチンのマラドーナ、世界最高のスター選手たちが、小学6年生の大久保を魅了していた。そして、彼らに魅了されたのは大久保だけではなかった。父・克博もまた、W杯という檜舞台のとりこになった。いつしか、親子は「W杯出場」という夢を抱くようになった。  だが、大久保は、2006年のドイツ大会の日本代表の座を、あと一歩のところで逃してしまう。悔しさに打ちのめされながら、テレビの前にかじりつき、1分2敗で戦いを終えた日本代表の姿を見る。そして、2010年までの4年間を、日本代表の座をもぎ取るために捧げることを決心したのだった。ドイツ・ヴォルフスブルクに移籍したにもかかわらず、出場機会が少なかったことから、わずか半年で帰国。世間から「失敗」という目で見られても構わない。彼はブンデスリーガに所属するという名誉よりも、W杯でベストパフォーマンスができるよう、日本のクラブチームを選んだのだ。  そして2010年、岡田ジャパンの一員として、大久保は念願のW杯初出場を果たした。出国前日、「後悔のないように。頑張ってこい」そう言って父は息子を送り出す。父は、その試合を、酸素マスクをつけながら病室のテレビで見ていた。その時、父の体はがんに侵されていたのだ。  そして、大久保は、南アフリカ大会で日本代表のすべての試合に出場した。ゴールネットこそ揺らすことはできなかったが、その夢は現実になったのだ。そして、夢の後遺症は大きくのしかかった。 「お前はバカか!」 「そんなことは、あっちゃならん!」(同)  大久保が代表引退の意向を伝えると、酸素マスクをした父は、息子を怒鳴りつけた。彼にとって、息子の弱音は何よりも我慢ならなかったのだ。けれども、心に穴が開くほど深い倦怠感にとらわれた大久保には、もう、青いユニフォームを着て走るモチベーションは残されていない。 「お父さん、ごめん。俺はもう、これ以上、走れない」(同)    大久保は、そんな言葉をそっと胸にしまった。何年もがんと戦っている父に向かって言える言葉ではなかったのだ。  南アフリカ大会から時を経て、大久保の精神は徐々に回復。なんとかサッカーをできるレベルにまではたどり着いた。所属していたヴィッセル神戸では中盤を任されることも多くなり、プレーの幅も増えていく。しかし、FWとして、得点を挙げ続けてきた大久保には、釈然としない気持ちが残っていた。大久保は、2013年、愛着のあるヴィッセル神戸から川崎フロンターレに移籍。そして、移籍から3カ月後、父は静かに息を引き取った。  危篤の知らせを聞いた大久保は、試合を終えると一目散に故郷である小倉に向かった。父は、大久保が病院に到着すると、まるでそれを待ち構えていたかのように昏睡状態から目を覚ます。医師が言うには、それは奇跡のような出来事だった。しかし、奇跡も二度は続かない。父が亡くなったのは、大久保が到着した翌日の5月12日午後1時33分だった。  最愛の父の病室を片付けていると、姉が白い封筒を持って立っていた。テレビ台の引き出しの2段目に入れられていたその封筒の中には、病床の父が書いた、震えた文字が記されていた。 「日本代表になれ 空の上から見とうぞ」(同)  幼少の頃、大久保の家庭は、その日の食事に困るほどの貧しい家だった。にもかかわらず、父は借金をしながら、サッカーの名門・国見高等学校サッカー部総監督だった小嶺忠敏が作った「小嶺アカデミースクール」に入る大久保の背中を後押しした。父は、その人生を、息子がサッカー選手として活躍するという夢に懸けたのだ。父の最後の言葉は、再び大久保を奮起させた。目標を得た大久保は、初めてJリーグの得点王に輝き、誰もが認める活躍を収めていった。もう一度日本代表に、もう一度W杯に――。それは大久保の願いであり、父の願いでもあった。  父の命日である2014年5月12日、ザッケローニ監督が読み上げた代表メンバー23人の中に、大久保の名前はあった。   ブラジルの空の上で、父は背番号13を見守っているだろう。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])

日本人初のトップ10入り! 松岡修造が見いだした、プロテニスプレイヤー錦織圭の才能

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『錦織圭 15-0』(実業之日本社)
 元世界ランキング1位、ロジャー・フェデラーを撃破し、4月のバルセロナオープンで優勝。さらに、5月のマドリード・オープンでは、ラファエル・ナダルにあと一歩のところまで肉薄した錦織圭。同大会は惜しくも途中棄権となったものの、この結果から、日本男子として初となるランキングトップ10入りを果たしている。24歳の錦織は、いま最も充実した時期を過ごしているようだ。  この好調ぶりを維持できれば、5月下旬の全仏オープン、あるいは6月のウィンブルドンで日本人男子初となる優勝を飾れるかも……と、テニスファンはにわかに色めき立っている。では錦織は、これまでどのような道を歩んできたのだろうか? テニスジャーナリスト・神仁司氏が2008年に上梓した『錦織圭 15-0』(実業之日本社)から、その半生をひもといてみよう。  テニスコーチをやっていた父・清志氏の勧めによって、5歳からラケットを振り回していた錦織少年。しかし、運動能力がズバ抜けていたわけではなく、テニスに対する情熱も深くはなかった。にもかかわらず、小学生の頃から全国区の選手として活躍し、全国選抜ジュニアテニス選手権大会12歳以下の部で優勝する。そして、その試合を間近で見ていたのが、引退して間もない松岡修造だった。当時を振り返り、松岡は錦織のプレーをこう表現している。 「圭は、背は高くなく、力もあまりない、目立たない。でも、試合には勝っている。組み立てがうまくて、ポイントを取っている。想像力があって、ストロークもネットも、いろいろなプレーができた」(『錦織圭 15-0』)  松岡に見いだされ、トップジュニアだけが参加できるキャンプ「修造チャレンジ」への切符を手にした錦織は、年上の選手に囲まれながらメキメキと成長していく。だが、世界の壁は厚かった。02年、国際大会「ジャパンオープンジュニア」に出場した錦織は惨敗。松岡は、そんな錦織に対して檄を飛ばした。 「ただ単にプレーをするのではなくて、世界に向けてプレーする大切さを学びなさい」(同)  クルム伊達公子や杉山愛など、世界を相手に活躍する女子テニスプレイヤーは多い。しかし、こと男子に目を向けると、松岡以外、世界で通用するようなプレーヤーは輩出されていなかった。松岡は、錦織をグローバルな選手に育てようと本気だったのだ。  そして、中学生になった錦織に転機が訪れる。わずか13歳にして、アメリカ・IMGアカデミーに留学。親元を離れ、最高の練習環境でテニス漬けの日々を送ることになった。日本語の通じない不慣れな環境で、錦織自ら「牢獄のよう」と語ったアカデミーでの生活は過酷そのもの。しかし、その「牢獄」の中で練習を積み、マリア・シャラポワやフェデラー、ナダルらのヒッティングパートナーを務めるなど、世界のトップレベルを体感した錦織は、オーストラリアオープンジュニア、全仏オープンジュニアでそれぞれベスト8進出、ルキシロンカップ優勝など着々と実力をつけていった。  錦織がその名を世間に轟かせるきっかけとなったのは、プロ転向後、08年の「デルレイビーチ・インターナショナルテニスチャンピオンシップス」だ。予選から勝ち上がった錦織は、強豪選手をねじ伏せ、ツアー初優勝を決めた。日本人男子選手によるツアー優勝は、92年の松岡以来2人目の快挙。しかも、18歳1カ月という若さでの優勝に、スポーツメディアは一斉に沸いた。  その後は、肘や腰のケガなどに悩まされながらも、ジャパンオープン、バルセロナオープンなど5回の優勝と3回の準優勝を経験してきた錦織。もちろん、この結果は日本男子史上最高の戦績だ。次に期待されるのは、やはり日本男子初となるグランドスラムでの優勝だろう。しかし、その前には、マドリードでも惜敗を喫した、王者・ナダルや昨年のウィンブルドン優勝者、アンディ・マレーが立ちはだかっている。錦織は、いまだ一度も彼らに勝利したことはないものの、14年からマイケル・チャンをコーチに迎え、急速に実力を蓄えていることから、勝機は十分にあると見ていいだろう。  神氏は、錦織がツアー初勝利を飾った際にこう記している。  「グランドスラムでの優勝は、錦織が少年の頃から思い描いている夢だ。そして、それは彼だけのものにとどまらず、テニスを愛する日本人すべての夢でもある」(『錦織圭 15-0』)  日本中のテニスファンたちの夢を背負った錦織が、頂上を極めるまで、あともう一歩だ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

日本人最多得点更新! 鈍足のFW・岡崎慎司がたどり着いた「エゴイスト」としてのサッカー

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『鈍足バンザイ!』(幻冬舎)
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  「足が遅い」「背が低い」「テクニックがない」、その上「ネガティブ思考」……と、岡崎慎司ほどスター性からかけ離れたサッカー選手もいない。香川真司と並んで立っていたら、香川ファンから「お友だちの方ですか?」と声をかけられてしまったというトホホなエピソードからも、彼のキャラがわかるだろう。日本代表のFWという立場にありながら、およそサッカー選手としてのきらびやかさとは無縁の選手だ。  そんな「スター性のなさ」はともかくとしても、足の遅さやテクニックのなさは、サッカー選手としては命取りになるはず。そんな欠点を抱える彼は、いったいどうして欧州1部リーグでの日本人最多得点記録を塗り替えるプレイヤーになることができたのだろうか? 彼の著書である『鈍足バンザイ!』(幻冬舎)から、その秘密をひも解いてみよう。 「今のお前はただの石っころだ。でも、磨けばダイヤになる可能性がある」 高校時代、岡崎に向かってコーチはこのように檄を飛ばした。サッカーの名門校である滝川第二高校に入学した岡崎は1年生の頃からレギュラーの座を獲得し、全国大会でベスト4に進出する活躍を見せていた。  そして、高校を卒業すると清水エスパルスに入団し、晴れてプロサッカー選手の肩書を得た。しかし、与えられたポジションは、FWの8番手控え。テクニック、俊足、高さなど、FWとしての必須要素を、岡崎は持ち合わせていなかったのだ。同期のチームメイトが公式戦デビューを果たしても、彼にはそのチャンスは回ってこなかった……。  このままでは、永遠にデビューできない。そこで、岡崎が行ったのは、自分の足の遅さを徹底的に認めることだった。 「足が遅いと認める行為は、自分はダメな選手だ、と受け入れること。そこからすべてはスタートした。ダメな自分だからこそ、サッカー選手として成長するために、考え抜いてきた」(『鈍足バンザイ!』)  足が遅いからこそ、その欠点をカバーしようと全力でトレーニングに取り組んだ岡崎。その結果、一瞬でDFラインの裏に抜け出す出足の早さを身に付け、2008年には目標としていた年間10得点を達成。さらに、日本代表にも選出された。  そして10年、念願だったサッカーW杯南アフリカ大会への出場を果たした。しかし、この戦いは岡崎にとって、苦い経験として記憶されている。予選ではレギュラーとして戦ってきたものの、戦略の変更から、大会前に控え選手に降格。日本代表が戦った4試合すべてに途中出場し、デンマーク戦ではゴールを飾ることもできたが、味方の支えなしではプレーできない自分のスタイルにいら立っていた……。パラグアイに負けた後、彼は涙を流すことなく、こう語った。 「負けた悔しさというよりも、試合で自分が何もできなかったという無力感のほうが強かった」(「サムライサッカーキング」12月号増刊/講談社)  このW杯を経て、清水エスパルスから独ブンデスリーガ・シュトゥットガルトに移籍した岡崎。サッカー選手なら誰もが憧れるヨーロッパでの選手生活だが、このチームで過ごした2年半は彼にとって葛藤の連続だった。守備に奔走するため、なかなか得点を決められない日々。当初打ち立てていた「日本人にしかできない気の利いたプレーを」という目標がチームに受け入れられず、出場機会も減少した。迷いと苦しみにもがきながら、岡崎は異国の地で過ごしていたのだ。  だが、13年のコンフェデレーションズ杯で、彼はある成長を遂げた。 「実は、あの大会に僕はある決意を持って、臨んでいた。周りの様子を見ないで、ひたすら『ゴールだけを見る!』ということだ。視野の狭い僕は、いろいろなものを見ようとして失敗していた。また、大会前のシーズンに余計なことを考えたり、いろいろなところを見ようとして上手くいかず、不本意な1年を送っていたことも、その決意を後押しした。『思い切って、ゴールだけを見よう。エゴイストになってみよう』と」(『鈍足バンザイ!』)  その結果、イタリア、メキシコという強豪国からゴールを奪うことに成功。さらには、トゥヘル監督の目に留まり、マインツへの移籍をももぎ取ったのだ。  「エゴイスト」として、自らのスタイルを見つけ出した岡崎は、今季14得点を挙げ、いまやマインツの主軸選手として活躍している。日本代表としても、W杯ブラジル大会での活躍に最も期待がかかる選手の一人だ。  4年前、日本代表がパラグアイ戦に敗れた夜、岡崎の部屋を盟友である本田圭佑が訪ねてきた。U-23代表として北京五輪に出場して以来、同じ日本代表のユニフォームを着続けてきた2人。それは、久しぶりにゆっくりとサッカーについて語り合いながら過ごす時間だった。そして見えてきたのは、超守備的に戦った南ア大会の「悔しさ」だ。 「あのとき、守備的なサッカーをすることになったのは仕方がない面もあった。でも、あのようなサッカーでは限界があるなと大会を通して感じていた。僕たちなら、もっと攻撃的なサッカーで世界を驚かせることができるはず、とも。その悔しさが、大会以降の僕たちの心のよりどころというか、原動力となっていると思う」(同)  「世界を驚かせるサッカー」を。4年間の時を経てエゴイストへと進化した岡崎は、再びW杯のピッチに立とうとしている。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

ボクシング“絶対王者”長谷川穂積が乗り越えた、二度の敗北

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長谷川穂積 オフィシャルブログより
 4月23日、プロボクサー長谷川穂積が大阪城ホールのリングに立つ。対戦する相手は、スペインの王者キコ・マルチネス。長谷川にとって、3年ぶりのタイトルマッチとなる。  元プロボクサーである父親の影響でボクシングを始めた長谷川。今でこそ、日本を誇るプロボクサーの一人だが、トレーナーの福田耕平氏によれば、入門当時は「チャラい感じの、子どもみたいなの」という印象の青年だった。しかし、抜群のセンスと、ボクシングに対する人一倍の情熱が実を結び、2005年にWBC世界バンタム級王者ウィラポンを打ち破ってチャンピオンの座に輝くと、ヘラルド・マルチネスやヘナロ・ガルシアといった選手を次々と打ち砕いていく。WBC世界バンタム級王座を10度防衛した時、長谷川には「絶対王者」の異名が付けられていた。 10回にわたる王座防衛に成功し、具志堅用高が持つ世界王座防衛13回への記録を期待されていた長谷川の転機となったのが10年4月30日、フェルナンド・モンティエルとの試合だ。4ラウンド2分52秒、モンティエルの左フックが決まると、長谷川は続けざまに連打を浴びた。2分59秒、肩にタオルがかけられ、絶対王者の座から陥落した長谷川の姿に、会場となった日本武道館はざわめきに包まれた。  絶対王者の敗北に、メディアは当然のように「引退」の二文字を書き立てた。しかし、長谷川はグローブを置かなかった。 「今まで嬉し涙しか見たことがなかった妻に、初めて悲しい涙を流させてしまった。それが一番納得いかない。そんな涙を流させたままフィニッシュは絶対にできない」(『211』水野光博・集英社刊)  だが、チャンピオン奪還を目指す長谷川を、さらなる試練が襲った。最愛の存在である母の身体が大腸がんに侵され、余命3カ月であることが判明したのだ。以前にも増してハードにトレーニングを行い、それに並行して毎日、母の入院する病院へ看病に向かった長谷川。だが、同年10月24日、母は天国へ旅立った。長谷川の王座復帰をかけた一戦の、1カ月前のことだ。 「“勝たなくては”ではなく、“勝たなければいけない”に変わった。負けてはダメ、負けるわけにはいかない。おかんは、俺のために24日に逝った。もしも、試合の2カ月前やったら落ち込む期間ができる。1週間前やったら試合どころじゃない。ちょうど1カ月前、もう集中せなしゃあない。だから、あの日やった。だから、絶対に勝たなくてはいけない」 (同)  同年11月26日、日本ガイシホール。フェザー級王者ファン・カルロス・ブルゴスとの一戦は、12ラウンドまで打ち合う展開になった。バッティングで右目上を出血するも、敗北の恐怖を、そして母の死を乗り越えて戦い抜いた長谷川。試合後、勝者としてコールされたのは、彼の名前だった。リングには、真っ先に母の遺影が上げられた。 「本当は母親に強くてカッコいい、安心できるボクシングを見せたかったけど……。でも再びベルトを巻くことができて、天国で喜んでくれていると思います」  翌年、ジョニー・ゴンサレスに敗北を喫し、長谷川は再び王座から陥落。以降、3年間にわたりタイトルマッチから遠ざかる日々を過ごしてきた。現在の年齢は33歳。「グローブを置くのも、そう遠くはない」(web Sportiva)と発言しており、引退の二文字は現実味を増している。自身でも「次のステップ、次の人生に進むための試合です」(同)と語るキコ・マルチネスとの戦い。それが、どのような結果になろうとも、長谷川の人生を賭した試合になるだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

いよいよ開幕! 中日・落合博満GM、“オレ流”でペナントレースに旋風を巻き起こせるか!?

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『采配』(ダイヤモンド社)
「『8年間で4回も優勝した』 中日ドラゴンズ監督としての私の8年間について、周りの方々はそう言ってくれる。 『8年間で4回も負けた』 天の邪鬼のように聞こえるかもしれないが、それが私の本音である」(落合博満『采配』)  2004~2011年まで中日ドラゴンズの指揮官を務めた落合博満は、監督生活を振り返り、このように表現している。日本シリーズ1回の優勝、4度のリーグ優勝という戦績を収め、「名将」と呼ばれた落合。しかし、その心中には、“もっとできたはずだ”という想いがある。  3度の三冠王に輝き、45歳まで現役選手としてバットを振っていた落合。その監督としての方法論は、就任当初から常識破りそのものだった。外部からの目立った補強をせず、現有戦力を10~15%底上げして優勝すると宣言し、キャンプ初日に紅白戦の実施を発表。これによって、選手たちは臨戦態勢でキャンプインしなければならなくなる。「オレ流」と形容される奇想天外な策略をめぐらせた結果、宣言通り、就任初年度からセリーグ優勝の美酒を味わった。  このほかにも07年、日本シリーズで8回まで1人の走者も出さなかった投手・山井大介を9回に交代させ「幻の完全試合」と語られる采配や、マスコミに対してブルペンを非公開にするなど、独自の監督哲学にはいつも野球ファンからの賛否両論が巻き起こった。しかし、落合は結果を残すことによって、常にその「否」の声をかき消していったのだ。  では、なぜ落合はこのような奇想天外な戦略に打って出ることができたのだろうか? その理由を、彼は「選手時代に下積みを経験し、なおかつトップに立ったこともあるから」と分析する。  長嶋茂雄に憧れて野球を始めた落合少年。高校時代は野球部に所属するも、先輩の理不尽なしごきに耐えかねて退部してしまう。大学に進学し、再び野球部に入部。だが、体育会の慣習になじめずに中退。その後、一時はなんとプロボウラーを目指して練習を積んでいた時期もあった。しかし、東芝府中工場に入社し、社会人野球チームに所属すると、ようやくアマチュア野球の世界で頭角を表す。ドラフト3位でロッテに入団した時には、すでに25歳を迎えていた。 「プロ入りできること自体を『儲けものだ』と考えるような選手だった。また、プロ野球選手になれば、すぐクビになっても”元プロ野球選手”になれる。残った契約金で飲食店でも開けば、野球の好きな人は集まってくれるかもしれないなどと考えているような選手だったのである」(『采配』)    高校や大学で大活躍し、将来を嘱望されるようなエリートコースを進む選手が少なくない中、独自のキャリアを積んでプロになり、三冠王という頂点に立った落合。そんなキャリアを積んできたからこそ、常識にとらわれずに、信念を持った采配を振るうことができ、トップクラスの選手も、ドラフト下位の選手も使いこなす手腕が発揮されたのだ。  落合は、昨秋から、中日ドラゴンズのゼネラルマネージャーに就任した。昨年末の契約更改では、主力選手にも大ナタを振るい、総額8億円にも上るコストカットを断行。さっそく世間の耳目を集めた。さらに、キャンプシーズンには、各大学などの練習に自ら足を運び、今秋のドラフトに向けて虎視眈々と未来のスターを発掘。まさに「オレ流ゼネラルマネージャー」としての動きを見せている。  昨シーズン、ドラゴンズは12年ぶりのBクラスに沈んだ。今季より、高木守道監督から谷繁元信を選手兼任監督として起用し再起に賭けているものの、今年のオープン戦で、チームは16戦4勝と振るわない成績に終わってしまった。  ゼネラルマネージャーとして、初のペナントレースを迎える落合博満。彼の手腕によって、再びドラゴンズは常勝軍団に変化することができるのだろうか? (文=萩原雄太[かもめマシーン])

「金メダルを獲るまでは、絶対に辞められない」スキージャンプ・葛西紀明を奮い立たせた、長野の雪辱

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葛西紀明オフィシャルブログより
アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。  1998年に開催された長野オリンピック。スキージャンプ団体で、日本代表は2位のドイツを30ポイント以上引き離す驚異的な記録で金メダルをものにした。その活躍は、72年の札幌五輪の「日の丸飛行隊」を彷彿とさせ、日本中を熱狂の渦に巻き込んでいった。この快進撃の中心地となったのは長野県・白馬ジャンプ競技場。しかし、このジャンプ台の横で、歯を食いしばりながら彼らのジャンプを見ている男がいた。  彼の名は葛西紀明。今年41歳を数える、日本のトップスキージャンパーだ。  長野の4年前、94年に開催されたリレハンメル五輪で、銀メダルを獲得していた葛西。その実績も実力も、団体代表選手として出場するには申し分ないものだった。しかし、オリンピックシーズンに足首を捻挫し、その後、無理を押して試合に出場し続けたことが災いした。結局、本調子が戻らぬまま長野五輪を迎えた葛西は、ノーマルヒルこそ出場メンバーに入れたものの、小野学ヘッドコーチ(当時)はラージヒル個人、ラージヒル団体で彼を選手として選ばなかった。そして、その読みは見事的中し、日本チームはラージヒル個人で船木和喜の金メダルと原田雅彦の銅メダル、ラージヒル団体での金メダルを獲得したのだ。  当時を振り返るとき、葛西は平常心ではいられない。 「長野五輪で金メダルを取れなかったというのが、僕の人生の中で一番悔しい思い出なんです。五輪が近くなるとあの映像が流れるから、その度に腹が立ってくるんです。みんなが金メダルを持っているのに、W杯の成績では負けていない自分が持っていないのは許せなくて……それでモチベーションがすごく上がるんです。『金メダルを獲るまでは、絶対に辞められないぞ!』と思うんです」(『日本ジャンプ陣 栄光への挑戦!』世界文化社)  あの苦い経験から16年がたち、ソルトレイクシティー、トリノ、バンクーバーという3回の冬季五輪が開催された。しかし、欧米系の選手に比較して体格の小さい日本人選手には不利になるルール改正などが影響し、金メダルはおろか、メダル争いにすらも絡むことはできなかった。そして、いつの間にか葛西は40歳の大台を越えていた。  普通の選手ならば、当然引退を考えるだろう。しかし、葛西は違った。その肉体を極限まで酷使し、若い選手も舌を巻くような体力を維持し続けた。その筋力は、40歳を越えた今でも、ウエイトトレーニングで軽々と100kgを持ち上げているほどだ。 「自分の体をいじめるのが好きなんですね。だから毎日走ってるし、家の中にもウエイトルームを作っているんです。(中略)そういうところでは僕が一番、陰のトレーニングをしていますね」(同)  その結果、今年1月、オーストリア・バートミッテルンドルフで行われたスキージャンプW杯では、史上最年長優勝の記録を更新した。W杯での通算16勝は、日本人選手として船木の15勝を上回り、歴代トップ。世界ランキングでも4位をマークしている。  ソチ五輪を前に、“レジェンド”の称号で知られるようになった葛西。今回は、日本選手団の主将として、そして最年長選手として、若い選手たちを取りまとめる責任を背負っている。彼が念願の金メダルを奪取すれば、ほかの選手もまた奮起せずにはいられない。葛西の活躍に、日本選手団全体のモチベーションがかかっているのだ。  もはや、「人間離れ」という言葉が適切すぎるほど適切な41歳。長年の酷使によって膝の関節はボロボロになった。鍛えているとはいえ、全盛期ほどの体力を維持できているわけではない。だが、そんな状況でも彼は決して後ろを振り向かない。 「40歳を越えてしまうと、『いつ辞めようが同じかな』という感じですね。(中略)ここまで来たらやれるところまでやってみたいというか、気持ちが先に萎えるか、自分の膝が壊れるのか……。そこまで付き合ってみたいなと思っているんです」(同)  悲願の金メダルを手にするまで、葛西の伝説は終わらない。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])